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3月の5日(日)と26日(日)に山梨の甲府と韮崎で「気質のワーク」をします。10:00~15:00です。今、詳細が分かるHPを作ってもらっています。まだまだ余裕があるのでご興味のある方は予定に入れておいて下さい。明日にでも詳細をお知らせできると思います。***********26日のコメントに「やまびこ」さんがお世話になっている、保育所のベテラン先生から一方的に泥をかけたりするのを仲裁する親の姿をみて、「こどもはそんなものよ、試しているのよ」「手出し口出ししすぎ」といわれたりしたこともあって、じゃあどうしたらいいんだろう、と考えていました。その場に親がいる段階で、こどもだけの集まりではない。親もひっくるめて群れなんだな、とあらためて思いました。と書いて下さったので、今日はこの「こどもはそんなものよ、試しているのよ」について考えて見ます。確かに子どもは「そんなもの」です。そして確かに子どもは自分の行為によって「試して」います。問題は、だからといって「何もしなくてもいいのか」ということです。「そんなもの」だから放っておけばいいのか。「そんなもの」だからこそ積極的に関わるべきなのか・・・。また、「子どもは何のために、何を、そして誰を試しているのか」ということも考えてみる必要があると思います。「相手の子」を試している場合もありますが、「自分」を試している場合もあります。さらには、「側で見ている大人」を試している場合もあります。またそれらが同時に起きている場合もあります。その「試している対象」によって関わり方は異なってくるはずです。もし、やまびこさんが書いて下さった出来事の子どもが、相手の子どもだけでなく、側で見ている大人も試しているのだとすると、「黙ってみている」という対応が、子どもに「自分の行為は大人に肯定されている」と認識させてしまう結果になってしまうかも知れませんよね。実は、子どもは自分の行為に対する大人の反応を見て、「善悪の判断基準」を学んでいるのです。「善悪の判断基準」は「文化」なので、親や周囲の大人から学ぶ以外に子どもはそれを学びようがないのです。アメリカでは子どもが銃を持っていても大人はニコニコ見ているだけかも知れません。そんな大人の反応を見て、子どもは「子どもでも銃を持っていいんだ」ということを学んでいるのです。日本ではちっちゃなハサミやナイフを持っただけで、お母さんが「危ないから止めなさい」と止めさせてしまいます。そういう大人の反応を見て、子どもは「ハサミやナイフは触ってはいけないんだ」ということを学習しているのです。それと同じように、子どもが他の子をいじめているとき、側にいる大人がそれを「子どもってそんなものよ」と黙ってみていたら、子どもは自分のやっている行為が肯定されたと思うでしょう。そして、そういう善悪の判断基準を持ってしまうでしょう。子どもが大人を見て学んでいるのは善悪の判断だけではありません。感覚の使い方、心の使い方、からだの使い方、頭の使い方もみんな子どもは大人を見て学んでいるのです。大人は大人が子どもを見ていることしか認識していませんが、子どももまた大人を見ているのです。その視点がないと、子どもの成長の全体像が見えなくなってしまうのです。以前、「自分に似て欲しくないからあまり子どもと関わらないようにしています」と言ったお母さんがいましたが、お母さんが子どもと関わらなくても、子どもはそんなお母さんの姿を見て「お母さん」を学んでしまうのです。「よいお母さん」を演じようとしているお母さんもいますが、子どもはそんなお母さんを見て「自分を演じる」ことを学んでしまうのです。昔の子どもの群れには大人がいなかったので、その中でケンカが起きても、イジメが起きても自分たちで解決するしかありませんでした。その基準は善悪ではなく、「楽しいか楽しくないか」でした。ケンカしたりイジメがあったりしたら、楽しく遊ぶことが出来なくなってしまいます。それが続けば「群れ」が崩壊してしまいます。そしてそれは自分たちの「居場所」を失うことでした。だから、ケンカやイジメは自然と排除されていたのです。でも、今の子どもの「群れ」は大人が人工的に作った群れなので、必然的に子どもたちはその治安も、秩序も、安全も大人に求めます。それは当然のことですよね。それなのに、子ども同士のトラブルがあっても大人は「ただ見ているだけ」で、その責任を子どもに押しつけています。そんな子どもの立場に立って大人の姿を見てみて下さい。遠くで見ているだけで助けてくれないお母さんの姿がどのように見えますか。そのお母さんの姿から子どもは何を学ぶのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは話すことも、歩くことも、創造的な活動も、論理的に考えることも出来ません。赤ちゃんとは「そんなもの」です。「だからそのままでいいんだよ」と放ったままにしておいたらどうなるでしょうか。そんなことをしたら困った事にしかならないと思います。赤ちゃんとは「そんなもの」です。だからこそ大人が、自分が受け継いだ言葉や、技術や、人間らしさを子どもに伝えるために、積極的に関わる必要があるのです。ただしここで重要なことは、「子どもとはそんなもの」ということを肯定したところから始めるべきだと言うことです。出来なくて当たり前、知らなくて当たり前なんです。それを肯定し、受け入れ、そして励まし、寄り添って支えてあげる。子どももまた、「このままでいい」なんて思っていないのです。子どもも成長を求めているのです。だからこそ大人を見て学ぼうとしているのです。大人が見て見ぬふりをしていると、大人が何らかのアクションを起こすまで子どもの行動はドンドンエスカレートしていきます。子どもは学びたいのです。知りたいのです。成長したいのです。だから一生懸命に大人を見ているのです。そんな「子どもからのまなざし」を忘れてはいけないのです。
2017.02.28
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またまた告知です。茅ヶ崎駅の近くで、毎月「からだの会」という活動をしています。「自分のからだとの対話」や「緩める」ということを目的として、「動き」という方法使って色々なことをしています。3月は27日(月)です。参加費は2000円。10:00~12:00です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。子育てを楽しむ方法を学ぶ「ゆりかご」も、気質の勉強会も参加者募集中です。***********************昔のお母さんやお父さんは仕事が忙しくて子どもの相手などしてくれませんでした。家にテレビも、ゲームも、オモチャもありませんでした。でも、外に行けば同じような状態の子どもたちがいっぱいいて、町の中や、神社の境内や、空き地などで群れて遊んでいました。だから、子どもたちは自分の意思でその群れに参加していました。その群れには何世代にも亘って伝承されてきた遊びがあり、リーダー的な子もいました。子どもたちが、自分たちのために作った群れなので、子どもたちもその中ではルールに従いました。ルールに従わないと群れから追い出されてしまうからです。でも、大人に連れてこられた子どもたちの集団では、ルールに従わない子でも、イジメをする子でも排除されません。また、その会が合わない子でも、そこにいなければなりません。それどころか「みんなで仲良く遊ぼうね」などと自分たちでも出来ていないような理想を押しつけてきます。また、「遊び」を伝承された子どもたちではないので、「みんなで遊ぶ遊び」を知りません。リーダーもいません。そのため、大勢子どもがいてもどうしていいのか分かりません。どうやって他の子と関わったらいいのかも分かりません。その結果、ただ大騒ぎするか、2,3人の気のあう友達と遊ぶだけで、「群れとしてのまとまり」は生まれません。お母さんとしては「子どもに仲間作りをさせたい」、「友達と一緒に遊ぶ体験をさせたい」と思って連れてくるのでしょうが、ただ大勢子どもを集め、好き勝手にやらせるだけでは「群れ」も、「遊び」も、「仲間」も生まれないのです。「群れ」も、「遊び」も、「仲間」も、「文化」に属することなので、誰かに伝えてもらえない限り、自然に発生することはないのです。そんな時は大人が「ガキ大将」的な役割をして、遊びや目標を提示して上げると、子ども達はまとまって遊び始めます。幼児期の子どもはリーダーを求めているからです。大人も一緒に入って遊ぶと、子どもは遊び方が分かります。仲間とのつながり方も分かります。みんなで一緒に遊ぶ喜びも分かります。すると、少しずつ大人がいない場でも自分たちだけで遊ぶようになります。リーダー的な子も生まれます。「遊び」や、「群れ」や、「リーダー」が伝承されたからです。そういう状態になったら、大人は少しずつ引いていきます。そうして、ようやく「見守るだけでいい」という立場に立つことが出来るのです。「群れ」が生まれるためには、その「群れ」の「親としての群れ」と、その群れが育つ「時間」が必要なんです。最初から見守るだけで子どもを放置してしまったら、そういう状態にはならないのです。でも、そういうやり方をしてしまっているグループが多いのではないでしょうか。特に、自分に自信がない人ほど、「自分はただ見ているだけ」という立場に立ちたがる傾向があります。自分に自信がない人ほど「方法」や「他者」に依存するのです。「シュタイナー教育」に依存している人も、「○○メソッド」のようなものに依存している人も同じです。でも、依存からは何も生まれません。また、そのようなグループ内における「イジメ」についても相談を受けることがあります。我が子がいじめられているので助けたいのだが、「大人は子どものケンカに口出ししてはいけない」という会の決まりがあるので、助けに行くことが出来ません。それを見ているのが辛くて辛くて・・・・というような内容です。まず、「イジメ」と「ケンカ」は違います。「逃げようとしている子」、「戦う意思のない子」に対して、その子が嫌がることをするのがイジメです。やっている子にとっては「楽しい遊び」でも、やられている子が嫌がっているのならそれは「イジメ」です。それに対して「ケンカ」では、お互いに戦う意思があります。一方的に負けていても、その子に「戦う意思」があるのならそれはケンカです。そして、「ケンカ」は見守っていればいいのですが、「イジメ」は止めなければなりません。それが大人の役割です。昔の群れではリーダー的な子がイジメを止めましたが、リーダーがいない集団でのイジメは大人が止めなければならないのです。そうでないと、心の傷になって一生残ってしまうかも知れません。また、いじめている子も「やっていいことと、やってはいけないこと」の区別が付かなくなり、自分の世界を広げることが出来なくなります。昔の群れでは「いじめっ子」は排除されました。自分の意思で集まっている子どもたちの群れだからこそそういうことが可能だったのです。でも、大人に連れて来られた子どもたちの集団では「いじめっ子」でも排除されません。それどころか、大人は、「みんなで仲良く遊ぼうね」と理想を押しつけてきたり、「やられたらやり返せ」などと子どもを追い立てたりしています。また「イジメは止めなければ」という人に対しても、「あれも子どもの遊びだからそんな神経質にならないで」とか「大人が止めたら子どもは自分で問題を解決できなくなるわよ」などと言ったりする人もいます。でも、双方が楽しければ「遊び」ですが、やっている側しか楽しくないのなら、それは明らかな「イジメ」です。また「善悪」の価値観は「文化」なので、大人が教えるしかありません。そうでないと「力こそが正義」になってしまいます。そもそも、いつもいじめられているような子はその会に来たくないはずです。それでもお母さんに連れてこられてしまいます。そして、いじめられてもお母さんは見ているだけで助けてくれません。そんなことをしていたら、子どもはお母さんを信じなくなります。お母さんを頼らなくなります。それでもいいのでしょうか。昔の子は自分の意思でその群れに参加していたので、ケンカしても、いじめられても、その群れにいたければ戦いました。でも、お母さんに連れてこられただけの子にそれを求めるのは無理なんです。
2017.02.27
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昨日、iokazu-chi さんが私の周りに限ってかもしれませんが、自然と関わるのが良い!と思い、野外保育に参加したり、自主保育グループを立ち上げているママさん達にこそ、「子どもは子どもらしく」のびのび育てたいからと、何をやっても止めない、相手に謝罪もない人が多いです。野外保育での鉄則として、「口だしはしない」などの方針を持たれているところが多いようですが、そういう場での口だししないということと、社会の中や公共の場でのルールなども何も教えない、ということを履き違えてるのではないかと感じます。とコメントを入れて下さいました。私もこのような話は時々聞きます。また、「我が子がいじめられていても助けに行ってはいけないと言われるのですが、見ていて苦しくて苦しくて、どうしたらいいのでしょうか」という質問も何回か受けたことがあります。確かに、昔の子どもたちは子どもたちだけで群れて遊んでいました。ケンカが起きても自分たちで解決していました。遊びも自分たちで工夫していました。そして、仲間とのそういう遊びや関わり合いを通して、社会性や、想像力や、創造性や、自立心を育てていました。私もそういう群れの中で育ちました。でも、現代の子どもたちの多くは、人工的な機器や、人工的なオモチャや、大人が管理している人工的な環境だけを与えられ、大人の管理下で、子ども同士のつながりによってではなく大人の指示に従う形でしか遊ぶことが出来なくなってしまっています。そのため、社会性や、想像力や、創造性や、自立心が育ちにくくなってしまっています。「助け合う心」や「思いやりの心」も育ちにくくなっています。実際、現代の子どもたちは昔の子どもに比べてずーっと依存心が強いように感じます。ゲーム機やスマホなどに対する依存、便利な機械に対する依存、お金に対する依存、大人に対する依存、マニュアル的なものに対する依存などが強い子が、今では「普通の子」になってしまっています。でも、今では大人もまた同じような状態なので、それを問題に感じる人は多くありません。そのような状況の中で、その状態に違和感を感じ、「これではいけない」と、昔のように子どもの群れを作って、自然の中で、子どもたちの力だけで遊ばせようとする人達もいます。当然、そのような人達が作るグループでは、極力、大人は子どもの活動に手や口を出さないようにしています。それでも、最近のお母さん達は「見守る」のが苦手なので、すぐ手や口を出したくなってしまいます。でも、それを許していたら、会の趣旨が崩れてしまうので「大人は手や口を出してはいけない」という「決まり」が必要になります。本当は状況に応じて臨機応変に考えればいいのですが、普通のお母さん達が集まって作ったグループには「名義的なリーダー」や「古株のリーダー」はいても、お母さん達を指導できる「専門知識を持ったリーダー」がいないため、その判断を下すことが出来ません。そのため、「決まり」は「絶対」になり、活動は形式的になります。そして、お互いに「決まり」で束縛し合うようになります。ただし、専門知識を持ったリーダーがいる場合でも、その人が専門知識に束縛された考え方しか出来ない人だと、同じような状態になります。それが行き過ぎると、お母さん達同士の「仲間としてのつながり」が脆くなります。胆汁質が強い人だけが強い力を持つようになります。大人と子どもの自然な関わり合いも出来なくなります。そして子どもたちもお母さん達と同じようにバラバラな状態になります。「子どもたちの状態」は「お母さん達の状態」の鏡だからです。実は、お母さん達同士が仲間としてお互いに信頼し合い、助け合っていれば、子どもたちも仲間と同じようなつながりを作ることが出来のです。子どもは親を見て、親を模倣して育つからです。「決まり」では子どもは育たないのです。でも、それが難しいのです。なぜなら、お母さん達もまた「群れ」の体験がない世代だからです。だから、「決まり」がない状態でどうつながり合ったらいいのかが分からないのです。また、「決まり」がないと、平気で、自分の趣味や、主義や、主張を優先してしまう人も結構います。じゃあどうしたらいいのかということですが、実は、専門的な知識を持ったリーダーがいないようなグループでは、保育園や幼稚園のように大人と子どもを明確に分けない方がいいのです。難しいことを考えずに、大人も子どもも交ざって、昔の大家族のような感覚で一緒に遊べばいいのです。(それもまた難しいでしょうけど、大人が先ず「群れる楽しさ」を感じることが出来るようにならないと、子どもにそれを伝えることは出来ないのです。ただし、「群れる」とは「みんな同じ」になることではありません。自分が自分らしくいてもつながりと居場所がある状態です。)以前伺った関西の方のグループはそんな感じでした。お母さんは我が子も他の子も同じように接します。叱るときにはよその子でも我が子と同じように叱ります。抱きしめるときも同じです。子どももまた、自分のお母さんも他のお母さんも同じように接します。うちの幼児教室もそんな雰囲気ですが、自分のお母さんには寄りつかずに、別のお母さんにばかりくっついている子もいます。親と子というセットが解体し、「群れ」という状態になっているのです。そして、その「群れ」の体験があるから、成長と共に、子どもたちだけでも「群れ」を作ることが出来るようになるのです。ただ大勢の子どもが一緒にいるだけでは「群れ」ではないのです。確かに、子どもの育ちに「自然」や、「仲間との群れの体験」は必要ですが、それ以前に「親や親以外の大人との色々な場面での多様な関わり合いの体験」が必要なんです。それがないと、子どもたちは群れて遊ぶことができないのです。「遊び」も「群れ」も「文化」なので大人との関わり合いを通して伝えるしかないのです。実は、「群れの消滅」と、「大人との関わり合いの消滅」はリンクしているのです。また、昔の子どもの「群れ」は、大人が作ったものではなく、子どもから子どもへと何世代にも亘って受け継がれてきた自然発生的な集団でした。成り立ち自体が、大人が子どもを集めて作った人工的な集団とは本質的に異なっているのです。昔の「群れ」には「遊び」という「つなぐもの」があり、「リーダー」もいました。そのリーダーは小学校高学年から中学生ぐらいでした。ですから、「大人のルール」を小さな子どもたちに教えることも出来ました。それに対して、共同保育のような場の子どもたちはみんな「幼児」です。異年齢のグループだとはいっても実際には「異年齢」と呼べるほどの年齢差はありません。基本的な価値観も同じです。やっていいこととやってはいけないことも分かりません。だからこそ、「大人がどう関わるのか」ということが大事な問題になるのです。子どもを子どもだけで集めて生活させても、それだけでは人間らしい人間には育たないのです。
2017.02.26
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23日のブログの最後に、「自分の気質を知る」ということに関して「自分の位置」が知りたいのなら、自分の足下を見るのではなく、自分の周囲の「全体」を見回す必要があるのです。ということを書きましたが、これは子育てにおいても言えることです。ほとんどの人が、「子育て」のことで思い悩むと、直接その問題の解決につながるような「子育ての方法」を探そうとします。でも、「子育ての方法」をどんなに工夫しても解決できない「子育ての問題」もあるのです。例えば、お母さんに笑顔がない場合、子どもは「お母さんとのつながり」を感じることが出来ないので孤独や不安を感じます。そのことが、様々な問題行動や発達の遅れにつながることもあります。でも、そのお母さんが自分の状態に気付かず、子どもの「問題行動」や「発達の遅れ」ばかりに意識を向け、それを解決する方法を探しても問題は解決しません。むしろ、子どもはそのようなお母さんの意識や行動によってさらに孤独と不安を感じるようになってしまうでしょう。こんな時は、お母さんが「自分の状態」に気付き、心とからだを緩め、笑顔を取り戻せば、別に「新しい子育ての方法」を探さなくても自然と問題が解決してしまうことがあるのです。でも、なかなか人は「自分の状態」に気付きません。相手のことは見えても、自分のことが見えないからです。女性には「男性の問題」は見えても、「女性の問題」が見えません。男性には「女性の問題」は見えても、「男性の問題」が見えません。「与党」には「野党の問題」は見えても、「与党の問題」が見えません。「野党」には「与党の問題」は見えても、「野党の問題」が見えません。大人には「子どもの問題」は見えても、「大人の問題」が見えません。日本人には「外国の問題」は見えても、「日本の問題」が見えません。人間には「自然界の問題」は見えても、「人間の問題」が見えません。そして、お互いに相手を非難し合っています。でも、「子育て」では大人は子どもを非難できますが、子どもは大人を非難したりはしません。ただ、問題行動や発達の歪みとしてその苦しさを現すだけです。自然もまた同じです。だからこそ「大人は子どもの立場に立って考える」という意識や視点をしっかりと持っている必要があるのです。「声を上げることが出来ない存在の声」を聴く耳を失ったら、結局、その相手の苦しみが自分自身に返ってきてしまうのです。「子どもの苦しみ」を無視した子育てをしていると、「子どもの苦しみ」が「問題行動」や「成長の歪み」という形で表れ、それが親にはね返り、結局、親自身が苦しむことになるのと同じです。人間が「自然の苦しみ」を無視した活動をしていると、自然界の調和やバランスが崩壊し、結局、人間の生存環境すら危うくなるのです。でも、人はなかなか自分がやっていることの問題点には気付きません。だから、意識を広く持って、全体を見渡してみることを忘れてはいけないのです。「全体」との関係性の中に、「今の自分の状態」が現れるからです。人間は「自然」の一部として生まれました。そしてその「自然との関係」は、人間が、文明を発展させ、生活空間の中から「自然」を排除し、人工的に作られた都市の中に生まれ、育ち、生活するようになった今でも変わっていません。だから、今でも人間は「電気」ではなく、「自然が創り出したもの」を食べないと生きていくことが出来ないのです。死ねば「自然」に還るのです。また、「自然」を感じていないと心とからだが不安定になります。「自然のリズム」を無視した生活をしていると、「心とからだ」のリズムも狂います。すると「精神」も狂います。人間は、夜でも昼間のように明るくする技術を手に入れました。だからといって、「夜の闇」を消してしまったら、人間の心もからだも狂ってしまいます。冬でも夏のような暖かの中で生活する技術を手に入れました。だからといって、「冬」を消してしまったら、それまで受け継がれてきた「心とからだの文化」は消滅します。このようなことは一見「子育て」とは何の関係もないように見えますが、実はこのような背景が「現代の子育て」を難しくしている要因でもあるのです。テレビを消してしまうだけで解決してしまうような「子育ての問題」もあるのです。
2017.02.25
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2005.10.13 に書いた「もったいない」というテーマのブログに、以下のような質問が来たので、この質問をきっかけにして「今時の子育て」について書いてみます。憂鬱質の我が子のは自由に行ける乳幼児の遊び場などに行くと、決まって使っていたものを取っていかれる、置いていたものもですが手に持っていても奪い取られる、こちらは何をしていないのになぜか急に叩かれる押される、といったことが本当に頻繁に起こります。そして、我が子は嫌だけど固まって泣けない、少し「ダメ」と言ったり引っ張って抵抗しようとするけど結局押し負ける。そんなことがしょっちゅうです。そんな中で胆汁質の私は、そんな様子を見ていて腹立たしくなります。>年齢を考えたら、子どもの行為は自然な行為です。私は子どもを責めているのではありません。私が言いたいのは、そこで親が子どもに“みんなで使う物だからね”とどうして言えないのかということなんです。私も、相手の子どもはまだ発達過程なので仕方ないと思えます。しかし、何故そこで親は「人のものを勝手に取らないんだよ」とか、「ゴメンねって言おうね」と言えないのか。そもそも何故そういうことをするであろう子を放置して見ていないのか。これもコミュニケーションの問題なのでしょうか?実際、私は色々なところで親子一緒の造形や遊びのワークをやっていますが、子どもが危ないことや困った事をしているのに無関心だったり、何も言わないお母さんを時々見かけます。我が子のことを見ないようにしているとしか思えないようなお母さんすらいます。疲れ切ってしまっているのか、諦めてしまっているのか、面倒なことに関わりたくないのか、子どものことに関心がないのか分かりませんが、子育て支援センターなどで働いている人に聞いても、最近、そのようなお母さんが増えて来ていると言います。そのようなお母さんは、支援センターのスタッフに子どもを預けっぱなしで、自分は友達とおしゃべりしたり、スマホをいじったりしているだけで、我が子と関わろうとしないのです。(そのくせ、子どもがケガなどすると大騒ぎします。)というかそのようなお母さん達は、子育て支援センターを「子どもを遊ばせてくれる場所」だと思い込んでしまっているようです。また、支援センターの方もそれ以上どうしていいのか分からないようです。支援センターとしてはお母さんと関わって、子育てに苦しんでいるお母さん達の支援がしたいのに、お母さん達は子どもを預けるだけで、それ以上の関わりを避けようとするので何も伝えられないと言います。公園などでも、親子で来ているのに、子どもはブランコやお砂場で一人で遊び、お母さんはベンチでスマホをいじっている姿をよく見かけます。また、子どもとの関わり方が分からなかったり、子どもの子どもらしい行動や状態に嫌悪感を感じるお母さんも増えてきました。最近は、「清潔中毒」の人も増えてきているので「自分の赤ちゃんのオムツですら、嫌々扱っているお母さんがいる」という話しも聞いたことがあります。「ヨダレを垂らしている」、「汚いものを触った手で触ってくる」、そういう子どもの自然な状態にまで嫌悪感を感じ、我が子を「汚いもの」のように感じてしまうお母さんもいます。ドングリを拾ったりお花を摘むのも「汚いから止めなさい」とやめさせるお母さんもいます。そして、消毒は熱心にさせます。でも、ドングリを口に入れても、野に生えている草花をそのまま食べても、泥水を飲んでも、土を食べても、滅多なことでは病気になどなりませんが、消毒薬を飲んだら確実に病院に行かなければなりません。自然界にいる菌よりもはるかに毒性が強いからです。また、最近のお母さんは、昔のお母さんと比べてはるかにオシャレになりましたから、汚されることにも神経質になるのでしょう。お花の場合は「可哀想だからやめなさい」と言う人もいます。そういう人は絵本などでも「オオカミさんが殺されるような話」を嫌います。そして、子どもが遊んでいるような場でも「みんな仲良く」を押しつけてきます。でも、自分は平気で野菜を食べ、肉を食べています。お母さん同士のイジメもあります。家の中もまたオシャレになってきたので、子どもが子どもらしい活動をすると、叱られてしまいます。文明は大人の欲求を満たすために発展してきました。その結果としての現代社会は100%大人のための社会です。現代の都市は、大人の価値観に基づいて、大人が便利に暮らせるように、大人の要求を満たすように人工的に作られています。そこでは「自然」は排除され、子どもの「子どもらしさ」を受け入れてくれる場もありません。私が子どもの頃は、家の近所に空き地や野山もいっぱいあったので、子どもたちはそのような場で子どもらしく遊ぶことが出来ていました。また一緒に遊ぶ仲間もいました。でも、その自然が失われてしまった現代社会では、「子どもらしさ」を受け入れてくれる場が消えてしまいました。「子どもらしさ」を共有して一緒に遊ぶ仲間も消えました。空き地があっても「入るな」と柵がしてあり、自然が豊かな公園でも、「木に登るな」「虫を捕るな」「釣りをするな」「花を摘むな」「勝手に入るな」「ボール遊びをするな」などの立て札が立っています。(そのくせ、外来生物や外来植物はつかまえたり、刈ったりして殺します。)「大人が作った大人のための公園」だからです。先日もある公園で木にロープをぶら下げてブランコを作り遊んでいたら、公園の人が来て注意されました。別のグループの人でハンモックを張っていた人も注意されていました。今のお母さん達の多くは、生まれたときからそのような人工的な環境の中で、大人の支配と管理の基に育ってきました。オモチャも「子どもが選んだもの」ではなく、「大人が与えたもの」で遊んで育ちました。テレビで見る世界も大人が作った世界です。ゲームもまた、大人が作ったものです。そういう環境で育ってしまったため、「子どもの自然な状態に対して違和感を感じる感性」が育ってしまったのだろうと思います。そのような人はまた、「自然」そのものにも違和感を感じるようです。見て楽しむのは好きなんですが、それ以上の関わりは求めないのです。でも、そのような社会の流れの中で、「これはおかしい」「このままでいけない」「子どもを自然に帰さなくては」「子どもが子どもらしく活動することが出来る場を作らなければ」と考える人達も増えてきました。それが「プレイパーク」や「森の幼稚園」といった活動につながっているのだと思います。そのような活動に参加しているお母さん達に、「子どもの頃はどんな遊びをしていましたか」と聞くと、自分自身も自然の中で育ったり、自然と関わって遊んだ人が圧倒的に多いのです。子どもが自然との関わり、仲間との関わりを通してどんなに大切なことや素晴らしいことを学んでいるのかを自分自身の体験として知っているからなのでしょう。私はそういう仲間を増やしたいと思っています。それがまた大人にとっても幸せな社会を作ることにつながるのです。子どもが「幸せ」を感じることが出来ない社会では、大人もまた「幸せ」を感じることが出来ないのです。
2017.02.24
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またまた最初に告知をさせて頂きます。今日は「気質」の講座の案内です。4月から茅ヶ崎でやっている気質の講座の新しいクラスが始まります。月1回で休日にやります。原則として子どもの同伴は出来ません。お母さんや参加者が子どもに意識を取られてワークに集中できなくなるのと、子どもはお母さんが集中しようとすると邪魔をしに来るからです。ただし、ほぼ寝たきり状態の赤ちゃんは相談に乗ります。男性だけや夫婦での参加も大歓迎です。時間は 10:00~12:00参加費は 2000円です。内容は最初の2,3回は話しが多くなりますが、それ以降はワークが多くなります。ご興味のある方は篠までお問い合わせ下さい。************************「気質の話」は今日で一旦終え、明日からは「子育て」について書かせて頂きます。また、気が向いたら書きます。気質のワークをしたり、ブログなどに気質の話を書くと、みんな「自分の気質」が知りたくなるようです。それで「自分が知っている自分」を、それぞれの「気質の特徴」と照らし合わせて、自分の気質を判断しようとします。自分のことを「いつも小さな事を悩んだり、苦しんだりしている」と思い込んでいる人は、「自分は憂鬱質だ」と考えるかも知れません。「自分はいつもイライラして怒ってばかりいる」と思い込んでいる人は「自分は胆汁質だ」と考えるかも知れません。それは、人間には「自分を苦しめている自分の特徴」によって、自分を評価してしまう傾向があるからです。でも、「自分を苦しめている特徴」は「自分本来のもの」ではないのです。なぜなら、人は「自分本来のもの」に由来するものでは苦しまないからです。「自分本来のもの」ではないから、対象として自覚が出来て、また仲良く出来ないのです。多血質の子は落ち着きがありませんが、でも、人に言われない限り、多血質の子は「自分には落ち着きがない」ということを知りません。それをチェックする感覚がないからです。粘液質の子はあまり自分の感情を表現しませんが、自分がそのように見られているということを知りません。憂鬱質の子はいつも色々なことを心配していますが、その自覚はないし、それが「困った事」だとも思っていません。むしろ、他の人が何で心配しないのかが不思議なくらいです。私なんかも「心配しない人」を見ていると心配になってしまいます。胆汁質の子は行動が乱暴で過激ですが、でも本人は普通に行動しているだけです。ですから、自分が憂鬱質の子には「怖い存在」に見えているということなど全く知りません。そのため、憂鬱質の子は胆汁質の子が怖いから避けているだけなのに、胆汁質の子は「あいつは俺のことが嫌いだから俺のことを避けている」などと思い込んでしまうこともあります。それが憂鬱質の子へのイジメにつながってしまうこともあるかも知れません。多血質の人は多血質の特徴では苦しまないのです。憂鬱質の人も憂鬱質の特徴では苦しまないのです。胆汁質の人も、粘液質の人も同じです。その状態が苦しいのなら、その状態は自分本来の状態ではないのです。ですから、その状態を基準にしていたら、いつまで経っても自分の気質は分からないのです。「自分には当たり前のこと」が「自分の気質」を判断する手がかりなんですが、でも、人は「自分には当たり前のこと」が自覚できません。だから「自分に取っては当たり前のこと」が「他の人には当たり前ではない」ということに気付くようなワークが必要になるのです。いくら一人で自分を見つめて考えても分からないのです。日本語しか知らない人には「日本語の問題点や特徴」を理解することが出来ないのです。「自分の位置」が知りたいのなら、自分の足下を見るのではなく、自分の周囲の「全体」を見回す必要があるのです。そのことで人は、「自分からの束縛」から自由になることも出来るのです。
2017.02.23
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最初に生徒の募集をさせて頂きます。毎月、月1で、「ゆりかご」という0才~1才ぐらいまでの子どもとお母さん対象の勉強会をしています。(基本平日で、今のところ月曜日が多いです)3月で1クールが終わり、4月から新しいクールが始まるのでその生徒募集です。会場はJR茅ヶ崎駅の隣のビルです。時間は10:30~12:00で、参加費は1500円です。内容は、・子ど理解のための基礎知識・子どもとの遊び方・オモチャと遊びの話・簡単造形・からだほぐし・気質の話・絵本のあれこれと読み方などなどです。私がこの講座でお伝えしたいのは、「子育ての方法」や「子育てを楽にする方法」ではなく、「子どもと一緒の生活を楽しむための方法」や「子どももお母さんも共に幸せになるための方法」です。ご興味のある方は篠までご連絡下さい。************************世界中にある無数の色は、「赤」、「青」、「黄」の三原色と「明暗」といったたった四つの要素の組み合わせだけで出来ています。これは、気質の世界でも同じで、気質の根本的な因子は「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つだけですが、実際にはそれらが組み合わさり、無数の「気質の形」が存在しています。その無数の「気質の形」を、何らかの特徴を基準にして分類したのがクレッチマーやユングなどの気質分類です。それは例えば、色を、赤・青・黄・緑、橙、紫、藍、灰色などのように分類するのと同じです。それに対して、シュタイナーや私が扱っているのは、それら無数に存在する気質の「原色」に相当する気質です。ですから、よく「私は何質でしょうか」と聞いてくる人が多いのですが、「○○質が強いですね」という答え方は出来ても、「あなたは○○質です」というような答え方が出来るほど単純なものではありません。一般的に、空の色は「青」だと言われています。でも、実際には空には「様々な色の青」があります。水色のような青、藍色のような青、コバルトブルーのような青、紫がかった青、灰色がかった青などもあります。その「様々な色の青」に気付くためには、自分の目で空を見て、自分で確認するしかないのです。自分の目で空を見たことがない人に、「空の色は青だ」と教えてしまうことは「嘘」ではないかも知れませんが、「本当」でもないのです。また、「原色としての気質」が混ざり合うとき、様々な「気質」が生まれます。そして、その「多様な気質」が、文化や社会を多様なものにしているのです。その「気質と文化の関係性」を私なりに考えて、図にしてみました。将来的には変更があるかも知れませんが今のところ、「こんな感じかな」と思っています。どうでしょうか。
2017.02.22
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四つの気質の関係は以下の図のようになっています。胆汁質と粘液質は男性的で安定しているという点では似ています。違いは、胆汁質の人の「気」は上半身に偏りやすく、粘液質の人の「気」は下半身に偏りやすいということです。よく「欧米の人は日本人に比べ、上半身の腕力は強いが足腰は弱い」というようなことを聞きますが、そういうこともこのことと関係しています。それはまた、武術やノコギリなどの道具の使い方にも表れています。上半身型の人(胆汁が強い人)は上半身を使うのが得意です。ですから、粘液質が強い日本人が使うノコギリは腰で引いて切るように出来ていますが、胆汁質が強い欧米の人が使うノコギリは上半身で押して切るように出来ています。上半身型の人は押して力を出すのが得意で、下半身型の人は引いて力を出すのが得意なんです。格闘技でも、レスリングやボクシングといった欧米発祥の格闘技では上半身の力を多く使いますが、相撲のような日本の格闘技は腰の力を多く使うように出来ています。お相撲さんは腕力も強いですが、それ以上に足腰が強くなければ相撲は負けてしまうのです。レスリングは転んでもOKですが、相撲では転んだら負けですから。また、欧米の「剣」は腕や上半身で振りますが、日本の「刀」は腰と腹で振ります。合気道や古武術のようなものでは、「いかに腕の力を使わないようにするか」というような、欧米的な格闘技ではあり得ないような考え方をしています。上半身の力を使うためには腕の力も必要ですが、下半身の力を使う時には、腕の力は逆に邪魔になってしまうからです。また、胆汁質の人が怒りっぽいのも、粘液質の人が滅多に怒らないのもこのせいです。「気」が上がりやすい人は怒りっぽいのです。踊りもまた違います。欧米の踊りはピョンピョン跳ねますが、日本の踊りでは腰をしっかりと落として、あまり上下動させません。ただこの「気」の状態はからだが変わることで変わってしまうこともあります。粘液質が強い人でも、上半身を鍛えることで気が上がりやすくなり「胆汁質」を強めることが出来ます。胆汁質が強く怒りっぽい人でも、下半身を鍛えることで気が下がり、粘液質的に感情が安定してきます。年を取って下半身が萎えてくると、気が上がりやすくなり、怒りっぽくなることもあります。そんな時はお散歩などをいっぱいするように勧めて上げることで、「怒りっぽい」という状態を和らげることが出来ます。また、現代人は昔の日本人と違って足腰を使わない生活をしているので、気が上がりやすくなってしまっています。そのため、イライラしやすくなってしまっています。多血、胆汁系の人は足腰を使わなくてもあまり問題はありませんが、粘液、憂鬱系の人は足腰をいっぱい使わないと不安定になりやすいのです。そういう視点で考えると、日本人は「楽で簡単便利な生活」には向いていない民族なのかも知れません。気質は「からだの状態」とつながっているので、「からだ」を変えたり、「からだの使い方」を変えることで(本質的な気質が変わるわけではないのですが)その状態を調整することが出来るのです。
2017.02.21
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古来より、東洋にはこの世界の全ての変化や動きを、「陰」と「陽」の二つの働きの結果だとみる思想があります。それが、以下の図ですが、皆さんもこの図はどこかで見たことがあると思います。ちなみに、季節や気質の文字は気質とのつながりで私が付け加えたものです。「陰陽」と聞くと、古くさくて迷信的な印象を持たれる方もいらっしゃるかも知れませんが、でも、物理学などでも、基本的には似たような考え方をしているのでこれは「古来からある普遍的な事実」であって、古くさいわけでも、迷信でもありません。ただ、物理学では「引力」と「斥力」という言葉や、「エネルギー保存の法則」とか、「プラス」と「マイナス」という言葉を使っているだけです。ちなみに、「陰」と「陽」は、単に、エネルギーの流れの向きが逆なだけで、本質的には同じものです。「陰」の他に「陽」というものがあり、「陽」の他に「陰」というものがあり、「正義」と「悪」のようにそれらが対立して勢力争いをしている」ということではありません。また、光がいっぱいになると明るくなり、光が少なくなると暗くなるというような意味での「明」と「暗」の関係でもありません。「陰」を「静脈」に例えると、「動脈」を「陽」に例えることが出来ます。この時重要な考え方は、「静脈を止めてしまうと動脈も止まってしまう」ということです。逆もまた同じです。「静脈」の動きが「動脈」を動かし、「動脈」の動きが「静脈」を動かしているのです。ですから、「動脈には用があるけど静脈には用がない」と「静脈」を止めてしまうと、必要だったはずの「動脈」まで止まってしまうのです。動脈を流れている血液の量(エネルギー)も、静脈を流れている血液の量(エネルギー)も同じです。また、四季の変化も「陰陽」の考え方で説明されてきました。春になると、大地や、木々や、種の中に隠れていたエネルギーが、「目に見える世界」、「外側の世界」に現れてきます。それが「陰」から「陽」に変化する状態です。夏になるとますます「陽」(目に見える世界のエネルギー)が強く、「陰」(目に見えない世界のエネルギー)が弱くなります。でも、「陽」がいっぱいになって容量限界に近づくと、そのエネルギーの一部が「目に見えない世界」に流れ込み初め、「陰」に変化し始めます。「見える世界」と「見えない世界」のエネルギーを足した総量は一定なんです。またそれは、上に投げたボールが、限界の高さに達した後は落下するのと同じです。「上昇」と「落下」は向きが逆なだけで、本質的には同じ現象です。この瞬間を動画にとって、逆回ししても両者の区別はつきません。ボールが持っているエネルギーの総量も一定です。(低い位置にあるときには運動エネルギーが大きく、位置エネルギーは少ないです。でも、頂点にあるときには運動エネルギーは消えますが、位置エネルギーがmaxになります。)この「陽」が極まって、その中に「陰」が生まれ始めている時の状態が「胆汁質+憂鬱質」の状態です。また、ボールは上昇しているときでも、落下しているときと同じ力を受けています。その「力」を「重力」というのですが、その「重力」の働きが、地球上のものが宇宙に飛び散っていかないように支えてくれています。また、太陽のエネルギーが、地上のものが上に向かうエネルギーを与えてくれます。命のエネルギーもその大元は太陽のエネルギーです。私たちは地上で起きている様々な変化や現象を目にしていますが、その変化や現象の背景には、重力とか太陽といった「目には見えない宇宙的な力」が働いているのです。四季がちゃんと繰り返されているのも、この「宇宙的な働き」のおかげです。「四つの気質」にも同じような力が働いています。だから気質はつながり合い、支え合うようになっているのです。その「四つの気質を一つにつなげている働き」を、私は「空」(くう)と呼んでいます。「空」は四つの気質を入れる「器」です。「空」自体は存在ではありませんが、「空」がないと、「存在」が存在し得なくなってしまうのです。以下の図は、友人の書道家に描いてもらったものです。ただ、このような考え方はシュタイナーの気質論にはないと思います。
2017.02.20
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気質を四季と色に例えると、「多血質=春・黄色」、「胆汁質=夏・赤」、「憂鬱質=秋・青」、「粘液質=冬・緑」になるのですが、これらの隣り合っている季節同士は混ざり合いやすく、混ざり合って、それぞれ元の気質とは異なった気質を形成します。それは「黄色」と「赤」が混ざって、「オレンジ」という独自の色が生まれるのと同じです。ただその時でも、「黄色に近いオレンジ」と、「赤に近いオレンジ」があります。「多血質」と「胆汁質」は「人間の社会」や「現実の世界」に興味があるという点で共通しています。そして、「見えない世界」や「内的な世界」にはあまり興味がありません。「遠い過去」や「遠い未来」や「遠い宇宙」にもあまり興味がありません。そんなこと考えても何の役にも立たないからです。そういう点で住んでいる世界は一緒なんです。(多血質の人は色々なことに興味を持つことはありますが、基本的に「なんとなく分かればOK」なので、専門的に勉強しようとはしません。でも、友達と美味しいものを食べに行くようなことには積極的です。)違いは、多血質の人の行動は基本的に感覚的で、感情的であるのに対して、胆汁質の人の行動にはしっかりとした(自分なりの)論理と意思があるという点です。ですから、両者が同じ事を学んでも、多血質の人はいつまでも生徒のままですが、胆汁質の人は先生を目指す可能性が高いです。ただこの違いは明確なものではありません。「黄色に近いオレンジ」や「赤に近いオレンジ」があるように、「多血に近い胆汁」もあれば、「胆汁に近い多血」もあります。憂鬱質と粘液質も、粘液質と多血質も自然に混ざります。憂鬱質と粘液質は、社会的な価値にはあまり興味がないという点では共通しています。違いは、憂鬱質の人は「自分の心との対話」が好きですが、粘液質の人の場合は「自分のからだとの対話」が好きだということです。胆汁質の人は意思を使って自分のからだを道具のように使います。多血質の人は感情を通して自分のからだと遊びます。粘液質の人は感覚を通してからだと対話します。でも、憂鬱質の人にとって「からだ」は「心の器」であって、道具でもないし、一緒に遊んだり対話する対象ではありません。このような違いがあるのですが、胆汁質と憂鬱質の組み合わせが一番やっかいなんです。胆汁質は強い世界や、強い刺激や、目立つものを好みます。でも、憂鬱質は強い世界や、強い刺激が苦手で、目立たないものが好きです。胆汁質はからだを道具のように使おうとします。でも、憂鬱質はからだの中に隠れようとします。この両者はある意味で正反対の特質を持っているのです。季節でも、夏から秋は、「動」から「静」へと移行する時期でもあります。でも、この時期の天候は不安定で、「秋の静け」さに向かおうとすると、すぐに夏が「負けてたまるか」と「動の強さ」を出そうとします。この駆け引きがしばらく続くと、落ち着いた「秋」になるのですが、駆け引きが多く、一番不安定な状態の時に相当するのが「胆汁質+憂鬱質」なんです。この気質の人は「動」に対するあこがれもありますが、同時に「静」に対するあこがれもあるのです。そのため、いつも心が上がったり下がったりしています。
2017.02.19
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「気質」はその人の感覚や、からだや、生命の状態とつながっているので、そう簡単には変わりません。しつけや教育でも変わりません。でも、「見かけ上の気質」は、育ちの過程や、生活の中で変化していくことがあります。人間は常に自分が置かれた状況に適応しようとするので、本来はその状況に向いていなくても、なんとか自分が持っている特性の中で使えるものを使って、代用しようとするのです。その適応性の高さも人間の特性の一つでもあります。目が不自由な人は耳が目の代わりをします。手が不自由な人は、足や口などがその代わりをします。思考力に劣る人は暗記力で対応しようとします。創造力に劣る人は、情報力で対応しようとします。そして、最初からそれに適応した人ほどではなくても、なんとか必要な範囲での活動は出来るようになるのです。でも、代用は出来ますが、あくまでも「代用」なのでその活動が「生きがい」になることはありません。先日、畑仕事をしているときに耕耘機の整備で急にトンカチが必要になりました。(畑も耕耘機も借り物です。)でも、トンカチは持ってきていませんでした。それで、シャベルの柄の部分を使ってトンカチの代用をしました。それでなんとか間に合いました。シャベルとトンカチは全く用途も形状も違いますが、「固く、それなりに重く、持ちやすい」という特性を使うことで、トンカチとして使うことが出来たのです。でも、本来の「トンカチ」は最初からその目的のために作られているので、効率もいいし、そういう使い方をしても壊れませんが、「シャベル」は一時的な代用品としては使えますが、日常的に「トンカチ」の代用品として使うのには効率が悪いし、それを続けていたらやがて壊れてしまうでしょう。そして、気質でも同じようなことが起きているのです。また、もう一つやっかいなことがあります。それは「人間は嘘をつく」ということです。人は他人に対してだけでなく「自分自身」に対しても嘘をつきます。多分、自分に対してまで「嘘」をつくことが出来るのは人間だけだと思います。そして、この「自分に対する嘘」が気質の状態をさらに分かりにくくしているのです。役者は自分が演技していることを知っています。ですから、舞台から降りたり、カメラが止まれば「普段の自分」に戻ります。でも、日常生活の中で、「本来の自分とは異なる自分」を要求され続けていると、最初のうちは単なる演技だったのに、その状態に慣れてしまうと、次第に、どれが「本当の自分」なのかが分からなくなってしまうのです。普段は大人しく、自分を主張しないタイプの人でも、例えば教員のように、子どもの前ではちゃんと自分を主張し、胆汁的に振る舞わなければならない状況の中で仕事をしていると、その状態に慣れてしまい、「本来の自分」が分からなくなってしまうことがあるのです。それは「性格の変化」として表れますが、「気質」が変わったわけではありません。ただ単に、いつもトンカチのように使われているシャベルが、「自分はトンカチだ」と思い込むようになってしまっただけのことです。でも、本当の「トンカチ」ではないので、無理があります。ですから、トンカチとして活動できることは出来ても、当然効率は悪いです。また、その活動に幸せを感じることもありません。そういうことがあるので、私は気質の「自己申告」はあまり信用していないのです。実際、どうみても憂鬱質には見えない人が「私は憂鬱質です」と言ってくることが多いのです。またその「無理」はからだに出ます。無理を続けていると、からだが緩まなくなってしまうのです。すると、「原因不明の漠然としたイライラと苦しみ」が日常的になってしまいます。なんとなく、「今の自分は本当の自分ではない」というような「自分自身に対する違和感」も感じます。「トンカチ」は釘を打っているときに喜びを感じるでしょう。「シャベル」は土を掘り返しているときに喜びを感じるでしょう。人は、「自分の気質」をちゃんと生かした生き方が出来ているときには、生きていることに喜びを感じるのです。必要に応じて「違う気質」を演じることも出来ますが、そういうときには幸せを感じることが出来ないのです。ですから、誰かの気質を知ろうとするなら、単にその人の気質的な状態を見るだけでなく、「その人が生き生きとしているかどうか」ということも見る必要があるのです。そしてそれは「からだの状態」と「表現」に表れます。だから、「気質の学び」では「からだの学び」と「表現」も必要になるのです。「からだ」や「表現」とつながげて見ようとしない「気質」の話は、個別の問題に対応することが出来ない単なる「気質論」に過ぎません。
2017.02.18
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胆汁質の人は激しく、攻撃的で、活発です。自己主張が強く、人の話を聞かず、自分のやり方にこだわる傾向があります。「人と同じ」が嫌いなので、独創的な面もあります。「勘」で動くことが多いので反応も早いです。決断も早いです。でもそのため、勘違いすることも多いのですが、もともと失敗を恐れない性格なので、勘違いも気にしません。それに成功したことは覚えていても、失敗したことはすぐに忘れてしまう傾向もあります。また、周囲の人間を「敵」と「仲間」に分けようとする傾向があります。そして、「仲間」は守ろうとしますが、「敵」とはすぐに対立します。物事を対立構造と因果論で考えるのが好きです。そのため、一見、科学的、論理的に見えますが、思い込みも強いので、自分に都合の良いように論理を組み立てる傾向があります。そして、自分の間違いは認めません。多血と違って自分から「群れ」に入ることはありませんが、自分の周りに「群れ」が出来ることは喜びます。そのような特性から様々な場で、良い方向でも、悪い方向でも、リーダーになることが多いです。暴走族の親分や、会社の創業者の多くはこのタイプです。ちなみに、多血質の人は自分では決断できないので、胆汁質の人に頼ります。粘液質の人はこのような胆汁質の人とは多くの面で正反対です。大人しく、自分を主張することもありません。胆汁質は一番目立つ気質ですが、粘液質は一番目立たない気質です。相手を説得するよりも、相手の言葉に耳を傾けようとします。全体を見て、じっくりと考えてから決断を下します。「決断が出来る」という点では胆汁質と似ているのですが、胆汁質は「勘」で判断するために素早く決断が出来るのに対して、粘液質はあれこれ考えてちゃんと納得できないと決断しないので、決断までに時間がかかります。また、粘液質の人は、物事を「対立構造」ではなく、「つながり」として見る傾向があります。結論を出すまでに時間がかかるのもそのためです。でも、決断した後は迷いません。ちなみに、多血質と憂鬱質は決断した後でもフラフラ迷います。また、物事を「つながり」として見ているので、敵も生まれません。自分を主張することもありません。山登りのようなグループで先頭を歩きたがるのが胆汁質で、一番後ろを歩きたがるのが粘液質です。全体の様子をみて調整するのが得意なんです。でもそのため、存在感は薄いです。ファッションにもあまり興味がありません。目立ちたいとも思いません。憂鬱質の人は目立つのを嫌がりますが、粘液質の人はもともとそういうことに関心がないのです。また、胆汁質の人は独創的ですが、粘液質の人は独創性においては一番低いです。ですから、芸術家というより、職人に向いています。このように胆汁質と粘液質とでは状態は逆さまなんですが、昨日も書いたように、両者はネガとポジの関係で、ある意味では似ているのです。実際、共通している部分もいっぱいあります。まず、胆汁質と粘液質は比較的安定しています。胆汁質は感情表現においては大げさですが、自分で自分を否定するようなことがないので、精神的には安定しているのです。また、両者とも「一人」を嫌がりません。人と違うことも気になりません。決断も出来ます。そして、胆汁質が一番苦手なのも粘液質です。多血質の人は胆汁質にあこがれがあるので比較的従順です。憂鬱質の人は胆汁質の人に反抗できません。でも、粘液質の人は胆汁質の人を怖がりません。すごいなとは思いますが、あこがれたりはしません。また、勘や思い込みで動いている胆汁質に、事実や道理を突きつけるので、胆汁質はイライラするのです。また、気質関係の本には「胆汁質はリーダーに向いている」と書いてありますが、でも、日本では単に「胆汁質が強い人」よりも、「胆汁質が強い粘液質」の方がリーダーには向いています。日本では自己主張が強いリーダーよりも、みんなの意見を聞いてまとめるような調整型のリーダーの方が好まれるからです。「胆汁質が強い粘液質」という表現は分かりにくいかも知れませんが、2月7日のブログにも描いた図で表すと、こんなタイプです。同じ粘液質でも、胆汁が少ない以下のタイプの粘液質はリーダーには向きません。胆汁にも色々あり、粘液にも色々あるのです。
2017.02.17
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気質には基本パターンとして「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つがありますが、それぞれに似ているとこともあれば、全く正反対なところもあります。「多血質」と「胆汁質」は、「現実的」、「積極的」、「活動的」、「自分を表現するのが好き」という点で似ています。ただ、多血質の人は、単に、「興味があるから」、「楽しいから」という個人的な動機だけで行動することが多いのに対して、胆汁質の人の場合は、「その活動に意味があるから」とか、「必要なことだから」とか、「正しいことだから」とかいうような「社会的な価値観」に基づいて行動することが多いです。また、「何のためにやるのか」という「目的」や「自分の努力の結果にはどのような価値があるのか」ということも気にします。ですから、政治家には胆汁質の人が多いです。また、自分の「達成感」や「やりがい」を求めて活動する人も多いです。そのため、スポーツマンにも胆汁質は多いです。ただし、スポーツによっても気質との相性は異なります。また、「専門家の先生」として社会的に広く活動しているような人にも胆汁質が強い人が多いです。そのため、胆汁質の人は社会に対して強い影響力を持っています。それに対して、多血質の人は「先生」よりも「生徒」の側に多いです。「一つのことを極める」というよりも、あれこれ色々なことを知りたいだけだからです。また、ちゃんとした目的を持って学んでいるわけではないので、何年、生徒として学んでもあまり上達しません。そして上達しなくても気にしません。また、生産するよりも消費する方が好きです。将来のために我慢することよりも今を楽しむことを優先します。「アリとキリギリス」の童話に例えれば、「キリギリス」の方です。ちなみに、あの童話の中の「アリ」は粘液質的です。でも、多血質の人がいるから、多様性が生まれ、文化の裾野が広がり、生活が豊かに、そして、楽しくなるのです。そんな「多血質」は「春」に例えられるのですが、「秋」に例えられる「憂鬱質」とも似ているところがあります。明るく楽しく社交的な「多血質」と、人前では自分を見せず、楽しそうでもなく、社交的でもない「憂鬱質」とでは全く正反対のように見えるのですが、でも、「正反対」ということは、写真のネガとポジ(知っていますか?)の関係のように、パターン的には似ているということでもあるのです。両者に共通しているのが「社会的な意味や価値にはあまり興味がない」ということです。多血質も、憂鬱質も、自分の趣味や興味の方が、社会的な意味や価値よりも大切なんです。また、両者とも感情が不安定です。何かを決めるのもあまり得意ではありません。一人で決める場合も、話し合って決める場合も、とにかく「決める」ということがあまり得意ではないのです。そのため、リーダーには向きません。実際、「春」と「秋」は色々な点で似ていますよね。「春」は眠っていたものが目覚める季節であるのに対して、「秋」はその逆に、目覚めていたものが眠りにつく準備を始める季節という点では逆なんですが、写真のネガとポジのようにパターンとしては同じなんです。簡単に言うと、裏表をひっくり返せば重なってしまう関係にあるということです。(夏に例えられる胆汁質と、冬に例えられる粘液質もそういう関係にあります。)そのため、多血質の人は辛いこと、悲しいこと、苦しいことが続くと、まるで憂鬱質の人のようになってしまうことがあります。その逆に、憂鬱質の人は、楽しいこと、幸せなこと、自信が付くようなことが続くと、多血質の人のようになります。でもだからといって、本質的な気質が変わるわけではありません。ワークなどで色々な表現をしてもらうと、憂鬱質のように見える人でも多血質の人は多血的な表現になり、憂鬱質の人は憂鬱的な表現になるからです。気質の働きは、その人の感覚や、からだの状態とつながっているものなので、そう簡単には変わらないのです。また、「胆汁質」は「夏」に、「粘液質」は「冬」に例えられるのですが、「胆汁質」と「粘液質」も似ているところがあります。ということで、明日に続きます。
2017.02.16
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人は他の人の「心の中」を見ることは出来ません。そのため、「自分の心」と「他の人の心」を比較することが出来ません。じゃあ、「自分の心」のことなら知っているのかというと、「自分の心」のことも知りません。これは、「心」だけでなく人間の全ての感覚について言えることなんですが、人間には「自分自身を感じる感覚」は備わっていないからです。また、何かを知るためには、かならずそれと比較するものが必要になります。生まれたときからずーっと同じ音楽しか聞いたことがない人は、「音楽」について語ることは出来ないのです。自分が聞いてきたものが「音楽だ」ということすら知らないでしょう。これは、自分の「心」に対しても同じです。確かに私たちは、自分の心の中で起きている様々な出来事は知っています。そして、その出来事を通して、自分の「心」を認識しています。でも、認識出来ているのは「心の中の出来事」だけであって「心そのもの」が認識出来ているわけではないのです。例えば、北海道に住んでいて、北海道の中で起きていることをどんなに詳しく知っていても、北海道から出たこともなく、北海道以外のことも知らない人は「北海道」について語ることは出来ません。また、日本人は日本の国内で起きた色々なことを知っています。そしてそれが「日本」だと思い込んでいます。でも、日本の国内で起きた色々なことを知っているだけでは「日本」のことを知っていることにはならないのです。そこにあるのは「思い込みとしての日本」だけです。そして「思い込みとしての日本」を、「実際の日本の姿」だと勘違いしている人がいっぱいいます。また、「思い込みとしての心」を、「実際の自分の心」だと勘違いしている人もいっぱいいます。「自分の心」に苦しんでいる人を苦しめているのも、「思い込みによって創られた心」です。本来、「心」は鏡のようなものなので、その中に映っているものをいくら調べても、「心」そのもののことは分からないのです。そして、「気質」で相手にしているのは「鏡に映っているもの」ではなく、その「鏡そのものの特性」なんです。でもそれは他の鏡と比較してみることによってしか分かりません。同じものを別の鏡にも映してみて、その像の違いを比較することによってしか、鏡の特性は分からないのです。たとえば、子どもたちを森の中に連れて行きます。その時、物理的にはみんな同じ「森」を体験しているはずなんですが、子どもたちは一人一人異なったことを感じ、考え、異なったことに意識を向け、異なった行動を始めます。ですから、森から帰った後、その森について感想文を書かせたり、記憶で森の絵を描かせれば、みんな異なった感想文を書き、異なった絵を描きます。その「異なり」を創り出しているのが「気質」なんです。でもその時、大人が「感想文」や「絵」に何らかの正解を求めてしまうと、子どもたちは自分の心に嘘をついて、大人の期待に合うような感想文を書いたり、絵を描くことになります。その結果、子どもの「気質」は見えなくなります。子ども自身も、「他の心」と出会えなくなり、「自分の心」について知る機会を失います。そして、「思い込みの心」だけで生きていくことになります。そのような人ほど自分の「気質」が分かりません。「気質」に気付き、「気質」を大切にし、「気質」を育てるためには、「表現の自由」が必要なのです。「自分の心」を自由に表現しないことには、「自分の気質」は分からないのです。でも、日本では「自分の心」を自由に表現することは嫌われます。それが、粘液質や、憂鬱質が強い日本人の精神文化なのでしょうが、そのことがまた、粘液質や憂鬱質の人達の生き方を苦しくしているのです。「自分の心を表現したくない」という気持ちは大切にされるべきだと思います。でも、「自分の心を表現してはいけない」という文化は変わるべきなのではないかと思うのです。もうそういう時代ではなくなってしまっているのですから。そしてそのためには、大人の意識や、子育てや教育の現場が変わる必要があります。また、私たち大人一人一人が、もっと自分の心を自由に表現するように努力する必要もあります。人と違ったっていいのです。そういうことを自由に肯定できる社会を創りたいと思いませんか。「気質」の学びはその役に立つのではないかと思うのです。
2017.02.15
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以下は、「木を描く」というワークの時の写真です。大きさは自由、表現も自由、全体を描かなくても、部分だけでもOKという前提で描いた絵です。写生ではないので、100%心の中にある「木」のイメージです。それはまた、「木の姿を借りた、自分自身の心の絵」でもあります。上手下手を見るのではなく、これを描いた人が「何を大切にしているのか」ということを感じ取ってみてください。一枚だけでは分かりませんが、こうやって何人かの絵を並べてみると、人によって「大切にしていること」が違うことが分かりますよね。自分にとっての「当たり前」が、必ずしも他の人には「当たり前ではない」ことも分かりますよね。それが気質のワークの目的です。みんな、「何を大切にしているのか」ということが違うことが分かりますか。以下は、慶応大学の学生を相手に「自分が住みたい村・町を描いてみよう」というテーマで描いてもらったときの絵です。これは、気質ごとにグループに分かれてもらいました。ただ、本人達は自分の気質が分からないので、気質と関係のある色への印象で分かれてもらいました。上の2枚が、「緑や茶色や自然を感じるような色が好きな人」のグループです。粘液質タイプの人が多いです。このワークはどこでやっても似たようなパターンに分かれるので面白いです。粘液質が多いと思われる人達は、畑や田んぼや牧場があるようなのどかな「里の村」を描くことが多いです。大抵、川があって、実のなる木が描いてあります。子どもが遊んでいたり、生活を感じるようなものが描かれています。以下は、青や黒や、「深い」という言葉とつながるような色が好きな人のグループです。このグループの人には憂鬱質が強い人が多いような気がします。そして、このグループの人達はどこでやってもまず、大きな山や自然から描き始めます。生活を感じるようなものはあまり描きません。家と家も離れています。山の中の一軒家に住みたいという人もいます。下の方に見えるのは大きな木です。「生命の木」なのでしょうか。この写真には写っていませんが、一番下には海があって、小舟が一艘浮かんでいます。「生活に必要なものは、この船で隣町まで買いに行くので自分たちの村には大きなお店はいらない」そうです。別のところでやったときには、船ではなく電車の場合もありました。以下は、ピンクや、黄色や、水色といった「軽く、明るい色」が好きな人のグループが描いた絵です。多血質の人が多いような気がします。まだ学生だからと言うこともあります、ちょっとぶっ飛んでいます。ちなみに多血質の人は足し算は得意ですが、引き算が苦手です。それで欲しいものを全部描き込んでしまうのです。道もありません。それで「どうして道がないの?」と聞いたら、「だって道があったら不自由じゃないですか」と言われました。以下は赤や、紫やといった「強い色」が好きな人のグループです。胆汁質の人が多いと思います。どこでやってもこのグループは都会的な町を描きます。そして、町には病院、学校、その他様々な施設があって機能的です。自然も描かれることはありますが、あまり重要視されていません。すごいでしょ。人の心には、こんなにも大きな違いがあるのです。私は、多くの人に、その違いに気付いてもらうためにワークをやっています。お呼び頂ければ、日本中どこへでも行きますよ。ワークショップの料金など知りたい方は、こちらをご覧下さい。
2017.02.14
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気質のワークでは、「怒り」苦しみ」「悲しみ」「楽しい」(嬉しい)などの感情を絵に描いてみよう」というようなこともします。そこでは本当に様々な表現が出て非常に面白いのですが、実際のワークの時の写真が見当たらなかったので、ワークによく出てくる「怒り」のいくつかのパターンを私が簡単に描いてみました。まず、爆発型。ドッカーンという感じの怒りです。グツグツ型我慢型漠然とした怒り実際には、もっともっと不思議で変わった「怒り」の表現がいっぱいあります。「〝怒り〟というテーマで、自分の心の中に感じた、色や形やイメージを描いて下さい」という同じテーマで描いてもらうのですが、本当に人によって「怒り」のタイプが違うのです。でも、こういうワークをしないと、なかなか人によって「怒り」が違うなどということは分からないのです。これは他の感情でも全く同じです。中には、「怒りのイメージが出てこない」という人もいますが、その場合は、「怒り」がないか、今まさに本当に怒っている人だと思います。実は、本当に怒っている人や、本当に苦しんでいるような人は、自分の感情と客観的に向き合えない状態なので、絵として表現出来ないのです。また、自分の中にその感情がない人も描けません。世の中には、「悲しいってどういうことかよく分からない」とか、「苦しいってどういうことなのかよく分からない」という人もいるのです。爆発型の怒りは、怒りのエネルギーを周囲にまき散らします。ですから周囲も「今怒っている」ということが分かりやすいです。多血質の人は怒るとイライラし始めます。ですから、多血質の人の怒りも分かりやすいです。でも、粘液質と憂鬱質の人の怒りは、分かりにくいです。また、粘液質の人の中には「怒りと悲しみの区別が付かない」という人もいます。「怒り」と向き合おうとすると悲しくなってしまうというのです。それでも表現すると、グツグツと底に沈んでいくような怒りだと思います。でも、粘液質の人の場合は、しばらくすると、その怒りは土と同化してしまいます。憂鬱質の人が怒ると、我慢型の怒りになることが多いような気がします。このタイプの怒りは、周囲には見えません。また、本人も周囲には見せないようにしています。でも、心の中に固く冷たい怒りがあって、その怒りの重力(引力)ために、心もからだも身動きが困難になってしまいます。また、憂鬱質の人が怒っている時には顔の表情も消えます。爆発型の怒りは、爆発してしまえば消えてしまいますが、このタイプの怒りはエネルギーの出口がないので、なかなか消えません。四番目の怒りは、何かよく分からない怒りです。不安と悲しみも入り交じっています。私の怒りはこんな感じかも知れません。あと、多血質の人の「イライラ」は、単にからだの状態から来ていることが多いので、美味しいものを食べ、温泉にでも入り、ゆっくりとマッサージでもしてもらえば少なくともその「怒り」は消えてしまいます。多血質の人の「怒り」は「心の状態」ではなく単なる「からだの状態」なんです。でも、他の気質の人の怒りはそんなことでは消えません。そのため、他の気質の人の「怒り」というものがよく理解出来ません。
2017.02.13
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気質が異なれば、感じ方も、考え方も、感情も異なります。でも、人は自分以外の人の感じ方や、考え方や、感情の状態を知りません。粘液質や憂鬱質が強い日本人は、積極的に自分を表現する文化を持っていないのでなおさらです。粘液質や憂鬱質が強い人は「自分の世界」に閉じこもりやすいのです。そのため、「外の世界」のことは知りたいのですが、「自分の世界」から外に出て行こうとはしません。そして、「自分の世界」の中に居ながらにして、色々、見たり聞いたり、勉強したりして「外の世界」のことを知ろうとしています。でも、「自分の世界」から外に出ないので、肝心の「自分のこと」が分からないのです。そして、「自分の常識や思い込みで作られた自分」に囚われて生きています。そのため、過大評価したり、過小評価したり、また全く周囲が思ってもいないような評価を自分自身に与えたりもしてしまいます。そこに客観性はありません。他の人にはライオンのように見えるのに、「自分はか弱いネズミだ」と思い込んでいる人も、他の人にはか弱いネズミに見えるのに、「自分は強いライオンだ」と思い込んでいる人もいます。でも、単に自分一人で思い込んでいるだけならいいのですが、その態度で他の人と関わったら、おかしなことや困った事が起きてしまいます。でも、「思い込みの人」にはその理由が分かりません。いくら本人は「ネズミ」だと思い込んでいても、ライオンが近づけば、ネズミも、ウサギも、鹿も逃げます。でも、「ネズミだと思い込んでいる人」にはその理由が分かりません。人は常に「自分」を基準にして相手のことを評価しているので、「自分」のことがちゃんと理解出来ていない人には、相手の考えや行動をちゃんと理解することは出来ないのです。そんな「自分の世界」に閉じこもっている人に分かるのは、常に「自分にはどう見えるか」ということだけですです。それは自分にとっては真実であっても、相手にとっては真実ではありません。そこで誤解が生まれます。また、自分自身の課題も見えてきません。ということで続きにさせて頂きます。
2017.02.12
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仏教はお釈迦様の教えを聞いた人達が、他の人達や、他の民族や、他の国の人達に伝えていく過程で生まれました。お釈迦様自身は「教え」を説いただけで、「仏教」を説いたわけではありません。そして、お釈迦様は一人だけなんですが、それが色々な人、色々な民族、色々な国に伝わるうちに、大きな区切りでは「仏教」ですが、実際の内容では大きく異なる「多様な仏教」が生まれました。チベットではチベット仏教が生まれました。中国に渡った仏教は中国でも多様な派に分かれ、日本に渡ってさらに多様な派に分派しました。ちなみに、ウィキペディアで見たら、現在日本には、18の仏教があるそうです。三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗などです。その日本に来た派は、大きなくくりでは「大乗仏教」と呼ばれていますが、東南アジアで信仰されている仏教は「小乗仏教」と呼ばれています。ちなみに、大乗仏教では厳しく戒律を守ることよりも、「心の中の信仰」の方に重点が置かれています。それに対して、小乗仏教では「心の中」だけでなく、同時に厳しい戒律を守ることも大切にされています。(大雑把な違いとして、ということです。)ちなみに、仏教はインドで生まれましたが、次第にヒンズー教に飲み込まれ、今ではお釈迦様もヒンズー教の神様の一人になってしまっています。お釈迦様だけではありません、あろうことか、「イエス・キリスト」までもヒンズー教の神様の一人になってしまっているのです。多様に分派したのは仏教だけではありません。キリスト教も同じような歴史的経過をたどり、現在、世界中には様々な「キリスト教」が存在しています。ではどうして、原点はたった一つなのに、それが伝えられていくうちに、このように多様なグループに分かれて行ってしまうのかということです。でもだからといって、無数に分かれてしまうわけでもありません。人の数だけに無数に分かれてしまったら、宗派自体が消えてなくなってしまっているはずだからです。どうしてそのように分かれてしまうのかというと、人は「教えられたこと」をそのまま伝えるのではなく、自分なりに理解や解釈をしたものを、他の人に伝えようとするからです。じゃあどうして、人間の数だけの解釈がないのかというと、人には「解釈のパターン」があるからです。ですから、みんな自分なりに解釈をするのですが、他にも必ず自分と同じような解釈をする人がいるのです。私は、私が理解、解釈したことをブログに書いています。その理解や解釈の背景には、私の個人的知識、個人的体験が働いています。でも、それをお読み頂いて共感して下さっている人もいっぱいいます。ここのところの日々のアクセス数は4000ぐらいですから、少なくとも、それぐらいの人は共感して下さっているわけです。もちろん、このブログをお読み頂いている人達と私とでは、個人的知識も、個人的な体験も異なります。でも、物事の理解や解釈のパターンが似ているのです。だから共感して読むことが出来るわけです。「気質」は、その理解や解釈のパターンともつながっています。同じ話を聞いても、人はみな自分の気質に合わせて理解し、解釈しているのです。ですから、元々は一つでも、そのことを受け継いだ人達は、気質ごとに異なったものを受け継いでいるのです。そして人は、自分が受け継いだものを伝えようとするのですが、そこでもまた同じ事が起きます。じゃあ、その繰り返しで、どんどん違ったものになってしまうのかというと、そういうわけでもありません。上にも書いたように、人間の理解や解釈のパターンには限りがあるので、弟子が、師匠とは異なったことを孫弟子に伝えても、孫弟子の中には最初の師匠と同じような理解をする場合もありえるからです。アッシジのフランチェスコは、中世の歪んだキリスト教の教えを受けて育ちました。でも、その教えにはなじめず、結局は「イエス・キリスト」そのものの生き方に回帰しました。キリスト教と仏教はその成り立ちにおいて全く異なるものですが、でも、キリスト教の中にも仏教に共感的な人達も多くいます。また逆に、仏教の中にもキリスト教に共感的な人達も多くいます。今、遠藤周作が書いた「沈黙」という小説を元にした映画が上映されていますが、遠藤周作やその友人の井上洋二という神父などは仏教的な感性を持っていました。シュタイナー教育とモンテッソーリメソッドは、その理論も方法も全く異なりますが、でも、シュタイナー教育の中にもモンテッソーリ的な感性の人もいれば、モンテッソーリをやっている人の中にもシュタイナー的な感性の人もいます。西洋にも東洋的な感性を持っている人もいれば、東洋にも西洋的な感性を持っている人はいます。人間は一人一人違った感性を持ち、違った考え方をするのですが、そこにはある種のパターンがあるのです。そして、感性や思考のパターンの人同士は理解し合いやすいし、またつながりやすいのです。「類は友を呼ぶ」という諺通りです。でも、実際の生活では、自分と同じ感性、同じ思考パターンの人とばかり付き合っているわけにはいきません。また、パートナーは選べますが、子どもや同僚や上司は選べません。そんな時、「ああ、この人はこのパターンの感性を持っていて、このパターンの考え方をしやすいタイプの人だ」と知ることで、誤解をなくし、お互いに理解し合える可能性も広がってくるのです。
2017.02.11
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「気質」の特性を理解するには、「気質」を方角を表す東・西・南・北に例えると分かりやすくなると思います。日本は縦に長い国ですから、同じ日本の中でも南の方と北の方では全く気候も風土も違います。北海道は北の方に位置して、九州は南の方に位置しています。そして当然、北海道の方が九州よりも平均気温は低いです。そのため、生えている植物も、住んでいる動物も大きく異なっています。北海道にも九州にも四季はありますが、その変化の仕方は同じではありません。その北海道、九州という「位置」に相当するのが、「その人固有の気質」です。でも、北海道に住んでいる人も、当然のことながら、家の中に閉じこもっているわけではなく、自分の家を中心にして、南にも、西にも、東にも、もちろん北にも移動しながら生活しています。南の方のお店に買い物に行けば、帰りは北の方に向かって歩くことになります。途中、東や西のお店に寄るかも知れません。それが「気質の日々の変化」です。そして、その「日々の変化」は自分でも自覚出来ます。「自分の家」という基準があるからです。でも、その「自分の家」が北海道という「北の国」にあるのか、九州という「南の国」にあるのかまでは、日々の自分の変化を見ているだけでは分かりません。「自分の家」を基準にして「現在自分のいる位置」は確認出来ても、その基準としている「自分の家の位置」を確認するための方法を持っていないからです。そして、人は、自分が住んでいる所のことしか知らなければ、他の地域や他の国にも、自分が住んでいるところに生えている植物と同じ植物が生え、自分が住んでいるところに生きている生き物と同じ生き物が生きていると思い込んでしまうのです。そのようにしかイメージ出来ないからです。日本人と、外国の人とでは感覚も、考え方も、仕草も、表情も、行動の仕方も、体臭も、価値観も異なるのですが、日本のことしか知らない人は、「国や民族が異なっても、みんな感覚も、考え方も、仕草も、表情も、行動の仕方も、体臭も、価値観も、日本人と同じだ」と思い込んでしまっているのです。知らない世界のことはイメージのしようがないからです。まただから、「話し合えば世界中の人と理解し合える」などと呑気なことを言うことが出来るのです。特に、狭い地域や狭い社会に暮らし、異国の人との関わり合いもなく、自分を隠すことばかりに熱心で、積極的に自分を表現することから逃げてばかりいる日本人にはその傾向が強いです。「気質」が異なれば外国に住んでいる人と同じように、感覚も、考え方も、仕草も、表情も、行動の仕方も、価値観も異なるのですが、「気質」の本体はその人の内側にあって、外側からは見ることが出来ないため、どうしても人は「自分の気質」を基準にして他の人を判断してしまう傾向があるのです。でも、それはフラワーアレンジをしている人の花の扱いを、華道の価値観で批評するようなものです。ポップなダンスを、日本舞踊の価値観で批評するようなものです。これらがバカげたことであることは誰でも分かると思いますが、でも、「気質」の世界では、みんなこれと同じ事をやっているのです。ただ、「目に見えない世界」で起きている出来事なので、みんな気付かないのです。この事実に気付くためには、「自分を表現するというワークを通して他の人の内面に出会う」という体験が必要になるのです。いくらいっぱい本を読んでも、ブログを読んでも、人はその言葉を自分の感覚と、自分の考え方と、自分の価値観で理解するだけなので、「自分」と出会うことが出来ないのです。そして、「自分」と出会えなければ、「自分の気質」は分からないのです。様々な国の人に出会い、話し合ったり、その国の文化に触れたりすることで、自分のことや自分の国のことが分かるようになるのです。私は、インドに行く前にもインドに関する本は読んである程度の知識は持っていました。でも、知識の中のインドは、自分が体験したインドは全く別のものでした。世界は、「自分が知らないこと」で出来ているのです。私は、多くの人に、その「自分の知らない世界」と出会ってもらうために、ワークをやっています。お呼び頂ければ、日本中どこへでも行きますよ。ワークショップの料金など知りたい方は、こちらをご覧下さい。
2017.02.10
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地球上の生き物は「地球」という閉ざされた空間の中でそれぞれ自分の居場所を見つけ、棲み分けて生きています。群れを作る生き物は、群れとしてのテリトリーを作りながらも、群れ同士はお互いに棲み分けて生きています。これは動物だけでなく、昆虫でも、植物でも同じです。また、強い生き物と弱い生き物とでは食べ物も違います。また、どんなに強い生き物でも、死んだ後には一番弱い生き物に食べられることになります。生きている場所も、食べるものも、生態も異なっているからこそ、弱い生き物でも絶滅しないのです。また、食べたり食べられたりとか、様々な関係で相互依存しているので、地球上の生命の循環は崩壊しないのです。この世界は単に強者だけが生き残る弱肉強食の世界ではないのです。また、強い生き物が生き残るために必要な能力は「強さ」です。オオカミやライオンやクマなどは強い方が生き延びる可能性は高くなります。そして、強い生き物は胆汁的な気質も強いです。でも、弱い生き物が生き延びるために必要な能力は、「臆病さ」と「慎重さ」です。「臆病さ」と「慎重さ」は、人間界ではあまりいい印象がありませんが、でも、その能力があるからこそ、弱い生き物は生き延びることが出来ているわけです。リスやウサギのような弱い生き物が、「俺には怖いものなんかない」などと堂々としていたら、あっという間に食べられてしまいます。ちなみに、憂鬱質の人は肉体的には弱い傾向があります。「臆病さ」と「慎重さ」は、その弱さを補うためのものです。他の気質の人でも、病気をしたり、歳を取ったりして肉体的に衰えてくると、臆病になったり、慎重になったりして憂鬱的な気質が強くなってきます。そうやって身を守ろうとするのです。老人になると頑固になる人もいますが、それもその一つの表れです。逆に、憂鬱質の人でも肉体的にしっかりとしてきたり、色々なことを体験し、学び、自信が付いてくると、胆汁的な要素が強くなってきます。基本ベースは憂鬱質なんですが、胆汁的な活動も出来るようになるのです。「気質の状態」は「からだの状態」と密接につながっているからです。また、この「気質の状態」は「棲み分け」とも関係しています。胆汁質の人ばかり集めて、何かをさせたり、一緒に暮らすようにすると、胆汁質の強弱によって、そのグループ内で、気質による棲み分けを始めるのです。2月7日のブログの最後に書いたように、同じ胆汁質の人でも、自分の内側に内在している他の気質との関係で、胆汁質の強さや質が異なるのです。胆汁質ばかりを集めたグループの中でも、相対的に胆汁が弱い人は、自分を守るために臆病になったり、慎重になったりします。また、多血や粘液の方に移行する人もいます。つまり、胆汁質以外の気質の人に対してはバリバリの胆汁質でも、自分よりも胆汁質が強い人ばかりのグループの中では別の気質に移行することで棲み分けようとするのです。これが出来ない時にはそのグループは分裂します。これを私は「棲み分けの法則」と呼んでいます。この「棲み分けの法則」は家庭の中でも起きています。そのため、家庭の中の状態と、幼稚園や遊びの場での状態が全く異なる子もいっぱいいます。お母さんが胆汁質以外で、子どもの胆汁質が強い場合には、子どもは家の中でも胆汁質として振る舞います。ですからお母さんは手を焼きます。でも、お母さんの方がもっと胆汁質が強く支配的な場合には、子どもは家の中では大人しくなります。戦っても勝てないことが分かっているからです。そのためお母さんは「うちの子は大人しい」と思い込みます。「うちの子は憂鬱質かも知れない」などと思い込んでしまうお母さんもいます。でも、幼稚園や遊びの場などでは、本来の胆汁質に加え、抑圧された分も加算されるので非常に困った状態で胆汁質が発揮されることもあります。憂鬱質の子でも、親が胆汁質ではない家族の中では明るく楽しく振る舞ったりします。また、憂鬱質の子はピエロ的に振る舞うことで、自分の居場所を作ろうとする傾向もあります。でも、安全が確認出来ないような状況になると、急に心とからだを閉ざします。そのため、家の中の状態しか知らないお母さんが、幼稚園の先生などから「幼稚園では全く友達と遊んでいない」とか、「友達と遊べない」などという話を聞くと驚きます。********昨日の「ホンマでっかTV」という番組で血液型を扱っていましたが、中南米の人はほとんどがO型だそうです。それが中南米の人達の国民性とも関係があるのかも知れませんが、でも、みんながO型の社会でも、その中には様々な人がいます。元気で活発な人もいれば、大人しい人もいるでしょう。うちの家族は6人ですが、3人がA型で、3人がO型です。でも、同じ血液型でも、気質はみんな違います。お互いにうまく棲み分けるような気質になっているみたいです。
2017.02.09
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木で彫刻をする人がいます。粘土や、石や、金属や、氷で彫刻をする人もいます。また、厳密には彫刻ではないかも知れませんが、ガラスや、紙や、羊毛などで造形する人もいれば、噴水のようなもので造形的な世界を創る人もいます。そして、同じ形のものを作る場合でも、それぞれ扱う素材によって作り方も、道具も、必要な技術や知識も、また注意する点も違います。また、自分が扱っている素材の特質に合わせた関わり方をしないことには、思い通りの作品を仕上げることは不可能です。石も鉄も固いですが、石には鉄のような粘りがありません。延ばすことも曲げることも出来ません。そのため、鉄を扱う方法で石を扱ってしまったら、石は作品としての形を得る前に割れてしまうでしょう。また、動物や植物を育てる場合も、自分が育てているものの特性を知っておく必要があります。イヌの飼い方とネコの飼い方は同じではないからです。「イヌが求めているもの」と「ネコが求めているもの」も違います。植物でも、水を多くやった方がいい植物あれば、あまり水をやらない方がいい植物もあります。自分の力だけでしっかりと立つことが出来る植物も、添え木が必要な植物もあります。お日様がいっぱい必要な植物も、あまり必要がない植物もあります。栄養がたっぷりと必要な植物も、あまり栄養がなくてもちゃんと育つ植物もあります。そういう特性に合わせて、育てないことには、動物も植物も生き生きと育てることは出来ません。そこまではご理解頂けると思います。でもなぜか、人間の子どもを育てる時にはその「素材の違い」を考慮しないのです。というか、「子どもは一人一人違うんだ」ということにすら気付いていない人がいっぱいいます。植物などは種が同じなら育て方も同じです。だから畑のような場所で大量生産が出来るのです。でも、イヌやネコのような高等な動物になると、生まれつき一匹一匹個性が違ってきます。高等な動物になるほど、同じ種であっても、全く異なった個性を持っているのです。ですから、「イヌ」や「ネコ」というくくりだけではなく、一匹一匹のイヌやネコの個性に合わせた育て方が必要になります。そして、「人間」になるとさらに個体差が大きくなります。でも、多くの人がその個体差を「生まれつきのもの」としてではなく、「育て方の違い」としてしか認識していません。だから、「他の人のやり方」を無自覚的に取り入れたり、「子育て書」通りの子育てをしようとしたり、我が子を「他の子」と同じような状態にしようとして頑張っている人が多いのです。一般的な認識としては、「男の子の育て方と女の子の育て方はちょっと違う」というぐらいは知っていると思います。でも、「男の子はみんな同じだ」「女の子はみんな同じだ」というような意識の人は多いような気がします。確かに、男の子でも女の子でも一人一人違うぐらいのことは誰でも知っています。でもそれは「育て方が違うからだ」と思い込んでいる人が多いのです。でもその「育て方が違うから子どもは一人一人みんな違うんだ」という考え方は、裏を返せば「本来子どもはみんな同じで、育て方を同じにすれば同じ状態になるはずだ」という考え方と同じものです。そうですよね。だから、一人一人の子どもの特質を無視したような「しつけ」や「子育て」に関する「ハウツー本」が山のように出ているのです。まただから、平気でそれらのハウツー本に頼った「しつけ」や「子育て」が出来てしまうのです。そしてまただから、自分の子どもがみんなと同じでないと、「自分の子育てが間違っていたのではないか」と不安を感じ、みんなと同じにしなければと焦ってしまうのです。幼稚園や学校の先生も、子どもたちをみんなと同じ状態にしようとしています。その方が管理しやすいからでもありますが、「一斉保育」や「一斉教育」という方法には「子どもは本質的にはみんなおんなじだ」という前提があるからでもあります。でも実際には、子どもは一人一人違うし、また一人一人自分の個性を主張して生きています。それでもそれが先生にとって「困った事」でない場合は、そのままにしておきますが、「困った事」の場合は、一生懸命に子どもや親に働きかけて「普通の子」にしようとします。時には子どもや親が叱られることもあります。でも、どのような指導をしても子どもは「普通の子」にはならないし、そんなことをしたら子どもも親も先生も苦しくなるばかりです。そのようなやり方の背景にも「子どもは育て方次第でなんとかなる」という発想があります。また、子どもが親の期待通りに育っていない時にも、「育て方」でなんとか期待通りの状態にしようとしてしまいます。男の子でもケンカが強い子もいれば弱い子もいます。いつも泣かされてばかりいる子もいます。すると、「やられたらやり返せ、それでも男か」というような指導をするお父さんもいます。でも、いじめる側の子は、ちゃんと「やり返してこないような子」を選んでいじめているのです。いじめっ子は相手の個性に合わせていじめているのです。それを、「やられたらやり返せ」と子どもの個性を無視したような指導をしても無理なんです。
2017.02.08
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気質には「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つがありますが、だからといって、この四つしかないということではありません。なぜなら、これらの四つの気質は「色」で言うところの「原色」に過ぎないからです。以下の図は、隣り合った気質が混ざり合った時の状態を図に表したものです。「四つの気質と個性のしくみ」(ヘルムート・エラー著 トランスビュー発行)から色が混ざり合うことで元の色とは全く違う色になってしまうことがあるように、気質でも混ざり合うことで、見かけ上新しい気質が生まれることがあるのです。ただしこれは、「この気質の組み合わせの人は必ずこうなる」ということではありません。必ずしも、「胆汁質」に「憂鬱質」が入った子が暴君になり、「憂鬱質」に「胆汁質」が入った子が「支配者」になるということではないのです。また胆汁質の子が必ずしも「英雄」になるということでもありません。昨日も書いたように、「気質」と「性格」は異なるからです。気質は性格の「種」として存在はしていますが、その「種」が実際にどのように育つのかは、周囲の環境や体験の影響が大きいので、「気質」だけでは大人になった状態を判断することは出来ないのです。「性格」の形成には、「育ちの影響」が大きいのです。胆汁質の子でも否定されて育てば、憂鬱的な要素が強くなり、暴君のようになるでしょう。逆に「胆汁質」に「憂鬱質」が入った子でも、肯定されて育てば、痛みや苦しみを知る素敵な指導者になる可能性もあります。ちなみに「胆汁質」と「憂鬱質」の組み合わせの人は、自分の内側に痛みや苦しみを抱えています。だからやっかいなのです。でも、周囲の大人が子どもの内側にある「痛み」や「苦しみ」を理解して受け止めて上げていると、子どもは成長と共に、自分でも自分の中の「痛み」や「苦しみ」をうまく扱うことが出来るようになり、「痛み」や「苦しみ」に支配されなくなります。むしろそれを「優しさ」に変えることすら出来ます。でもそれを否定してしまうと、その「痛み」や「苦しみ」に支配されてしまうのです。すると「暴君」になります。それと、この図では隣り合っている気質が混ざっている時のことしか分かりませんが、実際には人はみんな四つの気質の全てを持っています。「あの人は胆汁質だ」と表現する場合は、単に「その人が持っている四つの気質のベクトルを足し算すると胆汁質になりますよ」ということに過ぎません。ですから、「胆汁質」と呼ばれる人でも状況に応じて多血的な面が出たり、粘液的、憂鬱的な面が出たりするのです。そのため、私の気質のワークではこの図とは異なった図に、自分の気質を描いてもらいます。それは例えばこんな感じです。このタイプの人は一応「胆汁質」になりますが、他の気質も強いので、それほど強い胆汁ではないと思います。と、実際の気質はこんな風になっているのではないかと思っています。
2017.02.07
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「気質」は「生命」や「社会」といった「恒常性が維持されているシステム」を支えるために存在している「働き」です。そして、人は生まれつき「自分の気質」を持っています。だから、泣き方も、おっぱいの吸い方も、成長の仕方も一人一人違うのです。音や、刺激や、人に対する反応の仕方も違います。人見知りが強い子もいれば、それほどでもない子もいます。いっぱい食べる子もいれば、あまり食べない子もいます。よく寝る子もいれば、あまり寝ない子もいます。子どもが一人しかいないと、お母さんは「子どもとはそういうもんだ」とか「私の育て方でそうなってしまったんだ」などと思い込みやすいですが、でも、子どもは生まれた時から一人一人異なった特質を持っているのです。もっといえば、お腹の中にいる時から一人一人違います。そのため、同じように育てていても、同じようには育ちません。教育の場でも、先生はみんなに同じ事を言い、同じ事をさせているのに、一人一人異なった状態に育っていきます。だから一人一人の気質(特質)に合わせたしつけや教育が必要になるのです。また時々、気質について学んでいなくても、そういうことに敏感な人もいます。一人一人の違いを見極め、その子に合わせたしつけや教育が出来る人もいます。そのような人は「気質」という言葉を知らなくても、「気質」を感じ、「気質」に合わせた関わり方が出来るのです。多分、そのような人は「粘液質+憂鬱質」の人だと思います。「粘液質+憂鬱質」の人がみんな出来るわけではありませんが、でも、「それが出来る人」は「粘液質+憂鬱質」の人の可能性が高いと思います。でも実際には、一人一人の子どもの特質を感じるのが苦手な人の方が多いのが現実です。特に、人目を気にしたり、社会的な価値観(流行)に流されやすい人ほど、一人一人の子どもの違い(気質)には鈍感です。ですから、そういう人には「気質の学び」が必要になると思います。また、「気質」と混同されているものに「性格」と呼ばれるものがあります。でも、「気質」と「性格」は異なるものです。なぜなら、「気質」が「生命の働き」とつながった「普遍的なもの」であるのに対して、「性格」は「社会的なもの」だからです。また「気質」は「働き」ですが、「性格」は「状態」です。だから、「気質」には「良い・悪い」はないのに対して、「性格」には「良い・悪い」があるのです。実は、「性格」は「気質」を核にして、成長の過程での様々な対人的、社会的な体験を通して、その核の周囲に形成されたものなんです。ですから、生まれた時には同じ気質の人でも、育ちの環境が異なれば、異なった性格になります。同じ気質の人でも様々な性格の人がいます。それがまた「気質」を分かりにくいものにしています。また、「性格」は社会的なものですから、周囲の人がその人に対する関わり方を変えることで、性格を変えることも可能です。否定的に関われば、自己肯定感が低い性格になります。多血質の子が否定されて育てられれば、憂鬱質が強くなり、一見、憂鬱質の子のような性格になります。でも、一見、憂鬱質のようにはなっても、単に悩みが多いだけで、憂鬱質の特徴は持っていません。本来の憂鬱質の人は、「苦しみ」の中に何かを学ぼうとしますが、多血質の人が憂鬱質のようになった場合は、ただ「苦しみ」から逃げようとするばかりです。
2017.02.06
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「気質」は一般的な性格分類とは異なります。なぜなら、「気質」で問題になるのは、「性格」ではなく、その人の「感覚の質」だからです。だから分かりにくいのだし、だから、「しつけ」や「教育」では変えることが出来ないのです。一般的には、「知識」が「人間の思考や行動に影響を与えるもの」として考えられているのではないかと思います。でも実際には、「知識」よりもその人固有の「感覚の働き」の方がもっと深く、その人の思考や行動に大きな影響を与えているのです。だから、同じ「しつけ」をし、同じ教育を与え、同じ知識を学ばせても、同じ思考や同じ行動にはならないのです。気質が異なる人を、同じ場所に連れて行って、同じものを見せ、同じ体験をさせても、みんな違うものを見て、違う体験をして、違う行動をして、違う学びをして、違う印象を得るのです。だから、親でも教師でも、子どもを育てる立場にいる人は、子どもの気質に対して配慮する必要があるのです。そうでないと、逆効果になってしまうこともあるのです。でも人は、その「感覚の違い」になかなか気付きません。「一人一人感覚が違う」ということにすらあまり気付いていません。自分自身の感覚にも気付いていません。だから「自分の気質」も分からないのです。ちなみに、この感覚の違いは表現のワークをすることで見えてきます。その理由はいくつかあるのですが、先ず「感覚は目に見えない」ということがあります。人はみんな「自分の感覚」に基づいて行動しているのですが、「結果としての行動」は見えても、その「原因としての感覚」の方は目に見えないのです。また、「自分の感覚を感じる感覚」も存在していません。そのため、感覚がいつも働いて自分の思考や、行動を支えてくれているのにその働きに気付くこともないのです。「このお料理は美味しい」ということは分かっても、その時自分の感覚がどのように働いているのかは分からないのです。子どもはビールやコーヒーが苦いと言います。でも、大人になると、その苦みを美味しいと感じるようになります。子どもと大人では感覚が異なっているからこういう現象が生まれるのですが、でも、人は、大人になる過程で自分の感覚がどのように変わってしまったのかということには気付いていません。そして、「自分はズーッと変わっていない」と思い込んでいます。だから、昔は自分も「子ども」だったのに、その「子どもの心」が分からなくなってしまうのです。感覚が異なっているのは、子どもと大人だけではありません。大人同士でも、人は人それぞれ異なった感覚を持っていて、その感覚に従って考え、感じ、行動しています。だからこの世界には色々な考え方や趣味の人がいて、色々な芸術や宗教があるのです。また、最初は同じ大義名分の元に集まった人達でも、話しが具体化するにつれ、意見の対立が生まれ、時には内部分裂してしまうのです。だから、キリストは一人なのに「様々なキリスト教」が存在し、お釈迦様は一人なのに、「様々な仏教」が存在するのです。感覚が異なれば世界も異なるし、「真・善・美」も異なるのです。そして、その感覚のタイプを分類したのが「気質」なんです。ですから、異なった気質の人は異なった「 真・善・美」を持っているのです。ある気質の人には「疑いようのない真実」であっても、別の気質の人には「真実でも何でもない」場合があるのです。「自由」や「平和」といったものに関しても同じです。「気質」が異なれば、その人が望む「自由や平和の形」も異なるのです。だから、自分にとっての「真・善・美」を絶対のものとして一方的に他の人に押しつけてはいけないのです。でも、胆汁の人はそれをやりたがるのです。トランブ氏もそんな一人です。
2017.02.05
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地球上には無数の種と、さらに無数の個体が、それぞれ自分たちの本能に従って生きていますが、地球全体としてみたら、うまく調和が取れるような仕組みになっています。なぜなら、地球上の全ての生命の原点は一緒だからです。細菌も植物も人間も、みんなDNAというシステムに支えられている兄弟なんです。またそれは、たった一つの細胞が分裂して生まれた一人の人間の中の様々な臓器や能力が、お互いに矛盾したり対立しないのと同じです。そこには優劣はありません。頭の方が手や足よりも優れているなどということはないのです。また、生物の世界でも、アリよりもライオンの方が優れているとか、ネズミよりも人間の方が優れているなどということはないのです。そこにあるのはただ「役割の違い」だけです。でも、人間は「優劣」にこだわります。生命や自然の世界には「優劣」などというものは存在しないのですが、「心」というものを持ち、胆汁的な要素が非常に強い生き物である人間は「優劣」で世界を見てしまう傾向があるのです。そして、優秀なものは大切にしますが、そうでないものは平気で無視したり、否定したり、壊したり、忘れたりします。また、自然界に対しても、地球に対しても、自分たちが価値を認めたものは大切にしますが、そうでないものは簡単に殺し、破壊し、略奪しています。だから、自然界や、地球の調和や、バランスが崩れてしまい、それが巡り巡って、人間自身の心や、からだや、生命の状態の不安定さを生み出しているのです。そして、これと同じ事が気質の世界にも起きています。多血質・胆汁質・憂鬱質・粘液質の四つの気質には役割の違いがあるだけで優劣はありません。でもそれぞれに、無い物ねだりをして自分の気質を否定したり、自分の方が優秀だと思い込み、別の気質を否定したりしています。多血質の子には明るさと、楽しさと、周囲のみんなを楽しくする能力があります。友達作りも上手で、情報通でもあります。それが、多血質の子が「多血質」としての役割を果たすために与えられた能力であり、多血質の長所です。そして、心だけでなく、「からだ」や、「感覚」や、「声」もその能力に合わせた状態になっています。オーラが見える人が見ればオーラの色も違うはずです。気質が違うと「からだ」や、「感覚」や、「声」も違うのです。でも、落ち着きと、持続力と、責任感と、人をまとめる力と、深く物事を考える力はあまりありません。基本的にそれは別の気質の役割だからです。でも、親や周囲の大人が多血質の子の長所を肯定せず、多血質の子にも落ち着きと、持続力と、責任感と、人をまとめる力と、深く物事を考える力を求めると、多血質の子は自分の能力や役割を肯定出来なくなります。すると、長所を発揮出来なくなります。確かに、多血質の子でも、しつけや教育である程度は、落ち着きや、持続力や、責任感や、人をまとめる力や、深く物事を考える力を育てることは可能かも知れません。でも、元々がそれに合った心とからだではないので、無理をすると心とからだが不安定になり、苦しくなってしまうのです。持って生まれた気質は、しつけや教育では変えることが出来ないのです。じゃあ、落ち着きや、持続力や、責任感や、人をまとめる力や、深く物事を考える力などはどうでもいいのか、というとそういうことではありません。どの気質の子でも、持って生まれた長所(気質の特徴)が肯定されていると、自信が生まれます。意識や意思の働きもしっかりしてきます。すると、思春期が来る頃になると、少しずつ自分に足らないところに気付き初め、自分の意思でその足らないところを補おうとし始めるのです。その状態を私は「気質の成長」と呼んでいます。肯定されて育った子は、成長と共に、自らの力で自分に足らないところを補おうとする意識が目覚めるのです。でも、否定されながら育った子は、自信もないし、しっかりとした意識や意思も育っていないので、自分を守ることしか考えることが出来なくなり、自分を広げるどころか、持って生まれた長所すらも発揮出来なくなってしまいます。ちなみに、多血質の子を褒める時には多血質の価値観で褒めないと多血質の子は喜びません。多血質の子を、胆汁質や、憂鬱質や、粘液質の価値観で褒めても、喜ばないのです。これはどの気質の子でも同じで、人は自分の気質に合った褒め方をされた時に、一番嬉しくなるのです。ですから、皆さんがご自分の気質を知りたいのなら、「自分はどういう褒められ方をしたら一番嬉しいのか」ということを考えて見て下さい。そこにヒントがあります。**************以下は、参加者募集中の茅ヶ崎での講座です。<a href="mailto:kodomotachihe@yahoo.co.jp">ご興味のある方はお問い合わせ下さい。</a>★「気質の講座」(大人だけです) 去年の四月から毎月やって来ましたが、この四月でまた新規に募集します。 内容もまた最初から始めます。 去年からの人が継続して参加して下さってもOKです。その時には、ワークの内容を去年とは一部変えます。大体、土日にやっています。今のところ4月9日(日)、5月28日(日)が決まっています。時間は 10:00~12:00で 参加費は2000円です。JR茅ヶ崎駅の隣のビルでやっています。★「からだの会」(基本的に大人だけです) からだを緩めることを目的として、心とからだに働きかける様々なエクササイズをしています。体操やヨガとは異なります。「うごき」ということを大切にしています。二人で組んでやることが多いです。むしろ、子どもの遊びに近いです。踊ったり、ゴロゴロしたりもします。 最近は月曜日開催が多いですが、参加者の都合に合わせます。 2月6日(月)、3月27日(月)、4月13日(木)、5月15日(月)が決まっています。 時間は 10:00~12:00で 参加費は2000円です。★「ゆりかご」(親子) 0才から2才頃までのお子さんをお持ちの親子を対象にした、「子育て」や「遊び」や様々な学びの会です。<b>「子育ての方法」ではなく「子育てを楽しむ方法」を学ぶための会です。</b> 去年から始めた講座ですが、4月からまた新規メンバーを募集します。絵本の紹介や、絵本の読み聞かせや、読み方なども学びます。歌ったり、踊ったりもします。からだほぐしも入れます。外部講師を呼んだりもします。時間は10:30~12:00で、参加費は1500円です。10組程度が定員です。連続参加が基本ですが、遠方の人などの場合、単発も受け入れます。今のところ 4月17日(月) 5月22日(月)が決まっています。基本的に平日行います。
2017.02.04
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昨日ちょっと予告した愛知県の春日井市での連続ワークですが、主催者が正式な告知分を作って流す前に、全講座満員になってしまって、いまはキャンセル待ちの状態だそうです。ということなので、告知文が出来ても流せなくなってしまいました。申し訳ありません。**************では、なぜ「気質」というものが存在するのか、ということです。機械は、形が崩れないように、構造が変化しないようにネジなどで固定されています。ロボットなどは一見自由に動いているように見えますが、からだ全体がバラバラにならないようにお互いにつながれています。でも、生き物の世界では個々の生き物は自由でありながら、全体としてはまとまり、種を存続させています。人間も一人一人は自由で、自分の意思と、考えと、感覚で行動していますが、だからといって人間の社会が崩壊することはありません。人間だけでなく、生き物には無意識のうちに「全体」を守ろうとする働きが本能の中に組み込まれているからです。生き物は「個」単体では生きることが出来ないためそういう仕組みが必要なんです。全ての生き物は、「個」としての生命と、「集合体の一部」としての生命の二つの「生命」を生きているのです。これは人間も同じで、人は誰でも、「私」という「個」の生命と、「人間という種」を支える生命の二つの生命を生きているのです。現代人は、「自分」という言葉に象徴される「個としての生命」ばかりを意識し、「個としての生命」だけを大切にしようとしていますが、「個」は「全体」の一部としてしか存在し得ないので、みんなが「自分」のことしか考えなくなったら、「自分」の存在自体も危うくなるのです。そして、「気質」は、その「全体」を支えるためのシステムとして生まれたものです。人間は集団で生活する動物です。しかも、単に集団で生活するだけでなく、非常に複雑な社会を作ってその中で生活しています。その社会は、個々に見れば、非常に雑多で多様です。しかも、多くの人が「自分のことしか考えない生き方」をしています。自分の趣味や興味に従って自由に生きています。でもだからといって、人間の社会が崩壊することはありません。なぜなら、一人一人は「個」としての意識だけで行動していますが、人のからだの中には「全体」を支えるための生命の働きが存在していて、無意識のうちに、それがうまくバランスを取っているからです。人間の社会は、右へ行ったり、左に行ったり、上がったり、下がったり、拡散したり、集中しながらも、長い時間の中ではちゃんとバランスが取れるようになっているのです。そういう仕組みが「からだ」(生命の働き)の中に組み込まれているのです。そして、「気質」はその「仕組み」の一部として存在しているのです。実は、「気質」とはその人が本来的に持っている社会的な役割への適性なんです。胆汁質の人は変革を起こしたり、リーダーシップを取ったり、戦いを起こしたり、波風を立てたりするのが得意です。ですから、胆汁質の人が存在しない社会は、平和だけども進歩も変化もありません。そして、胆汁質の人は誰からも命令されなくても、このような役割を果たそうとするのです。その役割を果たしている時に充実感を感じるからです。それが気質というものの仕組みなんです。多血質の人は、楽しいことが大好きです。ですから、誰からも命令されなくても、生活や社会を楽しくするような活動をしたがります。憂鬱質の人は、他の気質の人が気付かないこと、忘れていること、大切にしていないことに気付くのが得意です。見えない世界も好きです。ですから、憂鬱質の人の言葉を無視していると危険なことになります。これは他の気質の人には理解出来ないでしょうが、憂鬱質の人はいつも悩んでいるように見えますが、それは悩んでいると安心するからです。そういう気質なんです。だから、他の気質の人にはどうでもいいことで悩むのです。他の気質の人でも苦しくて悩むことはありますが、そういう悩みと憂鬱質の人の悩みは同じではないのです。粘液質の人は、何にもない日常を大切にします。毎日同じ事の繰り返しでも退屈しないばかりか、むしろ、毎日同じ事の繰り返しの中に幸せを感じます。他の人の喜びや幸せのために努力するのも好きです。多血質の人は自分も楽しくなるようなことなら一生懸命にやりますが、目立たない役や自分が楽しくないことはやりたがりません。でも、粘液質の人は、自分は目立たなくても、他の人が喜んでいるのを見ているだけでいいのです。でも、他の気質の人にはそれは理解されません。こんなように、気質が違えば社会の中での役割が違うのです。そしてまただから、一人一人が自分がやりたいことをやっても、社会全体としてはうまく調和するように出来ているのです。面白いでしょ。
2017.02.03
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気質のワークをすると、「自分が何質か余計に分からなくなった」と言う人や、「私は何質でしょうか?」と聞いてくる人が結構います。でも、自分でいくら「自分」を観察して「自分の気質」を知ろうとしても、「自分の気質」は分かりません。なぜなら「気質」は「関係性の中で現れるもの」だからです。そして、「関係性の中で現れるもの」は、それ自体を個別に調べても分からないのです。それは「音」の特性と似ています。太鼓のような楽器でも、またお鍋や、ボウルや、机や、石でも、叩けば「音」が出ます。その時、「なにで叩くのか」ということがその音の「質」に大きく関わってきます。手で叩いた音と、棒で叩いた音は全く異なります。石で叩けばまた異なった音がします。紙を丸めて叩いても、草で叩いても異なった音がします。風が当たっても異なった音がします。同じ「手」でも、大人が叩いた時と、子どもが叩いた時とでは異なった音がします。同じ大人でも、人が違えば叩き方も異なるので異なった音が出ます。同じ人間でも、その時の感情の状態が異なれば異なった音が出ます。ですから、叩かない状態で「それ」をいくら眺めても、実際の音の質は分からないのです。太鼓を眺めるだけで太鼓の音が分かったら特殊能力者です。また、叩くものによっては太鼓を叩いても「太鼓らしい音」が出ないこともありますが、お鍋やボウルといった「太鼓とは異なるもの」でも、叩き方や条件を整えれば太鼓のような音が出ることもあります。だから、一般的な概念での「太鼓の音」はなんとなく分かりますが、「この太鼓が今どういう音を出すのか」ということは分からないのです。実は、その「音の質」に相当するのが「気質」なんです。だから、いくら太鼓を眺めても「太鼓の音」が分からないのと同じように、いくら自分で自分の内側を観察しても、それだけでは「自分の気質」は分からないのです。太鼓と同じように、人間でも、出会う人が違えば、異なった「自分」(気質)が表れます。実際、皆さんも相手との関係性に合わせて異なった「自分」が出てきますよね。子どもと一緒にいる時の「自分」と、子どもの頃からの友達と一緒にいる時の「自分」と、単なるご近所の人といる時の「自分」とは異なりますよね。だからといって、「そんなに不安定なものなら気質なんか意味がないんじゃないか」と思われるかも知れませんが、それは違います。なぜなら、確かに叩くものや、叩く時の条件が異なれば太鼓は異なった音を出しますが、それでも「太鼓の音」には「太鼓の音としての特性」があるからです。だから「太鼓」という楽器が存在し、また必要とされているのです。「北国の春」と「南国の春」の状態は異なります。それでも、春には「春」としての共通した特性があるのです。それは「眠っているものを目覚めさせる」という特性です。そのため、「目覚めさせる相手」がいない状態では、春は「春」ではなくなってしまうのです。「違い」に注目するのではなく、「共通しているところ」に注目するのです。日本人の「日本人としての気質」は、「日本人として共通している部分」にあります。でもだから、当の日本人にはそれは分からないのです。それは自分の体臭が自分では分からないのと同じです。実は、「自分の気質」を知るためには「他者の視点」が必要なのです。太鼓の音だけを聞いても太鼓の音の特質は分かりません。ピアノの音を聞き、バイオリンの音を聞き、オーボエやトランペットの音を聞き、また、風の音、水の音、人の声など様々な音を聞き、比較することで初めて「太鼓の音とはどういう音なのか」ということが分かるのです。だから、自分の気質を知るためには様々な気質の人と出会う必要があるのです。そのための気質のワークなんです。*************4月から来年の2月までかけて6回、愛知県の春日井市で気質の連続ワークをやります。詳細が決まりましたら、このブログでも紹介させて頂きますが、お呼び頂ければどこへでも行きます。3月は2回「南アルプス市」に行きます。他にも近場は色々行きます。それと以下は茅ヶ崎での講座です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。★「気質の講座」(大人だけです) 去年の四月から毎月やって来ましたが、この四月でまた新規に募集します。 内容もまた最初から始めます。 去年からの人が継続して参加して下さってもOKです。その時には、ワークの内容を去年とは一部変えます。大体、土日にやっています。今のところ4月9日(日)、5月28日(日)が決まっています。時間は 10:00~12:00で 参加費は2000円です。JR茅ヶ崎駅の隣のビルでやっています。★「からだの会」(基本的に大人だけです) からだを緩めることを目的として、心とからだに働きかける様々なエクササイズをしています。体操やヨガとは異なります。「うごき」ということを大切にしています。二人で組んでやることが多いです。むしろ、子どもの遊びに近いです。踊ったり、ゴロゴロしたりもします。 最近は月曜日開催が多いですが、参加者の都合に合わせます。 2月6日(月)、3月27日(月)、4月13日(木)、5月15日(月)が決まっています。 時間は 10:00~12:00で 参加費は2000円です。★「ゆりかご」(親子) 0才から2才頃までのお子さんをお持ちの親子を対象にした、「子育て」や「遊び」や様々な学びの会です。「子育ての方法」ではなく「子育てを楽しむ方法」を学ぶための会です。 去年から始めた講座ですが、4月からまた新規メンバーを募集します。絵本の紹介や、絵本の読み聞かせや、読み方なども学びます。歌ったり、踊ったりもします。からだほぐしも入れます。外部講師を呼んだりもします。時間は10:30~12:00で、参加費は1500円です。10組程度が定員です。今のところ 4月17日(月) 5月22日(月)が決まっています。基本的に平日行います。
2017.02.02
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日本人には日本人の気質があります。イタリア人にはイタリア人の、ドイツ人にはドイツ人の気質があります。でも、それぞれの国の中にも、多血(たけつ)質、胆汁(たんじゅう)質、憂鬱(ゆううつ)質、粘液(ねんえき)質といった四つの気質の人がいます。なぜなら、「気質」は「入れ子」の状態で存在しているからです。(「入れ子」とは、ロシア人形のマトリョーシカのようなものです)日本人は粘液質と憂鬱質が強い民族です。それが自分を表現する能力の低さとつながっています。でも、その日本人の中にも多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質といった四つの気質の人がいます。イタリア人やスペイン人などは多血質が強い民族ですが、それでもその中にはちゃんと多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質といった四つの気質の人がいます。でも、粘液質や憂鬱質が強い日本人の中の「胆汁質」の人と、多血質が強いイタリア人の「胆汁質」の人では、その状態が違うのです。同じ「胆汁質」でも、その入れ子の「親」が違うからです。多血質も、憂鬱質も、粘液質でも同じです。「緑」に赤を混ぜると「赤緑」になります。青を混ぜると「青緑」になります。でも、「黄色」に赤を混ぜると「オレンジ」になります。青を混ぜると「緑」になります。元の色が違えば、同じ色を混ぜても同じ色にはならないのです。同じ「多血質」の人でも、東北で生まれ育った人と、関西で生まれ育った人とではその状態が異なるのです。気質が分かりにくい原因がここにあります。でも、その文化圏の中ではその人は「多血質」としてその役割を果たしているのです。それは例えば「四季」と似ています。北海道にも四季はあります。九州にも四季はあります。でも、北海道の「春」と九州の「春」は同じではないですよね。「夏」も「秋」も「冬」も違いますよね。私が気質のことを学び始めた頃は、シュタイナー教育関連の気質の本を読んでいました。でも、なんかピンとこなかったのです。頭では理解出来ても、実際に身の回りにいる人達の中に、本の中に書かれたような人達がいなかったからです。でもある時、「これはヨーロッパの人達の気質だ」ということに気付いたのです。私は若い頃、バックパッカーでヨーロッパやインドや、その他色々な国をウロウロしていたのですが、国によって国民性は異なりました。その体験があったので、そのことに気付いたのです。シュタイナー関連の気質の本に書かれているような「多血質」の人は、日本では滅多に見かけません。でも、スペインやイタリアには普通にいました。そのことに気付いた時、「日本人の気質は、日本人が日本人の視点で調べてみるしかないな」と思ったのです。ドイツの人が日本に来て日本人の気質を調べても、それは「ドイツ人から見た日本人の気質」に過ぎないからです。それは、日本人が生活の中で実際に感じている気質ではないのです。以前、ドイツでシュタイナーの治療教育のお仕事をなさっている仲正雄さんを茅ヶ崎にお呼びしてお話を聞いたことがあるのですが、彼の職場に彼(自分は多血質だとおっしゃっていました)から見て典型的な粘液質の日本人の友人を、同僚のドイツ人は「彼は憂鬱質だ」と言っているとおっしゃっていました。一般的には「どっちが正しいんだ」という話になるのでしょうが、でも、気質においては両方とも正しいのです。なぜなら相手の気質を判断している人の気質が違うからです。背が低い人から見た「背が高い人」のことを、背が高い人が「彼は背が低い」と言っても矛盾はないですよね。「気質」は相対的な現象なのです。だから、科学では扱うことが出来ないし、また分かりにくいのです。でも私はそんな気質に興味を持ったのです。中学生の頃にアインシュタインによる相対性理論と出会って興奮したことを覚えています。世界観が一変しました。だから物理学を目指したのですが、私は固定された視点、固定された考え方ではなく、相対的な視点や相対的な考え方に惹かれる感性を持っているようです。ちなみにこれは「気質」だけに限ったことではありません。小児科医が書いた子育ての本は、「小児科医」という視点から見た子育て論に過ぎません。だから、お母さんが向き合っている現実とは異なるのです。だからこそ、「自分にとっての現実」を知るためには、自分の目で見て、自分の肌で感じて、自分の頭で考える必要があるのです。「知識」に依存してしまうと、世界が見えなくなってしまうのです。
2017.02.01
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