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禅に「随処作主」(ずいしょさくしゅ)という言葉があります。この言葉は、臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して語った言葉だとされています。意味は、「今日の禅語」というサイトには以下のように書かれていました。 いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を把握出来、いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。 法句経の「おのれこそおのれ自身の主(あるじ)である。おのれこそ自身の拠りどころである。おのれがよく制御されたならば、人は得がたき主を得る」と云う言葉にも通じることであるが、その主となっての自在の働きが万縁万境の中で生き生きとして輝いてこそ立処真なりといえることなのだ。簡単に言うと、「自分の人生の主人公は自分自身なんですよ。だからいつも主人公としての自覚を持って生きなさい」ということです。それはまた、「自分らしさを大切に生きなさい」ということでもあります。「自分らしさ」を大切に生きたからといって、競争に勝つわけでも、成績が良くなるわけでも、お金持ちになるわけでも、勝ち組になるわけでもないかも知れませんが、少なくとも、「後悔しない人生」や「生まれてきて良かったと思える人生」は送れると思います。どちらを選ぶかは「あなた次第」です。
2017.12.31
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一般的な意味での「つくる」は、「それまでなかったものを作る(創る)」ということです。「椅子を作る」、「文章を作る」、「踊りを作る」などみんなそうです。それ以外にも、「河原で拾ってきた小石をペーパーウエイトにして使う」とか、「海で拾った流木を玄関に飾る」などというような「つくる」もあります。これらの行為では「価値」や「意味」を創っています。また、何にも「新しいもの」は創っていませんが、「発想の現実化」という点では立派な創造です。でも実は、これらの「つくる」とは全く質的に異なった、もう一つ別の「つくる」があるのです。それは「心を込めて行う」という行為による創造です。実は、心を込めて丁寧に行う行為は全て「創造」になるのです。ただ、最初に書いた「つくる」は、他の人から見ても「つくったもの」が分かりますが、この場合の「つくる」は、本人や分かる人には分かりますが、分からない人には分かりません。見かけ上の変化は何もないからです。そしてこの「つくる」は人間にしか出来ません。人間以外の生き物には「心を込めて行う」という事自体が不可能だからです。心を込めて丁寧に歩けば、歩く事そのものが創造になります。心を込めて丁寧に呼吸すれば、呼吸する事それ自体が創造になります。心を込めて丁寧に生きれば、生きる事それ自体が創造になります。丁寧に見たり、丁寧に聞くだけでも創造になります。丁寧に見ようとするだけで、それまで見えなかったものが見えるようになります。丁寧に聞こうとするだけで、それまで聞くことが出来なかった事を聞くことが出来ます。それもまた創造です。心を込めて丁寧に話せば、話す事そのものが創造になります。これは話す内容の問題ではありません。このことを理解するためには、落語や朗読の事を考えていただければ分かると思います。落語家が話す「話」は落語家自身がつくったものではありません。落語家はもうすでに出来上がっている話を繰り返して話しているだけです。この時落語家は、「話」自体を創っているのではなく、「話す」という行為を創っているのです。聞き手は、その「話す」という行為の中で創られたものに引き込まれるのです。「茶道」も同じです。「ただお茶を飲むだけなのになんであんな面倒くさい、形式張った事をするのか分からない」という人も多いですが、茶道も、一つ一つの動きの中に心を込める事で「何か」を創っているのです。人はその「何か」に惹かれるのです。茶道ではそれが美しさになります。これらは、一見不自由に見える事の中に自由を創り出す行為です。人間は、能動的に取り組む事で自由を創造する事が出来るのです。そしてこれは、勉強でも、仕事でも、お母さん達の家事や子育てでも同じです。「毎日やる事が決まっていて自由がない」と嘆いているお母さんは多いですが、一つ一つの事に心を込めていないから自由がないのです。家事でも子育てでも、能動的に、心を込めて、丁寧に行おうとすれば、「やるべきこと」に振り回されなくなるので、心が自由になるのです。また、家事や子育てから多くの事を学ぶことも出来ます。それもまた「創る」ということなんです。逃げようとしたり、嫌々やっていたりして、前向きに取り組もうとしないから、何も学べないし、苦しいし、不自由になってしまうのです。この両者は、一見同じ事をしているのですが、子どもはその違いを敏感に感じ取ります。そして、全く異なった影響を受けます。それは、暗記した話を話しているだけの落語家と、話すということを創造しながら話している落語家の違いが明確なのと同じです。文字に書いてしまえば同じ事を言っているのですが、人に与える影響が全く違うのです。
2017.12.30
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人間の、人間らしい心や、からだや、感覚に属する様々な能力は、「作る(創る)」という行為の中で、進化し、成長して来ました。(以下、「作る(創る)」を「つくる」とひらがな表記します。)それは、道具を作る、家を作る、村を作る、社会を作る、歌を作る、踊りを作る、お料理を作る、洋服を作る、文章を作る、詩や物語りを作る、哲学や宗教を創る、遊びを作る、オモチャを作る、絵を描く、夢を実現するなどの行為です。「育てる」という行為も、「作る」という行為と繋がっています。「野菜を育てる」ことを「野菜を作る」とも言いますから。でも、現代人はその「つくる」という行為から遠ざかってしまっています。皆さんは、生活の中で何か作っているものがありますか。ちなみに、ただレシピ通りに作るだけ、マニュアル通りに作るだけなら、それはロボットにでも出来る「機械的作業」であって、私が言っているところの「つくる」という行為とはちょっと異なるものです。私が言っている「つくる」というのは、「自分の頭で考えたり、イメージしたものに、自分の感覚や、心や、からだを使って形を与える行為」のことです。現代人は仕事をしてお金を稼いで、他の誰かが作ったものを買って生活しています。子どもは仕事ではなく、お勉強さえちゃんとやっていれば、生活や遊びに必要なものはお父さんやお母さんが与えてくれます。でも、子どもには「何かを作りたい(創りたい)」という本能があります。「つくる」という行為で「自分」という存在を確認したいからです。イタズラやイジメも、子どもの「つくる」行為です。イタズラやイジメをするときには自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分のからだで行為をしますでしょ。それは肯定的な意味での「つくる」ではありませんが、「つくる」行為と同じように、自分の存在を確認することが出来る行為でもあるのです。また、ゲームの中でその欲求を満たしている子も多いです。「いかに高い点数をとるか」と工夫するのも「つくる」です。もっと直接的に、家や村を作るゲームもあります。ゲームの中で仲間作りもします。ただ問題は、「ゲームの中で作った(創った)体験」は現実の世界の中ではほとんど役に立たないと言うことです。また、ゲームの中で作ったものは、現実の世界のどこにも存在していません。ゲームの中でも「つくりたい」という欲求自体は満たされますが、昔の人達が「つくる」という行為を通して学んできたことを学ぶ役には立っていないのです。でも、本人はいっぱい学んだ気になっています。いっぱい知っている気になっています。いっぱい出来る気になっています。だから問題なんです。ゲームには子どもの成長欲求を満たす働きがあるのです。だから子どもは夢中になるのですが、でも、成長欲求を満たすだけで実際の成長は与えてはくれないのです。そこには幻想があるだけです。そのような子が現実の世界の中で何かしようとすると、ゲームの中とは勝手が違うので戸惑います。ゲームの中で殴られても点数が下がるだけで痛みはありませんが、現実の世界の中で殴られたら点数は下がりませんが痛いです。そして、ゲームの外の世界では自分は無力であることを知ります。だから、またゲームの世界の中に戻っていきます。
2017.12.29
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オモチャでも遊びでも、子どもたちには「もらう楽しさ」ではなく「作る楽しさ」を伝えて下さい。「もらう楽しさ」をいくらいっぱい与えても子どもの成長には繋がりませんが、「作る楽しさ」を知った子は、能動的に学び、能動的に考え、能動的に行動するようになるからです。人類は「作る(創る)楽しさ」に目覚めたからこそ、知性も育ち、文化や文明を生み出すことが出来たのです。そして、「自分らしさ」ということも、「作る」という行為の中で生まれてきました。それが「文化」と呼ばれるものになりました。与えてもらうだけの生活をしている人は「自分らしさ」に目覚めることがないのです。「自分」と出会うことが出来ないからです。サルや、カラスも道具を作ったりします。他にも道具を作る動物はいっぱいいます。でも、彼らは必要に応じて作っているだけで、作ること自体を楽しんでいるわけではありません。だから、同じものを同じように作ることしかしないし、必要がないものまで作ろうとはしません。人間だけがなぜか「作ることそれ自体を楽しむ能力」を手に入れたのです。そして、その能力によって、人間は餌を手に入れ、厳しい環境でも生き延び、生活を楽しむことが出来るようになったのです。その典型的な活動が「芸術」と呼ばれるものです。「芸術」は生活には何の役にも立ちません。ただただ、「作る(創る・表現する)ことを楽しむ」という行為だけで成り立っています。考えたり、作ったりする動物はいっぱいいますが、芸術的な行為を楽しむことが出来る動物は人間しかいないのです。その背景には、「物語」を感じる感性の目覚めがあります。これは私の推測ですが、人間は「物語を感じる能力」を手に入れたから、「作る楽しさ」にも目覚めたのではないかと思っています。何かを作ることが好きな人は、自分の行為を通して「物」を作っているのではなく「物語」を創っているのです。そしてそれが「感じる力」や「考える力」を育ててくれるのです。以下は、縄文時代の「火炎土器」と呼ばれる土器です。使いにくそうですよね。実用的ではありませんよね。でも、「物語」を感じませんか。作った人の感覚や、思考や、祈りを感じませんか。縄文時代の人達はこのような行為を通して、「何か」と一体になろうとしていたのでしょう。
2017.12.28
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本来「オモチャ」というものは、子どもたち自身が、遊びの必要性に応じて、自分たちで発見したり、作ったりするものでした。「遊び」も同じでした。子どもは成長し、変化します。だからそれに合わせて遊びやオモチャも成長し、進化する必要があったのです。そして、新しい遊びやオモチャを作ったり、そのようなもので遊んだりする過程で更に成長が促されました。そんな子どもたちは、身近にある布や、いらなくなった食器や、ガラクタを使って色々工夫して遊んだり、自然の木々や草木を使ってオモチャを作ったりして遊んでいました。今でこそ「オモチャ作家」という職業の人がいますが、昔は子どもたち自身が「オモチャ作家」であり、「遊び研究家」だったわけです。だからこそ、自分の成長に応じた「遊び」や「オモチャ」を手に入れることが出来たのです。「物も遊びも買うものであって作るものではない」という現代社会にどっぷり浸って生きている人には分からないかも知れませんが、「自分の頭で工夫し、自分の手足やからだを使って作るという行為」には人を成長させる力があるのです。これは大人でも同じです。また、そういう創造的な行為を楽しむことが出来るような人は、仕事も、子育ても、人生も楽しむことが出来るものです。でも、今では「オモチャ」も「遊び」も、大人から「与えられるもの」になってしまっています。そういう状況に慣れてしまっている子どもたちには「自分で作る」という発想がありません。教室に、私が作った竹とんぼや、モーターで動く自動車などがあると、みんな遊びます。そして、「ちょうだい」と言います。それで、「これは自分で作るための見本だからあげないよ。欲しかったら自分で作りな。」と言うのですが、簡単に「ちょうだい」と言ってくる子ほど「じゃあいらない」と言って作ろうとはしません。また、作らせようとしても「作る」という感覚自体が分からないので、見本が目の前にあっても「どうしたらいいの」と聞いてくるばかりで、先に進みません。以前、「椅子が作りたい」という子に、まず、椅子の構造を説明しようとしたら、「そんなことどうでもいいから、早く作り方を教えて」と言われました。「構造」を知ることが「作り方」を知ることになるのですが、そういうことも分からないのです。(子育ても同じです。「子どものことを知る」ことが「子育ての方法を知る」ことになるのです。でも、多くの人が「子ども」のことを知ろうとはせずに、「子育ての方法」ばかりを聞いてきます。)そして、「この木のどこを切ったらいいの」と聞いてきたので、木に線を引いてあげました。そして、「この部分とこの部分が前の足で、この部分とこの部分が後ろの足」と説明したのですが、その説明も聞いていません。時に、それで「ここを切るんだよ」と言うと、「え、ぼくが切るの!」と言ってくる子までいます。またみんな、一つ切るごとに、「先生終わった、次は何をするの」と聞いて来ます。構造を理解していないので、次どうしたらいいのか分からないのです。それで、「次はここを切るんだよ」と教え、それが終わるとまた同じ事を教えます。こんな風に作っているので、「もう一つ作りたい」という場合でも、全く自分では作れないのです。言われたとおりに作っているだけなので、今作ったばかりなのにどう作ったのかを覚えていないのです。そのため、前回の経験が全く役に立たないのです。(ただし、私は二度目の子には教えません。すると、〝いじわる〟と言われます。だから私は、〝そうだよ、私は意地悪おじさんだよ〟と言い返します。)ただし、これは個人差が大きいです。作るのが好きな子や、いつもからだを使って遊んでいるような子は、比較的自分の頭で考え、理解しようとします。ですから、一度やったことは比較的覚えています。でも、ゲームでばかり遊んでいるような子ほど、受け身的で、いつまでも同じ状態のままです。創造するということも、工夫するということも、工夫する喜びも知らないのです。そのくせ、上手に出来ないと「いらない」と言ったり、「自分で作らないで買った方が良かった」などと言ったりします。**************かこさとし 子どもと遊び、子どもに学ぶ (日本のこころ) [ 別冊太陽編集部 ]価格:2484円(税込、送料無料) (2017/12/27時点)しらないふしぎなあそび (かこさとし あそびの本) [ 加古里子 ]価格:1728円(税込、送料無料) (2017/12/27時点)ここで紹介しているのはこの時期に関係のある冬と春の遊びだけですが、夏と秋のもあります。かこさとしあそびずかん(ふゆのまき) [ 加古里子 ]価格:1620円(税込、送料無料) (2017/12/27時点)はるのまき [ かこさとし ]価格:1620円(税込、送料無料) (2017/12/27時点)
2017.12.27
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人間は、勉強でも、仕事でも、遊びでも、家事でも、子育てでも、生きるということでも、それがどんなことであろうと、主体的に取り組めばそこから多くを学び成長することが出来ます。そして、成長が伴えば、それは「喜び」になります。人は自分自身の成長を喜ぶ唯一の生き物だからです。でも、主体的に取り組んでいないのなら、どんなに高度な学びをしても、どんな素敵な体験をしても、何も学べないし、成長することも出来ません。「喜び」も生まれません。それが「娯楽」のようなものなら楽しいかも知れませんが楽しいだけで成長はありません。そして、楽しいだけで成長がない行為は依存を生み出します。お勉強や、仕事や、家事や、子育てのように、結果が求められる場合は苦痛しか生まれません。古来から、子どもにとって「遊び」は子どもが主体的に行う行為でした。子どもが「遊びの主人公」でした。「こう遊べ」という大人の指示命令もありませんでした。子どもたちは主体的に自分たちで工夫し、行動し、助け合って遊んでいたのです。だから楽しかったし、だから遊びを通して成長することも出来たのです。でも、最近では、子どもの遊びまで大人が管理しています。大人が作った公園や、遊戯施設や、オモチャや、ゲームで、大人が作った規則に従って遊んでいます。当然、危ないことや、大人の価値観に合わないことや、とんでもないことや、カエルの解剖のような残酷な遊びは出来ません。「遊び」や「オモチャ」が、「子ども自身が発見したり創り出すもの」ではなく、「大人に与えてもらうもの」になってしまったのです。しかもその大人達は、子どもの成長を考え、子どもの成長を支える目的でオモチャや遊戯施設を作っているわけではありません。あくまでも商売です。そこを忘れてはいけません。(テレビも同じです。とにかく商売なんですから、自分たちの不利益になるような情報は決して流さないのです。そのことは知っていた方がいいと思います。)商売ですから、とにかく子どもの欲望を刺激し、子どもの目を引くようなオモチャやアトラクションを考えます。また、知育玩具のような、大人の欲や不安を刺激するようなオモチャも作ります。そのようなオモチャは刺激が強いが故に子どもはすぐに飛びつくのですが、子ども自身の成長には繋がらないのですぐに飽きてしまいます。そして子どもたちはまた、新しい刺激を求めます。それはオモチャ会社にとっては都合がいいことです。また、大人が作るオモチャは「使い方」が決まっているので、子どもたちはオモチャに合わせて遊ばなければなりません。レゴは自由度が高いですが、だからといって、接着剤でくっつけたり、トンカチで叩いたり、ナイフで削ったり、色を塗ったりすることは出来ません。何を作るかは自由ですが、必ず元の状態に戻すことが出来るような遊び方しか許されていないのです。ですから、一見自由なように見えますが、本当の自由ではないのです。それに対して、水や、泥んこや、葉っぱや、木の実や、枝や、風や、草花や、ガラクタや、段ボールといったような「何でもないもの」は、子どもの想像力に合わせて、その姿や、意味や、働きを変えてくれます。五感にも働きかけてくれます。同じ段ボール箱が、「おうち」になったり、「電車」になったり、「お風呂」になったりします。切ったり、貼ったり、つなげたり、色を塗ったりも自由です。だから子どもたちは主体的に遊ぶことが出来るのです。でも、電車のおもちゃは「おうち」にも「お風呂」にもなりません。電車のオモチャで遊ぶときには、子どもが電車のオモチャに合わせるしかないのです。それは心が自由に広がって行く働きを阻害するのです。
2017.12.26
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クリスマスお目出度うございます。今日はクリスマスにちなんでということではありませんが、「オモチャ」について書いてみます。私が子どもの頃(昭和20~30年代)は、「オモチャ」というものはあまりありませんでした。あるにはあったのですが、量も種類も今とは比べものになりません。また、質も全く異なっていました。当然のことながら、コンピューターで動くようなオモチャなどありませんでした。電池で動いたり音を出すようなオモチャもありませんでした。自動車でも、電車でも、ロボットでも、動くオモチャはゼンマイ仕掛けでした。当然、電子音は出てきません。でも、一人でそういうオモチャだけで遊んでいた子は少なかったのではないかと思います。「子どもがオモチャを相手に一人だけで遊ぶ」という文化自体がなかったからです。また、「遊び」は仲間と共有出来ますが、「オモチャ」は共有出来ないので、群れて遊ぶことが好きな子には必要がなかったのです。私も、昼間は外で遊び、雨の日も家の中で折り紙をしたり、本を読んだり、お母さんの手伝いをしたりして過ごしていたような気がします。コンセントにつないで電気で走る電車は持っていましたが、他のオモチャで遊んだ記憶は全くありません。それ以外のオモチャの記憶もありません。我が家では、みんなと遊ぶときは、トランプや、カルタや、将棋や、麻雀をしていました。ところが高度経済成長が始まると共に、町の中から子どもの群れが消えました。生活は豊かになったのですが、子どもは一緒に遊ぶ仲間も、時間も、空間も失いました。外で遊ぶ子が減り、家の中で遊ぶ子が増えました。それと同時に、子どもが退屈をしないように高機能で刺激的なオモチャがどんどん開発されました。オモチャだけでなく、子どもをターゲットにした商品がどんどん増えました。「一緒に遊ぶオモチャ」ではなく、「一人でも遊ぶことが出来るオモチャ」や「一人でないと遊ぶことが出来ないオモチャ」が増えました。その典型がゲームです。(画面を共有して一緒に遊んでいるように見えても、競争しているだけなら、一人遊びと同じです。)「オモチャで遊ぶ」というよりも「オモチャに遊んでもらう」という状況も増えてきました。主客が逆転してしまったのです。そして、「オモチャがないと遊ぶことが出来ない子」が増えてきました。「オモチャ」に遊んでもらうことに慣れてしまった子は、「オモチャ」がないと遊ぶことが出来ないのです。それが今の子どもたちです。その「オモチャがないと遊ぶことが出来ない子」は、同時に「仲間と群れて遊ぶことが出来ない子」でもあります。「オモチャという物に依存した遊び」と、「仲間とつながり合って遊ぶ遊び」とでは、遊びの原理が全く異なっているからです。「オモチャでの一人遊び」(ゲームも)は、「マイ・ワールド」(自分だけの世界)の中の遊びです。そのため、「オモチャでの一人遊び」が好きな子は「マイ・ワールド」にこだわる傾向があります。でも、「仲間とつながり合って遊ぶ遊び」に必要なのは「アワ・ワールド」です。「マイ・ワールド」にばかりこだわり、「アワ・ワールド」を作る楽しさを知っていない子は、「仲間とつながり合って遊ぶ遊び」を楽しむことが出来ないのです。そして、これは子育ての難しさにも繋がってきます。子どもが生まれてお母さんが一緒に遊んであげていると、子どもは「一緒に遊ぶ楽しさ」を知ります。ですから、下の子が生まれたときにも、下の子と一緒に遊ぼうとします。すると、それまではお母さんが相手していましたが、「兄弟」という遊び仲間が出来ることで次第にお母さんにはまとわりつかなくなります。でも、上の子が一人でオモチャで遊ぶことに慣れてしまっていると、下の子が生まれると非常に困った状態が発生します。下の子はお兄ちゃんやお姉ちゃんと遊びたがるので、上の子に寄っていきます。オモチャにも手を出します。でも、一人で遊ぶことに慣れてしまっている上の子にとっては、それは非常に迷惑な行為です。それで下の子を排除しようとします。時には泣かせます。お母さんは「一緒に仲良く遊びなさい」と言いますが、「一緒に仲良く遊びや楽しさ」をお母さんに教えてもらっていない子に、そんなこと出来るわけがないのです。結果として、兄弟が「仲間」ではなく「ライバル」になってしまいます。そして、お母さんの奪い合いを始めます。すると、子育てが行き詰まってしまいます。***************親子あそびのえほん [ 武本佳奈絵 ]価格:1728円(税込、送料無料) (2017/12/25時点)なにしてあそぶ? 福知さんちの親子あそび日記 [ 福知伸夫 ]価格:1080円(税込、送料無料) (2017/12/25時点)赤ちゃんのわらべうたあそび ふれあいたっぷり! (CD book) [ 久津摩英子 ]価格:1728円(税込、送料無料) (2017/12/25時点)
2017.12.25
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最初に、22日に書いた「人は、何かを得ることで何かを失うのです」という言葉の説明をします。これは「質」の話であって、「量」の話ではありません。数学の世界では「1+1」は2です。「2」から「1」を引けば、また元の「1」に戻ります。数学の世界は可逆的です。そしてこれが「量」の世界です。それに対して、現実の世界では、「1+1」は「2」になることも、「2」以上になることも、「0」になることも、「マイナス」になることもあります。どうしてそういうことが起きるのかというと、新しいものと出会うことで、新しいものが生まれ「質」が変化するからです。男性と女性が一人ずついたら、最初は二人でも何年後かには3人になったり4人になったりします。ザリガニをいっぱいバケツの中に入れておけば、何もしなくても毎日数が減っていきます。重曹にお酢を足すと、重曹もお酢も消えて、酢酸ナトリウムと大量の二酸化炭素と水になります。でも、これらの現象は不可逆的です。どうして不可逆的なのかというと「前」と「後」とでは「質」が変化してしまっているからです。「質」が変化するから、「1+1」が「2」以外のものにもなることが出来るのです。そしてこの「質の変化」は元には戻りません。「量の変化」は元に戻せても「質の変化」は元に戻せないのです。「黄色」に「青」を足したら「緑」になります。ここでは「1+1」は「1」のままです。その時、「黄色」も「青」も消えます。「黄色」は「青」を得ることで「黄色」を失うのです。「黄色」を失わないことには「青」を得ることが出来ないのです。人間は、知識を得ることで「新しい世界」に入ることが出来ます。でも、「新しい世界」に入ることで「それまでいた世界」を失うのです。私たちはその変化を「成長」とか「進歩」と肯定的に呼びますが、じゃあだからといって「古い世界」が間違っていたのか、未熟だったのか、不完全だったのかというとそれは違います。「黄色」が「青」を得て「緑」になっても、「黄色」や「青」より成長したわけでも進歩したわけでもありません。ただ、「別の色になった」というだけのことです。「子ども」と「大人」の違いも、「古代の人」と「現代の人」の違いもそのようなものです。その時、「緑」が元々の「黄色」の時のことを想い出すことが出来れば、新しく得た「青」に支配されなくなります。元の「黄色」と、今の「緑」と、新しく加わった「青」を分けて考えることも出来ます。そうすることで今の自分の状態を客観的に理解することが出来るようになるのです。私が言いたいのはこのようなことです。今日はクリスマスイブですね。教室の子に「クリスマスって何の日か知ってる?」と聞くと、「サンタクロースからプレゼントをもらう日」と答えます。でも、子どもたちはなぜ、何の利害関係もない見も知らずのサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるのかは知りません。疑問にも感じないようです。お父さんやお母さんは「良い子にしていないとサンタさんはプレゼントを持ってきてくれないよ」と言いますが、それはお父さんやお母さんには都合がいい話ですが、サンタさんには何の関係もない話です。それに、サンタさんが「子どもを良い子にするための道具」に過ぎないのなら、もっと直接的に、「お父さんとお母さんがプレゼントをあげるのだから、いい子にしていないとプレゼントあげないよ」と脅迫した方が効果的かも知れません。そして実際、その方法を取っている人も多いです。サンタクロースがやっているのは「無私の愛」です。「無条件の愛」です。「良い子にしていないと・・・」というような条件付きの愛ではありません。それは、「お父さんやお母さんに対する子どもからの愛」にも似ています。「良い子にしていない子」を愛せないお父さんやお母さんはいっぱいいます。でも、子どもの方は、叱られても、叩かれても、罵られても、どんな仕打ちを受けても、お父さんやお母さんを愛しています。大人になってしまい、条件付きでないと子どもを愛せなくなってしまった人でも、昔はそのような「無私の愛」や「無条件の愛」を持っていたのです。少なくとも、クリスマスの時だけは、そんな子どもの時の「愛」を想い出してみませんか。「サンタクロース」は、我が子に対する「無私の愛」や「無条件の愛」を届けてくれる代理人なんです。それと、クリスマスは「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」です。ですからお子さんと一緒に、お友達やお父さんにあげるプレゼントを考えて見ませんか。サンタさんにプレゼントをあげる子はいますが、他の人にあげたっていいのですよ。うちの子も、クリスマスの時にはよく友達へのプレゼントを作っていました。みんながプレゼントを渡し合えば、世界は幸せになります。でも、プレゼントを待っている人ばかりが増えたら奪い合いになります。クリスマスは神の子「イエス・キリスト」が生まれた日でもありますが、それは神様が大事な我が子を人間にプレゼントした日でもあります。人間が良い子にしていたからではありません。人間のことを愛していたからです。
2017.12.24
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今、人類に必要なのは、みんなが平和に、そして幸せに生きるための知識と、智恵と、技術と、哲学です。今の、日本や世界を動かしているのは「競争」原理です。それは、「文明」というものが、本質的に競争によって成り立っているからです。「文明」を発展させ続けるためには「競争」が必要なのです。そのため、教育も子育ても「競争に勝つ能力」を育てることが目的になってしまっています。でも、勝つか負けるかを競う競争には限界があります。これは例外がありません。戦争でも、経済競争でも、オセロや将棋でも、スポーツでも、勉強でも、受験競争でも、出世競争でも、子どもと子どもを競い合わせる競争でも、「競争」には必ず限界があるのです。だから、スポーツやゲームでは、競争の限界まで来たら「YOU WIN」とか「YOU LOUSE」という判定が下されるのですが、でも、その判定のシステムがない競争では、簡単にその限界を超えてしまいます。「競争」から降りることは負けを意味するからです。でも、限界を超えてまで競争してしまうと、どちらかが滅亡するか、共倒れになります。それが「競争」というものの宿命なんです。そして今、日本も世界も、その競争の限界まで来ています。盤の上が駒でいっぱいになってしまったオセロのように、この世界にはもう、競争を受け入れるだけの余裕がないのです。その限界を超えたら、過去の古代文明のように滅亡するのです。今までは、競争に勝てば幸せを手に入れることが出来ました。でも、限界まで来てしまった競争では、勝った者も苦しむことになるのです。「あしたのジョー」(知ってます?)のように「勝ちました、でも死にました」では意味がないのです。刀と刀の戦いなら勝ったものは生き延びますが、核と核を持った国同士が戦争をすれば、共倒れになるのです。人類がこれから先も幸せに生きていくために必要なのは、「競争原理」ではなく「共存原理」なんです。そのためにも、一人一人が「自分らしさ」を取り戻す必要があるのです。「競争」は「自分らしさの否定」の上に成り立っているからです。親のための自分ではなく、子どものための自分でもなく、学校や会社や国のための自分でもなく、「自分のための自分」を取り戻すのです。そして、お互いにお互いの「自分」を認め合い、受け入れ合うのです。それが「共存する」ということなんです。その先にしか「幸せ」は存在していないのです。
2017.12.23
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ここのところゲームの悪口のようなことを書いていますが、悪いのはゲームではありません。悪いのは、ゲームの特性を考えずに、無分別に、無思慮に、自分の都合だけで子どもにゲームを与えてしまう大人達です。世の中には子どもに与えるには危険でも、ナイフやお酒のように大人にとっては大切なものがいっぱいあります。また、使い方が正しければ危険ではなくても、使い方を誤ると危険なものもいっぱいあります。麻薬でも、石でも、傘でも、バットでも同じです。麻薬は普通の人が使うと犯罪ですが、医療の現場では大切な役割をしています。傘は正しく使えば便利なものですが、使い方を誤ると人を傷つけてしまいます。石でもバットでも、言葉でも同じです。エスカレーターやエレベーターも、体が弱い人が使うのならいいですが、からだが育ちつつある子どもたちは出来るだけ階段を使うべきです。お金も子どもに自由に使わせたら大変なことになります。お菓子が好きだからといって、食べたいだけ食べさせていたら、困った事になります。だから、私たちは考えなければいけないのです。「みんながやっているから」、「子どもが欲しがるから」という理由だけで与えてはいけないのです。ゲームは、人の特定の能力を育てるときには非常に効果的に働きます。自動車や飛行機の運転技術を身につけさせたり、様々な状況に対応しなければならない兵隊の訓練にも有効です。また、算数や、漢字や、歴史といったお勉強を学ばせるにも非常に効果的だと思います。使い方次第では、痴呆の人や、脳の機能やからだの機能が低下した人の機能を回復する力もあります。それは、事実です。でも、「特殊な能力」を育てるのには有効ですが、意識や、心や、知性や、からだの「汎用的で基礎的な能力」を育てるのには役に立ちません。また、ゲームで夢中になって遊んでいる子は、ゲームをやりながら、そのゲームから何かを学んでいます。だから、「特殊な能力」を育てることも出来るわけです。ここで問題になるのは「何を学んでいるのか」ということです。そして、ゲームばかりで遊んでいる子は「何を学ぶことが出来ないのか」ということです。人は、何かを得ることで何かを失うのです。子どもたちは何を得て、何を失っているのか。そういうことを考えずに、安易に子どもたちにゲームを与えるのは無責任です。でも人は、自分が得たものは知っていますが、失ったものは知りません。出会っていないのですから、何を失ったかも分からないのです。そのため、「子どもの育ちに対するゲームの害」のようなことを書くと、私もゲームばかりやって育ったけど、ちゃんと一人前に育った。ゲームの何が悪いんだ! 逆にゲームからいっぱい学んだぞ。と反論してくる人もいます。これは夫婦の間でも起きている会話です。ということを、以前そのような問題に悩んでいるお母さんに話したら、「子どもはあんたのようになって欲しくないからゲームを与えたくないんだ!」と思っているんだけど言えない。と言われた人がいました。山登りでも、いつも車やロープウェイで頂上まで行ってしまうような人に、一歩一歩登る素晴らしさを伝えることは出来ません。失ってしまった人に、その人が失ったものを伝えることは非常に困難なんです。子どもはゲームからどういう影響を受けているのか。それはこの年令の我が子に必要な影響なのか。我が子の成長を支えてくれる影響なのか。我が子に今必要な学びは何なのか。それはどうすれば子どもに与えることが出来るのか。そういうことを考えた上で、「ゲームが必要」と与えるのなら、それはそれで素敵なことだとお思います。でも、「みんなゲームで遊んでいるから」「子どもが欲しがるから」という理由だけでゲームを与えると、後で後悔します。子どもがゲーム漬けになって勉強しなくなっても、外に出なくなっても、お母さんの言うことを聞かなくなっても、親子の信頼関係が崩れても、それはゲームのせいではありません。何も考えずにゲームを与えたお母さんのせいです。
2017.12.22
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人間は、大きく分けて、「意識」と、「知性」と、「心」と、「からだ」という四つの要素の集合体です。(それらの中にも色々な要素がありますけど)ただ、この四つは密接に繋がっていて、分離出来ません。また、どれか一つだけに働きかけることも出来ません。「意識」に働きかければ、「知性」も、「心」も、「からだ」も反応します。これは「知性」に働きかけても、「心」に働きかけても、「からだ」に働きかけても同じです。そして、子どもの「人間としての成長」は、この四つがバランス良く育つことで実現します。ただし、これらの成長には順序があります。幼い子どもはまず、「からだ」から育ちます。「からだ」の育ちを通して、「心」や、「知性」や、「意識」を育てているのです。ちなみに、この「からだ」とは医学的な意味での「肉体」のことではありません。「自分の意識や、意思や、思考や、感覚や、行動とつながった、「自分としてのカラダ」です。幼い子どもたちは、自分で自分の指をなめたり、ハイハイしたり、色々なものをしゃぶったり、ぶつかったり、転がったり、登ったり、落ちたり、熱いものを触ったり、痛い思いをしながら、自分で自分の「からだ育て」をしています。そして同時に、そのような行為を通して、意識や、知性や、心や、からだが育っているのです。ですから、この時期の子どもに落ち着きがないのは当然で、また落ち着きがないことが必要なんです。お母さん達は「うちの子はジーッとしていることが出来ないんです。どうしたらいいのでしょうか?」と聞きに来ますが、逆に、幼い子どもをジーッとさせてはいけないのです。それは子どもの本能や、生理的な衝動の否定であって、虐待と同じ結果になってしまいます。次の段階として、「心」(感情)が育つことで、他の要素も育つようになります。これが大体3歳前後です。この時期になると、無秩序に、無意味に動き回ることをしなくなります。そして、嬉しいこと、楽しいことを求めて積極的に行動するようになります。「やりたいこと」と「やりたくないこと」もはっきりと分かれるようになります。お母さんや、お父さんや、お友達とも積極的に遊びたがるようになります。そして、繋がる喜び、共有する喜び、達成する喜びを求めます。自己肯定感もこの頃から育つのではないかと思います。ですから、この時期の子どもの育ちには、他者との関わりが必要になります。この時期に、ゲームや、スマホや、オモチャしか遊び相手がいないと、感情の育ちも、肯定的な感情の育ちも遅れてしまうと思います。人間の肯定的な感情は、他者との関わり合いの中でしか育たないからです。そして、感情の育ちが遅れると、コミュニケーション能力の育ちも遅れます。大人のコミュニケーションは「意味のやりとり」が中心ですが、子どものコミュニケーションは「感情のやりとり」が中心だからです。そもそも、「他者との関わり合い」がなければ、コミュニケーションの必要性自体が発生しません。この時期の子どもは、「感情の育ち」が、意識や、知性や、心や、からだの育ちを引っ張っているのです。5才頃からさらに、知的な好奇心が目覚め始めます。そして、好奇心によっても行動するようになります。知り合いの幼稚園では、毎年テーマを決めて子どもたちと遊んでいますが、アメリカのネイティブアメリカンの生活をテーマにしていたこともあります。乗り物がテーマの時もありました。そして、そのテーマに合わせて、色々なことを学んだり遊びを工夫したりするのです。このような遊びが可能になるのも、子どもたちの好奇心が目覚め始めるからです。知性の育ちが、子ども成長を導く段階に入るのです。善悪が分かり始めるのもこの頃からです。ただし、ここに書いたようなことは、段階的に進行するので、「からだの育ち」を飛ばして、「心の育ち」だけを何とかしようとしても無理です。「からだの育ち」や「心の育ち」を飛ばして「知性の育ち」だけを何とかしようとしても無理です。「知性の育ち」には「心の育ち」が必要で、「心の育ち」には「からだの育ち」が必要だからです。それに、「知性の育ち」が始まっても、「からだの育ち」や「心の育ち」も同時に進行する必要があるのです。そういうものがセットで進行するから、知性が子どもの成長の中にしっかりと固定するのです。これは大人になってからも同じで、知的な学びでも、心やからだに働きかけるようにして学ぶと、しっかりと吸収されるのです。そしてそれが「知性」になります。でも、「頭だけの学び」は知性とは繋がりません。そういうものは単なる「知識」として入っていくだけです。他者との関わり合いやからだでの活動を必要とせず、現実とは切り離された「閉鎖された世界」の中だけで遊ぶゲームでの遊びは、これらの育ち全てを台無しにしてしまいます。善悪の感覚も育ちません。善悪は人間同士の間でしか意味を持たないからです。ただし、からだや、心や、知性の基礎が出来上がっている9才以降なら、ゲームも「遊び」の一つとして取り入れても、それほど大きな障害にはならないと思います。確実に言えることは、7才前の子どもには与えない方がいいということです。7才から9才の間も本当は与えない方がいいのですが、状況に応じて、与え方を工夫しながら与えることは可能かも知れません。
2017.12.21
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ゲームを肯定する人達は、ゲームによって育つ能力や、技術を強調します。「ニコニコニュース」というサイトのゲームをやらせないのはもったいない!? 実は子どもの力になる「勉強との両立」のコツ「勉強との両立」のコツ」という記事にもそのようなことが書いてあります。ちょっと長いですが一部を引用します。ゲームは親が思っている以上に子供にとって良い効果がある?朝日小学生新聞社は、457人の小学1年~6年の男女とその親を対象に「家庭で遊ぶゲームについて」のアンケートを行いました。その結果、小学生の85.1%がゲーム好きであることが分かり、ゲーム機を持つ子どもの91.9%が家庭内においてゲームに対するルールを持っていることが分かったのです。そのルールとは「宿題や勉強を済ませてからゲームをする」や「ゲームの時間を決めてやっている」などであり、1日のゲーム平均時間は50.6分であることも分かりました。そして気になるゲームが子どもに良い効果があるという内容についてですが、ゲームOKの子はゲームNGの子よりも勉強時間が短い(OK82.3分、NG89.0分)ことが分かり、ゲームOKの子の方が効率的に勉強ができていることが分かります。そして、ゲームOKの子の方がNGの子よりも勉強に対する集中力が高い(OK81.1%、NG73.3%)ことが分かり、宿題や勉強もゲームOKの子はNGの子より計画的(OK70.5%、NG60.0&%)に行えることが分かりました。まだまだあります。ゲームOKの子はNGの子と比べ、以下の点で優れていることが分かりました。勉強を自主的にやる(OK75.9%、NG46.7%)社会性(ルールを守るなど)が高い (OK88.7%、NG73.3%)コミュニケーション能力(家族の会話時間が長い)が高い (OK90.5分、NG62.5分)特に違いがあるのが、「自主性」と「計画性」と「コミュニケーション能力」であり、自主性については好きなゲームをやるためだったら…という子どもなりの考えが想像できますし、計画性についても、家庭内の決められたルールの中で時間を決め計画的にやろうとする子どもの姿勢が想像できます。そしてコミュニケーション能力については、RPG、レース、アドベンチャー、音楽などゲームのさまざまなジャンルから得られる知識も多く、それがきっかけとなり親子の会話が増え、会話のバリエーションも広がっていることが考えられますね。こんな記事を読んだら、みんなゲーム肯定派になってしまうかも知れません。でももしこれが事実なら、ゲームなど存在しなかった私が子どもの頃の子どもたちよりも、ほとんどの子がゲームをしている現代の子どもたちの方が、学習能力も、社会性も、コミュニケーション能力も、計画性も、ルールを守る能力も高いはずです。でも、実際に私が見ている子どもたちや、学校の先生達が見ている子どもたちはとてもそんな状態ではありません。昔は学級崩壊などありませんでしたが、今では普通にどこの学校にもあります。自分の欲望や、感情や、生理的な欲求を抑えることが苦手な子が増えてきているのです。自己肯定感や、好奇心が低い子もすごく増えてきています。失敗を嫌う子、人目を気にする子も増えてきています。情報の共有は得意でも、自分の考えや意見を述べたり、相手の言葉に耳を傾けながら対話することが出来ない子も多いです。自然の中で、自由に仲間と群れて遊ぶ遊びにはこのような能力を育てる働きがあります。(ですから、ゲームをしなくても、そのような遊び体験がなければそのような能力は育ちません。また、ゲームで遊んでいても、「群れ遊び」や「外遊び」もいっぱいやっているような両刀遣いの子はそれほど心配する必要はありません。)でも、ゲームは「個人の特殊化された能力」を育てる力は持っていますが、「他者と繋がるために必要な能力」や、「人との繋がりの中で幸せを実現する能力」は育ててはくれないのです。それに「○○をしないとゲームをやらせないよ」という状況の中でルールを守ったり、勉強をするようになったとしても、それが子どものためになっているのでしょうか。ゲームが、「親が子どもをコントロールするための便利な道具」になってしまっているから、「ゲームの負の要素」には目を向けないようにしているだけなのではないでしょうか。でも、思春期が近くなれば、次第に子どもは親の管理を拒否するようになります。大人になれば親の支配から離れて生活するようになります。そうしたときに、「親の価値観に合う生き方」だけを求められて育った人はどうなるのでしょうか。「自分らしさ」を失って「自分らしい生き方」や「自分らしい子育て」が出来なくなり、苦しむようになってしまうのではないでしょうか。でも、そのような意識で子どもの育ちを見ている人は少ないです。そして、多くの親が、「自分にとって良い子」に育ってくれれば満足しています。また、このような自己申告型のアンケートでは、アンケートに答える人の価値観や判断が表れます。つまり、これらの結果は、子どもや親たちのそれぞれの「主観」を集計したものであって、その結果にはなんの客観性もないということです。子どもも親も、具体的な比較対象がない状態で、自分の価値観だけを基準にして、自分の状態や子どもの状態を判断しているのです。でも、家庭の中の子どもを親の価値観だけで判断した状態は、社会的存在としての子どもの状態と同じではありません。実際、周囲のお母さんからは「明るくて元気な子」と評されている子が、親からは「乱暴で落ち着きがなく、言うことを聞かない困った子」と評価されていることもよくあります。その逆もあります。でも、子どもの人生にとって大事なのは「親からの評価」ではなく、「周囲からの評価」の方です。我が子を客観的に見ることが出来る人はそれが一致していますが、我が子を客観的に見ることが出来ない人の場合は、それが異なってきてしまうのです。そして、自分自身を客観的に見ることが出来ない人ほど、子どももまた客観的に見ることが出来ません。これは気質のワークの時にもよくあることなんですが、「自分が思っている自分」が「現実の自分」や「他者が見ている自分」と同じであるとは限らないのです。全く正反対のこともよくあるのです。造形の場でも、最近の子は「自分は何でも出来る」と思い込んでいる子が多いですが、そういう子に限って、実際にやらせて見ると何にも出来ない子が多いです。また、家庭の中で必要がない能力は、子どもがその能力に劣っていても親は気がつきません。もともと、その能力を必要としない生活をしているのでその能力が育たないのですが、まただから、その能力が劣っていても気付かないのです。どこの家庭にも、それぞれ独自の「家庭のルール」があります。また、子どもは親の価値観だけで、その成長や行動の良否を判断されています。家庭の中には家族しかいないし、一つの文化しかありません。ですから、その文化に適応し、親の価値観に適合していれば、親は「我が子はちゃんと育っている」と判断します。でも、家庭の外の世界には家庭のルールとは異なったルールがあります。親の価値観とは異なった価値観があります。親とのコミュニケーション方法と、仲間や、先生や、他の大人とのコミュニケーション方法は同じではありません。そういう場でのルールや、価値観や、コミュニケーション方法は、そういう場で、実際の体験を通して学ぶしかないのです。そして、社会に出たときにはそのような能力が役に立つのです。お母さんとの会話がちゃんと出来ていれば、お母さんは「コミュニケーション能力も育っている」と判断します。でも、その会話のパターンはいつも同じです。ですから、お母さん以外の人とも同じようにコミュニケーションできるとは限りません。「家庭」というのは特殊化された閉鎖社会なんです。「家庭」の中には多様性が存在していないのです。ですから、その閉鎖社会の中で、ゲームが子どもの行動に肯定的に働いているように見えても、それが実際の子どもの成長に肯定的に働いているとは限らないのです。子どもたちの具体的で客観的な状態を知っているのは、常に多くの子どもたちと接している教師や、小児科の先生などです。そして、ゲームの危険性を発信しているのもそのような人達です。私は、「ゲームをもっとやらせなさい」と発信しているような教師や小児科の先生を知りません。そのことをどう考えるかということです。
2017.12.20
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ゲームは面白いです。刺激的だし、夢や冒険やファンタジーもあります。現実の世界では出来ないことも出来るし、体験出来ないことも体験出来ます。ゲームの世界の中で子どもはスーパーマンにも、魔法使いにも、お姫様にも、大金持ちにもなることが出来ます。どんな欲望もかなえることが出来ます。人殺しさえ可能です。それはつまり、「ゲームは子どもの夢や、希望や、やりたいことを全て吸い取ってしまう魔力を持っている」ということでもあります。そして、自我が未発達な子ども達は、簡単にその魔力に取り込まれてしまいます。そして一度その魔力に取り込まれてしまうと、なかなか抜け出すことが出来なくなります。どんなにお母さんが叱っても無駄です。自分で自分をコントロールする能力自体が育っていないからです。ゲーム機を隠すなどして強制的にゲームを止めさせようとすれば、怒り出します。お母さんとの信頼関係も崩れます。時には、ゲームを禁止することで子どもに殺されてしまう親もいます。そういうものは、もはや「麻薬」であって「遊び」ではないのです。お母さん達は、「ゲーム」も、他の遊びと同じ「遊び」だと思い込んでいますが、ゲームは鬼ごっこや、縄跳びや、木登りや、コマ回しや、泥んこ遊びといった、「現実の世界の中の遊び」とは全く異なるものなんです。ゲームは、人類の歴史で、いまだかつて人間が体験したことがない遊びです。私たちは今、「子どもの成長に対するゲームの影響についての人体実験」を行っているのと同じなんです。そして、様々なところからその副作用についての報告も上がってきています。ネットで調べれば、すぐに、「幼い頃からのゲーム中毒は、重大な副作用をもたらす」という、実際のニュースや記事を見つけることが出来ます。でも、テレビではそういう情報を流しません。ゲーム業界は一大スポンサーだからです。だから、お母さん達も知りません。意識を持ってネットで調べたり、小児科や精神科の先生の本を読めば、ネット中毒の怖さはすぐに分かるのですが、そういう意識を持っているお母さんは多くないです。人目を気にしながら生きている人にとって大事なのは、みんなと足並みをそろえることであって、「自分らしさ」を生きることではないからです。人目を気にしながら生きている人には「自分の家だけゲームを与えない」という選択をする勇気がないのです。そして、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という感覚で、自分がどこに向かっているのかは考えずに、ひたすらみんなと一緒に行動しようとしています。そして、子どもが思春期頃になって、様々な問題が出始めてから相談に来ます。ただ、だからといって「100%ゲームをやらせてはいけません」という事ではありません。また、今の時代そんなこと不可能です。ゲームも、大人のお酒やタバコと同じように、嗜好品程度、おやつ程度にたしなむだけならいいのです。また、9才以上の子の場合は、関わり方次第で子どもの育ちに肯定的に働く可能性もあります。日常的には体験出来ないことが体験出来るということで子どもの意識を広げることが出来るからです。ただしそれはリアルな世界の遊びも知っている子の場合です。ゲームしか遊びを知らない子は、どうしても、ゲームに「遊び」を依存してしまいます。それしか遊び方を知らなければ、それは当然のことです。それが問題なんです。今、「子どもと一緒」の時間を楽しむことが出来ないお母さんがいっぱいいます。そのようなお母さんは、「自分の時間」を作るために、子どもにゲームを与えます。すると子どもは、「自分だけの世界」の中で遊ぶようになります。結果、子どもはお母さんにまとわりつかなくなるので、お母さんは楽になります。でも、その世界には、お母さんも、仲間も、自分自身すらもいません。画面の中にアバターはいますが、それは本当の自分自身ではありません。ゲームの世界の中には何でもありますが、全てが蜃気楼のように実体がないのです。そのような遊びでばかり遊んでいる子は、人の心や、からだや、命に対する「リアルな感覚」も育たないので、他の人の心や、からだや、命を感じ、共感する能力も育ちません。イジメもゲーム感覚でやります。先日も、ネットで、「駅のホームから落ちて電車に轢かれて死んでしまった人を、面白そうに動画に撮っている人がいっぱいいて、気持ちが悪くなった」という記事を読みました。また、自分自身の命にもリアリティーを感じることが出来ないので、「いいね」を増やすために平気で命の危険に関わるようなことまでしてしまいます。「犯罪を犯すところを動画にとって投稿する」という、意味不明な行動をする若者も多いです。自分の自殺を実況中継する人もいます。私にはみんな「現実の世界」を生きていないように思えるのです。だから、お母さんが積極的に子どもと関わって、リアルな世界の体験の楽しさや、仲間と一緒に遊ぶ楽しさを体験させて上げて欲しいのですが、お母さん自身がそれを知らないので、結局ゲーム機やスマホを与えることになってしまうのです。私は、それを「親子遊び」という形で、お母さん達に伝える仕事もしています。でもその「親子遊び」で大切にしているのは、まず、お母さん達自身が、リアルな体験の楽しさや、仲間と一緒に遊ぶ楽しさを知ることです。その体験がなければ、親子で遊ぶ楽しさは分からないのです。
2017.12.19
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どうして、人は「我が子」と「他の子」を比較するのでしょうか。どうして、人は「自分」と「他の人」を比較するのでしょうか。どうして、他の子と比較して「我が子の欠点」を探そうとするのでしょうか。どうして、他の人と自分を比較して「自分の欠点」を探そうとするのでしょうか。どうして、無い物ねだりばかりをして、すでに持っているものには目を向けないのでしょうか。どうして、「多様性」を肯定しないで、「みんな同じ」にしたがるのでしょうか。どうして、「自分らしさ」を大切にしないで、他の人の評価に合わせようとするのでしょうか。どうして、子どもを「お母さんの言うことに素直に従ういい子」にしたがるのでしょうか。どうして、人の目を気にして生きているのでしょうか。どうして、深く呼吸できないのでしょうか。どうして、見ることを楽しみ、聞くことを楽しみ、歩くことを楽しみ、生きていることを楽しむことが出来ないのでしょうか。どうして、「人と人の違い」を楽しめないのでしょうか。どうして、つながり合うことを喜ぶことが出来ないのでしょうか。どうして、娯楽や快楽ばかりを追い求めるのでしょうか。どうして、人生や死について考えないのでしょうか。どうして、勝ち負けにこだわるのでしょうか。私たちの命も、存在も、生活も、「まだ持っていないもの」ではなく、「すでに持っているもの」によって支えられています。ですから、「すでに持っているもの」を大切にしないということは、「今の自分」を大切にしないことに繋がってしまいます。「すでに持っているもの」を否定することは、「今の自分」を否定することになってしまいます。当然、自己肯定感も低くなります。私たちが未来に手に入れることが出来るのは、「今持っているもの」の延長上にしかありません。ですから、「今持っているもの」を肯定することが出来ない人には未来はありません。「今持っているもの」を楽しむことが出来ない人には、未来にも「楽しみ」はやってきません。何かが出来ないことを子どものせい、親のせい、人のせい、社会のせいにして生きている人は、将来も何も出来ません。でも、死は間違いなくやってきます。その時、「私の人生何だったんだ」と後悔しても、無意味です。もし、明日死ぬとしたら、今日、どう生きたいですか。それを想い出して、今を生きて下さい。***************以下は、今生徒(参加者)募集中のクラスです。全て、会場は茅ヶ崎駅周辺です。呼んでいただければ出張もします。○気質の一年間講座(土日、休日です/大人だけです) 今のタームは3月までですが、4月から新しいタームを始めます。 新しい参加者も募集します。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:00~12:00 参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)○「からだの会」(月曜日が多いです/大人だけです) 自分のからだと対話して自分のからだに気付き、仲良くするためのエクササイズをいろいろとやっています。心とからだが自由になることを目的にしています。 やっている内容は、二人で組んであれこれやったり、動きに意識を向けたり、からだをうねうね動かしたり、ちょっと簡単には説明できません。 ちなみに私が今まで学んで来たのは、太極拳、操体法、野口整体、野口体操、仁神術、古武術、システマ(ロシアの格闘技)などです。古武術とシステマは今も学んでいます。それらの学びから得たものを組み合わせてエクササイズを行っています。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:00~12:00 参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)○「ゆりかご」(子育ての勉強会)(月曜日が多いです/親子一緒です) 楽しい子育てをするための学びの会です。原則として1才未満のお子さんとお母さんが対象です。それより上の方は以下に紹介する「ポランの広場」に参加して下さい。 子どもについての理解を深めたり、遊びや造形の学びをしたり、「からだほぐし」をしたり、気質の学びをしたりします。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:30~12:00 参加費 1500円(参加したときにお支払い頂きます)○「アートポラン」(第2か3水曜日/親子一緒です) 幼稚園児とお母さん対象のアートクラスです。 作ったりするだけではなく、音で遊んだり、劇遊びをしたりもします。 第2か3水曜日。 月1回、年11回(8月はお休み) 14:00~15:30 参加費 1500円(材料費込み/参加したときにお支払い頂きます)○「ポランの広場」 未就園児とお母さん対象の遊びの広場です。 わらべ歌、造形、からだ遊び、劇遊び、楽しいこと何でもやります。 毎週火曜日 10:30~12:00 こちらは月謝制で、4500円(/月)です。 ただし今募集しているのは2018年の四月以降も参加できる人だけです。ご注意下さい。○あと、円蔵の自宅で小学生対象の造形教室もやっています。 子どもが自分が作りたいことを補助する形でやっています。ですから特に課題は与えません。 月 16:00~17:30 水 16:30~18:00 金 16:30~18:00 月謝 6700円(材料費込み)です。いずれの講座も、お問い合わせは「こちら」までお願いします。
2017.12.18
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「私はいつもいつも苦しいので憂鬱質だと思うんですけどどうでしょうか?」と聞いてくる人には、「子どもの頃はどうでしたか?」「結婚する前、子どもが産まれる前はどうでしたか?」と聞いています。すると「子どもの頃はそうではなかった」「結婚する前はそうではなかった」という人が多いのです。そもそも、今の状態が苦しい人は、今の状態がその人本来の気質の状態ではないのです。人は、その人本来の気質の状態の時には苦しくないからです。今、「自分探し」をする人も多いですが、「自分探し」をしている人も同じです。「今の自分の状態」が「自分本来の気質の状態」ではないので、自分自身に対して違和感を感じ、苦しいのです。そのような人に、子どもの時の状況や、お母さんやお父さんとの関係を聞いてみると、「自分らしさ」を肯定されない状況で育った人が多いです。虐待されたわけでも、愛されていなかったわけでも、ネグレクトされたわけでもありません。そのため、自分でも自分の苦しさや違和感の原因が分からないのです。だから「憂鬱質なのではないか」と思ってしまうのです。実は、その苦しさは「自分らしさ」を否定されてきた苦しみなんです。多くのお母さんが、我が子を他の子と比較しながら子育てをしています。他の子が歩き始めたのに、自分の子はまだハイハイ状態だと焦ります。だから、速く歩くようにせかします。言葉も、お勉強の習得でも同じです。また、一人で遊ぶのが好きな子を見ていると、「なんでもっと積極的にお友達と遊ばないのかしら」と子どもを無理矢理お友達の中に入れようとします。(「一人遊びが好きだから」と放任してしまうのも問題です。)活動的な子にはもっと落ち着くように求めます。臆病な子には、もっと自信をつけさせようと、無理に嫌がるようなことをさせます。これもまた、子どものためを思った「親の愛」なのでしょう。そこに全く悪意はないのです。子どもも、このような行為が「親の愛情の表れ」だということを知っているので、拒否できないのです。このような子育ては、多くのお母さんが普通にやっていることでもあります。でも、他の子と比較しながら子育てをしたら、必然的に子どもの「自分らしさ」を否定することになってしまうのです。また、そのような子育てをしていると、子どもの心が見えなくなります。子どもの想いを感じることが出来なくなります。子どもとの間の信頼関係が築けなくなります。子どもも自分の「自分らしさ」を肯定出来なくなります。結果として、最初に書いたような状態の人が増えてしまうのです。子どもの「自分らしさ」を否定することを止めるためには、お母さん自身が「自分らしさ」を取り戻すしかないのです。でも、一度失われた「自分らしさ」を取り戻すのはなかなか困難です。その時、気質の学びや様々な表現行為が役に立つのです。表現の中には、「自分でも知らない自分らしさ」が現れるからです。でも、他者と自分を比較しながら生きている人ほど、自分を表現することから逃げようとしています。
2017.12.17
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気質は年令によっても変化します。そして、子ども時代は「多血質」が強いです。だから、子どもたちは全般的に落ち着きがなく、飽きっぽく、我慢が苦手なんです。粘液質の子などは比較的落ち着いていますが、でもそれは「他の子との比較」によるものであって、その子自身の成長変化の中では、子ども時代は大人になった時よりも落ち着きがなく、飽きっぽく、我慢が苦手です。そんな子どもたちは「自由」が大好きです。そして、「自由」が奪われると「元気」も消えます。「元気」が消えると、好奇心も、行動力も、自己肯定感も消えます。そして、憂鬱質的な気質や不安も強くなります。実は、多血質は憂鬱質と似ているのです。一見正反対なんですが、正反対ということはネガとポジの関係であって、本質的な構造は似ているということでもあるからです。そのため、「元気を失った多血質の子」は、自分を閉ざし、自分を守ることばかりを考えるようになってしまうのです。憂鬱質の子は感受性に優れているため強い刺激を嫌います。だから、強い刺激から自分を守ろうとして、結果として自分を閉ざしてしまいます。でも、その特性を理解して優しい刺激で包んで上げれば、憂鬱質の子でも自分を閉ざしません。成長と共に自信が付けば、積極的に外の世界にも出ていくようになるでしょう。だから、憂鬱質の子は、追い立てず、温かく見守り、ゆっくりと待って上げていれば大丈夫です。でも、自由を奪われることで自分を閉ざし、憂鬱質のようになってしまった多血質の子の場合は、待っているだけでは何も変わりません。「自由」を戻して上げない限り、待っていても自分を開くようにはならないのです。でも、一度「自由」を奪われてしまった体験を持つ子は、その記憶が残ってしまうので、再度「自由」を戻しても、それだけでは以前のような「無邪気で天真爛漫な状態」には戻りません。子どもの成長は不可逆的な現象なんです。また、同じようなことが結婚して、子どもが産まれて、子育てが始まることで起きてしまうことも多いです。結婚する前や子どもが産まれる前は、明るく楽しい生活を送っていた多血質の人が、「子育て」と「家事」という束縛の中で「多血的な明るさ」を失い、次第に自分を閉ざし、憂鬱的な状態になってしまうことはよくあることです。それで「自分は憂鬱質だったんだ」と思い込んでしまっている人もいっぱいいます。このような状態の人が、また「自由」と「自分らしさ」を取り戻すためには、自分自身の意識と生き方を変えるしかありません。子どもの頃なら周囲の大人が変われば、子どもも変わりましたが、大人の場合は「自分」を変えることが出来るのは「自分」だけだからです。***************以下は、今生徒(参加者)募集中のクラスです。全て、会場は茅ヶ崎駅周辺です。呼んでいただければ出張もします。○気質の一年間講座(土日、休日です/大人だけです) 今のタームは3月までですが、4月から新しいタームを始めます。 新しい参加者も募集します。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:00~12:00 参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)○「からだの会」(月曜日が多いです/大人だけです) 自分のからだと対話して自分のからだに気付き、仲良くするためのエクササイズをいろいろとやっています。心とからだが自由になることを目的にしています。 やっている内容は、二人で組んであれこれやったり、動きに意識を向けたり、からだをうねうね動かしたり、ちょっと簡単には説明できません。 ちなみに私が今まで学んで来たのは、太極拳、操体法、野口整体、野口体操、仁神術、古武術、システマ(ロシアの格闘技)などです。古武術とシステマは今も学んでいます。それらの学びから得たものを組み合わせてエクササイズを行っています。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:00~12:00 参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)○「ゆりかご」(子育ての勉強会)(月曜日が多いです/親子一緒です) 楽しい子育てをするための学びの会です。原則として1才未満のお子さんとお母さんが対象です。それより上の方は以下に紹介する「ポランの広場」に参加して下さい。 子どもについての理解を深めたり、遊びや造形の学びをしたり、「からだほぐし」をしたり、気質の学びをしたりします。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:30~12:00 参加費 1500円(参加したときにお支払い頂きます)○「アートポラン」(第2か3水曜日/親子一緒です) 幼稚園児とお母さん対象のアートクラスです。 作ったりするだけではなく、音で遊んだり、劇遊びをしたりもします。 第2か3水曜日。 月1回、年11回(8月はお休み) 14:00~15:30 参加費 1500円(材料費込み/参加したときにお支払い頂きます)○「ポランの広場」 未就園児とお母さん対象の遊びの広場です。 わらべ歌、造形、からだ遊び、劇遊び、楽しいこと何でもやります。 毎週火曜日 10:30~12:00 こちらは月謝制で、4500円(/月)です。 ただし今募集しているのは2018年の四月以降も参加できる人だけです。ご注意下さい。○あと、円蔵の自宅で小学生対象の造形教室もやっています。 子どもが自分が作りたいことを補助する形でやっています。ですから特に課題は与えません。 月 16:00~17:30 水 16:30~18:00 金 16:30~18:00 月謝 6700円(材料費込み)です。いずれの講座も、お問い合わせは「こちら」までお願いします。
2017.12.16
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この世界は多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つの気質に相当する働きで支えられているといいます。気質は「性格」というような静的なものではなく、何らかの働きを伴った動的なものなんです。「性格」は「パターン」ですから動きません。でも、「気質」は「働き」ですから、いつも動いているのです。普段は胆汁質が強い人でも、悩み事があれば憂鬱質が強くなります。ハッピーなことがあれば多血質が強くなります。疲れたり、お腹がいっぱいになったり、眠くなったりすれば粘液質が強くなります。多重人格者でもない限り、性格はそう簡単には変わりません。でも、気質は状況に応じてちょこちょこ変わってしまうのです。それでも変化しにくい部分がその人の気質になるのですが、でも人は「変化するところ」は簡単に意識できても、「変化できないところ」は意識できません。それが感覚の働きの特性だからです。だから、人は自分の気質が分からないのです。胆汁質の子はガンコです。でも、本人はその事を知りません。回りのみんなが知っていても、本人には分からないのです。酔っ払っている人に「酔っているでしょ?」と言っても「酔っていない」と言ったり、おしっこが溜まっていそうでモゾモゾしている子に「おしっこ溜まっているでしょ?」と聞いても「溜まっていない」と答えるのと同じようなことです。ですから、周囲が胆汁質の子に、「ガンコだ」、「ワガママだ」、「乱暴だ」、「自分勝手だ」と言って叱っても、本人は何を言われているのか、何を叱られているのか分かりません。ですから状態は改善されません。でも、「否定されている」ということは分かるので、否定的な感情は育っていきます。そして、「自分」を閉ざして「自分」を守ろうとするので、状態は悪化します。多血質の子は落ち着きがありません。でも、本人はその事を知りません。ちなみに、「多血質」という気質は、「風」に例えられます。(胆汁質は火、憂鬱質は地、粘液質は水などに例えられます。)「風」ですからいつも自由に動いています。というか、動いていない風など存在しません。でも、いつも動いているのに、多血質の子本人は、その事に気付いていないのです。その状態を周囲の人は「落ち着きがない」「我慢が足らない」「飽きっぽい」「腰が落ち着かない」などと言って、叱ったりしてなんとか落ち着かせようとします。でも、風の動きを止めたら、風は消えてしまいます。風は動いているから存在していることが出来るのですから。そしてそれが風の役割でもあるのです。風は自由です。ですから、「風を受け入れる」ということは「自由を受け入れる」ということでもあるのです。そんな「風」が、世界に多様性をもたらしてくれています。様々な出会いをもたらしてくれています。種を運ぶのも、匂いを運ぶのも「風」の働きです。地球の空気の循環を支えているのも「風」の働きです。呼吸も「風」です。「風」があるから生き物は呼吸が出来るのです。「風」には目に見える決まった形はありませんが、だからこそ自在に動き、色々なところに行き、色々な繋がりをもたらしてくれるのです。でも、「自由」を受け入れようとしない人に取っては、「風」は「みんなをかき乱す困った存在」に過ぎません。ちなみに「水」も自由ですが、水には統一性があります。また、上から下に流れるだけです。「風」ほど自由ではないのです。でもそのため、規則や規律にこだわる人に一番目をつけられやすいのが「多血質の子」です。そのような人は、「自由に動き回るのは良くないことだ」と、「風」の動きを止めようとします。でも、「風」のような子は、動きを止められたら呼吸が出来なくなってしまうのです。そして苦しくなります。また、「風」が否定されている世界では、他の気質の子も身動きが取れなくなってしまいます。そして新しい出会いが失われます。そのため、バランス良く成長できなくなります。それと、「風」はただ無秩序に動いているわけではありません。必要に応じて動いているのです。火を燃やしているときには上昇気流(風)が発生します。風が熱を上に逃がし、新しい空気を火に送り込んでいるのです。この時、風が起きなければ火は消えます。火が消えなければ熱がこもり続けてしまいます。風は周囲の変化に対応して動いているのです。そしてその変化を支えているのです。
2017.12.15
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昨日書いたことをまとめると、現実に存在する性格を様々な特徴に従って分類したのが「性格分類」で、その性格を「性格の違いをもたらす要素」に還元したものが「気質分類」だということです。ですから、「私はどのタイプでしょうか」という質問に、性格分類は比較的簡単に答えることが出来ますが、気質分類では簡単に答えることが出来ません。「気質分類」は、もともと性格判断をするためのものではないからです。慣れてくれば「胆汁が強いですね」、「憂鬱が強いですね」という判断はすぐ出来るようになります。気質は仕草や、体つきや、表情や、声や、雰囲気に現れているので、見ただけでも分かりますから。でもだからといってそれはその人の性格を表すものではありません。「紫」には「赤」が多く入っていますが、「紫」と「赤」は全く違う印象を持っている色ですよね。それと同じです。ただ、「赤」が入っていると、色に力が出ます。「黄色」に「赤」が入ると「黄色」よりもパワフルなオレンジになります。「青」に「赤」が入ると、「青」よりもパワフルな「紫」になります。「赤」にはその色のパワーを上げる働きがあるのです。気質を学ぶとこのような視点で性格を見ることが出来るようになります。パワフルな子どもがいたとします。色でいうと「赤が強い子」です。気質で言うと「胆汁質が強い子」です。その時、お母さんや先生のパワーが弱いと、子どものパワーに負けてしまいます。そして、いわゆる手に負えない状態になってしまいます。それでお母さんや先生は叱ったり、脅したり、叩いたりして、言うことを聞かせようとします。でも、その子が本来持っている「赤」(パワー)は消えません。その「赤」は生まれつきのものだからです。そのような状態の子に対して、叱ったり、脅したり、叩いたりすることは、子どもが本来持っている「赤」に、「青」(悲しみ)とか「黒」(苦しみ)といった新しい色を加わえることになるのです。その結果違う「色」(性格)になりますが、だからといってその子が本来持っていた「赤」(パワー)が消えたわけではありません。じゃあどうなるのかというと、子どもは「赤」本来の明るさと美しさを失い、「どす黒い紫」に変色してしまいます。「赤い色」を青くしたいと思って、「赤」の上に「青」を注いでも、決して青くはならないのです。また、その子が本来持っているパワーは、新しく加わった「青」(悲しみ)や、「黒」(苦しみ)にもパワーを与えてしまうので、子どもは「自分自身」と戦わなければならなくなってしまいます。すると、そのパワーが外側に向かって発揮されなくなり、「赤」が本来持っていた行動力は失われます。「赤」(パワー)が強い子は、自己主張が強いです。行動力もあります。自分で考えて、自分で判断して行動する能力もあります。でも、その欲求が満たされると落ち着くのです。パワーをコントロール出来るようになるのです。すると、「今は赤を抑えて、緑でいた方がいいかな」という判断が出来るようになるのです。人は最初から四つの色(気質)全てを持っているので、自分の欲求が満たされ落ち着いてくると、それを使い分けることが出来るようになるのです。いわゆる性格分類という考え方は、「今の状態」を相手にしているだけなので、このような変化は分からないのです。だから、会社が新入社員を選ぶときには「性格分類」という方法が役に立つかも知れませんが、子育てや、教育や、セラピーの場では「気質という考え方」の方が役に立つのです。***************以下は、今生徒(参加者)募集中のクラスです。全て、会場は茅ヶ崎駅周辺です。○気質の一年間講座 今のタームは3月までですが、4月から新しいタームを始めます。 新しい参加者も募集します。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:00~12:00 参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)○「からだの会」 自分のからだと対話して自分のからだに気付き、仲良くするためのエクササイズをいろいろとやっています。心とからだが自由になることを目的にしています。 やっている内容は、二人で組んであれこれやったり、動きに意識を向けたり、からだをうねうね動かしたり、ちょっと簡単には説明できません。 ちなみに私が今まで学んで来たのは、太極拳、操体法、野口整体、野口体操、仁神術、古武術、システマ(ロシアの格闘技)などです。古武術とシステマは今も学んでいます。それらの学びから得たものを組み合わせてエクササイズを行っています。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:00~12:00 参加費 2000円(参加したときにお支払い頂きます)○「ゆりかご」(子育ての勉強会) 楽しい子育てをするための学びの会です。原則として1才未満のお子さんとお母さんが対象です。それより上の方は以下に紹介する「ポランの広場」に参加して下さい。 子どもについての理解を深めたり、遊びや造形の学びをしたり、「からだほぐし」をしたり、気質の学びをしたりします。 月1回、年11回(8月はお休み) 10:30~12:00 参加費 1500円(参加したときにお支払い頂きます)○「アートポラン」 幼稚園児とお母さん対象のアートクラスです。 作ったりするだけではなく、音で遊んだり、劇遊びをしたりもします。 月1回、年11回(8月はお休み) 14:00~15:30 参加費 1500円(材料費込み/参加したときにお支払い頂きます)○「ポランの広場」 未就園児とお母さん対象の遊びの広場です。 わらべ歌、造形、からだ遊び、劇遊び、楽しいこと何でもやります。 毎週火曜日 10:30~12:00 こちらは月謝制で、4500円(/月)です。 ただし今募集しているのは2018年の四月以降も参加できる人だけです。ご注意下さい。○あと、円蔵の自宅で小学生対象の造形教室もやっています。 子どもが自分が作りたいことを補助する形でやっています。ですから特に課題は与えません。 月 16:00~17:30 水 16:30~18:00 金 16:30~18:00 月謝 6700円(材料費込み)です。いずれの講座も、お問い合わせは「こちら」までお願いします。
2017.12.14
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世の中にはいっぱい性格を分類する方法があります。エニアグラム、ユングやクレッチマーの性格分類、アドラーの性格分類、詳しくは知りませんが他にも山のように「性格を分類する方法」は存在すると思います。どうしてそんなにも色々な方法があるのかというと、それぞれに分類の基準が違うからです。皆さんの身の回りにあるものを分類する時にも色々な分類の仕方がありますよね。○大好きな物ごとに分類する○大きさごとに分類する○重さごとに分類する○形ごとに分類する○色ごとに分類する○重要性ごとに分類する○値段ごとに分類する○材質ごとに分類するそして、どの分類の仕方を選ぶかで、分類の仕方も、種類も変わってきますよね。また、何のために分類するかでもその方法は変わってきますよね。車に大量の荷物を積むときには、形と重さで分類するでしょう。断捨離をするときには、重要性ごとに分類するでしょう。部屋を見栄え良く片付けたいときには、デザイン性や色や形を基準にするでしょう。性格を分類する時にも同じような原理が働いているのです。心理学者は心理学的に分類しようとします。医者はからだの特徴から分類しようとします。教育者は教師に対する態度や、学ぶということに対する態度や、得意な科目などで生徒を分類するでしょう。デザイナーは着ている洋服で分類するかも知れません。芸能界の人は、「華があるかないか」で分類するかも知れません。逆に言うと、「目的が異なれば、必要な分類方法も異なる」ということです。ですから、その性格分類がその人の役に立つかどうかは、その人の目的によって変わってきます。ただ、上に書いたような分類方法は全て、「人間の価値観」を基準にしたものです。客観的にそのもの自体が持っている属性で分類しているのではなく、「分類している人の判断」を基準にして分類したものです。ですから、人や文化が変われば分類の結果も異なります。それに対して、科学はまた全く異なった分類方法を持っています。物自体が持っている属性によって分類しているのです。ですから、この分類は人間の価値観に左右されず世界共通です。でも、現実の生活感覚からは離れてしまうので、分かりにくくなります。私たちの生活感覚からすると「段ボール箱」と「ノート」は全く異なるものです。でも、材質という点では「同じもの」です。もっと言えば、「森に生えている木」も「ノート」と「同じもの」に分類されてしまうでしょう。でも、「森に生えている木」と「ノート」を「同じもの」と考える人は滅多にいません。クレヨンの箱の中には、赤、青、黄色、オレンジ、緑、紫、水色、黄緑、黒、白など多くの色が入っていますが、科学者は「世界中の色は、赤・青・黄(光の場合は緑)と明暗の四つの要素を組み合わせることで作ることが出来る」と言っています。実際、プリンターはこの四つの要素だけでフルカラーの写真を印刷することが出来ます。テレビもこの四つの要素だけでフルカラーを再現しています。でも、私たちの生活の回りには、純粋な赤も、青も、黄色もほとんど存在していません。ほとんどの場合、「真っ赤」に見える色にも何かしら別の色が混ざっています。また、緑や、オレンジや、紫といった生活の身の回りにある色を、赤・青・黄(光の場合は緑)と明暗の四つの要素に分類して理解することは困難です。絵描きは「目に見える色」をこの四つの要素を組み合わせることで再現できますが、普通の人にはそんなこと出来ません。だから、緑や、オレンジや、紫といった「複合色」も、赤・青・黄という「純粋色」と同じレベルの色として分類されているのです。それが私たちの生活感覚に即した分類です。でも、それ故に、その色は人々の価値観や文化の違いにも影響されます。虹の色が7色の所もあれば5色や3色のところがあるのはそのためです。「色が赤・青・黄(光の場合は緑)と明暗の四つの要素の組み合わせで出来ている」というのは世界共通ですが、実際の生活の中では、異なった文化圏では異なった色を使っているのです。そして、性格をその現実の状態のまま分類したのがエニアグラム、ユングやクレッチマーの性格分類、アドラーの性格分類というようなものです。だから、人をそういう分類に当てはめやすいのです。それに対して、「気質」は、色でいうところの「原色」を扱っています。そして、「あの人は胆汁質だ」と言っても、実際には、その人が「胆汁質」だけを持っているということではなく、単に「胆汁質が強い」というだけの意味です。最初から人は誰でも四つの気質を持っているからです。またそれは相対的なものなので、その人より胆汁質が強い人の中ではその人は胆汁質ではないように見えます。同じ紫でも、赤い地の上に置いたときよりも青い地の上に置いた時の方が赤く見えます。赤い地の上の紫は青っぽく見えます。それと同じです。「気質」は、その人の本質や、その人らしさを理解するためのものであって、人を分類するためのものではないのです。ですから、人を理解しようとするときには役に立ちますが、単純に人を分類するときにはあまり使えないのです。
2017.12.13
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昨日も書きましたが、憂鬱質の人の最大の課題は「良いスタートを切ること」なんです。多血質の人はスタートで躓いても全然気にしないでレースを始めます。胆汁質の人は余計に燃えるかも知れません。粘液質の人は一応気にしますが、次回の課題にします。でも、憂鬱質の人だけは、スタートで躓くと試合自体を放棄をしてしまう可能性が高いのです。結局、普段ははものすごく練習していても、速く走る能力があっても、全ては無駄になります。そして、自分らしさを発揮することが出来なくなり、自分で自分を責めることになります。スタートを失敗しただけなのに、「私は何をやってもダメなんだ」といきなり自分の全部を否定してしまうのです。だからこそ、「良いスタート」を切る必要があるのですが、でも、本人もその事を分かっているのです。だから、頭の中で「スタートで失敗しないための色々なシミュレーション」をするのです。誰かに話しをする場合でも、頭の中で色々と考えてから話しかけるのです。でも、シミュレーションしてから事に望むので、緊張してしまうし、シミュレーション以外のことが起きるとパニックになって固まってしまうのです。現実は頭の中のシミュレーション通りになど起きないものです。ですから、シミュレーションをしてから事に望むと失敗を繰り返すことになってしまうのです。だからこそ、「失敗しないためのシミュレーション」をやめて、ただ、心やからだが固まったときに、自分を取り戻し、心とからだを落ち着かせるおまじないというか、儀式だけを決めておけばいいのです。能力がないわけではないので、落ち着けばなんとかなってしまうからです。そこは自分を信じるしかありません。憂鬱質の人に必要なのは「自分を落ち着かせるための方法」であって、「問題を解決するための方法」ではないのです。それが昨日書いた、「ちょっとまって下さい」という言葉であったり、「深呼吸」なんです。憂鬱質の人は誰かに怒鳴られたり、怒りが溜まってくると固まってしまいますが、そんな時も深く息を吸って、口からフッと吐き出すことを数回繰り返せば自分を取り戻せるのです。姿勢を正したり、手をパーにしたり、上を見たり、からだを揺すったり、相手の目ではなく顔を見るようにしたりするという方法もあります。「自分」を取り戻すことが出来れば、自分らしく生きることが出来るのです。「自己肯定感」などということも気にならなくなります。
2017.12.12
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道で外国の人に話しかけられたとき、多血質の人はデタラメな英語でも平気で話そうとします。でも、憂鬱質の人には「デタラメな英語で話す」という選択肢はないので、ちゃんと話せる自信がなければ無視してしまいます。これは日本人に多い反応です。「何か意見はありますか?」と聞かれたときも、多血質の人は単なる「思いつき」でも平気で言いますが、憂鬱質の人は「ちゃんとした意見でないと言ってはいけない」と思い込んでいるので無言を通します。また、憂鬱質の人は「とっさの出来事」に対応するのが苦手なので、とっさに話しかけられたり、とっさに意見を求められたりすると固まってしまいます。それで、ちゃんと話すことが出来ない自分を責めたりして、自信を失います。これ自体は気質が大きく関係しているので、いいとか悪いとかいうことではないのですが、この状態を変えたいと思うのなら、ちょっとしたテクニックがあります。外国の人に話しかけられたら、Wait. Speak more slowly please.と、まず答えて下さい。この一言が言えればなんとかなります。「何か意見は?」と聞かれたときは、一回大きく息を吸って口からフッと吐き出してからなら答えやすくなります。(これらは一例であって、色々な方法が可能だと思います。)憂鬱質の人はとっさの時に固まってしまう傾向があります。固まってしまうと、話すことも笑うことも出来なくなります。だからとっさの対応が出来なくなってしまうのですが、能力自体がないわけではないので、固まっている状態を緩めることが出来れば普段の自分を取り戻すことが出来るのです。そして後悔しなくても済むようになるのです。これは「自分らしさ」を取り戻すための工夫です。「出来ないことを頑張って出来るようにしよう」とするのではなく、「頑張らなくても出来る方法」を探すのです。胆汁質は頑張るのが好きですが、鬱質は頑張ることに向いていないので・・・。
2017.12.11
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気質には多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つがありますが、それぞれ似ているところと似ていないところがあります。胆汁質と粘液質の人はあまり人目を気にしません。でも、多血質と憂鬱質の人は人目を気にします。ただ、その「人目の気に仕方」が異なります。多血質の人は自分の「いいところ」を人に見せようとします。でも、「悪いところ」には無関心です。それは、「ねえねえ見て!」と泥だらけになった手と洋服で、まん丸の泥団子を得意そうに見せに来る子どもと似ています。でも、憂鬱質の人は自分の「悪いところ」を人に見られないようにします。自分の「いいころ」には関心がありません。それは、多血質の子よりもずっと素敵な泥団子を作ったのに、泥だらけの手や洋服を見られるのが嫌なので、素敵な泥団子まで隠してしまう子どもと似ています。また、多血質の子は仕上がりにこだわらないので、平気で人に見せることが出来ますが、憂鬱質の子は仕上がりにこだわるので、他の人から見たら上手に出来ているのに、自分で納得できていなければ人に見せようとはしません。そして、日本人は憂鬱質が強い民族です。「謙遜」を「美徳」と感じるのは憂鬱質の価値観の人だけです。私がスペインでベジャスアルテスという美術教室に通っていたとき、スペイン人の生徒は「どうだすごいだろう。今日はうまく描けた」と絵を見せに来ました。それに対して、日本人の生徒は「どうだろう、どうもうまく行かないんだけれど見てもらえるかな」と絵を持ってきました。<続きます>
2017.12.10
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今日は、別の所のために書いた文章を、そのまま紹介させて頂きます。 今、子どもも大人も、自己肯定感が低い人が非常に多いです。様々な調査でも明らかになっていることですが、世界レベルでも日本人の自己肯定感はかなり低いです。外国との比較だけでなく、日本の過去と比べても現代人の自己肯定感はかなり低いと思います。 それは、教室で子ども達の話を聞いていても、気質や子育ての講座でお母さん達の話を聞いていても感じることです。 自己肯定感が低いと、対人関係も、子育ても困難になります。自分らしく生きるのも、仲間やパートナーと支え合うのも困難になります。お母さん達は子育てが苦しくなるとその解決方法をネットで調べたり、「子育て書」に求めますが、その苦しみの原因が自分自身の「自己肯定感の低さ」にあるのなら、そのような知識や情報は状態をさらに悪化させる原因にはなりますが、問題を解決する答えにはなりません。 では、「どうしてそうなってしまったのか」ということです。 私の見ている範囲では、この自己肯定感が低い人には二つのタイプがあるような気がします。一つは、「他の人とコミュニケーションを取るのが苦手なタイプ」の人です。発達障害を抱えている人も多いです。他者とコミュニケーションを取るのが苦手なので、他者と繋がるとか、他者に受け入れられるという感覚がよく分からないのです。そのため、自己肯定感も低くなってしまっているのです。 もう一つのタイプの人は特に何かの能力に劣っているということはありません。むしろ他の人よりも高い能力を持っている場合が多いです。性格や行動にも特に目立った問題は抱えていません。ですから、自分で自分を否定しなければならないような理由などどこにもありません。でも自己肯定感が低いのです。そして、このタイプの人は多いです。 そのような人達と接していて感じるのは、共通して「中途半端な人」が多いということです。趣味とか興味とかを持っていない人も多いです。また、しっかりとした「自分の意見」や「自分の考え」を持っていない人が多いです。 実は、そのような人は、「自分らしさ」を大切にしていないのです。趣味でも、勉強でも、仕事でも、子育てでも、考え方でも、「自分らしさ」を大切にしていれば中途半端にはならないはずだからです。 「自分らしさ」を大切にせず、周囲の目に合わせて生活しているので中途半端な状態になってしまうのです。そしてだから、自己肯定感が低くなってしまうのです。 実は、自己肯定感が低いというのは、「自分らしさ」を肯定していないことの現れでもあるのです。ですから、「自分らしさ」を肯定しないまま自己肯定感を上げようとしても無理なんです。子どもの場合でも、「子どもらしさ」や「その子らしさ」を肯定しないままで自己肯定感だけを上げようとしても無理なんです。 「自分らしさ」を肯定出来ない人は、子育てにおいても「私らしい子育て」が出来ません。子どもの「子どもらしさ」も肯定出来ないので、「子どもに合った子育て」も出来ません。そして、世間の常識や、他人の目を基準にして子育てをしています。 そのようなお母さんにとって我が子は「短所の固まり」に見えます。なぜなら、世間一般の「大人の価値観」を基準にして子どもの状態を評価しているからです。 でも、子どもは大人のために生きているわけではありません。子どもは自分自身のために生きているのです。だから大人の価値観を基準にして子どもの状態を評価してしまうと、必然的に短所だらけになってしまうのです。 子どもには本来「短所」も「長所」もないのです。乱暴で落ち着きがない子も、泣き虫も、恐がりも、騒がしいのも、みんな「その子らしさ」であって、それは「短所」でも「長所」でもないのです。そして、それを肯定するところからしか「子どもの自己肯定感を育てる子育て」は始まらないのです。 ただし、だからといって「そのままでいい」ということではありませんからね。時々、「私は子どものありのままを肯定するので子どものやることに干渉しないの」と子どもの好きにさせている人がいますが、それは単なる育児放棄に過ぎません。 まず、「そのままの君が大好きだよ」と抱きしめてあげて下さい。そして、いっぱい話しかけ、いっぱい遊んで、いっぱい一緒に笑って下さい。そういう「関わり合い」が子どもの自己肯定感を育てる力になるのです。「肯定する」ということは、「好きにさせる」ということとは違うのです。 「じゃあ、短所は短所のままでいいのか」と心配するかも知れませんが、もしかしたらそれは短所ではないかも知れないのです。逆に長所だと思っていたことが短所かも知れないのです。実際、子どもの時には短所だったことが大人になったら長所になることも、子どもの頃には長所だったことが大人になると短所になることもあるのです。また、お母さんには短所に見えることが他の人には長所に見えることもあります。 大事なのは、「子どものその状態が子ども自身にとってどういう意味を持っているのか」ということなんです。「お母さんにとっての意味」ではなく、「子ども自身にとっての意味」が重要なんです。 例えば、活発な子は活動的な行為が大好きです。それはその子が、「活動的な行為で成長するタイプ」だからです。一人で静かに遊ぶのが好きな子は、「自然や自分自身との対話を通して学び、成長するタイプ」です。体験で学ぶタイプの子もいれば、見て聞いて学ぶタイプの子もいます。 活動的な行為が好きな子に、活動の機会や目的を与えてどんどん活動させてあげていると、どんどん成長していきます。そして、成長と共に落ち着いてきます。人間は成長欲求が満たされると落ち着いてくるように出来ているからです。「一人で遊ぶのが好きな子」も、自分の世界が安定してくると、他の子とその世界を共有したいと思うようになります。そして仲間を求め始めます。 でも、子どもの活動的なところを「落ち着きがない」「乱暴だ」などと「短所」として扱い、それを直そうとしていると、子どもは成長できなくなります。
2017.12.09
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幼児期の体験の多くは無意識の世界の中に記憶されます。言葉も、歩くことも、無意識の世界に蓄えられた記憶によって支えられています。だから、無理して意識しなくても話すことが出来、歩くことが出来るのです。でも、日本人の「学校で学ぶ英語」は、意識の働きを通して学んだことですから、テストでは使えても実際に「ガイジン」さんに話しかけられた時には使えないのです。幼児期に楽しいことや、嬉しいことや、幸せの体験をいっぱい体験した子は、大人になっても、ちょっとした行動や出来事に、「幸せ反射」が出ます。多分私もそうだったのだろうと思います。昨日もきれいな夕焼けと、大山や丹沢の夕暮れ風景を見ていて「地球に生まれて良かった」と思ってしまいました。大げさな表現ですが、本当にそういう言葉が浮かんだのです。その逆に、「不幸反射」とか「苦しみ反射」というようなものを持っている人もいます。「不幸反射」とは、ちょっとしたことに対してもすぐに「自分は不幸だ」と感じてしまう反射です。「苦しみ反射」とは、ちょっとしたことに対してもすぐに「苦しみ」を感じてしまう反射です。これらの反射の背景にも無意識の働きがあります。ただし、必ずしも「幼児期に形成された無意識」とは限りません。幼児期の体験は無意識の中に蓄積されやすいのは事実ですが、大人になってからでも、繰り返し、繰り返し体験することで、その体験が無意識の中に落とし込まれていくからです。(ただしその場合は、その記憶が残っています。)例えば、自転車に乗ることに慣れている人は、考え事しながらでも、スマホを見ながらでも自転車に乗ることが出来ます。そういうことが可能になるのも、繰り返し、繰り返しの体験を通して、「自転車に乗る感覚」が無意識の中にまで落ち込んでいるからです。武術や芸事などの習い事でも、繰り返し、繰り返し同じ事を学ぶことで、それが無意識の世界の中に落ち込み、意識しなくても自然にそういうことが出来るようになります。皆さんが止めたいと思っていても止めることが出来ないことや、やりたいと思っても出来ないことなどもまた、無意識の働きが邪魔をしているからです。「意識の働き」は「無意識の働き」には敵わないのです。学校に入るような年令になっても、繰り返しイジメを受けることで「対人恐怖反射」を身につけてしまうこともあります。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれるものも、無意識の働きが関係しています。一度このような反射が身についてしまうと、頭では「大丈夫」と分かっていても、からだが勝手に反応して固まり、苦しくなってしまうのです。このような状態を変えるためには、やはり無意識を変えていくしかありません。じゃあどうやって無意識を変えるのかというと、そういうイメージを持って、繰り返し繰り返しからだに働きかけるのです。この場合、「イメージ」と「体験」と「繰り返し」のセットが必要になります。どれが欠けても無意識には届きません。例えば、「楽しい」時の心とからだの状態を想い出して、心とからだに再現してみて下さい。それが「イメージ」と呼ばれるものです。「イメージする」ということは、「頭の中で考える」ことではなく、その状態を「心とからだの中に再現する」ことです。「心とからだの記憶を想い出す」という言い方も出来ると思います。その時、(例えばですよ)そのイメージに合わせて「手を握る」という行為を繰り返していると、意識的に「楽しい」をイメージしなくても、手を握るだけで楽しい感情がわき起こってくるようになったりするのです。「手を握る=楽しい」という反射が、無意識の中に形成されるからです。頑張る=>お母さんが喜ぶ=>頑張る=>お母さんが喜ぶという体験を通して、「頑張る=楽しい」という反射が形成されることもあります。困った事をする=>お母さんが来てくれる=>困った事をする=>お母さんが来てくれるという繰り返しで、寂しいときには「困った事」をするような反射が形成されることもあります。ただ、7才を過ぎてから形成された無意識は、このような方法で変えることもできますが、7才前に形成された無意識を7才を過ぎてから変えるのはなかなか困難です。「こうなりたい」という肯定的なイメージを想い出すことが出来ないからです。そういう人は、「こういう私になりたい」という具体的なイメージの体験がないので、「今の私は嫌だ」というように、自分を否定することしか出来ないのです。そんな時は、自分を変えようとすることを止めることが、自分を変えるきっかけになることがあります。
2017.12.08
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普通の教育では、いっぱい覚えることと、覚えたことは忘れないようにすることを大切にしています。それは当たり前ですよね。でもなぜかシュタイナー教育では「忘れてもいいよ」といいます。というか、わざと、忘れ易いような工夫をしています。「忘れさせるのなら最初から教えなくてもいいんじゃないか」と思うかも知れませんが、なぜか、ちゃんと教えた後で忘れさせるのです。ここが、シュタイナー教育の本質的な部分であり、普通の教育方法とシュタイナー教育の決定的な違いかも知れません。ですから、テストはありません。テストは「覚えたことをチェックするシステム」ですから、「忘れてもいいよ」という教育システムでは全く無意味なんです。じゃあ、何にも覚えられなくてバカになってしまうんじゃないかと思うのですが、なぜか、ドイツのシュタイナー学校の卒業生の学力は高いのです。「ドイツの教育」というサイトには以下のように書かれていました。(抜粋です) ギムナジウムはドイツにおいて大学に行くためには就学しないとならない学校である。小学校と合わせると4年+9年で13年かかります。このギムナジウムでは毎年5%~10%の落第者が出るため、ストレートに9年で卒業できるのは単純に考えると半分ぐらいしかいないことになります。 シュタイナー学校は小学校と同じく6歳で入学する。それから12年間一貫教育で、落第もないので18歳で卒業できる。大学にいくには卒業後、1~2年かけてシュタイナー学校に付設されているギムナジウムを受検するための授業をうけアビトゥーアを受けることになる。 総合学校は普通の小学校の生徒は4年生で進路を決めなくてはならなくなり、ギムナジウムに行くための競走をしなくてはならない。一方でシュタイナー学校は一貫教育でアビツゥーアにもしっかり合格している。詳しいことはご自身で調べて頂きたいのですが、いずれにせよ「忘れてもいいよ」という教育をしているのに、なぜか最終的には子どもたちはそれなりの学力を身につけることが出来てしまうようです。これはどういうことなのかということです。人間の心は「無意識」と呼ばれるもの上に、ちょこんと小さな「意識」が乗っかっているような構造になっています。水に浮かんでいる氷山を「心」だとすると、水面下にある部分が「無意識」で、水面上にあるのが「意識」というような感じです。人間は無意識の支配を受けているのですが、意識できるのは上に乗っかっている小さな意識の部分だけです。そして、無意識が見たくないと思っていることは、意識をどんなに働かせても見ることが出来ません。「無意識の考え方」が「意識」のレベルでもその人の考え方を支配しているので、無意識の世界にない考え方は、どんなに頭を使っても出来ません。ですから、子どもたちを、「広い意識」、「自由な意識」の持ち主にしようと思うのなら、「意識の教育」を始める前に、「無意識の教育」が必要になるのです。そして、シュタイナー教育が大切にしているのもその部分なんです。シュタイナー教育は子どもが社会的に成功することや、子どもの特別な能力を育てることを目的にしていません。そうではなく、自分の意思で、自分の人生を、自由に幸せに生きることが出来る人間を育てることが目的です。だから、無意識の教育が重要になるのです。そしてだから「頭」ではなく「からだ」に働きかけるような教育をしているのです。授業や普段の生活の中に「芸術的な要素」が多いのも、子どもの無意識に働きかけるためです。「忘れてもいいよ」というのは、「学んだことを頭の中に留めず、からだの中にまで落とし込むための工夫」なんです。私たちは、3才頃までに、言葉を学び、歩くことを学び、感じることや、考えることや、人と人と関わり合う方法を学んでいます。でも、その頃の記憶はあまりありません。なぜなら、3才前の記憶の多くは無意識の世界の中に入り込んでしまうからです。でも、覚えていなくても、消えたわけではないのです。実際、私たちは無意識の世界に留まっている「3才までの記憶」に支配されて生きているのですから。それが「三つ子の魂百までも」という言葉の意味です。無意識の中まで入ったことは魂の中に留められ、意識的に無意識と向き合うような修行をしない限りそのまま一生変わることはないのです。私が大好きな宮沢賢治もまた、無意識の意味を理解していた人です。そういう点で宮沢賢治の思想とシュタイナー教育は近いのです。****************シュタイナー教育新訂版 [ クリストファー・クラウダー ]シュタイナー教育と子供 [ A.C.ハーウッド ]私の知らない私 無意識の心理学 [ 増井透 ]
2017.12.07
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「無意識」の話は難しいです。「見えない世界の話」だからです。でもそれは確実にあります。なぜなら、自分以外の人(自分とは異なった無意識を持っている人)には見えているからです。見えていないのは本人だけなんです。でもそれをその本人に伝えても、「私のことは私が一番よく知っている」と他の人の言葉を受け入れません。無意識の世界にあるものは、その本人には見ることも、触れることも出来ないからです。同じようなことは「個」を超えた世界にもあります。子どもは「子ども特有の無意識の世界」に生きています。「ファンタジー」と呼ばれるものもその一つです。「ファンタジー」の世界は、子どもの無意識が創り出した世界なんです。大人は科学的な視点からそのファンタジーの世界を否定しますが、でも、その科学の世界もまた、大人の無意識が創り出しています。科学は人間の知的欲求を満たす道具として生まれました。ということは、科学もまた人間の無意識の支配を受けているのです。そのため、宇宙人は人間の科学とは全く異なった科学を持っている可能性もあります。大人が「子どもの言うこと」を理解出来ないのも、子どもが「大人の言うこと」を理解出来ないのも同じです。子どもが無知で未熟だから、大人の言うことが理解出来ないのではありません。大人が自分のことを知らないから子どものことを理解出来ないのです。虹が7色に見えるのも無意識の働きのせいです。異なった文化圏の人は異なった無意識を持っています。ですから、虹が5色に見えたり、3色に見える文化の人達もいます。言葉が理解出来るのも、音楽を楽しむことが出来るのも、無意識の働きのせいです。人間を見て「人間」と認識し、飛行機を見て「飛行機」と認識出来るのも無意識の働きのせいです。日本人は日本人共通の無意識を持っています。だから日本語をその本来の意味通りに理解することが出来ます。「もったいない」の感覚的な意味も分かります。でも、それを英語に訳すことは出来ません。ちなみに「もったいない」と「エコ」とは全く異なった概念ですからね。そのような違いがあるので、外国の人が、外国の価値観(無意識)で、日本人の日本人らしさを語っても、日本人はそれを受け入れることが出来ません。人間は「人類共通の無意識」を持っています。人間以外の動物たちはその「人類の無意識」に苦しめられていますが、人間にはその苦しみが理解出来ません。また、同じ日本人でも、気質が違えば無意識の状態も違ってきます。実は、「気質」は無意識のタイプを分類したものでもあるのです。だから、なかなか自分では自分の気質が分からないのです。よく知っている者同士の集まりに呼ばれた時にやる気質のワークがあります。それは、「私はこういう人間です」という自己評価をみんなの前でやってもらうのです。それは「自分が一番よく知っているはずの自分」についての説明です。でも、その「自分が知っている自分」と「仲間が知っているその人」が全く食い違っていることがよくあるのです。「私は怠け者だから」と言う、頑張り屋さんもいます。憂鬱質の人から見たら、「え、そんなことで苦しんでいるの」という程度の苦しみに苦しんでいる人もいます。そういう人は自分は憂鬱質だと思い込んでいます。でも、周囲の人には多血質に見えたりします。比較的「自分」の状態を客観的に見ることが出来るのは、あまり「自分」にこだわりがない粘液質の人です。「自分」にこだわりがある人ほど、客観的に「自分」を観ることが出来ません。そしてそういう人ほど「先生、私は何質でしょうか?」と聞いてきます。でもそういう人に、私が見たその人の気質の状態をお話ししても、多分理解出来ないし、受け入れてももらえません。その人の無意識に関する話だからです。だから、「さあ、なんでしょうね」と答えます。(お心当たりがある人がいっぱいいると思います。)ちなみに、粘液質の人も、胆汁質の人もそのようなことは聞いてきません。粘液質の人も胆汁質の人も、あまり「人からどう見えるか」ということを気にしないからです。そんな「無意識に属する自分」と出会うためには、「自分を表現する活動」が必要になるのです。だから、気質のワークでは表現ワークをよくやるのです。
2017.12.06
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私たちは日常的に感じ、考えていますが、でも、その「感じ、考えている行為」自体を感じ、意識することは出来ません。それは目に見えているものは意識できても、目の動きや働きそのものは意識できないのと同じです。その感覚や思考の働きを操っているのが「無意識」と呼ばれる働きです。「無意識」の働きが、何をどう感じるか、何を見て何を見ないか、何をどう考え、何を考えないのかを決めているのですが、その無意識の働き自体は意識できないのです。「無意識」が「見たくない」という指令を出せば、人は目の前にあるものでも見えなくなってしまいます。「考えたくない」という指令を出せば、どんなに一生懸命に考えても、その部分だけは迂回して考えるようになります。周囲の人にはそれが分かっても、本人だけが分からないのです。自分以外の人は自分とは異なった無意識の働きに従って、見て、感じ、考えているので、自分が無意識的に見ないように、感じないように、考えないようにしていることでも見たり、感じたり、考えたりすることが出来るからです。だから、自分には見えていないものでも、隣の田中さんには見えていたりするのです。すると田中さんは「え、なんで見えないの?」と思い、「ほらそこにあるでしょ」と教えようとするのですが、どんなに丁寧に教えられても、無意識の働きがその部分だけをマスキングしてしまっているので見えないのです。それは簡単に言うと「姿勢」と似ているかも知れません。人は自分の姿勢はよく分からないものです。でも、他の人には分かります。だから、「もっと肩の力を抜いて」などと言うのですが、本人は、肩に力が入っていること自体を意識できないので抜きようがないのです。自分だけで見て、感じて、考えているだけなら、その世界には不都合も矛盾もありません。ですから、自分の問題点も見えません。どんなに歪んだ物の見方、感じ方、考え方をしていても、本人は自分は正しい見方、感じ方、考え方をしていると思っているのです。これが問題化してくるのは、自分とは対等な他者と関わらなければならなくなったときです。相手が子どもであったり、部下であるなら、自分の価値観を相手に押しつけることが出来ます。ですから、自分は自分のままで問題は起きません。でも、自分とは対等な他者の場合には押しつけは通用しません。ですから、決裂を避けようとするなら、両者がお互いに自分にはない考え方を受け入れていくしかないのです。相手が「見える」と言っているものが自分には見えない場合でも、「この人には見えているんだ」ということを受け入れるのです。また、「自分には見えていても、相手には見えていないということもあるんだ」ということを理解する必要もあります。そこでお互いにお互いの言葉に耳を傾け、自分の感覚や思考の癖に気付くことが出来れば無意識が修正され、より世界を正しく見ることが出来るようになります。それが「成長する」ということでもあります。でも、お互いに「どっちの方が正しい」ということを主張し合えば戦いが起きるだけで成長は起きません。ですから、人が「人間」として成長するためには「対等な他者との出会い」が絶対不可欠なんです。一人で遊び、一人で勉強しても、対等な状態での「他者との出会い」がなければ、人間としての成長は発生しないのです。一人で勉強しても知識は増えます。やり方がよければ成績もあがります。良い学校に入ることも出来るかも知れません。でも、それだけでは自分自身の修正が出来ないのです。タブレット学習の問題点もここにあります。タブレットのようなものを使った個人学習は非常に効率的に子どもの学力を向上させると思います。それは肯定します。でもそれだけでは、他者を肯定出来ない、他者を受け入れることが出来ない人間が増えてしまうのです。(その部分は勉強以外のグループ活動で補うことは可能です。ただし、可能ではありますが、今の学校や先生の能力でそういうことが実行可能かどうかは不明です。)対等な他者との出会いがない状態で育った人は、「みんな私のことを分かってくれない」と言うでしょう。でも、自分の方から相手のことを分かろうとはしないと思います。相手のことを分かろうとするときには、自分にはない考え方をしなければならないからです。他者との出会いがない状態で育った人にはそれが出来ないのです。********************無意識の構造改版 (中公新書) [ 河合隼雄 ]生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫) [ 小川洋子(小説家) ]Q&Aこころの子育て 誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [ 河合隼雄 ]
2017.12.05
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昔々、パスカルという哲学者が「人間は考える芦である」と言ったそうです。「コトバンク」というサイトでは、パスカルの「パンセ」の中の言葉。「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」として、人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したもの。と説明されています。人間の「人間らしい思考能力」が、人間を「人間」たらしめているということです。でも、思考能力それ自体は人間以外の生き物たちもみんな持っています。イヌやサルのような高等な哺乳類だけでなく、ネズミも、ミミズも、魚も、鳥も、植物ですら思考する能力は持っています。その、全ての生き物が共通して持っている思考の原初的な思考能力は「判断」という能力です。草や木は光を感じて光のある方に枝葉を伸ばし、水の存在を感じて水のある方に根を伸ばしていきます。そこにも「判断」があります。昆虫や動物達が餌を探す時にも「判断」があります。これらの思考は反射的なものですが、この反射が思考の原点でもあるのです。コンピューターが行っているのも反射の繰り返しに過ぎません。そして、その反射の体験が記憶され、様々な反射の記憶が組み合わされることで、より複雑な判断が出来るようになります。すると、私たちの一般的な感覚としての「思考」に近くなります。AI(人工知能)はこの方法で思考方法を学んでいます。考える(思考する)のは人間だけではないのです。人間以外の動物たちも、生きていくためにかなり複雑な思考をしているのです。だから、クマやイノシシの被害も簡単には防ぐことが出来ないのです。人間もまた「命あるもの」ですから、人間以外の生き物たちと同じような思考能力は持っています。この思考能力は「命」そのものが持っている能力ですから、教育の有無に関わらず誰でも持っています。でも、パスカルの「人間は考える芦である」という言葉の中の「考える」という能力はこれとはちょっと異なります。これは、「反射としての思考」ではなく「意識の働きとしての思考」のことだからです。そしてこれは人間しか持っていない思考能力でもあります。「反射としての思考」は反射ですから、自分でコントロールすることが出来ません。また、論理的に考えることも、考えているということを自覚することも出来ません。自分の考えを検証することも出来ません。「意識的に違う考え方をしてみる」ということも出来ません。このような考え方しか出来ない人は、いつも同じ思考しか出来ません。ですから、一度迷路にはまって思考がグルグルと回り始めてしまうと、そこから抜け出すことが出来なくなります。だから苦しいのですが、自分の思考方法を自分で検証できないので、そのグルグルから抜け出すことが出来ないのです。その、「反射としての思考」は体験によって形作られます。白い服を着て、メガネをかけた人(お医者さん)に痛い目に合わされた赤ちゃんは、白い服を着た人とか、メガネをかけた人を見るだけで泣き出すようになってしまうこともあります。そこには「自分の体験に基づく論理」はありますが、「自分の体験を超えた客観的な論理」はないのです。この「自分の体験を超えた客観的な思考能力」を身につけるためには、「言葉の論理の学び」と、「物質の世界の論理の学び」が必要になります。人間は「言葉」を学ぶことで、時間と空間に束縛されない思考を行うことが出来るようになります。また、「他者」という立場に立った思考も出来るようになります。「物語」の中にはそのような言葉があります。ですから、子どもの頃に多くの物語りと出会った子は考える能力も高くなります。他者の立場に立った思考も出来るようになります。また、お母さんやお父さんとの対話を通して、「言葉の論理」を学ぶことが出来ます。そしてその「言葉の論理」は、「心の論理」でもあります。でも、「物語」や「対話」を通して学ぶことが出来るのは「心の論理」だけです。自分が生きている現実の世界のことを理解し、現実の世界のことを考えるためには「物の世界の論理」も学ぶ必要があるのです。子どもたちはそれをからだを使った様々な体験を通して学んでいます。上手にコマを回すためには論理の理解が必要です。木登りでも、竹馬でも同じです。また、「何かを作る」というような造形的な活動はもっと直接的に子どもの論理的思考能力を育ててくれます。でも、ゲームの世界には「言葉の論理」も、「心の論理」も、「体験を通した物の世界の論理」もありません。そのためゲームだけに浸って、大人との対話もなく、外で仲間と遊ぶこともない子は「客観的に考える力」を育てる機会を失うことになります。(でも、そのような子でも自分は客観的に考えていると思い込んでいます。実際にちゃんと客観的に考える能力があるかどうかは、対話能力によって検証することが出来ます。他者の言葉を他者の立場に立って理解出来ないのなら、思考能力に問題があるのです。自分の欲求を満たすためにするだけの思考は、人間らしさと繋がった思考ではないのです。)また、「失敗」も大事な「論理」の一部なので、「失敗」も肯定出来るようにならないと考える力は育ちません。失敗を嫌がり、失敗から逃げようとする人は、反射で考えるばかりで、客観的に物事を考えることが出来ないのです。
2017.12.04
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今日はこれから山梨で仕事なので、短くさせて頂きます。昨日は感情を育てるためには表現行為がいいですよ。ということを書きました。でも、そうは言っても、感じたことを表現すること慣れていない人はどうしていいのか分からないと思います。そんな時、もっと簡単なのは、からだを緩めることと、からだ全体を大きく動かすことと、大きな声を出すことと、自然の中に行くことです。また、深い呼吸も「感情育て」の役に立ちます。表現行為の方がもっと直接的に感情に働きかけますが、これらの行為にも、固まっている感情を緩め動きやすくする働きがあります。ちなみに、屋外での子どもの群れ遊びの中には全部ありますよね。そして現代人の生活には全部ありませんよね。また、一番良くないのは「考え込む」ことです。
2017.12.03
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昨日は、「感覚の働き」の中にこそ「自分らしさ」が存在しているからです。と書きましたが、実は、感覚の働きに意識を向けて「自分らしさ」を発見しても、それだけでは不充分なんです。私は多くのナイーブな若者やお母さんを知っていますが、そのような人達は自分の感覚に意識を向けるのが得意です。得意というか癖です。でも、その「自分だけの感覚世界」の中に閉じこもってしまう人も多いのです。そのような人は、「自分」のことは知っていても、「自分と自分が生きている世界との繋がり」には意識を向けないのです。そのため、社会生活が困難になります。「自分らしさ」を否定され、社会に適応することだけを求められることで「自分らしさ」を忘れてしまった人も多いですが、逆に、「自分らしさ」を否定してくる相手から「自分」を守るために、「自分らしさ」の中に閉じこもってしまい、社会との繋がりを遠ざけてしまう人も多いのです。そして、「自分らしさ」を忘れてしまった人も「自分らしい生き方」は出来ませんが、「自分らしさ」に閉じこもったままの人もまた、「自分らしい生き方」は出来ないのです。なぜなら、人は「人と人の繋がり」の中でしか生きることが出来ないからです。そこで重要になってくるのが、今度は「自分の感情との繋がり」を取り戻すことなんです。「感情」は人間が考え、行動するときのエネルギーになります。感じるだけでは動くことが出来ないのですが、それを「感情の働き」とつなげて上げることで、からだを動かせるようになるのです。また、自分の感情を取り戻すことで他者が怖くなくなります。感覚だけが働いて感情が止まったままだと、他者や、新しい世界との出会いが怖くなってしまうのです。幼い子どもたちの成長では、先ず感覚が育ちます。次に感情が育ちます。そして、感情が育つことで活動的になることが出来るのです。だから仲間と群れて遊ぶことが出来るようになるのです。自分の感覚に束縛されて、身動きが取れなくなってしまっている人も、幼い子どもと同じように、その次の段階として、感覚の働きを感情とつなげて上げるのです。そこで必要になってくるのが様々な表現行為なんです。歌ったり、踊ったり、文章を書いたり、絵を描いたり、何でもいいですから、自分が感じたことを表現とつなげてみるのです。すると、肯定的な感情が働き出すのです。そして、肯定的な感情が動き出すとからだも動き出し、他者が怖くなくなるのです。そしてそれが「遊び」という行為の意味と役割でもあるのです。ジーッと感じたままで何も表現しようとしなければ、「自分」に閉じ込められただけの人生になってしまうのです。*****************ちゃんと泣ける子に育てよう 親には子どもの感情を育てる義務がある [ 大河原美似 ]叱るより聞くでうまくいく 子どもの心のコーチング (中経の文庫) [ 和久田 ミカ ]
2017.12.02
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最初に仲間募集のお知らせです。足立区の方で毎月やっている「外遊びの会」があります。いつもは、小菅の「ワンド」(河原)で遊んでいますが、12月は10日(日)に「舎人公園」のバーベキュー場で「ロウソク作り」をします。ご興味のある方は私の所までお問い合わせ下さい。担当の方の連絡先をお教えします。横浜自然育児の会の主催で毎月やっている「トロルの森」という会も参加者を募集しています。12月はいつもの参加者がみんな都合が悪いので中止ですが、1月は20日(土)に三沢にある「豊顕寺市民の森」で「昔遊び」をします。コマ回しをしたり、凧を作ったりして遊びます。ご興味のある方は自然育児の会のブログの方からお問い合わせ下さい。http://blog.livedoor.jp/yokohama_shizenikuji/archives/cat_50022450.htmlです。3日は山梨の塩山にある「ザゼンソウ公園」で、クリスマスのリースやドリームキャッチャー作りをします。ご興味のある方はご連絡下さい。**********では、「自分らしさ」とはなんなのか、「自分らしさ」を見失ってしまった人はどうやって「自分らしさ」を取り戻すことが出来るのか、ということです。ここで大事なことは「自分らしさ」とは、観念でも思想でも知識ではなく、「自分の心やからだの現実」の中に存在するということです。だからこその「自分らしさ」なんです。でも、小さいときから、「自分の心やからだの現実」を否定され、大人の欲求や期待通りに生きることを求められながら育ってしまうと、自分でも「自分の心やからだの現実」を否定するようになり、「自分らしさ」を見失ってしまうのです。そして、知識や、情報や、思想に振り回されて生きるようになってしまうのです。でも、知識や、情報や、思想は頭の中にしか存在していません。それらは観念であって現実ではありません。そのため、知識や、情報や、思想に束縛されてしまうと、「自分という意識」と、現実の世界に生きている「心とからだ」が分離してしまうのです。すると、心とからだの状態が不安定になり、不安も強くなります。また、「思い込みの自分」と「本来の自分らしさ」を混同してしまう人もいます。じゃあどうしたらいいのかということですが、そのような状態の人が「自分らしさ」を取り戻すためには、「感覚の働き」に意識を向ける必要があるのです。「感覚の働き」の中にこそ「自分らしさ」が存在しているからです。青い空を見て何を感じるか。風に揺れるコスモスを見て何を感じるか。子どもの声を聞いて何を感じるか。自分の足の裏の感覚に意識を向けながら歩くことで何を感じるか。食べているものの味や口の中の感覚に意識を向けることで何を感じるか。子どもを抱いたときの温もりに何を感じるか。声を出してみて、声が出てくるときの感覚に何を感じるか。真っ直ぐに立ってみて、真っ直ぐに立っている状態に何を感じるか。人と目を合わせて、目と目を合わせたときの感覚に何を感じるか。吐く息、吸う息を感じながら呼吸したら何を感じるか。そういう感覚の働きに意識を向けながら生活していると、「自分らしさ」が戻ってくるのです。でも、「自分らしさ」を見失ってしまっている人は、最初のうちは何が何だか分からないと思います。そもそも、感覚に意識を向けるってどうやってやったらいいのか分からないかも知れません。でも、感覚を意識し続けることで、ある日突然分かったりするのです。それが「自分」を発見した瞬間です。
2017.12.01
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