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10月の中旬頃、早朝に目覚めた私は、ふと「見島」に行きたいという想いが込み上げてきた。するとすぐに「ジーコンボ」という言葉が脳裏に浮かび・・・聞いたことがあるな・・・と調べてみると、その「見島」にある遺跡の名称とわかった。・・・行くべき時が来た・・・ということで、ほとんど下調べもせずに、渡航時間だけを調べて、萩のフェリー乗り場に直行した。「上」の画像は、出航したばかりのフェリーから、萩城址の裏山となる「指月山(143m)」の北側を撮影したものである。萩(山口県萩市)の市街に行くと、必ず目に止まる「指月山(しづきさん)」だが、北方の海上から眺める姿は新鮮だった。そして、この「中」の画像は、同じく出航してすぐの海上から、東方の「笠山(112m)」を撮影したもので、その山の名称の由来となった「市女笠」の雰囲気を感じ取ることができる。☆関連記事・・・2012年08月02日・萩の散策〔1〕(萩城~笠山) 目指す「見島」は、山口県の最北端に位置しており、萩市沖の 北西約45キロメートルの日本海上にある。「下」の画像は、その島に向かう中間あたりで海上を撮影したものだ。素晴らしい晴天の中だが、周囲を見渡しても何も見えず、ただ空と海が全方位に広がるだけである。この何も目印のない海原を見ていて、明治以前の交通手段は「船」が主流だったと聞くが、古代の人々は船で航行する際には、それなりの羅針盤もあったろうが明るい昼よりも暗い夜を選択して、目当てとなる天空の星座や一際輝く星々を頼りにしていたのではないか・・・と思いを馳せるのだった。
2012年10月31日

「直感」を頼りに散策してきた九州中部地域だったが、その最後の訪問地は「熊本城」となった。その「熊本城」の美しき姿を、この「上・中・下」の3枚に絞り込んだのが今日の画像である。「熊本城」を訪れるのは今回が初めてで、今まで全国各地の様々な城の佇まいを見てきたのだが、こんなに見惚れてしまうほど美しいと思ったのは初めてである。この「熊本城」は江戸時代の初期、城造りの名手と言われた「加藤清正」が普請した城で、「武者返し(むしゃがえし)」と呼ばれる「石垣」の機能美に、私は特に強く魅かれた。話は変わるが、この日記を書いている本日10月25日は、奇しくも「島原の乱(1637)」が起きた月日である。この月日を皮切りに、ほぼ同緯度で有明海を挟み、東西に分かれて対峙することになった「熊本城」と「島原城」を想う時、いわゆる血生臭い闘争の枠を越えたところにある「歴史の醍醐味」のようなものを感じる。時代は今、歴史が生み出してきた「対立」のわだかまりが解けて、少しづつ「和睦」へ向かう過程にあると信じたい。この度の「九州中部地域の歴史探訪」は、その大きな「和睦(融和・統合)」へ向かうべく、天空の「十字架」たる「南十字星」を、中国・四国・九州地方に古くから描かれていたであろう東西南北は大地の「十字」に結ぶという、その締め括りの旅路ではなかったかと、改めてそのように感じる今日この頃である。(完)
2012年10月25日

10月13日の早朝、素晴らしい日の出を堪能した私は、今回の旅路の最後の目的地となった「熊本城」に向かう前に、以前から気になっていた熊本県八代市の「八代神社(妙見宮)」に参拝した。「上」の画像は、その八代神社の境内を撮影したものだ。ご祭神は「天之御中主神」と「国之常立尊」の二柱とされているが、明治以前は「妙見大菩薩」が本尊であり、廃仏毀釈によって本尊は取り去られ、代わりに現祭神が祀られるようになったということである。いずれにしても、その祭神の本質は、「北極星」と「北斗七星」の天体であり、北極星を中心とする星神信仰ということができ、当神社の由来書にも同様に記されていた。この「下」の画像は、境内にある「亀蛇碑(きだひ)」を撮影したもので、その由来は「古来中国では亀蛇(がめ)のことをビーシーと言い、背中に大山を乗せてもビクともしないところから、重い務めも確実に遂行する力を持っていると信仰されてきた。」とあった。おそらく、この「亀蛇」とは四神(しじん)の一で、亀の甲に蛇が巻きついた形にあらわす「北方の守護神」であり、天空の北を指標する「北辰」(北極星と北斗七星)を意味する象徴であろう。そういえば・・・昨日の日記では〔南方〕の「南十字星」に思いを馳せ、今日の日記では〔北方〕の「北極星」と「北斗七星」に思いを寄せることになるとは・・・南北の和解というか「陰陽和合」へ向けての模索をしているかのようで、なかなかに感慨深いものがあった。ちなみに、毎年11月22・23日に行われる「妙見祭」は、「九州三大祭り(八代妙見祭・長崎くんち・箱崎宮放生会)」の一つで、国の重要無形民族文化財に指定されている。
2012年10月24日

宿泊した天草の温泉ホテルの翌朝(10月13日)は、素晴らしい朝日を体感することができた。その日の出前から日の出までを、「上→日の出前」・「中→日の出の直前」・「下→日の出」と、三段階に分けて撮影したものが、今回掲載した三枚の画像である。これらの画像から何となく確認できるように、夜が白々と明けてきて太陽が昇るまでの光は、「青緑(あおみどり)」なのだそうだ。ちなみに、その「青緑の光」を分光器で調べると、約500ナノメーターの波長とのことである。この早朝の「青緑の光」を浴びると、脳内の「メラトニン(時計ホルモン)」の分泌量が変化し、それによって生体のリズムが調整されることになる・・・これが病気を予防し、健康な毎日を送ることに結びつくそうである。(☆関連記事・・・「青緑の光」)そんな健全で理想的な朝を迎えて、私の心に浮かびつつあったのは、今回の旅路の総括めいたものであった。そこで今回の旅路によって包括的に抱いた〔直観〕とは、九州の「西」となる長崎方面を散策することで、私の心中に描かれた西日本の東西南北たる「薩・長・土・肥」の「十字」が改めて結ばれ、それはキリスト教の象徴である「十字架」にもつながり・・・はたしてその意味するところの本質とは、天空に輝く「南十字星」をあらわしているはず・・・であった。そして、この「南十字星」を信仰や祈りの対象としてきた背景には、さらに歴史をさかのぼるとすれば、太古のレムリアやムーの豊かに栄えていた時代に生きた人々が、この星座を特別な《心のよりどころ》としてきたところにあるのではないか・・・と、そんな想像を巡らしてしまう自分がいた。・・・もしかするとこの美しき朝日は、ぼろぼろの古い衣を脱ぎ捨てた、新しい時代の曙を告げていたのかもしれない。・・・
2012年10月23日

今回の旅路が、結果的に・・・キリシタンの聖地を訪ねる巡礼でもあったのでは・・・と感じた私は、天草四郎の生まれた「天草」を経由して帰ることにした。そのため、島原半島の南端の口之津港から、フェリーで車ごと天草へ渡ることに。そこで「上」の画像は、島原城から少し南下したところにある「雲仙岳災害記念館」の駐車場から、今でも少し噴煙を上げている普賢岳を撮影したものである。そして、この「中」の画像は、その普賢岳(平成新山)の山頂部を拡大したもので、その今にも噴火しそうな佇まいを見ていると、大自然の息吹というか強い生命力を感じた。さらに半島を南下していくと、あの「島原の乱」の激戦地となった「原城跡」などがある。この南島原の地は16世紀、南蛮船との交易で大いに栄えたと伝えられ、それと同時にキリシタン文化も成熟していき、教会やセミナリヨなど多くの南蛮建物が建てられて、町の人々は南蛮襟をつけていたともいわれている。また、往時に南蛮貿易港として栄えた「口之津」は、天正7年(1579)リオネル・デ・ブリットの船でヴァリニャーノ神父が上陸し、キリシタン布教の根拠地となり西洋文化の窓口として世界に知られるようになったとのことである。「下」の画像は、島原半島の口之津港から天草下島の鬼池港に渡り、その港近くの海岸から島原半島方面を撮影したものだ。画像中央の、やや右寄りの高い山系が、あの雲仙普賢岳を含む山並である。その日は、かなりくたびれていたこともあり、天草の温泉に泊まることにした。その迷いに迷ってようやく見つけたホテルは、天草諸島でも熊本市に近い「大矢野島」の温泉宿だった。さて「天草下島」には、まだ日の高いうちに渡れたので、海を見ながら走れる西海岸側の通称サンセットラインを通り、西日に光輝く大海原に魅せられながら「天草上島」を経由して、宿泊地の「大矢野島」に向かった。道中には数々の教会が点在し、異国に来たような感じも・・・。その温泉ホテルは、苦労して見つけただけあって、海と星が見える素晴らしい展望の源泉かけ流しの露天風呂があり、大いに癒されたのを覚えている。後で調べてみると、この「大矢野島」は、かの「天草四郎」の生誕地ということがわかり・・・なるほど、これは導かれている・・・と、改めて実感した次第である。
2012年10月22日

さて今回の旅路は、「小浜温泉」での宿泊までは想定内だったが、その後のことは考えていなかった。ところが、その温泉旅館で入手した付近のガイドマップにより、自分が「島原半島」にいることを知り、あの「島原の乱」で聞こえた「島原城」が、同じ半島の東側にあることを認識することとなった。(※私にとっては、あの「天草四郎」のイメージが強すぎたためか、「島原城」は「天草諸島」にあるとばかり思っていたのだ。)実はかねてより、いつか「島原城」には行っておきたいと思っていた私は、これを機会に見学してみようと意欲が出てきて、途中にある日本初の国立公園(雲仙天草国立公園)に指定された温泉保養地の「雲仙温泉」に入浴してから行くことに・・・。宿泊地の「小浜温泉」で朝湯を済ませ、車で山を登って「雲仙温泉」に行き、まず幕末には吉田松陰も入浴に訪れたといわれる「小地獄温泉」に入浴、そしてすぐ近くの国民宿舎にて内風呂と離れの露天風呂も味わうことができた。「上」の画像は、温泉入浴の途中に訪れた「雲仙地獄」の敷地内で、一番モクモクと噴煙を上げていた場所を撮影したものだ。久しぶりに硫黄の強い香りを嗅いだ私は、何だかとても嬉しくなったのを覚えている。(そこで食べた、熱々の温泉卵も美味かったな~!)・・・ということで、その「雲仙温泉」では3回、そして「小浜温泉」の朝湯を入れると計4回の温泉三昧を堪能の後に、初めての「島原城」へ行くことに・・・。その「島原城」の城内に駐車して、復元された天守閣を撮影したものが「下」の画像である。翌日は「不知火まつり」とのことで、その祭事の準備であわただしかったのを覚えている。その天守閣の中は、「島原の歴史」が陳列された多くの展示物と共に記されていて、特にキリシタンの歴史を読んでいるうちに、今回の九州中部地域の散策は・・・キリシタンの聖地を訪ねる旅路でもあった・・・という想いが湧いてくるのだった。五島列島の「福江島」には多くの教会があったし、後で分かったことだが長崎市の「伊王島」は、自治体人口に占めるカトリック教徒の比率が日本で最も高かった地域とされ、加えて「雲仙温泉」は、キリシタン 殉教悲史の舞台ともいわれている。ここで思い出したのは、かつて日記に書いた以下の「夢日記」であった。◎「夢日記」・・・2005年7月20日の日記・『「愛」を知る体験 』
2012年10月21日

10月11日の午後5時半頃、長崎港に到着した私は・・・何とか夕暮れまでに市内の南方にある「伊王島」に辿り着くことができたらと・・・ということで車を走らせた。渋滞もあったのだが、ギリギリ夕暮れの残り香が漂う、伊王島の先端にある「伊王島灯台公園」の展望台から、西方にある五島列島は福江島方面を意識して撮影したものが「上」の画像である。この長崎市の「伊王島」は、本来は伊王島と沖ノ島の2つの島からなり、この両島を合わせて「伊王島」と呼んでいるそうである。ある古代史研究家によると、イザナギとイザナミの「六島の島生み」の際に、五番目に生んだ島が「知訶(ちか)の島(五島列島の福江島)」で、六番目に生んだ島が「両児(ふたご)の島」を、上述の2つの島からなる「伊王島」と想定されていた。そして・・・その「福江島」と「伊王島」は東西軸で結ばれている・・・とのことで、「伊王島」から見て真西にある「福江島」を展望してみたかったというわけである。後日、この両島の緯度を詳しく調べてみると、「伊王島」の先端は「福江島」の、あの美しい海浜の「高浜海水浴場」に結ばれていて・・・なるほど・・・と、深い感動に包まれた。さて当日の宿泊地は、島原半島は西側の橘湾沿いにある「小浜温泉」だった。今来た道を戻り、長崎市内を経由していくことになるので、それでは是非「ちゃんぽん」発祥の店、中華料理「四海楼」にて老舗の味を食したいということで寄ることに・・・。この「中」の画像は、その創業明治32年「四海楼」の、現在の玄関を映したもである。この大きな店舗の5階が展望レストランになっていて、お陰様で長崎の夜の美しき町明かりを展望しつつ、本家の「ちゃんぽん」の味わいを堪能することができた。一杯が千円に満たないリーズナブルな値段で、とても美味しかった。それからの食後の道中も、なかなかの道のりだったのだが、「小浜温泉」に着いたのは午後9時頃だったであろう、素泊まりでも貸切の展望露天風呂に入浴でき、源泉かけ流しの温泉にどっぷりと浸かって、ここ数日の疲れを癒すことができた。「下」の画像は、翌12日の朝に、宿泊した「小浜温泉」の旅館前にある公園の防波堤から、橘湾を望んで西方の長崎半島方面を展望したものである。狙い通りというべきか本日、地図上で調べてみると、「福江島」と「伊王島」そして「小浜温泉」の3つの地点は、ほぼ同じ緯度、すなわち東西軸で結ばれていたのであった。そう・・・実は今回の長崎方面への前半の旅路は、以下の関連記事にあるように、西日本の『菱形構造』における〔西端〕の地域を体感する機会だったわけである。☆関連記事・・・2012年08月30日・《西日本の「南北軸」に絡む『菱形構造』
2012年10月20日

前回に続いて「上」の画像は、玉之浦湾に映える「御岳山」である。この美しい山は、玉之浦の地域を散策する中で、何故かいつも私の目に映っていた。どうやら山頂部に、大きな岩らしきものが見える。気になったので役場の観光課で聞いてみると、古くから湾内に入ってきた魚の群れを獲るための網を仕掛ける際に、この山の山頂にある見張り所から山見の旗が振られるなどの指示が出て、大量の魚を水揚げすることができたそうだ。実は私の父方の先祖に、山口県下関市の「湯玉(ゆたま)」という地名の、西海の響灘に面した漁村で、江戸時代の初めに「大敷網漁(※)」を発明した御方がいたようで、その網で一挙に大群の魚を獲る漁法が、五島列島は福江島の今の「玉之浦(たまのうら)」の地域に伝わり、地名も「湯玉」の「玉」をいただいて「玉之浦」になったという伝承がある。(※江戸時代の初期、豊浦郡(現在は下関市)湯玉で発祥した「大敷網漁」は、五島や対馬に伝わり、やがて西日本の各地に広がり、沿岸漁業の中心的な役割を担うようになった。)おそらく・・・先祖の血が繋がっている・・・という感覚が私のどこかにあって、今回の福江島行きになったような、そんな気配も感じているところである。そういえば、私のペンネームの「たまのを」は、恐れ多いことではあるが・・・山口県東部の周防国一の宮「玉祖(たまのおや)神社」の祭神「玉祖命」の「玉」に由来するという感覚もあったのだが、「湯玉」や「玉之浦」の「玉」にも繋がっているのではないか・・・あるいは、私の「軸線」で作る立体造形も、人々の心を掴んで離さない「網目模様」のようにも観えてきて・・・などという感じも抱き始めた今日この頃である。次にこの「中」の画像は、その「玉之浦」の小浦に鎮座する「大山祇神社」と、その境内の参道にある「アコウの木」の巨木を映したものだ。神社には参道に生えるその「大樹」の木の又をくぐって参拝することになっており、また境内には「大岩」も顔をのぞかせていて、古式ゆかしき「ひもろぎ・いわさか」の古神道の息吹を感じさせる、威風堂々とした佇まいであった。そして「下」の画像は、同じ「玉之浦」にある〔空海(弘法大師)〕ゆかりの「大宝寺」の門前を撮影したものだ。ガイドブックを調べてみると、大同元年(806年)、〔空海〕が唐から帰国の際に大宝に立ち寄り、この「大宝寺」において〔真言宗〕の開祖〔空海〕が、最初の道場として布教活動をしたことから、「西の高野山」といわれるようになったそうである。またこの寺には、〔空海〕と同時期に活躍した〔天台宗〕の開祖〔最澄〕が寄進した仏像があるとされているので、いにしえの遣唐使時代からの法灯を今に伝える古刹ということになろう。この古寺への参詣を最後に、一路フェリーターミナルのある福江港へ戻り、長崎港へ・・・。
2012年10月19日

さて次に向かったのは「高浜海水浴場」で、ここを映した眺めは「上」の画像で、このシリーズでは三枚目となった。観光資料を調べると、この砂浜は日本一美しいと全国的にも有名とのことで、「日本の渚百選」や「海水浴場百選」に選ばれている。また同海水浴場は、日本の最西端に位置しており、日本で一番最後に沈む夕日を眺めることができるそうだ。私がここに到着したのは、まさに正午ジャストの時間で、西方に向かって青色の濃淡に輝く海原を見ているうちに、カメラを持ったまま思わず手を合わせてしまうほど、美しく神々しい風景であった。この「中」の画像は、福江島の南西端は「玉之浦」にある大瀬崎灯台を、近くの大瀬山(250m)山頂から西に向かって撮影したもので、その断崖の地層は、あざやかな縞模様である。また、ここから眺める東シナ海は、まさしく紺碧に輝く大海原であった。そして、同じ場所から映したものが「下」の画像なのだが、山頂にある手前の「岩」には方向性があると感じたので、早速持参した方位磁石で調べてみると、明らかに「冬至の日の出」の方向を示していたので、その東南東の方位に向けて撮影したものである。この山頂部は、この地域一帯を護衛するという意味でも、古代から重要スポットだったであろう。
2012年10月18日

10月9日の夜は、福岡の知人と久しぶりの再会、夕食を共にしてカラオケに行き、深夜まで語らいと歌唱を楽しんだ。そして翌10日は、また別の知人と午前中に福岡市美術館で開催中の「古代エジプト展」を見学、昼食は明太子料理専門店で「元祖博多めんたい重」を美味しくいただき、午後は福岡市博物館で開催中の「能のかたち」を堪能した。そして同日、福岡に来てから決めた五島列島は福江島への渡航のために長崎へ。宿泊した繁華街に近いホテルのフロントで、長崎とくれば「チャンポン」ということで美味しい店を紹介してもらったが、中国人の経営する家庭的なお店で、とても旨かったのを覚えている。晴天となった11日の早朝、いよいよ五島列島の福江島に高速フェリーで渡航。到着した波止場でレンタカーを借りた。日帰りだったので、島には約7時間の滞在となる。レンタカーの事務所で手続きをする際に、担当者に簡単に福江島の案内をしてもらったのだが、これがなかなか要領を得た上手な案内で、限られた時間で島内を周遊するには抜群のアプローチだった。さて今日の上の画像は、島内の北部にある「城岳」の展望所から北西方向を見た風景である。車を走らせていると、なぜかフト登りたくなり、辿り着いたところが山頂近くの展望所だった。周囲を見渡すと、全体としてなだらかな山並みが印象的で、透き通った紺碧の海も美しく映え、離島特有とも思しき自然の醸す醍醐味を実感することができた。また道中の「遣唐使ふるさと館(道の駅)」に寄ると、近くに遣唐使船の寄港地があったことを知り、当時は「みみらくの崎」と呼ばれた現在の「柏崎」を訪れた際に映した写真が下の画像である。かつて日本と中国の公式交易において、第14次遣唐使船から五島経由となり、「美祢良久(三井楽/みみらく)」が日本の最後の寄港地になっていて、第16次遣唐使船(804年)で唐に渡った「空海(弘法大師)」もここを訪れているとのことだ。下の画像に映る石碑は、空海記念碑で「辞本涯」と書かれていて、「日本のさいはての地を去る」という意味合いである。(背景の島は「姫島」)往時はここ福江島(古くは「知訶島(ちかのしま)」)が日本の最西端と認識されていたようで、図らずもこの地に立たせていただき、この島から命懸けで中国に渡った先人の勇気と偉業を垣間見た思いがした。つづく
2012年10月18日

十月の初旬から約一週間、まるで何者かに導かれるかのように、私は「九州中部地域」の歴史探訪に出かけることになった。まず初日は、太宰府にある九州国立博物館の常設展示室で開催されていた特別企画「芦屋釜と館蔵茶道具」の展示を見に行った。この「芦屋釜」については、その製作場所だった北九州の芦屋に何度か足を運んだことがあり、「芦屋釜」に関する詳しい展示のある施設「芦屋釜の里」も訪れたことがある。簡単に「芦屋釜」の特徴とは・・・制作が始まった鎌倉時代から名声を博し、室町時代には一世を風靡した「茶の湯釜の名器」が芦屋釜であり、芸術性、技術力に対する評価は今なお高く、「国の重要文化財」に指定されている茶の湯釜9個のうち8個までを芦屋釜が占めている・・・とのことだ。今回、その常設展示室に陳列された「芦屋釜」の数々を見ていて、強く印象に残ったのはその「色合い」だった。特に近年に複製された茶釜の色合いを観ていると、「備前焼」の茶器の色合いに重なって見えてきたのは不思議である。もしかすると・・・古くより「紫蘇色」を器の色合いの理想としてきたとされる「備前焼」の作陶家たちは、古くより名声を博した「芦屋釜」の色合いに似せて製作していたのでは・・・などと、ひとり展示室で妄想を逞しくして楽しむ私だった。さて、今回の画像は、今回の旅路で一番印象に残った景色を映したものだ。その場所等は、次回からの歴史探訪の旅路シリーズのなかで紹介していこう。
2012年10月17日

2012年10月07日

今日の画像は上も下も共に、「正7角形」を立体化した一つの造形を、それぞれ別の角度から映したものである。この「立体7角形」については、ブログでは何度も取り上げてきたが、特に10月に入ってからは頻繁に意識するようになっている。この「正7角形」は、例えば「正3角形」から「正10角形」までの2次元平面上の作図において、コンパスと定規だけでは描けない形とされているのだが、もう1次元を加えた3次元の立体的な発想で取り組んだ場合に、画像の造形のように明確に表現できるというわけだ。思い返せば、その「立体7角形」の構成法を自分なりに確立できたのは1995年であった。その構成法とは、「正8面体」の軸線構成を単位として、これを円環状に7つ組み合わせるのだが、画像の造形では7つの正8面体で構成されていることが分かるように、7色で色分けしてある。ちなみに、この角形表現の展開バージョンの場合、「立体8角形」が「全開」となる最終到達の形状となる。ところで、この画像の造形が生まれた当初は、「八開(はちかい)」という名前を付けていた。例えば日本の紋章における数解釈でこの造形を見るとすれば、7つの角の「7」に中心を「1」として加えた「8」を、この形状をあらわす数とみなすことになる。そこで、この形状の「8」の位置を示す中央部が「開いた」かたちになっているので、名前を「八開」としたわけだ。さてここで、「正6角形」をイメージしてみよう。これを6つの「正3角形」が隙間なく円形状に並べてでできた「平面」を意味しているとすれば、「正6角形」の中心部は「閉じた」形状ととらえることができる。今、私の心に湧く想いとは、この「閉じた」状態の「正6角形」の中心を・・・いかに開くか・・・いかにして「開いた」状態にできるか・・・というのが、もしかすると平面図形としては殆ど馴染みのなかった「7角形」の立体版たる、この「立体7角形」に託されているのではないかということ。下の画像は、この「立体7角形」を真横から映したものだが、例えば富士山頂のお鉢のような、この造形上部の7つからなる「正3角形」の《開き加減》に、「閉じた6角形」の言わば「7」の世界から「開いた7角形」の「8」の世界へと、スムーズに転換する手懸りが隠されている気がするのだ。その「7(6角形)」の閉じた世界から「8(7角形)」の開いた『光』の世界への転換・・・これがうまくいけば「八開(はちかい)」となる末広がりの新世界の到来につながり、もしうまくいかなければ「破壊(はかい)」への元の木阿弥の世界につながるのでは・・・。かように世界は今、次なる世界へ向けた際どい模索の最終段階にきているけれども、この「立体7角形」を上手に活用することによって、ひとりひとりの「心の扉」が開かれ、『真実』を直観できるようになり、世界をよりよい方向に転換できるのではないかと、なぜかそのように感じる今日この頃である。
2012年10月06日

先月末の「霧島」への訪問によって、山口と九州を貫く[西日本・南北軸]を、私のなかで改めて強く感じることができた。そこで今日の画像は、「山口と九州を貫く南北軸」の軸線上において、山口の南方にある若宮海水浴場(宇部市東岐波)の遠浅の砂浜から、瀬戸内海を挟んで九州方面を撮影したものだ。上の画像の中央部に、とりわけ高く聳える山が「由布岳(1583m・大分県由布市)」で、この撮影場所か見て、ほぼ真南に当たる山である。ちなみに、この由布岳の手前に見える山並みの中に、豊前一の宮の「宇佐神宮」や、その神体山の「御許山(647m)」が存在していることになる。さてこの度、その[西日本・南北軸]の南方の、霧島を含む鹿児島県東部の「大隈」方面を行脚して、より深くその地域を体感できたことにより、浮かび上がってきた歴史があった。それは奈良時代から平安時代にかけて活躍した「和気清麻呂」の足跡に関してである。なぜか私は清麻呂公に特別の親近感があるというか、京都に行くときは必ずといっていいほど「護王神社」に参拝することになるし、たまたま墓所のある京都市高尾の「神護寺」に参詣したり、近年では出生地に鎮座する「和気神社」(岡山市和気市)にも参拝することになった。また、西暦769年の「宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)」で舞台となった「宇佐神宮」には、毎年のように参拝するし、特に今年は神体山の「御許山」への登拝も許されたかたちとなった。詳しい事績や足跡については歴史教科書等に譲るとして、ここで取り上げたい清麻呂公の足跡とは、「大隈」への配流についてである。つまり歴史的には、いわゆる「道鏡事件」によって、清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪としたとあるが・・・なぜ流罪の地が「大隈」だったのだろう・・・という私なりの疑問があった。そのあたりをネットサーフィンで調べていくと、どうやら「和気氏」と豊後の「宇佐」と「大隈」は、「秦氏」という一本の糸で結ばれているらしいのだ。今回は縁がなかったのだが、鹿児島県牧園町に清麻呂公を祀る和気神社があるとのことで、その地域は西暦720年の「隼人の乱」が契機となって、往時の中央政権の意向により「宇佐」方面から秦氏一族が大挙して移住してきたとのことである。・・・ということから、その清麻呂公の配流先の「大隈」は、和気氏と関係の深い秦氏が既に大きな拠点を作っていたことが考えられ、また清麻呂公の関係で取り上げてきた上述の各地域は、「鉱物資源の産地とその開発」という共通項も見い出されるとのこと。加えて、金鉱山・錫鉱山・銅鉱山など、この「大隈」を含む鹿児島県域が、日本有数の鉱物資源の宝庫だったことは、意外と知られていない事実なのだそうだ。そこで思い出したのは、備前にある清麻呂公の出生地に鎮座する「和気神社」に参拝の折、宮司から直接の話を伺った際に、境内に「狛犬」の代わりに置かれている「狛猪(こまいのしし)」とは、「秦氏」ととらえる解釈が、諸説はあるが最も信頼性が高いとのことであった。(※例えば、土木建築などで〔蓑傘〕などを着て作業にあたる「秦氏」の姿が、動物の「猪」の姿かたちにダブって見えたのではないかというわけである。)ちなみに、鎌倉時代初期に「薩摩・大隅・日向」の3か国の守護に任ぜられた「島津氏」は、「秦氏」の子孫ということである。以上、記してきたことに思いを馳せていると、この[西日本・南北軸]の軸線上には、鉱物資源の豊富な産地が随所に見い出され、その資源の争奪や開発を含む隠された歴史が浮かび上がってくるようで、実に感慨深かった。ところで、冒頭でも書いた山口県央部の南方にある若宮海水浴場の海岸には、今から約9000年前の縄文草創期からの遺跡である「月崎縄文遺跡」があり、この瀬戸内に浮かぶ「姫島」(大分県姫島村)で産出される[黒曜石]を、この浜辺で加工し交易していたとのことだ。下の画像は、この海岸近くで最近見つけた喫茶店のテラスにて、潮騒を前景に遠く九州の山並みを展望しつつ、知人と上述の会話等を楽しんでいた時に、夕暮れの西空に現れた「彩雲」を撮影したものだ。・・・・・一瞬ではあったが、それはまるで美しく輝く「宝玉」のようであった。・・・・・
2012年10月05日

一泊二日の訪問ではあったが、この度の「霧島」行きで得られたものは、以前からこだわっている「山口と九州を貫く南北軸」の私なりのポイント地点に、「霧島山」と「志布志」が明確に加わるかたちとなったことである。「霧島山」とは、高千穂峰(1,574m)と韓国岳(1,700m)の間や周辺に連なる山々のことで、本日の掲載画像はその「霧島山」の全体像を、南方の「上野原縄文遺跡」のある高台から撮影したものである。ちなみに、この「上野原縄文遺跡」は、南に鹿児島湾や桜島、北に霧島連山を望む、鹿児島県霧島市東部の標高約250mの台地上にあり、約9,500年前(縄文時代早期前葉)には縄文人の定住した集落(ムラ)がつくられていたところで、今回も併設されている「縄文の森展示館」を知人と共に訪ねることができた。そして「志布志」とは、南北軸の最南端となる市名の一つで、古代より栄えてきた貿易港の志布志港があり、また毎日飲んでいる「乳酸菌」の培養液として活用する「霧島山系の天然水」が、志布志市志布志町が採取地だったことなどから、ポイント地点として強く印象付けられた。加えて、大隈国一宮は鹿児島神宮(霧島市隼人町)の元宮とされ、神宮からも近い『石體神社』(いわた・しゃくたい)に、今回初めての参拝を許され、私的感覚としては古式ゆかしき「隼人族」の磐座信仰の佇まいを体感することができた。この『石體神社』は、現在は安産の神様として有名であり、これは鹿児島神宮の御祭神である山幸彦のお妃神である豊玉姫命が鵜草葦不合尊を御安産の故事によるもので、「いわた帯」の発祥の地ともいわれている。由来書によると、この『石體神社』の位置は、御祭神の夫婦神が都として高千穂宮を経営された正殿のあったところで、708年に現在の鹿児島神宮の位置に遷ったとある。しかし私なりの感触としては、この『石體神社』の磐座信仰は、「隼人族」の始祖とされ、山幸彦の兄の「海幸彦」を祀る風情が感じられ、とても懐かしいというか暖かい雰囲気だったのを覚えている。今回の霧島訪問において、鹿児島神宮の元宮である『石體神社』にお参りできたことで、上述の「山口と九州を貫く南北軸」とは別の軸線、すなわち「富士山」と「笠沙岬」の両端を結ぶ〔夏至の日の出・冬至の日の入を示す軸線〕が、より身近になったという実感があった。つまり東端の「富士山」から「朝熊山」⇔「玉置山」⇔「室戸岬」⇔「足摺岬」⇔「霧島山(霧島神宮)」⇔「石體神社(鹿児島神宮)」、そして西端の「笠沙岬(野間岬)」までの、日本神話に記された「ニニギ命(夏至の朝日の光芒)御一行(天空の星々)」の天孫降臨ルートが、ようやく自分のなかで一直線に・・・つながった・・・という、ある種の一体感が生まれたのである。その意味においても、私にとってこの度の・・・隼人の地「霧島」・・・への訪問は、とても充実した「手ごたえ」なるものを感じたところである。
2012年10月03日
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