おしゃれ手紙

2017.11.11
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カテゴリ: 読書


十八歳のお妙は父をすでに亡くし、母も二年前から寝ついているが、兄・義姉と平穏な日々を送っていた。
一方、四十年にもわたる仇討ちの旅を終えた六十歳の奈倉甚九郎という老人がいた。
彼は敵の死亡を藩の不手際で知らされることなく、十五年も無駄歩きしていたのだが……(「短日の菊」)。
自選短編集『これからの橋』三部作完結。


これからの橋・雪 ■■ 「これからの橋・月 ■「これからの橋・花」の三部作で時代小説。
時代が分かるところを残しておく。
☆印は、感想や調べたこと。
茶道★宗旦(そうたん)さまいうたら利休居士の三世、大変なお人どっせ。
利休様の没後、跡継ぎの少庵さまは、会津の蒲生氏郷(がもううじさと)さまに預けられてはりました。

本法寺前にお住居(すまい)やったときいてます。

少庵さまはもう死なはりましたけど、宗旦さまは利休さまの茶湯を頑なに守るため、人も驚くほど質素な暮らしをしてはるそうどすわ。

☆■ 勘当された宗拙を除く3人の息子が ■それぞれ武者小路千家(次男:一翁宗守)、表千家(三男:江岑宗左)、裏千家(四男:仙叟宗室)を興した。
これら3家は、「三千家」として現代まで続いている。
★江戸時代、琵琶湖の南に位置する大津は、東国や北陸諸国から船で運ばれてくる諸物産の集散地として栄えていた。
諸大名たちは自領の年貢米を、米相場をにらみ、少しでも高く売りさばくため、大津に回漕していたのだった。

☆■ 江戸時代に大津は再興。
琵琶湖を往来する船業者の組合・大津百艘船の本拠が置かれ琵琶湖水運の拠点となる。
また東海道の宿場である大津宿(天領)は、物資運送と人々の往来で繁栄する。

 ★佐兵衛が働いている大西家は、江戸初期からつづく釜師の家で、当代の浄本で八代目だった。
千家十職の一つに数えられ、これは表千家、裏千家、武者小路千家などが指定した十人十職の呼称。
千利休の指示にしたがい、楽長次郎の製陶以後、歴代家元の好みの道具を作って来た職人を、大正期になり正式にこう呼びはじめたのである。

☆■ 明治期 ■の説もあり。

これが慶長七年(1602)、二条城の造営に際し、風紀を慮った幕府の命で、六条三筋町に移された。
さらに約四十年後の寛永十七年(1640)七月、(略)突如、荒涼とした田野の朱雀町に移転を命ぜられた。
この命令がいきなりだったため、(略)六条三筋町の狼狽は激しく一時、小屋を建て雨露をしのぐありさまだった。
先年の寛永十四年から翌年にかけ、肥後で島原の乱が起こっていた。
この移転の混乱が、戦乱の様相に似ており、京童たちが「あたかも島原の乱のごとし」と噂したのが、島原遊郭の名の由来だといわれている。

☆へぇ~!へぇ~!へぇ~!

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Last updated  2017.11.12 14:19:54
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