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昔の職人や芸事をやっていた人は、弟子を育てる時にいちいち教えたりしませんでした。ただ手本を見せ、ただそれを真似するように求めたのです。間違ったことをした時は叱りましたが、だからといって、弟子が「どこが悪いんですか?」と聞いても「自分で考えろ」と言うだけで丁寧に教えはしませんでした。(私の太極拳の先生はこういう教え方をしていました。)今こういう教え方をしたら、若者はすぐに辞めてしまうでしょうね。今これをやると「不親切だ」とか「イジワルをしている」と言われてしまうでしょけど、実は、世の中には「言葉で教えることが出来ること」と「言葉では教えることが出来ないこと」があるのです。そして、「本当に大切なこと」は言葉では教えることが出来ないのです。なぜなら、言葉で教えたことは「知識」として頭の中に留まるだけで、心や、感覚や、からだの中に落ちて行かないからです。当然、心や、感覚や、からだを育てる栄養にもなりません。また、知識として知っているだけでは師匠がやっていることを再現できません。テストでは知識として知っているだけで充分ですが、職人や芸事や武術などの世界ではどんなに多くのことを知っていても、自分のからだで実際に再現出来なければ意味がないのです。それに、感覚や、心や、からだの世界に属するものは、言葉では伝えることが出来ません。どんなに食レポが上手でも「実際の味」を伝えることは出来ませんよね。そして、実際の味が伝わらなければ再現も出来ないのです。感覚に属するものは感覚で受け取り、心に属するものは心で受け取り、からだに属するものはからだで受け取るしかないのです。頭で受け取ることが出来るのは頭に属するものだけです。そのため、「優しさとは何か」ということをいくらいっぱい知識として教えても、「優しい子」は育ちません。教科書で道徳を教えても全く意味がありません。「優しくしなさい」と怒鳴っても「優しくない子」が育つだけです。「イジメは良くない」ということをいくら教えても、「仲間と仲良く遊ぶ楽しさ」を知らない子は、他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりしてしまうでしょう。そして、子どもの育ちに必要なものも「頭」ではなく「感覚」や、「心」や、「からだ」でしか学ぶことが出来ないのです。特に、思春期前の子ども達においては「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」が絶対的に必要になるのです。思春期前の子どもの知性は、頭ではなく感覚や、心や、からだの中に宿っているのです。でも、現代人は「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」は与えずに、「頭での学び」ばかりを子どもに与えています。そのため、今の子ども達は「感覚や、心や、からだで学ぶ能力」が非常に低くなってしまっているのです。でも、その「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が、思春期頃から始まる「頭での学び」に必要になるのです。なぜなら、「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が「頭で学んだ知識」を理解する時に必要になるからです。そもそも「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」がなければ言葉を理解すること自体が出来ないのです。でも、理解出来なくても暗記することは出来ます。そして、暗記すればテストではそれなりにいい点数を取ることは出来ます。だから親も先生も理解よりも暗記を求めるのでしょう。でも、その「覚えたこと」は、学校という狭い世界の中でしか通用しません。
2024.06.30
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現代人は自分のからだを大切にしません。からだと対話することもしません。からだを通して学ぶことを大切にしません。からだの不思議を知りません。「からだ」という恩寵も「からだ」という喜びもを知りません。でも、学校でも家庭でも、「命を大切にしよう」とは言います。「命」を支えてくれている「からだ」は大切にしていないのに、「命を大切にしよう」とは言うのです。不思議なことです。そんな現代人の考える「命」は非常に抽象的で観念的です。「命を大切にしよう」と言いながらそこには全く具体性がありません。ですから、子どもに「命ってなあに?」とか、「命ってどうやって大切にするの?」とか、「命はなんで大切なの?」などと聞かれてもまともに答えることが出来ません。そもそも皆さんはご自分の命を大切になさっていますか。最近は、自己肯定感の低い人も多いですが、自分で自分を否定することは、自分の命を粗末にしていることにはなりませんか。 「命」は物と違って、触れることも、見ることも出来ません。金庫に入れておくことも出来ません。科学的にその存在を証明することも出来ません。それは「神様」と呼ばれるようなものと似ています。実際、「命は単なる化学現象に過ぎない」と主張する科学者もいます。そこにあるのは、「命」ではなく、「命のような現象」に過ぎないということです。竜巻は「命あるもの」のように動きますが、単なる物理現象であって「命あるもの」ではないですよね。AIを搭載したロボットは人間のように反応しますが、「命あるもの」ではありませんよね。それと同じです。じゃあ、「命」は本当に観念的なものなのかというとそれは違うのです。確かに、科学的にその存在を証明することは出来ませんが、からだの感覚を通して、リアルな感覚として感じることは出来るからです。それは「音楽」と似ています。私たちは当たり前に「音楽」が存在していることを知っています。でも、そんな身近な存在でも、科学はその存在を証明できないのです。なぜなら、「音楽」を科学的に観察することが出来ないからです。科学で観察できるのは「音」だけです。「音の変化」や「音の関係性」を観察することも出来ますが、そこに「音楽」はありません。「音楽」は人の心でしかその存在を確認することが出来ないものなのです。「命」も同じです。「命」は人の「からだの感覚」を通してしか確認出来ないものなのです。子どもを抱きしめたときに「子どもの命」を感じますよね。自分のからだに意識を向けることで、それと同じ感覚を、自分自身の命に対しても感じることが出来ます。でも、「自分のからだと対話する能力」を失ってしまった現代人は、「命を感じる能力」も失ってしまいました。そして、「命」の源である「からだ」を、「頭の道具」として使うようになりました。その結果、「心」と「からだ」が分離し、「心」と「からだ」が不安定になり、不安が強くなりました。じゃあ、どうやったらもう一度「からだの感覚」を取り戻し、「自分のからだや命」と対話することが出来るようになるのか、ということですが、困った事に「自分との対話の方法」は教えることが出来ないのです。ただ、教えることは出来ませんが自分で学ぶ方法はあります。その一つに、「ゆっくり動く」という方法があります。普通、人はいつも無意識にからだを動かしています。無意識に起き上がって、無意識に歩き、無意識に歯を磨き、無意識に話し、無意識に食事をしています。 そして、そのような無意識状態でからだを動かしているときには、「心とからだの対話」はありません。からだの内部だけで処理が自己完結してしまっているからです。だからこそ、考え事をしながらでも自転車に乗ることが出来るわけです。人間以外の動物たちはみなその状態です。でも、そのままでは「心とからだの対話」は出来ないので、その無意識状態からからだを解放してあげる必要があるのです。「ゆっくり」はそのための方法です。ちなみに「ゆっくり」は「ゆったり」とか「ゆるむ」という言葉と繋がっている言葉のようです。ですから、「ゆっくり動く」ということは、単に「スローモーションで動く」ということではありません。「心の余裕を持って動く」ということです。また、「からだ」を「頭の支配」から解放してあげないことには「ゆっくり」は出来ません。実は、「ゆっくり」を大切にするということは、「脳の中の世界」から出て、「自分のからだが置かれた現実の世界」に還ってくるということでもあるのです。それはまた、自分自身を受け入れることであり、目の前の子どもを受け入れることであり、自分が置かれている現実を肯定することなんです。「ゆっくり」はそこからしか始まらないのです。
2024.06.29
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子育ての目的は、子どもを「従順な子」に育てることではありません。そう考えている人は多いですが、そんな風に考えて子育てをしているのは人間だけです。他の動物たちにとっての「子育ての目的」は、我が子を「自立できるようにする」ことだけです。そうでないと種が滅びてしまうからです。みんなが「従順な子を育てること」を「子育ての目的」にしてそれが成功したら、AIがその従順な人間達の支配者になるでしょう。従順なだけの人間は誰かの指示に従うことは出来ますが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する事が出来ないので、思考と、感覚と、判断を誰かに依存せざるおえないからです。AIはその役割をやってくれるかも知れませんが、AIには「人間の幸せ」を考える能力がないので、やがて人類は滅びてしまうでしょう。また、従順なだけの人が自分の人生に「生きがい」や「喜び」を感じるのは難しいと思います。そして愚痴ばかりを言い続けながらやがて人生を終えることになるでしょう。そして今の日本にはその「愚痴」が満ちあふれています。カスハラも、「子どもの声がうるさい」と文句を言う人もその表れです。皆さんは我が子にそういう「愚痴ばかりの人生」を送って欲しいのですか。そんなことないですよね。大部分のお母さんは「自分の人生を自分らしく幸せに生きることが出来る人」に育って欲しくて子育てをしているのではないかと思います。でも、多くの人が子どもの幸せを願っているはずなのに、実際にやっているのは、「子どもの気持ちを無視して、子どもに自分の願いや要求を押しつけるような子育て」ばかりです。そのようなお母さんでも、「子どもの自立」を願っているのでしょうが、その「自立」の中身は「経済的な自立」だけです。だから、子ども達を「勉強」に追い立てることが出来るのです。「精神的な自立」を願っていたら、子どもを支配しようなどとはしないはずですから。現代人にとって一番大切なのは「お金」です。現代社会においては「お金を稼げる人」が「偉い人」なんです。子ども達に「一番欲しいのは何」と聞いても、「お金」という答えが返ってきます。だから、お母さん達も、子どもを「お金を稼げる人」、「経済的に自立した人」に育てようとしているのでしょう。でもそのような価値観は、お金を稼いでいない「お母さん」という存在の価値を否定してしまいます。実際、「お母さんのやっていること」に自信も誇りも持てていないお母さんがいっぱいいます。子どもに「お金を稼ぐことが一番大切なんだ」と伝えることが、子どもに「お母さんという存在に価値はないんだ」ということを伝える結果になってしまっているのです。多くのお母さんが、自分の存在を自分で否定しているのです。お母さん自身も「お金を稼いでいない自分」に自信が持てません。国も「子どもが幼いうちから子どもを保育園に預けお金を稼げ」という圧力をかけています。実際、経済的に自立できていない「専業主婦」という自分の立場を卑下している人も多いです。お金を稼いでいない専業主婦をバカにする男性も多いです。でもそのように考える人は、「お母さん」が「お金には代えがたい大切なことをやっている」ということを知らないのです。「子どももお母さんも幸せになるような子育て」をするためには、お母さん自身がそのことに気づき、自分がやっていることや、自分の存在に誇りを持つことが出来るようになる必要があるのです。お母さん自身が精神的な自立を目指さないことには、子どもの精神的な自立を支えることは出来ないのです。
2024.06.28
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子どもが言うことを聞かないので悩んでいるお母さんがいっぱいいます。その背景には、「子どもがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だ」という思い込みがあるのでしょう。また、子どもを仕付けるのは親の義務だ。だから、その仕付けのために親が子どもに色々と要求するのも親の義務だ。そしてその、子どものための要求に応えるのは子どもの義務だ。「あなたはまだ何も知らない、何も出来ない、そんなあなたがちゃんと成長するために色々と言っているんだから、あなたがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だし、義務でもあるんだよ」ということなのでしょう。「お母さんの言うことを聞かない子はわがままで、自分勝手で、悪い子だ」と言う人もいます。まるで専制君主のような考え方ですね。でも、このような考え方をしているお母さんは普通にいっぱいいます。学校の先生も、同じような理由で同じようなことを子どもやお母さん達に求めています。「子どもやお母さんが先生の言うことを聞くのは当たり前で義務だ」と思い込んで、そのような意識で子どもや親に色々と言って来る先生もいます。奥さんにそのようなことを求めているご主人もいます。(その逆もあります)嫁にそのようなことを求めているお姑さんもいます。社員にそのようなことを求めている会社もあります。その結果過労死しても「それはその個人の問題に過ぎない」と切り捨ててしまいます。国民にそのようなことを求めている国家も多いです。日本でも、コロナの時はみんな言うことを聞かされました。「マスクをしない」、「ワクチンを打たない」、「アルコール消毒をしない」というだけで「反社会的な活動家」のような評価をされましたからね。マイナンバーカードでも、河野さんは「みんなのためなんだから言うことを聞け」という態度を崩しませんよね。そういう考え方をする人は「話し合い」に応じません。一方的に「あんたのためなんだから」と自分の要求を押しつけてきます。相手の言葉に耳を傾けません。プライドがあるのでしょうか。待ちません。相手を自分のペースに従わせようとします。いま、日本中がそういう状態になってしまっていますが、その中で一番弱い立場に居るのが子ども達です。だから子ども達は虫や小動物を殺してあそんだり、誰かターゲットを決めて「イジメ遊び」をしたり、万引きや麻薬などに手を出して「追い詰められた苦しさ」から逃れようとしています。するとそれはそれで、親や先生や社会から強く非難されます。そして、大人がよってたかって「子どもはこうあるべきだ」という「子どもが望まないこと」や「子どもの成長につながらないこと」を子どもに押しつけています。でも、子どもが大人の言うことを聞かないのは当たり前のことなんです。子どもは「大人の家来」として生まれてくるわけではないので、それは当然のことなんです。子どもは常に「今、自分に必要なこと」だけを求めています。それが動物としての、また、人間としての本能だからです。でも大人は、「今必要なこと」ではなく、子どもには理解出来ない「将来必要になること」や「社会的に必要なこと」ばかりを子どもに押しつけています。だから子どもは自分を守るために逃げるのです。幼い子ども達が今求めているのは「お母さんの傍にいることができる安心」と、「共に色々なものを見て、色々なことを感じて、一緒に笑い、遊んでくれ、色々なことを伝えてくれるお母さんや仲間達、そして周囲の大人達との関わり」なんです。その証拠に、お母さんの言うことからは逃げる子でも、こういうことからは逃げませんから。
2024.06.27
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多くのお母さんが「子どものために」と頑張っています。子どものために大好きだった趣味を諦めているお母さんはいっぱいいます。子どものために一人で色々と考えて頑張っています。子どものために色々と考えて子どもにしつけをしたり、勉強をさせたり、色々なところに連れ出したりしています。子どものために付き合いたくないママ友とも付き合っています。子どもの習い事のために仕事に出ている人もいます。子どものために夫婦でケンカをしたりもしています。子どもがケガをしないように、子どもが困らないように先回りして色々と考えたりやったりしています。でも肝心の子どもはその想いに応えてくれません。こんなにも子どものために我慢して頑張っているのに、なぜか子どもはお母さんから離れていきます。その一方で「子どもの犠牲になりたくない」と、衣食住を与えるという最低限のことしかしようとしないお母さんもいます。そのようなお母さんは「子どもの状態」や「やること」にあまり関心がありません。積極的に子どもと関わろうともしません。「子どものために」と色々と考えたりやったりもしません。買い物やレストランに連れて行っても、放し飼い状態です。子どもがみんなに迷惑をかけていても気にしません。そんなお母さんが大きく反応するのは、子どもが自分に迷惑がかかるようなことをした時だけです。そんな時、そのようなお母さんは「あんたのせいで」などと子どもを責めます。極端なところまで行くと「ネグレクト」という虐待になってしまいますが、そこまで行かなくても、そういう感じの子育てをしている人は多いのではないでしょうか。町中で時々見かけますから・・・。そして実は、一見この両者は正反対ですが、「一番大切なのは自分」という点では同じなんです。両者とも「子どもの気持ち」に耳を傾けません。子どもと対話しません。感覚や感情や体験を子どもと共有しようともしません。子どもと一緒にいる時間を楽しみません。子どもの心やからだの状態には関心がありません。子どもを待ちません。前者のお母さんが大切にしているのは「自分の不安を消すこと」と「周囲の人や先生から非難されないようにすること」です。「あの人はいいお母さんだ」と言ってもらうと安心するのです。後者のお母さんが大切にしているのは「自分の欲望を実現すること」です。ですから、両者とも「子どもと共に」という感覚がないのです。でも、子どもはその「共に」という感覚や体験を通して色々と学び成長しているのです。だから、子どもの成長を支えるためには、子どもの犠牲になるのでも、子どもを犠牲にするのでもない子育てが必要になるのです。でも、その「共に」が苦手なお母さんが多いのです。また、一人で何でも出来る簡単で便利な機械のおかげで「共に」が必要になる状況も減りました。買い物の行き帰りなどにゆっくりとお散歩をしていれば、「共に」を楽しむことが出来ますが、自転車や車に乗ってしまうと「共に」が出来なくなります。素材からゆっくりとお料理を作っていれば「共に」を楽しみながら子どもと一緒にお料理を作ることが出来ますが、レンチンでは「共に」が出来ません。ウーバーを使ったらなおさらです。森や野原なら子どもと一緒に遊ぶことが出来ますが、遊具のある公園は「子どものためのもの」ですから、大人は見ているだけになります。大人が子どもと一緒に遊具で遊んでいると文句が出るかも知れません。「子どものための」という施設は子どもと大人を切り離します。またそれを望む大人も多いです。先日行った児童館では、幼児対応の所には小学生が入れませんでした。だから、幼稚園児と小学生の兄弟で行くと別々に遊ばなくてはなりません。大人は入らないで下さい。大人は遊ばないで下さいという遊びの場も多いです。みんな「子どもは子どもだけ」「大人は大人だけ」「幼児は幼児だけ」「小学生は小学生だけ」「年寄りは年寄りだけ」「障害を持っている子は障害を持っている子だけ」と対象を分離して遊ばせようとしているのです。その方が効率もいいし、危険を避けることが出来るからなのでしょうか。でも、このような「子どもと子ども」を「子どもと大人を」「障害を持っている子と持っていない子」を「お母さんと子ども」を分離するような子育てや教育では子どもは育たないのです。
2024.06.26
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子育てにおいて大切なことは「一人で頑張ること」ではなく「子どもと一緒に、仲間と一緒に楽しむこと」です。お母さんが子どもや仲間との関わり合いを楽しんでいれば、「子育て」を特別に意識しなくても子どもは勝手に育ってしまうのです。でも、多くのお母さんが一人で子育てを頑張っています。目の前にいる子どもの顔も見ないし、心を感じようともしません。そして、自分の期待通りに子どもが育っているか、期待通りに行動しているのかということばかりを気にしています。でも、どんなにお母さんが頑張っても、子どもはマイペースです。お母さんの期待通りに頑張るなんてことはしません。その結果、お母さん一人が空回りすることになります。そしてそれが、お母さんのストレスと、苦しさと、孤独の種になっています。でも、そのストレスと、苦しさと、孤独を子どもにぶつけると、子どもの心やからだは固まってしまい動けなくなります。友だちとも良い関係を築けなくなります。お母さんの前でだけ「いい子」になる子もいますが、そういう状態の子は、「自分の育ちにつながるような学び」が出来なくなってしまうため思春期が来ても自立が困難になり、さらに苦しみが増えます。お母さん達は一体誰のために、何のために頑張っているのでしょうか?そう問われたら、多くのお母さんが「子どものため」と言うでしょう。でも、子どもの心に寄り添うことが出来ていないのなら、それは子どものためではなく、「自分のため」なのではないでしょうか。自分の不安を消すために頑張っているのではないでしょうか。子育ては頑張らなくていいのです。むしろ頑張ってはいけないのです。なぜなら、そうしないと子どもの心に寄り添うことが出来ないからです。頑張るのではなく、子どもと一緒の時間を楽しんで下さい。それだけで、特別なことをしなくても子どもは育って行くのです。子どもはお母さんに心を向けてもらうことで、お母さんから学ぼうとする気持ちが目覚めるからです。また、お母さんとつながることが出来る子は、時期が来れば周囲の仲間や大人ともつながることが出来るようになります。仲間や周囲の大人からも学ぶことが出来るようになります。子どもは、自分の話を聞いてくれる人の言葉に耳を澄まし、自分に心を向けてくれる人から学びたいと思うのです。逆に、押しつけてくる人の言葉には耳をふさぎ、そして逃げようとします。だから頑張れば頑張るほど逆効果になるのです。
2024.06.25
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現代人は「痛み」とか「苦しみ」とか「失敗」ということに対して否定的です。子ども達もそうで、最近の子はちょっと痛かったり、ちょっと苦しかったり、ちょっと失敗したりするとすぐに挫折します。ノコギリでちょっとケガをしただけで「怖いからもうノコギリは使いたくない」とか、ホットボンド(グルーガン)でちょっと火傷しただけで、「こわいからホットボンドは使いたくない」などと言い出す子は普通です。その結果、可能性や自由度が狭くなってしまうのですが、「挑戦するワクワク感」や「創造の自由」よりも、「痛みや、苦しみや、失敗することに対する恐れ」の方が強いので、ちょっとやってうまく行かないともう手を出さなくなります。そうして、どんどん「できないこと」が増えていきます。可能性を広げてあげようと思って色々な体験をさせているのですが、そのことで逆に可能性が狭くなってしまうという困ったことが起きてしまうのです。そんな時、昔の人だったら「根性で乗り切れ」的な発想をしたのでしょうが、今ではそれは通用しません。子どももそのような考えを受け入れません。ただ、幼児期に野山を駆けまわって遊んでいたような子はそんなことありません。ちょっとケガをしたくらいでは気にしません。野山を駆けまわっていた子にとってケガは日常だからなのでしょう。また、失敗もそれほど気にしません。(私の教室には両方のタイプの子がいます。)私の印象では、「痛みや、苦しみや、失敗に対する恐れ」は、人工的な環境の中で人工的な遊びばかりして育った子の方が強いような気がします。人工的に管理された環境や遊びでは「ケガをする可能性」や「子どもが飽きてしまう可能性」が低くなるように設計されているからなのかも知れません。それに対して、自然の中での自然を相手にした遊びには「危険」がいっぱいです。自然の中には「子どもを守るための安全装置」も、「簡単便利に遊ばせてくれる仕組み」も存在しません。現代人が恐れるバイ菌もウヨウヨいます。また、自然の中で遊べば必然的に汚れます。時には泥だらけになります。そういう場で遊べば、ケガをするのも、失敗するのも当たり前ですよね。でも、そんなこといちいち気にしていたら遊べません。まただから、そういう場で子どもを遊ばせたくないお母さんもいっぱいいるのでしょう。近所のお勉強系幼稚園の園庭は人工芝です。通りがかりに覗くと、みんな素敵な制服を着て遊具で遊んでいます。これなら安心だし汚れないですよね。それと、自然の中には「正解」が存在していません。「公園のブランコや滑り台の使い方」には正解がありますが、「ドロンコ遊びや木登りの仕方」に正解はないのです。「正解」がないのですから「失敗」も存在しません。だから色々と工夫して遊ぶことが出来るわけです。バイ菌はいっぱいいますが、野山で遊んで病気になった子の話は聞いたことがありません。うちの三番目はその辺に生えている草をしょっちゅ食べていましたが、一番元気です。(無理には勧めませんけど・・・)そして「私が知っている範囲では」という話になりますが、子育てを楽しむ事が出来ているお母さんには「自然の中で遊ぶことが好きな人」が多いような気がします。「子どもという自然」を肯定的に受け入れることが出来るからなのでしょうか。
2024.06.24
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人間にとって「痛み」はなかなかやっかいです。人間以外の生き物は基本的に「痛み」を感じないか、もしくは少ししか感じていないように見えます。以前、ネコを飼っていたのですが、ネコもあまり痛みを感じないようです。近所の野良猫とケンカして大けがをしたこともあったのですが、痛がっている様子はありませんでした。見てもらった病院の先生も「ネコは痛みに鈍い」ということをおっしゃっていました。昆虫なんか足をもがれても泣いたり騒いだりしません。苦しそうな仕草も見せません。ただ色々と不便になっただけです。人間ほど「痛み」に敏感で「痛み」を恐れる生き物はいないのではないかと思います。本当にちょっとした痛みでも人間は気にします。さらには、「からだの痛み」だけでなく「心の痛み」にも敏感です。そして、痛みを感じると意識がそのことに支配されて心とからだの自由が失われてしまいます。他のことに意識を向けたり、他のことを考えることが出来なくなってしまうのです。でもそんな人間でも何かに夢中になっている時には痛みを忘れることがあります。「夢中になって遊んで帰ってきて手や足を見たら気付かないうちにケガをしていた」なんてことはよくあることです。以前お話を聞いた日本画家の女性は、徹夜して夢中になって絵を描いていて、描き終わってほっとしたらなんか足が痛いことに気付いたそうです。そうして見てみたら、足に楊枝が刺さっていたそうです。気付いたらさらに痛くなったそうです。人間にとって「痛み」は、単に身体的なものではなく、精神的な要素も非常に強いのです。それはつまり、「心の状態」が「からだの痛みの状態」に非常に大きく影響しているということです。そしてそれは「心」に支配されている人間の特徴でもあります。人間においては、「心の働き」が「からだの痛み」を消したり、さらに強くしたりするのです。山登りが大好きで頂上を目指している人は、上っている途中で多少ケガをしてもちょっとのケガなら気にしません。人間は、意識が別のことに向いている時には、それほど痛みを感じないのです。でも、付き合いで嫌々登らされているような人は、ちょっとのケガでも痛くてしょうがないでしょう。ケガのことばかり考えてしまうでしょう。「ばい菌が入ったらどうしよう」「骨が折れていたらどうしよう」などと考えてしまうかも知れません。周囲の景色や足下の草花を愛でて楽しむなんて心の余裕もありません。その行為に、意味や目的を感じ、自分の意志で前向きに取り組んでいる時には、その過程で生じる痛みはあまり気にならないものです。痛みは感じていても痛みに支配されることがないのです。でも、仕方なく嫌々やらされているような時には、ちょっとのケガや痛みでも気になってしまうのです。そして簡単に痛みに支配されてしまいます。東京都知事選に立候補した小池百合子さんは、公約の一つとして「無痛分娩費用の助成制度の導入」をあげました。それだけ今、「無痛分娩」を望む人が多いということなんでしょうか。でも、私の周囲には「痛いことは痛いけど嫌な痛さではなかった」とか、「痛かったけどそれだけ赤ちゃんがいとおしくなった」とか、「痛みを経て赤ちゃんの顔を見た時の喜びが大きかった」という人もいます。痛みが引いた頃に「また産みたくなってきた」と言う人もいます。それは山登りに似ているのかも知れません。車やロープウェイで簡単に頂上まで行っても、長い時間をかけて苦労して登っても、「頂上に立っている」という結果は同じです。でも、「喜び」は同じではありません。想い出も全く異なったものになるでしょう。それは、「結果が良ければ良い」という生き方と、「過程を大切にしたい」という生き方の違いなのかも知れません。まあ、どちらを選ぶのかはその人の価値観や生き方の問題ですから私がとやかく言うことは出来ませんが、でも、その価値観や生き方はその後の子育てにも影響してくるでしょう。「無痛分娩」は可能でも「無痛子育て」は不可能だからです。「子育ての苦しみ」と前向きに向き合い、発想を切り替えて「子育てを楽しんでしまえ」という子育てをしているお母さんもいます。そのようなお母さんは子育てを通して色々なことを学び、色々なことを発見し、色々な仲間やつながりを得ようとしています。そういう活動をしていると「子育ての苦しみ」を和らげることが出来るからです。「痛み」を感じた時には、意識を他のことに向けると「痛み」に束縛されにくくなるのです。また、そのようなお母さんの生き方を通して子どもも色々なことを学び体験し、心とからだを育てることが出来ます。そして、「子育ての苦しみ」は少しずつ減って「子育ての喜び」が増えて来ます。その逆に、その「苦しみ」から逃げようとする子育てをしている人もいます。そのような人は、自分を守るために自分の周りにバリヤーを張っています。お互いにバリヤーを張った状態の仲間作りはしますが、バリヤーを外した仲間作りはしません。子どもとの間にもバリヤーを張っています。でも、バリヤー越しの子育てを受けている子はお母さんを通して「自分の成長につながるようなもの」を学ぶことが出来ません。お母さんに肯定されていないのですから、自己肯定感も育ちません。その結果成長が遅れたり、偏ったりしてしまいます。そして、そのことは子どもが思春期を迎える頃に、「お母さんを苦しめる原因」として大きくなってきます。「子育ての苦しみ」から逃げようとすればするほど、その苦しみはどんどん大きくなってしまうのです。
2024.06.23
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子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。そしてそのような価値観の大人に育てられたり教育されている子ども達も、「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。そのように学習してしまうのです。そして、大人になり、親になり、今度は自分の子どもを他の子や、標準値や、理想と比較し、追い立てます。自分に対しても同じことをしています。そのような人は、常に比較し、追いたてていないと不安なんです。幼い頃に親から受け継いだ価値観は、本人が変えたいと思っても他の人の手助けがないと変えられないのです。でもそういう人に限って、他の人に助けを求めません。成長を続けていないと維持できない経済システム、人口が増え続けていないと維持できない政治システムはそのような人たちによって作られ、維持されて来ました。また、そのような社会がそのような価値観の子どもや大人を育ててきました。そのような社会を維持するためには、「立ち止まること、自分と向き合うことに不安を感じる人」が必要だからです。経済活動を活性化させるためには、常に比較し、競争しようとする人たちが必要なんです。ですから、そのような社会の価値観を善とする人たちは、子どもを比較し、追いたてることも善であって、非難されるようなことではないと思い込んでいます。だから原発は善であり、原発反対は悪なのです。そしてその結果、原発が、また社会全体が困った状態にになってしまっても、「原因不明」もしくは「不可抗力」で済まそうとするのです。それが現代日本の政治や経済の中枢にいる人たちの価値観なんです。ですから、この問題は個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもあるのです。そのことに気付かないと個人の問題も、子育てや教育の問題も解決できません。どんな価値観に支配された社会に生まれてくる子ども達でも、生まれたばかりの時にはまだ「社会の価値観」に染まっていません。どんな国、どんな社会に生まれてくる子ども達でも、「現代人の感覚」ではなく「古代人の感覚」を持った状態で生まれてくるのです。何しろ古代人としての歴史は何十万年ですが、人類が文明を持ち始めた歴史は数千年程度なんですから。現代につながる「科学に支えられた便利な生活」なんか、たった100年、200年程度の歴史しかありません。そして、「古代の人たちと同じ感覚」を持ったまま生まれてくる子どもたちにはその「現代社会の感覚や考え方」は理解できません。その「古代人の感覚」で大切なのは、「助け合うこと」や「分かち合うこと」であって「比較し、競争すること」ではありませんでした。厳しい自然の中で生き延びるためには「助け合う仲間」が絶対的に必要だからです。そして、これは今でも自然と共に生きている人たちにとって共通する価値観です。実際、競争に明け暮れている日本人でも、大きな災害があると助け合いますよね。助け合わないことには自分も生き延びることが出来ないからです。古代の人が、仲間と助け合わずに競争に明け暮れていたら人類はとっくの昔に滅亡していたはずです。その古代人の感覚を持ったまま生まれてくる幼い子どもたちは、助け合ったり、分かち合っている時には天使のような笑顔を見せてくれます。でも、比較され、追いたてられている時には悲しそうな顔をします。でも大人達はそんな子ども達の「悲しそうな顔」を無視します。気付いてすらいないのかも知れません。でなければ子ども達を競争に追い立てることが出来ないはずだからです。でも、大人達がそんな子ども達の「悲しそうな顔」「苦しそうな顔」に気付かないと、やがて人類はどん詰まりに追い詰められてしまうでしょうね。そして全体が滅びれば、必然的に個も滅びます。
2024.06.22
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民主主義のいいところは、票を持っているものが声を上げればそれが政治に反映されることです。ただし、原則としては「一人一票」ですが、実際には、社会的に大きな影響力を持っている人は他の人の票まで支配することが出来ます。お金で票を買う人もいます。民主主義の悪いところは、「票を持っていないもの」や、「声を上げる事が出来ないもの達」の声は無視されてしまうことです。子どもや社会的弱者の声は、それを吸い取って、彼らの代わりに発信してくれる「票を持っている人」や「社会的な影響な影響力を持っている人」に代弁してもわないと政治に反映されません。人間でさえそういう状態ですから、人間とこの地球の自然を共有している虫や動物や草や木の声が政治に反映されることはほとんどありません。でも、直接、政治に対して影響力を持っていない子どもや、社会的な弱者や、虫や動物や草や木たちも私たちの同胞であり、運命共同体の一員です。だから彼らが滅びれば、人類全体が滅びてしまうのです。子どもの成長が歪めば社会全体が歪みます。子どもの成長が止まれば、社会全体の成長も止まります。子どもが元気を失えば、社会全体が元気を失います。子どもが不幸になれば、社会全体が不幸になります。ちょっとしたタイムラグはありますが、それは必然的な結果です。人間以外の虫や動物や草や木においても同じです。虫や動物や草や木が滅びれば、人類も滅びます。虫や動物や草や木が元気を失えば人類の元気も失われます。私たちの命はそれらの命に依存しているのですから。だからこそ民主主義の社会では、「声を上げることが出来る人たち」が、積極的に「声を発することが出来ないもの達の声」を吸い上げ、社会に発信していく必要があるのです。「子どもの声を代弁する大人」、「虫や動物や草や木の声を代弁する人間」が必要なんです。そこに必要なのは「共に」という感覚です。「かわいそう」とか「やってあげている」という上下の感覚ではありません。でも実際には、人間は「人間のこと」しか考えていません。大人は「大人のこと」しか考えていません。さらには「自分のこと」しか考えない大人も増えて来ました。「子どもからどうやって自分を守るのか」ということばかり考えている「お母さん」や「先生」もいます。そのような「大人に守ってもらえない子ども達」は、自分で自分を守るようになります。そして他者を排除したり、他者と対立したりするようになります。他者との間に上限関係(カースト)を作ろうとするようになります。イジメもそのような状況の中で起きます。そういう社会でも、「声を発することが出来ないもの達の声」を代弁しようとしている人もいますが、「票につながらない」「お金儲けにつながらない」「便利にならない」ようなことに耳を傾けてくれる人は多くありません。だからどんどん、社会や、子どもの成長や、心とからだや、命の状態や、自然が歪みはじめているのです。民主主義の社会は競争原理に支えられています。でもだからといって、競争原理だけでは民主主義は崩壊してしまうのです。最初のうちは勝ったり負けたりが起きますが、しばらくすると、強いものは常に勝ち、弱いものは常に負ける状態が固定してしまうからです。そして、「強いもの達のためだけの社会」が生まれます。実際、今そういう状態になってきていますよね。だからこそ、子どもの教育の場に、大人の価値観に基づいた競争原理を持ち込んではいけないのです。また、セルフコントロール能力や、声なきものの声を聴く能力を育てることも必要なんです。健全な民主主義を継続させるためには、教育を「大人の政治や経済の価値観」から切り離し、子どもに「子どもの感性に従って自由に感じ、考え、表現し、行動する場」を与え、「声を発することが出来ないもの達」の声に耳を傾けることを教えなければいけないのです。そのためには、先ず大人が子どもの声に耳を傾ける必要があります。自然の声に耳を傾けることが出来る感性を育てる必要もあります。
2024.06.21
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子どもに取って「お母さん」は「命の故郷」であり「心とからだの故郷」でもあります。子どもは幼いときはその故郷の中で暮らしますが、4,5才頃から故郷の外に出て外の世界を色々体験をするようになります。でも、悲しいとき、苦しいとき、お腹が減ったときなどは故郷に戻り心とからだのエネルギーチャージをします。そして、思春期が来ると子どもはその故郷から出て、外の世界に自分の居場所を探し始めます。一度出てしまったらもう故郷に戻ることはありませんが、故郷はいつまでも心の中に残って子どもの心を支えてくれます。ただし、実際の親子関係は、なかなかこんなに美しいストーリー通りには行きません。「故郷には苦しい想い出しかない」「故郷のことは想い出したくない」という人もいるでしょう。でも、子どもが本能的にお母さんに求めているのはこのようなストーリーだろうと思います。また、幼い子どもは100%お母さんのことを信頼しています。命を預けているのですからそれは当然のことです。また、例外なくお母さんのことが大好きです。だから子どもはお母さんにまとわりついてくるのです。でも、お母さんはそんなまとわりついてくる子どもを振り払おうとします。自分の時間を確保するためです。「子どものことが嫌い」というお母さんは多いですが、お母さんのことが嫌いな子どもはいません。子どものことを疑うお母さんは多いですが、お母さんのことを疑う子どもはいません。少なくとも幼児の間は・・・。だから「あんたはバカだ」と言われれば「私はバカなんだ」と信じます。「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」と言われればそれも信じます。「あんたなんか嫌いよ」と言えば、それもそのまま信じます。そしてお母さんに好かれるために色々と我慢するようになります。いつも叱られている子は、「お母さんが僕を叱るのは僕が悪い子だからだ」と解釈してその苦しみを納得させようともします。「自分」を否定して「お母さん好みのよい子」になろうと努力します。でも、幼い子どもがお母さんの要求に応えることはなかなか難しいです。なぜなら、お母さん達が子どもに要求していることの多くは、子どもには理解出来ないし、やろうとしても出来ないことばかりだからです。そもそも、お母さんが使っている「大人の言葉」自体が理解出来ないのです。お母さん達は、子どもが理解出来ない言葉で、子どもには出来ないことを要求しているのです。だから出来るわけないのですが、でも出来ないとお母さんに叱られます。「早くしなさい」と言われても子どもはその意味が理解出来ません。また、幼い子どもには自分の意思で自分の行動をコントールする能力もありません。幼稚園が大好きな子は、早くしなさいなどと言われなくても、早くから起きて「もう行こう」とお母さんを急かすものです。でも、それほど好きではない子はダラダラと支度するでしょう。または、支度すらしないでしょう。で、お母さんが「早くしなさい」と急かすことになるのですが、基本的に、幼い子どもは自分の感情に従った動きしか出来ないので、お母さんの期待通りには動けません。子どもが嘘をついているように見えることもありますが、それは嘘ではありません。ただ、お母さんが満足する答えを言っているだけです。お母さんに嫌われたくないからです。また、多くのお母さんが「子どもには理解出来ない言葉」で子どもに色々要求しています。お母さんに「約束よ! 分かった?」と言われたら、分かってはいなくてもお母さんに嫌われたくないので子どもは「分かった」と答えます。そもそも幼い子どもには「分かった」という言葉の意味自体が分かりません。皆さんは説明できますか。ですから当然その約束は守られません。でも、お母さんは「約束したじゃない! 分かったって言ったじゃない、嘘つき!」と子どもを叱ります。でも、子どもは自分が何で叱られているのか分かりません。だから同じことを繰り返します。子育てをする時には「子どもに取ってお母さんはどういう存在なのか」ということを理解しておいた方がいいと思います。「お母さんにとって子どもはどういう存在なのか」ということは人それぞれですが、「子どもに取っての母さん」は、それほど個人差がないのです。なぜなら、子どもがお母さんに求めているのは「自分の心とからだの成長に必要なもの」だけだからです。そしてその「幼い子どもの心とからだの成長に必要なもの」は、地域や時代を超えて変わりません。まただから、「子どもがお母さんに求めているもの」も、地域や時代を超えて共通しているのです。「1万年前の子どもがお母さんに要求していたこと」と、「現代の子どもがお母さんに要求していること」は基本的に同じなんです。アフリカのサバンナやアマゾンのジャングルで生活している子ども達がお母さんに求めているものも、皆さんの子どもが皆さんに求めているものも基本的には同じです。「お母さんが子どもに望むもの」は時代と共に変化してきましたが、「子どもがお母さんに望むもの」は昔から少しも変わっていないのです。その中でも一番大切なのが「安心」です。幼い子どもにとってこの世界は「初めて見るもの」、「初めて体験するもの」ばかりです。そんな世界と能動的に関わっていくためには、「安心」に満たされる必要があるのです。また子どもは、自分が生まれてきた世界との橋渡しもお母さんに求めています。言葉を学ぶのもお母さんからです。感覚や感情や様々なものに対する価値観や、他の人との関わり方を学ぶのもお母さんからです。お母さんが虫を怖がれば、子どもは「虫は怖いものなんだ」ということを学習します。お母さんに拒否されている子は、他の子を拒否します。子どもはしつけなど求めていません。ただ、安心を求めているだけです。問題は、お母さんが不安を抱えていると、子どもはお母さんから安心を受け取れなくなってしまうということです。お母さんから十分な安心を受け取れない子は、お母さんから離れることが出来なくなります。
2024.06.20
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私は色々なところで子育てに関する質問を受けますが、その大部分は「しつけ」に関することであり、どこでもその内容は似たり寄ったりです。その内容をざっくりと書いてしまえば、「子どもを上手にコントロールするのにはどうしたらいいのでしょうか」というようなものばかりです。「何回言っても子どもが手を洗わないのですが、どうしたらいいのでしょうか」などというような質問は、しつけを効率的に行うための質問であって、「子どもの育て方」に関する質問ではありません。そして、そのようなお母さんに限って、「子育ての苦しみ」の多くが、「子どもが言うことを聞かない」事から来ていると思い込んでいます。そのようなお母さんに、「ご自身の子育てで大切にしていることは何ですか」とか、「どういう人間に育って欲しいですか」と聞いても、なかなか答えが返ってきません。みんな、今目の前にある「思い通りにならないこと」をどうやったら思い通りに出来るか、という事ばかりを考えていて、「子育てを通して今自分がやっていることの意味」を考えていないのです。「優しさを育てるにはどうしたらいいでしょうか」とか、「色々なものに興味を持ってもらうためにはどうしたらいいでしょうか」とか、「みんなと仲良く遊ぶためにはどうしたらいいでしょうか」とか、「どういうお話を聞かせたらいいのでしょうか」というような、「子どもの成長を支えるための相談」もあまりありません。多くの人が、「子どもの育て方=子どものしつけ方」だと思い込んでいるのです。だから「子育ての相談」を受けると、実際には「しつけの相談」ばかりになってしまうのです。その区別が付いていない人が多いのでしょう。だから、「子育て」に意味を見いだせず、単なる「苦しいだけの作業」になってしまっているのです。そして、子どもの心や、からだや、成長の状態には意識を向けずに、子どもの行動にばかり意識を向けてしまうのです。まただから待てないのです。「子どもを育てる」ということは「一人の人間を育てる」ということです。これから70年から80年に亘る「子どもの人生」の基礎を育てるということです。今、目の前にいる小さな子どもが「一生、背負っていかなければならないこと」を、育てるということです。実際、ご自身が子どもの頃に受けた子育ての記憶がいまだに残っていて、子育てに苦しんでいる人が山のようにいます。子どもの頃受けた苦しみが消えずに、そのまま一生苦しみ続ける人もいっぱいいます。それで、親を恨んでいる人もいっぱいいます。でも、それなのにそれと同じようなことを我が子にもしてしまっているのです。でもだからといって、そんなに深刻に考える必要もありません。人生の始まりを、明るく楽しいものにしてあげるだけで、子どもは自分の意思で成長していくように出来ているからです。それだけのことです。そしてそれは「しつけ」よりも大切なことです。子育てでは、「しつけよりも大切なこと」があるのです。「しつけ」は後からでもなんとかなります。親がしつけなくても、本人の自覚が生まれたり、集団生活するようになれば自然と、最低限のことは身につくものです。でも、子ども時代をつらく苦しいものにしてしまったら、子どもは一生苦しむのです。「子育て」を、「人生」や「一生」という視点で見直せば、少しは待てるようになるのではないでしょうか。「子ども」に対しても「自分」に対しても。今は「子育て」が苦しくても、その苦しさにしっかりと向き合って、前向きに取り組めば、「子育て」が終わった後の人生がより豊かなものになるのではないかと思いますよ。「子育て時代」は「親と子の信頼関係を築く時代」でもあるのです。そしてそれは「しつけ」よりも大切なことなんです。親との間に信頼関係を築けなかった子は、仲間とも、周囲の大人とも信頼関係を築けなくなってしまうからです。
2024.06.19
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子育てにおいては「待つ」ということが非常に大切です。子どもは待ってもらえることで安心を得、愛情を感じることができます。成長においても、待ってもらえる子は、自分のペースで、自分らしく成長することが出来ます。ただし、「待つ」と言っても、「タイマーを仕掛けてその時間テレビを見て過ごす」というような待ち方ではありません。スマホを見ながら待っているのとも違います。それは待っているのではなく、そのことを見ないように、感じないように、考えないようにして、時間をやり過ごしているだけです。また、「子どもの言いなりになる」ということでも「子どものワガママに付き合いなさい」ということでもありません。手も口も出さないですが、ちゃんと見て、ちゃんと感じて、子どもの心に寄り添いながら、信じて待つのです。大人から見たら「無駄なこと」、「意味がないこと」であっても、その時の子どもにとっては「意味があること」なんです。だから夢中になるのです。またそれが「子どもの成長につながる大切なこと」なのです。諦めずにいつまでも夢中になって虫探しをする子もいます。そんな時お母さんは、付き合うのに飽きて、「もうあきらめなさいよ」と言ってしまうかも知れません。でも子どもは、一生懸命に考えながら、一生懸命に感じながら、色々なことを発見しながら、試行錯誤しながら虫を探しているのです。というか、そのような「内的な活動」をしているからこそ探し続けることが出来るのです。問題は、そのような「内的な活動」は目では見ることが出来ないということです。お母さんの目に見えるのはいつまでも同じことや、無駄なことを繰り返し続けている我が子だけです。だから、その「内的な活動」を感じることが出来ないお母さんはイライラしてしまうのです。でも、「虫を探している時に子どもの心やからだの中で起きていること」を想像したり、感じたりすることが出来る人は待つことが出来るのです。ただ我慢して待つのではないのです。「待ってあげてください」と言っても「我慢」を求めているわけではないのです。私が言いたいのは、「子どもを見守りながら、子どもの心やからだの中で起きていることを感じようとして下さい」ということなんです。待てるのはその結果に過ぎません。子どもの「内的な活動」に付き合うためには、お母さんもまた「内的な活動」をする必要があるのです。すると、夢中になって何かやっている子どもを見ていると面白くなるのです。「子どもが今、夢中になれること」が、「子どもの今の成長に必要なこと」でもあるのです。子どもの「今の成長」に必要な活動だからこそ夢中になることが出来るのです。だから、私が言っている「待ってあげて下さい」は、「子どもに従う家来になりなさい」ということではないのです。お母さんの価値観や生き方に従って、ダメな時は「ダメ」でいいのです。特にゲームのような「麻薬性のある遊び」は、ある程度、子どもが自分で自分をコントロールできる年齢になるまで与えない方がいいでしょう。反応や反射だけで行動している時期の子どもにゲームを与えてしまうと、止められなくなってしまいますから。それを「待っていればいつかは止めるだろう」と放任してしまうと、子ども自身が苦しくなってしまいます。「止めたくても止められない状態」が中毒なんです。あと、「子どもがやっていること」を待てるようになるためには、お母さん自身の自己肯定感が必要になります。自分と向き合うことが出来ない人は待てないのです。待っていると自分と向き合わざるおえなくなってしまうからイライラしてくるのです。
2024.06.18
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昨日は「親子遊び」について書きましたが、実は今、その「親子遊び」が非常に必要な状態なんです。赤ちゃんは「何も知らない、何も出来ない状態」で生まれてきます。「人間らしさ」すら目覚めていません。だから、生まれた後から、お母さんや周囲の大人や仲間との関わり合いを通して、様々な知識や技術、さらには、言葉や、感じ方や、考え方や、自分の心やからだとの関わり方を学ぶ必要があるのです。それらをどのような形でどれだけ学んだのかと言うことが、その子の「人間らしさ」や、これから先の長い人生を生きていくための土台となっていくからです。でも、これらの学びは、テレビや、ネットや、スマホや、ゲームや、オモチャといった「物や機械を相手にした遊びや生活」では育てることが出来ません。そのような能力が育つためには、そのような能力を持った人との関わり合いが必要になるからです。それは「言葉の学び」と同じです。日本語を学ぶ場合は、日本語を話せる人と、日本語を必要とする状況で関わる必要がありますよね。そして、母国語の場合は特にそれが必要なんです。いくら一日中テレビや動画で日本語と触れ合わせていても、実際に日本語を話せる人と、日本語を必要とする状況で関わらないことには「母国語としての日本語」は伝わらないのです。そして、幼い時に生活に必要な母国語をちゃんと学ぶことが出来なかった子は、小学校に入っても学校での勉強に付いていくことが難しくなります。先生が言っている言葉が理解出来ないのですからそれは当然ですよね。それで子どもは、暗記でそれを乗り越えようとします。言葉が分からなければ理解は出来ませんが、理解出来なくても暗記は出来るからです。そして、小学校レベルの勉強なら暗記だけでなんとかなってしまうのです。でも、理解出来ていない知識は試験の時以外役に立ちません。子どもの成長にもつながりません。昔の子ども達は、お手伝いや、遊びや、地域での様々な大人との関わり合いを通して、そのような「人間として自立して生きていくために必要な言葉や、様々な知識や、技術や、感じ方や、考え方や、自分の心やからだとの関わり方」を学んでいたのです。でも、今ではその多くが失われてしまいました。だから、今では子どもの成長を守るためにはお母さんが子どもと関わるしかないのです。日常的に子どもの周囲にいるのは「お母さん」だけになってしまっているのですから。ただし、「色々なことを教える教師」としてではなく「色々なことを一緒に学ぶ仲間」としてです。幼い子どもの育ちに必要なのは「向き合って色々なことを教えようとする教師」ではなく、「同じ方向を向いて体験や感覚や感情を共有してくれる仲間」なんです。そして、お母さんが「仲間」として子どもに色々なことを伝え、子どもの成長を支えるための方法として「親子遊び」があるのです。だから、「親子遊びではただ子どもの相手をしていればいい」「子どもを喜ばせればいい」ということではないのです。遊園地に連れて行けば子どもは喜びます。でもそれは、子どもの成長を支える遊びではありません。テレビや、ゲームや、スマホなどは、子どもを「人と人との直接的なつながり」から遠ざけてしまいます。確かに、そういうものを与えてしまえば、子どもは喜ぶかも知れません。お母さんも楽になるかも知れません。「だからWin-Winでいいんじゃない」と考える人もいます。でも、そのような子育てを受けた子は精神的な自立が困難になってしまうため、子どもが思春期を迎える頃に、子どもの苦しみとしてその問題が明らかになってくるのです。でも、その頃になって気付いてもやり直しは出来ないのです。
2024.06.17
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昨日は「お母さんはスゴイ」と書きましたが、でも、そのすごさを実感出来ている人はあまりいません。子育てに喜びを感じている人もいますが、子育てに苦しみを感じている人もいっぱいいます。実際、「子どもの育て方が分からない」、「しつけ方が分からない」、「遊び方が分からない」、「関わり方が分からない」、「一緒にいると苦しい」などなど、子育てに自信も喜びも感じることが出来ていない人がいっぱいいます。時にはその苦しみのあまり、悲しい事件を起こしてしまう人もいます。経済的に困っていないに「一緒にいるのが苦しい」という理由で、まだ生まれて間もない赤ちゃんを、保育園んどに預けてしまう人もいます。そのような人に「お母さんは凄いんだよ」などと言っても、反感を買うだけだろうと思います。私はその苦しみを喜びに変えるための方法として「親子遊び」というものを提案しています。「子育ての苦しみ」や「子ども」を遠ざけているだけでは「苦しみ」は消えないからです。消えないどころか、さらに膨れあがってしまいます。「苦しみの先送り」は苦しみを増加させるだけなんです。その「親子遊び」には特別な知識や技術は必要ありません。素人でも誰でも簡単にできることばかりです。その基本原理は「一緒に」だけです。どんなことで、お母さんと一緒にやれば子どもにとっては「楽しい遊び」になるのです。幼稚園や保育園の先生達など子どもと関わるプロの人たちは難しいワザをいっぱい知っています。それは、一人で大勢の子どもたちを楽しませる必要があるからです。でも、幼稚園の先生などはその「一緒」はやってくれません。幼稚園の先生が相手にしているのは「みんな」であって、「○○ちゃん」ではないからです。「一緒に」はお母さんにしか出来ないのです。お手伝いだって、お片付けだって、お母さんと一緒なら楽しい遊びになるのです。私が提唱している親子遊びでは、お母さんが子どもに「遊び」を提供するのではなく、子どもと一緒に「遊び」を探し、子どもと一緒に「遊び」を創り出すのです。その際、遊びを導いてくれるのは「子ども」です。遊びのきっかけは、子どもが教えてくれるのです。だから、お母さんが「遊び」について知らなくても大丈夫なんです。お母さんの役割はその子どもが発見した遊びを膨らませ、形にするだけです。もっともその膨らませ方にはちょっとした技術が必要になりますけどね。でもそれも、お母さんが「子どもとの一緒」を楽しもうとしているのならそんなに難しいことではありません。そして、お母さんが「子どもとの一緒」を楽しめるようになれば、しつけの問題は自然と解消してしまうのです。最後にちょっと宣伝です。親子遊びを伝える場として、私が茅ヶ崎でやっている教室「ポランの広場」の生徒を募集しています。見学だけでもお友達を誘っておいで下さい。お問い合わせは「こちら」まで。チラシは「ここ」で見ることが出来ます。
2024.06.16
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現代人は「お金を稼ぐことが一番大切なこと」だと思い込んでいます。お金があれば夢や希望を叶えることが出来ます。お金があれば「自由」さえも手に入れることが出来ます。お金があれば人を支配することも出来ます。だからお金を稼ぐことに熱心です。本来、国民の幸せを願って政治をするべき政治家もお金儲けに熱心です。政治家個人もまた政党もです。そして、国民にも「もっと働け、もっと儲けろ」というような圧力をかけています。テレビもまたそれを後押ししています。学校の勉強も、子どもが将来お金を稼げるようになるためのものです。子どもの成長を支えるためではなく、生き残り競争に勝つために子どもを勉強に追い立てているのです。本来、「お金を稼げるようになる」というのは「学び」の副産物であって、子どもの成長を支えるべき教育の場でそれを目的にしてはいけないはずなのですが、現代人は学ぶことの本来の意味や目的が分からなくなってしまっているのです。その結果、お金を稼がない専業主婦や、子どもと一緒に生活しながら一生懸命に子どもの成長を支えようとしているお母さん達の社会的地位が非常に低くなってしまっています。お母さん自身もそんな自分の状態を否定的に捉え、子どもがまだ「お母さん」を必要としている時期なのに、「子どもの成長」よりも「お金」や「自己満足」のために仕事に出ている人や、出ようとしている人がいっぱいいます。また国もそれを後押ししています。現代社会では「人間を育てる行為」よりも、「お金を稼ぐ行為」の方が価値があるのです。その結果、「子どもの育ちを支えるための場」も、「子どもの育ちを支えようとする大人」もどんどん減ってきています。でも、そのことに問題を感じている人は多くありません。でも、社会が「お母さん」を大切にしなくなり、お母さん達が「お母さんであること」を止めたら、社会は崩壊してしまうのです。人類は未来を失ってしまうのです。実際、今どんどん人間関係や社会の状態がおかしくなって来ています。子ども達の状態もおかしくなって来ています。「善悪の判断が出来ない若者」や、「精神的に自立できない若者」や、「人の気持ちが理解出来ない若者」も増えて来ているような気がします。子どもに「生命」を与えたのも、「言葉」を伝えたのも、「人間らしさ」を伝えたのもみんな「お母さん」なんです。人類はそのつながりに支えられて何十万年も生き延びてきたのです。歩き方や、感じ方や、自分を表現する方法の基本を伝えたのも「お母さん」です。これのどこが大したことがないのですか。イクメンパパもいますが、それでもまだまだ「オレが稼いできて、養ってやっているんだ」と威張り、子育てを手伝おうとはしないお父さんもいっぱいいます。また、そんなイクメンパパにも出来ないことがあります。それは、子どもに「安心」や「精神的な支え」を与えることです。子どもは本能的に、お父さんではなくお母さんに「安心」や「精神的な支え」を求めるのです。特に、「人間らしさ」が育っている7才頃まではその傾向が強いです。これは「大人の都合」ではなく、大人や社会の価値観とは無関係な「子どもの都合」なんですからどうしようも出来ないのです。大人が子どもに合わせるしかないのです。以前、本のタイトルは忘れましたが、「女性は妊娠・出産・子育てを通して賢くなる」という内容の本を読んだとき、「女性は子育てをしているとバカになると考えている人がいっぱいいる」というようなことが書いてありました。著者は、それは全くの間違いで、むしろその逆に、女性は妊娠・出産・子育て賢くなっていると書いていました。実は、女性は妊娠・出産・子育てを通して、それ以前とは、「脳の使い方」が変わるらしいのです。簡単に言うと、右脳と左脳の結合が高まり、より総合的、複合的、相対的に物事を見ることが出来るようになるのです。そのため、それ以前には「当たり前」であったことが「当たり前」ではなくなります。「分かっていた」と思っていたことが、実は「分かったつもりになっていただけだ」ということに気付き始めます。想像と現実の違いが分かり始めます。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ始めます。心や、感覚や、からだの使い方もそれまでとは全く変わってしまいます。そうでないと目の前の子どもに対応出来ないからです。それまでは、「見かけ」を繕って建前だけで生きていることが出来ましたが、子育てをしていると自分の本当の姿と向き合わさる終えなくなります。見栄や体裁を繕っている余裕などなくなります。流行を追い求めることも困難になります。また、「自分自身の育ち」と向き合ったり、それまで考えたこともなかったような、「生命のこと」、「食べ物のこと」、「平和のこと」、「自然のこと」、「未来のこと」などを考え始めます。だから苦しいのですが、人間や社会が「人間にとって本当に大切なこと」を忘れないためには、「子どもという人間の原点」に向き合う必要があるのです。その最前線で頑張っているのが「お母さん」です。
2024.06.15
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随分前から、「言葉を理解するのが困難な子」が増えてきました。一人でテレビを見て、一人でゲームをして、一人でおもちゃで遊んで、お母さんやお父さんからは「ああしなさい」「こうしなさい」という指示命令ばかり受け、学校でも自分の考えを言わせてもらえず、ただ静かに聞いて覚えるだけの生活しか送っていなければ、必然的に、「他者とコミュニケーションする能力」は育ちませんよね。それでも本をいっぱい読んでいるのなら、本を読むことで「コミュニケーションするための言葉」を学ぶことが出来るのですが、残念なことに最近の子は本も読みません。少し昔の子は「マンガ」は読みましたが、最近の子は「マンガ」ではなく「アニメ」ばかりを見ています。ちなみに、「マンガ」は能動的に読まないと理解出来ませんが、「アニメ」は受動的に見ているだけで楽しむことが出来ます。そのため、さらに言葉を学ぶ機会が減ってしまっています。そして、今ではそれが一般的な状態になってしまっています。(英語のアニメを見て英語を覚えるのは難しいですが、英語で書かれたマンガを読んで英語を覚えるのは比較的楽だと思います。)そういう生活をしているためか、最近の子ども達は「自分の言いたいこと」は(テレビのように)一方的に話すのですが、肝心の、その「言いたいこと」がよく分からないのです。相手に理解できる言葉で話すことが出来ないからです。でも、そのような状態の子は、「通じていない」ということも理解できまないようです。「通じていない」ということが理解できているのなら、「通じる言葉」を工夫しようとするのでしょうが、「通じていない」ことも理解できていないので、「相手が無視している」という受け取り方をしてしまうのです。昔、群れて遊んでいた子どもたちはその群れの中で「相手に通じる言葉」を学ぶことが出来ましたが、一人で遊んでいるだけの子にはその学びの場がありません。子ども同士の群れがなくても、親子や家族の対話がいっぱいあれば大丈夫なんですが、最近ではそれも難しい家族が普通になってきてしまっています。言葉が育っていない子どもたちは、気持ちが伝わらなかったり、思い通りにならないことがあるとイライラします。待つことも出来ません。自分の言いたいことは一方的に話しますが、人の言葉には耳を傾けません。「自分との対話」も出来ません。そのため、「それはどういう意味なの」「君は何を言いたいの」と聞いても答えることが出来ません。意味もない知識は山のように持っていますが、その知識の使い方を知りません。みんな、ゲームやテレビといった「現実世界とはつながっていない世界」からの受け売りだからです。教科書で学んだ知識も同じです。テレビやゲームや学校で学んだ「宇宙」という言葉と、満天の星空を見上げて学んだ「宇宙」という言葉は同じではないのです。最近の子は、そんな「空っぽの言葉」ばかりを学んでいるので、自分の心を支えるための「自分の言葉」が育たなくなってしまっているのです。でも、「子どもの心」は「言葉の成長」の成長と共に育つようになっているのです。「心育て」をするためには「言葉育て」をするしかないのです。昨日書いた「感覚育て」もまた「言葉育て」とセットにしないと進みません。「温かい」という感覚は「温かい」という言葉とセットにすることで、その感覚が自分の中に定着して行くからです。そして、その過程で心も育って行くのです。でも、最近の子は「知識としての言葉」はいっぱい持っているのですが、「自分の体験とつながった自分の言葉」を持っていないので、「自分が感じたことや考えたこと」を人に伝えることが出来ないのです。「なんでみんな自分の事を分かってくれないの!」と思っている子は多いと思いますが、だからといって、他の人に伝わるように話すことが出来ないのです。幼い子はそれで「かんしゃく」を起こすのですが、大人になってもそのままの状態の人が多いのです。そのような状態の人は、自分の感覚や、思考を支えてくれる「自分の言葉」を持っていないのです。そしてそれは、「自分の心」を持っていないということでもあるのです。「受動的に周囲に反応するだけの心」は持っているのですが、「能動的に感じ、考え、行動しようとする心」を持っていないのです。「自分の思考や心を支えてくれる自分の言葉」は、学校の授業などでは学ぶことが出来ません。「言葉」は「言葉を持っている人」から受け継ぐしかないのです。だから子ども達を「自分の言葉を持っている人」と出会わせてあげて欲しいのです。そうすれば、お母さんやお父さんが「自分の言葉」を持っていなくても、子どもは「自分の言葉」を育てることが出来るのです。
2024.06.14
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あと、人の心は「感覚の働き」と密接につながっています。美味しいものを食べると嬉しくなります。心がウキウキします。でも、まずいものを食べると、気分が下がります。イライラしている時でも海や野山に行って自然に触れると心が落ち着きます。子ども達も、狭い部屋の中にいる時はケンカばかりしているのに、家から出て外の風に吹かれたり、森や野原に行くとあまりケンカをしなくなります。美しいものを見ていると心が落ち着きます。かわいいものを見ているとハッピーになります。大好きな人に触れられれば心もからだも緩みますが、大嫌いな人に触れられれば、心もからだも固まります。こういうことは皆さん普通に体験していることだと思いますが、このようなことが起きるのも、「感覚」がちゃんと働いてくれているからなのです。人間だけでなく全ての生き物は「感覚の働き」を通して「自分が生きている世界」とつながっています。生物の内側と外側の境界にあって、中と外のやりとりを行っているのが「感覚の働き」なんです。また、自分の「心」と「からだ」をつないでいるのも感覚の働きです。からだが辛い時には心も辛くなります。心が軽い時にはからだも軽くなります。目を閉じていても動けるのは、「からだの動き」を感覚の働きが心や意識に届けてくれているからです。だから「からだ育て」をする場合にも、「心育て」をする場合にも「感覚の働き」に意識を向けるべきなんです。というか、「心」と「からだ」を別々に育てることは出来ないのです。怒鳴り声ばかり聞いて育った子の感性は鈍くなります。心を守るために感覚を閉ざす癖が付いてしまうからです。でも、感覚を閉ざすことで心が傷つくことを避けることは出来ますが、「心が育つために必要なもの」も入らなくなってしまうため、「心の育ち」も遅れることになります。優しい声を聴いて育った子は、色々なことに興味を示すようになります。心が開くからです。水や風や鳥などの「自然の音」に触れながら育てば豊かな感受性が育つでしょう。日本人の感受性の豊かさは、日本の自然の豊かさとつながっています。機械の音ばかり聞いて育っていれば、心もからだも固くなるでしょう。ビルのような直線ばかりを見て育てば、自然を感じる能力が鈍くなるでしょう。幼い時から「良いもの」をいっぱい見せていると、「良いもの」と「悪いもの」との区別が付くようになります。逆に「悪いもの」ばかり見て育てばその区別が付かなくなります。人間に対しても同じです。実は「感覚を育てること」は「心を育てること」と直結しているのです。ちなみに、モンテッソーリ教育もシュタイナー教育も「感覚育て」を非常に大切にしています。ただ、その感覚の対象が大きく異なります。そのため、「心の育ち」にも違いがあるような気がします。これはあくまでも私個人の印象なんですが、モンテッソーリ教育では「理性的な心」が育つような気がします。シュタイナー教育では「人間的な心」が育つような気がします。
2024.06.13
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では、どのようにしたら、形も実体もない「心」というものを育てることが出来るのでしょうか。寝ているだけで、一見何も出来ないように見える赤ちゃんにも「心」はあります。だから驚いたり、怖がったり、喜んだりするのです。プリミティブな形ですが、数の認識や、善悪の認識も出来るそうです。また赤ちゃんは、「快・不快」に敏感です。自分の安心につながるようなことは喜びますが、それを阻害するようなことは嫌います。そんな赤ちゃんは、五感の働きをフル活動させて、自分が生まれてきた世界のことを知り、その世界に適応しようとしています。そして、「自分の心とからだの状態に肯定的に働きかけてくれるもの」を好み、「否定的に働きかけてくるもの」を嫌います。そして、周囲の状況に合わせて自分の心とからだの状態を調整していきます。何か不安や不快を感じた時、赤ちゃんは泣くことで周囲にいる大人にそのことを訴え、その不安や不快を取り除いてもらおうとします。そして、周囲にいる大人達がそのことに気づき、適正な対応をして安心と快を与えようとしていると、赤ちゃんは自分の周囲にいる大人を信じるようになります。周囲にいる大人とつながることに喜びを感じるようにもなります。でもそれを「正当な要求」ではなく「わがまま」と断定して、泣いても泣いても周囲の大人がそれを無視していると、赤ちゃんは次第に大人に助けを求めなくなります。諦めてしまうからです。「諦める」というのは、悲しみや苦しみで心が壊れることを防ぐための命の智恵なんです。問題は、そういう子育てを受けている赤ちゃんは、まだ人生が始まったばかりなのに「諦め」を学習してしまうということなんです。それは「無気力」という状態につながってしまう可能性があります。また、お母さんとの間に信頼関係を築くことも困難になります。学習にも影響してきます。そのことに気づかない人は、赤ちゃんが諦めて泣かなくなると喜びます。だから意図的にそのような子育てをしている人もいます。赤ちゃんがお母さんに助けを求めなくなったら楽だからです。若い頃、何らかの保育に参加したとき、一人の「泣いた子ども」を私が抱いたら、ベテランの保育者から「子どもを抱かないで下さい。他の子も抱いてもらえる思って泣き出しますから」と言われました。この人は「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」をしているのでしょう。諦めることや我慢することを覚えさせる保育をしている保育園もあります。でも、そのような子育てや保育をしていると「無力感」や「否定的な感情」ばかりが育ってしまう可能性が高いのです。そんな「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」を受けた子は、大人に対する信頼感も育ちません。それは学習にも影響するでしょう。成長してからの友人関係や、夫婦関係や、親子関係にも影響するでしょう。でも、諦めさせなくても、赤ちゃんは心とからだが満たされれば泣き止むのです。泣き止まない場合もありますが、その時でも、大人がちゃんと向き合っていれば少なくとも否定的な感情は育たないのです。赤ちゃんのからだはものすごい勢いで育っています。そして「からだの育ち」と同時に「心」もすごい勢いで育っています。でも「からだの育ち」を気にする人は多いですが、「心の育ち」を気にする人は多くありません。目には見えないからなのでしょうか。お母さん自身が自分の心で感じようとしない限り「子どもの心の状態」を知ることは出来ないのです。「心」は「心」でしか見えないのです。だから、子どもの心を育てたいのなら、お母さん自身が「自分の心」とちゃんと向き合う必要があるのです。「自分の心」を否定している人は「子どもの心」も否定してしまうのです。だから「心を否定するような子育て」を受けた人は、自分自身もまた「心を否定する子育て」をしてしまう可能性が高くなるのです。
2024.06.12
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現代人は、あまり「心」について語りません。「様々な能力を育てる」ことをウリにしている幼児教育はいっぱいありますが、「心を育てる」ことをウリにしている幼児教育はあまりありません。幼稚園でも「心育て」を全面に出している所は聞いたことがないし、あったとしても、そんなところは胡散臭くてみんな警戒してしまうでしょう。スポーツが好きな人は「スポーツで心を育てる」などというようなことを言いますが、実際にはそのスポーツで心を壊してしまう人もいっぱいます。「心ある人」が子どもにスポーツを教えれば、「子どもの心育て」に役に立つのかも知れませんが、「心ない人」が、スポーツの指導をしたら「子どもの心の育ち」が阻害されてしまのです。実際、運動部内でのイジメや、暴力行為や、麻薬などの話しは珍しくありません。平気で「根性を育てる(鍛える)」などという人は、「心」について考えた事なんてないのでしょう。つまり、スポーツ活動そのものが「子どもの心」を育てているのではなく、スポーツの指導を通して「指導者の心」が子どもに伝わっているだけのことなんです。そしてこれは「子どもの学び」全てにおいて言えることです。算数の学びを通して、「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。歴史や科学の学びを通して「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。「宗教」を持ち出さなくても、「道徳」を持ち出さなくても、「心」について語らなくても、「心育て」は出来るのです。ただし、それが可能になるためには、先生が「心」についてよく理解している必要があります。逆に「心」のことなんか考えたこともない人が「心育てを目的とした道徳教育」などをすれば、「子どもの心」を育てるどころか逆に「子どもの心の育ち」を阻害してしまうでしょう。シュタイナー教育ではこのような考え方を大切にしていますが、他ではあまり聞いたことがありません。下の子や弱い子に対して暴力的な行為をする子に対して「優しくしなさい」と怒鳴っているお母さんはいっぱいいますが、このようなお母さんは「優しくしなさいと怒鳴れば子どもは優しくなる」と思い込んでいるのでしょうか。人間はみんな「心」を持っていて、「心は大切なものだ」ということを知っているはずなのに、なぜか表だって「心」について語ったり、考えたりしようとしないのです。子育ての相談でも、「言うことを聞かない」、「勉強をしない」、「ゲームを止めない」などの子どもの行動のコントロールの仕方ばかり聞いてきます。そして、「子どもの行動」の背景にある「子どもの心」には目を向けません。でも、アメとムチを使って子どもの行動をコントロール出来るようになっても、子どもの心が育っていなければ、子どもが思春期を迎える頃に子どももお母さんも困ったことになってしまうのです。それは「自立できない」という形で表れます。また、「子どもの心」は「お母さんの心」との触れ合いで育ちます。「心育て」など意識しなくても、子どもはお母さんとの関わり合いを通して、自然と「お母さんの心」を吸収して「自分の心」を育てているのです。それは「言葉の学び」と同じです。実は、「言葉が育つ時期」と「心が育つ時期」は一緒なんです。というか、「言葉育て」は「心育て」でもあるのです。でも、そんな大切な時期に「シネ」「コロスゾ」といいった殺伐とした言葉ばかり学んでいる子ども達がいっぱいいます。そのような状態に「まだ意味が分かっていないのだからいいんじゃないですか」と言う人もいますが、子どもにだって「シネ」「コロスゾ」という言葉と「大好きだよ」「仲良くしようね」という言葉の違いぐらい分かります。そんな「心ある人」との関わり合いを通して「子どもの心」が育つはずの時期に、心を持たないスマホやテレビやゲーム機とばかり関わっていたら「心」が育つわけがないのです。現代人は「心」について考えません。心について語りません。その大きなきっかけになったのが「オーム真理教事件」です。あの事件で人々の「心」に対する扱い方が全く変わってしまいました。公民館などで講座を主催する時でも「子どもの心を育てる」などというようなタイトルは使えなくなりました。私も「タイトルを変えてくれ」と言われたことがあります。あの強烈な事件で、「心について考える=宗教の話」という先入観が定着してしまったのです。そして、みんな「心育て」ではなく「能力育て」の話ばかりするようになりました。でも、「オーム真理教事件で主導的だったのは勉強が出来る高学歴の人が多かった」という事には、目を向けません。
2024.06.11
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「魂」などいうものをテーマにするとなんか怪しいオカルトか宗教の話のように思われてしまうかもしれません。実際、普通の子育てや教育の場で「魂」につて語られることは滅多にありませんよね。シュタイナー教育は別ですけど。でも、「魂」という視点を持たないと「人間の教育」は出来ないのです。実際、「魂」という視点を持たない現代の教育が目指しているのは、「AIのような能力を持った子どもたちを育てること」ですよね。また我が子にそのような能力を望んでいるお母さんたちもいっぱいいます。だから早期教育に熱心だったり、子どもを勉強に追い立てているのでしょう。幼いうちから、子どもをテレビやスマホやタブレットなどに預けてしまっている人が「魂」について考えているとは思えません。そんな現代人が憧れる能力を持ったAIは「魂」というものを持っていません。ですから、自分の感性で「真・善・美」を判断することができません。AIによる判断は100%データに基ずくものであって、自分自身の感性によるものではありません。だから、どんなに高度な能力を持ったAIでも、「人を殺す方法を教えて?」と聞けば、なんの躊躇もなく教えてくれます。相手が子どもであってもです。AIを搭載した戦闘ロボットは、何の躊躇もなく人を殺すでしょう。こういう場合、普通の人間は躊躇しますよね。なぜ躊躇するのですか?それは「私の中のもう一人の自分」が自分の思考や行動を見ているからではありませんか。普通の人は「罰せられるから犯罪を起こさない」のではないですよね。「人を苦しめるようなこと」をすると、「もう一人の自分」が苦しくなるから「犯罪」を起こさないのですよね。その「もう一人の自分」を持っているのは人間だけです。だから監視する人がいなくても自制することが出来るのです。人間以外の動物たちはただ本能のままに行動するだけです。だから、自分と自分が戦うことで心が病むことがないのです。自分で自分を責めて苦しんでいる人がいっぱいいますが、それも「もう一人の自分」がいるから可能なんですよね。皆さんも「意識の主体としての自分」の他に、「自分を見つめるもう一人の自分」を持っていますよね。それを感じることが出来ますよね。中にはその「もう一人の自分」の働きが弱い人もいるかもしれませんが、そのような人はこのような面倒くさいブログは読まないと思います。私は、その「もう一人の自分」を「魂」だと考えています。だから「魂」は当たり前の存在であって、怪しい存在でも、特別な存在でもないのです。話しがオカルト的になったり面倒くさくなるのは、その「魂」が「輪廻」や「霊的な世界」という考え方と繋がるときです。でもそれは検証不能のことなのでここでは扱いません。私は原則として、皆さんが自分でも検証できるようなことしか書かないようにしています。でも今、その「もう一人の自分」の育ちが未熟なまま育っていく子どもたちが多いような気がするのです。そのような状態の人は「匿名」なら好き勝手なことを言ったりやったりしてしまいます。それを止める「もう一人の自分」が目覚めていないからです。子育てや教育を「魂の育ち」という視点から見直してみませんか。そうでないと、人間も社会もどんどん「人間らしさ」を失ってしまうような気がします。というか今もうすでに現在進行形ですけど・・・。
2024.06.10
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人は「肉体」という形でこの世界に存在していますが、「肉体」として存在しているだけでは何も出来ません。それはただの「肉の塊」に過ぎないからです。その「肉の塊」がこの世界とつながり、この世界の中で生き生きと生き、この世界の中で幸せを得るために一番必要なのは「感覚の働き」です。それは全ての生き物において同じです。感覚の働きがなければ敵から逃げることも、食べ物を見つけることも、食べる事も、吸収することも、生殖することも出来ませんからね。その感覚の働きが全て消えた状態を「死」と言います。死んでも肉体は残りますが、もう何も出来ません。そして、その「感覚の働き」にも色々とあります。心を持たない生き物たちは「肉体を維持するための感覚」しか持っていません。原始的な生き物はその「からだの感覚」に従って生きています。それらの生き物の行動は全て反射です。でも、脳を持っているもう少し高等な生き物になると、「からだの感覚」以外の感覚も持っています。それは、他者との関係性を感じるための感覚能力です。特に群れを作る生き物たちは、この「他者との関係性を感じるための感覚能力」がなければ「群れ」を維持することが出来ません。いわゆる「五感」(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)と呼ばれるものは、直接自分自身に伝わってきた感覚を感じるためのものですが、その「他者との関係性を感じるための感覚能力」は、肉体に備わった五感の働きとは別のものです。それは「心の感覚」とも呼べるものです。時間や空間を感じる能力も「心の感覚」です。ただし、その生き物たちの「心」は、「心の原点」ではあっても、私たち人間の「心」と同じものではありません。それは一般的に「本能」と呼ばれているものです。でも実は「本能」も「心」の一部なんです。私たち人間にも本能がありますよね。お腹が空いている時に美味しいものを見ればヨダレが出てそこから意識が離れなくなります。また、大好きな異性が近寄ってきたらドキドキします。その反応自体は本能なんですが、本能も「心」の一部なので私たちはその「本能の反応」を「心の反応」として感じるのです。本能が動けば「心」も動くのです。でも、「人間の心」は人間以外の動物たちの「心」とは少し異なっています。人間以外の動物たちの心を支配しているのは主に本能ですが、「人間の心」には本能以外の要素が含まれているからです。私はそれが「魂」と呼ばれるものなのではないかと思っています。その「魂の働き」が育っている人は、本能に振り回されません。でも、人間でも「魂の働き」が育っていない人は本能に振り回されやすいです。精神的な自立も困難になります。「真・善・美」と呼ばれるものを感じるのも「魂の働き」です。「本能」は「生存に必要なもの」ですが「魂」は「成長に必要なもの」なんです。動物たちは感覚と本能にだけ従って生きています。犬や猿やイルカなどは「心」を持っていると言われていますが、そんな彼らでも、基本的には本能に従って生きているだけで「心の成長」を求めません。「心の成長」を求めるのは「魂の働き」に目覚めた人間だけなんです。問題は、「からだの感覚」や「本能」はほぼ「生まれつき」ですが、「魂の働き」や「魂の感覚」は生まれつきではないということです。そのため、「魂の働き」や「魂の感覚」が育たないまま、肉体だけが成長してしまう人もいます。そのような人は本能に従って生きています。そして、利害損得ばかりを求め、心の成長を求めません。「真・善・美」などというものにも興味がありません。でも実は、人間はみんな「魂の働き」や「魂の感覚」といったものを持って生まれてきているのです。でも、生まれたばかりの時にはそれは深いところに眠ったままなんです。それはどういうことかというと、例えば、「性欲」と呼ばれるものは生まれたばかりの赤ちゃんのからだの中にも本能として組み込まれています。でも、思春期にならないと目覚めないですよね。それと似ています。ただ「性欲」の方は肉体の成長と共に自然に目覚めますが、「魂」の方は子どもの周囲にいる大人が目覚めさせてあげないと目覚めないのです。子どもの成長における「7才まで」という時期は、その眠った状態の魂の働きを目覚めさせる時期でもあるのです。だから、7才前の子どもには美しいものを見せ、美しい音を聴かせ、心に響く物語を聞かせ、人とつながる喜び、学ぶ喜びを伝え、「生まれた来たこと」と「自分の成長」を喜ぶ心を育ててあげる必要があるのです。そのような体験が子どもの「魂の働き」や「魂の感覚」を目覚めさせてくれるのです。この「魂の目覚め」があるから、子どもは思春期が来た時に自立して生きていくことが出来るようになるのです。
2024.06.09
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ネットで「子どもなのに骨や関節がおとろえる!?」(NHK NEWSWEB)という記事を読みました。これは私自身も実感していることです。その記事の中である小児科医の先生が(整形外科医 林承弘さん)「中高年の問題だと思われていた、足や腰(こし)などがおとろえてちょっとした動作で転んだり骨折しやすくなる。そういったものを『ロコモ』って言うんだけど、それが君みたいな子どもにもおこってきているんだよ」ということを言われています。今、子ども達の「からが」非常に困った状態になってしまっています。でも問題は「からだ」だけではありません。「からだの状態」はそのまま「心の状態」や「意識の状態」や「思考の状態」や「意志や気力の状態」と密接につながっているからです。実は、「若者らしい心」は「若者らしいからだ」が作りだし、「老人らしい心」は「老人らしいからだ」が作りだしているのです。「10才だから10才らしい心を持っている」ということではないのです。だから、「若者みたいなからだ」を維持できている人は実年齢は老人でも心は若者に近いのです。逆に、子どもであっても「老人のようなからだの子ども」は、老人のように感じ、考え、行動するのです。そのような状態の子は、新しいことに挑戦しようとしません。面倒くさいこと、疲れることにも挑戦しません。そしてすぐに、「面倒くさい」、「かったるい」、「疲れた」などと言います。最近の子は、ちょっとからだを動かしただけですぐに疲れてしまうのです。あきらめも早いです。そして、老人のように、自分の将来に希望を感じる事が出来ません。「大人になったら何がしたい?」と聞いても「普通のサラリーマン」と答える子が多いです。「普通のサラリーマン」がどういうものか知らないのに・・・。「大人になったらズーッとゲームばかりやっていたい」などと答える子もいます。テレビで華々しい活動をしている職業にあこがれる子は多いですが、「その職業に就くためにはどれだけ努力しなければいけないのか」ということは知りません。「考え続ける気力」も弱いでです。ちょっと考えて分からないと簡単に「ワカンナイ」と言います。ちゃんと見ようとせず、先入観だけで判断します。好奇心も低下しています。自然の中に連れて行っても、自然に興味を示しません。だからすぐに退屈します。機械の扱い方は上手ですが、機械の仕組みには興味がありません。2,30年前には壊れたラジカセなどを拾ってくると分解して遊ぶ子も多かったですが、今ではそういう子は皆無です。機械の中身には全く興味がないのです。また、分解も出来ません。心の働きや、意識や、思考や、意志や気力といったようなものは、年齢が上がれば勝手に「その年らしい状態」に育って行くわけではないのです。体験や学びがないと、年齢が上がって見かけは成長しても中身は成長しないのです。ちなみに、私が「からだ」とひらがな表記しているのは、その「中身」のことです。でも、見かけは成長しているので、中身が育っていないことに大人達が気付かないのです。また、気付くような場もありません。歩かない生活をしていたら、長い時間歩けなくなっていても気付かないですよね。考えなくてもいい生活をしていたら、考える能力が育っていなくても気付かないですよね。集中を必要とするような活動をしないのなら、集中力が育っていなくても気付かないですよね。その「からだ」つまり「中身」は、様々な「からだの活動」を通してしか育たないのです。集中力を育てたいのなら「集中を必要とするような活動」を「遊び」という形でいっぱい遊ぶ必要があるのです。体力や気力を育てたいのなら、体力や気力を必要とするような遊びをいっぱいやる必要があるのです。ただし、人に命令されてやるのではなく自分の意志でやる必要があります。だから「遊び」という形でやることが必要なんです。「木登り」や「コマ回し」といった遊びはかなりの集中力がないと出来ません。でも今その「面倒くさいからだの活動」を代わりにやってくれる便利な機械がいっぱいあります。そして、そういう「便利な機械」に慣れてしまった子ども達は、自分でやるよりも機械にやってもらう方を選びます。ヒモを巻くのが面倒くさいベーゴマよりも、機械が簡単に回してくれるベイブレードの方を好むのです。
2024.06.08
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人間の子どもは「何も知らない」「何も出来ない状態」で産まれてきます。でも、非常に高度な「見て学び、やって学ぶ能力」を持っているので、最初は何も知らない、何も出来ない状態でも大丈夫なんです。まただから、人間は自分が置かれた環境に適応して、多様な言語や、多様な技術や、多様な身体能力を身につけることが出来るのです。そのため、子ども達は周囲にいる人たちから貪欲に学ぼうとしています。大人が教えたから学ぶのではなく、自分の中で必要性を感じたから学ぶのです。言葉の学習でも、日常生活の中で言葉が使われていなかったり、積極的に子どもに話しかけていなければ、「お勉強」として言葉を教えても、子どもは「自分の言葉として使える言葉」を学ぶことは出来ないのです。「お勉強」という形で学ぶことが出来るのは「知識としての言葉」だけです。そして、学校で教えているのもこの「知識としての言葉」です。でも、「知識としての言葉」は、自分自身の思考のための道具としては使えないのです。また、他者との対話でも使えません。そして、「知的な学習」はその子の「言葉の能力」と密接につながっています。そのため、「未熟な言葉」しか持っていない子は「未熟な学び」しか出来ないのです。これはもう確認された事実なんです。学びの基礎となるのは言語能力――「3歳までの子育て」が大切なわけだから、子どもの知的な能力の育ちを支えたいのなら、幼いうちから「お勉強」をさせるのではなく、色々なことについて、色々な体験をしながら、いっぱい色々なお話をした方が効果的なんです。知識を覚えさせるよりも前に「言葉を使う能力」を育てる必要があるのです。(発話が遅いからといって知的な育ちが遅れているということではありません。自分からは話さなくても、こちらが言っていることが理解出来ているのなら大丈夫です。)小さい時はテレビに任せ、ちょっと大きくなったらyoutubeやゲームに任せていては、いくら塾に通わせて勉強させても「知的な育ち」は期待できないのです。そんな「子どもの学び」は「必要に応じて」が原則です。そしてその「子どもにとって必要なこと」は、子どもの成長に伴って変化していきます。赤ちゃんのうちはお母さんからいっぱい学ぼうとします。それが、「生存のためにお母さんを必要とする赤ちゃんという時期」に必要なことだからです。そして「お母さんから学んだこと」が、子どもの「人間としての基礎」になります。3才頃までに「お母さんから学んだ言葉」や「お母さんと一緒に体験した」ことが、子どもの思考や感性の土台になっていくのです。「三つ子の魂百まで」は迷信ではないのです。その次の段階として、社会性が育ち始め、仲間と群れて遊ぶようになってくると、子どもは仲間や年上の子から学ぼうとします。親ではなく、仲間や先輩がお手本になってくるのです。9才頃からは、仲間だけでなく大人や社会の影響を強く受けるようになってきます。ただし、大人や社会とのつながりがある子の場合ですけど。「伝記や物語などの本の中の人物」からも影響を受けるようになってきます。ただし、本を読むのが好きな子の場合ですけど。子どもの成長と共に「必要なもの」が変わってくるので、それに応じて子どもが積極的に学ぼうとする対象も変わってくるのです。でも、いつも一人で遊んでいて、仲間との関わりがない状態で育っている子は、当然のことながら仲間から学ぶことが出来ません。大人や社会とのつながりがなく本も読まない子は、大人や社会から学ぶことが出来ません。そして「お母さんから受け継いだもの」だけで生きていかなければならなくなります。でも、今、それすらもない子が増えて来ています。
2024.06.07
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昨日、車を運転しながらニュースを聞いていたら「すすきの」での猟奇的な事件の裁判のことが流れていました。そこで語られていたのは「歪んだ家族関係」と、犯行を起こした当事者の娘「田村瑠奈」の異常な支配欲です。YAHOOニュースの記事によると、その「田村瑠奈」は以下のように育てられたそうです。そもそも幼少期から両親は一人娘である瑠奈被告に対し、一切叱ることもなく溺愛し、成人してもすべて娘の言いなりとなっていた。でも、このような「溺愛する子育て」をしている人はいっぱいいますよね。「お母さんに命令し、王様や王女様のように振る舞っている子ども」も時々見かけます。でもそういう子に限って、お母さんがいない時にはビクビクしています。ニュースでは「田村瑠奈」の異常性ばかりが語られていましたが、でも私は、その異常性の中に「田村瑠奈の子どもの頃の寂しさ」を強く感じてしまいました。子どものルナちゃんは、寂しくて、寂しくて、どうしようもなかったのではないかと思ったのです。でも、お父さんもお母さんもその寂しさが分からなかったのでしょうね。「子どもの要求に従い、子どもの好きにさせていれば子どもも喜び、子どものためにもなる」と思い込んでいたのでしょうか。でも、そのような子育てをしているお母さんやお父さんは、子どもの目には「自分」というものを持たない「カオナシ」という妖怪と同じです。人格を持たない「子どもの言いなりになるナニーロボット」と同じと言ってもいいかも知れません。確かに子どもは、自分の欲望や要求が満たされれば一時的には喜びます。それを見た親は、子どもが荒れた時はまた子どもの欲望や要求を満たしてあげることで子どもの気持ちを静めようとします。でもそれは「本当に子どもが求めているもの」ではないのです。子どもが本当に求めているのは「お母さんやお父さんとの心が通った関わり合い」なんです。そのため、お母さんやお父さんがしっかりと「子ども」と向き合わずに、子どもの欲望や要求を満たしてあげることばかりに夢中になっていると、子どもはそんな勘違いしている親にいらつき、無理難題を要求したり、家庭内暴力を起こすことでなんとか自分の方に振り向かせようとするのです。買って欲しいと言って買ってもらったものでも平気で捨てたりもします。また、そのような子育てを受けていると、子どもは「心の成長に必要なもの」を得ることが出来なくなってしまので「心の成長」が止まってしまいます。幼い子どもの心のまま体だけが大きくなってしまうのです。子どもが本当に欲しいのは「物」でも「従属」でもないのです。ゲームなどでもありません。本当に欲しいものが満たされないから、その「代わり」を求めているのです。でも、「代わり」では心が満たされません。だから、どんどん欲望や要求がエスカレートしていってしまうのです。そして、子どもの頃には家族内で収まっていた「欲求不満による問題行動」は、子どもの成長と共に社会的な犯罪行為へと移行して行きます。万引きやイジメという形で表れる子もいます。SNSなどで「イイネ」をもらうために過激なことをしてしまう子もいます。自己肯定感が低くなり、自傷という形で自分に向けてしまう子もいます。「悪人」として産まれる子はこの世に一人もいないのです。親や周囲の人にちゃんと受け止めてもらえないから、他の人を困らせて喜ぶ悪人に育ってしまうのです。そんな子どもの要求は本当にシンプルです。難しいことなんか何にもありません。一緒にいてくれる。一緒に笑ってくれる。手をつないで歩いてくれる。ご飯を一緒に食べてくれる。ちゃんと目を見て、顔を見て話してくれる。色々なことを教えてくれる。話を聞いてくれる。待ってくれる。一緒にいる時間を楽しんでくれる。「子どもとして」ではなく「人間として」大切にしてくれる。間違ったことや危ないことをした時にはちゃんと叱ってくれる。お母さんの身勝手を押しつけるような叱り方は子どもも嫌いですが、子どもの安全や成長を守るために叱るのなら、その時は泣いたり暴れたりしてもそのことでお母さんを嫌いになることはないのです。むしろ信頼するようになるのです。いつもでなくてもいういのです。こういうことの大切さを知って、可能な範囲でこういうことを心がけていれば、子どもは心が満たされて自立できるように育って行くのです。
2024.06.06
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現代人の多くが「競争に勝たないと幸せになることが出来ない」と考えています。だから、多くの人が子どもの幸せを願って子どもを追い立てています。まただから、子育てなんかでも助け合うことが出来ません。なんせみんな競争相手ですからね。みんなで助け合って子育てすれば、子育ては楽に、楽しく、そして大人にとっても子どもにとっても「学びの場」になるのに、みんな一人で「子育て」を抱え込んで苦しんでいるのです。これは社会全体の価値観が「つながり」よりも「個」を重視するようになってきたからなのでしょうか。問題は、社会の方は「個」を重視するようになってきたのに、「個」を育てるような子育てや教育の方は少しも進歩してこなかったことです。(教えられる人がいないのですから・・・)だから、精神的な自立が確立されず「個を生きる能力」が育っていない子がいっぱい育ってしまっているのです。実際、こんなにも「自由」が許されている社会に生きているのに、「自由」を謳歌して幸せに生きる事が出来ている人は少ないのではないでしょうか。多くの人が、私の教室の子ども達と同じように、何をしたらいいのか分からず戸惑っています。だから「人目」を気にして「人目」に振り回されてしまうのでしょう。またそのような人は、「つながりから切り離された個」という状態に不安を感じているので常に「何か」や「誰か」に依存しようとしています。「競争」に参加することでつながろうとしている人もいっぱいいます。他の人を否定することでつながろうとする人もいます。有名人を否定することで有名人とつながることが出来たような錯覚を感じる人もいます、でももし、本当に「個」を大切にしているのなら、他人の評価に基づく競争などには参加しないはずです。他の人を否定することで自分の存在感を演出しようなどとはしないはずです。実は、子育てで一番大切なことは「競争に勝つ能力」を育てることではなく「子どもの自立」を支えてあげることなんです。そしてこれは人間だけでなく、子育てをする全ての生き物に共通した原則です。そうでないと種が絶滅してしまうのですから。それが子どもを育てる意味でもあるのです。「競争に勝つ能力」も「自立する能力」として必要なものは親が子に伝えますが、単に「勝つことだけを目的としたような能力」を育てるようなことはしません。そんなことをしているのは人間だけです。また、「自立して生きていく能力を育てる」ということは、「一人ぼっちで生きていく能力」を育てることではありません。人間の社会は「人と人のつながり」によって支えられています。そのような社会で自立して自由に生きて行くためには「他の人とつながる能力」が必要になるのです。水の中にいるのに水を嫌っていたら泳げずに溺れてしまうのです。「仲間と助け合う能力」が育っていない子は自立できないのです。でも現代社会では、多くの人が自立よりも競争に勝つことの方を重視しています。確かに、自然界では競争に勝つことも自立には必要なことではあります。でも、それ以上に大切なのは仲間と助け合う能力を育てることの方なんです。実際、どんなに高い能力を持った人でも自分一人では生きていくことが出来ないのです。競争に勝ってもみんなから無視されたら生きていけないのです。逆に、それほど高い能力を持っていなくても、仲間と助け合うことで偉大な仕事が出来てしまうこともあるのです。
2024.06.05
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現代人は疑り深いです。それは現代社会には人を騙そうとする人がいっぱいいるからなのでしょう。メールなどでも毎日怪しいメールが山のように届きます。そういうメールはフィルターが自動的にゴミ箱に振り分けてくれているので問題は起きていないのですが、ちょっとしたことでも疑り深くなってしまいます。買い物でもインチキサイトが山のようにあります。(特に中国系)現代社会ではすぐに人を信じるような人は、あっという間に身ぐるみをはがされてしまうのです。テレビの言うこと、国の言うこと、学校の言うこと、幼稚園の言うこと、医者の言うことも、まずは疑ってかかる必要があります。テレビや国が「あなたのために」何かを言うことは100%ありません。テレビはテレビのために、国は国のために存在しているのですから。学校や幼稚園や医者の先生の場合は先生次第です。あなたのために言ってくれる人もいますが、そうでない人もいます。そして実際にはそうでない人の方が多いです。でもこんな時代でも、疑うことを知らず他の人のことを100%信じようとする人たちもいます。それが幼い子ども達です。幼い子どもは100%お母さんを信じています。でも、子ども自身はそんなこと意識していません。幼い子どもは、“君はお母さんを信じているの?”と聞かれても答えられません。だって、それしか知らないのですから。それは、“死”というものを知らない人に、“死ぬのは怖くないですか”と聞くのと同じ事です。人が何かを“信じている”と言う時は、その反対の“信じていない”という可能性についても知っている時なのです。お母さん達が素直に子どもを信じることが難しいのはそれまでの人生で“信じることが出来ない”状況をいっぱい体験したからなのです。だから“証拠”が欲しいのです。信じて裏切られてしまうことが恐ろしいからです。「子どもに任せてみたら」と言われても、「任せてうまく行かなかったらどうするの!」と考えてしまう人は任せることが出来ないのです。でも、「信じる」と言うことは「任せる」ということでもあるのです。実際、幼い子どもは生命もからだも丸ごとお母さんに任せていますよね。神様を信じると言うことは“神様に任せる”ということです。それは観念的な理屈でも、信念や思想でもありません。そして、“子どもを信じる”ということもまた“子どもに任せる”ことなのです。ただし、“子どもに任せる”といっても、子どもの好き勝手にさせることではありません。子どもの内側で働いている命の働きや成長への欲求を信じるということです。お母さんは子どもの代わりに体験することは出来ません。子どもの代わりに学ぶことは出来ません。子どもの代わりに喜んだり、苦しんだりすることはできません。子どもの代わりに子どもの人生を生きることも出来ません。だから、そういうことは子どもに任せてしまうしかないのです。そして、子どもの選択した結果は素直に受け入れます。そして、子どもが喜んでいる時には一緒に喜び、子どもが苦しんでいる時には一緒に苦しむのです。“お母さんが言った通りにしないからケガをしたじゃない”などとは言わないのです。お母さんが注意することは大切です。でも、今ケガをして泣いているのなら子どもがその痛みや悲しみ耐えることが出来折るように共感して支えてあげて欲しいのです。その痛みや苦しみに耐えることは子どもにしかできないことだからです。だからお母さんに出来ることはその子どもを支えてあげることだけです。そのようにお母さんに支えてもらうことで、子どもはその痛みや苦しみを乗り越えることが出来るのです。その力を信じ、子どもに任せることが“子どもを信じる”ということなのです。
2024.06.04
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私はよく「子どもを待ってあげて下さい」ということを言っています。でも、待つためには信じる必要があるのです。信じることが出来ないから待てないのですから。でも一般的に、人が何かを信じるためには何か「根拠」が必要になります。これは宗教でも同じで、神を信じるためには「聖書」という根拠が、仏を信じるためには「お経」(仏典)という根拠が必要になります。でも、「幼い子どもの成長を信じる根拠」などどこにも存在していません。だから、お母さんは子どもの成長に不安を感じ、「自分がちゃんと仕付けないと」と頑張ってしまうのでしょう。また、待てなくなってしまうのもそのためでしょう。でも、待つために根拠が必要になるのは大人の話です。実際、幼い子ども達は何にも根拠がないのに「お母さん」を信じているのですから。幼い子ども達は、本能的に「お母さんは私を守ってくれる」「私を愛してくれる」ということを100%信じているのです。そしてそれはお母さん自身も感じているはずです。だからそれを利用して子どもをコントロールしようとしたりする人もいるのです。ではどうして、幼い子ども達は何の根拠もないのにお母さんを信じることが出来るのでしょうか。大人は何かを信じる時には根拠を求めるのでしょうか。これは大人と子どもとでは「世界とのつながり方」が違うからなのです。大人は意識と知識で世界とつながっています。だから、何かを信じるためには意識や知識を納得させるだけの根拠が必要になるのです。でも、幼い子ども達は、命の働きや、感覚や、からだで世界とつながっています。そして、命の働きや、感覚や、からだの働きには「疑う」という機能がないのです。ファンタジーが生まれてくるのもそのためです。お風呂に入って「あーあったかい」と感じている時に、「これは本当に温かいのだろうか?」などと疑う人はいませんよね。「百聞は一見にしかず」ということわざもありますが、情報を聞くだけでは信じることが出来なくても、実際に見てしまえば信じるのです。そして子ども達が、人を信頼し、人と人のつながりに身を任せることが出来るようになるのは、子ども達が、この命の働きや、感覚や、からだで世界とつながっている間だけなんです。モラルの基本が育つのもこの頃です。(7歳前後)でも、大人達がこの時期の子どもに知的な勉強を押しつけてしまうと、「信じる能力」が育つ前に「疑う能力」が目覚めてしまうのです。なぜなら、一般的に「知的な学び」は、部分を全体から切り離すことで成り立っているからです。その結果、根拠がないと信じることが出来なくなってしまうのです。「信じる能力」が育つ前に「疑う能力」が目覚めてしまった子は、「自分」を信じることも出来なくなります。その結果自己肯定感も低くなります。よく「根拠がない自信が大切だ」と言われますが、根拠がなくても自信を持つことが出来るようになるためには「つながりを感じる能力」が必要になるのです。「支えられている」という感覚があるから自分に自信を持つことが出来るのです。
2024.06.03
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「命」というものは動的なものです。時間の流れの中に存在しているものであって、時間の流れから切り離して観察しようとしたら消えてしまうものです。私たちが生きている世界は全て「時間の流れの中」の中に存在しています。でも、知識の世界には「時間」は存在していません。時間の順に並べることは出来ますが、動きそのものを扱うことは出来ません。人間の意識は、動いているものを「動いている状態のまま」扱うことが出来ないからです。「コップ半分の水」という有名な話がありますよね。「コップ半分の水」を見て「まだ半分ある」と発想する人は「ポジティブ思考の人」で、「もう半分しかないと見る」人は「ネガティブ思考の人」だと説明するあれです。そして「ポジティブ思考」をするためのハウツー本もいっぱい出ています。でも実は、私にはこの「ポジティブ思考」と「ネイティブ思考」というもの自体がよく分からないのです。両者とも目の前の状況を勝手な思い込みで見ているだけですから。「ポジティブ思考」も「ネイティブ思考」も、目の前の現実をちゃんと見ていない思い込みに過ぎません。「ポジティブ思考」と「ネイティブ思考」は写真のネガとポジの関係のように正反対ですが、実際には、正反対であるが故に本質的には同じものなんです。そんな思い込みに囚われているから自由になれないのです。「自己肯定感が低い」とか「高い」とい考え方も同じです。「自己肯定感」などというものは勝手な思い込みに過ぎません。それは、自分の脳が勝手に創り出した妄想に過ぎないのです。本当に「今起きていること」を知ろうとするのなら、「時間の流れ」と「流動的に変化している周囲との関係性」の中でコップの中の水の意味を考えるしかないのです。時間を止めても、つながりを無視しても「本当のこと」は見えなくなってしまうのです。周囲の世界から隔離し、時間を静止した状態でコップの水の量を云々しても意味がないのです。それは現実的な思考ではありません。ゼロから増えてきて半分になったのか、満杯が減って半分になったのか。その水は自分でくんだのか、誰かが入れたのか。水道の水なのか、雨が溜まった水なのか。そういうことも含めて「コップ半分の水」の意味を考えないことには意味がないのです。大事なことは「ポジティブに考えるか」でも「ネガティブに考えるか」でもなく「正しく考える」ことなんです。その結果「もう半分しかない」という判断が正しいこともあるでしょう。でも、ポジティブ思考信仰に染まっている人は、そのように考える人を「ネガティブだ」と否定します。そして対応を誤ります。自己肯定感の話でも、大事にすべきなのは「自分が自由であるか、ないか」だけであって、「自己肯定感が高いか、低いか」ではないのです。そんなことどうだっていいのです。自己肯定感などという、脳が勝手に創り出した幻想に囚われているから身動きが取れなくなってしまうのです。目の前の子どもの状態を見て、「まだ○○も出来ない」「もう○○も出来るようになった」と考えるのも同じです。子どもの成長は時間の中で展開しているので、「コップ半分の水」の例えのように、今、目の前の状態だけを見て云々しても意味がないのです。子どもの時「悪ガキ」でもそのまま「悪い大人」になるわけではないのです。子どもの時「よい子」でも、そのまま「よい大人」になるわけではないのです。だから、子どもの「今の状態」だけで、一人の人間としての子どもを勝手に評価してはいけないのです。ちなみに、子どもの時「悪ガキ」でも、色々な大人と関わり、様々な体験をすることで精神的に自立することが出来れば、「素敵な大人」になることが出来る可能性が高いです。逆に、子どもの頃「よい子」でも、大人の指示に従ってばかりいて精神的な自立が出来なくなってしまったら、「困った大人」になる可能性が高いです。私たちは「流れている時間」の中に生きているのです。(物理学的には流れていないようですけど・・・)ですから、常に全てが動いているのです。目の前の石も、大地も、木々も、宇宙も、動き変化しているのです。相互の関係性もその動きの中で生まれています。それを時間から切り離して考えてみても、脳内遊びとしては楽しくても、現実的には意味がないのです。また、時間から切り離してしまうから関係性も見えなくなってしまうのです。学校で学んでいる知識も時間の流れから切り離されたものです。私たちの意識は静止しているものしか捉えることが出来ないように出来ているので、「ありのままの現実」を扱えないのです。でも、命の働きとダイレクトにつながっている心やからだは、動いているものをそのままの状態で捉え、扱うことが出来るのです。だから頭だけで考えずに、心やからだも使って考える必要があるのです。頭だけで考えてしまうから現実が見えなくなってしまうのです。AIは頭だけの存在ですから、現実を解析することは出来ても、現実を観ることは出来ないのです。
2024.06.02
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若者による「遊び半分の迷惑行為」が増えて来ました。遊び感覚で犯罪行為をする若者も多いです。遊び感覚でイジメや万引きをする子ども達もいます。先日、テレビを見ていたら、自分たちで騒ぎを起こして、自分たちで警察を呼んで、やって来た警察から逃げるのをゲームとして楽しむ若者のことをニュースで流していました。危険な行為や迷惑行為や犯罪行為を起こして、それを動画にとってSNSにアップする若者も多いです。全く意味不明です。スマホを見ながら歩いたり自転車に乗っている人も普通に見かけます。自転車で迷惑行為をする人、自動車で迷惑行為をする人のニュースも後を絶ちません。大人でもカスハラ行為をする人が増えて問題になっています。また、飲食店などに大量に予約を入れて武断でキャンセルする人もいるようです。これも遊びなんでしょうか。20年くらい前から「モンスター○○」と呼ばれる人たちが増えて来たことも若者達のこのような状態に関係しているのかも知れません。一般的にこのような状態は「モラルの低下」という言葉で表現されるのかも知れません。ではその「モラル」とは一体何なんでしょうか。「モラル」は明文化されていません。感覚的なものです。他者に期待することは出来ても強制することは出来ません。「社会を共有している仲間達に対する自発的な思いやり」のようなものです。ですから、「人と人のつながり」の中で育った子は、自然とモラルも育ちます。家族がつながり合い、共に助け合って生活しているのなら、子どもも自然と「家族内のモラル」を守るようになるでしょう。でも、家族もバラバラ、他の子や他の大人とのつながりも希薄な状態で育っている子に「モラル」を求めても無駄なんです。道徳教育は全く無意味です。でも困ったことに、現代社会ではそういう状態で育っている子が多いのです。若者達のモラルの低下はその結果に過ぎません。それはそういう社会や家族を作っている大人の問題なのですが、問題行動を起こして非難されるのは子ども達です。でも、そういう子ども達は、非難されても何で非難されているのか分からりません。
2024.06.01
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