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新しいDell のPCを購入してかなり経つから、すっかりこのPCで更新してたとお思いでしょうが、実はずっとヨメの休眠中のPCで更新してたのです。なぜかと云うと、新しいPCにデータだけ保存する記憶装置を増設しようとしたら、Dell の仕様で別途専用のブラケットを買わなきゃいけないのが判明したからです。私はメインの記憶装置(いわゆるCドライブ)にはWindows とアプリしか入れない考え方なんですね。データ用の記憶装置はSSD(ソリッドステートドライブ)と云って、従来のハードディスクより高速で、衝撃に強く、動作音がしない記憶装置を使ってるのですが、これがそのままでは取り付けられない。専用ブラケット無しでPCを設置してしまうと、ブラケットを入手したらまた全部のコードを引き抜いてPCカバーを開けて作業しなくちゃなりません。これでは面倒なので、ヨメのPCを使い続けて、その間Dell にブラケットの発注をしてたのですね。市販のサードパーティ製ではピッタリ合うのが無かったのです。それが昨日やっと届きました。データはどうしてたかと云うと、保存してるSSDの出力をUSBに変換するアダプターを使って、外付けで使い続けてたのですね。これでは速度が落ちますが、それでも内蔵ハードディスクより早い。で、きのうDell からブラケットが届きました。ブラケットと電源コード、データ用コードのセットです。Dell はPC内部の電源コネクタも独自仕様にしてるので、純正品でないと手作りしなきゃなりません。作って作れないことないけれど、万一結線ミスしたら、それでSSDはオジャンです。ここは安全みてすべて純正品で。これをDell PCに設置するのですが、手順はDell サイトにYouTube 動画が載ってたので簡単です。思案したのはこのSSDをそのまま使うか、別に用意してる外付けのハードディスクからディスクを取り出して、SSDと装換するかです。と、云うのはSSDは容量が500GBしかありません。ハードディスクの容量は16TBもありますから、実に32倍の容量差です。私ごときの作業では16TBもあれば、とても使い切れない容量なんですね。しかしSSDとハードディスクの読み出しスピード差は約5~7倍は違うのですね。このアドバンテージは大きすぎる。そこでSSDをPC内部に設置、ハードディスクは従来通りUSB経由の外付けで使うことにしました。今保存されてるデータの容量が250GBくらいなので、当分はこれで。実際、SSDのデータにアクセスしたら、これが爆速なんてものぢゃない。もしSSDが満杯になったら4TBくらいのSSDを買おうかと思ってますが、SSDで4TBと云うと15~20万円はしますから、おいそれと手がでない。当面はこのままで。と云うような具合でようやく新しいPCの環境が整って本格始動です。ディスプレイも2台繋いで快適になったし、やっとこさですね。結局、PC以外にグラフィックボードや画像編集ソフトなど5万円くらい余分に持ち出しなってしまいました。まぁ、この機会に使ってないアプリ整理したり、ドライバーの更新もおこなったので、これで良しですかね。
Apr 30, 2026
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先日、私のブログにmarnon1104さんが「昔、仙台から福島へ移り、家電が必要で不動産屋さんから電話の債権を苦労して買った事を「TOKYO 東京」の写真を見て思い出しました。50年近く前の話なのですけどね」とコメを残してくださいました。電話の債権、懐かしい名前ですね。1800年代以前に成人されてなかった方は全くご存知ないでしょうが、昔はNTTの前身の電電公社が電話回線拡充資金として加入者から強制的に借りた債券がありました。債権ですから、企業が借りる立場にあるのですが、これを昔は電話を引く人が強制的に設置費用とセットで購入させられてたのですね。まぁ、今の世代は固定電話そのものを設置してない方が多いので、NTTから徴収される費用なんてご存知ない方が大半でしょうけど。債権ですから「借用証書」が発行され、満期になると利子つきで返金可能です。ところが満期=自動返金ではなく、利用者が銀行で手続きしなくちゃなりません。この手続きを忘れてて時効になると換金できなくなるのですね。電信電話債券(加入者債券)が取り入れられたのは1953年(昭和28年)で、1983年(昭和58年)に終了しました。通常、債権の時効は10年なんですが、NTTが特例として2027年7月5日まで換金を受け付けているそうです。とは云っても、そんな昔の債権証書残して無い方が多いでしょう。公式なデータはありませんが、数十年にわたり放置されているものが多数存在してるそうです。しかし債権を強制的にって、なんだかNHKの受信料と同じで、民営化される前の事業主って利用者無視して有無を云わさずお金をまきあげることが多い。JRだって旧国鉄時代は駅員が威張りくさって利用客を乗せてやる感強かったし。いちど国鉄時代に窓口で切符買ったら、オツリを投げてよこして頭にきたことあります。今は役所でも利用者に丁寧で親切だし、これがアタリマエですよね。つきつめれば、みんなサービス業なんですから。「電話加入権」は電信電話債券と違って、今でも生きてます。NTTの電話回線を利用する権利で、新規設置時に支払う約4万円の費用のことを云います。設置費なので解約しても返金されませんが、光回線電話やフレッツ光のインターネット回線を使った電話が普及した今、ほとんどイミが無くなってますね。そもそもこの電話回線(メタル回線)は老朽化が激しく、2035年をメドに廃止にするらしい。うちもとっくにフレッツ光に切り替えました。しかし高齢者宅なんかではまだ引き続き使ってる方もいるでしょうが、これもガラケー(3G)が無くなったのと同じでいずれは対応しなくちゃならない。
Apr 29, 2026
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1967年に製作されたフランスのドキュメンタリー映画に「ベトナムから遠く離れて(Loin du Vietnam)」と云う作品があります。ホロコーストを告発したドキュメンタリー映画「夜と霧」でフランスを代表する映画監督として有名なアラン・レネや、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「男と女」やグルノーブルの冬季オリンピック記録映画「白い恋人たち」の監督クロード・ルルーシュ、ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ主演の「勝手にしやがれ」でヌーヴェルヴァーグの旗手と有名なジャン=リュック・ゴダールなど総勢6名の監督によるオムニバス映画です。作品は1965年に開始されたアメリカによる北ベトナムへの空爆(北爆)と、それに対する同年のアリス・ハーズ、ノーマン・モリソンらによるアメリカ国内での抗議の焼身自殺や、湧き上がる反戦運動を描いたものです。既存のニュースフィルムを除いて、ベトナム以外の各地で撮影された本作は1967年に完成して、世界中で多大な反響を得ました。その「ベトナムから遠く離れて」に参加した、たったひとりのアメリカ人監督がいます。その監督の名前は"ウィリアム・クライン"。クラインは数々のドキュメンタリー映画を製作してますが、むしろフォトグラファーとしての顔の方が有名です。最初は画家として作品展で早くから成功を収めたのですが、まもなく写真へと足場を移し、ヴォーグ誌のファッション写真家として世界的に評価されるようになりました。35mm フィルムカメラで当初の標準レンズは35mm レンズでした。人物と風景の距離感が自然で、スナップ撮影でもっとも好まれる焦点距離を持つレンズ。ライカなんかで永らく使われたレンズです。それがほどなく50mm レンズにとって代わられました。50mm レンズは人間の視野に最も近く、自然な遠近感で撮影でき被写体を明るく鮮明に描写できるので、ポートレートやスナップなど初心者におすすめのレンズとして君臨したのですね。ところがクラインが1954年に発表した写真集「ニューヨーク」では28mm レンズによる撮影をしてるのですね。28mm レンズは広角レンズの代表24mm レンズと準広角とも云える35mm レンズとの中間のレンズで、広範囲を撮影しつつ歪みが少なく、自然な奥行き感や臨場感を表現できるレンズなんです。広い視点で空間を切り取れるため、風景からスナップ、ストリート写真などに最適なレンズなんですね。しかしクラインが狙ったのは焦点距離の問題ではなく、どれくらい近づくか、どれくらい踏み込むか、引いたときは客観的でありながら、被写体に近づくと主観的な写真になることに着目しての選択だったのです。この作品でクラインはフランスで出版された写真集の中でいちばん優れたものに送られるナダール賞を受賞しました。クラインの作品は「当時はびこっていた写真の決まり事を一切の妥協なく拒絶したこと」そして「広角レンズ、自然光、モーションブラーの多岐にわたる使用により革命的」とみなされました。ニューヨーク・タイムズ紙のキャサリン・ノアは「クラインはストリート・フォトグラフィーの父の一人」とみなされると述べてます。普通にファッションフォトグラファーかと思ったら、ストリート写真ではものすごく踏み込んだ映像を残してますね。ブレやボケなど、従来の写真のタブーを気にせず狂気に満ちたニューヨークを大胆に表現。彼のスタイルは今なお多くの写真家に影響を与え続けてます。クラインは都市4部作として1964年(昭和39年)に「TOKYO 東京」と云う作品も残してます。高度経済成長に差し掛かり、東京オリンピックを3年後に控えた喧噪に沸く都市 東京の姿を鷲掴みにするカメラワーク作品です。クラインは2022年、パリで死去しました。享年96歳。
Apr 28, 2026
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日本料理は熱いものは熱く、冷たいものは冷たくしていただくのが基本ですね。同じように中華だって料理の熱さ冷たさには敏感です。ところがフランス料理のフルコースでふうふうしなければ食べられないとか、熱くて舌がヤケドしたって料理に当たったことない。イタリア料理だってそうです。彼らは料理の温度に鈍感なんかいな?本格的なフランス料理のフルコースとなると、食前酒とともに出されるオツマミみたいなアミューズブーシュから始まって、オードブルへと進み、そこからスープ、魚料理(ポワソン)とその後のシャーベット「ソルベ」を経て本番の肉料理(ヴィアンド)、サラダ、チーズ、デザートで最後にコーヒーと小菓子(カフェ・ブティフール)で終わりますね。全部を一緒にテーブルに並べれば食べやすいのにと思っても、一品ずつ順ぐりに。実はフランスの宮廷料理も最初は全品を一度にドバッと出してたらしい。ところがこれがロシアやドイツの宮廷に広まると、寒くてすぐに料理のさめるロシアなんかでドバッでは料理の味が損なわれてしまうんですね。それで1品ずつ順序だててサーブするようになった。これがフランスに逆輸入されて今のフランス料理提供の基本形になったのだとか。もちろんいくらフランスと云えども、一般家庭では一度にドバッです。だったら熱い料理は熱いままに提供できるでしょうにと思いますが、これってワザとやってるのですね。ぬるいのは、食材の香りと風味を最大限に引き出すための意図的な演出で、熱々よりも少し温度が下がった方がソースや食材の繊細な味を感じやすいためなんです。熱すぎる料理は味覚を麻痺させ、ワインとのペアリングを損なう要因にもなります。と云うワケで舌をヤケドしそうなタコ焼きみたいな下々の食べ物とは違うのですね(笑)そのためフランス料理には低温調理と云う手法が取り入れられてます。食材を50℃~80℃程度の一定温度でじっくり加熱し、旨味を逃さずしっとりとした食感に仕上げる技法ですね。特に肉や魚の旨味流失を最小限に抑える、食材を真空パックし湯煎で温度管理をして均一に火を入れる「真空調理」は70年代にフランスで発展し、焼く、煮る、蒸すに次ぐ第4の調理法として、フォアグラのテリーヌや鴨のコンフィなどでよく使われてます。また鴨や鶏などに用いられる75℃前後の低温のオイルで食材をじっくりと煮る「コンフィ」やサーモンやフォアグラなどで中心部まで完全に火を通さない調理法「ミキュイ」もよく用いられてます。ただ63℃~68℃以下での長時間調理は食中毒のリスクがあるので、外食するにしても厨房の衛生状態が気になるとこですが、こればっかしは事前確認しようが無いのでお店の評判を調べるしかない。フランス料理がぬるい理由はもうひとつ有ります。宮廷の広い敷地内の厨房とダイニングルームの距離が離れていたので、そもそも熱々で提供する文化が育たなかったためです。それとともにフランス人は熱い食べ物が苦手で、苦味や辛味にも弱いとも云われてます。フランス料理は、日本人から見て「猫舌」のフランス人が好む温度で供されるため、ぬるいと感じてしまうのですね。
Apr 27, 2026
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ときどき府外の方から質問されるのですが、大坂の地名には「大阪」以外に「大坂」ってのが有るけどどう違うの?答えはどっちも大阪のことを指しますが、「大坂」は江戸時代の表記のしかた、明治に入ってからは「大阪」なんです。以前にも述べましたが、大阪人が行かない大坂の代表「道頓堀」とりわけ「グリコ看板前」と「大阪城」。どっちも外国人観光客の巣で歩行もままならないし、ボッタクリのお店も多い。昔から大阪城でたこ焼き店を出してる「わなか」12個盛りの「天守閣盛り」で1,100円くらいと記憶してるけど、特段美味しとは大阪人は思いません。観光客の少なかったころの大阪城はいい散歩コースでしたが、もう行かないですね。串カツや通天閣で有名な「新世界」も大衆演劇場があったりスマートボール場があったりと、いかにも下町でのんびりしてましたが、今はここも外国人観光客の巣。今では串カツ店や居酒屋なども東京資本や中国資本のお店が増えて、足が遠のいてる典型的な地です。梅田スカイビル屋上に設置されてる「空中庭園」、かつては大阪人のデートスポットでした。今は知られてるように外国人観光客のターゲット。まぁ、ここの入場料は2,000円で観光客目当ての施設としては良心的な設定かな?バンコクのマハナコーンビル最上階78階にあるガラス床の「マハナコーン・スカイウォーク」の入場料なんて、時間帯によって料金が違って、夕方だと約5,000円もしますからね。まぁ、どこの観光地もそうでしょうが、観光客で混雑する場所に行くの地元の人は躊躇します。それとともに観光客向けに営業形態を変えたとこはなおさらですね。その典型が「黒門市場」です。黒門市場と云うのはもともと安くて新鮮で大坂庶民の台所でした。ところがナンバに近いと云うこともあって外国人観光客が集中し始めると、たちまち営業形態を変えるお店が続出したのですね。それまで食べ歩きを意識した串ざしの料理とも云えない代物なんて無かったのに、これを扱うお店が軒を連ねる。そうなると地元の人の足は遠のく。ところがコロナで外国人観光客がこなくなるとこうしたお店は困り果てたのですね。そこで地元民がもう一度、黒門市場を立て直そうと再び利用し始めた。これで一旦は昔の黒門市場に戻ったのに...コロナ開けで、再び外国人観光客が増え始めると、それまで貢献してくれてた地元民を無視してまたぞろボッタクリ商売に転訛。今では外国人観光客の間でも黒門市場は高すぎると有名だし、中国語しかできない中国人店員のお店が増えた。なんせ天ぷらうどんが3,000円って世界ですよ~!車エビ1匹串に刺して焼いて4,000円です。常軌を逸してます。あんだけコロナで痛い目あって、それを地元民がカバーしてくれたのに忘恩もはなはだしい。いつまで日本ブームが続くか分からんのにねぇ。そこが観光業の弱みで、ホテルだって中国人団体客専門のホテルは中国政府の政策ひとつで悲鳴あげたぢゃないですか。アパ・ホテルを見習うべきです。そもそも都市ホテルはシーズン料金なんて無くて、年間を通じて同一料金だったのに、今やどこでもシーズン料金導入してますからねぇ。東京の品プリなんて、昔はロケーションがいいだけで"クソ"みたいなホテルだったのに、新幹線が停車するようになるとたちまち値上げですものね。観光客がこんなに来る前からめったに大阪人が行かないビルが黒門市場から近いとこにありました。「上海新天地」。このビルはまんま中国1階~3階は免税専門の家電量販店「ラオックスDUTY FREE 大阪」。4階は中華レストラン、5階を飛ばして6階はえたいの知れない中華雑貨専門店と中華食材店。エレベーターは3~4人乗ればすし詰め。食材店に2度ほど行きましたが、まったくどこから来たのか分からん中華の冷凍食品や乾物のオンパレード。中国系の客以外見かけたこと無いし、店員ももちろん中国人だけです。このビル前には中国人観光客を乗せたバスが我が物顔で路上駐車を繰り返していたのですが、2020年になってコロナの影響で訪日中国人観光客が減少すると耐えきれず閉鎖してしまいました。今はコンインパーキングと化してます。ぢゃあ大阪人はどこに行ってるのか?アウトドアだと太陽の塔がある万博記念公園とか箕面の大滝あたりでしょうね。万博記念公園にはミャクミャクも引っ越ししましたからねぇ。この万博記念公園内にある水族館や動物園と美術館を融合させた「NIFREL(ニフレル)」はお勧めです。水族館は「海遊館」がプロデュースしてます。ニフレルのキャッチフレーズは「生きているミュージアム」。ここに展示されてる生き物は、ワオキツネザルとかミニカバ、ホワイトタイガー、カピバラ、コツメカワウソなど種類は多くないけど、見せ方が楽しい。とくにご家族連れにお勧めの施設です。
Apr 26, 2026
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ブログの長いお友だちパパゴリラ!さんとこには"ゆり"ちゃんと云う紀州犬がいます。パパゴリラ!さんとこでは代替わりしても、ずっと紀州犬と大切に同居してきました。紀州犬は猪猟にかけては右に出る犬種はいないと云われるほど巧みなワンちゃんで、国の天然記念物です。パパゴリラ!さんとこの ゆりちゃんは一般的な白毛ですが、中には赤毛や胡麻毛の子もいるそうですね。紀州犬は読んで字のごとく紀州地方の山岳地帯が原産です。筋肉質でがっしりとした体型で、立ち耳、巻尾が特徴ですが、パパゴリラ!さんとこの ゆりちゃんは普通に垂れ下がってますね。性格は落ち着いていて、飼い主に忠実と云われてますが、飼い主以外には慣れにくい傾向にあるそうな。これは日本犬全体に云えることですね。日本犬と呼ばれるのは、紀州犬を含めて柴犬、秋田犬、四国犬、北海道犬、甲斐犬の6種類です。全員、国の天然記念物です。日本で年間に血統登録される日本犬は5万5,000頭ほどですが、圧倒的に多いのは柴犬で、日本犬中の約80%を占めると云われてます。そして紀州犬と四国犬がこれに次いでるのですね。日本犬と云うのは縄文時代から続くルーツを持ってて、忠実で勇敢な反面、自立心が高く、主人と認めた人にのみ従う1人1犬の気質があります。見知らぬ人には警戒心が強いとこなんて、にゃんこと同じですね。パパゴリラ!さんとこには別に らんちゃん、きりちゃん、せりちゃんとさんにんのにゃんこが同居してるので、実質にゃんこよにんと同じ(笑)どの日本犬ももともと狩猟犬だったため、身体能力が高く毎日の散歩は必須なんですな。最近は日本犬の魅力が海外にも発信されてて、海外人気もうなぎのぼり。特に、秋田犬、柴犬、北海道犬は世界的に高い人気を誇ります。とりわけ秋田犬は2009年の映画「HACHI 約束の犬(Hachi: A Dog's Tale)」の世界的大ヒットで知名度が高い。もちろん「忠犬ハチ公」の実話を下敷きにした映画ですね。アメリカや台湾、ロシアで秋田犬は昭和のころから人気が高く、特にロシアでは賢さと耐久力が評価されています。ヨーロッパでも近年、熱心なブリーダーによって日本から輸入して繁殖されていますね。中国では富裕層で人気のシンボルとなっています。秋田犬の日本国内登録頭数は年間約2,500~3,500頭程度ですが、イタリアだけで年間1,000頭を超えるなど、世界的な人気が急増しているのですね。アメリカやロシアでも飼育頭数は日本よりも多いのです。秋田犬とともに特に近年、世界的に人気が高まっているのが柴犬。特にフランスやヨーロッパ諸国では人気が急増しており、フランスでは血統書登録団体によると約1万2,000~1万3,000頭の柴犬が存在し、新規登録数も増え続けています。 他にはイタリアで900頭以上、さらにフィンランド、アメリカ、オーストラリアでも血統登録が確認されており、ヨーロッパや北米での人気が目立ちます。 柴犬が海外で強い人気を得てるのは、日本犬種の中では一番小さく、最もオオカミに近い犬種と云われてて、引き締まった体つきと無駄のないシルエットが魅力とか。さらに、見た目だけではなく性格も強く印象に残ります。海外では柴犬の気質を「鋭敏で、非常に警戒心が高い」とか「独立心があり、見知らぬ相手にはやや控えめでありながら、信頼した相手には忠実で愛情深い犬」と評してますね。この「愛想を振りまきすぎないのに、深くつながると濃い」という関係性は、海外の犬好きには新鮮に映りやすいのでしょう。それとともに海外の日本文化への関心度の高さが柴犬ブームを助長してるんですね。柴犬は「日本らしさを感じる犬」として見られてるのです。動物愛護法により野良猫、野良犬の保護が義務付けられているトルコではワンちゃんの飼育頭数は約138万頭ですが、にゃんこ飼育頭数は約466万頭とワンちゃんの頭数の約3倍もにゃんこが上回わってます。欧州の中で最も猫の飼育比率が高い国ですから、いくら親日国と云っても日本犬はそんなに居ないでしょうね。北海道犬ってのはアイヌの人たちに猟犬として飼育されていた犬種なんですね。縄文人が東北地方から北海道へ渡る際に同伴したマタギ犬がルーツとも云われて1869年に"アイヌ犬"と命名されたのち、1937年に"北海道犬"として国の天然記念物に指定されたのです。被毛はダブルコートで、胡麻、虎、赤、黒、黒褐色、白とバリエーションに富んだ毛色を持っているそうな。そうなと云うのは私は純粋な北海道犬と出会ったことないから。寒さに強く持久力があり、比較的原始的な姿に近いとされています。野性味が強く、怖いもの知らず。気性が荒く頑固な一面もありますが、辛抱強く飼い主に忠実なのは他の日本犬と同様なんですね。
Apr 25, 2026
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精進料理に「タヌキ汁」と云うのがありますね。コンニャクを入れた味噌汁で、昔、獣肉食が禁止されていた仏僧が凍りコンニャクをちぎり胡麻油で炒って味噌汁にしたところ、タヌキの肉を入れた味噌汁に味が似ていることからついた名前。と、云うことはタヌキの肉を入れたタヌキ汁もあったそうです(タヌキさん可哀想う)。ところが、タヌキの肉は固くて臭いため、日本各地にニオイ消すための方法が誕生しましたが、実際のところアナグマを使ったものが多かったそう。東京の両国にある獣肉料理店「ももんじや」には以前、豆腐、ゴボウ、ワケギにタヌキの小さな脂肪の塊が4粒ほど入った「狸汁」があったそうです。日本のタヌキは海外に生息するタヌキとは別の種類で、日本独特らしいですね。日本のタヌキは北海道のエゾタヌキと本州、四国、九州に生息するホンドタヌキの2種だけ。民話にでてくる「ムジナ(貉、狢)」ってのがいますが、アレはアナグマのことを指してます。しかし時代や地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの生き物をきっちり区別することなくまとめて指している場合もあるとか。タヌキってのは、長い剛毛と密生した柔毛の組み合わせで、湿地の茂みの中も自由に行動でき、水生昆虫や魚介類など水生動物も捕食する雑食性の生き物です。足の指の間の皮膜は、泥地の歩行や遊泳など水辺での活動を容易にしてるのですね。タヌキの「ため糞(ふん)」ってご存知ですか?タヌキってのは仲間同士で決まった場所にウ◯コするのです。だいたい1頭のタヌキで約10ヶ所のため糞場があって、ひと晩でそのうちの2~3ヶ所を使います。このため糞場、おっきいとこになると直径50cm 、高さ20cm ものウ◯コが積み上がってるそうです。ため糞をすることによって、臭いで仲間同士の情報交換に使ってるらしい。くちゃい情報交換ツールやなぁ(笑)都合の悪い時など、わざと寝たふりをしてやり過ごすことを「たぬき寝入り」と云いますね。これは猟師がテッポウを撃ったとき、銃声に驚いたタヌキが「擬死(死んだふり)」や気絶して動かなくなるとこから来てます。タヌキってのはとにかく臆病で、擬死は外敵から身を守るための反射的な防衛行動なんですな。そして猟師が獲物をしとめたと思って油断すると、その間に擬死が解けて逃げ去るのです。「タヌキ」って名前そのものが、この「たぬき寝入り」を「タマヌキ(魂の抜けた状態)」と呼んだのが語源なんです。ちなみにエゾタヌキもホンドタヌキも信楽焼のタヌキみたいにご立派なモンは持ってません。ごく普通の生き物のサイズです(笑)
Apr 24, 2026
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猫又って妖怪がいますね。山の中にいる猫又と、飼われているにゃんこが年老いて化けた猫又の2種類あります。吉田兼好が書いた「徒然草」には「奥山に猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに」と記されています。山にいる猫又は後世になるほど大型化して、1685年(貞享2年)の「新著聞集」に記されてる紀伊国の山中で捕えられた猫又は「イノシシほどの大きさ」とあり、1809年(文化6年)の「寓意草」で犬をくわえていたという猫又は「9尺5寸(約2.8m )」もの大きさだったらしい。前述の「徒然草」には山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると記されてます。つまり山にいる猫又は、もともと飼い猫だったのが猫又になり、山に移り住んだものだったのですね。猫又の特徴は尾が二股になること。猫又の「又」は、この尾が二股になってることから来てるのですね。越後国(新潟県)のある武家で、毎晩のように正体不明の火の玉が出没してました。大きさは手毬ほどで、床から高さ3寸(約9cm )ほどの中を漂っていたのですね。それが寝ている家人の部屋に入り込むこともあったと云います。火が現れるだけでなく、人がいないはずの部屋で物がひとりでに動いたり、夜に眠っていた者が、朝になると寝ている姿勢が正反対になっていたと云った奇妙な出来事も起こるようになったのです。そんなある日のこと、主人が庭に出ると、年老いた猫が頭に赤い布をかぶって立っているぢゃないですか。怪しんだ主人は、弓矢で猫を射落としました。主人が猫の死骸に近づくと、それは5尺(約1.5m )もの大きさで、尻尾が二股に分かれた怪猫だったのです。この怪猫の死後、それまで起きていた怪異は一切、起こることはなかったと云います。江戸時代は三味線の撥皮(ばちがわ)にオスのにゃんこの皮が用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌うのですね。このとき猫又が芸者の格好をしているのは、かつて芸者が「ネコ」と呼ばれたことと関連しているのです。そんな「猫又」を名前にした駅があるのご存知ですか?富山の黒部を走る黒部峡谷鉄道(黒部峡谷トロッコ列車)にその「猫又駅」があります。関電黒部川第2発電所(猫又発電所)の業務目的で造られた駅で、標高358m の作業員が寝泊まりする宿舎のある業務用の駅です。駅の名前「猫又」の由来は、その昔、猫に追われてきたネズミが「猫又駅」のそばにある「ねずみ返しの岩壁」に阻まれて登れずに引き返したため、それを追ってきた「猫も又」引き返したと云うことからこの名前がつけられました。つまり妖怪の猫又とは関係ない話なんですね。しかし宇奈月駅の改札を入ったところにある駅員さん手作りの猫又コーナーには例の尾が二股に裂けた猫又のフィギアが飾られてます。こっちの説明では昔、猫の妖怪が黒部峡谷に住んでいたと云う謂れを表現してるのですね。私は登山してたころ針ノ木岳から黒部ダムを見ましたが、立山には対面まで行ってもついに登らず終いだったんですよね。ヨメはトロッコ列車に乗る直前まで行ったのに、天候悪化で断念してます。なんか若いころ観た石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」ですっかり黒部ダムに魅せられたらしいですが、もはや今の体調、体力では夢のまた夢になってしまいました。
Apr 23, 2026
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私の住んでるエリアは特殊なとこで、背の高い土手に囲まれて、中に入るには唯一開いてるゲートで許可をもらって通らなければなりません。エリアが開発された当初は自家用車の通行が許可されず、そのためエリア内にはどこにも駐車スペースが無いのですね。うちの駐車場もこの土手の先、エリアをぐるっと囲むように設置されてる駐車場を利用してます。とは云え、エリア内にはスーパーや商業店舗があるので、商用車は乗り入れざるを得ないのですが、この商用車を停めるスペースもないのです。それでいきおい路駐だらけになってしまうのですが、このエリア全体は大坂市港湾局の所轄なので、いわば私道なんですね。なので、いくら路駐しても取り締まりの対象にならないのです。つまりエリア全体の設計段階で理想論が先行して、現実を直視しないバカな設計をやってしまったのですが、これが役人の仕事なんですな。そんな中途半端な道路設計なので、ここに住んでる人の多くは一般的な交通ルールを守ってないこと多いです。歩行者もチャリも横断歩道どころか、ところかまわず横断するし、今月から厳しくなったチャリの罰則規定もどこ吹く風。いまだにスマホのながら走行もするし、ふたり乗りを見ることも頻繁。警察も定期的に見回ってますが、違反者を見つけても注意するにとどまってます。私が若いころ、このエリアは理想的な居住エリアと呼ばれてたのです。町全体が桜と銀杏に覆われ、人工の川が流れ、災害時の貯水タンクも公園の敷地全体の地下に設置されてて、ゴミはダスターシュートに落とすと、空気輸送で遠く離れた焼却場まで自動で運ばれる。ところが居住民の高齢化とともに、大坂市のメンテナンスも滞り、先ずゴミの空気輸送が施設の老朽化で廃止になり、今では吸い込みポンプのついたゴミ回収車がマンション1軒1軒を周って個別に吸引回収してる。美しかった公園は雑草ボウボウとなり、加えて樹木のメンテをやってなかったことが影響して、2018年に大坂を襲った台風18号で桜の2/3が倒れてしまいました。人工の川もメンテ費用がかかると埋め立てられ、まったく当初の見る影もない。ネットでは「都会の限界集落」と取り上げられる有様。毎度の役人による長いスパンで見る姿勢の欠如がそのまま現れてしまったエリアになってしまったのですね。そんな地区ですから、とりわけ急激に増加した高齢者(私もですが)の交通マナーのひどさは群を抜いてるのですね。数多くの歩行者が杖代わりの買い物キャリーを曳いてたり、電動車イスに乗って移動してるのですが、歩道を歩くのも人の流れをまったく無視して、自分が歩きたい側を歩く。それで対向する人たちが避けなきゃならなくても、そんなことは預かり知らぬ。横断歩道もなんのその、自分が渡りたいと思ったら、そこが自分専用の横断歩道です。それでよく目にするのが、横断歩道がスグ横にあるのに、高齢者が路駐してるトラックの直前を平気で横断してることです。高いトラックの運転席からでは直前を歩行してる、それも腰が曲がって背の低くなった高齢者なんて見えないのに。路駐車がなくても有っても、左右確認なんてしてるとこ見たこと無い。もう見ていて「ゾッ」としますね。車は止まるものだと思い込んでる。運転者からしたら、これほど危険で迷惑なことはありません。これは私が住んでる地区だけでなく、日本全国どこでも起こってることですね。そしたら医学博士 平松類の著作「老人の取扱説明書」にこんなこと書いてました。信号が赤に変わったのに、ゆっくり渡ってる高齢者のこと。みなさんも見かけたことあるでしょう。私は信号が変わりそうだったら、例え今、青でも渡るの控えて、信号が赤になって再び青になるまで待ちます。脚に人工関節入れてるので、健常者より歩くのが遅いからです。横断歩道が10m だと10秒程度+αで青点灯か点滅になるので、待ってもそんな長い時間ぢゃない。ときには信号がとっくに赤に変わってても、平気で横断しようとする高齢者もいる。アメリカでは信号が青のあいだに横断歩道に入って、信号が点滅中に歩いて渡りきれるよう時間設定されてます。イギリスでは方式にもよりますが、横断歩道の歩行者がいなくなったことを感知して信号が変わるので安全です。日本の信号は青が点滅したら走って渡るか戻るようになってるので、高齢者にはたいへん不便です。その上、日本の信号を渡るのはおよそ1秒で1m 歩くと云う前提で作られてます。しかし85歳を超えると男性は0.7m 、女性は0.6m しか歩けないのです。理由としては、歩幅が小さくなることがひとつです。歩幅を大きくすると速く歩けますが、体重の上下動が大きくなり不安定で転倒しやすくなるんですね。それなのに「遅っせえなぁ!」「さっさと歩け!」と云われるのは可哀想な気しませんか?高齢者としてはできるかぎり、信号が青でも途中で渡り始めず、いったん赤になって再び青になるまで待って、青に変わったばかりのときから渡り始めることで、赤に変わる前に渡り切る可能性を高めることができますと述べてます。つまり私の渡り方が正しかったってこと。シルバーカー(例の買い物兼用キャリー)を使うと、普通に歩いたり杖をついて歩くより歩行スピードが18%早くなるらしい。歩いてるときに重心が安定するのと、車輪なのでエネルギーロスが少ないからです。さて次はもっとも悩ましい問題です。信号を渡るとき、高齢者がどこを見ているかご存知ですか。高齢者は信号をあまり見てません。転ばないようにと足元を見ているのです。その上、腰も曲がってるので信号を見上げるのは一苦労なんです。さらに瞼(まぶた)まで下がってます。見える範囲(視野)の上の方が見えにくくなってるので、信号も見なくなります。瞼が下がって上が30度くらいしか見えないと信号機は7m 離れないと見えず、20度になってくると10.5m 離れないと見れません。なのでちいさな交差点では信号との距離が近くなり、黄や赤信号を見逃すのですね。もし家族が食器など普段よく使うものを上に置かなくなったら、瞼が下がってるか疑ってみてください。実際に高齢者の瞼を持ち上げてみましょう。瞼が下がってれば「あっ!見やすい」と云うハズです。瞼が下がってきて、上が見にくく信号を見逃してしまうと云うのは歩行者だけの問題ではありません。そう高齢者の運転でもです。瞼のさがりをケアしておかないと、赤信号を無視して突っ込んでしまうかも知れません。瞼が下がる眼瞼下垂と云う病気は眼科で手術することによって治療できます。実はきのう散歩しててゾッとする経験しました。横断歩道の信号が青になったの確かめてから渡り始めたら、対面からチャリに乗ったオバアチャン。そこに大型トラックが右折しようと迫ってきたのです。そしたら件のチャリ・バアチャン、トラックの正面直近で転倒してしまったのです。私はあわててトラックの運転手に合図して、バアチャンのとこに駆けつけ助けたのですが、私の歩行が遅いのでバアチャンが見えてなかったらトラックは先に通り過ぎてたかも知れません。なにしろ運転席は私が歩行してた側でしたからね。聞いたら、信号が変わってしばらくたってたので、あわててチャリをこぎ始めたら転倒したとのこと。これですよ、高齢者になるほどムリや慌てることは禁物って。と~ぜんのごとく、このバアチャンはヘルメットも被ってませんでした。
Apr 22, 2026
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今回、新しく買ったPCに古いPCから設定を始め、アプリやファイルを移行するのに「データ移行ソフト」を購入して使いました。既に述べた通り使ったデータ移行ソフトは「ファイナルパソコン引越し」と云うWindows 11対応版です。この手のソフトを使うメリットは、先ず手作業でソフトのダウンロードやインストールにかかっていた時間が不要になることと、ひとつひとつのデータを個別に移行させるために必要だった手間が激減できることです。特に設定の移行ができることは、大きいアドバンテージです。さらに「ファイナルパソコン引越し」は移行元と移行先のドライブ名の違いやデータの格納場所などを自動的に判別して移行してくれると同時に、自分で移行不要なアプリを選択できることですね。ただしこうしたデータ移行ソフトを使っても移行できないアプリがあります。アプリケーションによっては、引越し後にうまく作動しない場合があるのです。こうしたアプリは引っ越しリストから外し、引越し作業後にインストールし直す必要があります。だったらデータ移行ソフトの価値ないぢゃん!と思われるかも知れませんが、こうした移行できないアプリの多くはPCのハードウェアに依存してるので仕方ないんです。その筆頭がNorton やマカフィー、ウィルスバスターなどウィルス駆除系セキュリティソフトです。そもそも、こうしたセキュリティソフトが新旧PCで稼働してるだけで、引っ越し作業そのものができません。セキュリティソフトが引っ越しソフトのアプローチを危険な侵入と思い込んで排除するからです。どのみちセキュリティソフトは、システムに依存する情報が多いため、新しいPCでインストールしなおす必要があるんですね。それとGoogle 変換(日本語入力)とかATOKとか日本語変換ソフトは、システムに依存するため移行しても正しく動作しません。会社で使用してる会計ソフトなども、クラウド(インターネット経由で必要な時に必要な分だけサーバーや機能を利用する仕組み)を使ってるので、外部に相手方のある場合は作動しません。また「Windows ストア」から仕入れたアプリを使ってる方も多いと思いますが、特殊な方法でインストールされているため、移行してもアプリケーションとして判定できません。他にもあるのですが、著作権保護機能を扱うアプリとか、外部との連携で成り立つアプリ、機種依存するアプリは全て別にインストールし直す必要があるのです。よく「データ移行ソフト」を使ったのに引っ越しできないアプリがあると云う声があるのは、こうした考えたらアタリマエのことを理解してない方が多いのですね。それと「データ移行ソフト」そのものが弾かれてうまく動作しないと云う方は、セキュリティソフトを立ち上がったまま移行しようとするからです。セキュリティソフトと云うのは何もNorton やマカフィーだけでは有りません。Windows に標準装備されてる「Windows Defender」も新旧PC両方とも動作をストップする必要があります。そうすると移行終了までPCは外部に対して極めて脆弱になりますね。データ移行ソフトのデータをLAN経由で移行するのはとても危険です。どっちのPCもLANケーブルを取り外して、USBケーブルか私が行ったLANクロスケーブルで新旧PCを直接繋ぐのがのぞましいです。LANケーブルを取り外しても、WiFiでPCが繋がってることがあるのでここも注意ですね。もちろん引越しが完了したら、セキュリティソフトとファイアウォール設定を元に戻しておかないといけません。OneDriveやGoogleDrive などPCがクラウドストレージに同期するように設定されていると、古いPCから転送されたファイルもクラウドストレージに送信され、ファイルが重複したり、クラウドストレージの使用量が増えることになります。この現象を避けるためにクラウドストレージの同期を無効にしてから引越ししなくてはなりません。同様にDropbox も停止した方がいいけれど、私はDropbox は百害あって一利無しなのでインストールそのものをしてません。なにしろ無料で使えるのは2GBしかなく、満杯になると有料プランにせよと頻繁にメッセージが来てうるさい。それだったらGoogleDrive の15GB無料ストレージスペース提供の方がマシです。こう書くとなんかややっこしくって面倒だと感じられるでしょうが、実際にやってみるとそんな手間かかるものではありません。要するにポイントを掴んで、順番に対処すれば数分で済むことです。それで私の移行は当初2時間かかると見積もられてましたが、実際には3時間以上かかってしまいました。なにしろLAN経由ですからねぇ。USB3.0で移行すればもっと早く済むでしょう。移行成功率は80%くらいかな?やっぱ認証が必要なアプリほど移行できなかったです。だけどメール設定や各ウエブサイトのログイン情報、お気に入りがそのまま移行できたのは大きいです。移行が完了したら、新旧PCを繋いでるLANケーブルを取り外して、セキュリティソフトをもとに戻します。そして両PCのネット環境を復旧したら作業終わり。後は移行したアプリが正しく起動するかひとつひとつ確認するだけです。表面上は移行できたと思っても、起動しないアプリもあって、それは一旦削除して新規インストールするワケです。おっと云い忘れてました!移行前に旧PCのCドライブは一時ファイルやシステムゴミ、ダウンロードした不要なファイルなどを削除してクリーンアップしておかないとゴミまで一緒に移行してしまいます。「設定」の「ディスククリーンアップ」できれいにしてから移行を始めてくださいね。なかなか2台のPCでシステムを移行するなんて経験される方は少ないでしょう。たいてい新しいPCを導入したら、一から設定やり直して、アプリの再インストールをする。ところがデータ移行ソフトを使うとその手間が激減します。使うにあたって敷居が高いように感じられるかも知れませんが、ほとんどの作業は移行ソフトが勝手にやってくれるので、移行前のポイントさえ押さえておけばダイジョウブです。データ移行ソフトが使えるのは1回きりです。移行が終了するとソフトそのものが使用できなくなります。永久に同じPCを使い続けられるワケはないので、ご参考までにこの記事を書かせていただきました。
Apr 21, 2026
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私はひとり旅行でお土産をほとんど買ったことがありません。現地に知り合いが居れば、こちらから何か買っていくことはあっても、旅行先で買わないのは何よりお土産選んでる時間がもったいないからです。それで家族も文句云わないし。ところがヨメと行ったら、お土産買いにわざわざ海外に来たの?と思うくらいショッピングセンターや土産物店につきあわされる。去年、夫婦でバンコクに行ったときは帰国直前にタイの出発ロビーにあるデューティフリーショプに行ったまま帰ってこない。それでやっと帰ってきたと思ったら「ゴディバ」のチョコレートを山盛り!ゴディバなんて大坂でも買えるのに...いったい何しに旅行行ったのやら...そしたら、たまたま読んでた池波正太郎のエッセイ「男の作法」に私の考えと同じこと書いてました。池波は食べ歩きだったら食べ歩き、ショッピングだったらショッピングと旅行目的以外のことを全くやらないと云ってるのですね。せっかく旅行に来たのだから、観光もしいの、食べ歩きもしいの、ショッピングもしいのと云うのが日本人だけど、結局それで躰も疲れるし、どこかでムリするから本来の目的が充分にはたせず、あぶはちとらずになると。それで池波は土産と云うものを旅行に行って買ってきたことがない。ひとつの目的に集中すると云うよりも、これはやっぱり僕が怠け者だと云うことでもあるんですね。(図星つかれてしまった/笑)私なりに云い訳すると、お土産でスーツケースがパンパンになるのもうっとおしい。池波に云わせると、余分なことすると、それだけで忙しく動かなきゃならない。まして海外の場合、疲れちゃって病気にでもなったらタイヘンだしね。それで目的以外のことは全部省いちゃうだよな。確かにそうです。私がひとり旅するとき、ヨメに家族分のお土産所望されたら、それのチョイスでまる1日以上かかった。具体的にどこそこの何を何個買ってこいだったらいいのですが、ただ「お土産」ではこっちが困ってしまう。さらに池波は続けます。たとえば新婚旅行に行くでしょう。新婚と云うのが目的で...これ、やっぱり大切だと思うんだよね。だからこそ、そこに目的を絞っていけばいい。お土産なんてのは、新婚旅行ではそりゃ大変。お祝いもらったからお土産買ってこなきゃならない。そう云うこと考えたら、大きな木の細工物なんかを買った日には大変ですよ。例えば、真珠のペンダントなんかだったら小さい粒だし、そこに1軒だけ行って全部そこで1回で済ませてしまう。新婚を楽しむのが目的で、お土産は二の次でいいんだから。ごく簡単な荷物にならない、それで喜ばれるようなものを全部一ヶ所でいっぺんに済ませる。大切な旅行で時間は限られてて、いくつもいくつもできないんだから。だから目的に沿ったことだけしかやらない方がいいんだと思うんだ。だとすると、私のヨメがショッピングに明け暮れたのも、それはそれで目的貫徹と云うことか...それだったら、私を巻き込まないでくれ~!(笑)ヨメなんて買ったものが多すぎて、自分のスーツケースに収まりきらず、私のスーツケースにまでいっぱい入れてたものなぁ。
Apr 20, 2026
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ようやくDell のタワーPC1250が届きました。なんとアメリカのDell 本社からの直送だったので時間がかかってたのです。日本に着いて通関と配送もアメリカの運送会社DHLでした。相前後して、Amazon に発注してたグラフィックカードや設定・アプリの旧PCからの移行ソフトなども届いてます。グラフィックカードは、PCでCPUに負担をかけず映像処理を専門に行うパーツなんですが、最初は旧PCに追加で乗せてたものを流用する予定でした。こっちのグラフィックカードは大きな冷却用ファンがついてて、PC内部から別電源を用意する必要があったのですが、Amazon を検索するとファンが無くてヒートシンク(冷却用のフィン=ひれ)だけで冷却するタイプが見つかりました。こっちの方がダンゼン省エネ。だいたい市販のPCは電源容量に余裕無いの多いので、この際と思って買い替えることにしたのですね。新しいグラフィックカードも安心の「MSI」製Geforce です。他社のグラフィックカードでも使ってるICチップはすべてMSI製なんですな。旧PCからの移行ソフトは当初ソースネクストの「おまかせ引っ越し」を予定してたのですが、AI DATAの「ファイナルパソコン引っ越し」の方がWindows 11対応と詠ってたので急遽こっちにしました。実は「おまかせ引っ越し」は古いソフトなので一応Windows 11も対応としてますが、保証はWindows 10までの対応でしたから。ところが「ファイナルパソコン引っ越し」届いてみたら、PCとPC間をつなぐ特別なクロスケーブルとともに、アプリの入ったCDだけが同胞されてるぢゃないですか。今どきCD読み込めるPCなんて少ないでしょう。たまたま私は外付けのDVDドライブを持ってたからいいようなものの、こりゃあ不親切ですな。イヤだったらダウンロード版をどうぞと云うことでしょうか。移行ソフトを使うときは、それより前にウイルス監視ソフト「ウイルスバスター」を削除しなければなりません。どんな移行ソフトでもウイルス監視ソフトが働いてるPCは動かないからです。で、PCなんですが、先ずはグラフィックカードを装着せず、PCを買ったままの状態で立ち上げます。こうしないと起動の時何か不具合が出ても、PCそのものの問題なのか、グラフィックカードが悪さしてるのか分かりませんからね。そもそもグラフィックカードは装着しただけではダメで、装着と同時にMSIのサイトアクセスして、グラフィックカードを動作させるドラバーと云うソフトをダウンロードしないといけないので、どっちにしてもイチバン最初はPCオリジナルで起動するしかありません。で、新しいPCに最低限のキーボードやマウス、LANレーブル、ディスプレイケーブルを装着して、いよいよ火入れ式です。ちなみに使ってるディスプレイはDVI(PCと液晶ディスプレイを接続するデジタル転送の標準規格)のコネクターなんですが、PC側には液晶ディスプレイを接続する映像出力インターフェース規格HDMI(映像と音声を同時にデジタルで伝送できる4K対応の規格)端子しかありません。それで新しくDVI→HDTV変換コードも購入して、これでディスプレイも接続できました。この辺のところは、デスクトップは拡張機能が豊富な代わり、ノートみたいにPCだけで完結しない弱みですね。ところがです。ところがPCの電源スイッチを押すと確かに作動してるのに、ディスプレイが真っ暗なまま。こんな症状はPCそのものの初期不良か接続してる機器の不良かどっちかです。PCの初期不良でなかったら、ディスプレイが壊れたか接続ケーブルの問題しか考えられない。先ず予備のディスプレイ2台に接続し直しても症状改善されず。それで接続ケーブルを一旦外して、持ってた同じ仕様の古い接続ケーブルに接続したらみごとに映像が映る。と、云うことは新しい接続ケーブルの初期不良しか考えられません。そもそも既に接続ケーブル持ってたら、何も新しく買わなくてもいいのにね(笑)新しく買った接続ケーブルは中華製だったので、サスガに中国品質です。と思ってたら途中からディスプレイに「Out Of Range」と云う表示が出て画面真っ黒!これはPCから出力する映像とディスプレイの設定があってない証拠。ケーブルの初期不良ではなかったのです。通常はWindows 11の中で設定を変えるのだけど、まだインストール途中だからWindows 11は使えない。こりゃ困った...万事休して、最後の手段。まだドライバーのダウンロードできてないグラフィックカードをPCに刺して、ここから映像出力。できましたがな!どうやらマイクロソフト標準のドライバーで動くらしい。それでいよいよPCが立ち上がってWindows のインストールです。イチバン最初に表示言語選択画面が出るのですが、PCがアメリカ直輸入のためか「英語」「フランス語」「スペイン語」「ポルトガル語」の4つしか表示されない。「日本語」の選択画面が無いのです。これだったらマイクロソフトからWindows 11をダウンロードしてそれを使えばよかった。しかしダウンロードファイルをUSBなんかに保存して使おうとすると、PCの電源投入直後に最初に起動する、マザーボード上のチップに記録された制御プログラム「BIOS」を立ち上げての作業が必要です。そんな難しいことでは無いけれどうっとおしい。と云うことでPCに保存してるWindows を英語のまま、インストール作業することに。ところがうっかりフランス語を選択してインストール画面にしてしまった。やれやれ、スマホで翻訳しながらのインストールです。インストールが済んだら、後から表示はどの国の言語にでも変えられます。インストールが成功したら、先ず「設定」画面から搭載されてるプロセッサーの型番とメモリ量が発注した通りか確認しなければなりません。発注どおりにインテルのUltra 7 CPUと32GBメモリ、1TBのドライブが実装されてました。それから「Dropbox 」など使わないアプリの削除やWindows のアップデートを済ませて、旧PCからのアプリ移行をします。データファイルは全て旧PCの別ディスクに保存してるので、ここではデータ移行はおこなわず、これまた別ディスクの増設を予定してますが、Dell PCは増設ディスク専用のブランケットを別途購入しなければならないらしい。と、云うことでこれもDell 本社に発注済みですが、届くのが来月1日予定なので、当面は外付け式のシリコンディスクにデータをコピーして使う予定です。まぁしかし久しぶりにWindows のインストールなんてやらかしましたが、とにかく時間がかかる。もう昔の記憶なんて消滅してるし、ネット検索でインストール手順を確認しながらの作業です。
Apr 19, 2026
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北海道にお住まいになってるブログのお友だち"danmama "さんが、過日、日光東照宮を観光された記事を投稿されてました。danmama日記 日光・東照宮日光東照宮と云えば、1日中見ていても飽きないことから「日暮の門」とも呼ばれる「陽明門」や「見ざる・言わざる・聞かざる」の教えを表した「神厩舎 三猿」など見どころが多いですね。そして坂下門の奥宮に通ずる入口上の蟇股(かえるまた)でうたた寝する左甚五郎の作と伝わる猫の彫刻「眠り猫」も。この眠り猫、東照宮では「牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫がうたた寝しているところで日光を現わす絶妙の奥義を極めている」と説明されていて、このにゃんこが日光と云う地名との関わりを示す物であることが分かります。東照宮以外の神社にあるにゃんこの彫刻の多くは目を開いています。例えば、仙台の大崎八幡宮にある「睨み猫」は「牡丹の花に羽を休めている蝶を狙う猫」と云う構図なんですね。にゃんこは、雀のようなちっちゃい生き物を捕獲して食べてしまう。ところが「眠り猫」裏側には2羽の「竹林に遊ぶ雀」が彫られ、喰う者と喰われる者が一対になって装飾されているのです。そこには猫が雀を追いかけることなく眠っているほどの平和な世であってほしいと云う願いが込められてるのだとか。ところが「眠り猫」はぐっすり寝入ってるのではなく、実は徳川家康をお守りするために薄目を開けてるのですね。敵が攻め入って来たときは、いつでも飛びかかれるような前傾姿勢を取っているのだと云います。実は大坂・四天王寺の「猫之門」にも左甚五郎の猫彫刻があります。「猫」は元和の再建時に作成されたもので、猫の隣にある牡丹は「牡丹花下睡猫児(ぼたんかかすいびょうじ)」と云う禅問答から着想を得ています。この四天王寺の眠り猫は東照宮の眠り猫と対を成すそうで、夫婦と呼ばれています。えらい遠距離の夫婦ですなぁ。なので大晦日と元旦には、このふたりのにゃんこがニャオと鳴き合うそうです。四天王寺のにゃんこは、夜ごとミナミの道頓堀界隈に出かけホストクラブで遊びまわっていたため、お寺はにゃんこが抜けださないよう門に網をかけてしまったそうです(笑)。「招き猫」ってのはもともと猫が農作物や蚕を食べるネズミを駆除ので、昔は養蚕の縁起物でした。それが養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物に変化したのですね。招き猫発祥の地いろいろ説があって東京の世田谷区にあって家康の家臣 井伊家の菩提寺でもある豪徳寺と云う説。同じ東京の台東区浅草エリアにある今戸焼きの「丸〆猫」を発祥とする説。京都の左京区法林寺門前町にある浄土宗の寺院「檀王法林寺」も招き猫の古い発祥伝承を持つ場所として有名です。豪徳寺の招き猫は小判を持たず、右手を上げているのが特徴で、報恩感謝の気持ちがあれば自然と福が訪れるという教えに基づいています。その豪徳寺がまだ弘徳院と云う小さな庵であったころ、鷹狩に出かけていた井伊直孝が庵の前を通りかかると1匹の猫が井伊直孝を寺に招くように前足を上げていたのですね。不思議に思い近寄ってみると、急に辺りの雲行きが怪しくなり、間一髪で雷雨の難を逃れることができたと云います。雨宿りをしながら和尚の説法を聞き、すっかり心奪われた井伊直孝はその小さな庵を菩提寺に定め、のちに伽藍の整備に努めました。井伊直孝の死後、庵は井伊直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」から「豪徳寺」へと寺号を改め、今日まで猫とゆかりの深い寺として人々に親しまれているのです。ゆるキャラブームの火付け役になった滋賀県彦根市のキャラクター「ひこにゃん」も井伊直孝に由来してます。井伊直孝は近江国彦根藩3代藩主でしたが、この近江国が現在の滋賀県全域ですね。そして井伊軍と云えばシンボル「赤備えの兜」。井伊直孝の豪徳寺の招き猫伝説と赤備えの兜を合体させてできたのが「ひこにゃん」と云うワケです。
Apr 18, 2026
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びろうな話で恐縮ですが、今日はおなら(屁)の話題で(笑)歌川国芳の弟子だった浮世絵師で日本画家でもあった"河鍋暁斎(きょうさい)"と云う人物がいます。幕末から明治にかけて活躍した絵師です。非常にユニークな絵を描く画家で、「花鳥図」のような正統日本画を描くかと思ったら、「動物の曲芸」なんて擬人化した絵も描いてます。この河鍋暁斎が1867年(慶応3年)に発表した作品に「福山画師 六十九翁 相覧」と云うのがあります。この作品の中に「屁合戦絵巻」と云うのがあって、これはもともと平安時代の天台宗僧侶"覚猷(鳥羽僧正)"がユーモアと風刺を織り交ぜた戯画として伝えたものを写本したものです。この屁合戦絵巻がとにかくぶっ飛んでるのですね。まぁ、ご覧じろ。江戸庶民の間では、おならは自然現象、笑えるものでした。まぁ、今の時代でも親しい間柄では笑ってすませられるけど、公共の場でするとかなり気恥ずかしい。嘘をつくことを「うそをこく」と云うように、放屁することも「屁をこく」とも云いますね。「こく」は体の外に出すと云う意味合いですね。江戸時代後期に発行されたかわら版「スカ屁」ってのがあります。文章を読むと「越中(富山)の"かき山"の"いまき谷"にある"尻が洞"の割れ目から、スカ屁という老婆が出現し、こやし取りに次のように告げた」。「4~5年以内に、今は名もない"おなら病"が流行する。それは芋屁(芋を食べた後に出る屁)を止める薬も効かず"手に汗握り屁"になるだろう」。ことさら左様に、江戸時代と云うのは屁の話題に尽きないのですね。男性だけでなく、女性も「屁をこく」ことになんら恥じらいがなかった。ところが、これは庶民の話で、大奥の女性たちを始め、大名や旗本などの奥方や姫君、朝廷に仕える公家の姫君や典侍にとって「屁」したのを知られるのは死活問題でした。こうした女性たちは和歌や書道、茶道、香道などの教養を身につけることが求められたし、立ち居振る舞いにも高貴さが求められる中で、屁をこくなんて有り得ない話だったのです。庶民でも「大店(おおだな)」の奥さんや娘さんも同様だった時代らしい。そんな高貴な女性が、ついウッカリ人前で屁こいたら「放屁娘」と冷やかされ、もう二度と人前に出られないほどの醜態です。おならは「一生の恥」、なかには自殺した女性までいたとか。そんな女性の危機を救う職業がありました。「屁負比丘尼(へおいびくに)」。普段は高貴な女性の付き人として身の回りのことをこなしながら傍を離れず、女性がまんいち屁をこくと云うミスを犯したときには、すかさず恥ずかしそうに「私がしました」と身代わりになってその場を収め、ご主人を守る役割の女性です。役目をするのは"尼(あま)姿"の女性が適任とされましたが、あまりに高齢だと耳が遠くなって屁こいたことに気づかない。それで音を聞き逃さない中年の演技力がある人が選ばれたようです。屁負比丘尼はあんうんの呼吸で、屁以外でも身分の高い女性が起こした粗相やはしたない行いなどをすべて引き受けていたようです。当時、身分の高い女性にはたくさんの付き人が付き添ってましたが、そのほとんどが花嫁修業としてお勤めしていたそれなりの家柄の娘さんです。なので屁負比丘尼はそれらのお付きの人とは別枠採用だったようです。尼さんだったら「もうお嫁に行くことないから恥かいても大丈夫だろう」と云うことで採用されたのですね。ちなみに「おならをする」を英語で云うと「fart(ファート)」。日常会話で非常によく使われるカジュアルかつ卑俗な表現です。これが大きな屁となると「a loud fart」、子ども向けの可愛い表現は「Toot」ですが、非常に直接的で品のない表現なので、親しい友人や家族間でのみ使うのが無難です。「fart」はスラングで「嫌なやつ」とか「ろくでなし」ってイミもあります。
Apr 17, 2026
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先日、ヨメの具合が悪くなり通ってる病院に連れて行ったのですが、その病院の敷地には駐車場がなく外の駐車場もかなり離れてる。しかし、このときはヨメの具合はいちじるしく芳しく無くヨメだけ降ろして病院の玄関で待たせておくのもキツイ状態だったので仕方なくタクシーを呼ぶことに。初めて「タクシーGO」を使いましたが、5分くらいで住んでるマンションの玄関口まで来てくれました。病院で診てもらって、幸いヨメの症状も改善しましたが、帰りもタクシー利用で往復1万9千円は痛かった。タクシーも昔のなんちゃってクラウンは珍しい部類になって、最近はトヨタの「JPN TAXI(ジャパンタクシー)」とか一般車のプリウスとかが多くなりましたね。タクシー車と云えば、今だにフェンダーミラーつけてるの多いけど、アレはドアミラーのようにドライバーの真横ではなく、前方にあるため視界に入りやすく死角も少ないためだからだしい。屋根の上に設置されている「社名表示灯」もタクシーの特徴ですね。俗に「行灯(あんどん)」と呼ばれるこの表示灯は、周囲の人にタクシーであることを示す役割とともに、都市部のタクシーは空車の場合は点灯し、乗客が乗っている場合は消灯すると云うことで空きタクシーかどうか判別できるようになってますね。よく知られてるようにこの行灯は昭和20年代、タクシー強盗が横行したころ乗務員を強盗から守るため、赤く点滅する「防犯灯」が取り付けられたのが始まりなんですな。当初は単に電球をカバーで覆っただけのものだったらしいけど、1954年、行灯で全国的なシェアを持つ武内工業所の社長 武内金弥がこれに社名を入れてはどうかと、社名入り防犯灯を考案したのが現在の社名表示灯につながってるのです。現在でも非常事態が起きたとき、行灯を点滅させることがSOSのサインになってます。何もないのに、間違えて行灯を点滅させてしまうことを業界では「赤恥」と云うらしい。最近は観光客が多い地方都市で、金沢市は「寿司」行灯、長崎市は「カステラ」行灯、香川県琴平町は「うどんの丼」行灯など名物を表示した社名表示灯を取り付けて、訪日外国人を含む旅行者を取り込もうするタクシー会社が増えてきたらしい。しかし、こんな行灯つけたタクシー乗るの恥ずかしいなぁ(笑)
Apr 16, 2026
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九州エリアで福岡は何度か訪れましたが、長崎まで足を伸ばしたのはたった一度きりです。なにしろ大坂から福岡までだったら新幹線で約2時間半で着きますが、長崎までだったら博多で西九州新幹線に乗り換えて約4時間半~5時間もかかります。飛行機で長崎空港まで行くのだって、大阪市内から伊丹空港や関空までの移動時間を考えると同じくらい時間がかかる。それに加えて、長崎空港から長崎駅までだって約1時間はかかるから、大坂からするとかなり遠い。関空から台湾までの飛行時間は約3時間ですから、台湾行くより遠いことになる。私が長崎に行ったのは仕事してたとき、契約してる会社の招待旅行で、泊まった旅館では丸山芸者を大勢呼んでドンチャン騒ぎ。定番の長崎チャンポンも料亭風のお店で提供され、とても美味しかったの覚えてます。ところがヨメが東京から修学旅行で長崎に行ったときの長崎チャンポンは冷えててとても不味かったらしい。やはり食べるとこ選びますね。修学旅行だったら、到着前に作り置きするから仕方ないか。長崎市から1時間くらいの佐世保まで足のばすと有名な佐世保バーガーがあるし、薄切り肉をレモンソースで食べるレモンステーキもこれまた有名。また大坂にも食べさせるとこが多い、長崎名物トルコライスもありますね。いっときトルコライスにはまったことありますが、あれのボリュームはハンパない。今では完食絶対ムリです。とは云え長崎チャンポンもトルコライスも庶民の食べ物。町場の食道で普通に食べれますな。しかし「卓袱料理(しっぽく料理)」はそうはいきません。市内の歴史ある料亭料理ですから。卓袱の「卓」はテーブル、「袱」はテーブルクロスを意味してます。この料理だけは料亭と云っても、丸テーブルでいただくのがルール。この料理、ルーツは江戸初期に遡ります。鎖国をしていた日本で外国に門戸を開いてた数少ない長崎。交易していたのは中国(清)とオランダの東インド会社でした。長崎出島の人々は中国人(唐人)が、客人を招いて大きな丸いテーブルに料理を並べ和気あいあいと食事を楽しんでる姿を見たのですね。それで円卓に大皿に盛られた和食、中華、洋食と取り混ぜてコース料理にしてしまったのが卓袱料理。大皿に盛られた料理を各自が自由に取り分け食べるのが卓袱料理の基本形なんですね。ちなみに「ポン酢」はこの時代長崎の出島から広まったオランダ由来の調味料です。柑橘果汁を指すオランダ語「ポンス(pons)」に、保存性を高めるため「酢」を加え「ポン酢」になりました。卓袱料理は長崎だけでなく、文化・文政(1804年~1829年)前後には江戸で一大ブームになります。ひとりにひとつの箱膳が出されるのが当時の食文化。それがひとつのテーブルを囲んで大皿で食べるという中国式のスタイルは物珍しかったからです。しかし四足動物の肉を食べない当時のこと、サスガに豚の角煮なんてのは出なかったらしい。このブームは江戸だけでなく大坂や京都にも伝搬していったようですが、次第に廃れていったのですね。卓袱料理とともに長崎に伝わった什器があります。「散蓮華(レンゲ)」と「呑水」です。卓袱料理を食べるとき、陶器製のさじ「湯匙(たんし)」が入ってきて、片やレンゲとなり、同じ起源のものが「呑水」になりました。「呑水」ってのは、鍋料理を食べるときに料理を入れたり、天つゆ入れに使うあの食器です。小鉢の片側が取っ手のように少し伸びた独特の形してますね。レンゲは蓮の花が散って1枚の花弁に似ているため「散蓮華」と呼ばれるようになり、呑水は「たんし」がなまって「たんすい」と呼ばれるようになりました。ちなみに取っ手の無い丸い器は「玉割」と云います。長崎の花街 丸山に文政元年(1818年)丸山遊郭の老舗だった引田屋の庭園一部を開いて茶屋を開いた料亭が現在も残る「花屋」です。幕末、明治に活躍した偉人や文人墨客が訪れており、花屋の「竜の間」には坂本龍馬が付けたという刀傷が残ってます。この花屋で卓袱料理が味わえるんですね。お値段いかばかりか?卓袱料理は吸い物から始まって、刺身の盛り合わせなど小菜(冷たい料理)、天麩羅やポルトガルから伝わったパイ料理「パスティラ」など中鉢(温かい料理)、野菜の煮物などの大鉢から水菓子や梅椀と呼ばれる紅白の丸餅入りのお汁粉なんて盛りだくさんのお料理を大勢で囲むって楽しいでしょうね。
Apr 15, 2026
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きな臭い話ではありません。2011年3月11日14時46分に発生した国内観測史上最大規模のマグニチュード9.0の大地震「東日本大震災」発生時の話です。この震災で津波に加え、福島第一原発事故が発生して多大な被害が出て、今も被災地では復興が進められているのはご承知の通り。あの震災のとき、各国から救援と援助を受けましたが、米軍による「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」について日本の報道では詳しく報じられてません。しかしYouTube には米軍が記録したトモダチ作戦の様子が詳しく述べられてます。トモダチ作戦実行の背景は当時の駐日大使キャロライン・ケネディの公式発言が参考になります。「3.11トモダチ作戦は、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ(9.11)に、日本の消防救助隊が駆けつけてくれた事に起因する」と。震災当日中にアメリカ政府は日本に支援を申し入れました。日本政府は駐日大使キャロラインに在日米軍による支援を正式に要請。これにより人員約2万4,500人、艦船24隻、航空機189機が投じられた米国史上最大級の外国災害支援が始まったのです。YouTube ではトモダチ作戦に参加した多くの兵士が当時を振り返ってます。当時空軍の女性中佐カタリヤ・カールソン「わたしたち第36空輸中退は"コープ・タイガー"の演習に参加するためタイに遠征していた。ホテルに戻りスマホをWiFiにつなげると着信音がなり続けメールが山のように入ってた。TVをつけると津波と地震による壊滅的な被害の映像が目に飛び込んできた。タイで物資投下演習の途中、すぐに空港に引き返す命令が下り、撤収準備に入った。1時間以内にホテルに戻り、自身の荷物をまとめ、日本に戻り、そしてトモダチ作戦が始動した」。UH-1Nヘリコプターで救援要員を輸送していた第459空輸飛行隊のマシュー・シムズ少佐「原発が壊滅的な損傷を受け、周囲の住人への影響を心配した。我々は原発と近隣の町の放射能測定を始めた。建物は崩れ落ち、構造物がそこら中に散らばってた。近くでは、消防車が原子炉を冷却するため懸命に放水作業を続けてた。基地に帰還すると、環境部が待ち構えていて、我々の放射能測定検査をしてくれた。その時はまだ、現実を受け入れられずにいた。我々は、とてつもない大きな事象に立ち向かい、貢献していることに気持ちが高ぶっていた」。第17特殊作戦飛行隊のマーク・マラキー大佐「我々はアラートの隊員を呼び出し、早朝3時ごろ特殊作戦群の2分隊と2台の高機動多用途車両を飛行機に乗せ、航空自衛隊松島基地(宮城県)に飛んだ。そこで一行は先遺隊と合流した。特殊作戦の1分隊は松島基地に残り、先遺隊と共に無線通信設備の設置を行い、松島基地の滑走路の復旧作業に従事した。もう一部隊は松島基地から32km 離れてる仙台国際空港まで高機動多用途車両で移動した。滑走路の半分ないし1/3は完全に海水や泥、融けた雪に覆われてた。空港の駐車場まで押し流されてる航空機や、滑走路に乗用車が散乱していた。あらゆるモノが津波で押しやられ、泥で覆われてた。午前10時~11時ごろまでには、無線通信システムを松島基地と仙台空港の2ヶ所に設置完了。その後、両空港滑走路の瓦礫撤去作業にとりかかった。午後3時、最初の特殊作戦機MC-130(C-130ハーキュリーズをベースにした超大型輸送機)が仙台空港に着陸した。それこそが海岸スグ近くにあり、津波が押し寄せる全貌がビデオに記録されていた空港である。それから2週間以上にわたり、空港職員や地元のボランティアと連携し、復旧作業に従事した。そして間断無く、水、ガソリン、軽油、フォークリフトなどの空輸支援も同時に行った。さらに滑走路から自動車や瓦礫を撤去するための重機も空輸した。そして日々の成果によって、着々と使用できる滑走路の範囲が広がっていった」。トモダチ作戦では、アメリカ海軍、海兵隊、空軍が連携し統合軍の形態を執って活動しました。3月25日からは在ハワイの常設司令部組織JTF-519が横田基地へ移動し、統合支援部隊(Joint Support Force)として指揮を執ってます。それとともに主要な在日米軍基地の多くが救助活動に対応してます。被災地域での航空中核拠点を担うはずであった仙台空港は津波の流入によって使用不能となったため、東京都の横田空軍基地に作戦司令部が置かれました。沖縄の嘉手納空軍基地はアメリカ空軍の拠点として、青森の三沢空軍基地は自衛隊との共同活動拠点として、神奈川県のキャンプ座間は在日米陸軍の保健物理および化学生物核放射線拠点として活動してます。4月5日までには大量破壊兵器(NBC兵器、核兵器、生物兵器、化学兵器)対策などを専門にする海兵隊即応部隊であるCBIRF(化学生物事態対処部隊)が到着。トモダチ作戦は、被災者の捜索・救援の段階から、福島第一原発事故への対応や復興支援の段階へ移行していきました。この福島原発事故の対応を巡って、当時の民主党政府は致命的なミスをおかします。当時、東京都知事をしていた亡き石原慎太郎が後に告発してます。福島原発で水素爆発があって中に立ち込めてる放射能を、風向きが陸から海に向かってタイミングがいいから建屋を吹き飛ばして放射能を海に拡散させようとする「ベント」作業をやろうとしてときのこと。トモダチ作戦に従事していた米軍は当然それをやると思って、助けにやってきていた空母ジョージワシントンを始めとする海軍部隊はUターンして沖へ退避。ところが、突然、時の首相"菅直人"が原発の状況を視察するため、陸上自衛隊のヘリコプターで官邸を出発し、午前8時29分に仙台の霞目駐屯地に到着、被災地視察を行ってしまったのです。それで菅首相がベント作業を待たせてるうちに風向きが逆になって、遅れてやったベントのために北西側の30km 圏内どころか、それ以上の人々が内部被爆してしまったのです。これについて「菅直人公式サイト」では、「東電が申し出た格納容器のベントが実行されず、東電担当者が理由を即答できないなど、現場の様子が分からなかったからです。現場を仕切る人物を見極められたのは最大の収穫でした」と述べてます。石原慎太郎は続けます「あの菅総理が防御服もつけずに、とにかく飛んでいったあの失われた数時間と云うのは、ものすごい多くの人の一生につきまとう被害を与えたワケですよ。いろんなかたちでこれから先、いろんな恐ろしい形で出てくるだろうねぇ。あの過失と云うものを、その責任をいつ誰が取るんですか?」さらに石原は続けます。「原発の爆発が起こってから、消防庁のハイパーレスキュー隊により原発に放水してほしいと依頼があった。それでハイパーレスキュー隊が放水を始めたが、4時間~5時間放水続けてると機械が焼けてきて放水を続けられない。いったん放水やめたら、グズグスせずに続けてやれ!云うこと聞かないと処分するぞと脅されて仕方なしに放水続けたら機械が壊れて消防車1台がパァ~になった」。このことを石原が抗議すると、翌日に経産相だった海江田万里が「どうも私が云ったらしいけど、よく覚えていない。誤解を招いて申し訳ございません」と謝ってきたと。YouTube に登場したアメリカ軍兵士は終わりにこう語ってます。「忘れることのできない貴重な体験だった。特に日本人の不屈の精神と、回復力の速さ、そして我々がどう支援できるかを知ることができた。決して忘れられないこの日の事象を想うと、甚大な被害に今でも胸が詰まる。日本の一部として復旧支援に当たれたことは、アメリカ人として家族のような日本人を心を平静に保ちながらも、少し心の高ぶりを感じながら、復旧支援に貢献できたことを誇りに思ってる」。「被災した人々が極限の状況下でも、食料などを求める列を冷静に何時間も並んで待ってる姿に感銘を受けた。世界が見習うべきだと思う」。「仙台空港の滑走路近くの浜辺には、たくさんの流木が打ち上げられてた。その中に、大きな流木で並べられた「ARIGATO」の文字が上空から見えた。乗員たちに感謝を伝えるメッセージだった。この先も、日本で何かが起これば、米国は全力を尽くし助けるだろう。また、逆の立場になった時、日本が我々の力になってくれることを確信します」と。
Apr 14, 2026
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ずいぶん前に、私がメインで使ってるPCの電源ユニットが壊れて、この際にと買い替えを検討することにと述べました。大型量販店と云う手もあるのですが、えてして大型量販店で扱ってるPCは型落ち製品を安い値段で展示してることが多く、候補から外しました。Amazon で探してみましたが、使ってるCPU(PCの頭脳)や搭載してるメモリの量で希望するものがなかなか見当たらず時間ばかり過ぎていく。その間、サブのノートPCで作業してましたが、29インチの大型ディスプレイ使ってた身にはノートPCのディスプレイは小さすぎる。そこでノートPCの外部ディスプレイ端子にもう一台接続してた24インチディスプレイを接続して使ってたのですが、壊れたPCに内蔵してたデータストレージと連携とれなくて困ったことに。結局、お飾りになってるヨメのデスクトップを持ってきて、29インチディスプレイを繋ぎ、壊れたPCのメインストレージ(Cドライブ)とデータストレージをこっちに入れ替えて使ってたのですね。ところがこのPC、なんとも力不足。「システム」画面からメモリ量を見ると、なんと8GBしか搭載していない!これぢゃあネット閲覧でも、ちょっと重いサイトだともたつくワケです。で、壊れたPCからメモリモジュールを取り出して、ヨメのPCと入れ替えることに。これで16GBになったので、快適とは云えないまでも、写真編集なども支障なくできるようになって一段落。とにかくPCの性能はCPUの型番と搭載メモリに左右されますからね。とは云え、これは一時的な方策で、従来行ってたダブルディスプレイ(ディスプレイ2台)ではなく、テンポラリーなのでシングルディスプレイのまま。一度ダブルディスプレイに慣れてしまうと、シングルはなんとしても不便で仕方ない。動画編集なんかしてる人の中にはダブルどころかトリプルディスプレイにしてる人もいますね。やはり早く新しいPCを入れないと。ネットのお友だちdanmama313さんから「この際、Mac も検討したら?」とお言葉頂戴してたのですが、最低価格のMac mini では力不足だし、使えるとしたらMac Studio になります。Mac のPCはユニファイドメモリ(説明略します)と云う優れたメモリ管理おこなってて魅力なんですが、Mac Studio の最低性能機種でも約33万円もする。とぼしい予算ではちょっとキツイなぁ。と、云うのも今まで使ってたソフトはみんなWindows 用だったので、Mac 用ソフトを全て買い直さなければならないからです。このソフト代を含めると、ヘタすればかなりの金額に。で、やっとこさAmazon で私の仕様に見合うWindows 商品を見つけました。メーカーは初めて使う「Dell」です。今まではHPが多かったけど、使ってるCPUとメモリの搭載量さえOKならばメーカーは選ばないですし、市場シェアではApple に次いで世界第2位の会社です。Dell の難点はアメリカ本社ですが、日本向け製品は中国で生産しており、受注から納品まで時間がかかること。まぁ、PC環境が無いワケぢゃなし、気長に待つことに。Dell のPCは初期故障率が高いので「やめとけ」と云うコメも多いのですが、それは安さにつられて低価格のInspiron シリーズなどを買うからです。上位モデルは頑丈で高性能との評価が高いです。私が購入したのはTower Desktop ECT1250と云う最新機種で、CPUは最高ランクのIntel Core Ultra 9のひとつ下、Core Ultra 7です。Core Ultra 9は長時間の動画編集や3Dモデリング、ゲームなんかに使うCPUですね。普通の用途だったら、さらに下のCore Ultra 5でも充分使えますので、このCPU(Core Ultra 7)で支障なし。もっとも重視したのはメモリの搭載量で、同じ型番でも他の出店者のは16GBが最大値なのに、私が選んだ出店者だけ32GBも積んでます。これが魅力でした。後は、実際に到着して立ち上げたとき、先ずシステムメニューを出して、ホントウに仕様通りの機種か確認しなければなりません。壊れたPCにはCPUに負荷をかけず滑らかで高精細な映像を出力するグラフィクカードをオプションで搭載してたので、これを取り出して新しいPCに乗り換えさせます。もうひとつの問題は、今まで使ってたソフトや設定の移行です。こんなこと、新しいPC買ったから一からやり直しでは時間がかかってやってられない。今は同じネット環境下でPCからPCへのデータ移行(引っ越し)できるソフトが出回ってます。イチバンお安くするなら「EaseUS Todo PCTrans Free」と云う無料アプリを使う方法ですが、転送容量やソフト数に制限があるし、デター移行に失敗すること多いです。そこで、これも転送できないソフトもあるようですが、ソースネクストの「おまかせ引越 Pro 2」を使うことにしました。これが引っ越しアプリではもっとも成功率が高いソフトのようです。注意しなければならないのは「おまかせ引越」にはいろんなバージョンがあって、安いものはデータ移行できても、ソフトの引っ越しはできません。データは別ディスクにすべて保存してて、新しいPCにそのまま装着する予定ですので、データ移行はそもそも問題ないのですね。と、まぁ、PCを買い替えるのはイロイロと面倒いこと多いのですが、こうなったら仕方ないので気長にやります。
Apr 13, 2026
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国際月探査プロジェクト「アルテミス計画」の有人宇宙船が月の裏側を周って、人類史上地球から最も遠い地点に到達して帰還しましたね。アルテミス計画は、アメリカが出資して人類を月面に着陸させることを目標にしてます。この計画はNASAとスペースX、欧州宇宙機関(ESA)、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)、カナダ宇宙庁(CSA)、アラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラシード宇宙センターなど国際的パートナーによって実施されてるのですね。アルテミス計画では人類を月に送るのが最終目標ではなく、月面の北極か南極地中深くにある水を活用して人類が月面で生活できる環境をととのえ、その後に計画されてる人類を火星に送る(有人火星探査)という長期的目標に向けたステップとしてとらえられてます。NASA長官ビル・ネルソンは、日本人宇宙飛行士も月面着陸に参加させることを表明していますね。そもそもビル・ネルソン自身が、1986年にスペースシャトル・コロンビアにペイロードスペシャリストとして乗り組み、宇宙飛行を行った2人目の現職議員となった人物です。今回のアルテミス2号による月周回から57年前の1969年7月、私たちはもっとも感動的な瞬間を迎えてました。そうアポロ11号による人類初の月面着陸です。半世紀以上前ですよ~今のようにAIはおろか、電卓に毛が生えた程度のコンピュータだけを積んだ宇宙船で臨んだ月面着陸。日本時間で7月21日12時56分にあの有名なメッセージが発せられたのです。「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」。この言葉を発したのはご存知アポロ11号の船長ニール・アームストロングです。実際にはこの言葉の前にもっと喋ってるのですね。「いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり...、かなり滑らかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている」「これより着陸船から足を踏み出そうと思う」それから彼は後ろを振り返り、左足を月面に踏み降ろしました。そして「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」と云ったのですね。ニールから遅れること15分、着陸船の操縦士バズ・オルドリンオルドリンも月面に降り立ち、月に立った2番目の男になりました。この歴史的快挙をテーマにした映画が2018年に公開されてます。いみじくもトランプによって承認されたアルテミス計画の発足が2017年の12月ですから、このニュースに感化されて制作された映画なのか?映画のタイトルは「ファースト・マン(First Man)」。タイトルから推し量られるように、この作品はニール・アームストロングの伝記映画です。ニールの1961年~1969年にかけてのNASAのジェミニ計画、アポロ計画が実話に基づいて描かれてます。日本語字幕の監修は、JAXAの宇宙飛行士 毛利衛が努めました。ニール・アームストロング役は「きみに読む物語」や「ラ・ラ・ランド」など多数の映画で名演技してる俳優であるとともに「デッド・マンズ・ボーンズ」と云うロックバンドを率いるライアン・ゴズリング。製作総指揮はスピルバーグです。この作品でニールは感情を表に出さず、あまりの寡黙さから周りからも何を考えているのか分からない人物として描かれてます。1983年に公開された映画「ライトスタッフ」で、ロケット機ベルX-15を駆り音速の壁に挑戦し続けた実在の人物チャック・イェーガーに、ニールは操縦の未熟さを指摘されテスト・パイロットを退任します。それでもジェミニ計画の候補として当初選ばれたものの娘の危篤状態から参加を拒否するのです。しかし脳幹腫瘍のため2歳で夭折した娘の死をきっかけに月へ行くことに執着を持つようになり宇宙飛行士への参加を決意するのです。このように、この作品はあくまでニール個人の視点で物語が進んでいく作品なんですね。映画「ファースト・マン」オフィシャルトレーラーFirst Man - Official Trailerアポロ11号のパイロットで、月面を歩いた2番目の人物バズ・オルドリン役は映画「ミッドナイト・イン・パリ」でヘミングウェイ役をやったコリー・ストール。ニールと対照的に明朗快活な宇宙飛行士を演じてます。司令船パイロットのマイケル・コリンズ役をやったのはディカプリオ主演映画「インセプション」に出演してたルーカス・ハースでした。そしてニールにテスト・パイロット引導を渡したチャック・イェーガー役はクエンティン・タランティーノ監督作品「パルプ・フィクション」でニッキー・コックス役をやったマシュー・グレイヴとなかなか渋い顔ぶれです。実際のアポロ11号メンバーは1969年に日本を訪問して、日本政府より文化勲章を贈られました。銀座で行われたオープンカーでのパレードには12万人の観衆が押し寄せたそうです。ニールは民主党、共和党両党からアプローチを受けましたが、政治的な誘いは一切断ってます。個人的には「合衆国の正義」を謳い文句にアメリカが「世界の警察官」として行動することに反対の立場でした。ニール・アームストロングは2012年、82歳の誕生日を迎えた3日後に心臓の外科手術を受けます。ところがそれから20日も経たないうちに手術後の合併症のため死去してしまうのです。遺骨は大西洋上でアメリカ海軍の軍艦から水葬されました。映画「ファースト・マン」月に降り立つシーンFirst Man (2018) - One Small Step For Man Scene
Apr 12, 2026
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世の中、カーボンニュートラルがはげしく叫ばれてて、もはや自動車レースの世界最高峰「フォーミュラ・ワン世界選手権(F1)」なんてずいぶん肩身の狭い思いしているかと思いきや、2026年シーズンのF1世界選手権は、史上最多の全24戦が予定されてました。オーストラリアで開幕し、アブダビで最終戦を迎えるカレンダー構成となっていますが、中東情勢の悪化でスケジュールが変化して、今のところ第4戦のバーレーンGPと第5戦サウジアラビアGPの開催が中止になってるので、最終的には全22戦になる見込みです。毎年 鈴鹿サーキットで開催される日本GPは、既に3月27日~29日に開催され、メルセデスのイタリア人ドライバー"アンドレア・キミ・アントネッリ"が優勝しました。F1は1950年にイギリスのシルバーストーンサーキットで初めて開催された長い歴史があります。このレースで走るF1マシンはレース専用のオープンホイールと呼ばれるタイヤが剥き出しの「フォーミュラカー」なのはご存知ですよね。F1マシンがとてつもない速さで走行できのは、ウイングなど空力デバイスによってフロア下部に負圧を発生させ、マシンを地面に押しつけながら走行しているからです。このダウンフォースによって、非常に速い速度でコーナリングすることが可能なんですね。最速のF1マシンに搭乗するドライバーには、常に危険が伴ってて、激しいストレスを感じてるでしょうね。F1の歴史において最も有名な死亡事故は1994年のサンマリノGPで3度ワールドチャンピオンを獲得したブラジルのレーシングドライバー"アイルトン・セナ"が決勝中に時速約210km でコンクリート壁に激突34歳で死亡した事故です。事故の直接原因はステアリングシャフトの折損による操縦不能や、サスペンションパーツの頭部直撃とされていますが、この事故でサーキットの安全対策が根本的に見直されるきっかけとなりました。他には1973年オランダGPでイングランド出身のロジャー・ウィリアムソンがタイヤトラブルからマシンがコースアウトしてガードレールにクラッシュ。さらにクラッシュ後に炎上して、同僚のデビッド・パーレイが救出のためにマシンを止めて駆け寄り、消火と救出を試みましたが、甲斐もなく焼死して帰らぬ人となりました。その後コースにセーフティウォールの設置が義務化された事故です。1982年のベルギーGPでは、カナダ・ケベック州出身のジル・ヴィルヌーヴが予選中に前走車に時速230km で接触してシートごとマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられ宙を舞ってコース脇のフェンスに叩きつけられ死亡しました。この事故がきっかけで、頭部を保護するヘイロー(保護するフレーム)の導入が義務化されました。1975年、77年、84年のF1チャンピオンで「スーパーラット」とか「不死鳥」の異名があるオーストリアの"ニキ・ラウダ"も1976年のドイツGPで事故にあってます。左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、コース右側のキャッチフェンスを突き破り、露出していた岩に衝突。この衝撃でヘルメットが脱げてしまいました。クラッシュし発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これにブレット・ランガーのサーティースTS19が衝突し、アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行ったのです。ラウダはヘルメットが脱げてしまった影響で頭部に大火傷を負い、FRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けました。数日間生死の境を彷徨ったのですが、臨終儀式用意のため神父が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復!事故発生から6週間後の第13戦イタリアGPで奇跡のレース復帰を果たし4位入賞しました。ニキ・ラウダの事故El accidente que le cambió la vida a Niki Lauda1994年のアイルトン・セナの事故を受けてFIAのレーシングスーツ安全基準を引き上げ、1980年代F1レーシングスーツの典型を作り出しました。この安全基準で、クラッシュ時のドライバーを狭いコックピットから引きずり出すため、頑丈なエポレットが肩部に取り付けることが義務化されました。エポレット(epaulette)とはフランス語で肩をイミするエポール(epaule)に由来してる言葉で、「肩章」とも呼ばれてます。エポレットはトレンチコートの肩にもついてますね。もともとは陸海軍将校の制服の肩章のことを云いましたが、現在ではトレンチコートをはじめ、ミリタリージャケットやスーツ、ワンピースなど男女を問わず広く使われてます。軍服のエポレットは絢爛豪華ですが、単にステッチ(縫い目)の施された布をとりつけたものや、尾錠どめしたものなどさまざまな種類があります。レース技術が進歩するにつれて、安全のためのエポレットの必要性は減少し始めましたが、スポンサーシップが増加していった時期にエポレットにスポンサーロゴを打ち込むことで、写真やTVインタビューで社名をより目立つようにできるため復活していきました。こうしてレーススーツのエポレットは安全機能からファッションアクセサリーへと移行していったのですね。
Apr 11, 2026
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インドの婦人が額に赤い印をつけてること画像なんかでご覧になったことあるでしょう。アレは「ビンディ(Bindi)」と云って、誰でもつけてるワケではありません。あくまで既婚で、かつ夫が存命してるヒンドゥー教徒の女性がつけるものです。ビンディは、デリーなど主にインド北部や中部で話されるヒンディー語の語源「サンスクリット」で「点」を意味する「ビンドゥ(bindu)」なんですね。ビンディ、伝統的には硫化水銀を含む赤い顔料「スィンドゥール」で小さな赤丸を描くのですが、現代ではシールタイプが主流になってます。未婚女性はビンディーをつけてなかったり、赤以外の印をつけます。もともとは、悪霊から身を守って吉兆を祈ると云う習慣から始まりました。また、ヒンドゥー教の複数の宗派を表す印でもあり、当初は宗派ごとに模様が異なってました。神聖な灰や石灰をウコンに混ぜて足や手にも模様を描いてましたが、後に簡略化され、額のみに点で施されるようになったのです。ちなみにインドの女性が手や足に施している入れ墨のようなものは「メヘンディ(Mehendi)」とか「ヘナタトゥー」と云いって、古くから魔除けや幸運を呼ぶ力があると信じられています。これは「ヘナ」という植物の葉を粉末にして、水やペースト状にしたものを染料として使用するのですが、約1~2週間で自然に消えるので、私もオッサンながらマレーシア クアラルンプールのインド人街にいったとき興味半分で施してもらいました。やっぱ2週間待たず消えてしまいましたね。ビンディーを施す位置は第三の目がある第6チャクラである「アージュナー」で眉間の少し上になります。「チャクラ(Chakra)」って言葉はヨガやってる方はご存知でしょう。サンスクリット語で「車輪」「回転」を意味し、人体に7つあると云われる「エネルギーの出入り口・中枢」です。背骨のラインに沿って位置し「生命エネルギー(気)」の循環を担う重要なポイントとされています。 そのうちの第6チャクラは、眉間(サードアイ)にあって、直感や洞察力の機能を持ってます。ファッション的な意味合いが強いビンディーとは違い、「ティラカ(Tilaka)」はやはり第6チャクラに塗る宗教的な印や装飾のことです。泥、香油、クムクム(赤い粉)などを練ったものが使われ、宗派を示すほか、精神的な目覚め、保護、神の祝福や幸運を招く意味があります。 こっちは男女問わず、日常のほか結婚式、誕生日、宗教行事で用いられてます。なをインド婦人にとってビンディと同じくらいアタリマエなのが「鼻ピアス」です。これもファッションと云うより、魔よけなどの意味を込めて、大半の女性が耳や鼻にピアスを空けます。なんか顔にこれでもかと装飾ほどこしますね(笑)
Apr 10, 2026
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21世紀に入って日本の労働者賃金がほとんど上がっていないどころか、1997年をピークに減少してるってデータが広く流布しています。直近の数年は政府指導もあって基本給がアップしてるけど、円安と物価の高騰がそれを凌駕していて実質的には減少傾向にありますね。私の世代は高度成長やオイルショックの大幅賃上げを経験した世代でバブル期を知っていますが、それに対して今の若者たちは昇給以外の賃金引き上げをほとんど知らず、現在や将来に渡って親の代よりも良くなるという見方が少なくなっています。国税庁の「令和5年(2023年)分民間給与実態統計調査」によると、1年を通じて勤務した給与所得者1人あたりの平均年収は460万円です。平均年齢47歳、平均勤続年数は12.5年の給与内訳は、平均給料と手当が388万円、平均賞与が71万円となっています。令和4年(2022年)の厚生労働省による統計「都道府県別賃金」によると、平均値が最も高かったのは東京都で、後に神奈川県、愛知県、大阪府、兵庫県が続いています。逆に最も低かったのは青森県で、それに続いて宮崎県、沖縄県、山形県、岩手県と云う結果になってます。経済協力開発機構(OECD)調査で日本の平均賃金は38ヶ国中25位。G7の中で最下位なんです。ちなみに令和7年(2025年)度の最低賃金(時給)は全国平均で1,121円となり、全ての都道府県で1,000円を超えました。最高額は東京都の1,226円で、最低額は高知、宮崎、沖縄の1,023円です。ところで近年の訪日観光客には欧米人や韓国、台湾、中国などともに、タイやマレーシア、インドネシアなど東南アジアの人々も急激に増えてます。それもショッピング中心から、日本の文化や自然、アニメなどの体験型観光へ移行し、また東京や大阪、京都と云ったゴールデンルートに加え、地方への観光需要も増している。さらにこうした観光客にはある程度収入の高い中高年のみならず、若者が大勢押し寄せてます。日本から見たら、まだまだ低開発の国々の若者たちが...タイを例にとって云うと、発展段階の国の常として格差が激しく、首都バンコクと地方では平均収入がとんでもなく違います。それで2025年-2026年の平均月収は約1.5万~2.5万バーツ(約6.5万~11万円)程度ですが、これがバンコクなど都市部や専門職、外資系企業ではこれより高いのですね。管理職や専門職の平均月収は5万バーツ(約25万円)以上になることが一般的なんです。日本人の平均年収460万円を月割りすると約38万円ですから、まだ日本の方が高いように見えますが、タイバーツの米ドルに対する為替レートは100$=3,289前後で推移しています。これに対し日本円の米ドルに対する為替レートは1$=159円半ば~後半で推移する歴史的な円安水準にあります。 一時的な買い戻しはあるものの、160円をうかがう展開が続いているのですね。つまりバーツの方が日本円よりドルに対して強いのです。ただ日本のように安定してない国なので、ガソリンが1リットルあたり約35~40バーツ(約170円~190円)前後だったのが、今回のホルムズ海峡封鎖を受けてリッターあたり約260円までハネ上がってます。この辺は備蓄量の違いと、政府補助額の違いがハッキリ出たのですね。それを云うと香港なんてリッター600円を超える異常値ですしね。このように世界情勢にはまだまだ脆弱ですが、確実にタイの経済力は力をつけてきて、それとともに物価も上昇。タイ旅行していても、ここ数年でとんでもなく高くなってますし、例えばナイキやアディダスと云った輸入メーカーの商品なんかは、日本で買った方が安いくらいです。今ではタイで年収1,000万円プレヤーなんてはいて捨てるほど居ます。もはや日本人は物価の安かった東南アジア旅行でさえ困難になってきてますね。まぁ、イランの紛争が正式に終わるまで、飛行機の燃油サーチャージが倍以上に引き上げられてますから、とても海外に出る気にはなれません。
Apr 9, 2026
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この間の日曜日に息子家族が来たので、おでんを振る舞いました。おでんの具さまざまですが、外せないのは牛スジです。孫が高校1年生と大学1年生なので、とにかくよく食べる。はんぱない量の牛スジ買ってきて、先ずお湯で一度ゆでこぼしてから、今度は生姜とネギの青いとこ入れて本格下茹で。これで2時間。それからおでん鍋に入れて、手羽もとと一緒に約2時間グツグツ。牛スジも手羽もとも箸でつかんだら崩れるくらい柔らかくなって、長男孫なんてお鍋の底すくうようにして全部たいらげてくれました。関東では牛スジそのものが入手しづらいことがありますが、この最大の理由は関東では牛スジを食べる文化があまりないからですね。それでも今では居酒屋や食堂などで「牛スジ煮込み」料理が定番になってるようです。ただ東京なんかのは牛スジだけでなく、モツを使ってるとこが多いし、味付けも赤味噌や醤油ベース、塩味で煮込むスタイルが多いような。名古屋の牛すじ煮込みは、お馴染み八丁味噌など赤味噌をベースに、牛すじとコンニャクを甘辛く煮込んだ濃厚な味です。これはこれで美味しいんですが、八丁味噌独特の渋味と酸味が強すぎるとこがニガテな人もいますね。それに対して大坂の「どて焼き」は白味噌を使います。これが私たち大阪人が「牛スジ煮込み」と「どて焼き」は全く違うと云う根拠のひとつです。ちなみに「どて焼き」と云う名前ですが、焼いてるのではなく、牛すじ煮込みと同じように煮込んでます。「どて焼き」は、鉄鍋の内側の縁に味噌を「土手」のように盛り、その中央で牛スジを焼きながら、溶け出した味噌で煮込むからこの名前がつきました。どて焼きは、大正~昭和初期に大坂の屋台で普及したものですが、もともとは豚の皮身などが使われてたんです。それが今では牛スジ一筋、モツは使いません。名古屋の「どて煮」も同じように、味噌の土手で煮る料理に由来します。 どて焼きは、白味噌やみりんで長時間かけて煮込むため、濃厚で甘辛い味わいが特徴ですそれとともに どて焼きは1本1本、串を打ちます。それで注文するときは「どて焼き◯◯本おくれ!」と本数でオーダーするんですな。スジ煮込みみたいに、コンニャクや大根、豆腐など他の具材は入ってこなくって、牛スジ一筋の料理です。大坂でも牛スジとコンニャクを煮込んだ「すじこん」ってのも有りますが、こっちは味噌と醤油で味を付けて牛スジ煮込みと同じようなものです。茹でこぼしたスジ肉を酒だけで炊き、後少し醤油で味付けしただけの単純な牛スジの煮込みも大阪人のソウルフードです。大坂の居酒屋なんかで どて焼き出してるお店は専任スタッフが必要です。どて焼きでは、出汁を入れると云ってもヒタヒタになる程度。牛スジの表面から出汁がスグ蒸発してしまうため、こまめに「追いだし」をかける必要があるからです。この追いだしは、3~4分に一度は必要。どて焼きなんてお安いアテなのに、結構な手間かけてるのですね。大坂以外の方は「たこ焼き」とか「お好み焼き」が食い倒れの街 大坂の象徴と思ってる方が多いでしょうが、大阪人からしたら「どて焼き」食べずして大坂グルメを語って欲しくないですね。どんなチンケな居酒屋でも大抵出していて、どこも美味しいです。
Apr 8, 2026
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私は基本的にお札を入れる財布は持ち歩いてません。いつもお札を裸のまま半分に折って、そのままポケットに入れてます。理由は単純で、支払いするとき財布から出すのがメンドイから。まぁ、落とすことはありません。何十万円も持ち歩かないですし、そんなお金ありません(笑)別にカードはアルミ製のカードケースに収納してるし、財布らしきものは小銭入れだけで、これはAmazon で見つけた片手で開閉できるスグレモノです。オーガナイザーウォレットって云うのですかね。ひところ流行ったファスナーで閉じるタイプのお札を折らずにそのまま入るデカイ財布。ポーターとかイルビゾンテなんかのブランドものが人気で、それをパンツの尻ポケットに1/3くらい飛び出させて収納してる。これって、海外だったら問題外の収納の仕方ですね。どうぞ獲ってくださいと自ら宣言してるようなもの。1970年以前の財布と云うと、収納するお札を1枚ずつ小さく4折れにし、それを重ねて収納してる人が多かった。財布そのものがお札よりコイン収納重視型で、とにかくコインがいっぱい入るものが多かったですね。この時代、高度経済成長期とは云え、大阪万博が開催された1970年でさえ、ラーメン1杯96円てなご時世です。日常支払うのは圧倒的にコイン主流。そのため「チビ袋ジップ財布」が財布業界を席巻してました。金種ごとに分けられたレールに硬貨を収めていく「コインホルダー」も流行りましたね。これは1982年の500円玉登場を境に減少していきました。1977年にアメリカ人が考案した「サーファーウォレット」。マジックテープで開閉する財布ですが、考案したアメリカ人は特許をとってなかったために類似品が大流行り。この財布、開けるときにビリビリと音がしてダサイとすぐに廃れてしまいました。財布の歴史を振り返ると、平安時代のころはお金を紙に包んで懐中に入れてたらしい。そのあと、巾着みたいな袋に入れるようになり、江戸時代には長いひものついたポシェット型の銭入れが登場します。穴の開いてる貨幣はひもに通して持ち歩くこともありました。がま口が登場するのは明治に入ってからです。がま口と云う呼び名は、ガマガエルが口を開いた感じに似ていると云う他に、お金がカエル(返る)と云う縁起をかついでたことに由来します。がま口、もともはと軍隊で兵士の物入れとして使われてたのですが、明治4年に新貨幣が発行されると、舶来ものの財布の影響を受けて庶民に広まりました。そのころのがま口は「げんこつ」とも呼ばれてたそうです。ちなみに「財布」の語源は財宝を入れる袋から来てるそうです。呼び寄せたお金が一時的に滞在する借家みたいなものと云うイミらしい。がま口の口金についてるパチンとなるところは「らっきょう玉」と云います。ぷっくりと丸く、ツヤのある形状がラッキョウに似ていることに由来します。らっきょう玉、昔は「俵玉」や「こけし玉」と呼ばれていたこともあります。とは云っても、スマホ決済が浸透した今、そもそも現金を持ち歩かない若者も増えてるし、財布も最小限のお金で済むのでどんどん小型化してますね。中国では屋台にいたるまですべてスマホ決済が浸透してるのは、あまりに偽札が横行したためで、やむにやまれぬ事情だったのですね。
Apr 7, 2026
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ずいぶん前のことですが、大阪 道頓堀の「金流ラーメン」に食べにいきました。金流ラーメンは、大阪人だったら誰でも知ってる有名店で、「神座(かむくら)」と並ぶ老舗ラーメン店です。神座は一度だけ行ったことありますが、評判とは裏腹に口にあわないし、接客態度が最悪で二度と行くまいと心に誓ったお店。昔よく行った金流ラーメンは御堂筋に面した御堂筋店でしたが、このとき行ったのは道頓堀店、つまり本店です。金流ラーメンは豚骨ベースのシンプルな味で、白菜キムチやニラキムチ、きざみニンニクなどをお好みで好きなだけトッピング出来るのが特徴。しかし再訪した道頓堀店の味にがっかり。どこのラーメン店でもある平凡な味。昔、ひんぱんに食べてた頃は、もっとしっかりしたスープだったし、麺は昔ながらのストレートの中細麺だけどどこか違う。あるいは、高齢になって私の味覚が変化したのか?きのう息子夫婦が来たので、その話したら確かに金流ラーメンの味は落ちたと語ってました。そんな金流ラーメンの道頓堀店が一昨年、ニュースで取り上げられたことありました。金流ラーメンと云えば、ド・ハデな龍のオブジェ看板が有名ですが、龍のしっぽ部分が隣接地にはみ出ていると土地所有者との間で訴訟があり、金流ラーメンが敗訴したんですね。判決を受け、しっぽ部分を電動カッターで切断してしまったのです。それもまた話題のひとつになって、今でも大勢の観光客が殺到してるのですね。この金流ラーメンの看板、チョット目には香港あたりで見かけるようなインパクトのあるものです。それだけではありませんね。道頓堀の看板は、どのお店でも超ド・ハデ!「かに道楽」の7m もの長い手足を動かす看板だったり、コロナの影響で閉店してしまった大阪 新世界にもあった「づぼらや」の巨大な「ふぐ看板」、食のデパート「くいだおれ」の太鼓を叩いてるメガネのオッサンと異様なものばかり。大阪人はとにかく目立ちたがりです。東京と比べて千林商店街のヒョウ柄オバサンを持ち出すまでもなくファッションもハデだし、女性のメイクも濃いめ。そんな気質が道頓堀のあのハデハデ看板にマッチしているのでしょうか?ところが大阪の看板は昔からハデだったワケではないのです。むしろその逆で、昔の大阪では、看板よりも「のれん」が重視されてたため、むしろ看板は地味めに作られてました。商人がむやみにハデにするのは信用を損ねるもとになると、目をひくような看板は嫌われたのですね。豪商になればなるほど、着物も質素なものをまとい、つとめて地味に振る舞ってたのです。そんな大阪気質が変化して、「目立ってナンボ」みたいな看板に変化したのは「目立ちたがり精神」以前に物理的な理由があったからなんです。東京の銀座あたりでは、屋外広告はビルの屋上に設置されてることが多いですが、これは銀座には背の高いビルが多く道幅も広いので、通行人の視線が上に向きやすい。それで高い位置に看板を設置して、遠くからでもよく見えるようにしてあるんですね。ところが大阪の繁華街は道幅が狭い上に、背の低いビルが多い。つまり通行人の視線はビルの屋上よりも壁面にいきやすい。それで大阪の看板は壁面に設置されてるのが多いのですね。それに加えて道頓堀の場合は、ネオンが道頓堀河の水面に映えることも計算に入れて作られてます。水面に映ることを考えると、看板は壁面に作った方がよく見えるし、地味なものより、光った看板の方が夜景によく映えます。そんなが大阪にハデハデ看板が育った理由なんですね。同じ大阪でも北の梅田(大阪駅)界隈は高層ビルが多いし、開けてるので屋上広告が多いです。
Apr 6, 2026
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放送用語で番組開始の直前(提供クレジットの前)に流されるスポットCMのことを「カウキャッチャー」と云います。「前につけられたもの」と云うイミです。カウキャッチャーは、番組の視聴率や聴取率が適用される枠で、注目度が高いのですね。で、この「カウキャッチャー」と云う放送用語、どこから来たものでしょう?実は昔の蒸気機関車がその語源です。「国鉄7100形蒸気機関車」と云ってもピンとこないでしょうが「弁慶号」と云えば、あぁアレねとなる方も多いでしょう。現在は埼玉県さいたま市にある鉄道博物館で見ることができます。 この蒸気機関車、もともと1880年(明治13年)に北海道初の鉄道(官営幌内鉄道)の開業にあたり、アメリカから輸入された蒸気機関車なんですね。この弁慶号は、西部劇から抜け出てきたようなアメリカの古典的スタイル機関車で、その前方を見ると「犂(すき)」みたいなものが取り付けられてます。これの名称が「カウキャッチャー」なんです。1926年に公開されたバスター・キートン主演のサイレント(無声)映画「大列車追跡」では、このカウキャッチャーによじ登ったキートンが走る列車で活躍する姿が描かれてます。このカウキャッチャー、英語の綴りは「Cow Catcher」です。「Cow」=「牛」さんですね。つまり牛などをできるだけ傷つけずに、すくうように受け止めて、左右に跳ね飛ばすための装置なんです。「キャッチャー」と云う名前がついてるけど、実際は「跳ね飛ばす」んですから逆の役目の装置ですね。原野を走る区間が長いアメリカや中国などでは、線路上に大型動物が入り込む事が多く、幹線で運用される大半の蒸気機関車に装着されました。そう云えばニンテードースイッチに同名のゲームがあったけど、アレはムササビスーツの主人公が牛を追いかけるゲームでした。カウキャッチャーとは呼んでませんが、明治や大正時代の路面電車では人身事故がよく起こったために、車体前面下部に救助網を取り付け、人を傷つけずに受け止めるようにしていました。こっちは実際にキャッチするための装置です。この鉄道のカウキャッチャーが語源になって、放送用語が生まれたのですね。
Apr 5, 2026
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昔の時代劇映画なんかを観ると、百姓一揆なんかのシーンで、すごい勢いでお百姓さんたちが走って代官所なんかに押し寄せる場面がでてきますが、あれは現実には無い話です。せいぜい早足程度。なぜなら昔の一般日本人は「ナンバ歩き」をしていたからです。現代人だと歩くとき右足が前に出たら左手が同時に出ますね。次に左足が前に出ると右手が前に出る。足と腕の振り方が逆になってるワケですが、ナンバ歩きってのは右足と右手、左足と左手を同時に出す、日本古来の歩行法です。上半身と下半身のねじれをなくし、骨盤を動かして「すり足」気味に歩くことで、無駄な力を省き、長距離でも疲れにくく腰の負担も少ない、効率的な歩き方として再評価されています。着地するときも踵からではなく、足の指の付け根から接地し、すり足気味に歩くのが特徴です。現代人が一日に歩ける距離は30~40km と云われてますが、ナンバ歩きをした場合は、1日に100km 以上歩くことも可能なんですね。前傾して歩くので、歩幅も20~30% 広くなり現代人の歩き方よりも疲れにくいのでこのように距離を稼ぐことが出来るのです。それが飛脚になると、ナンバ歩きを早足でする(ナンバ走り)ので、歩きよりもチョット速い速度で長距離をかせぎ荷物を届けることが可能なんです。江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490km の街道を、最速丸3日、72時間という記録があります。もちろんリレー方式で、一睡もせずに行ったようです。火事や戦で狂乱状態になったとき、庶民が逃げ散ってる様を描いた昔の絵がありますが、あれを見ると、みんな両手があがってます。盆踊りみたいな、泳いでるみたいな恰好なんですね。あれは自分の身体を精一杯早く前に運ぼうとする状態なんですね。しかし武士ともなると戦場に行くのに早足ていどでは戦になりません。武士は走れました。しかし、その走り方は現代人とは大きく異なります。走る時に腕を振らないのです。なぜかと云うと、いつでも刀を抜けるようにしなければならないから。独特の走りだったのですね。と云うワケで、武士やナンバ走りのできる飛脚を除いて、昔の庶民にとって早く走ると云うのは、泳げることと同じくらいひとつの技術だったワケです。一生 走ったことないと云うのが普通の人です。だから走り方を見て、あぁこれは武士だとか、飛脚だとか、一般人か分かるのですね。忍者が町人の姿にやつしても、ヘボな忍者だったら見抜かれるワケです。
Apr 4, 2026
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もともとの「おでん」は、今とはまったく違う食べ物で「豆腐田楽」のことだったらしい。豆腐田楽は、豆腐に味噌を塗り、竹串に挿してあぶったものですね。この「田楽」の「楽」が略された上「お」がついて「おでん」になったらしいです。その豆腐田楽が今の「おでん」に進化したのは19世紀に入ってからのこと。それまでの焼き田楽に対して、こんにゃくや野菜を串に挿して茹で、甘味噌をつけて食べる「煮込み田楽」が登場しました。さらに幕末になると、具を出汁で煮て、砂糖や醤油で味付けする「おでん」になったワケです。おでん出汁で、関東は鰹節をベースに濃口醤油とみりん、砂糖を加え、色が濃く、甘辛くコクのある味わいが特徴ですね。醤油の風味が強く、長時間煮込んで具材にしっかり味を染み込ませる「濃いめの味」が好まれるし、これが はんぺんや魚の練り物と相性が良いのですね。また長時間煮込むことで、大根や玉子などの具材が茶色く染まり、芯まで味が染み込むのが特徴ですね。この濃厚な出汁は、江戸の屋台文化から発展し、お酒の肴としても親しまれてきた歴史があります。ところが、この関東風のおでん出汁が関西人には理解不能。「あんな真っ黒なモン、辛ろうて食べられへん」となるワケです。なんせ関西のおでん出汁は、昆布と鰹節をベースに、薄口醤油と塩で味を整えた、透明感のある上品な薄味が特徴です。具材の風味や色味を活かすため、醤油の香りが強く主張せず、出汁本来の旨味を味わう仕上がりになるんですね。具材も牛すじや大根などが定番で、これらから出る旨味が相乗効果を生んでいるのですが、関東では牛すじそのものがあまり売られてないですね。関西人に云わせると、牛すじはコラーゲンや旨味が出汁に溶け出してなんとも云えない美味しさがあるのに。もっとも、最近は牛すじが全国区になりつつあるようですね。出汁に使う鰹ぶしにも関西と関東で違いがあります。関西ではカビつけをしない鰹の「荒節」が好まれます。荒節は、焙煎の香りが残ってスッキリとした香りと酸味が特徴です。一方関東では、江戸の中期頃からカビつけした「枯節」が好まれるようになりました。枯節は甘味があって上品な香りが特徴で、よりまろやかな味わいが楽しめます。関東の出汁が濃いのは、味付けに使う濃口しょうゆが原因ですね。濃口しょうゆはどっしりとした味わいで、煮物から焼き物までしっかりと味付けしてくれます。一方、関西出汁に使われる薄口しょうゆは、香りを抑え、あっさりとした味わいが特徴的です。関西は素材の風味つけ程度に使うことから、薄口しょうゆを使うのですね。ところが関西人はおでんのことを「関東炊き」と云います。東から輸入された おでんを関西人は関東炊きと云うネーミングで関西独自の味付けにし、独自の具を加えていったのですね。牛すじもそうですが、捕鯨が盛んなころは必ずおでに入ってた具があります。クジラの背中の皮である「コロ」をおでん種に使ってたのです。関東では基本的に肉類は入れないですが、その分、練り物が種類豊富ですね。ヨメの実家があった大田区の商店街に行くと、まぁどんだけ~と云うくらい練り物を種類豊富に並べてるお店がありました。その関東の練り物で関西人のほとんどが目にしたこと無い具材があります。「ちくわぶ」です。私もヨメと結婚するまで存在すら知りませんでした。初めて名を聞いたときは「麩なん? ちくわなん?」。まぁ、食べても特段に美味しいとは思いませんでしたが...あと関西ではイワシで作った「つみれ」を入れない家庭が多いですね。
Apr 3, 2026
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神戸の観光名所と云えば中華街の「南京町」と「異人館」と相場が決まってます。南京と云う地名は中国の一都市の名前だし、蔑称的だと、横浜でも使われてた南京町と云う地名は「中華街」と改められました。しかし神戸では南京町のまま。これは、神戸の中国人たちが「南京町」と云う呼び名に嫌悪感を抱かなかったからです。彼らは古くから日本人社会と良い関係を築いてきたので、南京町と云う地名に親しみをもってたのですね。それでは「異人館」はど~でしょう?これが関西人と云うより神戸人で行った人は少ないんぢゃないですかね。今の大阪人が道頓堀に行かないように、神戸っ子にとって異人館は行きたくない場所の筆頭でしょう。行くとしたら、他府県から友人が来て観光のお供にいやいや付き合わされるくらい。神戸の異人館は幕末から明治にかけて欧米人の住宅として建てられた西洋館です。当時の居留地に建てられ、すべて高台にあるのですね。当時の西洋人は高台の家から坂を下り、海外通りにあった仕事場に向かい、仕事が終わったらまた坂道を歩いて家に帰っていったのです。で、その坂がハンパないのです。私も一度訪れましたが、もう二度とイヤだとそれ以来再訪してません。観光パンフレットには「迷路のような細い坂道を歩いていくと、いつしか時間が止まったような不思議な空間が現れる」なんて記述されてますが、行ったら止まるのは「時間」ぢゃなくて「身体の動き」としみじみ感じさせてくれます。よくまぁ、明治期の西洋人は毎日こんな坂を下りたり登ったりできたものです。とくに「うろこの家」と呼ばれる旧ハリヤー邸への道は非常に急で狭い石畳の坂道になっていて、かつ段差があるので自転車も車椅子もきついところに有ります。このうろこの家に至るのが「北野オランダ坂」と云うすれ違うのもやっとの幅しかない急勾配の坂なんですね。こんなとこ、あえて行きたいと思うほうが普通ぢゃない...と、私は思ってます。長崎にも同名の「オランダ坂」がありますが、長崎のも急だけど、まだ道幅が広いだけマシ。ここも長崎で居留してた外国人を「オランダさん」と呼んでたことから名づけられたそうですが、当時の西洋人は坂道好き?もうずいぶん昔に長崎のオランダ坂も訪れましたが、当時 若くっても私には一度で堪能しました。
Apr 2, 2026
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なんとか壊れたPCのソリッドステートドライブ1台からデータを取り出せたので、今日はまともなブログになります。よく京都を「千年の都」と云いますが、この千年と云うのは794年桓武天皇の平安遷都から1869年の明治維新で東京奠都までの約1,100年間を指します。平安時代は後の武家政治と違って、天皇中心の華やかな貴族社会が築かれました。この1000年にわたる伝統行事や風習が現代の京都の生活にも息づいているのですね。この平安時代の前はご承知の通り奈良に都があって、天平文化はなやかりし奈良時代。聖武天皇は、741年に全国に詔して、国分僧寺や尼寺を全国に建てさせ、また良弁を開山の師として東大寺の造営をおこないました。それが有名な奈良の大仏(廬舎那仏金銅像)建立に繋がったのですね。奈良には平安時代よりさらに古いこの時代の建物が多く残っています。では京都で平安時代の建物はいくつ残ってるでしょうか?先ずは「平安神宮」?いえいえ平安神宮は、遷都1100年を記念して明治28年(1895年)に京都市民の寄付によって創建されたものです。京都の神社ではもっとも新しいものなんですね。となると何処でしょう?「金閣寺」は足利義満の別邸だったところを死後、お寺にしたものだから室町時代。しかも1950年(昭和25年)に放火で焼失、1955年に再建されたものだから昭和の建物。「清水寺」は奈良時代末期の778年に開山されましたが、本堂や多くの堂塔は江戸時代初期の1633年に徳川家光の寄進によって再建されたものだから、建物そのものは平安時代のものでない。「伏見稲荷大社」の本殿は、室町時代の1488年に再建されたものだし、朱塗りの大きな楼門は豊臣秀吉が1588年に建立したものだから安土桃山時代。「八坂神社」の本殿は、江戸時代前期の1854年に4代将軍徳川家綱によって再建された建物だし。「南禅寺」は鎌倉時代後期の1291年に亀山法皇によって創建されたもので、しかも多くの建物が戦乱で焼失。現存する伽藍は、江戸時代初期に再建されたものですね。そうなると平安時代の建物って何処に有るの?実は京都に平安時代の建物はひとつも残ってないのです。えぇ~っ!?と思われるでしょ。平安時代より古い奈良時代の建物が奈良に残ってるのに、なんで京都に平安時代の建物が無いのか。その最大の理由は、両時代の建物の性質によります。奈良に残る奈良時代の建物は寺院ばかり。平安時代以前で現存する建物は全国に67棟ありますが、そのうち63棟は寺院建築です。長い歴史を経たとき、もっとも残りやすいのは寺院建築なんですね。ところが平安京では、当初、宗教政策上の理由から、東寺と西寺を除いて、都の中に寺院を作らなかったのです。これが京都に平安時代の建物が残ってない最大の原因です。地理的な理由もあります。平安時代、都が築かれたのは四条河原町を中心とする現代の繁華街よりやや西側にあたる場所です。そのあたりは湿地帯で、建物を建てても長い年月耐えることが困難だったのですね。さらに中心地がしだいに東側に移ったため、平安時代に建てられた西側の建物は管理や補修がじゅうぶん施されなかったのです。さらに多くの自然災害と応仁の乱をはじめとする政権争いによる人災もありました。こうした要因が重なって京都に平安期の建物がひとつも残らなかったのです。
Apr 1, 2026
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