全31件 (31件中 1-31件目)
1
万雑701_万葉集に載っている柿本人麻呂の歌_5次は、軽皇子(後の文武天皇)の遊猟に従った人麻呂が、父の草壁皇子を追懐する皇子の心中を詠んだ長歌(45)と反歌4首(46~49)です。45_「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて こもくりの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に はたすすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古思ひて」※_「(やすみしし)我が大君、(高照らす)日の神の皇子は、神の御心のままに神らしく振る舞われるべく、立派に治めて居られる都を後にして、( こもくりの)泊瀬の山は、高い真木が茂り立つ荒々しい山道だが、根を張ったような岩や邪魔になる木々を押しなびかせ、(坂鳥の)朝早く越えてゆかれて、(玉かぎる)夕方になると、雪の降る安騎の大野に、すすきや小竹を押し伏せ、(草枕)旅の宿りをなさる、往時をお思いになった」と歌っています。46_「安騎の野に宿る旅人うちなびき眠も寝らめやも古思ふに」※_「安騎の野に仮寝する旅人は、くつろいで眠ることができようか、往時を思うと」と歌っています。 47_「ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とそ来し」※_「(ま草刈る)荒野ではあるが、(黄葉の)今は亡き皇子の形見の地として来た」と歌っています。草壁皇子は持統天皇三年(689年)4月13日に28歳で薨じた。 48_「東の野らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」※_「東の野に煙の立つのが見えて、振り返って見ると月は西に傾いてしまった」と歌っています。 49_「日並の皇子の尊の馬並めてみ狩立たしし時は来向かふ」※_「日並の皇子の尊が馬を並べて狩を催された、その時刻は今まさにやって来た」と歌っています。「日並の皇子」は草壁皇子を指す。 以上
2024年05月31日
コメント(0)
万雑700_万葉集に載っている柿本人麻呂の歌_4次は、持統天皇六年(692年)3月から行われた伊勢行幸時に、人麻呂は都に留まり行幸の様子を思いやって作った歌3首(40~42)です。40_「あみの浦に船乗りすらむ娘子らが玉藻の裾に潮満つらむか」※_「あみの浦で今ごろ船に乗り込んでいるに違いない乙女たちの美しい裳裾に、潮が満ち寄せているだろうか」と歌っています。41_「釧つく答志の岬に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」※_「(釧つく)答志の岬に、今日も大宮人たちは玉藻を刈って遊んでいるだろうか」と歌っています。 42_「釧騒に伊良虞の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を」※_「潮騒の中、伊良虞島のあたりを漕ぐ舟に我が妹は乗っているだろうか。波風の荒い島の周りなのに」と歌っています。 以上
2024年05月30日
コメント(0)
万雑699_万葉集に載っている柿本人麻呂の歌_3次は、持統天皇が吉野宮へ行幸なさった時に、人麻呂が作った吉野宮賛歌(長歌(36、38)と反歌(37、39)です。36_「やすみしし わが大君の 聞こしをす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水そそく 滝の都は 見れど飽かぬかも」※_「(やすみしし)我が大君が、お治めになる天の下に、国は数多くあるが、山や川の清らかな川辺の地として、(御心を)吉野の国の、(花散らふ)秋津の野辺に、宮柱も太く宮殿をお建てになったので、(ももしきの)大宮人たちは、舟を並べて朝の川を渡り、舟を競って夕べの川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く造ってお治めになる、(水そそく)滝の離宮は、いくら見ても飽きることがないのだ」と歌っています。37_「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」※_「見ても見ても飽きることない吉野川、そも常滑のように、常に絶えることなくまたこの地に帰って来て見よう」と歌っています。 38_「やすみしし わが大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 やまつみの 奉る御調と 春へには 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも」※_「(やすみしし)我が大君が、神の御心まかせに、神らしく振る舞われるべく、吉野川の水が激しく流れる川辺に高殿を高くお作りになり、登り立って国見をなさると、幾重にも重なる青垣のような山々は、山の神が奉る貢ぎ物として、春には花を髪に飾って持ち、秋になるともみじを髪に挿している、離宮に沿って流れる川の神も、大君の贄に御奉仕しようと、上流の瀬で鵜飼をし、下流の瀬に小網を張り広げる。山の神も川の神も心から大君に従ってお仕えする、神の御代であるよ」と歌っています。 39_「山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも」※_「山川の神も臣従する神の御心のままに、大君は激流の中に船出なさいます」と歌っています。以上
2024年05月29日
コメント(0)
万雑698_万葉集に載っている柿本人麻呂の歌_2柿本人麻呂の最初の歌は、長歌(29)と反歌2首(30、31)です。近江の荒れた都に立ち寄った時に人麻呂が作った歌(長歌と短歌2首);29_「玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて あおのよし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか あまかざる 鄙にはあれど いはばしる 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも」※_「(玉だすき)畝傍の山の、橿原の聖なる神武天皇の御代から、お生まれになった歴代の天皇が、(つがの木の)次々に続いて、天下を治められたのに、(天にみつ)大和を捨てて、(あおのよし)奈良山を越え、どのようにお考えになったものか(あまかざる)辺鄙な田舎ではあるが、(いはばしる)近江の国の、楽浪の大津の都で、天下をお治めになった、あの天智天皇の旧都はここだと聞くけれど、春草がびっしり生えている、霞が立って春の日が霧んでいるせいか、(ももしきの)この都の跡を見ると悲しい」と歌っています。30_「楽浪の志賀の唐崎は、今も無事で変わらぬが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている」※_「楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」と歌っています。 31_「楽浪の志賀大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも」※_「楽浪の志賀の入江は、今このように淀んでいても、昔の人にまた逢るだろうか」と歌っています。※_人麻呂が大津宮の跡を訪れたのは、壬申の乱から15年後の、持統天皇元年(689年)頃だったとの仮説があります。以上
2024年05月28日
コメント(0)
万雑697_万葉集に載っている柿本人麻呂の歌_1 ここからは、万葉集に載っている「柿本人麻呂」の歌を見て行きたいと思います。そこでまず、柿本人麻呂の歌が万葉集に何首の載っているかを確認してみました。(1)_万葉集に、柿本人麻呂の歌だと明記されているのは、巻第一___15首巻第二___39首巻第三___23首巻第四___7首巻第十一__1首巻第十五__6首 の 計91首です。(2)_他に、柿本人麻呂の歌集に載っている歌が366首あります。この双方を合計すると457首となります。次回から(1)の明記されている歌を見て行きます。以上
2024年05月27日
コメント(0)
家の車庫前の地面を歩く、黒い「ハネアリ」みたいな虫を見つけました。撮った画像で図鑑を調べると「クロモンサシガメ」だと判りました。※_「サシガメ」は日本に120種ほどいて、肉食で昆虫に口を刺して体液を吸い取るようです。触ると刺されてすごく痛いようですので要注意です。クロモンサシガメ;カメムシ目、サシガメ科、L=12mm以上
2024年05月26日
コメント(0)
今朝のウォーキング中、久し振りにオオスカシバを見ました。オオスカシバ;スズメガ科、開張=60mm以上
2024年05月25日
コメント(0)
昨日はキチョウでしたが、今日はモンシロチョウで、ムラサキツメクサの花で蜜を吸っていました。他にシオカラトンボが1匹だけアスファルト上にとまっていました。モンシロチョウ;シオカラトンボ;以上
2024年05月24日
コメント(0)
朝7時ころからウォーキングに出かけ、途中の堤防で土手に生えるアザミの花にとまって蜜を吸うキチョウを見つけました。後で画像を見て気が付いたのですが、花にはバッタの幼虫もとまっていました。毎年この時期は昆虫が沢山見れる季節なのですが「今年は極端なくらいに昆虫が少ないなあ」と思います。キチョウ;以上
2024年05月23日
コメント(0)
万雑696_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(番外) 中臣氏と藤原氏の歌を見て来ましたが、最後に残った藤原の名が付く「藤原部等母麻呂」は、藤原氏には関係ない筑紫に派遣された防人(武蔵埼玉郡の人)でした。次回からは「柿本人麻呂」の歌を見て行きたいと思います。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、宿奈麻呂の妻(済)、藤原広嗣(済)藤原久須麻呂(済)、藤原執弓(済)、藤原夫人1;氷上大刀自(済)藤原夫人2;大原大刀自(済)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月22日
コメント(0)
万雑695_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原夫人2) 次は、藤原鎌足の次女で天武天皇の夫人の藤原夫人2(=大原大刀自、五百重娘)で、万葉集に歌が1首(104)あります。※_藤原鎌足は天武天皇に娘二人(長女;氷上娘、次女;五百重娘)を嫁がせています。104_「わが岡の龗に言ひて降らしめし雪の摧けしそこに散りけむ」※_「私がいる大原の岡の、水の神に命じて降らせた雪の砕けた細片が、そちらに散ったのでしょう」と歌っています。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、宿奈麻呂の妻(済)、藤原広嗣(済)藤原久須麻呂(済)、藤原執弓(済)、藤原夫人1;氷上大刀自(済)藤原夫人2;大原大刀自、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月21日
コメント(0)
万雑694_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原夫人1) 次は、藤原鎌足の長女で天武天皇の夫人の藤原夫人(=氷上大刀自、氷上娘)で、万葉集に歌が1首(4479)あります。4479_「朝夕に音のみし泣けば焼き大刀の利心も我は思ひかねつも」※_「朝夕声に上げて泣くばかりなので、(焼き大刀の)しっかりした心を私はもてないでいます」と歌っています。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、宿奈麻呂の妻(済)、藤原広嗣(済)藤原久須麻呂(済)、藤原執弓(済)、藤原夫人;氷上大刀自藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月20日
コメント(0)
万雑693_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原執弓) 次は、藤原仲麻呂の次男の藤原執弓(ふじわらのとりゆみ)で、万葉集に歌が1首(4482)あります。執弓は父が起こした「仲麻呂の乱」に従い、官軍に負けて斬られています。遠くに赴任する時に執弓が作った歌;4482_「堀江越え遠き里まで送り来る君が心は忘らゆましじ」※_「堀江まで渡って、遠い里まで送って来てくれたあなたの心は忘れないだろう」と歌っています。遠くまで送ってくれた「君」の情けを忘れまいと詠んだ歌です。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、宿奈麻呂の妻(済)、藤原広嗣(済)藤原久須麻呂(済)、藤原執弓、藤原郎女、藤原夫人(円方女王)藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月19日
コメント(0)
万雑692_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原久須麻呂)次は、藤原仲麻呂の三男(岩波の万葉集では次男)の藤原久須麻呂(ふじわらのくすまろ)で、万葉集に歌が2首(791、792)あります。791_「奥山の岩陰に生ふる菅の根のねもころ我も相思はざれや」※_「奥山の岩陰に生えている菅の根のように、私も深く心をこめて思わないことがあろうか」と歌っています。誠実に求婚しているという歌です。792_「春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだ含めり」※_「春雨を待つということらしい。我が家の庭の若木の梅もまだ蕾のままだ」と歌っています。大伴家持の歌(786)に答えた歌です。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、宿奈麻呂の妻(済)、藤原広嗣(済)、藤原久須麻呂藤原執弓、藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月18日
コメント(0)
万雑691_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原広嗣)次は、藤原宇合の長男の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)で、万葉集に歌が1首(1456)があります。※_藤原広嗣は「藤原広嗣の乱」として「続日本紀」に名が残っています。天平十二年(740年)9月3日、大宰少弐の広嗣が謀反の軍を起こしたが、官軍に負けて処刑されています。藤原広嗣が桜の花を娘子に贈った歌;1456_「この花の一よのうちに百種の言そ隠れるおほろかにすな」※_「この花の一枝の中に、沢山の言葉がこもっている。粗末にしてはいけない」と歌っています。※_この歌に娘子が答えた歌がありますので載せておきます。1457_「この花の一よのうちは百種の言持ちかねて折れえけらずや」※_「この花の一枝の中には沢山の言葉を持ちきれなくて、折れたのではありませんか」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、宿奈麻呂の妻(済)、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月17日
コメント(0)
万雑690_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(宿奈麻呂の妻)次は、藤原宇合の次男の藤原宿奈麻呂(ふじわらのすくなまろ)ですが、万葉集に宿奈麻呂の歌はありませんが妻の歌が1首(4491)がありますので載せておきます。宿奈麻呂の妻の石川郎女が愛薄らいで離別され、悲しみ恨んで作った歌;4491_「大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里」※_「大海の水底のように深く思いながら、裳を引いて地面を平らにした菅原の里よ」と歌っています。長い結婚生活だったのに、夫の薄情を恨んだ歌です。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河(済)、藤原宿奈麻呂の妻、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月16日
コメント(0)
万雑689_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原清河)次は、藤原房前の四男の藤原清河(ふじわらのきよかわ)で、万葉集に歌2首(4241、4244)があります。天平勝宝二年(750年)第12次遣唐使の大使となり、中国の唐へ行き、その後に一度帰国の途についたが船が難破しベトナムに漂着、以後も唐朝に仕え天平宝亀九年(778年)頃に客死したようです。その入唐大使となった天平勝宝二年(750年)に藤原清河が作った歌;4241_「春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰り来るまで」※_「春日野に祀る神社の梅の花よ、いっぱいに花開いたまま待ち続けておくれ、帰って来るまで」と歌っています。4244_「あらたまの年の緒長く我が思へる児らに恋ふべき月近づきぬ」※_「(あらたまの)年月長く私が思ってきた妻を恋しく思う月が近づいてきた」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束(済)藤原清河、藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月15日
コメント(0)
万雑688_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原八束3)次も、藤原八束(ふじわらのやつか、当時;見参議中務卿)の歌2首(4271、4276)です。天平勝宝二年(758年)11月8日に左大臣橘朝臣宅で、太上天皇(聖武天皇)が御宴をなさったときに八束が作った歌;4271_「松陰の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に」※_「松陰の清らかな浜辺に玉を敷いたら、大君はお出でになるでしょうか、清らかな浜辺に」と歌っています。天平勝宝二年(758年)11月25日、新嘗会臣の御宴で詔に応えて八束が作った歌; 4276_「島山に照れる橘うずに刺し仕へ奉るは卿大夫たち」※_「庭園に照り映える橘を髪飾りとして挿して、ご奉仕するのは卿大夫たち」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束藤原清河、藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月14日
コメント(0)
万雑687_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原八束2)次も、藤原八束(ふじわらのやつか)の歌4首(987、1547、1570、1571)です。月の歌;987_「待ちかてに我がする月は妹が着る三笠の山に隠りてありけり」※_「待ちきれずに私が思う月は、さては(妹が着る)三笠の山に隠れていたのだな」と歌っています。秋の雑歌3首;1547_「さ雄鹿の萩に貫き置ける露の白玉あふさわに誰の人かも手に巻かむち」※_「雄鹿が萩の枝に貫いて置いた露の白玉。それをいったい誰がうっかり手に巻こうと言うのか」と歌っています。1570_「ここにありて春日やいづち雨づつみ出でて行かねば恋ひつつそ居る」※_「ここにいると春日はどの方向になるのだろう。雨に降りこめられて外に出て行けないので、恋しく思いながら家にいる」と歌っています。 1571_「春日野にしぐれ降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高円の山」※_「春日野にしぐれが降るのが見える。明日からは黄葉を髪に挿すことであろう、高円の山は」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束藤原清河、藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月13日
コメント(0)
万雑686_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原八束1)次は、藤原房前の三男の藤原八束(ふじわらのやつか)で、万葉集に歌が8首(398、399、987、1547、1570、1571、4271、4276)あります。今日は、その中の2首(398、399)です。藤原八束が作った梅の歌2首;398_「妹が家に咲きたる花の梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ」※_「あなたの家に咲いている花の梅が、いつであれ、実になった時にこそ、事は決めよう」と歌っています。※_成長した娘との結婚を母親に申し出る歌になっています。399_「妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ」※_「あなたの家に咲いている花の、その梅の花が実になったらどのようにでもしよう」と歌っています。※_若い娘をその家の梅に譬え、開いた花が結実する成熟の日を待って、妻にしようと詠んでいます。※_因みに八束の妻は3名いました。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手(済)、藤原八束藤原清河、藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓藤原郎女、藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月12日
コメント(0)
万雑685_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原永手)次は、藤原房前の次男の藤原永手(ふじわらのながて)で、万葉集に歌が1首(4277)だけあります。藤原永手が、大和の国守だった39歳の時に作った歌;4277_「袖垂れていざ我が園にうぐひすの木伝ひ散らす梅の花見に」※_「袖を垂らしてさあ我が庭に降り立ちましょう、ウグイスが木を伝って散らす梅の花を見に」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂(済)、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月11日
コメント(0)
万雑684_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原仲麻呂)次は、藤原武智麻呂の次男の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)で、万葉集に歌が1首(4487)だけあります。※_藤原武智麻呂は叔母の光明皇后、従兄弟の孝謙天皇との強い繋がりにより権力の中心にのし上がりました。しかし、叔母の光明皇太后が崩御されたのちは、孝謙上皇・道教と淳仁天皇・仲麻呂との確執が高まり、天平宝字八年(764年)仲麻呂が謀反(藤原仲麻呂の乱)を起こしたが負けて斬首となりました。天平宝字元年(757年)5月、紫微内相に就任した仲麻呂が、新政権への批判、反抗を封じる意図で作った歌;4487_「いざ子ども狂わざなせそ天地の堅めし国そ大和島根は」※_「さあ、みんな、たわけたことをするな。天地の神が固めた国であるぞ、大和の国は」と歌っています。※_最終的に、自分が作った歌の意図を、良く分かっていなかったのは歌を作った仲麻呂本人だったのですね。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子(済)、藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月10日
コメント(0)
万雑683_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原光明子2)次も、藤原光明子(ふじわらこうみょうし)で、今日は残りの歌2首(4224,4240)です。光明皇后(=光明子)が芳野宮に幸されたときに作られた歌;4224_「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我がやどの萩」※_「朝霧のたなびいている田んぼで鳴く雁を、引き留められるだろうか、我が家の萩は」と歌っています。天平勝宝三年(751年)2月、藤原太后(=光明子)が入唐大使の藤原朝臣清河(光明子の甥、不比等の子)にお下しになった歌;4240_「大船にま梶しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち」※_「大船に左右の楫をいっぱいに差して取り付け、この我が子を唐国へ送り出します。守って下さい、神たちよ」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子、藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月09日
コメント(0)
万雑682_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原光明子1)次は、藤原不比等の三女の藤原光明子(聖武天皇の皇后、孝謙天皇の母)で万葉集に歌が3首あります。そして今日は、その3首の中の最初の歌(1658)です。光明皇后が聖武天皇に差し上げた歌;1658_「我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし」※_「我が君と二人で見るのだったら、どんなにかこの降る雪は嬉しかったことでしょう」と歌っています。<備考>藤原光明子は大宝元年(729年)に藤原不比等の三女として生まれました。天平宝字四年(760年)6月7日崩御、享年60歳。皇室と藤原家の深い繋がりが下記の系譜からも判ります。藤原不比等= 妻;蘇我娼子(蘇我連子の娘、) |ー長男;藤原武智麻呂【南家祖】 |ー二男;藤原房前【北家祖】 |ー三男;藤原宇合【式家祖】 妻;五百重娘(元天武天皇夫人、不比等の異母妹) |ー四男;藤原麻呂【京家祖】 妻;賀茂比売 |ー長女;藤原宮子(文武天皇夫人、聖武天皇母) 妻;橘三千代(文武天皇と聖武天皇の乳人) |ー三女;藤原光明子(聖武天皇皇后、孝謙天皇母) 生母不詳 |ー二女;藤原長娥子(長屋王室) |ー四女;藤原多比能(橘諸兄室) |ー五女;藤原殿刀自<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂(済)藤原光明子、藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月08日
コメント(0)
万雑681_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原麻呂)次は、藤原不比等の四男の藤原麻呂(藤原;京家の祖)で万葉集に歌が3首(522~524)あります。大伴坂上郎女(大伴安麻呂の娘、大伴旅人の異母兄妹、一時期藤原麻呂の恋人)に贈った歌3首;522_「娘子らが玉くしげなる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば」※_「娘さんたちの美しい櫛箱にしまってある櫛のように、私も古びたことだろうな。あなたに逢わずにいるので」という歌です。523_「よく渡る人は年にもありといふを何時の間にそも我が恋ひにける」※_「辛抱強く年月を過ごす人は、一年でも逢わずにいるというのに、いつの間に私は堪え切れずに、恋しくなってしまったのか」という歌です。524_「蒸し衾なごやが下に臥せれども妹とし寝れば肌し寒しも」※_「カラムシの柔らかな夜具の中に寝ているけれども、あなたと寝ていないので、肌が冷たい」という歌です。藤原宇合の歌は、この3首で終わりです。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂藤原光明子、藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月07日
コメント(0)
万雑680_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原宇合4)次も、藤原宇合(藤原;式家の祖)の歌3首(1729~1731)です。1729_「暁の夢に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ」※_「暁の夢にずっと見えて、梶島の磯を越す波のようにしきりにあなたのことが思われます」という歌です。1730_「山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ」※_「山科の石田の小野の柞の原、その原を見ながらあなたは今頃山道を越えているだろうか」という歌です。1731_「山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも」※_「山科の石田の杜に幣を奉ったら、もしかしてあなたに直に逢えるだろうかなあ」という歌です。ここ迄で、藤原宇合の歌は終わりです。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合(済)、藤原麻呂藤原光明子、藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月06日
コメント(0)
万雑679_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原宇合3)次も、藤原宇合(藤原;式家の祖)の歌(1535)です。藤原宇合の秋の雑歌;312_「我が背子を何時そ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く」※_「我が背子を、何時来られるか、今か今かと待っていると、お顔は見られるのだろうか、秋の風が吹きます」と歌っています。「待つ人は来そうになく、風の気配ばかりする」という歌です。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合、藤原麻呂、藤原光明子藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月05日
コメント(0)
万雑678_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原宇合2)次も、藤原宇合(藤原;式家の祖)の歌(312)です。神亀三年(726年)、藤原宇合が式部卿で知造難波宮事を兼ねていた時期のに作った歌;312_「昔こそ難波ゐなかと言はれけめ今都引き都びにけり」※_「昔こそ難波田舎と言われたであろう。しかし、今、都を引き移して実に都らしくなった」と歌っています。 <記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合、藤原麻呂、藤原光明子藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月04日
コメント(0)
万雑677_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原宇合1)次は、藤原房前の弟の藤原宇合(藤原;式家の祖)で、万葉集に歌が5首あります。今日は、その中の最初の1首(72)です。藤原宇合(ふじわらのうまかい、最初は馬養、後に宇合に改名)は持統天皇8年(694年)生まれ、天平9年8月没、享年44歳、藤原不比等の三男。文武天皇の難波宮行幸の時に、宇合が作った歌;72_「玉藻刈る沖辺は漕がじしきたへの枕のあたり忘れかねつも」※_「(玉藻刈る)沖辺は漕がないでおこう。(しきたへの)枕のあたりを忘れることができないのだ」と歌っています。舟遊びの歌で、「枕のあたり」は妻を指します。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合、藤原麻呂、藤原光明子藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月03日
コメント(0)
今日はよく晴れて過ごしやすいい一日でした。昆虫も色々と増えてきた、ウォーキングの間で三種のチョウを見つけました。コミスジ;サトキマダラ;ヒメウラナミジャノメ;
2024年05月02日
コメント(0)
万雑676_中臣氏・藤原氏の系譜で万葉集に歌がある人(藤原房前3)次も、藤原房前(藤原;北家)の歌2首(1764,1765)ですが、万葉集には藤原房前の家で作られた歌と記載されています。しかし作者は未詳となっており、ここでは取り敢えず藤原房前の歌として取り上げました。七夕の歌(長歌と短歌);1764_「ひさかたの 天の川 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 船浮けすゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず 止まず来ませと 玉橋渡す」※_「(ひさかたの)天の川に、上の瀬に美しい橋を渡し、下の瀬に船を湊ににつけて、雨が降って風の吹かない夜も、風が吹いて雨が降らない夜も、裳を濡らすことなく、止まずにおいで下さいと、美しい橋を架け渡す」と歌っています。1765_「天の川霧立ち渡る今日今日と我が待つ君し船出すらしも」※_「天の川には霧が一面に立ち渡っている。今日こそ今日こそと、私が待った君が船出するらしい」と歌っています。<記事>中臣氏;中臣東人(済)、中臣清麻呂(済)、中臣宅守(済)藤原氏;藤原鎌足(済)、藤原房前(済)、藤原宇合、藤原麻呂、藤原光明子藤原仲麻呂、藤原豊成、藤原永手、藤原八束、藤原清河藤原宿奈麻呂、藤原広嗣、藤原久須麻呂、藤原執弓、藤原郎女藤原夫人(円方女王)、藤原部等母麻呂、藤原武良自藤原広嗣<備考>_中臣氏・藤原氏系図(改_3)以上
2024年05月01日
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1