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メインのPCがタウンして、それでなくても使い勝手悪いノートPCでの作業。別にもう1台デスクトップがあるのですが、こっちはOSに「UNIX(ユニックス)」系を使ってて、サーバーやワークステーション用のOSです。長い間使ってないのでシステム更新に1時間以上要するので、今回は使ってません。それでノートPCのことなんですが、ちょっと必要なソフトを探したくて「Microsoft store」を覗いてみようとしたら、Microsoft storeそのものが見当たらない。Microsoft storeはアンドロイドスマホで云うGoogle Playみたいなもんで、ここに掲載されてるアプリは安全と云うこと。(後で気づいたのですがMicrosoft store、ちゃんとインストールされてました。気づかなかっただけです)で、ネット検索でMicrosoft storeを探してインストールしたのですが、それが何を血迷ったのか違うアプリをインストールしてしまった。アプリの名前は「PC App Store」。これが、とても厄介なウイルスに近いアプリだったのです。このアプリ、立ち上げも何もありません。自動的に立ち上がってクレジットカード番号を含む「入会」データ入力画面が全画面表示されます。通常右上に表示されるアプリの終了「X」ボタンも画面サイズ変更の「□」ボタンも最小化の「-」ボタンも何も表示されません。このアプリが画面全体を仕切ってて、ほかのアプリを立ち上げてもすべてPC App Store画面の裏側に隠れてしまうのです。これでは「コントロール画面」表示させて、このアプリを削除することもできません。PCの再起動をやっても、すぐにPC App Storeの入力画面が表示されて同じ状態。こんなときは、「Alt」+「F4」キーで強制終了できるハズですが、これも受け付けない。いよいよとなって「Ctrl」+「Alt」+「Deleete」キー同時押しで、タスクマネージャーを呼び出して強制終了しようとしたけど、これも受け付けない。最後の手段です。「Ctrl」+「Alt」+「Deleete」キー同時押しで、右下に表示される「電源ボタン」アイコンをクリックします。そしたら「Shift」キーを押しながら「再起動」をクリックします。(画面が切り替わるまでShiftキーは押したままにします)すると葵画面で「トラブルシューティング」「詳細オプション」「スタートアップ設定」「再起動」のメニューがでますので「再起動」をクリックします。再起動後、番号を選ぶ画面が出るので「4」の「セーフモードを有効にする」を選択します。そしたらWindowsが壁紙のないシンプルな画面で表示されてPC App Storeも立ち上がりません。ここで「エクスプローラ」を表示させて「C」ドライブの「Program Files(x86)」を探すと「PC App Store」というホルダーが見つかるハズです。見つけたらフォルダごと「右クリック」で削除。こんなこと、普通に立ち上げてたらご法度ですが、「セーフモード」だったらやっても支障ありません。これでPC再起動して普通のモードで立ち上げても、PC App Storeは立ち上がりません。念のために「コントロールパネル」から「スタートアッププログラム」にこのソフトが登録されてないか確認しておきます。もし登録あれば右クリックで削除でOKです。とまぁ、自分の不注意からとんでもないアプリをインストールしてしまいました。今回はWindows に特化した話題ですが、同様の危険性はMACでもあると思います。よりによってこんな時にアホなことしたものです。
Mar 31, 2026
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いきなりメインで使ってるデスクトップPCが立ち上がらなくなりました。電源ボタンを押してもパイロットランプすら点灯しません。山のように接続してるコード類を引っこ抜いて、PCの点検用カバーを外し、電源ボタンを確認しましたが異常なし。と、云うことは電源ユニットそのものがオシャカになった証拠。私の使ってるPCは、クリエーター向けなので、高速に画像を表示するグラフィックカードが刺さってたり、シリコンディスクとハードディスクがつごう4台も内部接続されてます。そこに電源ユニットだけ買ってきて取り替えても、ジャングルのような配線を処理するのはかなりの労力。今、PCはカバー外したまま放置してます。このブログはノートPCで書いてますが、見慣れた29インチx2のディスプレイと比べると、見づらいたらありゃしない。とにかくサブのディスクにアクセスできないのでは、データにまったくたどり着けない。メインのシリコンディスクにはWindowsとアプリしか入れてないからです。困りましたね。とにかくこの際、PCを新調するしかないか。もうクリェーター向けでなくてもよいけど、CPUとメモリーは妥協できないので、よく検討して購入することに。てなことで、新しいPCを入手してシステム構築できるまで手抜きブログになります。
Mar 30, 2026
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劇団四季「キャッツ」のプログラムイラストを手掛ける前田マリと云うイラストレーターがいます。この方が1996年に初めて出した画文集のタイトルは「ニューヨーク猫画帖」。ニューヨークに行ったとき、あちこちのお店で出会ったにゃんこを主人公にした絵本みたいな作品です。この前田マリってのはよほどにゃんこが好きらしく、にゃんこをテーマにした作品が多いです。そんな彼女の作品に「猫はジャズが好き」ってのがあります。ジャズ・シーンやミュージシャン、ファッションとかジャズを楽しむための著書なんですが、「なんでにゃんこ」?それは英語のスラングで「CAT(猫)」は、ジャズミュージシャンやジャズ狂を現すからです。もともと1920年代から、ジャズミュージシャンの間で「クールな人」「優れた奏者」を指すスラングとして「CAT」が使われてたのですね。それとは別に演奏後に、食事をまかなったり、ギャラを支払うことを「猫に餌をやる」と表現したところから来ていると云う説もあったり、ジャズマンは猫がネズミを追いかけるようにオンナを追いかけるからっていう説もあります。そう云うことで、多くの猫好きミュージシャンや猫をモチーフにした名盤が存在するのです。もっとも有名なのは1957年に発表されたジャズ・ピアニスト"トミー・フラナガン"とサックス奏者"ジョン・コルトレーン"らによる「THE CATS」でしょう。ハモンドオルガン奏者としてソウル・ジャズというスタイルを確立した"ジミー・スミス"も1964年に「THE CATS」と云うアルバムを発表してます。作曲家ラロ・シフリンによるビッグバンドのアレンジを収録した1枚で、ビルボードで12位にランクインした人気アルバムです。他にはテナーサックス奏者"チュー・ベリー"の「Chu」と云うアルバムにもにゃんこをモチーフにしたジャケット使ってるし...アルトサックス奏者"ジョニー・ホッジス"のアルバムにも猫ジャケが。コロラドを拠点に活動するサックス奏者兼作曲家のアンドリュー・ヴォークトの2010年に発表したアルバム「Cats Afoot」なんてにゃんこオンパレードです。ジャズとにゃんこのつながりは、単なる愛猫家というだけでなく、音楽性やカルチャーにおいても深く結びついているのですね。にゃんこの自由気まぐれで、単独行動を好み、警戒心が強いといった性質が、ジャズの即興演奏やミュージシャンの雰囲気に似ているからです。1945年8月15日の太平洋戦争集結とともに、占領下の日本には全国で約16個の師団規模の地上軍が展開しており、基地や施設は主要都市から地方まで数百~数千ヶ所に及んでいました。旧日本軍の施設ばかりか学校から公園、民間施設まで広範囲に接収されてたのです。そこには決まって米兵のためのクラブが有りました。そんな時代、"ハナ肇とクレイジー・キャッツ"と云うバンドがジャズマンとしてステージに立つことになるのですね。そのバンドメンバーのひとり、谷啓は高校時代からキャバレーでバンドマンのアルバイトをしていました。高校卒業後、中央大学に進学するとバンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していたのですが、確かな腕前とコミカルな演奏が原信夫に注目され、トロンボーン奏者としてジャズのビックバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」に参加することになるのです。谷啓はやがて「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになっていくのです。と、云うワケで、コミックバンドの印象が強いハナ肇とクレイジー・キャッツの成り立ちは本格的なジャズバンドで、だからこそグループ名に「キャッツ」をつけてるのです。ディズニー映画「おしゃれキャット」の中で歌われる「Everybody Wants to Be a Cat(みんな猫になりたいのさ)」と云う曲があります。このダウンビートで軽快なジャズ調の曲は、猫たちが集まって「猫であることがいかに素晴らしいか」を歌い上げているのですね。「猫は自由でクールで、リズムを知っている」と云い、ほかの生き物の生き方は時代遅れだと。この歌詞には、スウィング感のあるジャズや音楽への称賛が詰まっていて、「ジャズを演奏する猫」こそが最高で、他のスタイルは古臭いというメッセージが込められているのです。「The Great City,Meow York/大都市ニャンヨーク」も猫×ジャズ(Cat & Jazz)をコンセプトにしたジャズ調の作品で、都会の夜を感じさせるレトロなジャズの雰囲気を持ってます。てなことで、猫とジャズくらい親和性の高いものはない。そう云えば先日取り上げた村上春樹も無類のジャズ好きでにやんこ好き。作家のアーネスト・ヘミングウェイは極端なにゃんこ好きとともに、その作品は1920年代のパリやアメリカの「失われた世代」の雰囲気、すなわち当時のジャズエイジ(ジャズ時代)の空気感と深く結びついています。簡潔でリズム感のある文体は、即興的で力強いジャズの即興演奏と比喩され、とりわけ小説「日はまた昇る」などは、その世代の心情を色濃く反映しています。キューバのハバナ近郊に20年以上住んでいたヘミングウェイ。そこには数千冊の書籍に加えて、膨大な量のジャズレコードのコレクションがありました。
Mar 29, 2026
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大阪人にとって神戸人は「お洒落で都会的、洗練されたイメージ」だけど「少しすました上品な存在」と映るのですね。なんせ全てのことにガツガツ貪欲な大阪人と違って、洗練された「神戸ブランド」と云う少し違う文化圏の人々。一方、大阪人から見た京都人は、優雅で上品なのですが、本音が読めず腹黒いと云う印象が強烈です。言葉は丁寧でも真意が見えない「イケズ(意地悪)」文化が浸透している。なにしろあそこは長い都の歴史があって、大阪人を「上品さが無い」と見下していますからねぇ。(云われれば、確かにそうなんですが)そんな京都は京丹後や宮津、舞鶴市など北部(丹後エリア)が海に面しているとは云え、京都市内はまったくの陸の孤島。なので海から捕れる魚には縁遠い土地なのに、「鯖ずし」と云う名物料理が存在します。鯖ずし、昔はお祭りのたびに京都の各家庭で作られてたほどポピュラーなものなんです。水上勉の小説「越前竹人形」を読まれた方はご存知ですが、福井県小浜市(若狭)は、古くから日本海の海産物、特に鯖を都へ運んだ物流街道「鯖街道」の出発点でした。捕れた鯖にひと塩した荷を担いだ人々が夜通し歩いて京都市内まで運んだのですね。若狭の浜と京都市は70km ほどの距離です。鯖街道を通過して、着く頃にはちょうどよい塩加減になってたのですね。その鯖を3枚おろし、酢で締めたものを酢飯の上に乗せ、コンブで巻いたものが鯖ずし。京都人にとって、なかなか食べれない海の魚だけに、より美味しく食べる工夫を考えついたワケです。同じように海と縁遠い奈良県人も鯖を酢飯に乗せて、柿の葉(本来は朴の葉)に包んだ「柿の葉すし」を考えついたのですね。これも昔は、ひと塩した鯖が唯一入手できる海の魚だったからです。最近の柿の葉すしは鮭なんかを使ったものも出てますが、これは亜流で本家はあくまで鯖です。海の魚料理で京名物がもうひとつあります。身欠にしんを使って作る「にしんそば」です。身欠にしんは、北海道で獲れたにしんを乾燥させたものですね。これまた若狭の鯖と同様、京都の人たちにとって貴重なタンパク源。毎月1日や15日にお惣菜として食べる習慣がありました。この身欠にしんを、蕎麦と組み合わせてはどうかと云う発想から生まれたのが「にしんそば」です。「にしんそば」を考えついたのは、四条川端東詰にある「松葉」2代目の与三吉。彼は、明治初期、身欠にしんを醤油や砂糖、みりんなどで柔らかく煮上げ、蕎麦の種として出したら、これがたちまち評判を呼び、あっと云う間に京名物になったのです。「松葉」は今も「総本家にしんそば松葉」として営業していて、にしんを煮る煮汁は、煮詰まった分だけ新たに注ぎ足し、当時のものをずっと使い続けてます。関西人は総じて薄味です。薄口醤油は一般的な濃口醤油より塩分が約1~2割高いですが、これを少量使って煮物なんかも仕上げます。なので上のにしんそばの画像を見ても分かる通り、蕎麦やうどんの出汁もすべて透き通ってるのですね。麺が見えなくなるくらい黒い出汁は使いません。あくまで出汁の旨味を活かした調理法をとります。その典型が京都の「おばんざい」でしょうね。おばんざいとは、豪華な懐石料理とは違って、京都の一般家庭で日常的に食べられている「お惣菜」のことで、京野菜や旬の食材、乾物などを使い出汁を効かせた薄味の家庭料理のことです。その薄味の本家本元 京都に奇妙な食べ物があるんですね。関東のお雑煮はおすまし仕立てですね。ところが関西のお雑煮は白味噌仕立てで、こってりしている上に非常に甘いとこが多いのです。これは関西で一般的ですが、京都以外の他府県では普通の赤味噌も使います。しかし、京都は白味噌仕立てで統一されてるような。京都=薄味と云うイメージからは説明つかない食べ物です。京都で白味噌を使うのは、白味噌を使ったお菓子が多く、特に正月菓子が多いからです。白味噌を使ったお菓子で有名なのが、カステラ風の生地に白味噌を塗った「味噌松風」とか、餅に白味噌を塗った「稚児餅」などです。京都の北区紫野今宮町にある今宮神社では、神聖なお餅を“あぶり”、無病息災、子孫繁栄、長寿などを願って「あぶり餅」を食べるのですが、これも竹串に刺したお餅に白味噌をつけて食べます。端午の節句に食べる「柏餅」にも白味噌を使ったものが多いです。正月の雑煮も、その延長線上にあるんですね。麹をたっぷり使ってつくる白味噌は、味噌の中でも高級品です。その白味噌を京都人は正月にたっぷり使って年に一度の贅沢を味わってるのです。普段は薄味好みなのに、お雑煮だけやたら甘くこってりしてるのは"お菓子"と考えれば納得いきます。京都の白味噌お雑煮では、だいたい丸餅、かしら芋、輪切りの大根、京人参などを入れますが、鶏肉や魚介類は入りません。関西で丸餅が多い理由は、「円満」や「鏡餅(神の魂)」を象徴する縁起物として、平安時代からの伝統を受け継いでいるためです。角(かど)を立てず、物事が「丸く収まる」ようにとの願いが込められているんですね。それとともに温暖な関西では、切り口のある角餅はカビが生えやすいため、保存性の高い丸餅が好まれたのです。
Mar 28, 2026
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元禄14年(1701年)3月14日、勅使である公卿を幕府が江戸城で饗応している最中に、勅使饗応役を務めていた赤穂藩主 浅野長矩が殿中松の廊下で 高家 吉良上野介を脇差で斬りつけ、重傷を負わせた事件。そして第5代将軍 徳川綱吉は長矩を即日切腹に処し赤穂藩を後日改易しましたね。ご存じ「忠臣蔵」の発端です。これを不服とした赤穂浪士 大石内蔵助以下47名は、翌年の元禄15年12月14日深夜、吉良邸へ討ち入り、上野介を殺害。その後、赤穂浪士らは切腹に処せられました。この史実をもとに人形浄瑠璃や歌舞伎から講談、映画、TVドラマなど多数制作されたのですね。こうした作品では吉良上野介が一方的に悪者になって、仇討ちという美談として描かれるのが常。史実的には映画なんかで描かれることとは違う観点もあるようですが、なにしろ勧善懲悪に弱い日本人、とにかく赤穂側の立場で見ると云うより見たいが勝って押並べて大石内蔵助=主君の恨みをはらしたヒーロー、吉良上野介=内匠頭を権勢を楯にいじめ倒したアンチヒーローと云う構図になってます。私らの年代で云うと1964年にテレビ初出演の長谷川一夫が大石内蔵助、滝沢修が吉良上野介を演じたNHK大河ドラマ「赤穂浪士」が強く印象に残ってます。映画で最初の「忠臣蔵」作品は、1910年(明治43年)製作の牧野省三監督、尾上松之助主演による「実演・忠臣蔵」です。大石内蔵助を多く演じた俳優、戦前ではこの尾上松之助が、戦後では8代目松本幸四郎なんですな。とにかく登場人物が多い忠臣蔵はオールスターキャストでの演出が可能なので、大作映画にはうってつけ。とにかくこの忠臣蔵くらい日本人の琴線に触れる物語は無いでしょうね。過去のものになりつつあった武士道を四十七士が「義」をもって表したこと。しかも討ち入りをはたした後の自分たちに待ち構えてるものを事前に知っていながら、あえて命を捨ててまで決行した。内蔵助が討ち入り決行直前に南部坂の屋敷に暮らす浅野長矩の妻 瑤泉院と会ったとき、吉良方の間者が潜入している可能性を警戒して「西国の大名に召抱えられることになりました」と伝えると、瑤泉院は「忠義の心も忘れたか」と怒ります。ところが内蔵助が置いていった旅日記が、実は連判状であったことに気づいた瑤泉院のもとに、討ち入りの知らせが届きます。大石の別れの意味を初めて悟った瑤泉院は、短慮を悔い、亡き夫の霊前に合掌すると云う「南部坂の別れ」、これなんど観てもイチバン心打たれるシーンです。実は、私はYouTube で放映されてた長谷川一夫主演の映画「忠臣蔵」でこのシーンを観て胸が熱くなったのですね。まったく単純な人間です(笑)他にも吉良邸討ち入りのとき、隣の家から高張提灯を掲げて吉良邸の庭を明るく照らして赤穂浪士を援護した旗本の土屋主税逵直など赤穂浪士を援護するさまざまな人々と、四十七士個人個人でも家族に討ち入りを云えず、仇討ち終わった後でつかの間の逢瀬、しかし最後の別れを懐かしむ浪士など、まぁ、これくらい人情の機微にふれる物語は無い。と、まぁ忠臣蔵の魅力は討ち入り直前と討ち入り後に集約されてて、討ち入りそのものや長矩の刃傷なんてのは付け足しみたいな。長矩のくだりでも、いざ切腹と云うときに庭でひっそりと送る浅野家の家臣に「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん」と辞世の句を読んで逍遥と切腹するシーンでこれは春。春と云えば心匈ぐ時期なのに、あえて切腹と云う尊厳な儀式をもってくる。対する討ち入りは積もる雪を踏みしめる冬と日本の四季まで偶然とは云え、たくみに日本人にアピールしてるとこがスゴイですね。ほとんどの話はフィクションでしょうけど、とにかく日本人の機微に触れる物語の連続。これがハリウッド映画だったら、討ち入りだけをクローズアップさせてアクション映画になってしまうのでしょうが、そう云えば2013年にはキアヌ・リーブスが天狗に育てられた外人との混血児カイを演じ、忠臣蔵を題材にしたファンタジーサムライ映画「47RONIN」なんて作品がハリウッドで撮られました。やっぱりね、外国人には忠臣蔵に流れる日本人の心は理解できんやろなぁ。
Mar 27, 2026
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雨が降ったときに着用するレインウェアを「かっぱ」とか「雨がっぱ」と呼びますが、これは「河童(カッパ)」とは関係ないですね。河童が背中に亀のような甲羅を背負ってるの指して「かっぱ」ではありません。漢字で書くと「合羽」。「かっぱ」は、ポルトガル語の「capa」に起源があると云われてます。16世紀前後、ポルトガルから来航した宣教師たちが防寒用に着ていた「袖がなく裾が広い上着」を指し、日本でも真似て作られるようになったそうです。同じ雨具でも洋傘のことを「こうもり傘(蝙蝠傘)」とも云いますが、幕末にペリーが黒船で来航したとき持ち込んだ洋傘の開いた形がコウモリの羽に似ていることや、黒い傘骨がコウモリを連想させたことに由来してるらしい。このこうもり傘は和傘と異なり、閉じた時に細く巻けるため、ステッキ(杖)としても使用できました。文明開化の象徴として親しまれ、明治時代には女性の間でも流行し鹿鳴館時代には洋装のアイテムとなったのですね。ところが一つ目で一本足の妖怪「からかさ小僧」は「唐傘」と云うネーミングなのに「こうもり傘」ではありませんね。そもそも「からかさ」とは、竹の骨組みに油紙を張り、漆を塗った柄をつけた伝統的な和傘の総称なんでね。中国では古くから天蓋式の傘が発達し、日本へは百済を通じて伝来しました。「日本書紀」には百済聖王の使者が552年に欽明天皇へ幢幡を献上したと書かれてます。当初は主に日射を避ける「日傘」として用いてたのですが、その後日本独自の構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていったのが「からかさ」、つまり和傘なんですな。相撲の力士は、幕下以上に上がらなければ和傘を差すことを許されず、三段目以下は洋傘と決まってるらしいです。和傘には「番傘(ばんがさ)」や「蛇の目傘(じゃのめ)」、「端折傘(つまおれ)」などがありますが、「蛇の目」傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見たときに「蛇の目」模様となるようにした傘で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗ったりすることも有りました。「端折傘」は傘の骨の端を中へ折りまげた長柄の持傘で、公家の参内をはじめ、外出の際に、袋に納めて傘持ちの従者に持たせたのですね。昔、私も番傘を持ってましたが、和傘ってのは長い間使わないと、防水用の油がくっつき、イザ使おうとするとなかなか開かないことありました。洋傘の骨が数本程度であるのに対して、和傘は大きさにもよりますが数十本の骨がありますね。これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで、余った被膜を張力で張るのではなく、竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みになっているためです。上向きに展開するには力がいってタイヘンなので、下向きに展開し、展開した後で上に向けます。傘は和傘・洋傘の区別なく、全体を支える中棒と全体を覆う傘布、傘布を支える骨でできてますね。他に中棒の先端は「石突」、持ち手は「手元(ハンドル)」など独特の名前が傘には多い。傘を閉じた時に状態を保持し開傘しないようにするため、中棒下部の手元近くに設置された部品を「下ハジキ」と呼びます。傘を開くときに手で押し上げる部分には、傘の骨が集められてますね。この傘の骨をまとめている部品を「ろくろ」と云います。骨を一手にまとめて傘の重心を支え、開閉の仕掛けとなる重要なパーツです。傘を開閉できるのはこの「ろくろ」のおかげなんですな。実は取手のある傘は平安時代には登場してましたが、そのころの傘は開いたままで、閉じることができなかったのです。開閉を可能にする「ろくろ式」の傘が日本に伝わったのは安土桃山時代の1594年で、堺の商人"呂宋助左衛門"がフィリピンのルソン島から持ち帰ったとされてます。その後、ろくろは和傘に取り入れられ、開閉できるろくろ式の傘が主流になりました。傘を開閉するときに、ろくろに引っ掛けてストッパーとなる、手をはさみそうになる部分は「はじき」と云います。「はじき」にも「下はじき」と、開傘状態を保持するため「ろくろ」を下側から固定する「上はじき」が有り、親骨接合部分の「ろくろ」とは別に、中棒を上下にスライドして傘の開閉を行う「下ろくろ」も有る。そして傘布の展開を支え、親骨にかかる負荷の逃げ道を引受ける「露先」もあって、これは「ろくろ」に次いで破損することが多い部分。と、単純そうに見える傘も、実はなかなかに複雑で精巧な部品の組み合わせなんですね。欧米人は雨降っても傘ささないで濡れてる人が多いし、雪なんかでも傘無しで平気で歩き回ってる。それが昨年バンコクに行って、日傘さしてる欧米のご婦人をかなり見かけました。ど~やら、ようやく傘の有用性が分かってきたみたいですが、それでも晴れたときに持ち歩くのがジャマになると傘をもたない人はまだまだ多いです。
Mar 26, 2026
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昨年のノーベル賞は、生理学・医学賞に坂口志文さん、化学賞に北川進さんとふたりの日本人受賞者を出し、平和賞も核兵器廃絶を訴える「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が受賞しましたね。しかし文学賞は、毎回決まって名前の出ていた村上春樹は候補でさえ触れられず、韓国の作家ハン・ガンさんが受賞しました。いったい村上春樹はど~したのか? とお思いでしょうが、そもそもノーベル賞の候補者と云うのは公表されておらず、名前が出るのはブックメーカーが勝手に発表している賭け率の話なんです。候補者公表にノーベル賞選考してるスウェーデン・アカデミーはまったく関与してません。なので村上春樹がノーベル賞文学賞の候補に上がってるかは選考委員会のメンバー以外誰もしらず、それが分かるのは50年先の話です。候補者は50年経つと公表されるからなんですね。その村上春樹、少年のころから無類のジャズファンです。それも聞くときはCDではなく、レコード演奏にこだわってるみたい。村上は1991年から2年半に渡ってアメリカのニュージャージ州で暮らしており、その後2年間こんどはマサチューセッツ州で暮らしてます。このときにアメリカの中古レコード店をまわり、中古のレコードを買い漁ったらしい。村上はクラシックやロックは完全にCDに乗り換えたそうですが、ことジャズだけはレコードにこだわってる。ど~も村上からすると、レコードで聴くジャズはえも云われぬふっくらとした雰囲気があるのに対して、これがCDだとまるでどこか清潔で上品なホテルのロビーで演奏されてるように聞こえて、ふっくら感が消え失せ平凡な印象しか与えなくなる。タバコの煙がたちこめる地下のジャズ・クラブで演奏されてるように聞こえるのが、レコードによるジャズ再生の楽しみらしい。驚くことに、村上は早稲田大学を出てから7年ばかりジャズ喫茶を経営してたらしい。在学中も大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトなどをしながら、歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送ってる。1970年代初め、東京の千代田区水道橋にあったジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となってるのですね。そして大学在学中の1974年、アルバイトで貯めたお金と親からの借金で500万円を用意し、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店したのです。店名は以前飼っていた猫の名前「ピーター」から。夜間はジャズバーとなり、週末は生演奏を披露するジャズ喫茶・バーだったのですね。この店の演奏装置はレコードプレーヤーがデンオンDP3000、カートリッジはシュアーV15Ⅲ、アンプはサンスイのAU6600、スピーカーはJBLのL88と云う陣容でした。村上がニュージャージー州に行ったのは、プリンストン大学の客員講師として招聘されたためですが、前後して湾岸戦争が勃発してます。当時の村上は「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞し、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で谷崎潤一郎賞も受賞、そして有名な「ノルウェイの森」も刊行していて油の乗り切った時期なんですね。アメリカから帰国して、2002年には初めて少年を主人公にした長編「海辺のカフカ」を発表してます。帰国してから、遊びでボストンのジャズ・クラブにジャズピアニストのトミー・フラガンとそのトリオを聴きに行ったときのことです。演奏はまあまあと云ったところで、あまり感動もなかった。このとき村上は「もしトミー・フラガンに何かリクエストするとしたら、やはり"バルバドス"と"スター・クロスド・ラヴァーズ"だよね」とぼんやり考えてたらしい。そしたらステージの最後に、この2曲をメドレーでやってくれたらしい。これには村上も驚いたらしい。サックス奏者のペパー・アダムズとトミー・フラガンの共演した「スター・クロスド・ラヴァーズ」は村上にとって昔からの愛聴盤だったからです。別の日に村上が中古レコード店に入ろうとしてると、通りかかった若い男から「今、何時?」と聞かれました。「4時10分前だよ(イッツ・テン・トゥ・フォア=Its ten to four)」だと教えて、レコード屋に入り、最初に目についたレコードが、実にペパー・アダムズの「Ten to four at 5 spot」のピカピカのオリジナル版!もちろん脇目もふらずに10$払って買ってしまったらしい。後でよく考えたら、日本にもちゃんとこのレコードは持っていたそうです(笑)
Mar 25, 2026
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みなさんよくご存知の通りスタジオジブリの作品には、ヒット作が目白押しです。「となりのトトロ」を始め「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」など、どの作品も驚異的な興行収入を残しましたね。そのジブリ作品の中で、とりわけ「千と千尋の神隠し」は2001年に公開されると、興行収入が316億8,000万円と、当時「タイタニック」を抜いて日本歴代興行収入第1位を記録しました。それは国内のみならず、2003年のアカデミー賞で、日本映画としては史上初のアカデミー長編アニメ映画賞を受賞してますし、ベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞してます。アメリカの映画評論家で、論評の手厳しさから映画関係者には非常に恐れられているシカゴ・サンタイムズのロジャー・イーバートは満点の4つ星をつけ、作品と宮崎の演出を称賛しているのですね。ロサンゼルス・タイムズのトップ映画批評家ケネス・タランも「荒々しく大胆不敵な想像力の産物であり、こうした創作物はいままでに見たどのような作品にも似ない」評しています。イギリスの国際的な雑誌「タイムアウト」で「史上最も偉大な50本のアニメーション映画」で第6位に選ばれ、イギリス最大の発行部数を誇る映画雑誌「エンパイア」誌が発表した「史上最高の外国語映画100本」で第10位、同じイギリスの著名な月刊映画雑誌「トータル・フィルム」誌が発表した「史上最高のアニメーション映画50本」で第2位に選ばれてます。イギリスのBBC主催の投票では「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位。またアメリカの映画情報サイト「ザ・プレイリスト」が発表した「21世紀のアニメーション映画ベスト50」では第1位に選ばれ、ニューヨーク・タイムズが発表した「21世紀最高の映画25本」で第2位、中国の映画情報サイト「時光網」が発表した「日本アニメ映画のトップ100」でも第1位に選ばれてます。「千と千尋」は北米だけの興行収入で約1,000万$(約16億円)記録してます。なんなんでしょうね、この作品に対する異常なまでの熱の入れようは?他のジブリ作品と違って、「千と千尋」は現実の世界ではなく現実と幽界のはざま。登場する「ハク」の正体はかつて千尋が溺れた川の神様「邇芸速日命(ニギハヤミコハクヌシ)」日本神話に登場する神です。そもそも舞台となる湯婆婆が経営する「油屋」は八百万(やおよろず)の神が体を休める場所です。八百万の神ですよ~世界中で山や川、雷、風などの自然現象から、日用品に至るまで「森羅万象に神が宿る」という多神教的な考え方をするのは日本人だけでしょう。キリスト教では天地万物を言葉(ロゴス)によって創り出した、唯一の神(ヤハウェ)が人間を罪から救うためにイエスを遣わしたとしてるし、イスラム教では「アッラー」と呼ばれる宇宙のすべてを創造した唯一絶対の全知全能の存在が唯一の神。ユダヤ教でも神は宇宙と万物を創造した唯一絶対の存在「ヤハウェ」のみです。唯一、日本人と同じ考え方に似通ってるのはヒンズー教くらいです。ヒンズー教の神は、宇宙の創造・維持・破壊を司る三大神(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)を筆頭に、数千~数万とも云われる多面的な神々が存在する多神教です。絶対的な唯一神を信仰する海外の人たちにとって、この「八百万の神」って発想はあり得ないと思うんですよね。作品に登場する河の神「オクサレさま」なんて、流動性の高い泥が集まって巨大な塊になったような姿をしていて、這うように移動します。その泥は人間が河に捨てたゴミと汚れをたっぷり含んだヘドロで、それゆえにすさまじい悪臭を放つのですよ。そんな異様な神さまなんて世界中探しても他に見つからないでしょう。そもそも日本人は日常で「八百万の神」なんて意識してる人は居ないし、結婚式ではチャペルで式をあげるのに、葬式は仏式でたまに神道式があるくらい。大晦日にはお寺で除夜の鐘を聞き、初詣は神社にいそいそと。ほとんどの人が無信仰に近いのに、宗教そのものは受け入れてる。まぁ、こんな民族は日本人以外いないと思うのですね。奈良時代には神社の境内に寺院が建てられ、神前で読経が行われるようになりました。これが神仏習合の最初なんですね。江戸幕府の「禁教令」で最大化したキリスト教の迫害は、天皇・将軍への絶対服従と神への忠誠を強いる教えがぶつかったからです。つまり西洋的な宗教観と相容れなかったからなんですね。逆に云うと、西洋思想の頂点には「神」、それも唯一神がいるのですから、「八百万の神」なんて理解できるワケないのです。にも関わらず「千と千尋」は公開されるやいなや世界中で絶賛されました。その理由を評論家は、圧倒的な映像美と想像力豊かな異世界描写、そして少女の成長を描いた普遍的なストーリーが、子供から大人まで魅了したためと述べてます。そして神さまや妖怪、湯屋という日本古来のモチーフが、西洋とは異なるエキゾチックで想像力豊かな世界として受け入れられたと云いますが、はたしてそうなのでしょうか?ど~も理解できませんが、世界中に受け入れられたのは事実ですから何か海外の人の琴線に触れるものがあったのでしょうね。
Mar 24, 2026
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大学生のとき、大坂の天神橋筋商店街を歩いてて、JRの「天満駅」にさしかかったら、駅高架下の居酒屋を大勢の人が取り囲んでる。いったい何かと訪ねたら、その居酒屋の店内で、今、高倉健が撮影を行ってるとか。そりゃあ、高倉健を一目見たいですよね。そのときは大学生だったので、知る由もなかったですが、後年、高倉健が来阪したとき、私が担当になるとは思ってもみなかった。担当と云っても、顔をつきあわせたことは一度も無いんです。お互いに電話のやりとりだけ。高倉健は何か頼みごとあるとき、担当者がコロコロ変わるのを嫌がるんですね。それでイチバン最初に電話を受けたのが、たまたま私だったので担当みたいに名指しされたんです。その高倉健が撮影してた居酒屋の隣に小薄汚い町中華のお店がありました。現在は件の居酒屋も町中華も有りませんが、とにかく安いので中国人が経営するその町中華をときどき利用してましたね。かなり広い店内ですが、カウンターだけのお店。どの地方料理か忘れましたが、いわゆる一般的な支那料理です。そのお店の棚に目をやると幾本かの中国酒が並べられてました。当時、私はビールかウィスキーしか飲まなくて、焼酎も未経験だったので、その中国酒を味わうことはなかったけど、値段がとても安かったのは記憶してるので、中国酒でもかなり低レベルのお酒だったのでしょう。今でもよく飲まれる紹興酒なんて置いて無くて、陶器製のボトルは無く、すべてガラス瓶に入った透明な焼酎か泡盛みたいなお酒ばっかでした。透明な中国酒は「白酒」と呼ばれる蒸留酒らしい。この白酒と云うのは度数が50度前後もあるらしいので、一般的な泡盛が30度前後ですからこりゃあ私は飲めないですな。なにしろ泡盛でさえ、飲むといつも意識を失ってましたから。白酒で最高級の部類に入るのが「茅台酒(マオタイ)」と云う中国本土のお酒。原材料はコーリャン(高梁)で、田中角栄訪中時の宴席でも出されたらしい。アルコール度数は53度ですが、かつては65度だったらしい。えげつないですね。値段はとびきり高くって日本国内では4万円~6万円ですが、年代や希少性によっては10万円~30万円以上らしいから、間違っても町中華のお店に置いてることは無いでしょう。紹興酒でさえボトル650円~1,500円くらいですからね。茅台酒は「醤香型」と云う「醤(ひしお)」のような独特の香ばしさが特徴らしいですが、同じように高級酒として名高い四川省の「五粮液(ごりょうえき)」は「濃香型」と呼ばれ、土に巨大な穴を掘り、そこに原料と大曲(麹)を入れて上から土をかぶせ、土中で原料を個体のまま発酵させる製法らしい。逆に大衆的な白酒としてコーリャンを原料にした北京発祥の「二鍋頭酒(アルゴウトウ)」があります。名前の由来は、蒸留酒ですから製造過程で3回に分けて冷却水を入れるのですが、最初の水で蒸留され液化した酒を「酒頭」と呼び、3回目に冷却水で液化した酒を「酒尾」と呼びます。酒頭には刺激的な匂いがあり、酒尾は不純物の匂いがするのですね。2回目の水で液化した酒が最も口当たりが良いため、最初と最後を取り除き、真ん中を使うことから「二鍋頭」と呼ばれるようになったのです。同じくコーリャンを原料にして、梨やリンゴ、パイナップルを思わせるフルーティーで爽やかな香りの「清香型(せいこうがた)」白酒に「汾酒(フェンジュウ)」があります。麹は大麦とエンドウ豆です。これも地中の「大缸(ダーガン)」と呼ばれる甕で発酵させる手法がとられてます。他には米を主原料にした「米香型(べいこうがた)」と呼ばれる「桂林三花酒」とか、濃香型や醤香型など、2つ以上の香りの特徴を併せ持つ「一酒多香」が特徴の130種類以上の薬草を麹に用いた「董酒(どんじゅう)」とか、原料や麹を何からどう造るかなど産地によって種類が違うようです。白酒の他に甘い果実酒もあって、例えばライチの甘い果実「ライチ酒(茘枝酒)」などありますね。町中華の定番果実酒と云えば完熟したあんずをまるごと漬け込んだ「杏露酒(シンルチュウ)」ですが、実はこのお酒、中国原産ではなく日本生まれのお酒なんですね。キリングループの永昌源と云う日本の会社が造ってます。ふと思い出しましたが、JR天満駅の町中華に「楊貴妃」ってお酒も置いてたような。しかし楊貴妃ってのは「桂花陳酒」を好んだことで有名だけど、単に「楊貴妃」と云えばカクテルの名前で、アレは何だったのだろう?町中華でビールは昔から中国ビール=青島と云うことで、「青島ビール」にとどめをさしますね。白酒を蒸留した後の粕は豚の飼料になるそうな。その豚の糞尿は原料の穀物を育てる肥料となりまさに循環してるのですね。ただ中国産の白酒には中国ならではの"品質問題"があります。中国の国家品質監督検査検疫総局がサンプリング検査をした結果、中小工場の品は71.2%しか合格しなかったそうです。不合格の理由は、アルコール度数の不足、独特の香りのもとでもあるカプロン酸エチルや総酸の過多、ラベルの不備などが多かったとか。2012年には湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州吉首市の銘酒「酒鬼酒」は基準値を上回る生殖能や胎児への悪影響から使用制限されてるフタル酸ジブチルが混入していると報道されてます。どっちにしても日本人が経営する町中華や、中国人が経営する町中華を模倣した「台湾料理」の屋号を掲げた中華料理店で扱っている酒は、たとえ中国酒であっても黄酒の紹興酒や青島ビールくらいで、ほとんどの中国産白酒は置いてないらしい。
Mar 23, 2026
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みなさんは室内の空気循環をどのようにされてますか。夏の暑い時期だけでなく、冬の暖房がかかった部屋でも、空気を循環させて部屋全体の温度ムラを解消すると冷暖房費も節約できますね。我が家は夏はエアコンと扇風機を併用してるし、冬はガスファンヒーターとサーキュレーターを組み合わせて使ってますが、サーキュレーターは本来 天井が低いとか狭い部屋に効果があるもので、部屋全体の空気循環と送風するなら広範囲の空気をゆっくり混ぜてくれる「シーリングファン」がベストです。バブルのころのトレンディドラマでは決まって登場してたシーリングファン。あの天井からぶら下がった大型の羽をゆったり回転させる扇風機です。なんか東南アジアとか中南米チックで、おしゃれなカフェなんかを連想させますね。シーリングファンの直径は1m 前後と大きなものですが、冷房やエアコンが普及するまで官公庁や病院、デパートなどでよく使われてました。普通の扇風機と違うのが、軸は天井固定で、モーター本体に羽根がついて回転する形式になってること。照明と一体になったデザインのものもありますね。人は風が当たると同じ温度でも涼しく感じるので、夏場は下向き、冬場は上向きに風を送るようにするらしい。17世紀初頭のインドでは、椰子の葉や布で覆われたフレームを作り、使用人がコードを引っ張ったり緩めたりして天井からぶら下た装置からそよ風を起こすような設備を使ってました。19世紀、日本の江戸末期には複数のうちわを軸に固定して手回しのハンドルで回転させる扇風機のような物が作られています。ではシーリングファンはどのようにして発明されたのでしょうか。1880年代半ばにアメリカはテネシー州メンフィスでショットガン製造事業を営んでいたジョン・ハンターと息子のジェームズは、ショットガン製造で得た技術を応用し「ハンターファンカンパニー」と云うシーリングファンメーカーに転換しました。技術革命とも言われる第2次産業革命の最中、ハンター社はチュールク水道メーターカンパニーの買収によって勢いを増し、水流を動力源にベルト駆動で風を送るシーリングファンを設計することに成功したのです。水力で天井に扇風機をつけてしまうと云う、古き良き時代のアメリカ開拓精神が成せるワザだったんですね。蒸気でシーリングファンブレードを動かす動力エネルギーを創り出すこの技術はまさに革新的でした。こうして名をあげた「ハンターファンカンパニー」はいまでもアメリカの代表的なシーリングファンメーカーです。電気モーターで駆動する天井電動扇風機を発明したのは、ミシンの「シンガー」社で電気ミシンの試作品を考案したドイツ系アメリカ人の機械技術者フィリップ・ディールと云う人物です。1880年代後半になってミシンに適用した小型電気モーターがプロペラブレードを回転させることもできることに気づき、電気モーターを利用してブレードを直接駆動する最初の電気天井ファンを発明したのです。電気駆動のシーリングファンが本格的に市場に出たのは1890年代でしたが、実は当時、電力はまだ貴重なものであったため家庭用電力は照明用として予約制と云う制限がありました。そんな状況なのでシーリングファンの使用は主に工場やホテル、レストランなどに限定されてました。1900年代初頭のシーリングファンは、彫刻が施されたブレードを備えた装飾的なファンやハウジング、さらには内蔵の天井照明まで完備していて高級シャンデリアと同様に、所有者のステータスシンボルでした。それが現在では照明スイッチやリモコン、ホーム・アシスタントに接続されることが多く、制御がより便利になっています。
Mar 22, 2026
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ビンって漢字にすると「瓶」と「壜」のふたつがありますね。「瓶」ってのは本来は陶器の壺と云うか陶器全般を指してた名前らしい。一方、「壜」は土器の壺を意味し、ガラス製の容器という意味は日本独自の用法なんだとか。これがガラスビンだと、「壜」は高温の窯に入っている溶けたガラスを吹き竿に巻きつけ、息を吹きこんで成形する人工吹きのもの、「瓶」は全自動の機械(ガラス製瓶機)によって製造されるものを指すらしいです。人工吹きには「種巻き」「切り込み」「瓶出し」と呼ばれる3人の職人がチームになって製造します。古代からワインは大きな樽や陶器の甕(かめ)、皮袋に貯蔵して必要な分を直接杯や水差し容器に汲んで飲まれてて、16世紀頃には陶器や金属、木材、皮などの飲料容器が用いられました。それが1500年頃のイギリスの文献に、容器の栓の材料としてコルクの記述があって、その頃にガラス製造技術の進展によってワイン用ボトルが作られるようになったそうです。ひと口にワインボトルと云っても、ボルドーワインのボトルは肩の部分で澱をためるため「いかり肩」をしており、これが世界のワインボトルの原型になってますね。それに対してブルゴーニュ地方では「なで肩」タイプのワインボトルが主流です。これは、ブルゴーニュで生産されるワインはタンニンが少なく、澱も比較的少量であったため、ボトルを交互に並べて運搬できる利点からこんな形が使われてきました。他にも、ドイツワインのように肩が無くスリムな形状のライン型やモーゼル型、高いガス圧に耐えるよう下部が少し膨らんだ形で厚手のガラスを使ったシャンパーニュ型などさまざまな形があります。こうした様々な形状のワインボトルがありますが、どのボトルも押並べてサイズが750ml なんですな。1本750ml は世界標準サイズで、そのルーツはイギリスとフランスにあります。ワインボトル1本が750ml だと、1ダース(12本)をボルドーなどから輸出すると「9ℓ(9,000ml )=2ガロン」となり計算がしやすかったためです。さらにボルドー地方で使用される樽は、225ℓ(225,000ml )が主流。これを本数に換算すると、1樽あたり750ml ボトルで300本という容量になります。このよう750ml と云う数字は、ワインを生産するフランスと、それを消費するイギリスともに共通の便宜さから国際標準になったのですね。ところが、このワインボトル国際標準に準じてない国がひとつ有るのです。それは...日本。国際標準750ml に対して、日本産のワインは少し小さめの720ml になってます。この720ml と云うサイズ、日本酒好きの人ならなるほどねと理解できます。日本酒の単位が1合180ml なので、4合サイズだと720ml 。ボトルを作るのに、日本酒ボトルの製造ラインがそのまま使えるからです。ところが日本製ワインの評価が高まるにつれ、輸出に支障をきたすようになりました。輸出時に使用するコンテナのサイズは国際基準の750ml に合わせて作られているものがほとんど。それで輸出するとなると720ml 用のコンテナを新たに作らねばならず、それで最近は750ml サイズのボトルが使われ始めました。それでは「地球瓶」と云うのを耳にされたことお有りでしょうか?今はプラ製が多いですが、古くから駄菓子屋や煎餅屋でよく見かけた上部にブリキの蓋のついた大型のガラスビンのことです。日本に海外から本格的なガラス製造技術が導入されたのは、16世紀後半の安土桃山時代に遡ります。1549年にフランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教布教に伴い、ポルトガルなどからビードロ(吹きガラス)の技術が長崎にもたらされたのが出発点なんですね。1570年に長崎でポルトガル人がガラス工場を建設し、その後オランダからも技術が伝承されました。しかし、日本のガラス製造技術は、江戸時代まで普及することはありませんでした。その理由は、漆器や陶器などガラス以外の製品の製造技術が高かったからだと云われてます。日本人が本格的にガラス製品を作り出したのは、明治時代の文明開化によって本格的な近代工業としての技術が確立してからで、約150年前に遡ります。そんな近代ガラス製造が大きく開花したのが大正時代です。この時期に作られたガラス製品のひとつが地球瓶だったのですね。今では個装の菓子が大半を占めてますが、大正時代のお菓子に個装は無く剥き出し。そこで衛生的にお菓子を管理できる当時の素材として、また透明で有ることでディスプレイとしての役割も担ってガラスビンが重宝されたのです。ところが、この地球瓶を作るのが一筋縄でいかない。なにしろ吹いて作るガラス製品で最大のサイズ。1度に巻き取る素地は2kg にも及ぶらしい。ガラス職人がひとつひとつ手作りしてるので、仕上がりも完全な球体ではない。蓋の部分も1枚のアルミ板を「ヘラ絞り」という技術を用いて職人によって作製されてます。今では職人が減っているため、直径が30cm でも1万円以上もするそうです。地球瓶と同じように、駄菓子屋なんかに置いてるガラスビンで、蓋が斜めについたタイプもありますね。これは猫が座った形に見えることから「猫瓶」と呼びます。
Mar 21, 2026
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1967年に「殺しの烙印」と云う日活映画が公開されました。主演は「エースのジョー」こと宍戸錠です。このころの日活と云うと、宍戸錠や小林旭、高橋英樹を主役にアクション映画花盛りの時代です。この作品の監督は鈴木清順。ところが日活社長 堀久作が鈴木清順の実験的とも言える作風を評して「わからない映画ばかり作られては困る」と発言。鈴木清順を解雇してしまったのですね。これに抗議したファンや映画関係者は「鈴木清順問題共闘会議」を結成、デモを行うなど一時は社会問題に発展しました。解雇後、妻や彼を慕う人々に生活や仕事を支えられ、梶原一騎プロデュースの「悲愁物語」で鈴木清順は映画界に復活します。そして騒動となった「殺しの烙印」は、観客や批評家に受け、カルト映画としての評価を得るに至ったのです。2020年には英国映画協会が選定した日本映画ベストワンにこの「殺しの烙印」が選出されてます。活動再開後に鈴木清順が撮った「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」は「大正浪漫3部作」と呼ばれ、幽遠な映像美に度肝をぬかれた方も多いでしょう。1980年に公開された映画「ツィゴイネルワイゼン」は原田芳雄と大谷直子主演の作品で、共演陣には大楠道代や藤田敏八、松田優作、加賀まりこ、中村嘉葎雄、沢田研二、坂東玉三郎そして樹木希林と非常に豪華な布陣。キネマ旬報ベストテン第1位、ベルリン映画祭特別表彰、ブルーリボン賞最優秀監督賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀助演女優賞を受賞しました。「生きてる者は本当は死んでいて、死んでいる者が生きている」と云うなんともややこしい設定の映画です。Zigeunerweisen 「ツィゴイネルワイゼン」Trailer予告編「ツィゴイネルワイゼン」の翌年に公開された「陽炎座」。鈴木清順の代表作のひとつで、「フィルム歌舞伎」と呼ばれた傑作。新派の劇作家である松田優作が、ひとりの女に翻弄される物語。ドイツ女性の楠田枝里子と病院前の階段で出合い会話する松田優作。しかしその時間に、楠田枝里子は病室で息を引き取っているはずだった。芝居小屋「陽炎座」で妖怪の芝居を観ていると、いつしか楠田枝里子の物語になっていたのです。やがて陽炎座は崩れ落ち、池で心中死体が上がったと騒ぐ村人たち。祭ばやしが鳴り響く中、不思議な部屋でかつて一夜をともにした大楠道代を見つけた松田優作は、現実世界の自分に一礼すると、大楠道代と背中合わせに着席すると云うお話。この映画、ストーリーが幾度観てもはっきりつかめない。ところが、どのシーンも美しく、また気味悪い。他に類を見ない見事なアート作品なんですな。原作は1913に発表された泉鏡花の小説で、大正浪漫の幻想的な世界を描いた名作です。Kagero-za 「陽炎座」Trailer予告編1991年公開の「夢二」は大正時代の画家"竹久夢二"を題材に、女性たちとの華やかで幻想的なつながりを描いた作品です。これも独特な映像美と難解な物語の進行で、観客を幻惑する作品なんですね。主演の竹久夢二役は沢田研二が演じ、相手役に宝塚出身の女優 毬谷友子が演じてます。とにかく鈴木清順の作品はストーリーを追いかけるのが難しい。なのにどれも美しい映像美で、圧倒されるのですね。なんなんでしょうね、観るものを引き込んでいく圧倒的な美しさ。こう云う作風は外国の映画では先ず見当たらない。私的には鈴木清順の美学がもっとも発揮されたのは「陽炎座」ぢゃないかなぁ。鈴木清順が晩年メガホンを取った「オペレッタ狸御殿」はミュージカル調の映画です。主演は「HERO」や「LOVERS」のチャン・ツィイーとオダギリジョー。「オペレッタ狸御殿」は美空ひばり主演映画「狸御殿」のリメイク作品で、亡き美空ひばりがデジタル再現されて出演しています。これも鈴木清順の映像美がいかんなく発揮された作品で、私はDVDを持ってます。この作品のアバンギャルドな作風は、世界中の監督達に強い影響を与えたらしいです。
Mar 20, 2026
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ちょっと不謹慎な話ですが、暖かくなって女性のはくスカート丈が短くなり、エスカレーターで登ってる前に女性がいたら何処に視線を向ける?だいたい長いエスカレーターだったら、スマホの画面見てるし、短くても目の前の女性をジロジロ見る人はまぁ居ないでしょう。そんなんしたら、ヘンなヤツと間違われる。だけど何の気なしに眼の前見たら、よほど前後でくっついてない限り、足が見えるハズです。と、云っても膝ぢゃなくて、後ろからですから脚の裏側、ご本人もあまり見る機会のない領域。膝の裏側、窪んだ部分を見ると、くぼみ方や肉の付き方が十人十色。このくぼみは「ひかがみ」と云い、漢字でかくと「膕」と云うムツカシイ字。脚の関節部で、腿(もも)と脛(すね)を繋ぐ部分、表側は「膝」ですが、背面が「ひかがみ」になります。ひかがみは、まっすぐ立った状態で両側がくぼんでます。中央のふくらみを形成してるのは、ひざの関節の後部でXの形に交差して、大腿骨と脛骨をつないでいる「前十字靭帯」と「後十字靭帯」です。足の裏の「土踏まず」は、かかとから指の付け根にかけての縦アーチ構造で、衝撃を吸収するクッションの役割を果たしますね。この土踏まずがちゃんと無いといわゆる「扁平足」。疲れやすかったり足が痛くなるばかりでなく、腰や股関節まで痛めてしまうし、外反母趾を併発することも多い。これと同じように「ひかがみ」も両側がきっちり窪んでいるのが理想の形なんですな。もともと「ひかがみ」と云う言葉は「引屈(ひきかがみ)」と云う言葉が転訛したもので、奈良時代には「ひかがみ」「よほろ」は21歳~60歳までの男子と云う意味も有りました。律令制度の夫役(ぶやく)の対象である男子は脚力を要したことから、本来のひざの裏と云う意味が転じて、このようになったのですね。この「ひかがみ」を重要視しているのが剣道や弓道、柔道と云った日本古来の武道です。剣道における「ひかがみ」の役目は、特に中段の構えで左足の膝裏を適度に張り(緊張させ)、緩まないように保つことが、安定した下半身と速い打突の「溜め」を生む基本動作です。緩むと腰が沈み、動作が遅れる原因となります左膝裏を張ることで、相手との攻防における「合気」を保ち、素直な技を出すための「溜め」が生まれるのですね。剣道で中段の場合「左のひかがみ」が折れることを嫌います。稽古不足であったり、普段からおちつきのない剣道をしてると、ひかがみが折れ、足幅も広くなり、打たれてはいけないところを打たれてしまいます。「ひかがみ」は、まさにその人の稽古の質と心のバロメーターでもあるのです。剣道における「ひかがみ」について弓道では「射法八節」と呼ばれる、射の動作を八つに分けた指導法に「ひかがみ」の名がみれます。足を踏み開き、腰を据えてしっかりと「ひかがみ」を伸ばし、丹田に息を下ろして下半身を安定させます。能楽など古典芸能の所作でも、武道と同じように「ひかがみ」が重要視されるのですね。
Mar 19, 2026
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最近のカレー専門店で出てくるカレーライスはご飯の上にカレーが既にかけられてサービスされるのが多いですね。昔ながらの喫茶店やちょっと高級なレストランでは、ご飯とカレーが別々に提供される。このカレーを入れる器を「カレーソースポット」と呼びますが、この器ってカレーだけぢゃなくドレッシングやクリームを入れる器としても使用されるので一般的には「ソースポット」と呼ばれてます。あの取っ手のついた銀色に輝くアレです。この「ソースポット」を英訳すると「ソースを作るための鍋」。なんかヘン...英語圏ではソースポットのことを「グレイビーボート(Gravy boat)」と呼んでます。グレイビーボートの「グレイビー」は肉を煮焼きするときに出る汁や、それをもとに作られる濃厚なソース「グレイビーソース」のことです。このグレイビーボートについてる注ぎ口が船の舳先のように見えるため、「ボート」って名前が着けられたのですね。この注ぎ口からしたたり落ちるソースを受け止めるために、ボートを置くための皿が付属してるのも有りますが、町場の喫茶店のカレーなんかはそのままカレーソースポットをテーブルに置きますね。このソースポットの歴史は古くて、17世紀末頃のフランス宮廷で流行した形状が由来とされてます。注ぎ口とハンドルを備えた銀製のソースボートは、1690年初頭には使われてたことが確認されてます。70年代のフランスで始まった従来の重厚なソースや濃厚な味付けを否定し、素材の味を活かした軽やかなソースや芸術的な盛り付けを特徴とした「ヌーベルキュイジーヌ」に応じてソースボートも独創的に進化していったのですね。このフランスでの流行が18世紀の英国に大きな影響を与え、英国では初期はイングランド産の銀製や、1740年代からはイングランドの磁器によって模倣されるようになりました。この時代、西洋の陶磁器製品シェアを占めてたのは中国製だったのですが、ことグレイビーボートになると中国製に魅力的なモノが見当たらなかったのです。そのため中国製に覇権を握られてた英国の陶磁器工場にとって、グレイビーボートは重要な製品になったのですね。18世紀後期になると、初期の磁器製ソースボートの凝ったデザインは、中流階級の市場が拡大されるにつれ簡素なデザインになっていきました。多種多様なデザインが生まれ、銀製の製造が縮小していきました。そして英国のウェッジウッドが進化させた新たなアイボリー色(淡いクリーム色)の釉薬をかけた陶器「クリームウェア」が、それまでの磁器製では製造が常に困難であった大皿の生産に適していたため、ソースボートは単品ではなく、ディナー用の食器類一式の一部となっていったのですね。と云うワケでカレーソースポットと云っても、インド発祥ではありません。単に西洋料理用だった器をカレーに使ってみたところ、上品で素敵だったことから使用されるようになったのですね。
Mar 18, 2026
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訪日外国人観光客が日本に着いて先ず驚くのが自販機の多さとよく云いますね。ジュースやビール、タバコの他、パンやハンバーガー、冷凍餃子、ラーメンから うどん・そば、カレーライスの自販機まで設置してるとこがあります。しかし自販機設置台数そのものは、2000年の約560万台をピークに減少傾向が続いており、2023年末時点では約393万台まで減少しているそうな。原因は物価高による商品の割高感に加え、人手不足や設置・運営コストの上昇で大手メーカーの設置台数縮小が続いてるかららしい。なんせ自販機のコカ・コーラが500ml で200円の時代ですからね。それに加えてコンビニの普及もあるし、キャッシュレス化が浸透してるので、コカ・コーラやサントリーの自販機に一部導入しているとは云え、まだまだ小銭を用意しなくちゃならないのが時代に即して無いのでしょう。で、こうした自販機のコイン投入口なんですが、全部横型になってます。セブンイレブンなどで売ってるカップ式のコーヒー販売機などもやはりコインの投入口は横向きですね。これは自販機の構造がそうなってるためなんですね。自販機は売切商品を出さないために、いかに商品のストックスペースを確保するかが重要です。そこで自販機本体ではなく、「扉」にコインの識別装置を組み込んで小型化と薄型を実現してるのですね。それで多くの飲料自販機は、コイン収納スペース確保のため5円と1円は使用できなくなっているのです。こうして内部スペースを確保し、少しでも商品のストックを多くしてるのですね。ただこうした自販機の横型コイン投入口はコインがゆっくり落ちるためちょっと識別に時間かかるのですが、飲料や食べ物の自販機に人が並ぶことは稀なので、スピードは気にしてないのです。しかし駅の券売機ともなると、そうはいきません。ゆっくりでは、たちまち人の列ができて混雑することになります。そこで券売機のコイン投入口は縦型になってるのです。短時間で多くの硬貨を処理する必要がある券売機では、硬貨を高速で転がし、識別装置へ素早く送り込むため、縦向きの投入口が適しているからです。そのため券売機の内部には大量の硬貨を瞬時に判別できる高機能な装置が使われています。また利用者にとっても、手に持った硬貨をそのままの向きで入れやすいのですね。では、食道の券売機は縦型?それとも横型?牛丼やカレーの「松屋」券売機を見ると縦型ですね。やはりスピード重視のようです。他店の券売機もほとんど縦型です、。そもそも券そのものがスペースとるものでないし、それより券売機に人が並んで、料理オーダーが遅くなるのを嫌うからでしょうね。とは云え、コイン投入口が横型のものも存在してて玉石混交状態かな?ちなみに古い自販機では2021年以降の新500円硬貨が使えないこと多いです。自販機内の識別機が、硬貨の素材、重さ、厚さなどを検知して真偽を判断しているのですが、新500円玉は、新技術により素材などが旧硬貨と異なるため、対応していない古い機械では偽造硬貨と判断され戻ってきてしまうためです。同じように「ミャクミャク」などの記念500円硬貨も使えません。逆に1999年まで製造された旧500円硬貨も自販機で使用できません。日本の500円硬貨と酷似した韓国の変造500ウォン硬貨を使った大量の変造硬貨事件が90年代に続出したからなんです。重さを調整したウォン硬貨を自販機に入れ、安価な飲み物等を購入することで差額の利益を得る犯罪なんですが、同様の被害が全国各地に広がったことを受けて使えなくなったのですね。
Mar 17, 2026
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私はリタイヤしてて、公の場に出ることもないので、式服とジャケット1枚残して、スーツ類は全部処分してます。普段着も旅行にでかけるときも、アディダスのトレーナーとかスウェットパーカーだけ。冬だったらこれにダウン着るくらいです。考えてみたらなんか1年中同じ格好してるような。トレーナーとは別に「スウェット」ってのも有りますね。ご存知のように同じものです。スウェットはコットン(綿)を平編みにした生地の総称を指すのに対し、トレーナーはスウェット生地を使ったトップスの「和製英語」なんですね。なのでスウェットは上着だけでなく、パーカーやパンツもそう呼びます。トレーナーはスウェット生地を使ったフードのない長袖トップスのことですが、日本独自の呼び方なので、海外のお店に行って「トレーナーください」と云っても、スポーツのトレーニングを指導するコーチかワンちゃんや馬の調教師のことですから「???」となるワケです。正しい呼び方のスウェットは本来「汗(sweat=スウェット)」から来ていて、プルオーバーのシャツは「スウェットシャツ」、パンツは「スウェットパンツ」と呼ばれるワケですね。しかしスウェットシャツを直訳すると「汗シャツ」ですよね。そこでスウェットと云う名前から「トレーナー」に変更したのがファッションデザイナーでヴァン(VAN)ヂャケットの創業者だった石津謙介です。石津は大のボクシングファンで、選手を指導するトレーナーの人たちがスウェットの上下を着ていたのを見て「日本ではトレーナーと呼んだ方が通りが良い」と自社商品に「トレーナー」という名前で発売したのが始まりです。石津謙介は戦前、欧米の文化に対する憧れが強かったので中国の租界都市に行けばそんな人々の文化に触れられると考え、妻子とともに天津租界に移住し服飾関連の仕事をしてました。ところが終戦になって、アメリカ東海岸の名門大学(アイビーリーグ)出身者の米兵通訳を担当し、ここで伝統を活かしたアイビーファッションの魅力を学ぶのです。帰国するとレナウンに就職しますが、1951年に独立して、大坂の西心斎橋に石津商店を設立します。その石津商店の名称を「VAN」に変えたのが1954年。VANはブレザーとボタンダウンシャツをベースにした学生ファッションスタイルを「アイビールック」として紹介して、たちまち若者ファッション文化に改革をもたらすのですね。もう私の青春のファッションはこのアイビールックを始めとする「アメトラ(アメリカン・トラッド)」一辺倒でしたね。トラッドよりもシンプルな「コンサバ」もよく身に着けてたなぁ。とは云っても学生の身で「ブルックス」や「J.プレス」なんて買えるのは極めて稀で、ほとんど国産のVANやJUNばかりでした。1964年(昭和39年)の夏、東京銀座のみゆき通りにこのアメトラスタイルの若者が集まりました。「みゆき族」と呼ばれた若者たちで、男はボタンダウンシャツにマドラスチェックの細身パンツ、ローファーと云ったコンチネンタルスタイル。女性はロングスカートにベルトを垂らし、ハンカチを頭に巻いてローヒールってのが定番。そして着替えなどを入れた大きなVANの袋を抱えるのが決めスタイル。ところが東京オリンピック開催を控えた警察のいっせい補導で、秋には完全に姿を消してしまったのです。このころの若者は従順やったんやなぁ。今は不定期刊行になってしまった男性ファッション雑誌「メンクラ(MEN'S CLUB=メンズクラブ)」、私ら青春のバイブルでした。創刊(1963年)当時から「アイビールック」について大きく取り上げ、一貫しトラディッショナルなスタイルを掲載し続けてきた雑誌です。メンクラに名前を変える前「男の服飾」と云う雑誌でしたが、このとき1956年にアイビー・ルックの特集を組んで、これで「アイビー」が流行語になったのです。とにかく石津謙介は、高度経済成長の時期に「メンズファッションの神様」として大活躍した人物です。もともと野球選手が寒い日の試合で肩を冷やさないようにユニフォームの上に着ていたウォームアップ用ウェアで、厚手のメルトン生地を使ったボディにレザーの袖を取り付けた保温性の高いアウター「スタジャン」も石津が作った言葉です。これはスタジアムジャンパーが略化された名前ですが、英語だと「アワードジャケット」とか「バーシティ(代表チーム)ジャケット」と云われるものです。「スタジャン」に対して「スカジャン」は?ご存知ですよね。こっちはアイビーとは関係なくて、「ヨコスカジャンパー」の略語で和製英語。英語だとスーベニアジャケットですかね。朝鮮戦争当時、米軍の横須賀基地に配属されたある米兵が支給されたナイロン軍服に刺繍を入れたら、人気となり彼らの間に広まりました。多くの刺繍柄が日本と東洋をイメージしているのはその理由なんですね。石津謙介が作った言葉は他にもあります。「時と場所と場合を考慮して」という意味で用いられる「TPO(Time、Place、Occasion)」もそうですし、「カジュアル」も「Tシャツ」「ステンカラーコート」「ヘビー・デュティー」などの和製ファッション用語を定着させたのが彼なんですね。石津は2005年、肺炎のため青梅市の病院で死去しますが、ファッションに最期までこだわり続け、寝たきりになってもパジャマを着ることを拒絶。三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取りました。享年93歳。
Mar 16, 2026
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私は小学校高学年から中学卒業までアマチュア無線(HAM)にのめり込んでました。今ではメーカー製の通信機器が揃ってますが、当時は手作りが基本。他に米軍のお下がり軍用無線機やキットも売ってましたが、子供の身分では買うことがかなわず、全て手作りです。その時代の通信機器と云うのは、ICはおろかトランジスターでもない、真空管だけの構成で、大坂の日本橋と云う東京の秋葉原と同じ電子部品のお店に足繁く通ったものです。アマチュア無線を始めるには国家試験を受けてアマチュア無線技士の資格をとらなければなりません。私も大坂の門真と云う、現在のパナソニック、当時はナショナルの本社があった駅近で3級の国家試験を受けました。3級程度だと、小学生ではルート計算を学校で習ってないのでそれだけは自分で学ばなきゃなりませんが、他は自然に身に着けた知識で克服できました。アマチュア無線技士の資格、今は第1級~第4級までの4区分に分かれ、級ごとに操作可能な無線設備の出力や周波数帯が異なります。第1級がイチバン難しくて、最大出力1kW までの送信機が使えます。級が下がるにつれ、出せる出力が小さくなります。現在は4級までありますが、当時は3級がイチバン下で、私はそのイチバン下のアマチュア無線技士でした。今は4級でも20Wまでの電波が出せますが、私がやってた当時は3級で10Wまででした。昨年実施された大阪・関西万博では、アマチュア無線の特別記念局の運用がおこなわれました。とは云え、スマホによるインターネット通信がアタリマエになった現在、いくら海外の局と会話できると云っても、アマチュア無線は衰退の一途を辿ってます。日本は1995年に約136万局もあった世界最大の無線大国でしたが、昨年末で免許取得者数は33万3000人まで落ち込みました。しかもアマチュア無線技士の資格は一度取得すると更新の必要が無いので、免許は持ってるけど実際は運用してない人が大多数です。この世界でも実際に運用してる人は高齢者が多く、若者でアマチュア無線に興味示す人はどんどん減少してます。しかし災害時など、通信インフラが崩壊したときは、緊急時の連絡手段として再評価する動きもあります。アマチュア無線は絶滅危惧種に等しい存在ですね。何も高価な通信機器を買わなくても、スマホひとつで世界中と通信できるのですから。ところが目を世界に向けると、世界中にはいまだに推定300万人のアマチュア無線家が存在し、その1/4はアメリカ人らしい。さらに世界のアマチュア無線の局はわずかですが、年間1%ずつ成長を続けてるのです。アメリカでアマチュア無線人口が増えてる一因は、モールス信号のライセンス要件が免除されたことです。日本でも3級以上はモールス通信もできますが、4級は通信が禁止(つまり勉強しなくていい)されてます。そして現在の日本のアマチュア無線人口のほとんどは、モールス通信のできない4級なんです。モールス信号と云うのは短点を「トン」、長点を「ツー」と表現するアレです。この短点と長点を組み合わせて1字を表現します。欧文のモールス符号だと「A」は「トン、ツー(・-)」です「A」のモールス符号音。モールス信号の歴史は非常に古いです。モールス信号を作ったのはサミュエル・モールスと云うアメリカ人で、1837年のことでした。モールス通信は音声通話が不可能な電波の弱い状態や雑音だらけでも聞き取れるメリットがあります。つまり遠隔通信に強いのですね。そのため20世紀前半まで電報などの文字通信で多く使われました。無線通信だけでなく、船どうしの通信では「信号灯」を使ってモールス符号を送受信してます。しかし1920年代ごろからテレタイプ端末による電信、1930年代からテレックス、1980年代からファクス、1990年代後半から電子メールなどデジタル通信の発達により次第に使われなくなっていったのですね。遠洋航海の船舶間や船舶と陸上との通信では、通常の通信から万一の際の遭難信号(SOS)まで、長い間モールス通信が行われました。これも通信衛星の登場によってモールス通信は縮小し、非常用の通信手段としても国際海事機関の決定で基本的に使われなくなりました。日本でモールス通信が残ってるのは遠洋漁業など一部の漁業無線と自衛隊による一部の通信、そしてアマチュア無線だけになりました。今でも陸上自衛隊通信学校や海上自衛隊第1術科学校、水産高等学校で電気通信術訓練の一環としてモールス符号による通信は教えられてます。プロの無線通信士には総合無線通信士や海上無線通信士、航空無線通信士などの資格があります。船との連絡がモールス符号だった時代、船舶通信士は1971年が全盛期で2,000トン以上の外航船が1,531隻、船舶電信局数は1,899隻、船舶通信士は4,006名、また海岸局には数百名、遠洋漁船にも多数の無線通信士が乗船してました。しかし1999年に衛星通信などを利用した自動・デジタル化された無線通信システム(GMDSS)に完全移行して、専任の無線通信士は乗船しなくなり、海上無線通信士の職場は無くなったのです。現在、モールス通信のできる免許のある漁業無線局(地上)は釜石や千葉など10局があります。これだけの漁業無線局があるので通信士は約100名程度になります。それ以外に海外まき網、遠洋マグロ漁の漁船にもモールス通信の免許があります。こっちの通信士は約50名程度です。しかしモールス通信が廃止された船無線で、乗船してる通信士は何をしているのか?所属する漁業無線局と定時連絡をして安全を確認してるのですね。昨今の船はWiFi 環境があるので、スマホのLINE連絡もできます。つまり船は通信インフラの多重化を確保して、万一を防いでいるのですね。ただほとんどの船に無線通信士は乗船しないので、航海士が通信業務を兼務しています。海事無線には複数の国家資格が必要なので、ほとんどの遠洋航海船は無線実習をおこなってます。モールス通信は主役からは身を引きましたが、人命を守る最後の通信手段として捨てられないのですね。現在もモールス通信のできる資格を持った人材を募集し続けてるらしいです。相変わらずアマチュア無線の世界では遠距離通信に強いモールス通信は数こそ少ないものの健在だし、この通信方式は0(ゼロ)にはならないのかも。
Mar 15, 2026
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どちらも古い映画ですが、「エイリアン2」と「マトリックス」にはとても魅力的な脇役が登場します。ヴィン・ディーゼル主演の映画「ワイルド・スピード」シリーズには日本でも大人気のミシェル・ロドリゲスが、男まさりのレティ役で登場してますが、あくまで女性そのもの。気丈に見えてもなんともカワイイ。ところが「エイリアン2」のバスクエスと云う女性はまったく男どころか男顔負けのタフガイ。バスクエスは第一作でひとりかろうじて生き残ったリプリー( シガニー・ウィーバー)を連れてエイリアンがたむろする小惑星の探索におもむく植民地海兵隊の上等兵で狙撃手。女性ながら勝気な性格と筋肉質な体格を持ち、大型武器の扱いを任されている人物でジェニット・ゴールドスタインと云うビバリーヒルズ育ちの女優が演じてます。ジェニット・ゴールドスタインは、「ターミネーター2」にもサラ・コナーが逮捕された後、ジョン・コナーを里親として引き取った女性を演じていて、この作品ではジョンを殺害するためにスカイネットが送り込んだ液体金属型ターミネーターに殺される役でした。ジェニット・ゴールドスタインのもっと有名どこの出演作品と云えば、ディカプリオが主演した映画「タイタニック」でアイルランド人子供のママ役やってました。さて「エイリアン2」でジェニット・ゴールドスタインが演じたバスクエスとは、とにかく強いし強靭な身体で、危険な場所にも率先して赴く。炎とエイリアンの大軍が押し寄せる中で、撤退する部隊のしんがりを務め、通気孔の中で上から後ろから襲ってくるエイリアンを、ちぎっては投げちぎっては投げの大活躍。そして至近距離でエイリアンを撃ったために返り血を浴びて足を負傷、身動きができなくなると手榴弾でエイリアンを道連れに自爆するのです。なんとも男前の人物なんですな。エイリアン2 バスクエスの死の闘いAliens (1986) Pvt. Vasquez and Lt. Gorman’s death映画「マトリックス」で登場する"スイッチ"と云うのは不思議な女性です。キアヌ・リーブス演じる主人公"ネオ"の仲間で、現実世界と反乱したコンピュータの作り出す仮想空間を行き来して、人類をコンピュータの支配から解放する活動をする役です。結局、裏切った仲間に、現実世界と仮想空間をつなぐプラグを抜かれ、アッと云う間に死んでいくのですが。「マトリックス」に登場する人物は押並べて黒を基調にした衣装を着てるのに、スイッチだけは白スーツを着ています。彼女は非常にクールで冷静な性格ですが、なんか女性なのか男性なのか、はたまたニューハーフなのか分からん雰囲気を醸してる。そもそも名前が"スイッチ"ってのもヘンですねぇ。実は「マトリックス」を制作した監督のウォシャウスキー兄弟、現在ではウォシャウスキー姉妹と呼ばれてます。ふたりとも性別適合手術を受けたことによって男性から女性として認められるようになったのですね。映画「マトリックス」のスイッチも現実世界では男性、仮想世界では女性と云う性別が切り替わる両性具有的な存在「スイッチ」として想定されていました。それでスイッチ役で女性はベリンダ・マクロリーが演じることが決まってましたが、別に現実世界用として男性俳優を用意する予定だったのです。ところが撮影当時(1999年)はまだ世の中がトランスジェンダーに対して理解が弱く、映画会社からどちらかの性別俳優で両方の世界を描くよう指示されたのですね。それで仕方なくベリンダ・マクロリーひとりでスイッチ役を演ずることになったのです。スイッチの容姿は、彼女の元のコンセプトに敬意を表して、意図的に両性具有的に表現されてます。 マトリックス ネオとトリニティー、スウィッチの出会いTrinity removes bug from Neo | The Matrixオマケの画像冒頭で取り上げた「ワイルド・スピード」シリーズのミシェル・ロドリゲス。やっぱこっちの方がバスクエスやスイッチよりも親近感が持てるなぁ。
Mar 14, 2026
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地球の直径は約12,700km らしい。この直径を導き出したのは、なんと紀元前のギリシャ人学者エラトステネスです。方法は先ず、同じ経度上(南北)の2地点を選んで距離を測ります。次に夏至の日の正午に、2地点で太陽が作る影の角度(中心角)を計測して、1地点が真上(0度)の場合、もう1地点との角度差を算出します。ふたつの地点の距離(360度分)を比例計算し、得られた円周を円周率(3.14)で割ると、地球の大きさ(周長や直径)を算出できるらしい。エラトステネスはこの方法で約7.2度の差と約900km の距離から、円周を約46,000km と推定しましたが、現代は衛星測位や高度な三角測量を用いて、赤道一周の長さ(赤道周長)は約40,075km 、北極点と南極点を通る周囲の長さ(極周長)は約39,94km と算出されています。極周長が赤道周長より約134km 短いのは、地球が自転の遠心力でわずかに扁平な楕円体だからです。しかしエラトステネスは陸地の2点間で測定してるけど、地球には深い海溝もあれば高い山もありますねぇ。測定位置によって地球の直径が違ってくるのでは?地球でイチバン高い山はもちろんエベレストですね。最新の公式測定値で8,848.86m です。一方、世界で最も深い海溝は、北西太平洋のマリアナ諸島東側にある「マリアナ海溝」です。その最深部の水深は約10,920m ~10,983m です。この深さはエベレストをひっくり返しても山頂が底に届かないほどです。と云うことは、マリアナ海溝の深さでもkm 換算だと、約1.1km 程度。地球そのものの直径にとっては、問題にならない誤差なんです。人間が世界で最も深く地球を掘った地点は、ロシアのノルウェー国境に近いコラ半島にある「コラ半島超深度掘削坑」です。1970年~1992年にかけて行われた科学調査目的の掘削で、1989年に地下12,262m (約12.2km )の深さに到達しました。掘った深さで云えばマリアナ海溝よりも深い位置になります。このとき最深部から採取された石の温度は180℃を超えてました。コラ半島で掘られた井戸は確かにとんでもない深さですが、地球の表面は35km の深度から始まります。地球の表面は、さらに2,800km 続き、地球の中心部は地表より6,300km の深度にあります。採掘に24年間の時間を要したコラ半島超深度掘削坑は、まだ地球中心部までの道のりの0.002%でしかありません。なので2003年に公開された映画「ザ・コア (The Core)」みたいに、特殊なドリル船で地球の芯まで潜り込み、コアまで到達するなんて有り得ない話なんですね。地球の最深部(地下約5,100km ~6,400kmにある内核 )は半径約1,200km の鉄やニッケルを主成分とする固体の金属球です。この内核の温度は約5,000℃~6,000℃と推定されており、これは太陽の表面温度(約6,000℃)に匹敵する超高温です。しかも約360万気圧という超高圧下でこれらの金属が固体として存在しているのですね。マントルと外核の境界付近でも約2,700℃~4,000℃の高温ですから、映画「ザ・コア」の世界なんて有り得ないワケです。ここから仮定の話をします。地球の自転では回転軸の極は別として、他の場所では軸に垂直に遠心力が働くため、引力と遠心力が合わさった力「重力」は地球の中心へは向かいません。遠心力を考えなくて済むように、北極と南極を貫通する穴を開けてボールを落としたら?空気があると空気の抵抗で運動が邪魔されますし、空気との摩擦熱でボールは溶けたり蒸発しますので、穴の中は真空と云う想定。実際の地球は先程述べましたように中心に行くほど温度が高くなりますが、それも考えないことに。また地球の密度は中心に行くほど大きくなりますが、これも均一でどこも同じ密度と考えます。この条件で北極から南極に向かって落としたボールは、重力の影響を受けるので、どんどん速くなっていきます。しかしボールが受ける重力は、中心に向かうほど小さくなります。ボールが受ける重力は地球の引力によるものですが、ボールが地球の内部にある場合、周りにある地球の物質には偏りがあり、運動方向と反対向きにも引っ張られるからです。地球の中心部では、地球との引力は、どの方向も互いに打ち消し合い無重力状態になります。北極では「0(ゼロ)」だったボールの速度は、中心で毎秒約7.9km です。地球の中心を通り過ぎると、今度は運動方向と反対向きに引っ張られる力の方が大きくなり減速していきます。そして、ついには南極で速度「0(ゼロ)」になり、またそこから北極に向かって落下していきます。この往復運動を繰り返して、折り返しの距離を縮めながら、ついには中心で停止するのですね。
Mar 13, 2026
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1957年に、マイルス・デイヴィスのバンドを退団して、ビバップのパイオニアのひとりと評されるジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクのバンドに加入したサックスプレーヤーがいます。そして同年7月に、ニューヨークのライブ・ハウス「ファイブ・スポット」にモンク・バンドの一員として出演します。彼はこの7月に「神の啓示」を得たのです。「神の啓示」の意味するところは本人にしか分かりませんが、この月以降の録音ではどれもが自信に満ちたものに変わっており、内面に何らかの大きな精神的変化が訪れたのですね。1957年7月は、20世紀を代表するひとりのジャズの巨人が誕生した月として記憶されました。 彼の名前は「トレーン」の愛称で有名な"ジョン・コルトレーン"です。コルトレーンが第一線で活躍した期間は10年余りですが、アルバムに換算して200枚を超える多数の録音を残しました。その間に音数が多く大音量で吹きまくる「シーツ・オブ・サウンド」というスタイルを確立したのです。コルトレーンの魅力は1950年代後半から、急速なテンポで音符を敷き詰めるように演奏し、聴き手を圧倒する独自のスタイルを確立したことです。アルバム「ジャイアント・ステップス(Giant Steps)」では超高速コードチェンジで驚異的な技術を見せ、一方で「私のお気に入り(My Favorite Things)」ではモーダルな演奏で新たなサウンドを生み出しました。1965年に発表された「至上の愛 (A Love Supreme)」では、神への感謝と信仰を表現した最高傑作として、ジャズ界に永遠に輝く金字塔となりました。なによりジャズを「精神的な表現」や「祈り」と捉え、自身の可能性を極限まで追求する姿勢で、聴く者の心を打つ深い精神性を持っているのですね。音楽のテンポ(速さ)を表す単位にBPM(Beats Per Minute)と云う、1分間に刻まれる拍(4分音符)の数を表したものがあります。数値が大きいほど速く、小さいほど遅く、60~90でバラード、110~130でポップスやロック、130以上でダンスミュージックが目安です。 例えばBPM120は1分間に4分音符が120回鳴る速さです。ところがコルトレーンが作曲した曲に、BPM300と云う、とんでもアップ・テンポの曲があるのですね。1960年にリリースされた「ジャイアント・ステップス(Giant Steps)」と云う曲。この曲はジャズ史上、最大の難曲として有名です。なんせテンポが早いことに加えて、たった16小節の間に10回も転調がおこなわれると云うキチガイみたいな曲なんです。さらに作曲者のコルトレーンは、レコーディング当日までメンバーに譜面を渡さず、ぶっつけ本番で演奏させたそうです。そのあまりの難しさに、ジャズ・ピアニストのトミーフラナガンは途中でギブアップして弾くのをやめてしまいました。と~ぜん、このテイクはボツになると思ってたら、コルトレーンのソロが素晴らしかったために、そのまま正式にリリースされてしまいました。コルトレーンは1966年に来日し、9都市を廻る大がかりな公演を行ってます。このとき、記者会見で「10年後のあなたはどんな人間でありたいと思いますか?」という問に対し、「聖者かな?」と答えたというエピソードがあります。また、同じ会見で「最も尊敬する音楽家は?」という問いに対し、フリージャズの先駆者オーネット・コールマンを挙げました。謙虚で、自己批判的になったコルトレーンは、絶え間なく真実の音楽、究極の音というものを探し求めていきます。そんなインスピレーションと普遍的真実の探求のため、ライヴの合間には会場から10ブロックほど歩き、双眼鏡で夜空を見つめることでも知られていました。彼は1967年にボルチモアで最後のコンサートを行い、同年7月7日にニューヨークのハンティントンで肝臓ガンのため亡くなりました。ジョン・コルトレーンとデューク・エリントンTake The Coltrane
Mar 12, 2026
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これはNASAの歴史で最も有名なお話です。原作はニューヨークタイムズのノンフィクションベストセラーリストで1位になり、2016年に映画化されるとアカデミー賞3部門にノミネートされるなど数々の賞を受賞した心動かされる物語なんですね。映画「ドリーム」のサブタイトルは「NASAを支えた名もなき計算手たち」で、主人公は天才的な頭脳をもつ黒人計算手です。この物語はソ連が打ち上げた世界初の人工衛星「スプートニク1号」と「地球は青かった」の名言で知られるソ連ガガーリン少佐による1961年のボストーク1号での史上初の有人宇宙飛行の成功に端を発してます。時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの推進により、ガガーリン少佐に遅れること約1ヶ月でマーキュリー衛星によって宇宙飛行士アラン・シェパードが有人宇宙飛行に成功するまでを描いてます。NASAと云うと最先端の技術を駆使して宇宙開発をおこなう組織。誰だって人種の枠や性別、年齢の枠を超えて有能な者が引っ張っていくとお思いでしょう。ところが物語の時代、1960年代NASAの内部は女性蔑視、白人優遇と云うより白人以外の人種は排除されてるなんとも古色蒼然たる世界だったのです。主人公の黒人女性(つまり黒人+女性で二重の差別対象)キャサリンは、同僚女性のドロシーとメアリー(ともに黒人)らとNASAラングレー研究所の西棟「有色人種専用棟」で計算手として働いていました。ある日キャサリンは上司のミッチェルから有人宇宙飛行プログラムの管理を任務にするスペース・タスク・グループでの作業を命じられます。キャサリンはこのグループ初の黒人でしかも女性でした。これが彼女を人種差別的な環境に苦しめられることになった始まりです。キャサリンに対する同僚(白人男性)の反応は酷いもので、出勤初日、彼女は清掃員に間違われ、共有のコーヒーポッドからコーヒーをそそいだだけで、翌日からは黒人専用のコーヒーポッドが用意されるしまつ。大きなビル全体に白人専用のトイレしかなく、もっとも近い黒人用トイレは3km も離れた場所にありました。毎回、もよおした時、キャサリンは3km 走ってトイレに駆け込み、また走ってオフィスに帰る毎日。エンジニアを総括するポールから渡された資料は、機密であると云う理由で黒塗りだらけ。これでは計算のしようがありません。そこで彼女は渡された資料を太陽光線にさらすと、黒塗りの下に隠された機密の数字が読み取れたのです。彼女は最初、何も見なかったフリをしようとしましたが、顔をあげると黒板に書かれた軌道計算の答えが間違ってることに気づき、大きな黒板にハシゴをかけて自分のロケット軌道計算をチョークで黒板に書き始めたのです。白人男性の同僚たちは、自分の目を疑いました。半月も彼らを苦しめた難問を黒人女性が解き、わずか数十分で彼らの2週間分の計算をやりとげたのです。こうしてキャサリンはNASA本部のある東地区に配属されました。彼女の資料を読んだハリソン部長(ケヴィン・コスナー)は彼女を見下すこと無く、日々の仕事に加え、ここにいる全員の計算結果をチェックするよう依頼したのです。この部長の言葉に部下の白人男性たちは不満たらたら、自分が計算した資料はまたもや黒塗りだらけ。キャサリンがこれではチェックできないと云うと、「これは機密情報だ。自分の計算に間違いは無い!」。キャサリンが黒人用のトイレに行ってる時間、あまりに長い時間の離席にハリソン部長は、いったい何をしていたのだと叱責。そして真相を知ったハリソン部長は自分の無知に深く痛み入り、研究所内の白人専用と掲げられたトイレのブレートを壊し、白人専用と書かれたコーヒーポットの張り紙を皆の見ている前で破り捨てたのです。ハリソン部長はこう宣言します「NASAに白人も黒人も区別は無い!」と。ついにロケットが打ち上げられる日が来ました。ところが発射直前になってコンピュータがはじき出した昨日の計算結果と今日の計算結果にズレがあることが分かったのです。ハリソン部長は正直に宇宙飛行士のアラン・シェパード海軍少将に報告します。するとシェパードは、キャサリンに再計算を求めます。「彼女が問題ないと云ってくれれば、私は出発の準備をします」これを受けてNASAはキャサリンの居るオフィスに書類を持って走ります。資料を受け取った後、キャサリンはさっそく計算にとりかかります。そして計算を終えると、書類を抱えて管制センターへと走ります。そして管制センターに到着して計算資料を渡すと、受け取った職員は彼女を廊下に残してドアを閉めてしまいます。閉め出されたキャサリンは資料を渡すと、管制センターから立ち去ろうとします。そのときハリソン部長がドアを開けて、彼女に社員証を渡し早くセンターの中に入るよう促します。ハリソン部長は彼女の前で、宇宙飛行士に彼女が計算した正確な座標を読み上げます。キャサリンはコンピュータよりも多くの小数点以下を計算したのですね。アラン・シェパードはキャサリンに感謝の言葉を述べて宇宙船に乗り込みました。1961年5月5日、アラン・シェパードは「マーキュリー3号」でアメリカ人として初めて宇宙へ飛び出しました。シェパードの機体は高度187.5km に達し、水平距離487.3km を飛行。飛行中シェパードは地球を観測し、また姿勢制御装置をテストして宇宙船の熱遮蔽板を進行方向に向け、大気圏再突入に備えました。さらに彼は逆噴射ロケットにも点火した。再突入後、宇宙船はバハマ沖の北大西洋にパラシュートで着水。シェパードと宇宙船はともにヘリコプターで吊り上げられ、航空母艦USSレイク・シャンプレインに回収されました。アラン・シェパードの歓迎式典の場に、キャサリンたち黒人女性計算チームも居ました。列のイチバン端で、控えめに目立たないよう佇んでいました。すると彼女たちを見つけたシェパードは、キャサリンの元に歩み出てこうお礼を云ったのです。「有難う、あなたたちが居なかったら、今回の成功は成し遂げられなかったでしょう。本当に有難う」と。この映画はNetflix で配信されてます。Hidden Figures | Official Trailer [HD] | 20th Century FOX
Mar 11, 2026
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映画「ブルース・ブラザース」の公開は1880年とずいぶん古いのに、今だにファンの多いカルト的作品ですね。主役のひとり、コメディアンのジョン・ベルーシは、人気絶頂期の1982年に、コカインとヘロインの混合物スピードボールの過剰摂取により、ハリウッドの高級ホテル「シャトー・マーモント・ホテル・アンド・バンガローズ」の客室内で33歳と云う若さで死去しました。亡くなる前には大ヒット作「ゴーストバスターズ」の出演も決まってたのですが...映画「ゴーストバスターズ」に登場する緑色の"スライマー"のモデルはベルーシです。その映画「ゴーストバスターズ」に出演したのが、「ブルース・ブラザース」のもうひとりの主人公コメディアンのダン・エイクロイドです。「ゴーストバスターズ」ではゴーストバスターズのリーダーでマシュマロ好きの"レイ"役やってました。このマシュマロ好きが仇となって巨大な"マシュマロマン"が登場するのでしたね。ダン・エイクロイドは、ベルーシやエディ・マーフィなどアクの強い芸人とコンビ組むことが多い俳優でした。さて、映画「ブルース・ブラザース」をご覧になった方は多いでしょうから、ストーリーは簡単に紹介します。ブルース・バンドのボーカリスト"ジェイク(ジョン・ベルーシ)"と弟の"エルウッド(ダン・エイクロイド)"は、自分たちが育ったカトリックの孤児院を訪れ、シスターのメアリー・スティグマタから固定資産税5,000$を支払わないと孤児院は閉鎖されてしまい、自分は伝道に出されることを聞かされます。孤児院の危機を救うため援助を申し出たふたりは、気乗りしない教会の礼拝に無理矢理連れて行かれます。牧師の説話をなんとなく聞いていたジェイクは突然神の啓示を受けるのです。「キミは光を見たか!?(Do you see the light !?)」「そうだ!バンドだ!バンドで稼ごう」解散していた自分たちのバンド「ブルース・ブラザーズ」を再結成して孤児院を救う資金を集めることを思いつくのです。そうしてバンドのメンバーを探し始めて、昔の仲間をかき集めます。大規模なショーでないと資金が集まらないので、旧知のエージェントを半ば脅迫して、シカゴ北方にあるパレスホテルの宴会場を予約します。そしてド・ハデな宣伝をして会場を満席にするのですね。ところが会場にはファンの他に、ジェイクを追う警察、ネオナチなどがいて、曲を披露した後、仲間たちに任せてこっそりステージから抜け出すのです。ふたりは隣接するシカゴ市庁舎に入り、数百人のシカゴの警察官、イリノイ州警察官、SWAT、州軍兵士、シカゴ消防署の消防士、陸軍憲兵が後を追います。市庁舎の税理士事務所で無事に税金を払い終わりますが、領収書に受領印が押された瞬間、彼らは警官たちに逮捕される。収監された刑務所でブルース・ブラザース・バンドが受刑者のためにロックを演奏し、受刑者たちは踊り狂うと云うストーリーです。この映画で、昔のバンド仲間が下町で黒人ソウルフードレストランの調理担当しているのを誘いにいくシーンがあります。ところが女主人である妻は猛反対。結局、旦那は云うことを聞かず、妻を置いてブラザースに合流するのですね。このシーンの妻役はグラミー賞20回受賞のソウル歌手"アレサ・フランクリン"です。ゴスペルを前面に押し出す有名な歌手ですね。2009年にはオバマ大統領の就任式典で愛国歌「マイ・カントリー・ティズ・オブ・ディー(My Country, 'Tis of Thee)」を熱唱しました。映画「ブルース・ブラザース」に昔のバンド仲間を誘いに行って、妻(アレサ・フランクリン)が反対するシーンがこれです。Aretha Franklin - Think (feat. The Blues Brothers) いゃあ まさに“クイーン・オブ・ソウル”の名にふさわしい歌いっぷりですね。アレサ・フランクリンは女性アーティストとして初めて「ロックの殿堂」入りを果たした歌手です。彼女がソウル・ミュージックの中でも南部を中心に、ブルースやゴスペルを融合した「サザン・ソウル(ディープ・ソウル)」を得意にしたのは、父親が有名な教会の牧師で、母親は優れたゴスペル歌手。そして彼女は幼いころから父の教会でゴスペルを歌っていたからです。フランクリンの最も黄金期である60年代後半~70年代前半にかけて、彼女のレコーディングを担当した音楽プロデューサー"ジェリー・ウェクスラー"は、「真に偉大な歌手を作るには3つの資質必要です。それは頭、心、喉だ」と語ってます。「頭」は知性であり、言葉遣いです。「ハート」とは、炎を養う感情と感性です。「喉」は「チョップ」、つまり声です。アレサは、これまで知っていたアーティストの中で、この3つすべてを持ち合わせた唯一のアーティストだったと述べてます。彼女の歌でもっとも有名なのは、1972年のライブアルバム「至上の愛~チャーチ・コンサート~」でカバーした「アメイジング・グレイス(Amazing Grace)」でしょう。この曲はアメリカで「第二の国歌」とまで云われ、アメリカで最も慕われ愛唱されている曲のひとつです。アレサは、この曲に限らずどんなカバーでも、全て自分の曲にしてしまうのですから、その歌唱力のスゴさが分かります。Aretha Franklin "AMAZING GRACE" LIVE 2011アレサ・フランクリンは2018年、すい臓ガンによりデトロイトの自宅で亡くなりました。享年76歳。疑いもなく過去60年間のポピュラー音楽界で最も優れた歌手であり、ソウルの女王でした。下の動画にアレサは登場しませんが、彼女の1968年のヒット曲のひとつ「I Say a Little Prayer(小さな願い)」を映画のシーンで面白く歌ってる動画です。映画は1997年に公開されたジュリア・ロバーツ主演の「ベスト・フレンズ・ウェディング」で愛を告白されるシーンに出てきます。「I Say a Little Prayer」はバート・バカラックの作曲で、朝起きて愛する人を想い、一日中祈りを捧げる情景を描いた、ソウルフルで切ない愛の歌です。 George Sings "Say a Little Prayer" | My Best Friend's Wedding | Love Love
Mar 10, 2026
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関西国際空港(関空)で海外旅行するためイミグレーションを通り抜けて搭乗口にたどり着くまでの道中、ものすごく嫌なエリアがあります。「デューティーフリー」ショップのエリアです。イミグレーションに続くデューティーフリーで先ず目に飛び込んでこなくても臭覚がとんでもないことになるエリア。化粧品売り場のエリアです。世界のブランド化粧品を扱ってる売り場ですが、そこを通り抜けるときのニオイったら!一昔前の電車なんかでよく居た香水の臭いプンプン オバサンのニオイです。各店舗が香水やディフューザーの香りを撒き散らしていて鼻がぶっ壊れそう。これでイッペンに気分が悪くなってしまうそれも、この化粧品売場の通路だけ直線ではなく、ワザと曲がりくねらせて通過するのに時間がかかるよう仕向けてるのです。その化粧品売り場を通り抜けて、やっと軽食やお土産グッズ売り場。バンコクの国際空港なんて、化粧品は各ブランドごとに個別の店舗を構えてるので、余計、関空のショップレイアウトが解せない。同じ思いはデパートに入店するたび悩まされる階が。「デパ地下」にはもはや訪日外国人にも大人気の食料品売場があり、地下鉄との連絡通路があったりと、ここから入店する人は多いと思います。地階からエレベーターで上層階に登るのなら問題ないのですが、エスカレーターを利用して1階を通過するときが問題。関空のデューティーフリーショップと同じ化粧品ニオイの集中攻撃が!しかもデパートによっては地下からの登りエスカレーターが1階で途切れてて、反対側にまわらないと上階のエスカレーターにたどり着けない構造。その分、化粧品売場の強烈な悪臭にさらされる時間が長くなる。実際、化粧品や香水を使う女性でも、このニオイがニガテな人は多いのではないでしょうか。シカゴのデパートに行ったことありますが、こんな臭い攻勢なかったけどなぁ。デパートの1階に化粧品売り場が多い理由は、デパートのメインターゲットが女性だからです。だから1階に続く低層階には婦人向けのハイブランドやジュエリーなど高価格帯の商品を扱う店舗が配置されてるのですね。逆にバーゲン会場や物産展など催事場が上の階にあるのは、催事に訪れる人は先ずエレベータで催事場に行って買い物済ませてから、エスカレーターで下りてくるので、上から下へとお客様の流れを作るためです。ぢゃあナゼ1階に化粧品や香水売り場が多いかと云うと、それは「噴水効果」を狙ってるから。化粧品のフロアは見た目にも華やかで、メインターゲットである女性が入りやすい雰囲気です。女性にとって化粧品は必需品ですから、化粧品フロアが1階にあると入りやすくて便利なんですね。そうして女性をデパートに引きつけて、さらに上の階のフロアへと誘導していく狙いがあるのです。化粧品フロアの上の階に、婦人服やアクセサリー売り場があるのも同じ理由なんです。下から上へとお客様の流れを作ることで、目的の物以外の物も買っていただこうと云う魂胆なんですな。それとともに、1階にはいくつもの出入り口があるので、沢山の人が出入りして換気が出来、香りが充満するのを防ぐ効果もあります。単価の高い化粧品は小スペースで配置でき、非常に利益率のいい商品でもあります。さらに化粧品売り場の照明にも秘密があります。1階フロアの照明は、他のフロアよりも明るく、そして肌が最も美しく見えるように計算されているのですね。女性が化粧品売場の鏡を見て「アレ!私ってこんなに綺麗だった?」と錯覚(笑)させて、購買意欲を刺激する仕掛けが組み込まれてるのですね。とは云っても、何としてでもあの入り混じった化粧品の強烈なニオイは、私にはいつまで経っても馴染めない。で、いつも地下からデパ地下に行って、寄り道せずに帰るだけです。
Mar 9, 2026
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世界的な免税店運営企業である「DFS」の創立者であるチャック・フィーニーと云う人物がいました。フィーニーは自分の正体を明らかにせず匿名で大西洋慈善財団と云うオーストラリア、バミューダ、アイルランド、南アフリカ、アメリカ、ベトナムで学校、病院、科学研究、人権団体などに寄付する財団を立ち上げましたが、その財団は2020年に閉じてます。ナゼ、財団が閉じねばならなかったのか?それは、この財団の運営は全てフィーニーの個人財産だけで運営されており、その資産を使い切ったからです。フィーニーが財団に注ぎ込んだお金は家族に残したいくばくかの財産以外の全てで、その額は80億$(約1兆2,000億円)を超えます。それだけの全財産を寄付し、そして自分はリムジンを売り、代わりに地下鉄やタクシーだけを利用しました。どんなに遠い距離でも飛行機はビジネスクラスは利用せず、いつもエコノミー席。服は既製服を買い、高級レストランにも行きませんでした。書類カバンの代わりに、使い古したビニール袋を使い、腕時計は近所の文具店で買った2,000円のカシオ製腕時計を使い続けました。一生、自分の持ち家を持たず、サンフランシスコの2部屋のボロボロの賃貸アパートに妻とふたりで暮らしていたのです。ベトナムの医療改善だけで数千億円、世界中の教育と人権のために全財産を使い切ったのですね。そして2020年に通帳残高が「0」になると、満面の笑みで財団の扉を閉じました。チャック・フィーニーの言葉「死に装束にはポケットが無い。生きてるうちに与える方が死んでから与えるよりもずっと楽しい」と。そしてフィーニーは2023年、静かに永遠の眠りにつきました。まことに頭のさがる人物です。このように私たちが知らない世界でも、自己ピーアルなしに福祉や人権擁護のために尽くす人は少なからずいます。反面、世界には私腹をこやし、権力に執着する独裁者も大勢います。先日述べたスターリンもそのひとり。独裁政治では、単独の支配者に権力が集中し、議会政治や合議制が否定されます。こうした独裁者は軍事的なクーデターや内戦によってそのリーダーがなる場合が多いですが、民主主義的な手続きの結果として独裁者が生まれることもあります。その典型がナチスのアドルフ・ヒトラーで、民主憲法であるヴァイマル憲法のもとで独裁化を果たしたのですね。こうした独裁者の誕生を防止する方法は、普通選挙による議会制民主主義や大統領制などに加えて、権力分立やアメリカが憲法修正22条で定める3選の禁止、憲法条文による韓国・フィリピン・チリにおける再選禁止と云った公職の多選禁止を規定する必要があります。小泉純一郎が自民党総裁任期満了とともに、内閣総理大臣を退任したのも同じ思想からです。そうしたシステムがあるにも関わらず、憲法を改正して任期制限を撤廃し、大統領が長期政権を敷くところも現れてますね。中国では国家主席の任期は連続2期までと定められていたにも関わらず、習近平が共産党総書記になると権力集中の動きが強まり、2018年には憲法を改正して任期制限を撤廃しました。現存する国家のうち、中国や北朝鮮は憲法で公式に「独裁」を明記しています。第2次大戦を引き起こしたヒトラーとともにファシスト党による一党独裁体制を確立し、言論の自由を抑圧したイタリアのムッソリーニの最後がどんなものかご存知ですか?彼は1945年に連合国軍に援助されたパルチザンに拘束され、略式裁判の後、メッツェグラ市で妻のペタッチと共に銃殺されました。そして生存説を退けるために遺体はミラノ市のロレート広場に吊されたのち、無記名の墓に埋葬されたのです。殺害されたときの写真を見ると、判別できないほど顔が腫れ上がってます。銃殺前に拷問を加えられたのでしょう。東條英機のように東京裁判で戦犯の判決を受け、絞首刑になったのはまだいい方です。内戦で多数の国民を殺し、化学兵器サリンを搭載したロケットで死者数推定最低281人~1,729人にのぼる犠牲者が出ても平然としていたシリアのアサドのように、体制崩壊とともにロシアに逃げ出しモスクワの高級マンション3戸で家族と共に生存し続けてるのは珍しい例でしょう。彼は今、マンション下のショッピングセンターを訪れる以外はオンラインゲームで時間を過ごしていて、モスクワにはアサドの親族が20戸近い集合住宅を所有しており、民間警備員の監視のもとモスクワ市内を自由に移動できてるそうです。イラクが隣国クウェートに侵攻したクウェート侵攻事件を発端に発生した2003年の湾岸戦争でイラク側の独裁者サッダーム・フセインは、1979年に大統領に就任して以来、秘密警察を駆使した強権体制を敷き、反体制派を徹底的に弾圧しました。拷問と虐待を繰り返し、特にクルド人やシーア派住民に対して大規模な弾圧、化学兵器の使用を行い、虐殺をしまくったのですね。湾岸戦争でバグダードは陥落しましたが、フセインは既に逃亡してました。アメリカ軍は先ず、隠れ家で抵抗を続けたフセインの息子ウダイとクサイを殺害。そしてフセインの護衛官だった男の供述で、イラク中部ダウルにあるフセインの隠れ家を強襲します。しかし、家はもぬけの殻。そのときフセインの護衛官が足で庭にあったロープを指し示します。ロープを辿っていくと、発泡スチロールの蓋の下に、人ひとりがようやく通り抜けれる竪穴が。アメリカ兵がその穴に手榴弾を投げ込もうとすると、穴の中から降伏の声とともに、ひとりの男が顔を見せました。その男こそサッダーム・フセインだったのです。フセインは、拘束後にアメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置されました。独房は窓のない縦3m 、横5m の部屋で、エアコンが完備されプラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、テレビやラジオはありませんでした。2004年になって、大量虐殺などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷します。この時点で主権移譲によりサッダームの身柄がアメリカ軍からイラク暫定政権に移ってました。結局バグダードの高等法廷で、1983年にイラク中部の村ドゥジャイルにおいて住民140人以上を殺害した事件などで「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡されます。そしてバグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所で、絞首刑による死刑が執行されました。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請しましたが、新政権は国内の「サッダーミスト(フセイン支持者)」が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行したのです。サッダーム・フセインは結局死刑になったとは云え、自国民ではなく、アメリカ軍に捕まったから処刑まで人らしく過ごせました。ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領夫妻がアメリカ軍に拘束されても、裁判の期間、普通に生活できてるのと同じですね。しかし抑圧してきた自国民に捕らえられると、話は180度違ってきます。古くは冷戦期のルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク"夫妻"。「夫妻」と云うのは、妻のエレナ・チャウシェスクもルーマニアで酷いことを行っていたからです。エレナは人口が増えればいいという安直な発想のもと、中絶や避妊を禁止しました。すると育児放棄などによりルーマニアは孤児であふれかえりました。また自国民を大量殺戮したばかりか、国の財政が悪化し破綻寸前にもかかわらず、「国民の館」というばかでかい箱モノを作るなどひどい政治を行い続けました。そしてソ連崩壊により起きたルーマニア革命で糾弾されると、チャウシェスク夫妻は護衛の乗ったヘリコプターで脱出します。しかし強制着陸させられ、ヘリコプターの操縦士は反乱軍に亡命。国家に対する犯罪、自国民の6万人におよぶ大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されます。そうして銃殺されたのです。その銃殺は、判決が出てから10分以内に執行されました。アフリカ・赤道ギニアの初代大統領フランシスコ・マシアス・ンゲマは、1972年に終身大統領を宣言、翌年には大統領への絶対権力の集中を定めた憲法を採択、独裁体制を固めました。恐怖政治をおこない、多くの反体制的な国民を粛清したため、国民の1/3が亡命者として国外へ脱出するという異常事態が発生したのです。さらに赤道ギニア中央銀行総裁の殺害を命令し、国営銀行を機能不全に陥れ、そこから国庫に残った財源を略奪し続けました。反対派を弾圧し、国民をココア農園で奴隷のように扱い、側近すら次々と処刑していた凶暴極まりない男です。ついには要職につけた親族すらも粛清していきます。それで次は自分の番だと確信した甥のテオドロ・オビアン・ンゲマが1979年に思い切ってクーデターを決行し、ンゲマ政権を打ち倒すのですね。ンゲマは逃走中に拘束され、処刑されました。妻と子は北朝鮮に亡命しています。この歴史的事実をモチーフにして作家フレデリック・フォーサイスは「戦争の犬たち」を執筆し、同名映画が1980年に作られました。とんでもない殺戮者なのに、病院で病死した幸せな(?)独裁者がいます。1970年代に軍事クーデターでウガンダを支配した独裁者です。当初はイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国や、イスラエル、反共的なザイールのモブツ・セセ・セコと友好的な関係を持ちました。ところが独裁化が進むとともに約10万~50万人と推計される国民を大量虐殺したとして「黒いヒトラー」「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称されます。少数民族を始め、宗教指導者、ジャーナリスト、芸術家、官僚、裁判官、弁護士、学生、知識人、外国人などアミンの政策に異議を唱えた全ての人物が次々に粛清されたのです。アミン政権時代6年間に、ウガンダの自然環境や生態系は密輸業者と軍によって行われた広範囲にわたる密猟と森林伐採にさらされました。ウガンダではゾウの75%、サイの98%、ワニの80%、ライオンとヒョウの80%が失われたのです。このような暴政を西側諸国から批判されたため、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年のイギリス断交を手始めに、イスラエルの軍事顧問を追放したことで、アメリカ政府もアミンと距離を置くようになりました。そしてアミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在だったリビアのカダフィ大佐に接近し始めるのですね。しかし1979年に反体制派のウガンダ民族解放軍(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚。タンザニア侵攻のとき軍事作戦に協力していたリビアに当初は逃げるもカダフィ大佐も持て余すようになり、翌1980年に敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件に生活援助を申し出たサウジアラビアへの亡命を許されました。サウジに亡命後は何度かウガンダへの帰国を試みるもことごとく失敗し、2003年にジッダの病院で多臓器不全による合併症で死去しました。アミンは身長193cm の巨漢で、東アフリカ・ボクシングヘビー級チャンピオンになったこともあります。そのアミンと親密だったリビアのカダフィ大佐。1969年のリビア革命で政権を樹立してから、長期に渡って政権を維持しましたが、2011年リビア内戦によってカダフィ政権は倒壊。カダフィ大佐は反カダフィ派部隊によって殺害されました。リビア内戦は、2011年の隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、カダフィの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発端となります。国民に対し徹底抗戦を呼びかけますが、欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カダフィ派の蜂起を招き、ついにカダフィは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、政権が崩壊した出来事です。カダフィは政権崩壊後も各地を転々として潜伏し、徹底抗戦する姿勢を示してました。国民評議会がカダフィ勢力最後の拠点となったスルト攻撃を開始すると、2ヶ月間スルトに潜伏していたカダフィは南アフリカ人などで構成された護衛が乗った数十台の車列を組み逃亡を試みます。しかしフランス空軍の戦闘機ミラージュ2000とアメリカ空軍の無人攻撃機プレデターにより空爆を受けるのです。そして反カダフィ勢力により身柄を拘束されますが、発見されたのは道路に設けられたコンリート製の排水管の中でした。拘束されたとき、カダフィは黄金製の拳銃2丁と自動小銃を持って、カーキ色の制服を着用、頭にはターバンを巻いていました。しかし引き出される際に右腕に銃撃を受け負傷。トラックで護送しようとしたところカダフィ勢力、反カダフィ勢力の間で銃撃戦が始まり、これに巻き込まれたカダフィは頭部や腹部に銃撃を受けます。カダフィはミスラタの病院に搬送されたが、到着する数分前に死亡しました。血まみれになったカダフィと思われる人物の映像がアルジャジーラなどで放送された他、携帯電話でも映像が撮影され、血まみれの上半身を裸にされ、車で引き回されるカダフィらしき人物の映像が残されてます。リビア国民評議会のアブドルハーフェズ・ホガ副議長がカダフィを拘束・殺害したと発表し、トリポリやミスラタでは群衆が歓喜の声をあげ、祝砲が鳴らされました。カダフィは、反カダフィ勢力の兵士に囲まれたとき「息子たちよ、殺さないでくれ」と命乞いしたと伝えられてます。しかし誰よりも最悪な独裁者はかの有名なカンボジアの殺戮王"ポル・ポト"でしょう。ポル・ポトはソ連から一党独裁を、ベトナムからゲリラ戦を、中国から農本主義を、北朝鮮からは階級制度を学び取って、それらを一気に導入することでカンボジアを牛耳ったのですね。クメール・ルージュは万人の平等社会を建設すると云ってましたが、同時に殺戮に関しても平等でした。農民から閣僚に至るまであらゆる階層の人間が殺害され、3年8ヶ月の間にカンボジア国民の25%が死亡し、その半分以上は処刑されました。これは人類の歴史の中でも類を見ない、異常な規模の虐殺です。なんと当時のカンボジア人の平均寿命は14歳でしかなかったのです。1978年、ベトナム国内に避難していたカンボジア人によって構成されるカンプチア救国民族統一戦線がベトナムの援助を得てカンボジア国内に侵攻。ポル・ポト軍は粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊しており、わずか2週間で兵力は文字通り半減します。翌年、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強いヘン・サムリン政権が成立しました。カンボジアから追放されたポル・ポトとその一派は、タイの国境付近のジャングルへ逃れ、採掘されるルビー売買の利権を元手に反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けます。カンボジア政府との和解を試みた腹心のソン・センとその一族をポル・ポトは1997年に殺害。その後仲間であるクメール・ルージュの軍司令官タ・モクがポル・ポトを「裏切り者」として逮捕、終身刑を宣告します。タ・モクは1998年、新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連行します。そして同年、ポル・ポトはタイ国境近くのアンロンベンで心臓発作を起こし死亡と発表されました。しかし、遺体の爪が変色していたことから毒殺または服毒自殺の疑惑が湧いてきました。遺体は兵士によって古タイヤや椅子、棚などの粗大ゴミなどと一緒に焼かれ、そのままその場所に埋められました。埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。墓碑などはなく、粗末な覆屋の看板に「ポル・ポトはここで火葬された」とのみ記されており、溶けかかったタイヤとともに遺骨が土の上に、むき出しの状態で置かれています。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)は自身の後継者を誰にするつもりなんでしょう。韓国国会では娘のジュエ(金主愛)を後継者に選び、内定段階にあるとみられるという見解を表明しています。しかし、まだ若すぎる。正恩の妹"キム・ヨジョン(金与正)"をジュエの後見にするつもりでしょうか。しかし、ヨジョンは秘密警察である国家保衛省10局の局長・幹部ら8人が、平壌市にある同省所有の運動場で処刑されたとき、処刑命令を下した張本人です。非常に過激な思想の持ち主で北朝鮮国内ではすでに、キム・ヨジョンが恐怖の対象になってるほどです。もしヨジョンがジュエの後見人になった場合、ジュエを差し置いて自分が権力の座につくことを画策するかも知れません。金正恩が幼かったころ、2代目最高指導者"金正日"の妹に当たる金敬姫を妻(つまり金正恩にとって義叔父)とし、金正日の側近を務めた張成沢が正恩の後見人でした。しかし正恩が幼かったのをいいことに、正恩が3代目を継いだ後も、正恩の口座資金を着服し続けました。これを知った正恩は張成沢の直属の部下2人を飛行機を撃ち落とす高射機関銃を水平に向けて銃殺。遺体はバラバラになり原型をとどめませんでした。そして張成沢は「国家転覆陰謀行為」により死刑判決を受け、即日処刑されたのですが、その死刑方法は火炎放射器で焼き殺すと云う、まるで中世の魔女裁判のようなことを21世紀にやったのです。もし、金正恩の身体が動かなくなったり死亡したとき、それは娘ジュエと叔母ヨジョンの北朝鮮を2分する確執の始まりになるかも知れません。
Mar 8, 2026
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昔、タイのバンコクに赴任してたとき、度々タイを訪れてると云う日本人のご夫人と知り合いになりました。なして、こんなとこまで? 尋ねたら、タイの国境付近まで行ってクズ(小粒)のルビーやサファイアを仕入れてきて、それを日本に持ち帰り商売にしてると云ってました。手のひら一杯の小粒ルビーが何千円と云う世界です。ちゃんと税金払ってたのか、はたまた密輸してたのかは知りません。カンボジアと国境を接して海に面しているタイのトラート県のボーライと云う町はルビーやガーネットの産地として知られてます。実際、この付近でとった砂を覗いてみると石英や珪岩片、長石などに混じって赤色のルビーが発見されることがままあります。そしてボーライ市内から1km ほど離れたプロイホアトゥン市場やプライバーンサヤイ市場などの宝石市場がいくつかあります。世界的な宝石マーケットとして、アメリカ アリゾナ州で開催される世界最大級のミネラルショー(鉱物・宝石・化石の展示即売会)「ツーソン・ジェム&ミネラルショー」とともに、バンコクは世界有数のジュエリーや宝石の流通拠点として有名なんですね。タイのお隣ミャンマーは「ルビーの都」と称されるモゴック地方を中心に、世界最高品質のルビー、サファイア、ヒスイ(ジェダイト)を産出する宝石の宝庫です。特に「ピジョンブラッド(鳩の血)」と呼ばれる鮮烈な赤色ルビーや、高品質なブルーサファイア、希少なレッドスピネルが世界的に有名です。ちなみにルビーとサファイアは鉱物的には同じもので「コランダム」といいます。赤いコランダムがルビー、青いコランダムがサファイアと云うのが宝石としての名前です。 ミャンマーの宝石は、石灰岩が大理石に変化する過程で生まれるため、不純物が少なく高い透明度を持つことが特徴なんですね。こうしてミャンマーで採掘されたルビーやサファイアが人力で山越えでタイに密輸され、それでバンコクが世界有数の宝石流通拠点となってるワケです。ことダイヤモンドに関してはインド抜きでは語れません。ダイヤモンドの原石そのものは「デビアス」と云う国際シンジケートによって牛耳られてることはご存知ですね。デビアスは世界中で限られた買付業者に原石を卸し、その原石は世界に5ヶ所しかない研磨業者でダイヤとして加工され、各国に流れていく仕組みです。そんな研磨業を生業にしてる国がインドで、世界最大級のダイヤモンド研磨・加工国なんです。ジャイプールを中心とするカラーストーン(色石)の世界的拠点でもあります。熟練の職人技術と低コストな労働力を背景に、ダイヤモンドの95%を加工し、エメラルドやルビーなど多彩なジュエリーを世界中に輸出する「宝石の都」なんですね。とりわけ世界的な研磨工が集まる供給拠点がスーラト、そのスーラトで加工されたダイヤモンド取引の95%が集約される商業中心地がムンバイです。日本でも「ジュエリータウン」と呼ばれる東京 御徒町にはインド人宝石商が100軒以上もお店を構えてます。御徒町や隣の上野は太平洋戦争時、空爆によって焼け野原となりましたが、戦後すぐに屋台や露天商が集まるようになり闇市が形成されていきます。これが上野から御徒町にかけて広がる「アメ横」の原点ですね。やがて戦後の復興期から高度経済成長期に入ると、宝石のような贅沢品の需要も伸びていきます。御徒町もジュエリータウンとして発展していくのですが、1960~70年代にかけてインド人やイスラエル人の宝石商が御徒町に出入りしだしたのです。とくに世界マーケットの95%がインドで加工されてるダイヤモンドを取り扱うには、同国人がだんぜん有利だったのですね。そんなインド人が御徒町に急増したのは1980年代のバブル期。バブルの頃は夜中の12時、1時まで店が開いていて、デパートなどに販売する仕入れ業者が御徒町を深夜まで行き交ってたそうです。最盛期には1,000社もの問屋が存在し、4兆円規模の取引が行われていたのですね。日本に入ってきたダイヤモンドは指輪やネックレスに加工されて販売されるワケですが、小売店の粗利益率は店によってまちまちです。普通は40%ですが、デパートなんかだと30%と云うとこもあります。また専門知識を持った優秀なスタッフをかかえてる有名宝飾店などは、販売コストがかかる関係から粗利70%と云うのも珍しくないです。それだけではなく、業者によっては仕入価格の5倍もの価格をつけてることもあります。実は原価20万円のダイヤモンドが100万円で売られてると云うことです。逆に御徒町のお店は、小売店店主が海外にでかけて卸業者から直接購入しているため、国内バイヤーを通さず粗利益率10%や20%でも大量に売れれば利益がでるのでとてつもなく安い価格設定をしてるのですね。ただ、気をつけなければいけないのは「質」です。こうした激安のお店は文字通り玉石混交で、大幅な値引きしているように見えて、実はもともと高値がつけられてない宝石と云うこともまま有ります。ダイヤモンドは「4C」と云う等級づけがあるから安心だと云うのは素人考えです。ダイヤモンドの質を決める目安として定着した「4C」は「カラット」「クラリティ(透明度)」「カラー」「カット」によるランクづけを示してます。卸業界ではこの「4C」をダイヤモンドの価値判断にしてますが、だからと云って「鑑定書」ではありせん。「4C」のシステムを作ったアメリカ宝石学会は、あくまでも「等級の報告書」と位置づけてるからです。つまり、そのダイヤモンドのイメージを表現しただけで、質を決めたものでは無いのです。では、ダイヤモンドの質を決めるものは何なんか?それは「原石」の質です。原石そのものの材質、特に透明度がダイヤモンドの価値を大きく左右するのですね。実際「鑑定家」は、原石の質を調べて判断してます。つまりダイヤモンドの価値を見極めたいと思ったら「4C」だけでなく、鑑定家の判断を仰ぐ必要があるのです。ところが、この鑑定家も資格制度があるワケではなく、判断基準も厳密には決まってません。そもそも持ってるダイヤモンドを宝飾店に持ち込んで「鑑定してください」と云っても、業界内のルールで、自分とこで取り扱ったものでない宝石の鑑定は受け付けてくれない仕組みなんです。持参したダイヤモンドが本物かニセ物かも教えてくれません。買ったときの鑑定書そのものが信用できないこともままあります。唯一の方法は宝石売買してる専門店や質屋に持ち込んで「売りたい」そぶりをすることですね。それで売ったらどれくらいの価値あるものか分かるでしょう。とにかくダイヤモンドに限らず、宝石は買ったその瞬間から価値はその人だけのものであり、他人には預かり知らぬことと考えることです。
Mar 7, 2026
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グラミー賞に18回ノミネートされ、うち7回受賞。さらに2回のグラミーの殿堂入りを果たし、死後にはグラミー特別功労賞生涯業績賞を受賞したモダン・ジャズを代表するピアニスト"ビル・エヴァンス"。とかく黒人プレーヤーの多いジャズの世界で、希少な白人トップ・ジャズプレーヤーとして存在感を発揮してました。日本で最も人気があり、ジャズピアノをやってる人はほぼ100%、ビル・エバンンズのようになりたいと思ってるでしょう。エバンンズの演奏って「Waltz For Debby(ワルツ・フォー・デビイ)」に代表されるようなオシャレで美しくて繊細、上品な感じがしますよね。同時に薬物依存も有名で、1958年に参加した「モダン・ジャズの帝王」と呼ばれてるジャズトランペットの第一人者マイルス・デイヴィスのバンドでは、この薬物依存が原因でわずか7ヶ月でクビになってます。とにかく彼の人生はハチャメチャ。逆に云えばいかにもジャズマンらしいとも云えます。私的にみれば、ビル・エヴァンス・トリオのアルバム「Portrait in Jazz(ポートレイト・イン・ジャズ)」がありふれてますがイチバン好きですね。このアルバムでシャンソンのスタンダードナンバー「枯葉」に急速調のピアノで多彩なアドリブを展開して、モード・ジャズを代表する名演として特に有名になりました。キース・ジャレットやチック・コリアなどコンテンポラリー・ジャズを代表するピアニストに大きな影響を与えた名演奏です。ちなみにエバンンズは自身のジャケット写真を見て「誰だ!この不機嫌そうなオッサンは?」と云ったそうですよ(笑)ヴァーヴ・レコードのプロデューサー"クリード・テイラー"との確執は有名ですね。1964年にテイラーが企画したアルバム「Stan Getz & Bill Evans(スタン・ゲッツ & ビル・エヴァンス)」では、白人のビル・エヴァンスと同じく白人のサックス奏者"スタン・ゲッツ"、黒人のベース奏者"ロン・カーター"とドラムの"エルビン・ジョーンズ"と云う珍しい組み合わせをテイラーがやってしまいました。それぞれのミュージシャンは全員素晴らしいプレーヤーなのに、スタイルが違いすぎてかみ合わせが良くない演奏になってしまいました。エバンス自身も「リリースできる水準に達していない」と述べてるほどです。とは云っても、やはりビル・エヴァンスのアルバムはどれも素晴らしい。ジャズに馴染みない人でも、エヴァンスの演奏を聞いたら「これがジャズか!」驚嘆するハズです。マイルス・デイヴィスは、自伝の中でビル・エヴァンスについて「ビルの演奏には、いかにもピアノという感じの、静かな炎のようなものがあった。奴のアプローチの仕方やサウンドは、水晶の粒や、澄んだ滝壺から流れ落ちる輝くような水を思い起こさせた」と述べてます。エヴァンスは1980年9月15日に、長年の飲酒と喫煙、そして薬物使用によって肝硬変と出血性潰瘍による失血性ショックをおこし亡くなりました。51歳と云う若さで。 Waltz for Debby
Mar 6, 2026
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訪日外国人が必ず食べると云われてる日本の「ラーメン」。なんせラーメンは中国の「拉麺(ラアミエン)」の鶏ガラベースの塩味スープを元に、日本の蕎麦などで培われた「かえし」や出汁の技術が組み合わさり、醤油・味噌などの「元タレ」と魚介や動物系の出汁を組み合わせ、旨味の相乗効果を生み出すことによって独自進化したものですからね。どの国のラーメンに類する麺料理も太刀打ちできない美味しさがあります。で、普段なにげなく食べてるラーメンですが、お店の器には縁を彩る四角い渦巻き模様が入ってること多いですね。これは「雷紋」と云って、古代中国で魔除けとして使われていた伝統的な装飾文様です。古くから日本にも伝わり、陶磁器などに描かれてきました。中国では数千年も前から、青銅器や陶器、漆器、建築などに用いられてきた文様で、万物を潤す雷雨を表すことから、豊作や吉祥の象徴とされています。ところが不思議なことに、中国の麺料理が入っている器に雷紋が施されたものはほとんどないのです。稀に中国のお店でも雷文の入ったどんぶりを見かけますが、これは日本から逆輸入されたものです。日本に中国の拉麺が伝わったのは明治はじめで、大正期にどんどん店舗が増えてきました。当時、日本に中国食器を輸入してたのは主にイギリス人の商人でした。彼らのイメージする中国は赤い雷文だったので、その模様をあしらったどんぶりを作って、日本に売り込んだところ人気を博したのですね。それが、日本でラーメンどんぶりを作るときにも雷文をあしらって、どんどん普及したので雷文模様のどんぶりが増えたと云うのが真相。別の説もあります。東京西浅草の「かっぱ橋道具街通り」で、1909年(明治42年)から業務用陶磁器の専門店を続けてる老舗「小松屋」。大正末期にこの店の2代目店主が、中国で縁起の良い雷紋の模様をラーメンの丼に入れることを思いついた。それが中華料理店などの人気を集めて、ラーメン丼の模様の定番となったと云うもの。どっちが真相か分かりませんが、どっちにしても雷文の入ったラーメンどんぶりは日本独自の器と云えます。もっとも日本ではラーメン普及のはるか前、室町時代から「家紋」として雷文が使われてました。そのバリエーションは48種にも及びます。ラーメンのどんぶりには雷紋以外にも、「喜」がふたつ並ぶ双喜模様や高貴の象徴である龍や鳳凰の模様など、とにかくラーメンどんぶりは縁起のよい中国模様がよく使われてます。「双喜模様」は「喜」がふたつ並んでるので新郎新婦が並んで喜んでいる姿、おめでたい意味があります。「龍」は中国では天帝の使者として崇められており、かつては皇帝しか使えない紋章でした。「鳳凰」は中国では幸運を招く空想の鳥で皇后の紋章です。現代はこんな模様の器が使われることは少なくなってますね。今は無地か店の屋号を入れたものが多いですが、どんぶりに屋号を入れることによって、SNSにUPされた場合、同時に店の屋号も拡散されるメリットがあるため増えてます。しかし逆に雷紋や双喜模様が中華料理や昔ながらの中華そばを連想させるため、レトロテイストの演出として使われることもあります。先日「あこがれだったニコンF」と云うタイトルで投稿したブログで述べた「地雷を踏んだらサヨウナラ」の戦場カメラマン 一ノ瀬泰造。彼はベトナム戦争時、ポル・ポトが支配するカンボジアに侵入し、捕らえられて殺害されたと述べました。1973年のことです。その一ノ瀬泰造のお墓がカンボジアの田舎にあるんですね。アンコールワットで有名なシェムリアップ郊外です。お墓はシェムリアップから北東18km 、バンテアイ・スレイ寺院に行く途中にあります。一ノ瀬泰造はお墓のある場所から少し離れたブラダック村で、クメール・ルージュに殺害されました。そして泰造の遺体が発見された1982年に両親が村を訪れ遺体を確認したとき、ひとりのカンボジア人女性が両親のお世話をしました。その娘の夫が泰造のお墓を作り、娘が墓守をしてくれてるのです。このお墓を訪れる日本人は1ヶ月に5人~10人らしいから、結構な割合でこんな辺鄙なとこまで訪れる日本人が多いのですね。
Mar 5, 2026
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1897年に発表されたH.G.ウェルズの小説「透明人間」は、薬を飲んで透明人間になることに成功した傲慢な科学者が元に戻ろうとして起こす騒動を描いたSF小説です。この物語の透明人間は、生物を構成する物体の屈折率を空気と同等にすることで、肉眼には見えなくさせると云うものですね。タバコを吸えば、煙が気管を通るのが見えますから、肉体が変化して空気と屈折率が等しくなった状態なんですな。そのウェルズの小説を映画化したのが1933年の「透明人間」です。この映画で透明人間こと科学者のグリフィン博士を演じたのは、当初フランケンシュタイン役で有名なボリス・カーロフが演じる予定だったのが、代役として出演したクロード・レインズ。しかし役が透明人間だから、レインズの顔はスクリーンには出てこない。それでもこの映画が大当たりして、これによってレインズの名も一躍有名となったのです。後にハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが主演した映画「カサブランカ」で要領のいい粋な警察署長役をやり、アカデミー助演男優賞にノミネートされました。透明人間でないにせよ、それに類するものは伝承にも見られ、古くから憧れであり得たことが分かります。例えばアイヌの伝承に登場するフキの葉の下に住むとされる小人コロポックルや天狗は目に見えなくなることが出来て、それは隠れ蓑というものを利用しています。これを奪えば姿が現れるし、人間がこれを被れば透明人間になれるのですね。狂言の「居杭」では「隠れ頭巾」を被ることで姿を消すことができます。男性の本音だったら透明人間になって、温泉の女湯を覗いてみたい?(笑)しかしH.G.ウェルズの小説「透明人間」には重大な欠陥があります。それは衣服は透明にならないので、真冬でも素っ裸でいなきゃならないことと、食べ物や飲み物を摂ると、それらは透明ではないので食道から胃、そして小腸、大腸と流れてウ◯コやオシッコになって対外に出るまでずっと見えてると云うこと。もっと重大な根本的な欠陥があります。透明人間になると云うことは、身体が全部、空気と同じ屈折率になるってことです。もし身体全体が水と同じ屈折率だったら、水の屈折率は空気の屈折率よりずっと大きいので、水のような透明人間はしっかり人間の形をした水に見えてしまいます。ホントウに全く見えない透明人間になるためには、屈折率が空気と同じでなければならないのです。人間は眼の中に凸レンズの働きをしてる水晶体をもってます。水晶体はクリスタリンと云う透明なタンパク質でできてます。この水晶体の屈折率は、水よりわずかに大きいだけです。角膜やガラス体は水と同じ屈折率です。空気中を進んできた光は、水晶体で屈折して、網膜の上の細胞に像をつくります。網膜でつくられた像は、光を吸収して明るさの信号と色の信号を脳に伝えるのです。ところが透明人間みたいに、水晶体などが空気と同じ屈折率になったら、光はそのまま水晶体も網膜の部分も通り過ぎるだけになってしまいます。つまり物から目に入った光は、どんな物も目で認識できないワケです。これはどう云うことかと云うと、つまり盲人と同じだと云うこと。こうなると、お腹が空いても、どこに食べ物があるか分かりません。誰かが食べ物をあげようにも、相手は透明人間ですから見えない。つまり介護のしようが無いと云うこと。ナマズの仲間でトランスルーセントグラスキャットフィッシュと云う長ったらしい名前の魚がいます。俗名「ガラスナマズ」の通り、体全体が透けてる魚です。しかしガラスナマズだって目を含む頭部は透明ではなくチャンと見えてます。こっちの方が透明人間よりも実情に即してるのですね。となると別の疑問が頭をもたげてきます。もし魚の水晶体が水に近い屈折率だと、水の中で物のかたちを認識するのは難しいのではないか?だって透明人間の水晶体が空気と同じ屈折率だから他人から目そのものも見えない代わりに、盲目になるのと同じですから。答えは...魚の水晶体は球形で屈折率が人間と比べてずっと大きいのです。イカの水晶体も球形に近い形してます。煮魚を食べるときに目の辺りを見ると丸い形してるのが分かりますね。さらに人間の目と魚の目ではピントの合わせ方も違います。私たちは水晶体を厚くしたり薄くしたりしてピントを合わせますが、魚は球体の水晶体のまま、水晶体の位置を前後させてピント合わせをしてるのです。球形のレンズは、端の方が屈折率が大きくなり、像のピントが合いにくくなります。ところが魚の水晶体は、中心から端に行くほど屈折率を小さくする材質でできてます。そのようにして像のゆがみを小さくしてるのですね。小説「透明人間」の原作者H.G.ウェルズも透明人間の矛盾は理解していて「実はあの物語には、すべてを不可能にしてしまうもっと大きな問題点がある。いくらかでも水晶体を変化させてしまえば、像を結ぶ反射板たる網膜などの機能が働かなって盲目になる」と語ってます。
Mar 4, 2026
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1999年に浅野忠信が主演した映画で「地雷を踏んだらサヨウナラ」と云うのがあります。物語の主人公は実在したフリーランスの戦争カメラマン"一ノ瀬泰造"。一ノ瀬はベトナム戦争やカンボジア内戦を取材してワシントン・ポストなどに採用された報道写真家なんですね。1973年になって、アンコール・ワット単独での一番乗りを目指してカンボジア入りします。出発前に友人に「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」と手紙を残して。そして単身アンコール・ワットへ潜入後、消息を絶ったのです。一ノ瀬が消息を絶って9年後の1982年、アンコールワット北東部のプラダック村で一ノ瀬の遺体が発見されました。遺体が一ノ瀬のものかどうか両親が現地へ赴き確認。その後、カンボジアを統治したポル・ポト指導の極左武装勢力「クメール・ルージュ」に捕らえられ、1973年中に処刑されていたことが判明しました。享年26歳。以前、ヨメとベトナムのホーチミンに行ったとき「戦争証跡博物館」を訪れました。戦争証跡博物館はベトナム戦争の悲惨な現実を伝える約2万点の写真や遺物を展示する博物館です。その博物館の一角に一ノ瀬がベトナム取材中の1972年に被弾した黒の「ニコンF」カメラの写真とともに、一ノ瀬を紹介するパネルが展示されてました。現在、このニコンFは東京・品川にあるニコンミュージアムに展示されてます。 ニコンFは、ニコンが最初に開発した35mm フィルム一眼レフカメラで、最初の発売は1959年とメチャ古いカメラです。このカメラが1960年代から多くの報道カメラマンや戦場カメラマンに愛用され。1964年の東京オリンピックやベトナム戦争などで使用されました。さらにアポロ15号などNASAの宇宙開発にも採用され、世界中のカメラマンが使ったカメラと云っても過言でありません。このカメラからニコンFマウントが採用され、レンズ交換が可能になったのですね。当時のことですから、オートフォーカスなんて有りません。カメラマンがしっかりファインダーでピント合わせして撮るカメラです。ニコンFは、シャッター幕に世界初の"チタン"が使われてました。シャッター幕は、フイルム直前にある光を遮断・通過させる薄い羽根のようなもので、フイルム時代カメラの最重要部分です。ニコンFマウントは長くて重い望遠レンズでも耐える頑丈な構造をしてて、現在のニコン製デジタルカメラにも採用つづけられてます。ニコンFで唯一不評だったのがシャッターボタンの位置です。今のニコンのデジカメなんかはカメラを構えて上部右側、前方に配置されてますが、ニコンFのシャッターボタンは、(フイルム)巻き上げレバーのすぐ近く後方に配置されてます。そのシャッターボタンの周囲を巻き戻し切り替えリング(A-Rリング)が囲んでおり、シャッターが若干押しづらいんですね。これは同時期に開発されたレンジファインダーカメラのフラッグシップ「ニコンSP」の構造を踏襲したからなんです。このニコンFを現在メンテするとなると、最も厄介なのが、この時代「+(プラス)」ネジではなく「-(マイナス)」ネジが使われてることです。当時はまだプラスのネジが一般的でなかったので、マイナスを使ってるのですが、メンテで分解するとなるとマイナス・ドライバーが横滑りしやすい。機材にキズをつけたり、ネジ山を潰してしまう恐れがあるのです。しかも小さいネジになると長さが1mm くらいしかありません。しかしニコンFのネジは鉄製で、非常に堅牢なんですね。現在のカメラはプラネジが多いのですが、ニコンFは全金属カメラなのでカメラ本体も非常に堅牢で耐久性に優れてるんですね。ぢゃあ今でもニコンFをメンテするところがあるのかと云うと、ニコンカメラ修理技術認定店が東京にあります。ニコンの指定店です。ここではニコンで使われてたシャッタースピード測定機なんかが導入されてて、非常に精度の高いメンテができます。レンズに付着したカビやホコリもレンズを分解して掃除してくれます。ニコンFは私の憧れでしたねぇ。なんと云っても、あの特徴的なシャッター音は何にも代えがたい。しかし、写真を始めたのが高校のときだったので、とても買える余裕なんて無い。結局、35mm のニコンFではなく、6×6の大きなフィルムを使うマミヤのレンズ交換式二眼レフ「マミヤC3」とセコニックのプロ用露出計「スタジオデラックス」を買ってしまいました。露出計スタジオデラックスは当時の映画撮影現場では必ず使用されてた高性能機器で、今でも売られてます。フイルムカメラを愛用する人は数こそ少ないとは云え居るものです。そんな人の悩みの種はフィルムの入手困難と、例え入手できてもフイルム代がバカ高いこと。今は、こんな35mm フイルムカメラをデジタルカメラに変貌させる機器も売ってます。フイルムカメラで標準のフィルムを背面から装填する仕様のカメラだったらどんなカメラにも適合する機器です。商品名は「I'm Back Film」。フィルムカメラのフィルム装填部にそのままイメージセンサーを嵌めることで、デジタルで撮影できるようにするためのデバイスです。イメージセンサーのコントロール部分は、実際のフイルムそっくりのケースに装填されており、まったくカメラにフイルムを装填する要領でセットできます。このセンサーを駆動する7.4Vバッテリーやmicro SDカードスロット、データ転送が行なえる無線LANなどはカメラ底部の三脚穴に取り付ける外付けユニットを使用します。外付けユニットの形状は、フイルム一眼のモータードライブ部のようです。しかし、フイルムカメラ愛好家と云うのは、フイルム独特の味に魅力感じてるのに、カメラをデジにしたのではまったく魅力が削がれてしまうと思うのですが、ど~なんでしょうね。
Mar 3, 2026
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もう久しくクラシック音楽を聞いてません。なんせ最後に聞いたのはフランシス・コッポラ監督で、マーロン・ブランドとマーティン・シーンが主演した映画「地獄の黙示録」で「空の騎兵隊」と呼ばれてる第1騎兵師団がベトコン村をヘリコプターで強襲するとき、司令官ヘリコプターに搭載されたオーディオでワーグナーの「ワルキューレの騎行」を流したシーン以来です。映画のサウンドトラックですから、これを聞いたと云えるのか?この映画の上映は1979年ですから、昔も昔。それ以来クラシックは、YouTube でチョコッと聞きかじりするくらい。手元に残ってるレコード調べたらブラームスやラヴェル、ベルリオーズなど有名どこが何枚か出てきましたが全くの手つかずです。クラシックを聞かなくなった理由のひとつは長い楽曲が多いことですね。オーストリアの作曲家ブルックナーの交響曲には同じ作品に複数の異なる版が存在します。その背景は、ブルックナー自身による改訂です。ブルックナーは作品を完成させてからも、さまざまな理由で手を加えることが多かったのですね。さらにブルックナーの作品は出版されるに際し、弟子たちの手が加わることも多かったのです。加えてウィーン音楽大学内に設置された国際ブルックナー協会による原典版校訂作業を、当初オーストリアの音楽学者ローベルト・ハースが行っていたのですが、戦後は、やはりオーストリアの音楽学者ノヴァークに変わったことで、「ハース版」と「ノヴァーク版」2種類の原典版が存在することになったのです。そのブルックナーの「交響曲第7番」の「ノヴァーク版」ではシンバルがたった一回だけ登場します。第2楽章(アダージョ)のコーダ直前、静かに始まった曲の盛り上がりが最高潮に達したクライマックスの1ヶ所のみで使用されるのです。ハ長調の頂点で1回鳴らされ、その重厚な効果がこの作品の最大の見所のひとつになってます。シンバルの登場はこの1回かぎりです。同じくクラシックでチェコの作曲家と云えば、モルダウ川をテーマにした有名な交響詩「モルダウ」のスメタナと、ブラームスに才能を見いだされ「スラヴ舞曲集」で一躍人気作曲家となったドヴォルザークですね。ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーです。彼の交響曲第9番「新世界より」の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌「家路」として親しまれるとともに、私ら子供ころは学校で夕方の時刻を知らせるメロディーとして使われてました。「新世界より」の演奏時間は45分間ほどですが、その中でシンバルは最終楽章の中程で、1回だけ鳴らされます。クライマックスでもなく、ごく小さな音で地味に、しかし鋭く1回だけ。その一音は、楽曲全体の色彩を変える非常に重要かつ印象的な役割を担っており、奏者には極限の緊張と技術が求められるのです。このシンバル演奏は派手な演出ではなく、静寂の中で鋭いアクセントを付けることで、楽曲の緊張感を一瞬で最高潮に引き上げる効果を担ってますが、音は大きくなく、むしろ鋭く小さく立ち上げられるため、シンバル奏者にとっては非常に難易度が高い一音なんですね。ブルックナーのように気持ちよくシンバルを打ち鳴らすわけでなく、「メゾ・フォルテ」と云うなんとも「煮え切らない」ダイナミクスの指示があるのです。この「たった一音のシンバル」は、新世界からの郷愁やドラマ性を引き立てる隠れた名シーンとして知られています。打楽器は後期ロマン派以降の近現代の作品においては多用され「出番」も多いですが、それ以前の打楽器の出番は「楽器の王」と言われるティンパニを除いては極端に少なかったのですね。ところで日本のクラシックオーケストラ楽団員の年収ってどれくらいと思われます?NHK交響楽団は平均年収が1,000万円に達するし、読売日本交響楽団や東京都交響楽団も700万円台以上を維持してます。しかし地方の楽団や若手では300万円~400万円程度、もしくはそれ以下も存在し、平均的な生活レベルの維持が厳しいケースもあります。こうした収入の少ない楽団員は音楽教室の講師、他楽団のエキストラ、ソロ活動などで収入を補うケースが一般的なんですね。先程ご紹介したドヴォルザークの交響曲第9番だと演奏に約80名のオーケストラ楽団員を必要とします。プロオーケストラの場合、その楽曲で一音だけを奏でるシンバル奏者も、一曲で数千の音を奏でるヴァイオリン奏者も給料は同じなんです。それに苦言を呈する楽団員はいません。なぜならそれぞれの専門性に対して、相互にリスペクトがあるからです。プロの技量は他に代えがたいものであり、シンバルで短く鋭く小さな音を立ち上げることの難しさ、その一音を奏でるための極限の緊張を知っているからです。演奏者の多い楽器であれば多少のミスも目立ちませんが、ドヴォルザークの交響曲第9番みたいな曲のシンバルは誤魔化しがきかない。あまりにも有名な曲だけに、耳の肥えた聴衆を前にしたシンバル奏者のプレッシャーたるやそうとうなものになるのですね。クラシックの長い歴史では、このひと打ちに失敗し、信頼を失ってクビになった奏者もいるのです。
Mar 2, 2026
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私は胃ガンで2010年に胃の全摘手術しました。胃が無くなったので、食道から十二指腸にダイレクトに繋いだのですね。胃の全摘手術をした人は押並べて赤血球が健常者より少なくなります。私の場合はそれが異常で、頻繁に貧血を起こすのですね。それも相当ヒドくって、昨年は2回、突然意識を失って昏倒してしまいました。もうひとつの悩みは体重が全く増えないことです。身長172cm で60kg ありません。お医者さまは、この体格だと62~63kg が理想と云ってますが、ずっと57kg 後半前後です。手術して長いので、もう食べる量は手術前とほとんど変わらないと思うのですが、後は高齢になって絶対量が少なくなったのか。健康診断すると体脂肪率ゼロで、風呂上がりに自分の身体を鏡で見ると、ガイコツ?と思うほど痩せてます。やっぱ高齢者ほど適度にふっくらしてないと見栄えも悪いです。ところで、もし1kg の食事したら、食べる前と食べた後では体重はどうなるでしょう?・食物がお腹に入っただけだから、体重そのものは増えない。・食物はお腹に入ると消化されるから、1kg そのままは増えないけれど、何百グラムかは増える。・消化されようが、吸収されようが、それは全体重になり、ちょうど1kg 増える。さて、どれが正しいのでしょうかねぇ。これは簡単な実験やってみれば分かりますね。先ず体重を測ってから、大腸ガン検査みたいにジュースか何かを1kg グビグビ飲んで、再び体重計に乗ります。するとピタリと1kg 増えてるハズです。まぁ、当然ですね。それでは時間が経った後ではど~でしょうか。こうして体重の変化を調べた16世紀の学者がいます。イタリア人学者のサントリオ・サントロです。javascript:void(0)サントリオは検証のために、座席が付いていて座ったままで体重が測れる大きな天秤を設計して作りました。この装置では大便や小便の重さも測れます。その天秤の座席に1日中座って、食べたり飲んだり、大小便をしたんですね。その度に食べ物、飲み物、大小便、全ての重さを測りました。かなりクチャイ実験ですね(笑)食べたら食べた分だけ重さが増し、大小便をすればその分は減ります。ところが、1日に食べた量より、大小便で外に出した量は、ずっと少なかったのです。それなら、身体に取り入れた食べ物や飲み物の重さから、大小便の重さを引いた分だけ体重は増えてるハズです。ところが、1日経つと体重は前日とほぼ同じに戻ってたのですね。ぢゃあ、残りの重さはどこに消えてしまったのでしょうか?サントリオは、こう考えました。「おそらく、身体の中に取り入れた食べ物や飲み物の一部は、人間の目に見えない形で身体の外へ出ていってしまったのだ。だから、その分だけ体重の増加が少なかったのだ」と。人の目に見えず身体の外に出ていくモノは何か?それは皮膚の表面から蒸発する水分です。じっとしていても、1日あたり約1リットルの水が皮膚の表面から大気中に逃げ出してしまいます。それは重さで云えば、約1kg 。発汗や排尿がまったく無くても、成人では皮膚表面や呼吸気道から1日約900ミリリットルの水分蒸発があります。このような水分の蒸発は、尿や汗と違って感知されないので、「不感蒸散」と呼ばれてます。この不感蒸散を正確に測ったのがサントリオ・サントロなんですね。
Mar 1, 2026
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