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奈良県橿原市 橿原神宮「親謁の儀」に訪れる天皇、皇后両陛下を一目見ようとかみさんとお祖母ちゃん二人が訪れた。おやじは会社、置き去りである。とは言え、lineで送られて来た写真からこれを書いている。初代天皇とされる神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇が即位した橿原宮があったと云われるこの地に、明治天皇により、1890年(明治23)に官幣大社として創建されたのが橿原神宮。なので伽藍自体は新しい。一ノ鳥居から参道の眺め、観光客は少ない。翌日(27日)に初代天皇とする神武天皇陵に天皇、皇后両陛下の参拝、即位の礼と大嘗祭が終わったことを報告する「親謁の儀」に向け境内は特別な雰囲気が漂う。警備も厳しくなり、ツアーは多分に避けた様に思われます。とは言え女二人、「今日は参拝してもいいんですかぁ?」とか言いながらササッと怪しいおやじ一人だときっと対応が違うのかも知れない?外拝殿そんなタイミングだからなのか送られた来た絵には人の写り込みのない物ばかり。普通は避けるこのタイミング、意外と有りなのか?外拝殿から内拝殿橿原神宮の北に接し、畝傍山の北東の麓にあたる神武天皇陵。初代天皇とされる神武天皇(在位/前660年~前585年)は、日向地方から瀬戸内海を東に進んで難波に上陸したとされます。その際、生駒の豪族に阻まれ、南下して熊野に進路を変えました、そこで3本足の「八咫烏」と出会い、カラスに導かれ、吉野の険しい山を越えて大和に入り、大和地方を平定しました。その後の紀元前660年に橿原宮で即位、初代の天皇になりました。27日に天皇、皇后両陛下が初代天皇の神武天皇に、即位に伴う一連の儀式が終わったことを報告する「親謁の儀」に訪れます。儀式前日、陵の前には幕が張られ、準備に余念がありません。神武天皇陵は周囲約100㍍、高さ5.5㍍の広い植え込みと、幅約16㍍の周濠をめぐらせた円丘。厳重に警備されているかと思っていたが、さほどではなさそう。こちらで参拝の後、橿原駅方向に到着される陛下を一目見ようと沿道に向かったようです。TVで見る祝賀パレードの様子など、すごい人垣を想像しますが、警官により沿道の列も2列程度に整えられ「陛下の姿もよく見る事が出来た」そうな。待ちの時間は誘導の警官が面白おかしく場をつないでくれたり、陛下が通られる際には後列に廻るなど気を使ってくれたそうです。かみさんから先導の車に貼られる謎の表示も聞いて良くわかった。Aが付いた車が通ると15分前、Bは10分前、3が3分前、1が1分前と見る物らしい。それ以外に0が付いた車両が存在します、「0」が通り過ぎるまではその場から動いてはいけない様です。それが終わると警官が国旗を回収してくれるようです。もちろん持ち帰りもOK。土産に持ち帰ってきてもらいました。以前からの素朴な疑問お迎えの時に振る手旗はどうやって手に入れる?日本国旗協会のボランティアが配布しているようで、稀に日本会議の配布もある様です。我が家から国旗がなくなって何十年、頂戴した手旗は祝日に掲げて見ようか?橿原神宮御朱印帳 simpleで好感が持てます。御朱印橿原神宮創建 / 1890年(明治23年)祭神 / 神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛命住所 / 奈良県橿原市久米町934アクセス / 近鉄名古屋・大阪線 名古屋⇒大和八木⇒樫原神宮前⇒徒歩10分(橿原神宮)
2019.11.29
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龍泉寺表参道弘法堂名古屋市東区の大曽根から春日井市の高蔵寺を結ぶ新交通システムゆとりーとライン専用高架上を定速走行でストレスなく走って来たバスもここ小幡緑地からは地上に戻り県道15号線、通称龍泉寺街道に合流します。龍泉寺表参道弘法堂へは「龍泉寺口」バス停で降りると便利。目の前の龍泉寺街道は、ほんの少し前の昭和初期には未舗装のくねくね道が尾根に続き、七曲りの坂とも云われた頃もありました。移動手段の移り変わりや車の性能向上もあり、現在は片側2車線に整備され、道路は直線的に尾根を越えていきます。弘法堂へはバス停で降り、尾張四観音「龍泉寺」に向かう参道左側になります。その前にバス停の先に寄り道。龍泉寺街道沿いを走ると車窓から見える四体の地蔵らしきものが見えます、「何だろう?」ずっと気になっていました。間近に見る石像は南を向いて祀られた、五鈷杵を持つ弘法大師像。台座には「八十三番」、「八十四番」と彫られています。疑問もスッキリしたところでバス停方向に戻り、弘法堂のある参道へ向かう事にします。龍泉寺街道の左に続く龍泉寺の参道。右側には大きく「尾張四観音 松洞山 龍泉寺」と彫られた石標があります。この参道を上っていきます。左に曲がって直ぐに「弘法堂」が現れます。右手に小さな覆屋もあります。弘法堂正面全景寄棟瓦葺で四方の壁は白と黒壁、さいころの様に四角い堂です。手水鉢は堂の右奥に置かれています。石の六角香炉は1924年(大正13)に奉納と刻まれています。堂内中央に黄金色の五鈷杵を持つ弘法大師像が安置。手前に前掛けが掛けられた石像があるけれど、それが何か写真からでは分かりません。堂の右の覆屋には三体の大師像この他に弘法堂の左にも複数の石像が安置されています。これがその石像群七体の石像があり、中央の蓮華台の上に安置された大きな像は「親子地蔵」とある。こちらを見つめる、子の眼差しが妙に印象に残ります。ここ龍泉寺一帯にはこうした石像群が多数安置されています。さながら日泰寺周辺に点在する八十八ケ所巡りを想像させるものです。弘法堂から、参道を少し上がった左にある御嶽神社周辺の鬱蒼とした山の中や、大きなサークルとしては竜泉寺の仁王門周辺や龍泉寺街道を南に渡った、小幡緑地公園本園の北側等に点在しています。この一帯は御花弘法八十八ヶ所霊場と呼ばれています。もともと弘法大師と龍泉寺は所縁があり、江戸時代から「御花弘法」として霊場が存在していた様です。1916年(大正5)に御花弘法八十八ヶ所として発願され、その後は発願者の家族や有志が志を受け継ぎ原形を整えた様です。それも戦争により各所に散在していた札所は荒廃の道を辿り、戦後、今の形に集約された様です。そもそもは現在の名古屋鉄道の前進の一つで、大正から昭和初期、大曽根から瀬戸を結んでいた瀬戸電気鉄道の頃、現在の小幡駅から龍泉寺への鉄道敷設の計画が持ちあがったようです。白沢公園から龍泉寺一帯を観光地化したかった様で、地元は当然盛り上がります。小幡緑地公園の北外れの高台には「尾張三大弘法」の一番、「御花弘法大師」の座像も立てらます。「御花弘法大師」の座像や霊場巡りはその目玉となる目論見だったようで、その頃は巡礼も盛んだった様です。結局その案は頓挫、やがて霊場巡りも流行らなくなり、弘法大師像も龍泉寺の管理から離れ、現在は荒廃が進んでいます。とは言え、ここ龍泉寺参道の「弘法堂」を訪れた当日、幟の片付け、境内の手入れをされる信徒の方も見え、今も守られているようです。この弘法堂がいつからあるのか、家で追っかけて見ましたがわかりませんでした。当日出逢った方とは挨拶を交わし、道を尋ねただけでそのあたりを伺わなかったことを今は後悔。推測ですが香炉の奉納年と発願された時期が近い事から大正初期ではないかと思われます。龍泉寺表参道弘法堂住所 / 名古屋市守山区竜泉寺1-826アクセス / ゆとりーとライン「龍泉寺口」下車、徒歩2~3分程駐車場 / 龍泉寺に参拝者駐車場があります2019/11/21龍泉寺境内の紅葉はまだまだでした。
2019.11.28
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白山神社の別当寺を務めた日輪寺から道路を隔た南側に、広大な広さの二子山公園があります。園内には三つの古墳があり、白山神社は公園北側の白山神社古墳にあります。二ノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め参道脇は住居が立ち並び、はるか先の一ノ鳥居の前を南北に県道102号線が横切っています。二ノ鳥居から境内の眺め長い参道が真っ直ぐに続き、その先に三ノ鳥居、その先はこんもりとした杜が見えます。県営名古屋空港への着陸態勢に入った航空機が上空からかすめるように降りていきます。鳥居脇の白山神社由緒書き白山神社はその名の通り、岐阜、福井、石川の三県にまたがり聳える霊峰白山。そこに鎮座する白山比咩神社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮である。ここ白山神社はその分霊を祀る神社。 二ノ鳥居の守護を担当する狛犬二子山公園は、国指定の史跡である「二子山古墳」を初め、白山神社古墳、御旅所古墳の3つの古墳がある歴史公園です。 公園内には三つの古墳が残り、そのうちの一つ白山神社古墳が公園の北端にあります。一帯は古墳が点在する味美古墳群と呼ばれ、古くから人が生活を営んでいましたそうした場所には、その地を統治した権力者を埋葬する古墳が造られていきます。 白山神社はそうした古墳の上に建てられています。 古墳は全長約90㍍におよぶ前方後円墳で5世紀末から6世紀初めのものと云われます。こうした古墳の上に建つ神社は珍しいものではありません。ニノ鳥居を過ぎ左側に竹で作られた冠木門を持った碑がある遠目には御嶽神社の趣きですが「頌徳碑」とあります。丹羽新次郎政栄は味鋺原新田の庄屋で、この地の発展に多大な業績を残した事からそれを伝えるため、1887年(明治20)に建てられたもの。ニノ鳥居から境内へ続く参道、左に進んで道路を渡ると別当寺を務めた日輪寺へと続きます。御神木和合の木と呼ばれ、奈良県の橿原神宮より皇紀2600年(西暦1940)を記念し御下賜された樫という。もとはふたつの別々の樫が成長に伴い幹が寄り添う様に一つになったもの。樫の木は堅くて丈夫な木であることから、男女の縁や、家族の縁など、人生で巡り合う様々な縁の「固い結び付き」を祈願し赤い結布を結ぶもの。二ノ鳥居から三ノ鳥居の眺め、大きな常夜灯とその前に狛犬、右に手水舎が見える。鳥居左の鎮魂碑大正、昭和における戦争で出征し家族を守るために亡くなられた方々の慰霊のため建立されました。三ノ鳥居の狛犬。三ノ鳥居右の社務所。手水舎と手水鉢の龍、絶え間なく清水を注いでいます。神橋の先に狛犬が一対、その先は小高く盛られた高みに続きます。明るく照らし出された境内、石段の先は蕃堀があり、拝殿は見えません。石段前の狛犬石段左に参道が続き、その先は厳島社。石段の中ほどから見下ろす厳島社、辨天池に浮かぶ小島の奥に本殿が祀られているのが良く見えます。祭神は弁天様として知られる市杵島比売命。石段の正面に建つ蕃塀石造りには無い木の温もりを感じさせるもので、浮いた感じがなく、伽藍の中に溶け込んでいます。境内右隅の撫で牛から見た社殿。正面に切妻瓦葺の吹き抜け拝殿と本殿。燈籠の前に立つ大きな定規は「背比べ石」、子の成長を願い、感謝する目的で新たに作られた様です。氏神様に見守られながら、成長の過程を収め、その記録を子にプレゼントするなんていいものです。拝殿左の三社右から秋葉社、天神社、津島社が祀られています。1659年(万治2)に味鋺原新田の味鋺村(現在の名古屋市北区楠味鋺)にあった白山藪古墳に祀られていた白山社が周辺開拓に伴い現在地に遷座されたものと伝わります。この際にすぐ隣の二子山古墳に祀られていた物部神社を合祀して建立されたと伝わります。1918年(大正7)には春日山古墳にあった春日社も合祀されました。今年は遷座から360年を迎え、味美地区の氏神様としてだけでなく、味鋺地区の崇敬社として親しまれ、近隣や県外からも参拝客の訪れるようです。拝殿前の狛犬拝殿正面の鈴の前に彫られた龍は良く見ていくと手の込んだもので、手先不器用な者から見ると見事なものです。本殿周囲に杜が迫り、全景が良くわからないけれど、入母屋造りの前殿と切妻の後殿が一つになっているのか、権現造りのような屋根。ピカピカ輝く飾り金具のない落ち着いた佇まい。白山神社祭神菊理比咩命/総本宮白山比咩神社ご祭神伊邪那岐命、伊邪那美命、/この世のすべてのものを創った夫婦神可美真手命 / 物部氏の祖神天児屋根命 / 春日大社分霊本宮末社神明社、御嶽社、国府宮社、熱田社、金比羅社その他、お隣の御旅所古墳には白山神社「相宮」が祀られ、毎年10月には例大祭が行われます。この儀式は古くからの形式を受け継いだものと云われ、氏神は大木や大石、幟などを目印に降りると考え、山の頂きや森の中で儀式を行い、決まった社殿は無かったようです。いつからか社殿が建てられ、社殿に降りた神を相宮へ招く現在の形になった様です。一番小振りながら本殿前を守護する狛犬。拝殿から振り返った境内の眺め左に撫で牛、注連縄がかけられた切株が御神木、蕃堀、授与所と並ぶ。古墳の頂きにあるとは思えない程、境内は意外に広々としています。参拝を終え、拝殿から社殿の全景古墳の上に西向きに鎮座する白山神社。社殿を包み込むように聳える木々の間から社殿を照らす陽光は、ここが神聖な空間である事を感じさせる。境内から陽光に照らされた三つの鳥居と真っ直ぐ伸びる参道の眺め。現実の世界と神域の境目の様にも見えなくもない。味美 『白山神社』創建 / 不明、1659年(万治2)この地に遷座、今年遷座360年を迎える祭神 / 菊理比咩命、伊邪那岐命、伊邪那美命、可美真手命、天児屋根命境内社 / 神明社、国府宮社、秋葉社、金比羅社、御嶽社、御嶽社、津島社、熱田社、厳島社住所 / 愛知県春日井市二子町2丁目11-3アクセス / 名鉄小牧線味鋺駅から徒歩10分、日輪寺の南
2019.11.26
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苗木城址岐阜県中津川市の木曽川右岸に建っていた山城です。中津川IC料金所から、国道257号線を経由、県道410号線でゆっくり走っても20分の所です。苗木遠山資料館苗木城や苗木藩に関する資料が展示され、ガイドによる城跡の案内受付、クマ出没情報の提供も行っています。ここの駐車場が一般的で、ここから城址まではゆっくり歩いても20分はかからないでしょう。資料館から更に奥に駐車場があり、ここが一番近いのですがそれ程大きなものではありません。ダメ元で行ってみても損はないかも。高森神社に行かれる場合、そこから下に降りていく事になります。一番上の駐車場から直ぐのところに苗木城跡の標柱が建ち、左右には石垣が積まれています。苗木城の石垣は多様な技法が取り入れられ、積み方を見ていくと面白いところです。標柱から先にはこうした石垣が積まれ天守まで続きます。駐車場から2~3分で視界が開け、右に広い空間のある「龍王院跡」に着きます。かつての足軽長屋の南側に位置し、龍王院と言う真言宗の寺院があった場所。明治政府の行った廃仏毀釈により神職が取り仕切る事となった。遠山藩はそうした意味では忠実に従い、領地の寺院は廃寺にしていったそうです。現在は分かりませんが、これによりこの辺りの葬式は神式で行われるのが一般的だったそうです。文明開化の神風が吹きよせる時代、この政策も必要だったのかもしれない。けれど、仏教伝来以降永い時を経てきた歴史的資産を崩壊させた点に於いて、これは大きな汚点だったと常々感じるところ。高森神社もそうした波に揉まれていった一つです。南に開けた「龍王院跡」からは、午前中は逆光になりますが、遠く恵那山と手前に苗木城跡の復元された木組みのシルエットが良く見えます。「龍王院跡」から本丸へは石垣と石畳の続く尾根道を歩きます。やがて緩やかな坂が現れ、左手に自然石の巨岩の上に何層にも積まれた石垣が現れます。ここにはかつて風吹門と呼ばれた門があり、その痕跡が残っています。大手門と呼ばれた二層の門は、城下と三の丸への出入りを隔てる位置関係。昼夜問わず門番が立ち厳重にチェックしたそうです。左手の石垣は、ここ風吹門の防御のために設けられた「大矢倉跡」。苗木城最大の櫓は三階建てで、一階は物置だった様です。大矢倉石垣手前の自然石を生かし、その上に切り出してきた石が積まれ基礎となっています。ここから見るだけでも左と右では積み方が違うのが分かります。セメントが使われた訳でもなく、ただ単に石を積んだだけですが今もずれる事無くそこにあります。大矢倉や風吹門もそうですが、場内の遺構にはこうした解説板が設けられています。大矢倉から見下ろす位置に広がる三の丸、ここでは乗馬の練習も行ったようです。右側には天守に続く大門があったので、真剣に馬を走らせるほどの広さは無い。左手に行くと本丸の石垣で昼でも付す暗い場所に牢屋跡、駈門跡を経て四十八回りに続きます。大門右に苗木城址の碑本丸で遮られていた朝陽が三の丸、二の丸にも差し込みます。苗木城址は岐阜県中津川市苗木の高森山(432㍍)の頂にあった山城で霞ヶ城とも呼ばれた。中津川を二分し流れる木曽川、その右岸から周囲を見渡す様に聳えていた。鎌倉時代初期に岩村城を拠点に恵那郡を収めた遠山氏の遠山正廉により、1532年~1555年(天文年間)に築城され、幾度か城主が変わりますが、1600年(慶長5)遠山友政により再び遠山氏の手中となり、1871年(明治4)廃城まで遠山家の支配となる。大門の右手下に遠山家の住居や家臣が集う部屋があった二の丸が見える。石垣もさることながら、飛び石の様に礎石が並び、そこに構造物を建てた事に人のパワーを感じます。この辺りから見上げる天守は、巨大な自然石の上に柱穴を削りだし柱を建て形造られています。人のパワーを表す象徴的なものが天守櫓。左の石垣は大矢倉で見かけた組み方とはまた違うものです。直下から見上げる本丸はこんな感じです。自然を生かし、人の知恵とパワーが加わって出来たのが苗木城といっても過言ではないのかも。それが可能だつたのもこの辺りから石が獲れ、遠路から運搬する必要がなかったという事でしょう。大門からしばらく行くと、坂下門で左に道は続き、そこからは本丸の石垣を右廻りで進むように高度を上げていきます。日陰に入ると一気に気温は下がっていきます。正面は菱櫓門跡、右手の石垣も表情が違うものです。この辺りから下を見渡すと一足先に朝陽を受けた大矢倉が一望できます。その姿はアンデスの遺跡にも通じるものがあります。この石垣が現れれば天守も間もなく、石垣の下にある建物は「千石井戸」。山城は守るには絶好の条件が整っています、そうは言っても水は絶対に必要となります。岩村城もそうでしたが、山の頂に井戸が掘られ、それらはいまも水が湧き出ている事に驚きます。天守の南斜面に「清水門跡」がありますが、この辺りでは石垣の下から清水が湧きだしています。このとんがり頭の頂きのどこに水源があるのか不思議です。この下には龍神でもいるのだろうか?「天守展望台」北側から見た全景現在は復元された櫓の上に展望台が乗せられ、そこからは下に木曽川、その先に恵那山の眺望が広がります。東側からの眺め、遺構として残っていた柱穴を元に再現されているもので、観光用に特別に手を加えたものではないようです。この上に三層の天守が建っていたのですが、一階は4㍍×5㍍、三階部分は9㍍×11㍍と上に行くほど大きくなっていったそうです。清水や日龍峯寺の舞台造りにも通じるものがあります。展望台からの眺望は眼下に木曽川、恵那山の眺望が広がります。木曽川に架かる橋は、廃線となった北恵那鉄道の橋梁です。天守南側の「馬洗岩」名の由来は城攻めに逢い、水切りされた際にこの岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い「水には困っていない」様に見せかけた事から来ているそうな。・・・・・ホンマかいな?馬洗岩から西に進むと再び玄関口に戻ります。南側から見る天守櫓、巨岩と一体になっています。一旦、千石井戸方向の的場跡に戻り、左続く細い道を進み高度を下げていきます。この辺りは天守の南斜面に辺り、本丸から二の丸に続く南側の道。ここから天守方向を見上げてみても、もはや天守は見えません。目の前は間近に迫る巨岩の壁と上には青い空と飛び交う鳶のみ。その巨岩の組み合う隙間の前に木造の明神鳥居が建つ「八大龍王大神」。遠山家の守護神である八大龍王が祀られ、明治時代にこの場所に祀られたもの。創建など詳細は不明。更に高度を下げていくと二の丸に到着です。南側は急峻な崖が続き、そうした場所にも石が積まれています。上は「不明門跡」、開かずの門と云われた二層の門があった。下は二の丸の「的場」、鉄砲の練習や槍等の稽古が行われていた場所。二の丸から天守の眺め。郁恵にも石垣が積まれているのが良くわかります。二の丸を進むと大門に戻ります、同じ高さから見る大矢倉は巨大な石の塊にも見えます。「日本100岩城」の一つに数えられる苗木城址、石積みの巧みさやそれを作った人のエネルギーを感じる場所です。2019/11/01「苗木城址」住所 / 岐阜県中津川市苗木アクセス / 中央自動車道「中津川」ICから国道257号線経由20分程
2019.11.24
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春日井市二子町名鉄小牧線「味鋺」駅から高架沿いに二子山公園方向に北へ徒歩10分程道は高架の下をくくる交差点となり、左に曲がると白山神社の北側に回り込みますその道を西に進むと右側に赤い山門と鐘楼のある寺が「天台宗光雲山日輪寺」になります白山神社とは道路を挟んだ北向いになります日輪寺と白山神社の位置関係は何かしらの係わりがあるの?思うのは自然な事で事実この寺は神仏分離までは白山神社の別当寺を務めていたそうですなので白山神社を訪れる前に日輪寺を最初に訪れる事にします県営名古屋空港も近い事もあり、普段見かける豆粒の様な航空機ここでは空気を揺らす様な爆音と共に、有りえない距離感で頭上を飛び交います日綸寺全景切妻瓦葺の山門の赤が特徴的で、手前の常夜灯は古くは山門から白山神社に続く参道に建っていた江戸時代末期のもので天照皇大神宮と記されています参道を横切るように車道が整備される際に、現在の山門前に移設されたものらしい山門の左に寺号標、右に小さな堂が建ち、左右に赤い「地蔵菩薩」の幟が風になびいています赤い山門から本堂の眺め参道正面に寄棟瓦葺の本堂と左に鐘楼と大師堂、右手が手水舎と庫裏の伽藍手水舎と後方の庫裏左手の入母屋造りの鐘楼今は周囲が開けているけれど、その昔は山門から白山神社に続く参道が伸びていたそうです参道脇には松並木が続き、木々の間から僅かに差し込む陽光が、鐘楼や境内を照らす程に松に包まれていたようです当時のこの周辺は古くから人が住み、一帯には多くの古墳が点在する小高い丘陵地と、その下に荒地が広がっていたそうで味鋺原とも呼ばれ、1879年(明治12)木津用水の一期工事以降漸く開墾され新田に生まれ変わります長閑な田園風景の中、日綸寺の鐘の音は響き渡っていたようです現在の本堂は、1891年の濃尾大地震で被災後に再建された様ですその後も伊勢湾台風等で甚大な被害を受けるも、都度修復の手が加えられ今の姿を伝えています手挟に彫られた水波などシックな彫が見られますこうした彫が施されるのはアクセントのみならず、思いが込められています例えば、波や雲のデザインは火の災いから免れる様にであったり、動物や自然をモチーフに施される木鼻に獅子や獏など施すのも意図があり、職人の腕の見せ所でもある「光雲山」山号額日輪寺は1660年(万治3)、味鋺村にあった満願寺を移転し、小田井村の天台宗願王寺から山号を承け光雲山日輪寺と称したそうです「栄秀」阿闍梨が寺を開き、当時は願王寺の末寺栄秀和尚は味鋺原の粟や稗しか育たない土地から新田開発に尽力されたようです本堂の眺め本尊は地蔵菩薩1672年(寛文12)の栄盛和尚の代に、洪水で朝宮に流れ着いた地蔵菩薩像を勧請し本尊としたと云われますが諸説ある様です1804年(文化元)の真純和尚の代に、現在の春日井市熊野町にある密蔵院の末寺になった様ですが1952年(昭和27)、比叡山延暦寺の末寺となり現在に至っています今も白山神社と深い繋がりがあるようです本堂西側に建つ切妻瓦葺の堂正式な呼称は分かりませんのでここでは「大師堂」としておきます1891年の濃尾大地震で本堂被災時に仮堂を設けたようです、それがこの建物かもしれません堂には弘法大師の事跡を巡礼する「西国三十三巡礼記念」の額が掲げられています堂内の大師像と鬼の夫婦を従えた役行像が安置されています本堂から南の赤い山門の眺め、道路の先は白山神社境内へ続いていきます「日輪寺」開基 / 1660年(万治3)宗派 / 天台宗山号 / 光雲山本尊 / 地蔵菩薩住所 / 春日井市二子町2丁目12-3アクセス / 名鉄小牧線味鋺駅から徒歩10分
2019.11.23
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守山スマートICから高速で中津川ICまでほぼ1時間料金所からは国道257号線を経由、県道410号線でゆっくり走って20分で苗木城第一駐車場に到着 時間は9:20分「苗木城址」に向かうにはここが一番近い駐車場です、頂に向かい登る人はいても、下る物好きは少ない様ですかみさんには先に城址に向かってもらい、駐車場から車道を下って目的地「高森神社」へ日の出が遅いこの時期、高森山の深い森にも漸く朝陽が届き始めましたあまりにも静まり返った森、何か出そうな雰囲気が漂います駐車場に続く道沿いに小さな鳥居が建っています、なので入口を間違える事はないでしょう木造の明神鳥居と「高森神社」の扁額参道は杉が林立する森の奥へと続いています入口には、ちゃんと解説板と目的地への⇒が書かれているので心強い途中には風穴がある様で、冷気を利用し氷餅(水に曝した餅を冷気で長期間乾燥させたもの)を作っていた様で、ここで出来た氷餅は幕府献上品でもあった様です残念ながら高森神社までの所要時間は案内されていません鳥居からしばらくは斜度も緩く散策気分でしたが、すぐに斜度は増し一気に高度を上げていきます周囲は杉に混じり竹が生い茂っています静かな森に朝陽が差し込み清々しいものがありますあまりの静けさはいやが上にも熊、猪の存在を予感させます時折吹き込む風が竹の葉を揺らしガサガサ音を立てます、これは多少ビックリします歩きながら柏手を打つ事に、これが森に良く響く事、効果があるかは?ですが気休めにはなる道はしっかり出来ていて、危険な道ではありませんが最低でもスニーカーは必要です北側にあたる斜面は多少肌寒く、尾根の向こうに降り注ぐ陽光が羨ましい「パン!〃」登り始めて5分程斜面に右手に伸びる小道が現れます、ここが下にあった風穴入口の様ですここからでは全くそれらしきものは見当たりません、行くしかないせめて「ここから何分」とか書いてあれば心強いのだがこうした道標にどれだけ惑わされた事か・・・・・不安は直ぐに解消されます、分岐から1分程で視界の先に看板が見えます山の頂の下に巨岩が寄り添うように組み合い、一部に写真の様に穴が開いています外から暗い内部を覗いて見ましたが、氷餅を吊るす作業が出来る広さはないようです富士の風穴(火山活動)のイメージとは違う様です※天然記念物の光苔が群生しているようです、立ち入りは厳禁ですね参道に戻り再び上に登りますまもなくすると参道脇に注連縄が掛けられた祠らしきものがこれが案内板に書かれていた烏枢様聖なる炎で不浄なものを焼き尽くし、汚い物が大嫌いな烏枢沙摩明王を祀ります神社仏閣のトイレに祀られているのを見かけた事はありませんか?鳥居から10分程で陽光の降りそそぐ尾根に出ます陽の温もりが暖かい尾根道は突き当り、道標が建つ分岐に出ます左に進むと人気の多い苗木城址方向の龍王院跡へ、高森神社は右手方向に進みます、「パン!〃」龍王院跡方向から来た人向けの道標も用意されてます分岐からはこうした緩やかに上る尾根道を進みます先の見えない道は「パン!〃〃〃」やがて視界が開け、陽が差し込む広場に至ります道は二手に分かれていますが、ここは右手方向の上に向かいます右手の巨岩の向こうに建物が見えています巨岩の裏手に覆屋と木造の二の鳥居、高森神社到着です、「パン!〃」ここまで寄り道しながら15分少々、散歩ではないですね、軽いハイキング的なイメージ右手の巨岩、先ほどの風穴の真上にあたる位置関係ですこうした岩がこの山を形作っているようです木造の明神鳥居とその先に石垣の上に神域が作られ、全体を覆屋が立てられています高森神社本殿全景「パン!パン!」参拝です三社祀られていますが、いろいろ調べて見るも詳細までは分かりませんでしたかつては苗木城の守護神であった「竜王権現」、高森山の眼下を流れる木曽川から南方を守護していたものですこの地を治めた苗木藩は、明治政府の廃仏毀釈という強行手段の断行前に徹底した廃仏毀釈を行ったと云われ、藩内の17寺院すべてを廃寺としたそうです苗木城の守護神「竜王権現」も1868年(明治元年)には、現在の「高森神社」へ改称するように布達されたようです「高森神社」創建 / 不明祭神 / 不明本殿から鳥居方向の眺め南垂れの斜面の下は木曽川が流れ、その前方には恵那山が望めます龍神が睨みを利かすには絶好の場所です2019/11/01住所 / 岐阜県中津川市苗木アクセス / 中央自動車道「中津川」ICから国道257号線経由15分程※冗談ではなく周辺では熊の目撃情報があります 苗木資料館に立ち寄られるか右からクマ目撃情報を取った方が良いかもしれません「パン!〃」
2019.11.21
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名古屋市北区中味鋺1丁目西八龍社から北へ2本目の通り沿いに鎮座する「忠魂社」静かな杜に包まれた忠魂社名が記す通りです明治維新以降の日清、日露戦争や事変、先の戦争に出征し国の為に帰らぬ人となった地域出身の兵士の霊を祀るために建てられたもの戦後、敗戦国となり上陸した占領軍はこうした社や忠魂碑を単なる慰霊碑として見なさず、国家主義や軍国主義的の意識を煽るものと捉え、各地にあったものをかなりの数排除させたそうです広い意味では天皇に忠義を誓い、それを果たしていかれたのは事実個人的に、こうしたものが国家主義や軍国主義につながるのか?同じ立場で出征に直面したとする、その時に思うのは狭い意味で「愛する家族と故郷のため」それ以外に何かあるのだろうか神社境内などに残る慰霊碑を見ていつも考える、そして「ありがとうございました」と拝む事にしているここは願いをする場ではなく、故郷の家族の元で静かに眠る方々への感謝を伝える場だと解釈しています「忠魂社」住所 / 名古屋市北区中味鋺1丁目きっと桜も見たかっただろう、前夜祭も楽しみたかっただろう、大河ドラマも見たかったことだろうevidenceを示せばそれでclose、出来なければ退場、極めてシンプル他に目を向ける事があるだろうにあまりにも一見平和な時代を過ごせる事に感謝しかない
2019.11.20
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2019/11/15~11/16日の二日間京都と福井を巡ってきました紅葉を期待したものの、それほど紅葉は進んでいませんでしたそんな中で印象に残った紅葉の絵だけを纏めてみましたこちら方向に出かける目安になるのでは成相寺五重塔付近周辺のもみじの大半が見頃を迎えるには、あと1週間ほどでしょうか成相寺辨天池五重塔から少し本堂よりのこの池もその頃にはもっと色鮮やかな映り込みが期待できると思います本堂裏の紅葉も陽当たりの良い所は既に赤くなっていますが、まだまだの様です成相寺パノラマ展望台から天橋立山々が鮮やかな紅葉になるにはまだ早い様です成相寺京都府宮津市成相寺339出雲大神宮本堂周辺の陽当たりのいいところは深紅に染まっています参道途中の弁財天社陽当たりの良い辨天池に面した側や参道のもみじの一部が良い色付きをしています辨天池から本殿、周辺の山々の紅葉、精彩がありません出雲大神宮京都府亀岡市千歳町出雲無番地松尾寺山門山門に掛けられたへんろ傘と色付き始めた紅葉境内鐘楼樹齢推定870年と云われ、1119年(元永2)鳥羽天皇のお手植えと伝わる大イチョウは黄色に染まり鐘楼一帯が黄色の絨毯を敷き詰めた様になるも間もなくでしょう松尾寺京都府舞鶴市字松尾532二日も巡って紅葉の鮮やかさに足が止まったのは少なかったやはり時期は少し早かった様です
2019.11.19
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「龍源山太清寺」勝川町2丁目の「秋葉社」前の通りから、東に太清寺山門が間近に見えるその昔は小牧街道と多治見に向かう下街道の分岐点、宿場もあり賑わった様です山門から西に続く道は当時の山門通りの名残りで現在の国道19号線辺りまで続いていたそうです太清寺山門全景、「東照大権現公由緒地」の表札が目を引きます右に寺号標、右手奥の建物は阿弥陀堂(十王堂)です寺の外観からは、近年手が入れられ建物は比較的新しい印象を受けます山門に掲げられた「龍源山」山号額山門をくぐり境内右に太清寺の歴史を語る解説板龍源山太清寺はその昔、醍醐山龍源寺といいましたその草創がいつ頃かは不明ですが、山号から推して山城國醍醐寺と深い関わりを持ち、勝川一帯が醍醐寺領の荘園地であった事、醍醐塚といった古い地名が残る事から千年を超える歴史を持つ1584年(天正12)4月、家康が小牧山から軍勢を率い長久手(小牧・長久手の戦い)に向かう際、龍源寺内の阿弥陀堂で休憩した家康は庄屋長谷川甚助にこの地の名を尋ねたところ「勝川村」と聞かされ、出陣にあたり「勝川とは縁起がいい」歓んだと云われます甚助の妻が振舞った牡丹餅を食べようとした家康、その箸が1本折れ表情を曇らせたそうですそれを見た甚助は「まさしく天下が一本に成るの吉兆」とフォローしたところ家康は笑顔となり、餅を食べ勝川を超え戦いの場に向かったと云われます門をくぐると、参道先の正面に寄棟瓦葺の「薬師堂」があります創建年月は不明で1651年(慶安4)に再建された様で、1924年(明治24)の濃尾地震で倒壊し1911年(大正10)に再建され、今も綺麗な状態を保っています十字の様に石畳が敷かれ、左が本堂へ、右は阿弥陀堂と南門に続きます参道左に庫裏と右に本堂が連なります庭も手入れされ四季折々の木々が植えられています訪れた時は柿が実り、境内のもみじが少し色付き始めていました瓦葺の寄棟の「本堂」緩やかに軒に流れる屋根の傾斜はなかなか優美な趣があります現在の寺号「龍源山太清寺」は1651年(慶安4)に改めた様です1837年(天保8)に本堂および阿弥陀堂は台風で被災、1850年(嘉永3)に本堂が再建されます参道右の「阿弥陀堂(十王堂)」古くは太清寺に近い下街道札の勝川札の辻(現在の勝川3)辺りに建っていたと云われます1584年(天正12)4月、家康は休息の後に戦場に向かいますが、この際に阿弥陀堂は焼き払われます(これには狼煙の意など諸あり)その後は荒廃していったようですが、1653年(承応2)に名古屋の宝林寺和尚が荒廃を嘆き、弟子の宗悦に阿弥陀堂を再建させたそうですこの際、焼け跡の余木に薬師如来像を彫りそれを阿弥陀堂に安置したようです1837年(天保8)の台風で大破、1872年(明治5)に再建されます1979年(昭和54)の周辺区画整理に伴い境内に移転したという阿弥陀堂(十王堂)扁額「無礙光」「人のあらゆる煩悩に阿弥陀如来は慈悲の光を授ける」の意味がある様です阿弥陀堂右手に複数の石像が安置され、他にも複数安置されています馬頭観音千手観音菩薩子安地蔵、馬頭観音薬師堂横から境内の眺め薬師堂横の手水石この上のもみじが赤く染まり、水面に写る絵は味があるかもしれません薬師堂扁額33年毎に御開帳が行われるようで、次回は・・・・・いつだろう?2019/11/08東照大権現(家康)公所縁の寺『龍源山太清寺』創建 / 不明宗派 / 宗派臨済宗妙心寺派本尊 / 薬師如来住所 / 春日井市勝川町2丁目14-3アクセス / JR東海中央線「勝川」下車、南西に徒歩20分程
2019.11.19
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かみさんの一之宮巡りと紅葉見物を兼ね、一泊二日の車中泊で京都・福井方面へ守山SICから5:30に高速に乗り、名神で3時間程不安だったETCも完全復活し「カードを確認しました❤」と仕事をこなしています途中、多賀SAで一休み、朝ごはんはロッテリアの「海老バーガー」で久し振りの海老バーガーは若い頃に食べていた懐かしい食感と味この怪しい海老に思わず感激身近だった存在から縁遠くなってしまいました温かいcoffeeを補充し、年代物のおやじの車を走らせる法定速度+10kmの定速走行で走る車、街中とは違い燃費も良いようですデリケートなアクセルワークを心掛け、平均燃費10kmを目指してみよう守山SICから約3時間、名神高速大山崎JCから京都縦貫自動車道を経由、9時頃に出雲大神宮駐車場に到着境内には参拝客も見当たらない目的の紅葉は陽当たりのいい場所が色付いている程度、今年は紅葉自体が遅いのか、当たりが悪いのか鮮やかさはないこれから紅葉の本番を迎える様です折しも七五三、参道には屋台も並んでいますが開店前、日中は賑わうのでしょう祭神は大国主命/穂津姫命大国主命は日本神話で知られるで因幡の白ウサギにあるように慈愛に満ちた優しい神良縁、金運、長寿の御利益があり、御神体山より湧き出る霊水は病によく効き、痛み止めの水とも言われるようです近所の方は朝のコーヒー用の水を汲みに来られています、毎日この水を飲んでいれば医者いらずか?「丹波國一之宮 出雲大神宮」住所 / 京都府亀岡市千歳町出雲無番地出雲大神宮から国道9号線と国道473号線を経由し90分程で成相寺に到着日本三景天橋立を眼下に望む、元々は日本古来の山岳宗教の修験場で西国第二十八番札所朱色の山門は手の込んだ彫に彩色も施された艶やかこちらの紅葉も少し早い様です五重塔周辺と辨天池周辺は赤く染まっています辨天池に写り込む紅葉はなかなか美しいものがありました本堂から成相山山頂のパノラマ展望台までは徒歩で45分展望台からは眼下に宮津湾と天橋立のパノラマが広がります展望台付近には開運土器盃投げ(3枚200円)があり、盃に願い事を書き、宮津湾に向いて立つ円形の枠に投げ込むとその願いは必ず叶う!結構難しく、夫婦一枚ずつで各々失敗、最後の一枚を託されたおやじ二人の願いを担い、投げた一枚は見事通り抜けていきました西国第28番「成相山 成相寺」本尊 / 身代わり観音、聖観世音菩薩住所 / 京都府宮津市成相寺339成相山 成相寺から国道178号線で15分程走れば元伊勢大神宮籠之宮に到着です時間は14時、参道脇で海鮮丼ぶりで遅い昼ごはん、一息ついて参拝ですここは海外からの団体がひっきりなしに訪れ、人垣が途切れる事はありませんあっちこっちで自撮り棒が立ち並び、拝殿前でポージング・・・・・隙間から参拝を済ませ、ここから10分程歩いた真名井神社へ向かう事にこちらはそれ程でもなく、静まり返った境内に拍手が響きます参拝を終え、天橋立を散策し16時を回っていました、陽は傾き今夜の宿泊場所へ移動します「丹後國一宮 元伊勢大神宮籠之宮」住所 / 京都府宮津市字大垣430「真名井神社」住所 / 京都府宮津市字中野今日一日の御朱印今夜の宿泊予定地舞鶴市の「舞鶴とれとれセンター」へはここから国道176号線と国道478号線経由で50分程到着した頃は既にキャンピングカーやいかにも車中泊の他府県ナンバーの車が多数中には室蘭ナンバーも、我家もそこに仲間入り寝床の準備を整える今回はエアーベットの代わりに、前日に敷布団を前面敷いて見たカーテン閉めて、シュラフを広げ、テレビ台をセットして準備完了晩御飯はかみさんの構想ではとれとれセンターで海鮮と考えていたようですがセンターを巡って見ましたが、どれも今一つ、今二つ観光客向けで価格は「?」、既に早く閉店したいモードに突入しているこれなら、行きたい銭湯もあるし食べに行った方がいいのでは?道の駅から舞鶴市内の次の候補地に向かい歩き出す陽は沈み気温は急降下、こんなつもりじゃなかったので夜間用の上着は車の中おふろセットも持ってこなかった・・・・・風邪ひくし風呂は諦めよう道すがらの商店では達磨ストーブに火が入っていますとにかく暖かい部屋で、酒が飲めれば良し本当は風邪をひいてもいいから入りたかった「若の湯」なんともレトロな外観、中も同様に懐かしい施設が充実有形文化財にも指定されている若の湯、マニアはここを目当てに訪れる道の駅から歩いて20分、この寒空間違いな風邪をひく車で移動すれば酒は飲めないし今回おやじはここが何より楽しみ・・・・・だった有形文化財の銭湯「若の湯」住所 / 京都府舞鶴市本58かみさんの次の候補は若の湯の斜め向かい開店が6時と言う事で少し待ってから入店魚をメインにした料理を出してくれる店の様で価格も観光客をターゲットにしたものではないようですまずは、ビールで今日一日に乾杯お互いに好きな摘まみで飲み始めるかみさんは道の駅でコッペ蟹を引きずっていた様ですが、ここで仇を打つおやじは刺身と骨せんべい、後は日本酒と漬物があれば満足の晩酌日本酒も種類が揃い、なかなかいい雰囲気の店でした「舞鶴港 漁師小屋」住所 / 京都府舞鶴市本56とれとれセンターから徒歩20分程気持ちよく酔いもまわり、車に戻りテレビでも見て、寝酒でも・・・・・かみさん曰く、即刻爆睡した様です翌朝いつもの様に早朝に目覚め、周辺を一人散策、外は寒いぞ舞鶴港に停泊中の海上保安部PLH-21、この船ヘリコプターを2機搭載可能な巡視船今年7月に名古屋海上保安部から配属替になり、船名も「みずほ」から「ふそう」に改められたもの朝陽を受け白い船体はピンクに染まっています、おやじの車もうっすらとピンクに染まる道の駅「舞鶴港とれとれセンター」住所 / 京都府舞鶴市字下福井905番地昨晩歩いた道沿いで見かけた寺社を訪れる上段玉岡稲荷神社 京都府舞鶴市字西80見海寺 京都府舞鶴市字西71中段浄土寺 京都府舞鶴市字新103下段新町金刀比羅社 京都府舞鶴市字新60かみさんもぼちぼちお目覚めの頃、車に戻ります道の駅に併設されたコンビニで朝ごはんを買い求め二日目をスタートしようまずは20分程国道27号線を東に20分程走り「舞鶴赤レンガパーク」へドックに入っているのは護衛艦「ひゅうが」か?かみさん全く興味なし舞鶴赤れんがパーク京都府舞鶴市字北吸1039-2赤レンガパークから県道772号線経由25分程の松尾寺へ訪れた当日、国道27号線から県道564号線のルートは工事中で通行止め狭くてクネクネが連続する山道は交通量が多いこの道は「対向車が来る意識」と「バックする気持ち」がないと渋滞は必至鐘楼付近のイチョウが見事に黄葉を迎えています境内のもみじは少ないようです、精彩がありません松尾寺 京都府舞鶴市字松尾532松尾寺から次の目的地へは国道27号線経由で京都府から福井県に入り若狭彦神社上社へ時間にして小一時間ほど静かな境内に杉の巨木が聳える杜は自然のパワーを感じるスポットが点在します針葉樹の杜と参道の苔の緑を楽しむ神社です若狭國一之宮 若狭彦神社 上社福井県小浜市 竜前28-7上社から若狭國一之宮 若狭彦神社 下社へは北に5分程走れば到着ですこちらも巨木の杉が作る緑の杜を楽しむ神社です若狭國一之宮 若狭彦神社 下社福井県小浜市遠敷65-41二日目の御朱印かみさんの予定していた参拝ケ所は全てコンプリート時間も丁度12時、ここから道の駅「若狭おばま」に向かい食事を取り、帰途に付くことにします鯖推しの様です、鯖大好きおやじ、訪れた限りは焼き鯖は食べておきたいところ道の駅では土産用以外の販売はなく、足を延ばすか考えるも「鯖バーガー」と焼き鯖寿司に目がくらみこれを頂きお腹いっぱい大満足鯖バーガーなかなかのものです、鯖の脂の旨みと香りが漂う魚の臭みが苦手なかみさんでも、フレッシュトマトがある事で臭みはそれ程感じないと思うのだがジビエカレーですか?時間は14時、食後に地元のスーパーで地酒と特産品の買い出しを終え高速に乗り、渋滞なしにいい感じで16時30には家に戻って来れました毎度〃車は大丈夫かいな?心配しながらも秋深まる京都・福井の592kmをトラブルなしで快調に走りきってくれました出かける前に35liter、現地で念のために給油したのが20liter旧車の四駆にしては褒めてやりたい燃費です2019/11/15~11/16
2019.11.18
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春宮から秋宮に向かう旧中山道、その道すがら出逢った慈雲寺苔生した緑の参道、美しい枯山水の庭園を印象に焼き付け再び旧中山道に戻ります春宮から秋宮に続く三角八丁、ほぼ中程まで来ました街道沿いに往時の名残りの下之原一里塚、「中山道55里塚跡」一里塚から慈雲寺方向、街道の名残りが漂います狭い道ですが車の往来も多いので要注意です伏見屋邸、一里塚から目と鼻の先です1864年(元治元年)に旧商家として建築されたと云われる木造2階建ての建物現在の姿は2010年に復元修理され、住民の交流の場、観光客のお休み処として生まれ変わったもの春宮から秋宮は20分もあれば辿り着くけれど、寄り道ばかりで道のりの遠い事伏見屋邸から先の街道筋に鎮座する「御作田神社」諏訪大社の末社です上社、下社共に境内から結構離れた所にこうした摂、末社が建っています小さな神社ですが、六角形に切り出された石を積み上げた亀甲積の石垣は、手間も工期も掛けられています亀甲の形に切り出された石が綺麗に積まれた石垣から境内の眺め石造りの明神鳥居の先に本殿が見えます「御作田社の湧水」石垣から湧水と温泉が滾滾と湧き出しています古くから湧水は街道を行き交う旅人の喉を潤し、温泉は洗い物などにも利用されるなど、生活と密着したものです鳥居をくぐり広々とした境内へ本殿の背後に大きな杉の木が聳えています鳥居左に結界の貼られた「斎田」小さなものですが、毎年6月30日に下社の御田植神事がおこなわれるこの時に植えられた稲は1ヶ月で穂が出るといわれ、収穫された新米は諏訪大神にお供えされます諏訪七不思議のひとつここに引き込む水が湧水なのか温水なのか分かりませんが、土肥の御新米が温泉を引きこんで何処よりも早く収穫できた事を思い出します本殿は光る飾り金具の無い素朴な流造四隅に杉が植えられていますが、諏訪に来て見慣れてしまった御柱は見当たりません御作田神社解説板普段は訪れる参拝客は少ない御作田神社ですが御田植神事の際は、本殿に対し広いと感じる境内も手狭に感じる程賑わう様です2019/10/07「御作田神社」創建・祭神 / 不明住所 / 長野県諏訪郡下諏訪町新町下3976アクセス / 岡谷ICから国道20号線で15分程度 駐車場はありません
2019.11.17
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分かっちゃいるだけにこうした表示は見たくない現実から逃げられなくなるおやじの僅かな小遣いは何年かの頻度で、大幅に目減りしていく買い替え意外にもいろんな選択肢がある、今回こそwinと決別するか、無理を承知でバージョンアップして見るか、いろいろ考えてはいたけれど結局はどれもこれも面倒で今回も買い変えで落ち着いた毎度〃メーカーの云われるがままにwin95からwin10まで面々と乗り換えた事になる代々富士2を使って来たけれど、高いばかりで使わないアプリのてんこ盛りからメーカーをhpに変えシンプルな機種に変えて見た、付いているのはTVとword/excel、息抜きにソリティアくらいのものです先月くらいに配送され、未だに開梱もしていないやれセットアップだのアカウントだのpasswordだの覚えちゃいない負荷は減ったものの未だにそうしたセレモニーは、使いたくても使えなくなった仕方なく買い替えた消費者には余計な出費と手間以外の何物でもない会社のwin10の使いづらい事タッチモニター、Edgeなど今の所ありがたいとは感じない、O365は知らん間にアップデートされ面喰ったりと、便利なのか、ユーザーを困惑させているだけなのか良くわからない慣れるまで時間がかかりそうです使えるまではwin7を使い倒してみようと思う寿命を全うしたら全てのアプリは削除してDBとして使用する予定ですwin7/Win8(8.1)ユーザーへの無償 アップグレード一部条件付きでアップグレートは可能でしたが2017年12月末でキャンペーン自体が終了しています以下のMicrosoftの公式ページからwin10のダウンロードは今も提供されている様です但し、正規版のwinである事、プロダクトIDが分る事など要求を満たす必要がありそうですそして何より、ダウンロードできるかどうかは誰も保障してくれません利用中のPCはお使いのメーカーサイトでwin10へのアップグレード対応可否は確認できます初期の7ではほぼ対応しません、私のpcもその部類です仮に対象となっていたとして従来の様に円滑に使えるとは思わない方がいいでしょうそこから起きた事に対してはメーカーは相手にしてくれないと思っていいでしょう全てのデータをバックアップした上で、どうせ買うのだから的なつもりでないと安直に飛びつかない方がいいかもしれません来年もこのページがリンクされていれば、データのバックアップ先が見つかればやってみようと内心考えています Microsoft公式ページ最近のディスクトップPC今どきは薄型でHDはどこにある?的な軽くて省スペース手にするまでに選ぶのも楽しみの一つだと思います使えなくなるは既成事実の様です、秋の夜長に次の相棒を探して見ては?2020年1月14日、快調で使い慣れた7ともお別れですNEC PC-MJL36LKGCAS5 デスクトップパソコン NEC Mate J タイプML ホワイトその他 ASUS TeK ASUSPRO All-in-One PC V161GAT ブラック ds-2150368【キャッシュレス 5% 還元】 Lenovo デスクトップパソコン Ideacentre AIO 330 F0D7000PJP [ブラック] [画面サイズ:19.5インチ CPU種類:Celeron Dual-Core J4005(Gemini Lake) メモリ容量:4GB ストレージ容量:HDD:500GB OS:Windows 10 Home 64bit]★FUJITSU / 富士通 FMV ESPRIMO FH52/D1 FMVF52D1W 【デスクトップパソコン】【送料無料】
2019.11.15
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名古屋市北区中味鋺東龍神社から庄内川右岸堤防の道路沿いを西(下流)へしばらく歩くやがての堤防の下に鎮座する緑の屋根の神社が見えてきます東があれば西もある、という事で西八龍社が今回の目的地です現在は直線的に流れる庄内川も以前は蛇行を繰り返し、氾濫も頻発した地域河は人々に苦難を与えると共に豊かな土壌を与えて来たここに住む人々はそうした河と共に生活を営んで来ていますその環境からは独特の文化や水屋という知恵も生まれてきます西八龍社は堤防道路の下に鎮座していますが、昔の堤は現在より川側にせり出していた所に鎮座していたと云われます(上の写真は左が明治右が現在)戦火で焼かれ本殿以外は焼失、1950年(昭和25)から始まった大規模な庄内川改修工事で、せり出し部分を北に下げて新しく堤を築く事になり、それに伴い西八龍社は移転を余儀なくされ現在地に幣殿・拝殿・社務所を再建したようですそれから時も過ぎ、2018年改築工事の手が入ったようです庄内川の堤から右に降りていくと、右手に社殿も見えています堤から下に続く参道?には神社幟を立てる柱があります堤防の中ほどから境内全景の眺め右に社号標、鳥居が建ち、境内には左手の榎など立派な木々が聳えています榎の黄葉も終盤を迎え、落葉の時期を迎えています鳥居前(昭和11)から下流側の眺め堤防との高低差を感じる事が出来ると思います近年の異常降雨、水位が堤を超えた時、周辺は二階部分のみならず、一体は湖沼の様になってしまう土地柄移転が昭和、改修が2018年なので、それを機に建てられたと思われる社号標表面は鏡のように周囲の風景を映し出しています鳥居から境内の眺め神楽殿の先に緑も鮮やかな屋根を持つ真新しい社殿が並びます今は浮いた感じがしますが時間と共に落ちいていくと思います綺麗な境内です境内左の榎の脇に手水石社殿全景右が社務所、中央が拝殿、左が御神木の覆屋左の御神木これがこの神社のシンボルと云える存在元は中が空洞の杉の古木こうした古木には不思議な話がつきものです雷が落ちた、中に住みついた獣を煙で追い出そうとした等、色々な謂れがあるようですがどれが正解であろうが大きな問題ではないような気がします人の力では何ともし難い自然の事象、そこから生まれる畏怖の念は神(摩訶不思議なもの)の存在を意識し、敬う心が芽ばえてくるのは当然のこと「火のない所に煙りは・・・・・」ではないけれど、それにつながる事象があったのでしょう個人的には落雷の痕跡に見えます西八龍社の創建は921~938年(承平年間)と伝えられる古社ですが、1818~1830年(文政年間)にかけて雷除けの神、日乞いの神として厚く崇敬されたと言われますそれは現在もそのまま受け継がれています解説板「雷が落ちて焦げたとされる「杉の大木」「雷除」神社として知られる西八龍社のシンボルとして伝えられる」とあります確かに杉の巨木の空洞の内側は真っ黒に炭化し、雷が落ちたと云われると頷けます・・・・・? 雷が落ちた木が雷除け? そこにはまた何かがあるのでしょうね怖い物として「地震・雷・火事・おやじ」と良く聞いたものですが最近「おやじ」の威厳は落ちるところまで落ち、街からは「雷おやじ」も絶滅危惧種今のご時世は「地震・雷・火事・洪水」なのかも知れません大きなガラス窓から外光が良く入る明るい拝殿、木肌は見るからに新しく清々しい拝殿から回廊で左の社務所に繋がっています通称「かみなり神社」と呼ばれ、古くから、雷除け・日乞いの神として敬われ、地元のみならず、遠方からも参拝に訪れるようです神紋は三つ巴西八龍社略記祭神 / 高龍神創建 / 不明(承平年間931~938)、朱雀天皇の御代と伝えられている「移設に際しては霊験を恐れ手がけられなかったところ、氏子総代などに依頼して移築が叶った」「霊験を恐れて」とは以下のようなことらしい1943年(昭和18)、春日井市にある名古屋陸軍造兵廠鳥居松工場の廃水施設のため、地蔵川の改修工事が行われたそうです工事は水分橋の西から庄内川の右岸にかけて行われ、工事は進み西八龍社の境内に入ったところ、工事に従事していた作業者は次々に病気になったそれは神域を犯した祟りとされ、工事は頓挫してしまったそうです1950年の移転の際も工事関係者はその事があり請け負うものがいなかったようですそれを形にしたのが氏子達と言う事です本殿光物の少ない素朴な流造後方には杉が杜を作っています御神木の幹の太さと比較すると植えられた年代は違うようです本殿前の燈籠竿の部分に何か彫られているようですが、年代ではなく奉納者のお名前の様です角の取れた石を高く積み上げ、その上に本殿が祀られていますこの高さも水を意識したものでしょうか控えめな社殿にあって、金色にあつらわれたの三つ巴の神紋が輝いています綺麗に改修された境内西側からの眺め鳥居左の榎も移転の際に植えられたものでしょう、今では見上げるばかりに大きく根付き空を遮るように枝が伸びていますこの地の時の移り変わりを語り継いで行く榎古い地名や古木、その地を伝える語り部であり、付き合い方を教えてくれるものです西八龍社住所 / 名古屋市北区中味鋺1-203アクセス / 名鉄小牧線「味鋺」下車 西へ、東龍(東八龍)神社経由で徒歩25分程御朱印は味鋺神社で頂けるようです
2019.11.14
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諏訪大社四社参り、当初計画の日帰りから車中泊の二日工程となつてしまいましたが目的を果たし家路へ行きに発覚したETC作動不良もあり、急ぐこともない小旅行諏訪からの帰りは伊那谷経由で下道で返る事にしました昔は白馬にスキーに行く時など、雪で高速が止まったりすると通っていた道ですウン十年ぶりに走ってみました道も随分と良くなり、道すがらにはワイナリーやら、気になる寺社などが次々に現れますかみさんは車窓の景色を楽しんでいるかと思えばスマホばかり眺めています昼ご飯を探すのに夢中です、検索Wordは「蕎麦」県道14号線を1:30程で駒ケ根IC付近に到着、この辺りからかみさんのナビが始まりました駒ケ岳に向かう道路から農道らしき道を5分程走り、店も見当たらない左の空き地に「入つて」とナビが指を差します左側の黒いフェンスを良く見ると小さく「丸富」と書かれた看板運転者には全く見えない駐車場に入ると赤い屋根の山小屋風の建物が見えてきます駐車場から一段下がった場所に店舗があるため、道路からは分かり難い多府県から訪れた車で駐車場は一杯です、余程おいしいお店の様ですかみさんは先に降り、待ちの列へ駐車場の空を待ち、駐車場から階段を下りて行くと正に山小屋風の建物の玄関へ店内の待ちスペースで合流このお店、県外から訪れる程の人気店だそうな入口右の看板営業時間は11時30~15:00(売り切れ次第終了)火曜定休古民家をそのまま改装したものらしく、店内は木を前面に現わし、ゴチャゴチャした飾りのない薪ストーブのある落ち着いた空間さり気なく飾られた草花がアクセントになっています待つこと30分程でテーブルも空き、メニューを眺めオーダー新蕎麦が食べたかったけれど、既に売り切れ粗挽き蕎麦1,000円をお願いしました蕎麦以外にもその時々の野の物を出してくれるようです何年前か定かではありませんが、以前は飯田市で開業していたようです水に拘りがあるようで「駒ケ岳の伏流水」を求めてここに店を構えたようです間もなく箸も用意されました、これも木を意識したものでしょう粗挽き蕎麦がやってきました以下は個人の感想です見た目にそれほど粗挽き感は感じられません、香りも蕎麦を主張するものではありません何もつけずに一口頂く、口に入れると漸く蕎麦の風味が感じられる適度な濃さの蕎麦汁は、出汁の旨みが印象に残るものではなかった蕎麦は喉越しも良く、美味しく頂きました率直に、普通においしい蕎麦です十割蕎麦はまた印象が違うのかも知れませんただ、緑に包まれた静かで落ち着いた雰囲気は好感が持てますテーブルに季節の草花なんかあると、遠くから訪れた人の印象も変わるのではないでしょうかおいしさには雰囲気や些細な飾り等、視覚から受ける印象も影響してくると思います総合評価は5点満点で2.5くらいか口コミの評価は二分するようで、県外からの支持層が多いようです、口コミの星は・・・・・多府県ナンバーが多いのはそうした事なのかなァ上手くマッチした方には絶品である事に間違いはないでしょう時間を掛けやってきて、長い時間待っただけの満足感があるかと云われると疑問符が付きます評価は個人の嗜好が入ります、個人的な好みは蕎麦菜食一如庵や時遊庵あさかわの様な方向性なので自分が美味しいと感じる、香りや食感ではなかった、雰囲気は自分の好みでした登山やキャンプでこの地を訪れた時には寄って見たいお店です、記録に残す事にしますどこかに地元客ばかりが集うお店もあったりして蕎麦の花 野もの料理 丸富住所 / 長野県駒ヶ根市赤穂中割23-180営業時間 / 11:30~15:00まで、18:00~(予約)定休日 / 毎週火曜日電話 / 0265-83-3809アクセス / 中央道駒ヶ根ICから 5分程
2019.11.12
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春日井市勝川町2丁目観音堂から南の地蔵川方向に向かいます勝川第一公民館(左)の東に太清寺山門に続く通りが見えて来ます勝川2丁目の秋葉社はこの公民館の敷地に鎮座します三差路の角地に玉垣で囲われ、南を向いて鎮座する社がこの一帯の火伏を担う「秋葉社」です生憎の雨の中、人通りも少ない街角に佇んでいます境内全景小さな敷地、境内に入ると常夜灯の直ぐ正面が社になります見渡してみるも手水鉢は分かりませんでした右側の燈籠竿の部分に文字が刻まれているようですが内容は読み取れませんコンクリートの基礎の上に鎮座する社全景ソリッドな印象の神明造り対し、緩やかに曲線を描き向拝に続く流造斜めから見た時が一番流麗に見えるような気がしますこの秋葉社そもそもここが秋葉社とする根拠を境内で見つけられませんでした持ち帰って調べても良くわからない、すっきりしない日を改め太清寺を尋ねたところ「秋葉社」という事を教えて頂けたお話によると、名古屋から小牧に向かう小牧街道と多治見に続く下街道の分岐点で宿場があった社前の東西の通りはその昔、現在の19号線あたりまで続く太清寺の門前通りその通りには幾つかの社があったそうですが、それらは勝川天神社境内へ移されたが秋葉社は町の火伏せとしてここに残った様です当時の様子を留めたいい古地図を見つけきれませんでしたが明治の頃と現在の比較を上に掲載しますマーカーの位置が秋葉社のある場所、南が地蔵川です明治の頃ですら蛇行し庄内川に合流している事が分かります今は流路も変えられ直線的に流れる地蔵川も、その昔は氾濫に悩まされた場所です勝川天神社のあるあたりは勝川地蔵池と呼ばれ、池には地蔵に纏わる言い伝えも残りますこの池は庄内川の水位上昇時の調整池の役割と、江戸時代には勝川村から尾張徳川家へ旗竿が献上されていたそうです勝川の竹薮はもともと少なかったそうで、坂下地区に御留場を設け、そこから切り出された竹は勝川地蔵池(庶民の立ち入りは禁止)に浸し虫を殺し、洗われた竹が藩や勝川天神に献上されていたそうです勝川の旗竿は地名もあり縁起がよいとして名産品となり「勝川竿」と呼ばれ、縁起の良い竿として珍重されたそうですかつては賑わったであろう太清寺に続く門前通り今は静かな住宅地に変わっています、その火伏の神がこの秋葉社です残念ながら創建などは分かりませんが、人の集まる公民館の敷地で大切に守られています『秋葉社』創建・祭神 / 不明住所 / 春日井市勝川町2丁目16-1アクセス / JR勝川駅から南西に徒歩20分ほど
2019.11.11
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春宮の鳥居から東の秋宮に向け、南垂れの斜面に残る旧中山道を歩く事5分程左側に石段が現れ、庚申塔と白華山慈雲寺寺号標が建っています石段の右には龍の口があるこの水は慈運寺を訪れる参拝者のために造られ、江戸時代は中山道を行き交う旅人の喉を潤したという江戸時代中期に旧横山村(現在の岡谷市)の山田金右衛門により造形された竜頭水口は通称「龍の口」と呼ばれ、龍の口からは今も絶え間なく水が注がれています龍口後方の解説板慈雲寺へはこの石段を上っていきます巨木に包まれた石段の途中に山門が見え、参道は更に上へと続きます急な石段の続く参道脇には複数の祠が建てられています藤森、白鷺、駒形三社稲荷神小さな狛犬一対の先に建つ堂、堂内の掛け軸に書かれた弘法大師の文字と白躰龍王赤、黄、白の御幣は確認できるけれど、他の情報が読み取れません堂の左に注連縄が架けられた小さな瀧不動明王像と○×龍王の碑がある、修行の場?龍王水?山門も近付いてきました、その右側にも急峻な斜面に石が積まれ三社祀られていますしっかりと表札も掲げられていながら、それを撮っていない大失態・・・・・思い出せません静かな参道ですが山門の先から時折車の通り過ぎる音が聞こえてきます先程の三社の上斜面にも祠開運厄除不動明王とあり、自然石の上に大きな不動明王像が安置されています全ての不浄を焼き払うと云われる火炎光背、明王や二童子像に施された彩色は随分色褪せていますこの像は1860年(万延元年)高遠の氷沼庄兵衛室宗寿の作とある調べて見たけれど人物像を知る事は出来ませんでしたが、作品は威厳がありいいものだと思います段々畑の様な参道脇最上段に大きな覆屋があり、御柱が建っています、その脇に小さな社が祀られています参道の上は車道になっているようです厄除観音とあり、扉は閉ざされ像を見る事は出来ませんでした覆屋には弥栄富神社とあるが、なんと読むの?富町にあった弥栄神社? 違うよナ弥栄富神社の右に「矢除石」と呼ばれる岩が在ります慈雲寺中興の祖、天桂上人を師と仰いだ武田信玄戦に行く際に慈雲寺に立ち寄った信玄は、天桂和尚に戦勝の教えを請うたそうです和尚は境内の岩の上に立ち、信玄に「弓で射よ」といい射かけさせたそうです信玄が放った矢全て岩にはじかれ、釈然としない信玄が訪ねると「この岩には矢除けの霊力がある」と教えられ、信玄はこの不思議な力が込められた矢除札を持ち戦に出向いていったそうです急な石段も終わり、視界が開け、目の前は国道142号線参道はここで一旦途切れ、国道を渡った先に二つ目の山門が現れます山門右側には慈雲寺の寺号標と駐車場があります車で通ると、ここが一の山門と思ってもおかしくないのでは下で見かけた不動明王は見逃す事になる、歩いて正解です二つ目の山門の奥にはもう一つ門がある様です門をくぐり参道へ両脇は杉並木が続き、石畳の両脇は緑も眩しい苔が絨毯の様に続きます右手は延命地蔵を安置する地蔵堂杉と桧に囲まれた参道脇と境内は一面緑鮮やかな苔の絨毯真っ直ぐに続く石畳の先に二層の山門、その先に松の姿が見えます癒しを与えてくれる清々しい空間です、初めて訪れましたがここはとても気に入りました春宮には大勢の参拝客が訪れるものの、慈雲寺は静寂に包まれていますもっと着目されていい寺なのでは?参道左に金刀比羅宮左に一つだけの石燈籠がありその脇には解説板があります金刀比羅宮についての解説ではなく石灯籠に対して解説されているものです「海印寺高麗形創作燈籠」普段見慣れた一対の石灯籠、古くは一つが正式な形だったようです韓国の海印寺にある六角形の石灯籠を原型にして、四角柱にアレンジしたもの春日大社の石灯籠「柚ノ木型」の源流となったと云われているようです直線を基調としたシンプルな燈籠です金刀比羅社の右日根野高吉の供養塔日根野高吉は豊臣秀吉家臣で高島城の城主、江戸時代初期の1600年(慶長5)に没する息子の日根野嘉明は1649年(慶安2)、高吉の50回忌供養の為に建立したものがこの五輪塔と云われます諏訪にある五輪塔としては最大で、1970年(昭和45)に下諏訪町の文化財に指定されたもの三つ目の山門前、左右に石仏が建ち、良く見慣れた形の燈籠が一対傍に寄りたいところですが、この見事な苔を踏みつける事は出来ないですね観光客までが踏み入れる事で苔は痛んでいきます三つ目の山門から境内二層で左右に仁王像を配し、二階に梵鐘のある楼門慈雲寺は春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺で、下社春宮幣拝殿が1780年(安永9)ですが、この山門は、1777年(安永6)に村田長左衛門矩重により建立されたと伝わります慈雲寺は1806年(文化3)に本堂、庫裏、宝蔵など殆どの伽藍を焼失しましたが、唯一、この山門だけは焼失を免れまぬがれたそうです建立当初から慈雲寺の移り変わりを見続けています両脇の仁王像随分と状態の良さが目に付きますそれもそのはずで、1996年(平成8)に安置されたそうですこれから年月を重ね一層風格が増していく事でしょう楼門から境内石畳が敷かれ左に伸びていきます右手には赤松の一種で天桂松と呼ばれる見事な松が出迎えてくれますその下は生き生きとした苔庭が広がります「天桂の松」の樹齢は推定400年以上、苔庭一杯に広がったその枝振りは見事慈雲寺を開山した天桂和尚の手植と伝えられる、松の古木は1972年(昭和47)に下諏訪町の天然記念物に指定されています本堂正面の枯山水「帰錫庭」10個の巨石が配され、各々の石には意味がある様で、お釈迦様が修行から戻って来た時の弟子達の様子を石に見立てているそうで、「釈迦十大弟子の庭」とも呼ぶそうです枯山水を含めこの庭園の手入れは、京都から庭師を呼び手入れされる様です砂紋の白と石の周りに植えられた苔の緑のコントラストは美しいこれほど手入れされた庭を持ちながら、拝観料を取らない事に驚きを覚えます本堂扁額白華山慈雲寺宗派 / 臨済宗妙心寺派開山 / 1300年(正安2)山号 / 白華山本尊 / 千手千眼観世音菩薩現在の本堂は焼失後の1808年(文化)に再建されたものですこの本堂の裏にも庭園があります楼門の正面に地を這うように枝を張る天桂の松白砂の上に浮かぶ姿は緑豊かな島のようにも見えます 境内左の鐘楼梵鐘は1368年(応安元年)の鋳造で町指定有形文化財諏訪八景の7番目に「慈雲晩鐘」として、慈雲寺の夕暮の鐘声が諏訪を代表する一つとして選定されています清浄光殿とその前の石灯籠慈雲形石灯籠現在採石が禁止されている三名石(奈良石、白川石、本御影石)を用い作られている池泉庭園本堂裏手にあり、この後方にバイパスを作る計画があるようです少子高齢化、過疎化、車離れが進む中で継続的なインフラ維持を含め、慈雲寺が唱えるバイパスの必要性を問う幟は将来に向けての警鐘でもあるように思えます本堂左手から枯山水の庭園の先の天桂の松、楼門、鐘楼の眺め本堂全景と庫裏桜、苔、紅葉、針葉樹の緑と一年を通じて表情を変える趣のある寺だと思います信玄に庇護された慈雲寺、素通りするには惜しい寺です住所 / 長野県諏訪郡下諏訪町東町中606
2019.11.09
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「秋の日はつるべ落とし」というけれどまさに陽が落ちるのが早くなってきました少し郊外に出て見ようと庄内川堤防までやってきました今日の夕焼けのグラデーションは見惚れる程の美しさがありました刻々と色合いを変え焼けていく空に、足を止め見入っていましたきれいです・・・・・日暮れが早くなるにつれ、妙に損した気持ちになるのは自分だけか?11/07 庄内川水分橋上流
2019.11.07
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春日井市勝川町3JR勝川駅からだと南西に徒歩で15分程の住宅街の中に勝川公園があります今回は公園西側の勝川南部学習等供用施設の敷地内にある観音堂に向かいます少し北には東名阪自動車道とその下には国道302号が走っています今は区画整理により綺麗な住宅街の趣きですが、この一帯は過去に兜塚といわれ、野墓もあった地域日頃何気に通っていても、過去にそうした場所だったとは全く知らなかったそれを教えてくれた地蔵堂は勝川公園南側の交差点角にあります勝川南部学習等供用施設の敷地の南の一画に小さな瓦葺の堂が目的地堂前には右に半僧坊大権現、左に金毘羅大権現の石標が建っています堂は扉が閉じられ内部を窺う事はできません堂の左は奥に広がりを持ち、左に地蔵が並び、その右奥には小振りな地蔵が多数安置された地蔵堂?があります左の地蔵は全部で七体あり、横一列に安置されていますいずれも御揃いの前掛けが付けられ、公園のある東側を向いています一番右の地蔵には、「元禄五年(1692)申三月十五日勝川村念佛講」と彫られています後方にこの地蔵に纏わる「六地蔵様」の解説板六? 歳なりに白内障が始まったおやじの目には七つあるのだが・・・・・六地蔵の後方に温故知新碑そこには以下の様に記されていました「ここ勝川はその昔、賀智里といって早くから開けた村で、庄内川や地蔵川などのお蔭で穀倉地帯であったが、一たん大雨が降ると、きまって河川が氾濫して折角の美田も土砂に埋まり、家や寺も幾度か危険にさらされてきたそれでも村の人たちは、この土地を見捨てないで、共同して復興に努め、以前に勝る肥よくな田畑をよみがえらせてきたこうした厳しい水との戦に明け暮れた村の人たちの間に、自然に培われた根性は、土地への強い愛着心と、強固な結束力であった史上希な惣中結成の大業はこれを端的に物語るもので、あたかも勝川を象徴するかのように今だにその名をとどめている 中世になって、下街道の中継場として栄え旅館業や飛脚、馬喰など職業も多様化し、村は活気を呈した古書には戸数135、人口694、馬28とあるはるか元禄の昔、ここ兜塚の一角を選定して祖先永眠の聖地としてから悠久288年間続いた野墓は、昭和56年秋、春日井都市計画勝川土地区画整理事業の一環として取り除かれ、潮見坂墓園や檀那寺境内へそれぞれ集団で移転したこの画期的大事業は勝川の歴史を塗りかえて、明日への躍進を約束してくれることであろう 昭和57年4月」温故知新、古きをたずねて新しきを知る自分の中では久しく忘れていた言葉を思い出させてくれたそれにしても碑に刻まれている「画期的大事業」とは土地区画整理事業を指すのだろうか?六地蔵様の右奥は地蔵堂ではなく、観音さまを安置した観音堂でした堂内には十二体の石の観音様が安置されています堂内壁面に空海と観音像が彫られた木片が掛けられていますが詳細は分からないこちらも何か書かれてるが内容は分からない お堂の中の説明文によれば次のとおりである「……この地に遷された数基の「お観音様」の中に天明や文化の年代に勝川村念佛講建立と記されたものがあり、古書には当時の村人は五百余人とある。念仏講による観音建立は村人の暮らしの中にあり観音信仰として深く結びついていた証である。徳川、明治、大正、昭和と180余年の歳月をへた今日なお香華を手向ける者が絶えないのは「観世音」の名を唱える者は全ての危難から逃れ「観世音」に敬礼する者は福徳の得ると教示・・・・・・ここに安置されている「お観音様」は200年近くの歳月を経た今日正確な識別は至難であるが、阿弥陀佛を中心として左に観世音菩薩、右に勢至菩薩を配した阿弥陀三尊と七観音と称される聖(正、大慈)、十一面、不空羂索、千手、馬頭、如意輪、准胝の七観音と思われる。・・・・・昭和35年伊勢湾台風後に建物を再建した記録・・・・・。昭和六十一年三月吉日観音堂移転対策委員会」「お観音様」を中心に、良くも悪くも念仏講が広く信仰された事が温故知新碑に刻まれた「強固な結束力」の一つとなっていたのかもしれないこれらが何処から遷されてきたものなのかまでは記されていない境内から勝川公園の眺め、金毘羅大権現の石標に昭和61年と63年の年号が分かる観音堂移転とされる年号である、何処から遷されてきたものなのか気になる近隣にある太清寺で尋ねると分かるのかも知れない「古きをたずねて新しきを知る」・・・・・分からない事がまた一つ増えた観音堂住所 / 春日井市勝川町3-17
2019.11.07
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2社四宮からなる信濃國一之宮諏訪大社の四社巡りも最後に秋宮を残すのみとなりました春宮から三角八丁の旧中山道を経由し秋宮までは寄り道しなければ社号標まで徒歩20分ほどで到着です参拝当日は神橋は生憎工事中気のせいか、春宮に比べ訪れる参拝客は多いような気がします鳥居正面に寝入りの杉が聳えています秋宮の境内ガイド御柱の場所や伽藍の解説が書かれ、初めて訪れた者にはありがたいものです寝入りの杉の後方に神楽殿神楽殿左の階段は下社宝物殿に続きますこちらには806~810年(大同年間)に平城天皇より御下賜されたと云われる「売神祝之印」が保管されています(重要文化財)、銅製の官印は実際に明治初年まで神印として使われ続けたもの神宮遥拝所、その先は伊勢神宮へ・・・・・神楽殿前の狛犬は高さが1.7㍍と青銅製の狛犬としては日本一だそうです1930年に奉納された狛犬は戦時中に供出され、1960年に再び奉納された二代目神楽殿全景1835年立川流宮大工の立川和四郎により建てられ、正面に架けられた注連縄は長さが13㍍と出雲大社型では日本一の長さと云われていますシンプルな切妻造りの春宮の神楽殿に対し、秋宮の神楽殿は棟続きで横向きの屋根に繋がる神楽殿後方の幣拝殿同じ絵図を基に作られているだけに、春宮と秋宮の写真を整理していると同じように見えて来ますしかし飾り金具、彫など細部には其々を手掛けた棟梁の技の競いあいを感じます神楽殿左右から八坂社 祭神 / 素戔嗚尊、八柱御子神、奇稲田姫命加茂上下社 祭神 / 賀茂別雷神・玉依媛命・建角身命子安社 祭神 / 高志沼河姫神諏訪大社の祭神建御名方神の母神である高志沼河姫神を祀るよろずの縁を結び、子宝、安産、子育を司り、女性には縁の深い神様「お子安さま」として親しまれている奉納されている底の抜けた柄杓はお産が軽く済むようにと願いをかけるもので、毎月22日に安産祈願が行われます鹿島社 祭神 / 武甕槌命左の片拝殿1781年(安永10)に立川和四郎により造営された幣拝殿全景1781年(安永10)に建立された1983年に神楽殿と共に県の指定文化財に指定されています祭神は建御名方神、八坂刀売神をお祀りしています右の片拝殿秋宮では宝殿の奥に建つ櫟の古木が御神体として祀っています昔の自然信仰で、大きな山や石、木など自然には神が宿るとして崇拝していました諏訪大社はその自然信仰をそのまま受け継いでいます宝殿左奥の四ノ御柱幣拝殿全景右に一ノ御柱神楽殿右右から稲荷社 祭神 / 倉稲魂神・大宮賣命・佐田彦命若宮社 祭神 / 建御名方彦神別命・伊豆早雄命・妻科比賣命・池生神・須波若彦神・片倉辺命・蓼科神・八杵命・内県神・外県神・大県神・意岐萩命・妻岐萩命皇大神宮社 祭神 / 天照大神・豊受大神寝入りの杉の右に温泉手水龍神伝説に因んでいるのか、こうした形の湯口は上社や町内でも見かけます「長寿湯」と呼ばれ、これから寒くなると湯で清められるのはありがたい事です鳥居まで戻り一旦境内を出て、鳥居右側の小高い場所(八幡山)に見えている二つの鳥居へ向かいます手前とその奥に小さな社が2つ祀られています左が八幡社、右が恵比寿社手前の八幡社正面全景八幡社から奥に進んだ先に祀られるのは秋宮恵比寿社広々とした境内に二社が佇んでいます社の右に建てられた由来「諏訪大神の父神である大国主神と御兄事大主大神を祀る、この二神は農漁業の開祭・商工業の発展にあらたかな神様で家繁栄の守護神として世に大黒様、恵比寿様として知られ、諏訪大神と縁の深い神様御本社出雲大社及び三保神社から分霊、昭和23年諏訪大社の末社として鎮座祭を行った」右に鳥居が見えます、進んでみましたそれは秋宮恵比寿社の裏参道その向かいには広い駐車場と車道に架かる赤い橋赤い橋を渡った先は「霞ヶ城址」南に諏訪湖を一望できるこの場所、今は駐車場も兼ねているようですが、そこにはいま正に矢を放たんとしている銅像が建てられています、像の主は霧ヶ城の城主だった手塚光盛手前の植え込みをよく見れば、そこには温泉手水と同じ龍神が顔を出しています駐車場入口に建てられている霧ヶ城の解説これが無ければ見晴らしのいい展望台にしか思えないかもしれません諏訪大社四社巡りもこれで2宮4社全て参拝させていただきました自然豊かなこの地、奥深い山々に豊かな水、そこに育つ木や巨石それらを神として尊ぶ古来の風習が今も引き継がれています信濃國一之宮 諏訪大社 下社秋宮御朱印下は四社全てお参りし、御朱印を受けると頂ける参拝記念信濃國一之宮 諏訪大社 下社秋宮住所 / 長野県諏訪郡下諏訪町下諏訪町5828アクセス / 岡谷ICから国道20号線経由東へ20分程
2019.11.05
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岐阜県郡上市白鳥町長滝長良川右岸沿いに国道156号線が続く、国道と並行して長良川鉄道がこの先の北濃駅まで伸びています長良川鉄道「白山長滝駅」の西隣りが「長瀧白山神社」の参道口線路沿いの長瀧白山神社駐車場から眺めた白山長瀧駅と長瀧白山神社参道口線路に沿って並ぶ常夜籠、その先が踏切で国道から駐車場への入口になっています駅と社号標、中央に参道口、左には「霊峰 白山への道」と記された大きな石碑がある手前は大きな駐車場ですめったに鳴る事のない踏み切の警報がなり、遮断機が下り無人駅に赤い電車が滑り込んできました右は「表本宮白山神社」社号標、左に「天台宗白山長瀧寺」の寺号標参道は長瀧寺と白山神社の双方を兼ねており、参道脇には往時の勢いを偲ばせる坊跡の案内板が多数並んでいます、その先には神明鳥居が見えています参道に掲げられた往時の略図養老年間に泰澄大師により創建された云われ鎌倉、室町時代に隆盛を極めた寺で古来は白山中宮長滝寺と云われ、白山信仰の美濃国側の中心的存在828年(天長5)に天台宗を継いでからは一万三千石の寺領を持ち、往時には多宝塔を筆頭に30以上の堂宇と360坊を誇る神仏習合の修業の場と云われます1271年(文永8)に社殿の半数を焼失、後に社殿は再建されますが、徐々に衰退を重ね、やがて明治の神仏分離に伴い、長瀧白山神社と白山長瀧寺に分けられます1899年(明治32)再び火事により社殿を失います、現在の社殿は大正時代に再建されたもの両脇には石垣が続き、長い参道は緩やかに上り、太鼓橋へ続きます参道脇にはこうした坊跡の解説板が立てられていますが、あくまでも参道に面した坊のみであり一部でしかありません正面には宝暦年間の郡上藩で起きた大規模な百姓一揆の郡上一揆を偲ぶ宝暦義民碑が建つ参道左の瀧泉院江戸時代の伽藍図では現在の鳥居あたりが山門になり、瀧泉院は門前にあたるように思えますそうした事からも境内の伽藍図には記載されていません宗派も真言宗とあり詳細や長瀧寺(天台宗)とのつながりは良くわかりません参道中程にある太鼓橋毎年5月5日の無病息災を祈願し「でででん祭」が行われるそうです白装束を身にまとい、でででん〃と太鼓を打ち鳴らし神輿を担いだ氏子たちがこの太鼓橋を超えて行くそうです太鼓橋の先の参道左に祀られる護摩檀跡(手前の円形サークル)白山登拝時にここで護摩を焚き祈祷したとされる場所奥は金剛童子堂息を止めて石を持ち、そのまま堂の周りを三周する事で力を授かる事が出来るとされます稲荷堂金剛童子堂の右に祀られています正面には二対の燈籠と石段、その先に狛犬が守護する境内が広がります細かな彫が施されている長瀧白山神社の狛犬境内正面には1302年(西安4)願主伝燈大法師覚海と彫られた石燈籠、その奥に拝殿がある左の切妻屋根の建物は参集殿境内の右手が白山龍宝殿火災により難を逃れた寺宝が保管展示されています境内左に手水舎、手水鉢後方右は白山長瀧寺大講堂と左に延年水を讃えた小さな小池に建つ弁財天堂境内は湧水が湧き出ていて、境内に小さな流れを作っています当社は白山信仰を厚く崇拝した奥州藤原氏と所縁があり、中尊寺で800年の時を越え発見された蓮の種が花を付けます、その蓮(中尊寺蓮)が株分され境内に花を咲かせています手水舎り左に忠魂碑と絶妙のバランスで建つ石灯籠宝篋印塔宝篋印塔は本来は経文を納める塔として建てられますがいつからかこうした形の塔を宝篋印塔と呼ぶようになった様です1825年(文政8)に豪潮律師により三千人講が起こされ、1833年(天保4)に建てられたもの四面に描かれた梵字は豪潮律師(1749~1835)の筆によるもので仏画師としても優れ、「釈迦三尊像」、「十六羅漢像」を白山長瀧寺に寄進している白山長瀧寺大講堂と手前の弁財天堂辨天池を潤す延年水夏でも枯れる事はなく、この地では古くから五穀豊穣、悪疫鎮静のためにこの霊水を神仏に供えるという白山参拝者はこの霊水を薬水として利用したとされ、白山頂上の千陀ヶ池から来ていると伝わっています辨天池後方の石段は薬師堂に続きます素木造りの拝殿全景拝殿内の奉納額、二匹の龍が鮮やかに描かれています毎年、1月6日には約1000年の歴史があり国指定重要無形民俗文化財の「長滝の延年」がここで奉納されますその際に格子天井の四角い穴から吊るされた花を奪い合い、これを持ち帰ると家内安全、商売繁盛に御利益があるとされ、「花奪い祭り」と云われています格子天井の一部がないのはそのためです 拝殿内から参拝します拝殿側面軒先の柱がこの地の雪深さを物語っているような拝殿左の長瀧寺大講堂寺号の長瀧はここを創建した泰澄が、夢の中で女神から霊泉があるとのお告げを受け、山中に分け入りり見つけた阿弥陀ケ滝に由来しています白山禅定道の三馬場(長滝白山神社、平泉寺白山神社、白山比咩神社)のひとつで白山白山登拝の拠点として「上り千人、下り千人、ふもと千人」と云われるほど賑わったと云われます往時は六谷六院、神社三十余と三百六十坊を誇ったといわれますが、今はその面影はありません長瀧寺大講堂創建 / 718年(養老2)泰澄が法相宗の寺院として創建(伝承)、828年(天長5)天台宗に改宗本尊 / 釈迦如来像拝殿左の長瀧天満宮長瀧天満宮の左奥に湧き出る「白山千陀ヶ池霊泉」その昔、泰澄大師が白山に住む千匹の毒蛇を千陀ヶ池に封じ込め万年雪で蓋をして封じ込めた霊水は腹薬として親しまれている境内左脇に祀られる児御前社と竃神社、中央に見えているのが越南智社神殿域には五社が整然と並び、 左から大将軍社、白山三社(越南智社、白山大御前社、別山社)と一番右に若宮社が祀られています中央に祀られる白山大御前社主祭神 / 伊弉那岐大神/伊弉那美大神/菊理媛大神境内右脇に祀られる稲荷神社と神明神社と中央に見えているのが別山社越南智社の左に祀られている大将軍社別山社の右に祀られているのが若宮社5社が整然と並ぶ姿を収めるのはなかなか難しいようです現在は火災の後に神明造に改められていますが、以前の作りは違っていたそうです拝殿内で祭礼の準備に追われる中、お声がけして頂いた巫女さんから教えて頂いたのに、この期に及んで忘れてしまいました白山登山の事など色々と話しも弾みましたが、幾度か火災にあいながらも守り続ける現在の社殿とこの地に対する思いは並々ならぬ誇りのようなものが伝わってきました神仏習合の寺として栄え白山登拝で栄えた賑わいは今はなく2019/09/20長瀧白山神社創建 / 717年(養老元年)、泰澄により白山中宮長滝寺として創建(伝承)住所 / 岐阜県郡上市白鳥町長滝138
2019.11.03
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紅葉の話題も耳にする様になりました 紅葉目当てに訪れるにはまだ少し早いけれど以前から訪れたかった「苗木城址」と「永保寺」を訪れてきました 朝8時00に守山スマートICから高速で中津川ICを目指す 相変らず学びの無いドライバーが多い、ドライブレコダーは高速の1時間少々の状況を録画していきますグーグル先生の到着予想時間より10分程遅れ、9:20分に苗木城第一駐車場に到着ここが苗木城址に一番近い駐車場、早朝の苗木城址を訪れる方々の車が数台停まっていますが余裕で駐車出来ましたかみさんは駐車場からゆっくりと城址へ向かうおっさんは一旦駐車場から下った先の鳥居から「高森神社」を目指します鳥居から続く細い参道は高森山の尾根に続いています竹と杉が生い茂る山道を10分程登りが続きますが、静かな森に朝陽が差し込み清々しいものがありますあまりの静けさに熊、猪の存在を思い出す、歩きながら柏手を打つ事にこれが森に良く響く事、効果があるかは?ですが、気休めにはなる途中の分岐を右に進み頂きの先に覆屋と鳥居が見えて来ます朝一番、いきなりの登りはきついものがある、息は乱れるものの無事に到着「高森神社」苗木城の守護神であった竜王権現を祀り、高森山の眼下を流れる木曽川から南方を守護覆屋の下には3社が祀られていますが詳細は分かりませんかみさんと合流しなければ途中の分岐を右に折れてここまで来ましたが、左に進むと駐車場方向に続くようですとは言え、来た道を戻ります途中の風穴を見がてら駐車場へ龍王院跡でかみさんと合流写真スポットとされますが、この時期のこの時間帯は見事に逆光になります大矢倉の石積は今も当時の面影を残しています苗木城址天守展望台高森山の頂、自然石の巨岩を利用し、幾種類の石積工法を駆使して造られた天守現在は展望台となっていますが、柱の位置は当時の跡にそのまま作られています自然石には今も石ノミの跡が残ります展望台からの眺望は木曽川、恵那山、廃線となった北恵那鉄道の橋梁も一望できますこれに山々の紅葉が彩を添えれば絶景です 展望台を後に本丸口門に戻り、左側の細い道から本丸石垣の下を回り込むように天守南あたりにある八大龍王大神へ天守を支える壁の様にそそり立つ自然石、それらの間に神社は祀られていました苗木城別名霞ヶ城と呼ばれ、岩村城を拠点に恵那を統治した遠山氏の木曽川右岸進出の拠点として元弘年間に築城された山城現在は遺構のみですが場内の石積工法は多様住所 / 岐阜県中津川市苗木2897-2(苗木遠山資料館)※10月30日城山大橋付近でクマが目撃されています だからといって何ともしようがないけれど「クマ出没注意」「満天星一休」栗きんとんの付いた栗おこわが今日の昼食岐阜県中津川市苗木岡田2531-1時間は12時、ここから国道19号線で多治見方向に戻り虎渓山「永保寺」へ至って順調に流れる国道19号線、高速で戻ろうがたいして時間は変わらない1時間で永保寺に到着、無料駐車場から永保寺に向かう途中には寒桜が咲いていました紅葉と桜の時期で知られる永保寺ですが、さすがに紅葉には程遠く、訪れる方はまだ少ないひっそりとした境内に国宝の開山堂、観音堂が佇んでいます虎渓山 永保寺住所 / 岐阜県多治見市虎渓山町1-40栗を引きずるかみさん次の目的地は車で10分程の多治見市内にある梅園菓子舗のどら焼きを目指すようです梅園菓子舗創業大正5年の老舗和菓子店、外観にも趣があります住所 / 岐阜県多治見市新町1-2-6かみさんの言うにはこちらの目玉は「栗バター入りどら焼き」らしいどら焼きを買い求め、嬉しそうに車に戻ってきました家に帰ってからのお楽しみと言う事です時間は14時30分それではこのまま下道で家に戻ろう、少し遅めのおやつタイムが楽しみです2019/11/01
2019.11.02
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