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お花を探してあるのくのが楽しい季節になりましたね。桜も咲き始めましたね。ここから先は一気に咲くのでしょうね。葉が落ちて枯れ木のようになっていた木の枝にも、今にもはち切れそうな新芽がいっぱい付いています。枯れ草に覆われていた野原にも、かわいらしい草花がいっぱい芽吹き始めています。こんな時期は是非、お子さんと春を探して遊んでみて下さい。野の花を摘んで遊ぶのも楽しいです。食べられる野草を摘んで夕食のおかずにするのも楽しいです。「食べられる野草」は、皆さんの身近なところにもいっぱいありますから。ヨモギを摘んで草団子を作るのも楽しいです。ノカンゾウとセリは毎年摘みに行きます。草花を摘んで遊んでいると草花の違いや美しさに気付きます。道を歩いている時には気付きませんが、手に取ってみると意外と美しいことに気付くかも知れません。匂いを嗅いでみる、ちょっとちぎって食べてみるというのも楽しいです。桜の花びらや新芽は癖がないですが、梅の花は非常に苦いです。ただ、オオイヌノフグリ、カラスノエンドウ、花大根、タンポポ、ノビル、葛の若芽などは食べても大丈夫ですが、時々、毒のある植物もあるので、その辺はちゃんと調べた方がいいです。お子さんと一緒に「これは食べられるかな」と調べるのも楽しいですよ。そういう遊びを通して、子どもは自然の美しさ、楽しさ、大切さに気付いて行くのでしょう。そして、「自然を守りたい」という気持ちも目覚めるのでしょう。学校で教えている「自然を大切に」という考え方の中の「自然」は「観念的な自然」です。それに対して、このような遊びを通して知る「自然」は、「自分の心や感覚やからだとダイレクトにつながった自然」です。このような自然との関わり合いは、命というものに対する感性も育ててくれるでしょう。野ねずみきょうだいの草花あそび 秋から春まで (福音館の単行本) [ 相澤悦子 ]はるなつあきふゆのたからさがし [ 矢原由布子 ]【中古】草花あそび全書 / 多田信作
2024.03.31
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誰が言い出したか分かりませんが「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。これはまさにその通りで、昆虫が好きな子は昆虫に詳しくなります。自分で色々と調べたりもします。捕まえるのも上手です。お料理が好きな子は、お母さんがお料理を作っているのをよく見ています。一緒にやりたがります。そして、真似しようとします。結果、お料理が上手になっていきます。考えるのが好きな子は、自分で「問い」を見つけ色々と考えようとします。分からないことがあれば大人に聞いたり、自分で調べたりします。遊ぶのが好きな子は、自分で色々と遊びを発見し、色々と工夫して楽しく遊ぼうとします。ですから、子どもの才能や可能性を育てたいのなら、この〝好き〟を育ててあげる必要があるのです。学問の学びを支えている「学ぶ楽しさ」、「知る楽しさ」、「考える楽しさ」も同じです。でも、それが難しいのです。なぜなら、子どもの〝好き〝や〝楽しい〟を育てるためには大人がその〝好き〟や〝楽しい〟を知っている必要があるからです。歌が嫌いなお母さんが、我が子を「歌が好きな子」に育てるのは難しいですよね。勉強が嫌いなお母さんが、我が子を「勉強が好きな子」に育てるのは難しいですよね。それと同じです。でも、〝好き〟や〝楽しい〟を育てるのは難しいですが、そういうことを嫌いにしたり、「面倒くさいと感じるような感性」を育てるのは簡単です。学ばなくても、苦労して調べなくても、自分の頭で考えなくても、簡単に答えを教えてくれる便利な機械を与えれば、子どもは「学ぶ楽しさ」、「知る楽しさ」、「考える楽しさ」を知ることが出来なくなります。〝好き〟を潰すのも簡単です。子どもが楽しそうにやっていることを否定し、子どもが望まないことを押しつけていれば、子どもは〝好き〟を育てることが出来なくなり、〝好き〟はやがて〝嫌い〟に変わっていきます。また、否定したり押しつけたりしなくても、そのものと出会う機会自体を奪ってしまえば〝好き〟が目覚めることもありません。植物学者として才能を発揮した牧野富太郎ですが、彼がもし現代社会に生まれていて部屋の中でゲームでばかり遊ぶような生活ばかりしていたら植物の面白さに目覚めることはないでしょう。どんなにピアノの才能を持っている子でも、ピアノと出会い、興味を持つ機会を与えられなければピアノの道に進むことはないでしょう。そして、〝好き〟が目覚めなかった子どもは成長する喜びを知ることが出来なくなります。成長を望まなくなります。「競争に勝つこと」と「成長すること」の違いが分からなくなります。鉄棒の逆上がりがしたい子が、頑張って逆上がりが出来るようになったら嬉しいです。自分の成長を感じます。でも、鉄棒など興味がない子を追い立てて逆上がりが出来るようにしても、子どもは喜びません。余計に嫌いになるだけです。子ども自身がやりたいことが成功したのでなければ成功体験を得ることは出来ないのです。嫌々勉強させられて100点を取っても、子どもは少しも嬉しくないのです。当然、学ぶ楽しさに目覚めることもありません。
2024.03.30
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今日のブログは、2005年11月26日(土)(ほぼ20年前です)にアップしたものを再掲載しています。私はこのような活動体験を通して、子ども達に「自分たちの今は、様々な命や、長い時間や、広い空間とのつながりの中に存在している」ということに気付いて欲しいと思っています。こういうことは知識を教えても伝えられないのです。*****************今日は朝から夕方まで横浜で「生命を描く」というワークでした。このワークは8月にもやったのですが、好評で“アンコール”でもう一度企画してくれました。以下の写真のうち最初の3枚はは8月の時のものです。他は全部今日のものです。どういうことをやったかというと、簡単に言うと地球の歴史をたどりながら、赤と黒だけでドロドロのマグマだらけの地球を描き、そしてそれが乾いたら、その上に陸地を描き、海を描き、動けない生き物(草や木々)を描き、動物や虫や魚を描いていく、というワークです。そして、最後に人間が登場し、道路が作られ、ビルが作られ、家が造られ、電車が作られ、と現代の風景になります。それを、3m20cm×3m60cmのダンボールの上に重ねて描いていくのです。まず、子どもたちは赤と黒の戦いに夢中になります。からだじゅうを絵の具だらけにして、画面にエネルギーをぶつけていきます。以下の写真は乾いた後の写真ですが、描いている時はものすごい状態です。写真を撮っている暇などありませんでした。次に、海と陸を描いていきます。川も描きます。そして、生き物を描いたり作ったりしていきます。海の中も生き物がいっぱいです。陸にも生き物がいっぱいです。ところが人間が登場し始めると道路が出来、家が出来、草木や生き物たちを踏みつぶしていきます。上の写真と下の写真は同じ場所です。面白かったのは、動物やお花などを描いていた時には乗り気でなかった男の子達が、道路やビルを作り始めたら俄然元気になったことです。そして、動物やお花の上にも平気で道路を描いていきました。上の写真の桜の木々の上にも縦横に道路が描かれてしまいました。そして、事件は起きました。このリンゴの木(以下の写真)の上に、木をつぶして公園を作ろうとした子が現れたのです。こんな状態です。それで一斉にブーイングが起きました。泣き出した子もいました。公園建設反対運動も起きました。面白かったですよ。自分たちが一生懸命に描いた木々や草花はもう子どもたちの心の中では生命を持っているのです。それで、お母さん達の中からも虫や動物を救い出そうという運動も起きてきました。そして、道路や建物の下敷きになっている生き物たちが助け出されました。さらに面白かったのは、その頃から男の子達も、虫や動物を守るような活動を始めたことです。実際に、現実世界で起きていることと全く同じことが再現されたのです。このワークをやると人間が何をしてきたのかすごくよく分かります。そして、どうしたらいいのかも。それが、理屈ではなく、体感できるのです。また、子どもたちは赤と黒だけの世界が海や陸に変わっていく様子にも強く心を動かされるようです。最後は、子どもたちは自分の気に入った部分だけを切り取って持って帰りました。それを見るたびにここで起きたことを想い出してくれることを願っています。
2024.03.29
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ここのところ「体験の大切さ」について書いていますが、では「体験さえあればそれで充分なのか」というとそれも違います。便利な電子機器やゲームなどというものが生まれる前の子ども達は、ほぼ100%、みんな毎日いっぱい色々な体験をして育っていたでしょう。それでも、素敵に育った子もいれば、困った状態に育った子もいたでしょう。それは歴史的な事実でもあります。体験が失われた状態で育っている子が「素敵な大人」に育つことは難しいと思いますが、でもだからといって「体験があればOK」という事ではないのです。「体験」は「子どもの成長に必要なもの」ではありますが、それだけでは十分ではないのです。そこで必要になるのが「言葉との出会い」なんです。体験が「子どもの成長を支えるもの」として吸収されるためには、その体験が言葉と出会う必要があるのです。「熱いヤカン」に触った時、「熱かったね」と言ってくれる人が側にいるから、子どもは「熱い」という言葉を覚えることが出来るのです。そして、その「熱い体験」を繰り返すうちに「熱い」という言葉の意味が抽象化され、「熱い」という言葉を「自分の言葉」として使うことが出来るようになるのです。そしてそれが子どもの精神の成長にもつながるのです。体験が言葉と出会う時に、子どもの精神の成長が始まるのです。ですから、「体験」だけでも、「体験が伴わない言葉(知識)」だけでも不十分なんです。でも、子どもが体験と共に言葉と出会うためにはその体験の場に「大人」や「仲間」がいる必要があります。「言葉」は「他者と感覚や思考や意識や行動などを共有する時」に必要になるものだからです。そして子ども達は、その周囲にいる大人や仲間を通して「言葉」を学んでいます。だから、周囲にいる大人や仲間が日本語を話していれば日本語を学び、英語を話していれば英語を学ぶのです。「言葉でつながる事が出来る他者」がいない状態の中で生活したり、遊んだりしている子には「言葉」は必要がないのです。そういう状態で育っている子が「人間らしさ」に目覚める可能性は低いです。視覚と聴覚を失い野生児状態で育っていたヘレン・ケラーが人間らしさを獲得したのは、サリバン先生と出会って「言葉」に目覚めたからなんです。(サリバン先生が使ったのは「音声による言葉」ではなく「触覚を使った言葉」です。)いくら丁寧に、熱心に子どもの世話をしていても、お母さんが子どもに話しかけず無言で世話をしているだけなら、子どもは言葉を覚えることも出来ないし、感覚能力や思考能力を育てることも出来なくなってしまうのです。当然、「心の育ち」も遅れます。でも困ったことに、最近「積極的に子どもに話しかけないお母さん」が増えて来ているようなのです。「言葉が理解出来ない状態の子どもに話しかけても意味がない」と考える人が増えて来たのです。それで、「テレビをつけっぱなしにして見せているだけ」「スマホなどで動画を見せ続けている」という人もいるようです。確かに、それでも少しは言葉を覚えるでしょうが、そのような状態で学んだ言葉には中身が入っていません。テレビに出ている人が「熱い」と言えば「熱い」という言葉を覚えるかも知れませんが、その「熱い」は自分自身の感覚とつながっていません。そのため「自分の言葉」として使うことが出来ません。思考の道具としても使えません。
2024.03.28
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体験がなければ、「知識」の意味や価値や大切さが分かりません。そして、「知識」の意味や、価値や、大切さが分からなければ自分から学ぼうとする意欲は目覚めません。そのため、体験が乏しい子に知識を教えても吸収できません。そして「暗記」という方法だけで、大人からの要求に応えるようになります。でも、「暗記されただけの知識」は子どもの成長を支えるどころか阻害してしまいます。時々、そういう人から子育ての相談を受けます。子育てや子どもについての知識はいっぱい持っているのですが、実際の子育てがうまく行かないのです。子どもとの間に「幸せな関係」が築けないのです。相談を受けたから、何かアドバイスしようとしても、そういう人ほど「それは知っているんです」「それは分かっているんです」と返してくるのです。「だったら聞くな!」と思うのですが、「知っていることと」と「身についていること」の違いが分からないのです。そのくせプライドだけは高いのです。そのため、失敗を嫌います。そして、失敗は「自分の責任」ではなく「相手(子ども)の責任」だと思い込んでいます。子どもでもそういう子がいます。ノコギリの使い方を教えようとしても「ぼく、知っている」と言って、私の言うことを素直に聞かないのです。それで「やったことがあるの?」と聞くと、「youtubeで見たから」などと言います。でも、youtubeで得ることが出来るのは情報だけです。山のように動画を見てもその内容に対する体験は一切得ることが出来ないのです。実際、そういう子に「じゃあ、自由にやってみな」とやらせても、ほとんどの場合うまく行きません。でも、プライドは高いので、「飽きたから止めた」などと言って、板に傷をつけただけで止めてしまいます。なかには、youtubeで見ることでそのものに対する興味や関心が生まれ、実際にやってみようとする子もいますが、そういう子は日頃から、生活や遊びの場で色々な体験をしている子だと思います。youtubeで見たことを実際にやってみようとしても、実際にはyoutubeでやっているようにはうまく行きません。でも、いつも生活や遊びの場で色々な体験をしている子はそういうことも分かっています。だから、自分の頭で考えて工夫しようとするのです。でも、そのような様々な体験が少ない子ほど「ノコギリの使い方を教えてもらえばそれだけで上手に切れるようになる」と思い込んでいるみたいです。そのような状態の子に「箱の作り方」を教えてもちゃんと作れるわけがないのです。でも、体験が少ない子ほど「作り方を教えてもらえばちゃんと作れるはずだ」と思い込んでいるのです。以前、「僕出来るから」と言い張る子に「じゃあやってみな」とやらせてみたことがあります。当然うまく行きません。その時その子は「先生の教え方が悪いからだ」と言いました。今、そういう若者が増えているのではないでしょうか。そういう若者に「そこは間違っているよ」などと指導すると「パワハラだ」などと言われてしまうのでしょうね。知識ばかり与えられて、生活や遊びの場での実際の体験が少ないと「失敗を繰り返しながら学び、成長する」という「子どもらしい学び方」が出来なくなってしまうのです。子育てでも、子育て書通りにやっても子どもは子育て書に書いてある通りには育ちません。そんな時、「私は子育て書通りにやっている、だから私は悪くない。子育てがうまく行かないのは私ではなく子どもが悪いからだ」などと子どもに責任転嫁してしまう人もいます。そういう人は平気で子どもの悪口を言います。
2024.03.27
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以下の図は、「子どもの成長」の過程を大まかに表したものです。大地の部分が、お母さんや、お父さんを含めた「つながり」や「環境」です。そのつながりの中に子どもが生まれ、そのつながりから栄養を吸収しながら成長していきます。栄養を吸収するために必要なのが「体験」です。子ども達は「体験」を通してしか自分の育ちに必要なものを吸収することが出来ないからです。そして、体験を通して大地(つながり)から影響を吸収して幹が育って行きます。その過程で、その幹が更に大きく成長するために豊かな葉を茂らせます。その「葉」に相当するのが「知識」です。「知識」は子どもの「内側の世界」と、子どもが生きている「外側の世界」をつないでくれます。そして、「葉」(知識)を得ることで、子どもは「根」からだけでなく太陽や空気からもエネルギーをもらう事が出来るようになります。知識を得ることで、子どもは「自分以外の人の学び」を「自分の学び」に変換することが出来るようになるのです。でも、その成長の過程の全てが「子どもの内側で働いている命の働き」によるものです。そして、「いつ、どういう体験や知識が必要なのか」ということも、「子どもの成長を支えている命の働き」によって決められています。子どもの成長は、親や、大人や、社会の都合に従うのではなく、子どもの内側で働いている命の働きしか従わないのです。多くの大人が、「子育てや教育とは子どもを大人の期待通りに育てることだ」と思い込んでいます。でも、多くの場合その期待は裏切られます。「育ちに必要なもの」が満たされなければ精神的に自立することが困難になってしまうからです。自分らしく幸せに生きることも困難になってしまうでしょう。その結果、子どもも、親も、社会も、苦しむことになります。また、多くの大人達が、子どもの成長とは無関係に知識をいっぱい覚えさせようとしていますが、「内側の働きとつながっていない葉(知識)」からは栄養を吸収することが出来ません。そのため、監視する人がいなくなれば容易に散ってしまいます。また、「葉の重さ」が未熟な幹を苦しめ、成長を阻害します。「知識」は必要に応じて与えればいいのです。そして、その必要を目覚めさせるのも「体験」です。自転車に乗ろうとしてうまく乗れなかった時に、「どうしたらちゃんと乗れるのか」を考えようとします。その考えをはっきりとさせるために「知識」を求めるのです。大人が教えようとしなくても、体験を通して「なんで?」「どうして?」を感じれば、子どもは自分で「知識」を探し求め始めるものなんです。ゲームでいっぱい遊んでいる子は大人が教えなくてもゲームには詳しいですよね。興味があることは自分で学んでしまうのです。それと同じです。でも、ゲームに関する知識は現実世界では役に立ちません。だから、現実世界の中で「子どもの成長に合わせた体験」を与えてあげる必要があるのです。その体験が子どもの知識欲を刺激するのです。
2024.03.26
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昨日から、ソロキャンプに来ています。雨の予報だったので、タープだけ張ってテントは張らずに車中泊しました。雨の中にテントを張ると後片付けが色々と面倒くさいのです。この「後片付け」は家に帰ってからも続きます。びちょびちょに濡れたテントのような大きなものを干すのは非常に大変なんです。それでも私はキャンプが好きです。確かに、準備も大変だし、色々と不便だし、便利な機械も使えないし、水場もトイレに行くのにも距離があるし、夜は暗いし、火を起こすのも人によっては大変だし(私は簡単に起こせます)、ご飯を炊くのも大変です。寝る場所(テント)を作るだけでも大変です。それだけで挫折してしまう人もいます。まず、お母さんは子どもの相手をしているのであてになりません。特に、子どもが小さい場合は、キャンプ場はそれなりに危険なので目が離せません。ということで、お父さんが一人で立てることになるのですが、初心者の人は自分の能力以上の「かっこいいテント」を買ってしまうので、立て方を解読するだけで一苦労です。また、多くの場合手助けがないとそう簡単には立ちません。最初は、かっこ悪くても、「あ、初心者だな」と分かってしまうような安い普及品のテントの方がいいのです。「いいテント」を買うのはキャンプん慣れてからの方がいいです。キャンプ場で色々と見て歩くと勉強になります。それでも私がキャンプを勧めるのは、特に子育て世代の人に勧めるのには訳があります。それは、キャンプに行くと「不便」と出会えるからです。キャンプに行くと「人が最低限の生活をするためにはどういうものや活動が必要なのか」ということが分かります。また、キャンプに正解はありません。そのキャンプ場、そのテントサイト、その季節に合わせて、その場その時で色々と考えて最適解を探すしかないのです。火を起こすのにだって正解はありません。最近の若い人は火を起こすのも一苦労ですが、色々と工夫してみるのも楽しいです。ライターを使ってもいいですが、子どもたちはファイヤースターターで火花を出しながら火起こしするのが好きです。弓切り式、まい切り式で挑戦してみるのも楽しいです。(ただし、かなり大変ですから覚悟してください。)家族が助け合いながら、色々な不便を乗り越えていくのもキャンプならではの醍醐味です。家族のきずなも深まるかも。お父さんが見直されるかも。ぜひ、子どもが喜んでついてきてくれるうちに家族でキャンプ体験をしてください。小3ぐらいになると「行きたくない」と言い出す子もいますから。7歳前の子は不便で面倒くさい活動でも、遊びとして楽しむことが出来ますが、小学校に入ると、あっという間に、「不便を嫌い便利を求める現代人」になってしまいますから。今朝のキャンプ場です。昨日です。夜、焚き火をしていたら、体長20cmぐらいの巨大なカエルが私の脇を歩いていきました。フキがいっぱい芽吹いていました。火おこしの道具。弓切り式、マイ切り式は持ってきていません。ファイヤースターターは百均でも売っています。緑のはキャンドゥーです。
2024.03.25
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)Zoomでの気質や子育ての講座もあります。************勉強が好きな子は、「物事をつながりの中で見ようとする子」です。ニュートンは、木からリンゴが落ちる現象を見て、「リンゴが落ちる原因」を「リンゴと木以外のもの」との関係に求めたから、万有引力を発見することが出来たのです。というか、科学もそのほかの学問も全て、「今あるもの」や「今分かっているもの」から、「今ないもの」、「今分かっていないもの」との繋がりを探索する過程で生まれています。勉強そのものが好きな子は、その「つながり」が見えてくる過程が楽しいのです。単なる「知識」を増やしたい訳ではありません。でも、物事に「正解」を求める人は、その「つながり」には意識を向けずに、「知識」という「正解」ばかりを求めます。でも、「正解」には「つながり」がありません。というか、「つながり」で成り立っている世界に属しているものを「つながり」から切り離すことでしか「正解」というものが生まれないからです。円周率が「3.14」というのは「正解」ではあっても、「真実」ではないのです。だから、偉い人の判断だけで簡単に「3」になってしまったりするのです。また、成績のために勉強している子も「正解」を集めるだけで「つながり」には興味がありません。だから抽象的な思考が求められるようになる中学生頃から勉強についていくのが困難になってしまうのです。その「正解」というものは、「お勉強の世界」や「人間の頭の中」にしか存在していないものです。なぜなら、「知識」は人間が「現実の世界」を理解するために便宜的に作りだしたものに過ぎないからです。私たちが存在している現実の世界は「時間の流れ」と「関係性」によって流動的に成り立っているので、固定された「正解」など存在していないのです。例えば、「胃」の研究は「胃」だけを見ていても出来ません。「胃の意味と働き」について知るためには、「胃とからだ全体との関係や、胃と周囲の環境との関係の中で、胃がどういう役割を果たしているのか」という視点が必要になるからです。固定的な知識にこだわっていたらそのような研究は出来ないのです。でも、人間の脳は、「関係性の中で流れ、変化している事象」をそのままの状態で理解することが出来ません。人間の思考には「静止した基準」(物差し)が必要だからです。1回時間を止めないことには理解出来ないのです。そしてそれが人間の脳の限界です。(命の働きはその変化に対応できるのですが、意識が対応できないのです)そのため、「知識」にこだわる人ほど、「ありのままの世界」ではなく、「自分の頭の中の世界」にこだわります。その「正解や知識の世界」と真逆の所にあるのが「遊びの世界」です。「遊び」は「知識」ではなく「つながり」によって支えられています。「遊び」に知識は必要がありません。また子どもたちは「遊び」を通して「つながり」に気付きます。古代の人達は、自分たちが発見したその「つながり」を「物語」という形で表し、伝えていました。「物語」は「目に見える世界」の裏側にあって「目に見える世界」を支えているつながりを、自分たちで理解出来るように言葉化したものです。そして、子どもたちの言葉や思考もそれと似ています。でも、知識に洗脳されてしまっている現代人は、知識や常識だけで「古代から伝えられてきた物語」や「子どもの言葉」を評価し、それらを「間違ったもの」「くだらないもの」と断定してしまいます。だから「今起きていること」の全体が見えないのです。花や木は見えても、それらの花や木の命を支えている自然が見えないのです。「新しいもの」は見えても、それと引き替えに「失われていくもの」が見えないのです。「子どもの行動」は見えても、「子どもの成長」が見えないのです。
2024.03.24
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また、「劇遊び」にはセラピー的な効果もあります。「見せるための劇」には「見せるため」というストレスがかかります。観客がいたり、カメラが回っていたらそれだけでストレスを感じます。良い役者さんはそのストレスをうまく使って素晴らしい演技をするのでしょうが、大根役者は、そのストレスに束縛されて不自然な演技をしてしまうのでしょう。それに対して、ただ単になりきって遊ぶ「ごっこ遊び」や「劇遊び」にはそのようなストレスがありません。それらは「人に見せるためのもの」ではなく「自分たちが楽しむためのもの」なので、他者の目を意識する必要がないからです。むしろ「違う自分を演じる楽しさ」があります。それは、子ども達が大好きなRPG(ロールプレイングゲーム)と似ています。ウィキペディアにはロールプレイングゲームとは、参加者が各自に割り当てられたキャラクターを操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練を乗り越えて目的の達成を目指すゲームである。と説明されています。RPGは「自分の分身としてのアバターを使った劇遊び」なんです。「そのRPGを、アバターを使わず自分のからだを使ってリアルな世界で遊んでみよう」というのが、私がやっている「劇遊び」です。そしてこれは子ども達が日常的にやっている「ごっこ遊び」と、基本的には同じものです。逆に言えば、だから子ども達は簡単にRPGにはまってしまうのです。「人に見せるための演劇」には自由がありません。台詞も動きも決められてしまっているからです。でもいつも不自由な世界に生きている大人達は、台詞も動きも決められて自由がない方が演じやすいようです。「素の自分」を隠したまま演じることが出来るからなのでしょう。でも、自由を生きている状態の子ども達にはそれはなかなか難しいことなんです。以前、幼稚園の先生と話をしていた時「演劇の指導が一番難しい」と言っていました。そうだろうなと思います。私がやっている「劇遊び」にあるのは、「話の背景」(状況設定)と大まかなストーリーだけです。後は、なりきった登場人物に任せます。それは現実世界で毎日私たちがやっていることと同じです。ですから、結果は予測不能です。以前、神奈川県の幼稚園の先生達の研修会に呼ばれてこの「劇遊び」をしたことがあります。その時は「桃太郎」をやりました。普通の「桃太郎」の話では、最後に桃太郎が勝って、鬼を成敗し、宝を取り返して「めでたしめでたし」となるのですが、この時は全く違った結末になりました。桃太郎が鬼退治に行くまでは同じなんですが、鬼の方が一枚上手で、桃太郎をやっつけてしまったのです。そして、「宝物を取りに来た悪い桃太郎から宝を守った。めでたしめでたし」となりました。これは最初に「こういうストーリーにしよう」と決めてやったわけではありません。ただみんながなりきって遊んでいたら、こうなってしまったのです。それが「劇遊び」の面白くて楽しいところです。子ども達の「ごっこ遊び」でもどういう結果になるのかは予測不能ですよね。だから見ていると面白いのです。そして大事なことは、このような「劇遊び」にはセラピー的な効果があるということなんです。本当の自分のままでは言えない本音を、嘘の自分になら話させることが出来るからなのでしょう。以前、お母さん達だけでシンデレラを演じた時、いつもは優しい人が、悪くてイジワルな継母をリアルに演じて、みんなが驚いたことがあります。演じた本人も驚いていました。でも、「心の中に閉じ込めているもう一人の自分」を外の世界に出してあげ、それを遊ぶことで、内側の歪みが緩むのです。これは箱庭療法とも似ているかも知れません。
2024.03.23
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「劇」というと私たちは、いわゆる「演劇」を思い浮かべます。それは、「何らかの物語を役者が演じ、観客が見る」という「見せるための劇」です。そこには、誰かによって作られたストーリーと台詞があります。監督もいます。見る人が物語の世界に入りやすいように小道具や大道具や背景なども必要です。幼稚園や学校などでやっている「劇」はこのようなものです。それに対して、子ども達が日常生活の中で行っている「ごっこ遊び」には観客がいません。決められたストーリーも台詞もありません。もちろん監督もいません。子ども達はただ「他者になる」ことを楽しんでいるだけです。自然と共に生きている人たちは、自然の力を自分の内側に取り入れるためにオオカミになったり、風になったり、熊になったりすることがあります。その際、お面などをかぶったり草や木を纏うこともありますが、それは観客に「らしく見せるためのもの」というよりも、「演じる人がなりきるためのもの」なのではないかと思います。子ども達もまた、時々、恐竜になったり、ネコや犬になったりします。そうやって、「自分が大好きなものとの一体化」を楽しんでいるのです。大人になるとあまりそういう遊びはしなくなりますが、でも大好きなアイドルや選手がいると、ちょっと真似をして見たくなりますよね。昔、高倉健の任侠映画が流行った時、映画を見終わって映画館から出てきた人たちの多くが、肩を怒らして「健さん歩き」になっていたそうです。人間は「真似をすることでその相手とつながり、その相手の持つパワーや特性を取り込むことが出来る不思議な能力」を持っているのです。意識して真似をしようとしなくても、「大好きなもの」があると自然とそのものとの共鳴が起こり、そのものに似てしまうのです。子ども達はお母さんが大好きですから、自然とお母さんの話し方、考え方、動き方を真似してしまいます。お人形に向かって、お母さんと同じように怒っている我が子を見て恥ずかしくなったお母さんもいました。また、なりきっている時には視点も切り替わります。オオカミになりきろうとすれば、多少はオオカミの視点に気付くことが出来ます。鳥になりきろうとすれば、多少は鳥の視点を持つことが出来ます。そして「お母さんごっこ」をしている子は、お母さんの視点でごっこ遊びをしています。それと同じように、お母さんも子どもの真似をすれば、子どもの視点に気付くことが出来ます。私の子育てワークではロールプレイ形式でそのようなこともやります。また子ども達は、あこがれているお兄ちゃんや、お姉ちゃんや、大人の真似をしようとします。そしてその「真似っこ」が、子どもの成長の方向性にも大きな影響を与えます。皆さんも、お子さんと一緒に真似っこあそびをして見ませんか。森の中に入って「木」の真似っこをして見る。風が強い時に「風」の真似っこをして見る。チョウチョを見かけたら「チョウチョ」の真似っこをして見る。ぐりとぐらの絵本を読んだら、「ぐりぐらごっこ」をしてみる。野原や森の中に行ったら、いわむらのぼるの「14ひきのシリーズ」の野ねずみたちの真似をして見る。きっと楽しいですよ。それに新しい発見もいっぱいあると思います。私がやっている「劇遊び」は演劇よりも、このような「ごっこ遊び」のようなものです。だから「どう演じるのか」ということよりも「どうなりきるのか」と言うことの方を大切にしています。なりきったら、あとは自由にやればいいのです。でも今の子ども達は、あまり「ごっこ遊び」をしません。したとしても、「お話しの中の存在」や「自分の身近にいる存在」の真似ではなく、「アンパンマン」や「○○レンジャー」のような画面の向こう側にいるキャラクターの真似です。でも、画面の向こう側にいるキャラクターに同化しようとしても視点の切り替えは起きません。子どもの成長にもつながりません。「画面の向こう側の世界」と「自分たちが生きているこちら側の世界」はつながっていないからです。「正義の味方アンパンマン」を真似しているのに弱い子を守ろうとはしません。むしろ、「アンパーンチ」と言って、他の子を打ったりしています。正義のために戦っている「○○レンジャー」の真似をしているのに、「○○レンジャー」の剣で他の子を打ったりもします。画面越しでは「行為の模倣」は出来ても、「気持ちの模倣」までは出来ないからです。
2024.03.22
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私たちの身の回りはデジタル機器で溢れています。そして、子ども達の遊びの世界にもデジタル機器が広がっています。「家ではゲームでしか遊ばない」という子は今や普通の子です。スマホを持っている小学生も珍しくありません。そして子ども達の趣味や興味はSNSやyoutubeのようなデジタル世界の中の事ばかりです。友だちとのやりとりもデジタル機器を通して、遊びもデジタル世界の中で、情報を集めるのもデジタル機器で、そして、自分の夢や希望もデジタル世界の中で探そうとしています。最近話題になっている「Apple Vision Pro」なんか凄いですよ。あれは本当にやばいです。今はまだ高いし、デカいし、重いですが、しばらくしたら普通のメガネくらいの値段や、大きさや、重さになるでしょう。そして、普及すれば子どもの遊びの中にも入って行くでしょう。そして、メガネと同じように、あれをつけたまま生活する子どもも現れるかも知れません。でも、そのような状態が日常的になってしまった子は、現実世界を生きることが困難になってしまうでしょうね。自分の心やからだとの向き合い方も分からなくなるでしょうね。VRが最初出始めた時は、「12才以下の子どもには使わせないように」ということでしたが、大人が使っていれば子どもにだけ禁止することは出来ないですよね。そして、子どもの成長に興味や関心がない人は、「自分も使っているし、子どもも使いたがっているし、使わせていれば大人しくしているから」と軽い気持ちで使わせてしまうでしょう。実際、子どものスマホの使用もどんどん一般的になり、しかも低年齢化していますから。でも、そのようなデジタル機器に囲まれて生活し、デジタル世界の中で遊んでいる子ども達は、必然的に、アナログ世界、つまり、現実世界との関わり方が分からなくなってしまうのです。そのような子は、デジタル機器がないとすぐに「退屈だー」と言います。常に受け身的で、自分で遊びを発見し、自分の頭で考えて遊びを工夫し、自分の手やからだを使って遊ぶということが出来ないのです。鬼ごっこのような「形が決まっているもの」でなら遊べます。造形でも、箱やイスのような「形が決まっているもの」なら作ることが出来ます。でも、そこに「自分のアイデア」を入れ込むことが出来ないのです。絵でも、キャラクターの絵は描けるのですが、自分で考えた絵が描けないのです。というか「自分で考えた絵」を描きたいとも思っていないようです。時々、自分の頭で考えたことを自分の頭で工夫しながら描いたり作ったりする子もいますが、そういう子の話を聞くと、家ではほとんどゲームで遊んでいない子ばかりです。問題は、デジタル機器に慣れ親しみすぎた子は、大人になって結婚しても、リアルな夫婦関係を築くことが困難になってしまうのではないかということです。リアルな仲間と、リアルな世界で、リアルな遊びを通して関わってこなかったので、目の前に存在しているリアルなパートナーとアナログ的にどう関わったらいいのかが分からないのです。それでも女性は、子どもが生まれたら「リアルな世界でアナログ的に生きている子ども」と直面せざるおえません。そうして「訳わかんない」と言いながらも、「リアルな世界でのアナログ的な生活」も大切にするようになります。そうしないと子育てが出来ないからです。でもそれは大変な苦しみを伴います。でもお母さん達は学び、考え、仲間を作り、自分自身が成長することでそれを乗り越えようとします。その過程で「自分らしさ」に目覚める人もいます。私はそういうお母さん達に呼ばれて勉強会もしています。それが出来ない人は、どこまでも子どもを支配しようとします。でも、子どもが思春期を迎える頃に、そのような「支配する子育て」は破滅します。また、そのような女性の変化に対して、男性の方は子どもの時のままです。先日も、ご主人の問題を色々と相談してきたお母さんがいたので、「でも、そんな人を選んだのはあなたですよね?」と言ったら、「何であの人を選んだのか想い出せないのです」とおっしゃっていました。どうか子ども達には、デジタル体験よりもアナログ体験の方をいっぱい与えてあげて下さい。子ども時代にリアルな世界でのアナログ体験をいっぱいした子は、大きくなってデジタル世界と出会っても「リアル」と「仮想」の区別が付くようになるのです。「命」の意味も分かるようになるでしょう。デジタル世界の中には「命」は存在していないのですから。
2024.03.21
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昨日、「茅ヶ崎賢治の楽校」のことを少し書いたので、その活動を始めたのがいつ頃のことだったのかを確認するために古い文書を探していたら、以下の呼びかけメッセージが出てきました。1997年7月とあります。ですから、その数年前に「賢治の学校を作ろう」という故・鳥山敏子の呼びかけに応じて、第一回目の全国大会に出たのだと思います。今では「茅ヶ崎賢治の楽校」の名前で活動はしていませんが、精神は同じです。*******「茅ヶ崎賢治の楽校からのメッセージ」 子どもは急に大人にはなれません。しかし、大人が子どもに還ることはできます。大人が自分の中深くに閉じこめた“子ども”を解放するとき大人は永遠の子どもに還ることができるのです。その時始めて、大人は子どもとコミニケーションが可能になります。 この「 “賢治”の楽校」では、全ての人が永遠の子どもです。「子供だまし」ではなく人間の本源としての子どもに還る場です。 そのことを実現するためには大人だけが集まるのではなく、また子どもだけを集めるのでもなく、あらゆる年齢を超えた人たちが集まり、一人一人がお互いを鏡にして、“一緒に遊び”、“一緒に学び”、そして、“一緒に苦しむ”場が必要なのではないかと考えるのです。 今、教育も福祉も政治も、簡単には癒されないような深い病に陥っています。合理性、生産性、便利を追求するような大人の論理が破綻しているのです。合理的でなくても、生産性が悪くても、多少不便でも楽しく遊んでしまえる子どもの論理・感性が求められているのです。人類の未来のために。 1997年7月 篠 秀夫
2024.03.20
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先日、藤野という所にあるシュタイナー学校の8年生の劇を見に行ってきました。みんな一生懸命で素敵でしたよ。そのシュタイナー教育では、「見せることを目的にした活動」ではなく、「子どもの成長を支えるための活動」として「劇」という活動を大切にしています。(詳しいことはこちらのシュタイナー学園のHPをご覧になって下さい。詳しく説明されています。)https://www.steiner.ed.jp/activity/nl108_20210609/童話作家として有名な宮沢賢治も、自身の教師としての活動の中で「劇」という活動を大切にしていました。これもまた、教育活動の一環としての「劇」です。子ども達は「見立て遊び」や「ごっこ遊び」が大好きです。大人が指導しなくても、子ども達は勝手に「見立て遊び」や「ごっこ遊び」しています。そういう遊びを通して、「外側にあるもの」を様々な形でシミュレートしながら、自身の内側に取り入れようとしているのです。そしてそれは、子どもの本能でもあるのです。ただ観客として見たり聞いたりしているだけでは「外側にあるもの」を内側に取り込む事は出来ません。見たり聞いたりするだけでもそれを知識や情報として取り入れることは出来ますが、「自分の育ちを支えるもの」としては吸収することが出来ないということです。「外側にあるもの」を内側に取り込むためには、それを内的に体験する必要があるからです。だから真似るのです。大谷翔平が大好きな子は、大谷くんの投げ方や、バットの振り方や、日常の仕草まで真似しようとしますよね。そうやって、心の中で大谷翔平と一体になって、「大谷翔平」を内側に取り入れようとしているのです。これは野球選手だけでなく、アイドルでも、また様々な分野で活躍した偉人でも同じです。「こういう人になりたい」と思ったら、その人物を真似したくなるのです。お母さんが大好きだから、「お母さんごっこ」をするのです。(子どものことが理解したいと思ったら、ご自身の子どもの真似をしてみて下さい。)そして、子どもは自身の年令や気質に合わせて、あこがれる人の真似をしようとするのです。そうやって「自分の成長に必要なもの」を自分で補い、自分の人生の目標を見つけようとしているのです。でも、「お母さんが何をしているのか知らない子」は「お母さんごっこ」をしません。というか出来ません。毎日、お母さんが作った料理を食べていても、お料理を作っている時にテレビを見たり、ゲームをしていたら、「お母さんごっこ」には目覚めないのです。学校から帰ったら毎日、テレビを見てゲームで遊んでばかりいたら、大人の社会とも出会えません。大人に対する興味や関心も目覚めません。そんな子ども達があこがれるのはテレビの中で活躍している人ばかりです。でも、その「テレビの中の人」は虚像です。アイドルも虚像です。あと最近聞くのは「ペットごっこ」です。子どもの誰かがペット役になって遊ぶのです。「お母さんがお料理を作っているところ」は見なくても、「お母さんがペットの世話をしているところ」はよく見ているのでしょう。でもこれは、子どもの成長を支える学びにはならないと思います。あと子ども達は「お店屋さんごっこ」が大好きです。茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という「親子で遊ぶ教室」でも、「お店屋さんごっこ」で遊びます。子どもとお母さんが2週間ぐらいかけて作った品物をフリーマーケットのような形で並べて売るのです。お金はポランで独自に発行している「ポラン券」です。劇遊び(なりきり遊び)もよくやります。以前は、「茅ヶ崎賢治の楽校」で足柄の山にあった施設に寝泊まりして、森の中でみんなで劇遊びなどもしていました。「茅ヶ崎賢治の楽校」は故・鳥山敏子さんの許可を得て私が主宰していた活動です。あと、「劇遊び」は「子どもの内的な成長」を支える手助けをしてくれますが、それだけでなく、目的を共有することで自然と仲間が生まれます。また、自分の感情に気づき、自分の感情や考えを表現する能力も育ちます。ただし、劇遊びでは子どもが主人公になる必要があります。大人によって正解を決められ、大人の趣味に合わせて演じるように求めるのなら、それは「子どもの育ちを支える活動」ではなく、「大人の趣味に合わせた活動」になってしまいます。そこが一番難しいところです。お店屋さんごっこ茅ヶ崎賢治の楽校
2024.03.19
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よくお母さん達から、“うちの子どもたちはしょっちゅうケンカばかりしていて困るんです”と、兄弟げんかの相談を受けます。そんな時は、“兄弟げんかの数だけいっぱい仲直りも体験しているのですから大丈夫ですよ”と答えます。子どもはケンカしても、すぐに一緒に遊び始めます。兄弟げんかならなおさらです。その、ケンカから一緒に遊び始めるまでの過程の中に“仲直り”も含まれているわけです。その際、“ゴメンナサイ”などという儀式は不要です。「どっちの方が悪い」という善悪の判定も不要です。そういうものを求めているのは子どもではなく大人の方です。子どもはただ仲良く遊びたいだけなんです。それがうまく行かないからケンカになるのです。それに子どもは、「自分の感情」を吐き出して、それをお母さんにちゃんと受け止めてもらえば、それだけで落ち着くのです。うちの子がまだ小さかった時、「ケンカから仲直りへ」という過程を見たくてケンカしている脇でただジーッと見ていたことがあります。ケンカしている時も、仲良く遊んでいる時もよく見ていましたが、その境界で何が起きているのかを知りたかったのです。そうしたら、最初のうちは言い合いをしていました。でも、しばらく言い合いをしているうちに気持ちが落ち着いてきたのでしょう、側でジーッと観察している私が気になり始めました。そして、姉の方が“あっちへ行こう”と弟の手を引いて行ってしまいました。そこでケンカは終わりました。でも、多くのお母さんがそんな面白い現場を見ることなく子どものケンカを一方的に止めてしまいます。そして多くの場合、お兄ちゃんやお姉ちゃんが怒られることになります。すると、兄弟の間に妬みが生まれます。そして、兄弟の仲が悪くなっていきます。そして、またケンカを始めます。そしてまたお母さんに怒られます。つまり、ケンカを一方的に止めてしまうことがかえってケンカを増やしているのです。そして、そこではケンカの体験ばかりで仲直りの体験ができません。その仲直りの体験が出来ないまま成長していくと、年齢が上がるにつれて“ケンカ”が兄弟間の“イジメ”というような形に発展していくことがあります。イジメの世界には仲直りは存在しません。そして、そのような状態になってしまうと、お母さんには兄弟の間に何が起きているのか分からなくなってしまいます。そうなってしまってから問題を解決するのは非常に困難です。ですから、そうならないように兄弟げんかを楽しんでみましょう。実は、子どもにとって“ケンカ”という場面ほど自分を表現しようとする状況は生活の中にないのです。いつもは無気力に受け身で生活している子どもたちでもケンカの場面の時だけは能動的になります。そして、行動的になり、おしゃべりになります。つまり、自己表現を始めるわけです。つまり、“心のドア”が開くのです。その時に、相手やお母さんにその自己表現をちゃんと受け止めてもらうことができれば子どもは自分を表現することに臆病にはなりません。そして、お母さんがちゃんと聞いてあげていれば、相手に理解してもらうための表現能力も育っていきます。そして、自分の気持ちを表現する能力が育てばケンカをする必要もなくなっていきます。また、子どもの気持ちにちゃんと向き合ってくれたお母さんへの信頼も育っていくでしょう。ですから、兄弟げんかが起きたら、“しめた!”と思ってください。ケンカという場でないと伝えることが出来ないこと、育てることが出来ないこともいっぱいあるからです。ケンカの時、子どもは先ず自分の感情を吐き出そうとしますから、ちゃんと子どもの話を聞いてその感情を吐き出させてあげて下さい。感情を止めてしまうと感覚も思考も働きませんから、話しが先に進みません。その時、“辛かったんだよね”とか、“イライラしたんだね”というように子どもが言葉化出来ない心の中の言葉をお母さんが感じて、言葉化してあげることも必要になります。子どもは自分の感情をどのように表現したらいいのか分からないからです。(お母さんも分からなかったりして・・・)ただし、自分の感情を吐き出すのはいいのですが、相手を否定するような言葉はしっかりと止めてください。それと、お母さんが善悪の押しつけをしないようにして下さい。それをやってしまうと子どもは自分の感情を言わなくなります。兄弟げんかは生活の中の「感情表現ワーク」でもあるのです。子どもは、そういう場で「自分の心」と向き合っているのです。ですから大切にしてあげて下さい。
2024.03.18
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暖かくなってきたこの時期楽しいのが「お散歩遊び」です。家の中にあるものは全て人工的なものばかりです。そこには不思議も驚きもありません。当然、家の中で遊んでも、遊びが閉鎖的になり、同じ遊びの繰り返しばかりになります。でも、一歩外に出るだけで、そこには不思議と驚きの世界が広がっています。ただ問題は、外に出ても、自分の周囲にある「不思議」と「驚き」に全く気付かない人が多いと言うことです。そのような人は知識で世界を見ている人です。名前を知っている花は見えても、名前を知らない花は見えないのです。そして、普通のお母さんが知っているこの時期の花はタンポポやサクラなどのわずかな花だけです。ちょっと道ばたを見るといっぱい色々な花が咲いているのに、名前を知らない花は風景の中に隠れてしまって、見えないのです。大勢の親子と外を歩くことが多いのですが、そんな時、道ばたに生えている葛の葉を手に乗せて「ポンッ」て鳴らして遊んでみせることがあります。すると、子どももお母さんも興味を持って寄ってくるのですが、みんな「それ何の葉ですか」「どこに生えているのですか」と聞いてきます。すぐ側にいっぱい生えているのに見えないのです。またこの時期、毎年、野草を摘んで食べる会をやるのですが、その時も同じような会話が繰り返されます。道ばたに雑草のように生えている草なんですが、なぜか知らないのです。見えているはずなのに見ていないのです。うちは子どもが小さい頃から、春になるといつも野草を摘んでて食べていたので、子どもたちもそれなりに野草には詳しくなりました。以前、野原にツクシを摘み来ていた人に、「この草は・・」と言って驚かれたこともあります。四番目の子は、ノビルをほじくることにはまっていた時期があって、食べきれないほどノビルを掘って「これどうしよう」ということもよくありました。 食べなくても、野に咲く草花で遊ぶ方法はいっぱいあります。タンポポの茎やカラスノエンドウの種を笛にして遊ぶことも出来ます。いわゆる「草笛」です。上手にならすためには練習が必要ですが、その練習も楽しいです。草笛の本も出ています。お花などをビニール袋に入れてお水をちょっと入れて、モミモミして色水遊びも出来ます。また、水を入れたビンやビニール袋の中に、色々なお花や葉っぱを入れて、今流行の「ハーバリウム」を作ることも出来ます。採ってきた草花を、電子レンジを使って簡単にドライフラワーにすることも出来ます。草花を使った工作も出来ます。「匂い」で遊ぶことも出来ます。また、プリンのカップなどを使って、ミニ植木鉢や盆栽を作って遊ぶことも出来ます。泥ダンゴで写真のようなものを作って遊んだこともあります。また秋には色々な種を集めて造形に使ったり、色々なところやミニ植木鉢に植えて、成長を楽しむこともできます。さらに、家から外に出れば、草花遊びだけでなく、探検遊びや、旅行遊びや、影踏みや、木登りや、お店遊びや、草の物語、木の物語、水の物語を話して遊ぶことも出来ます。あまりに多いのでここには書けませんが、家から外に出るだけでいっぱい遊びが転がっているのです。でも、公園に行ってしまったら、そういう遊びの全てが消えてしまいます。**************************草あそび花あそび(春夏編) いっしょにあそぼ [ 佐藤邦昭 ]価格:1944円(税込、送料無料) (2019/3/18時点)楽天で購入作ろう草玩具 身近な草や木の葉でできる [ 佐藤邦昭 ]価格:1296円(税込、送料無料) (2019/3/18時点)楽天で購入
2024.03.17
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AIやデジタル技術の進歩で「本物」と「偽物」の区別が難しくなってきました。グーグルピクセルのCMでは、カメラの編集技術の素晴らしさをアピールするために、写っている物の位置や背景を自由に変えたり、笑っていない人の顔を笑顔にして見せたりしています。最近のAIは、この世に存在しない人をリアルな姿で創り出し、動画の中で話したり、演技をさせたりすることが出来ます。恋人がいない人がAIに恋人を創ってもらって、「一緒に江ノ島観光をしている動画」だって創れてしまうのです。そして、繰り返しその動画をみているうちに、それが本当にあったことだと思い込むようになるでしょう。偽の情報によって、記憶が書き換えられてしまうのです。ちょっと前までは、写真は「事実の記憶」を残すための手段だったのですが、その事実を自由に創作できるようになってしまったので、「本当の事実」と「嘘」の違いを証明することが困難になったのです。そして、日常的に「嘘」に触れていると、「嘘」と「本当」の区別が付かなくなり、次第にその「嘘」の方が「本当の事実」だと思い込んでしまうようになるのです。これは、昔からある「洗脳」の技術と同じものです。「大和魂と竹槍があれば、鉄砲を持っている米兵にだって勝てる」と国や周囲のみんなが言っていれば、自分も「そうなのかな」と思い込んでしまうのです。「お金をいっぱい寄付すれば天国に行ける」と言われ続けているうちに、本当にそんな気がしてくるのです。そんな時に「それは変だ」と感じることが出来るのは、本物と出会い、本物を体験し、本物から学んだ人だけです。「本物」といってもそんな凄いものである必要はありません。皆さんの足下にある石でも草木でも、雨の後の水溜でも、山の中に落ちているドングリも、落ち葉も、みんな「本物」なんですから。そして、幼い子ども達は、その「本物」で遊ぶのが大好きです。問題は「現代人はそのような本物と触れ合わなくなった」、「そのような本物に価値を感じなくなった」ということなんです。お母さんもドロンコや水溜で遊ばれるよりも、ゲームの中で遊んでくれた方が洋服は汚れないし、ばい菌もいないし、安心でもあります。そして現代人は、大人も子どもも「本物」よりも「お金さえ払えば、自分の希望通りに自由に仮想現実を作り出せて、手軽に自分の欲望を満たしてくれるデジタルの世界」の方を選ぶようになったのです。でも、遊びや仕事はデジタルの世界の中でも出来ますが、「自分の命を支えるための活動」や「子育て」はデジタルの世界の中では出来ないのです。デジタル世界の中で学んだことは、子育ての現場では全く役に立たないのです。自分の人生を自分らしく生きようとする時にも役に立ちません。デジタル世界の中で理想的な子育てをしても、実際の我が子がその通りに育つことは100%ありません。血の通った我が子を「たまごっち」のようには育てることが出来ないのです。また、デジタル世界の中でいくらいっぱいノコギリを使っても、山登りしても、仲間と遊んでも、自分の肉体が存在している現実世界では、その体験は全く役に立ちません。むしろ、「実際には何も出来ない自分」を思い知るだけです。どうか子ども達を「本物」と出会わせてあげて下さい。本当の水、本当の土、本当の仲間、本当の自分と出会わせてあげて下さい。本当の幸せは、本物との出会いを通してしか得ることが出来ないのですから。「デジタル世界の中での幸せ」は、「夢の中の幸せ」と同じ蜃気楼のようなものです。
2024.03.16
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人は自分が学んだことや、体験したことを基準にして物事を感じたり、考えたりしています。男性は小さい時から男性としての体験をしながら成長しています。そのため、男性としての視点を基準にして感じたり、考えたりしています。女性もまた同じように、小さい時から女性としての体験をしながら成長しています。そのため、女性としての視点を基準にして感じたり、考えたりしています。そして、その人の感じ方や考え方の基準になっているものが異なっていれば、当然、話が通じなくなります。でもお互いにそのことには気づいていません。人は、体験がないことには気付かないからです。そして、「自分の感じ方や考え方が常識であり、一番正しい」と思い込み、「どっちの方が正しいのか」を決めるために戦いを始めます。日本人として生まれ育った人は、「日本人としての価値観」を基準にして感じたり、考えたりしています。私は30才の頃にバックパッカーとしてヨーロッパやインドやアジアなどをフラフラしてきましたが、そのことで私は「私が巡った国」のことだけでなく、そのような異文化に触れることで、相対的に「日本」のことについても色々な気づきを得ることが出来ました。昔、誰かが「日本の常識は世界の非常識だ」というようなことを言いましたが、こういうことは日本から出て、異文化と触れあわないことには分からないのです。このような対立から抜け出して、お互いに対等な立場に立って話し合うことが可能になるためには、双方にとって共通の基準が必要になるのです。そこで必要になるのが、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界への気づき」です。「科学」もまた「普遍的な世界」を提示しています。このようなものはそれほど社会の変化に振り回されません。だから、このようなものを思考や感覚の基準として持っている人は、過去の人とも、他の国の人とも話し合うことが可能になるのです。「男性」とか「女性」とかいうような対立を超えるために必要なのは、「男性も女性も同じなんだよ」という社会的価値観を押しつけることではなく、人間とか、命とか、自然という「普遍的な世界への気づき」なんです。男女平等などというような「社会的に決めた価値観」は、社会の変化によって簡単にひっくり返ってしまうのですから。実際、社会的な価値観は常に変化しています。昔はかっこよかった服装が、数年後にはダサくなったりします。昔は、電車の中でもお店の中でも、タバコを吸っている人がいっぱいいましたが、今ではそれは許されないですよね。子ども達には「命を大切にしよう」とか「命は地球より重い」などと言いながら、戦争になると「敵」を殺すことが正当化されます。また、生き物たちがいっぱい生活している山や、野原を平気でブルトーザーなどで潰してビルを建てたりします。コロナ前にはみんなで仲良く遊ぶことが奨励されていたのに、コロナになったら急に、群れるな、話すな、手をつなぐな、近くに寄るな、などと言われるようになりました。子ども達は混乱したでしょうね。我が子の誕生に立ち会えなかった人、親や大切な人の死に目にも立ち会えなかった人もいっぱいいます。それまでは「大切なこと」として考えられていたような行為が簡単に否定されてしまったのです。このように社会的な価値観は常に変化しているのです。そのため、社会的な価値観だけを基準にして感じたり、考えたりしていると、人は簡単に感覚や思考の迷路にはまってしまうのです。そして「人間として本当に大切にしなければいけないこと」が分からなくなってしまうのです。そして今、社会全体がそのような状態になってしまっています。今の時代、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界」を大切にしている人は多くないような気がします。問題は、幼い子ども達は大人が創り出した人工的な世界ではなく、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といった普遍的な世界とのつながりの中で生きているということです。だから、社会的な価値観に翻弄されて生きている人には、子どもが生きている世界が分からないのです。子どもの成長に必要なものが分からないのです。命の働きを通して普遍的な世界とのつながりの中で生きている子ども達は、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界」を素直に受け入れます。そして、そのような「変化しないもの」を基準にして感じたり、考えたりするようになります。そしてそのことで、感覚や思考が安定し、社会の変化にも振り回されなくなるのです。それに対して、常に変化する人工物に囲まれて育った子は、自分の内側にある「普遍的な世界とのつながり」が断たれ、「常に変化する社会的な価値観」を基準にして感じたり、考えたりするようになるでしょう。そのため、感覚や思考が不安定になり、社会の変化に振り回されるようになってしまうでしょう。
2024.03.15
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「優しさ」を育てるためには「想像力」を育てる必要があります。相手の立場に立って色々と考えることが出来る「想像力」です。「相手の立場」に立たずに、「学校に行かないと・・・」「歯を磨かないと・・・」「ちゃんと勉強しないと・・・」などと、自分の不安や希望から生まれた空想は「妄想」であって「想像」ではありません。一方的に、その妄想を押しつけられた子どもは苦しくなります。また、そのような人は、自分の勝手な思い込みだけで相手のことを判断します。自分が傷つきやすい人は、自分のちょっとした言動でも子どもが傷ついてしまうのではないかと恐れ、子どもの顔色をうかがい、子どもを叱ることが出来ません。その逆に、感受性が鈍い人は相手の気持ちなど考えずに色々とやったり言ったりしてしまいます。そして、「こんなことぐらいでは子どもは傷つかない」と思い込んでいます。よくあるパターンが、お母さんが傷つきやすく過度に子どものことを心配しているのに、お父さんの方はその逆に、「このくらいじゃ子どもは傷つかない」と思い込んでいる場合です。そういうお母さんからの相談も多いです。でも、両者の考え方とも自分の価値観や、考え方や、感性を基にした思い込みですから、話し合ってもラチがあきません。いくら話し合いを繰り返しても一向に近づきません。お互いに「なんで分かってくれないんだ」と「自分」の押し付け合いを繰り返すだけです。いずれの人にも共通しているのが「想像力の欠如」です。「優しさの欠如」ではありません。もちろん子育てでは、お母さんやお父さんの感性や、価値観や、考え方も大切です。でも、肝心の子ども自身の「感性や、価値観や、考え方」を無視して、お母さんやお父さんが「子どもの育て方」について議論しても意味がないのです。子どもの感性や、価値観や、考え方を知れば、話し合う上での共通の視点、土台が整います。そこで始めて「話し合い」が成り立つようになるのです。家を建てる時に、家を建てる場所の実際の状況が分からないまま「どんな家を建てたいのか」を考えたり議論したりしても無意味ですよね。それと同じようなことです。「インドに行ったらどうしようか」と色々と想像するためには、実際のインドについてちゃんと知る必要があります。野生の動物たちが幸せに生きることが出来るように考えるためには、野生の動物たちの生態を知る必要があります。何にも調べないであれこれ考えるのは妄想に過ぎません。私が考える「優しさ」とは、相手の価値観や考え方を大切にしてあげることです。子どもを大切にするということは「子どもが大切にしていること」を大切にしてあげることです。そして、相手のことを相手の視点に立って色々と学び、考えることで想像力が育つのです。自分の視点のまま相手のことを学び、何かしてあげても優しさにはつながらないのです。まただから、相手のことについて色々と学ぶ必要があるのです。ちなみに植物や生き物を育てたりすることでもこの想像力が育ちます。想像力を働かせないとすぐに枯れたり死んだりしてしまうからです。植物や生き物を育てたりすることが子どもの「優しさ」育てにもつながっているのです。でも今、そのような想像力が未熟な子ども達が増えて来ています。
2024.03.14
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時々、「子どもがアリを殺して遊んでいるときにはどうしたらいいのでしょうか」という質問を受けます。それは、子どもがアリを殺して遊ぶのが、身近でありふれた行為だからなのでしょう。大人としては子どもに命の大切さを教えなければいけないと思って「かわいそうだからやめなさい」と、一方的に子どもの行為を否定して止めてしまいまが、でも、じゃあそれで子どもに「命の大切さ」が伝わるのかというと、そんなことはありません。そのような一方的なやり方では、子どもに「お母さんに否定された」という記憶しか残すことが出来ません。そもそも、そのようなことを言う大人が「生命」を大切にした生活や生き方をしているのでしょうか。アリの命を「大切なもの」として考えているのでしょうか。茅ヶ崎の北の方に、「里山公園」という里山を生かした県立の大きな公園があります。以前、私はそこにも子ども達を連れて行って遊んでいたのですが、ドジョウやザリガニがいるので、子ども達はそういうものを捕まえて遊んでいました。うちのグループの子だけでなく、近隣の子ども達も子どもだけでやってきて同じようにドジョウやザリガニなどを取って遊んでいました。そうしたら、見回りの大人がやってきて、「ここで生き物を捕ってはいけない」などと言い始めました。そんな時も「生命は大切にしなければいけない」ということが言われます。いま、ちょっと大きな公園にはどこの公園にも「生き物を捕るな」「命を大切に」などというような看板が立っています。「木に登るな、草や花も摘むな」と書いてあるところもあります。その理由は「保護のため」ですが、でも大人達は必要があれば、一匹一匹生き物を殺すようなことをせず、そこに生きている生き物ごと、簡単に山を崩し、川や田んぼを埋め、ブルトーザーで草花を踏みつぶし、木を切り倒しています。外来種が増えれば、「在来種保護のため」という理由で積極的に捕まえて殺したりもします。そのような行為には、無機的な「計画」があるばかりで、「命を大切にする」という発想は全くありません。その里山公園を作る時も、最初の計画では、「すでにあった山を崩して、設計図通りに新しく山を作って公園を作る」というものだったそうです。私は、その時の反対運動をしていた人からその話を聞きました。それで、「そんなバカなことをするな」と住民が立ち上がって、今のような形に落ち着いたそうです。昨今、生き物が非常な勢いで死滅し、私が子どもの頃と比べても明らかにその種類も量も減っていますが、これは子ども達の責任ではなく、山を切り崩し、川や田んぼを埋め、木々を切り倒してきた大人達の責任です。環境汚染も、気候変動も全て大人の責任です。その大人が、平気で子どもに「命を大切にしろ」と説教するのですからおかしな話です。子ども達の「昆虫や生き物を捕まえて遊ぶ遊び」は太古の昔からあったと思います。でも、それで環境が破壊されたり、生き物が絶滅したなどという話は聞いたことがありません。昆虫採集を熱心にやった子が、残酷な大人になったという話も聞いたことがありません。むしろ子ども達は、そのような遊びを通して、生命のはかなさを知ったのです。「バケツいっぱい取れた」と喜んで持って帰っても、そのままではすぐにみんな死んでしまうからです。大人はそのことが分かっているので、最初から止めるのですが、子どもには「死ぬ」ということが分かりません。大人も言葉で伝えることは出来ません。これは体験するしかないのです。機械やオモチャは死にはしませんが、生き物は死ぬのです。だから、一生懸命に世話をするようにもなります。そのようにして「優しさ」が目覚めるのです。その、「世話をする」という過程で、その生き物のことをより詳しく知るようになったり、死ぬとはどういうことなのかということが分かるようになるのです。最近では、「生き物は死ぬから飼わない」と言う人がいますが、「大切にしていたものの死」を体験した子と、死なない機械ばかりで遊び、「死」を体験したことがない子とではどちらの子の方が「命の大切さ」を知っていると思いますか。そもそも現代人の「命を大切にしよう」という考え方は非常に偽善的です。釣った魚をその場でさばいて料理すると「残酷」などと言う子がいますが、平気で調理された魚や動物の肉は食べます。それは単に「死ぬところ、殺すところを見たくない」と言うだけのことであって、「命を大切にする」という価値観とは全く無関係です。それにそのような子に限って好き嫌いが多く、「食材として提供された生命」を平気で残したりします。また、「蚊やゴキブリなんかこの世から消えてなくなればいいんだ」などとも言います。「じゃあ、アリは殺してもいいのか」というと、それもまた違います。「大人も一緒になって、アリを踏みつぶして遊んだ方がいいのか」というのも違います。そんな時は、「アリさんのお話」を聞かせて上げて下さい。一緒に図鑑を見て、アリはどのように生活をして、何を食べ、寿命はどのくらいで、ということを一緒に学んで下さい。また、「アリ」が主人公の物語があったら、聞かせて上げて下さい。「アリ」のことを知ることで、むやみに「アリ」を殺したりはしなくなるのです。これは戦争のような状況で敵を殺す時も同じです。アメリカ人のことを何にも知らない人は、簡単に「アメリカ人は鬼だ」という言葉を信じ、平気でアメリカ人を殺すでしょう。そして実際そうでした。でも、アメリカで暮らしたことのある人や、アメリカ人の友達がいた人や、アメリカのことをよく知っている人は、そんな簡単にアメリカ人を殺せはしません。人は、知ることで優しくなることが出来るのです。「優しくしなさい」と押し付けるのは逆効果なのです。子どものことを知ることで子どもに優しくなることが出来るのです。男性は女性のことを知ることで女性に対して優しくなることが出来、女性は男性のことを知ることで男性に優しくなることが出来るのです。障碍を持っている人に対しても同じです。「無知」が残酷な行為を生み出すのです。私が、「気質」について書いたりワークをしたりしているのも、お互いにより深く相手を知るためです。「気質」を知るだけで優しくなることが出来るのです。」今、世界中で苦しんでいる人がいっぱいいますが、私たちは「無視」という残酷な行為をしています。子ども達の心の中に「優しさ」を育てるためには、まず、「その子自身が優しく扱われること」と、「相手のことを知ろうとすること」を教えることが必要なのです。「優しくしなさい」と叱る行為はその逆の結果を生み出してしまいます。また、その子自身が優しく扱われていない場合は、知ることが妬みを生み出し、逆に残虐な行為に及ぶこともあるので要注意です。
2024.03.13
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国も、学校も、社会も、「教育とは子どもの知的な能力を育てることだ」と思い込んでいます。私がネットなどで見ている感じでは、「新しい教育」と呼ばれている様々な活動でも子ども達の知的な能力を育てることがその大きな目的になっています。ちなみに、私が大好きなシュタイナー教育では「知的な能力の育ち」を教育の目的にはしていません。だからなかなか理解されないのでしょう。そして、その社会全体の流れに飲み込まれてしまって、「子どもの知的な能力を育てることが子育ての目的」だと思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいます。「子どもの知的な能力を育ててあげないと生存競争に勝てない」と思い込んでいる人も多いです。そのようなお母さんは、子どもが小さい時から文字を教え、英語を習わせ、知育玩具を与え、様々な教室に通わせています。幼稚園も、ただ遊ばせてくれるだけの所ではなく、色々なことを教えてくれる所を選ぶ人が多いです。絵本なども読んで聞かせるのではなく、自分で読ませ、さらには「どんな内容だったか」を子どもに報告させているお母さんもいるようです。大分以前、東京のある幼稚園に呼ばれて、地域の幼稚園の組合?の先生達の合同研修をしてきたことがあります。その時、私を呼んでくれた園長先生に「どうして私を呼んでくれたのですか?」と聞いたら、「私の園では〝遊び〟を教育の大事な柱として取り入れているのですが、それの意味が、地域のお母さん達や、他の園の先生達に伝わらないので、そういうことを自分の園の先生達や他の園の先生達にも伝えて欲しくて・・」と、おっしゃっていました。幼稚園見学会をやっても、一通り見たお母さん達は「みんな楽しそうに遊んでいますね。でも、この園では子どもを遊ばせるだけなんですか?」と言って帰る人が多いそうです。でも、知的な能力の成長ばかりを目的とした子育てや教育では、AIのような能力は育つでしょうが、人間らしさとつながった知性は育たないのです。AIのような能力とは、問題や課題を与えられれば答えを得ることが出来る能力です。でも、AIは自分で課題を見つけ、自分の感覚で感じ、自分の意志で考え行動し、みんなの幸せを考えるようなことはしません。AIナニーに子育てを任せたら、感覚や、心や、意識や、からだの育ちが遅れ、無気力な子どもに育ってしまうでしょう。なぜなら、AIロボットは受け身的にしか考えないし、受け身的にしか行動しないからです。「言われたこと」はやりますが、「言われないこと」はやらないのです。(逆に、言われないことまで積極的にやるAIロボットが生まれたら怖いです。)人間のお母さんのように、子どもに積極的に話しかけ、積極的に触れ、積極的に一緒に遊ぼうとはしないのです。子どもの一挙手一投足に反応し、子どもと一緒に笑ったり、子どもの困った行動に怒ったりはしないのです。でも、子どもの「人間としての成長」に必要なのは、そのような沢山の「人間らしい関わり合い」なんです。文字を教えることでも、英語を教えることでも、算数を教えることでもないのです。幼い子どもが人間らしく成長するために必要なのは、人間らしさを備えた人間との人間らしい関わり合いなんです。そしてその「人間らしさ」こそが、AIとは異なる「人間としての知性」の育ちを支えてくれるのです。身につけた知識や能力を「自分のもの」として使いこなし、精神的に自立して生きるためには、「AI的な知性」ではなく、「人間としての知性」が必要になるのです。でも困ったことに、最近「AIナニー」のような子育てをしているお母さん達が増えて来ているようなのです。そのようなお母さんは、必要がなければ子どもと関わろうとしません。言葉が理解できない赤ちゃんに話しかけるような無駄なことはしません。離乳食も手作りせず、買ってきたものを与えます。オンブやダッコもしたがりません。そして常にベビーカーに乗せて荷物のように運んでいます。それでいて教育には熱心です。
2024.03.12
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「おおきくなるっていうことは」という絵本があります。(中川ひろたか・文 村上康成・絵)その最初にはおおきくなるっていうことはようふくが ちいさくなるってことと書かれています。そして、色々な「おおきくなるっていうことは」が書かれていて、最後におおきくなるっていうことはちいさいひとに やさしくなれるってことという言葉が書かれています。子ども達は自分の事だけを考えています。そしてそれが動物としての本能であり、子どもたちが自分の心とからだを守るために必要なことでもあります。よくお母さんは、他の子をぶってしまった我が子に「ぶたれたら痛いんだよ」などと言いますが、そんなこと言われても幼い子どもにはそんな想像は出来ません。中には、お母さんが我が子をぶって「ほら痛いでしょ、○○くんだって痛かったんだよ」などと「○○くんの痛み」を伝えようとしているお母さんがいますが、幼い子どもに分かるのは「自分がお母さんにぶたれた痛み」と「お母さんに否定された苦しみ」だけです。お母さんに叱られるのが嫌で行動を自粛するようになることもあるかも知れませんが、それは「成長」ではありません。そのため、後から困った問題が発生してきます。それにお母さんだって「○○くんの痛み」が分かっているわけではないはずです。そのようなことをするお母さんが分かっているのは、自分がちゃんとしつけが出来ていないことを見られてしまった悔しさだけです。特に幼い子どもは「自分の事」しか分からないのです。これは成長に伴う生理的な現象なので、いくら丁寧に説明しても通じないのです。それは皆さんが超能力を使えないのと同じことです。いくら頑張ったって出来ないものは出来ないのです。大人になっても「相手の気持ち」が分からない人もいっぱいいますよね。これはそれほど難しいことなんです。また、「自分の気持ちを押しつけること」と「優しさ」を取り違えている人もいます。「あんたのためなんだから」などと「優しさと感謝の押し売り」をしているお母さんが大切にしているのは「自分の気持ち」だけです。それはただの「おせっかい」です。また、子どもがケガをしないように、苦しまないようにと子どもの周囲から「危険なもの」を排除しようとするのも、やり過ぎてしまうと「自分の気持ちの押しつけ」になってしまいます。子どもの周囲から過度に「危険なもの」を遠ざけてしまうと、子どもが親の目を盗んでそれに触れた時にさらに危険なことが起きてしまうのです。そして子どもは、成長と共に親の目が届かないところで色々とやるようになってくるのです。それは避けられないのです。だから、子どもがまだ親の目が届くところで遊んでいる時期に、危険なものとの関わり方を伝えてあげた方がいいのです。ハサミや包丁の使い方、木登りや川や海での遊び方などです。ハサミや包丁の使い方を伝えるためには、実際に、ハサミや包丁を使わせてみるしかありません。ケガをするかも知れませんが、側で見ている状態でのケガなら大きなケガにはなりません。そうやって子どもの安心と可能性を育ててあげるのです。そして、そういうことが出来るようになることが「おおきくなるっていうこと」なんです。大人になるって事は「育てられた人」が「育てる人」になることです。「守られていた人」が「守る人」になることです。「伝承を受けた人」が「伝承を伝える人」になることです。「優しくされた人」が、他の人にも優しく出来るようになることです。他の子に乱暴をするような子は「乱暴」を伝承されたのです。(たまたま当たってしまったのは乱暴とは言いません)他の子に優しく出来るような子は「優しさ」を伝承されたのです。「優しくしなさい」と叱られたからではありません。だから、他の子に乱暴してしまう子に乱暴を止めさせるためには、ただ単に「乱暴」を否定するのではなく「優しさ」を伝えるしかないのです。「でたらめな言葉」で話している子に正しい言葉を伝えたいのなら、「でたらめ言葉」を否定するのではなく「正しい言葉」で話しかけてあげるしかないのです。おおきくなるっていうことは (ピーマン村の絵本たち) [ 中川ひろたか ]
2024.03.11
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(昨日からの続きです)昨日書いた「お母さんの成長」を支えているのが「子どものために」という意識の目覚めです。これは、親になって始めて目覚める意識であり感覚でもあります。基本的に子ども達は「自分のため」に生きています。自分のために感じ、考え、行動しています。お母さん達も子どもが生まれる前は似たような状態だったはずです。でも、妊娠期間中の長い時間お腹の中の赤ちゃんに意識を向け続け、出産の痛みの中で我が子を迎えることで、お母さんの意識が、「世話を受ける子ども」から「世話をする大人」へと変成していくのです。長い妊娠期間と出産の痛みが、「この子を守っていかなければいけない」という本能を目覚めさせてくれるのです。それはお母さんの人生で初めての感覚だと思います。ちなみにこれはお父さんでも同じだと思います。ただし、お父さんにこの意識が目覚めるのは、長い妊娠期間中、お母さんと共に「産まれてくる赤ちゃん」のことを考え、お母さんと同じような気持ちで産まれてくる赤ちゃんを迎えることが出来たお父さんに限るのではないかと思います。お母さんの場合は「逃げられない状況」の中での変化ですが、お父さんの場合は逃げたければ逃げることが出来てしまうのです。そして、逃げてしまったお父さんは、実際には「お父さん」になってしまっているのに、意識は子どもの時のままです。中には、子どもと一緒に「お母さんの奪い合い」までしているお父さんまでいます。子どもと「ゲームの奪い合い」をしているお父さんもいます。そして困ったことに、その「逃げること」を選択する男性がいっぱいいるのです。そのような男性は昔からいたでしょうが、最近増えて来ているような気がするのです。そのような男性は「俺の役割は金を稼いでくることだ」と言います。もちろんそれも大事ですが、それだけだったら子どもに「お父さん」がいないのと同じ状態になってしまいます。それは子どもの社会性の育ちに大きな影響を与えるでしょう。それに、お父さんがそのような状態では、お母さんの子育てが困難になってしまいます。当然のことながら、それは夫婦関係の悪化をもたらします。そして、夫婦関係の悪化は子どもの精神状態にも悪い影響を与えてしまいます。でも最近は、男性と同じような感覚の女性も増えて来たように感じるのです。そのような女性は、あまり「子どものために」とは考えません。むしろ「子どもの犠牲にはなりたくない」と考える傾向があります。そして自分の思い通りにならないことがあると「子どもがいるせいで」と考えてしまいます。子どもがいるせいでお酒が飲めない。子どもがいるせいで旅行に行けない。子どもがいるせいで好きなことが出来ない。子どもがいるせいで自由が束縛されている。子どもがいるせいでお金に不自由している。などなどです。そしてそのような人は、「子どもと共に」ということよりも「自分だけの時間」を大切にしようとします。まだ子どもが幼いのに、しかもそれほど経済的に困っていないのに、子育てよりも仕事を選ぶ女性も増えて来たみたいです。ただし、私は「子どもが幼い時には仕事をするな」と言うことを言っているわけではありません。親子が生き延びていくために仕事をせざるおえないのなら、それもまた「子どものために」という行為だからです。そして子どももそのことは感じてくれるでしょう。私が問題にしているのは。子育てから逃げるために仕事を選ぶ女性が増えて来たことです。妊娠と出産は自分が選んだ自分の人生の結果です。自分の子どもも、そして子育ても「自分の人生の一部」として発生しています。ですから、「子どもや子育てから逃げる」と言うことは、「自分の人生から逃げる」ということと同じになってしまうのです。そのような行為は苦しみの先送りをしているだけです。やがて、オマケと利子が付いて、更に大きな苦しみとして返ってきてしまうでしょう。何人たりとも、「自分の人生」からは逃げられないのですから。
2024.03.10
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昨日は、でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。と書きましたが、今、そのままの状態で大人になってしまった人たちがいっぱいいます。問題は、そのままの状態では自分らしく生きるのが困難だということです。また、自分で自分の生き方を決めることが出来ないので、考え方や、感じ方や、行動を、誰かや何かに依存しないと生活することが出来ません。それに、このような状態では子育てが出来ないのです。実際、多くの女性が結婚して子どもが生まれると、「子育て」という、それまでの人生で体験したことがないような世界の中に放り込まれ、閉じ込められてしまいます。その世界の中には正解がありません。依存したくても依存する対象がありません。「子育て書」に依存しても、すぐに裏切られてしまいます。「子育て書」には「一般的な例」は書いてありますが「自分の子」のことは書かれていないからです。その「自分の子」の言うことや、やることは意味不明です。何を求めているのかも意味不明です。大人の常識が全く通じません。言葉も通じません。時間も約束も守りません。反抗的な態度ばかりとり続けることもあります。でも、「ちゃんと育てなければ」「いい子に育てなければ」というプレッシャーはあります。それで、そのプレッシャーに負けて「虐待」という態度に出てしまう人もいます。無視や放任は積極的な虐待ではありませんが、子どもの心やからだの育ちを阻害するという点では立派な虐待です。でも、大部分のお母さん達はそのプレッシャーの中で、必死に子どもを守り、育てようとしています。だから、色々なことを学び、色々なことを考えます。色々なつながりを作ろうとする人もいっぱいいます。それまで興味がなかった「食」のこと、「心とからだ」のこと、「命」や「健康」のこと、「平和」について、「優しさ」について学び考え始める人もいっぱいいます。電磁波や放射能や戦争の問題にも関心を持つようになる人もいます。そして、そのことで価値観や、人生観や、生き方が変わってしまう人もいます。私の周囲には、子育てが一段落した後、子育ての間に学んだことや気付いたことを生かせるような活動を仕事として始める人もいます。女性は、「子育て」という過酷な修行を通して、自分自身の「育ち直し」が出来てしまうのです。でも、男性の方はその「育ち直し」が出来ません。そのため、結婚前には一致していたはずの、価値観や、考え方や、感覚がどんどんずれていってしまうのです。その結果、「私は何でこの人と結婚したんだろう?」と、愛し合っていた頃のことを想い出せなくなってしまう人もいます。
2024.03.09
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************最近の人は本を読まなくなったという話をよく聞きます。教室の子ども達を見ていても、本を読みません。うちの教室には造形関係の本がいっぱい置いてあるのですが、それを開いて読もうとする子はほとんどいません。でも、教室を始めた20年、30年前の子ども達はその本をよく見ていたのです。本を読んで作りたいものを見つけ、作り方を調べ、自分で作ろうとしていたのです。私と家内はその手助けをしていただけです。でも最近の子は、「作るものがない、退屈だ」とは言うのですが、すぐ側に置いてある本を見て調べようとはしないのです。「作る」ということに対する好奇心自体が萎えてしまっているようなのです。「じゃあ、自分で考えてみな」と言うのですけど、「手やからだを使って考える」ということをしないで、頭だけで考えようとします。でも、頭の中に「考えるために必要なデータベース」がない状態では、考えることが出来るわけがないのです。「手やからだを使って学んだこと」がデータベースとして頭の中に入っているから「考える」という行為が可能になるのです。でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。またそのような状態の子は、本を読むことを楽しむことが出来ません。大人達は「文字が読めれば本も読める」などと思い込んでいますが、「文字が読める」ことと「本が読めること」は全く別物なんです。更に言えば「本を読めること」と、「本を楽しめること」も違います。そして、子どもの成長を支えてくれるのは「本を読む能力」ではなく、「本を楽しむことが出来る能力」の方なんです。そして本を楽しむためにも「手やからだを使って学んだデータベース」が必要になるのです。私はスペインに行く前にスペイン語を学びました。そのスペイン語は読み方のルールが単純なので、ちょっとした読み方さえ覚えれば、意味が分からない単語だって声に出して読めてしまいます。難しい本だって声に出して読めてしまいます。でも、声に出して読めても意味は不明です。でもそんなのは「読める」とは言えないですよね。韓国語も同じです。読み方のルールが単純なので、そのルールを覚えてしまえばどんなに難しい内容の本でも声に出して読むことだけは出来てしまうのです。でも子ども達は、家庭でも、学校でも、その「意味がないこと」ばかりをやらされています。多くのお母さん達が、子どもが小さい時から文字を教え、自分で読めるように仕付けています。学校も同じです。そして、文字が読めるようになると安心します。絵本を自分で読ませて、その話の意味を子どもに説明させているお母さんもいます。でも、そういう学びを押しつけられた子は、本を読むことを楽しむことが出来なくなってしまうでしょう。英語の学びでも同じです。いくら英単語や英会話を覚えさせても、「心やからだを通しての学び」がその言葉に伴っていなければ、子どもはその言葉を「自分の言葉」として使えるようにはならないのです。素敵な日本語を話すことが出来る子が英語を学べば素敵な英語を話すことが出来るようになるでしょう。今の時代、翻訳機を使ったっていいのです。でも、日本に住んでいながら日本語すらちゃんと話せない子が英語を学んでも、英語圏の人が耳を傾けてくれるような英語を話せるようにはならないのです。
2024.03.08
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古来から子ども達は、日常生活での体験や、大人や仲間との関わり合いを通して、「頭の使い方」や、「心の使い方」や、「からだの使い方」や、「感覚の使い方」を学んでいました。言葉や、論理や、知識や、常識を学ぶのも現実世界の中での体験を通してでした。まただから、学んだことが現実世界で通用したのです。でも、最近の子ども達はその「現実世界での体験」が奪われてしまっています。大人のために作られ、大人によって管理されている現代社会には、「子どもが自由に子どもらしくいることが出来る子どもの居場所」がないのです。その代わりに与えられているのが「ゲームの世界の中での体験」です。ゲームの中でなら、子ども達が何をしても、大人の生活には影響がありませんから、子ども達は自由に遊ぶことが出来ます。そして子どもも自由に遊ぶことが出来るゲームの中の世界が大好きです。ゲームのことばかり考えている子も結構います。そして子ども達はゲームの世界の中で様々な体験をすることで、言葉や、論理や、知識や、常識を学び、仲間を作っています。でも、ゲームの中で学ぶことが出来るのは、ゲームの中でしか通用しないことばかりです。でも、ゲームの中での体験しかない子どもは、そのことを知りません。釣りが大好きな友人がある時岸壁で釣りをしていたら、隣にいた小学生が「おかしいな、昨日はあんなにつれたのに」とブツブツ言っていたので、「昨日も釣りに来たのかい?」と聞いたら、「ゲームの中での釣りの話だったので驚いた」と言っていました。造形活動の場で子ども達と話していても、話が通じません。昔の子ども達に比べて、明らかに、論理的に考える能力、構造を考える能力、じっくり観察する能力、相手の言葉を理解する能力が低下しているのです。イスを作りたいという子に、材料の木を渡すと「何で切るの?」と聞いてきます。このように聞いてくる子は普通です。「自分で考えな」と放っておくとハサミやカッターで切ろうとしたりします。昨日もそういう子がいました。幼稚園児ではないですからね。小学校三年生です。でもそれでは切れないので「先生、切れない-」と言ってきます。それで、1.ハサミで切る2.超能力で切る3.ノコギリで切る4.魔法で切るというような選択肢を作って選ばせたりします。そして、このような選択肢があれば、ほとんどの子が「3」のノコギリを選ぶことができます。だから「ノコギリ」のことは知っているのです。でも、何もない状態の中で自分の頭で考えることが出来ないのです。自分の頭の中で「問い」を立てることが出来ないのです。次に聞いてくるのは「どこで切るの?」ということです。それで見本を見せるのですが、イスとして出来上がっている見本と、目の前にある材料の木の関係が理解出来ないのです。もっともこれはお母さん達も同じかも知れません。レンチンばかりしているお母さんは、八百屋さんに行って野菜を見ても、お料理をイメージ出来ないのではないでしょうか。それと最近の子ども達は「言葉」を知りません。もう少し正確に言うと、「言葉」は知っているのですが、その「言葉の意味」を知らないのです。例えば、「高さ」という言葉を知っている子に実際の箱を見せて「この箱の高さを計ってごらん」と言っても、どこを計ったらいいのかが分からないのです。「真ん中」という言葉を知っている子に棒を渡して「この棒の真ん中で切って」と言っても、どこが真ん中なのかが分からないのです。「言葉」と「現実の世界」がつながっていないからです。そのような状態の子に「命の大切さ」を教えても無駄です。「命と触れあう体験」が乏しい子ども達に「命を大切にしよう」と教えても、「命を大切にしよう」という言葉を覚えるだけです。「言葉」と「現実の世界」がつながっていないのはゲームの中では当たり前ですが、学校の授業でも「知識としての言葉」は教えても、実際にその言葉を体験させるということはしていません。最近は、私にSDGsについて説明してくれる子どももいますが、学校で教えられたとおりに言っているだけです。言っていることは立派なのですが、自分自身の体験とつながっていないので中身は空っぽです。「自分らしさを大切にしなさい」ということは教えても、子どもが「自分らしさ」を発揮すると「みんなと同じようにしなさい」と指導されます。「優しくしなさい」ということは教えても「優しいってどういうこと」という体験を与えてもらうことはありません。「差別は良くない」と言っている先生が平気で子ども達を差別しています。だから、みんな言葉では知っているのですが、その言葉の中身を知らないのです。
2024.03.07
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人間はあらゆる動物の中で唯一、「考えること」を楽しむことが出来る動物です。単純に考えるだけの動物なら、犬や猿など他にもいます。でも、彼らは考えることを楽しんでいるわけではありません。必要に迫られて考えているだけです。人間の中にも「考えることを楽しむことが出来る人間」と、「必要に迫られてしか考えない人間」がいます。前者のタイプの人は、自らの力で「問題」や「課題」を発見することが出来きます。ですから、自分で自分を教育することが出来ます。でも、後者のタイプの人は、与えられた問題を解くことしか出来ません。ですから、誰かに使われる「道具」としてしか生きていくことが出来ません。考えることを楽しむことが出来る人は道を歩いていても、新聞を読んでいても、いつでも何かを発見しています。なぜならそのような人にとって「考えること」は「発見すること」だからです。「考えることを楽しむこと」と「発見を楽しむこと」とは同じなんです。それは子どもを見ているとよく分かります。お母さんに「なぜ?」「どうして?」といつも聞いてくるような子はいつも何かを発見しているのです。逆に、何も発見できない子は「なぜ?」「どうして?」などと聞きはしないものです。そして、そういう子が増えてきています。「どうして雲は動いているの」「どうしてリンゴは落ちてくるの」「どうしてお日様は沈んじゃうの」「どうして雪は白いの」と聞いてくる子は「雲が動いていること」「リンゴが落ちてくること」「お日様が沈むこと」「雪が白いこと」を発見したのです。それでその理由を知りたくなったのです。そんなこと聞いてこない子も、そういうことは知っているでしょう。でも、「知っていること」と「発見すること」は全く違うことです。知っているだけの子はただ「現象」を知っているだけです。でも、発見する子はその現象の背景に何かの働きを感じることができます。だから「どうして?」「なんで?」と聞きたくなるのです。その背景を感じる働きが「Sense of Wonder」と呼ばれる感覚です。そして、その「背景」をたどることがそのまま「考える」ということになります。子どもの場合、それは「物語」という形になります。ですから、いっぱい発見できる子は考えることを楽しむことが出来ます。そして自分が発見した「物語」をいっぱい語ります。でも、発見できない子は考えることを楽しむことが出来ません。そして、知識についてだけ語ります。子どもがそのようなことを聞いてきた時、「そんなの当たり前でしょ」とか、「バカなこと聞くんじゃありません」とか、単に「客観的な知識」を与えてしまうと子どもはもう「なぜ?」「どうして?」と聞かなくなります。そうして、発見することをやめてしまいます。それと同時に考えることも楽しくなくなります。考えても「知識」は得られないからです。だから、大人が喜ぶような知識をいっぱい持っている子ほど自分の頭では考えないものです。ちなみに、自己肯定感が高い人ほど自分の頭で考えることを楽しんでいます。考えることを楽しむことが出来るということは、自分を肯定することに他ならないのです。ですから、単に自分にOKを出すだけでは自己肯定感は高くなりません。自己否定をやめることとと、自己肯定感を高くすることは同じではないのです。自己否定をやめるだけでなく、能動的に生きることが出来るようにならないと自己肯定感は高くなりません。勘違いしないでくださいね。自己肯定感が高いから能動的なのではなく、能動的に生きているから自己肯定感が高いのです。自分の意志で自分の自己肯定感を高くすることはできませんが、能動的に生きることなら自分の意志で実現することが出来ます。願っているだけ、待っているだけでは決して自己肯定感は高くなりません。そして、自分の子どもを自己肯定感の高い人間に育てたいのなら、その「能動的意志」を尊重してあげることです。子どもの「なぜ?」「どうして?」という質問は、子どもが自らの思考力で能動的に考えようとする意志の現れなんです。その意志に寄り添って上げる時に、子どもは考えることを楽しむ能力を育てることが出来るようになります。そして、自己肯定感も育っていきます。でも今の学校は、子どもたちに「考える楽しさを教える場」ではなく、逆に自分で考える無意味さを教える場になっています。また、校長は先生達にも、指示命令に従うだけで自分の頭で考えさせないようにしています。教育委員会はそれを校長に対してもやっています。そして教育委員会へは・・・・。こんなやり方をしていたら「考えることを楽しむ子」は育ちません。また、「自分の頭で考える楽しさ」を知っている子は、学校に行きたくなくなります。このような教育では知識はいっぱい知っていても、その知識の使い方を知らない子ばかりが増えていきます。その結果、自己肯定感の低い人や、依存心が強く指示や命令がないと動けない人が増えます。知識の量を競う競争で勝ち抜いてきた人たちが社会を支配するようになります。そして、そういう人たちは自由を嫌います。
2024.03.06
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昨日からの続きです。幼い子ども達は「好奇心の塊」です。だから、色々とやってみたり、しつこく「なんで?」「どうして?」と聞いてきます。でも多くの場合、「子ども達の好奇心に基づく行動」は、大人達には単なる「イタズラ」にしか見えません。それで父さんのパソコンを壊してしまった子もいます。火事を起こしそうになった子もいます。実は、それは私です。私が子どもの頃、仏壇に大きく焦げたところがあって、よく母親から「これはヒデオが仏壇の火でイタズラしていて燃やしちゃった跡だよ」と言われました。そんなこと言われても記憶にはありませんでしたが、色々とやってしまったようです。ワナを作ってスズメを捕まえていたこともあります。ネズミを捕まえるのも面白いですよ。落とし穴も色々工夫しました。コンロの火で釘を焼いてトンカチで叩いて整形し、砥石で研いで刃物を作っていたこともあります。中学生の頃は黒色火薬を作っていました。別に国家転覆を謀ってテロを起こすような大それたことを考えたわけではなく、純粋に好奇心からです。出来た火薬でなにをやったのかというと、アリの行列の上に黒色火薬を撒いて、火をつけて遊んでいただけです。どうやって蟻地獄から幼虫を引き出せるのかと色々とやったこともあります。本当に、蟻地獄に落ちたアリは抜け出せないのかと、アリを捕まえては蟻地獄に落として遊んでいたこともあります。完全に「危ない少年」ですよね。あとなぜかピンホールカメラにはまってよく作っていました。あの幻灯のようなぼやけた映像になぜか心が惹かれたのです。星を見るのも好きでした。天体望遠鏡を買ってもらいよく星や、向かいの山を見ていました。うちは鎌倉の海に向かって左側の、ちょっと高台になった山の麓にあったので、富士山側の山がよく見えたのです。天体望遠鏡はすごいですよ、鎌倉の端から端を見ているのですが、小鳥まで見えてしまうのですから。土星の輪を見た時は、図鑑で見たのと同じものが見えたので感動しました。刃物を研ぐのも好きで、研いでは新聞紙をスパすぱっとやって遊んでいました。でも、母親は「ヒデオが研ぐと切れすぎて怖い」と言われました。いやー、好奇心ほど面白いものはありません。それに比べたらゲームなんか退屈です。でも、大人達は子どもの好奇心に満ちた行動を嫌います。また、子どもがあれこれやってみる前に知識を与えてしまいます。そしてゲームやyoutubeを与えます。すると子どもの好奇心はどんどん萎えていきます。youtubeで色々と見るのはいいですが、好奇心を広げるためには、見たらやってみる必要があるのです。でも今の子ども達には、その「やってみる」という環境が与えられていないのです。ゲームの中で物や村を作ったりすることは出来ますが、それは好奇心を広げる助けにはならないと思います。話がゲーム内だけで完結してしまっているからです。30才の頃に、バックパッカーとして、リュック一つで世界を歩く旅に出たのも、「世界をこの目で見てみたい」という好奇心からです。それは今でも同じです。今でも、世界中を歩いて、世界中を見て回りたいです、ただ、色々な制約があってなかなか思い通りにはなりませんけど。
2024.03.05
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「子どもは天才だ」と言われることがあります。常識に凝り固まった大人には想像できないようなことを感じ、想像できないことを言い、想像できないことをやるからなのでしょう。その幼い子ども達の「天才」を支えているのは、その「強い好奇心」のおかげです。「強い好奇心」があるから一生懸命に考えます。「強い好奇心」があるから一生懸命に感じようとします。「強い好奇心」があるから、大人に禁止されても色々なことをやってしまいます。だから子ども達は、大人から教えてもらわなくても色々な発見をし、素敵な創造をすることが出来るのです。そして、昔も今も、幼い子ども達は「好奇心」に満ちています。その好奇心を失うことなく育てていくことが出来れば、天才とまでは行かなくても、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できる素敵な大人にはなることが出来るのでしょう。でも、実際にはほとんどの子が成長と共にその好奇心を失って行きます。そして、好奇心が萎えれば、それと同時に天才性も消え、自分の感覚で感じなくなり、自分の頭で考えなくなり、自分の意志で行動しなくなります。それが、「子どもは天才だ」と言われながら、ほとんどの子が成長と共に「普通の大人」になってしまう理由でもあります。その「天才から凡人へ」という構図は昔からありましたが、でも最近の子ども達は、昔の子ども達よりも、かなり早い段階で好奇心を失ってしまっているような気がするのです。そういう子ども達は、まるで「小さな大人」のように感じ、考え、行動します。水たまりに入って遊んでいる子やハダシで遊んでいる子を見ると注意したりもします。そんな風に好奇心を失ってしまった状態の子に絵の具や粘土を与えても、まず、こちらの指示を仰ぎます。「何作ったらいいの?」などと聞いてきたりします。「作り方を教えて」とも聞いてきます。だから、「自分が作りたいものを作りたいように作っていいんだよ」と言うのですが、好奇心が萎えてしまっている子は、そういうことを言われると、動けなくなってしまうのです。教室を始めた30年くらい前は、そういう風に答えると「やったー」と自由に考え、自由に作り始める子も結構いたのですが、最近はあまりそういう子とは出会いません。どうして、好奇心が萎えてしまっている子ども達が増えて来たのかというと、最近の子ども達は、日常的に「自分の感覚で感じる必要や機会」や、「自分の頭で考える必要や機会」や、「自分の意志で行動する自由」を奪われてしまっているからなのでしょう。「好きにやってもいいんだよ」と自由を与えるだけでは、子どもは自由に感じ、考え、行動するようにはならないのです。子どもの「自由に感じ、考え、行動する能力」を育てないのなら、子どもから「好奇心」を奪ってはいけないのです。子どもを「好奇心が萎えてしまうような環境」の中に閉じ込めてはいけないのです。大人によって管理されている人工的な環境の中に閉じ込められ、考える自由、感じる自由、行動する自由を奪われていたら、好奇心が萎えてしまうのは当然の結果なんです。youtubeで色々なものを見ても、それを自分でもやってみることが出来る自由な環境がなければその好奇心はそのまま消えて行くのです。そして、子どもらしさを失った「小さな大人」が増えていきます。
2024.03.04
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************昨日は、老子の『授人以魚 不如授人以漁』という言葉をご紹介しました。これは 「飢えている人がいるときに、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか。」 という問いに対して、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」という考え方です。同じように、私は、子どもが将来的に「自立して自由に生きていくために必要なこと」は、知識や学歴を与えることではなく、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を伝えてあげることだと思っています。「釣り方」を学べば、「魚」を与えてもらわなくても自分の力で手に入れることが出来るようになります。それと同じように、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を知った子は、もし、必要と感じたのなら、自分の力で知識や学歴を手に入れることが出来るのです。でも、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を感じることが出来ないまま知識や学歴を与えてもらった子は、「成長する意欲」を失ってしまうため、心とからだの成長がストップしてしまうのです。そのような子は知識や学歴に身を隠した「張り子の虎」、「オオカミの毛皮をまとったヒツジ」と同じような状態です。どんなに高い学歴を持っていても、どんなにいっぱい知識を持っていても、それだけでは現場で役に立たないのです。「生きていく」ということは、「毎日新しい状況と出会っていく」ということでもあります。そんな時、学歴や、暗記しただけの知識はなんの役にも立たないのです。相手より優位に立とうとして、それをひけらかせばひけらかすほど、人から馬鹿にされるだけです。もちろん、子育ての現場でも役にたちません。「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を知っている人は、「子育てのやり方」を「毎日の子どもとの関わり合い」を通して、目の前の子どもから直接学ぶことが出来ます。でも、いっぱい知識を持っていても、どんなに高い学歴を持っていても、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を知らない人は、子どもを知識で評価し、知識通りに育てようとしてしてしまいます。でも、子どもは子育て書に書いてあるとおりになど育ちません。山のように子育て書を読んで、山のような知識を詰め込んでも、実際の子育てではなんの役にも立たないのです。時々、そういう状態のお母さんから相談を受けます。でも、何を言っても頭では知っているので、「それは知っているんです」という返事ばかりが返ってくるのです。知ってはいても出来ていないから、それを指摘しているのですが、「知っていること」と「実際に出来る事」の違いが分からないのです。時々、子どもでもこういう状態の子がいます。ノコギリの使い方などを教えようとすると、「ぼく、知っているよ」と言うのです。それで、「やったことがあるの?」と聞くと、「youtubeで見たから」などと答えます。そのように「実際に出会う体験」よりも先に「知識」だけを得てしまった子ほど、実際にやってみて思い通りにならないとすぐに放り投げてしまいます。でも、「子育て」は、いくら思い通りにならなくても放り投げる事が出来ません。だから苦しくなってしまうのです。どうか、知識を与えるより先に、実際の体験を通して「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を伝えてあげて下さい。それが「幸せな子育て」にもつながってくるのです。
2024.03.03
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中国春秋時代における哲学者であった「老子」という人は、『授人以魚 不如授人以漁』ということを言ったそうです。これは 「飢えている人がいるときに、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか。」 という問いに対して、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」という考え方です。有名な言葉なのですでにご存じの人も多いと思います。確かに〝もっとも〟な意見です。私も基本的にはこの意見に賛成です。でも、この考え方にも問題があります。それは、今飢えて死にそうな人に「釣り方」を教えても、それを学ぶことも、実行することも困難なのではないか、ということです。そもそも、近くに川や海がないかも知れません。私だったら、飢えて死にそうな人がいたら、先ず魚を与えます。そして落ち着かせます。そして、「もっと欲しい」と言われたら釣り方を教えます。その場合も、ただ釣り方を教えるのではありません。「じゃあ、これから釣りに行くから付いておいで」と、魚がいるところに連れて行き、自分が釣っているところを見せ、色々と手伝わせます。最初は教えるのではなく手伝わせるのです。教えるのは質問してきてからです。なんにも質問をしてこない人に教えても無駄です。これはコマの回し方でも、勉強の仕方でも同じです。そんな時、「釣り方は自由だよ、好きなように釣ればいいんだよ」と言っても、上手に釣れるようにはならないでしょう。最初は「基本の型」や「基本の原理」を教えます。自由にやらせるのはその後です。工作でも、自由に色々なものを作ることが出来るようになるのは、ハサミや、トンカチや、ノコギリの使い方を学んでからですよね。もちろん「アイデア」も必要です。「自由って何ですか」と聞くと「束縛がない状態」と答える人が多いですが、人は束縛がないだけでは自由になることが出来ないのです。皆さんは、「一ヶ月間、家事も仕事もしなくていいです。スマホも手放して自由に過ごして下さい。」と言われたら自由に過ごせますか。ちなみにスマホを持っていたら自由になることは出来ませんからね。だから、子どもの自立を支えるためには「自立が出来ている大人との関わり合い」が必要になるのです。自由に生きて欲しいのなら、お母さん自身が自由に生きて見せるしかないのです。ただし、この「自由に生きる」とは「好き勝手に生きる」ということではありませんからね。好き勝手に生きているだけでは、結局、行き詰まってしまって不自由になってしまうのです。ただ、子どもを集めて自由にさせているだけでは、「自由に生きることが出来る人」には育たないのです。自分の気分次第で好き勝手に釣りをしても、魚は釣れません。魚はどういう所にいて、どういう習性を持っているということを学ぶ必要もあります。そして初心者はそれを熟練した人から学ぶしかないのです。「自由」は「学ぶ楽しさ」を知った人にしかやって来ないのです。
2024.03.02
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************人間は「自己家畜化する動物」だと言われています。自然界に生きている全ての生き物たちは、自分が生活している環境に適応する形で進化してきました。その適応が出来ない生き物は滅びてしまいました。人間もまた例外ではありませんでした。当然のことながらその環境は自然が創り出しています。でも人間はその「自然が創り出した環境」の中に、直接「自然の影響が及ばない人工的な環境」を創り出しました。だから真夏の暑い日でもエアコンが効いた涼しい家の中で過ごすことが出来るのです。そして人間は、たった数世代のうちに「自然が創り出した環境」ではなく、毎日生活している場としての「人工的な環境」に適応し始めました。そういう事が起きるまでは、自然が「進化の方向」を決めていたのですが、今度は人間が創り出した人工的な環境が、人間の「進化の方向」を決めるようになったのです。それが「自己家畜化」ということです。そして、人間が創り出す環境はますます自然から遠ざかり始めています。人間は進化すればするほど自己家畜化が進み、自然から遠ざかっていくように運命づけられた生き物なんです。そして、その自己家畜化の結果、「生の自然」に違和感を感じる人が増えて来ました。人工的に加工され管理された「鑑賞するだけの自然」は好きでも、虫や菌やウィルスがいっぱいいて乱雑な状態の自然に対しては恐怖を感じる人もいます。キャンプブームの時に、キャンプ場の管理人に「虫がいるからなんとかしてくれと文句を言ってきた人がいた」という笑い話のような話もネットの記事で読んだことがあります。実際、教室の子ども達も小さな虫がいただけで大騒ぎします。そして「ころして、ころして」と言い立てます。そういう子に、「きみんちにクモはいないの、蚊はいないの」と聞くと、「いない」と答えます。うちは、クモも蚊も珍しくありません。それらを狙うヤモリも時々出てきます。夏になってセミ捕りをしてもセミに触れない子もいっぱいいます。魚釣りに連れて行っても、エサのゴカイやイソメに触れません。魚が釣れても、魚に触れません。当然、針を外せません。磯にいるフナムシに大騒ぎをします。手がちょっと汚れただけで気にします。ゲームの中での釣りではそういう状況はありませんからね。ただしこれは7才以降の子の場合です。7才前の子ども達の感覚や心やからだは、いまだに自然とつながったままだからです。それはつまり、自己家畜化による心や、からだや、感覚の変化が、まだDNAの変化にまでは届いていないということです。それはつまり、命の本質、心の本質、からだの本質は未だに自然とつながったままだということでもあります。だから現代人でも、赤ちゃんが産まれてくる場に立ち会えば感動し、夕焼けに見とれることがあるのです。自然と触れあったり、家族や大好きな人といれば安心しますが、物や機械だけに囲まれて生活していると孤独を感じ、苦しくなります。でもこれも、そう感じない人たちも増えて来ています。妊娠や出産を「気持ちが悪い」と感じる人もいます。実際、妊娠してお腹が大きくなっている奥さんを見て「気持ちが悪い」と言った旦那さんの話を聞いたことがあります。その旦那さんとは別れたそうですが。肌を触れあったり、セックスに嫌悪感を感じる人までいます。そういう人は、赤ちゃんも工場みたいな所で作ってもらえたら喜ぶのでしょう。出産も痛くなく、簡単に済ませたいと思っている人が増えて来ています。ヨダレだらけの赤ちゃん、何にでも触れ、何でもかんでも口に入れてしまう赤ちゃん、すぐに泣き、聞き分けが悪く、自分勝手で、野生動物のような赤ちゃんに嫌悪感を感じる人も増えて来ました。そういう人は、ちまたに溢れている「子育てマニュアル」に従って「よい子」を育てようとします。でも、マニュアル通りに子育てをしても、子どもはマニュアル通りには育ってくれません。赤ちゃんは「自然そのもの」であって、人間の思い通りになる「人工物」ではないからです。そこで必要になるのは「自然との関わり方」なんですが、でも人工的な環境によって自己家畜化されてしまった現代人には、その方法が分からないし、頭では分かっても、感覚の育ちが伴っていない人には使えないのです。だから、子育てが辛く苦しくなってしまうのです。
2024.03.01
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