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新大阪で昼食を済ませ、大阪東線と近鉄奈良線を乗り継ぎ、東大阪市の近鉄牧岡(ひらおか)駅を目指します。次の目的地は河内國一之宮「牧岡神社」。今回の電車ツアー、運がいいのか立ち乗りすることなく座席に座り移動できています。この調子で行きたいものです。電車の揺れは心地よい居眠りを誘います。お昼寝タイム50分程で牧岡神社の最寄り駅「牧岡」駅に到着。さてどれ程歩くのかな?神社は改札出口にいきなり社号標と階段、その先に注連縄鳥居。右の石柱には「神事宗源」と刻まれています、天児屋根命が天の岩戸開きではじめてお祭りを行い、祝詞を奏上された事から神事宗源の神として称えた事に由来するようです。左は「天孫輔弼」と刻まれ、天照大御神、高皇産霊神から天皇を助けるよう特命を受け、その務めをはたした事から天孫輔弼の神として称える事を指すようです。この石柱は1922年(大正11)に奉納されたものだそうです。階段手前の「元春日平岡大社」の社標、こちらの平の方がPCの漢字変換は受け入れてくれる。それにしても駅から0分、これは近い。伏見稲荷以上じゃないだろうか。注連縄鳥居を過ぎ、参道を横切る道路を渡る。石灯籠と鳥居を構え、赤い灯篭が立ち並ぶ参道が続く。この鳥居はニノ鳥居、一ノ鳥居はここから更に下った東高野街道に建っています。参道脇の由緒書きと摂河泉展望ハイキングコース案内板。御祭神は第一殿/天児屋根大神、第二殿/比売神、第三殿/経津主大神、第四殿/武甕槌命が祀られる。摂社は天忍雲根大神を祀る若宮社と末社の天津神と国津神を祀る天神地祇社。社伝によれば創建は紀元前3年に国土平定祈願のため、現在地の東にある霊地神津嶽に天児屋根大神と比売神を祀ったことが始まりのようです。神津嶽における山岳信仰が始まりのようです、天児屋根命は中臣氏の祖で中臣氏の氏神とされています。現在地には650年(孝徳天皇白雉元年)に神殿が造営され、神津嶽の二神を奉還、経津主大神、武甕槌命が勧請され、四殿に夫々祀られている。奈良の春日大社を創建した藤原氏は氏神としてこの牧岡神社の祭神4柱のうち天児屋根命、比売神の2柱の分霊を春日大社に勧請したとされ、それ故に牧岡神社を「元春日」とも呼ぶそうです。ハイキングコースは神社左の暗越奈良街道を経て額田山展望台に至る4㌔、2時間ほどのコースで展望台から大阪平野が一面に見渡せるそうです。参道の先に再び階段。剣先の付いた鳥居の先に拝殿が見えてきます。境内右の手水鉢。龍ではなくこちらは鹿が清水を注いでいます。階段前の狛…鹿、寝てます。こんなところにも春日大社と牧岡神社のつながりを感じます。特徴のある注連縄の結びはあげまき結びに似ているけれどよく分かりません。注連縄をくぐりそこそこ急な階段を上り拝殿へ。境内は右に授与所、左が鶏鳴殿と呼ばれ社務所にあたります。正面の拝殿。入母屋造りで大きく張り出した向拝が印象的。現在の拝殿は1879年(明治12)に新築されたもので、平成の補修でそれまでの檜皮葺きを銅葺きに葺き替えられたようです。拝殿には既に来年の干支の大きな絵馬が飾られ、初詣に向け巨大な賽銭箱の準備が整っています。中門の前を守護する狛犬は遥か先、寄るのもこれが精一杯、なかなか個性のある顔つきをしています。中門と吊り灯篭の並ぶ透塀1879年(明治12)改築、1905年(明治38)に現在の場所に移設されたようで、その後も修復の手が入れられ現在の姿を保っています。本殿は、1826年(文政9)氏子の奉納により造営されたもの、以前の本殿を含む伽藍は1579年(天正7)信長により焼かれ、復旧は1602年(慶長7)に豊臣秀頼が造営するまで待つことになります。岡造と呼ばれる様式の四殿並列の本殿、彩色も鮮やかで杜の中で引き立つ存在です。綺麗に並ぶ姿を見たかったけれどご覧のように覆屋が作られ、現在も補修の手が入っています。また今度ということです。拝殿から右に石灯籠が並ぶ参道は続きます。左手に遥拝所神域の榊の木を通し、皇霊殿、伊勢神宮、橿原神宮、神津嶽を遥拝する場所。若宮社の若宮社奥にある井戸「出雲井」古くから神聖な水が湧き続け、枚岡神社の鎮座地出雲井町はこの井戸の名から、呼ばれるようになったともいわれます。下は「白水井」と呼ばれる井戸。これらの井戸は若宮社の祭神「天押雲根命」が天児屋根命の命により、天の二上に登り皇御孫尊の御膳水を取ってきた神と云われ、水と所縁もあることから二つの井戸があるのかも知れません。遥拝所の先に祀られる摂社の若宮社社殿は1887年(明治20)に改築されたもので、天押雲根命が祀られています。下は参道の一番奥に鎮座する末社の天神地祇社祭神は天津神・国津神で、それほど大きくない社にはもともと境内にあった19の末社すべてがここに合祀されているそうで、結構な大所帯となっています。牧岡神社、歴史のある河内國一之宮に相応しい風格のある神社。艶やかな四殿並列の本殿の全容が見られないのは本当に残念です。河内國一之宮牧岡神社創建 / 紀元前3年祭神 / 第一殿/天児屋根大神、第二殿/比売神、第三殿/経津主大神、第四殿/武甕槌命住所 / 大阪府東大阪市出雲井町7番16号アクセス / 新大阪から大阪東線⇒近鉄奈良線を⇒牧岡駅下車徒歩0分1日目の参拝予定はすべてコンプリート。後は新梅田食道街で晩御飯代わりに一杯やりに向かいます。新梅田食道街へは17:30頃到着。細い通路には所狭しと飲み屋が連なる、おやじにとっては天国のようなところ。この中で訪れたのが初音という立ち飲み屋。おでんに、串カツ、しめ鯖・・・・・すべてがリーズナブルで気取る必要のないくつろげる立ち飲み屋です。程よく食べておいしいお酒を頂き満足したところで今夜の宿まで向かいます。初音 / 大阪市北区 角田町 9-26 新梅田食道街 1F電車移動の予定でしたが、街はイルミネーションでとてもきれい、なのでホテルまでの小一時間かけて歩くことに。おやじの勝手なイメージは飲み屋街=大阪だったが、こうした絵面の大阪も結構綺麗じゃないですか。今夜の宿は「天然温泉 浪華の湯 ドーミーイン大阪谷町」天然温泉の大浴場もあり、時間制ですが宿泊者には酒も飲み放題で、ラーメンも振舞われる。下手なスーパー銭湯より安くて室内も綺麗で快適。二人で一万を切り、おつりはお札が何枚か戻ってくる。結構お得感のあるホテル、電車旅の宿泊の選択肢にしてもいいかも。かみさん、風呂上がりの一杯飲みに行こう!天然温泉 浪華の湯 ドーミーイン大阪谷町住所 / 大阪府大阪市中央区内本町2-1-9
2019.12.31
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2019/12/26.27青春18切符を利用し一泊二日で令和元年最後の一之宮巡りへ。名古屋を8時過ぎの電車に乗り、かみさんが数週間練りに練った滋賀、大阪方面に向かう。最初の目的地は滋賀県大津市。JR琵琶湖線「大石」駅から徒歩で25分程東に鎮座する近江国一之宮・建部大社へは11時頃到着。琵琶湖に注ぐ瀬田川に架かる瀬田唐橋を渡り旧東海道沿いに神社を目指す。天気は・・・・・よろしくない。瀬田唐橋から県道2号線沿いに建部大社まで10分程、左手に社号標と石鳥居が現れます。参道沿いには灯篭と松並木が真っすぐに続き、その先に社殿は見えません。迎春準備に大忙し、業者さんの車が目立ちます。松並木の続く参道は左に折れ、正面にニノ鳥居とその先に神門が見えてきます。鳥居前の由緒書き「近江一之宮御祭神 本殿 日本武尊、相殿 天明玉命、権殿 大己貴命由緒当社は近江國の一之宮と称えられ、景行天皇四十六年(316)四月神崎群建部御千草嶽に、日本武尊の御神灵と建部大神としてお祀りしたのが創りである。天武天皇白鳳四年(675)四月に近江国府のあった瀬田の地にお迁し、此の国の守護神として仰ぎ奉られる様になった。天平勝宝七年(755)には孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿に奉斎せられ現在に至っている。例大祭 四月十五日、船幸祭 八月十七日」大神神社は奈良県桜井市に鎮座する神社、近くまでは行くけれどなかなか参拝できていない。かみさんの一之宮巡りの来年の計画には入ってくるだろう。檜皮葺の神門に架けられた門幕、そこに描かれた神紋。自分には見慣れない神紋です。門の先の拝殿、その右に3本の杉が見えます、三本杉と云われる御神木。大己貴命が権殿に祀られた際に一夜にして成長したと伝わるこの杉が神紋になっています。檜皮葺の入母屋妻入り拝殿、趣があっていいものです。拝殿前の両脇、石を積んだ台座の上から狛犬が拝殿を守護しています。境内伽藍は本殿の左右に八座が、右に大野神社や稲荷神社が祀られています。拝殿右の絵馬殿。右側の灯篭は文永七年(1270)庚午と刻まれたもので、滋賀県内では最古と云われる石灯籠で重要文化財に指定されているもの。 拝殿の左右に八つの社があり、写真上の上座4社は左から、蔵人頭神社/七掬脛命(料理の神)、行事神社/日本武尊の家臣で吉備臣武彦と大伴連武日、大政所神社/播摩稲日太郎姫命(日本武尊の母)、聖宮神社/景行天皇(日本武尊の父)が祀られています。写真下の右の下座4社は手前から箭取神社/石占横立・田子之稲置・乳近之稲置、弓取神社/弟彦公、若宮神社/建部稲依別命(日本武尊の子)、藤宮神社/布多遅比売命(日本武尊の妃)が整然と並んでいます。社殿全景。本殿・相殿は流造で左が本殿で日本武尊、右が相殿で大己貴命をお祀りしています。透塀で囲われた本殿域には後方へ続く参道があります、そちらから本殿外周を一回りできます。本殿後方の神域にはさざれ石と菊花石が安置され、さざれ石(写真上)の前に立つとセンサーが働き君が代が流れてきます。菊化石(写真下)太古の菊の化石‣・・・・ではなくて、玄武岩の母岩に堆積岩が菊の花のように生成されたものです。まさに菊の化石のような紋様をしています、自然は不思議なものを作るものです。境内右側の小さな池の前に建つ大野神社の鳥居。古びた小さな狛犬が社を守っています。草野姫命を祀り、縁結びの神として親しまれているそうです。左の赤い鳥居は武富稲荷神社。武富稲荷神社全景。五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の神、稲倉魂命を祀る。ここの狛狐は右耳が欠け痛々しい。稲荷の左の鳥居は八柱神社。苔むした流造の小さな社に藤時平、融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豊玉彦命、櫛名多姫命の七柱が祀られています。ここを守護する狛犬も個性的です。桧山神社遥拝所(桧山神社旧本殿)。大野神社右手の子山の上に鎮座する。境内御旅山に鎮座し伊邪那美命、大山祇命、息長足姫命、武内宿祢大臣、住吉大神を祀り、元熊野神社山神社、鞭指神社の祭神を合祀し桧山神社と改称されたもの。1995年(平成7)の本殿改築に伴い、江戸時代に建立された本殿を解体修理し、この地に移築し遥拝所としたもの。写真上 神宮遥拝所。かつての御神木、彌栄の松の根が置かれています。写真下 宝物殿。神宮遥拝所の左にあり、ここには日本武尊の妃と云われる寄木造の女神座像などが保管されています。宝物殿を守護するのは白い狛ライオン。建部大社を訪れると出逢う頼もしい面々。かわいい者もいれば、痛々しい者、凛々しい者など色々とお目にかかることができます。近江國一之宮建部大社創建 / 316年(景行天皇四十六)主祭神 / 日本武尊、大己貴命住所 / 滋賀県大津市神領1-16-1アクセス / JR琵琶湖線「大石」駅から徒歩で25分さて初日2社目に向かうため再び瀬田唐橋を渡りJR石山駅に戻ります、ここから新大阪に向かいエキマルシェで遅めの昼ご飯の様です。新大阪エキマルシェの松葉新大阪店についたのが13:30、串カツとビールで次に向かうエネルギーを補充します。始めて寄ったお店です、駅にある立ち食いの串カツ屋。次から次に揚げられた串カツが並べられ、そこから選んで食べるスタイル。何がどれなのか分んないので聞くのが一番。各カウンターにないものを頼むのが熱々を頂くポイントかも、多少冷めたものは二度揚げして提供してくれます。さあ次はどこにいくのかな?2019/12/26
2019.12.30
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名古屋市昭和区村雲町「清沢山浄元寺」御器所八幡宮から西に5分程の所にある曹洞宗のお寺。西垂れの傾斜地、入り組んだ道筋に鎮座します。高く積まれた石垣を持つ寺です。浄元寺西側から山門のある東にかけての眺め。石垣と白壁の高さが傾斜の度合いを物語っています。山門の全景左にモミジが植えられていますが、既にほぼ落葉し木のシルエットのみになっていました。瓦葺の山門1747年(延享4)の建立と云われるだけに趣のあるものです。「山門禁葷酒」大丈夫です、修行の妨げになる匂いを漂わせてはいません。参拝させて頂きます。なかなか重厚な山門から境内と本堂の眺め。石畳が敷かれ参道は左に伸び本堂へと続きます。右手が寺務所の様で、更に右手に庫裏へと続きます。手前に立派な枝振りの枝垂れ桜が植えられ、春はさぞかし美しい姿を見せてくれるでしょう。境内左の庭にはベンチが置かれ、静かな境内で自分の煩悩と向き合う時間も時には必要かもしれません。曹洞宗の寺院では座禅会を開かれる所が結構あり、背筋を正し無心で座る座禅はお勧めです。入母屋瓦葺の本堂この本堂は戦災で焼失してしまったようですが、再建され現在の姿となりました。本堂の山号額浄元寺はここから少し北東方向に八大龍王社がありますが、その北側にある龍興寺の末寺で、創建は文禄年間(1592~1596年)と云われています。軒先に正に角の様に突きだした隅角と風鐸。鬼飾りや棟飾りに浄の文字が入っており、青空を背景に浮き立っています。本堂から境内の眺め、境内はそれ程広くはありませんが、手入れされた庭が狭さを感じさせません。境内西側に安置された馬頭観音、年号は不明。浄元寺の伽藍の中ではこの山門が一番印象深い物です。時を重ねたものは視線を引き付けるものがあります。このもみじが赤ければ彩りもよかっただろうが、これも四季の移り変わりの一場面。令和元年もあと少しで暮れていきます。浄元寺山号 / 清沢山宗派 曹洞宗本尊 / 聖観世音菩薩住所 / 名古屋市昭和区村雲町14-17公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「荒畑」駅下車、南西へ徒歩15分程
2019.12.29
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名古屋市天白区天白町大字平針黒石「中山神社」かみさんの免許更新の送迎を兼ね、待ち時間の間に参拝してきました。東部丘陵地帯にある大根(おおね)池、その昔に灌漑用に作られた溜池で、この池を中心に周囲の里山の自然を残したまま整備されたのが天白公園。公園の南に大根町はこの池の名が由来と云われています。公園東部の道路からの眺め、周辺は閑静な住宅街が続き、道はなだらかに天白川方向に下っていきます。1938年頃(左)のこの地と近年の比較、北垂れの斜面は天白川方向に向かい、田畑と複数の溜池が見てとれます。地下鉄鶴舞線や国道302号線の整備に伴い、それらは埋め立てられ宅地化、静かな自然が残るベットタウンに変貌しています。中山神社へは公園内に複数の参道と公園東側の通りに面し社号標が建てられた参道があります。新しい社号標と案内板が設けられ、参道?は里山の森に伸びていきます。訪れた12月中旬の参道は落ち葉がつもり、茶色のカーペットの様。滑りやすいけれど足には優しい。落葉が盛んな森、枯葉を踏みしめる音に冬の訪れ感じます。登り始めて直ぐ尾根に、道は二手に分かれ神社は右に進みます。左に進むと大根池沿いの遊歩道へと続きます。尾根道を50㍍程進むと里山の頂きに枯葉が一面に積もった中山神社が見えて来ます。社号標から歩いてくると本殿後方に出る様です。玉垣で周囲を囲まれた社殿は全て新しいもののようですが、里山の頂きに東を向いて鎮座するこの光景は特別な空気感が漂います。正面全景 「原中山神社」とある。原?、現在は天白町大字平針黒石ですが、一帯はかつては原新田と呼ばれた地域、それらが分かれ今に至っています。神社の創建は不明ですが、その当時から既にここに祀られていたようです。鳥居から社殿の全景2013年に社号標含め整備されたばかりのようです。中山神社縁起「岐阜県恵那郡串原村、中山神社より分祀された社であり、祭神は広国押武金日命(二十七代安閑天皇)である。当神社の祭神は奈良県吉野郡金峯山より犬に乗って渡って来られたいう伝承があり、古くより山犬を神の使いとして崇め「おいぬ様」と称しこの形像を祀る信仰が行われ盗難・病難、災難除け、子宝を祈って霊験ありとされています。」串原村中山神社は539年(宣化天皇4)に金峯神社から勧請・創建と云われる古社で、中山神社はここから勧請されたという事です。現在の中山神社の社殿は2003年(平成15)に再建されたばかりで、創建を知る術はないようです。小振りな狛犬(山犬さま?)は彩色も鮮やか、目つきはどことなく愛嬌がある。神の使いとされる犬を感じさせるものは彼ら以外に見受けられませんでした。流造の小さな社ですが、飾り金具も施された立派なものですね。原の中山神社、参拝。良く見ると細かな所にも彫が施されています。社から鳥居方向の眺め。鳥居の左にも参道は続いているようなのでそちらにも歩いて見ます。参道から見上げる神社の眺め。階段の様に木々の根が露になっています。そこを下ると道は整備された歩道となり下に続いています。落ち葉の上を歩く時は気を抜くと滑る、よくあるパターンです。この歩道も落ち葉で一杯です、ここはモミジの落葉が多く見られます。下った先は公園北側の通りに続いていました。神社正面に続くこちらには社号標はなく、左側に案内板があるのみです。神社が鎮座する里山の西側にある冬枯れた大根池と天白公園。周囲はデイキャンプ場や遊具など整備され自然豊かな公園。大根池東沿いの遊歩道には、こうした神社への案内板と歩道が整備され訪れる人にその存在を告げています。小さな里山ですが、神社までの歩道を登ったり下りたりすると油が切れた関節には少しつらい。かみさんの免許更新待ちに訪れた中山神社ですが、あっという間に「お迎え宜しく」のメールが届きました。二社ほど廻ろうかと思っていたけれど、免許の更新案外早いものですね。里山の頂きで落ち葉に埋もれるように鎮座する中山神社を後にします。2019/12/18中山神社創建 / 不明祭神 / 広国押武金日命住所 / 名古屋市天白区天白町大字平針黒石公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「原」駅下車、南へ徒歩15分程
2019.12.28
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名古屋市昭和区御器所3丁目南北に伸びる御器所台地、ここから西側は精進川低地につながり、その先の熱田台地へ続きます。なので緩やかな下りが続きます。どんぐり広場南側の交差点から東の眺め。この先が台地のピークになるのかな、そこから東は山崎川に向け再び下っていきます。このあたりは明治頃には溜池が多く、すぐ西の龍興寺ヶ池を始め、広見池、天池、丸池など複数の農業用溜池があったところ、それらの池は大正から昭和の都市計画に伴い耕地から住宅地に変貌し、池は埋め立てられていきます。どんぐり広場のある御器所3丁目の旧町名は天池町、由来は天池で、天池どんぐり広場の名もそこから付いています。どんぐり広場とは「地域の幼児の健全育成を図る目的と児童福祉の立場から、30㎡以上で無償提供される土地があり、交通事故のリスクがなく、地域の方々の管理・運営ができる場所に対し設置される子供の遊び場」。免税対策の一環としてこうした用途に使われる場合があります。東西に長い広場の北隅に、鉄製の櫓が高く組まれ、その上に社が祀られています。正面を除き、透明な樹脂パネルで社は囲われ風雨?から守られています。こうした光景は社の大・小にかかわらず時折見受けられます。覆屋の薄暗い中で祀られている事を思えば、これはこれで有りだと思います。黄色の柵で囲われた、どんぐり広場東方から西方向の眺め。地域の方により管理された広場です、間口右の社も同様に町内でお世話されているものと思います。賽銭箱は見当たりませんでした、公共の場と言う事で設置できなかったのかナ。それにしてもここまで高くしなくとも。いえいえ、元は近隣民家の軒下に祀られていた屋根神様、以前と比べればこれでも低いのかもしれません。軒下で祀られていた社ですが、民家の火災により降ろされたようです。それを機にどんぐり広場に祀られたもののようです。天池どんぐり広場がいつ設置されたのか、それは分かりませんでした。昭和に入ってからなのは間違いないでしょう。こんな高い場所にありながら、お供えされている榊は生き生きしています。専用の梯子でお世話するしかないようです、そうした事も屋根神様に通じるものがあります。祭神は読者の方から教えを頂き「尾陽神社」「伊勢神宮」「御器所八幡宮」がお祀りされています。いつ頃この辺りに祀られたのかも分かりませんが、神明造りで千木・鰹木、金色に輝く飾り金具も施され小さいけれど立派な社。今年も残りわずか。色合いが減っていく中にあって広場には赤い椿の花が彩を添えています。見通しの効く高い櫓の上で透明の覆屋から、広場で遊ぶ子らや町内を見守っています。どんぐり広場前の道筋から南にある社の眺め。こうして少し離れると、周囲の景観に溶け込んでしまい、存在は分かり難いかも知れません。天池「屋根神」アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「荒畑」駅下車、南へ徒歩5分程住所 / 名古屋市昭和区御器所3丁目602
2019.12.26
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日進市竹ノ山のTHREE LITTLE PIGSwest coastにある様な店舗外観はその昔の若い頃、自慢の愛車で集った、ダイニングバーでありカフェの趣です。しかしここは店名そのもの、豚。豚骨ベースのラーメンが売りのお店、所謂ラーメン屋のイメージとはかけ離れた洒落たお店。ペットokとある。テラス席のみペット同伴可の様です、動物が苦手な方にとっては躾の出来ていないペットと遭遇すると不愉快に感じるかもしれません。入口に飾られたツリーはとてもラーメン屋とは思えない。若かりし頃こうした店に夜な夜な屯った事はありませんか?店舗カウンターに案内されました。カウンターにもTHREE LITTLE PIGS店自体が女性を意識した造りなので店内のお客は女性が多く、年齢層は比較的若い印象を受けます。店内はBGMが流れ、照明も少し落とし落ち着いたバーの雰囲気。昔は若かったおっさんとおばさんがカウンターでラーメンを頂く、多少の違和感を感じる。酒が並ぶカウンターに餃子のたれ。ここのシステムは良くわかりませんが、ラーメンを頼むと水餃子とカリフォルニアロールorタコライスが付いてくる様です。このたれは水餃子のたれの様です。おやじは濃厚海老ラーメン+タコライス+水餃子のプレート、かみさんはゴルゴンゾーラチーズラーメン+カリフォルニアロール+水餃子をお願いしました。オーダーしてから後悔した、豚押しのお店で海老はないだろうと。間もなくプレートに乗ったラーメンとタコライス、水餃子のお出ましです。チャーラーの乗りですね。海老もいるねー。ちぢれ麵で喉越しが良く、豚骨ベースのスープに海老の風味が漂い、チャーシューはとろっとして美味しかったです。濃厚なのかというとそれ程でもないような。5点評価で2.8でどうだろうか。タコライスも水餃子もおいしく頂きました、結構ボリュームがあり満足できます。この二点は濃い味付けを好むおやじの評価で2.3点かな。店の雰囲気を加味して総合3点。かみさんオーダーのゴルゴンゾーラチーズラーメン+カリフォルニアロール+水餃子。見た目も女性を意識しているのできれいですね。お味の方はかみさん曰く、「チーズラーメン」のコメントでした。もっと濃厚なチーズのイメージが強かったようです。年代物のアメ車にボードを乗せて訪れたい、そんなオシャレで美味しいラーメン屋さんです。この雰囲気で酒が飲めないのは運転手としてはつらいところです。THREE LITTLE PIGS住所 / 愛知県日進市竹ノ山1-1706公共交通機関アクセス / 愛知高速交通東部丘陵線リニモ「杁ケ池公園」下車南へ徒歩約30分
2019.12.25
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イブ・・・・・何日か前から「イブはコストコに買い出しに行くから」かみさんは力が入っています朝7:00に家を出て「コストコ中部空港店」を目指す、通勤ラッシュ+師走で普段以上に混雑する市内を抜ける。市内を抜けてからは渋滞もなく至って順調、コストコへは8:45到着。凄い混雑を予想していたけれど、意外に空いていて、駐車場ガラガラ、既に開店前に待っていた客は店内に入った様で入口もガラガラ。覚悟して挑んだけれど正直拍子抜けです。店内に入るや、かみさんは一目散に「丸鳥」のコーナーに消えて行った、整理券待ちだと焼くのに1時間かかるそうナ。カートを押して人波を避けながら歩いていると、正面からニコニコ顔のかみさん、手には\699丸鶏。実に満足気な表情。確かにこれは安い、家で作れば、時間もかかるし、ダッチで作れば高熱代もビール代もばかにならない。店内のほぼすべてのカートの中には丸鶏が鎮座しています。その巨大さゆえにズ~~ッと買えなかったティラミスも遂に手を出した。若くはない二人にとって、明らかにこのパッケージは大きい。一度食べれば満足するのだろうが・・・・・当分これが続くのか定番のサーモンもカートに収まる、寿司、ワイン……普段のシビアな買い物ぶりはどこ吹く風、高いのか、安いのか良くわからんワイ。完全に財布のひもは切れてしまった。「これはレジャーよ」と云われればそうなのかも知れない。レジャーは1時間程、駐車場はそれでも1/3埋まった程度、平日のせいなのかね。おやじはL/\130のガソリンを満タン給油でニコニコ顔、さあ家に戻ってイブの準備だ、今夜は酒盛りだ❤。楽しいXmasイブを!
2019.12.24
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新町「金刀比羅神社」の西隣に立派な山門が印象的な寺「随心山浄土寺」は鎮座します。先に訪れた「龍詣山遍照院見海寺」はこちらの末寺にあたる。通りに沿う様に石垣が高く積まれ、庫裏が建っているので、道筋から山門以外の伽藍は良く見えません。東西に続く道筋から真っ直ぐに山門をくぐり境内に続く訳ではなく、山門が東を向いて立てられているので、参道は山門前から右に曲がります。すんなりと入れさせない?城の様な雰囲気が漂う。金刀比羅神社から見下ろす浄土寺が伽藍を見るには一番のビュースポットかも知れません。この立派な山門を持つ浄土寺の創建は定かではありません、末寺の見海寺が1660年の創建である事からそれ以前の創建と思われます。しかしながら、浄土寺は1946年(昭和21)に火災で山門を除き焼失してしまったようです。火災の難を逃れた山門が伽藍の中では一番古い物のようです。入母屋瓦葺の屋根、その大棟の両脇に乗せられた鯱瓦に目が行きます。鯱は火災の際には口から水を吹き出し火除けとされます。1946年の火災で山門が被害を免れたのも鯱のお陰かも知れません。山門は二層になっていて、上層を鐘楼としたこの造りはこの辺りでは珍しいもののようです。下げられるた梵鐘には、時の住職三誉(團仲)の知る限りの寺の歴史が銘文として刻まれているそうです。当然ながらいくら仰ぎ見ても見れる訳もなく。 山門の木鼻の装飾は獅子でしょうか、それ以外に各所に施された透かし彫など、なかなかのものです。隅棟の大きな鬼飾り、デザインは良くわかりませんが、早朝の空を背景にシルエットは像の鼻のようにも見えてきます。山門から境内の眺め浄土寺はこの地方の浄土系寺院の中でも古い起源をもつ浄土宗の寺院。江戸時代に田辺藩政に関わる有力な寺として位置付けられていたそうです。残念ながら火災により焼失し、現在の本堂は近代的な姿に生まれ変わっています。境内をひと回りしたいところですが時間も早いのでここまでとします。こちらの寺院も舞鶴百選の一つ、有志により語り継ぎたい地元のスポットとして解説板が設置されていました。「この地方の浄土系寺院の中でも古い起源を持つ浄土宗の寺院。江戸時代に田辺藩政に関わる有力な寺として位置づけられていた。昭和21年の火災で、山門だけを残し本堂等は焼失したが、今に残る山門(鐘楼門)は二層の楼門につくり、上層を鐘楼としておりこの地方ではめずらしいもので、鐘楼に下げられている鐘には、時の住職三誉(團仲)上人が、記憶にある限りの寺の歴史を鐘銘にとどめている。城下町倶楽部」焼けてしまい趣がなくなったとは言え、歴史が無くなる訳でもなく、この山門を守る鯱と語り継ぎたい歴史的建造物がある事は素晴らしい事です。我が町にこれ程の情熱を持って語り継ぎたいものは・・・・・そろそろかみさんも目覚める時間です、車に戻る事にします。「随心山浄土寺」山号 / 随心山宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀観音地蔵住所 / 京都府舞鶴市字新103
2019.12.24
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京都府舞鶴西「新町金刀比羅神社」玉岡稲荷神社/龍詣山見海寺から東に向かって街道筋を2~3分程歩いて行きます。この道筋にあたる新町、西町はその昔は旅籠町とも呼ばれていたそうで、旅籠やが軒を連ねていたと云います。今は旅籠屋から民家に変わっていますが、道筋には当時の雰囲気が漂っています。南には愛宕山が迫り、妙に狭くて入り組んだ道筋は東の田辺城へと続きます。歩き始めて直ぐ、右手に「長久山 妙法寺」の寺号標とその先に赤い山門が見えてきます。ここは立ち寄りたいけれど先に進むことにします。この道筋には寺社が多く、時間の制約がある放浪者にとっては悩むところ。妙法寺を通り過ぎ、道筋の右側に浄土寺の寺号標とその先に赤い鳥居が見えて来ます。昨晩、晩御飯を求め彷徨い、通りすがりにこの前を通り、自由時間には行きたいと思っていた場所、目的地「新町金刀比羅神社」です。浄土寺と隣り合う様に鎮座しています。「新町金刀比羅神社」全景石の明神鳥居(1921年)、参道の正面に社、参道脇に二社が祀られ、鳥居前には金刀比羅神社と刻まれた石燈籠(1932年)が建てられています。道筋から見る境内、境内は二段になっています。道筋から鳥居をくぐると、左に手水舎、その先に赤い鳥居が二つ並ぶ社、右手に流造の社。参道の石段を登ると金刀比羅神社の社。鳥居をくぐり境内へ。左の赤い社、詳細は分かりませんが伏見稲荷から勧請したものでしょうかね。右の社は弁財天。日本三大弁財天(竹生島の都久夫須麻神社、宮島の厳島神社、江の島の江島神社)の江の島から勧請された様です。小さな社ですが木鼻には彫が施され、中には美しいふくよかな弁天像が祀られているようです。この金刀比羅神社は新町構いで、その始まりは江戸時代にまで遡ると云われています。讃岐国(現在の香川県)金刀比羅宮を本宮とする金刀比羅信仰は、江戸時代に非常に盛んになり、海運救助、商売の守護神として全国に勧請されました。嵐に翻弄され、あわや船が沈むその時、金刀比羅さんの御幣が降ってきて助けて頂けると信じられていたそうです。金刀比羅神社の玉垣の寄進者に吉原町の漁師達の名が多く刻まれ、厚く信仰されていた事が分かります。1896年(明治29)の山崩れで社殿が被災、1931年(昭和6)に再建されたのが今の社殿です。石段下から社殿を見上げると、山肌はすぐ後ろに迫っている事が良くわかります。金刀比羅神社扁額社殿から苔生した境内を振り返る、左右の赤い鳥居と石造りの鳥居、その前の道筋は旅籠屋が軒を連ねた街道筋。ここから眺める鳥居の笠木と島木が描く反りは美しいものがあると思います。社殿から西にはお隣の浄土寺山門が一望できます。 石燈籠(1932年)は再建後に建てられた様ですが、道筋に建つこの燈籠は古い街道の趣を感じさせてくれます。新町「金刀比羅神社」創建 / 不明(再建1931年)祭神 / 大物主神境内社 / 弁天社、稲荷社住所 / 京都府舞鶴市新町小字新町
2019.12.23
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名古屋市昭和区御器所3上は御器所東城跡に向かう、曲がりっぱなから御所屋敷跡(写真中央の杜)の通りを振り返る。右に向かって歩き出す、相変らず緩やかに上りつつ、東に傾斜しています。止みそうで止まない雨、傘を持って出れば良かった。右側に2段に積まれた古い石垣とその上に大きな神木が聳える一画。その枝は小さな境内を覆う様に伸びています、後方に見える御器所八幡宮の杜と遜色のない立派な神木です。ここは御器所東城跡と云われるようですが、こうした史跡には教育委員会の解説板がありそうなもんですが不思議にそれはない。周囲がこれほど変貌してしまうと城の遺構らしき痕跡は皆無、唯一雰囲気が残るのは公民館側から見た石垣だろうか。御器所東城の築城は服部将監、二重堀を巡らせた城だったと云われます。東があれば西もあり、御器所西城は佐久間家勝の築城で、尾陽神社の鎮座地がそれにあたり、神社北側には急峻な崖に積まれた石垣を見る事も出来ます。南側から見た境内全景。境内の前を東西に伸びる道路を左に進めば御器所八幡宮、更に西へ進むと尾陽神社も近い。角の取れた丸い石が積まれ雰囲気は御嶽神社の佇まい。いぼ神様の上り口の右側に、門番のように山岳信仰の修験道の開祖される役行者像があります。大きな神木が社の前で立ち塞がるかのように聳え、境内から三社の様子を窺う事は出来ません。境内から道路に出る事で、いぼ神様と右の板宮造りの津島神社を窺う事が出来ます。いぼ神様の社は石積みの台座、津島神社と秋葉神社の二社はブロックの台で作られ、社後方の道路から見ると擁壁の上にそそり立つように祀られています。御器所村当時からここに鎮座すると云われ、「いぼとり」に霊験あらたかと云われ、現在も「いぼとり」祈願のために訪れる参拝客もみえるそうです。毎年6月には御器所八幡神社の宮司さんによる例祭が行われるようです。御神木の左から板宮造りの秋葉神社と神明造りのいぼ神様、内研ぎの千木と5本の鰹木も飾られています。いぼ神様、秋葉神社、津島神社創建 / 祭神共に不明住所 / 名古屋市昭和区御器所3-32アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「荒畑」下車南へ、八大龍王、御所屋敷跡、経由で徒歩10分程
2019.12.21
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名古屋市昭和区御器所3丁目八大龍王社から徒歩で南に5分程歩きますグーグル先生曰くほぼ平坦と仰るが、龍神様の池があった場所です、平坦な訳がない。緩やかに下り、そして緩やかに上り御器所八幡宮方向に続きます。緩やかな登り、その先は写真の様な三差路となります。「止まれ」の標識の左に小さな社が視界に入るはずです。「御所屋敷趾」到着です。車で訪れると駐車場に困る場所かもしれません。境内と言っていいのか分かりませんが、歩道から板宮造りの社がとても良く見えます。三差路から御所屋敷趾の全景玉垣はなく、代わりにブロックが積まれ敷地を取り囲んでいます。屋敷跡の道路脇に名古屋市教育委員会の解説板。『秀吉の母、大政所は従一位まで叙せられていながら、その素性がはっきりしない。いつごろから御器所の人だと云われ始めた分からないが、天野信景の随筆「塩尻」には「尾州愛知郡御器所村の人也」とある。また、この後天保年間(1830~44)尾張藩がまとめた「尾張志」には「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」とある。秀吉の母が持萩中納言の娘との伝説と、中納言の屋敷があったとの伝説が結び付いたものと云われている』尾張史の記述については、これと符合する裏付けが定かではないようです。大政所(仲)1516年(永正13)~ - 1592年(天正20)屋敷趾には基礎の跡とか、それを語るような遺構はありません。それと知らなければ、ここはどなたが祀られた神社でしょうね、という趣です。天下人秀吉の母(仲)の在所だったとして、屋敷きにしてはこの区画はあまりにも小さく、当時の規模がどの程度のものなのか、知る術はありません。周囲は住宅街に生まれ変わり、この一画だけがポッンと残っている事が不思議なくらいです。入口左の「御所屋敷趾」石標(大正12年)。ここが残っていられたのは、奥に祀られた社のお陰もあるのかも。社の主は分かりません。恐らくですがこの御所屋敷趾に後から祀られたものでしょう。御所屋敷趾に祀られた社は良くわからなかったけれど、この御所屋敷趾は史跡として、社の神域としてこの住宅街に残って行くだろう。御所屋敷趾住所 / 名古屋市昭和区御器所3丁目32
2019.12.20
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名古屋市昭和区御器所3地下鉄鶴舞線「荒畑」駅から、龍興寺のある区画を目指します。龍興寺の前から南東角に向け歩いて行くと、高く積まれた石垣が伸びる。民家が立ち並ぶ静かな環境、八大龍王社はそうした家並みの中に鎮座します。石垣の上に僅かな境内を設け、南を向いて拝所があり、鳥居と拝所の覆屋の赤が閑静な街並みの中に浮き立っている。龍と云えば水がつきものですが、このロケーションで龍とは田畑を潤す雨乞いのため?この辺りは緩やかな南垂れ、八大龍王社の南側は明治の頃には大きな池があったようで、天池と呼ばれていたようです。このあたりに天池と名の残る通りや施設はこの龍興寺ヶ池の名残り。明治の頃の当地と現在を比較してみると、八大龍王社は龍興寺ヶ池の北の畔に位置し、池には古くから龍が住むと云われ、碑か祠の形態で祀られていたと思われます。やがて周辺の宅地化が進むにつれ、龍の住む池は姿を消していきます。1916年(大正5)年、龍の住処が無くなる事を危惧して建てられたのが八大龍王社。池の主はあらたな住処を得て住みなれた池の変貌を見てきた訳です。八大龍王社は石垣に付けられた石段を登り、参道は左の鳥居をくぐり、石垣と蝋燭台のある僅かな空間の拝所に続きます。境内はとても狭く、拝所や本殿を写真一枚に納める事が出来ない程。通りから見た八大龍王社全景。この一画だけは特別な空間です。蝋燭台の左には「白龍請」と刻まれた手水鉢があり、蝋燭台の先の本殿は奥行きの無い斜面の上に台座が作られ祀られています。なので拝所から本殿の全容を窺う事は出来ません。「唵嘛呢叭咪吽」の石標鳥居の右に建てられています。六字大明陀羅尼という仏教の呪文(陀羅尼)の一つで、サンスクリットの6つの字音からなる観世音菩薩の呪文。チベット語で六文字になる事から六字真言と呼ばれるようです。六字真言はマニ車にも刻まれていて、大きさの違いこそあれ、これを一回しすると経を一回唱えた事になる。マニ車は各地で見かけますが、日進市赤池の「龍淵寺」を訪れると回す事ができます。本殿は流造、平入りの様に見えます。本殿は擁壁を背に祀られ、その擁壁の上には住居が迫っています。かつての龍の住処は変貌し、新たな住処の高台から今もこの地を見守っています。龍を訪ねると雨に見舞われるのは気のせいでしょうかね。2019/12/17・・・・・雨 「八大龍王社」創建 / 1916年(大正5)祭神 / 八大龍王(難陀・跋難陀・娑迦羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)住所 / 名古屋市昭和区御器所3丁目1 アクセス / 地下鉄鶴舞線「荒畑」駅から南へ徒歩2~3分程
2019.12.19
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メインで使っていたコンパクトカメラの代替え機、到着しました。これでバッテリー切れの心配もないだろう。何よりフォーカススピードが遅くなり、マクロなんかカメラのご機嫌次第、ピントが合わない、合わせる気が無い。釣りの時にも使っていた事もあり、落とすは、ぶつけたりするは、自分が一番悪いのだけど、手軽に持ち歩き、思った時に撮る用途だと避けられないのかも知れない。バッテリーの劣化(700円程で入手可)が踏ん切りをつけるきっかけとなりました。清水の舞台から飛んでみた。(増税前に飛べば良かった)今回、代替機として決めたのはCANON PowerShot SX420 IS 早速箱を開けてみた、取説とストラップ、レンズカバー、バッテリーが梱包されていた。取説を読んで見る・・・・・文字が小さくて読む気にならないソフトケースは付属ではないので100均で何か考えよう。レンズが本体に収納されるタイプとは違い、側面は結構出っぱっている。写真だと大きく見えるけれど、気になるほどではありません。ズーム機能は前のモデルが光学40倍だったものが、この機種から光学42倍になったそうな。「プログレッシブファインズーム」を使えば84倍までズーム可能ともある。どれくらい寄れ、どのくらい画素数が落ちるのか試してみよっと。背面パネルファインダーが無いのはこれまで同様なので違和感なし、保護フイルムは必要だよね、100均で買ってこようせ。操作ボタンも似た様なもの、残念なのは内臓ストロボ、ボタンで起き上がるものと思い探して見るも何処にもない。なんと自分で持ち上げるようです、という事は戻しも発生する訳です。ストロボは使わないので支障はないか?大きさの比較左上がメインのコンパクト、小型ながら金属を多用、冬は触るととても冷たくなる。その分質感もあり、多少の衝撃は苦にしなかった。下が新しく買った代替機、出っ張ったレンズが無ければほぼ大きさは同じくらいか。見た目は間違いなく樹脂満載、本体のネジも含めてチープな感じです。持った感じは見た目の大きさに対し以外に軽い、ズームはブレやすそう。右は出番の少ないデジタル一眼、デカくて重いけれど構えた時の安定感はさすがです。上から見ると一眼に比べ圧倒的に小さい、ナンチャッテ一眼の雰囲気は漂っています。コートの内ポケットに入る大きささですね。実際に使って、比較をしてみたいけれど、フル充電後にしてみよう。昔、同様のO社のデジカメを持ったことがある。当時は電池の時代、ズームを多用すると消耗が早く、懐にやさしくなかった印象がある。新しいカメラもズームを多用すればバッテリーの消耗は早いでしょう、でも充電すればOKです。小遣いの消耗はない。開梱し、触ってみての感想、毎月の小遣い(ほぼ変化なし・・・・・)の枠内で買えたので満足。使った印象はここに書き足して行こう。
2019.12.16
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京都府舞鶴市西 玉岡稲荷神社舞鶴西港ふ頭に近く、道の駅「舞鶴港とれとれセンター」から国道175号線を西町交差点右に入る。古い街道道だろうか? 細くて曲がり角の多い道が続く、見樹寺を右に見ながら早朝の町を歩く。この辺り一帯は愛宕山の北側に位置し、愛宕山は古くから信仰の山として崇められているようで、一帯の山裾には細い道沿いに複数の寺や神社が纏められています。玉岡稲荷神社はそんな道筋にあり、曲がり角の突当りに鎮座していました。左に浄土宗のお寺「見海寺」と玉岡稲荷神社が並ぶように鎮座しています。鳥居左手に社号標、階段の先に赤い明神鳥居が建っています。玉岡稲荷神社扁額神社の規模の割には鳥居も額も立派なものです。境内に入り目を引くのは、左の手水鉢とその先にある石灯籠、キノコの様に見えなくもない。自然石そのままを傘にした様な燈籠、苔むして味のあるものです。神社の創建に繋がる様な奉納年号が彫られていないか見ておくべきでした。石灯籠の左の見海寺の石垣に小さな祠。中には像容も分からない複数の地蔵が安置されていて、中には大きく欠損したものもあります。境内に戻り稲荷鳥居に向かいます、狛狐と右手奥に本殿が見えています。耳が立派な狛狐、結構痛みが目立ちますが風格が漂います。台座の年号は明治20年(1887年)と彫られているようです。鳥居の左に赤い小さな社が祀られていましたが、詳細は不明です。本殿前に先程のキノコの親ともいえる石灯籠が一対、もう一方は右手の大きな木の陰に隠れ気付きにくい。燈籠も春日、織部、平等院など種類が多く全く分からないけれど、個人的にこの手の燈籠が好きなだけに名前くらいは調べないと。本殿高く盛られた神域に朱塗りの玉垣で囲まれ、東を向いて本殿が祀られています。伏見稲荷大社から勧請された由緒ある神社の様ですが、詳細は分からないままです。大きな鈴が二つ吊るされた本殿、早朝で静まり返った境内に鳴り渡る。愛宕山の裾野に建つ玉岡稲荷神社は朱色の鮮やかさとキノコが印象に残る神社でした。玉岡稲荷神社創建・祭神 / 不明住所 / 京都府舞鶴市西79 隣の見海寺に向かいます玉岡稲荷から見る山門と石垣が描く曲線が印象的です。早朝なのでシルエットになってしまいましたが、漸く空も明るくなりました。浄土宗 龍詣山 遍照院 見海寺玉岡稲荷神社左の石段の先が見海寺への参道山門全景瓦葺の山門には三つ葉葵の門幕。この門はここから東にあった田辺城から移築したものと云われます。田辺城は細川藤孝により1582~91年(天正10年代)に伊佐津川と高野川の間に作られた城。城を中心にして見海寺のある西町は、高野川の西に当り、城の守りの要でもあった様です。入り組んだ細い道筋に多くの寺が集められたのもそうした理由からかも知れません。山門をくぐると目の前に両脇に火灯窓のある本堂。1660年に源誉和尚により開山され、すぐ東にある浄土寺の末寺。舞鶴湾を見渡す絶好の場所だったようですが、現在は近隣に住宅が密集する事もあり眺望はききません。境内左に地蔵堂と手水舎があり、清水は常に注がれています。11月ともなると清水の冷たさは正に清めてる実感が伝わってきます。境内左手奥の建物は恵比寿神社。棟札から1692年(元禄5)に建立されているようで、浄土宗のお寺に恵比寿社が祀られるのは珍しいと云われます。恵比寿神社なので事代主神が祭神、恵比寿様として親しまれる鯛釣り名人です。境内の「舞鶴百選」の石標と解説板、舞鶴百選全く知りませんでしたが、古くから栄えた港町なので意外な事と出逢えるかも知れない。設置された城下町倶楽部とは西町を中心として情報発信を行い、地元の活性化につなげる趣旨で発足された有志による会の様で百選の内34までが纏まっています。限られた予算の中での活動、webに現在休止中とあります。本堂西から境内の眺め恵比寿神社右側が庫裏の様です。2019/11/16龍詣山見海寺宗派 / 浄土宗開基 / 源誉和尚により1660年に開山本尊 / 不明住所 / 京都府舞鶴市西71
2019.12.15
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京都府宮津市字大垣「元伊勢大神宮籠之宮」成相寺を訪れ展望台から天橋立を眺めます。天橋立を境に左が宮津湾、右が阿蘇海、目指す「元伊勢大神宮籠之(この)宮」は天橋立の付け根に当たる府中へと向かいます。成相寺から国道178号線で15分程走り、県道607号線天橋立の付け根にある無料駐車場に車を止め、阿蘇海沿いを元伊勢大神宮籠之宮へ向います。府中から傘松を結ぶ天橋立ケーブルカーが目標になるのかな。国道178号線に出ると籠神社一の鳥居が視界に入ります。鳥居横の駐車場は多くの観光バスが来ている事を想定していましたが以外に少ない。マンホールにも天橋立が描かれている。ニノ鳥居ここ籠神社は丹後国一宮に列し、同国の総社を兼ね、古くは吉佐宮(よさのみや)とも呼ばれた様です。参道脇の由緒書き伊勢神宮外宮に祀られる天照大神、豊受大神。言い伝えによれば籠神社奥宮の「眞名井神社」に天照大神、豊受大神は4年間祀られたそうです。天照大神も豊受大神もやがてこの地を離れ安住の地、伊勢に祀られていきます。「元伊勢」とはそうした縁から付けられています。後に主祭神に彦火明命を祀り、社名を籠宮に改めた様です。かみさんの一之宮参拝、御朱印ツアーも丹後國までやってきました。境内左の手水舎、手水鉢神門前を守護する狛犬鎌倉時代の作で重要文化財に指定されている。狛犬には言い伝えが残り「その昔、作者の魂が籠もり、天橋立に暴れ出て通行人を驚かせていた。そこで仇討ちのために訪れていた岩見重太郎が一夜待ち伏せ、狛犬の脚に一太刀浴びせたという、それ以来社頭に還り魔除けの狛犬として霊験あらたかになった」というもの。右の阿形の狛犬の右前脚の中ほどにはその時の傷?が今も残っています。見た目に凝灰岩?の様な白っぽい石が使われているようで、素材は柔らかそうに見えます。なので刀傷がついてもおかしくはないのかも。神門全景神門前から窺える拝殿は海外からの参拝客で溢れています。神門から見る拝殿全景主祭神 彦火明命相殿 豊受大神、天照大神、海神、天水分神境内は撮影禁止・・・・・拝殿前では海外からの参拝客はポーズに余念がない。本殿は神明造りで伊勢神宮に通じるもの、10本の鰹木と、内研ぎの千木が印象に残る。周囲を隙塀で囲われた本殿の高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、伊勢神宮正殿と元伊勢籠神社以外には施されないものと云われ、神社建築史上貴重なものとされる。両大神が伊勢にお遷りの後、719年(養老3)に本宮は奥宮眞名井神社(吉佐宮)の地から、今の籠神社に遷座、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、主祭神に天孫彦火明命をお祀りしました。現在の郡名(与謝郡)や海の名称(与謝の海)は旧社名の匏宮の「匏(よさ)と吉佐宮の「吉佐(よさ)」からきているとの事。拝殿左には四社が並びます。西参道の鳥居脇から見ると一番左に稲荷鳥居が連なる眞名井稲荷神社。その右に猿田彦神社、春日大明神社双方ともに神明造の妻入りの社で、千木は外砥ぎで鰹木は3本。一番拝殿に近いところの天照大神和魂社は神明造で平入の社で千木は内研ぎで鰹木は6本。ここから本殿の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉が良く見えるはずです。その他に本殿右の境内の東外れに流造の恵比寿社があります。境内西にあたる脇参道の鳥居から拝殿方向の眺め、四社が横一列に拝殿方向に並んでいます。彦火明命が丹後の地に降臨され、眞名井原(吉佐宮)に元初の神、豊受大神をお祀りし、この地に湧き出る真名井の水を御神水として供えられた。水神の龍は眞名井の神の使いとされ、奥宮の眞名井神社にも狛龍?が守護しています。ここを守護するのは、狛犬や狛狐ではなく龍と言う事のようです。このまま西参道に出る事にします。西参道の鳥居を守護する狛犬前屈みの姿勢で構える姿は神門前の狛犬よりも精悍な印象を受けます。吽形の先に亀に乗った倭宿禰命の銅像があります。鳥居を出て天橋立ケーブルカーの府中駅方向へ食事に向かいます。参道の常夜灯、脇に古そうな社号標。ケーブルカーが到着する度に参道は人で溢れかえります。この通りで食事を済ませ、籠神社に再び戻り東参道から境内を後にして奥宮眞名井神社に向かいます。境内東には眞名井神社への案内板が整備されています。籠神社から東方向にしばらく歩くと石鳥居と「外宮大元宮吉佐宮」の社号標が見えてきます。ここから緩やかに上る参道を5分程歩きます。ほどなく眞名井神社到着です。神社入口左の小さな祠には一体の地蔵が安置されています。「眞名井原 波せき地蔵堂」1300年程前の大宝年間、大地震による大津波がこの地に押し寄せたそうです。押し寄せた津波はこの地蔵で切り返したと伝えられ、それ以降は天災地変から守り、子育て病気よけご利益があるとしてこの地に守り継がれてきたものです。大宝地震の事だと思いますが、個人的に日本海側で津波の印象は薄く原発も多い地域。この巨大な津波も想定されているとは思いますが、地蔵はその事を後世に伝えています。「最近ちょっと忘れてない?」いつまでも繋いでいくべきものだと思います。波せき地蔵堂の先にある手水「天の眞名井の水」、それをを汲んでいけるように作られたものなのかな、随分と新しい「眞名井水神社」。そして籠神社で見た狛龍はこちらにも。鳥居の前の龍像は潮満珠と潮乾珠と呼ばれる珠を持ち、この珠は潮の満ち引きを操る事が出来るパワーを持つと云われます。海幸彦、山幸彦の神話で山彦が龍宮で海神から授かったものとも伝わる。是非とも珠に触れてください。籠神社の奥宮、眞内井神社は久志濱宮とも呼ばれます。本殿の後方に主座と西座の二つの磐座があり、太古より崇められてきました。主座の祭神は豊受大神相殿神が罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神西座の祭神は主神が天照大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神籠神社の人の多さは眞内井神社にはありません。籠神社から多少離れている事、時間の制約あるバスツアーである事等から歩いて訪れるには向かないのでしょう。鳥居から本殿に向い参道を登ります、杜に包まれ静まり返った空間が特別な場所である事はいやが上にも伝わってきます。鳥居の下から精一杯のスームで本殿をとらえる。ここから先の撮影は遠慮します。そこには古くから崇められてきた神聖な空間が広がります。右手に授与所がありますが、境内含めて無人でした、とはいえしっかりと監視カメラでモニタリングされています。「丹後國一宮 元伊勢大神宮籠之宮」 住所 / 京都府宮津市字大垣430「真名井神社」 住所 / 京都府宮津市字中野
2019.12.14
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岐阜県多治見市虎渓山町「永保寺」「永保寺」へはJR中央線の北側の駐車場から歩いて向かいます。駐車場脇に永保寺伽藍の案内板もあり迷う事はないと思います。JR中央線の踏切を越えると分かれ道、燈籠のある右側の参道を進みます。後は5分程歩けば永保寺に至ります。参道沿いの寒桜が丁度見頃を迎えていました。参道左に臨済宗南禅寺派、虎渓山東雲峰続芳院永保寺の三つの塔頭寺院の一つ手入れされた庭園の先に入母屋瓦葺の本堂開基は1402年と云われ、本尊は聖観世音菩薩坐像。本堂左に五三桐の鬼瓦と虎渓西国三十三観音の第三十ニ番の千手観音石像が安置されています。虎渓西国三十三観音イラストマップ西国三十三番全てを周るには時間も費用もかかる重たい課題です。虎渓山一帯には全てが安置され、上手くすると一日で拝めます。その時にはとても役立つありがたいマップです。続芳院を過ぎ、徳林院を右手に眺めながら緩やかに下る参道を進みます。間もなく左手に永保寺の方丈と本堂、正面に観音堂が見えて来ます。臥竜池の先に観音堂庭園のもみじ、11月第一週のこの時期に紅葉を期待するのは早いようです。華蔵院(方丈)永保寺は1313年の開基、長い歴史の中に幾度も火災や地震により被災してきました。都度再建され、現在の本堂、方丈華藏庵と唐破風の大方玄関は2011年、庫裏は2007年に再建されたものです。華蔵院の手前の燈籠は陶製燈籠で東洋一と云われ、1906年に尾州赤津(現在の瀬戸市)の名工作助の手によるもの。天厨院から華蔵院山号の虎渓山の由来となった「虎渓」は、中国廬山の虎渓の風景に似ていることからきているようです。 1313年(正和2年)土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が長瀬山のこの地に庵居し開創されたものと云われます。大玄関の先に凛々しい虎・・・・・・・・・・と人気者の猫、境内を案内するかのように付いてきてくれました。瓦葺で入母屋袴腰付の鐘楼記録では1758年(宝暦8)に再建された様ですが、その後も補修の手が入っているようなのか、外観に酷い傷みは見られません。 臥竜池からの眺め、無際橋(手前)の先に観音堂(右)と左の小高い所に六角堂。紅葉がピークの頃には臥竜池に写り込み美しい表情を見せてくれると思います。水質が今一つなのが良くわからない。六角堂臥竜池の梵音岩の上に建ち、堂内には多くのお地蔵様が祀られているそうです。その数は千体を近く安置されているそうで、様々な願を掛けるために一体を借り受け、願が成就すると同じ地蔵を自分で彫り、二体にして返却したそうです、そのため千体近くにもなったようです。全てのお地蔵様は満願成就に関わられたお地蔵様ばかりだそうで、寺の案内には「願いを叶えるには、自らが願いを叶える努力をすること(精進)が大切です。苦難に立ち向かって生きようとする努力、精魂込めてひたすら進もうとする心構えを持つ」とある。頑張る人のみ願いを叶えてくれる、何もせず願いをかけても虫が良すぎるという事です。臥竜池に架かる反り橋の無際橋から観音堂へ観音堂(水月場)1314年(正和3)に夢窓国師により建立されたもので、堂内には木をくりぬき、岩窟に見立てた厨子がありその中に本尊の聖観世音菩薩座像が安置され、南北朝期から室町初期の歴代住持や檀那の位牌もここに納められているそうです。入母屋造り、檜皮葺の屋根は軒にかけての曲線は美しいものがあります、国宝に指定されています。観音堂から右の小島に小社が祀られています。ここからふたたび無際橋方向に向かい臥竜池沿いに開山堂へ向います。今回訪れた動機の一つが、真っ赤な紅葉に染まった庭園と建物が池に写り込む姿が脳裏に残っていたから。訪れた11月の一週目では苔生した緑の庭園と臥竜池に写り込む伽藍が主役となります。これで楓があかく染まると更に美しい世界が広がるのでしょう。街中よりは標高は高いとはいえ、紅葉の見頃は11月後半なのでしょう。日本百名橋にも選ばれる無際橋を側面から眺める。橋の手前の小島は亀島と呼ばれ、橋の上から島を眺めると、島は甲羅、周囲に組まれた石は頭や手足のように配置されています。手前にも鶴島と呼ばれ小島がありますが画角に入りませんでした。臥竜池西の三笑橋を渡り、右手の参道を進んだ先に開山堂が見えて来ます。右手に馬頭観音が祀られています。第二十九番開山堂(国宝)1352年(文和元)に足利尊氏により建てられたもので、正面からだと入母屋ですが、本堂の裏に祠堂があり相の間で一体となっていて、後の権現造りの原形と解説されています。ここには元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されていると云います。三笑橋に戻り、左に少し進んで見ました、虎渓西国三十三観音第二十八番、この先を進んで行くと全ての観音様を拝めるようです。先にはこうした堂もあり、山肌や参道脇に観音様が祀られているのでしょう。今回はここまでにして、来た道を戻り保寿院に向かいます。次回全てを回って見る事にします。登僊嶺保寿院永保寺方丈から六角堂に続く小路を登りきると赤い山門が見えて来ます。永保寺塔頭寺院のひとつで他に慈雲峰徳林院があります。永保寺第三世の果山正位禅師により1341年(暦応4)に創建されたもの。現在の本堂は1915年(大正4)に再建されたようで、山門も含めて新しい印象を受けます。本尊は釋迦牟尼佛、脇侍は文珠・普賢菩薩、両側に十六羅漢が祀られているようです。・・・・・ここでカメラのバッテリーがなくなります。慈雲峰徳林院や虎渓西国三十三観音の全貌は後日再訪し、ここに加筆する事にします。虎渓山 永保寺宗派 / 臨済宗南禅寺派山号 / 虎渓山開基 / 1313年本尊 / 聖観世音菩薩住所 / 岐阜県多治見市虎渓山町1-40
2019.12.12
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早朝散歩に行ってきました。朝陽に照らされた紅葉が印象に残ったのでいつものコンパクトを取り出す・・・・・?ウ~~~ン??、バッテリー切れだ。永年使ってきたコンパクトカメラ、ここんところの冷え込みで充電すれども直ぐに使えなくなっていただけに、遂に来るべき時が来た。そんな事もあって最近は携帯の内蔵カメラで撮ってきたけれど、もはやそれも限界の様です。結局一枚も撮れずで帰ってきました。現役を卒業してからも相当使い込んできただけに、買い替えの時期と納得するしかないようです。何も考えずにボタン押すだけでそこそこ撮れて、裏ポケットにも入るコンパクトさと軽さが病み付きになって重宝したけれど卒業させてやろうか。代替は何にしようかとズ~~~ット考えていたけれど、僅かな小遣いでは予算も限られる。メインに一眼はあるけれど、昔に比べ軽くなったとは言えやはり重い、デカイ、結局一眼は代打に廻ってしまった。今更ミラーレス一眼もないだろう、機材鞄を持ち歩き仰々しく撮るのは避けたい。結局使わないだろう。メインのコンパクトの代替機として今回決めたのはCANON PowerShot SX420 IS 懐にやさしく、そこそこかさばるけれど一眼をぶら下げる事を思えば妥協できる範囲。ズームやマクロがどれだけ効くのか分からないれどコンパクトよりは寄れそうな・・・・・いつまで考えていても仕方がないので買う事にしようと思う。コンセプトはイージー、安価、どこでも持って歩けること。これで行ってみようと思う。年末は何かと出費が増える、車のバッテリーもそろそろ外す時期になって来た。寒さと関節の油切れがそれを伝えている、冬はそこまで来ていています。
2019.12.10
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名古屋市北区如意、有難い名前の町名じゃないですか如意一丁目の交差点に以前記載した大井神社がありますが、その右側(東隣)に鎮座するのが「真言宗鶏足寺」です。現在のこの道は古くからの如意の幹線道路であった。時代と共に周辺の宅地開発により住宅が建つようになり、それに伴い新たな道が整備されていきます。それに対し古くからあるあるこの道は整備には至らず、かつての幹線道路も今は過去の趣きが残る古い道筋のまま。上は「尾張名所図会後編三」 大井神社より大井神社部分のみ切り取り・拡大したものです。鳥居右の杜の中に鶏足坊とあるのがここ「真言宗 鶏足寺」。山門の前の通りが現在も残る道そのものです。現在の「鶏足寺」はご覧のようなコンクリート造りの一見民家の様で学校の校舎の様にも見える外観。尾張名所図会に描かれた鶏足坊の山門も現在はなく描かれた当時の面影はありません。尾張徇行記にも鶏足寺の記述を見る事が出来ました。「此の寺草創は知れず、再建は元禄年中・・・・・なり、蜂須賀村蓮華寺に属せしが、寛永年中より味鋺護国院に属せり」と書かれている。その後は護国院の隠居所になったり、庵主さんが守る尼寺に変わったり、明治の一時期には寺子屋(義校)が開かれ、楠小学校の前身にもなったりと時代に翻弄された寺です。この鶏足坊が現在の鶏足寺に名称が変わったのは、意外に新しく1952年(昭和27)と云われ、寺の外観は恐らくこの際に建て替えられたものだと思います。境内左の伏見稲荷赤い鳥居と幟は大井神社の境内からも一際目を引きます。無従寺ではないと思いますが、人の気配が感じられない鶏足寺境内。参拝のためお邪魔させて頂きました。覆屋の下、新し目の台座の上に小さな社が祀られています。詳細は分かりませんでした。伏見稲荷の右隣りには複数の地蔵が纏められています。年号などは不明で、鶏足寺境内で唯一寺を実感するのがこの一画かも知れません。昔の坊の面影は残っていませんが、古くから如意の移り変わりを見てきた古刹の様です。鶏足寺宗派 / 真言宗開基・本尊 / 不明住所 / 名古屋市北区如意2-7
2019.12.09
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名古屋市守山区竜泉寺「龍泉寺弘法大師堂」から県道15号線を南に渡り、15分程山間に向かうとゴルフ場入口に出ます。そこから右手(西)の車道に向かうとゲートがあり、そこを先に進みます。この辺りは小幡緑地本園の北に位置し、丘陵地の尾根に相当します。ゲートを過ぎると直ぐ左手に広場があり、その北側に「御花弘法大師」が安置されています。コンクリートで作られた像は桃太郎神社などでも見かけますが、大きさは台座込みで10㍍くらいでしょうか、大きさもなかなかですがコンクリートとは思えないいい表情をしています。コンクリート像というと浅野祥雲が知られますが、同様にコンクリート像の御花弘法大師を作った花井探嶺は認知度が低い。探嶺は三重県出身の菰野町出身の彫塑家で明治から昭和にかけて複数の像を作っていて、中村観音を造ったのも探嶺で、この像は1932年(昭和7)に開眼供養が行われています。この像は尾張三大弘法の一つで「良福寺」、「退養寺」と御花弘法大師がそれになります。以前は大師像の左に朽ち果てた邪鬼が建っていましたが、崩壊の一途を辿り、修復の道を諦め撤去されたようです。現在は邪鬼の台座のみが残っています。当時の倒壊寸前の状況から見れば、今は随分とすっきりした印象を持ちます。そもそもは現在の名古屋鉄道の前進の一つで、大正から昭和初期、大曽根から瀬戸を結んでいた瀬戸電気鉄道の頃、現在の小幡駅から龍泉寺への鉄道敷設の計画が持ちあがったようです。 白沢公園から小幡緑地、江戸時代から続いた「御花弘法」の御花弘法八十八ヶ所霊場を含めた龍泉寺一帯を観光地化したかった様です。「御花弘法大師」の座像は観光の目玉となる目論見の元に建てられました。しかしその計画も頓挫、龍泉寺の管理から離れた弘法大師像も現在は荒廃が進んでしまいました。南の緑ヶ池を見下ろす様に座す大師像、右目の上は剥がれ落ち、このまま邪鬼同様に荒廃の道を辿るのかか・・・・・朽ちていくのを悟ったかのように、もの言う事もなく・・・・・弘法様の正面直下から見上げる、こうして見るとやはり大きい。それでも今もこの大師像を慕って訪れる方は絶えません、訪れた際も線香の煙と生花が供えられていました。周辺は綺麗に清掃され、像の内部も清掃の手が入っているようです。こうして大事に守ってくれる人もいれば、落書きをしていく者がいるのは残念。公園の中とはいえ、参拝目的以外にここまで訪れる人は少ないでしょう。昔も今も弘法像周辺には人馴れした狛猫が弘法様を守護しています。右の猫なんかは絶対飼い主がいたのでは?大師像の右側は既に大きな穴が開いてしまっています。現状でも周囲の看板に「近づかないように」と警告が貼られています。台座のレリーフはまだしっかりしています、これらも崩落しないうちに補修の手が入るといいのですが。どこぞの花見経費の一部でも融通すれば、この姿も維持できるのに・・・・・大師像右の小振りな像は大きな痛みは目に付きません。この一帯の森の中には細い道ができていて、道沿いにに多くの弘法像や石版が安置されています。愛くるしい表情の地蔵この森で拾われた実った栗だろうか?地蔵に供えられていました。森の小道に安置されている石像群や大師が描かれた石版大黒様なんかもあったりする、結構ワンダーランドでもあります。御花弘法大師から少し南にある、緑ヶ池、すっかり秋の装いです御花弘法大師住所 / 名古屋市守山区竜泉寺2丁目-1218
2019.12.08
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京都府宮津市の日本三景天橋立を見下ろす山の中腹に成相寺の伽藍が広がる。もともとは日本古来の山岳宗教の修験の場だった。古くから願いが叶う寺として知られているようです。境内で見かけた境内マップ自分達は第二駐車場に駐車、一旦山門まで下ります。西国三十三所の二十八番霊場として、古くから参拝者の絶えない山と云われます。歴史も古く、寺伝では704年(慶雲元年)に真応上人により開基と伝わります。1452年(宝徳4)に建立された、入母屋、瓦葺の赤い八脚の山門。彩色や木組みも美しいけれど、木鼻を始め、各所に施された彫飾りに目が行きます。両脇の仁王像退色していますが1984年(昭和59)解体修復されたそうで、その際に内部から貞享、文政の頃の修理銘文が発見されパネルで紹介されています。成相寺扁額木鼻に施された獏?こちらは獅子だろうか虹梁の上に施された手の込んだ透かし彫りと彩色、門を一回りすることになると思います。山門周辺の石仏、苔むした像は周囲に溶け込んでいます。シャクナゲの木々が目に付きます、春にはピンクの花が彩を添える事でしょう。ここから左手に細い参道が伸び、それを登っていくと五重塔に至ります。成相寺御神木「タモ」の古木樹齢300年以上と云われていて、さながら天に昇る龍の姿にも見え「竜神のタモ」とも呼ばれているようです。御神木の先に艶やかな五重塔が聳えています。優美な姿の五重塔、1998年(平成10)に鎌倉時代の様式のまま復元されたもの。見るからに新しい。訪れたのが11/15、本格的な紅葉には程遠いけれど、条件のいいところは赤く色付きを見せています。五重塔の建つ境内に弁天池?この池は弁天池とは呼ばれないようで、HPによれば蓮池と呼ばれ、別名「底なし池」と呼ぶそうです。なんでもこの池には大蛇が住んでいたそうで、この大蛇(龍)は寺の小僧を次々に飲み込んでいったそうで、見かねた和尚は藁人形に火薬を詰め退治した言い伝えがあるようです。小島には弁財天が祀られている。蓮池(底なし池)に移り込む紅葉。蓮池から参道を登ると石段の先に本堂、手前に鐘楼が見えてきます。鐘楼入母屋袴腰付きで素木を使った巧みな木組みの鐘楼、いつ頃建てられたものかわかりません。しかし、この鐘楼には物語があるようで「撞かずの鐘」と呼ばれます。撞かずの鐘の由来は慶長13年の銘が残る梵鐘にあるようです。言い伝えによれば、1609年(慶長14)、古い梵鐘を作り替える際に付近の村々から寄付を募ったそうで、府中の村で一軒だけ、寄付を断った家があった。実際に鋳造が始まると、二度続けて鋳造に失敗。三度目の鋳造に取り掛かかった時、寄付を断った家の女房が赤子を抱え見に来ていたが、抱えた赤子が溶けた銅の中に落ちてしまった。鐘は鋳上がり鐘楼に吊られたが、鐘を撞く度に悲しい音が鳴り響き、赤子の鳴き声に聞こえたという。寺ではついにこの鐘を撞くのをやめたと言う。このことから1609年(慶長14)には鐘楼は既に建っていた事になります。観音堂鐘楼の先の石段を上ると左側に建つ。右に「一願一言の地蔵さん」なんでも、唯一願いを一言でお願いすれば必ず叶えてくれるありがたい地蔵。約620年前に彫られたものとされます。堂内には西国三十三霊場の本尊が祀られています。山門ほどではないものの虹梁の上に透かし彫りが施されています。観音堂から最後の石段を上ると本堂のある境内へ。入母屋造りで千鳥破風、軒唐破風が施された本堂。成相寺の由来は『雪深い山の草庵に籠って修業中深雪の為、食糧もなくなり、餓死寸前となり、「食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。すると傷ついた鹿が倒れていました、肉食の禁戒に悩んだ末、鹿の腿をそいで煮て食べました。堂内を見ると本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居ました。真応は観音様が助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。 此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けられた』本堂右の二つの建物は右が十王堂、左に鳥居のある建物が熊野権現社賓頭盧尊者閻魔大王孔雀明王熊野権現社全景覆屋の中に社が祀られているので、社全体は見ることができません。鳥居の先で小さな狛犬が守護しています。熊野権現社1676年(延宝4)の上棟で、成相寺に現存する建築物としては最古のものだと云われます。元々の本堂は現在地より山の上に建てられていたが、山崩れにより現在地に移転。成合山パノラマ展望台に向かう途中に当時の建物の跡が今も残ります。現本堂は1774年(安永3)の建築、入母屋造りで正面に千鳥破風、軒唐破風が施されています。木鼻や海老虹梁、手挟に施された細かい彫り細工は見事なものです。外陣の「左甚五郎」作の真向の龍このモデルとされたのが蓮池(底なし池)に住む龍と言われ、このように正面を向いた龍は珍しいようです。内陣の御前立の奥の厨子には平安期のものと伝わる本尊の木造聖観世音菩薩が安置されている。本堂裏の紅葉を背景に吊灯籠がシルエットになり、なかなか綺麗な光景。本堂左の地蔵群鉄湯船手水鉢として使われていますが、もとは湯屋の湯船として使用していたらしい。直接ここに入る用途ではなく、沸かした湯を入れ、かかり湯をする目的に使われたそうです。時には薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療したとも云われる。ここにも真向の龍がこちらを睨んでいます。全ての参拝を済ませ、成合山の頂にある展望台へ。一旦駐車場に戻り、車で向かいます。途中古い伽藍跡などありますが、駐車余地が無いので車だとスルーとなります。展望台からの眺め宮津湾と天橋立が一望でき、ここからだとうねる龍の様に見えないようです。とはいえ絶景そのもの。展望台付近の開運土器盃投げ(3枚200円)、盃に願い事を書き、宮津湾に向いて立つ円形の枠に投げ込み通り抜けるとその願いは叶うそうです。これが結構難しい、夫婦一枚ずつ投げ各々失敗、二人の願いがこもった最後の一枚を託されると責任重大、風を読み投げた盃は見事通り抜けていきました。願いは叶うぞ。かみさんのリクエストで訪れたけれど、山門や本堂等見応えのある寺です。シャクナゲの時期に再訪したいものです。西国第28番「成相山 成相寺」創建 / 704年(慶雲元年)山号 / 成合山宗派 / 真言宗 本尊 / 身代わり観音、聖観世音菩薩 住所 / 京都府宮津市成相寺339
2019.12.07
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龍泉寺表参道弘法堂から龍泉寺方向に向け歩き出す。弘法堂を過ぎて左手の民家と民家の間に広葉樹の森に続く細い道が現れます。これが弘法堂で教えて頂いた道のようです。「御嶽神社」へは森の中に続く細い道を進むのですが、森の入口は造成が進み明るいけれど、入口から少し入ると広葉樹と竹が生い茂り、午後ともなると薄暗く進むのを躊躇したくなる。それもこの坂を上ると視界が開けるので心配は無用です。坂を上ると視界が開け境内が現れます。適度に木々が間引かれ、周囲の鬱蒼とした杜とは事なり多少解放感があります。まずは、境内の南から神社の全景左から、寂れた社務所?とその右に霊神碑、中央に切妻の拝殿?、一番右に小社が祀られています。周囲を見渡すと雑木林の中に複数の石像が祀られています。右は多分弘法大師かと思われますが、なすがままに朽ちた木が道を覆い正面に回り込めません、顔を拝みに行くことは諦めます。この周辺は江戸時代から「御花弘法」として霊場が存在し、御花弘法八十八ヶ所霊場として大正に入り整備されたようです。それも戦争以降に荒廃の道を辿ります。これらはその名残と捉えていいのかもしれません。境内の左に社務所らしき建物、使われている痕跡がなく寂れてしまっています。建物の前に二つの石碑左は庚申と読めますが、右は読み取れません。庚申講が伝わり、ここで講が行われていたのでしょう。境内の枯れた手水鉢、その先は霊神碑が立ち並んでいます。拝殿左側の霊神が立ち並ぶ一画霊神碑が並んでいるとお墓に来たようで訝るような気になるけれど、霊神碑はお墓ではなく御嶽信仰、御嶽を神格化し崇拝対象とした自然への畏敬の念から生まれた山岳宗教。その歴史も古く、覚明と普寛によって広められた修験の行場だった。因みに覚明生誕の地は春日井と云われます。「御嶽に生まれ、御嶽に戻る」、御嶽講の信者は他界すると御嶽に戻り、童子として迎えられると信じられています、霊神碑は他界した信者が御嶽に迷うことなく辿り着くための道標として建てられているもので、お墓ではなく訝るような事はありません。ここから南に降りたところにも松阪町の御嶽神社がありますがそれらも同様です。霊神碑のコロニーの頂きに小社が祀られています。そこまでの道のりは、さざれ石の様な石が置かれ、さながら御嶽登拝そのものです。祭神は御嶽大神と思われます。境内中央の瓦葺で切妻造りの吹き抜け拝殿?で良いのだろうか。正面に二つの社が祀られています。「拝殿」縣魚の装飾以外に彫り飾りは見られないけれど素朴で親近感が持てる。「神明社」拝殿の先の大振りの社、この地域の氏神様です「秋葉社」右の小社が火伏の神「津島神社」境内の右に祀られる小社全国に広がる天王社の本社で疫病の守り神とされる。天照大御神が祀られ素戔嗚尊、秋葉権現が祀られていればほぼ大抵の災いから守られる?境内東からの眺め右が津島社、秋葉社、神明社と並び、絵には入らなかったけれど左に御嶽社の四社が南向きに祀られています。鬱蒼とした印象の杜も北側は宅地化の流れが迫り、外光が入り込んでいます。上は明治の頃の龍泉寺と近年の周辺御嶽神社の鳥居のシンボルマークが現れるのは大正9年版からとなります。広葉樹の枝振りは見事、周囲の造成とは無縁の杜のままであって欲しい空間です。我家の近隣で良く見かけたクヌギやナラの実も今年は伐採が進み、今年は道すがらに見かける事はなくなりました。今年は不作と聞いていますが、ここに来て久し振りに目にしました。この時期を待ち焦がれる生き物もここにはいるのかも。「御嶽神社」創建 / 不明境内社 / 神明社、秋葉社、津島社住所 / 名古屋市守山区竜泉寺1丁目公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン「龍泉寺口」下車、徒歩5分程
2019.12.05
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あっという間に12月 令和元年、間もなく暮れようとしている今日は留守番、かみさんから出掛けにお使いを頼まれ、「歩いて行くか」と考えていたけれど、最近の冷 え込みで関節の油が切れ歩いて行くのが億劫遊べない軽に乗ってお使いに、師走に入ったら途端に工事が増え道路は渋滞、これも師走恒例の風物詩 恒例と云えば、この時期は北区の金虎に新酒を買い出しに行くのが我が家の恒例行事お使いとは酒の買い出しです問題児は不機嫌になる事も無く金虎駐車場に到着・・・・・その気になれば「遊べる軽」じゃん金虎酒造敷地の中の秋葉社傍らのもみじも色づいていますこの社、ずっと酒神を祀る社かと思っていたけれど、今日対応してくれたお姉さんに秋葉さんと初めて教えられました酒神様はどちら?と尋ねると案内して頂いたのが加工場の中ここに祀られていたのね 今年もおいしい酒に仕上がっているのか楽しみですお許しを得て中を見せて頂きました。搾りたてのボトルにラベルを貼り、製品化の真っ最中。一本〃手作業で丁寧に出荷検査をされています。・・・・・どこぞとは随分と違いを感じます平日に訪れる方は少ない様です 先ほどのお姉さんに我家の定番「にごり」と「初しぼり」を数本オーダー12月1日から蔵出しですか、かみさん忘れていなかったのね 毎年楽しみな酒粕と梅、ことしも頂けるの?と伺うと・・・・・「あるよ!」その場で気が付かなかったけれど、お姉さんサービスしてくれたようです、ありがとうございました 気分よく金虎を後に、真っ直ぐ帰るのもどうかな、折角だから久し振りに守山区の「尾花弘法大師」に寄って見る事に久しぶりに訪れた小幡緑地はすっかり秋の装い 相変らず人懐っこい猫達がどこからとなく現れ出迎えてくれます自分達も好き好んで今がある訳じゃないもんねエ 気のせいかな、自分とは龍泉寺でも会っているような?、今日は車だ、何も出ないぞ久し振りに訪れた弘法大師像は以前よりすっきりした印象 朽ち果てた邪鬼が建っていたはずたけど、再建を諦め撤去の道を選択したようです大師像には穴も開き、右目の上は剥がれています、このまま荒廃の道を辿るしかないのか・・・・・家に戻り、今年の初しぼりとにごり、頂いた梅と酒粕を一枚 かみさん、買って来たよ~・・・・・?まだ戻っていないようですさてと午前中の行動の結果はいかがなもんか・・・・・れ いくら車とは言え、これは何かの間違いだろう歩いて銭湯に行くか?
2019.12.04
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名古屋市北区如意2-1味美白山神社から国道302号線を西へ、県道161号線を北上、如意の交差点を左りに進み県道59号線を西方向の如意1丁目交差点を目指します、徒歩で約40分程です。如意1丁目交差点交差点角に見上げる様な杜が見えてくれば「大井神社」は近い。信号の角に玉垣で囲まれ、南向きに鳥居が建っています。交差点から眺めると境内は南北に長い。信号角に建つ神社案内板塩竈神社の分霊を祀り、安産にご利益があるとの事。塩竃神社?安産? 身近なのは天白区御幸山の塩竃神社、そこから分霊されたの?大井神社鳥居から境内参道は奥行があり、正面に蕃塀があるようです。境内は松、クロガネモチの巨木が森を形作っています。境内の伽藍は左に社務所、蕃塀の先に拝殿、右手に手水舎。鳥居の先で境内を守護する狛犬、陽光の加減で陰影が強調され、彫の深いいい表情をしています。手水舎は鳥居右奥に見える赤い鳥居は東に隣接する「真言宗 鶏足寺」の伏見稲荷。大井神社とつながりがあるのかも知れません。漱水で清めを済ませ拝殿に向かいます。控え柱のある白く輝く蕃塀、1928年(昭和3)に寄贈されたもので、正面には滝を上る鯉、上には龍が彫られた立派なものです。右手に西を向いて覆屋があり境内末社が纏められています。御祭神は罔象女命、速秋津彦命、速秋津姫命相殿神が鹽竈六所大明神御神徳は五穀豊穣、家内安全、安産守護、延命長寿など由緒『御祭神 社殿によれば、和銅・養老年間(700年代)に、現社殿の北西にあった大井の池のほとりに産土神として勧請せられ大井神社と称し祀る。中世、大水の難を避けて現在地へ鎮座される。延喜式神名帳(927年)に山田郡大井神社と記録される式内社。尾張国内神名帳に従三位大井天神と見え、神社に保存される社名額・棟札に六所大明神・大井塩竈神社とあり、古来より如意の氏神として崇敬され現在に至る。 塩竃六所大明神石黒大炊助藤原重行は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を貴船城に迎え、建武の中興に功績のあった越中国奈呉郡貴船城主石黒越中守藤原重之の子で、勤王の志を継ぎ度々兵を挙げたが、遂に越中国を去り 一時奥州へ移る。後亀山天皇の明徳四年(1393)に奥州千賀に鎮座される塩竈六所大明神の御分霊を奉斎し、尾張国春日部郡如意郷に来て潜居し大井神社に合祀する。以来氏神とともに崇敬され現在に至る。 社殿本殿は、重行の子石黒右馬頭藤原朝房が、嘉吉二年(1442)に再建する。その後、元禄十一年(1698)に氏子により再造立される。以来290年の風雪に耐え、近隣最古の建物として創建時の三間社流造の原形を伝えてきた。然るに近年老朽が甚だしく維持が困難になった。 昭和62年の式年に当り、氏子の総意により古来の建築様式を守り、本殿・渡り殿・幣殿を鉄筋コンクリート造、手水舎を木造で造営し、併せて境内整備を行い御神徳の高揚をはかる。今度の造営は、第三回造営、第二十九回遷座となる。なお二十年毎の式年遷座祭の斉行は、寛政二年(1790)以降である。』宮城の鹽竈神社より分霊された、天白区の塩竃さんの創建が1844~48年の弘化年間と云われるが、こちらの大井神社は更に古い事になる。境内左の絵馬掛けに乙女心をくすぐるような可愛い熊の絵馬が無数に掛けられています。境内で見かけた旧手水鉢、これが一番古そうで、年号は彫られているようですが識別不能。境内末社左から合殿 : 神明社 / 天照大御神、御嶽社 / 国常立神、山神社 / 大山祇命合殿:八幡社 / 大鷦鷯尊、津島社 / 須佐之男命、 合殿:富士社 / 木花開耶姫命、天神社 / 少彦名命、菅原道真 合殿:白山社 / 菊理姫命、厳島社 / 市岐島姫命直来社 / 大直日神、神直日神拝殿切妻造りの瓦葺で妻入りで更に向拝が付く。この位置から見ると拝殿、幣殿、本殿まで渡廊で繋がって一体になっているようです。祭神 / 罔象女命、速秋津彦命、速秋津姫命相殿神 / 塩竃六所大明神拝殿右に一体の狛犬彫の妙義というよりはデザインに拘ったようで、これもまた乙女心を引き付けるのだろう。安産を祈願し撫でられた表面は艶々。首に付けられた注連縄が首輪の様にも見え、こちらを見つめる丸い目は・・・・・かわいい東側から見た拝殿と渡廊、吊り灯籠のシルエットが浮かび上がる。渡廊から幣殿、本殿、ここからは近年建て替えられているようでコンクリート造り。幣殿は切妻の平入り、狛犬が一対拝殿前で守護していますが、どうも撮り忘れたようです。本殿流造で外砥ぎの千木と鰹木が施されています。社殿全体の見通しが効きません。上は「尾張名所図会後編三」 大井神社より尾張名所図会は1838年(天保9)から3年を費やし纏められ、後編が1880年(明治13)に纏まったと云われています。これは後編なので明治の頃の大井神社を書き留めたものと思います。写真左下の鳥居が大井神社で、鳥居右の杜の中に鶏足坊とあるのが現在の「真言宗 鶏足寺」。周囲は一面田畑、そこに浮島のように寺社の杜があり、右上に「瑞応寺」が描かれています。本殿後方の杜は当時の名残りを感じさせます。『 大井神社 如意村のうち、大井という地に鎮座。 今六所明神と称す。 延喜神名式に山田郡大井神社、本国帳に従三位大井天神とある官社。 塩尻に山田庄如意村六所明神は式内大井神社なり。 六躯の神形をきすみ、男体三躯、女体三躯、社説は筒男之神、海童之神三所なり。 然れば住吉・和魂・荒魂なるにや。 社の西に若宮と称する社あり。 是には神形二躯、男体・女体を安置。是神功皇后・応神天皇なりといへり。 住吉の神によせあれば、さも侍るにや。 両社の間には昔観音堂あり。 聖観音・如意輪を安置せしが、如意輪は盗人にとられ侍る。 聖観音は堂破れし後、鷄足坊に移し安置。 如意輪の像は今愛知郡尾頭沢妙安寺に安置する像なりとかや。 思うに是は社の本地仏にて、六観音なども有りけん。 昔此村は神戸と称し、和名抄に山田郡神戸とあるはここなり。 然るに大井神社の本地仏に如意輪堂ありし、この村名を如意と呼び初めし。』お隣の鶏足寺や瑞応寺、少し離れるけれど妙安寺も行かないといけないようです。参拝も終え、鶏足寺の稲荷によって帰りますかね2019/11/08「大井神社」創建 / 不明祭神 / 罔象女命、速秋津彦命、速秋津姫命相殿神 / 塩竃六所大明神住所 / 名古屋市北区如意2-1アクセス / 味美白山神社からゆっくり歩いて40分程公共交通機関 / 名鉄小牧線「味美」下車西にゆっくり歩いて40分
2019.12.03
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京都府亀岡市の北東部に鎮座する出雲大神宮。大国主命と后神の三穂津姫命を祀り、この二柱を合わせ出雲大神、日本書紀では出雲大神宮、出雲神社などとも称される。ここを訪れたのは11月15日、本格的な紅葉には少し早かった。それでも陽当たりのいい南側は、赤く色付いたもみじが目を楽しませてくれます。駐車場から出雲大神宮が鎮座する御神体山の御蔭山方向の眺め。周囲には稲の収穫を終え、喉かな田園地帯の風景が広がっています。神社表参道の東隣に「神饌田」の案内板いつもの様に「チョッと行って来るわ」と単独行動。神にお供えする米を育てるための田ですね、周囲を注連縄で囲われた神聖な場所です。参道入口のモミジ枯れかけているのか、紅葉しているのかはっきりしないが、陽当たりのいい所では随分と色付いている。出雲大神宮一ノ鳥居から参道の眺め。参道脇のもみじの赤とイチョウの黄、それとなくですが色付きを見せ四季の移り変わりを醸し出しています。一ノ鳥居扁額参道脇のさざれ石(右)と「丹波國一之宮出雲大神宮」と彫られた社名碑(左)が建つ。この揮毫は「出雲大社」の現宮司のもので、碑は2014年に建てられた様です。二ノ鳥居も間近に見えて来ます。左が社務所になる様です。二ノ鳥居扁額。出雲大神宮由緒書き丹波國一之宮で正式呼称を出雲大神宮千年宮出雲神社と呼称する様です。社殿は709年(和銅2)に造営され、現在の社殿は鎌倉初期の建立。祭神は大国主命と后神の三穂津姫命をお祀りし、他に天津彦根命、天夷鳥命が祀られているという。元出雲とも呼ばれるそうで、やがて訪れる島根の「出雲大社」とは大国主命をどちらが勧請したのか諸説ある様です。参道右の「しあわせ なでうさぎ」大国主命に助けられた「因幡の白兎」で大国主命神の使いとされる白兎。びょん〃飛び跳ねるところから、運気アップや飛躍を象徴する動物とされ、この体を撫でる事で御利益が得られると伝えられています。このうさぎの石像は、自分の体の痛い患部と同じ箇所を撫でる事で病が治癒するパワーがあると云われているそうです。全身撫でまわしておきました、これは無しだろうか?参道左の「弁財天」鳥居をくぐり神池に迫り出す様に小社が祀られています。この新池辺りが日照も良く紅葉は進んでいます。境内右の手水舎と背景の赤い鳥居が夫婦岩、その奥の鳥居が大黒恵比寿舎。手水鉢(上)と勢いよく清水を注ぐ龍、働き者です。「夫婦岩」ここで手を合わせ、縁を結びたい方との縁を願うと叶うと云われる。「大黒恵比寿舎」社殿創建1305年の記念で建立されたようです。大国さまは本殿の大国主大神、恵比須さまは笑殿社で祀られる事代主大神、どちらもにこやかな笑みを浮かべています。この先も歳を重ねていき、目指す表情はこうありたいものてす。境内の眺め正面の入母屋造りの檜皮葺の拝殿は1878年(明治11)に造営されたもの。拝殿前の「狛犬」肉付きのいい体格で色褪せた風貌は貫禄を感じます。「舟岩」石自体が舟の形に似ているけれど、特に解説は掲示されていなかった。拝殿から中門、本殿の眺め「 中門」他の社殿同様に檜皮葺の切妻造のもの、シンプルで落ち着いた雰囲気があります。本殿は709年(和銅2)に造営され、現在の社殿は鎌倉初期の建立と云われている。祭神 / 大国主命、三穂津姫命拝所からは朱は見えますが、全貌は分かりません。拝殿右の鳥居鳥居から先の参道は緩やかな登りとなり杜の中へ消えてきます。「楽殿」鳥居をくぐった左にあり、入母屋の赤い屋根が特徴。楽殿から漸く本殿の一部を見る事が出来ます。参道は二手に分かれます、磐座のある左に進みます。分かれ道の杜の中に佇む「崇神天皇社」祭神 / 崇神天皇 社殿によると、出雲大神宮は崇神天皇により再興されたと伝わるそうです。崇神天皇は第10代天皇で、実在した可能性のある最初の天皇ではないかという説もある様です。本殿沿いに伸びる参道の先に新たな鳥居が見えて来ます。鳥居が多いナ参道左を進むと流造りの本殿が良く見てとれます。1906年(明治39)に重要文化財に指定されています。 本殿から中門、拝殿の眺めシックなイメージの伽藍の中にあって、鮮やかな朱が施された本殿は存在感を感じるものです。正面の赤い鳥居の先は「稲荷社」祭神 / 宇迦之御魂神 五穀豊穣・商売繁盛の神穀物の育成を司る神様でお稲荷さんとして馴染みがある。「御蔭の瀧」稲荷社左に流れ落ちる小さな瀧で、竜神乃神を祀る滝として古くから崇められているそうです。「春日社」御祭神 / 建御雷之男神、天兒屋命古来より祭祀を司ってきたのが藤原氏と云われ、その祖神と崇められた天兒屋命を祀り、建御雷之男神と共に春日大社から勧請されたようです。 「古墳」春日社左の御蔭山の斜面にあり、ここから先は一切の立ち入りが禁止。5~6世紀前の横穴式の前方後円墳らしく、西南にも千歳車塚古墳があり、この地方では最大の前方後円墳の様です、古くから御蔭山は神聖な山として崇拝対象となっていたようです。「磐座」古墳の左、本殿後方の杜に佇む、注連縄で囲われた苔むした巨岩。古代の祭祀跡、目に見えない神がここに座られている。ここに立ち、静かに目を瞑り神にお願いしながら手を向けることで、神から力を授かる事ができる。木々に覆われた静かな雰囲気の中、木漏れ陽を受け佇む磐座、この場所が特別な空間である事を肌に感じます。磐座内は古墳同様に神聖な場所、立ち入り禁止となっています。「上の社」稲荷社から右手に続く参道を登って行くと、左側に「上の社」本殿が現れます。祭神 / 素戔嗚尊、櫛稲田姫尊創建 / 1813年(文化10)、擬宝珠に刻まれています本殿檜皮葺の流造りで向拝が設けられ、先程見て来た出雲大神宮本殿の造りを意識していると云います。上の社から右手へ、参道は二手に分かれます。左は神の磐座、神体山の御蔭山へと続きますが、ここから先の神域は社務所で参拝の意図を伝え、たすきをお借りした上でなければ入山出来ません。それを知らなかった私達二人はここで登るのを諦め、ここから右に下った笑殿社方向から境内に戻ります。「笑殿(わらへど)社」祭神 / 事代主命、 少那毘古名命参道を下った左手、杜の中にポツンと建つ笑殿社、大黒恵比寿舎の恵比寿様が祀られています。「真名井の泉」参道を更に下っていくと境内が見えてきます。表参道の右手に滾々と地下水が湧き出る「真名井の泉」と呼ばれる霊水があります。御蔭山から古来より流れ続け、この水が田畑を潤し作物を実らせる。ミネラルバランスのいいこの水は、病にもいいと云われているようで、訪れた時も茶やcoffeeに使うために周辺の方が水を持ち帰る姿が見られます。毎日この水を飲んでいれば医者など不要なのかも知れません。境内参拝マップ「神の磐座」と新池北側にある「黒太夫社」は今回参拝を見送ります。新池の堤沿いに駐車場へ戻りましたが、神池は水位が低く弁財天は宙に浮いていました。水面に映る紅葉・・・・・とまでは行きませんが神池周辺は他に比べ色付きはいい様でした。御蔭山の紅葉は見た事が無いので分かりませんが、今頃は山全体が赤や黄に染まっているのでは?それが終われば丹波の國にもいよいよ冬が訪れる。2019/11/15「丹波國一之宮 出雲大神宮」住所 / 京都府亀岡市千歳町出雲無番地
2019.12.01
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