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万雑741_遣唐使節団と万葉集の歌が作られた時期について遣唐使関連の歌を14回に分けて記しましたが、歌が詠まれた時期と歌番号が合致していないものが見受けられました。その理由は歌が詠まれた時に公にならず、後に伝誦者が伝え詠んだのを、編集者が万葉集に入れた為と思われます。(4245,4246)遣唐使関連の歌は、天平五年に入唐の大使;多治比広成の第九次と、天平勝宝四年に入唐の大使;藤原清河の第10次に限られているようです。年表;1_遣隋使;600年、608年、609年の3回?(他の説もあり)2_遣唐使;以下の14回あります。①_630年;犬上御田鍬(大使)、薬師恵日②_653年;吉士長丹(大使)、高田首根麻呂、吉士駒、道昭③_654年;高向玄理(大使)、河辺麻呂、薬師恵日④_659年;坂合部石布(大使)⑤_665年;守大石(大使)、坂合部石布⑥_669年;河内鯨(大使)⑦_702年(大宝二年);粟田真人(大使)、高橋笠間、坂合部大分、道慈、山上憶良⑧_717年;多治比県守(大使)、大伴山守、藤原宇合、安倍仲麻呂、吉備真備、玄昉⑨_733年(天平五年);多治比広成(大使)_894、895、896、1453、1454、1455、1784、1790、1791、4245、4246⑩_752年(天平勝宝四年);藤原清河(大使)、大伴古麻呂(副使)_4240、4241、4212、4243、4244、4262、4263、4264、4265⑪_777年;佐伯今毛人(大使)⑫_804年;藤原葛野麻呂(大使)⑬_838年;藤原常嗣(大使)⑭_894年;菅原道真(大使)以上 1
2024年08月31日
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台風10号が迷走中で日本列島の各地に大雨被害をもたらしています。その雨を避けて迷い込んだのか?、自宅の車庫内に蝶が窓にとまっていました。撮った画像を調べると「オオムラサキ」のメスと判りました。オオムラサキ(メス)_チョウ目、タテハチョウ科、開張=100mm以上
2024年08月30日
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万雑740_万葉集にある遣唐使関連の歌(孝謙天皇の御歌)_14次は、孝謙天皇の御製の長歌(4264)と短歌(4265)です。天皇が、従四位高麗朝臣福信に仰せて難波に遣わし、酒肴を入唐使藤原清河らに下賜なさった御歌;4264_「そらみつ 大和の国は 水の上は 地行くごとく 船の上は 床に居るごと 大神の 斎へる国そ 四つの船 船舳並べ 平らけく はや渡り来て 返り言 奏さむ日に 相飲まむ酒そ この豊御酒は」※_「(そらみつ)大和の国は、水の上は天地を走るように、船の上は床に座っているようにと、大神が護っておられる国です。四つの船の、船の舳先並べ、無事に早く渡海して帰って来て、返り言を奏上しようという日に、ともに飲む酒です。この豊御酒は」と歌っています。4265_「四つの船はや帰り来としらか付け朕が裳の裾に斎ひて待たむ」※_「四つの船よ早く帰って来いと、しらかを付けて、私の裳の裾に祈りをこめて待ちましょう」と歌っています。※_孝謙天皇;聖武天皇と光明皇后の間の第一皇女、天平勝宝元年(749年)に35歳で即位されています。ここまでで、遣唐使関連の歌は終わりです。以上
2024年08月29日
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万雑739_万葉集にある遣唐使関連の歌(遣唐使を餞別する歌)_13次は、天平勝宝四年(752年)閏三月に、大伴古慈悲の家で入唐副使の大伴胡麻呂らを餞別した時の歌2首(4262,4263)です。多治比真人鷹主が、副使の大伴胡麻呂を祝った歌;4262_「唐国に行き足らはして帰り来むますら健男に御酒たてまつる」※_「唐の国に行って、役目を十分に果たしてご帰国になる立派な方に、御酒を差し上げます」と歌っています。作者不明の歌;4263_「櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて」※_「櫛も見るまい、家の中も掃くまい。(草枕)旅行くあなたの無事を祈って潔斎すると思って」と歌っています。まま以上
2024年08月28日
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万雑738_万葉集にある遣唐使関連の歌(安倍朝臣老人の歌)_12次は、遣唐使の安倍朝臣老人が母に捧げた歌1首(4247)です。4247_「天雲のそきへの極み我が思へる君に別れむ日近くなりぬ」※_「天雲のたなびく果てのように、いつまでもと私が思うあなたに、お別れする日が近くなりました」と歌っています。以上
2024年08月27日
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万雑737_万葉集にある遣唐使関連の歌(入唐使の妻の歌)_11次は、天平五年(733年)、入唐使に贈った、作者不明の長歌1首(4245)と短歌1首(4246)です。4245_「そらみつ 大和の国 あおによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 任けらける わが背の君を かけまくの ゆゆしき恐き 住吉の 我が大御神 船舳に うしはきいまし 船艫に 立たしいまして さし寄らむ 磯の崎々 漕ぎ泊てむ 泊り泊りに 荒き風 波にあはせず 平らけく 率て帰りませ もとの国家に」※_「(そらみつ)大和の国、(あおによし)奈良の都から、(おしてる)難波に下って、住吉の御津で船に乗り、まっすぐに海を渡って、日の沈む国に派遣される我が夫の君を、口にするのも恐れ多い住吉の我が大御神よ、船の舳先で導き、船尾にお立ちになって、近く漕ぎ寄る磯の崎ごとに、入港する港ごとに、激しい風や波に遭わせないようにして、どうぞ無事につれて帰ってきて下さい。もとの国に」と歌っています。4246_「沖つ波辺波な立ちそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊つるまで」※_「沖つ波も岸の波も立つな。わが君の船が漕ぎ帰ってきて、港に停泊するまでは」と歌っています。入唐使の誰かの妻女が、夫の無事の帰国を願って作った歌ですね。以上
2024年08月26日
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万雑736_万葉集にある遣唐使関連の歌(遣唐大使藤原清河の歌)_10次は、遣唐大使の藤原清河が作った歌1首(4244)です。4244_「あらたまの年の緒長く我が思へる児らに恋ふべき月近づきぬ」※_「(あらたまの)年月長く私が思ってきた妻を、恋しく思う月が近付いてきた」と歌っています。唐への出発の日が近付いてきた時期に詠まれた歌です。以上
2024年08月25日
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万雑735_万葉集にある遣唐使関連の歌(多治比土作の歌)_9次は、民部少輔多治比土作が作った歌1首(4243)です。4243_「住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ」※_「住吉の神にお仕えする神官が神のお告げとして行った、行きも帰りも速やかであるぞと」と歌っています。この歌も遣唐大使の藤原清河の餞別の宴に詠まれたものと思われます。以上
2024年08月24日
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万雑734_万葉集にある遣唐使関連の歌(大納言藤原卿の歌)_8次は、大納言藤原家において入唐使等の餞別の宴を開いた日に、主人の大納言藤原仲麻呂が作った歌1首(4242)です。4242_「天雲の行き帰りなむものゆゑに思ひそ我がする別れ悲しみ」※_「(天雲の)行っては帰ってくるものなのに、私はもの思いをする。別れが悲しいので」と歌っています。以上
2024年08月23日
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万雑733_万葉集にある遣唐使関連の歌(遣唐大使藤原清河の歌)_7次は、遣唐大使の藤原清河の歌(4241)です。4241_「春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰り来るまで」※_「春日野に祀る神社の梅の花よ、いっぱいに花開いたまま待ち続けておくれ、帰って来るまで」と歌っています。「三諸」は神の居ます所で、ここでは神社を言います。<備考>_遣唐大使の藤原清河のその後について。天保勝宝四年に入唐し、玄宗皇帝に謁見。その翌年に帰途の船が遭難しインドシナ半島まで流され、命懸けの苦労の末で長安に戻りました。そして、清川は玄宗皇帝に気に入られ秘書官として唐朝に仕えました。何度も帰国の機会はありましたが、歌に詠んだ思いは叶わず帰国できないまま彼の地に没しました。以上
2024年08月22日
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万雑732万葉集にある遣唐使関連の歌(光明皇后の歌)_6次は春日で神を祭った日(天平勝宝二年{750年}9月)に、光明皇后(藤原太后・藤原光明子)が入唐大使で甥の藤原清河(藤原房前の子)にお下しになった歌(4240)です。4240_「大船にま梶しじ貫きこの我子を唐国に遣る斎へ神たち」※_「大船に左右の楫をいっぱいに差して取り付け、この我が子を唐国へ送り出します。守って下さい、神たちよ」と歌っています。<備考4>_この時の遣唐使(第12次)は天平勝宝二年(750年)に任命され、天平勝宝四年(752年)閏3月に難波津を出港しています。以上
2024年08月21日
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万雑731_万葉集にある遣唐使関連の歌(柿本人麻呂歌集の壮行歌)_5次は、柿本人麻呂の歌集にある「遣唐使への壮行歌」と思われる歌(3253)1首と反歌(3254)です。3253_「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 事幸く ま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙げす我は」※_「葦原の瑞穂の国は、神の御心のままに、言挙げしない国。しかし、言挙げを私はする。何事も順調にお元気でいらっしゃいと、また、つつがなくご無事であられたら、(荒磯波)年月を経ても後にお目に掛かりましょうと、百重波、千重波のようにしきりに言挙げをします、私は。言挙げをします。私は」と歌っています。「言挙げ」とは、葦原の瑞穂の国では、大きな声で「ご無事で、ご息災で」とは言わないものだが、私は大きな声で「ご無事で、ご息災で」と言い挙げたい。という事のようです。3254_「磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ」※_「(磯城島の)大和の国、すなわち日本の国は言葉の霊が助ける国です。ご無事でいて下さい」と歌っています。<備考3>_遣唐使船4隻に乗った500名一行の内容について①_朝廷からの正式な使節;押使、大使、副使、判官、録事などの役についた10名ほど。押使、大使は四位以上の貴族。②_船員;船長、航海長、総舵手、水夫長、水夫、神主、医師、陰陽師、通訳、船大工、画家、など;数十名X4隻③_残る数百名;自ら志願したもの;留学生、学問僧、請益生(短期留学生)たち。遣唐使は、春から秋に任命され、次の年の夏ごろに唐へ向けて出発していました。その間に船の建造、志願者の選定、唐の皇帝へ持って行く手土産の用意などの準備が大変だったようです。遣唐船が出発する日、難波の港は見送りの人で賑わっていましたが、危険な旅であるため心配で心を痛める家族もいました。そこで詠まれた歌が万葉集に残っているのですね。以上
2024年08月20日
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万雑730_万葉集にある遣唐使関連の歌(遣唐使の母が贈った歌)_4次は、第九次の遣唐使の船が難波を出港して海上に漕ぎだした時に、母親の一人が子に贈った歌(1790)1首と短歌(1791)です。1790_「秋萩を 妻どふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を しじに貫き垂れ 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我が子 ま幸くありこそ」※_「秋萩を妻問う鹿こそ独り子として子を持っているというが、その鹿の子のような私の独り子が、(草枕)旅に出て行くので、竹玉をいっぱい緒に通して垂らし、斎瓮に木綿を取り付けて下げて、潔斎しながら私が大切に思う我が子よ、どうか無事であって下さい」と歌っています。1791_「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群」※_「旅人が宿りをするだろうせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群」と歌っています。 <備考2>_遣唐使に使われた船と航路について調べてみました。遣唐船;毎回4隻の船団で唐に向けて出かけていました。①_船の大きさ(平城宮跡歴史公園の復元船の場合);全長=30m、最大幅=9.5m、高さ=6.5m②_乗船人数=120人×船団4隻 ≒ 500人③_マスト(帆)は二本で竹で編んだ帆でした。(効率の悪い帆でした)航路;難波港から五島列島までは同じで、そこから風が吹くのを待って、良い風に乗ってからは、凡そ三つの航路(北路、南路、南島路)で唐の長安を目指しました。大陸伝いに行く「北路」は安全ですが新羅との関係で通れない時があったり、「南路」と「南島路」は早く行けるが東シナ海を横ぎるのが危険で多数の遭難事故が起こった。「北路」難波➡五島➡対馬➡大陸沿いに➡新羅➡登州➡洛陽➡長安「南路」難波➡五島➡東シナ海➡揚州➡洛陽➡長安「南島路」難波➡五島➡種子島➡奄美➡東シナ海➡杭州➡洛陽➡長安以上
2024年08月19日
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万雑729_万葉集にある遣唐使関連の歌(遣唐使に贈った歌)_3次は、万葉集巻第九の年代と作者未詳の1首(1784)です。1784_「わたつみのいずれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ」※_「海神のどの神様に祈ったら、行きも帰りも船は早いだろうか」と歌っています。<備考>_遣隋使と遣唐使について、どれほど大変な取り組みだったか調べてみることにしました。参考文献;みずうお書房_日本の歴史2、日本学術文庫_日本書記、続日本紀、など1_遣隋使;600年、608年、609年の3回?(他の説もあり)2_遣唐使;以下の14回あります。①_630年;犬上御田鍬(大使)、薬師恵日②_653年;吉士長丹(大使)、高田首根麻呂、吉士駒、道昭③_654年;高向玄理(大使)、河辺麻呂、薬師恵日④_659年;坂合部石布(大使)⑤_665年;守大石(大使)、坂合部石布⑥_669年;河内鯨(大使)⑦_702年;粟田真人(大使)、高橋笠間、坂合部大分、道慈、山上憶良⑧_717年;多治比県守(大使)、大伴山守、藤原宇合、安倍仲麻呂、吉備真備、玄昉⑨_733年;多治比広成(大使)、中臣名代⑩_752年;藤原清河(大使)、大伴古麻呂、吉備真備⑪_777年;佐伯今毛人(大使)、小野石根、藤原鷹取⑫_804年;藤原葛野麻呂(大使)、石川道益⑬_838年;藤原常嗣(大使)、小野篁、円仁⑭_894年;菅原道真(大使)、紀長谷雄_中止になった?次回は、船の大きさや航路について調べてみます。以上
2024年08月18日
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万雑728_万葉集にある遣唐使関連の歌(笠朝臣金村の送別歌)_2次は、天平五年(733年)春閏3月に、笠朝臣金村が第九次遣唐使に贈った送別の長歌と反歌2首です。<備考>続日本紀の天平五年(733年)に、以下の関連した記載があります。3月21日_遣唐大使で従四位上の多治比真人広成らが聖武天皇に出発の拝謁をした。3月26日_遣唐大使の多治比真人広成が聖武天皇に別れの拝謁をした。聖武天皇は彼に節刀(せっとう;任命の印としての刀)を授けた。4月3日_第九次遣唐使の船4隻は、難波港から進発した。1453_「玉だすき かけぬ時なく 息の緒に 我が思ふ君は うつせみの 世の人なれば 大君の 命恐み 夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より 大船に ま梶しじ貫き 白波の 高き荒海を 島伝ひ い別れ行かば 留まれる 我は幣引き 斎ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ」※_「(玉だすき)心にかけない時もなく、命かけて私が思う君は、(うつせみの)この世の人だから、勅命を拝し奉って、夕方になれば鶴が妻を呼んで鳴く難波潟の御津の崎から、大船の両舷に楫をいっぱい通し、白波の高く立つ荒海を、島伝いに別れて行ったら、残された私は幣を引き、潔斎しながら君を待ちましょう。早くお帰りなさい」と歌っています。1454_「波の上ゆ見ゆる小島の雲隠りあな息づかし相別れなば」※_「波の向こうに遠く見える小島が雲に隠れるように、ああ苦しい、別れ別れになってしまったら」と歌っています。1455_「たまきはる命に向かひ恋ひむゆは君がみ舟の梶柄にもが」※_「(たまきはる)命にかけて恋しているよりは、あなたの御船の楫の握りになりたい」と歌っています。以上
2024年08月17日
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万雑727_万葉集にある遣唐使関連の歌(山上憶良の送別歌)_1少し間が空きましたが、ここからは遣唐使に関係した歌を見て行きたいと思います。まず最初は、天平五年(733年)4月の出発を翌月に控えた第九次遣唐大使の多治比真人広成の訪問を受けて、山上憶良が贈った送別の長歌と反歌2首です。なお、山上憶良は第七次遣唐少録として入唐した先輩です。894_「神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の大朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨 戴き持ちて 唐の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神留まり うしはきうます 諸の 大御神たち 船舳に 導きまをし 天地の 大御神たち 大和の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見渡したまひ 事終はり 帰らむ日には また更に 大御神たち 船舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに み船は泊てむ つつみなく 幸くいまして はや帰りませ」※_「神代から語り伝えてきたことには、(そらみつ)日本の国は、皇神の厳としておごそかな国、言葉の霊力の豊かな国であると、語り継ぎ言い継いできた。今の世の人も皆、まのあたりに見たり聞いたりして承知していることだ。この世に溢れる程に人はいるけれども、(高光る)日継の朝廷で、神としての天皇のご寵愛の深さのままに、天下の政治を奏上なされた家柄の子息としてお選びになって、勅旨を承って、唐国の遠い境に遣わされて下向なさるので、海原の岸辺にも沖にも、鎮座して支配なさる数多くの大御神たち、なかでも船舳で先導申し上げ、天地の大御神たち、なかでも大和の大国御魂は(ひさかたの)天の大空に天翔ってお見守りになって、遣唐使の仕事を終えて帰る日には更にまた、大御神たちが船の舳先に御手を掛けて、墨縄を引いたように、(あぢかをし)値嘉の入江から大伴の御津{難波官港}の浜べに向けて、一直線の御船は港に入って泊ることでしょう。つつがなく無事に出発なさって、早くお帰り下さい 」と歌っています。「値嘉(ちか)」は長崎県の五島列島などの諸島で、ここからが日本の領域とされていました。895_「大伴の御津の松原かき掃きて我立ち待たむはや帰りませ」※_「大伴の御津の松原を掃き清めて、私はそこに立ってお待ちしましょう。早くお帰り下さい」と歌っています。896_「難波津にみ船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ」※_「難波の津に御船到着と知らせてきたら、結んだ紐を解き放って走り回って喜びましょう」と歌っています。以上
2024年08月16日
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お盆行事のお墓参りに行ってきました。我が地方では、お墓に付ける提灯は「初盆の時」は白色、「以外」は紅白の提灯とされています。何気なく、我が家の墓の隣の墓に「白色」の提灯が付けられているのに気付きました。「〇〇さんの家で誰が初盆なの・・・?」との疑問が・・・さてさて、その場にいた人たちは、誰も知らなかったようですが、後で確認すると「〇〇さんが亡くなっている」とのことでした。昔なら、盛大な葬儀が催されていましたので、小さな田舎の部落民たちは誰もが知っていた情報だったんですが・・・原因は「コロナ禍」です。葬儀の形態が「家族葬」になったことで、誰が亡くなっていたかも分からなくなってしまったようです。以上 し
2024年08月15日
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例年なら、いろいろな昆虫が見られる場所なのに、今年は猛暑のせいで数が極端に少ないです。今日の午後に木陰になった場所で見つけた昆虫は「シオカラトンボ」数匹と「イチモンジセセリ」一匹でした。イチモンジセセリ;チョウ目、セセリチョウ科、開張=40mm以上
2024年08月14日
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猛暑と雨不足で畑の里芋は枯れてしまいそうな感じになっています。その里芋の茎に二種のカメムシがとまっていました。茎の汁でもすっていたのでしょうか?上_ヒメハリカメムシ;カメムシ目、ヘリカメムシ科、L=8mm下_クモヘリカメムシ;カメムシ目、ホシヘリカメムシ科、L=17mm以上
2024年08月13日
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猛暑が続いており、カメラでの撮影も朝8時ころまでとなっています。今朝、田んぼの畦道で見つけた「ツマグロヒョウモン」は、北へ生息域を広げているチョウなので、暑さには強いようです。ツマグロヒョウモン;チョウ目、タテハチョウ科、開張=70mm以上
2024年08月12日
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田んぼの水路で「ギンヤンマ」のオスとメスが連結した状態で、メスが産卵するところです。ギンヤンマ;トンボ目、ヤンマ科、L=80mm以上
2024年08月11日
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「シオカラトンボ」のオスによく似ていますが、複眼の色や腹の太さなどが異なっています。オオシオカラトンボ;トンボ目、トンボ科、L=60mm以上
2024年08月10日
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田んぼ(水田)に水を入れる水路の上では、いろいろなトンボが飛び交っています。今日のトンボはカワトンボの仲間の「ハグロトンボ」です。ハグロトンボ;トンボ目、カワトンボ科、L=60mm以上
2024年08月09日
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田んぼの水路上の草木の枝にとまる全体が真っ赤な「ショウジョウトンボ」のオスを見つけました。なお、「ショウジョウトンボ」は漢字で「猩々蜻蛉」と書かれます。ショウジョウトンボ;トンボ目、トンボ科、L=50mm別の個体;以上
2024年08月08日
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「アオメアブ」に似ていますが、目の色が茶褐色なので「シオヤアブ」のメスになります。なお、オスには腹端に白色の毛玉があります。シオヤアブ;ハエ目、ムシヒキアブ科、L=30mm以上
2024年08月07日
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朝8時ころ、畑で収穫作業中に蝶々が飛んで来て自転車の前かごにとまりました。翅を開いたところと、場所を変えて翅を閉じたところを撮りました。このチョウは図鑑で確認するとイチモンジチョウより少し大きい「アサマイチモンジ」でした。アサマイチモンジ;チョウ目、タテハチョウ科、L=60mm以上
2024年08月06日
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午前9時過ぎに、畑の上を数羽のトンボが飛び交っていました。その中の一羽が草の葉にとまってぶら下がったところを撮りました。トンボは「ウスバキトンボ」でした。ウスバキトンボ;トンボ目、トンボ科、L=50mm以上
2024年08月05日
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朝の6時ころ、ブルーベリーを収穫している時に、どこからかアブラゼミが飛んで来て物置場の屋根にとまりました。急いで撮影すると直ぐに飛び立って行きました。アブラゼミ;カメムシ目、セミ科、L=60mm以上
2024年08月04日
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道端の草むらで、ハチを追ってアブが飛んできました。ハチは逃げ去ってアブは草の茎にとまりました。このアブは「アオメアブ」でした。アオメアブ;ハエ目、ムシヒキアブ科、L=25mm以上
2024年08月03日
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毎日、猛暑で畑仕事も日中は危険で作業が出来ない状態です。そのため、対応策として朝の6時から8時の二時間で収穫や除草をしています。今朝も朝早くに畑に行って来ましたが、その時に畑の風よけネットにとまるイボバッタを見つけました。イボバッタ;バッタ目、バッタ科、L=30mm以上
2024年08月02日
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道端の蔓草の葉にとまっていました。アミガサハゴロモ;カメムシ目、ハゴロモ科、L=12mm以上
2024年08月01日
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