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名鉄「小幡」駅から県道15号線(名古屋多治見線)を北に歩いて見ようと出かけて見ましたエアコンが効いた電車を降り、炎天下の歩道を歩き始める、進行方向には真っ黒な雲が垂れ込めています長慶寺辺りから大粒の雨がポツリ〃・・・・・傘はない、歩きを早める目的地の一つ、小幡緑地西園付近の「白龍社」に辿り着いた頃にはバケッをひっくり返したような豪雨取り敢えず「白龍社」の全景を収め、隣接するスーパーの立体駐車場で雨宿りスーパーの駐車場は瞬く間に池の様に、体は既に全身ずぶ濡れ西は陽もさし直ぐに止む事を願い雲が過ぎるのを待つ・・・・・なかなか止まない、というのか雲が動かない傘買うか?しかし濡れ鼠で店内に入るのもなんだかなザックの中を探すと存在すら忘れていたよれよれのパーカーが出てきたそれを着て雨の中「白龍社」に戻る写真は歩道沿いから見た白龍社、奥が雨宿りさせてもらったスーパーの駐車場神社はスーパー駐車場の一画を割いて祀られています上の左は大正頃のこの辺りの地形、右が現在笠寺から覚王山、龍泉寺に続く四観音道、龍泉寺街道にも近い県道脇の赤丸が白龍社ここから東は明治から小幡射撃場として使われ、当時は周辺は水田と集落が点在し、古墳が点在する一帯現在も住宅街の中に墳丘が残り「小幡長塚古墳」や「瓢箪山古墳」など保存されています社のある一帯も田畑から大きく変貌していくのですが、白龍社の創建がいつなのか、当時からこの位置だったのか良くわからない当時、田畑が多かったので、雨を司る龍神が祀られる事になったのかナ歩道沿いに南を向いて祀られる社、南北に細長い狭小の境内で木造の鳥居の直ぐ先が社祭神が樹木主之金光白龍大神、昇天家守之大白龍王、金工光白龍大神とあるけれど馴染みがない由緒書きがあるといいのですが、由緒を知る術がないのが残念ここから推測になりますが、創建は戦後に射撃場から一帯の開発が急速に始まった頃ではないでしょうか何れも白龍と付く事から、五行説の西を守護する龍神で、東の小幡を守護するものでしょうか?金工とはなんだろう、ここから西に「金屋」という地名があり、ここなら金工は分かるけれど・・・・・これ以上考えるのはやめようそれにしても雷は鳴るは、叩きつけるような大粒の雨ゴールのスーパー銭湯は諦めるとしても、もう一つ行きたいが・・・・・ズボンはベタベタ「今日はこれ以上北上するな」龍神が言っているようにも思えてくる2019/07/30白龍社創建 / 不明祭神 / 樹木主之金光白龍大神、昇天家守之大白龍王、金工光白龍大神住所 / 名古屋市守山区小幡3丁目7アクセス / 名鉄瀬戸線「小幡」下車、県道15号線を北へ徒歩約20分
2019.07.31
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台風も去り、照りつけるような真夏の日差しが戻ってきました空には夏雲が沸き立ち、この地方にも梅雨明けが宣言されたようですセミの鳴き声に活気が出てきたように思えますおやじが昨年外で食べていたスイカその種がいつしか発芽し、やがて花を咲かせ、ついには実を付け、その成長を楽しませてくれた「ひとり生えスイカ」何か特別に手を掛けた訳でもないけれど、カラスやダンゴムシにも負けず良くここまで成長したものですある意味自然のパワーみたいなものを感じさせてくれました朝晩で成長の度合いを感じていたスイカも大きさに変化が無くなって随分経過しました指で叩くとあのスイカの熟れた音が帰ってきますとなれば、自然の恵みに感謝し美味しく頂くしかありません、収穫の時です片手でスイカを持って見れば、ずっしりとした重量感勝手に生え、ここまで成長した事に驚きです、その直径は20㎝程期待をせず割ってみたところ、ご覧の様に見事に赤く熟していましたちゃんと次の世代まで準備が出来ています早速かみさんと自然の恵みを頂いてみました充分な糖度もあり、流通しているものと遜色のないものこれには二人共驚きです、買った物でさえ外れもある中で一人生えはそれを超えるものがあります、おいしく頂く事ができました次の世代はおやじが再び土に戻します上手くすれば来年も、循環型家庭菜園か?かぼちゃも同様に埋めていたところ、それも花を付け期待を抱かせました残念ながらダンゴムシの餌になってしまいました種を撒いて一人生えの成長を眺める、自然のパワーを感じる面白いものです今日は散歩で見つけたムカゴを数粒持ち帰り発芽するか試す事にしました調理で出た種は土に戻して見よう
2019.07.29
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東海道笠寺一里塚名鉄名古屋本線本笠寺駅から笠寺観音の山門を左に見ながら、旧東海道を東へ15分程歩いて行きます道は緩やかに下りとなります 街道の面影が残る道の先に、見事な枝振りの1本の大木が見えて来ます左が今歩いて来た笠寺観音方向、右手は笠寺公園方向へ続く交差点の角に先ほどの大木が聳えています街並みの中に聳える1本の大木はとても存在感があります旧東海道の目印となっていた笠寺一里塚です小高く盛られた塚の上を覆う様に根が張っていますこの大木の正体はエノキ、随分遠くからでも見えるはずです一里塚の前の解説板、このエノキの役割が記されています江戸日本橋を起点に京まで続く東海道の約4㌔(1里)毎にこうした塚が作られ、旅人の目印となる木が植えられたそうです、その数124、ここは88里の一里塚になります当初は路を隔てた南側にも塚があり、そこにはムクの木が植えられ、その二つの塚が一つの一里塚として対をなし、大正の頃までは残っていたようです南側が無くなったきっかけは分かりませんが、市内に残るものとして笠寺一里塚だけの様です県内では残存する一里塚は、愛知県豊橋市東細谷(71里)、愛知県岡崎市大平町大平(80里)、愛知県知立市来迎寺町(84里)、愛知県豊明市阿野町(86里)と笠寺一里塚の5ヶ所空を覆い尽くす様に伸びる枝は、支柱で支えなければ樹形を保てない程の枝振りですこの榎は都市景観保存樹に指定され、根は塚を鷲摑みするかの如く大きく張っています自然の力強さが伝わってきます一里塚から笠寺観音のある西側の眺め多宝塔の屋根と宝珠が辛うじて確認できます、一里塚の榎や特徴のある建物は、旅人の重要な道標マンションや住宅が建ち、景観は変わっていきますが、今でもこの一里塚は目立つ存在です一里塚から北の見晴台考古資料館のある笠寺公園方向の眺め、この高低差が笠寺の台地を示していますここまで下って来たので帰り路は登らずに・・・・・携帯に聞いてみよう便利になったものです2019/07/25旧東海道笠寺一里塚住所 / 名古屋市南区白雲町アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」駅から東へ徒歩15分
2019.07.28
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長久手市神門前『神明社』江戸時代は長久手村、岩作村、前熊村、北熊村、八草村があったけれど合併を繰り返し現在は長久手市となり、自然豊かな住みやすい街として活気のある地域です愛・地球博記念公園の観覧車を背景に手前の高架をリニモが音もなく走りその下を県道521号線が猿投クリーンロードへと続きます、この手前はIKEAになりますグリーロード、愛・地球博に伴う造成等でこの地は大きく様変わりしたものです以前はこうした田園やこんもりとした里山が広がっていましたが、随分と少なくなったような気がします写真はIKEA北側から神明社の杜の眺めです観覧車が無ければ緑豊かな昔の原風景そのものですこの辺りは古くから人が住み、古墳群が点在する地域で、現在のグリーンロードの工事の際は一部の古墳が工事範囲となり、調査、保存される程の歴史的遺産が残りますそうした古墳群の中に神明社と付く古墳も存在します、長久手市神門前の「神明社」が正にそれです広大な境内には4つの古墳が点在するそうです鮮やかな稲の緑が美しい田んぼの前に由緒を記した石碑、左に社号標と古びた石鳥居があります参道はうっそうとした杉の杜の中に消えていきます全体に風化し、笠木等は黒ずんだ石造りの八幡鳥居は、江戸時代初期の1662年(寛文二年)のもので、長久手町指定文化財(平成9年)に指定されているもので県下でも古い部類に入るものらしい(長久手町は2012年(平成24)長久手市となる)鳥居左の解説板神明社は神明鳥居が建てられるのが一般的と云われる中、八幡鳥居が建てられたことは特異な例と紹介されていますその左にも苔生した解説板らしきものがありますが、内容は読む事が出来ない状態鳥居から杉に包まれた参道の眺め、街中ではお目にかかれない長い参道です遥か先に二ノ鳥居その先に石段が見てとれます神路橋を渡ると二ノ鳥居の先の石段の先に拝殿が姿を現します左に手水舎、手水鉢があり、脇参道が続きます二ノ鳥居は苔生した神明鳥居針葉樹が多いためでしょうか、風はあまり抜けて来ません石段を上がれば境内です杜の中にぽっかりと大きな空間が広がります入母屋瓦葺の吹き抜け拝殿と狛犬、その先は異様に高く積まれた石垣の上に透塀が本殿を囲んでいます落ち着いて趣のある神社だと思います本殿前に狛犬が一対外観は緑色に苔生し、石本来の地色は失せています良く見かける色白の可愛い表情とは一味違う凛々しい姿です奉納年を見たかったけれど、狛犬達の周辺に護衛の蜂が多数飛び交い、これ以上近寄る事を許してくれませんでした本殿の石段の隙間に巣がある様なので要注意です本殿外周を一周する路があり一周してみます北側からは流造の本殿と幣殿、複数の末社を望む事が出来ます東側から眺めここから見ると本殿以外に右に三社、左に二社の社が見えます神明社が創建された時代は定かではないようですこの本殿は境内にある4つの古墳のうちの一つの上に鎮座しています古墳の石室で使用されていた石が神社の基礎部分に流用されている?とも言われています記録を遡ると江戸時代の1670年頃まで辿る事が出来る様です当初の末社は児神、八王子、八幡、白山、三狐神の五社を祀り、三狐神は後に境外に移され一時期は四社となった様です明治に入り山神、斎宮司、御鍬神社、秋葉社、天王社を合祀、後に津島社が合祀され、五つの社に九社が祀られているそうですが、ここからではどれがどれなのか・・・・・拝殿に戻ってきましたこうして本殿域を見ると、古墳の上にあると云われると頷ける周囲は緑の田んぼが広がり、その外れにこんもりとした里山がある北熊村の氏神様が神明社ですここを訪れると少し前の日本の原風景を感じる事ができますかみさんの買い物も終わった様です、長い参道を戻りお迎えに行きますか2019/07/04神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神住所 / 愛知県長久手市神門前13アクセス / 地下鉄東山線「藤が丘」⇒リニモ「公園西」駅下車、徒歩5分程
2019.07.26
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名古屋市瑞穂区瑞穂通1丁目『秋葉神社』瑞穂区を南北に縦断する環状線片側3車線の道路は交通量は多く、車で走ると制限速度は何キロなのよ?と感じる程の早い流れと路上駐車も多く「落ち着いて走れない」道路の印象が強いそんな環状線も早朝は行き交う車は少なく、静かで落ち着いた表情となります(写真は環状線博物館前交差点から『秋葉神社』のある桜山交差点方向の眺め)市営地下鉄桜通線「桜山」駅4番出口から地上に出ると目の前が秋葉神社とても便利なところですが、車で訪れると不便な場所です歩道沿いに狛犬がいて玉垣かある、とても身近にある神社神社全景硬質な印象の街中にあって、木造の神明鳥居のナチュラルな色合いは存在感があります歩道沿いの提灯掛、まもなく天王祭が近い事を道行く人々に告げています祭となれば屋台、子供の頃はこれが結構待ち遠しかったものです歩道際から神社を守護する狛犬の面々郊外の神社とは違い、ここは人通りも多くさぞかし忙しいだろう・・・・・表情には現れていないが常夜灯の奉納年は1808年(文化5)と彫られています随分と古くからここに鎮座しているようです少し前のこの辺りの移り変わり左上が明治、右が大正、左下が昭和中頃、右が現在赤い丸が秋葉社の位置で、緑の線は塩付街道です(信州に塩を運搬した江戸時代の街道です)明治、大正時代は田園と東部の丘陵地帯の雑木林と畑が点在する長閑な地域、そこを真っ直ぐに続く塩付街道が見てとれます、当然環状線などありません新田開発のため街道の西に十五軒の集落が出来ます、そこから十五軒屋と呼ばれますが、秋葉神社は集落の北外れに位置しています地図上で神社を示すものは見えませんが、常夜灯の奉納年が1808年なので既に当時から鎮座していたものでしょう都市開発で大きく変貌しているので、それに伴いここに遷座された可能性もあるかもしれませんね境内は東西に短く、南北に長い敷地で鳥居をくぐるとすぐ右に手水鉢があり、正面は社務所兼集会所の様です南を向いて四方が吹き抜けの瓦葺拝殿と本殿が並ぶそれにしても境内に対しこの位置関係、周辺から遷座したのでは?と感じてしまう要因でもあります拝殿から渡廊の先の本殿を眺める渡廊の先に、6本の鰹木と内削ぎの千木が施された本殿・・・・・女神を祀っているの?俗説ですね祭神 / 火之迦具土神本殿右に津島社軒下の吊り灯籠陽が落ちてから前を通りがかると、街灯りの中でぽっかりと神社のある一画だけは別世界この吊り灯籠の明かりが拝殿を照らし出していますこの地の氏神として今日までの移り変わりを見続けてきた秋葉神社見上げる様なビルに囲まれてこれからも受け継がれていってほしいものですこちらを訪れた際には、塩付街道に佇む「みやみち地蔵」や「川澄地蔵」等のお地蔵さんもすぐ近くです歩いて訪れれればとても身近、車で訪れるにはとても遠い存在です2019/07/13『秋葉神社』創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神 住所 / 名古屋市瑞穂区瑞穂通1丁目35アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」
2019.07.24
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静岡県周智郡森町一宮名古屋から新東名高速の「遠州森町スマートIC」で降りて車で10分も走れば遠江國一宮小國神社に到着です森の石松でも知られ、時に遠州の小京都と形容されるように、歴史のある寺社がいくつある地域ですこの小國神社はその中で筆頭ともいえる知名度の高い神社です平日と言う事もあり、途中の駐車場に停まる車は皆無です「きっと奥に行くとツアーバスで一杯かもよ、ここで停めて歩く?」ダメなら戻ればいい、まずは行ってみようと先に進む一の鳥居の参拝社無料駐車場まで来てみれば、ご覧の様にガラガラですこのご時世に無料ですよ、これは賽銭で奮発せねばこの駐車場に停めると1969年に建てられた大きな明神型の一の鳥居はすぐ横掲げられた社号額は当時の神明伊勢神宮大宮司坊城俊良氏の揮毫です駐車場の片隅に掲げられていた境内案内図後方の本宮山の南山麓に鎮座する小國神社、社名の「小国」とは出雲の「大国」に対する遠江の美称とされ、案内板にもあるように桜や杜若、秋の紅葉と四季の美しい表情を持つ神社の様です鳥居をくぐり直ぐ左の小高い場所に建つ社飯王子社(いいおうじしゃ)祭神は食物を司る神、保食神「その昔、遠州横須賀の地方に毎年旱天長雨の為、五穀稔らず住民こぞって一宮様に詣で祈り、豆を捧げしところ、村長の霊夢に「端殿を横須賀の方に向け、保食神を飯王子社と称へ奉らば五穀みのらむ」との神託により社殿を横須賀の方に向け祭り、以来此の地に不作絶へたと言はれ、また、2月15日の祭りに上げた大豆を馬や牛に与えれば災なく無病に育つと伝えられています」小さな神橋を渡り杉の巨木が立ち並ぶ参道を進みます木陰の下を拝殿に続く長い参道、どこまでも静寂でここが神聖な場所であることが漂います神橋、直ぐ東に宮川が流れていますが、そこからの水なのでしょうか、きれいに澄んだ水が流れていますかみさんには既に置いて行かれようです、御朱印を目指す歩みは早い参道左の手水舎菊紋の彫られた手水鉢夏日の今日、清水の冷たさは心地のいいもの参道右の遠江國一宮勅使参道の石標 701年(大宝元年)、勅使参向し十二段舞楽を奉奏、以来毎年勅使奉幣し舞楽を奉奏した当時の勅使参道跡一般参拝者の通行は固く禁じられていた遠江国とは、平安時代中期に成立した旧行政区分の名称で、現在の静岡県西部地域にあたります当時の静岡県は「遠江国」「駿河国」「伊豆国」と分かれ、各々独立していました其々に中央から行政官として国司が就くと、その国に鎮座する神社に参拝し幣帛を捧げることが慣例、その国の神社から歴史や地位に応じ「一宮」、「二宮」、「三宮」・・・と評価されていきます評価基準はあるようですが、一宮はそのトップと言う事です身近にある人事評価の様で「社格」なんだかなァ参道両脇の神代杉の巨木は200年前から杉や桧等が植林され、古代の森とも呼ばれ広大な杜を形成しています参道の先の陽射しが降り注ぐ境内に二ノ鳥居と拝殿が見えて来た参道左の社「鉾執社」案内板には「小國大神の御神徳の広がりと神社の発展に力を尽くした、かつての神社の社家41代家の祖先に感謝し、奉仕された人々をお祀りしています、鉾執とは「仲立」を意味し、神と人の仲立として神社に奉仕された方々を指している、昭和63年9月」「事待池 」参道左にありますが、八王子社(左)と宗像社(右)、橋の朱が水面に映し出され、四季を通してその表情をかえるのでしょう、とても印象に残るスポット「宗像社」弁天社ともいい、女性の守護神、水徳の神としても敬われています往古からの古社で社記によれば、社前に於いて阿部善八郎が小國神主と会して本社に大身槍を奉納した記録が残るそうです祭神 / 田心姫命、田霧姫命、市杵島姫命「八王子社」祭神 / 国狭槌命、五男神三女神の八柱橋の上から水面を見れば多くの鯉が悠々と泳ぐ小國神社で祈願し願いが叶った時に鯉を放つのが慣わしの様です池の袂には鯉の餌も売られ、かみさんが与えるも意外に上品な召し上がり方でした「全國一宮等合殿社」1680年(延宝8)の社記によれば「諸古文書の社頭配置図によると全国一宮等御祭神七三柱が境内社として各所に祀られていましたが、明治の初めに本社焼失時または腐朽等により、明治15年より境内末社八王子社に仮に合祀されたものを平成元年12月氏子崇敬者の守護神として復興鎮祭された」「小國神社御祭神絵図」小國神社の祭神大己貴命(大国主命)は大黒様ですね「因幡の白うさぎ」の赤裸にされたうさぎを助けた神様です「御神木大杉の根株」と社務所、参集殿の眺め樹齢は千年余りと伝えられる大杉の老木は中が空洞となり、昭和47年の台風で倒れてしまい現在の場所に奉安されたものですが、この根株だけで11トンもある巨大なものです二ノ鳥居から拝殿を望むこの鳥居は1882年(明治15)まではここに楼門があったそうですが火災により焼失以降跡地に建てられたもの鳥居左の「家康公の立ちあがり石」「徳川家康公の天下統一の基は浜松在城15年間の辛苦の賜ものといわれています。三方原合戦の前年元亀三年九月願文と三条小鍛冶宗近の太刀を当社に奉りて開運を祈願し、次いで大正2年4月、犬居城攻略の道すがら参拝し、此の石に腰かけて休息されたと伝へられます。以来、此の事を悲境をのりこへた「立あがり石」と言われ、石にあやかりたいとして人生の再起を念じて石に腰かけて帰る者も少なくありません」パワースポットですか、腰掛けて見ますかね境内拝殿方向の眺め左が授与所参道にずらりと並ぶおみくじ箱は訪れる参拝客が多い事を物語っているような檜皮葺の屋根を持つ「舞殿」と奥の「舞楽舎」正月3日に国指定無形文化財の「田遊神事」、4月の例祭では国指定重要無形民俗文化財の「十二段舞楽」がここで舞われます拝殿前景、賽銭箱に刻まれた神紋は右三つ巴檜皮葺の屋根は落ち着いた外観を見せてくれるいつ見てもいいものです、舞殿や舞楽舎は老朽化により葺き替えを予定しているようです賽銭を奮発しておきますか拝殿から幣殿の眺め1572年(元亀3)と1882年(明治15)の二回の火災の記録が残り、特に明治の火災では本殿や楼門などの建造物をことごとく失うも、1886年(明治19)に本殿などは消失前の三分の一の規模ながら復興、現在に至っています創建 / 555年(欽明天皇16)祭神 / 大己貴命舞殿方向からの眺め右が神徳殿、本殿(大社造)、拝殿古代の杜を背景にして鎮座するその姿は気品の様なものを感じます拝殿左の「大宝槌」巨大な宝槌、だいこくさまの御神宝ですねそれにしても広い境内です、これでも随分見て、参拝し、回ったつもりです本宮山を含め摂社・末社の全てを回りきる事は出来ませんでしたこちらでの滞在時間は過ぎてしまいました、御朱印を頂き先に車で待つかみさんと合流する事にします清らかな流れの宮川と緑豊かな古代の杜に包まれて静かに佇む小國神社、日本の原風景を見たような気がします2019/6/20『遠江國一宮小國神社』住所 / 静岡県周智郡森町 一宮3956-1小國神社HP / http://www.okunijinja.or.jp/アクセス / 新東名高速「遠州森町スマートIC」から県道280号線経由10分程御朱印
2019.07.23
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名古屋市南区星崎町阿原名鉄名古屋本線の線路沿いから「本星崎」駅と笠寺方向の眺めこの辺りも狭い道が迷路の様に続きますこの辺りは笠寺台地の南端にあたり、かつて「あゆち潟」と呼ばれ海岸線が迫る地域やがて徐々に地続きとなり笠台観音の東の東海道から分岐して知多へと続く知多街道が作られていきます「石神社」は本星崎の駅から数分の所に鎮座します前の通りは知多街道、神社の右側は緩やかに下っていますこの僅かな勾配は知多に向けて陸路をつなぐため、信長が作らせたと言われる阿原堤の名残り神社の角に建つ「南区史跡散策路」の案内板南北に長く東西に狭い敷地、西側から境内に入ると、直ぐに左に折れます手水鉢はその曲がり角にあります、常に水が満たされている訳ではないようです左に折れると石鳥居の先に祠は目の前参道左の御神木知多街道沿いで境内は幅の狭い縦長で、境内はさざれ石の様な石が複数置かれています御神木の楠木は根本に小さな鳥居があり、幹は曲がり、大きな樹洞も開いています何かが住み着いている、そんな気にさせます社前を守る小さな狛犬奉納年度は見ませんでしたが、それほど年月を重ねたものではなさそうですが可愛い狛犬です祠前景小さいながら瓦で葺かれた屋根を持つ重厚感のある祠です前には丸い石が祀られています「重軽石」なのかな?祠の中にはしゃもじの様なものが見えます参拝を終え、祠の中を良く見せていただきました「しゃもじの様な」ではなく正真正銘のしゃもじです、それも無数に納められています特別な石を御神体とする「みしゃぐじ信仰」と言う事でしょうその特別な石はひょっとすると隕石なのかもしれません病気治療や歯痛、神経痛に御利益があるといわれ、治癒のお礼にシャモジを供えるのが慣わしとされオシャモジ様やしゃぐじと呼ばれ、石を御神体とする神社は名は変われど多数あったようですやがて神仏分離の影響を受け、大きな神社に合祀されたりして数を減らしていったようです納められたしゃもじの数が御利益の数なのかもしれませんね祠の左の小さな社があります、燈籠に秋葉神社と彫られています鳥居は昭和6年、燈籠には昭和2年と刻まれていますが、石神社の創建年代は良くわかりません境内から前を通る知多街道の眺め道幅こそ狭いものの、今は舗装された快適な道が続きます尾張名所図会には、東海道から別れる畦道の様な小路が記されていました赤い電車が停まらなければ人波も途切れ、知多街道の情緒が戻ってきます2019/07/03『石神社』創建、祭神 / 不明境内社 / 秋葉神社住所 / 名古屋市南区星崎町阿原22アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑」駅下車西に徒歩約1~2分
2019.07.20
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名古屋市守山区大森5丁目『白龍社』名古屋と瀬戸を結ぶ県道61号線、通称瀬戸街道と呼ばれる県道沿いに鎮座しますこの道は善光寺街道へとつながり、信州へ塩を運ぶための重要な街道であったとされますほんの少し前までは瀬戸街道沿いに集落があり、その先は新田開発により作られた農耕地が広がっていました江戸時代初期に始まった新田開発、周辺を流れる矢田川等の河川より標高が高い事から、地形を生かして谷の出口等に堰を作り雨水や湧水を溜める農業用の溜池が多く作られていた事が分かります田畑を潤す溜池は時に堰が切れ人的被害を受けますが、開墾の手が止まる事はありませんでしたやがて1905年の瀬戸自動鉄道開通に伴い、少しずつ農地から住宅地へと変貌を始めます現在も農地が残り、緑豊かな住宅地として広がりを見せていますそれに伴い溜池は農業用の水源から、治水や消防水源に用途を変え徐々に埋め立てられていきます矢田川から瀬戸街道を瀬戸方向に進み、大森霞ヶ丘の交差点角に小さな鳥居とその先に見える社が白龍社です鳥居右の「霞ヶ丘バス停待合所」は現在バス停としては使われていませんが、少し前の名残りを留めるため取り壊される事なく今も残っています待合所の脇を参道が続きます小さな境内の正面に社と左に「龍神」と彫られた碑が並ぶここから北側には大森八龍の山があり、そこを水源とした水の恵みや、水害を鎮める村人の信仰の場として祀られたものでしょうこちらの創建等の由緒は分かりませんでした鳥居や社号標に刻まれた建之年月日しか手掛かりがなくなります鳥居は昭和54年合祀 大森新田嶋中とあり、社号標は昭和50年建之と彫られています社ありきで考えると「龍神」と彫られた石碑は昭和54年に近隣からこちらに移されたようです新田を潤す水を溜池に依存しなければならなかったこの地にあって、雨を司る龍神様は必要不可欠だったのでしょう『白龍社』創建、祭神不明住所 / 名古屋市守山区大森5丁目2201アクセス / 名鉄瀬戸線「印場」下車、西へ徒歩10分程
2019.07.19
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昨夜の強烈な雷と雨それも朝にはあがり、ムシ~とした暑さが戻ってきました6月に実り始めた一人生えスイカもコキア林の中で随分と大きくなりました幾つか実を付けたけれど、鳥に啄まれたり、ダンゴ虫にやられたりで現在2つほど残っています現在は最初に実を付けたものがハンドボールサイズにその後に実ったものがテニスボールサイズまで成長、スイカらしくなってきたものの何か成長が止まっているような今年はキュウリもトマトもさっぱりです、太陽の恵みが明らかに足りないコキアを良く見ていると昨年産み付けた卵から孵化した複数のカマキリ彼らなりに庭中で害虫駆除に活躍してくれているだけに野菜が育つ陽射しと適度な雨が欲しいものです「ほどほど」を忘れた近頃の天気、今日のおやじはいささかグロッキー気味
2019.07.17
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名古屋から新東名を東へひた走る事約2時間静岡県掛川市八坂の遠江国一之宮「事任八幡宮」を訪れました正面は旧国道一号線、「事任八幡宮前」の赤い歩道橋が目印になるでしょう駐車場は3か所ほどありますが、事任本宮も参拝予定であれば本宮前の駐車場がいいでしょう事任本宮参道、こちらは後半に記載しますまずは、ここから「事任八幡宮」を目指します赤い歩道橋を渡ると目の前に「事任八幡宮」が現れます歩道橋から西方向の眺め、事任八幡宮を取り巻く様に水田と緑の山々広がります遠江国一之宮「事任八幡宮」参道から境内全景かつての令制国の一つで遠江(とおとおみ)国および、その領域にあたる現在の静岡県西部一帯を指します古くは遠淡海(とほつあはうみ)とも呼ばれ、大和国から離れた淡水湖(現在は汽水湖)の浜名湖を遠淡海と呼んだようですこれに対し近淡海(ちかつあはうみ)は近江国の琵琶湖を指す様です遠江国の一之宮はここ「事任八幡宮」と「小国神社」の二社になりますかみさん曰く「やらない」と言っていた全国一之宮参拝、地道に御朱印を集めているようです境内に入り右に由緒書き、左に社号標太鼓橋から鳥居、参道は真っ直ぐに東へ伸びていきます境内の杜を背景に鳥居扁額境内は正面に楠木の巨木が聳え、手水舎と社務所、右に南鳥居、左に二つの鳥居があります左手の鳥居、石段先の高みに祀られているのは「金刀比羅神社」造営年代不明ですが1990年(平成2)に修理を受けているようです石段を上り参拝です、祭神 / 大物主神右上の社は稲荷神社の社「金刀比羅神社」右に巨大な「夫婦杉」の株が祀られています連理の木と呼ばれ参道中ほどに聳えていたこの巨木は、2018年の台風24号の強風で倒れます金刀比羅神社と稲荷神社を避ける様に倒れ、倒れても夫婦と呼ばれる株は分かれる事はなかったそうですその株の皮を剥ぎ、ここに祀ったものです夫婦の絆の強さを表わすようなパワーを感じます夫婦杉の右に「稲荷神社」由緒には1852年(安政2)の造営とあり、1974年(昭和49)に再建された様です石段の先の社、祭神 / 宇迦乃御魂神右に見える社は本殿左に鎮座する五社神社の社参道脇でその存在を主張する事任八幡宮のクスノキ苔生した根回りは19.3m、樹高は31mの八幡宮を象徴する御神木は、樹齢500~600年と見られ天然記念物に指定されています北側を除いた三方向に枝が広がり、強烈な日差しを程よく遮り参道に木陰を作ってくれていますまるで城の様に高く積まれた石垣の上が事任八幡宮本殿になります境内正面の社務所、右の鳥居は南鳥居になります南鳥居から見た境内、拝殿右に杉の巨木が聳えています清めを済ませて拝殿に向かいます緑の木々に包まれて佇む拝殿入母屋瓦葺の拝殿全景1840年(天保11)に新築されたもので、壁の四面全てに彫が施されています拝殿内を望む神紋は左三つ巴と鹿の角・・・・・ではなくて亀甲に亀卜(キボク)三河國一之宮「砥鹿神社」の御神紋と同じですね主祭神 / 己等乃麻知比売命 / 誉田別命 / 息長帯比売命 / 玉依比売命拝殿左側から透塀に囲まれた流造の本殿域を望む煌びやかな飾りの無いシンプルなものです事任八幡宮の由緒に依れば創建は成務天皇の131~190年頃と云われ、807年(大同2)坂上田村麻呂が勅使を奉じて再興したと伝わり、己等乃麻知比売命を祭神とします再興以前は本宮山へ参拝していたが現在地(里宮)に遷座、現在に至ります枕草子の中に「ことのまま明神いとたのもし」と書かれた項があり、平安時代には「ことのままの神」は都にまで知られていたと言われます後の1062年(康平5)、源頼義が京都から石清水八幡宮を勧請、八幡神が武家の守り神として広まりを見せ、八幡宮と称する様になります己等乃麻知神社の己等乃麻知比売命は本宮と周辺に分霊され表には現れなくなります社名も家康の頃には誉田八幡宮と呼ばれていた様です1947年(昭和22)社格撤廃に伴い、昔の社号「ことのまま社」に基づいて事任八幡宮へ改称されますが神社本庁で認められた祭神は八幡大神のまま「願い事のまま叶えてくださる神」己等乃麻知比売命が祭神として戻ってきたのが1999年(平成11)とつい最近のことです拝殿の左に鎮座する五社神社参拝当日は隣の本殿はネットが張られ補修工事中でした祭神 / 天照大神、八意思兼神、大国主命、火之迦具土神、東照大権現1861~1863年(文久年間)の造営され、1989年(平成元年)に再建されたもの拝殿右の建物内部には大笛と神輿が保管展示されています大きな笛が二つ、アルペンホルンの様でもあります黄金色の飾り金具が施されたピカピカの神輿は、1835年(天保6)に修理した棟札も残り、2007年(平成19)に大修理を経て今も華やかに輝いています拝殿右の事任八幡宮の大杉天然記念物に指定されたこの杉は、樹高は36.5m、根回り11.2mの巨木「八幡宮の大杉さん」、「東の宮様」として敬われているようです拝殿右から赤門の眺め、右に緩やかに下る階段は手水舎へと続きます赤門から拝殿と石垣の眺め木々の緑、石垣の苔、いずれも緑が鮮やかです事任八幡宮境内案内図南口の鳥居南側の駐車場整備に伴い、2010年(平成22)に建てられたもの本宮参拝しないのであれば南側駐車場は境内アクセスに一番便利南鳥居の外から事任八幡宮の全景大楠と杉が大きな杜を形作っています、左手の峰が本宮のある本宮山南には昔ながらの長閑な水田風景が続いています、ゆっくりと時は流れ、夜には蛍に逢えるかもしれませんね水田の遥か先は、ひっきりなしにトラックが行きかう国道一号線と掛川道の駅が見えます時の流れの対比が面白い、この後はいよいよ事任本宮まで参拝します車を停めた本宮前の駐車場の正面が参道口となります道路際の本宮鳥居から271段の石段を上っていきます斜度もきつくはないのでシャシャツと本宮に辿り着くはずですところがその日は夫婦揃って睡眠不足そのせいでしょうか271段のこの石段がとてもきつい、歩きづらい鳥居から時間にして10分程なんですが、登る前には軽くストレッチをお勧めしますようやく本宮の二の鳥居と奥宮が見えて来ました木々に包まれひっそりと佇む本宮里宮から己等乃麻知比売命が消えても、ここで綿々と祀られ続けてきました参拝します、願い事叶えてください木立の間からは里宮のある八坂を僅かに望むことが出来ます周囲は杉や広葉樹に包まれ、静まり返っています里宮には無い特別な世界がそこにありました2019/06/20遠江国一之宮「事任八幡宮」創建 / 131~190年頃祭神 / 己等乃麻知比売命 / 誉田別命 / 息長帯比売命 / 玉依比売命境内摂社 金刀比羅神社、稲荷神社、五社神社住所 / 静岡県掛川市八坂642アクセス / 神道名高速道路名古屋ICから新東名経由約120分遠江国一之宮「事任八幡宮」御朱印
2019.07.17
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名古屋市瑞穂区惣作(そうさく)町の北川天満宮を訪れる環状線の瑞穂通7から西に歩くと分かりやすいかもしれません南北に伸びる瑞穂台地の南端近くの高台に位置し、瑞穂通7から西に進むとやがて緩やかな上りとなり、そのピークの左側に白い奉納幟が見えるのが北川天満宮ですここから西と南にかけて緩やかに下りとなります等高線が示すように北川天満宮は瑞穂台地の外れから南西に位置しています昔は井戸田と呼ばれたこの辺り、明治頃のこの周辺は左の様に大喜、津賀田神社のある北井戸田、井戸田の三つの集落があり、田光ヶ池の周辺は広大な耕作地だった事が分かります今ではその面影すらなく、周辺は静かな住宅地で畑を見かける事はないと思います通りから南に入って北川天満宮の西側からの全景大きな楠?が一本、その太い幹は北川天満宮の生い立ちを知っているのかもしれません玉垣で囲われた見通しのいい境内は社も撫で牛の存在も良くわかります牛がいれば道真公が祀り神と言う事でしょう、南側が参道の様です幅員の狭い道路には駐車余地はありません、歩いた方が安心です井戸田の由来を調べて見ました「井戸田(いどた)の戸は「所」とされ、井のある所の意味とされる」瑞穂台地の頂は地下からの湧水が豊富に出る場所だったようです北川天満宮南側道路から境内全景大きな境内ではありませんが、陽射しが差し込む風通しの良い境内です境内左に手水舎(清水は枯れていました)で右に社号標正面の二段に積まれた最上段の神域に社、その下の段の左に撫で牛が寝そべっています社前景大きな御神木?の右に社が祀られています手前の解説板には「このお宮さんは、学問の神様菅原道真公をお祭りしてある北川天満宮です」とあるこの案内があるだけでも、ここに住む人にとっては地域を知る重要な情報源北川天満宮の建立がいつなのか調べましたが結局分かりませんでした案内にも記載されていないので、上手く語り継がれなかったのかも知れません撫で牛赤い前掛けを付けられ、こちらを見る姿は何気に左目でウインクしているようにも見えます表面はすべすべ、随分と撫でられた様です社前景門の扉に飾られた梅鉢?の紋が天満宮を物語っています意外に慎ましく、紋は扉と幟以外には気付きませんでした境内西側の道路沿いの「井戸田一万歩コース」と社前とは内容の違う解説板「北川天満宮(通称天神様)学問の神様である菅原道真公を祀っている」とあるもとは天神社という事でしょうかいつからこの地にあるのか定かにはなりませんでしたが、小さな境内を取り囲む奉納幟の数を見れば、今もこの地に住まう人々から天神様として崇められているのは間違いない様です2019/06/25北川天満宮創建 / 不明祭神 / 菅原道真住所 / 名古屋市瑞穂区惣作町3丁目59アクセス / 市営地下鉄名城線「妙音通」下車、北へ 龍泉寺⇒可睡斎秋葉社経由北川天満宮まで徒歩15分程
2019.07.13
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かみさんの一之宮巡りの機会に恵まれ、軽自動車で名古屋から少し離れた静岡県を訪れました長閑な田舎風景、緑豊かな山々を眺めながら「韮山反射炉」へとやってきました2015年(平成27)「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されましたが、韮山反射炉はそこに含まれる一つ一度は訪れたい場所でしたが、世界遺産に登録された事で訪れる方は多いだろうと思っていました韮山ガイダンスセンターから見た韮山反射炉、以外な事に大きな駐車場は空き見学者もまばら芝生の緑と背後の山々の緑の中にシンボリックなレンガ造りの煙突が建つ実物を見るのは夫婦共に初めて思い描いていた煙突の大きさと実物では多少ギャップはあるものの背景の中に聳える煙突は存在感がある反射炉へはこのガイダンスセンターで入場券を買い求め、センター内で反射炉の建造を必要とした時代背景や構造、ここから製造されたもの等を展示品やCGで軽く説明を受けますCG終了後ボランティアガイドに導かれ反射炉へ韮山反射炉全景炉の数は4基、其々に煙突がありますが、見る角度によりお化け煙突の様に数が減っていきます入口からだと2本炉体から煙突部分先端までの高さは15.7m反射炉の炉体は伊豆石と呼ばれる凝灰岩を積み上げ、内部は耐火煉瓦で覆われていて煙突部は耐火煉瓦を積み上げたものだそうな重厚でシックな外観は想像していたものより意外に小さく感じましたが、間近から見上げると迫力があります個人的に煙突の外部の鉄の格子(トラス)に強い印象を持っていましたが、これは幾度かの補修工事に伴い追加された構造体1908年(明治41)の初回補修時にこの特徴的な格子はなかったそうで、1957年(昭和32)の補修時に崩落防止の目的で追加されたもの外観はオリジナルから少し変わってかもしれないですが、地震を想定するとやむを得ない事でしょう個人的に、遠景からみる反射炉にこの格子は見た目でも重要なアクセントになっている気がします炉体反射炉は金属(銑鉄)を溶かす炉石炭などを燃やした熱源を効率良く金属に集中(反射)させるために内部はドーム状なっています炉体下部の「焚所風入口、灰穴」燃焼させるためには十分な酸素が必要、ここは上部にある「焚所(燃焼室)」へ自然送風するための空気取り入れ口物を燃やせば灰が出ます、ここは上部で燃やした石炭の灰を下に落す場所でもありますここで出る煙が煙突から吐き出されます、4本の煙突からもくもくと煙りが吐き出されていたのでしょう余談近所に昔ながらの薪炊きの風呂を持つ家があり、煙突からは「風呂焚いてるぞ」と狼煙があがっていたものです、そこから出た灰は近隣の畑の土壌を潤してくれていました住環境が変わりマンションが林立し、新たな住民の通報から何度か消防車もやってきましたやがては狼煙もあがらなくなり昔の情景も消えてしまった今どきは庭でスモークや庭木を燃やすだけで消防車が飛んでくるキャンプ場でも焚火が制限される時代・・・・・焚きたい出湯口解けた鉄はここから流れ出ます手前の赤い砂利の部分は鋳台と呼ばれる窪んだ空間がありました、現在は埋められていますがここで鋳型に流し込まれ成形され、解けた鉄は形を現します海から訪れる黒船、幕末の激変する時代に必要とされた「物」に形を変えていきますそれは大砲であったり、弾丸であったりしました御存知の「お台場」はここから作られた大砲を置く砲台が設けられた事から付いたとものです反射炉溶解炉を2基備えたものが2基、4基の溶解炉は同時に稼働させることができ一つの炉の溶解量は最大2.6トンの能力を誇った様です4本煙突(3本の絵を撮ったはずだったが)施設内ではボランティアガイドの方が案内してくれます鋳型から取り出された「大砲」はそのままでは使えません、なぜなら弾が飛び出す砲身の部分は穴が開いていません砲身を削り穴を開ける必要があります、それに不可欠なのが動力源反射炉の近くに流れる韮山古川、ここの水が動力源となります水は水車を回し水車は回転するエネルギーに置き換え、先端に付けられた刃でくり抜いていく「鑽開」という工程を経ます現在の旋盤からは考えられない時間を要する工程だったでしょう、そうして砲身がくり抜かれた大砲は鍛冶屋や仕上げ小屋で最終加工され大砲となっていきます韮山反射炉は武器製造施設施設の傍らの小池は「鑽開」の形跡を留めていますそもそも反射炉建造発端は、1853年(嘉永6)のペリー来航に始まります幕府が外国の脅威を実感する出来事に対し、当時の江戸湾海防の責任者江川英龍に江戸湾台場(砲台)築造と大砲製造拠点となる反射炉建造を命じます、1853年の事です当初、下田を建造予定地としていたそうですが、ペリー艦隊の水兵が建造地に侵入した事例から機密性の観点から建造地を韮山に変更されたようです1855年(安政2)江川英龍は他界、その任は息子の江川英敏に継がれます当時の佐賀藩の支援を得るなどして、着工から3年半を要した建造は1857年(安政4)に完成します建造に携わった英龍とその家族が住んだ「江川邸」は今も保存され、韮山古川の対岸に現存し見学する事も出来ます(ドラマのロケ地として使われる趣のある建物です)こうした反射炉は山口県萩市にも残っていますが、当時のままの炉体と煙突が残り、実際に稼働したものは「韮山反射炉」だけで、幕府直営反射炉として役割を終えるまでに大砲が鋳造されました上、青銅製29ドイムモルチール下、鋳鉄製24ポンドカノン砲韮山古川の対岸にある江川英龍の像、完成した炉の姿を自ら見る事は出来ませんでしたが自身の手がけた炉を背景に建っています像から南の茶畑の高台にある反射炉富士山展望台へ向かい富士を眺めます当然上り坂です坂の途中の崖に石段があり、その先に祠を見つけ伺いました急な石段の先に祠にはニコッと笑って打ち出の小槌持つ大黒天が祀られていましたこれは参拝しないわけにはいかない大黒様に御挨拶している間にもかみさんは展望台を目指す坂を上る事数分で目の前に茶畑が広がりますそこから振り返ると・・・・・目の前には世界遺産「富士山」をバックに世界遺産「韮山反射炉」の競演・・・・・のはずなんだが、二人とも富士には昔から縁がないようで今日も富士はお休み持っている方には下の様な光景を見る事が出来るはずです『韮山反射炉』2015年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産23カ所のうちの1つとして世界文化遺産に登録されました韮山反射炉ガイダンスセンター(韮山反射炉)住所 / 静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268アクセス / 新東名長泉沼津IC⇒道の駅伊豆の村経由⇒韮山反射炉までは車で約40分2019/06/21以下パンフレットと四季折々の反射炉の絵が印刷されたチケット(おやじは桜の時期の反射炉)
2019.07.12
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はやぶさ22回目のタッチダウン成功おめでとう初回成功していただけに、2回目のチャレンジの判断は相当悩んだことでしょうそれを乗り越えてのチャレンジ、タッチダウン成功は素晴らしいの一言サンプル採取の結果と機体の状態は気になるけれど早く家に戻っておいで
2019.07.11
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瑞穂区白龍町1丁目以前記載した可睡斎秋葉社から北に歩いて5分程の東西に伸びる道筋に『白龍社』が鎮座します静かな下町の風情が漂う道筋は、町工場や民家が建ち並びます西に走る空港線から直接入り込めない事もあり、幅員のある道筋ながら車の往来は意外に少ないここから5分も東に進めば津賀田神社に続きます突然路地から現れたおやじ、工場前で転寝していたトラ君?を起こしてしまったようです『白龍神社』参道口全景細い参道の左脇に社号標と石鳥居その先に石垣が二段に積まれた神域に社が見えます参道脇の近隣にある寺社案内板小さ目の玉砂利を踏みしめながら境内へ細い参道は鳥居前から境内は広がりを見せます鳥居前から『白龍神社』を望む右に手水鉢がありますが静水は注がれていません左手に白龍神社を語り継ぐ由緒書きそこには「戦前、この地域一帯は、蛸ヶ池(田光ヶ池)という灌漑用池であった。都市化によって埋め立てる際、村人の伝説となっていた『池の主』白龍大王と呼ばれる。おろち(大蛇)の魂を鎮めるために祭ったのが白龍神社である。終戦後の一時期堀田小学校の疎開先として開校した事がある」・・・・・とある由緒書きはこの玉垣の中に建てられ、中には複数の岩があるここにおろちが祀られているのだろうか?上は左が明治頃、右が現在の白龍町津賀田神社の西の麓、田光ヶ池周辺に複数の集落と農地が広がるこの辺りは埋め立て整地された事がわかります池の埋め立て工事に伴い、様々な災いが起きます、村人は池の主の怒りに触れ災いが起きていると考え、池の畔に社を立てお祀りした現在の町名の由来は、ここ白龍神社から付けられたと言われます白龍神社全景一段目の石垣は北側道路の高さに合わせるためだったようです神域には千木、鰹木をあつらった社が南を向いて祀られています右にも狛狐が守護する稲荷社があります、こちらについて案内板はなく詳細は不明北側車道からの眺め、こう見ると石垣は一段、北から南に傾斜している事が良くわかります境内から先程歩いて来た参道の眺め古い池には龍が住み、龍神が祀られる宅地開発に伴い池はなくなり景観は変わるけれど社は残る龍神社はその地の生い立ちを教えてくれる存在なのかも知れません2019/06/25『白龍神社』創建 / 1938年(昭和13)祭神 / 白龍大王住所 / 名古屋市瑞穂区白龍町1丁目アクセス / 地下鉄名城線「妙音通」下車、徒歩で北へ10分程
2019.07.10
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知多郡武豊町向陽に鎮座する「玉鉾神社」を訪れました名鉄武豊駅から西へ県道72号線沿いに小さな地蔵堂があります地蔵堂は「薬王菩薩」と呼ばれるようです堂内には紅がさされた地蔵が一体、彫られてからそれ程年月を経ていないようです堂の右手に小さな亀の像、正面に東守護大神 亀太郎大神と記されたプレートが浦島太郎伝説の伝わる武豊にあって、亀太郎とは意味深な県道に面した参道は境内に向け緩やかに上っています左が石段で、中央が車道の様です右に社号標、普通なら社格が彫られているところですがその記載が見当たりません個人的主観になりますが、神社は如何にその地に溶け込み、身近な存在として親しまれているかだと思っています、正直なところ神社の社格を重要なファクターとして捉えていませんそれよりもそれも黄金色に輝く菊の紋が入っていることの方が驚きです石段中程から鳥居方向の眺め鳥居に彫られた菊の紋章に視線が行きますその先には鰹木、千木のあしらわれた拝殿が覗えます鳥居の左に手水舎と手水鉢手水鉢の奥に「黄金之泉」と刻まれた丸いプレート手水鉢の亀の口から絶え間なく静水が注がれていますここでも亀です黄金色に輝く菊の紋が入る鳥居から境内へ鳥居から拝殿の眺め、拝殿の左には黄金色の鳥居が見えます千木は内研ぎ、鰹木は8本この結果だけであれば祭神は女神と言う事になる、けれどこれは諸説玉鉾神社の祭神は孝明天皇を祀ります孝明天皇を祀神とする神社は良く知られるところでは平安神宮、あまり多くはありません拝殿右に饒速日命の祠、その奥に地御柱大神の表札なんだろう、境内至る所にこうした表札が林立しています拝殿右側国之常立神の絵と神々の系図が掲げられ、その下には弥勒観音神仏習合の神社の様です菊の紋が輝く拝所正面には「祭神第百二十一代孝明天皇」と記されています由緒書きから一部抜粋御祭神の孝明天皇は明治天皇の父にあたり、江戸時代末期、諸外国の進行、武家政治の終末といった波乱の時代に在位された天皇で、天皇の崩御についても幾つかの謎が残る神社創建は孝明天皇に我が国の永遠の守護を給わるため、天皇の遺勅に従い忠臣であった力士の旭形亀太郎により創建される、なぜ力士が創建・・・・・力士は侍、有事の際に天皇の内裏を守る力士隊を結成し天皇を守護する任があった、亀太郎はその総代であったと言われます、創建までの道のりは厳しく、1899年(明治32)に漸く創建されます亀太郎没後、神社は荒廃し昭和39年、第三代宮司と崇敬者により再興された様ですなので境内の伽藍は全てが新しいものです創建までの道のりと同様、荒廃した神社復興の目標に向けた宮司、崇敬者の測り知れないエネルギーがあって現在の神社がある歴史の積み重ねや格式では計り知れない人のパワーを感じます境内は今も手が掛けられているようです境内には複数の境内社があります拝殿左の黄金色の鳥居は玉置社、黄金色の鳥居はあまりお目にかかった事がありません玉置社の左に昇龍大明神社祭神は龍神と創立者が祀られている昇龍大明神社の左に鎮座する朝日稲荷社、祭神は不明短山不動大神、ここにも亀これで拝殿左は全て参拝、次は拝殿右方向へ拝殿右で最初に目に付くのが「和合大神」とその左に「みろく世の鐘」平和を祈りゆっくりと三回打ち鳴らすもののようです和合大神から先に金色鳥居の「短山辨財天」に続きます陽気な表情の「大黒天」とその右に小さな牛が置かれた「幣良受天神社」「水かけ不動明王」年の数だけ水をかけると願いが叶うそうな本殿右には複数の記念樹、「三個の宝玉大神」やユダヤキリスト大神などのモニュメント等が纏められています幣良受の池の傍らに祀られる「短山辨財天」、そこから奥に更に参道が続きます幣良受の池の後方の小高い場所の石鳥居は「みろく天神社」鳥居手前の右手には北斗七星らしきモニュメント、左には小さな「猿田彦大神」が置かれていましたみろく天神社から本殿方向の境内の眺め下は境内社務所、御朱印はこちらになります境内左から拝殿方向を眺める左には忠魂の池と呼ばれる池があり、その奥には忠魂の碑と「黄泉国大神」が祀られています神話やユダヤキリスト、五芒星、北斗七星等様々な神やモニュメントが祀られている神社2019/05/18玉鉾神社創建 / 1899年(明治32)祭神 / 孝明天皇住所 / 知多郡武豊町向陽2丁目17アクセス / 名鉄河和線「知多武豊」下車、西へ10分程
2019.07.08
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名古屋市瑞穂区惣作町、地下鉄「妙音通」から北に10分程の「可睡齋秋葉社」を訪れる此の辺りは一歩迷い込むと昔ながらの区割が続き、街道の名残りを感じさせる細い道筋が今も残る住宅街の緩やかな登坂の途中の角地、玉垣に囲まれた小さな神社が「可睡齋秋葉社」角地に玉垣で囲った小さな境内と社は、周囲の景観に溶け込んでいます境内正面全景鳥居や狛犬はなく社号標のみとシンプルな境内あれやこれや詰め込まれ閉塞感を感じる神社もあるけれど、解放感もあり好感が持てる境内も綺麗に手入れされ、訪れる者にはとても気持ちがいい右手の秋葉社の社号標には「可睡齋」と刻まれていますあまりお目にかからない社号標です「可睡齋」とは静岡県袋井市にある曹洞宗の寺で山号は萬松山、創建は1401年(応永8)聖観世音菩薩を本尊とし、古くから「火伏せの神」として崇められ、秋葉総本殿三尺坊大権現の道場11代住職の仙麟等膳和尚は、信玄との戦いから逃れてきた幼少の家康とその父を匿ったとされ、後に浜松城主となった家康は和尚を招き礼を尽くしたその席でコックリ〃と無心にいねむりをする和尚を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し、故に安心して眠る、われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と言ったそうです以来仙麟等膳和尚は「可睡和尚」と呼ばれる様になりますそれ以降寺号を東陽軒から「可睡齋」と改め1873年(明治6年)、秋葉山の神仏分離に伴い三尺坊大権現が遷座され火防災除の寺となり現在に至ります社号標はそこから勧請したという表れです、創建もその頃ではないでしょうか小さな社には榊も供えられ、綺麗な境内同様今も多くの方の手が入れられている事が良くわかります大きく煌びやかで格式の高い神社も良いと思いますしかし身近に鎮座し、氏子に支えられた小さな神社を訪れた時の印象はそれとは違う良さを感じます可睡斎秋葉社創建 / 不明住所 / 名古屋市瑞穂区惣作町3丁目アクセス / 市営地下鉄名城線「妙音通」下車北に10分程可睡斎秋葉社から西の眺め斜め向かいに小さな堂が目に入ったので併せて記載します神社向かいの駐車場の西側に祀られた「延命地蔵堂」延命、利生を誓願する地蔵尊は生まれた子を守り、その寿命を延ばすといわれ信仰されます堂内には1910年(明治43)落慶法要と記された棟札と赤い帽子に前掛けが着せられた一体の小さな地蔵が祀られています生花も手向けられ、今も崇められているようです2019/06/25
2019.07.06
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刃物の街として知られる岐阜県関市、市内の南春日町に鎮座する「春日神社」関鍛冶伝承館の東隣りに隣接し、南北に長い境内を持つ春日神社南鳥居から境内の眺め社号標赤い二の鳥居の先に見えるのは能殿、その先で境内は開けます能殿から南鳥居方向の眺め切妻銅板葦の能殿は鎌倉・室町時代に建てられ、江戸初期と後期に各々再建されますが、1959年の伊勢湾台風は春日神社に甚大な被害を与え、現在の能殿は被災後に再建されたようです能殿から東鳥居方向の眺め例祭には、古典芸能「童子夜行」がここで奉納されます この例祭に使用される能装束類は重要文化財に指定されており、普段は神宝殿で保管されていますが毎年10月第2日曜日の刃物まつりなどで特別公開される様です鎌倉時代の能は芝生の中に座って鑑賞したそうで、「芝居」の「芝」はここから来ているようです能殿左の芝生は「扇の芝」と呼ばれ当時の面影をとどめています能殿の東の手水舎、手水鉢、その右に由緒書き奥には関稲荷神社の赤い奉納鳥居が連なっています由緒書き鎌倉時代に大和の国から鍛冶刀工がこの地に移り住み、1288年(正応元年)大和鍛冶の出身者により奈良の春日大明神を勧請し、関鍛冶の守護神とし創建したのが始まりと云われています能殿北側に銅葺屋根の入母屋作りの拝殿奥に本殿が見えていますが訪れた当日(2019/04/25)は屋根の補修作業が行われていました伽藍全体まめに補修が行われ維持されているようです拝殿左からの眺め右の小さな堂は境内末社の津島神社、秋葉神社、松尾神社が並ぶ拝殿正面からの眺め、拝殿の左に境内末社が祀られています鎌倉時代に大和の国から鍛冶刀工が関に移り住んだ1288年(正応元年)大和鍛冶の出身者により奈良の春日大明神を勧請し、関鍛冶の守護神とし創建したのが始まりと云われています後に刀工孫六兼元(関の孫六)等により関の刀鍛冶が日本全国に知られることとなる例祭が盛んになり、1433年(永享5)初代孫六兼幸が願主となって同地に再建されたようです祭神は天児屋根命、経津主命、比売神、武甕槌命1932年(昭和7)に本殿新築の際に相殿八幡神社、天神神社を合祀拝殿前の年月を重ねた風格のある狛犬拝殿扁額と拝殿内から本殿左の境内社は御鍬神社、白山神社、多賀神社の三社左から御鍬神社 / 大水上御祖神白山神社 / 伊邪那美大神多賀神社 / 伊邪那岐大神拝殿右の小さな瓦葺の堂左から 津島神社 / 須佐之男命、秋葉神社 / 火之迦具土神、松尾神社 / 大山昨神昨国道418号線平和通3交差点の南に東鳥居があり、車で訪れるとこちらが表参道の様にも見えます通りから眺める鳥居から能殿方向鳥居右に太鼓楼と社務所鳥居左が関稲荷神社と春日神社社号標奉納鳥居の先に関稲荷神社の堂稲荷堂の右に置かれた二つの古い手水鉢、一つには1694年(元禄七)と記されています関稲荷神社祭神 / 宇迦之御魂神関稲荷神社の左の神宝殿、1958年に建てられた寄棟瓦葺の鉄筋コンクリート造りで伽藍の中では一番新しく見えます指定文化財能装束類や能面、歴代刀匠の奉納刀、古文書などの社宝を収蔵する事から高床式になっています神宝殿前の狛犬は緑の苔に包まれようとしています大和の国から移り住んだ大和鍛冶は刃物の街の礎を築き、春日神社は今もこの地の人の守護神として繁栄しています2019/04/25春日神社 創建 / 1288年(正応元年)) 祭神 / 天児屋根命(アメノコヤネノミコト)住所 / 岐阜県関市南春日町1アクセス / 東海北陸自動車道 関ICから車で約10分
2019.07.03
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名古屋市南区呼続2前回の法泉寺の引き続きになりますが、別に取り上げたのはこちらと法泉寺の関わりがはっきりしないので、境内社とするのは如何なものか判断に迷ったから法泉寺前を緩やかに西に下る坂、近くには「山崎の長坂」と記された東海道の道標が建っています道標の反対側には「山崎城址」と「安泰寺」とも記されています法泉寺の入口の東海道の道標この道標から北方向の法泉寺を眺めると石垣が積まれ、玉垣に囲まれた神域が視界に入ると思います呼続2丁目の秋葉神社は法泉寺に向かう参道の突き当りに鎮座します秋葉神社全景玉垣の右に「町内安全」、左に「秋葉神社」と刻まれています区割りから明らかに法泉寺の一画では?と感じるけれど根拠が見つけられない言える事は、東海道を行き交う人々を良く眺められる絶好の場所である事に間違いありません法泉寺山門に向かう参道から西方向の秋葉神社の眺め民家の屋根の位置からも「山崎の長坂」の傾斜を実感できます神社の石段の右には「文久三年」と刻まれた石標参拝を済ませ社を眺める法泉寺の再興が1642年(寛永19)とされるので、神社創建につながるものは無いかと見渡すも、石標に刻まれた文久三年(1863)以外には見つけられませんでした、幕末には既に鎮座していたようです以来、呼続の氏子の方々が代を変えながら神社を守り続け、秋葉神社は氏子の町を見守り続けます2019/06/26秋葉神社創建 / 不明祭神 / 迦具土神住所 / 名古屋市南区呼続2丁目1アクセス / 名鉄名古屋本線「呼続」下車 南へ徒歩5分程
2019.07.01
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