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本日は、紅葉の名所として穴場的存在の【宝筐院】の紅葉ご覧下さい。嵯峨釈迦堂の東南に隣接して建てられています。 【宝筺院】 (ほうきょういん)楠木 正行 (くすのき まさつら) 父 楠木 正成足利 義詮 (あしかが よしあきら) 両菩提所 父 足利 尊氏 表門入口入り口付近 菊の花も境内一円 紅葉 隠れた名所本堂前もみじの絨毯本堂内の正行と僧侶の絵本堂から 庭園展望本堂からの眺め庭園散策 家紋 左 二引きの足利家 右 菊水 楠木家左 第二代足利義詮の墓 右楠木正行の首塚初代足利尊氏は 後醍醐天皇の菩提のため 天竜寺を親子二代で 敵であった方の 人は憎まぬ史跡が伺われます。三代足利義満の場合は我が子の憎しみに会いました。次男を寵愛したためと言われています。こどもは常に親を見て育つようです。庭園を鑑賞山茶花も まけずに白い山茶花も ありますよもみじの絨毯と 木漏れ日以前には、それほど紅葉していない様子を御紹介しています。今回は、もみじの絨毯を味わってきました。車夫の方の 観光が多く やはり穴場として 多くの車夫の方々のご案内が多かったです。車夫の方は、とても 礼儀正しくって、 係のない老人にも 「こんにちわ」と笑顔で 挨拶が徹底しています。 観光関係として とても大切なことと気持ちよくしました。次回は、大覚寺嵯峨御所へ参ります。
2017.10.31
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嵯峨野巡りも終わりました。嵐山に向けて帰途にあります。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】 (せいりょうじ) 【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん この一帯は「源氏物語」に登場する 「源融」 (みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な 【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】 (インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。 「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】 (あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】 (うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。 駅を見ると旅情がかり立たれますね。
2017.10.30
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【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕山山上にある、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。明智光秀が、愛宕詣でで、おみくじを何回か引いているうちに「吉」と出て「敵は本能寺にあり」と兵士を京に引き返らせたことで有名です。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】 として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社(あたご)参詣の古くからの茶店 【愛宕念仏寺】 【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。故西村公朝和尚従事 国宝級の修理担当 仏師仏像の知識はこの方から学びました 仁王門 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】 (らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼音色が違い妙なる鐘の音が聞かれます境内 釣鐘は音色が変わり 共和音が聖域を感じさせます。本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 次回は、嵯峨の釈迦堂に戻ります。
2017.10.29
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本日京都新聞夕刊に報じられましたたまたま明日更新の愛宕神社で光秀の参詣したことを記事にしていますのでご参考までに明智光秀は主君織田信長公を本能寺で討ち果たし逆賊の汚名を受けています「謀反人説封じ」となるか 研究が進めているということで本能寺の変は 「怨恨説」「野望説」そして「黒幕説」が客光を 「室町幕府再興説」の名君になるかものと報じて居ました亀岡市などでは 大河ドラマ誘致に力を入れているそうです歴史の史実は解らないものです細川ガラシャ夫人も草葉の陰で待ち望んでいることでしょう
2017.10.28
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昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるアクセス倍の関心を 多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝の気持ちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ、無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で 【今東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】 (あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました無縁の遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】 (湛慶作) が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】 (さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界をこの世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを 【蓮台野】 と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。金閣寺の側あたりです。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。 孟宗竹竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります 風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したともいわれています 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2017.10.28
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寂聴さんが源氏物語現代版を此処で執筆されました 【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が そして【源氏物語】「野々宮神社」の悲恋。此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に 【瀬戸内晴美】 即ち【寂聴】 さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。【源氏物語】の編集も此処で執筆されました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】 天台宗 山号 曼荼羅山 (まんだらやま)寂庵の命名は、作家で天台宗の僧侶 【今東光師匠】でした。 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される 「鳥居型」 が有名です。佛教的行事に、鳥居も珍しいですが、【愛宕神社の一の鳥居】があるとしても五山に採用されたのでしょう。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。貴重な体験談 (観光ご案内して) ある母娘のお客様を嵯峨野巡りをご案内していました。 娘さんとの子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と訪問を拒まれました。晴美さんの過去の女性像を考えてのことでしょう。中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」 を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、手当 てと言うでしょう、温かい母さんの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙をボロボロ流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、感謝を込めて 「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。仏にこの日の導きに感謝を一緒にされる寂聴さんの心根が尊く感じました。そして一緒に記念写真を「ハイポーズ」と寂聴さんが二本指を差し出し言われてにこやかな写真がお客様の手に残りました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。東北にも一寺を設け、東奔西走、人の心を癒されておられます。女性のみのお話会が月に一度あるそうですが、申し込み予約が殺到しているようです。私たちは本当に恵まれたと尊い体験をさせていただきました。今でも良き思い出として残っています。嫌いと心を閉じるのでなく話せば道は開く母性の手は温かく我が子の痛みを和らげる次回は、無縁仏の供養塔が祀られる【化野の念仏寺】(あだしの)に参ります。
2017.10.27
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【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからずただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】 と「建礼門院」に仕えた侍女 【横笛】 の悲恋の舞台となった場所でも有ります。時代祭にも横笛が隊列に加わった写真をご紹介しました。 語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の 【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は寂庵を訪れたいです。時代祭に横笛も行列に登場しています
2017.10.26
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嵯峨野巡りの中心祇王寺【平家物語】 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂苔がとても美しいです京都は湿地帯ですので苔庭が多く歴史を感じさせます。入口萱葺の門孟宗竹の竹林苔庭手水鉢 800年前を偲びましょう。 「平清盛」 の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし) 「祇王」 にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。「今様の歌」(いまようのうた)七・五調の宮廷の舞の歌で「君を始めて見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃悲劇の母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」春に草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、秋には枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして時が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。此処が祇王の追いやられても、優しい心遣いでした。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。その後、暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。障子に書かれた祇王の真意が理解出来たからでしょう。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。此処が、誰も出来ない祇王の超人的な愛で嵯峨野を訪れる人のこころの糧そして救いともなり、とても人気があります。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓 右は平清盛の供養塔 貴重な遺跡の存在で五輪塔 地水火風空宇宙の元素表現他の地に清盛の墓並びに菩提の遺跡の存在が見当たりません。 仏御前は、加賀に帰って亡くなられたそうです。 次回は【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2017.10.25
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本日紹介状と共に府立病院に眼科に行ってきました何んと朝8時から16時過ぎに漸く診察適いましたがくたくたにくたぶれ 皆さんのコメント返しが出来ずご免なさい右目は10年前失明 残す大切な左目も緑内障で大きい病院で手術12月1日の予定問診書にパソコンの扱い時間を報告ブログやっていますといえばそれは素晴らしいと明るい緑内障専門の医師に心は癒されました本日はこれにてお休みなさい
2017.10.24
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嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」 と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。 発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。 【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」 貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌) 「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。続いて二尊院のそばの【厭離庵】ご紹介します 【厭離庵】 (えんりあん) 臨済宗天龍寺派 日頃非公開百人一首を藤原定家が編纂した場所とも言われています。「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。期日 11月1日~12月上旬 9時~16時 志納金 500円 入口玄関庭園への門居間定家塚本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉藤原定家が筆を洗ったとされます 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」とも言われています。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。 作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。 次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。
2017.10.24
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寒暖の差があって体調管理にみなさんお気を付け願います衆議院選挙は雨中で終わりました台風21号の上陸も被害が少しでも避けられるよう願いたいです 本日は、貧しさの中でも芭蕉の十大弟子のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む【落柿舎】 (らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 田園風景 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地もまんざらではないと、未だにひそかに眠っているようです。 次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2017.10.23
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常寂光寺は、日蓮宗で本堂を始め解放されず、信仰を旨としています。仏像の存在すら判りません。「南無妙法蓮華経」のお軸が懸っているとも考えられます。 昨年秋の写真です。 多宝塔 ブロ友から大河内伝次郎は大分県豊前(ぷぜん)市大河内の出身芸名まで故郷の誇りとして付けられたと教えられました 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】 (じょうじゃくこうじ) 日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道左 男坂 (急坂) 右 女坂 (なだらかな坂)私は女坂を利用しました 本堂前 【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 京都市街の西北の位置に有ります 【歌仙祠】 (かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】 嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。ねねさんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。長男角倉素案は風神雷神図を描いた俵谷宗達とも親交がありました 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2017.10.22
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台風が近づきました総選挙の投票も影響あるでしょうね皆さん無事に過ごせますようにお気を付け願います過っての名優大河内伝次郎が、此処嵯峨野の景勝地に我精進のために別荘を建て現在一般に公開されています。 自分の別荘と思って、お大臣気分で、満喫してみてください。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂 先ず信心から毎日参詣して心正しお散歩へと山荘の入口 左側右は常寂光寺方面へ 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】 映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。大河内伝次郎は福岡県豊前市(ぶぜんし)岩谷(旧大河内村)出身芸名を故郷の地名を採って誇りとして頑張ったそうです 別荘の邸宅 壮大さが素晴らしいです嵐山を借景は見事 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2017.10.21
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世界文化遺産の天龍寺の景勝を堪能し大原と同様女性に人気のある嵯峨野巡りに10回にわたりご鑑賞しましょう 【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に 【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、 「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 1021年に記述された[源氏物語]に戻ります。 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。 【源氏物語】第十帖【樫木の巻】 (さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が愛おしかった。その御息所(みやすどころ)が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。源融は、ほんの近い【嵯峨釈迦堂・清凉寺】に住まいしていました。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます。 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】 のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。ここでも中国の良い面があります。昔の中国人は偉かった。でもこの程共産党トップ書記長が【習近平氏】に代わりましたが、日本との外交政策は、如何成るのでしょうか?互恵の政策が立てばよろしいが、支配の傾向がみられます。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2017.10.20
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渡月橋のすぐそばに世界文化遺産天龍寺があります思えば京都に足利将軍が建てた遺構に世界文化遺産が4カ所も有ったのですね 金閣・銀閣・天龍寺そして西芳寺です 庭園部門で特別名勝で、お寺さんの立札によれば国宝第1号とされています。 庭園の基礎的要素を初めて夢想国師によって天龍寺に造園されました。瀧 蓬莱山 石橋 鶴島 亀島 舟石国宝第一号(特別名勝)の曽源池【天龍寺】 臨済宗天龍寺派本山 世界文化遺産に登録 開基 夢窓疎石 五山第1位庭園 特別名勝(国宝第1号の庭園)世界文化遺産の御紹介も清水寺・金閣寺・銀閣寺・龍安寺そして天龍寺まだまだ観尽くせませんね。嵐山渡月橋から「美空ひばり館」の前を経て、天龍寺に着きます。 【足利尊氏】が南北朝の戦で、吉野で崩御された【後醍醐天皇】の菩提を弔うために、開山【夢窓疎石】を迎えて建立されました。この地は、元々後醍醐天皇のご幼少の頃の学問所で御霊の安らぎを考えての尊氏の配慮と想いが有ったものと考えられます。建設資金捻出のために、途絶えていました中国「元」との貿易を再開し【天龍寺船】を往来して経済や文化の輸入にも貢献しました。私たちの高齢の歴史観では、天皇に背いた逆賊の謀反者と教わり、神戸湊川神社では、「ああ・忠臣楠氏の墓」と「楠正成」を謳歌してまいりました。でも京都でのお寺の遺される事で、過日に述べさせていただきました【等持院】は、尊氏一族「足利」の菩提寺で、「寺」と「院」では寺格が違い、尊氏の思い遣り、一歩引く謙虚さが、見えるように思えるのです。順路として「山門」から静かな敷地を歩み、心を静めます。1.【法堂】(はつとう)は選仏堂(座禅堂)ともいわれ、正面から覗きますと【釈迦・文殊・普賢三尊】と天井に【雲龍図】「加山又造画」が描かれています。 法堂 天井に龍の絵2.受付でパンフレットを見ますと表紙の庫裏の写真で、庫裏の実物を見上げながら、龍安寺でご説明させてもらった「懸魚」「蟇股」が大きく見られます。そして「三尊石」も在ります。 庫裏。三尊石3.【方丈】白砂と苔の境界線で、「心字」が画かれています。屋根瓦の端には「天龍寺」の文字が設けられています。 方丈足利尊氏は夢想疎石を開山として後醍醐天皇の菩提寺として天龍寺を建てました 疎石は庭園師としても優れ 京都に数多く名園を遺しています4.【曹源池】 日本で最初の庭園形式に基づいて、夢窓疎石が作庭した素晴しい庭園で、嵐山愛宕山を借景して、更にスケールが大きく感じます。正面に枯山水「瀧」をそして「三尊石」日本最古の「石橋」周りに「鶴島」「亀島」そして「船石」と庭園の要素を採りいれています。嵐山を借景 愛宕山を借景寺のバンフレットの写真の写された情景 国宝第1号の曹源池5.「亀島」から道なりに進むと池にそそぐ「遣り水」(やりみず)が【曲水の宴】形式になっています。 亀島6.【多宝塔】 後醍醐天皇の尊像を安置、紫宸殿形式で、左近の紅梅・右近の白梅が備わり、 多宝塔紫宸殿造りで左近の紅梅そして右近の白梅が配されています。その前庭の苔に包まれた小高い位置に後醍醐天皇の菩提塚が古びて立っています。 後醍醐天皇の菩提塚春には枝垂れ桜が美しく飾ります。 足利尊氏の並の天下人としては為し得ない思い遣りが史跡として未だに遺されています。女性に人気があります。明日からいよいよ嵯峨野巡りに入ります
2017.10.19
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朝に「嵐山」更新しました二回目の更新です本日中国共産党大会開幕に当たり在りし日の周恩来さんを偲びつつ有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。過っては、「温家宝首相」が訪れられました。今は冷え切っています。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。中国人にも景勝地を謳歌してくれています。現代も斯くあってほしい希望を持ちます。今後の政局はどのように展開するのでしょうね。特に中国の日本に対する動向は気懸かりなものです。周恩来さんが、日本に学ぶため来日された友好の時期もありました。 本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学され、その折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又、中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が、嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。 中国にも山紫水明の美しい景観が多く存在します。故郷を偲ばれての、嵐山の雨の美しい景色に感動されての碑文と考えられます。ご参考までに嵐山の景勝を讃えて居られました
2017.10.18
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本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】 京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰川の堰き 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」 が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。過っては、「温家宝首相」が訪れられました。今は冷え切っています。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」 (小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。 川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】 黒田節の二節の歌詞の情景です 女性の哀話 渡月橋の北詰に碑が建っています。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性哀話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった 【小督局】 (こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。明日は世界文化遺産天龍寺です
2017.10.18
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ブログは京都市街東から西方向に移ります 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提寺として天龍寺船まで仕立てて資金調達し僧 夢想礎石に命じて 庭園の規範となる国宝第一号の作庭が出来上がりました 次いで苔寺そして等持院そして南禅寺の南禅院の作庭も夢想礎石の作品となます 西芳寺 苔寺 臨済宗 世界文化遺産千三百年前 聖徳太子の御創業で行基が開山六百五十年前 夢想疎石が 中興しました天龍寺の庭園と同じく特別名勝史跡 (国宝)に指定されています足利義政は 銀閣寺の庭園を 西芳寺に 模して作庭しています 上段は 枯山水下段は 池泉回遊式庭園 午後1時受付を待つ人予約制 会費3000円 西求堂 本堂 銀閣寺は 東求堂此処で僧侶3名と般若心経と写経新緑に包まれた本堂前受付へ堂内写真禁止廊下に椅子席があり心地よい風を受けながら写経 本堂の後方に三重塔禅宗では珍しく恐らく聖徳太子に関連してでしょうか観音堂前の新緑 百二十種類の苔 苔と木立 少庵堂 茶室 千利休の次男 湘南亭 茶室 夢想疎石が建てた後少庵が再興した茶室西芳寺の苔は豊かで心和みます 黄金池 心字の池 朝日ヶ島 土橋 潭北亭○ □ の窓池に映る新緑 夕日ヶ島 鎮守堂 夢想疎石を祀ったお堂 指東庵(しとうあん) 指東庵の横に有名な枯山水の瀧の岩組銀閣寺にもすえつけられました 指東庵の前方に設けられて須弥岩組総門ブログ始めて 写真を漸く取材して来ました世界文化遺産の西芳寺の模様でした次回は同じく夢想礎石の作庭天龍寺へ参ります
2017.10.17
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曼殊院2】 5.【孔雀の間】此処でも親鳥と二羽の子鳥が仲良く餌をついばめているシーンから、一羽は母さんと飛び立ち、一羽は残され「しょぼん」としている、そして親鳥は天へと孔雀の一生を江戸後期の絵師「岸駒」 (がんく) が画いています。「しょぼん」姿が「良尚法親王」か?岸駒は「清水寺でも虎の石碑」が有ります。 又「長野の善光寺の出張先」として「仏間」が兼ねて有ります。 一生に一度は「牛に引かれて善光寺詣うで」ここでも済ませます。以前、同じ部屋に、民家に有った「幽霊の絵」円山応挙画が寺院で供養する意味で有ったことでも有名でしたが、今は部屋の外に隠れておかれていました。6.廊下伝いに【大書院】へ「華の間」では、法親王の画かれたカラーの屏風が置かれています。其の隣の間は、天井の桟が、正面に対して突き刺さっている仕組みで、不吉な感じがしますが、後程の「宿直の間」(とのい)も正面床に突き刺さっています。法親王の寝所として何時命を奪われるか、覚悟を決めて居られました。武士の居間の床にも敢えてこの形式を採るそうです。7.【大書院】「滝の間」の襖絵に中国人が囲碁を楽しんでいます。襖に向かって碁盤を眺めながら、蟹歩きのように移動しますと、碁盤が小さく成ったりします。欄間に卍型が見られます。「十雪の間」は【仏間】でもあり本尊は「阿弥陀如来」で他に十一面観世音菩薩(北野神社にあったものを当院に移されました)【曼殊院棚】 は仏間の隣に有ります。 【桂棚】 に似せたもので、「違い棚」は段違いも有りますが、材質も細かく違っていて、芸術美を感じさせます。【大書院】の外側に【塵慮尽】(じんりょじん)の額が飾られています。「よこしまな心を払い取り除くの意が有ります。8.「大書院」からの庭園 宝船を表現または鶴島とも申します。9.小書院】の屋根が、 【雁行形】 (雁が規則正しく飛ぶ群れの形)は 屋根が二重に、雁が群れをなして飛ぶ姿 「桂離宮」にも有ります。兄弟同じよう建てて鑑賞したのでしょう10.「小書院」の廊下の屋根は又、 【屋形船】 の様に造られ、庭園を船に乗って観ることを意味して居るようです。 庭園に沿った廊下が屋形船に乗船して見渡すような作られています。11.その廊下の側に【梟の手水鉢】が有ります。月をこの手水鉢の水面に写し、又反射して側の白壁に月の揺らぐ姿を鑑賞します 月の光を鑑賞 12. 「小書院」 は、門跡が客を迎える為の最も貴重な場所で、一番奥に構えて居ます。二部屋あり、庭側に【富士の間】客人が座す部屋で、廊下の低い欄間越しに、立って見るのでなく、坐って鑑賞しますと更に美しく落ち着いて観られるように、作者は作庭しているようです。 左端に三つの灯袋の燈籠があります中心に「瀧石」が見えます 13. 「小書院」【黄昏の間】 (たそがれのま)玉座と床が有り。最高の間といえましょう庭園に隠れた形で人間の一生を仏教思想で見事に枯山水庭園で表現しています 良尚法親王の遺された、人間の一生を仏に護られて過ごしていく様を 曼殊院枯山水の庭園のテーマー 【人生の流れ】 薬師如来の世界 来迎への遣送仏 過去仏 瀧石で表現 釈迦如来 五時八教 仏の教え 現在仏 灯籠五基 阿弥陀如来 浄土への来迎の仏 未来仏 真っ赤な キリシマツツジ 縁側を船に庭園(人生の移り変わりを観想) 人間の一生が仏の担当の守護により遣送されるさまを表現 隠れた仏教思想を表現14.【枯山水の庭園】小堀遠州好みの庭園。 先ず、薬師如来の世界【過去仏】庭園の中心的【滝石】は生命の発生とも取れます。此処からの庭園の観方が最高と言うことです。 一番奥の「小書院」最も大切な部屋からの景色左端に三つの火灯袋の燈籠が見えます中心に「瀧石」が見えます。 立っている石を「瀧石」と瀧の流れを表現左の白砂の中に【水分石】 人生の分かれ道を表現 現在は新緑に包まれて瀧石が隠れています次いで 釈迦如来の世界【現在仏】庭園の中心部分全体で表現。【亀島】【鶴島】【石橋】【水分石】【蓬莱島】そして【五基の燈籠】 亀島 謎解きの五基の燈籠 (灯窓3・2・1・1・1計八灯窓)はお釈迦さんの50年の説法を【五時八教】に分けて説かれたことで、燈籠で表現。 鶴島は【宝船】にも見立てその松の下に【キリシタン灯篭】が有り、燈籠の下部に「十字架」が刻まれています。「良尚法親王」の母上が若狭丹後の京極家で、クリスチャンで有ったことから、偲びつつ置かれたようです。そして、阿弥陀如来の世界【未来仏】「宝船」は西へと庭園の西一帯に赤い霧島ツツジが植えられ、正に夕陽に包まれ西国極楽浄土に迎えられる形式を取っています。 謎解きの一つ、5月初めのキリシマツツジ宝船が西向きに極楽浄土を真っ赤な「キリシマツツジ」で西側の此処だけに迎える姿に作られて居ます。15.【宿直の間】(とのいのま)から通路に「華道」の「立花図」「香道」の「書式」「親王「竹」「書道」「竹筆」で書かれた展示が見られます。 良尚親王を訪ねて農家の人が作物を届ける時の鐘「おお 心の籠った収穫の野菜をありがとょ」ふれあい場明日からは京都の西の方嵐山方面に参ります
2017.10.16
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私の京都観光として、最高の奥深い意義の濃い内容の観光地と此処得ます曼殊院も是非味わってみて下さい 勅使門平成24年12月 天皇両陛下ご訪問壁には最高位の寺格「5本線の筋塀」があしらつてあります。 新緑が美しいです【曼殊院1】 (まんしゅいん)天台宗の五門跡の一つ 開基 是算(ぜさん)(菅原一門の出身)大原街道も街中に、「白川通り」から東山山麓に位置し、【修学院離宮】と広域の隣接地に【曼殊院】が静かに存在しています。素晴しい観光地でありながら、観光バスが入れ切れない状況で、コースから、外されています。従ってタクシー貸切を利用されます。天台宗の格式高き門跡寺で、京都の寺社数ある中で、皇室のご訪問されたのは、少なく、此処では、皇太子殿下・秋篠宮殿下の学生頃に、そして「紀子妃殿下」もお一人で来られた写真が展示されています。浩宮親王 植樹 礼宮親王 植樹 【良尚法親王】 (りようしょう)で、今から380年前、徳川三代家光の頃、「八条宮智仁(としひと)の次男坊に産まれたばかりに、寺を与えられ僧となられました。いわゆる出家されました。同じ母親から腹を痛め、長男「八条宮智忠(としただ)親王」は父君と【桂離宮】を造られました。【修学院離宮】を造られた「108代後水尾天皇」とは従姉妹同士の関係です。 次男坊のゆえに後継に参与出来ない世襲制に 「良尚親王」のお気持ちを推し計ってか、襖絵などに、それらしく画かれた部屋が有ります。 然し、ご本人は、度量の大きい方で、五道の達人の結果を遺して居られます。そして封建時代に有って、今で云う「民主主義」の優しい志を持たれたことも、遺産として随所に遺されています。書道(竹筆)・華道(立花図)・香道・茶道(八窓茶室)・画道(色彩採用)そして仏への道と。 その上「小堀遠州好み」の「枯山水の庭園」を眺めながら、一生を優雅に過ごされ72歳に遷化されました。 キリシマツツジの真っ赤に咲く曼殊院を写真に初めて治めることが出来ました。映像の様に、宝船より西のみに作庭者はツツジの配置をしています。なぜ? 詳細は後日記しています。 枯山水庭園の西側にキリシマツツジを配置 宝船の近づく姿 フクロウのの手水 奥から眺めたツツジの配置 「良尚親王旗」にも 【竹】 を、図柄に採り入れられています。「竹の内御殿」とも言われます。随所に「竹」が現れます。何故なら、「開基是算」は「北野天満宮」にも関係しその「梅」そして天台宗の本山「比叡山延暦寺」の「松」合わせて「松竹梅」となり、修行の一つに経を唱えながら、わらじ姿で小走りに「阿闍梨」(あじゃり)さんはこのルートを通られます。 【桂離宮】は宮内庁事務所から許可証が必要ですが、此処【曼殊院】も父上と兄上の意に、適う為、 「雁行型の屋根」等に離宮の類似点が観られます。「桂棚」に対しても「曼殊院棚」も其の一つで、「桂離宮」の面影が伺い知れます。 徳川家光の時代に、民主主義的な考えを持たれた 良尚法親王徳川家光八条の宮(桂の宮) 智忠親王 長男 桂離宮良尚法親王 同じ時期に存在【桂離宮】 は、良尚法親王の親・兄で八条の宮家として建てられ天橋立が庭園に採り入れられているようでした。母さんが京極家で、丹後を偲ばれての心遣いでしょう。 【曼殊院】 では、寺院でありながら、庭園の中心に五葉の松を宝船としてその真中に、【キリシタン灯篭】 が立っています。母さんがクリスチャンだったからとのことです。次回報告します。 キリシタン燈籠灯袋の下部に円い突き出しが4か所十字架謎として庭園に五基の燈籠が据え付けてあります新緑の茂みでみにくいですが 二つ窓の灯袋の燈籠 一つ窓の燈籠 瀧石の左に何と三つ窓の灯袋の燈籠が 田舎風の小道を、登り詰めますと、「曼殊院」の勅使門に辿り着きます。門前は急な石段が構えられ、周囲は石垣の上に 白壁で五本の筋が入った格式の高い寺院として圧倒されそうです。勅使門の前には、各皇族の方々のご訪問を記念された「植樹」が目立ちます。 順路として「北門」から拝観出来ます。媚竈(びそう) 何気なく通り過ぎる方が多いです。 1.【庫裏】(くり)の玄関面に良尚法親王の直筆で 【媚竃】 (びそう)の額が掲げて有ります。 竹筆の隷書です。論語に「その奥(目上)に媚(こ)びるより、(かまど)で働く人に媚びよ」から掲げられたようです。現世でも中々実行しにくい事柄です。訪問して筆頭考えさせられる、民衆的優しい思い遣りが伺われます。2.台所から大玄関への廊下伝いに、「皇室」の来られた写真が、飾られています。3.表玄関の手前の部屋では、日本初の版画で 「竹」 模様の襖が見られます。 「竹の内御殿」 の趣からでしょう。4.【大玄関】(先入関)は高貴の方の入り口【勅使門】からの玄関です。来客に威厳と興味を、持たせる為に 「竹と虎」 の襖絵が構えています。 「狩野永徳」 の絵で、此処での見ごたえは、正面の虎が何故か、竹を噛み締めている異常な絵なのです。思考しますに弟ゆえに出家、と言う「竹」という権威・制度に噛み付く絵師の「良尚法親王」への心遣いとも採れます。Google【画像】【曼殊院襖絵】で参照
2017.10.15
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昨日の【蓮華寺】の素敵な庭園を造られた 【石川丈山】 の住持された【詩仙堂】をご紹介します。 月と庭に咲く花そして自然をこよなく愛でられて余生を送られました。【詩仙堂】(しせんどう) 曹洞宗大本山【永平寺】の末寺 開基 石川丈山 山号 六六山 宮本武蔵の一乗寺下がり松 松ヶ崎より白川通りを南下、東に坂を登りますと、 「宮本武蔵」と「吉岡門下」との「一乗寺下がり松決闘地跡」を眺めつつ、更に登りますと、「詩仙堂」の小さい門に辿り着きます。 過っては、皇太子殿下浩宮様が推奨されて、英国の故・元英国皇太子妃 ダイアナ妃 が訪れられた写真が悲しくも飾られています。 ツツジが東山三十六峰を表現しています。燈籠が八坂の五重の塔 額縁に 【酔花醒月】 (すいかせいげつ)と丈山の隷書で書かれています。花の美しさに酔っている内に、何時しか月が出て目が醒めました。 鹿威し有名な 【僧都】 (添水) (そうず)一般に「ししおどし」の元祖 「蓮華寺」の庭園も造園された 【石川丈山】 が寓居された山荘でもあり、仏間も有ります。 59歳の時造営、90歳で亡くなられました。三河の国の出身で、三河武士として25歳のとき駿府城火災の際に、徳川家康の第11子「頼房(のちの水戸藩主)」当時5歳と乳母を救出した功労も有りましたが、大阪夏の陣で家康より「一番乗り」を禁じられていたにも拘わらす、決行してしまい。33歳で蟄居(ちっきょ)を命じられてしまいました。そして髪を切って「妙心寺」に出家、禅僧の修行をしました。 幼い頃より、自然の美しさ特に「富士山」の霊姿が心に焼きつき漢詩を残しました。そして此処一乗寺村に小さな庵を建て、好きな詩と自然の風景、観月も含め一生を過ごしました。 「詩仙堂」の名の由来は、中国の三十六歌仙を一室に、肖像画は、 「狩野探幽」 が画き、「詩仙の間」を中心に呼ばれる事に成りました。 入り口の額には、 【蜂腰】 (ほうよう) 蜂の腰は曲げて居ます。謙虚を表わすようです。 仏間は、比叡山根本中堂の様に、僧の礼拝される場所を低くして、仏と私たちは同じ高さから拝めるようになっています。 仏間の前に、台所で働く人への注意書, 【六勿銘】 (ろっこつめい)の掲示板が懸けられていました。その裏には、【既飽】 (きほう) の字が書かれ、既に満腹、腹八分目の大切さを説いて居られる様です。【六勿銘】 【火の用心】【戸締り用心】【早起き】【粗食】【倹約・勤勉】【清潔・掃除】 一例を記しますと、 「勿妄丙王」(丙王を妄(みだ)りにする勿(なか)れ)「火を粗末に取り扱うな」の意です。丙王(へいおう)を妄にする勿れ 火を粗末に取り扱うな 根族(こんぞく)を忘るる勿れ 盗賊を防ぐことを忘れるな 晨興(しんこう)をいとう勿れ 朝早く起きることをいとうな 糲食(れいしょく)を嫌う勿れ 粗食をいとうな 倹勤(けんきん)を変ずる勿れ 倹約と勤勉を変えてはならぬ 払拭(ふっしょく)をおこたる勿れ 掃除をおこたるな 石川丈山が庫裏(台所)に掲げて下働きの人の心掛けを促した。嘯月楼 【嘯月楼】 (しょうげつろう) 庵の屋上に、丸と四角の窓が有り。一説には幕府に敵対する怪しい者の見張りが、何時しか観月詩歌を詠まれ自然を謳歌されるように成ったと言われています。 明日は バスも行かれない 詩仙堂から近くの曼殊院に参ります
2017.10.14
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急に冷え込む様になりました 風邪に罹られませぬようにして下さい 池泉回遊式庭園 詩仙堂の石川丈山作庭昨日の宝泉院の額縁の観察法と同様住職さんが座して説明してくださいました大原三千院の帰り道 鯖街道を伝って八瀬を過ぎた国道よりに蓮華寺はひと休みするに相応しいお寺があります 【蓮華寺】 天台宗山門派 開基 実俊 山号 帰命山 蓬莱山 「蓬莱山」に通ずる「石橋」の真ん中の下部に、「仏の手」 と言われる石が間を空けて受け皿のように、立っています。 「宝船」は「出船形式」で船の後ろが満載で沈みがちの表現を苔で表わしています。庭内には「薬草」が満ち満ちています。 蓮華寺型灯楼 庭園の奥に「仏殿」があり、其の前には、珍しい「蓮華寺灯篭」が構えています。六角形の急勾配の笠をあしらっています。 魔除の蝉 入り口の施錠には、 「蝉」 の金具が装飾として付けられ、魔除けの意味だそうです。堂内正面には唐獅子と牡丹の白木造りの「須弥壇」があり、左奥に「阿弥陀如来像」が祀られて居ます。 「天井」には、「愛宕寺」(おたぎじ)住職であった「故西村公朝和尚」 の画かれた「龍」が輝いています。 一応鑑賞が終わりました後に、別室で抹茶とお菓子を茶券で頂戴します。 おうすをよばれる部屋の前の小川 前庭には、小川が流れ右手上流には、池と分かれた水が「水分石」(みくまりいし)の役目のように水を二手に分ける小さい島があしらってありました。人生の分かれ道とも申しましょうか。とてものどかな風情を味わうことが出来ました。 庭園全景次回は詩仙堂に参ります
2017.10.13
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勝林院に、隣接して此処も見どころが多いです 【三千院その3.】【宝泉院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。【血天井】 が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。伏見城で豊臣秀吉は亡くなりましたが、その跡は、徳川家が護っていました。天下分け目の一戦で、石田三成に攻められ 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園宝泉院庭園 【実光院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。三千院の北隣り 呂川を挟んで在ります後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】 「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」 (じょうきゅうのらん) (1221年)武士から政権を取り戻そうとして北条義時追放の院宣を下され戦われましたが、敢え無く、鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。女官 鈴虫・松虫の安楽寺事件 法然・親鸞上人法難も関係しています 大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】 (らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。紅葉のころ又賑わうでしょう。雑踏の中でも静かな三千院の奥も愉しんでみて下さい。次回は蓮華寺に参ります
2017.10.12
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大原三千院矢張り人気が高くアクセス倍加しました本尊が最澄作の薬師如来で別名浄瑠璃光浄土を支配されます琉璃光園の池面におんなひとりの着物姿が写されている情景が何んとも言えません対峙して阿弥陀如来の往生極楽浄土院が祀られています 【三千院2.】三千院を見て殆ど方は その奥に素晴らしいものが有るをご存じなく帰路に着かれますす勝林院・大原問答 熊谷直実が座って待機した石法然上人の弟子として護衛のため 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】 天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 京都観光の殆どの仏像は撮影禁止で、貴重な阿弥陀如来像です。親指と人差し指を交えて居られるのが阿弥陀さんです。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】 堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、 「法然上人」 がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、 「証拠の阿弥陀」 と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 次回も三千院の奥の様子をご案内しましょう
2017.10.11
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【三千院その1.】 天台宗門跡寺 開基 最澄 【さいちょう】 (伝教大師)京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。 「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた 京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」水面の池は 【瑠璃光池】を指しています デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」 (あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら、日本人より関心が深く、 「よっぽど自信(地震)が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 穴太積(あのうづみ)の石垣桜の馬場 大原は、 【声明】 (しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】 妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。 現在の比叡山延暦寺の総本山で「256世天台座主」になられた「半田孝淳(こうじゅん)座主」は「曼殊院門跡」でした。「三千院」の建物は、【往生極楽院】1143年建設を除き、明治以降にに修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。 三千院の正面の門 2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが、【香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。 坪庭 小さくってもホッとする空間です。5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。 聚碧園(しゅへきえん)7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。 以前は廊下伝いでした。建礼門院さんも慕われたとされる阿弥陀さま【往生極楽院】という 三千院の中心部分をご紹介します。 拝観順序でご案内しています。8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。 本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。 向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。 瑠璃光の庭薬師如来のことを別名瑠璃光如来とも称します。10.【宸殿玉座】 三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。 瑠璃光とは、薬師如来の世界往生極楽は、阿弥陀如来の世界 玉座は、高貴な方が坐られる為に、 「格天井」 (ごうてんじょう)になっています。 正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。瑠璃光の庭 小さいお地蔵さん11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、 リュークエイセスの歌女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。 「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。往生極楽院内部は写真が撮れないのが残念です。12.【往生極楽院】 【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。 お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、わが愛しき子と平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。建礼門院さんが親しまれた 阿弥陀様三尊のお姿は写真禁止です。 次回は、皆様が殆ど見向きもされずに、帰途につかれますが、三千院の奥に素晴らしい内容が潜んでいます。場所をご案内いたします
2017.10.10
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京都観光で嵯峨野に次いで女性に人気が有をる【大原の里】をご紹介一生涯を捧げられました。その遺徳を偲びたいです。 【建礼門院徳子】 は、平家が滅びて、その追善を弔うため此処を 本堂 境内 参道の門 本堂参道の坂道【寂光院】 (じゃくこういん)天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山 建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。 中宮(皇后)・建礼門院の御陵 侍女・阿波内侍の眠る翠黛山ご主人を常に見守っている 阿波内侍の墓今回初めて辿り着け見つけました 翠黛山・墓地への階段参道謎の苔道の階段初めて訪問 阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置す「翠黛山」(すいたいさん)に階段を登った所千代の姫小松枯れてしまいました祇王寺で仏午前の舞った歌雪見灯篭 庭園 湧き水此処からは一般には入れなくなりました。特別公開となりました。庵室の跡の碑 奥に宝蔵庫積み上げられた石垣は当時の姿を語ってくれそうです。 「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。 未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです 建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。優しい大原の里人に親しく見守られながら この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。平清盛の娘として、幼くして高倉天皇の中宮として、迎えられながら栄枯盛衰平家滅亡でわが子安徳天皇を救うことも出来ませんでした 御子 安徳天皇の御陵は 壇ノ浦近く 下関に有ります場所は遠く離れて居ても 心は母子よく通じあったたことでしょう明日は大原三千ん院に参ります
2017.10.09
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【霊艦寺】 臨済宗南禅寺派後水尾天皇の皇女 宗澄尼(そうちょう)のために建てられ五代の皇女によって守られ 谷御所とも言われます天皇の好まれた椿寺としても有名で黒椿もあります日頃非公開で11月21日から12月7日まで特別公開されました表門玄関書院と本堂立石組と燈籠の枯山水庭園坂道を登りました本堂には如意輪観音さんが祀られていました快晴に映えました苔も映えています椿と紅葉の共演です説明が有りました 京洛の名木に指定された樹齢350年扇方に開く紅葉でしたお寺の建つたのが360年前で歴史を感じます降り路 振り返りつつ写真を右の人 苔を撮っていました其の苔庭です【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 4月5日の桜結婚式の後哲学の道 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。京都大学教授哲学者 西田幾多郎博士が 何時も考えもって散歩されたところから誰言うと無く その名が付けられたそうです。東天王町にある 【岡崎神社】 にも狛犬に変わり「兎」が居ました 狛犬の「うさぎ」 場所は京都御所の西側には、猪の狛犬が有ります。 護王神社 祭神 和気清麻呂九州大隅に流された時、野原の周囲か参りますら火攻めに会った時に、千頭の猪が火を踏みつけて消したとのいわれで、猪を狛犬として奉じています。明日は大原に参ります
2017.10.08
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台風18号も暴れまくって過ぎ去りました皆様方のお見舞い申し上げます800年前の出来事です 法然院の側にやはり念仏修行の安楽寺があります。(非公開)キリスト教への弾圧だけでなく、解かり易く一般民衆にも会得出来る法然上人・親鸞上人の説かれた宗教に法難の歴史がありました。安楽寺山門の前に掲げた「京都市の立札」です。 安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配竜流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市 入口の門 本堂 本堂の背景庭園 千両 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。 一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。 安楽・住連坊上人の五輪石塔の墓 五輪石塔に至る 小さい門哲学の道沿いに悲しい歴史が有ります昨今特別拝観の【霊鑑寺】の北側そばに其の場が有ります 後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】 (1107年) 仏道の僧でありながら罪とされました。 心無い権勢は出来ません、それから14年後に 院政を執られた上皇【承久の変】(1221年)鎌倉幕府を打倒されるはずが失敗後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡島へ天皇が配流され土御門上皇は自ら土佐で過ごされました。天皇が配流なんて、私の時代には教わりませでした。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 仏足石【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。帰路からみた表門明日は更にその周辺を散策しましょう 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御陵は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。
2017.10.07
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法難の続く世の中に有って 大衆のための信仰への糧となられました此処暫く【法然上人さん】の威徳を偲んで、更新してみます。 銀閣寺から岡崎・円山そして清水寺に亘っての足跡が遺されています。特に清水寺では、釈迦堂と並んで阿弥陀堂があり、その場所で法然上人が念仏道場として初めて開かれたとされて上人像も祀られています。現在平成大修理中です。【法然院】 浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。明日安楽寺ご紹介します。 参道 此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。 境内 境内 境内 萱葺の内から撮った門 椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。 哲学の道 「水路閣」を更に登り詰めますと、疎水の勢い良く流れる 水路を眺める事が出来ます。哲学の道は南禅寺の水路閣から北に疎水の水は流れて居ます平安時代に白河上皇は権勢を誇り 三つのことを除ては何でも適う1.加茂の川の遡らせること2.賽の目3.比叡の僧兵ところが明治時代に琵琶湖の水位が高所にあり此処南禅寺でも水路閣を造るほどに平地より高く疎水の水は南から北の高所へと加茂の流れと反対に哲学の道では流れているのです 不可能を可能にしていました 水路閣の上 水路閣 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。 昨年の哲学の道の桜
2017.10.06
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真如堂の 奥の方と地続きに黒谷さんの敷地に辿り着きます 【金戒光明寺】 浄土宗 通称 【くろ谷さん】法然上人さん43歳の年 比叡山の修行を終えて この地で 念仏をされた時紫雲が全山にたなびき 光明があたりを照らしたとありここを念仏道場の最初の地と定められました御影堂 少し前まで現存していた 熊谷直実の 鎧掛けの松名木も 松くい虫の被害で昨年10月枯れて撤去されたとのことです現在 三尊石だけで 跡形もなくなってしまいました残念です庭園の もみじは 僅かになってしまいました 阿弥陀堂 【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、 「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。 山門 【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額 が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教え を始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん) 中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。徳川秀忠の妻 【江】 (ごう) の供養塔 初めてです春日局が家光を巡っての 確執がありましたが江 の遺髪を治めて弔ったと言われます春日局の思い遣りが伝わりそうです 江 の墓地は東京に 仲良く 夫婦並んで ねむっています港区 芝公園 道上寺 浄土宗 東京タワーの側 日本三文殊の三重塔知恵がさずかりますように 京都守護職 会津藩主 松平容保 (まつだいら・かたもり) 本陣の旧跡孝明天皇 崩御の直前 容保に守護職を全うするように頼むと仰せられ容保も感涙して、会津に帰ることを 思いとどまります 時の流れは 徳川家が 朝敵扱いで 会津藩もその立場に成りました 殉難された藩士また婦人の方が此処 くろ谷の 墓地で 埋葬されています会津藩墓地の守護の 【西雲院】 会津藩が鳥羽伏見の戦いで 賊軍の汚名を受け殉難した戦死者及び婦人の遺体が路上に放置されており容保に恩義を感じていた200余名が 迫害も恐れず収容し近くの寺院で荼毘に付し 回向供養したとあり黒谷会津藩殉死の墓地を弔い守ったとのことです会津藩墓地参道会津藩殉難者墓地鳥羽伏見の戦いの 殉難者墓地故郷 会津に帰れなくって京都で葬られた墓地会津藩墓地の由来がかかげてあります御霊の安らかにあれと 手を合わせるばかりです次回は、哲学の道沿いの寺社に参ります
2017.10.05
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今日は うなづき阿弥陀さんです 京都大学に最も近い観光寺院の【真如堂】です。旧三校の校歌 くれないもゆる に出てくる「吉田山」に位置します。金戒光明寺に隣接し、奥に存在する「会津藩の殉死の墓地」を通り抜けますと、「三井家の墓地」から真如堂に通じています。 法然上人さんが、比叡山からの辿られた寺院関係を続けています。 応仁の乱を免れた阿弥陀如来さんを祀る 三重塔【真如堂】 (しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」 (旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、 【頷ずき弥陀】 (うなづき)と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、 「修行者の本尊に成って下さい」 と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」 と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。 向井去来の歌碑法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。 涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。嵯峨野落柿舎にも 小さい墓がありましね。【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清涼寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来 左端が大文字です。8月16日送り火が灯されます。 涅槃の庭 ねはん背景大文字 涅槃の庭 ねはん背景大文字如意ケ嶽 涅槃の庭の別庭に近代感覚の石庭 重森美玲【涅槃の庭】 (ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶(マヤ)夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。 春日局の桜【春日局の桜】 本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 境内に去来の寺がありました。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。 ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)何れも、最近アップしました関連のお寺が当時から数え歌として民衆の人々に親しまれた寺院であることが、伺えそうです。本堂ともみじ本堂の横のもみじ三重塔 次回はわらべうたに従い黒谷さん金戒光明寺へ向かいます
2017.10.04
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此処永観堂も紅葉の名所として知られています 南禅寺から少し北へ行ったところに存在します全国でも珍しく本尊阿弥陀さんの顔が左向きに振り返って思い遣りの慈悲のお姿が見られます 三門前のみかへり阿弥陀如来石塔 境内広場 観光堂内玄関 パックに多宝塔(開山の御廟所)【永観堂】 浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都 法然上人八百回遠忌 内庭 勅使門の市松模様の砂紋 龍が巻き付く唐灯篭 四百年前のもの 臥龍廊下 多宝塔通路に繋がる。 仏像は撮影禁止のため、イメージとしてボスターで 【見返り阿弥陀】 全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。【永観堂の七不思議】. 抜け雀 火除け阿弥陀 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。「臥龍の廊下」廊下は、龍涙を流される観音菩薩像。.本尊「見返り阿弥陀如来像」 境内の春の池楼閣への階段 一番奥に阿弥陀堂があります。 多宝塔 多宝塔からの京都の街 永観堂境内展望 【みかえり阿弥陀と永観律師】 広い寺院の境内で高所の奥に「阿弥陀堂」があり、そのみかえり阿弥陀像の前に、お寺さんの手書きで素晴しい,ことばが書かれていました。 このみかえり阿弥陀如来のお姿勢を現代に問うならば 「遅れる者たちを待つ姿勢」 「自らの位置をかえりみる姿勢」 「愛や情けをかける姿勢」 「思い遣り深く周囲をみつめる姿勢」 「衆生とともに正しく前へ進むリーダーの把握のふりむき 真正面から おびただしい人びとのことを案じて 横を みかえる事には しばられない姿勢」 これがこの仏さまの み心ではないでしょうか。と 春の陽気で水鳥が 紅葉のころ永観堂の出口ここはでぐちです屋根越しに楓 旗をもって団体さん、観光バスが着きました空が曇って来ました矢張り青空の元撮りたいです 次回は真如堂に参ります
2017.10.03
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南禅寺は、鎌倉中期に禅宗として、建てられましたが、応仁の乱または火災で焼失してしまいました。庭園は有る程度遺されました。徳川時代に再興された南禅寺そして塔頭が現代のこされています。本日の金地院(こんちいん)は徳川家康と懇意にあった天海は日光崇伝和尚かが庭師、小堀遠州に庭園を造りました。 【金地院】 東照宮への道 鳥居が立っています。 南禅寺の塔頭の一つで、「三門」の前の「中門」の外に位置します。徳川家康に仕えた「崇伝」が京の地に【東照宮】を造営し、今に残っています。 苔庭 参道 本殿入口 東照宮本殿 本堂の前には、枯山水の「鶴・亀の庭」として大きい岩が横たわっています。東照宮に対して吉慶を象徴した【祝儀の庭】とされ、「小堀遠州」 作と云われています。二条城の庭園も同じくです。 鶴・亀の庭枯山水庭園 方丈庭園「八窓席の茶室」は遠州好み「三畳台目」の茶席で名席とされています。明日から哲学の道沿いに 先ず永観堂をご紹介します
2017.10.02
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石川五右衛門で有名な「ああ絶景かな・絶景かな」のセリフをのこしたという南禅寺三門のすぐそばに天授庵の庭園が三門の上からも眺められます。 本日は、南禅寺開祖の【大明国師無関善門禅師】をお祀りする開山塔で枯山水と池泉回遊式庭園と東庭と南庭に分かれた趣の深い庭園で三門の上からも垣間見ることが出来ます。【天授庵】 南禅寺の塔頭庫裏の入口 南庭への入口石畳が菱形で龍の蛇腹正門からの道も苔に満ちた石畳 此処の見所 正面が正門 苔庭南庭に通ずる書院 竹林も見えます 池泉回遊式庭園作者不明でも、南北朝時代の様相が伺われます。本日は写真だけで観察してみてください。800年の 遺された 平和な景色が 私たちの時代に壊したくないです。秋のもみじのころの写真です「そうだ 京都、行こう」 JR東海が京都の推薦寺として、南禅寺の塔頭 【天授庵】 の紅葉の写真が美しく掲げています。一昨年11月末の写真です 南禅寺の三門 南禅寺の三門その右向いに天授庵の特別公開の入り口が見えます 大きい日本一の燈籠は藤堂高虎が寄付したものですJR東海の同じ撮影の場所山門を背景にしてと言っています菱形の敷石は、禅寺でよくでてきます「龍の蛇腹」模様其処らの方に説明すると、美しい紅葉と合わせて写されていました表玄関に通ずる歩道散りもせず最もみごろのつつじでした 夜はライトアップして屋内から紅葉を鑑賞しますその外側を回遊します池のほとりの紅葉紅葉の枝が池にたれいます南禅寺にこれほど優れた紅葉が観られるとは思いもかけませんでした今まで非公開寺院で最近に一般公開されました明日は、南禅寺塔頭【金地院】に参ります
2017.10.01
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