仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.08.03
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カテゴリ: 仙台



■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。

(以前の記事)
仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛) (2025年07月24日)
仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)
仙台藩の罪と罰を考える(その1)

1 仙台藩の刑場

磔や火罪という死刑を執行するために、仙台藩は早くから処刑場を設置していた。最初は、仙台城下の広瀬川端の 琵琶首 に、牢屋とともに設置されていたようだが、寛文6年(1666)に、牢と一緒に 米ヶ袋 (現在の片平市民センター)に移され、さらに、元禄3年(1690)に処刑場だけ仙台城下からかなり北に離れた、奥州街道沿い 七北田 村に移され、その後変更はなかった。

牢が米ヶ袋に残された理由は、おそらく、主として未決囚を拘禁したので、藩の中心的な裁判所である評定所(花壇。現在の評定河原球場など)から遠くない場所に置く必要があったのだろう。

しかし城下の市街化が進んで、米ヶ袋近辺に人家も増え、処刑場だけが田舎だった七北田に移されたのだろう。

2 死刑の種類
(おだずま注:仙台藩の刑の種類は、 仙台藩の罪と罰を考える(その1) (2025年07月21日)を参照ください。)

現在の死刑は死刑囚の命を奪うことだけが目的で、できるだけ苦痛を与えない執行が求められるが、江戸時代は幕府、諸藩とも、 はずかしめと苦痛を与えることが重視

武士に対しては、重い順に
・牢前において斬罪
・牢前において切腹
・その身屋敷にて切腹
の3つが法定された。もっとも極めて重大な犯罪は、武士の身分を剥奪して庶民に行う方法で執行することもあった。


(1)竹鋸にて挽き磔
(2)火罪
(3)磔
(4)獄門
(5)切り捨て
の5種類が規定される。

(1)は、幕府の鋸挽き(日本橋のたもとに座らせ首だけを地上に出して2日間さらした後に処刑場で磔にする)と同様と思われる。仙台藩では芭蕉の辻(札の辻)で3日間さらして処刑場で磔にした。なお、幕府の鋸挽は主殺しのみで親殺しは磔だけだが(忠を孝より重視か)、仙台藩は双方ともこの刑とした。
(2)火罪は放火犯に対する刑で、幕府と同様。同害報復(タリオ)の典型。遺骸はそのままの形で7日間(支障日を除くとびとびの期間)その場にさらされ、近くの被差別民が番人に動員された。
(3)磔は、幕府同様に柱に縛って左右から二本の鑓で突いて死なせるもの。多くの種類の重大犯罪に対して用いられる。執行人は城下の被差別民が動員される。遺骸は(とびとびの)5日間その場にさらされ、近くの被差別民が番人とされた。
(4)獄門は、幕府と同様、獄門台に斬首した死刑囚の首を置いて3日間さらした。多様な犯罪に用いされた。この語は、もと中世に斬首した首を獄舎の門にかけたことから出ているようだ。
(5)切り捨ては単なる斬首で、さらしは付加されない。単純な殺人などに科せられる。一人殺せば一人死ぬというタリオと言えるだろう。

3 付加刑

獄門と切り捨てについては、首のない遺骸が刀の切れ味を試す様物(ためしもの)に利用された。幕府では単純な斬首の刑(下手人、げしゅにん)より重い死罪と獄門が、様物となった。代々の山田朝右衛門(首切り朝右衛門)が様物をした御用浪人として有名だが、仙台藩にも同様の人物がいたのかもしれない。

また、幕府では死罪以上の死刑には、田畑、家屋敷、家財を没収する闕所(けっしょ)が付加され、下手人には付加されなかったが、仙台藩はすべての死刑に闕所が付加された。

4 みせしめとしての死刑

死罪は上記のように、犯罪の凶悪度に応じて、はずかしめと苦痛を与えることを眼目としたが、他方で、公開処刑やさらし刑の付加を通じて、多くの領民や家臣に重罪はむごい死刑に処されるとの意識を植え付けること (一般予防)の効果を狙った ことも明らかだ。例えば、重大犯罪の死刑囚が執行以前に死亡した場合は、遺骸を塩漬けにして保存して刑に処する(屍仕置き)こともあったから、疑いない。

5 引きさらし

死刑囚は牢から処刑場まで連行されるが、重大犯罪では、はずかしめの一環として、馬に乗せて人々に見せしめる「引きさらし」が付加された。江戸幕府の場合は、浅草(小塚原)と品川(鈴ヶ森)の二か所あったが、死刑囚を馬に乗せてにぎやかな江戸市中を引き廻した。仙台藩の引きさらしの道順は、牢から北目町に出て、一度南下して土樋、北上して荒町、連坊、寺町の八塚(やつづか)、名掛丁、大町、国分町、さらに北一番丁から八番丁まで北上して北山を廻り、七北田に向かった。

6 所仕置き

死刑は藩設置の刑場だけでなく、犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村でも実施された。仙台藩では「その所にて火罪」「本所において磔」などと示された。これは、どの藩でも行っていることで、有名なものでは国定忠治が嘉永3年(1850)に関所を破った上州大戸近辺の処刑場で磔になり1500人以上の観衆が出たという。仙台藩でもとくに近世前期は、所仕置きがたいへん多く、例えば元禄16年(1703)12月18日に全16件35人の死刑判決が下されたが、所仕置きが12件28人と圧倒的に多い。これは、みせしめの効果を狙ったためである。とくにこの頃は密通事件に対して科される例が目につく。

しかし所仕置きは、民衆に負担を強いるものだった。処刑場作りの負担、死刑囚の搬送に伴う食事の世話や不寝番、また、処刑に立ち会う役人に対する食事などの世話と動員された被差別民に一日100文の旅費を負担するなど。

おそらくこうした民衆の負担を緩和する配慮か、藩は享保14年(1729)に、所仕置きとする犯罪を、(1)放火、(2)5人以上の徒党、(3)不忠不孝、(4)所を騒がせた者(村方騒動)、の4つに限定した。殺人は以前から対象外だったようだが、盗みがこの時点から除外されたので、所仕置きの数はだいぶ減ったのではないか。

ここで、仙台藩がみせしめの効果を特に狙ったのは、(1)(2)(4)の地域的・集団的法益侵害行為(当時の放火は広範な類焼をもたらした)と、(3)の封建道徳侵害行為だった、と考えられよう。これに対して、殺人は個人的法益侵害行為で所仕置きにする必要がなく、盗みも同様なので除外されたと考えられる。もっとも、数は減っても幕末まで所仕置きを実施したので民衆の負担はなくなることはなかった。

7 被差別民の差別意識

死刑執行人や死骸のさらし番として仙台城下や村近辺の被差別民が動員された。村人にとっては、それまでよく知るものを鑓で突き殺す被差別民を恐ろしいものと映ったに違いなく、その恐怖が裏返しとして差別意識を大きくしたのではないか。すなわち、藩の採用した死刑制度なかでも所仕置きが、仙台藩領でも差別意識の強化につながっていたのだ。

■関連する過去の記事
 フリーページ「 戦国・藩政期の仙台・宮城 」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。
(主なものは下記)
仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑) (2025年08月10日)
仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑) (2025年08月08日)
仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰) (2025年08月05日)
仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛) (2025年07月24日)
仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)
仙台藩の罪と罰を考える(その1) (2025年07月21日)
芦東山記念館を訪れる (2013年5月7日)
仙台藩の刑制と流刑地 (10年2月10日)
芦東山と江戸期の司法制度 (08年10月2日)
仙台藩の刑場 (07年9月3日)
仙台藩の牢屋 (07年8月19日)
仙台藩の法治体制 (06年11月20日)
岩手の生んだ大学者の芦東山 (06年3月29日)





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最終更新日  2025.08.19 22:25:33
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