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蔦屋重三郎が礒田湖龍斎から預かった美人画の下絵をダメにしたとき、それを拾い子・唐丸が、湖龍斎本人も別物とは気づかないほど、見事に描き写してみせたことだ。原画そのままだと絶対本人にバレるだろうけど、錦絵の場合は版木にするというワンクッションが入るから、ちょっとぐらい変わってもわからないというのが幸いしたけど・・・それでも唐丸のコピーの才能が、とんでもないレベルであることは間違いない。この展開を見た瞬間、浮世絵の知識がある視聴者から一斉に「あれは誰の幼少時代だ?!」というコメントがあふれかえった。当時の有名な浮世絵師は、出自がはっきりしない人が多いので、誰に該当してもおかしくはないのだけど、一番有力なのは蔦重が世に送り出した最強の絵師・東洲斎写楽だろう。💛美人絵を得意とする歌麿かもしれない。喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、1753年(宝暦3年) - 1806年10月31日(文化3年9月20日)は、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。来歴姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号す。生前は「うたまる」と呼ばれていたが、直接本人を知るものが居なくなった19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったようだ。なお、天明2年(1782年)刊行の歳旦帖『松の旦』に「鳥山豊章」「鳥豊章」の落款例があり、一部の美人画にも「歌麿源豊章」の落款と「鳥山」の落款印があることから、歌麿を師である鳥山石燕の子であるとする説もあり、それによると青年期の歌麿が放蕩生活の末、蔦屋重三郎の食客となったことが縁で、蔦屋の本姓の喜多川姓を名乗るようになったのだという。俳諧では石要、木燕、燕岱斎狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。生年、出生地、出身地などは不明。生年に関しては、没年(数え54歳)からの逆算で1753年(宝暦3年)とされることが多い。出身に関しては、川越説と江戸市中(『浮世絵類考』)の2説が有力だが、他にも京、大坂、近江国、下野国などの説もある。1788年(天明8年)から寛政年間初期(1789-)にかけて、蔦屋重三郎を版元として、当時流行していた狂歌に、花鳥画を合わせた狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』、『汐干のつと』などを版行した。1790 - 91年(寛政2 - 3年)から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような、全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」など大首美人画の優作を刊行した。一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感は、決して美しさだけではなく、生々しさや、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。蔦重との連携の下「無線摺」「朱線」「ごますき」といった彫摺法を用いて、肌や衣裳の質感や量感を工夫した。やがて「正銘歌麿」という落款をするほどまでに、美人画の歌麿時代を現出した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。💛写楽は実は、平賀源内かもしれない。平賀源内が書き溜めていた歌舞伎の人物の戯画を、歌麿が浮世絵になぞったのかも?そこで「唐丸が、湖龍斎本人も別物とは気づかないほど、見事に描き写してみせた」伏線が生きてくるのではなかろうか(^^)・写楽の画法に遠近法を見た、日本で遠近法を用いて絵を描いた平賀源内と写楽を結びつけた
2025.01.31
男子テニス・デビス杯ファイナル予選1回戦、日本-英国・第1日西岡良仁は日本の先陣を切り第1試合でビリー・ハリスと対戦7-5、6-1のストレート勝ち西岡が日本に先制の1勝目をもたらし2試合ジェーコブ・ファーンリーと錦織圭の対戦錦織圭ストレート負け 日本1勝1敗に第2試合のシングルス、錦織は第3ゲームで先にブレークを許し追いかける展開になるも、直後の第4ゲームでは0-40とブレークバックのチャンスを掴む。しかしここを凌がれキープされると、ゲームカウント3-5の第9ゲームでもブレークされ先行される。第2セット、巻き返しを図りたい錦織は第3ゲームでこの試合初のブレークを奪い先行するが、直後の第4ゲームでブレークバックを許すと流れはファーンリーに。今月の全豪オープン(オーストラリア/メルボルン、ハード、グランドスラム)で3回戦進出を果たすなど、現在自己最高ランクを更新中の23歳に第6ゲームでこのセット2度目のブレークを奪われると、ここから挽回できず、ストレートで敗北した。1勝1敗とした日本は、ファイナル予選2回戦進出に向け正念場となる明日の第3試合に臨む。◎ジェイコブ・フィアンリーが印象的なデビスカップ・デビューを飾り、初日を終えてイギリスと日本の同点に追いついた。ジャック・ドレイパーとキャメロン・ノリーが、決勝トーナメント進出をかけた予選ラウンド第1戦に出場しなかったため、フィアンリーはイギリス最上位の選手としてデビューを飾った。全豪オープンで3回戦に進出したばかりのこの23歳は、この大舞台でも元グランドスラム・ファイナリストの錦織圭を6-3 6-3で下している。
2025.01.31
スターバックスが店舗の立地に応じて価格を変える都心部の店舗では平均4%の値上げ立地別価格を導入するのは東京23区大阪市内の一部空港などにあるおよそ600店舗全国の3割トールサイズの「ドリップコーヒー」は都心部の一部店舗では420円から440円に平均で4%の値上げ
2025.01.31
青山俊董老師「泥があるから、花は咲く」(2016年12月)108頁第二章 人生を円相で考える 愛語が世界を変える『わしゃ、しょうもない男でして』タクシーの運転手が語り掛けてきました。「稼いだ金は全部麻雀などの遊びに使い、一銭も家には入れない。女房は一言も文句も言わず『お父さんの稼いだお金だから、ご自由にお使いください』子どもは女房が一生懸命働いて立派に教育してくれました。自分で稼いだ金だけでは足りなくて、女房に『貸せろ』とまでいいましてね。あるとき、女房に『金を貸せろ』といいました。女房が『まあ、お父さん、お茶でも飲みましょう』といってパイナップルの缶詰を持ち出してきたのです。『金を貸せろというのに何がお茶だ』と思っていました。 女房が缶詰を開けたら、中に百円玉や五百円玉がいっぱい詰まっていました。『お父さん、少しずつ少しずつ貯金したものです。今これっきりないですが、よかったらこれを使ってください』というんです。 私は頭をぶんなぐられる思いがしましてね。すまなかった!と本当にあやまりました それから私の人生観は百八十度変わりました。せめての罪滅ぼしに、月に一度、女房と女房の親しくしている友達とを車に乗せて、女房の好きな温泉めぐりをしておりますんですよ」 わたしは、道元禅師の「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」のお言葉の実例をまにあたりに見聞する思いで、運転手に礼をいって降りたことです。 愛語で思い起こすのは、マザーテレサを訪ねたときのこと。路上生活者にたきだしをするシスターたちに三つのことをそのつどたしかめたといいます。「あなたたちは、受け取る一人一人にほほえみかけたでしょうね、ちょっと手を触れてぬくもりを伝えましたか?短い言葉がけを忘れはしなかったでしょうね。」仏教では、これを慈眼施(じげんせ)、和顔施(わげんせ)といいます。そっと手を触れてぬくもりを伝える、心のぬくもりを肌を通して伝える。心慮施(しんりょせ)といえましょう。一言でもよい、愛の言葉がけを、愛語施です。 それらはすべて深い愛の心、慈悲の心のあらわれで、それが人々の心を安らかにし、あるいは萎えた心を立ち上がらせ、あるいは百八十度方向転換させる力を持っているというのです。心して愛語の、愛心の配達者になれたらと、念ずることです。◎沢木興道聞書き(p.67-68) それ以前にも、そんな経験をしたことが二、三回あった。まだわしが永平寺から得度してもらおうと思って維那(いのう)和尚の自坊に行っていたころだった。和尚はいつも本山に出て留守だったので、留守番もなまくら坊主はいつも朝寝坊していて、わし一人で毎日朝早く起きて坐禅をしてから、朝課を誦(よ)んでいた。 ある朝、いつも通りわしが本堂の暗闇の中で一人坐禅していると、門番の婆さんが何やら口で「ナムナム・・・・・・」と何やら唱えながら、本堂へ入ってきて、一つ一つ仏様を拝んで回った。そして最後に坐禅しているわしの前まで来ると、薄明りのなかで、思わずしらずいずまいを正して合掌し、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏」といって、手を摺りながら三回ほど拝んだ。 こんなことに幾度か遭遇して、当時のわしには坐禅そのものに、どうして尊さ、荘厳さがあるのか、それはわからなかったが、しかし、坐禅そのものに、ある偉大さがひそむということを確信するに至った。
2025.01.31
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 報徳実践の歌 2(47頁)姿こそ深山かくれに苔むせど 谷うち越えて見ゆる花かな論語の学而編の冒頭には次が明示されている。『学んで時にこれを習う、亦説(よろこ)ばしからずや 朋(とも)あり遠方より来たる、亦楽しからずや 人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや』このうちの「人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや」が歌の題として添え書きされている。「慍(いか)らず」とは人が自分のことを知ってくれなくとも恨んだり、怒ったりしないということである。「姿こそ深山にかくれて見えない処」でも花が咲いている。君子でなくも人は見えない処でも徳行を実践せよといっているのです。 この歌は尊徳自身が人に徳行の実践をすすめる良い道歌として、天保12年末から13年始めの頃の多くの書簡に使われています。*「深山木」という小田原藩の鵜沢作右衛門が書いた書がある。鵜沢作右衛門は二宮尊徳先生のよき理解者であった。「深山木」は、天保6年2月から6月(先生49歳)まで、小田原から栃木の桜町陣屋に出張し、尊徳先生の言動と仕法の成果を藩主大久保忠真候に復命したものである。「深山木」という題名は、尊徳先生の道歌「姿こそ深山がくれに苔むせど 谷うち越えて見ゆる桜木」にちなんでいる。題名からして尊徳先生の人と事業を賞嘆する趣きがあり、通常の復命の書とは違う。箇条書きで書かれている。いくつか紹介しよう。「一 当春、野州の桜町陣屋に出張し、陣屋の一同と家々や田畑の見分に行きました。物井村の百姓弥五郎と申す者が耕作しているところにさしかかったところ、金次郎がこう申しました。『この者は仕法を行う以前より、この地区一番の働きものでございます。この者の畑に蒔き付けたものは菜種であれ麦であれ、生い立ちは格別によろしく、すみずみまで手も届き、畔(あぜ)の作りも真直ぐで見事で、できばえもよろしく、年貢を納める縄や俵も格別に念入りで、人より先に納めております。前々から暮らし向きにも困ることはなく、百姓を代々続けております。』この弥五郎を始め、耕作しております者たちへは、その次第に応じて金次郎がねんごろに申し聞かせ、その働きに褒美を与え、耕作に精を出すよう励ましました。このようにして耕作の模様の見分を終わった次第です。一 私ども一同田畑の見分にまいりましたところ、東沼村の組頭喜太郎という者の畑が一反歩ございました。菜種を蒔き付けてありましたが、半分はそれなりに生育しておりましたが、半分は4分ないし5分ばかりで、花も咲かない不作でした。その時、喜太郎が案内しておりましたので、「どういうわけか」と尋ねましたところ、「この畑は私の畑ですが、去年の秋、半分ほど蒔き付けたところ、よんどころない用事ができて、半分は15日も遅れて蒔き付けました。その後、寒気がはなはだしく生育しかね、また天気がちで雨が降らず、かれこれ行き違ってこのような不作になった次第です。」と申しました。また、物井村の白銀というところの麦のできばえはよろしいなかに、三反ほどいたって不作の畑がございました。その近辺で耕作しておりました定吉という者へ金次郎が尋ねましたところ、『物井村で一二を争うほど耕作に精を出している直右衛門(なおえもん)ともうす者の畑でございます。去年の秋、はやりの病いにかかり、肥料をいれることができず、その上日遅れにもなり、近所の者が助け合って蒔き付けましたが、このとおり不作となりました。』このようにおいおい畑を見分しましたところ、金次郎がこう申しました。『このところはだれだれの畑で、この者は困窮人で向こうに見えますつぶれ家同様の屋敷同様のありさまです。自然と作柄も衰え、手薄になっております。まことに寸分もたがわず、天道の正しい道理は、春、夏、秋、冬移り変わり、片時も待ちません。一日も遅れると一日だけおくれ、10日遅れれば作柄は半分になります。20日遅れれば半分にも至りません。ものによっては無きも同様になります。村で土地の境界争いやケンカなどありましては、自然と困窮に及びます。』このように用向きで、百姓どもを陣屋に呼び出すときは、やはり同じようなことを言い聞かしておりました。「事を敬して信あり、用を節して人を愛す 民を使うに時を以てす」という論語の言葉にもあたるかと存じます。一 金次郎の朝夕の行いですが、昨年も申し上げたとおり、そ飯そ服を用い、居宅の障子は不用の紙で補修し、畳にいたるまで、見苦しいことは少しも構わず、すべて日用のことは倹約を専らにしております。また人に施すときには米や金はもちろん、衣類や夜具などにいたるまで快くつかわします。荒地の起き返しや家の普請などにも、大工・職人・人足なども村内に世話をしてやり、少なからず米などもさしつかわします。領内で普請や開発など取り掛かるときは、別に賃金をさしつかわすなど、何事にもこれ以上ないほど手厚く取り計らいます。かつ荒地の開発を行うとき、また堰や掘割、普請などに取り掛かるときは、平生の心持より格別の違いで、物入りなど構わず精力を尽くし、すでにこの春以来7軒も新規に家を建てております。そのほか、用水用の堰も正月からとりかかってすでに出来上がっております。(略)村のためになるよう、この春に多くの杉の苗を植え付け、その後もおいおい植えております。小作の者たちは、たびたび恩沢を受けて、子供のように懐くよう自然になっていき、その風がいつとなく、近隣の国や近郷に響いて、すでに細川長門守様、川副勝三郎様より依頼があり、そのほかにも依頼が来ております。」
2025.01.31

報徳記を読む 報徳記 【3】物井村岸右衛門を導き善に歸せしむ その1[報徳記&二宮翁夜話]200「二宮尊徳傳」で佐々井信太郎氏はこう記述している。「先生に反対した随一は物井村の岸右衛門であると報徳記に見えているが、文政12年4月8日に先生の帰村の節は、すでにその5日に横山司右平等の一行中に岸右衛門の名が見えるから、その悔悟は先生の帰村以前であるようである。報徳記の岸右衛門の謝罪は、先生の成田山参籠より帰村までの間とすれば事情が適応する。 そのほか、村民の私曲をただし、村役人の責任を問い、あるいは仕事に精出す優秀な者を賞し、村役人が江戸へ出張中の費用25両余を給与し、厳正な態度で仕法停滞中の滞った事務を処理した。その記録は日記原本70枚の多きに及んでいる。特に大久保家では三幣(さんぺい)又左衛門を以て御知行所の勤務役とし、小路(こうぢ)只助は櫻町陣屋の勤番となり、上下疎通し、仕法は順序よく進展するに至った。」と。またこう記述される。「文政12年の成田山参籠は、二宮先生の生活の道程に最も大なる転機を画した。先生は一身一家の生活を困窮より救い出すのくらいの技術はすでに修得しておられた。さきには服部家の家政を改革し、桜町においても村治の面目を一新した事業を行った。しかし一村を挙げて予定通りには行かなかった。豊田正作始め数人の役人が、岸右衛門始め数人の百姓と結託した。先生はあくまでこれに対抗した。競争と排撃とは一村の自治に民育に紛議を生じ、ついに一村仕法の事業に行き詰まりを生じた。そして成田不動尊へ参籠となった。 先生は両親、親戚、君恩のかたじけなさを知り、これに報いることの大切さを教え農耕に努力すべきことを示した。 しかしその事業に反対する妨害物をも愛するようには至っていなかった。一たび27日間の断食静思を体験された後は、豁然として自他対立の境地を離れて、一円一元の琴線に触れ、ここに一円融合相和の心境が開けてきた。 天保元(文政13年:成田山参籠一年後)8月17日に次のような俳句をものした。 一円に 御法正しき 月夜かな 田畑(でんばた)の 御法今宵の 月夜かな 仁心に 民の心のつく夜かな」報徳記 巻之二【3】物井村岸右衛門を導き善に歸せしむ物井村岸右衛門なるものあり。少しく才知あり、性吝嗇(りんしょく)にして剛氣なるものなり。先生櫻町陣屋に至るより、日夜艱難苦行を盡(つく)し、衰邑(すいいふ)を興し、百姓を安ぜんとするに、之を嘲り之を誹り、邑(いふ)人をして先生の徳に歸せざらしむ。自から大言を吐き三絃(げん)をひき謡(うたひ)をうたひ、再復の仕法に相反するの行ひをなし、歳月を送ること七年に及べり。先生寛大を主としてこれを戒めざるは、其の自然に己が非を知り、自ら悔(くゆ)るの時を待つなるべし。然るに先生の丹誠實業月を重ね年を経るに及びて彌々(いよいよ)厚く、功績次第に顯れ、良法の良法たる所以明白になるが故に、岸右衛門思へらく、前々小田原より此の地を再復せんが爲に出張するもの幾人、一年を待ずして或は退き、或は走れり。二宮氏命令を受け來ると雖も、必ず前轍を踏まん而己。假令(たとひ)如何なる仕法を下せしも、此の地の再興成就すべき道ある可(べか)らずとせり。然るに七年に及び、其の丹誠益々厚く、功驗日々(にちにち)に著し。我斯の如き仕法に敵し、年を經(へ)ば三邑(いふ)再興近年に成り、罪人に陥らんこと眼前なり。今速に前非を謝し、共に興復の事に力を盡(つく)し、後榮を取らんには如ずと。是に於て人をして岸右衛門仕法に感じ、力を盡(つく)さんことを願ふと言はしむ。先生其の舊惡(きうあく)を咎めず、悦びて其の請(こひ)を許せり。岸右衛門陣屋に來り、先生の指揮に隨ひ、丹精を盡(つく)さんと云ふ。先生之に教ふるに仕法の大意、人倫の大道を以てす。岸右衛門始て廣大の道理を聞き、大(おほい)に感激し、是より日々邑(むら)に出でて指揮に隨ひ、土功の率先となり、專ら力を盡(つく)せり。
2025.01.31
鎌倉紅谷は2024年の創業70周年に改良復刻し現在一時販売休止中の「はちまんじゅう」を定番商品として一部直営店舗で販売■ 鎌倉紅谷「はちまんじゅう」 発売日:2025年2月1日 価格:259円 販売店: ・八幡宮前本店 ・幸浦店 ・横浜高島屋店 ・伊勢丹新宿店
2025.01.30
青山俊董老師「泥があるから、花は咲く」(2016年12月)102頁第二章 人生を円相で考える 闇から光へ、人生を転ずるお釈迦様は、この世には四種類の人がある、と説かれました。「闇から闇に行く人、闇から光に行く人、光から闇に行く人、光から光に行く人」この四種類の人の話から二つの教えを学ぶことができる、と唯識学の太田久紀先生は語ります。一つは「人生、変えてゆくことができる」二つは「変えてゆく主人公は私であり、その私の今日ただいまをどう生きるかにかかる」親子、兄弟、夫婦、どこかに代ってもらえるような甘えがありますが、人生は絶対に代ってもらうこともできません。私の人生をどう築きあげていくか、どう変えてゆくかの主人公は私しかないのです。心して自分の人生を光あるものへと転じてゆきたいと思います。人生、変えてゆくことができる!◎沢木興道聞書き(p.64-66)そのころ、寺じゅうの者がわし一人を留守番にして、みんな出かけたことがあった。ちょうど、いいと思って、本気でひとり正身端座(しょうしんたんざ)-坐禅をしていた。そのとき、炊事の婆さんが、ひっこりと本堂へやってきた。とたん、薄暗い本堂の中で、端然と威儀をただして一人坐禅しているわしの姿を見てびっくりして、思わずべったり坐って合掌し、仏様に向ってするように何百倍かていねいにわしを拝んだ。 わしは深く考えさせられた。坐禅というものは偉いものであると知った。 実際、人間の偉さにもいろいろあって、・・・・・・わしのようなものが坐禅しておっても、あの婆さんがつい拝んでしまったのである。ははあ、坐禅には、無条件に婆さんを拝ませるものがひそんでいるに違いない。なにかしら坐禅には、それほどの偉いところがあるものだと、わしはそのころから信ずるようになった。 人から拝まれるこの坐禅の姿勢は、たしかに凡夫の姿勢ではない、仏だ。仏になれるこの坐禅こそ、人間のできることのなかで、最上等なものではないか、そういう考えが出て来たのもそのころであった。
2025.01.30
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 報徳実践の歌 2(46頁)山寺の鐘つく僧は見えねども 四方の里人ときを知りなんこの歌には「大学」からの「君子は家を出でずして教えを国に為す」という題がありますので、君子が家を出ずして無言で周囲の人に教えを伝えるということを、山寺の坊さんが里へ出かけないで鐘をついて村人に時を知らせることにかけて歌ったものです。次も「大学」の「君子は必ずその独りを慎む」が添えられた類似の歌です。山寺の鐘つく僧の起き伏しは 知らで知りなむ四方の里人*「森先生は平成4年(1992年)97歳をもって、一代の「生」を了えられましたが、その前に、21世紀の展望のいったんを予言されました。「報徳要典」の最後に福住正兄の「二宮翁道歌解」が載っている。表題の歌とは類似の歌が載る。「山寺の鐘つく僧の起き臥しは 知らでしりなむ四方の里人是は君子は、その独りを慎むの心の歌なり夫れ遠く離れたる、山寺の鐘つき僧の起き臥しの、人の、人に知らるべき筈はあらねど、その鐘のおとにその起き臥しも、知らるるごとく、善悪邪正隠くしても、隠くされぬ道理なる事をわきまえて、よく慎み、人の笑いを受けぬよう、身を持つべしという心なり。聖語にも隠れたるより、顕(あら)わるるは無しとあり。人の家にて、火をすり出して、つけ木にて行灯(あんどん)を付けるを見る時はその火は、有るか無きかのごとくなれども、外より見る時ははや障子一面に、明かりは映る物なり。この道理を泥中(でいちゅう)のうなぎ、草むらの山の芋にたとえて、諭されし事夜話1の21により見るべし。」
2025.01.30
道路陥没から4日目となり陥没の穴は徐々に拡大消防によると幅約40メートル深さ最大約15メートルになった大量のがれきを撤去するため建設業者の協力を得て穴の中に重機を投入するスロープの設置準備を続けた道路陥没が拡大、一つの大きな穴に 消防が救助活動を再開1/30(木) 1月30日昼ごろ消防は救助活動を再開安全を確認しながらクレーンなどを使って穴の中の土砂を集め道路につながるスロープを作りそこから重機を入れて土砂やがれきを取り除きたい考同日昼時点でトラックの運転席部分は土砂やがれきに埋まり目視できない状態◎4歳の男性運転手がいるとみられる運転席は、完全に土砂に埋もれてしまっていて、男性との接触は、いぜんとしてできていないということです。また、運転席がどの位置に埋もれているかも定かではないとのことで、男性の状況や酸素が行き届いているかも分かっていないということです。男性運転手の救助活動は、きのうからきょうにかけても夜通し行われましたが、穴の崩落や雨水の浸入などで危険な状態が続いていて、救助は難航しています。消防は運転席が埋もれた土砂を取り除き、救助を進めたいとしていますが、救助の見通しはたっていません。埼玉県八潮市の道路陥没事故 新方川へ汚水の緊急放流開始 県「飲み水への影響はない」1/29(水) 1月28日、埼玉県八潮市で発生した道路の陥没事故で、埼玉県は陥没した現場の周辺に流れ込む下水の量を減らすため、午後10時ごろから放流に向けた作業を進め、午後11時20分に汚水をくみ上げて川に流す緊急放流を始めました。緊急放流は、春日部市にあるポンプ場から新方川へ行われ、汚水はできる限り塩素で消毒をして放流するということです。新方川は中川に合流しますが、中川から取水している浄水場はないため、県は飲み水への影響はないとしています。サガミ休業、衝撃映像に動揺広がる 「どんだけ深いんだよ」「怖すぎる」「スッと地面に」1/29(水)埼玉県八潮市の陥没現場に転落したトラックの荷台部分の引き上げ作業が行われていた29日午前1時過ぎ、突然、「ゴゴーン」と轟音(ごうおん)が鳴り響き、すぐ近くの歩道にあった飲食店の看板や電柱が地中に沈み込んだ。新たな陥没が発生した 【連続写真】陥没事故は28日の午前9時半ごろに発生。トラック1台が転落し、運転手の救助活動が続いている。約15時間が経過した29日午前1時過ぎにトラックの荷台部分が引き上げられたが、付近に新たな陥没が発生。サガミ店舗のシンボルである巨大看板が穴に吸い込まれた瞬間がニュースで報じられ、Xでは視聴者が「大丈夫かこれ。。。」「怖すぎる」「運転手さん頑張って」「どんだけ深いんだよ」「頼むからもう陥没しないでくれ。。。」「あんな大きなサガミの看板がスッと地面に吸い込まれてしまった」「倒れたというより垂直に落ちていった」「作業の人気をつけて」「看板倒れたのは精神的にショック大きい」と衝撃をつづっている。埼玉県八潮市で下水道管の破損など原因とみられる大規模な道路陥没が起きる穴に転落のトラックの70代の男性は安否がわからなくなってから30時間近く過ぎた穴に水が流れ込むなど2次災害の虞れがあり救助活動は困難復旧も見通せない埼玉県は陥没場所下水道緊急放流準備
2025.01.30

報徳記を読む 報徳記 【2】先生横田村里正円藏を教諭す その2[報徳記&二宮翁夜話]200横田村の庄屋である円蔵が、家を新築しようとして、資金が不足することから、尊徳先生に借金を申し出た。尊徳先生は、庄屋たるものの任務を順々と説いてこうさとされたのであった。「私は小田原候の命を受け、ここに赴いて以来、廃家を興し、民を恵み、昼と無く夜と無く肝胆を砕き、復興の道を施し、民を安んじようとするほか暇がないことはおまえもまた知るところである。 いやしくもおまえに誠の心があるならば、里正として民を憐れんで救い行うこともなく、亡村にも等しい衰廃に陥ったあやまちを後悔して、自分の資産を減じて節減を尽くし、民に先立って貧苦に甘んじ、余財を生じ、荒地を開き、民の飢えや寒さを救い、一村復興の道に尽力し、里正の本意を達成しようと願うべきではないか。 それを何ということか、家を新築し、一身の安泰のみを計り、なお不足の財を借りて望みを達しようとするのは過ちの上に過ちを重ねるものではないか。 今、おまえの家が覆るというのならいたしかたがない。たとえ旧家で損じ傾くとはいっても倒れるわけではあるまい。細民の家を見よ。一日も風雨を支えることはできないではないか。どうしてお前の家に比べられよう。しかし、私に不足の金を借りようと求めなければ、こうして私がその過ちを教えることができなかった。おまえが私の言葉をそのとおりだと思うならば、速やかに家の新築を止めよ。そして私に借りないで、仮に二十金を借りたとして、今から五年の間返金せよ。 もし新築を止めて、普段の生活の中で返金ができないときは、多額の費用で家を作っても、その後の返金は難しいことは必然である。試みに借らずして返納のみしてみよ。そうする時はおまえ自ら村民を救い助けることができなくても、私がおまえのかわりに村を復興してやろう。 里正たるもの、細民に先立って艱難をなめるべきの任であるから、細民を安んじた後におまえの望みもかなえよう。そうすれば民の怨みも生ずることはあるまい。もし、この言葉に従わなければ、おまえは人望を失い、細民から怨みが起こり、一家を保つことも難しくなるであろう。」円蔵は尊徳先生の言葉に感激して、すぐに新築を止め、先生の教えに従って借りないで毎年返金を納めて、利息まで納めたのであった。 後に横田村が完全に復興し、すべての村民が居住を安んじてから、先生はその地方で最第一の家を作って円蔵に与え、更にまた新たに家を作り、円蔵の子弟二人に与えたのであった。 借りない借金を返す、なんというユニークな方法であろう。 それを高利で積み立てておいて、村が復興した後、円蔵に家を新築してやった。いわば建築用の財形貯蓄を陣屋でしてあげたということにほかならない。しかもその預かった金を生かして村内の復興の資金にあてたのである。 尊徳先生は、服部家の仕法でも女中の給金を預かって利息をつけて増やしてやったことがあるから、こうしたやりかたを思いつかれたのではあるまいか。尊徳先生の知恵のユニークなること、驚くほかはない。しかもいつも至誠が通底している。「補注報徳記」(佐々井典比古)によると「天保五年(1834)に建てられたこの横田宅は現存している。 その入口の戸に節穴が一つあいている。 これは先生が毎朝回村の折、のぞいて、母親との喧嘩の有無を調べるため特に明けられたものであった。 円蔵母子はあるとき気がついてその穴をふさいだ。 先生は大いにそれを叱って再び明けさせたが、それから母子の間は至極円満になったと伝えられる。」 なんという愉快なエピソードであろう。 尊徳先生は、親子や夫婦の不和もあるときは叱り、あるときはなだめ、あるときはこうして言わずしてたしなめられたのであった。報徳記 巻之二【2】先生横田村里正円藏を教諭す(2)地頭之を憂ひ、數年の力を盡し、舊復の方法を下し玉ふといへども其(その)驗(しる)しなく、遂に小田原へ歎願せられ、小田原候より興復の道を盡されしも、彌々(いよいよ)衰弊に流れ、引立の色顯(あら)はれず。我れ命を奉じ出張せしより以来、癈(すた)れたるを興(おこ)し、民を惠み、晝(ひる)となく夜となく肝膽(かんたん)を碎(くだ)き再復の道を施し、上(かみ)君命を辱しめず、下(しも)邑(いふ)民を安んぜんとするの外、他事なきことは汝も亦明かに知る所なり。君公の下民を憐み玉ふ高恩は斯(かく)の如くにして、邑(むら)の里正(しゃうや)たる汝漠然と與(あづ)からざるものの如くなるは又何の心ぞや。いやしくも汝誠の心あらば上君の仁澤を辨(わきま)へ、舊來(きうらい)里正(しゃうや)として民を憐れみ撫育するの行ひなく、亡村にも等しき衰癈にも陥りし過(あやまち)を悔い、己の家産をも減じ、節儉を盡し、君の憂勞を安んじ、里正(しゃうや)の本意を達せんとこそ願ふべきに、何ぞや祖先以來の家を癈し、新に家作を爲し、一身の安居のみを計り、猶不足の財を借りて望みを遂んとするは過(あやまち)の上の過(あやまち)にはあらずや。若し君より汝の行(おこなひ)を見玉はゞ、何ぞ忠義の心となし給はん。邑(いふ)民之を見ば誰か怨みを生ぜざらん。誰か其の不可を誹(そし)らざらんや。上より不忠の咎(とが)めあり、邑民皆怨み誹らば、假令(たとひ)如何なる美屋を作るといへども何を以て其の家に安居することを得んや。今汝の作る家覆らば、居住なきが故に巳むことを得ざるなり。假令(たとひ)舊家にて損じ傾くといへども倒るゝにはあらず、何の居住しがたきことあらん。細民の家を見よ、一日も風雨を支ふることあたはざるものあり。豈(あに)汝の家の類(たぐ)ひならんや。然れども我に不足の金を借らんと求めざれば、我其(その)不可を教ふるに暇あらず。我に求むるが故に其(その)過を諭すなり。汝我が言を是なりとせば速かにそれ之を止めよ。而して我に借らずして、假(かり)に二十金を借りたりとして、今より五年の間に返金せよ。若し家作を止め、平生の處にて返金を難しとする時は、多分の費用を以て家を作り、其の後の返金は彌々(いよいよ)難き事必せり。返金の能はざるを知りて借るは是れ我を欺くなり。家を作りて猶返金容易(たやす)からば、作らずして返金する何の難きことあらん。試に借らずして返納のみせよ。然(さ)する時は汝自から邑(いふ)民を救ひ、癈蕪(はいぶ)を興すこと能はずと雖も、我興し與(あた)ふるが故に、汝力を添えて興すに當(あた)れり。里正(しやうや)たるものは細民に先立ち艱難を嘗(な)むべきの任なるが故に、細民安ずる事を得ば、其(その)後に汝の望みも爲し與(あた)ふべし。然れば邑(いふ)民の怨望何に由って生ぜん。誰か汝の行を非とせんや。若し此(この)言に随はずんば人望を失ひ怨言起り、一家を保つことも難るべしと。圓藏大いに感激し、速に家作(かさく)を止め、先生の教に隨ひ、借らずして毎年返金を納め、猶(なほ)業(げふ)を勤めて利足をも納め、加之(しかのみならず)邸内の竹木を伐り、之を鬻(ひさぎ)て價(か)を納む。後、横田村全く興復し、細民恩澤に浴し、一民も居住を安んぜざるものなきに至り、采邑四千石中に最第一の家を作り、之を圓藏に與(あた)ふ。入費百有餘金、里正(しやうや)大いに悦(よろこ)び、邑(いふ)民も亦共に悦(よろこ)びて聊かも怨望の心なきものは、始め圓藏借らざるの返金を立たる殊勝の行ひあるが故なり。先生又新に家を作り、圓藏の子弟二人に與(あた)へ、分家二軒を立つ。圓藏感歎すること限なし。噫(あゝ)里正(しやうや)一度先生の教に從って不朽の大幸を得たり。先生庸夫(ようふ)を導き感發せしめ、道を踏み、過を改むるに至って大いに仁惠を施し、諸人をして悉く其處を安んぜしむること往々斯くの如し。
2025.01.30
米国が来年1月「パリ協定」離脱、トランプ政権が国連に通告1/29(水) 国連のステファン・ドゥジャリク事務総長報道官は28日、米国から地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」を離脱するとの通告を27日に受けたと明らかにした。規定に基づき、離脱は通告から1年後の2026年1月27日になることが決まった。ドゥジャリク氏は記者会見で「パリ協定へのコミットメント(関与)を改めて確認し、地球の気温上昇を(産業革命前に比べて)1・5度以内に抑えるあらゆる努力を支援する」と強調した。 米国は第1次トランプ政権時の20年にパリ協定から離脱し、バイデン前政権の21年に復帰した。トランプ氏は大統領に就任した今月20日、再離脱するための大統領令に署名していた。 米国の温室効果ガス排出量は中国に次ぐ世界第2位で、米国の離脱は、脱炭素化を目指す世界的な取り組みへの大きな逆風になると懸念されている。トランプ大統領のパリ協定再離脱、「大した影響はない」と専門家…米国は「老大国」に転落かドナルド・トランプ米大統領は就任当日の1月20日、早速「国際環境協定における米国第一主義」と題する大統領令に署名し、パリ協定は米国に経済的負担を強いるボッタクリで、米国の国益に沿わないと再離脱を指示した。トランプ氏は民間部門の活動を政府が制限しない市場原理主義が経済成長と環境保護を両立させるというリバタリアン。しかし国際社会や環境保護団体は「世界第2の温室効果ガス排出大国のパリ協定再離脱は気候変動対策に向けた世界的な取り組みを損なう」と厳しく批判している。トランプ氏は米国の石油・ガス生産を促進するための国家エネルギー緊急事態宣言も発令した。アラスカ州などにおけるエネルギーインフラプロジェクトの環境レビューと承認を迅速化して化石燃料の生産を拡大し、エネルギー価格の低下と輸出の増加を目指している。米エネルギー企業の手続きは簡略化されるが、環境への影響が懸念される。トランプ支持派は化石燃料の生産拡大が米国のエネルギー輸出力を強め、エネルギーコストを低く抑えることで経済成長につながると主張している。しかしトランプ支持派の石油・ガス大手との間で予想もしなかった波紋を広げている。ロイター通信(1月22日付)は「石油・ガス大手はトランプ氏が国内のエネルギー開発を奨励したいと考えていることを歓迎しているが、再離脱はクリーンエネルギーへの世界的な移行に向けた投資計画に役立たないと懸念している」と伝えている。気候変動リスク専門家はロイター通信に「米国がパリ協定から再離脱することで規制が曖昧になり、複雑さが増し、多国籍企業が移行戦略の不確実性に対処する中で法的紛争に巻き込まれる恐れが出てくる」と話している。英インペリアル・カレッジ・ロンドン環境政策センターのフリーデリケ・オットー上級講師は「パリ協定は人権に関する協定だ。格差を拡大し、基本的人権を侵害しようという意図をあからさまにしているトランプ氏が米国をパリ協定から再離脱させても全く驚かない」という。「気候変動はすでに米国内、世界中で人々の生活を困難にしている。世界の平均気温が上昇するごとに異常気象は激化し、食料・住宅・労働・医療など基本的人権に影響を及ぼす。トランプ氏が何をしようと、これまで以上に彼とは異なる物語を語ることが重要だ」 (オットー氏)ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)のマーク・マスリン教授(気候学)は「トランプ氏は石炭の熱心な擁護者だが、第1次政権時にガスや再生可能エネルギーへの転換で石炭使用量は減少した。単純明快な経済原理によりこの傾向は今後も継続する」と断言する。マスリン教授によると、グリーン経済は年間10兆ドル以上、世界の国内総生産(GDP)の10%に相当する規模に成長している。米国でも化石燃料産業の雇用は30万人止まりなのに対して、グリーン経済の雇用は少なくとも1000万人にのぼっている。「経済成長と雇用創出を望むのであればグリーン経済への投資は不可欠だ。政治的にも経済的にも化石燃料の時代は終わりに近づいている。化石燃料がエネルギー源として使われなくなるのはいつかではなく、いつなのかという問題なのだ」(マスリン教授)レディング大学気候・正義研究センター所長のクリス・ヒルソン教授は「トランプ氏は実際にはほとんど影響を与えないかもしれない。再離脱も国際外交上、以前のような影響力を持たないだろう。すでにほぼ織り込み済み。米国抜きで他の国々は脱炭素化を継続する」と語る。スペインの生態学研究・林業応用センター(CREAF)のアリシア・ペレス・ポロ氏は「パリ協定は第1次トランプ政権においても強靭であることが証明された」と強調する。市場と経済は脱炭素化に向かっており、ホワイトハウスに誰が座ろうと止めることはできない。
2025.01.29
青山俊董老師「泥があるから、花は咲く」(2016年12月)92頁第二章 人生を円相で考える 地獄・極楽は自分の心一つに開いてゆく世界ある夏の一日、松任の本誓寺さまへお話しに行きました。本誓寺さまは浄土真宗のお寺ですが、千年の歴史を持つ古刹でした。 「御当山はお古いんですね。もとは天台宗か真言宗でしたか?」ご住職松本梶丸先生「もともとは比叡山末の天台宗の名刹でした。親鸞上人が越後に流される途中、手取川が氾濫して足止めをくらい、しばらくこの寺に滞在されました。その親鸞さまのお人柄にほれこんで、天台宗から浄土真宗に改宗したと伝えられております」親鸞さまほどの方になると、その方の行くところ、とどまるところが楽土になる、お浄土になる。相田みつをさんの詩に、 あなたがそこに ただいるだけで その場の空気が あかるくなる あなたがそこに ただいるだけで みんなのこころが やすらぐ そんな あなたにわたしもなりたい行く先々がうまくいかないのは、原因が向こうにあるのではなく、私自身の心の持ち方、生き方にあったのだな、と気づかせていただかねばならないと思ったことです。
2025.01.29
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 報徳実践の歌 2(45頁)あらあらと往来(ゆきき)の人のおのずから 足の止まる花の山かな爛漫と咲き誇る桜の花を見て、その素晴らしさに「あらあらと」声を出して感嘆して、往来の人も自然と足を止めるという感動の歌です。しかし、ここで示された「花の山」とは、単に見た目で美しい桜花の山だけを指したのではなく、優れたもの、偉大なるもの、崇高なものなど全てを象徴的に示された道歌と考えると、一層面白い意義深い歌になります。しかもそれに心を惹かれて足を留めて注目して、それを「あらあらと」たたえているのです。 この歌には題名がついていて、「滅国を興し絶世を継ぎ逸民を挙ぐれば則ち天下の民の心を帰す」とあるので、草ぼうぼうの荒れ野を開発して民の心を「花の山」にすれば、皆が自ずから足を留めて感嘆すると解した方が尊徳らしい歌になります。*嘉永5年4月の尊徳の手紙―青木堰付近の桜は、吉野の実生桜―二宮尊徳ゆかりの桜が植えられていた桜川市青木。地元住民が桜植樹実行委員会を立ち上げ、二宮先生ゆかりの吉野桜が復活した。二宮尊徳は、村民から頼まれ、荒廃していた青木で農村復興を手がけ、青木堰の建設など尽力した。事業の仕上げに、奈良県吉野山の桜を植え、以後、住民たちは尊徳ゆかりの桜を大切にしてきたが、昭和30年代の堰の改修工事で伐採された。2008年5月、広沢光一郎氏が、先祖代々伝わる尊徳直筆の手紙の解読を、郷土史家の舘野義久氏に依頼した。手紙は嘉永5年、尊徳が領主の旗本川副氏の家臣荒川泰輔にあてたもので、青木堰が作られた理由や村民同士が協力すること、植えた桜の木を大切にすることなどが書かれていた。舘野氏も同年の別の手紙に「青木村桜川の堰付近の桜木は、本邦第一大和国吉野の実生桜にして、雨引山楽法寺が丹精こめて育成した桜木なり、その実生は高価にして何百文にても得べし」とあるのを文献の中に発見した。広沢氏は、尊徳が死ぬまで村の行く末を案じていたことを知り、吉野桜を復活させたいと思った。住民に話を持ちかけ実行委が発足。吉野桜の譲渡を依頼された財団法人「吉野山保勝会」も、樹齢千年以上の吉野白山桜を母種樹とする実生の苗木17本を特別提供した。3月8日、吉野桜の植樹と、「報徳不忘」の記念碑の除幕式が行われた。広沢氏は「青木の現在があるのは過去があるから」と話す。(2009年3月7日 読売新聞)別紙にて申し上げます。御仕法の仕上げをとりまとめるにつき、旧冬、小田原へ参りました。掛け合いのために逗留中、無駄に日々を過ごすのもいかがかと思い、先年に取り立てて遣わしておいたのですが、箱根の塔の沢の福住喜平治方の向山に険しい岩山があり、葛や藤の蔓、竹木を伐採して焼き捨て、桜を三千五百本余り、江戸四谷大久保の名産である霧島つつじを三千本余り、八重山吹、駿河国駿東郡御厨(現御殿場市)の紅霧島を三千本余り植え付けました。相模国大住郡片岡村(現平塚市片岡)の大沢政吉という、私の下で長く修行している者が箱根湯本の福住九蔵方へ養子に行ったのですが、そこは本陣でもあり、御領主様始め、大名、小名、貴人、高位の方々が保養なさる温泉でもあるため、桜を植え付けてほしいと願いがあったため同じように、谷越えの険しい岩山の葛や藤を刈り捨てて伐り払い、塔の沢と同様に植え付けましたが、いずれもその地域に自生していた桜の木です。なるべくならば、青木村の桜川べりの桜の木は、雨引山楽山寺が丹誠を尽して、天朝第一の大和国みよし野の桜の実から生育させた桜ですので、この節は実を拾い集め、このシュロの皮に包み、雨露の当らない縁の下あたりに埋めておき、来春の彼岸の前後に蒔き付けましたならば、実から生育することが確実である旨伝授を受けましたので、右桜の木の下を刈り払っておき、近日に桜の実が落ちこぼれ次第に拾い集めておいてくださいませ。たとい一升が200文、300文と、いかほど高値になりましても、右はみ吉野の桜の種ですから、湯本へ差し遣わしたいと思います。この段、間違なくお頼み申します。委細はこの使いの者が申し述べますので、これによりご承知くださいませ。取り込み中にて早々。以上 (嘉永5年)4月17日 二宮金次郎 荒川泰輔様(青木にて)
2025.01.29

『雛形若菜』の甘い罠『一目千本』の成功に続き、吉原を盛り上げるべく、女郎の錦絵を出版することを模索し始めた蔦重。女郎からの入銀が期待できない中、鱗形屋に相談に向かうも「『一目千本』の出版前に一言欲しかった」と言われてしまいます。★引き上げる袖で怨むようにみつめる鱗形屋を演ずる片岡愛之助の目の演技は歌舞伎の舞台を見ているよう(^^)片岡愛之助さんから「見上げたもんだよ屋根屋の褌」のトラさんでなじみのシャレが出るとは。「田へした(大した)もんだよ蛙の小便、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし。」その後、平賀源内とのやりとりからヒントを得、呉服屋から広告タイアップを獲得することをひらめいた蔦重でしたが、なかなか色よい返事をもらうことができません。店先で「原因は知名度の低さにあるのでは」と駿河屋市右衛門から指摘された蔦重。落ち込んでいるところに、錦絵で有名な版元・西村屋与八(演:西村まさ彦さん)がやってきます。たまたま耳にしたという呉服屋タイアップの件に、一枚噛ませてほしいと話す西村屋。完成した錦絵を売り捌く手伝いをすると蔦重へ持ち掛けます。さらには望むならほかの本屋との取引も取り持つ、と話す西村屋。「ぜひお願いしやす!」とこたえて西村屋との打ち合わせに向かった蔦重でしたが、なぜかその様子を駿河屋はいぶかしげに眺めます。ここで副音声では「渋い顔で見ている市右衛門」という解説が流れ、首を振りながら市右衛門は店内に戻っていくのでした。★なるほど「渋い顔で見ている市右衛門」という解説は伏線だったんだ。それにしても 西村屋与八を西村まさ彦さんが演ずるとは、好好爺にしかみえない。・・・世の中はこのようなもの(^^) ⇒だまされる!その後、西村屋の参加によって呉服屋から入銀が集まったことで、無事に完成した錦絵。蔦重が、自らの版元「耕書堂」の印が捺印された美しい錦絵を、呉服屋や女郎屋の主人に披露していると、そこに西村屋と鱗形屋、そして地本問屋・鶴屋喜右衛門がやってきます。するとなぜか平謝りを始めた西村屋。続けて鶴屋たちは、市中で販売するには地本問屋の株仲間である必要があり、条件を満たさない「耕書堂」の印の入った錦絵は未来永劫、売ることが出来ないと説明する。その説明に静まり返る一堂でしたが、「蔦重さえ手を引けば丸く収まる」と女郎屋・大文字屋が提案。西村屋に版元を統一するという案を出すと、同席者はみなそれに賛同します。納得がいかない蔦重でしたが、駿河屋の主人から「吉原のためだ!」と諫められ、憤慨しながらその場を立ち去るのでした。その後、場面が変わると鱗形屋と西村屋が祝杯をあげるシーンへ。お互いの演技のうまさを褒め合う二人でしたが、西村屋から「今後蔦重をどうするのか」と問われると、「蔦重ごと吉原を丸抱えしたいのさ」と、己の野望をむき出しにしながら鱗形屋が答える。💛どうする?蔦重 本編の場合は 「耕書堂」の印の入った錦絵が広まる史実がわかっているものの、どう打開するか、楽しみ。ビジネス書みたい。視聴者「西村屋が『西村』まさ彦さんとはシャレがきいてる。『鎌倉殿の13人』で北条宗時を演じた愛之助さんが”三つ鱗”の鱗形屋というのもなかなか」*『べらぼう』蔦重の師でありライバルだった鱗形屋孫兵衛とはどんな人?江戸の版元は享保年間(1761~1736)に、取り扱う出版物の内容によって、「書物問屋(しょもつどいや)」と、「地本問屋(じほんどいや)」に二分されたという(松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』)。 書物問屋は、「物之本(もののほん)」と呼ばれる歴史書、儒学書、医学書、仏教経典など、堅い内容の出版物を主に扱った。 江戸の書物問屋の多くは、上方の資本によって設立された店舗、あるいは、上方の本屋が出店したものだった。書物問屋は「下り本(上方で出版された本)」を販売するだけではなく、専門書、および学術書などを出版する版元でもあったという(安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。 対して地本問屋は、草双紙(絵入りの娯楽本)、浄瑠璃本、錦絵(浮世絵)など、江戸で出版された(地本)、書物問屋に比べて娯楽性の強い出版物を扱う。 地本問屋にも、版元としての一面もあった。鱗形屋孫兵衛は明暦年間(1655~1658年)、あるいは万治年間(1658~1661)頃から、江戸で出版をはじめたとされる老舗の地本問屋の三代目で、鶴鱗堂、もしくは鶴林堂と号した(初代は加兵衛、二代目は三左衛門)。 草双紙や芝居本、評判記など、数多くの出版している大版元であり、ドラマにも登場した『吉原細見』の出版は、享保中期(1725年頃)以後、盛んになり、複数の版元が手がけていたが、鱗形屋孫兵衛の単独事業となっていた。 安永3年(1774)、蔦屋重三郎は『吉原細見』の改め役を依頼されている。 翌年、鱗形屋孫兵衛は、江戸文学史に名を残す画期的な作品を世に送り出し、大成功を収める。それは、初の黄表紙文学といわれる『金々先生栄花夢』である。『金々先生栄花夢』の簡単な内容は以下の通りである。 立身出世を夢見て江戸へ向かう金村屋金兵衛(かなむらやきんぴようえ)という若者が、目黒不動の門前の茶屋で注文した粟餅を待っている間に、うたた寝し、夢を見る。 富商の養子に迎えられ、吉原などの遊里で豪遊するも、勘当されてしまうというところで、夢から覚め、人生を悟って、元いた村に帰ったという。『金々先生栄花夢』が大ヒットした安永4年(1775)鱗形屋孫兵衛の手代・徳兵衛が重板(じゅうはん/同じものを無断で出版すること)によるトラブルを起こし、重い処罰を受けたのだ。 最高責任者である鱗形屋孫兵衛も二十貫文の罰金を科せられ、社会的信用を失った。 経営にも悪影響を与え、この年の秋に予定していた「吉原細見」の刊行もできなくなる。 その隙を突くように、蔦屋重三郎は蔦重版の「吉原細見」である『籬(まがき)の花』の出版に踏み切った。 サイズを大きくし、レイアウトを変更した、見やすくわかりやすい蔦重版の「吉原細見」は好評を博した。鱗形屋も、翌安永5年(1776)には「吉原細見」の刊行を再開したが、天明3年(1783)には、蔦重版の独占状態となっている。
2025.01.29
コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果が異なる朝コーヒーを飲むと、他の時間帯に飲んだり、全く飲まない場合より心臓の健康を維持しやすい──そんな調査結果が1月7日に欧州心臓病学会の学会誌で発表された。この論文はアメリカの複数の大学の研究者によるもので、1999年から2018年にかけて全国健康栄養調査に参加した4万人以上の成人を対象に、朝に飲むコーヒーが心臓の健康と死亡リスクに及ぼす影響を調査した。調査開始後10年間の死亡記録を調べたところ、(特に心疾患による)死亡リスクとコーヒーの飲用習慣との間に関連性のあることが分かった。「コーヒーを飲むタイミングとそれが健康に及ぼす影響を検証した初めての成果だ」と、この研究を率いたチュレーン大学(ニューオーリンズ)のル・チー教授は述べた。米疾病対策センター(CDC)によれば、心疾患はアメリカ人に最も多い死因で、毎年80万人以上が死亡している。今回の研究では、朝コーヒーを飲む人は、飲まない人に比べて、何らかの理由で死亡する確率が16%低く、特に心疾患で死亡する確率は31%も低いことが明らかになった。一方、午後以降の時間帯にコーヒーを飲む人では、リスクの低下が認められなかった。また毎朝コーヒーを1杯だけ飲む人より、2杯あるいは3杯と飲む人のほうが死亡リスクは低かったという。「ただし、コーヒーを飲むと心疾患による死亡リスクが低下する医学的な根拠は得られてない」とチーは述べた。「考えられるのは、午後や夕方にコーヒーを飲むとメラトニンのようなホルモンの分泌に乱れが生じる可能性だ。これが心血管リスク因子の変化につながると考えられる」メラトニンの分泌量は時間帯によって異なり、朝は低く、寝る時間に近づくと高くなる。私たちの体内では、こういう24時間周期の変化がいろいろ起きている。だから夜の遅い時間帯にコーヒーを飲むと、眠気と覚醒の自然なリズムが乱れ、睡眠の質が低下し、結果として心疾患のリスクが高まるのかもしれない。しかし、こうした観察的な研究だけでは朝のコーヒーと心疾患のリスク低下の因果関係は分からない。「この調査結果が他の集団でも確認されるかどうか、さらなる研究が必要だ。コーヒーを飲む時間帯の影響を検証するためには臨床的なテストも必要になる」とチーは述べている。なおこれとは別に、コーヒーの飲用と発癌リスクの低減、2年ほどの寿命延長との相関を指摘する研究もある。英ロイヤル・ブロンプトン・アンド・ヘアフィールド病院所属の心臓専門医トーマス・リュシャーは「(この論文で)特に朝のコーヒーが健康に良いということを示す相当な証拠が得られた」と述べ、こう呼びかけた。「さあ、コーヒーを飲もう。ただし朝のうちに!」
2025.01.29
森永卓郎さん「死ぬことは全然怖くないし悔いもない」ラジオ共演の垣花正「最期の思い」伝える1/29(水) 垣花正「20年以上モリタクさんとはずっと一緒で。ラジオもほぼ毎日やって」「モリタクさんがすごいなと思うのは、最後の最後まで仕事をやり続けて。仕事が好きだったんですよね。で、モリタクさん、死ぬことは全然怖くないし、悔いもないって言ってましたね。これがすごいなと思って」「むしろ、がんを発表した1年の方が一番忙しくて全盛期だったんじゃないかな。本は出せば売れるし、言いたいこと言いまくってたし」最後のラジオ生出演で語っていた「40年間、研究を続けてきた成果」最後のラジオ生出演となった27日放送の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」(月~金・午後1時)には、自宅からリモートで出演病状について「実は1週間前から体調が急激に悪くなってですね、今ほとんど動けないし、この1週間ほとんど何も食ってないんですよ。だからパワーがなくなって、今、ボロボロなんですけど」「いけるところまでいきます。根性で」放送では1月23日発売「絵本でわかる経済のおはなし バブルが村にやってきた!」(講談社)を紹介。「25年間ずっとやりたかった企画。売れるかどうか分からないけど。お金ってなんなの、っていうのを40年間、研究を続けてきた成果でもあるんです」米大統領のトランプ氏が就任1週間で様々な政策を推し進めていることや、フジテレビを巡る一連の問題について「一部の人たちっていうのをボッコボコにすることによって、ストレスを発散するような社会が本当に、いい方向なのかなっていうのを思う。世界でみても同じ」「エンターテインメントの果たす役割ってすごく大きい。ご飯を食べる意味では何の役にも立たない。でもそんな時代だからこそ、楽しめるために大きな貢献ができるんじゃないかな」💛鳥のまさに死なんとする、その鳴くや哀し。人のまさに死なんとする、その言や善し。・一部の人たちをぼっこぼこにすることによって、ストレスを発散するような社会が本当にいい方向なのかな。・エンターテインメントは大きな貢献ができるんじゃないかな。曾そう子し、疾やまい有あり。孟敬もうけい子し之これを問とう。曾そう子し言いいて曰いわく、鳥とりの将まさに死しなんとする、其その鳴なくや哀かなし。人ひとの将まさに死しなんとする、其その言げんや善よし。君くん子しの道みちに貴たっとぶ所ところの者もの三さんあり。容貌ようぼうを動うごかしては、斯ここに暴慢ぼうまんに遠とおざかる。顔がん色しょくを正ただしては、斯ここに信しんに近ちかづく。辞気じきを出いだしては、斯ここに鄙ひ倍ばいに遠とおざかる。籩豆へんとうの事ことは、則すなわち有ゆう司し存そんす。森永卓郎さん 死去 67歳 原発不明がんのため きょう自宅で 経済アナリストの森永卓郎さんが、きょう自宅で亡くなったことが分かりました。67歳でした。葬儀は、近親者のみの家族葬にて執り行われるということです。長男の森永康平さんは「闘病中は本当に多くの方から応援のメッセージをいただき、本人だけでなく私たち家族も勇気づけられていました。ありがとうございます。」「まだ気持ちの整理が出来ていませんし、暫くは長男として母を支えつつ、様々な手続きなどの対応もしなくてはいけないのですが、時間が出来た段階で、余命宣告をされてから今日に至るまでの闘病の様子や、父の最期の様子なども、皆様にご報告させていただければと思います。それまでは温かく見守っていただけますと幸いです。」と、コメントを発表しています。前日の1月27日、ラジオ番組に出演した森永卓郎さんは「多分ですね、がんの宣告されて以降、最悪の状態なんですよ。今日、お医者さんが、家に来てくれることになってるんですけれども、どうやら、本格転移が始まっちゃったんじゃないかなと、いう感じで、ものすごく痛いんですね。浸潤してきたところが。」と、明かしていました。長男・森永康平氏(経済アナリスト)のコメント父は 2023 年 11 月に癌の告知を受け、同時に余命宣告をされて以降、仕事をしながら闘病してきましたが、本日息を引き取りました。闘病中は本当に多くの方から応援のメッセージをいただき、本人だけでなく私たち家族も勇気づけられていました。ありがとうございます。余命宣告を受けてから、父は病状や体調、治療状況などについて、可能な限り皆様に共有しようとしていました。まだ気持ちの整理が出来ていませんし、暫くは長男として母を支えつつ、様々な手続きなどの対応もしなくてはいけないのですが、時間が出来た段階で、余命宣告をされてから今日に至るまでの闘病の様子や、父の最期の様子なども、皆様にご報告させていただければと思います。◎森永卓郎さん死去「私の生きざまは…」がん闘病を積極的に公表「モリタク」の愛称で親しまれ前日まで生出演2025年1月28日「モリタク」の愛称で多くの人に愛され、がんの診断と余命宣告を公表した後も闘病しながら自身の考えや言葉を発信しつづけてきた森永さんが、67歳の若さで旅立った。 森永さんは2023年12月に「膵臓(すいぞう)がん」のステージ4と診断を受けたことを公表。その後、詳細な検査で「原発不明がん」とされた。がん闘病中もメディアに出演し、自身の病状や体調、治療費などについても積極的に明かしていた。 24年1月に日本テレビ系「ミヤネ屋」(月~金曜後1・55)に電話出演した際には、がんと診断された時の心境について「楽して生きよう、楽しい事をこれからやろう、とはみじんも考えなかった。最後まで闘いながら死ぬのが私の生きざまだと思ったので。これから権力と闘います、怖いものないんですよ」と決意を示し、「あきらめたらそこで試合終了なんで」と名作バスケ漫画「スラムダンク」の名ぜりふを引用していた。 がん闘病中の治療費についても公表。24年1月に文化放送「大竹まことゴールデンラジオ!」(月~金曜後1・00)に出演し「保険、効かないです。皆さんにお話しをしといた方がいいと思って。標準治療やってると、お金はかからないし、高額療養費制度があるから実質せいぜい1カ月10万ちょっとで済むんですが、私がやってるのは自由診療。正直言っちゃうと、1カ月の支払い300万超えました」と説明していた。 当初、医師からは「桜は見られないだろう」と宣告されていたが、24年4月にニッポン放送「垣花正 あなたとハッピー!」(月~木曜前8・00)で、長男で経済アナリストの森永康平氏と初めて一緒に花見に行ったことを明かし「本当今年の桜は奇麗でしたね」としみじみと話していた。 体調悪化を明かしたのは今年1月15日。出演した「あなたとハッピー!」で血液検査の結果、腫瘍マーカーの数値が悪化しており「お医者さんの見立ては“転移が始まってる可能性がかなり高い”って」とがんが転移している可能性を告げられたという。「月曜日(1月13日)から体調が急変して、お腹とか背中、中心部の周りが激痛が走るようになって痛くて痛くて…」「原因はよく分からないけど筋力が落ちて、スイスイ歩けない状態になった」「それ以降、ずっと寝ている状態なんですね」「個人的な感じだと、この1年で一番状態が悪いんですよ」などと説明していた。 最後のメディア出演は1月27日。「あなたとハッピー!」にリモート出演し、容体が悪化したことを告白。「がんの宣告されて以降、最悪の状態なんですよ。どうやら本格転移が始まっちゃったんじゃないかなという感じ」と話し、冒頭のみの出演にとどめていた。 同じく1月27日にリモート出演した「ゴールデンラジオ!」では「実は1週間前から体調が急激に悪くなってですね。今ほとんど動けない」「この1週間ほとんど何も食ってないんですよ」と明かしていた。 翌1月28日は体調の悪化を受けて「垣花正 あなたとハッピー!」の出演を見合わせていた。💛ご冥福をお祈りします。よく生き、よく言動しました、感謝します👏森信三先生の「人生二度なし」「日本民族の一員として」「この国を愛し」(「修身教授録」p.23-27)「民族の使命に対して、一つの捨石的な意味を持つ」(「修身教授録」p.59-94)生涯でした(^^)
2025.01.29

報徳記を読む 報徳記 【2】先生横田村里正円藏を教諭す その1[報徳記&二宮翁夜話]200櫻町というのは、旗本宇津(うつ)ハン(金に凡)之助の領有で、物井、東沼、横田の3村の陣屋の所在地である。10年ほど前にその地を訪れたことがある。江戸時代の陣屋で保存されているのは、この桜町陣屋だけだという。二宮尊徳先生の遺徳しからしめるところで、その後この地域も二宮町と名称をかえた。私は、陣屋の中に入り、ああ、ここが尊徳先生のいらっしゃったところかと感慨にふけった。先生はここで寝起きされ、夫人はここで大勢の役人、門下生、来客の食事をつくられ、子供らはこの周りを走った。尊徳先生の徳がここから三村に及び、それは日本国中へと及んでいったのだ。尊徳先生の日常について小田原藩の鵜沢作右衛門が天保6年(尊徳先生49歳)6月に大久保忠実候にこのように報告している。「金次郎の朝夕の行いですが、昨年も申し上げたとおり、そ飯そ服を用い、居宅の障子は不用の紙で補修し、畳にいたるまで、見苦しいことは少しも構わず、すべて日用のことは倹約を専らにしております。また、人に施すときには米や金はもちろん、衣類や夜具などにいたるまでこころよくつかわします。荒地の起き返しや家の普請などにも、大工・職人・人足なども村内に世話をしてやり、少なからず米などもさしつかわします。領内で普請や開発など取り掛かるときは、別に賃金をさしつかわすなど、何事にもこれ以上ないほど手厚く取り計らいます。かつ荒地の開発を行うとき、また堰や掘割、普請などに取り掛かるときは、平生(へいぜい)の心持より格別の違いで、物入りなど構わず精力を尽くし、すでにこの春以来7軒も新規に家を建てております。およそ金350両余もかけたように聞いております。そのほか物井村のまぐさ場の路地の地所の堰や用水を新しく堀割し、はば9尺、長さ600間(けん)あまりの場所に正月からとりかかってすでに出来上がっております。(略)この場所は水が集まる場所で雑木等はもちろん草さえよく生えない場所でしたが、このたびの堀割で自然と湿気も取れました。そこでようやく林となるよう取り計らい、村のためになるよう、この春に多くの杉の苗を植え付け、その後もおいおい植えております。このような具合で、所領が永続するよう深く配慮して実意をもって世話いたしております。小作の者たちは、たびたび恩沢を受けて、子供のように懐くよう自然になっていき、その風がいつとなく、近隣の国や近郷に響いて、すでに細川長門守様、川副勝三郎様より依頼があり、そのほかにも依頼が来ております。 論語に『禹(う)は吾れ間然することなし、飲食を薄くして孝を鬼神にいたし、衣服を悪しくして美をフツベンにいたし、宮室を卑しくして力を溝洫(こうきょく)に尽くす』と申すことに相当するものかと考えております。」」(「深山木」鵜沢作右衛門)うたた感慨にふけりながら陣屋の中を見回すと来訪者用に感想を書くノートが置いてあった。見るとそこには、ネパールから来た留学生の感想もあった。ああ、二宮尊徳先生の徳は遠く海外にも及んでいるかと感慨を深めたものであった。「深山木」には、横田村の名主円蔵のことも載っている。むしろ報徳記の記述はこの報告書の記述を参考にしたのかもしれない。「横田村名主格円蔵と申す者、さる文政5午(うま)年、御趣法が始まった折に、自分で心がけて、新しく家の建築に取り掛かりました。竹や木、かやなどにいたるまで整えて、下ごしらえに取り掛りましたところ、少々資金不足でございました。そこで金10両を利息付で5年で返済するから御趣法金を拝借したいと願い出ました。そのみぎり、金次郎より円蔵へ申し聞かせましたことは、『その方は組頭役も勤める身ではないか。領内の村々の細民のなかには今日一日もしのぎかねているなかに、自分として心がけているのは感心なことではあるけれども、このたび家を新築いたしては、御仕法にもさわり、甚だもって心得違いであるぞ』などと申し聞かせて、こう提案しました。『そうであれば、新しい家を作っていると想像し、その方から金10両を五ヵ年割で利息をつけて陣屋に先に納めてみよ。』円蔵という者はいたって篤実な者でしたから、「有り難い」と承諾しました。そして借りない金10両を5ヵ年年賦で元利とも陣屋の仕法金として納め続けたのです。陣屋では、その分の仕法金は利息を倍にして計算しておりました。円蔵はその後さらに考えるところがあったのか、身にしみて有難いと気持ちが染み入って、それより自分の屋敷の竹やぶを刈り取って金5両で売り払い、その代金も陣屋の仕法金に加えてもらいたいと申し出ました。その後、円蔵の家は流行病にわずらう者がでて難渋した時に、その預けた金を入用なだけ払い戻し、残金はそのまま積み立てておりました。(続く)」報徳記 巻之二【2】先生横田村里正円藏を教諭す(1)横田村衰貧尤(もっと)も甚しく民戸中古の半(なかば)を存(ぞん)す。古田(こでん)荒蕪して原野の如し。貧民今日の活計術(くわつけいじゅつ)盡(つく)るに至る。先生之を惠み、之を撫すること百計皆悉く至誠ならざるはなし。里正(しやうや)円藏なるもの、其の先(さき)由緒ある家筋にて連綿として此の横田村に相續すること幾百年たるを知らず。細民と共に衰貧せりといへども、未だ活計道なきが如きに至らず。性才智あるにあらざれども、質直(しつちょく)にして私曲なし。斯くの如き舊家なるが故に、從來の家頗(すこぶ)る破損し、且傾きしかば、新(あらた)に家作(かさく)を計れども家貧にして作ることを得ず。多年、心を用ゐ漸く材木を求め作らんとするに、入費二十金足らずして其の望みを果すこと能はず。是に於てこれを先生に乞ふ。先生喩(さと)して曰く、嗚呼(あゝ)汝の邑(むら)衰癈貧困既に極まれり。里正(しやうや)たるものこれが爲に痛歎(つうたん)して身を顧(かへりみ)るに暇(いとま)なからんとす。何の暇ありて己れの家作安居を計るや、過(あやま)てりと云ふべし。夫れ里正(しょうや)の任たるや一村の長となり、邑(いふ)民を進退し、能く之を治め、曲れるものは厚く教へて直からしめ、邪なるものは之を戒めて正しからしめ、惰農なるもの之を励まし、貧なるものは之を恵み、身に便りなきものをば之を憐み、細民をして法度(はっと)を守り、汚俗に流れず、專ら勤農(きんのう)して貢(みつぎ)を納め、一村の憂(うれひ)なからしむるもの之れ里正(しやうや)の任なり。汝祖先以来代々里正(しょうや)となり、一邑(むら)の盛衰安危皆汝の身にあり。而して下民(かみん)怠惰に流れ、衰貧極り、或は潰れ、或は離散し、土地荒蕪し、戸数漸く數十軒のみ。是も亦極貧にして永續の道なく、貢税減少し、地頭の用足らず。野州廣しといへども、斯(かく)の如く亡村に等しき村も少なかるべし。今汝之をこれ憂となさずんば何を以て里正(しょうや)の任に勝(たへ)んや。一邑(むら)能く治り、土地開け、細民優(ゆた)かならば、其の功里正(しょうや)に歸す。土地荒蕪し、細民潰れ、貧困迫り、人氣(にんき)亂(みだ)るゝ時は、里正(しょうや)の罪にあらずして誰にか歸せんや。 尊徳先生の訓え(借りない借金を返す)○尊徳先生が桜町の復興にあたっていた頃の事である。 横田村の里正(庄屋)で円蔵という者がいた。由緒ある家柄で代々庄屋であった。旧家で、家屋の破損はなはだしく、新築したいと思い、長年かかって材木は集めたが、建築費が足りない。そこで先生の陣屋に赴いて借金をお願いした。先生は円蔵にこう諭された。「ああ、おまえの村は衰廃し百姓は貧困にあえいでいる。里正たる者、これを嘆いて身を顧みる暇もないほど励み勤めるのがほんとうではないか。 どうして自分の家屋敷などにかまっておられようか。 それ、里正の任務は一村の長(おさ)となり、村民をよく治め、曲がったものはこれを教えて直からしめ、邪まなものはこれを戒めて正しくさせ、惰農なるものを励まし、貧しい者はこれを恵み、身に便りのないものはこれを憐れみ、村民に法を守らせ、汚俗に流れないようにし、もっぱら勤労を励まして一村の憂いをなくすのが里正の任というものである。 おまえの家は、先祖代々里正となり、一村の盛衰安危はみなお前の身にあるのだ。現在、村民は怠惰に流れ、衰貧はきわまり、あるいはつぶれ、あるいは離散して、土地は荒れ果て、戸数はようやく数十軒だけとなっているではないか。 今、おまえがこれを憂いとしなければ、どうして里正の任に堪えられるのか。一村がよく治まり、土地が開け、民百姓が豊かとなるならば、その功績は里正に帰する。土地が荒れ、つぶれ百姓となり、貧困せまるというのは、里正の罪でなければ誰の罪というのか。(続く)
2025.01.29
ひろゆき氏、フジ10時間超のロング会見の功績を主張「フリーランス入れると…」にX賛同の嵐ひろゆき氏「『記者会見が閉鎖的なのは良くない』と思われてたが、フリーランスを入れると、『質問なのに自分語りをしたり、要領を得ない質問や、既に答えた質問をするから時間の無駄になる』という事実を浸透させたのは、功績かもしれない」フジ10時間半会見終了でX「通販新聞がMVP」の声相次ぎ自社HPパンク、フリー記者一喝で手柄2025年1月28日フジテレビは27日午後4時から、都内の同局で中居正広氏(52)の女性トラブルに社員が関与したなどと報じられた件について2度目の会見を開催し、会見が終了したのは28日午前2時23分だった。報道陣から質問が絶え間なく続き、1度の休憩を挟み、終了までに10時間23分を要する異例の長丁場となった。191媒体、437人が参加した。この日の“やり直し会見”は、動画撮影禁止や取材媒体の制限などで世間の反感やスポンサー離れも招いた前回17日の会見から一転、参加メディアを限定せずに各媒体4人程度受け入れた。だが、質問の意図が不明瞭で無駄に長く、大声で叫ぶ記者もいた。X(旧ツイッター)では会見終了前から「大反省会」に突入。会見を長引かせた戦犯捜しと、会見のスムーズな進行に一役買った記者がそれぞれ名指しで書き込まれた。中でもXで高評価だったのが、開始から5時間が過ぎてカオス化していた記者会見を引き締めた、「通販新聞」を名乗る記者だった。フリーの記者が前社長の港浩一氏らに執拗(しつよう)に質問し「一致か不一致か」「しっかりしろ!」などと大声を張り上げてマイクを独占。会見を長引かせた一因となっていた。そのフリーの記者の次に質問した「通販新聞」を名乗る記者は「一応、手を挙げて当たった人が質問するルールになっているので、それは守ってください。静かにしてくださいマジで」と主張し、よどんだ空気を一掃。進行の流れを正常に戻す重責を担った。「通販新聞」の公式Xは会見終盤に「アクセス集中のため弊社サイトが閲覧しにくくなっております。大変ご迷惑をおかけしております」とつづった。またその投稿に対し「まだ日本にも記者会見でヤジと暴言と質問でもない持論を指名されてもないのに吐き続け記者会見を妨害するフリーの記者という会見荒らしのヤクザ部隊に対してちゃんと言える記者さんが居るんだって思いました!」「スカッとしました。あの一つ前の独断イライラ記者が、『ここにいる記者みんなこれ聞きたい』と決めつけて偉そうに言っていたのに 全く違う質問されたところもめちゃくちゃよかったです」「ぜひあの記者さんに特別ボーナスをあげてください!お見事でした!」などと書き込まれていた。他にも「通販新聞は、本物のメディア ありがとうございます 今日のMVP」「今回のフジテレビの会見って、質問する側にとっても爪痕を残して評価や株を上げる絶好の機会だと思うんだけど。今のところMVPは通販新聞だよなあ~」などのコメントもあった。
2025.01.28
NHKは大相撲の公式Xで「幻の千秋楽エンディング」として公開。大相撲初場所は大関豊昇龍が三つ巴の優勝決定戦を制して2度目の優勝を果たした。執念の3連勝で横綱昇進をたぐり寄せたが、NHKの粋な計らいが相撲ファンの大きな話題となった。 それは毎場所、千秋楽の放送で最後に流されるダイジェスト映像。初場所は三つ巴の優勝決定戦が行われたため、放送枠内に入りきらなかった。中継されたのは豊昇龍の優勝インタビューまでで実況アナが「豊昇龍の優勝をお伝えして、このあたりで初場所、おわかれです」と伝えてニュースへと切り替わった。その数時間後、NHKは大相撲の公式Xで「幻の千秋楽エンディング」として公開。今場所中に現役引退を表明した横綱照ノ富士の最後の雄姿や、定年を迎えた立呼び出し次郎の姿、そして豊昇龍の気迫の優勝決定戦など、毎日の中継を担当したからこその名シーンが溢れた。 NHKの粋な計らいにファンも「あぁぁ ありがとうございます」「照ノ富士の所で涙が、、、エンディングありがとうございます!」「照ノ富士の名前プレート取り外すシーンは寂しいな」「やっぱこのエンディングがないとダメだ 豊昇龍優勝おめでとう!」「今日ない!ってがっかりしてました」「価値のあるカッコいいエンディング」などと多くの反響の声が集まった。初場所を終えて2日が経過した28日は、Xで「相撲ロス」がトレンドにあがるなど興奮冷めやらぬ様子だ。おまたせしました!夏場所の #千秋楽エンディング です!波乱続きで始まった初日期待の若手の躍進改名した大関琴櫻など見どころいっぱいの場所を記憶とともに振り返りましょう!
2025.01.28
京アニ放火殺人事件 青葉真司被告が控訴取り下げ 死刑判決確定へ1/28(火) 京都アニメーション放火殺人事件で、1審で死刑判決を受けた青葉真司被告がきのう付けで控訴を取り下げていたことがわかりました。これにより死刑判決が確定します。青葉真司被告(46)は京都アニメーションのスタジオに放火し、36人を殺害するなどの罪に問われ、1審の京都地裁で死刑判決を受けています。大阪高裁によりますと、青葉被告がきのう付けで控訴の取り下げを申し入れたことで、刑事事件の審理は終わり1審の死刑判決が確定します。 今後、青葉被告の弁護人が控訴取り下げの無効を申し立てることは可能ですが、今のところ申し立てはありません。◎36人が死亡、32人が重軽傷を負った2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件で、一審京都地裁で死刑判決を言い渡された青葉真司被告(46)が控訴を取り下げたことが28日、分かった。大阪高裁が明らかにした。死刑が確定した。取り下げは27日付。 一審京都地裁は昨年1月、完全責任能力を認め、死刑を言い渡した。弁護側が、責任能力を巡る地裁の判断に誤りがあったとして大阪高裁に控訴し、控訴趣意書を提出していた。控訴審でも責任能力が争点になるとみられていた。 判決によると、19年7月18日午前10時半ごろ、社員ら70人がいた京都市伏見区の京アニ第1スタジオに侵入し、社員やその周辺にガソリンを浴びせかけ放火。36人を殺害、32人に重軽傷を負わせた。
2025.01.28
青山俊董老師「泥があるから、花は咲く」(2016年12月)85頁第二章 人生を円相で考える どちらかが水ならば、ぶつかりはしない 岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる これは教育者で、念仏に生きた甲斐和里子*さんの歌です。 私はしばしば修行僧たちに語ります。「修行の眼目は『無我』になることです。道元禅師は『坐禅の床を破るほどに坐っても我で座ってはならぬ』と示しておられます。 水と氷とにたとえてみましょう。水と氷とはもとは一つですが、氷とこりかたまると一つの器には入っても違った器には入らず、無理には入れようとすると両方が傷つきます。水ならばどんな器にも、またどんな小さな隙間にも入ることができ、両方とも傷もつけず、むしろ自分を汚しながら相手を清めてゆくことができましょう。 仏の教えという光に照らされ、慈悲というぬくもりにつつまれることで、『私が、私が』という『我』の氷を、水に溶かす修行が、修行の眼目と思ってください。 嫌な人や嫌な仕事に出会ったときこそ、私の中に『我』という氷を凝視するチャンス、氷を水に溶かす修行のチャンスと受け止めてまいりましょう」*甲斐和里子「み仏を よぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり」甲斐和里子(かいわりこ)〈1868年~1962年〉さんの詩集『草かご』の中に載せられている言葉です。 和里子さんは、1868(慶応4)年、広島県の勝願寺というお寺で、父・足利義山、母・早苗の五女として誕生されました。義山師は明治時代、本願寺を代表する学者(勧学)さんでした。このようなお念仏の薫る恵まれた環境で育った和里子さんは、生涯をお念仏を中心とした生き方をされました。 そして、女子の教育に非常に熱心取り組まれ、現在の京都女子学園の前身である「顕道女学院」の創立者の一人であり、念仏者(阿弥陀仏のはたらきを喜ぶ者)として当時の女子教育に活躍された方です。 その甲斐和里子さんの詩に、 み仏のみ名を称える わが声は わが声ながら尊かりけり 泣きながら 御戸を開けば 御仏は たヾうち笑みてわれを見そなわす ともしびを 高くかかげて わがまへを 行く人のあり さ夜なかの道 (甲斐和里子詩集『草かご』から) このような詩を読ませて頂きますと、和里子さんの念仏そのものを喜び、阿弥陀さまのはたらきを頼りにしておまかせしていくというお姿が読み取れます。 ところで「阿弥陀さまにおまかせする」ということは、どういうことでしょうか。 和里子さんのお父様の足利義山師は、三女の「おとぢ」さんが大病を患われた時に送られた手紙の中で、 「煩悩だらけのあさましい心を持ったままの私たちを絶対に捨てず、必ずお浄土に生まれさせることを約束して下さったのが、阿弥陀さまであるから、阿弥陀さまのことを有り難いと思うことがなくても、お礼の称名(しょうみょう=念仏を称えること)を忘れてはいけない」 (足利義山和上の文を住職=安藤和範が意訳しました。ご了承のほど)と、示して下さっています。 ここで、阿弥陀さまという仏さまは、私たちの思いや行いに対して応えて下さるのではないことがわかります。 例えば、一所懸命に祈るとか、毎日毎日願いをかなえるためにお勤めやお参りをするとかということで、私達の方を向いて願いを叶えて下さるのが阿弥陀さまではないということです。 阿弥陀さまは、私達一人ひとりのことを救いたい。いつでもどこでも、ずっと一緒に居て支え続けていますと、私に対して呼びかけ続けている仏さまなのです。 それは、私の心がコロコロ変わったり、何時病気になるか怪我をするか、そして何時死ぬかもわからない全く不安定な私だからです。また、自分の都合ばかり考え動いている「あさましい」私です。 どんなに心が阿弥陀さまからかけ離れている自分が念仏しても、口から出てくる南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏そのものなのです。 私が阿弥陀さまに呼びかけている声は、そのまま阿弥陀さまが私に対して「必ず救うぞ、私を頼りにしてくれ」と呼び続けて下さっている声であったのです。 つまり、阿弥陀さまが私のすべてを知り尽くして私にはたらき続けて下さっているのです。その心をそのまま受け取らせていただくことが、おまかせすることになるのだと思います。 南無阿弥陀仏
2025.01.28
【卓球】全日本復活4強の伊藤美誠が悩む〝後輩との距離感〟「イライラするともったいない」1/28(火) 東京五輪で金を含む3個のメダルを獲得した卓球女子の伊藤美誠(24=スターツ)には〝年長者〟ならではの悩みがあるようだ。 26日に閉幕した全日本選手権(東京体育館)では、準決勝で張本美和(木下グループ)に敗れるも、3年ぶりに4強入りを果たした。今年は世界選手権個人戦(5月、カタール)でのメダル獲得を目標に掲げており「負けてしまったものを次に生かせるように」と意気込む。 世界選手権では早田ひな(日本生命)、平野美宇(木下グループ)とともに、女子の最年長選手として代表チームをけん引する立場になることが濃厚だ。だからこそ「年下の接し方が本当に難しい。自分たちができていたことができなかったりすることもあるけど、下に押し付けるというか、できないからってイライラするともったいない」と適切な距離感を模索する日々。歴代の先輩たちに「私たちはどうでしたか?」などと聞いたりしながら、アドバイスをもらったという。もちろん先輩として威張る必要はないが「一緒にライバルとして頑張っていくのがベストなのかなと思ったけど、やっぱり負けたくないという気持ちはすごく大事。そういうところは自分たちが先輩になったから余計に感じる。考えなくてよかったことを考えちゃう」と苦笑いする。 今年の世界選手権は団体戦が実施されない。「自分はなんていうのかな、のんびり、野放しになった状態で、もう一人ひとりという気持ちでやっていけたらいいな」とポジティブ思考で表彰台を目指す構えだ。💛早田選手、平野選手と同世代、頑張れ!男子選手にもやさしく(^^)
2025.01.28
「在留資格のないクルド人は自国に帰るべき」 川口市長が語る クルド人問題を巡って「殺害予告も受けた」1/28(火) 100人規模の暴動、無免許運転でのひき逃げ、女子中学生への性的暴行……。 埼玉県川口市ではクルド人による事件やトラブルが続いている。そこで、現地で暮らし市民に近い感覚でレポートしてほしい、というミッションを編集部から与えられた。2024年9月には西川口のウイークリーマンションに入り、トラブルの現場を訪れ、クルド人のヤード(解体業者の資材置き場)で一緒に朝ご飯を食べて交流し、取材を続けた。 そして2カ月――。さまざまな立場の人に話を聞き、問題の所在が見えてきた。 クルド人が増え続ける実情、ヤードのフェンスと隣り合わせで暮らす市民の苦悩、脅迫される恐怖……など、問題と常に向き合う自治体の長の話を聞かなくてはいけないのではないか――という思いに至った。 クルド人問題では、不確実でネガティブな発信をすると、差別ではないか、と批判を浴びることが多い。しかし市民の身からすれば、治安への不安や不満はあるだろう。その矛先は川口市長にも向けられる。 なかには過激な手段を選ぶ者もいた。「殺人が裁かれないなら、明日お前を殺してやる。お前の命は、明日までだ」 24年6月11日、X(旧Twitter)で、奥ノ木信夫市長は殺害を予告された。埼玉県警は市長の警護を強化。脅迫者の特定を急いだ。 X上で脅迫者が“裁かれない”と指摘しているのは、同1月に市内のコンビニ駐車場の車の中で20歳解体業のクルド人の男が、女子中学生に性的暴行をした事件。5月に執行猶予付きの判決を受けて釈放されていた。 市長は国に対し、不法行為に及んだ外国人の強制送還といった厳格な対処や、仮放免者(入管施設に収容されることを一時的に免除されている者)が就労できる制度づくりなどを求めている。 後者について、在留資格を持たない外国人にずっと働く場を提供すると解釈した者もいた。脅迫者は、市長が仮放免のクルド人を受け入れようとしていると誤解したのだろう。 断られることを覚悟の上で取材を申し込むと、市長は快く応じてくれた。「私はクルド人をウェルカムしているわけではありません。誤った解釈がSNSで拡散され、殺すと脅されて、大変迷惑しています」「市民の不安を少しでも和らげるため、埼玉県警には市内の警備の強化を求めています。それと同時に、市では公用車として108台の青パト(青色回転灯を点灯させて警備する自主防犯パトロールカー)を常備しています。この台数は、埼玉県全域の総数の約15%です」「塀の中で何が起きているのか、どんな人間がいるのか、見えないことが市民を不安にさせています。よって25年には、資材置き場の条例をもっと厳しくしたい。塀の一部を内部が確認できる素材にすることの徹底や資材置き場にある建築基準法違反の建物に対する指導も、併せて行っていきます」「埼玉県ではクルド人経営の解体業者が増えてはいます。解体業は日本人がやりたがらないので、外国人の労働力なしではなかなか成立しない業種ですから」「ただし、厳しい対応はしてきました。約10年間で100社を超えるクルド人経営の解体業者と面談をしてきましたが、取引が成立しているのは半数以下です」「取引を始める時点で、在留資格のない外国人を雇用しない、などと記した誓約書を提出してもらいます。作業員の名簿も求めます」「解体作業初日、最終日、そして途中にも抜き打ちで確認しに行きます。もし在留資格を証明できない作業員がいた場合は、その場で退場処分です。そして再度名簿の提出を求め、虚偽の記載や、在留資格のない作業員の雇用が認められるようなことがあれば、すぐに契約解除する厳しいコンプライアンスを求めています」「抜き打ちでヤードもパトロールします。違反を見つけたら契約解除です」「赤芝新田には約330人が住んでいますが、地主が多い。クルド人に土地を貸して収入を得ている人たちは、トラックの暴走も、ヤードからの騒音も、我慢できるのかもしれません。一方ほかの住人のなかには、不満を持つ人もいます。昭和の頃に川口市全域で行われた区域区分の際、当時の赤芝新田周辺は原則として、住宅や商業施設などの建築を不許可とする市街化調整区域になった経緯がある。農地にするしかないけれど、川口で農業を始めても採算は合いにくい。生産量も価格も他県産の野菜に勝つのは大変です」「地主も活用しきれない土地は貸すしかなかった。皆さん、川口市を外から見て、さまざまな意見をお持ちだと思います。でも、市内にはいろいろな事情があるのです」
2025.01.28
U-20ブラジルがアルゼンチンに衝撃の0-6敗北…… サッカー王国はもうアルゼンチンに勝てないのか「パワーバランスはアルゼンチンに」1/27(月)2022年のワールドカップ・カタール大会を制し、昨年のコパ・アメリカも制するなど、現在の南米サッカー界ではアルゼンチン代表がNo.1の立場にある。一方で厳しい立場にあるのがブラジルだ。両国は長らくライバル関係にあったが、現在は明らかにアルゼンチンの方が上だ。ブラジルは2026ワールドカップ・南米予選でも苦戦を強いられていることに加え、近年はアンダー世代の戦いでもアルゼンチンに歯が立たない。衝撃だったのは、今月23日よりベネズエラで開催されているU-20南米ユース選手権だ。そのグループステージ第1節で両国が激突し、結果はアルゼンチンが6-0で大勝。アンダー世代の大会とはいえ、6-0のスコアはなかなか衝撃的だ。他にも近年の戦いを振り返ると、ブラジルは昨年のパリ五輪男子サッカー出場をかけた南米予選でもアルゼンチンに0-1で敗れて五輪出場権を失い、2023年にはU-17ワールドカップ準々決勝でアルゼンチンに0-3と敗れている。この時ブラジル相手にハットトリックを決めたのは、U-17アルゼンチンの10番を背負っていた攻撃的MFクラウディオ・エチェベリ(19)だ。エチェベリは昨年の冬にマンチェスター・シティと契約を結んでいた逸材で、今冬まではアルゼンチンのリーベル・プレートでプレイを続けていた。そのエチェベリも現在行われている南米ユース選手権に参戦していて、今回もブラジル相手に2ゴールを記録。チームの6-0大勝に貢献している。まだ19歳とはいえ、ブラジル・キラー誕生を感じさせる。スペイン『SPORT』は「全てのカテゴリーを考慮しても、今のパワーバランスはアルゼンチンに偏っている」と伝えていて、このままでは将来もブラジル代表は苦戦することになるかもしれない。
2025.01.28

豊昇龍「雲竜型」土俵入りへ 指導は元武蔵丸、1月31日に披露1/28(火) 大相撲で横綱昇進を確定させた豊昇龍が横綱土俵入りの型を雲竜型*に決めたことが28日、関係者の話で分かった。新しい綱をつくる30日の「綱打ち」後、同じ出羽海一門で雲竜型だった武蔵川親方(元横綱武蔵丸)の指導を受ける。初めて公の場で披露する31日の明治神宮奉納土俵入りでは、同親方の三つぞろいの化粧まわしを使用する方向で調整している。 見せ場のせり上がりで左手の先を脇腹付近に添える雲竜型は攻守兼備を表すとされ、豊昇龍が希望したという。叔父の元横綱朝青龍や大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花の大横綱、近年では稀勢の里も同じだった。*「雲竜型」は、「せり上がり」の際に左手を脇腹あたりにそえて、右手を外に向かって伸ばす「守り」を意味する型「ドラマを演出、かつ主演」 横審満場一致で豊昇龍を横綱に推薦日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会(横審)は27日、東京・両国国技館で会合を開き、大相撲初場所で2回目の優勝を果たした大関・豊昇龍(25)=本名・スガラグチャー・ビャンバスレン、モンゴル出身、立浪部屋=を横綱に推薦することを満場一致で決めた。1月29日に開催される協会の臨時理事会と春場所(3月9日初日・エディオンアリーナ大阪)番付編成会議を経て、第74代横綱・豊昇龍が正式に誕生する。 横審には山内昌之委員長(東大名誉教授)を含めて委員9人全員が出席し、会合は10分足らずで終了した。 記者会見した山内委員長は、千秋楽相星決戦で優勝を逃した昨年11月の九州場所、2回目の優勝を飾った今回の初場所の成績が「『大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績』とする(横審の横綱推薦の)内規に合致している」と説明した。今場所の、平幕相手に星を落として12勝3敗との成績に対しては「実際には(優勝決定の)ともえ戦を通して17回戦い、その試練に勝った。3敗の意味が希釈化(薄められた)した」。ともえ戦で2連勝しての逆転優勝を「最後の最後に印象的な勝ち方をした。ドラマを演出し、かつ主演になった。興行として角界を担っていく横綱としてふさわしい。(勝ち)星以上の力が左右した」と評価した。 豊昇龍が今場所後に昇進を逃せば、春場所は32年ぶりに横綱が空位になる可能性があった。これについて、山内委員長は「結果としてそう(空位に)ならなくてよかった。私たちが『(昇進を)実現しよう』とかという人知を超えたものがある」と述べた。 昇進に大きな異論は出なかったが、委員からは品格をこれまで以上に備えることを求める意見も出たという。 豊昇龍は横綱昇進の推薦を受け、東京都台東区の部屋で取材に応じ、「誰かのまねをするのではなく、『これが僕なんだ』というところを見せたい。人より2倍、3倍の稽古(けいこ)をしてこの地位を守っていきたい」と語った。【岩壁峻、高野裕士】 豊昇龍の横綱推薦を満場一致で決めた横綱審議委員会の各委員のコメントは次の通り。都倉俊一委員(作曲家) 日本の精神を大切にしながら国技であることを自覚してくれれば。本当にまだまだ伸びしろがある。いい意味で精神的に安定した横綱になってほしい。丹呉泰健委員(元財務事務次官) 今場所も前に出ていた。攻めていた。3敗した時はダメだと思ったが、そこからよく頑張ってくれた。横綱になってからも精進して、立派な横綱になってもらいたい。本当に良かった。大島宇一郎(中日新聞社社長) この2場所の成績は昇進(条件)を十分満たす成績だった。3敗した後も気力を絶やさず充実した相撲を見せてくれた。横綱になったからには場所全体をリードする横綱になってほしい。池坊保子委員(元副文部科学相) 3敗した時に心配しましたけど、その後よく取り戻した。その精神力は素晴らしい。彼は勉強しようという意欲があるから横綱にふさわしい品格も兼ね備えていくと思います。紺野美沙子委員(俳優) ともえ戦を見て、「これは横綱にふさわしい」と。朝青龍のような圧倒的な力と千代の富士のようなスピード相撲、歴代の横綱のいいところをとった「令和のカッコイイ横綱」になってほしいです。大島理森委員(元衆院議長) 内規を満たしていることが一つ。そして3敗した後にそれを乗り越えた気迫、相撲の中身が立派でした。今後は品格のさらなる高まりを期待したい。(相撲でも)さらに横綱としての高みへ向かうことを期待している。上原茂委員(大正製薬社長) 千秋楽の結びとともえ戦の3番は「横綱相撲だな」というのが率直な感想。横綱は日本の文化を守っていく役割がある。品格を大事にして相撲道に励んでほしい。日本人の期待する横綱像を目指してほしい。鹿島茂委員(フランス文学者) この2場所、非常に精神と体力が充実していた。まだ若いから強い横綱を期待したい。今場所はよく持ち直した。逆境をはね返す力がある。品格について注文されている方もいました。💛「興行として角界を担っていく横綱としてふさわしい」「興行」のためなのね。今後の豊昇龍の精進で「またモンゴル勢」の風評をはねかえし「風格と品格を備えた大横綱に」👏
2025.01.28

報徳記を読む 報徳記 巻之二【1】 先生墾田役夫を賞す その3[報徳記&二宮翁夜話]200物井村の荒地を開墾したとき、年老いた人夫が来て開墾に随った。一日中 木の根株を掘り続けて休まない。「わしはもう年老いていて力がない。 若いもんと一緒に休んじゃ、仕事にならぬ」そう言って人が休めといっても、休まず木の株を掘り続けた。開墾が終ってから、尊徳先生この老人を陣屋に呼んでこう尋ねた。「おまえの生れはどこの国か」老人答えてこう言った。「わたくし常陸(ひたち)の国の笠間領の村の者でございます。 家は貧乏ではございますが、せがれが一人前となり、うちの仕事は息子にまかせ、生活の足しにしようと思い、この地に参った次第です。あなたさまはこの老いぼれをお捨てにならず、若いものと同様に仕事をあてがい、賃金も同じようにくださいました。まことにもったいないことでございます。」 尊徳先生おもむろに15両もの大金を取り出してこう言った。「お前は、皆の衆にぬきだして丹精の働きをしてくれた。 わずかではあるけれど、褒美としてこれを与えよう」 老人大いに驚いて、いったんその金おしいただいて受け取ってから、謹んでお返しをした。「身に余る恩恵でございます。しかしながらこのような褒美をもらういわれがございません。 わたくしは年老いて力なく一人前の仕事もできませんのに、賃金は同じようにいただきました。それだけでももったいないこと。さらにその上、いわれのない大金のご褒美をくださっては、身のおきどころがございません。決して受け取るわけにはまいりません。」尊徳先生にっこり笑ってこう諭した。「私はこの地を再復するために、多くの人夫を使っている。 その人々の働きを見定めないで、いい加減に褒めたり叱ったりなどすることないぞ。 お前がこの数ヶ月の仕事ぶりもちゃんと見てきた。一度たりと自分の力を認めてもらおうとすることなかった。大勢の者が起こしやすいところを選び、開き方が多いことを競って見せようとするなかで、お前はひとり黙々とみんなが嫌がる木の根っこ、力をつくして掘っていた。人が休んじゃどうかと尋ねても、わしは年老い力が足りぬ、どうして若い者と一緒になって休んでなんでおられよう、そう言っては一日中見栄えのしない骨折りに精出していたことを見ていたぞ。木の根っこを掘り出すこと数知れず、そのお蔭で開墾は思ったより早くできた。これは全くおまえが実直に働いてくれたお蔭だぞ。お前はうちが貧乏だから、稼ぎにきたとそういった。それだのに目の前に与えた金さえ辞退した。そのきれいな心がけ、他人の及ぶところではない。今、与えるこの金は、天がお前の正直なその心をばあわれんでお下しになったと思うがよい。早く持ち帰って貧苦を逃れ、老後を養う足しとせよ。」老人は尊徳先生の言葉に感動し、涙を流し、先生を合掌し何度も拝んで謹んで15両の大金を押し頂いて故郷へと帰っていったということだ。尊徳先生はこの老人に父親の面影をみていたのかもしれない。父 利右衛門(りえもん)は、体が弱く、金次郎が12歳のとき、大病し、治ったものの医者に払う薬代がなく、やむなく田地を売り払い2両の金を工面して代金を医者のところに払いにいった。医者の村田道仙は、「あんたの家は貧乏なのに、この金はどうしたのだ」と尋ねた。「まったくおっしゃるとおりの貧乏に違いない。家が貧乏だからといって治療を受けたお礼をしないわけにいかない。先祖代々受け継いだ田地を売って御礼しに来たのです」村田道仙は、はらはらと涙を流してこう言った。「わしは謝礼などもらわなくとも飢える気遣いはない。 あんたは、家代々の田地を失い、いったんの義理をたてるはいいけれど、これからどうして妻子を養うつもりなのか。わしがあんたの病気を治したばかりに、かえって艱苦が増すのを見るのに忍びない。早くその金で田地を買い戻すがいい。わしへの謝礼など心配するには及ばない。」医者の慈愛を喜びながら、利右衛門(りえもん)は聞き入れない。そこで村田道仙はさらに言った。「貧富は車のようにめぐるものじゃ。あんたも今こそ貧乏だが、また富むときがこないとはいえない。その富んだとき、この謝礼をするならば、わしもこころよく受けましょう。」 利右衛門(りえもん)は大いに感激し、いくたびも頭を下げて、それでも一両だけ強いて謝礼におさめ、一両をうちへと持ち帰った。金次郎は自宅で父親の病後の足元が気にかかり、門口にたって待っていた。利右衛門が医者の言葉に喜んで手足舞うように戻ってきた。「お父さん、どうしてそのように喜んでおられるのですか」「お医者さんの情け深い言葉はこれこのようじゃった。お蔭で残ったこの金で、かわいいお前たちを養える。それがうれしくてたまらんのじゃ。」尊徳先生はこのときの父の喜びと医者の慈愛の言葉を生涯忘れなかった。そしてこうしてことあるごとに、年老いた正実な者を見ると賞嘆して恵まずにはおられないのだ。また、「二宮先生語録」(斎藤高行著:佐々井典比古訳)の366に尊徳先生の言葉をこう伝える。「衰えた村を復興するには、篤実精励の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼の貧民がついに化して篤実精励の良民となるよう導くのである。ひとまず放逸無頼の貧民をさし置いて、離散滅亡するに任せるのが、わが法の秘訣なのだ。なぜかといえば、彼らが悔悟改心して善良に帰するのを待ち受けて、これに田地を与え、屋敷を与えるのだから、恨みを懐くことはできず、また善良に帰さないわけにはいかないのだ。」夕立と 姿をかえて 山里を 恵むなさけぞ はげしかりける「夏の夕立は、雷は鳴りはためき、稲妻はひらめき渡り、烈風暴雨なんとも名状すべからざる暴虐の姿であるけれども、天の心はそうではなく、慈愛に満ちて人民のために降らしたまう恵みの雨である。このように激しくなければ、炎熱蒸すような暑さから生じた田畑の諸虫は死なないからだ。聖賢の怒りもまたこのようであり、怒りは悪徳ではあるけれども。慈仁心より人を罰する怒りは大いに世のためになるのである。わが仕法で、衰退した村を復興するとき、遊惰無頼でどうにもいたしかたない人物は、いったん懲らしめてその家をつぶして、突き放すことがある。これはまた復興の一策である。そう先師が仰せられたことがあった。」(「二宮翁道歌解」福住正兄)報徳記 巻之二【1】 先生墾田役夫を賞す時に役夫一人年すでに六十、日々此の場に來りて開墾す。終日木根(ぼくこん)を掘って止まず。人休めども休まず。人之に休めよと云へば、老人答えて曰く、壯者は休むと雖も終日の働き餘(あまり)あり。予(われ)既に年老い力衰へたり。若し壯者と共に休まば何の用を爲さんやと。小田原の吏之を見て、彼の老人日々木の根而巳(のみ)に心を用ゐるは、開發の勞人と共にするを厭へばなり。日毎の働き他の役夫の三分が一にも至らず。先生何の故に斯くの如き無益の老人を退けざるや、明知の一失なりと云ひて竊(ひそか)に之を嘲る。後數日にして開墾成就せり。邑民の勞を慰し、他邦の役夫を歸村せしむ。時に此の老人夫(らうにんぷ)を陣屋に呼び、先生自らこれに問ひて曰く、汝の生國何(いづ)れぞや。老人答えて曰く、某(それがし)常陸國(ひたちのくに)笠間領某村の農民なり、家貧なれども我が子既に長ぜり。耕田の事は彼に任じ、少しく貧を補はんが爲に君の開墾し給ふを聞きて此の地に至れり、君此の老人を捨て玉はず、壯者と共に役を命ず、又諸人と等しく賃銀を給ふ、其の惠み感ずるに餘りありと云ふ。先生是(こゝ)に於て金拾(じふ)五兩を與(あた)へて曰く、汝衆人に抽(ぬき)んでて丹精の働を為したるが故に聊(いささ)か賞美として之を與ふる也と。老人大いに驚き、金を頂き、謹みてこれを戻し、色を變(へん)じて曰く、君の恩恵身に餘(あま)れりと雖も、某(それがし)何を以て此の賞に當(あた)らんや。前にも申せし如く、老父の力役夫に當(あた)るに足らず、然るを等しく賃金を給ふ。是をも身に餘(あま)れりとせり。今其の實なくして大金の賞を得ること、某(それがし)身を置くに處(ところ)なし。何ぞ是を本意(ほんい)とせんや。某(それがし)決して賞に應(おう)ぜずと云ふ。先生曰く、汝辭(じ)することなかれ。我此の地を再復せんが爲に多くの役夫を用う。豈(あに)其の人々の事実を察せずして猥(みだり)に事を行はんや。汝數月の働きを見るに、曾(かつ)て己の功の顯(あらは)れんことを欲せず。衆皆起こし易き地を撰(えら)み、爭ひて其の開田の多少を示さんとす。汝獨(ひとり)衆人惡(い)む處の木根(ぼくこん)を穿(うが)ち、力を盡(つく)して怠らず。人休めども休まず。之を問へば勞力足らざるが故に休まずと、終日力を勞して其の勞力も顯(あらは)れざるに似たり。汝諸人の嫌ふ所に力を盡して木根(ぼくこん)を穿(うが)つこと數を知らず。平易の開墾に比すれば其の勞倍せり。此の故に開田大いに速かなるを得たり。是全く汝正實(せいじつ)の爲す所也。之をも賞せずして、諸人と共に同視せば、爾来(じらい)何を以て土功を挙んや。汝家貧なるが爲めに他邦に出で勞力すと云へり。然ども目前與(あた)ふる所の金だも辭(じ)す、其の廉直他人の及ぶ所にあらず。今與(あた)ふる所の財は、天汝の正實を憐み下し玉ふものなりと思ひ、速に持ち歸りて貧苦を免れ、老を養ふの一端ともせば、我も亦之を悦ぶなりと教へ再び之を與(あた)ふ。是(こゝ)に於て老人先生の言に感動し、流涕(りうてい)衣(い)を沽(うるお)し、合掌拜伏(はいふく)して證辭(しやじ)を盡くすこと能はず。再三金を戴いて故郷に歸れり。小田原の吏、邑(いふ)民共に始めて老人の常人にあらざるを知り、先生の善人を賞すること厚くして、其の意中の明敏なることを驚歎せりと云ふ。
2025.01.28
【DeNA】バウアー復帰を正式発表!「会えるのが楽しみで待ち切れない」東らと先発陣をけん引1/27(月) DeNAが27日、トレバー・バウアー投手(34)の獲得が決定したと発表した。2シーズンぶりの復帰となる。関内ホールで行われた「初春の集い」で新スローガン発表と新ホームユニホームのデザイン発表とともに、ビッグサプライズとなった。バウアーは会場に流された映像に手を振って登場し、大きな歓声が起きた。「横浜、そして日本のファンの皆さんこんにちは。また皆さんに会えるのが楽しみで待ちきれません。今シーズンまたDeNAベイスターズでプレーすることを伝えられて、本当にうれしいです」と語った。 バウアーは20年にサイ・ヤング賞を受賞するなど、MLBでの実績、実力は十分。DV疑惑でMLBから出場停止処分を受け、23年に電撃来日すると、19試合に登板し、10勝4敗、防御率2・76をマーク。今永や東らとともに先発陣をけん引してきた。 メジャー移籍を目指して昨季はメキシカンリーグでプレー。10勝0敗で年間最優秀投手賞を受賞していた。チーム防御率はヤクルトに次いでリーグワースト2位の3・07だった投手陣の強化に最強戦力が加わる。 プレー面以外でも、ユーチューバーとして日常やトレーニングなど、さまざまな角度の動画をアップするなど話題にも事欠かない。さらにデータや機材などにも造詣が深く“野球オタク”ぶりは、才能豊かな若手投手陣たちにも成長のきっかけになり得る。 昨季はリーグ3位に終わりながら、ポストシーズンから団結して26年ぶりの日本シリーズ優勝という下克上を果たした。チーム全員が口をそろえる「27年ぶりのリーグ優勝と日本シリーズ連覇」へ。バウアーが横浜に歓喜をもたらす。 ▼バウアーは前回来日した23年に5~8月の4カ月だけで10勝しており、今季も10勝する可能性は十分ある。昨季8勝のジャクソン、同6勝のケイもそろって日本シリーズで白星を挙げるなど、2年目は先発ローテーションの軸になりそう。プロ野球史上初の助っ人10勝トリオが誕生するかもしれない。外国人投手の10勝コンビだけでも珍しく、過去は09年巨人(ゴンザレス15勝、グライシンガー13勝)、11年日本ハム(ケッペル14勝、ウルフ12勝)の2例しかない。♥日本球界に骨を埋める覚悟で!!置かれた場所で花を咲かす(人生の贈りもの)渡辺和子 この世に雑用はない、心をこめて時間を過ごさなければならない --けれど修道院に入ってまもなく、日本を離れたのですね 英語が少しできたせいか、米国でシスターの見習いをするように指示されました。そこで「置かれたところで咲く」という経験をするのです。この世に雑用というものはない --30歳の頃に派遣された米国では、どのような生活でしたか 最初の1年は、ボストン郊外の修練院で暮らしました。これはシスターの見習いのような期間で、チャペルでお祈りをして、ミサにあずかってという生活をしながら、掃除や洗濯、料理の下ごしらえなどをする毎日です。 --地道な仕事ですね 私はタイプが打てましたから、翻訳とか、そんな仕事ができるのかなと内心思っていたんです。でも、100人分のお皿をテーブルに並べていくような、どちらかというと単調な仕事ばかり。 あるとき、修練長という50代のアメリカ人の方が私の後ろに立って、何を考えながらお皿を並べているんですか、と英語でおっしゃっいました。私はとっさに、何も考えていません、ナッシングと。するとその方はとても厳しい表情になって、あなたは時間を無駄にしている、と言ったのです。 --どういう意味ですか 私もわからずに顔を見上げていたら、今度は笑顔になって「同じお皿を並べるなら、夕食に座る方々のために祈りながら並べてはどうですか」。それを聞いて、目からうろこが落ちるとよく言いますが、この世に雑用というものはないのだと、心をこめて時間を過ごさなければただ年をとっていくだけなのだと、そのとき学んだのです。仕事にやりがいがないと嘆くのではなく、発想を転換して、つまらない仕事も意味のある仕事に変えていく、そういうことを教えられた時期でした。 --米国には何年いたのですか 修練院に1年、そのあと大学院で学位をとりなさいということになって、計4年半ほど。その後、帰国して岡山のノートルダム清心女子大に派遣されたのです。27年学長を務めました。
2025.01.27
幕末日本の「識字率世界一」を支えた江戸時代の教育制度 都市だけでなく農村部で「寺子屋」が必要とされた理由江戸時代には支配層である武士だけでなく、被支配層である農民や町民まで幅広い層が「読み書き算盤」を中心とした教育を受ける機会があった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第13回後編は、江戸時代に社会の各層で行なわれた「教育投資」が明治以降の日本にもたらしたリターンについて考察する(第13回・前後編の後編。前編から読む)。 初代岡山藩主の池田光政が1641年に開設した花畠教場の生徒は、8歳以上で前髪のある小生と、19歳未満で前髪を落とし済みの大生からなり、小生には習字、読書、習礼(礼儀作法の学習)、槍術、大生には四書五経、史書、乗馬、鉄砲、音楽を修業させた。全国の諸藩で藩校の設立が盛んになるのは、財政再建や幣制改革が焦眉の急と化した18世紀中頃からだが、状況証拠からすると、どこもが花畠教場を手本にしたように見受けられる。特に寛政の改革が実施された18世紀末以降は、低い家柄の出身でも学識豊かで有能であれば要職に抜擢される例が珍しくなくなったので、利己的な目的で学問に励む藩士も増え始めた。 ただし、藩校の教育内容も時代の要求に合った改変を免れず、内外情勢が緊迫を増し始めた同じく18世紀末以降、医学や天文学、西洋科学など、実学が増える傾向にあり、医師や儒学者、蘭学者などによる私塾の開設も盛んになった。幕末の雄藩と言えば、薩長土肥の4藩が抜きん出た存在で、薩摩藩では第8代藩主の島津重豪が安永2年(1773年)に諸武芸を学ぶ演武館や医学を学ぶ医学院を併設した藩校の造士館を設立。第11代藩主の島津斉彬は教科に日本の古典や歴史、西洋科学など幅広い科目を加えさせた。「維新の三傑」に数えられる西郷隆盛や大久保利通、日清戦争と日露戦争時の日本海海戦で名を馳せた東郷平八郎も造士館の出身者だった。 人材を輩出した点では長州藩の明倫館や肥前佐賀藩の弘道館も負けてはいない。弘道館からは明治政府で活躍する副島種臣、早稲田大学の創設者でもある大隈重信、「近代日本司法制度の父」と称される江藤新平らが巣立ち、吉田松陰が教鞭を執ったこともある明倫館からは明治の陸軍で重きをなした山縣有朋や「維新の三傑」の1人に数えられる桂小五郎(木戸孝允)らが巣立っていった。これらの倒幕に走った諸藩の藩校や私塾には、ある共通点があった。儒学を教育の柱としながら、幕府が正統教学と認定した朱子学ではなく、異端とされた陽明学を重んじた点である。 同じ儒学の中でも、中国・宋の朱熹(1130-1200)に始まる朱子学に対し、陽明学は明の王陽明(1472-1529)を開祖とする。幕府が朱子学を正統としたのは権威と秩序を重んじる教えだったからである。対する陽明学は自分が善、正義と信じることをとことん追求し、その思いを行動で表わすよう促す教え。既存の体制を揺るがす危険性を帯びていたのだから、幕府がこれを異端認定したのも無理はなかった。 けれども、列強の艦船が頻繁に近海に出現する緊迫した状況下、既存の体制や秩序では危機を乗り越えることはできないとの危機感から、藩政改革に踏み出す藩もあった。その成功により、比較的経済的に余裕のある雄藩で、陽明学が広く受け入れられ、具体的な行動に出る者が続出したのは、260年続いた徳川幕府によるリスクマネジメントの失敗というより、時代の趨勢でもあった。 藩校の中には庶民にも門戸を開いていたところがあるが、それだけで全体の識字率が大きく上がるわけではない。識字率の高さを支えたのは丁稚教育と寺子屋に負うところが大きかった。 江戸時代中頃以降、京都・大坂・江戸の三都と諸大名の城下町を中心に商業経済が浸透し、商家はなくてはならない存在と化したが、そこでは農家の二男以下を住み込みで雇う習慣が広まった。無給であらゆる雑用をこなす丁稚から、働きぶりや能力に応じて、手代、番頭と出世し、暖簾分けを許されるか、商家の主(旦那)に女子しかいない場合、娘婿として跡取りに選ばれる可能性もあった。だが、いつまでも読み書きと算盤ができないのは店の恥でもある。そのため丁稚奉公の開始とともに、手代か番頭、旦那の夫人が読み書きと算盤を教えるのが当たり前となった。これが丁稚教育である。 それに対して寺子屋は都市部の庶民だけでなく、農村の子弟をも対象とした初等教育機関で、農村部では僧侶や神官、都市部では浪人が教師を務めることが多かった。 親が子を寺子屋に通わせた理由は都市部と農村部で異なる。都市部では向学心や詐欺被害の回避、および玉の輿を目指して箔をつけるのが主目的であったのに対し、農村部では村請制という制度への対応が最大の要因だった。 兵農分離が徹底された江戸時代、武士とその家族は城下町に集住したため、年貢や諸役の徴収及び上納は村役人に一任された。 村役人の呼称は地方によって異なるが、関東・東海・北陸では名主、組頭、百姓代の村方三役からなり、名主は村全体の責任者、組頭は名主の補佐役、百姓代は村民の代表に当たった。誰を三役とするかは農民たちの推薦や入れ札(投票)で決められ、現実には豪農や上層農民から選ばれたが、建前上は農民男性のすべてに可能性があった。 選ばれたはいいが、読み書き算盤ができないのでは役目を果たせない。そんな醜態を避ける意味から、農村部でも寺社に場所を借りた寺子屋が普及したのだった。ただし、子どもたちの学習意欲は概して低く、5年から8年間在籍しても普通の手紙文を書けるようになるのは10人のうち1人にすぎず、それ以外は日常で使う機会の多い祝儀や香典の書き方、人名、村名の読み書き覚えるのがせいぜいだったとする説もある。 つまり、何をもって「識字」とするかで識字率の数字は大きく異なるわけで、教育史を専門とする八鍬友広(東北大学大学院教授)は著書『読み書きの日本史』(岩波新書)の中で、〈明治初期における識字状況は、自署という最低限の識字能力でみても、地域間の格差、および性による差異がきわめて大きかった〉としながら、幕末の状況はこれと大差なく、〈多くの村では、文通可能な男子人口は、一〇%程度〉だったと結論付けている。 識字率の過大評価については、東京大学史料編纂所教授の本郷和人も同意見で、『婦人公論.jp』の記事中で、〈ネットなどを見ていると、江戸時代の識字率について70%とか80%とか、ものすごく高い数字を書いたものがありますが…。いくらなんでも無理があります〉、〈幕末に平均して20%台の識字率があったようなので、江戸時代でもそのあたりが妥当ではないでしょうか。それでも当時“世界一”の識字率であったことは間違いありません〉と語っている(2025年1月19日付『本郷和人『べらぼう』蔦重が活躍する江戸時代に人口が激増。平和な日々で庶民が励んだのは<子育て>と…当時の日本が「識字率世界一位」になれたワケ』)。 実際に日本人の文通可能なレベルの識字率が9割以上に達したのは、明治19年(1886年)の小学校令の施行に伴い、本格的な義務教育がスタートして以降のこと。義務教育を受けた子供たちが親世代、祖父母の世代になった頃だった。 幕末期の識字率20%台は低いと思われるかもしれないが、江戸時代に普及した寺子屋教育の下地があったおかげで、近代日本の初等教育はまったくのゼロからスタートではなかった。制度が整えられ、学歴が物を言う社会が到来してからの識字率向上は非常に速く、アジアの中で日本だけ頭一つ抜け出ることができたのも、太平洋戦争で被った打撃からいち早く復興を果たしたうえ、敗戦から半世紀を経ずして世界屈指の経済大国に成長できたのも、識字率の高さに負う部分が大きかった。そのリターンを享受しているのは、現代に生きる我々とも言える。
2025.01.27
ガザ住民、北部帰還開始 60万人が移動計画か1/27(月)パレスチナ自治区ガザで1月27日、住民の北部への帰還が始まった。 イスラム組織ハマスがイスラエルの要求する人質の解放に応じる見通しとなったことを受け、イスラエル政府が帰還を認めた。AFP通信はガザ当局者の話として、61万5000~65万人が移動を計画しているとの見方を伝えているが、大規模な帰還が順調に進むかは不透明な要素も強い。 中東の衛星テレビ局アルジャジーラがガザから中継した映像では、地中海に面した道路が帰還を目指す住民で埋め尽くされていた。北部ベイトハヌンに帰るという男性は「家は破壊されて跡形もないが、思い出が詰まった場所に帰れる」と喜びの表情を浮かべた。 イスラエルとハマスの戦闘で避難を余儀なくされていた住民らの帰還は、19日の停戦発効を受け、当初25日にも始まるとみられていた。しかし、ハマスが同日解放した人質の中に予定されていた民間人女性が含まれておらず、イスラエルは「合意違反だ」と反発。「この民間人女性が解放されるまで住民の帰還を認めない」と態度を硬化させた。 イスラエル首相府によると、ハマスはその後、この民間人女性を含む3人を30日に解放することに同意。6週間の停戦期間中に引き渡す予定の人質の情報もイスラエル側に提供した。ハマスの譲歩を受け、ネタニヤフ政権は住民帰還に応じる姿勢に転じた。
2025.01.27

次期朝ドラ『あんぱん』語りが決定 林田理沙アナ「まさか」1/27(月) 俳優の今田美桜が主演を務める、2025年度前期の連続テレビ小説『あんぱん』(3月31日スタート 月~土 前8:00 NHK総合 ※土曜日は1週間の振り返り/月~金 前 7:30 NHK BS、BSプレミアム4K)の語りを同局の林田理沙アナウンサーが務めることが決定した。中園ミホ氏が手掛ける第112作目の連続テレビ小説は、アンパンマンを生み出したやなせたかしと小松暢の夫婦をモデルに描く。生きる意味も失っていた苦悩の日々と、それでも夢を忘れなかったヒロイン・朝田のぶと柳井嵩の人生。何者でもなかった2人があらゆる荒波を乗り越え、“逆転しない正義”を体現したアンパンマンにたどり着くまでを道のりを通じて、生きる喜びが全身から湧いてくるような愛と勇気の物語を届ける。■林田理沙アナウンサーのコメントまさか“朝ドラ”のナレーションを担当する日が来るとは夢にも思っておらず、驚きました。私自身子どものころから『アンパンマン』が大好きで、中高時代は合唱部でやなせたかしさんの詩に触れ、やさしさに励まされました。今回台本を読んで、何度も泣きました。激動の時代を生き抜き翻弄されながらも、決して夢を失わなかったのぶと嵩。「正義とは何か」やなせさんのメッセージは、この二人だからこそ生まれたのだと思いますし、今の時代を生きる私たちにきっと教えてくれることがあると思います。視聴者の皆様と一緒にそっと見守るような気持ちで、半年間心を込めてお伝えします。【ブラタモリ】歴代アシスタント人気ランキングTOP6! 1位は「林田理沙」さん!ねとらぼ調査隊では、5月23日から6月6日の間、「あなたが一番好きな『ブラタモリ』の歴代アシスタントは誰?」というテーマでアンケートを実施しました。投票総数は1万1853票と、多くの方にご参加いただきました、ありがとうございます!第3位:桑子真帆第2位:近江友里恵第1位:林田理沙2018年から約2年間、5代目アシスタントを務めてきた林田理沙さん。真面目な性格のためか、最初は固さも目立ちましたが、徐々に雰囲気が和らいでいきました。普段は控えめにタモリさんをアシストしつつ、音楽の経験を生かしてピアノの演奏を披露するなど、番組を全力で盛り上げていく名アシスタントでしたよね。コメント欄では、「最初は堅かったが、タモリさんが何も考えず自然にしてたらいいんだよ、というような事を言われてから次第に馴染んでいくさまが見ているこちらも分かったので、なんかホッコリして見ていました」「真面目だけど、思った事をつい口走ってしまうところがあり、それがまた面白おとぼけコメントで楽しかった」などのコメントをいただきました。また、「釧路湿原での穴にはまったところは印象的」「なまはげに襲われるシーンでは自分も大爆笑しました」「浜松の回の際に、さらりと素敵なピアノの腕前を披露していた時に、なんて多才で謙虚なんだろう! と感服した」と、林田さんの好きな回について触れる声も多く寄せられていました。
2025.01.27
野党、地方でも地殻変動 国民民主に勢い、立民、維新、共産伸びず 自民は党勢回復せず夏の参院選を占うとされる26日投開票の北九州市議選は、自公両党が現有議席を維持し、主要野党内では明暗が分かれた。国民民主党は擁立した公認候補2人がトップ当選し、立憲民主党と日本維新の会、共産党は議席を減らした。先の衆院選で躍進した国民民主が勢いを維持し、地方でも徐々に地殻変動が起こりつつあることを印象付けた。国民民主の古川元久代表代行が27日の党会合で、北九州市議選で党公認候補がトップ当選したと報告すると、会場から「よしっ!」と歓声が上がった。党の看板政策である「年収103万円の壁」の引き上げなどの政策に有権者が期待していることの表れだと分析し、「先の衆院選以来、訴えてきた国民の手取りを増やす政策実現のため、一丸となって頑張らなければならない」と呼び掛けた。国民民主は26日投開票の大阪府茨木市議選でも初めて議席を確保した。北九州市議選で立民は改選前7議席だったが、6議席に減らした。結果について与党も現有議席を維持したことから、立民の野田佳彦代表は国会内で記者団に「全体的に大きな変化がない膠着(こうちゃく)した状態だ」と分析してみせた。立民は「あくまで地方選であり、コメントしないようにしている」(中堅)と強気を装うが、国民民主の躍進に焦りを募らせる。別の立民中堅は「地方選であろうと負けは負けだ。厳しい結果だ」と肩を落とした。革新勢力の支持を集めてきた共産は告示前の8議席から7議席に後退した。共産の小池晃書記局長は記者会見で「衆院選後の政党支持率を見ても国民民主の支持率が伸びている一つの表れ」と指摘した。維新も伸び悩んだ。公認候補8人を擁立し臨んだが、結果は2議席にとどまった。前原誠司共同代表は記者会見で「国政への影響は全くない」と断言した。自民は改選前と同じ15議席、公明も同じく13議席を維持した。自民は議席を上積みして党勢回復につなげたかったところだが、森山裕幹事長は27日の記者会見で「全力を挙げて戦った成果だ。日常活動をしっかりやることが選挙の勝利の常道だ」と述べた。国民民主2人が選挙区トップ当選 自民立憲など議席減 北九州市議選1/27(月)石破政権下で初の政令指定市議選となる北九州市議選(定数57)が26日、投開票された。各党は、夏の参院選の前哨戦と位置づけて党勢拡大を競った。自民は裏金問題への逆風がなお強く、公認を絞り込んだが、小倉北区で前職2人、小倉南区で現職1人の落選が決まった。9人を公認した立憲も3人の落選が決まった。国民民主は公認2人がいずれも選挙区でトップ当選するなど躍進した。 合併による市誕生後の1965年の130人をのぞき、最多の96人(前回比15人増)が立候補する混戦だった。 確定した獲得議席は、自民15(前回16)▽立憲6(同7)▽維新2(同3)▽国民民主2(同0)▽公明13(同13)▽共産7(同8)▽参政0(同0)▽諸派0(同0)▽無所属12(同10)。 焦点の一つは、「いつも政権のリトマス試験紙みたいな選挙になる」(自民現職)という自民の議席数だった。前回は菅政権のコロナ政策が批判され、22人中6人落選という大敗。今回は公認を18人に絞ったが、前回をさらに下回った。4人が選挙ポスターに党名を書かない「党隠し」もしていた。 21人が11議席を争った小倉北区では、自民は4人を公認。このうち返り咲きを狙った2人がいずれも得票が伸びず、混戦の中で浮かび上がれなかった。 当落が注目されていたのは、市議10期を務め、「北九州のドン」とも呼ばれる自民の片山尹(おさむ)氏(78)だ。前回5票差で落選し、今回返り咲きを狙っていた。19人で12議席を争う混戦となった小倉南区で、当選した。北九州市議選、国民民主の30歳新顔が初当選 同党の勢い映す結果に1/26(日) 国民民主新顔の宇都宮亮氏(30)はトップ当選を決めた後、市内の事務所で支持者と喜び合った。「初当選できたのは、党に対して日本中から共感を頂いたからだと思う。色々な方から『国民民主頑張れ』と言葉をかけてもらい、追い風を感じた」と語った。 宇都宮氏はデジタル広告を前後2面のモニターに表示する、重さ17キロの機器を背負って歩く広告業を2022年に起業。当初は「食べる物がないこともあった」という。そうした経験にもふれながら、「手取り、仕事と産業、子どもと若者、この三つを増やす」と訴えていた。 「日に日に応援の声、ご支援の声が増えている」。期間中、毎日立ったJR小倉駅前。最終日の演説で、そう手応えを語っていた。
2025.01.27
歯周病やほうれい線も改善する「高速ぶくぶくうがい」照山裕子歯科医師「高速ぶくぶくうがい」は高速でぶくぶくする水圧で歯や歯茎の汚れを取り歯周病や口臭を予防する口腔ケア法口のまわりの"筋トレ"にもなるためほうれい線改善、フェイスラインのたるみに効いたという女性の声が多く寄せられた」のど上げ体操のやり方1 のどに手を当ててアゴを少し引く2 ゴクッと飲んで出っ張ったところを上げる3 出っ張ったところを上げたまま5秒保つ4 息を一気に吐き出すノド仏が飲み込みには重要です。嚥下の仕組み食べた物が口の奥からノドに入った瞬間に、反射的にノドぼとけが上に上がります。わずか0.6秒の間の出来事です。のど仏は目立ちませんが女性にもあります。喉頭という部分を形成する甲状軟骨のでっぱりのことです。ノドぼとけの上の部分に蓋があり、ノドぼとけが上にあがると蓋が気道をふさいで、食べ物が入らないようにブロックします。皆さん、ノドぼとけを押さえながら唾液を飲んでみてください。ノドぼとけが上に上がらないので飲めないと思います。何かの拍子に大きくむせ込んで咳をするのはなぜでしょうか。ノドぼとけが上に上がりきらない前に食べ物がノドにまわり、気道に入るため、咳込むのです。ノドぼとけが 最大に上りきったところで気道の入り口が完全に塞がるからです。ノドに早く回りやすい食べ物、つまり固形物より水分の方がむせることが多くなります。ノドぼとけの最も上に上がった高さ(最大挙上位置)は若者も高齢者も同じ高さです。しかし普段のノドぼとけの位置は、高齢者では下がっています。80代では男性では10ミリ、女性では4ミリ 下に下がると報告されています。ノドぼとけを支えている靭帯や筋肉が緩むためです。このため、飲み込む時にノドぼとけを上げなければならない距離が伸びます。この安静時のノドぼとけの位置は40代から徐々に下がっていきます。70代くらいまでは、ノドぼとけを上に上げる力は保たれて、むせることは少ないです。80代ぐらいからノドぼとけを上に上げることができなくなり、むせることが増えます。食事の時の姿勢も、とても重要です。姿勢が悪くアゴを突き出した状態では、ノドぼとけとアゴの距離が大きく離れてしまいます。皆さんも猫背でアゴを突き出して水を飲んでみてください。非常に飲みづらいと思います。つまり顎を引いて首の前面が突っ張らないような態勢をしましょう。ノドぼとけが上に上がりやすい状態をつくるわけです。飲み込む力が落ちてきたと感じたら筋肉トレーニングをしましょう。ノドぼとけとアゴの間の筋肉を鍛えます。2つの方法を紹介します。どちらかを行いましょう。あご持ち上げ体操のほうがおススメです。新潟大学医学部耳鼻咽喉科・頭頸部外科公式YouTubeでも動画で解説しています。飲み込みをよくするトレーニング – YouTube3秒でできる“ごっくん筋”トレ “ごっくん筋”をトレーニング。多めの水をひと口で飲んでみたり、「5秒に1回飲み込む」のを10回連続で繰り返したり、あえて上を向いて水を飲むことでも、ごっくん筋に力が入ることがわかる。「これらのトレーニングを難なくこなせるようになると、口に水を含まなくても、のどぼとけやごっくん筋を動かせるようになっています。“ゴクッ”と飲み込んだときの、のどぼとけが上がって、ごっくん筋が硬く張り出している状態を3秒間キープしてみましょう。1日3回が理想的ですが、のどに疲れを感じるくらいしっかりキープできれば、1日1回でもOKです」
2025.01.27
染谷将太「江戸時代と地続きを感じて」 ― 特別展「蔦屋重三郎」が4月に東京国立博物館で開催1/27(月)特別展「蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児」報道発表会より、俳優 染谷将太江戸時代の出版業者・蔦屋重三郎(蔦重:1750~97)が手掛けた浮世絵や狂歌など、多彩な文化を紹介する展覧会が開催されることとなり、都内で記者発表が開催された。展覧会では貸本業から身を起こし、メディア王にのぼりつめた蔦重の全体像を約250作品で紹介。喜多川歌麿や東洲斎写楽など名だたる絵師を発掘し、その魅力を生かした浮世絵を企画・出版した蔦重の活躍にあわせ、浮世絵黄金時代とされる18世紀末の代表的な浮世絵が一堂に揃う。展覧会は大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」と連携。ドラマの世界を展覧会で再現し、蔦重が生きた天明・寛政期の江戸の街の再現も行われる。報道発表会には、大河ドラマで喜多川歌麿役を演じ、展覧会の広報アンバサダーに就任した俳優の染谷将太さんが登壇。展覧会について染谷さんは「作品を見た時に“本当にいたんだ!”と身近に感じた。蔦重は人と人を繋げる、人間力がある方。喜多川歌麿は、感受性豊かで人の内側からなる美を筆にのせることができる人間なのではないか。江戸の世界は遠い世界に感じていたが、身近に感じられるはず。展覧会では、江戸時代との地続きを感じて欲しい」と語った。展覧会の音声ガイドは蔦屋重三郎役の横浜流星さんが務める。特別展「蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児」は、東京国立博物館 平成館で2025年4月22日(火)~6月15日(日)に開催。料金は、一般が前売券 1,900円、当日券 2,100円。
2025.01.27
生島ヒロシ、TBSラジオ緊急降板「人権方針に背く重大なコンプライアンス違反」1/27(月)生島ヒロシ(74)がTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)を、27日の放送限りで降板することを発表した。関係者などによるとハラスメント行為があったという。同局は、生島氏に「TBSグループ人権方針に背く重大なコンプライアンス違反があったことを確認したため」とし、番組出演の継続が不可能と判断。番組降板を決めた。関係者などによると生島から複数の番組関係者などにハラスメント行為があり、番組を外れたり退職する職員が相次いでいたという。違反の詳細については「関係者のプライバシー保護の観点から、説明を控えさせて頂きます」としている。同局によると降板は27日に決定したという。 生島は1976年(昭51)にTBSにアナウンサーとして入社。89年(平元)4月に芸能事務所「生島企画室」を設立して会長に就任。フリーアナウンサーとして活動してきた。 98年4月6日スタートのTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」は、次回月曜日の2月3日で7000回の放送を迎えるところだったが、26年9カ月、6995回で降板となった。28日以降の放送について同局は「対応を検討中です」としている。
2025.01.27
フジテレビ 港浩一社長ら辞任を発表、嘉納会長も 新社長は清水賢治専務「ちびまる子ちゃん」手掛けた1/27(月)フジテレビは1月27日、港浩一社長、嘉納修治会長の辞任を発表した。新社長は清水賢治専務となる。清水氏はアニメプロデューサーとしても知られ「Dr.スランプ アラレちゃん」「ドラゴンボール」「ちびまる子ちゃん」など大ヒットアニメをプロデュース。TARAKOさんのお別れの会で弔辞を読んでいた。 この日開催された臨時取締役会で経営陣の進退について議論された。 株式会社フジ・メディア・ホールディングスの発表は以下の通り。この度の当社子会社の株式会社フジテレビジョン(以下、「フジテレビ」)に関する一連の報道をめぐり、ステークホルダーの皆様にご迷惑・ご心配をおかけしていますことをお詫び申し上げます。本日、当社に対し、嘉納修治代表取締役会長より本日付で代表取締役及び取締役を辞任する旨の申し出があり、港浩一取締役より本日付で取締役を辞任する旨の申し出がありました。また、本日、フジテレビに対し、嘉納修治代表取締役会長及び港浩一代表取締役社長よりそれぞれ本日付で代表取締役及び取締役を辞任する旨の申し出があり、フジテレビは、本日開催の臨時株主総会で当社の清水賢治専務取締役をフジテレビの取締役に選任し、その後の臨時取締役会で 2025年1 月28日付けでフジテレビの代表取締役社長に選定する決議をしました。当社及びフジテレビは、本年1月23日に設置を決議・公表した第三者委員会による調査に対して全面的に協力するとともに、速やかに再発防止策を講じてまいります。公正で透明性を重視した経営を徹底し、ステークホルダーの皆様からの信頼の回復と企業価値の向上に向けて全力を尽くしてまいります。今回の異動による経営体制は改革に向けた第一段階の体制と位置付けており、一刻も早い信頼の回復に向け、さらに抜本的な経営体制の見直しを検討し実行いたします。・異動の理由当社代表取締役会長及びフジテレビ代表取締役会長である嘉納修治、当社取締役及びフジテレビ代表取締役社長である港浩一は、フジテレビについての一連の報道に関し、こうした事態を生じさせた責任を踏まえ、辞任するものです。両氏は、退任後も第三者委員会が行う調査に責任をもって最大限の協力を行うことを約束しています。新たな経営体制で第三者委員会の調査への協力及び信頼回復に向けた改革を進めるとともに、さらに抜本的な経営体制の見直しを検討し実行いたします
2025.01.27
「文政十二年二月の尊徳」(「尊徳の裾野」p.269)文政十二年(一八二九)二月は、尊徳の行方不明の時期である。この時期の尊徳の行動の一部を明記した資料が、小田原の報徳神社の宝物中から発見された。文政十二年二月吉日付けで、母の実家の当主、川久保太兵衛にあてたもので、表紙に「五常講」、裏表紙に「川窪太兵衛」と記された通い帳式の簿冊(ぼさつ)に、五ページにわたり書き込まれている。(略)「このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来てみたところ、大変困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。そこでつらつら考えたのは、いま私はかたじけなくもご城主の命により、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高四一四六石余、宇津汎之助(うつ・はんのすけ)様知行所の復興にあたっている。享保年中から追々困窮して、文政四年には収納が米千五俵余、畑方金百二十七両余と、わずか千石相当にしかならず、ご勤仕もできない有様となったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄(むらがら)取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられた。そこで文政五年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が千九百俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。このように功あるこの身は、すなわち父母の賜物であって、全くわが身ではなく父母の陰徳による。その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。その本が乱れて末の治まるものがないように人生孝行より大事なものはないが、では、何をしたら孝行になるのか?このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。このように信ずるとき、ふと天の命がわが心中に浮かんだ。それは他でもない。桜町の仕法のように家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。しかるに川久保家では、代々のうち奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天の悪(にく)みを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑・山林・家株・財宝・衣食を天から受け得たいと願うならば、身を縮め、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天の恵みを受けるしかない。さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる。ところが昨年文政十一年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、神儒仏の心は一つ。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
2025.01.27
青山俊董老師「泥があるから、花は咲く」(2016年12月)79頁第二章 人生を円相で考える よく生きるとは「今はよくない」と気づくこと どれだけを生きたかよりもどう生きたかを みずからに問えと師はのたまいし 俊董 いかにしてまことの道にかなわなん 千歳のなかの一日」なりとも 良寛さまにしてこの歌があります。沢木興道師は「正気になるほど、自分のお粗末さがようわかる」とおっしゃいました。 自分でも気づかない自分の非に気づかせていただくことができたとき、照したもう光に感謝しないではおれない。わが非に気づくところに争いはありません。照らされ、導かれることにより、謙虚に、そして限りなく軌道修正していきたいという誓願のもとに生きたいと思うことです。
2025.01.27
石破首相 フジテレビ問題に言及「ビッグモーターにしても、ジャニーズ事務所にしても…」石破氏「大手メディアなら企業のガバナンスが効くはず。だから、お台場ら辺のテレビの話だって、それが効いているんですかってことが問われている」「問題になったビッグモーターにしても、ジャニーズ事務所にしても、企業のガバナンスが効いてないから、ああいうことになる。それはメディアも一緒じゃないですか。私はフジテレビの社員だったことはないから分からないけど、それがより効くようにしようという議論があるのではないか」「報道機関ってバラエティー、ドラマってあるけど、民主主義を機能させる上でものすごい重要な役割を果たす。スポンサーもそういう意識を持っている」
2025.01.27

報徳記を読む 報徳記 巻之二【1】 先生墾田役夫を賞す その2[報徳記&二宮翁夜話]200報徳記を読んで、不思議に思うのは尊徳先生が結構怒られることだ。この章でも、開墾の人夫として賃金稼ぎに来た若者が先生の前では、一生懸命仕事をするふりをするのを見抜いて「声を励まして」叱りつける。「お前は私をだまそうとして、そのような働きかたをする。実に不届きだ。 私がここへ来れば、力を極めて、汗を流して、人に抜きん出た働きをするが、私がこの場を去れば、きっと怠けるだろう。 人の力には銘々限りがある。 このように働いて一日力を尽くしたら、お前は一日でたおれてしまうに決まっている。 もしそのようにして一日中筋骨が続くというならば、私が一日中ここにいて試してやろう。どうだ、それができるか。」人夫は地に平伏して答えなかった。「お前のような不正直な者がいれば、みんなが怠りを生ずる本になる。 人をだましてうまいことをしようとするような者は、私のところでは使わない。早く立ち去れ。二度と来るではない。」 村の名主がとりなして若者に謝罪させ、若者もその心得違いを謝った。そこで先生はこれをゆるした。 尊徳先生は心の開拓を一番大事にされた。 心得違いがあれば、それを厳しく指摘され、その者が心から反省した場合に始めて恩恵を与えられた。心得違いのまま恵むとその者の破滅になることを承知されていたからだ。 二宮翁夜話に畳屋源吉の話が出てくる。 桜町陣屋の出入りの畳職人源吉という者がいた。 腕はいいのだが、酒飲みの怠け者。 年も暮になって、餅を買う金もない。 困り果てて、陣屋の先生のもとに餅を買う金を借りにやってきた。 先生はこう言われた。 「おまえのように、年中家業を怠ってろくろく働きもせず。 銭ができれば酒を飲む者が 正月だからといって 一年間一生懸命働いて、丹精している者と同じように 餅をたべようなどとは、心得違いも甚だしい。 そもそも正月というものは突然来るものではない。 米も偶然にできるものではないのだぞ。 正月は360日明け暮れしては来たり、 お米は春に耕して、夏には草ぎりに汗流し、秋に刈り取って初めて米となるのだぞ。 おまえのように、春耕かさず、夏草ぎりもせず、秋刈らず、そんな者に米がないのは当たり前のことではないか。 そうであれば、正月であろうとも餅を食うべき道理がないぞ。 今、金をおまえに貸してやっても、どうやって返すのだ。 金を借りて返す道がないときは罪人となるのだぞ。 正月に餅が食いたいと思うのならば、ただいま今日より 遊惰を改め、酒をやめ、山に入って落ち葉をかいて、肥やしこしらえ、来春に田んぼ作って、米を得て、来来年の正月に餅を食うがよい。 されば来年の正月は、自分の過ちを後悔して、餅食うことをやめて反省せよ」と懇々と説諭されたのであった。 源吉、大いに後悔して「わたくし、遊惰で家業を怠り、酒を呑み、それでいて一年中勤められている人たちと同じように餅食べて正月を迎えようとは全くの心得違いでありました。来年の正月は仰せのとおり、餅食わず過ち悔いて新年迎え、年が明けたら2日より家業に精出し、努力して、来来年の正月こそは、人並みに餅をついてお祝いしたいと存じます」そういい残してしおしおと陣屋の門を出て行った。尊徳先生このときに、源吉が門を出て行くのを見て、呼び戻し、「私の教訓がよく腹底に入ったか」とお尋ねになった。源吉いわく「誠に感銘いたしました。生涯忘れず、酒をやめて、一生懸命働きます」すると先生、白米一俵、もち米一俵、金一両に大根、芋など添えて源吉に与えられた。源吉の心を改められたのをかくも喜ばれたのであった。源吉も感激ひとしおで、これよりは生まれ変わったように生涯家業に精出したと伝えられる。尊徳先生の人を教え諭すことはこのようであった。怒りも不動明王のごとく、憤怒の形相で、どうか改心してくれよと慈愛がふつふつとたぎっている。報徳記 巻之二【1】 先生墾田役夫を賞す(2)時に役夫一人 衆に抽(ぬきんで)て勉力流汗力を極む。小田原の吏(り)之を見て大いに感じ、彼諸人に勝れ、斯の如き力を盡すこと豈(あに)奇特に非ずや。定めて先生此の者を賞し、必ず衆役夫の励みとなさん、早く賞せよかしと心に之を待ちたりしに、先生兩三度此ものゝ處(ところ)に至り、その働を見ると雖も一言の賞詞なし、吏(り)甚だ之を疑ひ惑へり。 暫ありて先生又此に来り、聲(こえ)を励まして曰く、汝我を欺かんとして此の如きの働きを爲す、甚だ不届也と云ふべし。我此處(こゝ)に來れば力を極め、流汗して他に抽(ぬき)んづるの働をなす。我此場を去らば定めて怠るべし。人力(じんりょく)各(おのおの)其の限あり、此の如く働き、終日力を盡さば、汝一日にして斃(たふ)れんこと疑なし。若し斯くの如くして終日筋骨の續(つづ)く者ならば、我終日爰(ここ)に在りて之を試さん、汝能く爲さんか と問ふ。役夫大いに驚き、地に伏して答えず。先生曰く、汝の如き不直の者あれば衆人怠りを生ずるの基(もとゐ)なり。人を欺き事を爲さんとする者は我之を容れず、速に去れ、二度(ふたたび)來ること勿れと云ふ。邑の里正(しやうや)二人進み出でて其罪を謝せしむ。役夫大いに其の過を謝し慈愛を請ふ。先生之を許しぬ。人皆其の見る處(ところ)明かにして、衆人の見る處(ところ)と異なるを驚嘆せり。
2025.01.27

【卓球】17歳の松島輝空が初優勝「ロスはシングルスで」張本智和&篠塚大登のパリ五輪代表撃破1/26(日)17歳の松島輝空(そら、木下グループ)が初優勝を飾った。 24年パリオリンピック(五輪)代表の篠塚大登(21=愛知工業大)を4-1(11-9、11-9、11-3、6-11、11-3)で下した。午前の準決勝で張本智和を4-1で破った勢いそのままに、オリンピアンを2試合連続で撃破し「本当に優勝できると思っていなかった。本当にうれしいです。1試合1試合、強い選手ばかりで、準決勝、決勝も攻めるしかないと思っていました」と喜びに浸った。 松島は卓球選手の両親のもと、4人きょうだいの長男として生まれた。20年には12歳ながら全日本ジュニアの部で準優勝。同11月には13歳にしてTリーグへ参戦した。 昨夏のパリオリンピック(五輪)へは補欠として同行。日本代表の練習サポートなどを務めた。「もちろん感動もあった」というが、心に刻まれたのは強い悔恨。「練習相手は1日1日が本当に長い。自分は2度と行きたくないと感じた。次はリザーブで練習相手ではなくて、選手で出られるように頑張っていきたい」と固く誓った。 悔しさがあふれたパリから5カ月。今大会は強打を武器に初めて8強へ進むと、準決勝からオリンピアンを連破し、決勝は前回大会で敗れた篠塚相手に1年前のリベンジを果たした。 「1大会1大会が大事ですし、もちろんロスにしっかりと自分がシングルスで出る強い気持ちを持って、今後頑張っていきたいと思います」 28年ロサンゼルス五輪へ、大きな1歩を踏み出した。◎男子で過去に高校生以下で全日本王者となったのは2007、08年の水谷隼(青森山田高)、12年の吉村真晴(野田学園高)、13年の丹羽孝希(青森山田高)、中学2年で制した18年の張本智和(エリートアカデミー)、21年の宇田幸矢(エリートアカデミー)のみ。史上6人目の快挙となった。【卓球】まさか…張本智和が準決勝敗退 17歳松島に1-4「圧倒的年上のようなプレーされた」張本智和(21=智和企画)が、2連覇を逃した。松島輝空(そら、17=木下グループ)に1-4(11-13、11-9、7-11、11-13、7-11)で力負けし、準決勝敗退となった。「スコア以上に厳しい試合になった。コートの雰囲気を彼のものにしてしまった」と汗を拭った。1-1で迎えた第3ゲーム(G)を落とし、第4Gでは主導権を握られながら巻き返したが、デュースの末に11-13で競り負けた。初の決勝へと勢いづく17歳を跳ね返せなかった。4歳年下の松島は「普段はかわいい」というが、この日は多用なサーブや粘り強いラリーに屈し「圧倒的年上のようなプレーをされた」と受け止めた。今年は5月に世界選手権(ドーハ)が控える。「メダルを取ることが目標」と語り、「悔しさもありながら認めるところは認めて、1日1日、昨日の自分よりも強くなっていきたい」と見据えた。女子では妹の美和(16=木下グループ)が決勝へ進出。史上初のきょうだい優勝の可能性があったが、次回以降に持ち越しとなった。今日午後に早田ひなに挑む妹へは「きょうだい優勝は逃してしまったが、決勝は観客席で応援できたら。絶対に優勝してほしい」とエールを送った。
2025.01.26
女子マラソン衝撃の残り800m大逆転にネット騒然「マジで凄い」 小林香菜が涙の日本人最高2位1/26(日) 小林香菜が残り800メートルで鈴木優花を抜き去った決定的瞬間の動画 9月の東京世界陸上代表選考を兼ねた大阪国際女子マラソンが26日、大阪・ヤンマーフィールド長居発着の42.195キロで行われた。日本人トップは小林香菜(こばやし・かな:大塚製薬)。残り800メートルでパリ五輪代表・鈴木優花に追いつき、そのまま抜き去ってゴールした。2時間21分19秒。ルーキーの走りにネット上も騒然となった。 レースは鈴木が40キロ時点でも日本人トップを快走。しかし、一度はペースが落ちたとみられた小林が衝撃の追い上げを見せた。ひたひたと鈴木に迫り、残り800メートルで並ぶとそのまま追い抜き、日本人トップの2位でフィニッシュした。レース後は涙も見せた。小林「ちょっとまだ実感なくて、訳がわからないです。タイムいくつですか?」「今回は(2時間)23分30秒の世界陸上の標準記録を切ることを目標にしていた。予想以上に走れて驚いています」スタジオ解説の福士加代子さん「いいですねえ。タイムがわからない感じで突っ込んできた、一生懸命なゴールシーン」渋井陽子さん「若さ爆発してましたねえ。本当によかったです」高橋尚子さん「人が成長する姿をこの2時間の間に見届けたのは初めて。花が、最初は蕾だったのがじっと咲くのを見る2時間。これからが本当に楽しみです」 X上も騒然。「ニュースターだ」「マジで凄い!」「こんな面白いマラソンなかなかないわ」「すげー 逆転したー」「この逆転劇は感動やわ」「新たなヒロイン」などと反応していた。 23歳の小林は早大時代にランニングサークルに所属。卒業後に大塚製薬入りした実業団ルーキーだ。すり足のような独特のピッチ走法が印象的。個性あふれる女子マラソンの新星が誕生した。◎2時間21分19秒の好タイムで両手を広げながら、満面の笑みでゴール。「まだ実感がわかない」と初々しく話した。埼玉・早大本庄高では全国的に目立った活躍はなかった。大学も競走部ではなく、「早稲田ホノルルマラソン完走会」というランニングサークルに所属。転機となったのは大学3年時に出場した大阪国際。中間点付近まで第2集団で実業団選手と一緒に走り、さらなる高みを目指したい思いが強くなった。大学時代の練習はジョギング程度だったが、実業団に入ってからは、質の高い練習に加えて、股関節の可動域を広げるためのトレーニングなどもするようになり、素質を開花させた。将来は公務員になることも考えていただけに、「覚悟を持って実業団に入った」と強調する。「(9月の)東京の世界選手権はまだ無理かもしれないけど、将来は世界の舞台を走れるランナーになりたい」と話していた23歳。新たな可能性を広げるレースになった。◎レース後、日本陸上競技連盟強化委員会の高岡寿成シニアディレクター「マラソンは最後までわからない難しい競技だなと。小林選手が2位になり、彼女の成長曲線は非常に大きな角度を持って上昇しているのを印象付けられた。昨年はここでネクストヒロインで出て、昨年12月の防府読売マラソンで自己記録、ここでも大幅な自己記録を更新。楽しみな若い選手が刺激を与えてくれた」「持っているスタミナは以前から感じていたし、大塚製薬に所属していろんなことを教えてもらっている。高地トレーニングなど環境の変化が強くなっている要素だと思います」「中盤に彼女が離されたら本来ならそのまま。一度追いつき、また離されても追いついた。粘り強さ、スタミナ力を魅力に感じるレースだった」
2025.01.26
報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1 第四 資料集One of his villagers was an incorrigible idler, and a vehement opposer to all of his plans.The man's house was in a tottering state, and his poverty he would recount to his neighbors as a sure sign of the weakness of the new administration. It happened that a certain of the governor's household was under the man's manure-shed, which, by the negligence of many years, was in so rotten a state that a slight touch brought it down to the ground. The man's wrath knew no end. With a club he came out, gave a blow or two to the suppliant transgressor, and pursued after him till he reached his master's house. There in the front of the governor's gate the man stood, and recited to the hearing of a large crowd that gathered around him, the severe ills he suffered, and the governor's inability to give peace and order to the district. Sontok ordered the man to his presence, and in the mildest possible way, begged forgiveness for his servant's transgression, and continued :"Seeing that your manure-shed was in so fragile a state, I am afraid your residence also is not in the best of conditions.""You know I am a poor man," the man bluntly replied, "and I am unable to repair my house.""So," was the gentle answer of the moralist. "How is it then if we send men to repair it for you? Will you give your consent to it?"Taken with surprise, and already a sense of shame coming over him, the man replied."Could I object to so kind a proposal? That is a mercy too great for me."He was at once sent back to his home, to pull down the old house, and to prepare the ground for the erection of the new.The next day, the governor's men appeared with all preparations for the new structure, and within a few weeks there was finished one of the nicest-looking houses in the whole neighborhood. The manure-shed also was repaired, so that it could stand any man's touch. The worst of the villagers was thus brought down.Ever afterward none remained more faithful to the governor than this man. Tears always gushed out when he told afterward of the real humiliation he experienced then.Once discontent became general among the villagers, and no "art of love" could subdue it. Our governor thought he himself was to be blamed for all such. ''Heaven punishes thus my lack in sincerity," he said to himself. One day he disappeared suddenly from among his people, and they all became uneasy about his whereabout.Some days after it was found that he had resorted to a distant Buddhist temple,there to pray and to meditate, but chiefly to fast for one-and-twenty days, that he might be furnished with more sincerity in leading his people.Men were sent thither to entreat him for his speedy return, as his absence meant anarchy among his people, who now had learnt that they could not get along without him. The term of his tasting over, he strengthened himself with a slight meal, and "the day after his three weeks' abstinence from food he walked twenty-five miles to his villages, rejoicing in his heart to hear of the repentance of his people." The man must have had an iron constitution with him.《英文一六八ページに対応》彼の村民の一人は、手に負えない怠惰者であり、彼の計画のすべてに対する激しい反対者であった。その男の家は倒壊せんばかりの状態であったが、彼は自分の貧乏は確かに新しい仕法の弱点を示す徴(しるし)であるとして隣人に語るのが常であった。たまたま長官の家の者がその男の厠〔かわや・便所〕に入ったところ、多年手を加えないため腐朽がひどく、ちょっと触っただけで地に倒れてしまった。その男の憤りは、はなはだしかった。棍棒(こんぼう)を携えて出て来て、過ちを詫(わ)びるも聞かず、一撃二撃、跡をおって遂に長官の家にまで来た。そのところで長官の門前に立ち、集って来た多くの人々に聞えよかしと、自分のこうむった、非常な災難とこの地方に平和と秩序とを与えることができない長官の無能力とを並べ立てた。尊徳はその男を彼の面前に連れて来させ、できるだけ柔和な態度で家僕(かぼく)の過ちのゆるしを乞い、言葉を続けて言った。―『それほど厠が倒れそうになっていたからには、恐らく住いも完全ではあるまい。』『元来私は貧乏人だから』と男は無愛想(ぶあいそ)に応えた。『住いを修復することができない』。『さようか』。道徳先生の柔和な答えであった。『それならば私が人を遣(や)ってお前の住いを修復してやったらどうか。お前はそれを承知してくれるか。』 愕然(がくぜん)として驚くとともに、既に羞恥(しゅうち)の念にとらえられて、その男は答えた、『そのような親切なお言葉にそむくことができましょうか。私には余りに勿体(もったい)ないお慈悲でございます。』彼は直ちに家に返され、古屋を取り壊し、新家を建築する地形の手配を為さしめられた。《英文一六九ページに対応》翌日、長官の部下は新築の用意一切を整えて来て、数週間で近所近隣中にて最も気持よく見える家の一つが竣工した。厠(かわや)も、誰が触っても大丈夫なように、修繕された。村民の最悪の者がこのようにして降服した。これ以来、この男ほど長官に忠実であった者はなかった。後年、この時、彼がどれほど本当に恥ずかしい目を経験したかを物語る時、涙の迸(ほとばし)り出ないことはなかった。ある時、村民の間に不満が漲(みなぎ)り、どのような『仁術』もこれを抑えることができないことがあった。我が長官はすべてこのようなことは自己の不徳の致すところであると考えた。『天はこれによって我が誠心の至らざるを罰し給う』と、彼は自分自身に語った。一日、彼は突然人民の間から見えなくなった。彼らはいずれも彼の在(あ)りかに不安となった。幾日か後に、彼は遠方の寺〔成田不動〕に行っていたことが判った。民を導くになお多くの至誠を与えられるよう、そこで祈念黙想するため、いな、二十一日間の断食が主たる目的であった。速やかに帰村されることを懇願するため、その地に人が派遣された。彼の不在は民の間の無政府状態を意味したからである。彼らは今こそ彼なくしてやっていくことのできないことをしったのである。断食満願に及んで、僅かの食事で体を力づけ、『三七(さんしち)日』〔二十一日間〕の断食の後、民が先非を悔いていると聞いて、快然として、二十里の道程を歩行し、自分の村に帰った。この人は鉄石の体躯(たいく)をもっていたに相違ない。《以下略》
2025.01.26

【長野3人殺傷】矢口雄資容疑者(46)はどんな人物…中学時代は明るい性格で運動神経も良く人気者 ここ10年ほどは周囲との交流なく「引きこもりがち」1/27(月) 逮捕された矢口容疑者はどんな人物だったのか。取材を進めると、10代の頃はスポーツに打ち込み、明るい性格だった一方、ここ10年ほどは周囲と交流がなかったことがわかりました。小学校時代の卒業文集には「勉強をとにかくがんばりたい」と勉強への意欲をつづり、好きな言葉は「ベリーグッド」。欲しいものは「やさしい心」。将来の夢は、「教師」とつづっていました。中学校ではバスケットボール部に属し、同級生によりますと、明るい性格で運動神経もよかったということです。卒業文集では「カレーライス矢口君いちやくスターとなる」という文章があり、「良いお父さんになりそうな人」では1位に。クラスで慕われていた様子がうかがえます。その後は市内の高校を卒業し、首都圏の大学に進学。ただ、ここ10年ほどは、周囲との交流がほとんどありませんでした。市内の実家に1、2年ほど住んでいましたが…。💛「良いお父さんになりそうな人」がいったいどこでどう軌道を誤って、こういう凄惨な事件を起こすまでに至ったのか?ひとごとではない、個人一人のせいにできない、日本人全体の問題でもあるようにも思える?長野駅前3人殺傷事件で警察は男を殺人未遂の疑いで逮捕 男は40代 【逮捕された男の画像あり】男の身柄は長野中央警察署に移送1/26(日)長野3人殺傷事件で警察は男を逮捕しました。容疑は殺人未遂。午前7時すぎ長野市西尾張部で男の身柄を確保しました。男は40代。男は長野市郊外にある西尾張部にあるマンションに居たところを逮捕されました。捜査員に取り囲まれ、捜査車両に乗り込みました。国道18号に近い住宅街です。 事件は22日午後8時ごろ、JR長野駅善光寺口で男女3人が男に刃物で刺され、長野市の丸山浩由さん・49歳が死亡。ほかの男女2人が重軽傷を負いました。事件後、男は現場から逃走していました。警察のフリーダイヤルには25日午前中までにおよそ240件の情報が寄せられていたということです。警察は男の身柄を捜査本部のある長野中央警察署に移送しました。警察はこのあと午前10時から会見を開き、説明することにしています。捜査関係者によりますと、男と特徴が似た人物が事件発生の数十分前から現場付近をうろつく姿が確認されていました。◎捜査本部は無差別殺傷事件とみて、他県警の応援を含む220人態勢で男の行方を追跡。付近の複数の防犯カメラをつなげる「リレー捜査」で割り出した。◎県警は26日朝、矢口容疑者の身柄確保に着手した。捜査員らは容疑者が1人で暮らすマンションの一室を訪ねたが応答がなかったため、午前7時頃に突入。同13分、殺人未遂容疑で逮捕した。突入は立てこもり事件などに対応する県警捜査1課の特殊班「NSIT」が担い、工具でドアの鍵を破壊し、閃光(せんこう)弾も使用したとみられる。 矢口容疑者が暴れるようなことはなく、連行後もうつむき加減で長野中央署内に入っていった。
2025.01.26
「会報76号」送り状より「遠州報徳の師父」~「安居院庄七と鷲山恭平」までは、生涯を報徳活動に捧げた人たちの伝記です。「報徳記」を読むと、大磯の川崎屋など途中で報徳活動を続けることができず、零落していった人物が大勢描かれています。また二宮尊徳全集の下館仕法のなかで、下館藩の武士で、「生まれ変わったら報徳に専念します」と二宮先生に報徳が出来ない言い訳を書き連ねた手紙を書いてるのを見つけ、苦笑したことがあります。 森信三先生のおっしゃるとおり「人生二度なし」です。「この世の中のことというものは、大抵のことは多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来只一つの例外すらないのです。」 先日、大雄山最乗寺で青山俊董(しゅんどう)老師の法話があり、聞きに行きました。テーマは「人生を円相で考える」で、話の中で松原泰道老師からの賀状に「生涯修行。臨終定年。」とあったので、「生涯修行。臨終修行」と書いて送ったと笑われていました。それで言えば「生涯報徳、臨終報徳」でしょうか(^^)* 「人生二度なし」(森信三「修身教授録」2第3講より)○坂村真民さんはこう書いている。「『人生二度なし』これは森信三先生のお言葉。これをしっかと丹田に打ち込むこと。特に晩年になるほど、これは大切である。私は森信三先生にお会いして、やっと腹が決まり、『詩国』を発刊し、五〇〇号になった。その間一回も休まず、入院もしない。凡ては先生のおかげである。皆さんもどうか、このお言葉を、骨肉に浸透して下さい。」○先生は今日はモーニングを着用して来られた。一礼された後、「人生二度なし」という題と共に、次の歌を無言のまま板書された。 高山の頂にして親と子の心相寄るはあわれなるかな「諸君この歌のうちで一番いいところはどこだと思いますか。」「心相寄るはーというところが好きです。」と生徒の一人が答えた。「ここが一番よいところです。これは赤彦でなければ言えないところです。赤彦は学歴としては、長野師範学校を出ただけです。それでいて万葉以後の歌人となったのです。それゆえ諸君が志を立てるには、明治以後の人のうちでは、最もよい目標の一人といえましょう。 とにかく人間は、地位とか学歴とかに引掛っている間は真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分には伸び切らないからです。もちろん一方では、人間は自分の地位、さらには学歴というようなものについての謙虚さがなくてはなりません。しかしながら、その内面精神においては、一切の世俗的な制約を越えて、高邁な識見を内に蔵していなくてはならぬのです。そもそも人間はその外面を突き破り内に無限の世界を開いてこそ真に優れた人と言えましょう。 さて、われわれのこの人生は、二度と再び繰り返し得ないものであると言っても、諸君らはあまりたいして驚かないかもしれません。私なども、諸君くらいの年頃には、この人生の最大事実に対しても、一向に無関心でいたから、もっともなことでもあるのです。 そもそもこの世の中のことは、多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。諸君らが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。もちろん諸君らも意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。要するに諸君たちが自分の生命に対して真に深く思いをいたしていない何よりの証拠だといえましょう。すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。 われわれは、わずか一日の遠足にさえ、プランを立て、調査をするわけです。しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしているでしょうか。否、この「人生二度なし」ということさえ、常に念頭深く置いている人は少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の少ないゆえんかもしれません。 そもそも人生の意義については、いろいろ考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天から受けた力をこの肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。かくしてわれわれが人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないです。この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったと言っていいでしょう。二宮尊徳翁はその「夜話」の中で「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬのと同じだ」と言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあります。生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びても丁度鐘の余韻が残るようにその精神は必ずや死後にも残ることでしょう。 こう考えると、諸君らは今こそここに志を立てるべき時です。そのような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人でもその生涯を深い真実に生きたならば、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。人間が死後にも生きる精神とは、結局その人の生前における真実心そのもので、その真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るのです。かくして人生の真のスタートは、この「人生二度なし」という真理を、その人がいかに痛感することから、始まると言ってよいでしょう。」
2025.01.26
青山俊董老師「泥があるから、花は咲く」(2016年12月)78頁第二章 人生を円相で考える よく生きるとは「今はよくない」と気づくこと人もし生くること 百年ならんともおこたりにふけり はげみ少なければかたき精進(はげみ)に ふるいたつものの一日生くるにも およばざるなり 『法句経』道元禅師「いたづらに百歳生けらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。 たとい百歳の日月は、声色(しょうしき)の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり」「声色(しょうしき)の奴婢と馳走す」とは、人間の六根の相手となる色声香味触法の六境のことで、見たい、聞きたい、食べたい、ほしい、惜しいの欲望が主人公の座に坐り、その欲望を満足させるために、この私が欲望の奴隷となって走りまわり、一生を空しく費やしてしまうことです。 そういう歳月を百年生きるよりも、私が主人公となって、道を求めるという方向へ、少しでも世の中の、人のお役に立つ方向へと道にしたがってあるべきように生きた一日のほうが、どれだけ尊いかしれない、というのです。 どれだけを生きたかよりもどう生きたかを みずからに問えと師はのたまいし 俊董 いかにしてまことの道にかなわなん 千歳のなかの一日(ひとひ)なりとも 徹底捨て果てて清貧に生きられた良寛さまにしてこのお歌があります。沢木興道老師は「正気になるほど、自分のお粗末さかげんがようわかる」とおっしゃいます。
2025.01.26

ベッツが見せた神対応 “本気スイング”に小学生は大興奮…丁寧な指導に笑顔の小学生サプライズ訪問、動画公開で米ファンも反応小学校を訪問したドジャースのムーキー・ベッツ ドジャースのムーキー・ベッツ内野手による日本の子どもたちへの“神対応”に賞賛の声が集まっている。東京都内の小学校をサプライズ訪問した際の動画がYouTubeで公開されると、「グッジョブ、ムーキー」「日本に行きたくなったよ」と、米国のファンもベッツの日本での活動に喝采を送った。 ベッツは21日、MLBジャパンの企画で東京・大田区の小学校にサプライズ訪問し、児童約60人に対して野球を指導した。大谷翔平投手とともに世界一の頂点に立ったスーパースターが登場すると、児童たちは大歓声。野球経験が少ない児童にも、バットの握り方などを丁寧に指導に教えたベッツは「子どもたちに指導するのは、アメリカにいたらなかなかない機会。歓迎してくれて嬉しいよ」と語っていた。 この様子が地元の専門メディア「ドジャーブルー」のYouTubeチャンネルにも公開されると、コメント欄には「子どもたちが本当に(ベッツを)リスペクトしている。素晴らしい子たち、素晴らしい文化」「ムーキーが打つ度に子どもたちが歓声を上げているのは最高だ」「彼の笑顔を見て私も笑顔になった」「日本に行きたくなったよ」「ムーキーが日本をドジャーブルーに染めている」など、英語で多くのコメントが寄せられていた。子どもへ見せた“神対応”に日本のファンも感動した様子。「一生の思い出になる」「ベッツさんありがとう!」「小学生たちラッキーすぎる」「俺も会いたい……」などとコメントが寄せられた。小学生衝撃「えー、ベッツ!?」 女子生徒も大興奮…“大谷効果”で大盛り上がり1/23(木)今回のイベントはMLBジャパンが企画する「PLAY BALL」で、野球経験の少ないどもたちを対象にこれまでも全国各地で開催されてきた。参加者のうち、野球を一度でもやったことがあると手を挙げたのは1/3ほど。トスバッティングではバットの握り方の分からない児童もいたが、ベッツは真剣な表情で「左手を下に、右手を上にして握るんだ」と、一から丁寧に指導した。 ベッツは「とてもクールだった。アメリカにいるとこのようなことはあまりないので、温かく迎えてくれてうれしい。感謝しています」と話した。児童には「プロ野球選手が来る」とだけ伝えられていたが、今回のゲストはMLBの大物中の大物だ。大谷翔平投手が入団し、ドジャース戦の中継が増えたこともあって、児童のベッツの認知度は高かった。 片岡ももさん(3年)は、ベッツの来校を知らされ「(クラスは)えーー! ベッツ!? って感じでした」と振り返る。柿平結衣さん(3年)は、「野球はやったことがなかったんですけど、大谷選手が好きで試合をたまにみるので。ベッツ選手は知っていました。カッコよかったです」と微笑んだ。 プレーを披露するコーナーでベッツは柔らかいボールをかっ飛ばし、ノックでは華麗なランニングスローも披露。目を輝かせる小学生に「今見せたことと同じようなことを、将来できるようになってほしい」と語りかけた。 身長175センチと、メジャーリーガの中では小柄なベッツ。「メジャーの中では小柄な方ですが、どうしたら身体が強くなりますか?」の質問に対し「よく食べてよく寝ること。自分は少し体がちっちゃいので、その分ジムに行く。ショウヘイやジャッジと比べると大きくないから、時間をとってトレーニングをしているよ」と、育ち盛りの児童に成長の秘訣を伝授した。これから未来を創ろうとしている子どもたちに向けて「女の子だろうが男の子だろうが、体が小さかろうが大きかろうが、野球にしても何をするにしても、人生で最も重要なことの1つは自分を信じること。それは本当にやらなくちゃいけない」 ベッツは何度も「常にポジティブに」と繰り返した。その姿勢は、触れあった子どもたちにも伝播した。💛ベッツ選手の人間的に素晴らしいことがよく分る(^^)
2025.01.26
「投票権は欲するくせに…卑怯者だ」 殿堂イチローに投じなかった記者を米論客が怒りの批判1/25(土) 「ESPN」は公式YouTubeチャンネルで同局番組「ファースト・テイク」の動画を公開。イチロー氏の殿堂入り投票に話題が及ぶと、コメンテーターを務めるスティーブン・A・スミス氏は「そいつの名前を出せ! 誰なんだ!」と語気を強め、このようにまくし立てた。「投票権利は欲するくせに、名前を出すのは拒む意気地なしめ。表に出て説明しろ!」「投票権は特別な権利なんだ。我々にはそれが誰なのか知る権利がある。明らかに殿堂入りにふさわしい履歴の持ち主にも関わらず、この人物だけが唯一、他の全員と異なる考えだったんだぞ!」 過激な発言で知られるスミス氏は、唯一のイチロー氏に投票しなかった人物に「これは説明しなければいけない!」と重ねて指摘。コメンテーターで同じく過激な発言で知られるクリス・ルッソ氏が「理由が何にせよイチローに投票しなかったことは受け入れられるが、投票しなかったうえにコソコソと隠れていることは許容できない」と同調すると、スミス氏も「卑怯者だ。到底受け入れられない」と怒り心頭だった。💛再び英国大使ジェームス・ブライスの教え(^^)「米国の歴史を見ると、外国に対し不正と思われる行為を冒した例が相当あります。しかしその不正は米国人自身の発意でそれを矯正しています。決して外国からの抗議や請求によって矯正しているのではありません。これは米国の歴史が証明しています。この国の著しい特徴です。我々は黙ってその時機の来るのを待っているのが最も賢明な策です。あなたが同じ立場を採られる事を、私は切に忠告します。」
2025.01.26

報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記 巻之二【1】 先生墾田役夫を賞す その1[報徳記&二宮翁夜話]200巻の1は、先生の生まれと少年時代、青年期の服部家の仕法と大久保忠真候との出会い、大久保候からの桜町の復興の依頼と一家を処分しての旅立ち、桜町での仕法と妨害、成田山での誓願までその半生が時系列で描かれている。巻の2では、尊徳先生の具体の仕法や教諭のありさまが、本紀に対する列伝のように具体に描かれている。【1】先生墾田役夫を賞す【2】先生横田村里正円蔵を教諭す【3】物井村岸右衛門を導き善に帰せしむ【4】凶年に当たり先生厚く救荒の道を行う【5】三邑十有余年にて全く復興す【6】物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむ【7】先生辻門井二邑の里正を教諭す【8】川副氏采有青木村の衰廃を興す【9】先生青木村の貧民を教諭す物井村の荒地を開墾したときのことである。この地は荒地と7,80年で、大木が繁茂し、領内の人だけでは力が及ばないので、そこで他国の人も雇って、いばらを払い、大木を切って開墾して数ヶ月で完成した。尊徳先生は朝は人夫がまだ出ないうちから出て指図し、夕方人夫が帰った後陣屋に帰るというように、陣頭指揮された。才知のある者は大勢の先に立たせ、愚かな者を分に応じて働かせ、力を尽くす者は賞し、怠る者は励ました。その様子は名将が士卒を自在に指揮したようであったという。尊徳先生は、幼い頃から人間心理に通じ、青年期には川工事を見事に指揮したように人を使うこと、しかも積極的にやる気にさせることがうまかったのだ。「尊徳の森」(佐々井典比古)の「尊親筆写の尊徳青年期の逸話」にはこのようなエピソードが紹介されている。「酒匂川の洪水で堤防が数百間破壊したとき、小田原の殿様は尊徳に「堤防場所奉行」を命じて修築させた。それまでは、役人が工事の間数を測って賃金を定め、人夫10人を一組にして築堤を請け負わせ、工事が終ると役人が検査して賃金を渡す。人夫がそれを分配するとき、過不足が生じても役人は関知しないという方式であった。尊徳は、老若・男女・子供まで人夫として使い、あらかじめクジを用意しておき、土砂運搬の距離によって一荷何文と決めておき、一荷運ぶごとにクジ一本を渡した。10本、20本とまとまると木の札と取り替えた。そして帰るとき、これを点検、計算してお金を渡した。女、子供など半日仕事でもよかった。多くの人は早朝から夕方まで休憩も惜しんで終日働いたので、築堤工事も速やかに完成したという。その後、堤防の修復には、このようにクジを用いるようになった。」 なにか木下藤吉郎の鮮やかな工事の采配を思わせるようだ。 尊徳先生も前例にとらわれず、いかにすれば合理的に迅速に工事が進むかを工夫し、また人間がいかにすれば自発的に働くかという心理にも通暁していた。 そしてまた、自らの少年の頃の苦労もあって、常に女性や子供や年寄りといった弱者に常に温かい目が行き届く人であったのだ。報徳記 巻之二【1】 先生墾田役夫を賞す或時物井邑(むら)の荒蕪(くわうぶ)を開くこと數十町歩、此の地の荒野に歸すること七八十年、大木(たいぼく)繁茂し、恰(あたか)も山林の如し。邑(いふ)民のみの力に及ばず。是に於て他邦(たほう)の者をも雇ひ、荊棘(けいきょく)を拂(はら)ひ、高木を伐(き)り、之を開く。數月にして成る。此の時に當り、先生朝(あした)には役夫の未だ出でざるに出で、之を待って之を指揮し、夕(ゆうべ)には役夫の歸るを待って然後陣屋に歸る。役夫を使ふこと恰(あたか)も手足の心に隨ふが如し。是故に役夫五拾人なれば百人の働をなし、百人なれば二百人の用を爲す、人皆其の功の迅速なることを感ず。是民に先立って艱苦を盡し、其ものゝ知愚を計り、知あるものは諸人の先となし、愚なるものをして分に應じて働かしめ、力を盡す者は之を賞し、怠る者は之を励ます。昔名將の士卒を令することも實(じつ)に此の如くなるべしと人々目を驚かせり。先生と共に此の場に出で、指揮する吏三四輩あり。時に役夫一人衆に抽(ぬきんで)て勉力流汗力を極む。小田原の吏之を見て大いに感じ、彼諸人に勝れ、斯の如き力を盡すこと豈(あに)奇特に非ずや。定めて先生此の者を賞し、必ず衆役夫の励みとなさん、早く賞せよかしと心に之を待ちたりしに、先生兩三度此ものゝ處に至り、その働を見ると雖も一言の賞詞なし、吏甚だ之を疑ひ惑へり。
2025.01.26

いよいよ大相撲初場所も26日に千秋楽を迎え、幕内の優勝争いも熱気を帯びている。館内に緊張感も漂う中で、力士のキュートな化粧まわしは相撲ファンにとっての癒しの存在になっているようだ。初めて見たであろうファンは「こんな可愛らしい化粧まわしもあるんだ」と驚きの声を上げた。実に可愛い化粧まわしを身につけ、ファンの視線を集めたのは前頭十五枚目・伯桜鵬(伊勢ヶ濱)。ひよこのキャラクター「ゲルぴよ」があしらわれたキュートなデザインの化粧まわしで登場した。「ゲルぴよ」はゲル状素材「αGEL(アルファゲル)」の開発・製造・販売などを行う株式会社タイカのオリジナルキャラクター。 また化粧まわしは伯“桜”鵬だけにピンクの鮮やかな彩りとなっている。一際目を引く色味となっているだけに目立ってしまうのも仕方がない。 伯桜鵬がこの化粧まわしで登場するのは初めてではないが、この“ゆるふわ”デザインを受け、相撲ファンは「ぴよりん」「かわいいな」「化粧まわしがピヨちゃん」「ヒヨコのイラスト可愛いな」などの声をネットに寄せている。大相撲の大関・貴景勝は、2024年1月14日から始まった初場所で、ルームウェアブランド「ジェラート ピケ(GELATO PIQUE)」が製作した化粧まわしを着用して登場しました。これを見た両国国技館の観衆やテレビ視聴者から思わず「可愛い!」の歓声があがり、一気に注目されました。キン肉マン 千代大龍は漫画家「ゆでたまご」がデザインした「キン肉マン」を使用。劇中の「火事場のクソ力」の言葉入り。
2025.01.25
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