仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.08.10
XML
カテゴリ: 仙台




1 刑罰の中心としての追放刑

現在の刑罰は自由刑が中心だが、江戸時代は死刑と追放刑が主として利用された。追放刑は、ただ追い放すだけで監視をつけないものが多く、さほど効果的な刑でないとも思われるのだが、なぜ多用されたのか。

古代社会では、死刑という報復もあったが、よく行われたのがその団体からの追放だったとされる。例えば凶暴な素戔嗚尊が高天原から追放された。ドイツの古い時代には、罪を犯して団体から追放された者を見つけた者は、追放された者を殺す義務を持ち、死骸は放置されて鳥のついばむままにされたという。古い時代には追放刑は死刑と同等あるいはそれに次ぐ重い刑だったのだ。
(もっとも、素戔嗚の追放を刑罰とみることはできないという有力な批判もあるし、ドイツ古代の追放について最近は違う評価もあるようだ。)

鎌倉時代になると、追放刑に新たな意味合いが付け加えられる。すなわち、犯罪が生じた地域はその犯罪でけがれたとみなされ、清めるための方法として犯人を地域から追放するという意味である。犯人を死刑にすると新たなけがれを生むことになるので、中世社会では死刑制度がなかったという指摘もあるし、また、清めるためには犯人の住宅なども焼くなど処分する必要があったという。つまり、追放刑はお祓いの役割を担ったのだ。死刑がないのだから、追放刑が最も重要な刑罰として用いられたのは当然だろう。

しかし、室町から戦国には、死刑も復活し、犯罪をけがれとみる意識も少し薄れたか。むしろ、追放刑は、厄介者を支配地域から追い出すことに主眼が移ったのではないか。とはいえ、ある大名が支配地から追放することは、逆に他大名との間で厄介者をやりとりするだけで、根本的解決にならない。加えて、経済や交通が発達して追放されても生きるのに困らないから、幕府の刑罰体系では軽い刑罰とされる敲き刑や入れ墨刑よりも、重い刑罰のはずの追放刑にされた方がずっと良いという者も表れる始末。
(やくざ者が江戸払いを受けても、江戸周辺で勢力富五郎、国定忠治、清水次郎長などの大親分に世話になり、いざ喧嘩出入りの際には加勢をして恩義に報いればいい。)

このように欠陥のあった追放刑の問題をよく認識した八代徳川吉宗が改革する。享保7年(1722)に諸藩でもみだりに追放にしないよう大名に命令している。



2 江戸幕府の追放刑

追放刑には大きく2種類がある。一つは、特定地域を指定するタイプ。例えば盛岡藩で「田名部牛瀧へご追放」「雫石へご追放」など、悪質度に応じて辺境の地域を指定する。

もう一つは、ある一定の地域(=お構い場所)以外はどこにいてもよいとするタイプで、幕府が採用した方式。入ってならない「お構い場所」は、例えば寛保2年『公事方御定書』下巻第103条「お仕置き仕形の事」に規定される「重追放」では、武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、甲斐、駿河、がお構い場所に指定されている。「中追放」だともっと狭くなり、「軽追放」になると江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光、日光道中だけになる。さらには、江戸十里四方追放(日本橋から半径5里)、江戸払い、所払い、などもあった。

これらの区別が複雑だったからか、3年後の延享2年(1745)には、お構い場所はすべて江戸十里四方、住んでいる国、犯罪をした国、だけに統一される。そのうえで、闕所(けっしょ)の対象で区別することになった。すなわち、重追放では田畑、家屋敷、家財を取り上げ、中追放は田畑、家屋敷を、軽追放は田畑を取り上げることで区別した。

3 仙台藩の追放刑

仙台藩は元禄16年(1703)に『評定所格式帳』を制定するが、それ以前はやはり他国へ追放している例が目立つ。ただし、武士が軽い罪を犯した場合は城下十里四方追放などもあるので、領内の追放刑もあったか。元禄期になると、これらのほかに、「三本木川を限り追放」「三郡追放」「二郡追放」「一郡追放」「本所追放」など、種類が多彩になる。

ところが、享保7年の幕府の追放刑制限令を受けて、5代吉村の仙台藩も、凡下の他国追放は止める。しかし、武士に対しては他国追放は残した。こうして、近世中期に確立した仙台藩の追放刑は、武士と凡下に共通として、「遠き川切り追放」「三郡追放」「二郡追放」「一郡追放」「城下追放」の5種類があり、武士のみに「他国追放」が、凡下のみに「一村追放」が科せられた。

遠き川切り追放とは、凡下の他国追放の代わりに採用された形式で、領内を一迫川を中心に南北に分け、北の地域で罪を犯した者は、阿武隈川・宮川の南に追放し、一迫川より南で犯した者は、北上川より北に追放するというもの。これは、盛岡藩の辺境地域指定と同視することもできるし、(阿武隈川・宮川以北、北上川以南を)幕府の「お構い場所」とした追放刑とみることもできる。

なお、近世前期には「近き川切り追放」もあり、(北上川より城下に近い)三本木川北部に、或いは(阿武隈川・宮川より城下に近い)名取川南部に、それぞれ追放するもの。

三郡追放は、城下及び罪囚の居住した郡と周辺二郡をお構い場所とするもの。例えば、城下居住の町人ならば、城下と宮城、名取、黒川の3郡がお構い場所になる。二郡追放も同様に城下と居住郡と周辺一郡、一郡追放は城下と居住郡がお構い場所になった。一村追放は、城下とその農民の居住した村をお構い場所とした。

なお、追放地までの護送は、徒歩での護送は付き人2人、伝馬の護送は馬子の他付き人2人などとある。付き人は足軽と思われるが、休憩や宿泊などやはり宿駅は負担があったと思われる。



流人と違い、追放された者に援助が行われた形跡はない。おそらく自活が当然視されたと思われる。このため、追放されても身寄りの仕送りが受けられるならともかく、一般の凡下の生活は大変だったのでないか。生活苦のほか、様々な理由で元の居住地に戻ってしまう者(追放立ち帰り)が多かったようだ。監視が付いているわけではないので、立ち帰りにさほど困難はなかったろう。

もちろん藩主は立ち帰りの処罰を強化するが、『格書抜(かくかきぬき)』第43条「ご追放立ち帰り者、お仕置きの事」によると、藩は延享2年(1745)に、3度までは元の通り追放、4度目には死刑にするが、元の罪が軽い場合は遠き川切り追放にする場合もあると決めている。立ち帰りを大目に見る態度があったのではないか。

さらに『諸令聚要』では、「遠き川切り追放」未満の刑には、財産没収刑である闕所(けっしょ)
が付加されない。つまり、三郡追放以下の刑に処された者は、曲がりなりにも元の生活基盤が残されたので、おのずから立ち帰る者も多くなったのだろう。

これら追放刑も無期刑であったが、流刑と同様、赦(しゃ)によって解放された。赦に浴す経過年数は、凡下の遠き川切り追放は5年以上、三郡追放以下は3年以上とされた。



以上のように仙台藩は幕末まで追放刑を利用し、拘禁施設を作ることもなかった。しかし、まったく対策を立てなかったわけではなく、近世中期になって、追放刑と労働刑を結び付けて、使いやすい被追放者を家臣や町村役人に与えて労働させるとともに監視下に置く「奴刑」の採用である。

仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)に続く

■関連する過去の記事
 フリーページ「 戦国・藩政期の仙台・宮城 」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。
(主なものは下記)
仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑) (2025年08月10日)
仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑) (2025年08月08日)
仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰) (2025年08月05日)
仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛) (2025年07月24日)
仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)
仙台藩の罪と罰を考える(その1) (2025年07月21日)
芦東山記念館を訪れる (2013年5月7日)
仙台藩の刑制と流刑地 (10年2月10日)
芦東山と江戸期の司法制度 (08年10月2日)
仙台藩の刑場 (07年9月3日)
仙台藩の牢屋 (07年8月19日)
仙台藩の法治体制 (06年11月20日)
岩手の生んだ大学者の芦東山 (06年3月29日)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2025.08.19 22:24:34
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

コメント新着

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

▲ 画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: