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2021年がまた、あっという間に過ぎてしまいました。自分でもよく頑張ったとか、学んで何かを習得した等のこともなく、毎年?どうやらただ無駄に歳をとっていくだけの自分を反省しています。2021年ラストの日にあたり、この1年を振り返ってみたら、半分以上は母に関することばかりでした。今年に入ってから週の半分は片道1時間強の名古屋の実家を往復し、8月末に旅立ち、その後は諸々の手続きやら実家の片付けやらで、2カ月以上かかりました。親が亡くなると、身近にいた者は悲しいとかよりも、やらなければならないことが多すぎて、とにかく大変であることがわかりました。興味がある方は 家族が亡くなった後の『手続き地獄』早わかりカレンダー で検索してみてください。うちもほぼこの状態でした。私の場合はまだ、母の介護も諸手続きも兄が半分やってくれたから助かりました。それでもぐったり疲れましたが。そして実家の片付けが、これまたスゴイことでした。昭和の人らしく、買うときに高級な物を買って長く使うということを長年続けてきた母でした。棚もタンスもテーブルも、一つ一つがとにかく重たい。男2人でないと運べない重さです。棚2つと和ダンス1つは私と甥っ子2人が使うことで家に運びましたが、それ以外は粗大ごみでした。姉の長男が会社から3tトラックを借りてくれて、それにほぼいっぱい、実家の家具が入りました。トラックが少し離れたところにしか停められなかったので、男4人が幾度も大型家具を運んで往復しました。女4人は手で運べる荷物を運んで往復しました。クリーンセンターに運んで処分した量がナント、400kg。会計で数字を聞いたとき、たまげました。それ以外にも、書類やアルバムなど中味をチェックしたいものや未使用の座布団や布団など、彼らにはこれまた大量にこの家に運んでもらいました。(部屋が1つ実家からの荷物で埋まった)甥っ子3人衆、重労働を本当にありがとう。まだ他にも、実家で捨てたものが、皿、本(約300冊)、衣類、その他、たぶん200kgはあったと思います。片付けのはじめのほうこそ、これはどうしようかと考える余裕はありましたが、そのうち面倒になり思考がストップして、もうなんでもゴミ袋・資源袋にポイポイでした。伊万里焼きとかの日本各地の高級な焼き物の大皿とか花瓶とか、いくら高級でも趣味が合わないから、身内のだれも欲しい人はいませんでした。なのでこれらも燃やせないゴミ袋に。でも誰かが持っていく可能性を考えて、見栄えよく丁寧にゴミ袋に入れておきましたが・・・。でもこれだけ大量にモノを捨てる体験をすると、私自身に捨てることに「勢い」がついてしまいました。おかげで秋以降、この家にある私が捨てるのをためらっていたものが、次々と捨てられていきました。あれやこれやと棚にぎっしりあった物が減り、どことなく部屋がすっきりして風通しが良くなった感じです。今月のはじめ、会計を処理して(そのためにまた区役所と銀行に走ったけど)姉と兄に了承をもらって、やっとひと段落つくことができました。ああ、もうあと1時間ちょっとで新しい年ですね。故郷に帰省して、どこかの親戚の家で集まって、家で一人静かに、あるいは運送業や交代勤務でお仕事の方、etc・・皆さまそれぞれに、どうぞ良いお年をお迎えください。母のことが落ち着いた12月から、私の仕事にご依頼が増えて、おかげさまで忙しくしています。母があの世から仕事を私に回してくれているのかな。
December 31, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回で最終回となりました。このドラマが始まった当初は、歴史の教科書の中ではそれほど重要とされてない渋沢栄一が主人公で、1年間物語ができるのかと疑問でした。でもいざ動き出したら、脚本の大森美香氏が朝ドラの『あさが来た』で見せてくれたテンポの良さと、若干は予想していた感動ポイントを超える、思いがけないところでの感動など、回を追うごとに面白くなっていきました。主演の吉沢 亮さんの演技を通して、渋沢栄一氏の偉業を十分に理解できました。できれば洋装が似合う吉沢亮さんの栄一が活躍を始める明治時代以降のほうで時間をもっととって欲しかった、という希望はありましたが。その栄一と共にドラマを盛り上げてくれたのが、栄一の従兄弟の渋沢喜作を演じた高良健吾さんでした。失礼ながら私には朝ドラでは印象の薄かったお二人が、このドラマでは実に活き活きと、骨太の男っぽさ全開で画面の中を駆け巡っていたように感じました。その対極で、動きは静でもドラマ内の各所で視聴者に強烈な存在感を見せてくれたのが、草彅 剛さん演じる徳川慶喜でした。 徳川最後の将軍・慶喜というと、今までの幕末ドラマでは「大坂城から逃げた」部分しか描かれませんでした。でも今作では、思慮深く先を見る目があった慶喜でした。戦争のさなかに大将である自分が一人戦線を離脱したのは、日本が内戦によって国力を失い、それに乗じた列強に乗っ取られないよう、日本を守るために世のそしりを覚悟して身を引いた、世間の批判を甘んじて受けた、そんな慶喜を見事に演じきってくれました。大河ドラマ館は、埼玉県深谷市では、年明けの1月10日までやっています。 ⇒ こちら 東京都北区の大河ドラマ館は、12月26日をもって終了となりました。 ⇒ こちら #青天を衝け には、様々な感想や意見がありました。ドラマ内のことを解説してくれた #青天ナビ は、とても参考になりました。地図のゼンリン社が、関連資料を毎回作ってくれました。改めて見直すと感慨深いものです。#地的に愉しむ青天を衝け ⇒ ⇒ こちら オープニングの音楽もはじめのほうこそ物足りない感がありましたが、だんだん馴染んできて気がつけば好きになっていました。登場人物はどの役の方もそれぞれに味わいがありました。新しい時代を作っていった、幕末から明治の名の知れた方々はどなたも魅力的でした。また主人公側と敵対する役の方でも、後になれば栄一が理解したように、それぞれに信念や思いがあるのだと感じられるドラマでした。『青天を衝け』は心に残る良いドラマでした。出演された皆さま、脚本家やスタッフの皆さま、1年間お疲れ様でした。ありがとうございました。大正8年(1919)、ドイツの降伏で第一次世界大戦は終結し、日本は戦後処理のために開かれたパリ講和会議で、人種差別の撤廃を求める一方で中国の山東半島におけるドイツの権益を要求したため、各国の日本に対する警戒感が強まっていました。この頃には渋沢栄一(吉沢 亮さん)は実業界から完全に引退していましたが、規則正しい生活は変わらず、毎日朝の7時頃から来客が続々と詰めかけ、日に15時間は働いていました。この日は医学博士の北里柴三郎(八十田勇一さん)が来ていて、栄一に「感染症予防にはマスクが一番」と公衆衛生の話をしていました。栄一の最初の内孫で後継者となった渋沢敬三(笠松 将さん)は、やりたかった生物学をあきらめて東京帝国大学経済学部に進学し、学業の傍ら栄一の仕事を手伝っていました。ある日ふと本棚から手にとった本に祖父・栄一の若い頃の写真を見つけ、敬三は急に栄一の人生に興味がわいてきました。栄一は悪化する一方だった日米関係を民のレベルで改善しようと活動を続けていました。(日米有志協議会)そのため敬三がアメリカからの客を家でもてなすことが多く、敬三は栄一から「自分の目で確かめるように」と言われたように、手洗いの掃除や紙の準備も自分で行っていました。大正10年(1921)、敬三は大学を卒業して横浜正金銀行に就職しました。そのころ体調を崩していた大隈重信(大倉孝二さん)を栄一は見舞い、互いの存在を知って50年になる日々を懐かしんでいました。栄一も体調が思わしくなかったのですが、ワシントンでの軍縮会議がどうしても気になり、自分が若い頃に攘夷に走った経験をふまえ、渡米の決意を大隈に語りました。大隈は栄一に、81歳の身体でやめておけと言いつつ、今は民の立場で栄一がうまく調整してくれることに期待するしかなかったのでした。※大隈重信のメロンに関するエピソードは ⇒ こちら ワシントンでは海軍大臣の加藤友三郎が記者団のインタビューを受けていましたが、栄一が到着すると記者団は加藤をそっちのけで栄一のほうに駆け寄ってきました。そして栄一が政府の思惑とは違う自分の考えを記者団に述べるので、駐米大使の幣原喜重郎(近藤芳正さん)は慌てて栄一を記者団から離し部屋に入りました。移民問題の解決を望む栄一に幣原は、移民問題が出れば会議は紛糾する、アメリカが日英同盟の破棄を裏でイギリスと交渉していると伝え、さらに日本で首相の原 敬が暗殺されたことを伝えました。栄一は「国と国との関係が結局は人と人との関係である」と強く訴えましたが、軍縮会議では移民問題は取り上げられることなく終わりました。大正12年(1923)9月1日、関東大震災が人々を襲いました。震災のときは兜町の事務所にいた栄一はなんとか飛鳥山の邸宅まで帰宅しましたが ⇒ こちら 、その後で兜町の事務所は全焼してしまい、栄一にとって思い出深い、二度と手に入らない品々がことごとく灰燼と化しました。 ⇒ こちら 栄一は激しく落胆しましたが、そのとき勘当した長男の渋沢篤二(泉澤祐希さん)が身内の皆の安否を心配して飛鳥山に。震災の混乱の中で篤二の姿を見たとき栄一はそれまでのわだかまりが瞬時に消え、涙ながらに篤二を抱き寄せて「よかった」と何度もつぶやきました。栄一は避難生活をする人々のために家にある物はなんでも提供し、さらに政府のトップや東京府知事、東京市長、警視庁に対して渋沢が避難者の救護所を作ると伝えるよう、娘婿の阪谷芳郎(内野謙太さん)に頼みました。「自分のような老人はこんなときに働いてこそ生きる申し訳が立つ」ーーそれが栄一の信念で、息子たちは老いた父が心配だけど父を見守ることにしました。そして栄一の呼びかけで、交流のある海外の友人たちからは続々と義援金や救援物資が大量に栄一の元に届きました。 ⇒ ⇒ こちら 昭和6年(1931)91歳になった栄一は孫たちに囲まれて、やすらぎのひと時を過ごしていました。孫娘が朗読する話は幕末に活躍した新選組の話で、英雄・土方歳三の名が出たときに子どもたちからは歓声があがり、栄一はふとその当時のことを思い出しました。「土方歳三は私の友だ。その土方と共に戦った。」と言う栄一おじい様の言葉に子どもたちはさらに興奮し、昔語りを聞かせて欲しいと皆でせがみました。(これは・・栄一おじい様が話を盛ってますね・笑。土方歳三に函館まで同行して最後まで一緒に戦った戦友だったのは親戚の故・渋沢喜作おじい様。栄一おじい様は土方と心を通わせた友というのが正しいかと思われます。)その年の夏、中国では異常な長雨で大水害が起こり、日本から義援金を送るために東京商工会議所、日華実業協会、赤十字社は手を組んで中華民国水災同情会を設立し、栄一は91歳にしてその会長に就任しました。会では募金活動に力を入れているものの世間では今一つ機運の盛り上がりに欠けるため、栄一がラジオで全国民に呼びかけることになりました。しかし体調の悪化で栄一は家を出ることができないため、ラジオ放送の器材を家に持ち込んで行うこととなり、栄一は久しぶりに胸が高鳴ってきました。「中華民国の水災を救うために皆さんの力をお借りしたい。中華民国と我が国は長年親しく交わってきた。罹災者は1000万人に及ぶという。関東大震災のときは反日運動のさなかだったのに、中華民国の人々はたちどころに多くの義援金を我が国に贈ってくれた。人は互いを思いやる心を当たり前に持っている。皆で手を取り合おう。みんなが嬉しいのが一番。どうか切にお願い申し上げます。」栄一の心をこめた呼びかけに街頭のラジオの前に集まった人々は胸を打たれ、全国のラジオの前では自然と拍手が湧き起こり、募金は驚くほど集まりました。しかし関東軍が引き起こした満州事変のために、救援物資は中華民国側に受け取ってもらえないままとなりました。その後、栄一の体調はいよいよ悪化して起き上がれなくなりました。昭和6年(1931)11月11日、渋沢栄一は家族の皆に見守られながら安らかな顔で永遠の眠りに。享年91歳でした。栄一の死後に追悼式が開かれ、壇上に立った敬三は集まった人々に語ります。「祖父・渋沢栄一は世間では偉人のように語られるけど、私にとっての祖父は、よく食べ、よくしゃべり、時には自分勝手で、時には子供のように涙した。祖父は常に力を惜しむことなく、もっと国を良くしたい、もっと人を守りたいと考えて生きてきた。しかしどれだけ力を尽くしても棒ほど願って針ほど叶うことばかりだった。皆さんには祖父・渋沢栄一を失敗も叶わなかったことも全て含めて、お疲れさん、よく励んだと。」これは要約すると、世間では偉人の祖父も自分には活発過ぎるふつうのおじいさん、でも一つの成功の陰には山のような失敗があった、ということだと思います。さらに敬三は栄一から託された手紙を読み上げ、「自分が死んだ後も皆さんの事業や健康をお守りするつもりでいる」と栄一の思いを聴衆に伝え、栄一を偲びました。
December 29, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、前半が渋沢栄一(吉沢 亮さん)のアメリカでの物語で、後半は栄一が長年行動を共にして一緒に新しい時代をつくり続けてきた渋沢喜作・徳川慶喜・伊藤博文・井上馨といった人々が死去してドラマ退場となりました。そして後半の、栄一の人生最大の決断であったであろう、我が嫡男・篤二(泉澤祐希さん)の廃嫡問題。篤二が女を囲って家を出る出来事の前に、何気ない会話から栄一と篤二の親子の絆を改めて考える場面がありました。父・栄一はパリに随行した徳川昭武の水練の供をしたことを嬉しそうに語るけど、篤二にとってそんな時間はなかった。徳川慶喜に問われ、篤二はとっさに「畳水練」とごまかす。父の期待に応えられる器量のない自分だけど、皆の前で父が恥をかくようなことは避けたかったのか、自分を卑下してごまかす篤二は、彼なりに父を愛していたのでしょう。(先週、栄一の異変にすぐ気が付いたのも篤二だった)そんな篤二の苦悩を渋沢喜作(高良健吾さん)察していて、バラバラになりかけた栄一家族を陰でつないでくれました。栄一がよく言う「世の中のみんなが幸せに」と考え、さらにそのための仕事ができてしまう人って、広い視野で俯瞰はできるけど、逆に近すぎるところは見えてなかった、なんてことがままあると思います。あるいは仕事に関係なく「あの人なら自分の思いや事情をわかってくれるだろう」の部分が “度を超えた自分優先” の甘えは、誰にでも起こりうると思います。栄一も後で気づいて反省したようですが、こういうときにホント、篤二の実母の千代が生きていたら、なんですよね。継母も良くしてくれるし義弟たちも可愛い。でも実母の千代が大好きだった篤二にとっては、まったく同じではないのですから。ああ、そういえば、渋沢喜作を演じた高良健吾さんがドラマ退場となりましたね。このドラマでの高良さん、男っぽくて好きだったなあ。さて、地図のゼンリン社の資料です。※伊藤博文さんのお宅は #神奈川県大磯町 にある「滄浪閣」です。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治42年(1909)、渋沢栄一(吉沢 亮さん)は第一銀行と銀行集会所以外の61社の役員を辞任することを決め、実業界を引退しました。栄一は大磯の邸にいる伊藤博文(山崎育三郎さん)を訪ね、アメリカに移民として渡った日本人が排斥問題に直面して苦労しているから自分がアメリカに渡って日本人を理解してもらうことに努めたいと、アメリカ行きを報告しました。伊藤は栄一の民間外交に期待し「アメリカを頼んだぞ」と言葉を送りました。栄一たち渡米実業団はアメリカの実業家たちが用意した特別列車で91日かけてアメリカ大陸を横断し、全米60の都市を訪問する旅となりました。栄一は妻の渋沢兼子(大島優子さん)と兼子の姪の高梨孝子(土居志央梨さん)と秘書兼通訳の八十田明太郎(ヒロ ウエノさん)を伴ってアメリカ入りをしました。栄一はアメリカ接待委員のロジャー・グリーン(スティーブ・ワイリーさん)から全米各地で日本の実業団を歓迎していると聞いて安堵しましたが、一方で排斥運動を受けているアメリカ西海岸の日本人移民のことも気がかりでした。ミネソタのラファイエットクラブで栄一は日本に対して友好的なアメリカ大統領のウイリアム・タフト(ニール・ギャリソンさん)に面会できました。栄一はタフトに、元来おしゃべりな自分が感謝の思いを英語で伝えられないのが残念と語り、タフトは栄一の人柄を褒めつつ日本女性が表に出て主張しないことが不満であると栄一に伝えました。さらにタフトは「これで移民問題も解決する、アメリカは日本に商売の戦争を挑む」と栄一に言い、「ニッポン、バンザイ!」と叫んで皆も唱和してくれました。栄一がアメリカでの移動を続けているさなかの10月の末、共に新しい世をつくってきた伊藤博文がハルビンで暗殺されたとの報が入りました。そして日本人の排斥運動が最も激しいカリフォルニア州に入った栄一。サンフランシスコでの講演では初めは原稿の通りにスピーチしてたけど、途中から突如原稿を読むのをやめ自分の言葉で思いを伝え始めました。「互いに相手を知らなかった。知っていても考え方の違いを理解しようとしなかった。相手をきちんと知ろうとする心があれば無益な憎しみ合いや悲劇は免れる。日本人を排除しようとするアメリカ西海岸もしかり。」ーー栄一の率直な意見に通訳の八十田は戸惑いましたが、続行しました。そして「自分はアメリカの各地で多大な親切を頂いた。発展を見て大いに学ばせて頂いた。」「アメリカ人の愛情はペリー提督の昔よりさらに深まり、その多大なる愛情を我が国に注いでくださっていることを確信している。日本人は敵ではない。我々はあなた方の友だ。日本人移民はアメリカから何かを奪いに来たのではない。この地で役に立ちたいという覚悟をもってはるばるやって来た。どうか憎まないでほしい。みんなが幸せになる世をつくる、私はこれを世界の信条にしたい。ノー・ウォーだ!」ーー栄一のスピーチは聴衆の心に響き、万雷の拍手が湧き起こりました。室内の様子は廊下にも聞こえ、掃除をしていた使用人の彼(セルジオ・エリアスさん)も嬉しそうでした。栄一は帰国し、徳川慶喜(草彅 剛さん)の話を聞くために集まった日のことでした。慶喜の水練の話から、栄一がパリで昭武(慶喜の弟)の水練のお供をしたと嬉しそうに語り、そう聞いた慶喜は栄一に息子の渋沢篤二(泉澤祐希さん)には水練を教えたのか、という話になりました。仕事が忙しくて篤二とはそういった父子の時間がもてず、またウソがつけない栄一は言葉に詰まり、それを見た篤二はとっさに「私は専ら畳水練で」と話をごまかしました。そんな篤二の様子を渋沢喜作(高良健吾さん)は篤二の思いを察しながら見ていました。しかしその1か月後、篤二は芸者の玉蝶に入れあげて家を出てしまいました。栄一は篤二の廃嫡を決断し、正式に言葉を残すために遺言書を作成し、一族を集めて同意を得ました。 ⇒ ⇒ こちら そして栄一は今更ながら、自分が篤二と触れ合う時間がほとんどなくて、一番身近な篤二のことを何もわかってやってなかったことに気づいたのでした。篤二のことで渋沢家のだれもが複雑な思いを抱えていたそんなある日、喜作は栄一の孫の渋沢敬三(笠松 将さん)のところにやってきました。喜作は敬三に「お前の母上は何も悪くない。篤二だって…。人には向き・不向きがある。例えば自分は、商売は向いてなかったが、幕臣だったときは戊辰戦争で函館まで行って戦った。お前の親父もがんばったが向いてなかった。栄一は偉大だが近くにいる者にしたら引け目ばかり感じさせる腹立たしい男だ。」とそんな話をし、父・篤二のことをどう受け止めたらいいのかわからなかった敬三は心が少し軽くなりました。明治天皇が崩御して時代は大正になり(1912)、栄一と喜作は二人で久方ぶりに故郷の血洗島を訪れていました。齢70を超えてもまだ励み足りないと言う栄一に、喜作は「少しは諦める心も覚えろ。誰もがお前みたいに前ばかり向いて生きられるわけじゃない。」と諫めつつ、二人で共に笑い合いました。折しも村の祭りのときで、二人の心には幼い頃からのことが走馬灯のようによみがえり、そしてこの後、喜作は74歳の生涯を終えました。そして大正2年(1913)、自伝の校正を進めていた慶喜の元を栄一が訪れ、高く積まれた稿本を栄一は受け取りました。「これでようやく御前様のことを、幕末の世の真相を世間に知らしめることができる」と栄一は安堵し、慶喜はパリから送られた昭武の直書(戊辰戦争時に慶喜が兵を置いて大坂城から逃げたこと)への答えにもなったであろうと言いました。さらに慶喜は、あれからずっと自分はいつ死ぬべきかを自問していた、でも今は生きていてよかったと言い、さらに栄一に「楽しかったなぁ。尽未来際、共にいてくれて感謝しておる」と思いを伝え、初めて出会ったあの遠掛けの日のことを思い出していました。「快なり!快なりじゃ!」そう叫んで笑った慶喜は、77歳の天寿を全うしました。その後、世界情勢はさらに悪化していきヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、日本は日英同盟のよしみで東洋で参戦するので実業界には大いに協力してもらいたい、と総理大臣となった大隈重信(大倉孝二さん)から栄一に話がありました。しかし栄一は、この機会に大陸に進出しようと図る政府の思惑を見抜いていて、戦争が起こるとせっかく育てた経済が打撃を受ける、民も苦しむと意見しました。さらに栄一は、反論すれば政府は力でねじ伏せようとする、平気でうそをつくと続けるので外務大臣の加藤高明(天田 暦さん)は激怒、大隈は「日本のみ友愛を唱えれば戦争で一気に潰される。参戦やむなし」という考えでした。ある日、敬三が自室にいると祖父・栄一が紋付袴の正装で入ってきました。栄一は敬三の進路のことを尋ねたかと思うと正座して姿勢を正すので敬三もそれに倣い正座して祖父と対峙すると、栄一は敬三に、どうか農科ではなく法科に進んで自分の跡を継いでもらえないだろうか、と言います。敬三は断りましたがそれでも栄一は両手をついて頭をさげ、敬三に「どうかお頼みする。実業界から日本を支えることを己の使命として欲しい。」と懇願しました。尊敬する偉大な祖父が正装して自分に深々と頭を下げている。敬三は迷いました。
December 22, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。今回は、日露戦争の時代を背景にしてドラマが進む中で、序盤・中盤・ラストで徳川慶喜を演じる草彅 剛さんのセリフに感動しました。序盤では慶喜が尾高惇忠(田辺誠一さん)の生きざまを「尊い」とまで言ってくれ、惇忠は生き長らえてきたこれまでの思いがようやく報われ涙しました。中盤で渋沢栄一(吉沢 亮さん)が重い病になり生死の境をさまよっていたときに慶喜が見舞いに来てくれ、「 ”尽未来際” 、生きてくれ!」と栄一に言葉を送り、その後の栄一はみるみる回復していきました。 ”尽未来際” は慶喜が全幅の信頼を置いて心を通わせた亡き平岡円四郎が自分に向けてくれた言葉で、円四郎が亡き後は、いつしか栄一が慶喜の心を通わせる相手になっていたのでしょう。でも慶喜の言葉でイキナリ復活のエネルギーがぐんぐん湧いてくるなんて、やはり「推しは尊い」。この一言に尽きるようです。そして終盤の、35分50秒から40分まで続く慶喜の語りは圧巻の一言でした現代でも、国と国との戦争というレベルでなくても、ふだんの人間関係の中でも大きな意義をもつ言葉だったので、ここに書き留めておきたいと思います。人は誰が何を言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ。欲望は道徳や倫理よりずっと強い。ひとたび敵と思えば、いくらでも憎み残酷にもなれる。人は好むと好まざるとにかかわらずその力に引かれ、栄光か破滅か、運命の導くままにひきずられていく。大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治33年(1900)、尾高惇忠(田辺誠一さん)と渋沢喜作(高良健吾さん)は渋沢栄一(吉沢 亮さん)を介して、徳川最後の将軍となった徳川慶喜(草彅 剛さん)に会う機会がもてました。慶喜は喜作のことを成一郎と幕臣のときの名で呼び、惇忠のことは「尾高さん」と呼び、惇忠の弟・平九郎のことも惇忠の富岡製糸場での働きも知っていました。慶喜は「長く生きて国に尽くされ言葉もない。残され生き続けることがどれほど苦であったことか。私はねぎらう立場にないが、尊いことと感服している。」遠い昔に行商先で遠くから見たあの利発な若様がやがて将軍となり、そのお方が自分の生きざまを認めてくれている。言葉をかけられた惇忠は喜びに打ち震え、感涙して平伏していました。明治35年(1902)、アメリカを視察した栄一は首都・ワシントンで大統領のセオドア・ルーズベルト(ガイタノ・トタロさん)と会談しました。栄一は日本の発展に大きく関わってくれたアメリカに感謝を伝え、ルーズベルトもまた日本の目覚ましい発展と軍事力の向上を称えてくれました。ただ実業家の栄一にとっては日本の商工業の名声が低いことが不満であり、今後自分はますます商工業の発展に精進していくとルーズベルトに誓いました。栄一が世界で活動するようになると、それまで放蕩を重ねてきた嫡男の渋沢篤二(泉澤祐希さん)は父・栄一の仕事を手伝うようになりました。そしてこの頃の栄一は、韓国での銀行の仕事や養育院の増設、新たに作る女子大学校のことまで関わっていて、家を空けることが多い多忙な日々を過ごしていました。そんな栄一不在の渋沢家に慶喜を客として迎えたある日、篤二は父から聞いた慶喜の決断が日本を救ったこととそれへの感謝の話をし、さらには自分は父よりよほど慶喜の生き方(現在の世間から見える、趣味を極める部分?)に憧れるとまで言いました。栄一がアメリカから帰国した頃、ロシアが朝鮮半島を狙う南下政策を進めていました。ロシアは朝鮮半島全体の権利を要求してきて、それは日本の国防に脅威を与えました。井上 馨(福士誠治さん)は、このままでは対馬海峡までがロシアの勢力下となり日本の国防が崩れると言い、陸軍参謀次長の児玉源太郎(荻野谷幸三さん)は、今やすっかり世論は主戦論になっている、金も兵もない日本がロシアと戦うためには財界のさらなる緊密な協力が必要、財界にも主戦論を掲げて欲しいと栄一に頼みました。「今は危急存亡の時、ロシアが朝鮮半島に入れば次は日本が危ない」ーー児玉と井上の説得を受け、栄一は不本意ながらも商工業者向けの講演会を開きました。栄一は戦費を集めるために「仁義の戦であったなら戦後必ずその国は繁盛する」と聴衆に国債の購入を呼びかけ、会場にいた聴衆は栄一の演説に賛同、「大日本帝国、万歳!」と唱和して戦争への機運が高まっていきました。しかし講演の後、栄一は過労と心労が限界を超え、倒れてしまいました。体調は悪化して危篤となり、栄一は自分の死後のことを嫡男の篤二に頼みますが、父がつくり上げた渋沢家はあまりにも大きく、篤二が抱えられるものではありませんでした。また周囲も内心は篤二では頼りないというもので、篤二は重圧に耐えきれず半狂乱に。そのとき栄一を見舞うために渋沢家に来た慶喜と居合わせ、篤二はつい先日「あなたの生き方に憧れる」と言った慶喜に向かって「僕も逃げたい!あなたは日本を全て捨てて逃げた。なのに今も平然と・・」と言葉を投げつけ、走り去っていきました。朦朧とする意識の中で栄一は枕元に、自分の生涯の主君である慶喜がいることに気が付き、無理やり身体を起こしました。慶喜は栄一に「今は死なぬほうがよい。私もまたそなたに何も心を尽くせてはおらぬ。そなただけは、どうか尽未来際・・生きてくれ!なんでも話す。そなたともっと話がしたいのだ。だから死なないでくれ。」と、強く思いを伝えました。慶喜の言葉が励みとなり、栄一はその後みるみる回復していきました。明治38年(1905)5月の終わり、栄一はまだ病床にありましたが、日露戦争のほうは海軍大将・東郷平八郎が率いる艦隊が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破し、翌6月半ばに講和となり、日露戦争は日本側の勝利で終わりました。この結果を見たアメリカは、日本海軍の戦力はあなどれないと判断し、ルーズベルトは「万が一に備えアメリカ海軍を強大にしておかねば」と今後の方針を決めました。「日露戦争は日本が勝利した」ーーこの部分だけしか知らない国民は勝利に酔いました。講和条約に向かう外務大臣の小村寿太郎(半海一晃さん)を民衆は新橋駅で熱狂的に見送り、8月、小村はアメリカのポーツマスで交渉に臨みました。しかしこの戦争で国力を使い過ぎた日本は、英米の支援でなんとかロシアと講和できなければ国が破滅するという厳しい状況にあり、栄一も初めてその事実を知りました。そして9月、日本とロシアの間でポーツマス条約が調印。しかし国家予算の6倍もの戦費負担を国民に強いたのに、ロシアから賠償金が取れず、国民の怒りは爆発して各地で暴動が起こり、小村や栄一に怒りが向けられました。世情は未だ落ち着かない中、慶喜の伝記の編纂のために歴史学者や昔を知る人たちが集められ、渋沢喜作や猪飼勝三郎(遠山俊也さん)などかつての幕臣たちも久しぶりに互いの顔を見て、再会を喜び合っていました。そして慶喜が登場し、一同は緊張と喜びの中で司会の栄一の変わらぬ多弁ぶりを笑っていましたが、慶喜が大坂城を抜け出たあの時の話が始まると、語る慶喜も聞く一同も真剣な面持ちになりました。「事実、自分は逃げたのだ。大坂城内の家来の暴発を制止できない状況になった。人は誰が何を言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ。(中略)私は抵抗することができなかった。ついにどうにでも勝手にせよと言い放ったことで、鳥羽伏見の戦が始まった。失策であった。後悔している。戦いを収めねばと思った。しかしその後も言葉が足りず、いくつも失策を重ねた。」「多くの命が失われ、この先は何としても己が戦の種になることだけは避けたいと思い、光を消して余生を送ってきた。」ずっと黙して語らなかった慶喜の心の内を初めて知った一同は、何も言えませんでした。猪飼が「そこまでのお覚悟が・・。」と、そして喜作が「それはただ逃げたのとは違いましょう。あれほど数々のそしりを受け、なにもあえて口を閉ざさずとも・・。」と己を責め続ける慶喜を思い言葉を返すと、それでも慶喜は己に厳しい言葉を続けます。「人には生まれついての役割がある。隠遁は私の最後の役割だったのかもしれない。」ーー「自分の役割」。この言葉は栄一と篤二の中に深く刻み込まれました。
December 14, 2021
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。いよいよ終盤に入った今回は、SNSでは徳川慶喜を演じる草彅 剛さんの演技が絶賛されていました。しかし私は今回のタイトルにもなった渋沢篤二(泉澤祐希さん)のほうを、「こんな子、いるよな~」という思いで見てしまいました。父・渋沢栄一(吉沢 亮さん)が社会的地位の高い人で、自分はその嫡男であるがゆえに、周囲からの期待が重圧となって自分にのしかかる。父・栄一もまた裕福な家で育ったが、父の場合は藍農家として幼い頃から父親(篤二の祖父)と共に仕事をしていたし、同年代の従兄弟も近くにいて寂しさはなかった。でも篤二の場合、父が世を動かす実業家になってて子供の自分が手伝える仕事ではなかったし、同年代の従兄弟がいなければ学友と競い合って上を目指す性格でもない。家が貧しければ遊ぶ間なんかなく家の手伝いをし、進学するとなれば生活費を切り詰めて自分を学校に行かせてくれる親や他のきょうだいの思いを受けて必死に勉強する。でも篤二は裕福な家庭で切羽詰まったものがない。目の前にある楽しいことや興味惹かれるほうに流されてしまう元来の性格もあるし、寂しさや重圧から逃げたいという思いを快楽に向ける生活の余裕がある。篤二は勉強や仕事は苦手で父の期待に応えられないけど、小さい子たちからは好かれる優しさがある。義弟たちを可愛がり、義弟たちからも慕われる優しい兄。嫌なことに直面すると我慢できずにすぐ逃げてしまう。そんな自分の弱さやふがいなさやをわかっている。でも自分の勉強や進路のことをうるさく言わない親戚のおじさんやおばさんには素直になれる。もしかしたらですが、篤二が血洗島のほうの家に生まれていたら、親戚に囲まれて、皆で一緒に農作業をして、また違った人に成長していたでしょうか。ところで、番組ラストの「青天を衝け紀行」のBGMが今回から小学生の鼓笛隊が演奏したものになるようです。メイキングの動画を見ましたが、小学生が使うあの楽器で見事に演奏されてて、本当に感動で胸熱でした。深谷市立常盤小学校鼓笛隊の演奏でお届けします! ⇒ ⇒ こちら こちらは地図のゼンリン社の資料です。【栄一さん襲われる】 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 明治22年(1889)夏、上野で徳川家康が江戸城に入って300年の節目を祝う「東京開市三百年祭」が、旧幕臣たちの企画で開かれました。旧幕臣たちは小栗忠順や井伊直弼をもっと評価されるべきだと偲び、彼らの主君で徳川の最後の将軍となった徳川慶喜の父である徳川斉昭を偲んでいました。そこへ渋沢栄一(吉沢 亮さん)が渡欧で随行した徳川昭武(板垣李光人さん)が現れ、永井尚志の「徳川、万歳」の声をきっかけに渋沢喜作が大きな声で音頭を取り、旧幕臣が集まったその会場には「徳川、万歳!」と唱和する声が幾度も響き渡りました。明治時代の半ばになると、栄一は銀行業を中心に製紙・紡績・鉄鋼・建築・食品・鉄道・鉱山・電力・造船など多くの産業に関わり多忙を極めていました。また他にも国際化に対応できる女子育成のための学校や病院や養育院など、教育施設や福祉施設の充実にも力を注いでいました。東京養育院が主催の慈善会(バザー)が開かれ、栄一の妻の兼子(大島優子さん)の他、政財界の名士の奥方や娘たちが集まり、張りきって声掛けをしていました。そしてバザーを盛り上げるべくまず栄一が大金を出して買い求めると、井上 馨(福士誠治さん)ら会場にいる名士たちも「ならば自分も」と次々と夫人たちの言い値のまま快く大金を出して、慈善事業に貢献していました。しかし一方で、栄一の嫡男で渋沢家の後継者でもある渋沢篤二(泉澤祐希さん)は学業に身が入らず、かといって父の仕事にも興味がわく様子もなく、偉大な父と立派な義兄たち(穂積陳重、阪谷芳郎)の名声に気圧され、遊興にふけっていました。姉の穂積歌子は子どもの頃に母・千代を亡くした篤二を厳しく見守っていて、この日も店の外で待ち構えていて、頼りない弟を説教でした。明治23年(1890)、国会の開設に向けて第一回衆議院議員選挙が行われ、任命となる貴族院議員に栄一が不本意ながら任命されました。そして篤二は、一度東京を離れてみてはどうかと考える穂積陳重の提案で、熊本の第五高等中学校に行くことになり、出発の時間を迎えました。篤二に懐いている義弟の武之助(加藤櫻華くん)と正雄(番家天嵩くん)。遊び呆けていつも姉の歌子に叱られてばかりの篤二だけど、義母の兼子には素直に従い、義弟たちには優しい良い兄さまだったようです。心機一転、熊本で寮生活を送っているはずの篤二でしたが、途中で嫌になってしまい女子を連れて大阪まで脱走してしまいました。東京に戻った篤二は飛鳥山の邸宅で謹慎、今度は穂積歌子(小野莉奈さん)と阪谷琴子(池田朱那さん)の二人の姉からの説教でした。篤二は自分が父・栄一に迷惑をかけてばかりのことを反省し、姉たちにお詫びを伝えていたら、そこに血洗島の叔母・渋沢てい(藤野涼子さん)が野菜を持って現れました。ていは明るく3人の気持ちをほぐしてくれ、篤二も思わず笑みがこぼれました。兄・栄一から相談を受けていたていは、篤二を血洗島に連れて帰りました。ていは篤二に父・栄一の子どもの頃の話をしてくれ、それを聞いた篤二も自分が10歳のときに母が病になり忙しい父が一緒にいてくれたことが嬉しかった、でも母が旅立った夏は今でも苦手だと、ていに語りました。ていは篤二に農作業を手伝わせ、ふだんろくに体を使っていない篤二には少々きつい作業でしたが、皆と一緒に体を使って働くことに篤二はふだんにはない喜びを感じていました。血洗島で謹慎の後、東京に戻った篤二は華族の娘・敦子と結婚することになりました。ところがそんな頃、栄一の乗った馬車が移動の途中で暴漢に襲われました。栄一を襲った喜十郎(岡元次郎さん)は栄一には深手を負わせずすぐに外に出て警官を相手に暴れまわり、そのまま逮捕されました。心配して駆けつけた喜作に栄一は、水道管のことで対立した者が人を使って脅してきたのだろうと説明し、亡き妻・千代を奪ったコレラが再び蔓延することのないよう衛生には特に気を配りたいという思いを語りました。 ※栄一を襲ったのは・・ ⇒ こちら 明治27年(1894)夏、徳川慶喜(草彅 剛さん)の妻・美賀子が亡くなり、その話を高松凌雲から聞いた栄一は慶喜も東京で暮らせば、と思いを寄せます。しかし慶喜に対する世間の風当たりは、まだまだ慶喜には厳しいものでした。栄一は慶喜こそが歴史の流れを変えた人物であることを世間の人が知らないことに強く憤っていて、静岡にいる慶喜を訪ねた折に「世の中が次の世代に移ってすっかり変わってしまう前に貴方様の伝記を作りたい、戊辰戦争時に逃げた暗君ではない、貴方様の考えを、偉業を後世に残させて欲しい」と強く訴えました。慶喜は自分は世間からどう思われてもいいと、このときは取り合ってくれませんでした。明治28年(1895)3月、日清戦争が日本の勝利で終結しました。世間の民衆たちは戦争の勝利に酔い、街の至る所で人々は「万歳!」と叫んで軍歌を歌い勝利の喜びを分かち合っていましたが、篤二は一人冷めた思いで街を歩いていました。後日、総理大臣(第二次伊藤内閣)の伊藤博文(山崎育三郎さん)を訪ねた栄一は伊藤から、戦争で清国に勝った日本はもはやアジアの三等国ではない、明治の世になってわずか30年で今や日本は西洋列強と並ぶ文明国になろうとしてる、この先はイギリスを味方につけ一刻も早く一等国の仲間入りをせねば、という話を聞きました。そう聞いた栄一が真っ先に頭に浮かべたのは、ならば徳川慶喜が東京に戻っても差し支えないであろうということで、まだ昔の主君をと伊藤は呆れましたが、栄一は「御前様なくして今の日本はない!」と強く主張しました。2年後の明治30年(1897)、慶喜は静岡から東京に戻ってきました。 こちら 栄一は妻の兼子と篤二夫妻を伴って慶喜の元に挨拶に赴きましたが、篤二は隠居謹慎の間に趣味を極めた慶喜が持つ道具類に興味津々のようでした。
December 7, 2021
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