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私たちは、普段、自分と他の人との「感覚の違い」など意識していません。というかそんなものが存在していることにすら気付いていない人の方が多いかも知れません。私たちは人それぞれに、「好きな色」や、「好きな音楽」や、「好きなお料理」が違うことを知っています。「好きな科目」も、「好きな場所」も、「好きな本」も、「好きな異性のタイプ」も人それぞれです。そして、その「好みの違い」が「その人らしさ」を形作っています。ここまでは誰でも知っています。問題は、どうしてそのような違いが存在するのかということです。「人にはどうして好みの色があり、好みの音楽があり、好みの料理があるのか」ということです。先日テレビを見ていたら、「人は遺伝子的に遠い人の匂いに惹かれる」というようなことを言っていました。無意識的に、遺伝子的に遠い人を選ぶことで、命の多様性を維持しようとする命の智恵なのでしょう。人によって好きな異性のタイプは異なりますが、そのような違いの背景には、私たちが考えてもいなかったような理由が隠されていたのです。そして実は、「色」や、「音」や、「お料理」や、他の様々な好みの違いの背景にも、私たちが意識しないような理由が隠されているのです。人は冬になってビタミンCが不足してくると、ミカンなどビタミンCが豊富な食べ物が食べたくなります。思春期になって体が大きくなり、筋肉がどんどん成長し出すと、食べる量も増えますが、肉が食べたくなります。これは、「からだ」が自分のバランスを取ろうとする働きの現れでもあります。そして実は、これは「色」や、「音」や、他のことに関しても同じなんです。人は「好きな色」を見ているとき、その色によって「からだのバランス」が整えられていくのです。そのように、「からだの欲求」が、その人の好みに大きく影響しているのです。実際、「色」や「音」が「からだ」の治療に使われることもあるのです。ちなみに、「からだのバランス」とは「命の状態」のことでもあります。私たちは、病気になると病院に行って薬を処方してもらい、その薬で治そうとします。その時、「薬」が働きかけるのは「体」の方です。それに対して「色」や「音」などの感覚刺激は「からだ」に働きかける薬として作用するのです。人は、悲しいとき、苦しい時は、明るい光、強い音、強い刺激が苦しくなります。そして、あまり明るくないところ、大きな音がしないところ、刺激が強くないところを選んで行きたくなります。悲しい音楽が聴きたくなったりもします。本能的に、優しい光、優しい音、優しい刺激で「からだのバランス」を整えようとするのです。それが「命の欲求」でもあるのです。光や、音などの「感覚刺激」は「からだ」(命の状態)に働きかけるので、「からだの状態」に応じた刺激が欲しくなるのです。医者が処方する「薬」は「体」に働きかけますが、感覚刺激は「からだ」に働きかける薬でもあるのです。また、子どもの心や、からだや、命の育ちの状態に合わせた感覚刺激は、子どもの心や、からだや、命の育ちの栄養でもあります。ですから、「感覚刺激」が足らないと、心や、からだや、命の育ちに困った影響が現れます。ただし、「感覚刺激」は、「体」に働きかける薬と同様に、間違った使い方をすると「毒」になります。「薬」と「毒」は、基本的には同じものだからです。過度の強い刺激は子どもの「からだ」に対して「毒」として働くのです。でも、現代人は「体」に働きかけるものの影響は考えますが、「からだ」に働きかける影響には無頓着です。*****************人は皮膚から癒される [ 山口創 ]幸せになる脳はだっこで育つ。 強いやさしい賢い子にするスキンシップの魔法 [ 山口創 ]皮膚は「心」を持っていた! (青春新書インテリジェンス) [ 山口 創 ]
2017.08.31
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実は、「自分らしさ」は、自分の「感覚特性」の中にあるのです。そして、その「感覚特性」はその人の「気質」と「からだの状態」を特徴付けています。実は、「気質」は「性格分類」ではなく「感覚分類」なんです。ですから、「気質」が異なれば「感覚」も異なります。逆に、「気質」が似ていれば「感覚」も似ています。そしてだから「しつけ」では「気質」を変えることが出来ないし、なかなか「自分の気質」も分からないのです。「色に対する感受性」、「音に対する感受性」、「人に対する感受性」をしつけで変えることなど出来ませんよね。また、いくら自分自身と対話を繰り返しても、自分自身の「色に対する感受性」、「音に対する感受性」、「人に対する感受性」が他の人とどのように違うのかなんて分かりませんよね。なぜなら、自分の「感覚の働き」を、自分の「感覚」で認識することなど出来ないからです。それは「自分の目」を、「自分の目」で見ようとするのと同じ行為です。そのため、自分自身と向き合うだけでは、「自分の感覚特性」も、「自分の気質」も、「自分のからだ」も永遠に分からないのです。それらを知るためには、「表現活動を通した他者との対話」が必要になります。自分を知るためには、「自分を投影するための表現」と、その「表現に反応してくれる他者」の助けが必要になるのです。でも、多くの日本人が「自分を表現すること」からも、「他者との対話」からも逃げようとしています。また、「気質」は「からだ」とも直結しています。「からだ」を支えているのは「感覚の働き」だからです。高くて危険なところに登ると「からだ」がすくみますが、それは「感覚」が「からだ」に働きかけているからです。短い(ちょうどいい?)ですが、今日はこれくらいにしておきます。ちなみに、以下の言葉は今朝ひらめいた言葉です。忘れないために書いておきます。 あなたの努力を支えてくれる神様はいますが、あなたの代わりに努力してくれる神様はいません。
2017.08.30
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多くの人が「頭では分かっているのに実際にはどうしようも出来ない」というようなことで悩んでいます。頭では「叱ってはいけない」「笑顔が大事だ」「待ってあげなければ」「怒鳴ってはいけない」「イライラしてはいけない」と分かっているのに、「からだ」は頭の言うことを聞いてくれません。実は、肉体としての「体」は比較的頭の言うことを聞いてくれるのですが、心とつながっている「からだ」の方は全く頭の言うことを聞いてくれないのです。実際、手を挙げたり、体操をしたりというような「体の活動」は、(身体能力の範囲内なら)頭の指示で出来ますが、何の技術も体力も必要としないようなニコッとしたり、優しく語りかけたり、からだを緩めたり、子どもの行動や言葉を待つというような「からだの活動」は、簡単な事でも出来ないことがあるのです。動きでも、早く動くことは出来ても、ゆっくりと動くことが出来ません。早く動くのは単なる筋肉活動ですが、ゆっくり動くのは精神活動になるからです。それが「からだ」の特徴でもあるのです。「からだ」は「本音の集合体」なんです。だから、「体」は演技が出来ても、「からだ」は演技が出来ないのです。それを無理して従わせようとしていると、「からだ」の調子が狂い始めます。すると、命の状態も狂い始めます。すると、心の状態も狂い始めます。また、子どもはお母さんの「体」の方ではなく「からだ」の方を模倣しながら育っています。だから、子どもの前で「いいお母さん」を演技しても無駄なんです。お母さんが「いいお母さん」を演じていると、子どもは「いい子ども」を演じるようになるだけです。そして、お母さんの前でだけ「いい子」になり、お母さんは我が子の「本当の姿」が分からなくなります。そのような状態の子がそのまま大人になると、「本当の自分」が分からなくなり、常に演技していないと不安を感じるようになります。「自分らしくしていてもいいんだよ」と言われても、その「自分らしさ」が自分でも分からないのです。思春期頃にその事に気付いた子は、「自分探し」を始めるかも知れません。ちなみに、皆さんの「本当の自分」は皆さんの「頭」の中ではなく「感覚」の中にあります。ですから、いくら「頭」と対話を繰り返しても「自分のこと」は分かりません。「自分」を知るためには「感覚との対話」が必要なんです。***********************今回は「感覚」というテーマで気になる本をピックアップしてみました。感覚が統合されていないと「自分感覚」が育ちません。また、発達障害の子は感覚の偏りが大きいので、それを理解してあげないと、子どももお母さんも苦しくなります。大人の人の発達障害も多いです。子どものことや周囲の人の気持ちがどうしても理解出来ないような場合は、もしかしたら発達障害かも知れません。でも、そのこと自体は大した問題ではありません。自分の感覚特性を知り、その感覚特性に合わせて生活すれば、自分らしく生きることが出来ます。一番良くないのは自分の状態を自分で否定することです。【送料無料】 発達が気になる子の脳と体をそだてる感覚あそび / 鴨下賢一 【本】保育者が知っておきたい発達が気になる子の感覚統合 (Gakken保育books) [ 木村順 ]乳幼児期の感覚統合遊び 保育士と作業療法士のコラボレーション [ 高畑脩平 ]皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書) [ 傳田光洋 ]「深部感覚」から身体がよみがえる! 重力を正しく受けるリハビリ・トレーニング [ 中村考宏 ]
2017.08.29
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人は「からだ」を通して他者と出会います。「からだ」がなければ他者と出会う事が出来ないのです。胎児はお母さんの一部として、お母さんのお腹の中で生活しています。その際、胎児にとって「お母さん」は「他者」ではありません。また、「体」はあっても「からだ」は曖昧です。他者が存在していないからです。ちなみに、人工的に作られた子宮のようなものの中に入り、胎児と似たような状態になると、大人でも「からだ」が消えたような感覚に囚われるそうです。他者を感じるための皮膚感覚が消えてしまうからです。そんな胎児が人生で一番最初に出会う「他者」が「音」です。それは、窓もなく外の様子が全く分からない状態で、音だけが聞こえてくるような状態です。その時、その「音」が心地の良いものなら、胎児は安心していることが出来るでしょう。でも、不快な音や刺激の強い音なら不安を感じるでしょう。お母さん自身も不安を感じるような音なら、お母さんの不安も子どもに伝わるので、余計に不安が強くなるでしょう。また、お母さんやお父さんが、子どもの動きに合わせて、ポンポンお腹を叩いたり、話しかけていれば、子どもは自分の動きと音や声をつなげて何かを発見するかも知れません。このような「他者との出会い」を通して、幼い子どもは「自分」という存在の「存在感覚」を育てていきます。人は他者を感じることで「自分」という存在を感じるのです。その「存在感覚」が「からだ」の核です。次に、生まれ出てきた赤ちゃんは、自分の指や足をなめたりして、自分の手や足と出会い、それを「自分のからだ」として認識するようになります。お母さんに抱かれたり、触れられたりすることで皮膚と出会い、お母さんのおっぱいを吸うことで「口」と出会います。生活の身の回りにあるものを触ったり、なめたり、転んだり、ぶつけたりしながら、「からだ」の輪郭を確認していきます。「どろろ」という手塚治虫のマンガがあります。簡単な内容は以下の通りです。(ウィキペディアより)室町時代の中ごろ、武士の醍醐景光は、ある寺のお堂で魔物に通じる48体の魔神像に天下取りを願い出て、その代償として魔神の要求する通り、間もなく生まれる自分の子を生贄として彼らに捧げることを誓う。その後誕生した赤ん坊は身体の48箇所を欠損した状態で生まれ、母親と引き離されて化け物としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。医者・寿海に拾われた赤ん坊は彼の手により義手や義足を与えられた。14年後、成長した赤ん坊は百鬼丸と名乗り、不思議な声に導かれるままに自分の身体を取り戻す旅に出る。自分の体を奪った妖怪を倒すごとに、一つずつ体が戻ってくるのです。それに対して、人間の赤ちゃんは、妖怪を倒すのではなく、体の感覚を通した様々な出会いによって、自分の「からだ」を手に入れていくのです。肉体としての「体」や、その肉体の機能としての「感覚」は、生まれたときには与えられていますが、「自分」という意識に対する「からだ」は、感覚を通して他者と出会うことで手に入れていくものなんです。「触覚」という感覚機能を持っていても、それだけでは、実際に触れてみたときの感覚は分かりませんよね。それと同じで、「からだ」が育つためには、「実際に触れてみたときの感覚」が必要なんです。また、「からだ」は心の働きによって生まれたものなので、「肉体」に束縛されません、そして、「見えるもの」だけでなく「見えないもの」とも、「触れることが出来るもの」だけでなく、「触れることが出来ないもの」とも出会うことが出来ます。「真・善・美」と呼ばれるものと出会うことが出来るのも、この「からだ」です。この「からだ」は「心」と「体」をつなぐものなので、「からだ」が育っている子は安定しています。********************以下は、昨日のお泊まり会での写真です。(この会は、「冒険クラブ」という名称で、日常的に一緒に活動している仲間達のための会なので、メンバー以外は参加できません。)<お化け屋敷です><明るいとこんな感じです><影絵です><かおなし?><貞子?><滝ジャンプ>
2017.08.28
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今日はこれから毎年やっている親子キャンプに行くので短くさせていただきます。今年のテーマは「オバケで遊ぼう」です。お化け屋敷を作ったり、オバケになって歌ったり踊ったり、オバケのお話をしたり・・・。どうなるか分かりませんが、楽しみです。また、明日はお休みさせていただきます。*****************人は、「出会い」と「対話」を通して「外の世界にあるもの」を「自分」の内側に取り入れ成長していきます。人間が生まれたときに与えられているのは、その「器としてのからだ」だけです。ですから、「出会い」と「対話」が少ない状態で育った子は、「からだ」が育ちません。「からだ」が育たない子は「心」が育ちません。そして、「心」が育たない子は「知性」も育ちません。ちなみに学校の成績に表れるのは「知能」であって、「知性」ではありません。ですから、知能が高くても、知性は低い子もいます。一流大学を出ても犯罪を犯す人がいるのはそのためです。ちなみに、「知性」とは、バランス感覚、全体感覚、調和感覚、統合感覚とでもいえるようなものです。「知能」は「個」の中だけで完結するものですが、「知性」は他者との関係性の中で働く能力です。それはつまり、「知性」は、「他者との関わり」の中でしか育たないということです。大人になると、思考力も知識も溜まってきていますから、何かと出会った時には、その思考力と知識を使って相手を理解し、対話をしようとします。外国語を学ぶときも、日本語に照らし合わせて解釈しながら学んでいきます。でも、赤ちゃんにはその思考力も知識もありません。お母さんから日本語を学ぶときも、それを理解するための言葉を持っていません。じゃあどうやって赤ちゃんは言葉を学んでいるのかというと、お母さんの言葉と直接「からだ」で出会うことで、「からだ」の能力の一部として言葉を学んでいるのです。それは、笑う能力、歩く能力、オモチャで遊ぶ能力を身につけていくのと同じ方法です。赤ちゃんは「言葉」として言葉を学んでいるのではなく、「からだの能力」としてお母さんから言葉を受け継いでいるのです。それは「歩き方」や「話し方」や「しぐさ」とつながったものなので、無意識の中に入り込み、自覚できないのです。そして、その言葉に従って考え、感じ、判断し、行動するようになります。それが「母国語」と呼ばれるものの特徴です。<明後日に続きます>
2017.08.26
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昨日からの続きです。人は現実世界は「体」で生きています。他者から見えるのも「体」だけだし、実際に食べたり、触れたり、聞いたり出来るのも「体」です。お医者さんが検査することが出来るのも「体」だけです。そして「体」が死ねば「からだ」は消えます。でも人は自分の「体」が見えません。背中も、自分の顔も見えません。「手」程度なら自由に見ることが出来ますが、足になるともうそんな自由に見ることが出来ません。「体の内側」なんてなおさら見ることも触れることも出来ません。また、人は自分で自分を感じることも出来ません。自分の匂いも、自分の口の中の味も、何も触れていないときの皮膚の感覚も、耳の中で鳴っている音も聞こえません。もともと、五感の働きは他者を感じるために生まれたものだからです。その五感の働きは、ほとんどの場合生まれたとからちゃんと働いています。ですから、赤ちゃんだってつねられれば痛いし、大きな音にはびっくりします。でも、自分自身を感じることが出来ないので、まだ「自分」は透明です。赤ちゃんには「体」はあっても「からだ」がないのです。それで、自分の手や足をなめます。そうやって「からだ」の確認をしているのです。「体」から「からだ」が育っていくためには、ただ他者を感じるだけでなく、感覚を通した「他者と自分の対話」が必要なのです。対話の時のフィードバックを通して「からだ」が育っていくのです。(心も同じです。対話が心を育てるのです。)ちなみに以下の絵は幼い子どもがよく描く「頭足人」と呼ばれる絵です。頭からいきなり手と足が生えています。マンガのキャラクターのようにも見えますが、子どもはキャラクターを描いているわけではありません。自分の「からだ」を描いているのです。大人は「物としての体」の絵を描きますが、幼い子どもは「心で感じたからだ」の絵しか描けないのです。幼い子どもは、粘土をいじったり、走ったり、踊ったり、おもちゃで遊んだりして、手や足の感覚との対話は日常的にしています。でも、胴との対話は出来ません。だから子どもの「からだ」にはまだ「胴」が生まれていないのです。泥団子を作るとき、掌の感じや力の入れ具合がそのまま泥団子の状態に反映されます。それで、「もっと丸く、もっとピカピカにしよう」と、掌の感覚を通して泥団子と対話をします。その「自分の感覚との対話」が「からだ」を育てているのです。昔は、お料理を作るだけ、お洗濯をするだけ、お掃除をするだけでも「感覚との対話」を必要としました。ですから、普通に生活しているだけでも「からだ」は育っていたのです。手仕事も「感覚との対話」を必要とします。でも、ゲーム機でボタンやスティックを操作している子は、ボタンやスティックと対話などしません。これはゲーム機だけでなく、機械全般に言えることですが、一般的に「操作」という行動は一方通行で対話は必要が無いのです。ノコギリや包丁といった「道具」の場合は「感覚を通した対話」が必要です。でも、ボタンを押せば自動的に切ってくれるような機械の場合は「感覚を通した対話」は必要が無いのです。そのため、機械に依存している現代人は、「からだ」が育ちにくくなってしまっています。実際、ワークをしていると、大人でも足を感じることが出来ない、内臓を感じることが出来ない、肺を感じることが出来ない人が時々います。そんな、「からだ」を感じることが出来ない人が「自分の命」を感じるのは難しいと思います。よく、自殺しようとしている人に「もっと自分の命を大切にしろ」と言いますが、「命」を感じることが出来ない人にその言葉は無意味なんです。それとこれも大事なことなんですが、人は「体」の内側を見ることは出来ませんが「からだ」の内側は観る事が出来るのです。ただし、「見る」ではなくて「観る(感じる)」ですけどね。「心」に対して「体」は他者ですけど、「からだ」は自己そのものなので、自分の内側を探れば「からだ」と繋がっているのです。
2017.08.25
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私はいつも「体」と「からだ」という言葉を使い分けて使っていますが、その違いについて説明させて頂きます。それと、話しをはっきりとさせるために、「体」と「からだ」をくっつけたものを「カラダ」とカタカナで書かせていただきます。目で見ることが出来て、手で触れることが出来るのが「体」です。お医者さんの機械で調べることが出来るのも「体」です。つまり「体」は客観的で具体的な存在です。それに対して「からだ」は主観的で曖昧な存在です。「からだ」は「体」の外にまで出ることがあります。また、「体」は動けるのに「からだ」が動けなくなることもあります。「体」は存在しているのに「からだ」が消えてしまうこともあります。といっても、「信じるか信じないかはあなた次第です」というような怪しい存在ではありません。皆さんは、目を閉じても自分の「カラダ」を感じることが出来ますよね。それがひらがな表記の「からだ」です。「カラダ」を動かせば「カラダ」の動きを感じることが出来ますよね。それも「からだ」です。元気なときは「からだ」が大きくなった気がします。悲しいとき、苦しい時は「からだ」が小さくなった気がします。もちろん「体」の大きさそのものに変化があるわけではないのですが、「自分にはそう感じる」ということです。人は誰でも肉体としての「体」の他に、そういう「からだ」も持っているのです。みなさんも持っているでしょ。ですから、「体」と「からだ」が一致しないこともよくあります。水たまりがあって「飛べる」と思って飛んだのに、現実の「体」が思い通りに動いてくれなくて、水の中に落ちてしまうこともあります。自分は笑っているつもりでも、周囲の人には笑っていないように見えることもあります。目を閉じて自分のからだの前で人差し指を出会わせるという遊びでも、「からだ」では合わせているつもりでも「体」の方は合っていないことがよくあります。仰向けに寝てもらい「カラダを真っ直ぐにして下さい」と言うと、時々「体」が曲がったままの人がいます。でも、本人的には真っ直ぐにしているつもりなんです。そのような人は「からだ」と「体」が一致していないのです。また、手術で足や手を切り落としたのに、その無い手足のかゆみを訴えたり、感じたりすることもあるそうです。「体の手」は無くなっても、「からだの手」はまだそのまま付いているのです。「体」はガリガリに痩せているのに「まだ太っている」と感じてしまう人もいますが、その人が感じているのも「からだ」の方です。つまり「現実世界のカラダ」が「体」で、「心の中のカラダ」が「からだ」だということです。ちなみに、真・善・美を感じるのは「体」ではなく「からだ」の方です。そして「体」は鍛えることが出来ますが、「からだ」は鍛えることが出来ません。育てることが出来るだけです。<明日に続きます>
2017.08.24
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便利な機械が発明される以前の昔の人の生活は、「からだの活動」に支えられていたので、必然的に「からだの感覚」も必要とされていました。なにしろ、「からだの感覚」を使わないことには薪も割れないし、お湯も沸かせないし、ご飯も炊けなかったのですから。そのため、「心とからだの繋がり」も強かったと思います。現代でも、編み物でも、織物でも、陶芸でも、工作でも、いわゆる「手仕事」と呼ばれるものが好きな人は、「からだの感覚」を使うことが好きです。手仕事が好きな人は、「からだの感覚」を通して「自分のからだ」と対話するのが好きなんです。買うお金がないから自分で作っているわけではないのです。そして、「からだの感覚」を使うことで「心」と「からだ」もつながってきます。そのため、手仕事が好きな人は、「ゆっくり」とか「丁寧」という感覚が分かります。また、手仕事をしているときには嫌なことを忘れることも出来ます。これは、大工さんのように「道具を使う人」でも同じです。トンカチでもノコギリでも道具を使うときには「からだの感覚」を必要とするからです。でもそれが、「道具」ではなく「機械」になると、あまり「からだの感覚」を使わなくなります。電気仕掛けになって便利になればなるほど「からだの感覚」は不要になってきます。今では、便利な機械があれば「熟練の技術」も「からだの感覚」も必要ありません。幼い子どもだって大人と同じ事が出来てしまいます。手を使って洗濯していた時代には、子どもが大人と同じように洗濯するのは難しかったと思います。でも、便利な機械がある現代では、3才児でも大人と同じ洗濯が出来てしまうのです。スマホなどでも今では3才児でも扱えます。大人はその姿を見て「うちの子、もうスマホを使っている、天才かも」と思うのかも知れませんが、すごいのはスマホの方であって子どもの方ではありません。便利な機械は「からだの感覚」も「熟練」も不要なものにしてしまったのです。それと同時に、「からだの感覚」を通して自分と対話することもなくなりました。そして、「からだ」は「機械を使うための道具」になってしまいました。でもその結果、人は「対話する相手」を失い、孤独になってしまったのです。いくらいっぱい側に人がいても、自分のからだと対話できない人は孤独なんです。「からだ」という人生のパートナーと対話が出来ないのですから。逆に、「からだの感覚」を通して、自分と対話できる人は一人でも孤独に苦しむことはありません。側に人がいなければ寂しいかも知れませんが、その状態に苦しむことはないのです。「からだの感覚」を通して対話できる人は、「自分のからだ」との対話だけでなく、からだに触れてくるそよ風を感じ、風と対話することが出来ます。聞こえてくる鳥の声を感じ、鳥と対話することが出来ます。からだを支えてくれている重力を感じることで、地球と対話することが出来ます。「からだ」は「心の世界」と「自分が生きている世界」をつなぐ位置にあるので、「からだ」と対話が出来る人は、「自分が生きている世界」とも対話が出来るのです。逆に、「からだ」と対話が出来ない人は、「自分の心の世界」から外に出ることが出来ません。外の世界と対話することも出来ません。本や、テレビや、ネットなどから外の世界の情報は入ってくるのですが、直接対話が出来ないのです。だから、マニュアルがないと動けないのです。そのような状態から抜け出すためには、ヨガや茶道のようなからだを使った活動をするのもいいですが、手仕事のようなものでもいのです。でも、現代人はその手仕事もしません。面倒くさいと言う人も多いです。子どもたちも同じです。私は自宅では造形教室をやっていますが、造形も一種の手仕事です。でも、日常的にからだを使って生活していない子は、造形もトンチンカンです。私が作り方を教えれば作れると思い込んでいるのです。でも、からだの感覚が育っていない子は作り方を説明しても理解出来ないのです。「実際の活動」と「作り方」が繋がらないからです。理解が成り立つためにはからだの体験が必要なんです。また、「頭の予想」と「からだの現実」が異なっているだけでイライラして諦めてしまいます。頭ではまっすぐに線を引こうと思っても、からだはまっすぐに線を引いてくれません。線の通りにハサミで切ろうと思っても、からだは思うように動きません。クギを狙って打っているのに、クギに当たりません。それですぐに諦めます。***************今日は簡単な手仕事の本を探してみました。是非、お子さんと楽しんでみて下さい。ダンボール織りテクニックBOOK 365日使える“お気に入り”がどんどん作れる! [ 蔭山 はるみ ]ダンボール織り機でおしゃれこもの はる・なつ・あき・ふゆいつでも作れる、使える! (Heart warming life series) [ 蔭山はるみ ]糸あそび布あそび (たくさんのふしぎ傑作集) [ 田村寿美恵 ]
2017.08.23
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最初に告知をさせて頂きます。24日(木)横浜駅から徒歩10分程度にある「Umiの家」という所で、「心とからだのワーク」と「気質のワーク」をします。詳細と申込アドレスはこちらです。時間も長いし、子どもの同伴も出来ないので難しいかも知れませんが、ご都合の良い方は是非おいで下さい。ブログを読んで感じた疑問にも具体的にお答えします。篠先生の「心とからだの自由を取り戻すための「心とからだの体操」https://coubic.com/uminoie/115472篠先生の人間関係に活かす「気質とからだの勉強会」https://coubic.com/uminoie/140679とくに、今はUmiのいえの畳替え直後で、いぐさの香り漂うとってもいい空間です。是非とも、この機会に受講していただければと思っています。***************人間の「頭の中の世界」は現実世界ではないので、物理現象に支配されません。ですから、いくらでも早く動くことが出来ます。CGでしか出来ないような動きだって、頭の中でなら自由自在です。空を飛ぶことも、過去や未来に行くことも出来ます。空想するだけなら登山開始直後に頂上に立つことも出来ます。そして科学はその頭の中の世界を、現実の世界の中でも再現出来るように進歩して来ました。歩くのが苦手な人だって、自動車を使えば100km以上の速度で移動することが出来るのです。でも、機械に依存しない「からだの世界」はそう思い通りにはいきません。日頃運動していない人は、歩くのも走るのも困難になります。久しぶりに縄跳びを跳んで、思わず「重い!!」と声を上げるお母さんは多いです。ちょっとクルクル回るだけで目が回ってしまい、「子どもの頃はいくらでも回っていられたのに」と言うお母さんも多いです。年を取ればしわが増え、体力は低下し、色々な面で老化します。自転車でも、サーフィンでも、登山でも、テニスでも、編み物でも、お料理でも、からだを使った活動の大部分は、練習しないことには上達しません。練習しても思い通りに出来るようになるまでに長い時間がかかります。一生をかけても出来ないことすらあります。才能の有無にも支配されます。スポーツや格闘技の世界でも同じです。人間は筋肉だけで動いているのではありません。筋肉が重力を使って動いているのです。そしてその重力は一定ですから、どんなに筋肉を鍛えても人間の動きには限界があるのです。というか、実際には重力を無視して筋肉で動こうとする人よりも、筋肉は補助程度にして重力を使って動こうとする人の方が早く動くことが出来ます。現実の世界はVRのように便利簡単には出来ていないのです。現実の世界は物理現象、生理現象、心やからだの状態に支配されているのです。でも、「ゆっくり」が出来ない人はその現実を無視しようとします。現実を受け入れようとしません。そして、脳の中の世界にばかりこだわります。「ゆっくり」が出来ないということは単に「落ち着きがない」ということではなく、「自分自身の現実」を肯定しようとしない心の現れでもあるのです。脳の中の世界では子どもは「早くしなさい」と言えば早くするのでしょう。でも、現実世界は「現実のルール」でしか動いていないので、「現実のルール」を無視した行為は必ず失敗するのです。「ゆっくり」を大切にするということは、「脳の中の世界」から出て、「自分のからだが置かれた現実の世界」に還ってくるということなんです。単にスローにすることではないのです。多くの人が勘違いするのは「ゆっくり動いて下さい」と言うと、「ゆっくりと動こうとしてしまう」ことなんです。「え、それのどこがまずいの?」と思われるかも知れませんが、でもそれは脳の作業に過ぎないのです。そうではなく「頭ではなくからだで動いて下さい」ということなんです。そうでないとゆっくりは動けないのです。ちなみに、英語のSLOWの意味は(時間・速度など)遅い、のろい、のろのろした、時間がかかる、ゆっくりした、時間がかかって、手間どって、遅れて、(性質など)のろい、鈍いコア動作・速度が遅いWeblioからというように、単に物理的な時間しか相手にしていません。それに対して「ゆっくり」は〈ゆるい。ゆるやか。ゆっくりした様子〉の意味の「緩(ゆる)」です。「緩(ゆる)」は形容動詞で、活用は「ナリ」です。「緩なり」が「ゆるり」に転訛しました。「ゆるり」は〈楽にしている様子。寛いでいる様子。急がず、ゆっくりした様子〉を意味する言葉です。この「ゆるり」が「ゆっくり」へと変化して現在に至ります。ということのようです。yahoo知恵袋からここには書いてありませんが、「緩む」という言葉も「ゆっくり」と繋がっていると思います。ゆっくり動くためには緩む必要があるのです。それはまた「心とからだの繋がり」を取り戻すことでもあります。そうしないと現実の世界には戻ってくることが出来ないのです。
2017.08.22
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昨日、友人のかめおかゆみこさんが継続ももちろんですが、「ゆっくり」というところがポイントでしょうね。不安感の強いひとは、「ゆっくり」が苦手なようです。「ゆっくり」というのは、個人差が大きいですから。ワークでも、「もーーっとゆっくり」と言うと、「ええっ」とおどろかれることがあります。 と書いて下さいました。今日はこの「ゆっくり」について考えて見ます。現代人は「ゆっくり」「丁寧に」を大切にする価値観を持っていません。仕事でも、家事でも、「ゆっくり丁寧に」を大切にしていたらみんなから文句が出ます。効率よく、テキパキと家事をこなすお母さんは「優秀なお母さん」だと思われています。子どもに対しても、多くのお母さんが毎日「早くしなさい」と子どもを追い立てています。そして、どんなに追い立てても早くしようとしない我が子にイライラしています。そのような人は「自由」が苦手です。常に何かに依存していないと不安になります。「忙しい 忙しい」といいながら追い立てられていると安心するのです。ですから、無意識的に、自分で自分を忙しくするような考え方をします。やらなくてもいいようなことにこだわったり、ゆっくりでも困らないようなことでも早くやろうとします。そして「本当に大切なこと」には目を向けません。昔の人は電気も、水道も、スーパーマーケットも、冷蔵庫も、車も、携帯もない生活をしていました。朝は暗いうちから起きて、薪で火を焚いて食事を作っていました。洗濯も100%手洗いです。子どもの服に穴が開いたら、お母さんが自分の手で縫いました。着物は全部ほどいて反物状態にして洗って、洗ってからまた縫い直すというようなこともしていました。私が子どもの頃でさえ、母親は、古くなったりほつれたセーターなどは全部ほどいて編み直していました。当然、電気がなければ夜は暗くなるので、出来る仕事も限られてきます。また、多くのお母さん達が家事の他にも仕事をしていました。お母さんは家で家事と子育てだけをする「専業主婦」という考え方は、高度経済成長期に生まれた新しい考え方です。しかも、子どもの数は昔の方が多かったです。でも、現代社会には電気も、水道も、スーパーマーケットも、冷蔵庫も、車も、携帯もあります。薪でご飯を炊く必要も、かまどにつきっきりでお風呂を沸かす必要もありません。洗濯も機械に突っ込んでボタンを押すだけです。冷蔵庫があるので、食べ物も毎日買いに行く必要がありません。ですから、昔の人よりもはるかにヒマになったはずなのに、なぜかみんな昔の人よりも忙しそうです。そして、「ゆっくり・丁寧」よりも、「簡単・便利」や「効率」を優先させています。ちなみに「忙」という字は「忄(心)」と「亡(うしなう)」という文字が組み合わさったものです。ただし、忙しいから「心」を失ってしまうのか、「心」を失ってしまうから忙しくなるのかは不明です。私は後者のような気がしますけどね。実際、第三者的にはものすごく忙しくても主体的に考え行動している人は、あまり「忙しい」とは言わないものです。逆に、どうでもいいことに振り回されている人ほど「忙しい」と言っています。「自分」を失うから忙しくなるのです。そしてだから「ゆっくり」が出来ないのです。昔の人の仕事は何でも100%手仕事でしたから、その結果にはその人の心の状態が現れました。「ゆっくり・丁寧」を心がけている人が洗った洗濯物は綺麗でしょう。生地の傷みも少ないと思います。でも、「素早く・簡単に」と洗った洗濯物には汚れが残っているでしょう。生地も傷んでいると思います。手仕事の世界でいい仕事をしようとしたら、ゆっくり丁寧にやるしかないのです。焦れば焦るほど仕事がぞんざいになってしまうのです。ちなみにこの場合の「ゆっくり」は「心を込めて丁寧に」といういみです。単に「トロトロ、ダラダラやる」という意味ではありません。ですから、当然のことながら、「心」を失ってしまった人は「ゆっくり」が出来ません。逆に言うと「ゆっくり」を楽しむことが出来るようになると「心」が戻ってくるということです。でも、現代人は、「ゆっくり」と「トロトロ、ダラダラ」の違いが分かりません。そもそも「心を込める」という感覚自体がよく分からない人が多いような気がします。ほとんどの人が、手仕事の体験が皆無の生活をしているからなのでしょう。粘土ワークをするとこの違いが分かりやすいです。単に泥団子を作ってもらうだけでも、焦らず、心を込め丁寧に作った人の泥団子は綺麗なんです。でも、ただ「物としての泥団子」を作っただけの人の泥団子はなんとなく雑です。また、心を込めていないと退屈するので、いくつもいくつも作る人もいます。この違いは見かけだけではありません。心を込め丁寧に作った人の泥団子を握らせてもらうと、その人の気持ちまで伝わってくるのです。太極拳などはゆっくりと動きます。でも、単にスローモーションで動いているのではないのです。心を込め丁寧に動いた結果が「ゆっくり」になっているだけなんです。だから心の中はスローモーションではないのです。でもこの「ゆっくり・丁寧」がみんな分からないのです。「ゆっくり・丁寧にやる」ということは10分でやっていたことを20分に薄めてやることではありません。そんなことをしたら退屈になって、雑になるだけです。そうではなく、密度を増やすのです。すると、結果としてかかる時間が2倍にも3倍にもなってしまうんです。1m間隔でやっていた作業を50cm間隔でやるようにすれば、時間も倍かかりますよね。それと同じです。太極拳でも、からだの動きや重心や心や感覚の変化に意識を向けながら動くと、自然とゆっくりになってしまうのです。無理してゆっくりに動いているのでも、トロトロ動いているのでもなく、一生懸命にからだを感じながら動こうとすると「ゆっくり」がちょうどいいのです。でも最初は、ただゆっくり動くだけでいいです。退屈してもいいです。それでもゆっくりと動いているとそれまで見えていなかったものが見えるようになってくるのです。目盛りが増えてくるからです。そうやって感覚の働かせ方を学ぶのです。「忙しい 忙しい」と言ってばかりいる人は、からだを動かしているだけで感覚を働かせていないのです。ただし、太極拳などでは次の段階として、丁寧さはそのまま残したままで早く動くということをやっていきます。同じ1mの長さの物差しを持っていても、1cm間隔の目盛りしかついていない物差ししか持っていない人よりも、1mmとか1mm以下の目盛りの物差しを持っている人の方が丁寧な仕事が出来ますよね。************今日は「ゆっくり」というキーワードで探してみました。「ゆっくり動く」と人生が変わる 副交感神経アップで、心と体の「不調」が消える! (PHP文庫) [ 小林弘幸(小児外科学) ]「ゆっくり力」でいい人生をおくる [ 斎藤茂太 ]「ゆっくり」でいいんだよ (ちくまプリマー新書) [ 辻信一 ]
2017.08.21
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今日は昨日のじゃあ、この状態から抜け出して「楽しい子育て、幸せな子育てをするためにはどうしたらいいのか」ということですよね。の続きですが、時間がないので短くさせて頂きます。一生懸命遊ぶ、一生懸命大きな声を出す、一生懸命走る、一生懸命お料理を作るというように、意識を他のことに集中させると、一時的にですが苦しみを忘れることが出来ます。でも、この方法は即効性はありますが一時的な効果しかありません。本質的なからだの状態が変わったわけではないからです。内観法や森田療法も有効ですが、指導者が必要です。時間とお金も必要です。太極拳、気功、ヨガ、整体も有効ですが、先生次第です。この業界の先生はピンキリです。それに子育て真っ最中の人にはそういう所に通う時間がないでしょう。ということで、自宅で自分でできる簡単な方法を書きますが、でも、継続が必要です。すぐには効果は出ません。一人でやるので継続が難しいです。でも、からだを変えると言うことはそういうことなんですから仕方がないのです。何十年もかかって出来上がったからだを、そう簡単に変えることは出来ないのです。でも、心とからだがうまく繋がらずに不安が強い人ほど、「心を決めて一つのことを継続する」ということが苦手なようです。あれこれ手を出してすぐに諦めるのです。そしてもっと効果的な方法を探します。でも、世の中にそんな魔法のような方法などないのです。効果がすぐ出るものは一時的な効果しかないのです。その内容の如何に関わらず、決めたことは継続してやるようにすると、少しずつ変わっていくものなんです。その時、「少なくとも一年は続けてみる」というように目標を決めるといいです。ということで家庭で出来る簡単なエクササイズです。仰向けに寝て下さい。下腹部に両手を添えて下さい。両手で下腹部を押し込みながら息を吐き出して下さい。お腹の中の空気も、胸の中の空気も吐ききるぐらい吐き出して下さい。吐き出したら、その下腹部に押し込んだ両手を押し上げるように空気を吸い込んで下さい。その時、吸い込んだ空気が手や足やからだ全体にまで入るような意識を持って下さい。足先まで空気を入れるのです。浮き輪に空気を入れるときのイメージでやるといいかも知れません。吐くときも、からだ全体に入った空気を吐き出す感じでやってみて下さい。その時、口はポカンと開けた方がいいです。顎に力が入っていると、胸が固くなりますから。また、ゆっくりやります。それを最低でも10回やってみて下さい。それが終わったら、次のエクササイズです。やはり布団の上に寝て思いっきり空気を吐き出してから息を止めます。そしてからだを固めます。指先から足先までからだ全体に力を入れて思いっきり固めます。苦しくなるまで息を止めてその状態をキープして下さい。苦しくなったら一気に息を吸い込んでからだを緩めます。この時、からだを緩めるだけで息は入って来ます。その後は、ゆっくりからだ全体をユラユラ揺すりながら呼吸を整えて下さい。その時は力は抜いたままです。ゴロゴロして呼吸が整ったらまた、息を吐き出してからだを固めます。そして吸い込んでユラユラします。この方法ならお金も時間もかかりません。ただ、継続が必要です。************今日は呼吸法の本を探してみました。呼吸法にも色々あるのです。いずれにせよ、継続しないことには効果はありません。1日3分で医者いらず こころとからだを整える「呼吸法」【電子書籍】[ 丸山浩然 ]〈いのち〉を紡ぐ呼吸法 ストレス社会の処方箋[本/雑誌] / 村木弘昌/著深い呼吸でからだが変わる 龍村式呼吸法のすすめ [ 龍村修 ]
2017.08.20
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子どもの頃にからだを使っていっぱい遊んで、心とからだの繋がりを育てることが出来ないと、不安が強い大人になります。当然、ゲームでばかり遊んでいても不安の強い大人になります。勉強ばかりしていても不安の強い大人になります。(断定的に書いていますが、そういう傾向が強いということです。必ずそうなるということではありません。念のため。)そのような大人は、自分の「からだ」を感じるのが苦手です。そのため、「自分」という存在が曖昧です。「自分」という意識はあるのに、「自分」という存在にリアリティーを感じないのです。「からだ」ではなく、「心」で生きているので、常に地に足が着かない感覚もあります。そのような状態の人にとって「からだ」は、「心の回りに覆い被さって、心の動きを阻害する重くてやっかいなお荷物」という感じです。でも、「命」は「からだの働きによって支えられています。そのため、「からだ」が失われれば、「心」も失われます。だから、「からだ」こそが「自分」という存在の本体なのに、「心とからだの繋がり」が弱い人にとっては、「心」こそが「自分」で、「からだ」は単なる「心の道具」や「やっかいなお荷物」に過ぎないのです。見たり、聞いたり、感じたりすることにもあまりリアリティーを感じません。そして、妄想に囚われやすいです。見て、聞いて、感じて判断することは出来るのですが、それを行っている自分のからだにリアリティーがないのです。まるでロボットをモニターしているような感じです。また、「自分のからだ」にリアリティーを感じることが出来ない人は「自分の命」にもリアリティーを感じることが出来ません。「命」は「心の中」ではなく「からだの働きの中」に存在しているからです。「自分の命」を感じるためには、「自分のからだの働き」を感じるしかないのです。そして、「自分の命」にリアリティーを感じることが出来ない人は、当然、「他者の命」にもリアリティーを感じることが出来ません。「生き物」も「命あるもの」としてではなく、「物」としてしか感じることが出来ません。頭では分かってもそうとしか感じることが出来ないのです。でも、小さいときからズーッとその状態なので、それが普通になってしまっています。みんなそんなもんだと思っています。それに、ちゃんと判断は出来るし、自分の意思で自分のからだを動かすことも出来るので、勉強や社会生活にはなんの問題もありません。だからそのことに気付く人も、問題意識を持つ人も多くありません。でも、このような状態の人は子育てが困難になってしまうのです。「子育て」は「からだ」でするものであって「頭」でするもものではないからです。「頭」で子育てをしようとするのは人間だけです。「頭」で子育てをしようとしている人は、「子どもの命」を感じることも、「子どものからだ」を感じることも出来ません。子どもと気持ちを通わせることも出来ません。一生懸命、「頭」で子どものことを理解しようとするのですが、「子どもの心」は「子どものからだ」と一体化しているので、「子どものからだ」を感じることが出来ない人には「子どもの心」を理解することが出来ないのです。「子どもの心」に関して学問的な理解は出来ても、「今、目の前で泣いている我が子の心」が理解出来ないのです。じゃあ、この状態から抜け出して「楽しい子育て、幸せな子育てをするためにはどうしたらいいのか」ということですよね。 <続きます>*****************私は、埼玉県にある「さくら・さくらんぼ保育園」の斉藤公子さんの考え方にも共感します。ヒトが人間になる さくら・さくらんぼ保育園の365日 写真集 [ 川島浩 ]【送料無料】 さくら・さくらんぼの障害児保育 / 斎藤公子 【本】【送料無料】 子育てに魅せられて 奥深き未知の国 / 斎藤公子 【本】
2017.08.19
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現代人は「人間にとって一番大切なのは脳だ」と思い込んでいます。もっと言えば、物としての脳よりも、脳の中の情報(記憶)の方が大切だと考えています。そして、「私」という存在の本質はその情報(記憶)の中にあると考えている人もいます。ですから、今、真剣に「頭部の移植」が考えられています。数年のうちには実現しそうです。そのうち「脳だけの移植」も可能になるでしょう。その技術が確立すれば末期癌の人でも、頭部を他の人の体に移植してしまえば、癌で死ぬことはなくなります。さらに、脳ではなく、脳の中の情報を移植することが可能になれば、人間は永遠に死ななくなります。別人の体になるのが嫌なら、自分の細胞からクローンを作って、そこに今の自分の記憶を移植すれば、記憶はそのままで若い体を手に入れることも出来ます。(古い体は死にますが記憶の連続性は保たれます。)さらには「自分」を何人も作ることも出来ます。「マトリックス」や「バイオハザード」といったSF映画の世界ではその「脳内情報の移植」という技術が使われています。そしてこれはSF映画の世界の話だけでなく、実際に、そういう研究をしている人もいるのです。そしてそれは、それなりに成果をあげています。ここまで極端なことを考えている人はまだ圧倒的に少数派だとは思いますが、でも、「人間の本体は脳の中の情報(記憶)であって、からだは単にその情報の器であり、生活のための道具に過ぎない」と考えている人は多いような気がします。実際、教育現場でも「からだ」を無視して、脳に情報を詰め込むようなことが行われています。(でもだから入らないのですけどね)シュタイナー教育ではからだを動かしながら算数を学びますが、日本の学校では椅子に座って頭だけで算数を覚えなければなりません。でも、それは無理なんです。また、「実際に体験させなくてもビデオなどで見せればそれでOK」と思い込んでいる人もいっぱいいます。近い将来、教育現場でもVR(仮想現実)で様々な体験をさせることが主流になるかも知れません。VRはビデオと違って見るだけではありません。擬似的な体験も出来るのです。(ゲーム機での体験は中途半端ですが、VRでの体験はもっと本物に近いものです。)VRを使えばエベレストに登ることも、宇宙に行くことも、アリの穴の中に入ることも、イルカと一緒に泳ぐことも可能です。戦争に参加して人を殺すことすら可能です。しかも、安全な教室の中で。子育ての現場にも入ってくるかも知れません。VRを使えば一切汚れることなく泥んこ遊びをしたり、全く危険がない木登りも出来るようになります。殺さない昆虫採集も出来ます。ちなみに手からの感触は、映像と同期して感触を与えるような手袋をすればOKです。テレビなどでも様々な分野でのVRの可能性を非常に肯定的に取り上げています。でも、これらの体験は「からだ」を通していません。映像や音によっていきなり脳の中に入ってくるのです。それでも実際に体験しているかのような感覚を味わうことが出来るのは、脳が勝手にその人の過去の体験と、VRによって脳に送り込まれた情報をつなげて、過去の感覚や感情を再現してしまうからなのです。つまり、実際に高いところに登って怖かったという記憶があるから、VRで擬似的にでも似たような状況を再現されると、その時の感覚や恐怖心が蘇ってしまうのです。過去に焚き火で火傷をしたことのある人は、VRの世界の中でも焚き火に警戒心を持つでしょう。熱さも感じるかも知れません。でも、焚き火どころか火すら見たことがない子はVRの世界の中では火を怖がらないでしょう。触れても実際に火傷するわけではないからです。実際の戦争を体験した人はVRの中での戦争にも恐怖心を持つでしょう。でも、ゲームの中での戦争しか知らない子は、それがどんなにリアルな映像でも恐怖心を持たないでしょう。鉄砲の弾が飛んできても恐怖を感じないでしょう。当たってもケガもしなければ死ぬわけでもないからです。(スーツを着ることで多少の痛みを感じるようには出来ます。)そして、その映像に慣れていくでしょう。リアルな体験をして大人になった人がVRの世界の中で味わう体験と、これから様々な体験をしなければならない状態の子が、VRの世界の中で体験することは全く異なったものなんです。そして、先にVRで体験してしまうと、実際の体験で様々なことを感じるのが困難になってしまうのです。脳がVRでの体験を記憶してしまうからです。これはどういうことかというと、実際の体験がある人がVRの中で同じような体験をしようとすると、実際に体験したときの記憶が蘇るのと同じように、先にVRで体験してしまうと、実際の体験の場でもVRの中での体験の記憶が蘇ってしまい、からだを通したリアルな体験を阻害してしまうということです。どんな場合でも、「新しい体験」は「古い体験」の延長上にしか発生しないのです。だから、子どもの頃にどんな体験をしたのかということが、その後のその子の人生に非常に大きな影響を与えるのです。そしてそれは、「脳とからだをつなぐ回路」が育たなくなることを意味しています。そのような状態になると「心」と「からだ」がうまく繋がらなくなります。「自分のからだ」を感じることも困難になるでしょう。すると、「心」と「からだ」が分離して、日常的に理由もなく強い不安を感じる人が増えます。VRのようなリアルな疑似体験ゲームは、自我がある程度しっかりとしてくる14才を過ぎるまでは子どもにやらせない方がいいと思います。それと、14才頃までは、からだを使ったリアルな体験をいっぱいさせて上げて下さい。私はそれが、我が子を「不安」に束縛されないようにする方法だと思っています。大人でも不安が強い人は、あれこれ頭で考えるのではなく実際に体験するようにしてみて下さい。とにかくやってみるのです。「不安」に支配されなければ、心とからだの回路は大人になってもつなぎ治せるので大丈夫です。***************お休みします。
2017.08.18
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人は嬉しいとき、幸せを感じているときにはからだが緩んでいます。それは、豊かな表情や、からだの柔らかい動きとして表れます。声や目つきも柔らかくなります。一方、不安や恐怖を感じたり、ストレスが溜まっているときにはからだが固まっています。悩み事がある時も、自分のことばかり考えているときも、人目を気にしているときも、考え事をしているときも、目や頭ばかり使っているときも、競争しているときもからだは固まっています。からだを使わない生活、からだを動かさない生活をしていてもからだは固まってきます。ですから、小さいときから自由に遊ぶ時間も、空間も、仲間も奪われ、しつけや勉強に追い立てられ、他の子と比較され、評価され、からだを使った活動はせず、目や頭ばかりを使うような生活を強いられている子どもたちのからだは固いです。しかも、小さいときからその状態なので、ほとんどの子が、大人になってもそのままです。昔の子どもたちの、「からだを使った遊び」、「自然の中での遊び」、「群れて遊ぶ遊び」は、子どもたちの「柔らかいからだ」を育ててくれていたのですが、それらを失ってしまった現代の子どもたちは、「柔らかいからだ」を育てることが出来なくなり「固いからだ」で生きなければならなくなってしまっているのです。ただし、この場合の「固い」とか「柔らかい」は、ストレッチ的な固さ、軟らかさのことではありません。開脚でからだが床にべたっと付くような人でも、からだが固い人はいっぱいいます。ただ立っているだけでも固いからだの人は固く立ち、緩んでいるからだの人は柔らかく立ちます。固いからだの人は寝ていても緩みません。ですから、寝ても疲れが取れません。でも、その違いは見かけでは分かりにくいです。本人もズーッとその状態なので、特に自覚はありません。でも、触れてみるとすぐ分かります。ただ指で押してみるだけで固い人のからだは固いし、柔らかい人のからだは柔らかいのです。(筋肉の固さではありません。)からだのワークでも、ただ立っているだけの相手のからだを指で色々と押してみるということをしますが、固いからだの人は相手の指に反応できません。池に小石を投げ入れれば、それが小さな石でも、波紋は広がりますよね。水が柔らかいからです。でも、凍っていたらコツンと音がするだけで反応しませんよね。そんな感じの違いがあるのです。指を持って軽く腕を振ってみても、からだが柔らかい人はからだ全体が動きますが、固い人は振られている部分しか動きません。からだの各部がブロックされているので、動きが他の部分に伝わらないのです。ただし、自分で自分に触れても分かりません。「からだ固いですね」と言われても分かりません。他者のことは分かっても、自分のことは分からないのです。じゃあ、からだが固い人と柔らかい人とでは何が違うのかということです。まず、固いからだの人はからだの各部がブロックされているので、動きが他の部分に伝わらないのですが、動きだけでなく、同じようなことが感覚全般にも起きています。見ても「見ているだけ」、聞いても「聞いているだけ」なんです。ですから、子どもの笑顔が見えていても、キレイな夕焼けが見えていても、心が動きません。「子どもが笑っている」、「夕焼けがキレイだ」という判断は出来るのですが、心が動かないのです。花を見ても、鳥の声を聞いても、子どもの笑い声を聞いても心が躍りません。それに対して、からだが緩んでいる人は見るもの、聞くものにすぐからだが反応します。楽しい音楽が聞こえればからだも動かしたくなるのです。また、全体を見ることが出来ません。他者を受け入れることが出来ません。指示命令されたことは出来ますが、「自由に行動してもいいよ」と言われると、どうしていいのか分からなくなります。それに、疲れやすいです。でも、「判断」は出来るので生活にはなんの支障もありません。指示や命令で動いている範囲なら、仕事にもあまり影響はありません。また、感覚的に鈍感になっているので無理が出来ます。麻酔薬を打っていればトンカチで手を叩いても痛くありませんが、それと同じ状態です。でも、痛くなくても手は壊れます。からだが壊れるまで働くことが出来る人もからだが固くなっています。自分らしくないことでも指示や命令があれば出来てしまいます。それはまるで死ぬことや殺すことを恐れない兵隊さんのようです。水も氷にして固めてしまえば、水らしくないことでも出来ますよね。そんな感じです。だから軍隊では常に緊張を与えて、からだを固めさせておく必要があるのです。会社では、無理な競争をさせたり、無理なノルマを与えてからだを固めます。すると、言うことを聞く社員になるのです。そして、そのような人は子育てが苦しくなります。子どもは水のように自在に変化する生き物なので、自由な心とからだを持っている大人なら自然に相手が出来るのですが、心やからだが固くなってしまっている人は、振り回されてしまうのです。それで、恐怖を与えたり、緊張を与えたりして、子どもを固めようとするのです。水と同じで、固めてしまえば扱いやすいからです。**************私は谷川俊太郎の詩が好きです。詩を特にいっぱい読むと言うことはありませんが、詩は好きです。八木重吉、山頭火も好きです。映画などを見ていると、欧米ではお祝いの時に詩を送ることもあるようですが、日本ももっと詩を大切にした文化になれば、競争に振り回されなくなるのではないかと思うのですが・・・。日本にも俳句のような素敵な文化があったのですから。ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ) [ 谷川俊太郎 ]きもち [ 谷川俊太郎 ]しんでくれた [ 谷川俊太郎 ]みみをすます [ 谷川俊太郎 ]わらべうた [ 谷川俊太郎 ]
2017.08.17
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今日はちょっと脇道にそれます。私が今のような活動を始める原点の所に、「東京賢治シュタイナー学校」の創始者である故・鳥山敏子と、昨日、本をご紹介した「大阪 からだとこころの出会いの会」(通称 からころ)の松井洋子の二人がいます。鳥山敏子は「賢治の学校」の提唱者であります。私も一応「茅ヶ崎賢治の楽校」という会を主宰しています。(最近はその名前は使いませんが、鳥山さんに直接ことわって始めました。30年以上も前のことです。)その二人の上流には以前ご紹介した、演出家の竹内敏晴と、野口体操の野口三千三がいます。私は竹内さんのレッスンは受けたことがありませんが、鳥山さんや松井さんといった竹内さんのお弟子さん達のレッスンは受けました。野口三千三さんのレッスンも受けたことはありませんが、野口さんに直接学んだ舞踏家であり友人の三上賀代さんから野口体操を学びました。その、竹内敏晴と野口三千三との繋がりの中に、このブログでも時々名前が出てくる友人のかめおかゆみこさんがいます。この流れの人達は「心」と「からだ」を分けません。「心」は「からだの現れ」であり、「からだ」は「心の現れ」であると考えます。私はそこに、太極拳や、古武術や、システマといった武術から得た身体感覚を加えて自分のワークを作っています。それは実際に「人のからだとからだが触れあう場」でしか体験できない身体感覚です。ですから、ヨガのように一人で行い体験する身体感覚とは異なります。「他者にしか感じることが出来ない自分のからだ」もあるのです。それは、「抱かれている子どもにしか感じることが出来ないお母さんのからだ」があるということです。それはまた、「外国人にしか分からない日本人らしさ」というようなものでもあります。でも、それが分からないと「本当の自分」は分からないのです。人が「本当の自分」と出会うためには「他者」が必要なんです。必死になって「自分」と向き合っても「自分」のことは分からないのです。竹内敏晴さんはその「他者」を、「自分」に気付き、「自分」を変えるための非常に重要な要素に据えました。人は「他者」と出会うことで。「自分」と出会うことが出来るのです。その気付きがあれば人は変わることが出来るのです。私は、「子どもの遊び」、や「親子遊び」の指導もしていますが、「遊び」を専門に学んでそのような指導をしているわけではありません。保育学科や教育学科を出たわけでもありません。「遊び」や「子育て」とは全く無関係な「物理学科」の卒業です。「子育て」のワークや講座も持っていますが、大学で「子育て」について学んだわけでもありません。大学の時私が興味を持って学んでいたのは、文化人類学や、自然人類学や、宗教や、芸術についてでした。とにかく「人間」に興味があったのです。インドに行ったのも、「人間」を体験するためでした。ガンジス川のほとりで人を焼くところも見てきました。でも、30数年前に鳥山敏子さんや、松井洋子さんの本と出会い、実際にワークに参加して感じたのは、「私が求めていたのはこれだ」という実感と、「これなら自分でも出来るし、またやってみたい」感覚でした。本では学ぶことが出来ない学びの宝庫を発見してしまった感じです。そこには「人間そのもの」がありました。人間は人間と出会うことで人間になることが出来るのです。また、そのような活動に知識は必要ありませんでした。子どもと遊ぶのに、「遊び方」や「子どもについての知識」は必要がないのと同じです。分からなきゃ子どもから学べばいいのです。私はただ子どもがやりたいことを感じ、それを形にし、増幅するだけです。ですから、専門の学校を出ていない私でも何の問題も感じませんでした。それは大人のワークでも同じです。相手を肯定し、相手を受け入れ、相手が考えていること、感じていることを増幅して、相手に分かる形で返して上げるだけで、相手は自然に自分の力で変わっていくのです。そしてまた、子育てでも同じです。お母さんが頑張って教えようとしなくても、子どもとちゃんと向き合って、子どもを受け入れ、共感しながら生活していれば、子育てに関する知識などなくても子どもはちゃんと育っていくのです。むしろ知識は有害になることが多いのです。ボールが飛んできたら捕るか、避ければいいのです。そこに知識は必要ありません。「ボールが飛んできた、どうしようか」と本を開くような人はケガをするだけです。***********************今日は、鳥山敏子の本をご紹介させて頂きます。【中古】 賢治の学校(2) 「いじめ」を考える-「いじめ」を考える /鳥山敏子(著者) 【中古】afb居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる (岩波現代文庫) [ 鳥山敏子 ]【中古】 豊かな社会の透明な家族 / 鳥山 敏子 / 法蔵館 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】イメージをさぐる からだ・ことば・イメージの授業 [ 鳥山敏子 ]OD>いのちに触れるOD版 生と性と死の授業 [ 鳥山敏子 ]
2017.08.16
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人間には「心」があります。その「心」は、「意識」や、「感情」や、「記憶」や、「感覚」や、「からだの状態」など、様々な働きの「複合体」です。その「複合体」を「心」という名前で呼んでいるだけです。「心」というものが単体で存在しているわけではありません。ですから、「意識」が変われば心も変わります。「感情」や、「記憶」や、「感覚」が変わっても「心」は変わります。毎日、走るようにするだけでも「心」は変わります。歩き方や、姿勢を変えるだけでも「心」は変わります。新しい学びをするだけでも「心」は変わります。自分の感情を肯定すると「心」は変わります。洋服や髪型を変えるだけでも「心」は変わります。食事をするだけで「心」は変わります。それほど「心」というものは不安定なんです。そして、多くの人がその「心」に振り回されています。苦しみを抱えている人ほど強く「心の世界」に束縛され、振り回されています。でもなぜか、振り回されているのに、振り回されていることに気付いていないのです。なぜなら、みんな「自分の心の中」ばかり見て、「外の世界」を見ていないからです。それはまるで、スマホの画面から目を離さずに「ポケモンゴー」をしながら歩いている人に似ています。スマホは「ポケモンの場所」は教えてくれます。ですから、ゲームをやっている人はそっちへ向かって歩いて行きます。その時、顔を上げて前方を見ながら前に進めばいいのですが、スマホを見ながら前に進むと、時に事故に会います。高速道路に侵入して、死んでしまった人もいます。駅から落ちてしまった人もいます。外国では「地雷、入るべからず」の立て札に気付かずに、地雷原に入ってしまった人もいます。人や自転車にぶつかってしまう人は普通にいるでしょう。そのような人はスマホに振り回されているのですが、本人は、「振り回されている」とは思っていないと思います。ゲーム中毒の子はゲームに振り回されているのですが、本人は振り回されているとは思っていません。「心」もそれと同じです。人間は自分が意識を向けている相手に振り回されても、振り回されていることを感じないのです。大好きな人に振り回されても、「振り回されている」とは感じないでしょ。それも同じ原理です。でも、それが安全で、ただ楽しくて、害のないものならばその世界に浸っているのもいいのかも知れませんが、苦しくて苦しくて仕方がないのなら、振り回されていることに気付いた方がいいと思います。じゃあ、どうしたら自分が「心」に振り回されていることに気付くことができるのかということです。スマホに振り回されている人は、スマホがない生活をしばらくやってみれば、いかにスマホに振り回されていたのかが分かります。でも、「心」を消して生活することはできません。それに「心に振り回されていた」ということに気付くのも「心」なので、「心」を消してしまったら意味がないのです。その時、非常に有効なのが「からだ」に意識を向けることなんです。「からだ」は「現実世界」と「心」をつなぐ位置にいるので、「からだ」に意識を向けることで、「心」を相対的に見ることが出来るようになるのです。でも、幼いときから自分の「心」ばかり覗き込んできた人は、どうやったら「からだ」に意識を向けることができるのか、が分からないのです。「自分のからだ」なのに、どうやって「からだ」を意識したらいいのかが分からないのです。以前、ワークの時に「右足を感じてみて下さい」と言ったら、「足を感じるってどうやってやるんですか」と聞いてきた人がいます。皆さんは分かりますか。*******************今日は、大阪の「からころ」(からだとこころの出会いの会 )の松井洋子さんの本をご紹介します。松井さんの本は、私が子どもの活動を始めるときに大きな手助けを与えてくれました。東京の方でワークがあった時には参加していました。ワークショップ・からだで、おはなし 親と子のふれあい体操 [ 松井洋子 ]【中古】 ワークショップ人と人とのあいだ / 松井 洋子 / 太郎次郎社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】【中古】 癒しのパフォーマンス 他者にふれる自分を変える / 松井 洋子 / メディカ出版 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】◆◆癒しのワークショップ 子育て、自分育ち / 松井洋子/著 / 太郎次郎社
2017.08.15
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「不安」は、「からだ」から「心」が離れることで生まれます。そして、「からだ」から「心」が離れてしまうと素早く動けなくなります。それがまた「不安」を増大させます。ではどうして、「心」が「からだ」から離れてしまうことがあるのかというと、「心」と「からだ」が繋がったままだと、意識が「今」「ここ」に留まったままで、「心の世界」の中に入れないからです。そして「心の世界」の中に入ることが出来なければ、未来のことを考えたり、「あるかも知れない危険性」を予測することも出来ません。「からだ」は常に「現実」と繋がっているので、今目の前には存在していない、空想や想像の世界に入るためには、その時だけでも「心」と「からだ」の繋がりを外す必要があるのです。人間以外の動物たちも不安を感じることがあります。それは「オオカミに後をつけられているかも知れない不安」というようなものです。でもそのような時、動物たちはより感覚を研ぎ澄まし、いざという時にはすぐ逃げるか戦うことが出来るような状態に「からだ」を保ちます。そうやって、「不安」を「集中力」に転換しているわけです。ですから、「心」と「からだ」の繋がりは保たれたままです。これは格闘家達も行っているのではないかと思います。怖いもの知らずに見える格闘家達も、不安を感じているのです。でも、自分の心の中に閉じこもるのではなく、それを集中力に転換しているのです。だから「不安」に囚われて身動きが取れなくなることがないのです。もしかしたら、それが、「不安」というものの「本来の役割」なのかも知れません。それに対して、不安に囚われて身動きが取れなくなってしまうような人は、目の前の現実には対処せずに、空想や妄想の世界の中に入り込んでしまうのです。そして、まだ現実には何も起きていないのにも関わらず、心の中ではオオカミに襲われている場面ばかりを想像してしまうのです。そうならないためにはどうしたらいいのかを考えればいいのに、もう心の中では襲われてしまっているので、恐怖に耐えるだけで精一杯なんです。そして、そのような状態の時には「心」と「からだ」のつながりが絶たれているので、オオカミの匂いや、足音や、気配を感じることができません。そのため、実際にオオカミに襲われることになります。「コワイ コワイ」と言うばかりで、「今できること」をちゃんとやっておかなかないと、不安は現実になってしまうのです。****************「呼吸」に意識を向けると、心とからだのつながりが戻ります。呼吸の本 [ 谷川俊太郎 ]ゆっくり呼吸で病気は治る! [ 帯津良一 ]ゆっくり呼吸のレッスン 自律神経が整う 血流がよくなる [ 小林 弘幸 ]
2017.08.14
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11日に「支配と被支配からの脱却」という文章を書きましたが、この時書いたのは、競争社会における、人間同士の「支配」と「被支配」のことについてですが、人間は人間だけに支配されるのではありません。わかりやすい例としては「常識」にも支配されています。疑うことも出来ない状態で支配されているからこそ「常識」なんです。でも、常識に支配されている人は科学者にはなることが出来ません。「なんでリンゴが落ちてくるのだろう?」という言葉に、「何言っているの。そんなの常識だろ」としか返せないような人は科学者には向いていないのです。詩人にも、アーティストにも、教育者にも向いていません。また、「大人の常識」に支配されている人は子育ても苦労します。「子どもの常識」と「大人の常識」は全く異なるのですが、「大人の常識」に支配されている人はそれが分からず、子どもに対しても「大人の常識」をそのまま押しつけようとするからです。でも、子どもには「大人の常識」は通用しないので、大人が伝えたいことが伝わりません。すると、子育てが「勝つか負けるか」の戦いになってしまいます。でも、この戦いは、子どもの心も、お母さんの心も傷つけます。どちらも悪くないのですが、「大人の常識」に支配されている人にはそれが分からないのです。また、人間は「感覚」や「思い込み」にも支配されています。ゴキブリを見るとギャーギャー言って逃げ惑う人も多いですが、本当は、逃げ回る必要があるのはゴキブリの方であって、人間は逃げ回る必要などないのです。「ゴキブリ」という言葉を聞いただけで嫌悪感を感じてしまうので「G」と略したり「茶色いあれ」と言い表したりする人もいますが、そのような人は「ゴキブリ」に感覚を支配されているのです。不潔だからといって、「電車のつり革」や、「道ばたに咲いている草や花」にすら触ることが出来ないような人も、「感覚」や「思い込み」に支配されています。「電車のつり革」も「道ばたに咲いている草や花」も、何にも攻撃して来るわけではないのに、恐れているのです。最近のテレビを見ていると、生活の回りのもの全てを除菌しないと、すぐにでも病気になってしまうように言い立てていますが、それは、不安を煽って支配しようとしているのです。商品を買わせるための支配です。でも、それに支配されて「除菌宗教」にはまってしまうと、子どもの免疫機能が育ちにくくなり、からだは弱くなります。様々なことに対して不安が強くなり、積極的に活動できなくなります。子どもの「子どもらしさ」を否定して回らなければならなくなります。この「不安を煽る」というのは、人を支配しようとする人がよく使う手です。「ミサイルが飛んでくるかも」と言い立てて不安を煽っている人もいます。そのくせ、役にも立たないような情報しか流しません。本当に危険ならば不安を煽るのではなく、もっと具体的に対処法を考え、伝えるべきです。原発に落ちた場合のことも真剣に考えるべきです。でも、それをしないということは単に不安を煽るのが目的としか思えません。お母さん達も、「勉強しないと・・・」とか「歯を磨かないと・・・」と言って子どもを脅していますよね。意識していないかも知れませんが、それは、子どもを支配しようとする行為に他なりません。ただし、「歯を磨かなくてもいい」ということを言いたいわけではありませんからね。「不安を煽って子どもを追い立てないようにして下さい」ということです。何かに支配されている人ほど、自分よりも下位の相手に対しては、この手を使おうとするのです。支配されている人ほど支配したがるのです。子どもには大人の常識は理解出来ませんから、お母さんがお母さんの常識で子どもを支配しようとしても子どもは言うことを聞きません。怒鳴っても、叩いても言うことを聞きません。反抗しているのではなく、出来ないのです。それで、「叩いても無駄だ」ということを知っている人は、不安を煽るようなことを言って、言うことを聞かせようとします。「力」や「威嚇」ではなく「不安」で支配しようとするのです。比較的、学歴が高い人ほどこの方法を使っているような気がします。でも、この手を使うと、子どもの心の中に「不安」が定着してしまい、大人になっても「不安」に支配されるようになります。そして、我が子に対しても同じ事を繰り返します。ちなみに「不安」と「心配」は違いますからね。私は心配性ではありますが、不安を感じたりはしません。色々心配だから「雨が降ったらどうしよう」などと色々なことを考え、色々なことを準備するのです。でも、不安に囚われているだけの人は、実際には何もしません。「心配」は人を考えることや行動に向かわせますが、「不安」は人の心やからだをただ固めてしまうだけです。では、その「支配」に気付き、その「支配」から抜け出すためにはどうしたらいいのか、ということです。以下は日本における曹洞宗(禅宗)の開祖である道元禅師の言葉です。春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷すずしかりけりこの境地にいる人を支配することは出来ません。*****************今日は、「回虫博士」で有名な藤田紘一郎の本をご紹介します。【中古】バイキンが子どもを強くする / 藤田紘一郎脳で悩むな!腸で考えなさい ・・・心のモヤモヤは腸が解決・・・ [ 藤田紘一郎 ]【中古】 脳はバカ、腸はかしこい 腸を鍛えたら、脳がよくなった /藤田紘一郎【著】 【中古】afb子どもをアレルギーから守る本【電子書籍】[ 藤田紘一郎 ]
2017.08.13
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ちなみに、子どもたちも「競い合う」のは好きですが、でも、子ども達の遊びでは「勝者」も「敗者」も生まれません。大人の競争は、もともと「勝者」と「敗者」を分けるのが目的なのに対して、子どもの遊びは、単に「楽しい時間を過ごすためのもの」だからです。オニはいつまでもオニのままでなく、誰かを捕まえたら、自動的に交代するのです。(最近はそれを嫌がる子もいますけど・・・。)誰かが勝ち負けに拘ったら、楽しくなくなってしまうのです。大人の世界では勝者と敗者は別の世界に振り分けられます。そして、勝者はまたその世界の中で競争して勝者と敗者に振り分けられます。敗者もまた、敗者の世界の中で勝者と敗者に振り分けられます。そして、ピラミッド構造の社会が作られます。そして一度、敗者の世界に振り分けられてしまうと、そこから登っていくのは非常に困難になります。「お勉強」はその戦いで勝ち抜くための道具です。だから楽しくないのです。でも、遊びの場における子どもたちの世界はそんな風に固定されたものではありません。遊びの場にも「勝ち」と「負け」はありますが、新しい遊びが始まれば、全部、クリアされてしまいます。「勝ち負け」を持ち越さないのです。たとえば、「鬼ごっこの順位でコマ回しの優先順位を決める」などということはないのです。「遊び」は勝ち負けを判断するためのものではないので、「勝ち負け」を重要視していないのです。コマ回しなどでは勝った負けたと一喜一憂しますが、「勝った負けたと」一喜一憂すること自体が楽しいのです。勝ち続けても何にも楽しくありません。それに、勝ち負けに拘れば仲間を失います。勝ち負けに拘るやつと遊んでも楽しくないからです。大人は、子どもよりも大人の方が偉い、賢いと思い込んでいますが、「生命の智恵」という視点から見たら子どもの方がズーッと賢いのです。子どもは殺し合うようなケンカは絶対にしません。(生存の危機を脅かされるような異常な環境で育った子は別です。)また子どもは、ケンカした相手とも仲直りしようとします。子どもは、「勝ち負け」の判定よりも「一緒に楽しく遊ぶ」方を選びます。無理矢理「ゴメンナサイ」を言わせなくても、放っておけばまた一緒に遊び出します。大人が子どもから学ばなければならないことがいっぱいあるのです。ただ問題は、そうではない子どもたちがどんどん増えてきていることです。それは、子どもたちが子どもたちの群れから切り離されて、個の状態で、大人の管理下だけで育つようになってきたからだと思います。群れから切り離された子は「子どもらしさ」を誰かと共有することができません。それは「喜びの共有」が出来ないということでもあります。それに、大人の管理下で育てられている子は、大人の価値観で行動しないと叱られます。昔の子は、仲間といる時は「子どもの価値観」で行動し、大人といる時には「大人の価値観」に合わせて行動することが出来ましたが、今の子どもは常に「大人の価値観」を押しつけられているので、子どもなのに「子どもの価値観」が分からなくなってしまっているのです。そのため、はだしで遊んでいる子や、水たまりで遊んでいる子を見ると、注意してくれる子どももいます。また、小さいときから勉強教勉、競争競争と追い立てられている子も少なくありません。子どもには「勉強」や「競争」の意味が理解出来ないのですが、言うことを聞かないとお母さんから叱られてしまうので、形だけでも必死になって頑張っているのです。ただし、いつも遊んでいて勉強や競争に追い立てられていない子でも、一人で遊ぶだけで、仲間や家族と「助け合う」という体験が少ない子も似たような状態になります。そのような子ども達は「一緒に遊ぶ」という感覚が分かりません。そのくせ、「個」としての自己主張は強いです。自分と他の子を比較します。(ズルーイ、とよく言います)勝ち負けに拘ります。一緒に遊んでいても(そう見えても)仲間に対する文句が多いです。意見が合わないときは、みんなが自分に合わせるべきだと考えています。兄弟同士でもこのような状態になってしまっている子がいっぱいいます。例えば、「電車ごっこ」しようとすると、必ず先頭をやりたがる子が数人います。順番にやればいいのですが、そういう子は順番を拒否します。それで、端っこの二人がそれぞれ運転手のつもりで勝手に動くので、電車ごっこが成り立たなかったこともあります。大人が采配して、「じゃあ最初に○○くんが運転手ね」と割り振っても、先頭の子が後ろの子のことを考えないで勝手に動くので危ないのです。小さい子も一緒なのに走り出す子もいます。「みんなで遊ぶ」という感覚も、楽しさも分からないのです。それでも、「一緒に遊ぶ」ということを続けていれば、次第に子どもたちは「一緒に遊ぶ楽しさ」が分かってきます。すると、ルールを守るとか、立場を譲るという感覚も分かってきます。だって、それが分かるともっと楽しくなるからです。************************子どもの遊びに関する本を探していたら、改めて「遊び」と「知育」をつなげるようなものが非常に多いことにがっくりきています。「賢い子を育てるための遊び」???遊びは、子育ての道具じゃありません!!でも、そう書かないと子どもに遊びを与えようとしない大人が多いのも事実で、非常に困った事です。「遊び」は子どもの生命の欲求です。成長するための権利です。大人の道具ではありません。うばわないで!子ども時代 気晴らし・遊び・文化の権利(子どもの権利条約第31 [ 増山均 ]
2017.08.12
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今、旅先で、小さなスマホでかいているので、短く失礼します。現代社会は競争社会です。勝つか負けるかです。だから、親も先生も子どもたちを勉強に追い立てているのです。お母さん達が、しつけを気にしたり、他の子と我が子を比較したり、自分と他のお母さんを比較したりするのも、競争意識の表れです。昔の人も「しつけ」は大事にしましたが、「しつけ」の中味が全く異なっていました。昔の「しつけ」は家族や集団との関わり合いや、日本人としての伝承のようなものでしたが、今のしつけの内容は、お母さんの個人的な価値観だけで決められています。競争は人々を「勝者」と「敗者」に分けます。そして、勝者は敗者を支配する権利を手に入れます。だから、勝者は支配しようとし、敗者は、支配されることを受け入れるのです。それが、競争社会の原理です。その意識が身についてしまっている現代人は、立場的に自分よりも弱い相手に対しては、無意識的に支配しようとします。そして、それを、子どもにもやってしまっているお母さんが、非常に多いのです。本来、家族や親子は「助け合う関係」であって「競争する関係」ではないのですが、競争社会の原理をそのまま家庭の中まで持ち込んでしまっているのです。「お母さんと子ども」という関係では、間違いなくお母さんが支配者で、子どもは被支配です。それでも、子どもは、現代社会の原理に無頓着に、命の本能違って生きようとします。それしか、出来ないからです。すると、叱られ続ける事になります。そして、心が傷つきます。親子の信頼も失われます。お母さんは、「支配できない子ども」を相手に、無気力感と、絶望感に囚われます。本来、親子はそういう関係であるべきではないのに、でも、現代社会では、社会の原理がそのまま家庭に中に取り込まれているのです。ちなみに、他者との競争ばかり意識するような人は成長出来ません。生きている喜びを感じる事も出来ません。
2017.08.11
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今日はこれから山梨の鳳凰三山に行くので予告だけにさせて頂きます。明日も、描けるかどうか分かりません。山の上なので、書いてもアップできないかも知れません。****************一般的に、苦しみの中にいる人は一人で頑張っています。人に頼ること、人に助けてもらうことに避けています。プライドの問題なのでしょうか。小さいときから「ガンバレ ガンバレ」と言われ続けてきたからなのでしょうか。でも人が元々一人では生きることが出来ない生き物なら、そのような考え方や態度は、人間として不自然です。出来もしないし、してはいけないことに拘れば、間違いなく苦しみは増えるばかりなんです。(スミマセン、後は山から戻ってから)
2017.08.10
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「自立」の反対は「依存」ですが、実際には、他者に依存していない人などこの世界には一人もいません。この世界の全ての存在は繋がりの中で生まれ、繋がりに支えられて存在することが出来るような仕組みになっているからです。自分の意思で産まれて、自分の力だけで大人になった人などこの世界に一人もいないのです。みんな依存の中で生まれ、依存の中で成長して大人になったのです。ですから、依存することは恥ずかしいことでも、避けるべきことでもありません。また避けることも出来ません。ここで大事なことは、「依存しないこと」ではなく「支配されない」ことなんです。それが昨日書いた「自立」の意味でもあります。私たちはお金に依存して生活しています。それは避けることが出来ない現実です。それが嫌だったら、無人島や山の中で自給自足で暮らすしかありません。でも、同じようにお金に依存していても「お金に支配されている人」と「お金に支配されていない人」がいます。いわゆる「専業主婦」と呼ばれる人は、経済的にはご主人に依存しています。そして、ご主人は生活や子育てを奥さんに依存しています。ですから「お互い様」なんですが、お金を稼いでいないことを後ろめたく思っている女性の中には、その負い目から精神的にご主人に支配されてしまっている人もいます。また、「お金を稼いでいる俺の方が偉いんだ」と思い込んでいる男性は、奥さんを支配しようとしてきます。でも、「支配」は「依存」の裏返しでもあります。支配する対象に依存しないことには支配が出来ないからです。国民がいなくなったら支配者は支配者でいることが出来なくなってしまうのです。ですから、支配しようとする傾向のある人は依存心が強い人でもあるのです。でも、お互いに尊重し合って家族を支えている夫婦は、支配されても支配してもいません。それが「自立している」という状態です。私が昨日書いた実は、子育てに本当に必要なのは「子どもの育て方」という「方法」ではなく、「お母さんが一人の人間ととして自立すること」なんです。自立しているから補助が出来るのです。そしてそのためには、まず、自分の感覚を開くことから始める必要があります。ちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと感じて、ちゃんと味わうことから自立が始まるのです。ということも、「支配されない」ための方法です。「経済的に自立して下さい」ということでも、「ご主人や仲間に依存することをやめて下さい」ということでもありません。そういうことはみんな「お互い様」なので、素直に受け入れればいいのです。また、色々な本を読んだり、色々な先生の話を聞くのもOKです。それを「自分の生き方」や「自分の子育て」を考えるヒントとして使うのなら、色々な人の話を聞き、色々な本を読むことは素敵なことです。でも、自分で判断することなく、「偉い先生が言ったから」とか、「みんながやっているから」などと、自分の考えや行動を人任せにしている人は、支配されていることになります。学校の先生に言われた通りに子どもを追い立てている人は、先生に支配されている人です。「親の役割」と「先生の役割」は根本的に違うのですから、先生が親に指示命令を出すのも、親がそれに従うのもおかしいのです。でも、実際には多くの親が、先生や学校に支配されています。そして子どもを追い詰めています。支配されないためには自分が「自分」である必要があります。自分が「自分」であるためには、「自分は何を見て美しいと感じるか」、「何を美味しいと感じるか」、「どのようなことに感激するか」、「どのようなことに喜びを見いだすことが出来るか」ということを、「自分らしさ」として自覚し、大切にする必要があります。人と自分を比較していたら、「自分らしさ」は失われてしまうのです。そのため、人と自分を比較する癖のある人は自立できません。***************************詩人、くどうなおこさんの「のはらうた」のシリーズです。面白いですよ。ちょっと一部だけ載せさせて頂きます。これを子どもと一緒に大きな声で動きを入れて読んだら気持ちがいいですよ。 おれはかまきり かまきり りゅうじおう なつだぜおれは げんきだぜあまり ちかよるなおれのこころもかまもどきどきするほどひかってるぜのはらうた(1) [ 工藤直子 ]のはらうた(2) [ 工藤直子 ]のはらうた(3) [ 工藤直子 ]のはらうた(4) [ 工藤直子 ]のはらうた(5) [ 工藤直子 ]
2017.08.09
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現代人は知識や情報だけでで物事を判断してしまう傾向があります。そして、知識や情報があれば正しく判断できるし、何でも出来ると思い込んでいます。教室でも、ゲーム機が作りたいとか、ロケットが作りたいとか、その子の能力では全く無理なものを作りたがる子が時々います。それで「どうやって作るか分かる?」と聞くと「分かんない」と言います。「でも、先生が教えてくれれば作れる」というのです。作り方が全く分からない子に教えても理解出来ないし、理解出来てもそんなもの造形教室で作れるわけもないので、その子の年令や実力に合った段ボールなどを使ったゲーム機やロケットを提案するのですが、「本物じゃないとイヤダ」と言います。「ノコギリもちゃんと使えないのに何を言ってるんだ」と呆れてしまいますが、実際に自分の手で何かを作るという体験が乏しい子ほど、このように「教えてもらえれば・・・」と考える傾向があるのです。そして、子育てでも似たような状態のお母さんがいっぱいいます。そのようなお母さんは、「正しい知識や情報があれば、思い通りに子育てが出来るはずだ」と思い込んでいるのです。そして、「それがちゃんと出来ないのは、知識や情報が間違っているか、足らないかだ」と考えます。だから、「正しい知識や情報」を求めて、本やネットで調べたり、講習会や講演会に行ったりします。実際、そのようなお母さん向けの「賢い子を育てる本」「良い子を育てる本」「天才を育てる本」「上手に子どもを仕付ける本」などがいっぱい出ています。でも、ほとんどの場合それだけでは問題は解決しません。たしかに、素敵な話を聞けば、頭の中や、心の中は満たされるかも知れません。「やるべきこと」が与えられれば迷子状態からは抜けられるかも知れません。それで、心の安心を求めて、(まるで信者のように)特定の先生の追っかけをしている人もいます。でも、そのような人は、「子どもの安心」よりも、「自分の安心」の方を優先しているのです。子どもがお母さんに望んでいるのは、ただ「側にいて欲しい」「ニコニコしていて欲しい」「お話を聞いて欲しい」ということだけなんです。子どもはお母さんに、「お母さんは子育てが下手だから、正しい子育て方法を学んで欲しい」などとは決して思っていないのです。最近、「子育ての方法が分かりません」という人が多いですが、最初から「子育て」に方法などないのです。子どもの成長における主役は、「お母さん」ではなく「子ども自身」だからです。大人に出来るのはその補助だけです。だから、「補助の仕方」はあっても、「育て方」はないのです。それはつまり、子どもを思い通りに育てようなどと考えてはいけないということでもあります。でも、「子育ての方法」を知りたがっている人ほど、子どもを思い通りに育てようとしているのです。その結果、お母さんが主役になり、子どもが脇役になってしまうのです。脇役としてしか生きることが出来ない子どもは、自分の人生を主役として生きることが出来なくなってしまいます。何かに依存しないと生きていくことが出来なくなります。会社に依存する人も、パートナーに依存する人も、お金や権力に依存する人もいます。それもそれで一つの生き方ではありますから、本人が良ければそれはそれでいいのですが、依存心が強い人ほど不安も強いので、生きるのも苦しくなります。みなさんはそれを子どもに望みますか。また、「方法」に依存した子育てをしていると、子どもと向き合えなくなり、子どもとの関係がうまく行かなくなります。すると、幼児期はなんとかなっても、子どもが思春期を迎える頃に様々な問題が出てきます。「自我の育ち」が遅れてしまうからです。それは「自分自身への不安」となって表れます。その「不安」が様々な問題行動につながることもあります。実は、子育てに本当に必要なのは「子どもの育て方」という「方法」ではなく、「お母さんが一人の人間ととして自立すること」なんです。自立しているから補助が出来るのです。そしてそのためには、まず、自分の感覚を開くことから始める必要があります。ちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと感じて、ちゃんと味わうことから自立が始まるのです。子どもも同じです。知識を詰め込まれた子どもは、感覚が閉ざされ、自立出来なくなってしまうのです。**************************絵本から広がる遊びの世界 読みあう絵本 (これからの保育シリーズ) [ 仲本美央 ]親子あそびのえほん [ 武本佳奈絵 ]脳をきたえる「じゃれつき遊び」 キレない子ども集中力のある子どもに育つ 3〜6歳 (はじめて出会う育児シリーズ) [ 正木健雄 ]
2017.08.08
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「群盲象を撫ず」(ぐんもう象をなず)という言葉があります。それは目が見えない人が大勢集まって、自分が触れた感覚だけで「象とはいかようなものなのか」と論争し、「自分の方が正しい」と言い合うことの無意味さを説いています。足を触れた人は「象とは太い柱のようなものだ」と言い、しっぽを触れた人は「細いひものようだ」と言い、鼻を触った人は太いヘビのようだ」と言い、胴を触った人は、「抱えきれないほど大きな樽のようなもの」と言うでしょう。そして、誰が正しいのかを言い合っているのです。目が見える人はその様子を見て笑うでしょう。そして、太い柱は足で、細いひもはしっぽで、太いヘビは鼻で、大きな樽は胴体だと言うでしょう。そして、「自分は本当のことが分かっている」と思うでしょう。でも、目が見える人は、目が見えることで、逆に見えなくなることもあるのです。実際に象を自分の手でなでた人は、触覚や嗅覚で象を体験することが出来ます。温かさや心臓の鼓動も感じることが出来るかも知れません。でも、目で見ただけの人は、外見的な形だけしか分かりません。「百聞は一見にしかず」という言葉もある通り、人は「見えたこと」「見たこと」は信じてしまいます。「この目で見たんだ!!」という目撃者の証言は強力な証拠になったりもします。なぜ人間がこれほど「視覚情報」を信じるのかはよく分かりませんが、でもそれが、人が対象の全体像を理解する妨げにもなっているのです。視覚情報は本当のことが分からなくても分かった気にさせてしまうからです。教室に新しい子が入って来たとき、「ノコギリ使ったことある?」「ナイフ使ったことある?」と聞きます。それで、素直に「使ったことがないから分からない」と言う子もいますが、「使ったことはないけどテレビで見たことがあるから大丈夫」と言う子もいます。それでノコギリやナイフを渡して様子を見るのですが、当然のことながら出来ません。技術に類するものは見ただけでは学ぶことが出来ないからです。でも、「体験から学ぶ」という学び方を知らない今時の子どもたちは、テレビで見ただけで「出来る」と思い込んでしまっているのです。そして、そういう子に限って諦めも早いです。今はネットを通して簡単に世界中のことが分かります。そして、多くの情報を得ることで世界のことが「分かった気」になっています。でも実は、その「分かった気」が非常に危険なんです。「リアルな現実」と情報や映像だけの世界は全く別物なんですが、それが別物だということが分からないまま、色々な判断を下してしまうからです。「子ども」のことも同じです。子どもの一挙手一投足を見ていても、「子ども」のことが理解出来るわけではありません。本やネットで大量の情報を得ても、それは「命を持っているリアルな子ども」とは別のものです。「子ども」のことは、「子ども」から学ぶしかないのです。見るだけでなく、一緒に動き、一緒に味わい、一緒に聞き、一緒に作り、一緒に遊んでみることでしか分からない「子どもの姿」もあるのです。「現実」のことは、「現実」から学ぶしかないのです。「ノコギリの使い方」はノコギリから学ぶしかないのです。それでも分からないところは情報を求めるのもいいと思いますが、情報集めから入ってしまうと全体が見えなくなってしまうのです。「ノコギリやナイフの使い方」だけではありません。大人は、テストの点数で子どもの頭の善し悪しを判断しています。「テストで100点取った子の方が、30点しか取れない子よりも頭がいいはずだ」と思っています。子ども自身もそう思っています。この場合も「頭の善し悪し」という「目には見えないもの」を、テストが目に見える形に変換してくれていると信じているから、「点数が高い方が頭がいい」を思ってしまっているのです。でも、テストの点数で分かるのは「頭の善し悪し」ではなく、単に「テストが得意かどうか」ということに過ぎません。それだけのことです。そもそも、「頭の善し悪し」を点数化することなんか出来ません。「頭がいいとはどういうことなのか」という定義すらもないのですから。目で見ることだけでなく、触れてみなければ分からない真実があります。匂いを嗅いだり、食べてみなければ分からない真実もあります。耳を澄ましてみなければ分からない真実もあります。一緒に生活してみなければ分からない真実もあります。心の中でイメージして見なければ分からない真実もあります。子どもだって、抱いてみなければ分からない真実があるのです。物事をそうやって総合的に見ていくのです。すると、生きるのが楽しくなるし、迷子にもならないのです。苦しみの中にいて抜け出せない人ほど一面的な見方しかしていないものです。*****************「森田療法」と呼ばれる日本生まれの心理療法です。心とからだを育てる日本生まれの方法は、「あるがまま」「無理をしない」「気持ちがいい」「頑張らない」ということを大切にするという点で共通しているようです。そこにあるのは「私を変える方法」ではなく「私に気付く方法」です。森田療法 (講談社現代新書) [ 岩井寛 ]森田療法のすべてがわかる本 (健康ライブラリーイラスト版) [ 北西憲二 ]悩むあなたのままでいい 森田理論による「あるがまま」の生き方 [ 生活の発見会 ]
2017.08.07
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迷路に入る場合でも、「上からの俯瞰図」を持っている人は迷子になりません。また、「片側の壁から手を離さなければ出ることが出来る」と知っている人は、時間がかかるかも知れませんが、ちゃんと出てくることが出来ます。また、歩いた方角と距離を確認し、地図を作りながら歩く人もやがて出てくることが出来るでしょう。でも、俯瞰図も、守るべき原則も持たず、自分が歩いた方角や距離にも無頓着に、不安に駆られてただ出口を探して歩くだけの人は、もしかしたら永久に迷路から出てくることが出来ないかもしれません。同じところをグルグル回っているうちに力尽きてしまうかも知れません。お母さんたちは毎日のように子どもに「早くしなさい」と怒鳴っています。昨日も叱ったこと、昨日もイライラしたこと、昨日も腹が立ったことで、今日も叱り、イライラし、腹を立てています。子育てが苦しい人ほど、毎日、同じことを繰り返しています。一生懸命に頑張っているのに、少しも「前に進んでいる」という実感もありません。少しでも「前に進んでいる」という実感があればさらに頑張れるのですが、それもありません。だから、不安で不安で仕方がありません。苦しくて苦しくて仕方がありません。残るのは無気力だけです。それは迷路や森の中で迷子になってしまっている人と同じ状態です。人間には感覚の癖、思考の癖、行動の癖、判断の癖があります。これは誰にでもあります。でも、地図やコンパスを持っていたり、遠くの山や太陽の位置を確認しながら歩くことが出来る人は、その「普遍的なもの」と照らし合わせることで、自分の癖に惑わされることがありません。自分の癖を修正する基準を持っているからです。でも、その基準を持っていない人は、自分の癖による判断を疑うことが出来ません。そのため、同じことを繰り返すだけで、少しも前に進むことが出来なくなってしまうのです。人は目を閉じて歩くと、からだの癖に合わせて、右や左に曲がって歩いてしまいます。目を閉じていなくても、周囲を見ずに、足元ばかりを気にしながら歩く人は、自分の癖で歩いてしまいます。すると、自分が歩いた足跡に出会います。癖は固定されているので、そのままでは元に戻ってきてしまうのです。でも、そのような人はそのことに気づきません。そして、「道があった」と安心します。そしてさらに、同じ道を歩きます。当然のことながら、それではいつまで経っても出口へたどり着けないのですが、でも、「頑張ればきっと報われる」という想いで頑張ります。でも、どんなに頑張っても少しも前に進んでいる実感を得ることが出来ないので、次第に諦めてきます。そこにあるのは不安と、苦しみと、自己否定だけです。このような状態から抜け出すためには、先ず、足下ばかりを見ることをやめることです。そして、遠くの山や太陽や、周囲の風景をよく観察することです。あえて、今までとは違うように考え、行動してみることです。やったことがないことをやってみるのです。自分が歩いた道を確認するために、日記をつけてみるのもいいと思います。昨日とは違った怒り方をしてみて下さい。いつも怒っていることを怒らないでいてみて下さい。不安に駆られてすぐ行動するのではなく、先ず観察し、感じ、考えてから行動するようにしてみて下さい。子どもの目線で考えて見る、「本当に自分が望んでいること」をしっかりと考えて見る。毎日子どもを叱ってしまっている人も、叱りたくて叱っているわけではありませんよね。だったら、叱っても効果がないのなら、叱るのをやめてみませんか。そして、子どもの変化、自分自身の変化をよく観察してみるのです。あせって何かをしようとするのではなく、一度立ち止まって、子どもや自分の状態をよく観察してみるのです。すると、何もしなくてもそれだけで新しい道が開けてきたりするのです。目の前に「出口に通じる道」があるのに、不安で行動している人や、足下ばかり見ている人は、そのことに気付かないのです。************************私はネイティブ・アメリカンの人達の感性に惹かれます。【中古】 アメリカ・インディアン 笑って生きる知恵 PHP文庫/エリコロウ【著】 【中古】afbアシハヤ イロコイ・インディアンに残された物語 (Good medicine book ネイティブ・アメリカン) [ 北山耕平 ]【中古】 アメリカ・インディアンに学ぶ子育ての原点 /エベリンウォルフソン(著者),北山耕平(訳者),ウイリアム・サウツボック(その他) 【中古】afb【中古】 インディアンの言葉 北米インディアンの記録から コレクション「知慧の手帖」6/ミッシェルピクマル(編者),中沢新一(訳者),エドワード・S.カーティス(その他) 【中古】afbそれでもあなたの道を行け インディアンが語るナチュラル・ウィズダム [ ジョセフ・ブルチャック ]
2017.08.06
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日本では昔から、大工の仕事でも、武術でも、農業でも、商売でも、家事でも、何らかの技術を学ぶときには、まず、現場を見るところから始めました。現代では、まず知識を与えられ、お手本を見せられ、丁寧に教えられ、お手本を真似しながら学ぶようになっています。間違ったら丁寧に教えてもらえます。それは、学校のような場で行われている方法です。でも、昔の人は、最初のうちは下働きのようなことばかりをやらされて、その仕事をやらせてはもらえませんでした。教えてももらえませんでした。たとえば、大工の修行の最初の三年間はノミを研ぐことしかやらせてもらえなかったそうです。大工になりたくて大工の弟子に入ったのに、大工の仕事は教えてもらえなかったのです。だからといって、その間、ただノミを研いでいるだけのような人はその先に進めませんでした。「おれはノミ研ぎを学びに来たんじゃない」と文句を言うような人は追い出されました。いま、そんなやり方をしたらみんなやめてしまいます。今の若者は懇切丁寧に教えてもらうことに慣れていますから。でもそこにはちゃんと深い意味があったのです。本当にやる気のある弟子は、ノミを研ぐ合間に、先輩や師匠が言っていることに耳を澄まし、やっていることをよく観察して、技や呼吸を盗んでいたのです。そこにあるのは、受動的な学びではなく、能動的な学びです。そうやって「大工の仕事はこういうもんなんだ」という「全体」を理解していたのです。そして、大まかな「全体」が理解出来た頃から、「部分」の学びに入ったのです。職人の学びでは「全体から部分」へと入っていたのです。でも、現代の学びでは「部分」があるばかりで、「全体」がありません。だから「全体」を壊すようなことを平気でやってしまうのです。それは例えば、平気で「デザインは素敵だけど住むのには不便」という家を建ててしまうようなことです。昔は、子どもの遊びでも、小さな子は最初見ているだけか、特別ルールで扱われるだけで、まともに遊びには入れてもらえませんでした。現代でそれをやったら「いじわる」になってしまいますが、でも、その「見ているだけ」の間に、「仲間と仲間をつなぐもの」が分かってくるのです。そうして、自分勝手を言わなくなるのです。「遊び」は教えることが出来ても、「仲間と仲間をつなぐもの」は教えようがないのです。「部分」は教えることが出来ても「全体」は教えようがないのです。以前、大衆演劇で有名だった人の内弟子になっていた人の話を聞いたことがありますが、演劇がやりたくて内弟子になったのに、演劇のことを教えてもらえずに、お茶を出したり、お風呂を沸かしたりとか、そういう雑用ばかりやらされていたそうです。しかも、その雑用に対しても、理不尽な要求ばかりされたそうです。例えば、「お茶やお風呂はいつも同じ温かさにしろ」と言われていたので、いつも温度計で温度を測っていたそうです。でも、怒られるのです。温度計で同じ温度にしているのに、「今日のは熱い」とか「今日のは温い」などと言われて叱られるのです。それで非常に戸惑ったし、悩んだそうです。でも、ある時、「温度計を基準にしているからダメなんだ」と気付いたというのです。師匠は温度計で測っているわけではなく、自分の肌で感じているのですから、師匠のからだの状態を基準にして温度を設定しないと「同じ温度」にはならないということです。つまり「体感温度」を一定にしろということなのですから、夏と冬とでは温度を変える必要があったのです。からだを動かして汗をかいた後と、ジーッとしていたときとでも温度を変える必要があったのです。そしてそのような「相手の状態を読む感覚」が、大衆演劇では必要な感覚だったそうなんです。それは、観客の温度を感じて演技をするということです。現代人は、「じゃあ、最初からそう教えてくれればいいじゃないか」と思いますが、教えてもらった人は、そのことしか学ぶことが出来ません。それは単なる「知識」です。でも、自分で悩んで、苦しんで、考えてそのことに気付いた人は、他のことでも同じような気付きを得る能力を得ることが出来るのです。お風呂で学んだことを舞台で使うことが出来るのです。それは「一を知って十を知る」能力です。教えてもらった人の場合は「一」は「一」のままで、「十」にはならないのです。ちなみにこの「十」は、「一の十倍」ではなく、「全体」という意味です。これは造形でも同じで、人のを見て、自分の頭で考えて、失敗を繰り返しながら作ることが出来る子は、応用が得意です。「全体」が見えているからです。教えてもらわないと出来ない子は、「部分」しか見ることが出来ないので、同じ事を繰り返すことしか出来ません。部分しか見えない子は、不安が強いので、新しいことに挑戦することも出来ません。このようなことは子育てでも同じです。ちなみにシュタイナー教育でも「全体から部分へ」という方法を取っています。せっかく教えたことなのに「忘れてもいいよ」と言うのはそのためです。(むしろ忘れさせようとします。)でも、「部分から全体へ」という考え方に慣れてしまっている現代人には、そのやり方が理解出来ないのです。ちなみに、「部分」をどんなに積み上げても「全体」にはたどり着きません。手足や内蔵や骨などの全てのからだのパーツをつなぎ合わせても、「生命ある存在」にはならないのです。まず全体を統括する「生命」があって、その必要に合わせて、後からそこに手足や、内蔵や、骨格といったパーツが生まれてくるのです。そういう学び方を現代人は忘れてしまいました。30年ぐらい前にシュタイナー教育に出会った時、「シュタイナー教育にはそれがある」と気付いて、「ここには本物がある」と思ったのです。でも、「本物」は分かりにくいのです。
2017.08.05
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人間には私たちが知らない以上の能力があるのです。私は、長い間「からだ」のことを学んできたので、「からだ」に関してなら、皆さんより少しは、その「不思議な能力」について知っています。相手のからだに触れるだけで、相手の心やからだの状態が分かるのは、そういう訓練をすれば誰でも出来ることです。整体師などはその能力がないと治療できないのですから。西洋の医者は、血を採ったり、様々な機械でデータを取ったりして、科学的に患者の状態を確認しますが、東洋の伝統的な医者は、見るだけ、触れるだけ、感じるだけで、患者の心やからだの中の診断したのです。そして、これは人間に対してだけの能力ではありません。動物や植物に対しても、このような能力を使える人もいます。海の状態や空の状態に対して、この能力が使える人もいます。昔の職人は、この能力で家やものを作っていました。現代の大部分の家は、科学的に加工された木を使って作られていますが、昔の家はみんな、山から切り出して乾燥させただけの木を使っていました。その自然な状態の木は、自分が置かれた状況に反応して、形や状態を変えます。建てるときには同じ形の木でも、湿気の状態によって、形が変わったりするのです。木が生まれ育った環境がその変化に影響を与えたりもします。自然の木は、それが製材された後でもまだ生きているのです。そして一本一本異なった個性を持っています。だから、大工は一本一本の個性を見極めながら家を建てていたのです。それが出来ないと、建てたときにはしっかりとしていても、年月と共に歪んできてしまうのです。逆に、それを理解していると、最初は少し歪んでいても、5年後、10年後にはぴたっと落ち着くように作ることも出来るわけです。現代の加工された材木は、その個性が消されてしまっているので、その「個性を見極める能力」がなくても、設計図通りに建てる能力さえあれば家を建てることが出来るのです。そこで求められるのは、職人ではなく、技術者です。昔の医者は職人的でした。そして、「目の前の人間」の心とからだと向き合って治療しました。ですから、一人一人のからだの個性に合わせて治療してくれました。それに対して、最近の医者は技術者です。そして、「目の前の人間」ではなく、数値やデータや知識で状態を判断し、薬を処方します。そのため、からだの個性などということは考慮しません。そもそも、自分の専門分野の部分しか見ないのですから、全体の総合的な判断など出来ないのです。そのため、昔の医者は治療をしてくれたのですが、最近の医者は診断し、数値を見て薬を処方するだけです。(外科は別ですが)医者なのに治療はしてくれないのです。そのため、「3分診療」という言葉があるように、ますます患者のことを見なくなってきているようです。明治になって、欧米からポンポン蒸気船のエンジンが運ばれてきて展示されたそうです。日本の職人は、その外側しか見ることしか出来ないエンジンをよく観察して、全く同じものを作ってしまったそうです。外形だけでなく、ちゃんと内部まで模倣してしまったのです。外側を見るだけで内側の状態が分かる能力があったのです。でも現代人は、そのような「人間の生命の働きと繋がった能力」を信じていません。そして、見ることも、聞くことも、感じることも機械に任せています。機械にデータ化してもらってから、判断するのです。「歌」は機械に聞かせるためのものではないのに、カラオケでは機械に採点してもらっています。自分自身の感覚を使って感じることを楽しまずに、採点の点数を競い合って競技化しています。そして、子育てには昔の人の「職人の技術」が必要なんです。それは、自分の目で見て、自分の感覚で感じる能力です。子どもは一人一人違うし、また、刻一刻と違った状態に変化しているので、その状態を感じ取る能力がないと対応できないのです。でも、現代のお母さん達は、「職人」ではなく「技術者」になろうとしています。そして、数値や、データや、知識によって我が子の状態を判断しようとしています。マニュアル的な技術を学ぶことには熱心ですが、自分の感覚を高めるための努力はしません。だから「目の前の子ども」に対応できないのです。そしてまただから、「自分」にも対応できないのです。****************今日は「雨」を楽しむきっかけになりそうな絵本を探してみました。雨、あめ (児童図書館・絵本の部屋) [ ピーター・スピアー ]かたつむりののんちゃん (かわいいむしのえほん) [ 高家博成 ]あめぽぽぽ (はじめてであうえほんシリーズ) [ 東直子 ]雨の日のふたり しんくんとのんちゃん [ とりごえまり ]
2017.08.04
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先日テレビに、珍しいお料理を注文したらまず写真を撮ってSNSにアップするという女性が出ていました。まあ、これは今では普通の女の子の普通の行動なのでしょう。温かいお料理が出てきても、冷えてしまうまで何回も写真を撮り直す人もいるみたいで、有名ラーメン屋の店長が怒っているという記事も読んだことがあります。最近では、このようなSNSに写真や動画をアップするという行為は、女性だけでなく、男性も普通にやっている行為のようです。それで「いいね」をいっぱい押してもらえると、「みんなと繋がっている」という実感を得ることが出来るそうです。今時の若者達にとって「繋がる」とは、他人から承認されたり肯定されたりすることのようです。子どもの頃から、こういうつながり方の体験しかないのでしょう。お母さんに承認されたり、お母さんに肯定されたりする時だけ、「お母さんと繋がっている」と感じていたのかも知れません。「共に」という体験が消えてしまった現代人の生活では、他に「つながり」を体験する方法がないのかも知れません。お母さんの方もまた、子どもが「いい子」でいる時には「繋がっている」と感じ、「困った子」の時には「繋がっていない」と感じるのでしょう。それは、「子どもが言うことを聞いてくれるとき」は繋がっていて、「言うことを聞かないとき」は繋がっていないということです。でもそれは「インフラとしてのつながり」の確認に過ぎません。「111」という番号に電話すると、回線が繋がっているかどうかを確認することが出来ます。それと同じレベルです。「約束よ!!、分かった?」と聞いて「分かった」と答えてくれるときには繋がっていて、無視する時には繋がっていないということです。でも、この「繋がり」には中味がありません。とにかく、「聞こえてる?」「聞こえてるよ」というやりとりだけなんですから。(状況によっては、これだけのやりとりでも、大きな安心につながりますけど、これだけの繋がりでは「一緒に」が出来ません。)SNSの「いいね」も同じです。「見てる?」「見たよ」というだけの確認です。実際にそこにあるのは「部分的な情報の共有」だけです。そこで「繋がり」を感じたとしてもそれは「錯覚」です。「情報を共有している」ということと、「繋がっている」ということは、本来は全く別のことだからです。でも現代人は、「見てる?」と問いかけて、「見たよ」と答えてくれるだけで、「繋がっている」と感じるのです。でも、中味がなくても、現代の若者にとっては大切な繋がりなんでしょう。というか、そういう繋がり方しか知らないのかも知れません。子どもは何かにチャレンジするとき、よく「お母さん見てて」と言います。子どもとしては、それは「自分の気持ちに共感して欲しい」、「自分の喜びを共有して欲しい」ということなんですが、多くのお母さんがただ「見ているだけ」です。そして、とりあえず「すごいね」「頑張ったね」「いいね」と言います。でも、本当に子どもの気持ちに共感して「すごいね」「頑張ったね」「いいね」と言っているお母さんは多くないと思います。SNSでの「いいね」と同じ軽い気持ちで言っているのではありませんか。でも、子どもはそれでもその「いいね」を喜びます。お母さんが自分の努力を承認してくれたからです。でもそれは、自分が何か出来るようになった喜びではありません。私が皆さんにお伝えしようとしている「繋がる」には、双方向のやりとりがあり、しかも相手と自分が対等である必要があります。それは「握手」に似ているかも知れません。「握手」では、相手も自分の意思で手を出し、自分も自分の意思で手を出し、真ん中で握り合いますよね。握手の場においては双方は対等なんです。無理矢理相手の手をつかんでも、手をつないだ状態でガムテープで固定しても、「握手」ではありませんよね。相手の気持ちと、自分の気持ちが、繋がった手を通して交流するのです。そこには上下もなければ、一方通行という状態もありません。それが、私が考えている「繋がっている」という状態なんですが、現代人は、差し出した手を握り返えしてもらえなくても、「いいね」をクリックしてくれるだけで「つながった」と感じてしまうのです。両者が対等な状態にいないのです。それはそれで、それが現代人の人間関係なんですから、大人同士はそれでも困りません。でも、「いいね」だけでは子どもは育たないのです。子どもが差し出した手はちゃんと握り返してあげる必要があるのです。「いいね」だけでは子どもは不安になってしまうのです。それは、「お母さんの愛」と「自分という存在」を確認出来ない不安です。手を握り合うことで、双方向の感情の交流が出来ます。それは自分という存在を確認することが出来る体験でもあります。でも、そういう繋がりを得ることが出来ない状況の中では、子どもは「いいね」だけで満足するしかないのでしょう。****************今日は「森」というテーマで絵本を探してみました。もりのえほん新版 [ 安野光雅 ]【送料無料】 森が海をつくる ジェイクのメッセージ / 葉祥明 【絵本】もりのかくれんぼう [ 末吉暁子 ]森のなかへ (児童図書館・絵本の部屋) [ アンソニ・ブラウン ]
2017.08.03
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30年くらい前の話ですが、鳥山敏子(故人)のワークで、「触れる」ということをやったことがあります。二人組になって、「ただ触れる」「大好きな人だと思って触れる」「嫌いな人だと思って触れる」など、様々なパターンで触れてみて、触れられた感じの違いを味わってみるというワークでした。すると、見かけ的には大きな違いはないのにも関わらず、触れられたときの感覚が違ってくるのです。人のからだはそれがリアルな状況ではなくても、イメージに応じてそれに近い状態に変化するので、その変化が、腕や掌や皮膚を通して伝わっていくのです。そして、「大好きな人」だと思って触れられているときには、触れられている人のからだは緩みます。触れている腕を通して、触れている人のからだと触れられている人のからだが共鳴するからです。逆に、「大嫌いな人」だと思って触れていると、触れられている人のからだは緊張してきます。触れている人の「嫌いな人に触れているという緊張」が伝わるからです。その変化は、触れることで繋がっている二人にしか分からない変化です。誰かと電話している時、電話回線自体には何の変化もないのに、一方が優しいことを言えば相手は微笑み、厳しいことを言えば相手はこわばりますよね。そういうことです。その「つながり」は「(インフラとしての)回線のつながり」とは別の「つながり」です。武術では、このような反応を技としても使っています。昔、太極拳を学んでいたとき、先生に「相手を大好きな人だと思って技をかけなさい」と言われました。「この野郎」という意識で力尽くで技をかけると、力と力の勝負になってしまいます。でも、「大好き」という意識で力を抜いて相手に触れ、力ではなく、動きと重力で技をかけると、相手も力が抜けているので、抗しにくいのです。皆さんは、「暖簾(のれん)」を押すときに、力を入れたりはしませんよね。「暖簾に腕押し」という諺通り、暖簾を押すのに力はいらないのです。また、力を入れようと思っても、力の入れようがないですよね。相手がフニャフニャして柔らかいと、力を入れようとしても力が入らないのです。でも、瞬間的にでも、「この野郎」とからだを固めると、相手もからだを固めて対抗してきます。(ただし、力を使わないからといって、「力がなくてもいい」、「筋肉がなくてもいい」ということではありません。力がない人ほど簡単に力んでしまうものです。)そして実は、このようなことはからだの接触だけで起きるのではなく、声やまなざしの接触でも起きるのです。ストレスが溜まっている人のからだはパンパンに緊張しています。そのストレスによる緊張は声にも入っています。どんなに優しい声を作っても、からだが緊張していたら、その緊張は声の中に入ってしまうのです。声はからだが作っているので、からだの状態に反するような声は出すことが出来ないのです。「声」を使う嘘発見器があるくらいなんですから。そのため、「文字」で書けば同じ言葉でも、「声」にすると相手が受け取る意味が全く違ってしまったりするのです。優しい心と柔らかいからだで「バカ」と言われれば、相手のからだも緩みます。でも、固い心と固いからだで「バカ」と言われたら、ムカッとして固まります。文字を読むように「好き」と言われても、心もからだも反応しませんが、心から「好き」と言われたら、心もからだも緩むのです。メールなどの文字では「意味」しか伝達できませんが、「声」では、心やからだの生の状態まで伝達できるのです。「文字」は嘘を書けますが、「声」は嘘をつけないのです。そして、「つながりを大切にする」は、そういう「響き合いによるつながり」を大切にすると言うことなんです。みなさんは、お子さんやパートナーとそのようなつながりが出来ていますか。回線だけは繋がっていても、会話のない電話のようになっていませんか。よく、「子育てではスキンシップが大切です」と言われますが、ただ抱けばいいってものではありません。どういう気持ちで抱くのかが重要なんです。子どもの「声にならない声」を聞き取るような気持ちで抱いてみて下さい。きっと、ただ抱くのとは違った何かを感じることが出来ると思います。そして子どももその変化を感じます。「義務」として抱けば、それも子どもは感じます。そして寂しくなります。スマホなどの「便利な機械」はそういうつながりをどんどん破壊してしまっています。「だからスマホをやめよう」ではなく、「だから意識してそういうつながりを大切にしよう」ということです。現代社会では、積極的に意識して工夫しないことには、「人間らしいつながり」を維持できなくなってしまっているのです。でもみんな、受話器を手にしたまま何を話したらいいのかが分からない状態になってきてしまっています。だからリアルタイムの「生」が怖いのです。***********************草花遊び図鑑/小林正明/小林茉由【1000円以上送料無料】作ろう草玩具 身近な草や木の葉でできる [ 佐藤邦昭 ]自然・植物あそび一年中 毎日の保育で豊かな自然体験! (Gakken保育books) [ 出原大 ]親子で楽しむしぜんあそび図鑑 (チャイルドブックこども百科) [ やまもとかつひこ ]
2017.08.02
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今日は「つながる」とはどういうことなのかを考えて見ます。「つながる」には二通りの形があると思います。先日、「全ての存在はお互いにつながり合っている」というようなことを書きました。それは、池に小石を投げ込めば宇宙の全ての存在が反応するのです。あなたが、ポンと手を叩くだけで、地球も宇宙も振動するのです。そのつながりが私たちの存在を支えています。というようなことです。 この「つながり」は私たちのからだにもあります。指を一本動かすだけで、からだ全体が動くのです。でも、ほとんどの人にその実感はありません。なぜなら、ほとんどの人が、無意識的にからだを固めて、指の動きがからだ全体に伝わることを阻止しているからです。指を動かしても手首が固まっていたら、その動きは肩まで届きません。手首や腕が動いても、肩が固まっていたら、その動きは胴体まで届きません。じゃあ、「指先の動きはからだ全体に伝わらないのか」というと、そういうことではありません。指からの動きに抵抗してからだを固めることで、内側の動きは止まりますが、今度は、固められた骨格を通してからだ全体に伝わっていくからです。からだが緩んでいる人の指を動かすと、その動きはその人のからだの中を通っていくのですが、からだを固めている人の場合は、指の動きが直接からからだ全体に作用してしまうのです。石像はどの部分を押しても、全体が反応しますよね。そういう状態です。その時、形が変わるわけではないので、相手の動きは伝わっていないように見えますが、そう思っているのは本人だけです。なぜなら、人間は「部分の動き」は簡単に知覚出来るのに対して、「全体の動き」や、「固める動き」を知覚することは困難だからです。実際、「指の動き」は知覚出来ても、「肩や肩甲骨の動き」は知覚しにくいですよね。「腕の動き」や「足の動き」は知覚出来ても、歩いているときのからだ全体の動きを知覚することは困難ですよね。また、気付かないうちに肩が凝ったり、からだが固まってしまったりしますよね。(ただし、トレーニングすれば知覚出来るようになります。)このように実際にはからだも宇宙も全てがつながっているのですが、今日書きたいことはその「つながり」ではありません。上に書いたのは、「インフラとしてのつながり」ですが、人間としての成長に必要なのは、その「インフラを使ったつながり」だからです。「インフラとしてのつながり」は本人の意思や意識とは無関係につながっています。それは、電話を買ってどこかと契約すれば、自動的に世界中の電話とお話が出来るつながり(基盤)を手に入れることが出来るのと同じです。でも、電話を持っていても、実際に誰かに電話をかけてお話をしないことには、「人間としてのつながり」は生まれませんよね。私が言いたいのはそっちの方の「つながり」です。あなたが子どもと手をつなげば、「インフラとしてのつながり」はセットされたことになります。でも問題は、その「つないだ手」で、子どもとどのような感覚的な交流を行うのかということです。「ただ繋がっているだけなのか、お互いに相手の手の感触や温もりを感じ合っているのか」ということです。指はからだ全体と繋がっていますが、「そのつながりを通して指とからだが対話できているのか」ということです。家族は一つ屋根の下で暮らしています。食べ物を通しても、お金を通しても、家を通しても、家族は一つに繋がっています。でも、家族一人一人の間に「双方向のやりとり」がなければ、それはインフラとしてのつながりに過ぎません。「人を育てるつながり」ではないということです。インフラ整備のための必要最低限のやりとりしかないのであれば、少なくともそれは「人間らしいつながり」とはいえないのです。*******************今日はちょっと「山登り関係」をご紹介します。うちの今年の夏休みは、家内と「鳳凰三山」に登って来ます。一番楽なコースですけど。4歳からはじめる親子トレッキング [ 関良一 ]子どもと楽しむ山歩き [ 上田泰正 ]赤ちゃんから始めました親子登山 自然に親しむ子育てプラン [ 新井和也 ]
2017.08.01
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