仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2023.08.15
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カテゴリ: 国政・経済・法律


記事の最後に記した文献に基づくお勉強により、感染症の歴史との関わりを。
(構成と要約は当ジャーナル)

1.病原体との共存
●狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ。人口が増えて定住。また、人手必要で人口集中。家畜飼養で動物との接触。
 →エピデミック(流行)が発生。
●通常は、特定地域のエンデミック(風土病)として出現 →流行繰り返して免疫機能働き収束。
●しかし、人の移動が容易になると、エピデミックが出現。
 →さらに、世界同時の感染爆発(パンデミック)も。
●家畜との共存が進んだユーラシアは古くから免疫獲得。南北に細長いアメリカ大陸は免疫弱く、スペイン人征服者の天然痘持ち込んで被害(ジャレド・ダイヤモンド)


●スパルタ軍の侵入を拒んだが、城壁内に入った避難民から衛生状態悪化。3分の1が死亡(トゥキュディデス『戦史』)、指導者ペリクレスも感染死亡、無政府状態(扇動政治家)。スパルタに降伏。

3.ローマ帝国の衰退=史上初のパンデミック
●AD2世紀のパルティア遠征の帰還兵が持ち込む(アントニヌスの疫病。 天然痘 か)。
●人口減少で経済衰退。五賢帝から軍人皇帝時代に。ゲルマン人の流入(→民族大移動へ)
●疫病の不安により、ローマの神々から、新興宗教へ。
  ←キリスト教=肉体の死を恐れるな。この世からの解放。
●3世紀半ばには、キプリアヌスの疫病(アレクサンドリアで3分の2が死亡)。
●ミラノ勅令(313年)でキリスト教迫害を停止

4.漢王朝の疫病
●2世紀後半の後漢で飢饉と疫病 →黄巾の乱(張角)で、動乱へ。

●東アジアでは、感染症への不安の解消の役割を担ったのが仏教。仏図澄による布教。漢人の僧釈道安。印度人鳩摩羅什が漢語に翻訳。

5.日本最古の疫病=崇神朝の疫病
●記紀にあり。崇神即位5年目、人民の半数が死亡。
●大神(おおみわ)神社を建てて大物主(国つ神)を祀る。また天照大神を祀る伊勢神宮の起源など。=崇神(第10代)が、疫病を契機に神道を確立。
●それに先立つ神武東征神話は、九州から大和への人の移動でないか。晋の疫病とも関係かも。


●ナイル川河口から、ペルシアとコンスタンティノープルに流行。 ペスト (腺ペスト)。帝国の人口半減。ササン朝ペルシャも疲弊。
●インドから交易を介して流入したか(マクニール)。
●両大国の中間のアラビア半島からムハンマドが現れ、イスラム国家を建設。(アラブ人は免疫持っていたのかも。)
●なお、530年ハレー彗星接近(天変地異の兆し。また、冷夏もたらし飢饉で免疫力低下とも。)

7.日本の状況
●高句麗南下で百済が日本に救済求める。聖明王が欽明天皇に仏像と仏典を送る(仏教公伝)。
→公伝の後に疫病始まった(日本書紀、敏達天皇の記載。 天然痘 か)。
→物部氏(疫病を持ち込んだ仏教を受容せず)と蘇我氏(百済人を受容)の対立。

8.エピデミックと政権崩壊(その1) =天平の病疫、長屋王の祟り
●藤原四兄弟が権勢確保のため、長屋王に自害を強要=長屋王の政変(729年)
●大陸では、半島統一した新羅と唐が対立、また、唐は則天武后の混乱から渤海が建国される。
●渤海王が朝貢使節を平城京に送り、これを見た新羅から735年(天平7)に日本への朝貢を廃止の通告に来た新羅使を日本が追い返す。
●同じ735年、太宰府管内で 豌豆瘡 (えんどうそう)が発生(続日本紀)。 天然痘 だろう。経路は新羅使なのか、遣唐使(734に帰国)なのか。
●2年後の737年(天平9)には再び大宰府に「瘡のできる疫病」が流行(続日本紀)。おそらく 麻疹 (はしか)。前年(736)に、聖武天皇が新羅に派遣した使節が、待遇を受けられず無念の帰国途上の対馬で阿倍継麻呂が病死。都にもひろがり、病死者には舎人親王や藤原四兄弟(←長屋王の祟りとされた)。100-150万人(当時の日本人口の25-35%)が死亡との推計も。
●聖武天皇は、減税(調の停止)、国分寺と国分尼寺の建立。その総本山として東大寺と大仏、法華寺。光明皇后の施薬院、悲田院。
●なお、天平パンデミックと同時期にアッバース朝で流行。初代カリフが天然痘で死亡(754年)。前年に長安で玄宗皇帝を前に宴会で両国の遣唐使が同席している。

9.同前(その2) =早良親王の祟り
●仏教勢力の介入を嫌う桓武が藤原種継の進言で長岡京遷都を決定。これに抵抗する興福寺など奈良仏教勢力が、桓武実弟の早良親王を擁立。種継が何者かに射殺され、桓武は早良親王を流罪、早良は断食して憤死(785年)。桓武はさらに北の山背国に平安京建設を命じる(現地豪族の秦氏が協力)。最中に再び豌豆瘡(天然痘)が流行。桓武一族にも広がる。早良の祟りとして、崇道天皇を追号。さらに、平安京を守護する東寺西寺を建設。
●(桓武の遷都に関しては下記の記事もご参考に願います。)
優れていた仙台のインフラ条件 (2022年3月5日)

10.祇園祭とケガレ思想
●平安前期(貞観-延喜、859-923、清和-醍醐天皇)は疫病と自然災害(富士大噴火、貞観地震)の激しい時代。
●まず、史上初の 赤痢 の流行(←平安京の排水の悪さか)。次いで、咳逆(しわぶき、日本三大実録)=史上初の インフルエンザ 流行か。915年 天然痘 が流行。
●災害と疫病を起こす怨霊を祀る「御霊会」が貞観5年(863)神泉苑で行われる。貞観11年(869)には、祇園(八坂)神社から神輿を出して全国の怨霊を鎮魂する儀式が始まる=祇園祭の起源。
●血や死を忌み嫌う風潮が強まる。死穢(死が感染する)の思想から、嵯峨天皇は死刑を停止。死体放置させぬため、検非違使を設置。
●菅原道真の失脚(昌泰の変、901年)を仕掛けた藤原時平の急死、醍醐天皇の親王らの死、清涼殿落雷(930)で、北野天満宮。
●この時期(8-10世紀)は地球規模の中世温暖期の始まり。また、東アジアの地殻変動が活発な時期=貞観富士大噴火(864年)、貞観地震(869年)、十和田火山噴火(915年)、白頭山大噴火(926年か946年。→前者なら渤海滅亡(926年)を招いたのか)。
→これらの火山灰が寒冷化と飢饉を招いたと考えられないか(867年から新羅でも疫病と飢饉、唐では黄巣の乱(875-)。)

11.ハンセン病
●感染力弱く大量死もないが、顔面や手足の変形が祟りや罪業の報いとみなされ差別や隔離が行われた。
●日本では、延喜式(平安中期)で清められるべきケガレとして、白人(しらひと)が該当するとされる。他方で、光明皇后の救済や、忍性(1217-1303)による救済事業。
●大谷吉継(秀吉政権の奉行、敦賀城主)が失明(ハンセン病説と梅毒説)。
●明治期には、宣教師リデルが熊本に施設を設置。貞明皇后の下賜金で、らい予防協会。
●明治40年らい予防法で隔離政策(光田健輔)、共同生活で断種手術も。昭和6年らい予防法改正(無らい県運動=放浪や在宅の患者をなくす)で、昭和15年熊本の本妙寺事件(患者集落に踏み込み施設に強制収容)。実際には収容を拒み放浪する患者も(松本清張「砂の器」)。
●1943年特効薬プロミンの有効性が確認される。遺伝病も否定された。
●しかし日本政府は隔離政策を続行。らい予防法廃止は平成8年。

12.史上最凶の感染症、黒死病( ペスト
●1348年フィレンツェで流行(デカメロン)、ヨーロッパ人口の3分の1死亡=14世紀ペスト世界的流行
(このとき港外に船を40日間待機させる→quarantineの語源)
●中国(元朝末期)では3分の2が死亡(ペストか)→紅巾の乱で崩壊。
●14世紀ペストパンデミックは、中世ヨーロッパの精神世界を一変。カトリック教会の権威失墜、ユダヤ人差別、死や骸骨を扱う絵画(メメント・モリ)、ラテン語から俗語の文学(ボッカチオ、チョーサー)、スコラ哲学から解放→科学革命、宗教革命へ。
●ヨーロッパ最後の大流行は1665年ロンドン大ペスト。ロンドンの7分の1死亡。原因不明ながら隔離防護措置は認識された。患者出た家を1か月封鎖(家族外出させず)、経済に打撃、監視人や死体運搬人に日当支払い。翌1666年ロンドン大火(当時シティは木造家屋)でペスト終息。
●1894年英領香港で発生、北里柴三郎とイェルサン(仏)がほぼ同時にペスト菌を確認。ネズミ等の体内に寄生し、ノミを媒介して感染。腺ペストが固くなり前身転移して黒紫色になり、さらに肺ペストに至ると数日で致死。感染率高い(飛沫)ので、移動制限が必須。
●原生地は、ヒマラヤ山脈の風土病(有力説)
=6世紀ユスティニアヌスのペストは、インド貿易船がエジプトへ。1894年香港ペストは、雲南に出兵した中国兵が持ち帰った。14世紀流行は大理国を滅ぼして帰還したモンゴル兵が持ち帰り、ユーラシア内陸交通のグローバリズムが前提条件になったか。

13.新大陸と 天然痘
●ローマ帝国を衰退させ(アントニヌスの疫病)、天平の疫病もたらすが、人類の破滅的災厄は、大航海時代のアメリカ大陸(先住民に免疫なかった)。1492年コロンブスがハイチ来航、1518年同島で天然痘発生、先住民だけが感染し、人口25万人の大半が死亡 →西アフリカから奴隷貿易に。→マラリアなど熱帯性感染症がアメリカ大陸に。
●コルテスが1519年メキシコ上陸、1521年アステカ王国(推定25万人)を滅亡させる。この間、天然痘がアステカを襲っていた。
●1531年ピサロがペルー上陸、インカ帝国(推定人口600-800万人)の首都クスコに入城(1533年)する ←インカに天然痘が蔓延(スペイン人は被害受けず)。さらに欧入植者(麻疹など)とアフリカ奴隷(マラリアなど)が疫病持ちこむ。 →カトリックに改宗すすむ。
●北米は小さな部族集団が分立。17世紀英仏が入植。天然痘が広がる。

14.天然痘との戦い(免疫獲得)
●天然痘はユーラシア大陸でも小規模な流行を繰り返し、人痘(微量感染で免疫)の接種が中国やオスマントルコで行われた。→自然状態の致死率30%(ペストに匹敵)が2-3%に。ヨーロッパでは人痘接種は忌避されたが、スチュアート朝(アン女王)に続くハノーヴァー朝(1714年)ジョージ1世の家族が天然痘に。モンタギュー夫人が人痘を広める。
●安全性が懸念だったが、町医者ジェンナーが牛痘から安全な種痘法を開発。英政府が1840年公認(人痘接種を禁じる)。スペイン国王カルロス4世も採用、植民地中南米の人口減少にも歯止めに。
●日本では承応2年(1653)、明から人痘が伝わるが普及せず。牛痘が英国の20年後に伝わる。ルートは2つ。
(1)(蝦夷地経由)陸奥国の廻船問屋五郎治が択捉島に上陸したロシア兵に捕縛され、ロシアでジェンナー種痘法を習い、1812年(文化9)蝦夷地に戻る。和人が持ち込んでアイヌ人に天然痘が広がっていたが、日本初の種痘実施で効果。
(2)嘉永1年(1848)長崎オランダ商館の独人医師モーニッケが佐賀藩主鍋島直正の依頼で牛痘接種に成功(←牛少ないので発症した子からワクチンをつくる方法)。緒方洪庵(大坂)などが広める。安政5年(1858)幕府が公認、神田お玉ヶ池(岩本町)に私営種痘所(のち幕府直轄の西洋医学所)。
●慶応2年12月(1867年1月)攘夷派の孝明天皇(宮中で西洋医学禁じた)が急死。天然痘か。維新後、新政府も種痘を制度化(3度の義務化)。→明治42年種痘法。
●昭和31年以降は日本国内で発生なし。なお、昭和49年度生まれまで、右肩に種痘受けている(昭和50年接種停止)。
●1980年WHOは天然痘の世界根絶宣言。1984年米ソ各1か所で天然痘株の冷凍保存を合意。

15.産業革命による新たな感染症(その1)= 結核
●産業革命により、農業に代わり都市部の工場雇用で人口の大移動。上下水道インフラ間に合わず、生活環境と労働環境が劣悪に。 → 結核 コレラ が蔓延する。
●結核菌は、らい菌(ハンセン病)と近縁で、飛沫・空気感染で肺に定着。感染から発病に1-2年を要し、(家族間発症が多いことから)遺伝病と疑われ、差別も。顔色が青白くなる(白いペスト)。放置すると血痰や喀血、重症化すると結核性髄膜炎や脊椎カリエスに移行し、後遺症。正岡子規、樋口一葉、石川啄木、梶井基次郎、堀辰雄。
●紀元前3千年の中国長江流域の広富林遺跡(上海市)、紀元前1千年のエジプト遺跡のミイラ、弥生後期の青谷上寺地遺跡(鳥取市)人骨などから脊椎カリエス痕が確認される。縄文人骨にはないことから、長江流域の弥生人渡来で、結核菌が列島に上陸したか。
●清少納言「枕草子」で病の筆頭に(胸)。
●14世以降ヨーロッパでの流行で集団免疫でき、近縁のハンセン病も激減したの説も。
●産業革命以降に猛威。←大気汚染の影響(結核菌は紫外線に弱い)。日当たりと換気が悪いと感染広まる。日本でも明治期「国民病」に。
●1921年仏でBCGワクチン(カルメットとゲラン)、1944年米で特効薬ストレプトマイシン(ワクスマンら)が開発。サナトリウム隔離収容(不治の病)から脱する。

16.産業革命による新たな感染症(その2)= コレラ
●コレラは、経口感染が特徴。←→ 飛沫・空気感染(ペスト、天然痘、麻疹)。飲食物が消化器官に達するのだが、大半のコレラ菌は胃液で死滅。クリアして小腸下部で増殖すると、下痢嘔吐。患者の排泄物吐瀉物が、手に触れ飲食物に混入して感染拡大に。
●コレラ菌が腸管からナトリウム吸収を阻害するため、急激な脱水症状と低カリウム血症。重症化すると水下痢が止まらず数時間でチアノーゼ(血中酸素濃度減少)や血圧低下、痙攣や昏睡で死に至る。死亡率高いため、日本ではコロリとも。
●もともとベンガル地方(バングラデシュ)風土病で、巡礼者によりインド各地に運ばれエピデミック。英の植民地支配で、19世紀に世界規模パンデミックに。1817年英領ベンガルで発生のコレラが、シンガポール、清朝広東港に上陸して感染拡大に。文政5年(1822)長崎に入港した清国船がもたらし(朝鮮経由説も)、西日本で猛威。1831年メッカで蔓延し、イスラム教巡礼者が世界に拡大。ギリシャ(オスマン帝国と独立戦争)、ロシア(ギリシャに援軍)、ドイツや北欧(バルト海交易)にも拡大。ベルリン大学のヘーゲルも落命(1831年)。英にも上陸し5万人死亡。1830年代には英領アイルランドの移民から米にもたらされ、西部開拓とともに天然痘やインフルエンザとともに、コレラも拡大し先住民の人口を激減。
●医学界の論争。原因は、瘴気(汚染された空気)か(ヒポクラテス以来)、有害な微生物(細菌)か(19世紀新説)。←患者と直接接触なくとも爆発的に広まるので、瘴気説も優勢。
→1854年ロンドンのコレラは1か月で616人が死亡。スノウ(疫学の父)は瘴気説を疑い、感染経路を徹底調査し、共同ポンプ井戸が感染源と特定。ポンプ付近で肥溜めの汚水が地中に漏出していた。
→チャドウィック(公衆衛生の父)が上下水道の完全分離を働きかけ。
→しかし原因物質は特定できず。センメルヴェィス(ハンガリー)がウィーン総合病院で、死体解剖に従事した研修医に助産立ち合い前の手洗いを徹底することで、妊婦死亡率を激減させる。また、外科医リスター(英、口腔消毒薬リステリンの名の由来)がフェノール(石炭酸)による消毒法で化膿を防止。
→さらに顕微鏡の実用化で、パスツール(仏)が微生物の自然発生説を否定。
→コッホ(独)は、炭疽菌(1876年)、結核菌(1882年)に次いで、コレラ菌発見に成功(1883年)。また、抗体の有無を確かめる試薬ツベルクリンを開発。
→北里柴三郎(コッホ研究所で破傷風菌の抗血清を開発)が帰国後の明治25年、伝染病研究所と結核専門病院(土筆ヶ岡養生園)を設立。明治27年にはペスト発生した英領香港にわたり、ペスト菌を発見した。(1週間後にイェルサン(仏)も発見)
●日本では、安政5年(1858)ミシシッピ号が下田に来航、乗員にコレラ感染者あり広がる。江戸(100万都市)で10-30万人が犠牲。狐狼狸(ころり)、虎狼痢(ころり)、箇労痢(ころり)などとも。開港後はコレラのエピデミックが外国人排斥に拍車。明治10年、マカオから長崎に入港の船でコレラ発生、九州に広がる。西南戦争鎮圧に徴兵され罹患して日本各地に帰還して、コレラ死者は10万人以上に。患者の隔離や移送をめぐり官憲と衝突するコレラ騒動が各地で発生(衛生問題が治安問題に)。
●明治6年、内務省が発足。初代内務卿大久保利通は、衛生行政を文部省から移管して衛生局(内局)を設置。初代衛生局長は長与専斎。(後に、後藤新平、北里柴三郎も。)
●明治19年、衛生局通達でコレラ予防のため石灰酸の消毒、患者の回復や死亡の後10日間出勤や登校を禁じた。日清戦争の帰還兵が遼東半島からコレラやチフスを広島(大陸派遣軍大本営)に持ち帰る。→似島に大規模な検疫所(石黒忠悳、後藤新平)。コレラとチフスの拡大抑止に成功。
→日清戦争の経験から、防疫課設置、伝染病予防法(明治30年)。日露戦争で戦病死者を減少。

17.インフルエンザ
●19世紀後半から、顕微鏡により主要な感染症の病原体(細菌)が発見された。しかし、天然痘(種痘法確立したが)、狂犬病、小児麻痺(ポリオ)、黄熱、インフルエンザ、風邪の病原体は発見できず。
●アフリカ植民地化の最大の障壁は、マラリアと黄熱。野口英世(黄熱で死亡)は、黄熱の病原体が細菌より微細で発見できず。1892年、ベイエリンク(蘭)は、細菌(単細胞生物)よりはるかに微細のウイルスを発見。ウイルスの構造がわかるのは1960年代。
●ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに分類される。(←→生物は細胞内にDNAとRNAの二種類がある。)
●DNAウイルス =遺伝情報安定で制圧が容易。
→天然痘(種痘法で撲滅)など
●RNAウイルス =DNAコピーの際にエラー起こし変異しやすい。
→インフルエンザ(毎年流行)、新型コロナなど。風邪症候群の3-5割はライノウイルスで、免疫力で自然治癒する。インフルエンザは感染力が強く、史上最悪が スペイン風邪 のパンデミック(1918-19)で、感染約5億人、死者0.4-1億人。原因は第一次大戦での米陸軍基地から感染者を欧州戦線に派兵。
●スペイン風邪は、横浜や神戸の商船から日本にも上陸。竹田宮恒久王、島村抱月、辰野金吾などが犠牲。マスクの習慣も始まる。


■参考とした文献
茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』 2023年、KADOKAWA

■関連する過去の記事( 仙台・宮城と感染症
水の森公園の叢塚と供養塔 (2023年08月03日)
仙台とコレラ流行の歴史 (2022年9月19日)
芋峠 (2021年8月9日)
芋峠(仙台市)と感染症 (2020年11月28日)
鈴木重雄と唐桑町 (2016年6月19日)
宮城の民間医療伝承 (2011年9月4日)
明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院 (10年9月3日)

■関連する過去の記事( 疫病や感染症に関する民俗
世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など) (2022年12月14日)
疫病と向き合う東北の民俗伝承 (2022年6月8日)
民俗信仰と東北 (2022年6月4日)
鬼剣舞と念仏踊りを考える (2022年6月2日)
魔よけと東北を考える (08年2月10日)

■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが)
ついに見た!米川の水かぶり (2023年02月09日)
中新田火伏せの虎舞 (2013年4月29日)
ハンコタンナと覆面風俗 (2015年2月1日)
塩竈の「ざっとな」 (2011年2月27日)
奇祭 鶴岡化けもの祭 (2011年1月3日)
民俗信仰と東北 (2022年6月4日)(弘前市鬼沢)
岩木山信仰とモヤ山 (2022年5月30日)

■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの)
西馬音内の盆踊り (2012年8月5日)
ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性 (2022年5月29日)
秋田美人を考える(再) (2022年5月11日)
日本三大美人と秋田 (2016年1月31日)
小野小町 (2011年7月23日)
秘密結社とナマハゲ (2011年6月4日)
海の民、山の民 (2010年12月25日)
秋田美人を考える (2010年12月23日)
秋田ナマハゲは秘密結社か 再論 (2010年5月20日)
なまはげと東北人の記憶を考える (10年4月27日)
秋田なまはげは秘密結社か (07年8月13日)





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最終更新日  2024.01.29 08:32:39
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