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2019/3/30足踏みしていた桜も随分と咲き始め 今にも雨が降りそうな鉛色の空の下桜を目当てに出かけてみました 名古屋市瑞穂区の眞好天神社境内の桜境内も淡いピンクで染まり始めましたまだ〃見頃には早いかな名古屋市南区大同町にある大同神明社緑の杜と淡いピンクの桜、華やかになってきた名古屋市南区呼続の冨部神社4月7日には観桜祭が催されpm3時から神事・雅楽奉納演奏、am11時からpm3時マルシェや茶会のイベントがあるようです
2019.03.31
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名古屋市緑区大高町字城山大高と云えば「辻の秋葉社」の鎮座する三差路を中心として栄えたところ現在は細く入り組んだ小路と酒蔵や歴史を感じる趣きのある建物が残る静かな街並み今の静かな街並みからは想像もできないが、このあたりに江明市場が立ち、馬市や諸商いが春秋に2回30日間ずつ行われた時代もあった1732年(享保17)頃には、月に6回の日を定め市を開く六斎市が許された人が集まれば火事も多くなる、村の中心で最も賑わうこの辻に秋葉社を祀ったのも頷ける大高の祭事の際はここに集合して出発、ここで解散する起点でもあったようです今回の目的地、城山八幡社は「辻の秋葉社」から南に数分歩いた大高城址に鎮座しています秋葉社から南に歩いた左手に小高い丘へ続く小路が続きます道は直ぐ先から登りとなり大高城址登城口です城山八幡社の鎮座する大高城跡は、標高20m、東西に106m、南北32mの台形の丘四方に二重の濠を備えていたそうだが、今は外土居や内濠も当時を残す遺構は残っておらず、本丸に向けて歩いて行く途中の地形に名残りを留める程度中ほどに「史跡大高城址」の石標と解説板左手方向には信長が築いた鷲津砦のあった小高い丘も見る事も出来る解説板から道は右に曲がっていき、そこから本丸は目と鼻の先大高城本丸跡現在は何も残ってはいないけれど、ここからは丸根砦は目と鼻の先、相手の動きは手に取るように分ったはず、お互いが睨み合っていたのでしょうこの距離感の近さに時代を感じる本丸は南方向に広がりをみせ、右側に一段高くなった一画に城山八幡社は鎮座します本丸右側の祠扉が閉ざされて中を見る事は出来ませんでした本丸の右に先程の小高い場所へ続く石段が付けられ、その先に古びた木製鳥居が見えます城山八幡社境内全景正面に社、右手に手水鉢、更に右に大高城址碑境内右の手水鉢は1837年(天保8)に大高村の有力者山口源兵衛が寄進されたもの今は蓋がされ使われていないようです大高城主の花井備中守により、ここ城山と町屋川の二箇所に祀られたのが1500年頃と言われ(町屋川の八幡社由緒と年号が食い違っている)ここ城山の八幡社は武士の社として村人の参拝は許される事はなく、村人は町屋川の八幡社に参拝する位置付けでした正面は石塀が積まれ、右方向の石組は崩れているが周囲を囲っていた様子社は東方向きに鎮座し、右側には由緒書きが建てられています当時今川方の松平元康(家康)は、信長が築いた砦に阻まれた大高城に兵糧入れした事で知られます桶狭間の合戦で今川義元が信長に討たれるや、家康は守備していた大高城を去り岡崎に戻ることとなる信長の手に落ちた大高城はやがて廃城の道を辿り、1616年(元和2)尾張藩家老の志水家がここに館を構え移り住んでいたが、それも明治に入り売却されると城山の八幡社は荒廃していきましたかつては武士が詣でた社に武士はなく、町屋川の八幡社は今も氏子により守られ立派な伽藍を持つ対照的な道筋を歩むことになります現在の城山八幡社は本町地区町内会により維持管理され、毎年9月と年越しには住民の幸福を願い祭事が執り行われるそうです社前の一対の朽ちた石灯籠、ここに屋敷を構えていた志水忠時が1670年(寛文10)に寄進したもの社の右にある大高城址碑大高城築城年代は不明、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が、1504年~1520年(永正年間)頃には花井備中守が、1532年~1558年(天文~弘治)の頃には水野忠氏とその息子が居城し、織田信秀の支配下にあった信秀の死後、息子の信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は今川の手に渡る事となった社から鳥居の先には大高城址公園として整備された緑溢れる本丸跡が広がります参拝した3/18には終わりを迎えた椿の赤が彩を添えていました4月も目前の今頃は桜が彩を添え、静かな本丸にも人が集まっている事でしょう城山八幡社創建 / 不明 鎌倉時代初期と思われる祭神 / 応神天皇、神功皇后、玉依姫住所 / 名古屋市緑区大高町字城山23アクセス / JR東海道本線「大高」下車西に徒歩15分前後
2019.03.30
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名古屋市熱田区神宮1丁目目の前は熱田神宮、熱田さんとして親しまれています熱田さんの西に市内を南北に貫く国道19号線が伸び、伏見通りと呼ばれます伏見通りに面して熱田さんの西門がありますが、平日ですが訪れる参拝客は後を絶たない西門から国道を挟んで西側歩道に面し葵の紋が入った山門と門の左に「右大臣源頼朝公誕生旧地」と記された石標がひっそりと佇んでいます門の左脇に名古屋市教育委員会の解説板が掲げられているそれがなければ足を止める事もないのかもしれない頼朝の出生地(諸説あるようですが)とされる妙光山「誓願寺」です古代より熱田神宮を管理する大宮司は尾張氏が世襲してきました平安時代末期の大宮司尾張員職の娘が尾張国司として着任してきた藤原季兼の正室となり、その子である藤原季範が大宮司職を継ぐ事となり、以後その子孫が大宮司を世襲することになり、尾張氏から藤原氏に大宮司職の座が渡る事になった以下は解説板から「平安時代末期の熱田大宮司の別邸があったところ、藤原季範の娘由良御前は源義朝の正室となり、身ごもって1147年(久安3)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる、1529年(享禄2)別邸跡に妙光日秀、世に言う善光上人により誓願寺が建てられた、妙光山と号し、西山浄土宗の寺で、本尊は木造阿弥陀如来坐像である」往時は広い伽藍を持ち、尾張名所絵図にもその姿が記されています1600年(慶長5)の火災で伽藍を焼失しますが、後に豊臣秀頼により再建されますその後に尾張藩が山門などを修理、代々の尾張藩により擁護される事となります葵の家紋がこの寺の歴史を語っています現在の誓願寺はこの門だけがポツンと取り残されているように見えます門の先は駐車場やビルに変貌し往事の面影はありません現在はこの案内板の右手の歩道から境内につながっているようです案内板には以下の様に書かれています「誓願寺は源頼朝公の生誕の地と言われ、かつては境内に頼朝公の霊社があり、寺の鎮守としていました側の小池は頼朝公の産湯の池と呼ばれていたそうです」ここは素直に腑に落しておくべきでしょうなぜなら頼朝生誕の地や産湯の場所は誓願寺以外に、瑞穂区にある龍泉寺の「亀井水」や津賀田神社などでも同様の事が語り継がれています誓願寺は1945年(昭和20)の空襲で炎上し本堂などを焼失します戦災復興事業の区画整理などにより、境内の規模は縮小されます門の先にあった本堂は駐車場に変わり、その右手に黄金色の葵の紋を付けた誓願寺本堂が鎮座しています菖蒲池と呼ばれた小池も現在は存在していません尾張名所図会に残る往時の誓願寺伽藍、門の前の現在の伏見通り多くの参拝客が見られます武家政権の始まり、鎌倉幕府を創建した頼朝の生誕の地とされる誓願寺現在は葵の紋が飾られた門が面影を留めるのみです誓願寺創建 / 1529年(享禄2)山号 / 妙光山宗派 / 浄土宗西山派本尊 / 木造阿弥陀如来座像住所 / 名古屋市熱田区白鳥二丁目10-12アクセス / 市営地下鉄名城線「神宮西」下車南へ徒歩5分程
2019.03.28
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滋賀県蒲生郡日野町村井 「信楽院」城下町の趣漂う日野商人街道の南に鎮座します浄土宗のお寺で、中世この地方を統治し、後に日野城主となる蒲生家の菩提寺1349年(貞和5)蒲生高秀が信楽庄牧村の紫香楽寺から古仏を乞い受け、小御門城の馬場に小堂を建て安置したのが始まりと云われ、安土・桃山時代に当地に移されたと云われます山門の右に日野観光協会の案内板、内容は以下「信楽院は鎌倉期から安土桃山時代にかけて、日野地方を治めた蒲生家の菩提寺である音羽城を築いた貞秀は、戦いに出る時何時も、槍の先に冠子に入れた阿弥陀仏にを槍の先に引っ掛け、念仏をとなえながら戦ったといわれ、こんなことからこの仏を「槍かけ本尊」とも呼び、今もこの寺に安置されているまた文禄4年(1595)京都で亡くなった蒲生氏郷の納骨地蔵尊や供養塔もこの寺院にある本堂の天井には、日野が生んだ江戸期の画人高田敬輔の豪快な雲流の天井絵がある」分かりやすい解説です「雲龍」の天井絵を焼き付けておきたかった、こちらを訪れた目的です山門派手な彩色は無いけれど、木組みや各所に細かな彫が施された重厚な趣があり天井絵ばかり目的にしていましたが、実際に訪れてみると門前から足は止まっていました山号「佛智山」扁額木鼻、蟇股など至る所手を掛けた彫が施されています両脇には孔雀の透かし彫りが驕られ、宮彫師の拘り見たいものが伝わってきます 山門から境内伽藍「雲龍」の天井絵の描かれた本堂は右手になります境内左の鐘楼、こちらも山門同様に柱を始め細かな彫が施されています寺の顔ともいえる山門に対しシンプルな手水舎手水舎左手の四間堂、入母屋瓦葺の建物で四つの堂が並んでいます左から地蔵菩薩堂、左手の前掛けがかけられた二体の地蔵と右手にも地蔵が祀られています左から2番目、さあ困った、読めません立派な厨子がありますが、残念ながら解説板もないので3.4番目観音大士、こちらも立派な厨子と不動明王や多数の仏像が祀られています四間堂右手の秘仏堂扁額の左に掲げられた由緒書きによれば1978年(昭和58)に建て替えたようです本尊の阿弥陀如来三尊は八月と春・秋の彼岸の中日と毎年三回開扉されるようです境内正面行者堂と大師堂、こちらは修復が入るのでしょうか立ち入り出来ませんでした(2019/2/21時点)本堂(左)全景と庫裡本堂土間の扁額本堂左の滋賀県教育委員会解説板以下は解説板からの抜粋「現在の本堂は、原文四年(1739)に大工但馬喜連によって建てられたことが棟札に記されている建物は前面に土間を持つ浄土宗本堂としては特異な平面を示す内部は欅の独立丸柱に大きな虹梁形飛貫を効果的に架け、天井絵の大胆な構図とあいまって、力強く荘厳な意匠でまとまっている土間を持つ浄土宗本堂の特異な例として重要である」本堂は2017年に修復を終え建具も含めリフレッシュされています新しい建具を開け、土間から本堂外陣へ視力の悪い夫婦、障子を開けた先にいきなり住職らしき人影が「こんにちは」・・・・・?????、「天井絵を拝見させて頂きにお邪魔させて頂きました」・・・・・?????「・・・・・なんと冷たい」近付いて良く見れば、それは像でした、返事があろうはずもなく周りに誰もいなくて良かった、客観的にこの光景を見られていると面白い動画が撮れたはずです本堂の天井は大きく9つのブロックに分かれています本陣の上は遠慮させて頂きましたが、6つのブロックの天井には躍動感あふれる天井画が描かれています本陣の右の住職の後方にある須弥壇、中央と左の須弥壇で拝ませて頂きますさあてお目当ての天井絵をじっくり拝ませて頂きます土間から本堂に入った最初のブロックに描かれている天井絵その左の中央の天井に描かれた天井絵これです、お目当ての龍の天井絵「雲竜・八大竜王・韋駄天図」です江戸時代の絵師高田敬輔(1674~1755)の代表作と云われ、天井の11mに描かれた大作です6枚の天井絵の中心となる雲龍、豪快な龍が天井の一間に描かれていますその雲龍の左の天井絵左の内陣寄りの天井に描かれた天女の絵こちらを向いて優しい笑みを浮かべています中央の須弥壇前の天井に描かれる天井絵住職の上の天井に描かれた天女の絵畳の上に仰向けになり、静かに天井絵を脳裏に焼きつける小布施にある岩松院の『八方睨み鳳凰図』が辿った様に、やがてはこうして静かに眺める事は出来なくなるのでしょう高田敬輔の描いた「雲竜・八大竜王・韋駄天図」じっくり見ておくならば今なのかもしれません訪れて良かったと思う満足の力作です2019/2/21佛智山信楽院 宗派 / 浄土宗開基 / 不明 本尊 / 阿弥陀如来坐像 住所 / 滋賀県蒲生郡日野町村井1500アクセス / 新名神高速甲賀土山ICより国道1号で約20分
2019.03.26
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名古屋市緑区大高町田中大高城址から東を眺めると直下に「海岸寺」という寺号の寺があります寺号から受ける印象は「なんと場違いな」と感じる事でしょう現在の周囲の状況から見ても、初めてこの地を訪れる方の正直な印象だと思います以前はこの先に海が入り込んでいた時代もあり、知多半島の北端でした海岸は強ち不自然でもない場所ですここ大高城址の東端から海岸寺を一望できます海岸寺の境内も城壁の様に石垣が高く積まれ、その上に伽藍が広がります後方は先程の大高城址の森です大高城跡史跡指定地内に鎮座する天台宗「海岸寺」の伽藍全景白祐山海岸寺の山門、山門右に地蔵堂山門をくぐり石段を登った先が境内、左に海岸寺本堂、善光寺、客殿、寺務所、庫裏の伽藍山門右の片隅に地蔵堂が祀られ、馬頭観音や不動明王に出逢う事ができます山門正面全景両脇には鮮やかな色彩の仁王像が守護しています那羅延金剛力士密迹金剛力士どちらも鮮やかな色彩が施されています、作者は不明仁王門は1943年(昭和18)に本堂と共に新築されているようなので近代の作品山門扉の転法輪、心が清浄になるように唱えて右に3回回す事で願いが叶う様です因みに緑区に多数ある寺のなかで仁王門を備えるのは海岸寺だけだそうで天井に龍が描かれた山門をくぐり正面の石段を登ります白祐山海岸寺の創建は天正2年(1574年)、時の織田信長の命によるものです本尊は定朝(宇治平等院の国宝木造阿弥陀如来座像等手がける)作の聖観世音菩薩を安置します善光寺全景海岸寺の開山は1574年、当初大高川の河口海岸付近に「源光院」として始まったらしい1694年(元禄7)の由緒書で現在の海岸寺に改称されたという1757年(宝暦7)に現在の地に移転、広い寺域と伽藍を有していた様です寛政(1848~1853)頃の記録では海岸寺、源光院、三光坊のみで他は荒廃していったようです当時の伽藍が記していないものか調べて見るも辿り着けませんでした嘉永年間(1848~1853)に火災に遭いましたが、1943年(昭和18)に本堂や仁王門を新築、境内整備が行われ現在の寺観になった様です境内側から山門の軒下を見上げるそこには般若の面が掲げられ、こちらを睨んでいます山門天井に淡い色合いで描かれた龍山門が新築されたのは昭和に入ってから、なので近代に描かれたものです訪れる者を威圧する迫力は、海岸寺の印象を強烈に焼き付ける見応えのある作品です緑区の紹介では本堂や客殿の襖絵にも龍が描かれていて、画家の中村哲也氏の作とあり、何れもすばらしいものだといいます、機会があれば見たいものです新しい作りの外観ですが、この地が海岸だった頃から続く歴史を重ねた寺です海岸寺宗派 / 天台宗山号 / 白祐山創建 / 1574年(天正2年)本尊 / 聖観世音菩薩・一光三尊阿弥陀如来寺宝及び文化財 / 聖観世音菩薩像、金比羅天像、大黒天像、一光三尊阿弥陀如来像住所 / 名古屋市緑区大高町田中14アクセス / JR東海道本線「大高」下車西へ徒歩15分程
2019.03.24
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桜の開花宣言もだされここ数日の陽気で開花を期待したけれど寒の戻りからか今一つ開かない膨らんでいたチューリップのつぼみここ数日からパッカンとばかりに開きだす我家の庭にも待ちに待った鮮烈な色合いが訪れてきた自然は感心するほど環境に敏感です雨が降れば土筆はニョキニョキ、暖かくなればつぼみも膨らむ暖かい陽の下で咲き誇る桜を楽しむのはもう少しお預けか自分の体も気温差に敏感、腰が痛~い
2019.03.23
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わいわいロードで遅めの昼食を済ませ歩いて10分程の住吉大社へ向かいます住吉大社の鳥居前に続く通りには、昭和の時代へタイムスリップしたかのような町並みが続き懐かしい路面電車(阪堺電車)が頻繁に走行し、眺めるだけでもとても楽しい場所また周辺や境内には古い巨大な石灯籠が林立し、足を止め見て行きたいところですかみさんに置き去りにされるのでここは我慢平日なのに多くの出店が出て、老若男女問わず多くの参拝客が訪れ参道はすごい人「大阪の人は信心深いのね」内心そう信じかけていた予備知識なしにこの日に訪れましたが、良く調べてから日程を決めれば良かった毎月最初の辰の日は「初辰まつり」が行われます、なのでこれが日常ではない様です昼を過ぎ参拝客のピークは過ぎていたようですが、それでも人が途切れる事はありません上段 朱も鮮やかな反橋(太鼓橋)下段 鳥居の先には第三本宮が間近です住吉大社には4つの本宮があり鳥居正面の第三本宮の後方に第二本宮、その後方に第一本宮が建てに並び第三本宮と横並びに第四本宮が並ぶ配置となっています境内正面の第三本宮(左)と第四本宮(右)本宮の本殿は何れも国宝に指定されています左が第三本宮本殿 表筒男命を祀ります右が第四本宮本殿 息長足姫命(神功皇后)が祀られます1810年(文化7)に造営された本殿は、檜皮葺で切妻の妻から入る住吉造の鮮やかな朱が印象に残ります本殿の内部は外陣と内陣に分かれています第二本宮 中筒男命を祀ります外観は千木が外研ぎと内削ぎの違いこそあれ、鰹木は5本で背景がなければどれがどれやら分からなくなりますそれにしてもこの本宮はシンプルでありながら艶やかな美しさを持っています第一本宮、底筒男命を祀ります個人的な住吉大社のイメージはこの4つの本宮に尽きると思っていましたが、本宮以外にも見所が多い一回で紹介できるものではないし、全てを参拝するには一日の僅かな時間ではとても無理です第二本宮の南側のおもと社(侍者社)神功皇后の命により住吉大社初代神主津守氏の祖田裳見宿祢、市姫命を祀り縁結びの神として知られます上段 右は楯の神社(祭神/武甕槌命) 第四本宮右に祀られる上段 左は第四本宮前の神井と翡翠の撫でうさぎ 住吉大社は神功皇后が住吉大神を祀ったのが辛卯の年(211)卯月の上の卯日とされることから、 ウサギが神使とされ、撫でウサギの他にも境内の手水鉢などでウサギの像を見られます下段 右は矛の神社(祭神/経津主命) 第三本宮左に祀られ、矛と楯の二社で本宮を守護する下段 左は第一本宮の左に祀られる大神宮 伊勢遥拝所上段 五所御前と本宮域をつなぐ門、その先は本宮域につながる 右は五所御前から石舞台を経て南参道につながります 下段 本宮域から門を出ると摂末社の連なる五所御前の領域へ 下段右 住吉鳥居の若宮八幡宮(祭神/誉田別尊、武内宿禰) 下段左 五所御前のパワースポット 1800年前に住吉大神鎮座の際に最初に祀られた神聖な場所と云われ 体力、智力、財力、福力、寿力が授かるといわれ、「五」「大」「力」と書かれた小石を 見つけ御守として持つと願いが叶うといわれます 願いが叶えばここで拾った石と身近な石に「五」「大」「力」と書いて倍返しでここに戻す 慣わし、玉垣の周りに集まっている皆さんはその石を探しています早速かみさんも五大力の小石を見つけ、守袋を買い求めお守りに……良くできたシステムです若宮八幡宮の先に祀られる「海龍社」扁額側の表と裏側の双方をお参りするようで賽銭箱が裏表其々に設けられています上段左 立聞社上段右 楠珺社 樹齢1000年を超える楠の大樹を御神木とするお稲荷さん初穂参りの中心的な神社で拝殿前にそびえる樹齢約800年の夫婦楠には、白蛇が住んでいると云われる招福猫が神様のお使いとされ毎月お参りに来ると小猫の招福猫を授かる事が出来、これを48体集めると中猫と交換してもらえます、ここまで4年中猫二体と子猫48体集めて12年、ここで初めて大猫と交換してもらえるしかも大猫は右手招きと左手招きの二種があり、両方が揃って大願成就となるそうですつまりコンプリートするまでには24年を要する……良くできたシステムですそれとは別に「みのりまいり」と「初辰まいり」二番目のチェックポイントで御祈祷の後に「稲種引換券」を頂きます祭神 / 宇迦魂命ご利益 / 商売発達・家内安全上段左 招魂社、上段右 左から薄墨社、斯主社、今主社、八所社、新宮社下段左 后土社 祭神 / 土御祖神、神域全体を守護する神下段右 五社 祭神 / 大領の祖神・板屋の祖神・狛の祖神・津の祖神・高木の祖神・大宅の祖神・神奴の祖神右 星宮 祭神 / 国常立命、竃神左 星宮左の手水舎、ここから左に進むと種貸社方向につながります末社の種貸社「みのりまいり」と「初辰まいり」最初のチェックポイントでこちらで御祈祷を受け「稲種引換券」を頂きます祭神 / 倉稲魂命ご利益 / 資金調達・子宝・知恵下段右 右から海士子社、祭神 / 鵜茅葺会不合尊、 左が兒安社、祭神 / 輿台産霊神上段右 志賀神社 祭神 / 底津少童命、中津少童命、表津少童命下段 摂社 大海神社 祭神 / 豊玉彦命、豊玉姫命種貸社の左手に位置し、住吉大社が創建される以前からここに鎮座していると伝わる一旦五所御前に戻り浅沢社に向かいます上段 五所御前から南門を出た所に石舞台 住吉大社の石舞台と四天王寺の石舞台、厳島神社の板舞台は、日本三大石舞台と呼ばれる 住吉大社の石舞台は1607年豊臣秀頼が奉納したもの(重文)中段 石舞台から南の門をくぐり参道が続く(振り返って全景を一枚)下段 門前の狛犬、住吉大社では個性的な狛犬が多数見られます、全てを紹介するにはページが足り ないので個別に整理した際に紹介する事にします 参道を南に進んだ先の鳥居を一旦出て路地を左方向に進むと右手方向に浅沢社が見えてきます末社 浅沢社ご祭神 / 市杵島姫命 住吉の弁天さんと呼ばれ美容・芸能の女神「みのりまいり」と「初辰まいり」の第三チェックポイントです浅沢社から南の目と鼻の先に大蔵社が鎮座しています末社 大蔵社祭神 / 大歳神「みのりまいり」と「初辰まいり」第四チェックポイントで「稲種引換券」を頂きますこれで引換券は3枚揃いますその引換券は翌月の初辰日に種貸社で籾と交換、楠珺社で籾から稲穂に交換してもらいます最後に浅歳社で稲穂から御神米に交換し「みのりまいり」はコンプリートとなります御神米は「御田」で収穫した米で、持ち帰ってご飯に混ぜて食べる事で御利益が得られる……良くできたシステムです上段左 / 市戎大国社、祭神は事代主神、大国主神、ご利益 / 商売繁盛の守護神下段左 / 御田、御神米はここで作られます 下段右 / 御田の左にある南鳥居御田沿いに参道を北に向かいます上段左 / 南鳥居から参道を進んだ正面の手水舎、手水舎に隣接する祠下段右 / 舟玉神社 祭神 / 天鳥船命、猿田彦神、船の守護神西側の鳥居の一つ、ここから境内を進むと船玉神社につながります鳥居は幾つあるのだろう上段 反橋(太鼓橋) 正面神池に架けられた神橋、住吉大社を代表するシンボルかも知れません この橋を渡る事が御祓いになるとも言われ、参拝者はこの橋を渡り本殿に向かいます 慶長年間(1596~1615)に淀君が豊臣秀頼の成長祈願を願い奉納したと云われます下段 参集殿 上段 北側参道の鳥居、直進すると反橋に至ります下段 北鳥居を守護する狛犬 岡崎形を見なれている眼には温かみがあり、とても新鮮に映ります住吉大社をざっくりと参拝し見てきましたが、しっかりと陽も傾き帰りの電車の時間もあります、今回はここまでです境内の大きさ、摂末社の数、燈籠や狛犬など見所が豊富で一度訪れるだけでは語りつくせない魅力のある神社です住吉大社鎮座 / 神功皇后摂政11年(西暦211年)住所 / 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89アクセス / 南海本線「住吉大社」下車東へ徒歩5分程
2019.03.22
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名古屋市緑区大高町字町屋川北に天白川が流れ、海抜は3mとそれ程高くはありません知多半島丘陵地最北端にあたる大高城跡のある小高い丘が左に見えます『八幡社』は大高城跡から北東に歩いて10分程の住宅地に鎮座します小さな三差路の北角が『八幡社』、西側に大高北小学校が隣接しています上段玉垣で囲われた社地の東南角に石鳥居があり境内につながります下段南側道路からも境内全景が良く見通せます参道入口鳥居をくぐり右に境内が広がります鳥居には1914年(大正3)と記されていましたが、100年を過ぎたとは思えない程に綺麗鳥居前の狛犬は愛らしい表情をしています境内には大高歴史の会の解説板と神社由緒書が掲げられていてこの神社が地域、氏子からも崇拝されているのが伝わってきます境内の手入れの良さだけでなく、社殿整備も円滑に行われているようです境内右手の手水舎、鳥居と同年に新築されたもの龍が良い仕事しています注ぐ清水は澄み、気持ちよく清める事が出来ます境内から右から社務所、拝殿、境内社の眺め、とても綺麗に整った神社だと思います尾張造りの拝殿は破風と向拝が施され、軒の反りが美しい整った外観拝殿扁額と拝殿内から本殿の眺め、神前幕には三つ巴の神紋八幡社祭神 / 応神天皇、神功皇后、玉依姫由緒明治半ばまで社職を務めた原田家の記録によると1180年(治承4)源頼朝により鶴岡八幡宮の分霊を勧請、相模国小林郷丸山に鎮座後に大高城主の花井備中守により大高に遷され、ここ町屋川と大高城跡のあった城山に祀られたのが1200年頃と言われる当時の城山の八幡社は武士の社で町人の参拝は叶わず、ここ町屋川の八幡社が町人の社の位置付けだったようです1560年(永禄3)の桶狭間の合戦の前に、今川義元の命を受けた家康(松平元康)は兵糧の欠乏した大高城に兵糧を運び込むことに成功、大高の兵糧入れとして知られることになる桶狭間の合戦から1年後の1561年(永禄4)、20歳の家康はここ大高の地を訪れ町屋川の八幡社に参詣、祈祷したとされる歴史のある神社ですやがて大高城は廃城となり、尾張藩家老の志水家がここに館を構え移り住むも、明治に入り売却されると共に城山の八幡社は廃れていきます反面、町人の町屋川八幡社は氏子により代々守られ続け現在に至っています屋根の美しい作りが印象的です拝殿は渡殿と共に1914年(大正3)に新築、2002年(平成14)建替えられた新しいもの本殿は1981年(昭和56)、社務所も1999年(平成11)に改築を受けた様です拝殿横から妻の眺め、金色の三つ巴の神紋が輝いています本殿は千木が見える程度で全体は窺えません拝殿右に三社が祀られています左が稲荷社玉砂利の敷きつめられた広い神域に楠木の御神木その前にポツンと祀られています中央に金刀比羅社拝所の屋根が社まで伸び覆殿の様になっており、その下に祀られています右が川向秋葉神社前の二社は塀で囲われていますがこちらは少し違っていますどこからか移されてきたものなのか?川向の地名を調べて見ました、川向と付く場所は神社南に川向公会堂があるものの、地名としては現在見当たりません杜を形成する木々明るく風通しのいい境内は心地いいものです八幡社境内東側の道路に面した場所にある奉安殿1928年当時の大高尋常小学校校庭南に建てられていた天皇皇后の写真と教育勅語が保管されていたが、後の1946年廃棄命令によりその地に埋められたそうですが1997年に彫りだされ歴史遺構として修復されたもの現在は学区の資料保管庫として使用されているそうです大高町町屋川『八幡社』創建 / 不明 鎌倉時代初期と思われる祭神 / 応神天皇、神功皇后、玉依姫境内社 / 稲荷社、金刀比羅社、秋葉社住所 / 名古屋市緑区大高町字町屋川14アクセス / JR東海道本線「大高」下車西に徒歩5分前後
2019.03.20
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名古屋市熱田区金山町県道29号線新尾頭と新尾頭東交差点の中程に鎮座する金山神社街中にあって金山神社の杜の巨大な御神木が一際目に付く参道は県道に接し、通りから少し奥まって建つ二つの鳥居が見通せます社殿は御神木が作る陰に隠れ見通す事は出来ません金山神社正面全景ここまで来てようやく拝殿の様子が見て取れます金山は馴染のある場所ですが、ここに神社があった事、金山神社の社名がそのまま町名になったこと今回初めて知る事になります一の鳥居左に社号標、常夜灯、境内左に手水舎となります金山神社由緒書き「当社は金山彦命を主神として金山姫命、石凝姥命、天目一筒命、天津眞浦命等鍛冶鋳造の祖神を奉祀する社地は熱田神宮修理の鍛冶職であった尾崎氏宅跡で実に尾張鍛冶の発祥の地とするところである今より約六百年前の應永年間に尾崎善光が勧請して神社を創建した熱田神宮の境内社として年中両度の祭典には同神宮の祢宜が奉仕した德川末期に至って金物商の信仰が起り、金属業界の有志が集って金榮升榮の二講を結び社殿の造営を勧進したその後二講が合併して全盛講となり昭和31年迄神社の運営に奉仕せるも同年十一月発展的解消をして、広く金属業界の篤信者並びに地元氏子に呼びかけて金山神社奉賛会を結成なし浄財を勧進して昭和三十三年十月現在の社務所を新築せり当社は金山町西金山町及び花町の氏神として多数の氏子崇敬を有し名古屋市内外金属業種の厚い崇敬を集めている、例祭は「ふいごまつり」の十一月八日である」尾崎善光は後に熱田区中瀬町に移り住み、それまでの住居に金山神社が建てられた様です刀の需要、宮宿の馬寄せや寺社もあり鍛冶屋さんの需要は高かったのかも知れない金山神社の常夜灯、刻まれた年号は今一つ識別できませんが、特に古いものではないようです龍はお休み、手水鉢の水面は鏡の様です二の鳥居から拝殿全景、右手に社務所があります広いとは言えない境内ですが商業地金山に鎮座する事を思えば広いくらいなのでは金属の神様を祀る金山神社の狛犬達ニューフェイスに金属製の狛犬さんはどうだろうか?上段 拝殿に掲げられた扁額、鳩除けなのか金網がとても邪魔です下段 拝殿内の「敬神愛国」の額拝殿から本殿の眺め、鏡の前には金銀の狛犬達が守護しています金山神社は熱田神宮の高座結御子神社の末社でもあるようです境内社上段 拝殿右に東を向いて祀られる神明社下段 本殿西隣りに南を向いて金山龍神社が祀られています拝殿脇の手水鉢は半ば埋もれているような燈籠の元号は読めそうで読めない樹齢を重ねた銀杏の大木がこの神社の歴史を語っているようです金山町の金山神社は尾張鍛冶発祥の地でした金山神社創建 / 1394~1428年( 応永年間)祭神 / 金山彦命、金山比売命、天目一筒命、石凝姥命境内社 / 新明社、金山龍神社住所 / 名古屋市熱田区金山町1丁目16番地19アクセス / 市営地下鉄「金山」駅下車、南へ徒歩5分程
2019.03.18
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2019/3/16東区泉二丁目と三丁目を隔てる南北の道路この時期に市内で真っ先に花見ができる大寒桜の並木道が続く名所駅ちかウオーキング参加者と花見客で大勢の見物客で賑わっていました疲れた眼に活を与えてくれそうな春の彩にやっと出逢えた様な気がします2019/3/17名鉄名古屋本線本笠寺から少し南の七所神社付近赤い電車の線路脇で今年初めて土筆と出逢う随分大きくなって穂が開いているけれど、身近で見る事が出来なくなった春を実感できるキャラクターですスギナに紛れて咲く白い花名前も知らぬ小さな花だけど、スギナの緑に負けないくらいに春の訪れを主張している
2019.03.17
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名古屋市熱田区白鳥熱田神宮の西隣り、国道19号線の歩道脇に「金刀比羅神社」はあります金刀比羅神社と聞くと海運や漁業、つまり海に係る神様本社は香川県の金刀比羅宮で、全国各地に分社がありここもそのひとつこんなところに?と感じる方もおみえでしょう、ここから少し南に歩けば「宮の渡し」です海の安全と縁がない訳ではありません歩道沿いに玉垣と神社幟が立っているので小さい神社ですが目立つ存在です熱田の杜と比べてはいけないけれど、神社の周囲には杜もあります金刀比羅神社正面全景石鳥居を構え、境内左に手水舎、石畳の先に拝殿、本殿の伽藍神紋は分かりやすい〇に金、ここはいつも神社幟が建っている気がします瓦葺きの手水舎、手水鉢には龍はいませんが蛇口を捻れば大丈夫です獻燈碑に明治10年と刻まれています、年号はこれが一番古いかと思います境内から眺める小振りな木造瓦葺の割拝殿から本殿の眺め拝殿前で参道は左右に分かれ拝殿横につながります拝殿前を守護する狛犬左の阿形は戦災で被災し欠けてしまったのか、せっかくの顔も台無しです拝殿扁額拝殿の丸金マークの賽銭箱、その先に本殿は間近に見えます拝殿右の参道の先に本殿と右に秋葉社、神社幕も当然丸金です拝殿左の参道の先が水天宮になります右から秋葉社、本殿、水天宮と並びます祭神 / 大物主命水天宮 / 天之御中主神(安産の守り神)秋葉社 / 秋葉大権現(火伏の神)創建 / 不明こちらの神社の沿革を調べてみました、どうも確たるものに出会えませんもとは現在の白鳥公園の西にある熱田社境内にあった延命院に祀られていたと云われる1688年(貞享5)に旗屋町に移り、境内の不動堂に薬師如来と金毘羅神が合祀されていたという明治に入って、神仏分離により薬師如来を祀っていた不動堂は良学院に移され、金毘羅神は金刀比羅神社と改め現在に至るようです延命院、良学院ともに廃寺の道を辿った様で、薬師如来の行方も分かりません白鳥町や旗屋町でそれらを祀る寺を見ていき、新たな確証が得られた時にここは書き加える事にします金刀比羅神社南側から杜に包まれた側面の眺め、鬼瓦や懸魚に施された丸金マーク自らの存在を主張しています金刀比羅神社住所 / 名古屋市熱田区白鳥2丁目10アクセス / 市営地下鉄名城線「神宮西」下車徒歩数分
2019.03.16
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齋山稲荷社名古屋市緑区大高町字齋山氷上姉子神社が鎮座する火高山と尾根続きで南に廻間池を見下ろす眺望の良い高台に鎮座する以前紹介した小堂から南へ徒歩10分程に位置します大高の街は細い道が入り組んでいて、車で寺社巡りを考えるのは避けた方が賢明です廻間池の北側から未舗装の小路が高台へと続きます竹林を右手に見て登りきると右手に赤い鳥居と玉垣が見えて来ます高台から眺める周囲の景観は宅地開発が進み里山の面影は残っていません頂から右手に小路が伸びその先の左側に『齋山稲荷社』が鎮座します石垣が積まれ、こんもりと盛られた小山に社殿がありますこの周辺には古墳が点在し、ここから西には三ツ屋古墳がありますここ齋山稲荷社も齋山古墳と言う前方後円墳の上に鎮座しています、一部は削られ古墳の原型は留めていないものの、円筒形及び朝顔形埴輪片が見つかっているようです齋山稲荷社全景社殿は随分と傷みも目立ちますが、朱も鮮やかな玉垣など手入れはされているようです鳥居と拝殿に掲げられた扁額社殿を覆うように杜が包み込み、本殿は石が小高く積まれた上に祀られていますこの地形に古墳の名残りを感じる事ができます本殿前の狛狐、右の狐は痛々しが漂うもう少し杜を間引くと陽射しも風通しも良くなり、薄暗い印象も無くなるのだろうが拝殿横から本殿、見上げる程の高低差があります齋山稲荷社創建 / 1641年(寛永18)宮司の山口長兵衛垂応が倉稲魂命を祀った事が始まりとされ、元禄年間(1688~1704)に社殿が造営されたと云われます祭神 / 倉稲魂命、日本武尊命、宮簀媛命の三柱が祀られています齋山稲荷社の鳥居前に「奥ノ院道」と彫られた石標があり、その先は稲荷社社務所の横から一旦下り、左に伸びていますが目の前に赤い鳥居と社が三つ視界に入ります境内の北側に祀られた社、詳細は分かりませんでしたここから右に裏参道?が伸びていますが現在は荒れていてお勧めしません裏参道から見た齋山稲荷社全景こうして見ると古墳の面影が漂います齋山の頂から変貌を続ける街並みを見続ける齋山稲荷社です2019/03/05住所 / 名古屋市緑区大高町斎山46アクセス / 名鉄常滑線「名和」駅下車、東へ20分
2019.03.14
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誰が名付けた倒産街道 ここ名古屋市内の出来町通り、ここから東にかけての通りは随分前からそう呼ばれているこの道は東に四軒家方向に繋がり瀬戸に至る 私の認識でも倒産街道は「間違いないところ」と感じさせる程に出来ては消え、出来ては消えの出入りの激しい地域 そんな中で今日紹介する手仕込み地鶏炭焼き「平蔵」は良く頑張っているお店です場所は出来町通りに面した千種区汁谷、駐車場もない小さな赤提灯 しかしながら、歩道に面した「平蔵」から漂う香りはついついコースアウトを余儀なくされる今日は風も強く、前日との温度差が激しすぎる、ついつい暖を求め暖簾をくぐる 現役時代はちょこちょこお邪魔していたが、ぶらり立ち寄るのはこれが初めてなのかもこの店自体が頻繁に居抜けで入れ替わっていたけれど、今の店になってからは良く頑張っている 店先には「5周年感謝祭」と書いてある、なんだかんだで5年は持ったか、新記録達成ですね初めてではないし、覚えていて欲しい訳でもないけれど暖簾の先には トークが楽しいマスターがお出迎え「あまりの寒さに寄っちゃった、一杯飲ませて」から始める 普段は熱燗など飲まないが、今日はダメです、寒い熱燗一合飲んで暖を取り帰る予定で立ち寄ったものの トークが好きな大将です、一人で立ち寄ったおっさんに対して色々話題を返してくれる早すぎて炭に火が入っていないのですっ飛び摘みオーダー胡瓜とみょうがのスライスに鰹節たっぷりの和え物が 軽く一杯には丁度いい倒産街道から始まりトークに拍車はかかり燃料補給一合は底をつく かみさんに内緒の寄り道だけに……もう一杯飲んでっかルービ?この寒さでないでしょう、熱燗一合追加 摘みにに鳥塩、ゲソ焼きを注文し再び大将と話し込む立ち飲みあれば毎日引っかけて行くけども・・・・・ 「二号店で大曽根でやってます」との事次回からコースアウトしてそちらにも寄ってみよう 倒産街道にあってふらりと一杯引っかけるには貴重なお店だと思います平蔵住所 / 名古屋市千種区汁谷41-1営業時間 / 16:00~24:00定休日 / 火曜定休℡ / 052-559-8822
2019.03.13
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うたた寝して何気に外を見れば、久し振りに彼女が来ていた ガラス越しにうたた寝おやじの様子を伺っていたようだかみさん「随分と大胆になってきたんじゃない?」 確かに、逃げもしないど~れ、触らしてくれるだろうか、窓を開けた瞬間立ち去って行った なかなかお互いうちとける事ができないようだ昨年コキアが腰を据えていた場所に最近見かけない新芽が大量に発芽 調べて見れば、コキアの発芽画像とぴったりマッチあれだけ気を付けて抜き取りしたはずだったが、かみさんの懸念は的中したようだ 「だから言ったじゃん・・・・・」と言われましても・・・・・誰が植えた? こうまで発芽すりゃあ、花屋でもやるしかないだろう?今年の分は間引いて育てるとして、どうしたもんだか コキア如何っすか? 陽気も良くなり河川敷まで夕散歩 そろそろ、老眼フライマンが騒ぎ出す オイカワの姿は見られない、昔ならとっくに長良川だろうが 老眼はあるとき突然やってきますヨ
2019.03.12
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2019/03/08名古屋金山駅から7:10発米原行きで大阪を目指しますこの路線遅ればかりしか経験しない、今日はどうなる事かひとまず二人で座って行けそうです、車窓を眺めsakeをちびちびやりながら一眠り米原からの乗り継ぎも運良く座る事が出来、10:54電車の遅れもなく大阪市中央区久太郎町に到着地下鉄から地上に上がると、街中に杜が見えています、坐摩神社(いかすり)はすぐそこです摂津国一之宮「坐摩神社」正面全景一之宮の御朱印はゆっくりのはずだが、最近やたらとかみさん企画のツアーに盛り込まれてきます今回の目的地はここ坐摩神社と住吉大社時間の制約もあるらしく、のんびり徘徊していると自動的に置き去りにされるシステム遅れないように付いて行くしかなさそうです上段 鳥居右に社号標、これを「いかすり」と読むか・・・・・下段 左の由緒書き鳥居から境内に入ると日焼けサロンで焼いて来たか?背筋がビシッと伸びたスタイリッシュな狛犬のお出迎え手水舎は境内左、手水鉢や龍はいないセンサー付き手水、手を翳すと清水が流れ落ちるシステム、龍の居場所がない訳だ鳥居右にライオンの石像と明治天皇聖躅(ちょく)碑、中央に算額顕彰碑明治天皇聖躅明治天皇は大阪を6回訪れたそうで、後世にそれを伝える目的で市内31ケ所に建立されたらしい算額算術向上の奨励に神社仏閣に数学の問題を額に掲げ奉納したものお互いに解きあい、解けると神仏に感謝する習慣があったそうです、現在はそれらの算額は消失し残っていないらしいライオン・・・・・詳細不明坐摩神社拝殿全景市内中心部に2本の大きな御神木が聳える現在の社殿は1959年(昭和34)に鉄筋コンクリート造りに建て替えられたようですが建て替え前のディテールを意識して作られているようです上段拝殿から本殿の眺め下段見慣れぬ神紋は鷺丸と呼ばれるそうです祭神生井神/福井神/綱長井神/阿須波神/波比岐神の五神総称して坐摩大神と呼び住居守護、旅行安全 、安産守護に御神徳があるそうです創建神功皇后年間に遡ると言われ、現在の天満橋の西方の石町附近に祀られたのが始まりといわれます1582年(天正10)秀吉の大坂築城に伴い替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座された現在の地名に渡辺が残っているのは、元の地名がそのまま移されたらしく、渡辺・渡部等の姓の発祥の地と云われる様です境内右手に綺麗に5社が並んでいます手前から奥に相殿神社、天満宮、大国主神社、繊維神社、大江神社で良かったと思います周囲をビルに囲まれた立地ですが、都会の喧噪を忘れさせてくれる静かな空間です大江神社の左手に大きな獅子と石碑が建っているが詳細は良くわかりませんでした上 社務所下 社務所右手の「上方落語寄席発祥の地」碑、初代桂文治(1773~1815年)が坐摩神社境内で初めて寄席興行したとされ、上方落語の祖であり寄席の開祖として碑が建てられている碑から右手に参道が続き、西向きに鎮座する陶器神社と稲荷神社へと続く左が陶器神社、右が稲荷神社陶器神社もとは西区靱南通に鎮座していたらしい、1907年(明治40)に坐摩神社に移転されようです昔は筋違橋から南の四つ橋にかけて陶器問屋が軒を並べていた云われ、陶器商人に火除けとして崇拝されているそうです守護神として愛宕山将軍地蔵を祀っていたと伝えられ、境内の陶器の灯籠、扁額、賽銭箱などは陶器で出来ており、陶器と名が付くだけに拘りを感じる祭神 / 大陶祇命、迦具突智神稲荷神社祭神 / 龍丸稲荷大明神、黒龍稲荷大明神摂津国一之宮「坐摩神社」御朱印「座間神社」 スタイリッシュな狛犬が印象に残ります住所 / 大阪市中央区久太郎町4渡辺3アクセス / 地下鉄「本町駅」15番出口から徒歩3分さて次は住吉大社に向かいます再び地下鉄で10分程先の玉出に向かいます四つ橋線「玉田」到着は既に正午を過ぎていましたここから歩いて5分程のわいわいロードを目指し、かみさんリクエストのうどん屋さんを探しますわいわいロード(粉浜本通商店街)昔懐かしい商店街が今も残っていて、アーケードでは自転車が幅を利かせて走る商店街の店舗と店舗の僅かな隙間に「親子地蔵尊」を発見、詳細は分かりませんでしたが小さな堂の奥には大小二体の地蔵が祀られライトで照らしだされています前掛けもかけられ商店街を通りかかる方々に可愛がられているようです目指すうどん屋さん「麺屋・爽月」はお地蔵さんの直ぐ先にありました木を多用し和を意識した外観のうどん屋さん、夜は蕎麦とお酒のお店になるようです「ちく玉天ぶっかけ」と「とり玉天ぶっかけ」を其々注文天ぷらはさくっと揚り軽い食感、天然素材のみで仕上げた拘りの出汁で味わう麺は驚くほどこしがあり美味しいランチもありますがこれ一杯で充分満足麺屋・爽月大阪市住之江区粉浜2丁目11おいしいうどんで昼食を済ませ時計を見れば既に13時を過ぎていますここから住吉大社までひと歩きです
2019.03.12
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緑区大高町西門田熱田神宮末社 朝苧社石神白龍大王社の前の坂を上り切ります視界の先に名古屋高速、その先には氷上姉子神社が鎮座する火上山が間近に見えています頂からは西に下り、姥神公園を右手に見ながら萬乗醸造方向へ向かいます道端にはピークを迎えた梅、春の彩に目は奪われます姥神公園から左方向へ5分程歩いて行きます右手に見えている小高い山は姥神山、先に訪れた石神白龍大王社は山の東にあたります大高の街を巡るのは歩きに限ります、道幅が狭く駐車余地など皆無、なので車は足手まといになる場合があります朝苧社への入口はここになりますあくまでも私道、参拝目的のために通らせて頂く形になりますこの私道を道なりに右手に進みますやがて道はなくなり、眼前は姥神山へ続く登山口の様相ですが右手には『朝苧社』の案内板が立てられています入口は竹藪が迫り圧迫感がありますが、少し登ると多少開け不安な気持ちは解放されます山登りが好きな方には抵抗のない、自然を身近に感じる小路が続きます芽吹き前の枯れた雑木林は竹藪や藪椿も自生し、杜に鮮やかな緑の彩を添えてくれていますしばらく小路を進むと斜面が開け、右手に小さな社が見えてきます熱田神宮末社『朝苧社』到着です前回は車で訪れ辿り着けませんでしたが、やっと訪れる事ができました地主神として地元の方には親しまれているようです、落ち葉も手入れされ気持ちよく参拝できます境内に落ちた椿の赤がとても印象に残ります氷上姉子神社の境外末社で祭神は火上老婆霊で氷上の里の地主神宮簀媛命の母と云われ、老姥神様として乳の出ない御婦人が祈願すると御利益がある「乳の神」として崇められている「朝苧社」は麻苧社とも云われ、織物の神社ではないかとも云われています大きな木の袂に南向きに祀られた社は下界と隔たれた特別な空間を感じさせます静かな杜、聞こえるのは野鳥の囀りと木々を通る風の音のみ境内に華やかさを添える椿、その先で静かに佇む朝苧社ですこれから一雨ごとに芽吹きが進み、杜は鮮やかな新緑に包まれていきますその時に再度訪れよう、そう感じさせてくれる朝苧社です社から先に小路は伸びています、眺望が開けるところまで上って見ます小路は枯葉が積り滑りやすいので要注意です直ぐに高台に出ました視界は開け正面に名古屋高速、その先に宮簀媛命いる火上山が目と鼻の先です「朝苧社」創建 / 不明祭神 / 火上老婆霊住所 / 名古屋市緑区大高町西門田アクセス / JR東海道本線「大高」下車徒歩15分程 石神白龍大王社から姥神公園経由徒歩10分程
2019.03.11
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田中の神明社から坂を上り大高小学校の三叉路を右に折れ、下り切った交差点を左に再び上っていきます神明社からここまで徒歩10分程でしょうか丘陵地の中腹に大きな楠の大木と桜の古木のある丘陵地が現れます頂きには白い幟がたなびいています、「石神白竜大王社」到着です、このあたりの地名も石神です丘陵地の中ほどに神明鳥居を構え、左に社号標、奥に大小の社が見えます鳥居に掲げられた社号扁額鳥居をくぐり境内へ左手に山が迫り、その一部を造成し作られた境内は広くはないものの、正面から右手にかけて石神を見下ろす高台になっていて開放感がありますが周囲に塀はなく、あるのは幟だけ端に立つと転げ落ちる恐怖感が漂う、境内右手に手水舎、手水鉢が設けられています正面が大ぶりの社が石神白竜大王、その左手に祀られている石は御塚ノ石、左手の小さな社は不明昔この地に塚があり、そこには蛇が住んでいたと伝わる、塚の土や樹木を構うと「たたり」があり村民が白竜さんを祀り鎮めたといういい伝えがある石神白竜大王社祭神 / 石神白竜大王創建 / 不明御塚ノ石は個人で保存されていたものらしいが、社殿建立時にこちらに献納された様です石神ノ碑(左)と塞ぎ石(右)境内整地の際に地中から見つけられたものと言われる、右の石碑には「埋もれたる神の碑出て時雨かな」の句が記されている近くに6世紀後半の古墳「石神遺跡」があったが、市の発掘調査で石室の跡地に室町時代の石神祭祀遺跡の存在が判明、調査以前に石室の一部が境内の立石、止石として使われたのではないかと言われる大高には「石神遺跡」の他に複数の古墳が線の様に点在しているので不思議な事でもない次に訪れる氷上姉子神社の境外末社「朝苧社」もそうであるように、石神遺跡も所縁があったのかも知れません境内の由緒書き石神白龍大王社「この神社は氷上姉子神社に関係した神様と伝えられていましたが内容は定かではなく、久しく荒廃していました。昭和26年1月近隣住民有志で御嶽講先達にお伺いをたてたところ、この地の神はおよそ1500年前に遡る「石神と白龍の二神からなる石神白龍大王である」とのおつげをうけました。それをふまえ翌昭和27年1月25日社殿などが建立され、当地に再祀されたのであります。以来この神社は地域の人々を中心に無病息災を願って崇敬参拝されてきました。年中行事としては毎年4月第一日曜日に例大祭、大晦日から元日にかけては越年祭りがとり行われています。これらの祭事や日常の管理などは近隣有志の方々によって行われています。大高歴史の会」傾斜地に根を下ろす桜も間もなく石神白龍神社に彩を与えてくれるでしょう2019/02/24次は神社の前の坂をあと少し上り、春江院方向から朝苧社を目指します石神白龍大王社住所 / 名古屋市緑区大高町石神3アクセス / JR東海道本線「大高」下車、田中の神明社経由で徒歩20分程
2019.03.09
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雨も上がり今朝は暖かい陽射しがいっぱいに降り注ぐ庭の片隅の桜も見頃が近いさくらんぼは毎年ヒヨドリ夫婦の胃袋へ、まともに収穫した事がないけれど花の彩だけはこの時期の楽しみ庭のチューリップも猫やらアライグマに踏み荒らされながらも全球発芽昨日の雨をしっかり貯め込み随分とそれっぽくなってきた明日は大阪に出かける計画です今日のように暖かい日であってほしいものですそれにしても暖かい陽気につられて土筆と桜でも探しに歩いて来ます
2019.03.07
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緑区大高町田中辻の秋葉社から東へ、田中公会堂から右に折れ歩いて行きます西に大高城跡の森を見て、緩るやかに上り坂が続きます突き当りに見えるのは大高小学校ですこの坂の途中に「←神明社の案内板」が見えて来ます、目的地の田中「神明社」参道入口到着です右公道からは細い参道が伸び、その先に石段が続きます左石段の先は左に曲がっているようです石段を上がっていくと左手に境内が見えて来ます境内全景小高い丘の頂を切り開いて境内が造営された様です境内は右手に住宅が迫っていますが、杜に包まれた境内の木々の間からは西に大高城の高台が目前に迫り、北に氏子の住まう田中の街並みを見下ろすロケーションです左 御神木この御神木、田中の街からも小学校の北側からも良く見え、そこに神社がある事が一目瞭然です右 境内左端に手水鉢境内の椿も終盤を迎え落花盛んです境内奥の神明社高台故に台風の影響からか杜の木々が社側に傾き、それを支えるため支え木が神域に設けられています祭神 / 国常立尊創建 / 寛文年間(1661年~1673年)以前玉垣で囲われた神域の社は南向きに祀られています背後の木々が迫っているのが良くわかります社左の新明社由緒書き「この神社は田中の神明社とも言われ、国常立尊という国土開闢の神様をお祀りしています。創建は不明ですが、江戸時代前期の寛文年間の記録にありますので、それ以前から存在していたようです。当社ではオシャクジサンまたはオシャグジサンなどと親しく呼ばれていました。シャクジは石神からジャクジは社宮司という言葉から来ていると考えられ、いずれも良縁、子育て農耕などの神として信仰されたと伝えられています。神社は田中町内会によって維持され、毎年九月の例祭では神事の後、神前で子供相撲が奉納されます、昔は各地の神社で相撲が行われていましたが、今でも奉納しているのは、この辺りでは大変珍しく貴重な伝統です。 大高歴史の会」と記されています境内中央のブルーシートで覆われた一画が土俵の場所でしょうか現在も続く奉納相撲、書かれているように珍しくなってしまいました神社はそこに住む住民同士を結び付ける役割もあります私の住む町では随分前に社ぱなくなり、町内会費だけで子供会に参加しない世帯も増え住民の結束は希薄になってきました、今では体育祭だけでしょうか?田中町内会の皆さんの纏まりと頑張りがあってのことだと思います子供相撲羨ましい限りです住所 / 名古屋市緑区大高町田中アクセス / JP東海道本線「大高」下車 徒歩20分程、辻の秋葉社から徒歩10分
2019.03.06
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緑区大高町斎山この辺りを巡る方も多く、当日はボランティアガイドによるツアーと酒蔵開きもあり普段静かな街並みに多くの観光客が押し寄せ、住民のみならず、加具土命もビックリしているのでは県道59号線から南に入り橋を渡った突き当りを左に曲がった最初の三叉路の角が「辻の秋葉社」です大きな御神木が目印になります大高で古くから続く酒蔵もあり、昔の街並みの面影が残る趣のある地域です鳴海から伸びた常滑街道はこの辺りから知多方面と師崎街道に分かれていきますここから南の高台には大高城があり、当時は城下町として賑わった事でしょう「辻の秋葉社」の辻は町名とかではなく、人が往来する交わる所にある秋葉社と言う事です城下には人が集まり住居が建つ、防火の神を祀る必要性が生まれここに「秋葉社」が創建されることになったのでしょう時代は変わった現在でも、狭い道が続く住宅街、火災は他人事では済まない場所道路脇に秋葉神社の手水舎と手水鉢が置かれ、今も参拝者が訪れています辻の秋葉社全景周囲を瓦葺の透塀に囲われ、神域に一本の大きな御神木その下には小さな社が祀られています小さな社ですが、木肌の色と瓦から温もりの様なものを感じさせてくれます秋葉社の右に史跡散策路の案内板と当社の解説板が掲げられています解説板には「古来このあたりを「辻」と呼び、大高の中心でした。道路は昔の大高城下町そのままのカギ形になっています。江戸時代半ばには、市が開かれ賑わった場所です。幕府の命令を知らせる「高札場」もここに設けられ、「キリシタン禁制」の高札が掲げられていました。明治時代になって、大高最初の役場、郵便局、学校もこのあたりに設けられました。この秋葉社は18世紀後半から19世紀初めころ創建されたもので祭神は火之迦具土神です。大高は火災が多かったことから火伏せの神として信仰されており、今でも決まった日に祭事が行われています。手洗いの石には、くぼみが多数見られます。これは「盃状穴」といい村人が願掛けに石で衝いたのではないかと言われています。」大高歴史の会により地元の歴史が語り継がれています透塀に囲まれた境内の社手前に燈籠があるようですが、残念ながら境内には入れません、いつ頃奉納されたのか見る事は出来ませんでした創建が「18世紀後半から19世紀初め」と云われていますが土台で使われている石からも時の流れを感じる事が出来ます古い城下町、細い路地の片隅で氏子を見守っています2019/02/24辻の秋葉社創建 / 1800年頃祭神 / 加具土命住所 / 名古屋市緑区大高町高見34アクセス / JR東海道線「大高」下車徒歩10分程
2019.03.05
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雨も上がり時折薄っすらと陽がさしてきた何気に外を見るとウッドデッキの片隅で腰掛ける来訪者ガラス越しにじっと見られている事に気付くことなくまったりとした時間を過ごす彼女ここがお気に入りの様で良く見かけるようになったコン!コン!ビックリ眼で振り返る彼女なかなか可愛いんだが触らしてくれるほどでもない今の関係今後どうなるのだか畑を掘り起こし彼女が残す香りは頂けない
2019.03.04
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名古屋市南区岩戸町笠寺台地の縁に位置し、潮が満ちると島の様にも見える事から「松巨島」と呼ばれ太古はここから西に遠浅の干潟が広がり、眺望の良さから「あゆち潟」と呼ばれ、県名の由来になったと言われます埋め立てにより海岸線は遥か彼方となり、現在は細い路地の続く住宅地に変貌、かつての様相を感じさせるものはなくなりました「白毫寺」は笠寺台地の西外れの高台に鎮座します、ここから西は緩やかに下っていきます上段「白毫寺」の山門入口、境内には楠の巨木が聳えています石垣沿いに下る坂は東海道が整備されるまで交通の主要なルートであったと云われ、松巨嶋から伸びていた道はここから下り、その先の船着き場へと続く、こうして見ると面影が漂います下段境内入口に掲げられた「南区史跡散策路」の案内板「白毫寺」山門「年魚市潟勝景跡」の解説板これによると「嘗てのあゆち潟を展望できる場所の一部として昭和48年に市指定の名勝とされた」そうな瓦葺きのどっしりした重厚な作りの山門山門に掲げられている山号扁額、本堂は元緑年間に建立されます戦争で焼失後、庫裡の改築と共にこの山門が建立された様です山門左の楠の下に地蔵堂があり、一体の地蔵菩薩が祀られていますがいつ彫られたものか年代は不明です山門から境内へ上段 正面に本堂、右が庫裏(寺務所)になるようです下段 庫裏(寺務所)全景本堂を正面から見た印象は、屋根の勾配が緩やかに下がり、広がりを感じるフォルムです鳥が飛び立つ様にも見え美しい両脇で本堂を守護する狛犬達本堂の寺号扁額と堂内「白毫寺」宗派 / 曹洞宗山号 / 眉間山開基 / 1571年(元亀2)本尊 / 阿弥陀如来写真左本堂右に一段高く盛られた上の自然石は春風塚と呼ばれ、「春風や 戸部山崎の やねの苔」と彫られています松尾芭蕉が西国を巡る途中、東海道の山崎村、戸部村を経て白毫寺近隣で休息した際に詠まれた句とされ、当時の集落の様子が窺えます本堂から左に道が伸び、その先に稲荷が祀られています更に進み境内突き当りに「年魚市潟勝景碑」の碑が建つ(大正9年愛知県建設)碑から西は崖となり、眼下にあゆち潟が広がり、遠く知多を望む様子をイメージすることが出来ます松巨嶋と呼ばれた頃の笠寺台地は和歌や万葉集で詠まれた景勝の地で近隣の「桜田八幡社」等にもこうした碑が残りますまた、ここ白毫寺は尾張名所図会に桟敷山と呼ばれ、京に上洛する頼朝がここで休息したとも記されますこの辺りは龍泉寺の源頼朝産湯の井「亀井水」始め、頼朝と所縁のある寺が残ります下段右 黒田清綱歌碑大正天皇即位の際に大嘗祭式場の屏風に年魚市潟と桜田の絵が描かれたそうです清綱が「わたつみの 神もほぐらし年魚市潟 ちたの浦なみ千代の声して」の歌を記した事から年魚市潟が知られるようになったといわれます 下段右 万葉歌碑 「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ」万葉歌碑の右手の観音像と夕陽に照らされる本堂あゆち潟に沈む夕陽を浴び瓦も赤く染まり始めました山門脇の樹齢を重ねた楠木の巨木松巨嶋の移り変わりを見てきたのかも知れません白毫寺住所 / 名古屋市南区岩戸町7-19アクセス / 名鉄名古屋本線「呼続」下車、南へ徒歩10分
2019.03.02
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東海市名和町汐田東3名鉄常滑線「名和」駅から常滑街道を東に15分程歩きます途中の知多開運講名和教会から5分程歩くと街道の右側に小堂が視界に入ります(上段は西の名和駅方向、下段が東の大高方向の眺め)街道際に佇む木造瓦葺きの小さな堂、まるで民家の一部の様に建っています氷上姉子神社を訪れた際に見かけていたものの、詳細が全く分からないので記録に留めるのを先送りにしてきましたが、ここを通る度にこの小堂の存在が気になり、梁のシンボルから弘法堂として記しておくことにします街道から北を向いて立つ小堂いつ頃建てられたのか分からないけれど屋根には傷みが目立つ梁のシンボル意外に周囲に幟や解説等は見当たらない軒下に掛けられた傘が印象に残ります堂内には三体の石仏と奥には梵字の書かれていない古い塔婆?らしきものがそこには生花が供えられ、こちらに参り、手入れされている方がお見えの様です石仏のフォルムから左が弥勒菩薩、中央に五鈷杵を持つ座像、右が弘法大師の様ですいずれも年号が刻まれていないので、いつ頃造られここに祀られたのか不明知多開運講名和教会に弘法大師が祀られていましたが、そちらと所縁があるのかも知れません 人知れず街道を見守る三体の石仏道端には手向ける様に春の訪れを告げる鮮やかな彩が目に付くようになりました住所 / 東海市名和町汐田東3アクセス / 名鉄常滑線「名和」駅から東へ徒歩15分程
2019.03.01
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