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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)修証一如 その6 わたしが熊本におった時、山の中の寺で坐っていた。五時半には人が集まってくるから、わたしは四時に起きねばならぬ。起きると掃除したり香を焚いて花をかえ、湯をわかしてみなに茶を飲ませられるようにしておいて、天からでも降ってきたような顔をして坐っている。だれも人を使っているのでないから、みな自分でしなければならぬ。 ところがあまり朝はやく起きすぎて、三時から起きたことがある。すると四時半頃になるとねむくなって、坐っていても頭が前の方に傾いて船をこぐ。そのときにもまた気まぐれな手合いがおって、四時頃からやってきて、コトコトとあがってくる。「あ、しまった」と思って、わたしは目を覚ましてチャンと坐り直すのだが、「そんなことで沢木どうするのだ」と、自分でも思うことがある。まったく人に見せようとか、見られまいとかという心がありがちである。本当に自分の修行なら、人が見ようが見まいが、我関せずやである。その自信が悟りである。だからただ修行の真実を、とくと吟味しなければならないのである。(『禅談』p.234-235)
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33 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 240ページ 明治38年3月30日に、五男の十郎が生まれた。この年には、また、前述のように福島県岩城郡小名浜に鈴木製塩所を設立した。そして低圧蒸発缶、多管内自働掃除装置、永久製塩装置、風力採から装置など、すべて製塩に関するものばかり14件を発明して特許を得た。 明治39年(1906年)は、日露戦役大勝の余勢で、わが国の産業革命も一大飛躍を遂げた年であるが、藤三郎にとっても、その運命に一大方向転換を与えた年であった。 藤三郎は明治22年(1889年)6月に、33歳で郷里の静岡県森町から東京の小名木川岸に工場を移して、鈴木製糖所と名づけた。それを明治29年(1896年)1月に資本金30万円の日本精製糖株式会社と組織を改め、その後、次第に増資して、明治38年(1905年)1月には、資本金400万円のわが国第一の精製糖会社にまで発展したのである。 ※蘭領爪哇嶋(オランダ領ジャワ島)旅行記 日本精製糖株式会社創立者 報徳社員 鈴木藤三郎 農談100号 1900年7月(一部漢字をひらかな化するなどして、読みやすくした。) 編者言う。本編は鈴木氏が帰朝の当時その親友の請いに応じ演説された中の一節で、特に本協会に寄せられたものである。今、氏が履歴中編者が知るところの一斑を左に序し読者をして氏が不世出の卓見を以て艱難辛苦をなめ百折不撓の精神を全うせし結果、今日あるに至りたる所以を知らしめ、氏が熱血、凝って遂に今回の探検を全うせし事を明らかにせん。氏は安政2年を以て遠江国周智郡森町太田某(文四郎、通称平助)家に生まれ、少(おさの)うして同町鈴木某(伊三郎)の子となり、その姓を襲(おそ)う。鈴木家、素菓子製造を以て業とす。氏、幼より、穎悟(えいご:才知がすぐれていること)大志あり。家もと富めるにあらざれば充分なる教育を受けたるにあらざれば、蛍雪の苦を積みて普通の学を修め報徳学を尊信し、これを新村豊作(新村有功員の父なり)岡田良一郎氏に学び、勤倹報徳の旨を固守し、得るところ甚だ多しという。たまたま野州桜町に二宮翁の碑成る《1882(明15)10月二宮尊徳27回忌法会》、よって有志とともにこれに臨み、翁が事業の蹟を実見し、慨然として、大いに経世の志を立て、帰路宇都宮に宿し《稲屋》、隣室に学生の理化学の討論を為すあり。試みにこれを聞けば、図らざりき、かつて志すところのところの氷砂糖製造法についての学論なれば、意豁然として得るところ多し。帰宅後、専心一意に考慮を凝らし縷々試験をなしけるに意の如くならざりければ、友人猪原吉次郎氏(医学士猪原吉郎氏の弟)が東京工部大学校に学生たりし時、上京して、同氏の研究せる業を見るを楽しみとして幇助を与えし事も少なざりしが、明治16年の春、遂に無色透明なる氷砂糖を創製するを得たり。これ我が国において無色透明なる氷砂糖を製するの始めなれば、氏が喜び譬うるに物なく、多年苦辛の甲斐有りというべき。氏はまずこれを東京虎の門なる猪原氏に贈りたれば、猪原氏はこれを学校に持ち行きたれば、一時校内の大評判となり、なかにもお雇教師アメリカ人某は大いに賞賛せられ、かくのごとき良品は本国にもいまだ見ざるところなればとてその国へ送られたりしとぞ。然りといえども、収支の計算あい償わざりしかば、一方には生産の費用を減じ、一方には売先を拡張する工夫をめぐらし、東京の砂糖問屋へ見本として、積み出したるも、何分事の創始に際し、いまだ信用厚からず、販路広からざれば思わしからず、かつ研究に貧財を残りなく費消しつくして無一物となり、製造に従事する事あたわざるの苦境に陥れり。ここに至りて、策の出ずべきなく、同町の出ずべきなく、同町の豪家福川泉吾氏が義侠心に富むをたのみ、一伍一汁(いちごいちじゅう:始めから終りまで)を説いて資本を借らんを乞いたりしに、福川氏快く承諾して資本を借しければ、16年の秋、森町に一工場を創設して製造に着手せしに、追々世間の好評を博し、価も福州産チリまじりなる黄褐色の氷砂糖よりは一割ないし二割も低廉に販売するヲ得たりしかば、需用の増加するに随い模造品も出て来たりしが皆久しからず失敗せり。氏思えらく、氷砂糖の結晶は我が意のごとく運びたるが、いつまでも香港製の白砂糖を使用し氷砂糖を製造してあらんには、いたずらに輸入増加を来すのみ。しかじ、方針を改めて粗製糖の精製に従事せんにはと、これより氷砂糖製造工場内に少部の精製糖試験場を設け、かたわら製糖に有益なる書類を求め、欧米の製法を実験せり。21年末に至り、ようやく若干の資本を積み得たれば、東京府下か小名木川に地を卜し、工場を建設して規模を広めることを得。かたわら小工場をも設立して諸種の小機械の注文を引受けてこれを製作するかたわら、製糖機械の改良を研究して大いに得るところあり。23年には北海道におもむき、テンサイ糖製造の実況を視察し、帰京の後、多年の苦辛にて己れが胸にたくわえたる製法にテンサイ製糖の一要部を折衷し、遂に粗糖精製の方法を案出したり。これにおいて翌24年中自己の考案に係る粗糖精製の機械を据え付け、いよいよ営業的の製造に着手せしが何分収支の点において償わざりしが、たわまず屈せずますます研究に怠らざりければ26年の末に至りて、苦辛むなしからず終に黒砂糖を原料として舶来糖に劣らざる再製糖を精製し得て収支もまた償うに至れり。同氏の喜び知るべきのみ。然るに不幸なるかな、27年3月20日工場、火を失して器械材料ことごとく灰燼に帰し、辛うじて居宅のみ災を免れたりしかば、一時は途方に暮れたりしか、さていつまでもかくてあるべきにあらねば、かねて交際ある長尾三十郎氏に謀りしが、氏快く資金運転の道を開き、直に工場の再建に着手し、器械をも改良し、その年の8,9月頃より引続き精製糖の製造なしつつあり、その後組織を改め、資本金30万株数、6,000株の株式会社として、28年10月1日許可を得たり。後幾千もなく拡張し資本金30万円を増し60万円となし、氏は常にその重役たり。今回の行や、至るところ、つぶさに調査をなし、その記録数巻をなしたり。また氏は絵画をよくし、ことに肖像画に巧みなれば、至るところ、風景面語する人多く抽きて記録中にありという。
2025.11.17
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二宮翁夜話巻之1【11】 ある儒学者が尊徳先生に言った。「孟子はやさしいが、中庸は難しい」と。尊徳先生はこうおっしゃった。「私は、文字の事はしらないが、これを実地正業に移して考える時は、孟子は難しく、中庸はやさしい。なぜかといえば、孟子の時代には、道は行われず、異端の説が盛んであった。だからその弁明をするため、道を開いたのだ。従って仁義を説いて、結局仁義そのものの実践からは遠ざかっている。あなたたちがが孟子をやさしいといって孟子を好むのは、自分の心に合うためだ。あなたたちが学問する心は、仁義を行おうとするために学んでいるのではない、道を実践するために修行しているのではない。ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それだけで学問の道は足りるとしている。議論が達者で、人を言い負かしさえすれば、それだけで儒者の勤めは果たしたと思っている。聖人の道というものが、どうしてそのようなものだろうか。聖人の道は仁を勤めることにある。五倫五常を行うにある。どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。人を言い負かすことをもって勤めとしようか。孟子はすなわちこれである。このようなことを聖人の道とする時は大変に難道である。容易には実行しがたい。だから孟子は難しいというのだ。中庸は通常・平易の道であって、 一歩より二歩、三歩と行くように、近きより遠きに及んで、低い所から高いところに登り、小より大に至る道であって、誠に行いやすい。たとえば100石の収入の者が、勤倹を勤めて、50石で暮し、50石を譲って、国益を勤めることは、誠に行いやすい。愚夫・愚婦にもできない事はない。この道を行えば、学ばないでも、仁であり、義である。忠であり、孝である。神の道、聖人の道が一挙に行われるであろう。とても行いやすい道である。だから中庸というのだ。私が人に教えるのに、私の道は分限を守るをもって本とし、分内を譲るをもって仁とする と教える。なんと中庸であって、行いやすい道ではないか。 □二宮先生語録【204】程子が孔子と孟子とを比較して、玉と氷とになぞらえたのは、至当と言うべきだ。孔子が衛の霊公に答えた言葉(1)と孟子が梁(りょう)の恵王に答えた言葉とを比較すれば、玉と氷との区別がはっきりとわかる。(1) 論語、衛霊公篇に、「衛の霊公、陣を孔子に問う。孔子こたえて曰く、『爼豆(そとう)の事は即ちかつてこれを聞けるも、軍旅の事は未だこれを学ばざるなり。』と。明くる日遂にさる。』とある。 すなわち孔子は、ひたすら仁の本質を説き、王に行わせようとして、できなかったのである。(2) 孟子が梁恵王上篇に、「孟子こたえていわく、『王、戦を好む。請う、戦をもって喩(たと)えん。テン然(てんぜん)として鼓うち、兵刃すでに接す。甲を棄て兵をすててにげ、あるものは百歩にして後とどまり、あるものは五十歩にして後とどまる。五十歩をもって百歩を笑わば即ち如何』と。いわく『不可なり。ただ百歩ならざりしのみ。これまた逃げたるなり』と。いわく、『王もしこれを知らば、即ち民の隣国より多からんことを望むなかれ。』と。」 すなわち孟子は、仁政とかけはなれた戦争のことなどを談じてでも相手を説破すればよいとした。孟子は弁論の士に過ぎなかったと先生は見られる。(佐々井典比古氏評)■報徳秘稿【612】先生は横山氏(宇津家家臣横山周平)に言われた。「あなたは「孟子」を見てはならない。孟子は悪人を防いで善人にならせるために説く。だからその説は劣っている。あなたは、孟子のような世話にはならない生れつきの性質を備えている。
2025.11.17
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33※森町の周智歴史民俗資料館に鈴木藤三郎自筆の自画像の絵が6幅残っている。 鈴木藤三郎の子息鈴木五郎氏が持っていたものを、森町の塩沢さんが郷土の後継者のために、藤三郎の遺品を森町で預からせてほしいと依頼し、永久寄託により資料を預かったものである。 「報徳記を読む会」で「森町見学会」を実施した折、資料館で見学させていただいた。また2009年12月28日29日開催の「町並みと蔵展」でも蔵の中で展示され味わい深かった。 以下の説明は「黎明日本の一開拓者」(鈴木五郎著)による。「 鈴木藤三郎は精製糖事業に志してから台湾の製糖事業を完成するまでの経過を自画像として描いたものが現存している。それは第一期第二期各3枚の6枚続きである。 第一期之一は『住生年至明治九年』となっていて、縞(しま)の着物を着た20歳くらいの青年が、傍らにかけられた報徳訓を見て何か決意するところあるかのような様子をしている。前には机があって、その上に本が広げられ、机のそばには台ランプがおかれている。 父が報徳の教えを知って氷砂糖の製造に志した当時を描いたものである。」「 鈴木藤三郎は精製糖事業に志してから台湾の製糖事業を完成するまでの経過を自画像として描いたものが現存している。それは第一期第二期各3枚の6枚続きである。 第一期之一は『住生年至明治九年』となっていて、縞(しま)の着物を着た20歳くらいの青年が、傍らにかけられた報徳訓を見て何か決意するところあるかのような様子をしている。前には机があって、その上に本が広げられ、机のそばには台ランプがおかれている。 父が報徳の教えを知って氷砂糖の製造に志した当時を描いたものである。」「 第一期之ニは『従明治十年至同二十一年』で、兵卒姿の父が甘蔗の杖をついて右手は海の崖道を歩いている。前方遙かに幽かに二つの峯が見えているが、その手前には黒雲みなぎって電光がキラメキ前途暗澹としている光景である。氷糖、精製糖発明の苦心時代の画である。」「 第一期之三は『従明治二十二年至同二十八年』で、岬の絶端に到達した兵卒姿の父は腰に手を当て甘蔗の杖を小脇に抱えて前方を遙かに眺めている。前は洋々とした大海で遙かに二つの島を望み、近くには3艘の汽船が黒煙を吐いている。精製糖事業の研究が一通り完成して郷里から東京へ移り、28年暮に会社組織となるまでの図である。」 「 第ニ期之一は『従明治二十九年至同三十三年』で、将校姿の父は馬上甘蔗の鞭をあげて颯爽と疾駆している。目的の山々はもう間近に迫っている。日本精製糖会社を創立して専任取締役となった時から台湾製糖会社を創立するまでの図である。」 「 第ニ期之ニは『従明治三十四年至同三十五年』で、前方は砲煙濛濛とこめて砲弾が二つまで炸裂している。乗馬はこれに驚いて跳ね上がり、直ぐ後ろは深淵になっている。進むも難く退くことも出来ない絶対絶命の図である。台湾製糖株式会社を創立したが、新規事業に加えてマラリアや土匪の襲来があり、殊に同時に砂糖消費税が創設されて経営上非常な困難をした時代である。」「 第ニ期之三は『従明治三十六年至同三十七年』で、甘蔗の鞭を持つ父は馬上豊かに潮風に吹かれている。後には波静かな大洋の彼方水平線のあたりから旭光がサンとして輝き出している。台湾の製糖事業も残りなく完成した図である。」
2025.11.16
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「現代語訳 二宮先生語録」は静岡県内で22図書館、神奈川県で21図書館、北海道で14図書館、福島県で12図書館の蔵書となっている。(静岡県)森町「二宮先生語録 読み下ろし全ルビ原文・現代語訳」 報徳記を読む第5集齋藤髙行/著 二宮尊徳の会 2018/12御殿場市小山町静岡市磐田市御前崎市富士市湖西市伊豆の国市下田市川根本町三島市袋井市浜松市沼津市静岡県立中央図書館牧之原市掛川市静岡文化芸術大学静岡県立大学菊川市藤枝市(神奈川県)21図書館南足柄市報徳記を読む 第5集 「二宮先生語録」二宮尊徳の会2018/12大井町鎌倉市座間市大和市横須賀市厚木市二宮町海老名市逗子市川崎市藤沢市桐蔭学園寒川町大磯町伊勢原市横浜市秦野市神奈川県立図書館小田原市相模原市「二宮先生語録 現代語訳」を5図書館以上所蔵している都道府県(北海道)14図書館富良野市恵庭市佐呂間町根室市八雲町釧路市北海道立図書館帯広市厚岸町旭川市豊頃町別海町江別市比布町(福島県)12図書館新地町須賀川市会津若松市本宮市会津大学南相馬市白河市三春町郡山市福島県立図書館福島大学相馬市(栃木県)10図書館那須烏山市市貝町足利市芳賀町真岡市日光市宇都宮大学高根沢町栃木県立図書館栃木市(青森県)9図書館藤崎町五所川原市十和田市八戸学院大学青森県立図書館弘前大学八戸市弘前学院大学市五戸市(岩手県)8図書館花巻市1件久慈市1件二戸市金ケ崎町遠野市奥州市岩手県立図書館岩手大学(茨城県)8図書館八千代町桜川市筑西市水戸市茨城県立図書館常陸太田市土浦市笠間市(鹿児島県)7図書館姶良市薩摩川内市鹿児島純心女子大学鹿児島県立図書館鹿児島大学鹿児島県立短期大学指宿市(高知県)6図書館四万十市宿毛市土佐市高知大学高知県立大学・高知工科大学南国市(愛媛県)6図書館東温市八幡浜市西予市松山市伊予市今治市(千葉県)5図書館千葉県立図書館千葉市柏市鎌ヶ谷市千葉大学(新潟県)5図書館新潟県立図書館新発田市敬和学園大学南魚沼市新潟市(愛知県)5図書館愛西市愛知県図書館岡崎市名古屋市豊川市(香川県)5図書館善通寺市東かがわ市さぬき市観音寺市香川県立図書館💛沢木興道師社会のために勉強し社会のために生きる道のためにするのでなければならぬ
2025.11.16
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「+」から始まる電話番号はキケン?「050」との違いは? 警察も呼び掛ける対策国際電話の「+」番号やIP電話の「050」番号を悪用した詐欺や迷惑勧誘が増えている。1:「+」から始まり末尾「0110」の危険性現在横行している特殊詐欺電話の中には、警察官を名乗り、電話番号が「+」から始まり末尾が「0110」であることが特徴のケースがあります。これは、詐欺グループが発信番号偽装の仕組みを悪用し、実在する警察署の番号を偽装しているためです。2:「050」番号が怪しいと言われる理由と対策「050」から始まるIP電話番号は、過去に取得時の本人確認が厳格でなかったため、匿名性の高さや通話料の安さから、詐欺や一方的なテレマーケティングに悪用される事例が多発し、「怪しい」というイメージが定着。警察庁が2020年時点で把握していた「ニセ電話詐欺」に使用された電話番号のうち、4件に1件が050番号であったと報告されています。しかし、2024年4月1日の法改正により厳格な本人確認が義務化され、犯罪に悪用されるリスクは大幅に低下3:固定電話への「+」着信を拒否する方法特殊詐欺事件の9割以上が固定電話を通じて発生しており、特に電話帳や名簿を通じて番号が流通している高齢者世帯が狙われやすい傾向にあります。詐欺の多くは「+」で始まる国際電話番号を利用した手口で行われるため、海外との通話が必要ない家庭では国際電話の利用休止が非常に有効な対策となります。
2025.11.16
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「報徳産業革命の人 報徳社徒 鈴木藤三郎の一生」(2011/09発行)は静岡県内で15図書館、神奈川県で10図書館の蔵書になっている(静岡県)森町磐田市袋井市静岡文化芸術大学静岡県立中央図書館川根本町掛川市裾野市御前崎市菊川市静岡県立大学浜松市焼津市静岡大学藤枝市(神奈川県)南足柄市鎌倉市平塚市神奈川県立図書館桐蔭学園秦野市伊勢原市小田原市横浜市寒川町(以下5図書館以上の都道府県)(宮城県)8図書館気仙沼市石巻市亘理町東北大学加美町大崎市宮城県図書館宮城教育大学(福島県)6図書館いわき市相馬市南会津町会津若松市福島大学南相馬市(岩手県)6図書館奥州市一関市花巻市盛岡市岩手大学岩手県立図書館(北海道)5図書館北海道立図書館帯広市佐呂間町札幌市豊頃町(茨城県)5図書館筑西市茨城県立図書館桜川市水戸市日立市(栃木県)5図書館鹿沼市真岡市日光市2冊宇都宮大学💛「修証一如」沢木興道師 社会のために勉強し社会のために生きる道のためにするのでなければならぬ
2025.11.15
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)修証一如 その5 永嘉大師の『証道歌』の中に「一超直入如来地」という言葉がある。一足飛びに仏様になることができるということである。いわゆるわたしどもの身心の向けようひとつで「一超直入如来地」になるのだ。この身このままの向け方ひとつでほかに何にも助けがいらぬということになると、どえらいもののよであるが、これがあたりまえである。 ちょっと人の物を盗めば「一超直入五右衛門地」である。げんこつふりあげて喧嘩でもすれば 「一超直入修羅道地」である。ウンと坐れば「一超直入坐禅地」ちょっとつまみ食いをすれば「一超直入餓鬼道地」だ。 この坐禅はだれが坐っても坐禅である。だれが坐っても仏である。そういうことを『正法眼蔵』三昧王三昧の巻に、道元禅師が「驀然(まくねん)として尽界を超越して仏祖の屋裏に大尊貴生なるに結跏趺坐なり」 とお示しになっておる。また「結跏趺坐は、直身なり、直心なり、直身心なり、直仏祖なり、直修証なり、直頂[寧+頁]なり、直命脈なり」 ともお説きになった。 仏というものは概念的なものではなくて、われわれの筋肉の向けよう一つで、この身このままが仏なのである。この一超直入如来地これを「威儀即仏法、作法是宗旨」というのである。 かくのごとくなったいま、仏になる法があると同時にわれわれの生活態度、形によってたったいま盗人になる法もある。昼のうちによく邸宅をうかがっておいて、夜になってから顔にべったり墨をぬり、玩具のピストルを持って忍びいる。そうすると「一超直入ギャング地」である。 お釈迦様が樹の下で坐禅しておられるのを見て、通りがかった隊商の者が発心したという話がお経にあるが、いかに仏様でも、坐禅のかわりに、鼻から提灯出して、居眠りしていたのでは、ありがたくない。チャンとして坐っておられる相にこそ、みなをして発心させるものがあったのである。 このようにわれわれには、自分で気のつかぬ人間の価値がある。 本当に修行そのものが悟りそのものである。形そのものが精神そのものである。態度そのものが道そのものである。自分が寝転んでおって、人だけ修行させようと思っても人は承知しない。自分が救われる時には人も救われる。そこに微妙の道理がある。(『禅談』p.233-234)
2025.11.16
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194二宮翁夜話巻の3【43】尊徳先生がおっしゃった。善因には善果があり、悪因には悪果を結ぶ事は、皆人が知るところであるが、目前に萌(きざ)して、目前に顕われる物であれば、人々はよく恐れよく謹しんで、善種を植え、悪種を除くであろうが、いかんせん、今日まく種の結果は、目前にきざせず、目前に現われず、10年20年ないし40年50年の後に現れる物であるために、人々は迷って怖れることがない。歎かわしい事ではないか。その上にまた前世の宿縁がある、いかんともできない。これが世の中の人の迷いの根本である。しかしながら、世の中すべての事象に、原因がないものはなく、結果がないことはない。一国の治乱、一家の興廃、一身の禍福みなそのとおりだ。恐れ慎しんで、迷ってはならない。二宮翁夜話巻の3【43】 翁曰く、善因には善果あり、悪因には悪果を結ぶ事は、皆人の知る処なれども、目前に萌(きざ)して、目前に顕はるゝ物なれば、人々能く恐れ能く謹みて、善種を植え悪種を除くべきなれども、如何せん、今日蒔く種の結果は、目前に萌さず、目前に現はれずして、十年廿年乃至四十年五十年の後に現はるゝ物なるが故に、人々迷ふて懼(おそ)れず、歎はしき事ならずや、其の上に又前世の宿縁あり、如何ともすべからず、是の世の人の迷ひの元根なり、然れ共、世の中万般の事物、元因あらざるはなく、結果あらざるはなし、一国の治乱、一家の興廃、一身の禍福皆然り、恐れ慎むで、迷ふ事勿れ
2025.11.16
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中国メディア中国で12月6日に公開予定だった「映画クレヨンしんちゃん超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ」と、今月22日公開予定だった「はたらく細胞」の日本の映画2本が公開延期になったということです。高市首相の台湾有事をめぐる発言を受け、中国政府は日本への渡航や留学の自粛を呼びかけていますが、今度は中国国民にも人気の日本映画をターゲットに、日本への圧力を強めた形です。💛数年はこうした嫌がらせが次から次へと?中国「日本への旅行・留学を控えるように」…事実上の制裁が開始11/17(月) 国交正常化から53年、中国と日本が最悪の外交戦に突入した。高市早苗首相が7日、衆議院で台湾有事の際に武力介入が可能だという趣旨の発言をしたことに対し、中国が強く反発したためだ。先月31日に慶州(キョンジュ)で両国が首脳会談を行ってからわずか半月で両国関係が急速に冷え込み、日本国内では高市外交が俎上に載せられている。両国国交以来最悪とされた、尖閣諸島をめぐる関係悪化の再現を懸念する声まで出ている。中国の反発は日に日に強まっている。孫衛東外交部副部長は13日、金杉憲治駐中国日本大使を異例の表現を用いて呼び出した。「誰であれ、どのような形であれ中国の統一という大業に干渉するなら、中国は必ず正面から打ち砕く(迎頭痛撃)」と強い不満を示した。このような中国の発言は、両国の国交正常化以降初めてだ。中国中央テレビが運営するSNS「玉淵譚天」は15日、「中国外交部副部長が日本駐中国大使を指示に従って(奉示)呼び出し、厳正な交渉を行った」とし、奉示という表現が両国間で初めて使用されたと伝えた。国際問題研究院の項昊宇・特別招聘研究員は「奉示とは、上層部に代わって処理するという意味で、副部長の身分ではなく、より高位の層を代表して立場を表明したということ」と説明した。事実上の経済制裁も始まった。駐日中国大使館は14日、「今年初めから中国人を対象とした犯罪が急増しているため、日本旅行を控えるよう強く勧告する」との公示文を掲載した。中国東方航空、国際航空、南方航空などのフラッグ・キャリアは翌日、日本行き航空便のキャンセルや変更手数料を取らないことにした。中国教育部も16日、日本の治安が悪化しているので留学計画を再考するよう求める内容の警報を発表した。中国メディア「観察者網」のコラムニスト、江宇舟氏は「(中国は)レアアースなどへの輸出規制、水産物輸入の停止、日本行き航空便および旅行客の削減など、日本製品の代替を加速させるだろう」とし、追加報復の可能性を指摘した。軍事的対応も続いている。中国は17日から19日まで、西海(ソへ、黄海)中部海域で実弾射撃訓練を実施すると予告した。中国の反発にもかかわらず、日本政府は「安易な譲歩」はしない見通しだと読売新聞は伝えた。代わりに、安倍晋三政権で外交戦略構想を担当した市川恵一国家安全保障局長を中国に派遣する案が浮上している。22日に南アフリカ共和国で開かれる20カ国・地域(G20)首脳会議で、高市首相と李強中国首相の会談を模索するとの見方も出ている。しかし、安倍元首相の継承を掲げる高市政権が中国との対話を円滑に導くことができるかは不透明だ。野党からは高市首相に発言撤回を求めているが、首相周辺では「発言を撤回すれば支持層の理解を得られない」という判断をしており、両国関係の緊張が続く可能性があるという。これに対して日本では「予測不能」な状況が展開され得るという懸念が高まっている。朝日新聞は「ビジネスや観光の往来を妨げ、両国関係に実質的な障害が生じる段階へと入った」とし「双方が妥協しなければ事態がさらに悪化したり、膠着したりする恐れがある」と展望した。日本政府では保守層を意識した対応も検討されている。「首を斬ってやるしかない」とSNSに投稿していた駐大阪中国総領事に対し、滞在を拒否できる「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」に指定する案が代表的だ。
2025.11.17
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13歳の中国人少女 競泳女子でアジア記録を13年ぶり更新第15回中国全国運動会では、11月11日に行われた競泳女子200メートル個人メドレーの決勝で、中国北部の河北省代表の13歳の于子迪選手が2分07秒41という13年ぶりのアジア新記録で優勝しました。于選手は今年5月、中国全国水泳選手権のバタフライ女子200メートルの決勝で2分06秒83という衝撃的な記録で優勝したことで注目を集めました。また、女子200メートル個人メドレー決勝では2分10秒63の記録で銀メダルを獲得し、中国競泳史上最年少で世界選手権の出場権を獲得しました。国際水泳連盟はSNSで、「天才予告」として于選手の成績を賞賛しました。AFP通信やAP通信など多くの海外メディアも于選手を報じました。今回の全国運動会で女子200メートル個人メドレーは、于選手と前回優勝者の余依婷選手の「世代交代の戦い」と見なされました。決勝の最初の50メートルはバタフライで、余選手がリードし、于選手は第4位でしたが、3番目の平泳ぎでは于選手が見事に逆転して首位に躍り出しました。そして、最後のフリースタイルのクロールで、于選手は最後までプレッシャーに耐えてリードを保ち、2分07秒41の記録で勝負を決めました。このタイムは2012年ロンドン五輪大会で中国の葉詩文選手が出した同種目のアジア記録を上回りました
2025.11.16
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「決して当たり前のことではない」ガーナ代表監督、ベンチを訪れ謝罪した日本代表・田中碧に「感謝」 プレー中接触でMFフランシス故障11/15(土) 世界ランキング19位の日本代表は同73位のガーナ代表に2―0で快勝した。前半16分にFW南野拓実(モナコ)が先制ゴールを奪うと、後半15分にはMF堂安律(アイントラハト・フランクフルト)が左足で決めた。 ガーナ代表のアッド監督は谷口彰悟(シントトロイデン)、久保建英(ソシエダード)、堂安の名前を挙げ、「前半は翻弄(ほんろう)されてしまった」と振り返った。 後半7分、MFフランシスがMF田中碧(リーズ)が接触した際に故障を負い、担架で運ばれるアクシデントがあった。アッド監督は「深刻な事態でないことを願っているが、かなり厳しいけがになりそう」と明かした。 後半31分には田中が交代でピッチを退いた直後にガーナ代表のベンチを訪れ、謝罪したという。アッド監督は「選手が来てくれたことには心から感謝している」と言い、「選手がわざわざベンチまで来て、私のところまで謝りに来た。そのようなことは決して当たり前のことではない。日本はいかに教育、しつけがしっかりしているのかということを感じさせられた」と語った。
2025.11.15
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「ドイツに何が起きた?」「大波乱だ」前回王者がまさか! ラウンド32敗退に海外衝撃「ブルキナファソが番狂わせ」【U-17W杯】11/16(日)前回王者が決勝トーナメント1回戦で大会を去った。 カタールで開催されているU-17ワールドカップで、現地11月15日にラウンド32でディフェンディングチャンピオンのドイツとブルキナファソが対戦した。先制したのはブルキナファソ。開始5分、敵陣ボックス内右でキープしたモハメド・ゾンゴが左足を一閃。強烈なショットでファーサイドのネットを揺さぶる。 ビハインドのドイツは反撃を試み、いくつかのチャンスを作ったが、いずれもモノにできず。同国サッカー協会の公式サイトでは「ドイツは攻撃面で歯が立たず、幾度となくテクニカルなトラブルに見舞われた」などと伝える。最後まで1点が遠く、0-1で敗れた。💛ブルキナファソってどこ?日本から遠く離れている西アフリカの国、ブルキナファソ。 ブルキナファソの国名は、現地語で「高潔な人々の国」という意味があります。サハラ砂漠の南に位置し6カ国と国境を接している内陸国は、60以上の部族で構成され、宗教は、伝統的宗教(57%)、イスラム教(31%)、キリスト教(12%)を信仰しています。公用語はフランス語ですが、現地では様々な現地語(モシ語、ディウラ語、グルマンチェ語など)が使われています。ブルキナファソは、世界でも最も貧しい国のひとつで、国連開発計画(UNDP)による人間開発指数(HDI)では、191カ国中184位(2021年度)と最下位近くに位置しています。天然資源が限られているブルキナファソでは、生産人口の80%以上が農業に従事していますが、気候変動の影響を受けやすい地域での農業中心の経済は、不利な状況におかれています。主な農作物は綿、とうもろこし、タロイモなどで、中でも綿は貴重な外貨収入源です。グループI 1位アメリカ 2位ブルキナファソ 3位チェコグループIでは首位だったチェコがブルキナファソに1-2で敗戦。2位だったアメリカは開始3分にタジキスタンに得点を許しましたが逆転勝利で首位に立ち、ノックアウトステージ進出を決めた。
2025.11.16
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遠州アカデミーでは 以下の要領で、「第12回報徳講座」を開催いたします。是非 この機会にご参加願います。〇日時 11月9日(日) 10時~12時〇場所 袋井市袋井北コミセンホール〇講演内容 ①報徳で現代を考える 大日本報徳社社長 鷲山恭彦様 ②堀越報徳社の歩みと課題 堀越報徳社理事長 山本克宏様 ③報徳と我が企業活動 (株)オフィスホリウチ代表取締役 堀内善弘様〇会費 無料〇申込 10月22日(水)より 当メール返信にて
2025.10.08
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「沢木興道 この古心の人」よりp.273-276慈雲尊者の袈裟にとどりつく一週に一度、土曜日の午後に吉祥庵へ行って集まってくる尼さんたちに講義をした。興道は道元禅師の『学道用心集』、『正法眼蔵随聞記』を講じた。ある日のこと、二人の尼さんは『方服歌讃』*を持ってきて、この本の講義をお願いできませんかという。ぱらぱらめくっても何のことかわからない。近くの寺で『方服図儀』という本を借りて、手元の仏教辞典や哲学辞典を引きながら何と見当をつけようとするが、まるで歯が立たない。この『方服図儀』二巻**は、慈雲尊者の著で、寛延4年(1751)の撰述で、翌宝暦2年に刊行されたものである。方服とは、僧の三衣、三種の袈裟のことであるが、それが方形であるところから方服の名称がある。興道は慈雲尊者の住持された葛城山の高貴寺に上り、親しく尊者のお袈裟にまみえることができた。尊者が袈裟の研究を完成されたのは、この高貴寺時代であり、すでに生駒山時代における『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』一千巻の稿が成った後で、袈裟の研究はこの生駒時代につづく研究であった。*『方服歌讃』**『方服図儀』***『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』
2025.03.23
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ルーマニアで発見された中世の写本:ヨーロッパ史を塗り替える発見?ルーマニア中部の小さな街、メディアシュにある聖マルガレタ教会の塔で発見されたのは、9世紀に制作されたと見られる印刷物の断片を含む200冊以上の古書や写本などだ。大規模な文庫の一部?この蔵書は、聖マルガレタ教会がかつて保有していたさらに大規模な文庫の一部である可能性もあるという。膨大な蔵書を抱えていた聖マルガレタ教会ディンカ博士は教会の記録に基づいて、1864年には聖マルガレタ教会に7700冊あまりの蔵書があったはずだと指摘。ディンカ博士のコメントディンカ博士はウェブサイト「Medievalist.net」宛てのメールの中で、「これらの古書を初めて目にしたときに、聖書や教父学、神学といった歴史的な分類によって巻が整理されていることに気づきました」とコメント。原本の装丁ディンカ博士いわく:「今回発見された歴史的蔵書の特徴の1つは、16世紀に制作された原本の装丁が多数残されていることで、その大部分に日付まで記載されています」大部分は宗教改革以前のものディンカ博士によれば、「羊皮紙が閉ざされた環境のなかで繰り返し利用されていたことを考慮すると、このような断片は宗教改革以前の写本が地元で再利用された結果である可能性が非常に高いでしょう」とのこと。◎村人を守った要塞教会〜トランシルヴァニアの要塞教会群(ルーマニア)ルーマニアのトランシルヴァニア地方には、神聖なキリスト教の教会でありながら、戦いのための城壁を持つ、世にも不思議な「要塞教会」があります。13世紀から17世紀の間に300も作られました。その中の7つが世界遺産です。要塞教会を作ったのは、この地方に移住してきたドイツ人でした。当時、オスマン帝国が勢力を拡大して、侵略の危機にありました。彼らは防衛のために教会を要塞化し、そこに立てこもったのです。幅5メートルの壁プレジュメル要塞教会の城壁は、高さ12m、幅5mの重厚なもの。城壁の内部には村人が避難できる集合住宅や、敵を監視する回廊が隠されていました。回廊には「死のオルガン」と呼ばれる驚くべき武器も備えられています。3重の壁ビエルタン村には、3重の城壁で守られた要塞教会があります。中心の教会が作られたのは13世紀。敵の脅威が増すごとに、取り囲む城壁を増設していったのです。教会に続く狭い道は迷路のようで、敵が一挙に攻め込めませんでした。
2023.04.08
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「技術力のある国」ランキング・トップ15 米誌Jan 8 2023◆1位:日本技術的専門知識スコア:100.0 日本の技術的専門知識のスコアは100.0となり、調査対象の全73ヶ国のなかで唯一満点を獲得した。「イノベーション」「熟練した労働力」「デジタルインフラの発達」でも100.0のスコアを確保したほか、「教育人口」「(物理的)インフラの発達」でも99点台を記録しており、高いレベルを誇っている。 これらの属性を含む「起業家精神」のサブカテゴリ全体では96.9点となり、こちらもドイツとアメリカに次ぐ世界第3位の高さとなった。ランキングを発表したUSニューズ&ワールド・リポート誌は、日本は東洋の伝統と西洋の文化を生活様式に取り入れて融合させており、また、世界で最も識字率が高く、技術的にも最も進んだ国の一つだと評価している。◆2位:韓国技術的専門知識スコア:97.3◆3位:中国技術的専門知識スコア:96.2◆4位:アメリカ技術的専門知識スコア:92.7・日本の産学官を合わせた研究開発費、研究者数は主要国(日米独仏英中韓の7か国)中第3位・日本のパテントファミリー(2か国以上への特許出願)数では世界第1位、・ミディアムハイテクノロジー産業貿易収支比においても、日本は主要国の中で第1位・注目度の高い論文数は中国がカウント法によらず全ての論文種別で第1位(5万4405編)ただし、中国の動向については自国からの被引用の影響も大きい・2位は米国(3万6208編) 3位は英国(8878編) 日本は13位(3767編)
2023.08.14
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新名学園旭丘高等学校 創立者である新名百刀(もと)先生校長訓話「悪しきとてただ一すじに捨つるなよ、渋柿を見よ、甘干となる」「生徒は大切な人の子、一様に愛するように」子どもの発達と可能性に信を置く新名魂の意思表明です。新名百刀(にいな もと)は明治5年(1872)岐阜県大垣市の士族水野山平の長女として生まれた。士族の娘として厳しい家風の中で育った百刀は志を立てて上京し、共立女子職業学校で編物を、渡辺裁縫伝習所で手芸、裁縫を学んだ。明治26年21歳の時、医師新名友作(福井県の医師)と結婚した。ところが、その後数年にして夫、友作は病に倒れた。百刀の親身な看護も及ばず病は日に日に重くなるばかりであった。そこで友人からの勧めもあって、明治32年転地療養のため小田原に転居した。しかし、百刀の必死の看護もむなしく、明治35年3月、友作はこの地を去ってしまった。百刀は31歳の若さで幼い2人の娘を抱えて未亡人となってしまった。夫を亡くし一時は途方に暮れたが、気丈な彼女は生家からの帰郷の勧めも辞退し、手につけた裁縫によって生計の道をたてることを決意し、小田原裁縫編物伝習所を開設した。これが新名百刀が女子教育に生涯を捧げるきっかけとなったのである。その後、校長の優れた指導方針と教授たちの良き教育方針が評判となって入学者が次第に増えて、学舎が手狭となってしまった。そこで明治39年、現在地に土地を借り、新校舎を新築した。そして学校の組織も改め、文部省の許可を得て正式の女学校として校名も新名裁縫女学校と改称した。しかし、大正年代までの学校経営は決して楽ではなく、百刀校長は苦しい中で学校経営に傾注した。そんな苦しい中でも学校は発展を続けた。大正10年には校名を新名女学校と改称し、昭和2年には現在の市民会館に土地を求めて新築移転し、10年には新名高等家政学校と改称して良妻賢母を目指した教育を行った。新名百刀はこのように発展する学校を見て大いに満足しつつ、昭和17年9月16日71歳で天寿を全うした。その後、昭和29年には現在地に土地を購入して近代的な校舎を建設して移り、校名も新名学園旭丘高等学校となった。いつの時代も主役は生徒個性を伸ばし、生きる力を育む教育の実践「なくてはならぬ 指折仲間の人となれ。悪しきとて、ただ一筋に捨つるなよ、渋柿を見よ、甘干となる」。学園創始者、新名百刀女史のこの言葉には、今日のSDGsのスローガンに繋がる誰一人取り残さず、一人ひとりの人間を大切に思う心が溢れている。建学の精神と「報徳四訓」の教え―― 旭丘の建学の精神は、二宮尊徳の「報徳四訓」を基本にしていると聞きます。新名百刀先生が教育方針として掲げたのが、尊徳の報徳四訓(至誠・勤労・分度・推譲)でした。「無くてはならぬ指折り仲間の一人となれ」という校訓にあるように、地域社会の要望に応えて良妻賢母型の「知と技の統一」に砕身すると同時に、社会的・精神的自立を促す教育を展開。 そして、「一円融合」の哲学思想の下、今でいう差別と競争のない社会を築くために、尊徳の農村振興を目的とした捨て苗を集めて米を生産する農法、荒地を開墾し良田に変える手法に学び、「悪しきとて、ただ一すじに捨つるなよ、渋柿を見よ、甘干となる」という「正→反→合」の弁証法的な子ども観を唱え、子どもの発達と可能性に信を置く教育を実践しました。 小田原の女性史研究家の宇佐美ミサ子(1930年生まれ)先生は、新名学園に学んで後に教師となったある女性の言葉を伝えています。「百刀先生は報徳の教えを私たちによく話してくれました。手に職をつけることが、自活できる技です。そして、人びとに分け与えることが必要なのです」と。 校訓である報徳精神は、戦前は生徒手帳に記されていました。
2024.04.15
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33 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著237~240ページ藤三郎は、その時、原料である醤油そのものの製法も研究してみたところ、200余年前に、その醸造法が発見された当時そのままで、でき上がるまでに1年半から2年の長い月日がかかることを知って驚いた。これでは、醤油エキスがいくら完全にできたとしても、戦争が長びいたら、その原料となる醤油が尽きてしまうだろうと、考えた。そう考えたら、すぐその打開策をくふうせずにはいられないというのが、藤三郎の天性である。ことに時は、急を要する戦争中である。彼は即座に、その醸造法の改革を思い立った。そして間もなく、完全な醤油を短期間で造る促成醸造法を発明して、特許を取った。そこで、邸内にこの試験工場を設けて、長男の嘉一郎が、日本精製糖会社に勤めていたのを退かせて、もっぱらこの醤油促成醸造法の実験に従事させた。しかし、嘉一郎は、その後間もなく脳病となったので、佐野にある鈴木農場にやって、養生かたがたこれを管理させることにした。10月26日には日本精製糖会社は、事業拡張のため資本金を倍額の400万円に増資をした。明治28年12月に資本金20万円で創立されてから、約9ヵ年の間に、資本は13倍余に増加されたのである。この年には、重畳式無気蒸発装置、製塩装置、醤油醸造法、蒸発装置、完全燃焼炉など11件を発明して、特許を得た。藤三郎は、戦時国会に議席を持っていた上に、製塩法と醤油醸造法の改革を並行して研究を始めたので、非常に多忙になった。それで、明治38年(1905年)3月23日に台湾製糖会社の社長を辞して平取締役となった。創立以来、苦心経営してきた台湾の橋仔頭工場も、その生産額が、初年度である明治35年(1902年)から4年間に約3倍に増加して、予定の4万ピクル(1ピクルは60キログラム)を5個も超過するに至った。 明治35年 18,502ピクル 明治36年 28,437ピクル 明治37年 56,742ピクル 明治38年 59,277ピクルまた製品の歩留りも、この4年間に2倍以上になった。 明治35年 4.32 明治36年 6.96 明治37年 7.90 明治38年 9.70次に株式配当も、この4年間に年ごとに増加して、5分から1割までになった。 明治35年 第2期 5分 明治36年 第3期 6分 明治37年 第4期 8分 明治38年 第5期 1割このように営業状態はますます有望となったので、第二工場の計画も立てられて、台湾製糖会社の基礎は全く確立した。わが国の砂糖の輸入も、台湾製糖株式会社の創立当時は、一カ年に3,000万円もあったものが、その後、次第に減少して、5年後の明治38年(1905年)には、半分以下の1,300万円台となった。これに反して輸出は、明治35年(1902年)にわずかながら同社の製品が、中国方面へ行くようになってから年々激増して、明治38年(1905年)には約400万円に上って、将来増加することは疑う余地のないまでになった。これで、藤三郎としては井上馨の信頼にもこたえ、その責任を完全に果して今後は自分が直接に第一線に立たないでも、十分に経営してゆかれる見とおしがついたから、彼も社長を辞しやすかった。明治36年(1903年)に、わずか50万6千ピクルに過ぎなかった台湾の砂糖生産量は、太平洋戦争前の昭和14年(1939年)には、実に45倍余の2,290万ピクルスに達していて、藤三郎のこの見とおしの正確であったことを、いまさらに証しているのである。 ※「台湾製糖株式会社史」4 創業時代(8-12頁) 明治33年10月、初代社長鈴木藤三郎氏は、後の支配人山本悌三郎氏と共に台湾に渡って実地踏査した結果、台南県橋仔頭庄に、一昼夜サトウキビ圧搾能力250英トンの工場を建設することに決定し、同34年2月、創立2か月後に工場建設工事に着手した。同時に原料のサトウキビの一半を自給するの必要かつ有利なるを察して、橋仔頭付近に1,000甲歩の土地を買収し、ここに農場を経営し、社業遂行の安固を図るとともに、模範的サトウキビ農業を行って地方農民を指導することとした。この土地所有方針は、創業以来一貫不動の社是として今日に及び、現在所有土地面積は49,267甲(昭和14年6月現在)、面積33平方里余にして、ほぼ和歌山県又は香川県の耕地面積に匹敵する程の大を成すに至った。 当時支配人として現地に於て悪戦苦闘した山本第三代社長は、その頃を追懐して、「困難といえば総てが困難であった」と語られたが、まことに社業の遂行には一つとして困難の伴わないものはなかった。まず交通運輸不便のため、機械、建築材料の運搬など、今日においては到底想像も及ばぬ種々の障碍に遭遇したのである。 すなわち、当時の高雄港は築港工事などは施されておらぬので、積荷は波浪高い港外2,3海里の処で沖取りするの外なく、汽車もまたわずかに高雄、台南間一日2往復あるに止まり、停車場の設けすら無い橋仔頭にて建築材料のごとき重量貨物を荷卸しするのは実に容易ならぬことであった。しかし、努力の苦心は報いられて、工場建設工事は意外に順調に運び、明治34年11月には機械据付も完了し、12月中実地的試運転を行い、翌35年1月15日にはめでたく操業を開始し、ここに近代文化の産物たる大規模新式製糖工場が力強く運転されはじめたのである。 当社社票 は社名の頭字TSを組合せ、同時に昇る旭日を象徴させたもので、まことに当社の使命抱負にふさわしく、当を得た着想であったと思われる。 当時、使用した原料サトウキビは、付近農民の栽培した在来種を買収したのであって、収穫量、含糖分共に極めて少ない劣等品であるばかりでなく、農民は会社に原料サトウキビを供給したことがないため、とにかく受入れに円滑を欠き、ひいては工場の運転にも齟齬を来たす結果を招いた。その上社員及び職工を得ることも困難にて、せっかく苦心の末これを得ても、あいついで疫癘に冒され、昼夜継続作業の場合のごときは、交代して貰うにも代りの者も無く、やむを得ず不眠不休、連続勤務するの状態で、時としては製糖作業の継続が不能に陥らうとしたことさえあった。 加うるに土匪の襲来したことも一再に止らなかった。これがため、工場の周囲には土壁をめぐらし、事務所の屋上には万一の場合に備えて大砲を据え付け得る設備を施し、屋上並びに階下廻廊には銃眼をうがち、一方、陸軍分遣隊の駐屯を請うとともに、社員職工中から選抜した100有余名の義勇団を常備しつつ製造に従事しなければならぬ有様で、その危険と困難とは全く言語に絶するものがあった。しかし、我が従業員はかかる苦境の中にこの危険を冒しながら、精励苦闘、よく操業を続け、もって今日の基礎を築いたのであった。 操業方面は上述のごとくであったが、当時我が国の金融は一般に円滑を欠き、特に危険視せられていた台湾への金融のごときは、当社の事業に相当理解ある斯業者すら少なからず躊躇する状態とて、この方面でもまたひとかたならぬ苦心を要した。ちょうどこのころ三井銀行の営業部に居られた前大蔵大臣池田成彬氏は、当社の社債100万円募集に尽力することとなり、一流銀行の代表者に参集協議を求めたところ、その席上某銀行頭取のごときは、「いったいそんな会社はどこにあるのか」という始末で、募債は遂に成立しなかった。「一流の銀行家さえ、かかることを平気で言われる時代もあったものだ」と、同氏は、最近、武智現社長に述懐せられたが、この一事をもってしても当時の状況を察知し得るであろう。また、火災保険会社のごとくも、当社の工場に保険を付けることを極力回避する状態にて、今にして思えば全く夢物語に類するものである。しかし、かかる事情であったにもかかわらず、株金は常に遅滞なく払い込まれ、予定の事業はなんらの支障なく着々進捗した。当社がかく後顧の憂いなく企画経営にまい進し得たことは、株主各位の理解と、熱心なる後援とによるものにて、このうるわしくも円満なる関係は、以来今日に至るまで毫(ごう)も変ることなく、実業界広しといえどもかかる類例は容易にこれを他に求め難いであろう。 製品の販売もまた困難であったが、幸い糖商は最初から好意をもって尽力し、明治35年9月には三井物産合名会社と製品一手販売(内地全部)契約を結び、今日のごとき確実な販売方策の端緒が開かれたのである。 かくして事業は年月と共に確固たる発展の途をたどり、創立当初250英トンの工場能力は、わすか5年後の明治38-39年度には既に650英トンとなり、さきに世人から危惧の眼をもって観られた当初の事業、ひいては台湾糖業に対する懸念も雲散霧消し、前途有望なことを認識せしめ得るに至った。 5 第1回増資(12-14頁) ここにおいて当社はますます社業の刷新発展のため、海外糖業地の状況を研究して参考に資すべく、日露戦役のいまだ終らぬ明治38年、常務取締役山本悌二郎氏並びに農事製造に関する機、化、農の三技師をハワイに赴かしめ、つぶさに糖業を視察せしめ、大いに啓発せられるところがあった。以来農場、工場、運輸等各般の新施設に対して、この知識の応用せられたるものすこぶる多く、実にこのハワイ視察こそは、日露戦後の当社事業大拡張に有力なる準備となったものである。 以上のごとく社業の前途に対して十分な見極めがついたので、従来の橋仔頭工場に隣接して、ハワイ式による第2工場(能力400米トン)を併設すると共に、原料製品等の運搬のため蒸気機関車による30インチ幅(ゲーヂ)専用鉄道を敷設し、なお副産物たる糖蜜を原料とするドイツ式酒精工場をも同地に設置することとした。また一方、後壁林には模範農場と1,000米トンの第3工場を建設する等のため、明治39年八月、資本金を500万円に増加し、ここに画期的一大躍進を見ることとなった。 橋仔頭第2工場は、明治39年8月、建設準備に着手し、翌40年末には早くも鉄骨建築、四重圧搾、四重蒸発缶の設備を有し、内容外観共に台湾における最新式工場の先駆をなす工場を完成して、ただちに作業を開始した。 酒精工場は、明治40年5月建設に着手し、同41年4月操業を開始した。これまた台湾において糖蜜を原料とする酒精工場の嚆矢となったものである。 橋仔頭の専用鉄道は、機関車、貨車の外に電話線をも備えたもので、明治40年11月完成した。これが当社専用鉄道の濫觴であり、同時に台湾における30インチ幅(ゲーヂ)専用鉄道の初めのもので、牛車、台車等にのみよっていた従来のサトウキビ輸送方法に比し、全く画期的のものであった。 当社においては創業開始当時すでに橋仔頭に自営農場を設けたが、明治40年には更に鳳山庁下後壁林に模範大農場を開設し、大農式経営に適するよう耕地の区画整理を施し、我が国最初の試みとして蒸気スキを用ひて深耕を行い、すこぶる良好な成績を挙げた。後壁林農場は、今日でも国内に類例を見ぬほどの大農場にて、経営はますます合理化され、農学とその実際方面とに寄与するところ大なるものがある。
2025.11.15
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科学者がメントールとアルツハイマー病の意外な関連性を発見「私たちは、免疫および中枢神経系における嗅覚系の役割に焦点を当てており、メントールが動物モデルの免疫刺激臭いであることを確認しました。」言った結果が発表されたとき、スペインの応用医学研究センター(CIMA)の免疫学者JuanJoséLasarte。「しかし、驚くべきことに、私たちは6か月間この物質への短い曝露が、アルツハイマー病によるマウスの認知機能低下を防ぎ、最も興味深いことで、健康な若いマウスの認知能力を改善したことを観察しました。」持っている以前に観察されたマウスの免疫応答を高めるメントール吸入、ここでチームは、研究室での一連の実用的なテストで観察されるように、動物の認知能力も改善できることを示しました。アルツハイマー病のマウスでは、6か月間のメントールのコースは、マウスの認知能力と記憶能力を劣化させるのに十分でした。さらに、メントールはIL-1βタンパク質を脳の安全なレベルに戻したようです。研究者が免疫系を抑制するのに役立つことが知られているT調節(TREG)細胞の数を人為的に減らしたとき、同じ効果のいくつかが観察され、将来の治療がとる可能性のあるルートを開きました。「メントール曝露とTreg細胞遮断の両方が、これらのモデルで観察される認知機能低下の背後にあるタンパク質であるIL-1βの減少を引き起こしました。」言ったCIMAの神経科学者Ana Garcia-Provision。「さらに、いくつかの自己免疫疾患の治療に使用される薬物とのこのタンパク質の特定の遮断は、アルツハイマー病で健康なマウスとマウスの認知能力も改善しました。」科学者はすでに確立しています臭いと私たちの免疫系と神経系の間。これらの関係は完全に理解することは困難ですが、私たちの嗅覚システムが脳に強く影響を与えることができることを知っています。特定の臭いは脳内の特定の反応を引き起こし、記憶、感情などに影響を与える化学反応につながる可能性があります。
2025.02.22
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 坐禅の本領 その1 坐禅というと、十把ひとからげに、みな同じように思う人があるが、坐禅にもいろいろある。つまりいうと、坐禅を売り物にしている商売禅もあれば、講釈ばかりしている講釈禅もある。見世物にしている見世物禅もあれば、野狐禅というものもある。そうすると、わたしたちが一口に坐禅といっても、その坐禅の中には、仏の坐禅から地獄の坐禅まである。馬勝(めしょう)比丘という人は、坐禅しながら地獄へおちた。なぜかというと独断できめたからだ。つまり四禅天の悟りを開いておきながら、大羅漢の悟りを開いていると、そう独断で思った。四禅天とは色界の四天のことで初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天のことをいい、つまりこの世における悟りである。本当の悟りではなかった。ところが臨終になってみると、あら!四禅天の悟りじゃ。大羅漢というものは、二度と罪の世には生れぬものであるのにー。ところが罪の世に生れてきた。逆とんぼに地獄へ堕ちた。 坐禅の形はひとつである。けれども坐禅さえすればよいというのではない。坐禅さえすればよいといってわたくしのところへ来ているある人は座蒲団を二つも買うて、そりゃ和尚がきたからというので坐禅をやる。そういうきざな、おっちょこちょいなやり方があるものではない。そういうのは偽坐禅で、そいつをきざ禅という、また鼻の先のぶらさげ禅がある。和尚押え禅というやつじゃ。それ以下の和尚がそれに押さえられるから、まことに気の毒なものである。 そうすると禅というものにいろいろの禅があるわけである。永平寺の二代目懐奘(えじょう)禅師の『光明蔵三昧』という書物の中には、餓鬼道禅がある。物が欲しさに坐禅をする。ちょうど犬が尾をふるように、食べ物を得るために奥さんの膝下で尾をふる。餌を得るために尾をふりながら坐禅する。悟りが欲しさに坐禅する。そうするとこれは未到走作の病といってやはり病人である。この未到走作の病にもうひとつある。なにくそ!と友達と競争でやるやつだ。 わたしもなかなか若い時にはそいつがあって、たいがいな人に負けない、たいていの和尚を感心させたものである。わたしはいまだかつて競争は負けたことがない。喧嘩でありうと飯の食い合いであろうと、結局戦のいって命のやりとりまでやって勝ってきた。結局人間には勝ったけれども自分には負けた。そういうものは未到走作の病で、自分がなっておらんものであるから向こうの物が欲しい、それであるから、餓鬼道禅というのである。また友達同士競争で、お互いに血相を変えて、歯を食いしばってやっている。これ修羅道禅である。また坐禅して、牛のように首をぶらさげて寝ているやつがある。これは畜生善である。(『禅談』p.208-209)
2025.10.31
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「関税ゼロだ!」米が異例決断…コーヒー・バナナ優遇、“国内で作れない”理由に消費者保護を最優先米政府が中南米から輸入するコーヒーやバナナ、ココアなどの農産物に対する関税を大幅に撤廃すると、AP通信が13日(現地時間)に報じた。ホワイトハウスは同日、アルゼンチン、エクアドル、グアテマラ、エルサルバドルなどと締結した相互貿易協定の枠組みを発表した。ホワイトハウスは「これらの国の機械や保健・医療製品、情報通信技術、化学物質、自動車、特定の農産物、原産地繊維・衣類に対する関税を引き下げるか撤廃する」と明らかにした。協定締結に参加した実務者の一人は「詳細は後に確定し、署名と手続きを経て発効する」とし、「コーヒー、ココア、バナナなどの価格が重要だ。米国でそれらが生産できないため」と強調した。さらに「関税コストの一部でも消費者が負担しなければならないなら、小売業者がこれを防いでほしい」とし、「今日発表された品目に対する好ましい価格変化があると期待している」と付け加えた。AP通信は「ドナルド・トランプ米大統領は肉加工業者が不法談合、価格固定、相場操作などを繰り返しているとし、『直ちに捜査せよ』と指示した。しかし、4日のミニ地方選挙で共和党が大敗すると、有権者が敏感に考える物価に気を使い始めた」と分析した。
2025.11.15
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「安居院庄七と鷲山恭平」現在27大学図書館蔵書新たに東北大学図書館に蔵書となり28大学図書館となった宇都宮大沖縄国際大鹿屋体育大関西国際大九大九州産大京大神戸学院大駒澤大信州大東海大東京農大東北大弘前大大和大酪農大立命館大他
2025.11.17
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洪水被害の中国河北省、当局者の発言に批判殺到―仏メディア2023年8月4日(金)2023年8月4日、仏国際放送局RFI(ラジオ・フランス・アンテルナショナル)の中国語版サイトは、中国の北京市や河北省を襲った豪雨について、中国共産党の河北省トップが北京市や習近平(シー・ジンピン)国家首席にこびへつらうものだとして批判の声が出ていると報じた。記事は、中国共産党河北省委員会の倪岳峰(ニー・ユエフォン)書記が8月1日から2日にかけて同省保定市と雄安新区の治水、救援作業救済を視察した際「洪水防止の貯水エリアを始動して北京の洪水リスクを低減させる。首都の城を守る堀として断固行動する」と強調したことを紹介。この発言がネット上での論争を引き起こしたと説明した。その上で、多くのネットユーザーは倪氏の発言について、河北省の市民の生死を軽視し、習氏に「忠誠を示す」ものだとの認識を持ち、「選挙で民選されたわけではないので、心中にあるのは『皇帝』のことだけだ」「河北省の役人は河北省民に責任を負わず、上層部に対してだけ責任を負う」「倪書記は北京へ栄転するつもりだ」といったコメントが寄せられたとした。また、普段は中国共産党の「スピーカー」と認識されている、胡錫進(フー・シージン)環球時報元編集長も3日に「北京市、天津市、河北省は地理的に同じユニットにあり、豪雨が降れば運命共同体になる。この時、ある地域を他の地域の『堀』としてはならない。三地における洪水を防ぎ安全を確保する重要性は同等である」と指摘したことを伝えている。記事は、今回の豪雨で河北省は特に涿州市を中心に大きな洪水被害が出ており、現時点で120万人以上が避難を強いられていると紹介する一方、死者数をはじめとする実際の被害データをめぐる議論もネット上で盛んになっており、公式メディアが報じた数字に懐疑的な見方を示すネットユーザーも多いとした。尊徳怒る■報徳秘稿【452】某国城下に河あり。常には細流なれども、暴雨時に至れば洪水天にはびこり、洪々として陵に襄(のぼ)る。前後の家中、屋敷水害を免れず。川下に至りて南を岩村といひ、北を和田村といふ。ともに古より堤(どて)を築きて以て水害を防ぎしなり。近頃河筋変化し、且つ埋りて河代高くなり、家中屋敷水害にかかる事殊に甚だし。こは川下両村の土手にて水を支するゆへ也とて、先年両村に命じて堤を下(ひく)ふせしむ。今年、又和田村に命じて、其の堤を切らしむ。民甚だ不服、洪水の難至らんことを歎きした。其の秋あやまたずして暴雨日を重ね、洪水大いに至る。和田村田畑悉く水害にかかりて、刈り置く稲は或は押し流され、或は石砂の為に埋らる。一村挙げて且つは歎き且つ悲しむ。其の哀泣の声、野にみてり。哀といふも愚なり。是に於いて、上御評議ありて、米百俵を出してそ御救いあり。且つ書をつくりて、彼の土手を切られ、洪水の難には逢いぬれと、万人の愁を引受るが陰徳にて人倫の道なりと、巨細諭されんとて、其の書の可否を先生に乞はれしに、先生之を見て、勃然(ぼつぜん)として大いに怒て曰く、それ洪水は天の災いなり、天の災いは上下ともにこれを受くべし。然るを和田村の土手を切り、洪水を落して、上(かみ)水災を免るとは何事ぞ。しかのみならず、今又此の書作りて、人の愁を引受るは陰徳也、人道也とは何事ぞ。上にて其の愁を引受ずして、剰(あまつ)さへ其の愁いを下民に及ぼし、上其の無道に居て、下に道を教るとは何の偽ぞ。何ぞ民の父母として政を行ふに、偽を以てせんや。若し止むを得ずとならば、明かに厳令を下して曰(い)へ。百姓と家中とは替かたければ、土手を切りて洪水を其の村に落し入れるぞ。されば別に替地を与る間、下民そこ爰(ここ)を立去れ、と令すべし。またしも是の如くなれば、政正して権威も立つぞかし。斯く権威を以て行い申すべき上にありながら、偽りを以て下民を欺くとは何事ぞ。夫れ百姓の儚(はか)なきは耕作に身をあげて、朝より夕、野に出、畑に出て塊(つちくれ)の如く成り、或は耕し、或は耘り、或は蒔き、或は植へ、或は肥灰持運び、或は耘り、若し霜雨日を渉れば、天に仰ぎて晴をいのり、また旱(ひでり)するときは、夜は夜もすがら寝ずして水を引き、弥(いよいよ)旱天極る時は、稲の枯るるを見るに忍びず、地に伏し天にさけんで雨をいのる。漸(ようやく)秋に至て実を得たれば、苅納(かりおさ)め、こき纏(まと)ひ、俵をあみ、貢を計り、始て安心すといへども、己が食する物とては、麦かて雑飯のみ也。嗚呼、仲春種を下してより刈納るまでの辛苦幾許(いくそばく)ぞ。君より家中に至るまで飽食・暖衣、居宅を安んずるは、皆是下民の膏血なるぞかし。されば聖人は、民は維(これ)民の本、本固ければ国安しと宣へり。苟も民の父母として仁政を行んとならば、家中悉く水害に罹るとも、民万苦を尽して頼みとする堤を切るに忍ざるべし。又、洪水は変也、其の変を防ぐは、君並びに家中の任成るべし。近くこれを譬ふるに、異国を船軍もて攻め来たらんに、百姓をしてこれを防がしめ、君・家中安居せんがごとし。異国襲い来るも変也。水災も変なり。されば異国船来らんには、家中必死になりて戦ひ防ぎ、下民の憂を除くべく、水災来たらば、家中其の災ひを受けて下民の患を除くをこそ、君並びに家士の任とはいふべし。それ、今彼の小河の水災甚だしきは、河流変化し、川代高くなるにありて、偏に彼の堤の為と計りはいふべからず。君若し広く救ひ玉ふの仁政あれば、川代を悉く浚ひ上げて、大いに水災を防ぐべし。然るを堤を切り、偽を教へ、家中のを除くとは何事ぞ。況(ま)して民の父母として患をその子に及ぼすをや。★「尊徳の裾野」213頁に佐々井典比古先生が、上記を「尊徳大いに怒る」として訳出されている。「某国城下に河あり。常には細流なれども、暴雨時に至れば洪水天にはびこり、洪々として陵に襄(のぼ)る。前後の家中、屋敷水害を免れず。川下に至りて南を岩村といひ、北を和田村といふ。ともに古より堤(どて)を築きて以て水害を防ぎしなり。」これは『報徳秘稿』下172話の書き出しの部分である。「某国城下」は相馬中村、河は宇多川に相違ない。その宇多川が近年、河筋が変化した上に河床が埋まって高くなり、武家屋敷の水害がひどくなってきた。藩ではそれを、川下の両村の土手が排水を遮るためだとして、先年、両村に命じて堤を低くさせ、今年さらに和田村に命じて堤を切らせた。村民は甚だ不服で、洪水の難を恐れていたが、果たしてこの秋、数日の豪雨で大洪水となった。和田村の田畑はことごとく被災し、せっかく刈った稲も流失・埋没した。一村は悲歎にくれ、「哀泣の声、野にみてり」という有様であった。これに対して藩当局は、評議の上お救い米百俵を出した。それはまだしも<土手を切られて洪水の難にあったのは気の毒だが、万人の愁いを引き受けるのが陰徳で、人倫の道だ>という趣旨を、書面で巨細に諭したらよかろうと、その文面の可否を尊徳にただしに来たのだ。尊徳はこれを見て「勃然として大いに怒り」、数千言を費して当局を厳しく叱責した。洪水は天の災い、天災だ。天災ならば、上(かみ)藩主藩臣も、下(しも)領民も、ともどもに受けるべきだ。それを和田村の土手を切って洪水を落として、上だけ水害を免れるとは何事か。その上こんな書面を作って<人の愁いを引き受けるのが陰徳だ、人道だ>と諭そうとは何事か。上で愁いを引き受けぬばかりか、それを下民に押しつけ、上が無道に居ながら下に道を教えるとは、何という偽りだ。民の父母として政を行うのに、どうして偽りを使うのか。もし、ほかに方法がないというなら、はっきり厳令を下して言うがいい、<百姓と家中では替えものにならぬから、土手を切って洪水をこの村に落とし入れるぞ、ついては別に替え地を与えるから、下民は早くここを立ち去れ>とな。そうすれば、まだしも政は正しく、権威も立つというものだ。このように権威をもって行わず、偽りをもって下民を欺くとは何事だ。百姓とはふびんなもので、朝から晩まで土くれのようになって耕作に励み、長雨が続けば晴れを祈り、ひでりが続けば夜の目も寝ずに水を引き、干ばつが極まれば地に伏し天に叫んで雨を祈る。ようやく秋になって実りを得て、年貢を俵に詰めてほっと安心するが、己の食いぶちには、『麦かて雑炊』しか残らない。種まきから刈り納めまで、全くどれほど辛苦したことか。領主から家中まで飽食暖衣して居宅に安住していられるのは、皆これ、民の膏血(こうけつ)なのだ。だから聖人は『民はこれ国の本、本固まりて国安し』(大学)と言った。いやしくも民の父母として仁政を行おうと思うなら、たとい家中ことごとく水害にかかろうとも、民が万苦を尽し、頼みとしている堤防を切るに忍びないはずだ。・・・宇多川の水害が甚だしいのは、流路が変化し河床が高くなったのが原因であって、一概に下流の堤防のためとはいえない。領主にもし国中を広く救おうとの仁心があるならば、河床の堆積物を全部さらい上げて、大きく水災を防ぐべきだ。それをせずに、堤を切り、偽りを教え、家中の難儀だけ救おうとは何事か。まして民の父母として、難儀を子に押し付けるとは言語道断ではないか。」 このように尊徳は、尊徳は農民への同情と、当局の階級エゴ・無責任・欺瞞に対して怒りながら、為政者の責務を説き、災害防除の抜本策を教えた。 斎藤完高の『奥相志』の、宇多川の項に、「河大ならずといえども、甚だ雨降れば洪水城下にあふれ、水害少なからざる故に、弘化4年(1847)の春、河をさらい堰を修し、嘉永3(1850)の年に至りて成る」(「相馬市史」4巻76頁)とあり、尊徳の指示通り抜本的改修を行ったことがわかる。
2023.08.22
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信濃川改修工事 その9 附帯工事 としてはこの付近海岸線に沿うて弥彦国上の山々が起伏断続している近傍を信濃川の巨流が流れているので、三島、西蒲原両郡の一部は自然ここに低窪な一区域を形造ってなお島崎川がこれを横断流過しているから、常に悪水の排除に苦しんでいる状態である。由来大河津分水路開鑿の目的は本川沿岸の水害防御と共に、この間における耕地の灌漑並びに悪水排除もその一つに数えられるものであって、即ち蒲原用水路、信濃川新用水路東西合併悪水路、落水悪水路眞野代用水路等の諸工事を附帯工事として直接施行せんとするものである。 信濃川河口工事 は浚渫、突堤、護岸及び灯台建設の四種であって、浚渫は河口から上流へ長さ二一八二m、幅員一八一m八、深さ七m五に、海港は長さ七二七m二、幅一八一m八、深さ九mに達せしめる計画であって、この総浚渫土量は約一三五万㎥である。西突堤は水面上高三m六、堤頂の幅員七m二七、長さ一五一m七に築くものであって、その基礎は一個の重量半トン内外の天然石を上幅九m両法一割五分で低水面に達せしめて、これ以上はコンクリートの直壁とし、海 には一箇の重量一四トン及び二四トンのコンクリート方塊を投げ入れてその全部を包被し、河側には一四トン塊を以てその一部を包被するものである。 西突堤の頭部には直径一〇m九一の同形直壁を造り、その上に灯台を設けて航路標識の用に供するのである。又突堤付根から上流一、一八一mの左岸を保護するため沈床、根杭及び石張から成る護岸工事
2024.02.24
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「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 7 推譲の歌 (111頁)餌(え)を運ぶ親のなさけの羽音には 目をあかぬ子も口をあくなりこの歌は愛情を詠んだもので「慈悲」という題名がついています。この歌のポイントは「親のなさけ」です。親子の愛は仏の慈悲とも感じられ、これをこの歌の題をしているのです。*餌(え)を運ぶ 親のなさけの 羽音には 目をあかぬ子も 口を開くなりこれは親の慈悲の歌である。尊徳先生は、父利右右衛門35、母よし21のときの長男である。4歳のとき、弟友吉が生まれ、13歳のとき、末弟の富次郎が生まれた。家は小田原栢山地区の中堅の農家だったが、先生5歳のとき8月5日の暴風雨により酒匂(さかわ)川が決壊し、田畑は一面に石や泥だらけになった。7歳のとき父は負傷し、田を質に入れて開墾を続けたが、病気がちで11歳の頃からたびたび床に伏すようになった。金次郎は父にかわって川の堤防工事に出たり、わらじを作ってはそれを売ったわずかな金で病に伏せっていた父に酒を買ってきて喜ばれた。親の喜びは自分の喜びであるということを身をもって体験されたのである。もはや父の病の薬代さえ払えず、父は残った田を売り払い、医者への謝礼とした。しかし医者は受けずようやく半金だけ受け取らせて残り半金を生計のたしにできると喜んで帰ってきた。金次郎は父を気遣って家の門口で父の帰りを待っていた。父が医者の慈愛のある言葉を喜んで、顔に笑みを浮かべて舞うように喜んで帰ってくる。「お父さん、どういうわけでそんなにも喜んでおられるのですか」と問うた。父は、医者の慈愛のこもった言葉はこのようであったと話した。「私はおまえたちをこれで養育することができる。喜びにたえない」後年、尊徳先生は門弟たちに夜話されるとき、親の慈愛を思って涙を流されて語られたのであった。金次郎が10歳、友吉が7歳の頃である。母の実家の曾我別所の川久保家で法事があり、供養に招かれた。父が病気のため伏せっていた。母は貧乏のため、ボロの着物しかなかったが、二人の子どもを連れて出かけた。「今日はほとけ様(亡き父親)の正客なのですよ」お坊さんが来て読経をして、縁者が皆来合わせて焼香をした。法事も終わって、本膳となり懇談することとなる。ところが、他の者は当主太兵衛(よしの兄)の挨拶にしたがって、それぞれ膳についた。しかし、母にはなんの言葉もなく、台所で普段使っている薄汚れた膳で食事をさせたのであった。母は悔しさと恥ずかしさで胸がはりさけんばかりであった。母は食事を終え、墓参りをすますと、挨拶もそこそこにいとまごいして帰路についた。「いくら貧乏でまともな着物でないからいって、実家の仕打ちはあんまりだ」不機嫌になって顔色も悪かった。金次郎はそんな母をきづかって、母に問うた。「母さん、おかげんがわるうございますか。」「お前は何事にも父さんや母さんのことをよく心配してくれるねえ。喜ばしい。 何も悪いところはないよ。心配しなくて大丈夫だよ。」「それでも母さんのお顔の色が悪いですよ。 母さん、今日、わたしにはわからないことがございます。 母さんは曾我へまいるときは、仏さまにとって正客だとおっしゃったのに、ほかのお客様は和尚さま同様に本膳でお座敷でした。 母さんは台所で普段使っているお膳でしたが、どういうわけでしょうか。」 母は胸も張り裂けそうな思いから、顔を横にそむけ、涙を流して、しばらく言葉もなかった。 しばらくしてから「お前は子どもなんだからそんなことは聞かなくてもいいよ」「わたしにはわかりませんからお教えください」「あれは私の身勝手で、父さんは病気だし、友吉は小さい。早く帰りたい。でも皆さんとご一緒だとうちへ帰るのが遅くなるからだよ。」「母さん、そうではありますまい。皆さんとずいぶん違いました。私は曾我が悪いと思います。」 母は返答に困って涙を流すばかり。金次郎はこれを見て謝った。すると母が「病気のお父さんのお耳に入れてはいけないよ」と念押しした上で金次郎と友吉こう言い聞かせたのであった。「二人ともよく聞いておくれ。 父さんの病気がちはもとはといえば、酒匂川の堤が破れて田地が流されてのこと。 不幸が重なり、何の貯えもなく、貧乏して親類の世話になり、何事も心にかなわず、馬鹿にされている。 これは親類が悪いのではない。こちらが悪い。人を恵むものなど世間にはまれだ。 母さんが生まれた里でも肩身がせまくて残念だけれども、これも不運でしかたがない。 何もしらないお前たちにまでこんなことを聞かせ、苦労させるのは親の恥だけれども、こういう困窮の家で親子となるのもなにかの因縁だ。親の未熟とあきらめておくれ。 」 涙ながらの母の言葉に、金次郎も胸いっぱいになり、やや久しくしてきっと唇に決意をこめてこう言った。「母さん、よく分かりました。父さん、母さんきっと長生きしてください。 わたしが成人したらよく精出して働いて父さん母さんをきっと楽にして安心させます。 」 母はこの言葉に機嫌を直し、「まだ、年もいかないのによくそう言ってくれた。」と二人の子どもの手をしっかり握り締めてから、三人手をとって、楽しくうれしく父が待っている家へ帰ったのであった。これが、おそらく二宮金次郎の願の原点である。この父、母の慈愛あればこそである。
2025.03.29
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青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)210-212頁インドに立ち、釈尊の声を聞く徹底平等を説く仏教こそ『生まれながらにして尊卑あり』と説くヒンズー教のもとではインドの差別撤廃の見通しもなく、まして不可触民たちの明日への道を開くことはできない。徹底平等を説く仏教によるより他に道はないと、アンベドカルは晩年に仏教徒に改宗し、アンベドカルを船頭として、不可触民たちは大挙して仏教徒となった。 従来の仏教徒と区別して新仏教徒と呼び、このムンバイ郊外には350万人の新仏教徒がいるという。 生まれによってバラモンなのではない 生まれによって非バラモンなのではない 行為によってバラモンなのである 行為によって非バラモンなのである (『経集』) ここでバラモンと呼んでいるのは、いわゆるバラモンのことではなく、「聖人」の意味と受けとめたらよい。人の尊卑はどこまでも行為によると、すでに2500年前に繰り返しお説きに下さった釈尊のお心を思うことである。*ブッダのことば ― スッタニパータ (中村 元)(p31) 生れによって賎しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(p115) 630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、-かれをわたしはバラモンと呼ぶ632 粗野にならず、ことがらを伝える真実のことばを発し、ことばによって人の感情を害することのない人、-かれをわたくしはバラモンと呼ぶ636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、-かれをわたくしはバラモンと呼ぶ(p118) 655 苦行と清らかな行いと感官の制御と自制と、-これによってバラモンとなる。これが最上のバラモンである。(p143) 762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦悩」であると言う。他の人々が「苦悩」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。(p169) 931 虚言を避けよ。よく気をつけて詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知慧に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。
2025.03.30
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「安居院庄七と鷲山恭平」「沢木興道 この古心の人」よりp.305-3087 松阪養泉寺単頭時代の行状養父文吉の死大正3年養父沢木文吉が胃がんでなくなった。68歳だった。後年、内山興正和尚が言った。「老師は文吉さんのため、えらい苦労をなさいました。文吉さんは、老師にとって麦踏みみたいな存在だったんですね」興道は養父のために小遣いを工面し養父に差し出した。「あんたの顔見ると、私はいつもまじめにならんわけにいかんわな。私が世間並みに堕落せずにやれていられたのは、あんたが生きておったからやがな。これからも、あんた、体を大事にして長生きしてや。」後年興道は言った。「養父はわしに堕落予防剤のお布施をしてくれた」「世間にはこうしたお布施もあるもんじゃ」○酒井得元著『沢木興道聞き書き』「経済生活を追い求めたら道は求められないと決まっている以上、仏道の行者にとっては、宗門の規則や資格というようなものは別に益するところはあるまい。これらのものは仏道のことでなくて、人間娑婆世界の生活上のことである。仏道の行者が修道を捨てて娑婆と関係をもとうとするとき、規則と資格によらなければならなくなるのである。 娑婆世界のことは、そのときどきのご都合次第だけのことであるから、猫の眼のように変わるのが当たり前である。真実に生きんとするものは、こちらからその都度これに応ずるには及ばない。次から次へと変わってゆくものを追っかけて一生ふらふらしていたのでは、それこそ一生を空しくしてしまうものである。」
2025.03.30
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セブン-イレブン、政府備蓄米を使った「無洗米2kg」を「775.44円」で順次販売6/9(月) セブン-イレブン・ジャパンは6月17日に、農林水産省との随意契約によって調達した政府備蓄米を、利便性と衛生面に配慮して「無洗米」に加工した上で、東京都・大阪府・愛媛県・香川県・徳島県・高知県をはじめとした「セブン-イレブン」約5000店舗にて販売を開始する。2kg入りで価格は775.44円。以降、順次全国へ展開を拡大していく。今回、販売される「政府備蓄米 無洗米 2kg」は、長期間保管されていた備蓄米を安心して食べてもらえるよう、異物を丁寧に取り除くとともに、カビなど品質に問題ないかの確認を徹底するなど、安全性に配慮して商品化されている。 あわせて、無洗米として提供することによって、洗米の手間を省いてすぐに炊飯できる手軽さを実現するほか、節水にもつながる。
2025.06.10
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スープは病気のときに効果があるのか? 300人以上を対象に分析 英国と豪州の研究チームが発表7/24(木)英国のUniversity of the West of ScotlandやオーストラリアのUniversity of Adelaideに所属する研究者らが発表した論文「Were Our Grandmothers Right? Soup as Medicine-A Systematic Review of Preliminary Evidence for Managing Acute Respiratory Tract Infections」は、急性呼吸器感染症に対するスープの治療効果について体系的な文献レビューをした研究報告だ。研究チームは2024年2月までに発表された1万598件の論文を検索し、最終的に4つの研究(合計342人)を分析対象とした。これらの研究は北米とアジアで実施され、子どもから高齢者まで幅広い年齢層の風邪やインフルエンザ様症状を持つ患者が含まれていた。 分析の結果、スープを摂取した群では症状の重症度が軽減し、病気の期間が1~2.5日短縮することが明らかになった。特に鼻づまり、のどの痛み、咳などの症状に改善が見られた。さらに、2つの研究では炎症性バイオマーカーであるインターロイキン6(IL-6)、腫瘍壊死因子α(TNF-α)、C反応性蛋白(CRP)の減少も確認できた。 研究で使用したスープは主に鶏肉ベースで、にんじん、たまねぎ、セロリなどの野菜や、パセリ、コリアンダー、ミントなどのハーブが加えられていた。ある研究では中国伝統医学に基づく薬膳スープも検討され、朝鮮人参、生姜、シナモンなどを使用していた。対照群には介入なし、または代替飲料(水やお茶など)を与えた。 スープが呼吸器症状を改善するメカニズムとして、研究者らは複数の要因を挙げている。まず、温かい液体が粘液の排出を促進し、鼻の通りを良くする。水分補給により脱水を防ぎ、体の回復を助ける。さらに、鶏肉のタンパク質や野菜に含まれる栄養素が免疫機能をサポートする。 研究者らは、スープが従来の治療法を補完する安全で文化的に受け入れられやすい介入方法として有望であると結論づけている。特に医療資源が限られた地域では、低コストで実施可能な健康増進策として価値があるという。
2025.07.24
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 坐禅の本領 その4 道元禅師の 濁りなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなる それが信仰というものである。 信仰というものと坐禅というものとを別物に考えて、坐禅は信仰ではないというが、こうやってしみじみ自己に親しみ、もっとも澄んだ自己をこしらえるのが、それが信仰というものである。ただボンヤリ坐れば、自分というものと坐禅というものと二つあるわけである。自分と坐禅とがひっつかない。自分と坐禅、自分と仏と二つある。仏が遠い所に見える。これではいかん。 坐禅とこの沢木はひとつであるということを信ずる。坐禅が沢木で沢木が坐禅だ。ちょっとも隔たっておらん。沢木そのものが坐禅するということを信ずる。それがちょっともそうなれん。坐禅と沢木と遠い所にある。坐禅していて、道で会うた娘さんのことを思ったり、よそのことを思っている。坐禅というのは巍々堂々として富士山のようなものである。グニャっとしておったり、居眠りをしておったりしていてはならん。ウンと坐って坐禅のほうへ沢木がひっとらえられてくる。これを三昧という。三昧ということは自性清浄のことである。本当のおれというものである。白隠和尚は「衆生本来仏なり」といわれたが、この自性清浄にひっぱられるには、非常に真剣に、すきまのない坐禅をウンとしなければならん。 むかしある時には、わたしは光陰むなしくわたることなかれと思って、時間をつぶすのがもったいないのを、がんじんよりでもしようかと、内職をしておった。坐禅ばかりしていた沢木が負けた。坐禅が沢木に勝った。凡夫に勝った坐禅であるから、そこでまったく見方が違う。坐禅からひっぱられた。坐禅と自分の間に、文(あや)、模様がある。その両者間の模様が坐禅をするといかにもよくわかる。 坐禅せよといっても、坐禅の内容にいろいろある。坐禅とわたしの間に、そこに世界を見るような、非常に大きなもの、複雑なものがある。それを文学にひきのばしたものが、『一切経』というものである。『華厳経』八十巻、ウワッ・・・『大智度論』百巻、ウワッ・・・どえらい文学が現れているが、これはみな凡夫と仏との間、坐禅とわたしとの間の、あやをひきのばしたものだ。 結局全身の中から、あらゆるものをサラッとぶっ通して、それを指したのが三世通観の禅だ。過去、現在、未来の通観である。「これを古今に通じて謬らず、これを中外に施して悖らず」そういうものを三昧の中から見なければならん。(『禅談』p.212-214)
2025.11.03
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33 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 213~218ページ 後年、明治42年(1909年)正月に、日本醤油醸造株式会社の社長として得意の絶頂にあった時に、藤三郎は、この念願を『実業之世界』誌上に、「余は何故に六十歳を以て実業界を去るか」という談話筆記を発表して、当時、一のセンセイションを起したものである。それは、次のように語り出されていた。「私は、今日、社会に向かって一つの約束をしておきます。それは、私は60歳になったら、断然、実業界を去って、袈裟衣に身を固めて、それから後の一生を、天下の布教に捧げようと、決心しているということです。今、こんなことを口外するのは、甚だ突飛で、嘘をいっているというよりは、むしろ馬鹿馬鹿しく聞えるかもしれませんが、私には、前から動かない決心があるのです。しかし、それまでの寿命がなければしかたがありませんが、命さえあったら、必ず初一念を貫徹して、私が、今、申し上げたことの偽りでないことを証明する覚悟であります。それではいったい、どうして、そんな考えを起すようにようになったのか?これは久しい前からの私の念願で、私は少年時代からいろいろの境遇を経て、さまざまに思想も変転した結果、ついに私の一生の事業として、ここに帰着するようになったのであります。」こう話し出した藤三郎は、少年時代に貧乏だったために、富んだ者達から不当な圧迫をこうむったのに憤慨して、青年時代は金もうけ一方に努力していたが、偶然の機会から二宮尊徳の教えを知るようになってからは、報徳の心を中心にして事業を行ってきたことを述べたあとで、実業界引退以後の具体的計画について、次のように語っている。「私は、これまでいろんな事業に手を出しました。種々の発明をして製糖もやって見たし、今は現に醤油の醸造に従事しています。ひと通りの財産も作ったが、尊徳翁の教えに従ってからは、決して不浄の金は貯めていないということを、ここに公言してはばかりません。しかし、私は単に金をもうけるばかりが、終生の希望では決してない。もうけた金で、社会公共のために尽くしたいというのが、私の一生の目的であります。それですから、私は財産の全部を子孫に残そうという考えはありません。試算の3分の2をさいて、子孫の生計の資に当て、残りの3分の1で、思う存分に自分の志す事業に努力したいと考えています。それについて一つ深く感じたことは、今日、言論の自由ということを、なんでもないように人はいいますが、これはなかなかむずかしいものです。いろいろの事業に関係しておっては、その事業のために制御されて、真に自分の信念を貫徹して、その主張を実行することはおぼつかないものです。ほかからなんらの制限を受けないで、全く自由に、あくまでその志を貫こうとするには、どうしても世俗的な事物と全く絶縁しなければ、むずかしいというよりは、むしろ不可能のことであります。それで、私は60歳を一期として、断然、実業界を去り、すべての関係を打ち切って、世間の俗事とはなんらの交渉もないものになりたいと思っております。」ここで言葉を改めた藤三郎は、60歳以後の具体的計画を詳しく語っている。「それならば、なぜに60歳で引退するかといいますと、これにはいささか理由があります。昔から60歳を還暦と称して、人の寿命は60歳を限りとし、60で暦はまたもとに還って、その後の命は、もうけ年としてあります。寿命だけは働かなければなりません。人間の尽すだけのことは尽して、天命を全くした上で、余命を捧げて社会公共のため、世道人心の救済に、一生を終ろうという念願なのであります。 さて、そこで社会の俗事と全然絶縁して、自由の身となるには、どうすればいちばん都合がよかろうかと考えますと、これには、断然浮世を捨てて、坊主になるのが、何よりいいようです。 それで、60歳を一期として、いよいよ坊主となった暁には、前にもちょっといった通り、財産がいくら有っても、その3分の1は必ずさいて、その内のいくぶんで、放言寺という寺を建立して、残部を、その維持費として、一文でも他人の世話にはならない決心であります。そして、自分も放言故事と名乗って、フロック・コートに袈裟をかけて、家事にはいっさい口出しをしません。もちろん、その時には、妻も持ちません。全く生れ変った一個の雲水坊主として、立とうと思います。この考えは、私が33歳の時にすでに起したもので、深く考えた結果であります。かつて自分で、60歳以後のことを想像して、描いた画があります。これも、他人の世話にならないという考えから、多少画心のあるままに自分で描いたものであります。 それで、だいたいの計画をいってみますと、60歳で実業界を去って、後の5年間は、家政の整理や、寺の建立や、その他の準備に費して、65歳からいよいよ放言坊主となって、二宮尊徳翁の提灯持をするつもりです。翁は、実に私の一生の最大恩人で、私が今日、人間らしい者になったのは、全く翁のおかげでありますから、その御恩返しに、ぜひそれをやらなければなりません。私は幸いにも、翁の教えを奉じて、不正の富はいたしませんでしたが、私の布教の資金が、もしも無理をして得た不浄の金であったならば、いかほど高尚なことを説いて、いかに人に恵んだからとて、決して人を感化することはできません。この点では、私は、自分の幸福を喜んでいます。また、深く二宮翁に感謝しなければなりません。 今日、仏教やヤソ教などの坊主のやっていることは、私は、甚だ面白くないと思っています。彼らは、説教を聞きに来る善男善女の喜捨を仰いで暮らしているではありませんか。そういうことでは宜しくない。私は、貧乏人には、金を恵んでやって布教をするつもりです。いかにまずい私の説教でも、金をくれたならば、自然に人も多く集まり、勢い教えも広まることとなって、私の目的を達する上にも、非常に効果があろうと信じております。 こういう風に、フロック・コートに袈裟姿の一種変ったいで立ちで、放言居士の名乗りをあげて、独立独歩、いささかも他人の厄介とならず、他人に口ばしを入れさせないで、自分の信ずる通り、二宮尊徳翁の報徳教を奉じて、あまねく天下を行脚して、悪いことをしたり、放浪している人物を救い出し、堕落した人、迷っている者を引き上げて、人間の正しい道につかせて、ともに幸福を喜びたいと希望している次第です。」(「実業之世界」明治42年1月1日号)(以下、鈴木五郎氏の上記「余は何故に六十歳を以て実業界を去るか」に対する評論部分については、本稿の鈴木藤三郎氏顕彰の趣旨とあわないので省略する。) 藤三郎の念願とするところは、自給伝道にあった。多年の事業は、事業そのものばかりが目的ではない。その事業でも世を益しながら、自給伝道の資金を得るというところに、究極の目的があった。彼のこの考えは、終生変らなかった。フロック・コートに袈裟をかけた、当時の仏教徒としては飛び抜けて進歩的な姿の自画像を、鉄工部や日本醤油会社の応接室に掲げて、その日の来るのを楽しみにしていた。しかし、その後、運命に大逆転があったばかりでなく、数え年59歳で没してしまったので、彼のこの念願は、ついに実現はできなかった。
2025.11.04
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 坐禅の本領 その5 坐禅というものはそういうものであって、そういう坐禅をしなければならんのに、そいつがどうも外側へ出がちである。尋常六年の教科書に「無言の行」というやつがある。また無住法師の『沙石集』という本の中には、無言の行ひとつについて長い文章が書いてある。それは、宗教、坐禅は内側のものでなければならんのに、外側へ飛び出した。内側に蔵して持っていなければならんのを、外側へポッとだしてしまった。そこを皮肉ったものである。あれはおもしろい。人に物を言わない、あぐらをかいて内側に持っておらなければならん。そとへだしてはいけない。この回光返照がなかなかできない。本を読むにしても内側へ持ってゆけばよいのを、こいつをひとつ生徒を感心させるために使ってやれーというわけで、受売、小売がはじまる。 われわれ人間というやつは内側に持っておればよいものを、すぐ外側へだしたがる。内側へもどすということが肝心である。足許をちょっとも見ない。筒でのぞいているように向こうばかり見ている。「貴様なっておらんぞ、赤ん坊をどうしているんだ、この飯の炊き方は何だ」と、人のことばかり見る。足許をちょっとも見ない。 そこでわたしは、回光返照の宗教という。眼鏡が筒になっているから、足許は見えずに人の方ばかりよくわかる。あれも駄目、これも駄目と、自分だけは抜きにしている、いやしくも坐禅を修行するならば、それは自己のものでなければならん、外側へださんようにー。『学道用心集』の中に、「唯吾我を忘れて、潜かに修す」とある。京都大学にわたしがいくようになってはじめた会の名を「潜行会」といった。ひそかに行う。見せびらかすのでなく、ひそかに修行するのである。そうすると生徒監が眼の球を光らして、思想問題を研究するらしいが、潜行する会というのは怪しいぞとにらんだものである。なるほど世の中には、悪いことは内緒でするにきまっている。われわれは悪いことは見せびらかしてやる。良いことはひそかにやる。「吾我を忘れて、潜かに修す、菩提心の親しきなり」だ。(『禅談』p.214-215)
2025.11.04
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33※裾野市史 第四巻 575ページ421 県下巡遊雑記・佐野の鈴木農場(1)明治40年(1907年)9月11日 県下巡遊雑記 斗南 佐野の鈴木農場(1)◎東海第一の農園 製糖王より醤油王に転ぜんとしつゝある代議士鈴木藤三郎氏の経営に係る鈴木農場は、富士郡富岡村桃園、佐野駅を距る15町まる山紫水明の仙郷に設けられてある、広袤(こうぼう:面積)実に百町歩、もと東宮武官長を奉職された故黒田久高氏の所有で、明治9年頃茶園10数町歩を開墾し農場の端緒を開かれたが、何分収支相償わぬという所から、これを鈴木藤三郎氏に譲渡されたのである。発明家としての鈴木藤三郎氏、工業家としての鈴木藤三郎氏は、別に田園生活の瀟洒なる趣味を愛せらるゝ処から、予(かね)て模範農場の計画をなしつゝある際であったから、直ちに黒田中将との売買が成立し鈴木氏は明治33年からこの農場の経営となす事となり、今は果樹園、茶園、蔬菜園、山林、畜牛、養馬、家禽の7部に分れて規模広大、規律整然たる大農場となった。果樹園は反別8丁1反1畝歩(せぶ)でその内リンゴは4丁歩、柑橘8反6畝歩、梨4反歩、ブドウ1丁4反歩、桃5反歩、スモモ2反歩、ビワ4反5畝歩、梅3反歩に分れている。リンゴと桃とは特に成績がよろしく夏橙(なつだいだい)もなかなかの優等品ができる。ブドウは将来醸造をなす目的で昨今試作中である記者は梨の一種太白というのを頂戴したが、その美味忘るべからざるものがあった。(つゞく) (静岡新報) 422 県下巡遊雑記・佐野の鈴木農場(2)明治40年(1907年)9月13日 県下巡遊雑記 斗南 佐野の鈴木農場(2)◎東海第一の農園 果樹園に次いで茶園は能く整理している。広袤14町歩の茶園はいずれも良種を選んであるから、産出高もなかなか多い。昨年は茶摘女100人、製茶師25人で乾茶千貫目を造った狭山茶の内地向を主としている。次に蔬菜園1丁5反歩、これは人参、里芋、サツマイモ、ゴボウなどが盛んに作られてある。蔬菜の全部は小山の紡績工場へ一手に売り捌いている。次に山林87町余、ヒノキを主として一手に売り捌いている。次に山林87町歩、ヒノキを主として松杉が多い。苗圃を造って年々増殖しているが、10年20年の後蓊園たる林を成したならば真に形容すべからざる盛観を見るであろうと思う。畜牛場は2ヶ所に分れてエーアシャ純粋牡牝、ホルスタイン雑種等40頭を養い乳牛よりは毎朝5斗以上の牛乳を出している。これは不日製乳を行う計画で目下器械の据付中である。養馬8頭、家禽400羽、いずれも当代の良種を選択して模範的に飼育している。特に家禽中の養鶏は場主の令息鈴木嘉一郎氏が非常なる興味をもって興味をもって直接に管理されているので成績大に見るべきものがある。その種類は (愛玩用)金色鷹羽ハンバーグ、銀色鷹羽ハンバーグ(産卵)黒色ミノルカ (卵肉兼用)白色ソイアンドット、銀色ソイアンドット、白色プリマースロック、サザナミプリマースロック、パフオーピントン、名古屋コーチン鶏舎の清潔にして管理の整然たる真に養鶏家の模範とすべき所である。記者と同行したる石川政吉氏は一番の鶏より増殖して今は300羽を飼育しつゝある養鶏家であるが、この家禽部を見て、大いに参考に資する所があったといわれている。(つゞく) (静岡新報)423 県下巡遊雑記・佐野の鈴木農場(3)明治40年(1907年)9月15日 県下巡遊雑記 斗南 佐野の鈴木農場(3)◎富豪の田園趣味 この大規模なる農場がいかにして経営されつつあるかというと、労役一切は場内の農家10家のものを使用している農家は、家屋器具一切を農場で供給し相当の日給を与うる外に、1戸につき2反歩の自作を許してある。されば10戸の農家、約50人の家族は一致共同して農場のため献身的に働いている。しかしてこれを監督するためには主事河合徳太郎、技手田雑英一、主計谷田久松3氏が熱心に事務に当っている。その上に昨今は場主鈴木氏の令息嘉一郎氏夫妻がこの別荘に起臥して直接に監視督励するので、事業の発展には一段の進歩を現している。嘉一郎氏は大人の気風をそのままにうけて、温良着実、真に敬慕すべく、大人の志業に向て守成の位置に立つには極めて適当なる人格であると思う。▲広袤100町歩のここかしこに付属農戸が散在している。その間に四阿(あずまや)造りの休憩所で一息つきながら徐(おもむろ)に目を挙げれば箱根の秀嶺は眼前に迫って翠色(すいしょく:緑色)滴り、佐野瀑園より来る清流は脚下に流れて淙々(そうそう:水が音を立てて流れるさま)の響あり。更に眼を放って展覧せんか伊豆半島の翠巒(すいらん:緑の連山)、駿河湾の青濤(せいとう:青い波)、特には牛伏の絶勝手に執る如し。かくの如き奇勝は稀に見る所であるが、場員の語る所によれば富嶽の全景はここより見るもの天下一品の称ありと生憎の雨天にてこれを見るあたわざりしは遺憾であった。▲この農場所在地はもと定輪寺の上地で桃園貞純親王とは深い関係があると見え、38年10月中、鈴木藤三郎氏が竹林の中から貞純親王の古塔を発見され、今現に農場の一区域にこれを安置し、鈴木氏発見の由来を記した碑石が建てられてある。(完)(静岡新報)※「斯民」第1編第9号 84ページ「静岡県佐野実業大会本月(明治39年11月)9日鈴木藤三郎氏を会長とせる佐野実業会は、冬季大会を静岡県駿東郡佐野町尋常高等小学校において開催し、駿東全部の重立たる人々来会し、簡単なる協議ありたる後、鈴木藤三郎、留岡幸助氏等の報徳に関する講話ありて、閉会したるは日没頃なりき。その夜、留岡氏は鈴木氏の別荘に泊し、夜より翌日午前にかけて極めて趣味ある談話を相互の間に交わし、鈴木氏が老後の精神的本陣として経営せらるる農場を一巡し、鈴木留岡両氏は、10日午後1時の汽車にて帰京せられたという。」
2025.11.08
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■米でオープニング興収1位、ハリウッド大作並みの大成功 ニューヨーク・タイムズ紙によると、9月に公開された『鬼滅の刃 無限城編』は公開初日の木曜夜から日曜日までの4日間で、アメリカとカナダで約7000万ドル(約106億円)の興行収入を記録した。北米アニメ映画のオープニング週末興行収入として過去最高となる。 アナリストの予想を約55%も上回る特大級のヒットとなっており、これまでの最高記録であった1999年の『ポケモン ミュウツーの逆襲』を大幅に更新した。同作は当時の金額で3100万ドル(現在のレートで約47億円)、インフレ調整後で約6100万ドル(同約93億円)であった。 『鬼滅の刃』は、鬼に家族を殺された少年・竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)を主人公とする冒険譚だ。唯一生き残った肉親の妹・禰豆子(ねずこ)だったが、鬼の血に感染してしまったことが発覚。妹を人間に戻す方法を探すべく炭治郎は鬼殺隊に加わり、人々を襲う鬼を討伐してゆく。今回の『無限城編』では、鬼の総大将である鬼舞辻(きぶつじ)無惨(むざん)の本拠地に突入した炭治郎たちが、目まぐるしく変化する要塞の中で死闘を繰り広げる。 映画はすでに日本でも7月18日に公開され、記録的なヒットとなっている。盛況は海外メディアにも取りあげられた。米ディプロマット誌は9月11日時点で同作が317億円を売り上げ、日本映画史上2位になったと報じている。歴代1位は同シリーズの前作『無限列車編』(2020年)だ。3位以下は順に『千と千尋の神隠し』『タイタニック』『アナと雪の女王』となっており、『無限城編』はこれらを大きく引き離した。 米ブルームバーグのコラムニストは、『無限城編』の興行成績を、「ジェームズ・ボンドや『ワイルド・スピード』といった、ハリウッドの主流大作に期待されるレベルの数字」だと評価。英BBCによると、英国でも好評であり、『ダウントン・アビー』最新作に阻まれて公開第1週の首位は逃したものの、2位の座を射止めている。
2025.11.10
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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 229~235ページ この説明を聞きながら海浜に出た一行は、海水を導入する装置のある所に案内された。広い砂浜に井げたのようなものが3,4カ所あって、その先のさざ波の湧き立っている海面にも、赤塗りにした大きな鉄筒の表面が、波の合間合間に見え隠れしている。そして、砂中に埋設してある鉄管で、この井げたと鉄筒は通じている。干潮のときには、赤塗り鉄筒のある付近は、鉄管が露出するのだが、今は満潮なので、それは見えない。ただ湧き騒ぐ白波が、赤塗りの鉄筒と照りはえて美しかった。「満潮のときの海水は、干潮のときよりも塩分に富んでいます。それで満潮のときに、この比重の重い海水が、勢いよく海中に突出した鉄管に打ち込まれるように設計してあります。そして、海水は、この37間の鉄管を過ぎ、100余間の土管を通って、貯水池に送られるのです。」 藤三郎が、こう説明すると、支配人が井げたの蓋を押し開けた。中には、海中に通じている鉄管と、貯水池に達する土管との両端が、径三尺ばかりの井戸を中央にして、両方から大口を開けているのが見える。井戸は深く掘られて、それに海水が一杯に溜っている。これが『砂取りタンク』である。「導水管の先端には、砂除けの装置がありませんので、海水といっしょに打ち込まれた砂が、鉄管内を埋めやしないかと心配しました。それで、この設備をしておけば、水とともに送られた砂は、このタンクの中に沈んでしまうので、3,4カ所のタンクを過ぎれば、海水には全く砂が混じらなくなるはずです。これがこの設備をした理由ですが、しかし、今までの経験では、砂は、ほとんど鉄管には打ち込まれないようです。それよりは、最初に導水管を敷設するときに地下は掘っても掘っても砂ばかりです。どんなに深く掘って埋設しても、少し海が荒れると、すぐに破壊されてしまいます。また土管も、継ぎ目から真水が浸入したり、圧力で破損したりして、かえって、このほうに苦心しました。」藤三郎は笑いながら、こういった。しかし、その笑いの奥には、開拓者らしい苦い汗と涙が潜んでいることを思わずにはいられなかった。一行は、わずか一本の導水管でも、それが埋設されて今日の状態に落着くまでには、思いがけない隠れた苦心が含まれていることを知った。海辺から少し東に戻った一行は、松林をしのいで八階建ての大ビルディングのような乾燥台が、竹の小枝や萩の大きな束を、いく段んも高く積み重ねて建っている真下へ来た。海水が頂上の束から順次に滴り落ちて、その飛沫が霧のように散っている。藤三郎の案内で、その間を潜って、三階になっているハシゴを、十間の高さの頂上まで登ると、長さ60間、幅4間の広い運動場のような所に出た。そこは帽子を飛ばされそうに風が強く吹いていて、脚下を見ると、気味が悪いくらいに高い。眼をあげると、小名浜一帯の風光がひと目に収まった。これが藤三郎の発明した風力採鹹装置(特許第9139号)である。この乾燥台の中央には一個の樋(とい)が通っていて、貯水池からポンプで押し上げられた海水は、この中を流れている。この中央の樋から左右に小さい樋がいく個となく設けられて、樋の底にある栓(せん)の作用で、海水の滴下量を加減できるようになっている。滴った海水は、脚下になん段にも積み重なった枝条の間を伝わりながら滴下する間に、乾いた風で水分が蒸発して、非常に塩分の濃厚な水となって最下の床に落ち、それが底の大樋に集って、次の装置に送られるのである。また、この枝条は、最初は竹の枝を束ねたものを用いたが、なにぶん、一列を積み上げるだけに径3尺のもの1200束を要するので、間もなく近くで竹の枝を手に入れることが困難になった。それで、今は萩の枝を用いていた。この乾燥台で濃縮にした海水は、塩石分解汽缶(ボイラー)に導かれる。この缶は、蒸気機関を運転するのと同時に、加熱塩水を噴射蒸発装置(特許第16420号)で処理し、熱した空気に接触させて一部の蒸発を完了させ、さらにこれを自動沈殿器(特許第6957号)に送って灰分を分解沈殿させ、やや純分に近くなった塩水を、四重効用缶(直径8尺、長さ20尺の真空缶)に送りこむ。この缶は4基あって、塩水は4つの缶の間を巡流して、互いに移るごとに濾過機を過ぎて夾雑物を濾すようにしてある。だから、この4缶を巡回して出てくる海水は、非常に濃厚ななもっとも純粋のものとなる。これを甲乙2個ある永続結晶缶(特許第14638号)に導いて、なお蒸発させると、結晶した塩分が自動的に母液と分離して、下部から純白の一等塩となって落下する。そして残った塩水も管の作用で乙缶に送られて、ここで同一作用によって結晶を完了するようになっている。だから、この装置では、一方から海水が導き入れられると、一貫作業でできた結晶塩が他方から続々として出る。こうして終年、製造の絶えることがないのだから、真に永久的なオートメーション方式の製塩装置である。鈴木製塩所の設備は、海水を大海から直接取り入れるところから塩に結晶するまで、すべて藤三郎の新発明にかかる機械ばかりを利用したもので、どれ一つとして彼の特許でないものはない。この製塩所は、まことに彼の発明的頭脳の複雑巨大な結晶であると、一行には思わされた。塩は人生の必需品であって、製塩の歴史は、人類の歴史と同時に始まっているが、これまで、日本はもちろん、欧米でさえも、その製法は自然のままに放任されて、ほとんど改良を加えられていないといってもよいほどである。これは、欧米では改良の必要がないからである。ドイツの岩塩は、石炭と同じように地下から掘り出すのであるし、米国やその他の海水製塩も、何カ月も雨の降ることのない天日を利用して、簡単に製造できる。だから機械を応用して、海水から製塩しようというような考えさえも、浮かんだことがないであろう。それだから、藤三郎の製塩法は、この保守的な世界の製塩界にとって、破天荒な革命であるといわなければならない。前述のように藤三郎の製塩法の特長は、機械を用いて、一方から海水を取り入れると、他方から結晶した塩となって出て来るというところにある。風力を利用するから、降雨期でない秋から春までがもっとも適しているが、しかも一年中、休まずに製塩ができる。それだから大設備をしても、途中の休日から生ずる損失がない。それだのに、天日製塩はたいてい4,5か月、塩田製法も夏の間の一定期間で、一年中就業ができるものはない。また、従来の製塩法は、燃料が多くいる。百斤(60キログラム)の塩を造るにに、千二、三百斤の石炭がいる。これを鈴木式では、乾燥台で海水を濃くして、煮詰めるときもボイラーの構造と蒸発の装置とに新くふうが凝らしてあるから、燃料が少なくて、よく蒸発する。現に百斤の塩を製造するには、わずかに石炭二、三百斤をいるだけである。製塩上もっとも困難なことは、海水中に含む硫酸石灰を、うまく除くことである。ところが鈴木式は、巧みにこれを分解除去する新装置がある上に、砂で濾過するから、できた塩は純粋で、少しも夾雑物を混えない。分析の結果では、塩分が90%以上ある。これは、日本塩としては、比類まれなものである。また労力も、きわめて少なくてよい。最初から最後まで、すべて機械力によっていて、人力は、わずかにこれを補助する程度だからである。これらの特長は、当然に製品を純良に、価格を低廉にする。これまでの実験でも、明らかにこれを示している。もし設備を大きくしさえすれば、ここだけで2、3億斤の精良品を廉価に生産することは容易である。実際の設備と機械を眼の前に見ながら、その発明者である藤三郎から詳しい説明を聞いて、一行は、これだけのことを十分に了解することができた。ことに奥、田沢の両技師は、専門家だけに、その感嘆振りはいっそうであった。それを見ては、岩下も都倉も、この発明の真価を悟らない訳にはいかなかった。だが、ジャーナリストである都倉には、この発明や設備に、どのくらいの資金が投じられたものか、見当がつかなかった。それで、「いったい、これにまでなさるのに、どのくらいかかったのでしょうか?」と、聞いてみた。これは、一行のだれもが、尋ねたいところであった。藤三郎は、これにも笑いながら、「そうですな、この製塩機械の発明を完成して、機械を運転し始めたのは明治40年10月ですが、少し不完全な点を発見したので、昨年5月から、更に研究とくふうを重ねました。そして、本年1月以来、またまた多くの改良を加えて、現在の一昼夜に300石、1年に3万石(541,170キロリットル)が生産できる設備とまでにしたのです。まずこれまでの試験に費した金額は40万円を越えとりましょう。」といった。個人で一事業の試験費に、40万円の巨費をを投じたと聞いて、藤三郎の性格をよく理解している岩下以外の一同は、思わず驚嘆の叫びを発せずにはいられなかった。都倉などは、危く鉛筆を取り落とすところであった。これは、米が1升10銭くらいのときではあり、まだ、わが国の経済界では企業合同による大資本組織の経営は行われず、会社の資本も100万円台が最高で、創業資本1千万円という工業会社は一つもなかった時代のことであるから、無理もなかった。この時の詳しい視察の記事を、都倉は「世界無比の機械製塩を視る記」(「実業之日本」明治42年4月15日号)に書いている。しかし、この鈴木製塩所は、半世紀後の今日、ようやく世界の問題となっているオートメーションの生産方式を、これまでに完成しながらも、その後、間もなく起こった醤油事業の経営上の失敗に巻き込まれて、事業化することができないで瓦解してしまったことは、国家経済の上から考えても真に遺憾なことであった。わが国の通産省は、昭和30年(1955年)12月19日に『技術白書』を発表して、その中で、わが産業を発展させる重要な要素の一つとして、『海水の完全利用』を説いている。これは、近年わが国は、人口の増加と工業の発展の結果として、塩の需要はますます増加して、昭和30年度の消費総量は270万トンで、内訳は食塩100万トン、工業塩170万トンである。ところが、塩の国内生産量はわずかに60万トンで、消費量の2割2分に過ぎないで、その8割近くを外国から輸入しているという状態であるから、通産省が、こういうのも当然である。
2025.11.11
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194二宮翁夜話巻の3【39】尊徳先生がおっしゃった。用をなす材木は、皆四角である。しかしながら、天が人のために四角なる木を生じない。だから満天下の山林に、四角の木はない。また皮もなく骨もないカマボコのようにハンペンのような魚がいれば、人のために便利であるけれども、天はこれを生じない。だから満々たる大海に、そのような魚は一尾もない。またモミもなくヌカもない、白米のような米があれば、人の世にとってこの上もない利益があるけれども、天はこれを生じない。だから全国の田地に、一粒もこんな米はない。これをもって、天道と人道と異なる道理を悟るがよい。また南瓜(kぼちゃ)を植えれば必ずツルがある。米を作れば必ず藁がある。これもまた自然の理である。ヌカと米とは、一身同体である。肉と骨もまた同じである。肉が多い魚は骨も大きい。それなのにヌカと骨とを嫌って、米と肉とを欲するのは、人の私心だからであって、天に対しては申訳けないではないか。しかしながら、今まで食った飯も腐れば食うことのできない人体であるから、仕方がない。よくよくこの理を明らかにしなければならない。この理を明らかにしなければ、私の報徳の道は了解することが難かしく、実行することが難しい。二宮翁夜話巻の3【39】翁曰く、世の中、用をなす材木は、皆四角なり、然りといへ共、天、人の為に四角なる木を生ぜず、故に満天下の山林に、四角なる木なし、又皮もなく骨もなく、鎌鉾(かまぼこ)の如く半片の如き魚(うお)あらば、人の為弁利(べんり)なるべけれど、天是を生ぜず、故に、漫々たる大海に、斯の如き魚一尾もあらざるなり、又籾もなく糠(ぬか)もなく、白米の如き米あらば、人世此の上もなき益なれ共、天是を生ぜず、故に全国の田地に、一粒も此の米なし、是を以て、天道と人道と異なる道理を悟るべし、又南瓜(かぼちや)を植へれば必ず蔓あり、米を作れば必ず藁あり、是又自然の理也、夫れ糠と米は、一身同体なり、肉と骨も又同じ、肉多き魚は骨も大なり、然るを糠と骨とを嫌ひ、米と肉とを欲するは、人の私心なれば、天に対しては申訳けなかるべし、然りといへども、今まで喰ひたる飯もすへれば喰ふ事の出来ぬ人体なれば、仕方なし、能々此の理を弁明すべし、此の理を弁明せざれば、我が道は了解する事難く行ふ事難し。
2025.11.13
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)修証一如 その3 二宮尊徳翁の歌に 音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつつ というのがあるが、これも宇宙いっぱいを相手にしたものである。禅でいえば尽天地一巻のお経だ。前にも話したように二宮尊徳は柴を負うて本を読んでいる姿が、どこでも使われているから、偉い勉強家だったと思うが、あの人の生涯は、自分のために努力したことがほとんどないのが感心である。桜町の開墾でもずいぶんつまらぬやつに金をやったり、家を建ててやったりしているが、とにかく人のために一生あれほどのことをしてやって、自分のためを思わぬというのは、何か悟りがなければならぬ、あの人は十四の時に観音堂で観音経を聞いた。そこで悟りを開いたと書いてあるが、実に偉いものだ。 宇宙いっぱいのお経、天地無尽の百万巻経は、われわれでも毎日読んでいるのだが、なかなか実際には一生かかってもピンとこない。しかし二宮尊徳がその歌を詠んでいるのは、宇宙いっぱいのお経を味得しておったといえるだろう。まったく「音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつつ」で、宇宙はどこを眺めても一切経のグルグルまわるフィルムである。『法華経』の諸法実相、『般若経』の一切皆空のフィルムだ。ただこのお経を信じているか、おらぬかということがわれわれの問題である。このお経を読むということが悟りであると同時に、修行である。修行と悟りとべつべつにあるのじゃない。いままでが修行でこれからが悟りという理屈でやれ悟前の修行だ、悟後の修行だという区別はない。そこは午前だ、これからが午後だと、昼飯を食った後と食わぬ前というような、はっきりとした違いがあるものではない。 この宇宙いっぱいのお経というフィルムは、じつによくできたフィルムである。ところがそれを冒涜する手合いがある。「ワー雨が降りやがる」という。雨が降らなんだらどうするのだ。雨が降るというのもフィルムの一幕である。降らなければたまらない。この間ハワイから手紙がきて「いつまでたても雨が降らなかったが、降ってホッとした」と書いてあった。そうすると雨が降らなければ、降るとかえって具合がよいのだ。べた一面で、フィルムに変化がなかったらおもしろくない。 しかしただ変化があるというだけでは、何もべつに大したことはない。子供の時ははやく大きくなりたいと思う。年寄ると年寄りとうないと思う。「若い時はよかったがナー」と、よく愚痴をこぼすが、子供は子供、かかあはかかあ、娘は娘、親父は親父でよいわけである。 旅にたとえてみれば、宇宙尽天地一巻の経で、くねりくねりしてゆくその道中がどこでも修行でなければならない。このお経を読みそこないさえしなければ、それが修行であると同時に悟りであらねばならない。要するに悟りとか迷いとかいうことをはっきりわけて、人間という手合いが概念化して、悟りというものを頭の中にいれている。そうするから、修行というものが足のしびれるつらいものになってくる。こういう具合に人間というやつは、鑑賞することが好きである。それでいて本物が嫌い、贋物が好きときているからおかしなものだ。(『禅談』p.229-231)
2025.11.14
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その4 さて、祇園の生知というのは、祇園精舎で説法されたお釈迦様ということである。生知とは論語の中に「生まれながらにして之を知る」とあって、その下につづく端座六年の蹤跡云々は、大聖人のお釈迦様が端座六年なさった跡を見ろ、ということである。 少林の心印を伝うる、面壁九歳の声明尚聞ゆ 少林というのはシナの少林寺、すなわち達磨さんのことである。達磨という人はインド南天竺の香至(こうし)至王という人の三番目の息子で、伝えるところによれば、もはや八歳で道を得ておったという。それが二十一歳でお父上がなくなり、それから出家して般若多羅という人について五、六十年の修行をした。むかしの人は根気がよい、そんな偉い人が師匠について五、六十年も修行する。さらにそれから師匠がなくなってから、五、六十年間インドで布教しているのだから、シナに渡った時分には百二、三十歳にはなっておる。そうして梁の武帝に会見した。つまり、揚子江を海からのぼったのである。そのころだったら、中央アジアを通ってくるのがふつうであるが、達磨は無風帯の海を通って揚子江をさのぼってやってきた。南京に雨華台というところがあるが、そこには梁の武帝が道の構義をしたら華が降ったというので、あの金魚鉢の中に入れる赤い石やら青い石やらいろいろな石をたくさん持って来て、雨華台に降った華が石になったのだといっている。いまでも南京では女子供がよく見にゆくが、つまりあの付近に都があったのである。そこで梁の武帝と達磨とが会見したのが『碧巌録』の第一則になり「廓然無聖(かくねんむしょう)」という則があらわされている。そうして達磨は梁の武帝と意見が合わず、ついに揚子江を渡って少林寺にいった。その時分にはシナが二つに割れて、梁の武帝と魏の国の対立があった。それで達磨さんは、魏の国にいたって面壁九年、九年間坐った。しかし達磨さんは悟るために坐ったのではない。そうすると、何のためにかいうことが、非常な問題である。「面壁九歳の声名尚聞ゆ」達磨さんが面壁九年したのは悟るためのものではない。もう百二、三十になって、えらい爺さんになっていてもそうだった。そうなれば悟るということが、じつは当たり前のことであったのである。(『禅談』p.313-314)
2025.11.15
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野口健さん「オーバーツーリズム対策になれば理想」中国の日本渡航自粛呼びかけに反応も「中国人は以前のように政府の言いなりにはならない」野口さんは「オーバーツーリズム対策になればとてもいいのですが…」「しかし、あれだけ中国政府が『汚染水だ!』と誹謗中傷しましたが、しかし、多くの中国人観光客が来日され日本の海産物を食べまくっていたそうです。つまり、中国人は以前のように中国政府の言いなりにはならない、またさほど信用をしていないのではないか、その現れではないかと推測しています」「オーバーツーリズム対策になれば理想なのですが…」日本に牙むく中国!高市首相に「火遊びすれば焼け死ぬ」と恫喝…専門家「事実上の敵対宣言」中国が「台湾有事への関与」を示唆した高市早苗首相に対し、強い非難を続けている。中国外交部のリン・ジェン報道官は13日の定例会見で、「高市首相は最近、国会で台湾をめぐり露骨な挑発発言を行い、台湾海峡への武力介入の可能性を示唆した」と批判した。また、「中国の強烈な抗議と厳正な立場表明にもかかわらず、誤りを認めず発言の撤回も拒否した」と述べた。その上で、「これは中国の核心的利益に挑戦し、主権を侵害するものだ」とし、「日本は直ちに是正し、この悪質な発言を撤回すべきだ。そうでなければ全ての責任を負うことになる」と警告した。中国政府、日本への渡航避けるよう注意喚起11/15(土) さらにリン報道官は、「日本はかつて台湾を植民地支配し、多くの犯罪を犯した。軍国主義による侵略戦争で中国とアジア、さらには世界に甚大な苦痛を与えた」と指摘。「高市首相の意図は何なのか。再び軍国主義の過ちを繰り返すつもりなのか。中国とアジアの人民の敵になろうとしているのか。戦後の国際秩序を覆すつもりなのか」と問いただした。リン報道官は「台湾と民族統一は中国の問題であり、いかなる外部勢力の干渉も断固として許さない」と強調。「日本が台湾海峡情勢に武力で介入すれば、中国は侵略行為と見なし、正面から反撃する」と述べた。続けて「日本は歴史的犯罪を深く反省し、中国の内政に干渉して挑発し、一線を越える誤った言動を直ちにやめるべきだ」とし、「台湾問題で火遊びをしてはならない。火遊びをする者は必ず火傷し、焼け死ぬことになる」と強い表現で警告した。右翼的傾向を持つナショナリストとして知られる高市首相は、就任後、韓国には融和的姿勢を見せる一方、中国とは対立を深めている。7日、衆院審議で現職首相として初めて「台湾有事は日本が集団的自衛権を行使できる『存立危機事態』になり得る」と述べ、積極的な武力関与の意思を示した。国内では、日中関係を考慮し過度な強硬発言を避けるべきだとの懸念も出ていたが、高市首相は撤回を拒否した。これを受け、中国のシュエ・ジエン駐大阪総領事は8日、SNSに「勝手に突っ込んできたその汚い首は一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない。覚悟ができているのか」と投稿し、高市首相を痛烈に批判した。シュエ総領事は批判を受け投稿を削除したが、9日にも「台湾有事は日本有事という認識は、日本の一部の頭の悪い政治屋が選ぼうとする死の道だ」、「敗戦国としての義務を放棄し、国連憲章の旧敵国条項を完全に忘れ去った無謀な試みだ」と非難を続けた。木原稔官房長官は10日の会見で「中国の在外公館の長として極めて不適切な発言だ」と述べ、「外務省と在中国日本大使館が強く抗議し、速やかな投稿削除を求めた」と説明した。自民党の小林鷹之政調会長は「到底看過できない暴言だ」として、シュエ総領事の追放を検討すべきだと主張した。これに対しリン報道官は、シュエ総領事の投稿について「外交官個人の投稿であり、台湾海峡への武力介入をそそのかす誤った危険な発言を対象にしたものだ」と反論した。『毎日新聞』は「高市首相の異例の発言は、台湾関与を拡大した安倍晋三元首相の外交路線を継承しようとする強い意欲を示している」と分析。「しかし、有事の具体的な判断基準が不明確で、その解釈をめぐる懸念がある」と指摘した。中国外務省は中国国民に対し、当面の間、日本への渡航を避けるように厳重に注意喚起し、すでに日本にいる中国国民に対しては、「現地の治安情勢に細心の注意を払い、自己防衛を強化すること」を求めました。中国外務省は中国国民に対し、当面の間、日本への渡航を避けるように厳重に注意喚起し、すでに日本にいる中国国民に対しては、「現地の治安情勢に細心の注意を払い、自己防衛を強化すること」を求めました。その理由について、「日本の指導者が公然と台湾問題に関する露骨な挑発的発言を行ったことで、日本にいる中国国民の身体と安全に重大なリスクをもたらしている」と説明しました。中国政府は高市首相の台湾有事をめぐる発言への反発を強めていて、今回の対応について、日本政府関係者は、「インバウンドを人質にとるということだろう」と指摘しました。
2025.11.15
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)修証一如 その4 大智禅師の鳳山山居の偈に 一抹軽煙遠近山(一抹の軽煙遠近の山) 展成淡墨画図看(展べて淡墨の画図と成して看る) 目前分外静幽意(目前分外に幽意を清うす) 不是道人倶話難(是れ道人にあらずんば共に話すること難し) というのがあるが、名所が好きだというても、本物の名所では我慢ができないので、それをまねして、チョボチョボと盆栽をこしらえて、棚の上にのせて喜んでおる。 人間というものは何でも懐中にいれることが好きである。自分の物にしなければ承知せぬ。それで人に見せない。それでいて人がマネするとムカツクのだ。 悟りもそうである。自分が悟らぬうちに人が悟ると「あん畜生悟りやがった、太いやつだ」ということになる。わたしらは人がいなくてもジッと坐禅しているが、そういう手合いは人がおらぬと淋しくて仕方がない。悟りの早がけ競争dから、相手がないと淋しくなるのだ。自分の観念で悟りという名のついた早がけ競争をしているのである。 大きな禅寺の坐禅堂で接心をやっても、あくまでそれを繰り返している。しかめつらしい顔をしておっても、警策でピシリ・・・とyられるとハッとして「あいつよりはやく悟ってやろう」と、偉い顔をしておっても、やはり早がけ競争を繰り返しておる。そこがじつに微妙で、人間の弱点をさらけだしている。 それではいかんというので、永平寺の二代様(孤雲懐奘禅師)が『光明蔵三昧』の中に書かれている。 自分に悟りがなくて人が悟るとやきもちがやける。器量でもその通りで、あいつはあのように器量がよいが、おれはこのとおり器量が悪い。あん畜生、頭が良うありやがる。おれはこんな貧乏だが、あいつはあんなに金がありやがると、どうしてもそこのところは何事によらず、どこまでいっても人間の浅ましさがつきまとう。 わたしのところへ、採用試験を受けて、通るか知らん、通らぬか知らん、と心配して神経衰弱になってきたやつがある。「お前が通らんならお前よりよいやつが通るのだから、よいじゃないか」といってやったら「へー」と狐につまれたような顔をしておった。おれさえ通ればよい、あいつが通ったらくやしい、というようなやつは通らんほうがよい。 これは自分の就職ということのみで勉強するやつだが、そういう人は社会のために勉強せぬ。社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。 道のために尽くさねばならん身体だからお互いに不養生するわけにゆかんのである。自分だけのためならどうでもよい。自分が採用試験に通らなければーという者にはこの要領が分からないのだ。(『禅談』p.231-233)
2025.11.15
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