*Muku* Blog
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近日公開される映画「ライフ・オブ・パイ」の原作「パイの物語」を読んだ。 「あんたが神を信じたくなるような話を知っているよ」1996年、カナダ在住の著者ヤン・マーテルは、執筆先の南インド(ボンディシェリ)で、ひとりの老人フランシス・アディルバサミから動物園経営者の息子16歳のパイ・パテルが辿った数奇な運命の物語を聞く。1976年2月、タミルナードゥ政府がデリー連邦政府によって倒され政権交代が起こる。CITES(絶滅の恐れのある種の国際取引に関する条約・・通称ワシントン条約)によって捕獲された野生動物を売り買いする窓口が閉ざされてしまい、パイ・パテルの父親が経営するポンデシェリ動物園は店じまいをすることになる。大半の動物はアメリカ各地の動物園に引き取られる運命になる。パイ・パテル一家は新天地を求め、動物たちを連れカナダへの移住を決意する。1977年6月2日、カナダ・モントリオールを目指し、パナマ船籍の日本の貨物船「ツシマ丸」は動物たちを乗せマドラスを出航するが、7月2日太平洋上で嵐に巻き込まれ沈没する。(舟底で爆発音がある)たった一艘しかない救命ボート(全長8メートル)に乗り助かったのは、ヒンドゥ教徒で菜食主義者のパイ・パテル16歳、後脚を骨折したシマウマ、オラウータン、ハイエナ、そして凶暴なオスのベンガルトラだった。広大な海洋にポツリと浮かぶ命の船、わずかな非常食と水、1人と4頭の壮絶なサバイバル漂流が始まる。 【絶対優位者が誰かを思い知らせる】 遭難日1977年7月2日~1978年2月14日メキシコ・トマトランの海岸で救助されるまでの227日間に及ぶ前人未到の漂流生活、生死を懸けたトラとの共生、途中漂着するミーアキャットの島(肉食植物が生息する)など、祈り、孤独、恐怖、勇気、愛、希望、絶望、生への執着、無我・・・(原型となる話は存在するらしい)フィクションでありながらも超スリリングで哲学的なこの冒険物語に深く感動した。巻末、日本国運輸省海運局の職員2名が、消息を絶った「ツシマ丸」の調査の件でトマトランで治療を受けていたパイ・パテル少年に接見するが、この壮絶なドラマに隠匿されたもうひとつの(人間の修羅)サバイバルストーリーに言葉を失う。何を信じるかは読者の選択しだい・・。 でも、私はパイ・パテルとベンガルトラの奇跡の物語を信じたいと思う。 (本文より抜粋)事実を知らない人は野生動物は「自由」だから「幸せ」だと思ったりする。こういう人たちはたいてい頭の中で、ライオンやチータといった大きくて見栄えのいい捕食動物を思い浮かべている。(ヌーやツチブタが称賛されることはまずない)。そういう動物が、潔く自分の運命を受け入れた獲物を食べたころや、わが子を愛情のこもった目で誇らしげにながめたり、一家そろって木の上で、沈みゆく夕日を満足そうにながめたりするところを想像するのだ。野生動物の生活は質素で、気高く、無意味なものはないのだと。それがやがて、悪い人間たちにつかまって、せまい檻のなかにほうり込まれる。動物たちの「幸せ」は打ち砕かれる。動物たちは「自由」に恋いこがれ、逃げ出すためにあらゆることをする。あまりに長く「自由」を否定された動物は、生き生きとした心を破壊されて亡霊のようになってしまう。人々はそう考える。でも実際はちがう。野生動物は、常に危険と隣り合わせなうえに食糧が手に入りにくい環境で、上下関係の厳しい世界にがんじがらめに縛られて暮らしているのだ。縄張りは常に守らなければならず、寄生虫からは決して逃れられない。野生動物は空間的にも時間的にも、そして個々の関係においても決して自由ではないのだ。動物ば保守的だ。反動的だとさえいえる。わずかな変化にも動物は過敏に反応する。そして、常に変わらぬ世界を望む。動物にとって驚きは禁物なのだ。それは空間の占め方にも表れている。動物園であろうと野生であろうと、動物はチェス盤上の駒のように空間を移動する---その動きには意味がある。トカゲやクマやシカの空間の占め方は、チェス盤上のナイトの位置や動き方と同様、偶然でもなければ「自由」でもない。どちらにも形式と意味があるのだ。野生動物は来る年も来る年も、生存に関わる理由で同じ道を歩き続ける。動物園においては、いつもの時間にいつもの場所でお決まりの姿勢を取っていない場合は、なにかがあったということだ。もしも君がある家の玄関を蹴破って、そこに住んでいる人々を通りに追い出して、「行け!おまえたちは自由だ!鳥のように!さあ、行け!」と叫んだらとしたら、その人々は歓声を上げて踊りまわるだろうか? 否。 鳥は自由ではない。「わが家に勝るものはない」動物たちもそう思っているのだ。動物は縄張りを作る。それこそが動物の心を理解するカギだ。慣れ親しんだ縄張りのなかにいる時だけ、動物は二つの過酷な要求を満たすことができる。 敵を避けること。エサや水を手に入れること。生物学的にいえば、動物園のなかの囲い---檻、穴、堀に囲まれた島、珊瑚礁、ガラスの飼育槽、鳥舎、水槽を問わず---大きさが制限されたり人間の縄張りの近くにあったりはするが、一種の縄張りなのだ。その縄張りが、野生の状態よりもはるかに小さいことには理由がある。野生における縄張りが広いのは、好みの問題ではなくその必要があるからだ。動物園においては、ぼくたちにとっての家と同じようなものを動物に与える。野生の状態で広い範囲に散らばっているものを、ごくせまい空間に集めるのだ。ひとたび引越しの儀式が済んで落ち着くと、その動物は仮住まいだとか囚われの身だと感じるよりも、自分がここの主人だと思うようになり、野生における縄張りと同じように侵入者を全力で追い出そうとする。その動物にとって囲いのなかのすみかは、必要なものが与えられているかぎり、野生の時と比べて良くも悪くもない。自然のものだろうと人工的に作られたものだろうと、縄張りというのはヒョウの斑点のようにごく自然にそこにあるものなのだ。 ~ ~ ~動物を人間になじませることは、科学的にも芸術的にも動物園経営の核となるものだ。その中心となるのは、動物の心理的防衛距離を縮めることだ。動物が敵を察知した時に、置こうとする最小の距離のことを心理的防衛距離という。フラミンゴは270メートル以上離れていれば、人間がいても気にかけない。しかし、その境界を越えると、たちまち警戒し始める。もっと近づくと、フラミンゴの逃避衝動にスイッチが入り、ふたたび270メートルの距離が確保されるか、心臓と肺が機能を停止するまでその状態が続く。それぞれの動物の種類には独自の心理的防衛距離があり、その測定方法もさまざまだ。ネコは目で、シカは耳で、クマはにおいで判別する。キリンは、車に乗っていれば27メートルまで近づくことができるが、歩いて近づこうとすれば137メートルで逃げてしまう。シオマネキは9メートルまで近づくと逃げる。木の上のホエザルは、18メートルでそわそわし始める。アフリカ水牛は68メートルだ。心理的防衛距離を縮めるための道具は、動物に対する知識、エサとすみか、そしてできるかぎり保護してやることだ。それがうまくいくと情動的に安定し、ストレスから開放された野生動物ができあげる。そういう動物は逃げないだけでなく、健康で長生きし、文句もいわずによく食べ、おとなしく動物社会に順応し、なによりも子どもを産んでくれる。
2013.01.15