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ウエイン・W・ダイアー著『自分のための人生』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ちなみに、この本を訳したのは渡部昇一氏。何せ『知的生活の方法』で世に出た人だけに、英文学者兼右翼の論客でありながら、この種の自己啓発本、好きだよね~。 さて、ウエイン・ダイアーという人ですけれども、1940年生れで昨年亡くなった心理学者。自己啓発の系列で言うと、アレだね、アドラー/マズロー系のパーソナル心理学だね。そして、ちょいコヴィー系。なんで「コヴィー系」かと言いますと、本書の割と冒頭の方で、いずれ来る「自分の死」というものと向き合おう、そうすれば、つかの間の人生、何をやるべきか、というのはおのずとわかってくる、的なことを言っているところがあって、これはスティーヴン・R・コヴィーの主張と通じるのでね。 で、そのアドラー/マズロー系の自己啓発のキモは何かというと、徹底的に個人としての人生を生きる、というもの。社会の在り方とかは、個人の力ではどうにもならないのだから、だったら、その中で如何に個人として充実して生きるかを考えた方が得だ、という考え方をする。 で、そういう風に生きるにはどうしたらいいか、という話なんですけど、そこでダイアーがまず強調するのは、「今、この瞬間を生きろ」ということ。 ダイアーが見るところ、人間ってのは、「過去を悔む」か、「将来を不安に思う」か、そのどちらかで人生の大半を浪費していると。だけど、過去を悔んだって、今更どうしようもないし、将来はまだ来ていないのだから、心配したってしょうがない。だから、そんなことは放っておいて、徹底的に今を生きろと。 うーん。それは確かにそうなんだよね。考えてみると、私自身、過去の失敗に拘泥し、将来のことで頭を悩まして、現在の生に集中していないことが多々ある。耳が痛いです。 それから、もう一つ、ダイアーが指摘するのは、大体の人間が、本当の自分自身を生きていなくて、他人が規定した自分を生きていると。 例えば、小学校の時に先生から「あなたは算数がちょっと苦手ね」と言われた一言で、ずーっと「自分は算数・数学は駄目なんだ」と思い続けて、その方面のことを避け続けて一生を終えてしまう、なんてことがよくあると。 ダイアーは、人間の能力に大した差などないと主張しております。時間さえ十分にかければ、誰でもどんなことでもマスターできる。だから、「私は算数・数学の勉強に十分に時間を割かなかった」というのは正しいけれど、「私は算数・数学の才能はないんだ」と考える必要はまったくない。賢さは、遺伝でもなければ、他人から規定されるものではなく、自分で選択するものであると。 同じように、自分の容貌・体格的なことについてもコンプレックスを抱く必要などまったくない、とダイアーはいいます。例えば顔の美醜は生まれつきのもので変えられないとしても、それに対する自分の見方は変えられる。ならば、自分で自分の顔を好きになればいいのであって、自分の好みを他人に指図される必要はまったくない。 自分の能力や価値は自分で選択し、そして、今、この瞬間をどう充実させるかを、自分本位で選択する。この「選択」というのがダイアー心理学のポイントですな。 だから、ダイアーは自分の感情も自分で選択しろといいます。 普通、人は「感情」というのは、自然発生的に発生するので、自分ではコントロールしようがないと思っているけれども、そんなことは嘘っぱちであって、感情だって、自分で選択できる、とダイアーは言います。 例えば自分の子供が自分の言うことを聞かなくて、ついカッとしてしまうことがある。だけど、それは実は「カッとすることを選択」したにすぎないと。そうすれば、怒りが発散できるし、子どもはビビるし、都合がいいからその選択をしただけだと。だけど、そういう選択をしたことで、長い目で見れば、子どもとの関係が悪化するなど、損をしていることも多い。 だったら、「怒らない」という選択をすればいい、とダイアーは言います。 一事が万事。感情は、常に選択の結果だと喝破すれば、今後、何かの折にむらむらとある感情が湧き起ってきた時、その感情に身を任すか、それとも別な感情を選択するか、その判断ができるようになる。 要するに、自分本位の選択をすることによって、過去の過ちからも未来の不安からも他人の評価からも、また自分自身の感情からも自由になれ、ということですな。 で、「過去」とか「未来の不安」とか「他人の目」とか「自身に対する過小評価」とか「自分の感情」とか、そういうものをダイアーは「erroneous zones」と名づけます。つまり、間違いを引き起こすゾーン、とか、失敗へ続く道、ということでしょうか。ちなみに、翻訳者の渡部昇一氏はこの「erroneous zones」のことを「錯信帯(さくしんたい)」って訳しているんだけど、意味不明ですな。 ま、それはともかく、 だから、群れるなと。他人がどう自分のことを思おうと、そんなこと一切気にするなと。とにかく、自分が幸福だと思う道を選べと。 また、ダイアーのアドバイスによれば、他人との関係についてもすべて自分本位でやれ、ということになります。 例えば他人が自分を頼ってきたら、容赦なく断れと。 他人は他人で、自力で人生を歩めばいいので、俺に頼るな、と申し渡せと。 他人との付き合いは、その付き合いをすることで自分にとってメリットがあるときだけ付き合えばいいので、不本意な付き合い方なんてしなくていいと。同じように、自分も他人を頼ってはいけないし、自分の考え方を他人や社会に押し付けようと思ってはいけない。 そうやって、天上天下唯我独尊で生きて行けと。それがダイアーの人生哲学ですな。 ま、個人的な読後感を申しますと、全体としてかなり納得できる内容ではありましたね。特に「現在を生きろ」という主張と、「感情は選択できる」という主張に関しては、その通りだと思うし、もしそれを実行できたら、人生は大いに改善されると思います。 あと、「すべて自分本位で決めろ」「他人のことは基本、かまうな」という点、この点が特にアドラーっぽいところですかね。アドラーは、「人生の悩みはすべて対人関係だ」と言っているわけだから。その点、その問題を引き起こす対人関係を、すべて自分本位の観点から切断してしまうダイアーの行き方は、アドラーの主張を踏まえた上での、一つの解決策の提示、というところがある。切ってしまえば、そもそも対人関係のトラブルはなくなるわけだから。 まあね、特に他人との関係については、「ダイアーの言う通りにしていたら、功利的な人間関係しか構築できないのではないか」とか、「親子関係は損得では判断できない」とか、批判されそうな感じもしますけれども、ダイアーからすれば、「そんなこと言っているから色々問題が生じるので、自分はその対処法を示しているだけだ」と言うところでしょう。 だから、別に「ダイアーのアドバイスする生き方がベストだ」とする必要はないのだけど、ケース・バイ・ケースで彼のアドバイスを部分的に取り入れる、というあたりが、この本の使い道なんじゃないかな。自分のための人生 [ ウェーン・W.ダイアー ]価格:637円(税込、送料無料)
June 30, 2016
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一旦始めたらもう楽しくなってきちゃって、大学にいる間、暇さえあれば本の処分に精を出しております。 若い時は、「将来、この本が参考になるかもしれない」「有名な本だから、とりあえず持っておこう」とかって、本をジャンジャン貯め込んでいたわけですけれども、もうこの歳になると、本に対する感覚が完全に逆になってくるというね。 つまり、「もう、この先、この本を読むこと(読み直すこと)はないな」というのがハッキリわかってくるわけ。 自分の研究テーマも明確に決まって来ているし、この先、その路線で研究が深まることはあれ、他の方向に拡散することはない、というのがもうわかっちゃったわけよ。それに、そんな色々やっている時間もない、というのもわかっているし。 そうなってくると、もう、この先、一生読まないだろう本、というのが、研究室の棚にごっそりあることがたまらなくなってきちゃって。 だから、もう、ガンガン捨てることにした。校費で買った本はどんどん図書館に返し、私費で買った本も処分する。図書館なんて、私が返却した本の山で半分傾きかけているよ。 で、その私費本の処分の仕方なんですけれども。 今ね、研究室の外の廊下に棚を出して、そこに要らない本をどんどん置いているの。それで、「どなたでも、これらの本が欲しい人は持って行って下さい」という貼り紙を付して。 だけど、見ていると、あまり減らないね。今時の学生さんは、本がタダでも、持っていかないのかね。 ところで、本を処分しようとなった時に困るのが、同業者からの「寄贈本」ね。 こういうと、人でなしみたいだけど、研究対象がまるで違ったりすると、寄贈してもらってもあんまり役に立たないんだよね・・・。それも、一人で全部書いた本ならまだしも、論文集とかだと、たいてい玉石混交だし。それでいて、いざ処分するとなると、申し訳なくて、ついもう一度書棚に戻してしまったり。 だから、この先、自分が本を出す時も、あまり調子にのって同業者に寄贈したりしない方がいいのかなと。反省しました。 ま、それはともかく、こんな感じでしばらく「持ってけドロボー」状態にしておいて、それで残った本はブック○フにでも売ってやる。売ったって、幾らにもならないのは分っているけれど、コーヒーとケーキ代くらいにはなるかも知れないし。 いいじゃん? 若い時に、お金もないのに無理して買った本を二束三文で売り払って、一杯のコーヒーとケーキに変えるなんてさ。 これが「文学」ってもんじゃないの?
June 29, 2016
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ゼミの時間にたまたま話題がニューヨークの地下鉄の話になったのですが、その時、ゼミ生の一人、通称「シスタ」が、ニューヨークの地下鉄で危ない目にあったということを言い出しまして。 彼女がニューヨークで地下鉄に乗った時、黒人のホームレスの兄チャンが近づいてきて、いきなりラップを始めたと。 で、曰く、「俺には家もねえ、彼女もねえ、おまけにぜんぜん金もねえ! かわいいネエチャン、アンタ金持ってんだったら、ちょっとばかり俺にくれえ!」みたいなことをラップでかましつつ、小銭の入った紙コップを突き出してきたんですと。 で、結局シスタは少しばかりお金をぶんどられたらしいのですけれども、えー、向こうがそんなことをラップで言ってくるんだったら、こっちはこっちでラップで言い返してやりゃーいいじゃん! 日本人なめんなよって感じで、「こっちだって金なんかねえ! テレビもねえ! ラジオもねえ! クルマもそんなに走ってねえ!」って。 あ! 吉幾三・・・。 あれはラップだったのか・・・。
June 28, 2016
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イギリスがEU抜けて大騒ぎ、ですけれども、よく考えればさ、そっちの方が普通じゃね? そもそもEUっていう考え方自体、不自然だものねえ。参加国が大体同じくらいの経済力で、考え方も近くて、っていうのならまだしも、実際にはそうじゃないし。 それに、EUみたいなのをアジアでも作ろうとか言って、日本もあの国やあの国やあの国やあの国やあの国やあの国やあの国なんかと一緒になって、通貨も「円」じゃなくて「アジーロ」にして、人の行き来も自由にして、なんて、やりたいと思う? 私は思わないな。 やっぱり、国の単位って、当たり前だけど、国民国家で行くのが一番自然なんちゃうのん? そう考えると、逆に、EUって今までよく持ったと思うよ・・・。 で、この流れでスコットランドがもう一回、独立するかどうかの国民投票やる、っていうのも、まあ、あり得る話で。 『西国立志編』の著者、サミュエル・スマイルズってスコットランド人なんだけど、その人のことを私がある文章の中でうっかり「イギリスの・・・」って書いたら、速攻で「いや、彼はスコットランド人だから」ってクレームが来たもんね。つまり、我々日本人が思っている以上に、スコットランド人は「自分ら、イギリス人じゃないけんね」という意識があるんでしょう。 またヨーロッパがばらばらになって、フランスはフラン、ドイツはマルク、・・・みたいになっても、もともとそうだったんだから、いいんじゃないですかね。なんかその方が、趣があるし。国が変われば通過も変わる。外国に行ったという実感が湧くじゃん。 なんとなく、何やってんだイギリス、ダメじゃないかEU脱退したら! 的な言論が横行しているようなので、敢えて私見を書いちゃった。でも、所詮、素人の考えることだから、間違っているのかも。そこは大目に見てね! ただ国民国家の考え方が先鋭化してくると、また戦争になるから、そこはそうならないようにちゃんとしていただきたい。それは、そう思いますね。
June 27, 2016
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今日は道場の方で昇段試験と合同稽古がありましたので、休日にも拘らず参加して参りました。 昇段と言っても、私は関係ないのですが、いつも一緒に稽古している仲間の何人かが初段から二段に昇段しますので、その応援も兼ねて。と思っていたら、師範から昇段試験のため演武の受け手を務めてくれと頼まれてしまいましたので、昇段される方々の技を受ける役目を果すことに。 昇段試験を受けられる方々に比べればアレですけれども、やはり居並ぶ師範の先生方の前で技を受けるわけですから、私も少しだけ緊張。受け手というのは、決して「技が効いているフリ」をする必要はないのですけれども、それでもやはり上手に受けてあげると、技を掛けている方もやりやすいところはある。ですから、相手が気持ちよく技をかけられるように、いい感じで受けてあげる必要はあるわけ。 その辺の塩梅も含め、少しはお役に立てたかなと。で、本日受験された皆さんは、それぞれ見事昇段を果されたのでした。目出度し! で、その後は、合同練習となったのですが、合同練習では別な道場の師範の先生や、普段お目に掛からない別な道場の門下生の方々ともお手合わせ願えるめったにないチャンスですので、私も積極的に初めてお目にかかる先生方や門下生の方々にお声かけをして、練習してきました。なにせ1時から5時まで4時間の長丁場でしたので、最後の方はバテバテでしたけれども、いい稽古ができました。 稽古では、その都度何らかの発見があるものですが、今日の一番の発見、というか、新たに見つかった課題は、「真直ぐに落とす」ということ。 八光流では、筋力はなるべく使わず、重力を使うことが大きなポイントになっているのですけれども、重力を使うには、真下に落ちることがかなり重要。脱力して支えを外せば、モノは真下に落ちるわけですから、その当たり前のことを実際に行なえば、可能な限り省エネで相手を崩すことができる。 ところが、この「真下に落とす」というのが、簡単なようでいて難しいんだなあ。 例えば、前に突き出した両腕をダランとさせれば、腕は腕の長さで円弧を描きながら身体の両脇に戻ってくる。 でも、それは円を描いていますから、下に行くに従ってカーブしますよね? つまりは、真下に落ちているのではないわけだ。 そこで、なるべくカーブしないように真下に落とす必要があるのだけれど、かといって力づくで真下の方向に引きずって行こうとしても、八光流の技は掛からない。筋力を使ったのでは、相手に反応されてしまって、途端に力比べが始まってしまうんですな。それではだめ。 脱力しながら、しかもなるべくカーブをさせないようにして真下に落とす。この塩梅が、苦労するところなのよ。下に行くに従って、両肩を少し前に出すとか、下に行くに従って少し肘を伸ばすとか、総合的になるべく真下に落とすようにする方法を模索するというね。 ま、でも、そうやってあーでもない、こーでもないと言いながら、考えを巡らしたり、考えを巡らしすぎてドツボに嵌れば、今度はなるべく考えないようにしたり、ということを繰り返して稽古するのが楽しいのでありまして。 ってなわけで、このところ仕事と雑用で目の回る忙しさなのですけれども、今日は久々に半日、稽古に没頭した一日となったのでありました、とさ。今日も、いい日だ。
June 26, 2016
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いやあ、今日はね、いいことがありました! この3月に巣立っていった私の元ゼミ生3人と久々に会ってきたんです~! で、まずは新栄駅の真上にあるヤマザキマザック美術館で開催中の「アイズピリ展」を見まして。アイズピリって、今年の1月に96歳で亡くなったフランスの画家ですけれども、明るい色使いの特異な作風で、系統としてはデュフィ系? みたいな感じ。絵として深みはないけれど、色が明るいので、インテリアとして部屋に飾るには案外、いいかも知れません。 マザック美術館はこの他、18世紀あたりのヨーロッパの絵画とか、クラシックな家具、それにドーム、ガレ、ティファニーなどのガラスの美術品の展示もあり、なかなか良かったです。 で、そこからカフェでのお茶タイムを挟んで、マザック美術館の下にある「トペ」というレストランで贅沢なコース料理に舌鼓。ここの売りは前菜やデザートのワゴン・サービスで、前菜5品、デザート2品を自由に選べるのですけれども、これがまた目移りしそうなほどどれも美味しそうなものばかりで、実際食べてみても旨い! もちろん、コース料理そのものも何種類かから選べて、私はラグー・ソースの平打ち麺のパスタとウズラのローストを選びましたが、どちらも非常に美味でした。 そして、4月、5月、6月と、三ヵ月間に亘って新社会人としての経験を経た教え子たちの近況を聞いたり、私自身、あるいは勤務先大学の近況を知らせたりと、互いに旧交を温めたのですけれども、それぞれ元気に活躍しているようで、やっぱり若い人たちが新しい環境の中で我が行くべき道を模索している様というのは、いいものだなと。中には恋の悩みでちょっと深刻な部分もありましたが、めちゃくちゃに悩んでこその恋だからね。それはそれで、やっぱり素晴らしいことなんじゃないかと。 で、この上なく美味しく、楽しい時をすごした揚句ですよ、なんと、今日の食事は彼ら三人が私におごってくれるのだと! つまり、初任給・・・ではないけれど、自分たちが稼いだお金で、私に御馳走をしてくれたのだと!! まじで! えーーー、こんなリッチなディナーを私にプレゼントしてくれたの~! うそ、もう、泣きそう。まじで涙出そう。就職一年目で、手取りにしたらそれほどはもらってないはずだし、せっかく自分の労働で稼いだのだから、色々買いたいものだってあるはずなのに、その貴重な貴重な給料の一部で私に御馳走してくれたのかい・・・。 あー、こういうのを教師冥利に尽きるっていうんだろうね。もう、死ぬほど嬉しい。 ほんと、ありがとう。今日のことはずっと忘れないよ。私は、気質的には完全にシシリアン・マフィアだからね。恩は決して忘れない。お前ら三人、俺の「ファミリー」だ。 ということで、今日は最高に嬉しい一日となったのでした。
June 25, 2016
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5月25日に読み始めたものの、他の本に手を出したりしていたもので、読了が遅くなってしまったのですが、ようやくマクスウェル・マルツの『自分を動かす』(原著は1960年に出版された大ベストセラー)という本を読み終わりましたので、もう一度心覚えをつけておきましょう。 前回も記しましたが、マクスウェル・マルツに関して興味深いのは、彼が整形外科医であるということ。事故などによって顔に負傷したとか、あるいは生まれつきの自分の顔立ちに自信が持てなくてコンプレックスになっている人を、外科的手術で助けてきた経験からものを言っているというのが、非常に独特なところ。 そんな彼の経験から言うと、人間というのは、客観的な事実ではなく、自分が思っているイメージによって自己規定するものであると。 だから、客観的に見ていくらハンサムな人間であろうが、本人にコンプレックスがあって、自己イメージが悪ければ、どうしても積極的にはなれないわけ。 しかし、マルツ曰く、そうした自己イメージは変えられると。その「変えられる」というところが、もちろん、ポイントであります。だからこそ、人間は自分の力で自分の人生を変えられるという、ポジティヴな発想が出てくるのであって。 で、このあたりで登場するのが、マルツの特異な言葉遣いである「成功へのサーボ機構」というもの。 もっとも、この「成功へのサーボ機構」というのが、イマイチ、何を言っているのかよく分からないのですけれども、「標的に向って飛んでいくミサイルの制御機構」みたいなものをイメージしているらしい。そして、人間の脳とか神経系にはそういうものが備わっているんだと。 つまり、人間が到達したい目標を明確に設定しさえすれば、そこに到達するまでの過程で様々な予期せぬ状況が生じても、そのサーボ機構が必要な修正舵を効率よく加えてくれるので、ミサイルが的に命中するように、あなたの目的も達成されますよ、的なことを言わんとしているようなんですな。 例えば、ある問題を解決しようとしている科学者が、ずーっとその問題を考え続けた挙句、夜、夢の中で突如、その解決法を思いついたりする。それは、サーボ機構がそのように(自動的に)調整した結果だと。 だから、重要なのは、正しい自己イメージを確立し、その上で正しい目標設定(「正しい」というのは、「現実的に達成可能な」という意味)をする、ということであって、その第一歩さえ踏み出せば、後は「目標を達成して喜んでいる自分」をイメージしているだけで、自ずと結果はついてきますよと。(ここでエマソンの「実行せよ、そうすれば力が与えられる」という言葉の引用あり) もちろん、このサーボ機構を働かせるうえでカギとなるのが、先程も言いましたように、「自己イメージ」。成功者としての自分をイメージしないと、そもそも成功へのサーボ機構も上手く働かないんですな。だから自尊心を持ち、成功した時の記憶を繰り返し想起し、自分は絶対達成できる、という信念を持つことが重要。 と言っても、まるで運動をしたことの無い人が、「明日から頑張って、オリンピックで金メダル取る」とイメージ・トレーニングしたってダメ。あくまでも目標は現実的に。 というとガッカリしてしまう人も多いわけですけれども、マルツによれば、人はナンバー1になれなければ意味がないと思いがちだけれども、そんなことはないのであって、神さまは一人一人違う人間として作られたのだから、人と競う必要なんかないと。人の比べての劣等感こそ、成功へのサーボ機構をうまく機能させられなくするものなので、それはまず排除すべきなんですって。 このことに伴ってマルツがアドバイスするのは、「自分」と「間違いをしでかした自分」は別物だと考えること。人って、「間違いをしでかした自分」と「自分」を同一視しがちなので、つい、「自分は駄目な奴なんだ!」と思いこんでしまいますが、「間違いをしでかした自分」は「過去の自分」ですから、「今の自分」とは別人です。だから、「自分は(過去に)失敗した」と認識するのはいいけれど、「自分は失敗者だ」と自己規定するのは正しくない。それは劣等感に直で結びつきますからね。 で、劣等感なんて寄せ付けないでおいて、むしろ幸福感を抱くことがいいと。エマソンが「どんなことにも良い点があります。それを見つけようとするのは、健康な心を持っている証です」と言っているように、いいところを見つけることをクセにすることが重要。幸福とは、要するに、いいところを見出そうとする習慣であると。 また、世間の常識とか、そういうものも、「成功へのサーボ機構」を働かせなくなる要因になるとマルツは言います。つまり、「そんなこと無理に決まっている、絶対失敗するさ」というような他人の考え方を、人は無意識のうちに取り込んでしまうわけですな。人間の脳とか神経系は、現実と、偏見を区別できないので、もし他人の偏見を取り込んでしまったら、それを現実と認識し、「できないんだ」と判断してしまう。 だから、そういう偏見を追い出して、「絶対できる」というポジティヴな思いに変えていくことが重要。幸い人間の脳には「エングラム」という記憶のストックがあって、そこに成功した記憶も失敗した記憶も貯えられているのだけれど、そのうち、成功した記憶を頻繁に取りだしていけば、その成功記憶は更に強化される傾向がある。その性質を利用し、成功記憶を強化していけば、上手に「成功へのサーボ機構」を働かせることができるようになりますよと。 ま、本書の内容はそんな感じですな。 トータルで言うと、典型的な自己啓発本なんですけれども、例えば「自己イメージが重要」とか、「高望みは駄目、目標までの道のりを現実的に達成可能な細かいステップに分け、そのステップを一つずつ達成していって、最終的に目標まで到達すればいい」とか、「失敗するかも、と思ったら、できるものもできなくなるよ」とか、割と常識的でまともなことばかりなので、とりあえずおかしなことは言ってないよな、という感じではありますね。「サイコ・サイバネティクス」なんていうと、ちょっとヤバいアレなのかなと思っていたら、そうでもないな。まともですよ、まとも。 特に、「失敗した自分を自分と同一視するな」というのは、個人的には結構ぐっとくるアドバイスだったかも。私も、過去、色々と恥ずかしい失敗を積み重ねてきたわけで、そういう過去の失敗を赤面しながら思い出し、身の置き所のない思いをすることもありますけど、「それは過去の自分。今のオレはその時のオレじゃないもんね」と思えばさ、大分、違ってくるじゃん? そう言えば、エマソンも『自己信頼』という本の中で、そんなことを言っていましたね。毎朝、人間は生まれ変わるのだから、昨日と全く違うことを言ったっていいんだと。それを読んだ時、「いや、それじゃあ、無責任なんじゃないの?」と思いましたけれども、マルツの本を踏まえて考えれば、エマソンが言わんとしたことの意味が分かるような気もしますね。 というわけで、まあ、そんなに悪い本じゃないですよ。教授のちょいおススメ、と言っておきましょうか。自分を動かす あなたを成功型人間に変える/マクスウェル・マルツ/小圷弘【2500円以上送料無料】価格:1620円(税込、送料別)
June 23, 2016
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ルノーの新型トゥインゴがいよいよ7月中旬から日本での発売を開始するようで。いやあ、これ、待ってたんだよなあ!ルノー・トゥインゴ どうよ、この可愛らしいスタイル。見た目だけで欲しくなるね。 つい先日もバッテリーの寿命が尽きてひと騒動あった我が愛車シトロエン。そろそろ替え時と思っているだけに、このニュースはちょっと気になります。いや、めちゃくちゃ気になります。 その反面、今日はスウェーデンの名車、サーブが乗用車生産から撤退するというニュースも飛び込んで参りまして。 我々、バブル世代からすると、サーブ900シリーズとか、洒落者が乗るクルマとして、結構憧れを抱いて見ていたんですけどね。 それに、BMWやスバルもそうだけど、サーブのようにもともと飛行機を作っていた会社が作るクルマというのは、どことなく飛行機の面影が残っていて、そこが独特の魅力になっているところがある。 たとえばサーブ製のクルマには、夜間、スピードメーター以外のすべての照明を切るスイッチがある。これは、飛行機で夜間飛行をする時、必要最小限の計器の照明だけ残して後は切るスイッチがあるのとおんなじ。要するに、操縦者の注意力を散漫にしないための工夫なんですけど、そんなところに元飛行機メーカーのこだわりがあるわけ。 そういう面白味のあるメーカーが無くなるってのは、ちょっとさみしいね。 ま、それはともかく、ルノー・トゥインゴ、ちょっとディーラーに見に行っちゃおうかな。
June 22, 2016
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どうせまた文科省のアホどもが考えたのでしょうけれども、研究室配架の図書、要するに教員が自分の研究費で買った本がちゃんと研究室にあるかどうかの調査をしろというお達しがありまして。 何せ四半世紀近い教員生活の中で買った本ですから○千冊はあるわけですよ。それを全部チェックしろと。 一体、そのためにどのくらいの時間が掛かるか、アホどもには分かっているのかね。その間、研究した方がいいんちゃうのん? というわけで、私は個人的抵抗を試み、本来の提出期限を半年過ぎた今日まで放っておいたわけ。 だ・け・ど。 今日はちょっと考えを改めまして。つまり、これを機に、今自分の研究室にある本の大半を図書館に返してしまって、限界に到達している本棚のスペースを少しでも回復させようと、まあ、そんな風に思ったわけですよ。 で、研究室に残す本と、図書館に返す本を分ける作業を少しずつ始めてみたのですが、これがまたやってみるとなかなか感慨深いものがありまして。 というのはね、本棚に二重もしくは三重に積んである本の奥の方の奴を手に取ると、それを買った頃のことが思い出されるのよ。 結局、赴任した頃に買った本は、本棚の奥の方にあるわけじゃん? その奥の方にある本を久々に眺めると、やっぱり赴任した当初のことが思い出されるわけ。 例えば、その頃に買った本は、方向性がバラバラだったりする。つまり、まだ自分の研究の方向性がしっかり決まってなくて、その時々で興味の湧いた本をテキトーに買っちゃったりしているので、今、改めて手に取ると、「えーー、なんでまたこんな本を買ったのかなあ?」と疑問に思うこともあるし、「そうそう、当時はこういうことを勉強しようと思っていたんだけど、結局、中途半端に終わってモノにならなかったなあ・・・」ということが思い出されたりする。 特にそういう「モノにならなかった方向性」の本と、二十年ぶりくらいに対面すると、なんか切ないんだよね・・・。切ないと同時に、当時の自分、可愛かったなと思うところもあったりするけれども。 あと、ヘミングウェイとかフォークナーとか、アメリカ文学の代表的な作家に関する洋モノの研究書なんかを、別に自分が研究しているわけじゃないのに買ってたりしたんだよね! 百科事典を買うようなつもりで、買っておいたんだろうな。いつか役に立つだろう、とか思って。 だけど、箪笥の肥やしになっている服と同じで、ここ何年かの間、一度もページを開けなかった本ってのは、要するに、今の自分には必要のない本なんだよね。そんなもの、いつまでも取っておいたって、場所ふさぎなだけで。ここは一つ、断捨離を断行した方がいいんだろうなと。 ということで、私の基本的な研究テーマであるフラナリー・オコナー関連、ペーパーバック出版史関連、大衆向けロマンス関連、ブッククラブ関連、そして自己啓発本関連以外の本を徹底排除するつもりで、今、断捨離中。当分の間、研究室と図書館の間を、本の入った大きな袋を両手に持って何往復もする私の姿が観られることでございましょう。
June 21, 2016
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今朝、2限の大学院の授業に向けて家を出たまでは良かったのですが、途中でちょいとドラッグストアに立ち寄って買い物をしたのが運の尽きで、いざクルマのエンジンをかけようと思ったらウンともスンとも言わなくなっちゃって。 はーい、バッテリーご臨終~! 1年点検の時にディーラーの人から「バッテリーがちょっと弱ってますね」とは言われてはいたものの、まさかこんなに急に来るとは・・・。ま、バッテリーが死ぬときは、たいていこういう感じですけどね。 ま、とにかく、クルマが動かないんじゃしょうがない。とりあえず院生には、事情を説明して休講の連絡をし、ついでJAFを呼んでとりあえずエンジンをかけてもらったという。 だけど、JAFの人曰く、「完全にバッテリーが死んでいるので、これ、エンジン切ったらまた止まりますよ」ということだったので、もうこの足でバッテリーを買いにいくしかない。 だけど、こういう時に外車ってのは面倒で、普通の店、例えばオートバックスとかに「シトロエン用」とか置いてないわけですよ。だから、シトロエンを扱っているディーラーじゃないと無理。 で、とにかく電話をかけまくってシトロエン用のバッテリーを置いてある店を見つけ、そこまで行くことにしたのですが、何しろ「場合によったら、走行中に止まるかも」と言われていたので、その店までJAFの人についてきてもらったという。こういう時、JAFは頼もしいねえ。 で、結局、3限には間に合ったものの、思わぬ痛い出費となってしまったのでした。 だけど、あれだなあ。このクルマも走行距離が8万5千キロを超えていますし、バッテリーだけでなく、これからあちこち壊れ始めるだろうから、そろそろ次の愛車候補を検討し始める時期に来ているのかもね。 日本車の新車だったら、マツダCX-3 かな・・・。外車の新車だったら、ルノーのキャプチャーかルーテシアGT。 旧車だったら、マツダ・ロードスターRHTか、シトロエンC3か、ミニか、あるいは意外なところでベンツCLAとか? クルマ選びは胸が弾むけど、出費のことを考えると悩ましい・・・。徳大寺有恒氏の「クルマは売っても買っても損をする」というのは、けだし名言だな。
June 20, 2016
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新渡戸稲造の『武士道』を読み進めているのですけれども、これは、ものすごい本ですな。こんなにすごいとは思わなかった。 大体、この本のタイトルに対して偏見があって、「ひょっとして、すごく右翼的なことが書いてあるんじゃないの?」とか、「一人よがり的に、日本のサムライ文化を弁護、もしくは誇示した本なんじゃないの?」とか、そんな風に思っていたのですけれども、実際に読んでみると、まあもちろんそういう側面が全くないわけではないものの、非常に知的な議論がなされていて、少なくとも最初に抱いていた偏見は吹っ飛びました。 何しろ外国人に武士道の何たるかを説明するに当たって、単に日本のことだけを云々するのではなく、古今東西の故事・文学・文化・哲学などを縦横に、しかも適確に引用/援用するのですけど、この新渡戸の論を反駁できるだけの教養のある人物が、西洋の教養人の中にもどれくらいいるだろうか? と思うくらいのレベルよ。 例えば武士道といえば付いて回る「ハラキリ」文化について、これを弁護しているところを見てみると、まず最初に西洋人の目から見たら、確かに「己の腹を切る? なんと馬鹿げた!」と思われるかも知れない、と一旦譲歩するわけ。 だけど、そこからの反撃がすごい。「でも、シェイクスピアを読んだことのある人なら、そんなこと言わないよね。だってブルータスのセリフに『汝(カエサル)の魂魄現われ、我が剣を逆さまにして我が腹を刺さしむ』というのがあるじゃない? それになんとか言うイギリスの詩人(エドウィン・アーノルドのこと)が『アジアの光』って詩の中で、「剣が女王の腹部を貫く」とか何とか歌っているじゃん? それから、ジェノアにパラッツォ・ロッサっていう寺院があるけど、そこにあるゲルチーノっていう画家がカトーの死の場面を描いた絵、知っているでしょ? あそこに腹を剣でブッ刺したところが描いてあるじゃん」と軽くジャブ。さらに追い打ちをかけて、「日本人は、ハラキリの血みどろの場面に対し嫌悪感を抱かないどころか、崇高なものと考えるけど、あんたらキリスト教徒のところにも、キリストの磔刑の血みどろの場面を崇高なものと認めたコンスタンティヌス大帝ってのが居て、以後、その血みどろの象徴たる十字架をえらく大事な象徴としているんちゃうのん?」とストレートを浴びせるというね。 まだまだ新渡戸の追い撃ちは続きます。「西洋人は、人間の感情は心臓に宿る、みたいに考えているから、何で腹を切るの? と思うかも知れないけど、無知なのはあんたらの方なの。解剖学によれば、むしろ霊魂と愛情の宿る場所は腹。それに、例えば旧約聖書は『ヨセフその弟のために腸(心)焚くるがごとく』とか『ダビデがその腸(あわれみ)を忘れざらんことを祈り』とか、その他『腸が鳴る』とか『腸がいたむ』といった表現に満ちているじゃないの。だからセム族が腹をもって感情及び生命の宿るところと考えていたのは明らかだよね。ちなみにギリシャ語のphren とか thumos とかも、腹を表わすと同時に魂の意味もあるんじゃないの? そういやフランスのデカルトは霊魂は松果腺にありとの説を唱えていたけれども、一般にはフランス人も ventre(腹部)という言葉をもって「勇気」の意味に使っているんじゃなかったっけ?」と、フットワークも軽く敵を攪乱。 ついで新渡戸大先生は、ハラキリが意味する「自殺」の側面についても西洋人の胸ぐらを捕まえて離しません。「西洋人は、自殺は良くないとかいうけれど、確かガースが『名誉の失われし時には死こそ救いなれ、死は恥辱よりの確実なる避け所』って詩を書いていたよね。日本人もこれに同意。っていうか、カトーやブルータスやペトロニウスみたいに、古の偉人が多く地上での命を自ら終らしめたのを、かっちょいい!って思っている西洋人だって沢山いるんじゃないの? ちなみにソクラテスが毒盃をあおったのだって、あれ、いわば自殺だよね。プラトンは自殺嫌いだったから苦しい言い訳しているけど、どう考えたって実質自殺よ。」 で、ここまで結構シビアな攻撃をしかけておいて、ちょっと譲歩する。 「たしかにね、切腹があまりに称揚されちゃうと、大して意味もないのに腹切っちゃったりする慌て者が出てくるのも道理で、日本人にもそういうアホが沢山居たのは認める。死ぬより生きる方が辛い場合、むしろ生きた方が英雄的って考え方があるのも分かるけど、真の武士道の体現者は、初めからそういうつもりだから。17世紀の坊さんが言っているけれど、『一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝の矢も透らず』だもんね。」 そして、上の言葉に続けて極めつけの一撃。「結局、武士道の理想は、こういうものなんだけど、それって、『わがため己が生命を失う者はこれを救わん』というキリストの教えと一致するんじゃね?」。 もうね、万事この調子で、武士道の何たるかを説明し、弁護し、さらに大きなビジョンへと高めるという。 で、さらに驚きなのは、これらを新渡戸博士は英語で書いたんだからね。しかも、ものすごく流暢かつ格調高い英語で。「日本人、ハラキリ、野蛮ね」とか言っている西洋人で、新渡戸博士とまともに論争して勝てる奴がいたとはとても思えません。そんなことをしたら、相手は、己の無知蒙昧を人前に晒すだけに終ったことでありましょう。 というわけで、読めば読むほど『武士道』って本がいかにすごいかというのが分かります。こんなものすごい本を、今から100年以上も前の弱冠38歳の日本人が書いたのかよ! 絶句するしかないね。武士道 [ 新渡戸稲造 ]価格:842円(税込、送料無料)
June 19, 2016
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今日は学会の用事で立教大学に行ってきました。 で、この大学に来る度に思うのですが、キャンパスの感じがとてもいいなと。ツタの絡まるチャペル的な意味で。ちらっと学食的なところも覗いたのですけど、天井が高くて、なんだか外国の大学みたい。やっぱりキリスト教系の大学だけに、どこかそっち系の瀟洒さがあるんだよなあ。 それに引き換え、勤務先大学なんて、もう、昭和だよ、昭和。もし受験生が立教と私の勤務先と、両方のオープン・キャンパスに参加したとしたら、ほぼ全員が立教を受けるね。 っていうか、私も立教大学に入りたいくらい(今更?)。 と言うのも、今、アメリカ文学系の教員を見ると、この大学の陣容って充実しているからねえ。アメリカ文学を専攻するつもりだったら、ここに入るというのは一つの手かもよ。 それはともかく、学会の仕事中、若手の俊英たちと話をしていた時に一つ驚いたことがありまして。 たまたまある文章の中に「斯く斯く」という字が出てきたんですが、それを、その俊英たちが読めなかったんです。言っておきますが、その若手たちというのは、アメリカ文学会の若手の中でもキレッキレの切れ者ばかりですぞ。確実に次代を担う連中。頭もいいし、よく勉強している。 だけど、「斯く斯く」は読めなかった。 一方、私はこれを普通に読めるどころか、むしろ日常的に使う言葉づかいだったと。 で、私思へらく、自分ではまだまだ「若手」のカテゴリーに入っていると思っていたけれども、確実に「ジジイ」カテゴリーに入っているなと。ジェネレーション・ギャップを感じた瞬間だったのでした。 まあ、いいわ。それならそれで、ジジイ語彙を駆使したアメリカ文学論でもぶち上げて、若手には読めない本を書いてやろうかしら、なーんてね。
June 18, 2016
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自己啓発、自己啓発って言ったって、あんまり西洋かぶれもいけない、日本の自己啓発本も読んでおかねばと、とり出だしましたるは新渡戸稲造大先生の『武士道』。この本、実は読んだことがなかったもので。 それで、本格的に読む前にパラパラめくって、どんな感じの本かな、と当たりを付けていたわけ。 で、たまたまある個所を読んだのだけど、それがまたすごいことが書いてありまして。 徳川家康の命を狙った24歳と17歳の兄弟がいて、陣屋に忍び込んだところで捕らえられてしまった。ま、当然死刑ですわな。 だけど、その勇猛な試みを愛でた家康が、敵ながらあっぱれ、よって名誉の死を遂げさせてやろうと。つまり、この兄弟二人はもちろんのこと、暗殺計画には関わらなかったもう一人の8歳の弟も含め、切腹させてやろうと、情けをかけてやったんですと。 つまり男子の子孫を全滅させるけれども、形式的には切腹による名誉の死を与えたと。 それもすごいけれども、もっとすごいのはこの先。 三人刑場に並んで切腹の仕儀となったわけですが、お兄ちゃん二人は、まず幼い弟から先に切腹させようとしたんですな。 どうしてかというと、幼いから、途中で怖くなって取り乱したり、力が足りなくて見事腹をかっさばけなかった時、お兄ちゃん二人がかりで介錯してやろうという心遣いでございます。 そしたら、弟曰く、切腹するところを見たことがないので、やり方がよく分からない、兄たちの様を見て、それでその通りにやると。 それを聞いた兄たちは、よく言った弟よ、さすがお前も父の子、大したものだ、と褒め、じゃあ、まずお兄ちゃんのやり方を見ろ、とか言って長男がグサッ! と刀を腹に突き立て、「いいか、あんまり深く切りすぎると、仰向けに倒れてみっともないぞ。深さはこれぐらいだ」とか言いながらこと切れる。ついで次兄が「次は俺のやり方を見てろよ」とか言いながらグサッ! で、「目をカッと見開いておけよ、さもないと死に顔が女みたいだと馬鹿にされっぞ!」とか言いながらこと切れる。 で、幼い弟君、「アニキたち、よーく分かったぜ!」でグサッ! 8歳の幼さながら、見事な切腹をやり遂げたということでございます。 これダチョウ倶楽部の「俺が先だ」「いや俺が先だ」「どーぞ、どーぞ」のくだりとは全然違うんだかんね。 ま、とにかく、新渡戸大先生の自己啓発本『武士道』って、こんな感じのことが満載・・・らしいよ。 すごいね、これ。行っちゃってるね、完全に。日本人の私が読んでも驚くんだから、当時の西洋人がこれ読んだら、ぶっ飛ぶだろうね。日本人、やばいなと。 しかし、ま、とりあえず興味だけは俄然出たので、今週末はじっくりこの本を読んでみましょうかね。武士道改版 [ 新渡戸稲造 ]価格:669円(税込、送料無料)
June 17, 2016
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昨年末の人間ドックで、あまり数値が良くなかったもので、産業医の方から精密検査を受けて来いと言われ、あれこれやって来たんですけど、今日、その結果が出まして。 実は・・・ 心臓・肝臓・腎臓ともお咎めなし! ワハハ! やったね! で、特に驚いたのが腎臓関係。 私は左側の腎臓に先天的な器質的障害があり、そのために水腎症だったんですな。水が上手く膀胱の方に流れないもので。そのことは、もう何年も前から人間ドックで言われ続けてきたのですが。 ところが。 今回、それも解消。水腎症が観察されないばかりか、器質的障害自体が見当たらないと。 やっぱりね。 いや、実は人間ドックの結果に脅かされてから、「思考は現実化する」を試していたのよ。静かに横たわって、腎臓をイメージし、速やかに水が流れて行く様子を思い浮かべながら、「ワタクシの腎臓には何も問題はない。健やかに機能している」と念じ続け、そのイメトレをずっと続けていたわけ。 で、この結果。やっぱり、思考って現実化するんだねえ。 信じるか、信じないかは、あなた次第です。 だけど、爪や髪の毛のことを考えれば分かるように、人間の身体って日夜細胞単位で作り変えられているからね。11か月で総取っ替えだよ。自分はずっと変わらないと思っているかも知れないけど、実際には11か月前の自分とは別人だから。だから、「ああ、自分は今、健やかだ」と念じ続ければ、そのように健やかに作り変えられるわけさ。 ま、他人がどう思おうと、私からすれば、血液検査・尿検査などの結果も含め、半年前の人間ドックの時の悪かった数値は全部書き換えられましたから。良かった、良かった。 さて、週末、学会関連の仕事が東京であるので、私は明日からちょいと実家に戻ります。明日からはまたしばらく東京からのお気楽日記、どうぞお楽しみに!
June 16, 2016
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ブライアン・L・ワイス博士が書いた『前世療法』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ワイス博士は華々しい学歴を持った歴とした精神医学科の先生で、ですから当然、根っからの科学者であるわけなんですが、その博士がある時、キャサリンという名の妙齢の女性の治療を受け持ったことをきっかけに、どうも前世というのは本当にあるらしい、ということに気づき始める。その一部始終を語ったノンフィクションがこの本。 で、キャサリンという若い女性は、水に対する恐怖、喉が詰まるという恐怖など、いくつかの非合理的な恐怖心を抱えていて、心を病んでいたんですな。で、たまたま病院に勤務していたこともあり、色々なお医者さんと顔見知りだったのですが、そんな顔見知りのお医者さんからことあるごとに「ワイス博士の診察を受けてみ」とアドバイスされ、それで博士の治療を受ける覚悟をする。 で、ワイス博士は、お医者さんとして、どういう治療法で行くか、時代の流行に従って薬物療法で行くか、可能性のある様々な治療法を模索するのですが、とりあえず催眠をかけて、過去のトラウマを探りだそうとするわけ。 そしたら、3歳くらいの時に、父親からちょっと性的ないたずらのようなことをされたことが分かり、それが今日の彼女の様々な症状につながっているところがあるらしいということも分かってくる。 ところが。 催眠状態のキャサリンは、自分が幼かった頃のことだけでなく、もっと昔のことを語りだすんです。昔も昔、大昔。紀元前の時代のこととかを滔々としゃべりだす。 そう、キャサリンは自分の前世のことを語っていたわけ。 で、覚醒しているときのキャサリンの人格や教養から考えて、催眠状態にあるときの彼女の語ることは、とても芝居とは思えないし、前もって仕入れた知識とも思えない。ところがその語ることは非常に具体的かつ正確だったと。 で、ワイス博士は科学者としてビックリするわけ。確かに、そういうことを語ったり本に書いたりする人はたくさんいるし、科学者の中にもいるけれど、それまでワイス博士はそういう言説については敬して遠ざけるというか、自分にはあまり関係ないこととして興味を持っていなかったんですな。ところが、目の前に、自分の患者として、どう考えても前世の記憶を語る人がいる。これをどう考えるべきか。 で、その後も治療のためのセッションが続くにつれ、キャサリンには86回の前世があり、その中で特に12、3回の前世は彼女にとって非常に重要なものだったということが分かってくる。そして、実はワイス博士自身も前世でキャサリンと何度か会っていて、その時もキャサリンにとって非常に信頼のできるいい相談役だった。だから、キャサリンは現世でもワイス博士を信頼して、その治療を受ける決意をしていたんですな。そんなことも分かってくる。 で、キャサリンによると、人はその人生で死ぬと、ふわっと空中に浮かび、光に導かれて中間生に行く。そこは多幸感に満ち溢れた素晴らしいところらしいのですが、やがて次の人生を歩むために下界に降りていくと。で、人間はカルマを、つまり宿題みたいなものをそれぞれ抱えていて、そのカルマを全部支払った時に、輪廻転生を脱して次の次元に行くらしい。で、ある人生でカルマを支払いそこなうと、次の人生は負担が重くなるので、辛い人生になってしまうらしい。 さらに、中間生にいる時には、マスターと呼ばれる人たちがいて、その人たちから知恵を授かることもある。ワイス博士も、キャサリンを媒介として、マスターたちの深淵な教えに何度か触れている。 そして、そうした前世への退行催眠による前世療法により、キャサリンは完全に健康を回復すると同時に、彼女の本来持っていた魅力が輝き出し、誰もが皆、キャサリンの近くに居たがるようになってくる。一方、ワイス博士の方も、どんどん人から信頼されるようになり、特に末期の患者がワイス博士の言葉に慰めを得るようになって、その方面の権威のようになってしまうわけ。 で、博士は、自分は科学者だから、自分が経験したキャサリンとの治療体験に、一点の疑念を抱かないこともないのだけれど、しかし、こういうことが実際にある以上、それはむしろ科学的に追及すべきなのではないかと考え、こんなことを書いたら人に何と言われるか、若干の不安はあったけれど、思い切って本に書いてみました、と。 とまあ、この本はそんな感じの本でございます。まあね、言ってみれば、科学者が書いた『アウト・オン・ア・リム』ですな。ちなみにこの本は『アウト』を翻訳した山川紘矢・亜希子夫妻の翻訳ですが。 で、博士もこの本の中で書いているのですが、やっぱり人間の最大の恐怖というのは、自分が死ぬことであって、それを避けるために人は一生あがき続ける。だけど、人間というのは死ぬんじゃなくて、次の人生に生まれ変わるだけだということが確固として分かれば、その恐怖とあがきは不必要なものになり、その分、今の人生を十全に生きることができるのではないかと。しかも、現世のカルマを持ち越したら次の人生が辛くなるということが分かっていれば、それを持ち越さないような生き方、つまりは「良い人間」として生きようというモチベーションにもなる。 だから、輪廻転生は本当にあるのかを、科学的に実証することは重要なんだと。ま、そういう主張ですな。 で、本書によれば、実際、輪廻転生の記憶がある人と言うのは、この世に多いんですってね。ただ、それを口にすると、キ印だと思われるので言わないだけで。また、癌などの病気で瀕死の状態にある人ほど、本当に素直に輪廻転生の概念を受け入れ、それを受け入れたことで安らかな最期を迎えることができるらしい。 ま、それはなんとなくわかるよね。 とまあ、信じるか信じないかはあなた次第です、的な本ではありますが、著者本人が科学者として、こんなこと信じていいんだろうかと悩みながら本書を書いているという点が、ちょっと類書と違うところかなと。前世療法 [ ブライアン・L.ワイス ]価格:606円(税込、送料無料)
June 15, 2016
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たまーに禁断症状が出て、突然どうしても食べたくなるものってない? 私の場合、「お好み焼き」がその手の代表的なもので、たまに食べたいな~って強烈に思うわけ。で、ここ数日、その兆候が出ていたので、今日の夕食はお好み焼きを食べに行っちゃった。 行ったのは、かの浅田舞・真央姉妹御用達と噂される「お好み小屋 まい」。家からクルマで10分もしないところにあるのよね~。 で、私はミックスのモダン焼き、家内は明太子とチーズをトッピングしたお好み焼き。それに梅大根サラダにとんぺい焼き。 で、どれもおいしいんだわ、これが。で、お店の方も、愛想が悪いようでいて、実はこちらの様子をよく見ていて、丁度水を飲み切ったところで水を注ぎに来てくれたり、本当の意味でのサービスが素晴らしい。料理の出し方にしても、いいタイミングで一つ一つの品を出してくれるんだよね。 小さなお店だけど、いいお店です。教授のおすすめ!っつーことで。 さてさて、明日は精密検査第二弾で、心臓の24時間ホルターを装着に行く予定でございまして。まあ、狭心症気味のワタクシとしては、過去、何度も経験のある検査なんだけど、身体に機器をとりつけて24時間心電図を取り続けるっていう奴。なにせ身体にそういうものが取り付けられるので、翌日まで風呂に入れないのがね、私としては苦しいところ。でも、まあ仕方ない。それが検査だからね。頑張って行ってきます。
June 14, 2016
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金曜日に父の本の入稿を済ませたし、土曜は土曜で、9月末締め切りの書評を書きあげて送ってしまった(私にしてはすごくね?!)し、昨日の日曜日は久しぶりにのんびり自分の仕事ができる一日となりました。 ってなわけで、エミール・クーエの『暗示で心と体を癒しなさい!』という本と、C・H・ブルックス&エミール・クーエ著『自己暗示』という本の2冊を読了~。でも後から分かったのですが、『暗示で心と体を癒しなさい!』は、『自己暗示』の後半部分と同じものでした。だから、要するに『自己暗示』一冊読めばいいわけ。 ちなみに、『自己暗示』という本は、法政大学出版局から出ているからね。自己啓発本というと、ちょっとインチキ臭いような(失礼!)出版社から出ていることが往々にしてあるんですけど、これはもうあの法政大学出版局だから、由緒正しいっていう意味ではめちゃくちゃ由緒正しいよ! さて、この本の主役を演じるエミール・クーエという人は、1857年生まれの1926年没といった時代の人。言ってみれば、私より100年ちょい前に生まれた人というくらいのもんですな。で、職業的に言うと、もともとは薬局を経営していた薬剤師。で、後に催眠療法に興味を持ち、アメリカの通信教育でしばし学んだ後、自分の薬局に診療所を付設して治療を始めたところ、病人がどんどん良くなるものだから評判が高くなって、さらにフランスの心理学者シャルル・ボードゥアン博士とか、イギリスの名医モニア・ウィリアムズ博士なんかが持ち上げたおかげで、ヨーロッパやイギリスやアメリカにまで名が知られるようになったという経歴の持ち主。 で、彼の治療法は、「自己暗示法」って奴。 もともとは催眠療法をやっていて、患者に催眠術をかけてから治療していたのだけれども、患者の中には催眠術にかけられること自体にストレスや恐怖を感じてしまって、治療にならないケースが結構あったんですな。で、催眠術なしでやってみたら、むしろその方が治療効果も高まることが分かり、最終的には催眠術はやめて、覚醒している患者に対して、暗示(=自己暗示)をかける方法に切り替えたと。 で、ならばその「自己暗示療法」っていうのはどういうものかと申しますと、理論的にはですね、人間には意識と無意識があると。で、意識よりもはるかに広大な領域を無意識が司っている。例えば体に関することはほとんどすべて無意識がコントロールしているので、何かを食べて、それを消化する、なんてことを一つ取ってみても、それは人間が意識的にやっていることではなく、無意識にやっているわけですな。意志の力で胃液を出したりしているわけではないわけだし。 で、意識の層と無意識の層は互いに連携を取り合い、意識的に考えたことなどはいったん無意識の方に送られて、そこで検討され、再び意識の層に返答を返してくる。 で、この両者がうまく連携していると、人間ってのは健やかにいられるのですけれども、この両者に齟齬が生じると、それは何らかの形でアレルギー反応を起こす。例えばストレスだったり、体の不調だったりを引き起こすと。 ま、これが人間の仕組みだ、というのが大前提ね。 じゃ、一つ例を出しましょう。舞台はゴルフの大きなトーナメント。次のホールでバーディ取ればあなたが優勝というシーン。だけど、難しいホールで、そこここにバンカーの罠がある。さあ、あなたが打つ番でーす。 意識の層、すなわち「意志」は、「よーし、何がなんでもグリーンに乗せたる」と思い、「そのために死ぬ思いで練習してきたんじゃないか! 絶対成功するぞ!」と思う。ところが、無意識の層では、「絶対にバンカーにつかまって、優勝どころか大恥だ。お前はいつだって大舞台で失敗ばかりしていたじゃないか。今度も絶対失敗するぞ。ボールは見事バンカーのど真ん中に飛んでいくに決まっている」という結論を出す。 で、クーエ理論の第一テーゼは「意志と想像力が喧嘩した場合、必ず想像力が勝つ」ですから、この場合、無意識の層が勝ちます。で、体を司る全神経が一致協力して彼の身体とクラブを操り、その結果、ボールは絶妙の軌道を描いて、想像していた通り、バンカーのど真ん中に飛んでいく。それは見事に。 同じことは、逆の方向でも実現します。例えば、嵐に翻弄される船の中で、屈強の船乗りに向かって「顔色が悪いですね。船酔いじゃないですか?」って言っても、船乗りは全然影響を受けません。それはその船乗りの無意識層が「俺は船に酔わない」という答えを用意しているからで、そこへ意識的に働きかけても無駄なわけ。ところが、同じ船にのって青い顔をしている乗客に同じことを言うと、言われたことと無意識層の理解が同じなので、とたんに船酔いしてしまう。 だからね、意識層と無意識層が一致しなければ、意識的にしようとしたことは絶対に実現しないし、逆に両者が一致しているときには、すべてが実現しちゃうの。 で、病気とか体の不調とか、そういうのも全部これ式なわけ。たとえば「吃音」にしても、意志の力でなんとか吃音を止めようとしても、無意識の層で「絶対どもるぞ」と判断している限り、意志とか努力とかはまったく無力。それどころか、意志と努力で「止めよう」とすること自体が無意識層を活性化させ、「ほら、やっぱりダメだ! ますますダメだ!」となるので、さらに止まらなくなると。 じゃあ、この堂々巡りをどうやって止めればいいかというと、そこで登場するのが「自己暗示」でーす。 意志の力で無意識層を押さえつけるのは無理なので、無意識層が一番不活発な時、すなわち心身ともにリラックスしているとか、一番いいのは、睡眠前と睡眠直後のぼんやりとした時間。この、いわば無意識層がノーガードな状態の時に、「大丈夫、すべてはうまく行くから」と自己暗示をかける。すると、抵抗なく無意識層に入り込んだこの言葉によって無意識層に変化が起こり、次の意識層からの問いかけに肯定的な返事を出す。「ボールはグリーンにオンできるだろうか→きっとできるよ」、「吃音は止まるだろうか→きっと止まるよ」と。これによって、意識層と無意識層が協働して働きだすので、結果、望んだ通りにことが進むようになると。 えーーー、ほんとーーーー?! ほんとです。 例えばさ、「明日の朝は6時15分に絶対起きなきゃ」と思って寝るとするじゃん? すると、6時14分にハッと目が覚めて、目覚まし時計が鳴る前にそれをオフにする、なんてこと、経験あるでしょ? 眠っているはずなのに、どうしてそんな芸当ができるの? 無意識層がコントロールしているからでーす! だから無意識層の働きって、すごいのよ。 ちなみに、我々が意識的に「自己暗示」をかけなくとも、我々が社会生活を営んでいる限り、常に「暗示」にさらされています。新聞、本、人から聞いた話、ラジオ、テレビ、インターネット、そういったものが常に我々の無意識層にメッセージを送っており、また無意識層は我々が気づかないうちにそのメッセージを受け取って、次の判断の材料にしている。 人間が、なかなか思い通りに生きられないのは、知らぬ間に無意識の中にたまった様々な暗示によって、無意識層の返答の仕方にバイアスがかかっていて、それで意識層から問い合わせがあったときに、それに従って否定的な返事を出すからなんですな。だから、そういう方向性のない「暗示」を、建設的な「自己暗示」にすり替えれば、物事はうまく行くと。 これがクーエの理論なのでありまーす。 で、この理論を応用する形で、クーエの診療所ではジャンジャン人を治しちゃうの。 と言っても、誤解無きように言っておくと、クーエは別に医学的な治療を否定しているわけではありません。なにせ彼は薬剤師だからね。 だけど、医学的治療にもクーエ理論というのは応用できるのであって、例えば医者が患者に薬を出す時、黙って渡した場合と、「この薬は効くんだよ。実によく効く。あなたと同じ病気の人で、この薬で救われた人を何人も見てきたよ」って言いながら渡した場合、薬の効き方が違うと。プラシーボ効果に、さらに本物の薬の薬効が加わるわけだから、そりゃあ、効くでしょうね。 さて、クーエは、薬剤師であり、治療師だから、主に病気を治す方法としてこの理論を活用したので、ついつい「自己暗示」というのは「治療法」なんだと思われがちですけど、実は必ずしもそうではない。 つまり、体の不調があるから、クーエ理論で治す、というのではなく、そもそもクーエ理論を使って無意識層を活用することで、人間が本来の能力を最大限使って、十全に生きることが重要なんですな。その意味で、クーエ理論とは治療法ではなく、人生修養と考えた方がいい。 で、その観点からクーエは我々に一つの万能薬を処方してくれています。 それは何かと言いますと、毎日、夜寝る前など無意識層が油断している時を狙って、「私は毎日あらゆる面でますます良くなっている」と20回つぶやくというもの。英語ですと、「Day by day, in every way, I'm getting better and better.」ですな。 ちなみに、この魔法の呪文は、あまりにも漠然としているように見えますが、このままがいいみたいです。というのは、無意識層というのは万能なので、この言葉をつぶやいた人にとって何を改善するのが一番いいのか、ちゃんとわかっているから。だから、変に特殊なものに変えて「私は毎日頭が良くなっている」とか、「健康が良くなっている」とか「性格が良くなっている」といったようにしない方がいいみたい。あくまでも漠然と「あらゆる面でますます・・・」と言うべきなんだそうな。 とにかく、この魔法の呪文を毎日つぶやくことで、あなたの人生は良い方に激変する、かも。 ところで、このクーエの「自己暗示」が、現代の自己啓発にすごく大きな影響を与えているというのは、すぐわかるよね! まず、努力しちゃいけない、という側面。寝ながら魔法の呪文を唱えればすべてうまく行く、という即効的かつ安易な方法論。クーエが想定した無意識層を「宇宙」と読み替えるだけで、「宇宙に頼んだことはすべて目の前に現れる」的な引き寄せ理論になるし。 だから、引き寄せの法則をくだらない、偽物だ、というのは簡単なのだけど、その裏に例えばクーエの理論を置いてみると、そう簡単には否定できないのではないかと。 実際、「意志の力で努力したことはほとんど成功しない」というのは、かなりな程度、普遍的な事実なわけで。 だからクーエが「努力するな」と言うとき、それは努力という美徳を否定しているわけではなく、「それをやると、意識層と無意識層が喧嘩するから、まずは『これは簡単なことで、自分にはそれをやり遂げる能力があるし、やっているうちに楽しくなってくる』という自己暗示をかけなさい」ということなわけよ。 で、自己啓発も、結局、同じことを言っているわけ。そこを理解できるかどうかで、自己啓発の世界が分かるか分からないかが決まってくると思うんだなあ。 ということで、この本、本気で自己啓発のなんたるかを理解するためには、非常に面白い本だと思います。教授のおすすめ! と言っておきましょう。自己暗示新装版 [ C.H.ブルックス ]価格:2052円(税込、送料無料)
June 13, 2016
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ジュリアン・ムーアがアカデミー賞を獲った『アリスのままで』という映画を観ちゃった。これ、ムーア演じるアリスというコロンビア大学の言語学の教授が、若年性アルツハイマーになる、という映画でありまして。 もうさ、職業上のシチュエーションもそうだけど、最近、人の名前とかがパッと出てこないことがある私としては、めちゃくちゃ怖い話で。 そういや、今日も私、「グランドキャニオン」という地名がパッと出て来なくて、「ほら、あの、アメリカの崖」って言っちゃったよ! やばい、私、もうなっているかも・・・。 とにかく、少しずつ壊れていくアリスをジュリアン・ムーアさんが好演していて、まあまあの映画でした。だけど、病気ものの映画はさあ、その病気の悲劇性自体で持っていくところがあって、それはちょっとずるいところがあるよね。だから、絶賛はしないの。 ちなみに、ジュリアン・ムーアが出た映画で私が一番好きなのは、『エボリューション』かな。あの、すぐ転んでしまう女性科学者を演じた奴。 その話の延長線上なんだけど、私とタメの俳優たち、トム・クルーズ、ブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオ、ジョニー・デップっているじゃん? 私を含めて「同世代5大俳優」って呼ばれている奴ら。この連中の映画の中でどれが好きかって話をしておりまして。 トムだったらね、『MI』シリーズ・・・と言いたいところだけど、私は、意外や意外、『ナイト&デイ』推し。 ブラピは、『ジョー・ブラックをよろしく』かな。あるいは・・・『スナッチ』? ディカピーは、『ギルバート・グレイプ』か『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』。 ジョニデは・・・私はこいつが嫌いなので、どうでもいいけど、強いて言えば『シザー・ハンズ』。 そんな感じ。 映画俳優も、例えば「オードリー・ヘップバーンと言ったら『ローマの休日』」というように、押しも押されぬ代表作があるかないかって重要で、それが無い場合、悩んだりするんでしょうな。逆に、あまりにも強烈な代表作があるゆえに役柄が狭まるなんてこともあるかもしれないけれど。 じゃ、研究者としての私の代表作って何だろう。 ま、次の本を見てよ。
June 12, 2016
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何か知らないけど、WOWOWで『12モンキーズ』『マイノリティ・リポート』『ターミネーター・ジェネシス』の3本を立て続けに観ちゃった。この中で初見は『12モンキーズ』だけだけど、その他の二つも結構忘れている部分があって、それなりに楽しめたという。 それにしても、たまたま連続で観たこの三作品、タイムトラベルが鍵となるという点で共通していたという。『12モンキーズ』と『ジェネシス』は過去に遡って犯罪を防止する映画だし、『マイノリティ』は逆に未来に犯される犯罪を未然に防ぐという映画ですしね。 だけど、やっぱりタイムトラベル系の映画って、観ていて頭がこんがらがるんだよな・・・。特に『ジェネシス』は、過去の作品との整合性をつけるためもあって、ちょっと時間の交錯が複雑になりすぎた感あり。『12モンキーズ』はそれほどでもないけど、この映画に関するネット上のお噂を見ると、皆さん、大分混乱しているようで、最後の場面の解釈が色々割れているみたい。 それでも、この種のタイムトラベル映画が作られ続けるところを見ると、人間には「今の現実とは別な現実があったとしたら、それはどういうものになっただろう」という根源的な興味があるんでしょうな。 実際、私にもあるもんね。 っていうか、今、私がゲットしている知識を基に、もう一度小学生くらいからやり直したいという気持は常にある。 例えば、今の私がもう一度小学生に戻ったら、もっとしっかりピアノの練習を続けていたでしょうな。6年も習っていたんだから、そのまま続けていれば、ねえ・・・。 あるいは、文学じゃなくて、建築の方面に進んでいたら、なんて思うこともありますし。 あるいは、もっと早く、武道を習っておけば、とか。 でも、ひょっとしたら、この考え方は間違っているのかもね。 つまりさ、この考え方を続けていたら、例えば今から20年後にも「20年前にアレをやっておけば」と思って後悔するわけじゃん? いや、絶対そう思うだろうな。 そう考えれば、20年後の20年前は今なわけよ。だから、20年後に「20年前にやり始めておいて良かった!」と思うようなことを、今、始めればいい。 タイムトラベルって、その意味で、「今がその時だ」というのがその答えなのかもね。 さ、とりあえず、20年後の20年前に、何かを始めますか。
June 11, 2016
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私が編集していた父の写真俳句集、本日入稿となりました! 春休み前に計画を立て、着々と進行させてきた編集作業がようやく終わった次第。 しかし、米寿を迎えんとする我が親父殿にとって、70歳を超えて趣味で始めた写真と、これまた80歳近くになってから始めた俳句が今回、一応なりとも形になるということで、その喜びようと言ったら当初こちらで予想していた三倍くらい。この三ヵ月というもの、写真俳句集に収録する八十八句の選択やらその俳句に添える写真の選択やらに悩み、校正に精を出し、その間、辛い足腰の痛みも忘れるほどだったという。 しかも、今日入稿した後、実際の本が出来あがるのは2ヶ月後ですから、あと2ヶ月というものは期待に胸ふくらませることができるし、さらに2ヶ月後、実際に完成した本を手にすれば、今度はそれを友人・知人に寄贈する楽しみもある。でまた、さらにその次には本を送った人たちからの礼状だとか、感想なんかを受け取る楽しみもあって、なんだかんだ、今年いっぱい楽しめることでありましょう。 そう考えると、我ながら、なかなかいい親孝行になったのではないかと。 それに今回の経験で、縦書きの本を編集するノウハウも得ましたからね。次は母の俳句の本も作っちゃおうかな。俳句に関しては、母の方がキャリアは上ですから。 さてさて、しかしまだ私には大事な仕事が残っている。それは何かと言いますと、表紙デザインの決定。 とりあえず出版社の方にベースとなるアイディアを幾つか出してもらい、その中から方向性を定めて、さらに検討して、写真俳句集にふさわしい表紙を作り出していく作業。これに関しては、かなり人頼みなところがあるのですが、それはそれで、どんなアイディアを向こうが提示してくるか分らないわけで、自分では思いもつかなかったようなデザイン案が出た時など、実に面白い。 というわけで、まだまだ当分の間、父だけでなく私自身も、本づくりの楽しみに没頭することができそうです。
June 10, 2016
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読売新聞では著名人が自らの半生記を語るというシリーズをやっていて、今は八代亜紀さんが登場中。それによると、若い時はマネージャーに騙されたりして苦労されたようですが、その後、レコード大賞を取ることもできて、めでたしめでたしなんですけど、今日の回では、美空ひばりさんと出会った時のことが書いてありまして。 それによると、ひばりさんと同じ歌番組に出ることになった時、八代さんが挨拶に行くと、ひばりさんから「今日は歌のうまい人と一緒だから、私も頑張らなくちゃ」と言われたんだとか。憧れの人から「歌が上手い」と褒められた八代さんは、さぞ嬉しかったことでありましょう。 だけどこの記事によると、美空ひばりさんって52歳で亡くなっているんですね・・・。えー、そんな若くして亡くなったんでしたっけ? ひばりさんって、ワタクシが子供の時分でも既に「大御所」って感じでしたから、早く亡くなったとはいえ、それでも六十代半ばくらいは行っていたような印象があったのですが、実際には52歳だったんですな。 じゃ、ワタクシの方が既に年上じゃん! まじかよ! で、ついでに調べたら、石原裕次郎さんも52歳で亡くなっているのね。じゃ、ワタクシの方が既に年上じゃん! まじかよ! いやあ、知らない間に自分が裕次郎越え、ひばり越えしていたとは。びっくりだわ。 ま、どう頑張ったって裕次郎やひばりにはなれないので、ワタクシはせいぜい長生きして、のんびりやります。 ところで、それに関連してというわけではないですけど、今日のニュースで驚いたのは、海老蔵さんの奥さんのニュース。 北斗さんの時も思いましたけれども、若い人が重い病気にかかるのは、ほんと気の毒。現代の医学は進んでいますから、大丈夫だとは思いますが、辛い治療を何とか乗り切って、早く健康を取り戻して欲しいものでございます。 っていうか、他人事じゃない、ワタクシも今年は家内を説得して、人間ドックに連れていかなくちゃ!
June 9, 2016
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教育実習生の研究授業を参観に行ってきたのですけれども、なかなか意味深な場面に遭遇いたしまして・・・。 私が参観させてもらったのは、中学三年生の社会の授業で、たまたま第二次世界大戦末期の状況、及び戦後処理の諸問題だったのですが、ポツダム宣言受け入れを渋ったために、米軍が広島・長崎に原爆を投下し・・・という話の流れで、生徒さんたちに日本の白地図を示し、「広島・長崎ってどこにあるか知ってる? この地図で示してみて」と、一人の生徒を指名したわけ。すると・・・ その生徒は広島・長崎の場所が分からなかった・・・。 ま、もちろん、たまたまその生徒だけかもしれませんが、私が見ていた感じでは、クラスの4分の1くらいはあやふやな感じがしましたね。 うーむ、さすがにちょっとびっくりしましたけど、そういうこともあり得るのかな・・・。 結局、第二次大戦の経緯とか結果とか、そういうもの全部ひっくるめて、今の中学生にとっては「他人事」っていう感じがするんだよね。 ま、確かに、現代の日本で普通に生きていて、70年以上前に日本が戦争やってたとか負けたとか、関係ないもんね。 で、体験的に「他人事」であるからこそ、歴史の授業とかでしっかり教えて、考えさせればいいのだけど、実際にはそういうカリキュラムになってない。中学の教科書で扱う第二次世界大戦なんて、「戦争勃発して、最初、枢軸国側も頑張っていたけど、段々不利になってきて、しかもソ連が上から攻めてきて、こりゃダメだってんでヒトラー自殺してドイツ負けて、日本は最後まで頑張ったけど、やっぱりソ連が中立条約破棄して攻めてきて、原爆落とされて、それでポツダム宣言仕方なく受け入れました」で、終わりだよ。それだけだよ。 もうね、感じとしては、子供に人気の「カードゲーム・バトル」みたいな印象よ。「あ! そこでそのカード出されたら負けちゃうよね!」みたいな感じ。 だから、ヒトラーがユダヤ人に対していかにひどいことしてたか、なんで周辺国はそれを看過したのか、日本はなんで戦争やったのか、その結果どんなことしでかしたのか、空襲とか原爆とかでどんな悲惨なことになったのかとか、そういう痛みの伴うような戦争の記憶なんて、教えるようになってない。 こんなんでぱーーっとなぞっただけで、「だから、皆さん、戦争だけはやっちゃダメよ」なんて言ったところで、生徒の頭には3分と残らないよね。 それに、大体、「戦争は絶対ダメ」って言っている先生たちが、既に戦争のせの字も知らないで、平和ボケの日本で育っているわけだし。それどころか、その若い先生の親ですら、戦争を知らないんだから。 だから、広島・長崎がどこにあるか知らない中学生がいたって、ぜんぜんおかしくはないよね。 よく終戦記念日あたりになると、「戦争の記憶を語り継ぐ」なんて言葉がやたらに新聞なんかに踊るけれども、少なくとも教育現場ではそんなことなーんにもなされてないよ。 逆に、戦前はどうだったんだろうか。昔の子供なんて、皇国史観叩き込まれて、お国のために死ぬのが男子一生の名誉、みたいなことを本気で思っていたんでしょ? 兵隊になるのが夢、みたいな。それは、そもそもおかしいんだけど、しかし、そういう風に思い込むような教育のシステムはあったわけだ。 なのに今は、「世界平和のために身を捧げるのが、男子一生の名誉」と子供の心に刷り込むだけの教育システムがないのはなぜ? ま、別にそういうのを刷り込むのは良くないとしても、少なくとも徹底的に近代史だけは叩き込んで、そういう歴史事実を踏まえて、今後、正しい判断ができるような準備だけはしておかなくちゃいかんのじゃないの? とにかく、今、中学校の現場に行ってみると、ぽわーーーんとしたマシュマロみたいな、何に対しても何の判断もできないような人間を育てているな、という実感だけはあります。 こういうの、結局、為政者に何のポリシーもないから、こういうことになるのでしょうけれども、今のうちにどうにかしないと、いかんのじゃないかなあと思いますねえ。
June 8, 2016
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先日テレビで、豆乳ヨーグルトの話題を見て、今、フルーツグラノラに豆乳ヨーグルトをかけて食べるのが、健康&美容志向の人たちの間で話題になっていることを知りまして。 まあね、私も情報通として、一度は試してみようかなと。 で、先日、実際にトライしてみたわけですよ。私がこよなく愛するケロッグのフルーツグラノラ「厳選素材」に、豆乳ヨーグルトをかけてみた。すると・・・ うーん・・・。 あんまりおいちくない・・・。 ダメかな、これは・・・。 で、結局途中からミルク足しで食べちゃった。 で、あとで家内とこの件について話をしていて、私が「あれって、イマイチおいしくなくない?」と尋ねると、家内曰く、いや、実においしいと。え、そうなの? それで詳しく話を聞いてみると、どうも私の食べ方がいけなかったようで。 私はただ、グラノラの上にどさっとヨーグルトをかけて、すぐそのまま食べてしまったわけですけれども、本来、そうやって食べるのではなくて、グラノラとヨーグルトをガシガシとよーく混ぜるというのですな。 で、そのよーく混ぜた状態で、しばし置くと。この「しばし置く」というところがポイント。 すると、ヨーグルトの水分をグラノーラが若干吸ってふやけ、逆に豆乳ヨーグルトの方にはフルーツグラノーラのほんのりとした甘みがうつる。で、その混然一体としたところを食べるというのです。 で、今朝はその方式でやってみた。すると・・・ お、結構旨いじゃないの! なるほど、これなら私にも行けそうだ。 グラノラにしても、豆乳ヨーグルトにしても、良質の栄養に富んでいるわけで、それを両方おいしく食べられるのなら文句はありません。朝食がややマンネリになっている方、この組み合わせ、一度お試しあれ! ケロッグ 厳選素材 フルーツグラノラ 徳用袋 500g【楽天24】[ケロッグ グラノーラ・クランチ グラノラ]【ke03ba】【ke04ba】【SPDL_5】価格:597円(税込、送料別) ソヤファーム 豆乳 ヨーグルトプレーン【110g×12コ】 【クール便】お試し トクホ 特保価格:1049円(税込、送料別)
June 7, 2016
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テニスの全仏オープン最終日、男子シングル決勝、ジョコビッチ対マレーの試合、昨夜遅くまで見てしまいました。 私は自分ではテニスなるものをやったことがないのですが、試合を見るのは結構好きで、それこそ「ジミー・コナーズ対ビヨルン・ボルグ」とか、「ジョン・マッケンロー対イワン・レンドル」とか、その辺りの時代からずっと楽しんではいたんです。 で、ジョコ対マレー。世界ランク1位対2位の試合ですから、面白くないはずもなく、堪能いたしました。 しかし、やっぱり今はジョコの強さが頭一つ抜いていて、さしものマレーも1セットとるのがやっと。結局、昨年涙を呑んだ全仏優勝の悲願を、ジョコが達成したのでした。 それにしても、心技体、すべて充実して、一年間で四大タイトル総なめ、しかも生涯グランドスラムも達成っていうのですから、昨日のジョコの気分ってのは、もう、最高だったんでしょうな。 いいなあ・・・。なんか私も、ちょっと大きめの賞とかとって、「エイドリアーン!」的な気分を味わってみたい。 なーんてアホなことを考えていたせいか、単なる寝不足か、今日は何だか一日中チグハグなことをしちゃって、せっかく完成間近だった原稿を誤って消去しちゃったり、散々でした。ヤレヤレ・・・。 それでも少しは踏ん張って持ち直し、学会から頼まれていた書評、大よそ書いちゃった。まだ細かい修正は必要ですけど、何せ9月下旬締切の原稿をもうほとんど書いちゃったってんですから、ワタクシとしては大したもの。エッヘン。ま、書評対象の本が面白かったので、書くのも楽だったんですけどね。ワーキングガールのアメリカ [ 山口ヨシ子 ]価格:1944円(税込、送料無料) さてさて、明日はまた知多半島の方に出張でございます。今日みたいにぼんやりして、出張先でへましないようにしようっと!
June 6, 2016
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アップル・ミュージックのストリーミング配信をBGM代わりに使う我が家。ですが、今までは iPhone をそのまま使っていたので、音がちょいとショボかった。 そこで。 iPhone を接続できるようなブルートゥース・スピーカーを買って、少しでもいい音で音楽を聴こうかなと。 ってなわけで、ついに買っちゃった。 今回私が選んだのは、Bose のスピーカー、その名も「SoundLink Mini II」!【ボーズ公式オンライン / 送料無料】 SoundLink Mini Bluetooth スピーカー II+専用カバー/チャコールブラック(プレゼント)価格:27000円(税込、送料無料) これね、筐体としては相当小さくて、そうですね、たとえてみれば「虎屋の羊羹」くらいの大きさなんですけど、音はさすがにボーズだけあってなかなかよろしい。ボーズが上手に・・・ま、いいか。 とにかく、やっぱり音楽はいい音で聴かないとね。 さてさて、今日のワタクシは、学会から頼まれていた書評の件を片付けるべく、昨日に引き続きほぼ一日パソコンに向かう勤勉さを見せていたという。しかも、割と好調で、すいすい書ける。すいすいったって、たかが5000字くらいのものを書くのに二日もかけているんだからアレですけれども、まあね、そこはそれ、やっぱり学術誌に掲載されるものですから、ある程度用心して書くのでね。 ということで、仕上がりまであと少し、頑張りまあす。
June 5, 2016
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ヘビー級ボクシングのレジェンド、モハメド・アリさんが亡くなりました。享年74。 アリさんについては、このブログでも何度か言及しましたが、私の自慢は何と言っても1974年、アフリカはザイールで行なわれたジョージ・フォアマンとの世界タイトル戦、いわゆる「キンシャサの奇跡」と呼ばれる試合を、リアルタイムで見ていたということ。 試合開始のゴングと共に、キャリア無敗を誇る無敵のチャンピオン、ジョージ・フォアマンが猛り狂った牡牛のような怒涛のラッシュを仕掛けるのに対し、アリは終始ロープを背にするばかりで、この試合を見ていた誰もが、早いラウンドでのあっけないアリのKO負けを予想していた。もちろん、私もそうでした。 ところが、よく見ると、フォアマンのパンチはアリにはろくに当たっていないんですな。ロープにだらしなく寄りかかっているようでいて、実はアリは大きく上体を反らせることで、フォアマンに決定打を打たせていなかったわけ。それで、フォアマンが10回空振りのパンチを繰り出す度に、ほんの1回くらいの割合でアリが反撃のパンチを出すのですが、これは確実にフォアマンに当っている。しかもそのアリのパンチは、フォアマンのそれと比べると、見かけ上、迫力がないように見えて、実はものすごく破壊力のあるものだった。 そんな調子でフォアマンに大ぶりのパンチを打たせるだけ打たせて体力消耗させ、もう気の毒なくらいバテバテにさせたところで、第8ラウンドでしたか、アリは精密機械のように鋭いパンチをフォアマンの顔面に叩き込む。そして、たまらず崩れ落ちかけたフォアマンを追うようにもう一発。それで決まり。 圧倒的不利に見えた状況からの、劇的な大逆転に、私を含め、この試合を見ていた誰もが完全に釘づけとなり、勝利の瞬間、アリは伝説となったのでした。 そしてその後、アリさんのことをより深く知る度に、伝説は単なる伝説であることをやめ、生身の人間として真のリスペクトに値することが分かってくる。オリンピックで金メダルを獲ったのに、アメリカに帰国した途端に人種差別を受け、金メダルの価値などゼロに等しいことを知って、そのメダルを川に投げ捨てたこと。その後イスラム教に改宗した際、それまでの「カシアス・クレイ」という本名が奴隷の身分を象徴するものであるとして「モハメド・アリ」に改名したこと。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と自ら称したその華麗なボクシング・スタイル。ベトナム戦争に際し、「ベトコンと俺の間には何の問題もない」と発言して兵役を拒否、その結果、ヘビー級王座のベルトを剥奪されても意に介さなかったこと。さらに、ボクサー生命を奪うブランクにもめげず、カムバックして先に述べたキンシャサの奇跡を起し、チャンピオンに返り咲いたことなど、彼の言動は、本当に一貫している。言動を一貫させることが非常に厳しかった時代にも拘らず、彼は自分の信じることを当たり前のようにやり通した。 若き日には、白人ボクサーを相手にした際、相手に屈辱を与えるような試合運びをしたこともあったりして、そういう意味ではアリは模範的な「いい子」ではない。しかし、そういうことも含め、彼はその時々で自分の思いに素直に従って行動してきた。それは、彼のように世界中から注目される人にとっては、なかなかできることではなかったでありましょう。そこが凄いなと。 時代もジャンルも異なるものの、今年はプリンス、そしてアリと、圧倒的な才能、圧倒的な存在感をしめしてきた「闘う天才」が続けざまに亡くなって寂しい限り。あの世でアリさんが、パーキンソン病の桎梏から解放され、また以前のような軽やかな「アリ・シャッフル」を軽やかに決めていてくれればいいなと思いつつ、合掌することといたしましょう。モハメド・アリ(上) [ トマス・ハウザ- ]価格:1404円(税込、送料無料)モハメド・アリ(下) [ トマス・ハウザ- ]価格:1296円(税込、送料無料)
June 4, 2016
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先日買った中川廣人さんの『相聞 折口信夫のおもかげびと』を読了したので心覚えをつけておきましょう。 いやあ、最初に言いますけど、この本ねえ、実にいい本だったのよ。意外なほど、と言ったら中川さんに申しわけないですけれども、予想していたのを遥かに上回るほど出来のいい本だったんです。まさに、人が一生に一度しか書けないような本、といいましょうか。 と言うのも、中川さんのご母堂様がこの本のテーマたる折口信夫の許嫁だったから。許嫁の息子だったからこそ書けた本なので、そういう意味での一回性というのがこの本にはある。 そもそも折口信夫は基本的に同性愛者なので、その折口に許嫁がいた、ということがまず衝撃。しかし、かつて室生犀星が指摘していたように、同性愛者だからと言って必ずしも折口が女性を忌避してきたかというと、そうでもない。折口には親しくしていた叔母がいたし、また女性に対する細やかな気遣いというものもあった。 ましてや、幼少の頃ともなれば、幼なじみの女の子の一人や二人はいたわけで、中川さんのお母上、ひでさんは、そういう意味で子供時代の折口信夫とは親しい仲だったのであり、その後、両家の都合もあって両者の間に婚約が成立し、折口がそれを表立って拒絶しなかったとなれば、少なくともひでさんとしては、いずれは二人、結婚することになると信じ、そういうつもりで少女時代、娘時代を過ごしたのも当たり前でしょう。 ところが、折口はこの婚約を履行はしなかった。拒絶はしなかったけれども、履行はしなかった。というか、そもそも彼は長じてからは、一時的でやむを得ない事情があった時以外、実家のある大阪には終生ほとんど帰らなかった。だからひでさんとも、ある時期を境にほとんど会っていない。 で、中川さんによれば、そういう折口の態度は、彼の恋愛観、及び人生観に原因があったのではないかと。 つまり、彼は自分の人生において、「なにかを得るためになにかを棄てる」という厳しい掟を自分に課したのだと。 それは一つには、歌の道・学問の道をとって、それ以外の人生を棄てたということであり、また東京をとって大阪を棄てたということであり、独身を通すことを選んで恋を棄てたということでもある。あれだけ寂しがり屋だった折口だったからこそ、遮二無二孤独の道を取り、人並みに愛をとり、家族を取る生き方を棄てた。そういう自暴自棄的な生き方を選ぶこと、それこそが折口にとって純粋な生き方だったのであって、その純粋に彼は自分の人生を賭けた。 だから、中川さんは、折口信夫は、人生を棄てて、フィクションの中に生きることを選んだのだ、と断じるんですな。 そして、そのフィクションの世界における「恋」の理想形としては、折口側からすれば、許嫁と結婚せず、恋を成就させないということであり、また許嫁のひでがその成就しない恋をひたすら耐える、というものだったと。その双方が「耐える」というところが、折口にとっての美なので、ひでは、ある意味、そうした折口の理想の恋の犠牲になったわけですよ。 で、結局、ひでは13年という長きに亘って折口の「生殺し」に耐えるわけ。それは少女時代と娘盛りの頃の全ての期間、と言ってもいい年月だったことでしょう。 しかし、結局、ひではその後、別な男性からの猛烈なアタックを受けて、その人と結婚することになる。つまり、形の上では、ひでが折口との婚約を一方的に破棄して別な男と逃げた、というような形になるわけ。しかし、それは「生殺し」の状態を脱するためのひでの絶望的な身振りであった。しかもその結婚した相手が、結構扱いの大変な人だったようで、ひではその後の人生で苦労することになるのですが、とにかくもひでの中に秘められていた情熱は、そういう形でガス抜きをしなければならない限界のところまで来ていたんです。 で、なんの因果か、ひでの息子である中川さんは、長じてから折口が教鞭を執っていた国学院大学に入学する。これはもう、偶然とはいえない何か、であるわけですな。しかし、チャンスはあったけれども、中川さんは、敢えて折口には近づかなかった。 しかし、やはり母親と折口の間にそういう関係があった以上、中川さんは折口信夫に対して無関心ではいられない。そして折口の歌人としての業績を辿って行くにつけ、彼の歌の中に、母親のことを歌った歌があるのではないか、これは母親のことを歌った歌なのではないか、という視点が生まれるのも当然でしょう。そしてその視点から、中川さんは折口の歌の世界を詳細に分析していく。 そして、それは決して中川さんの勝手な思い込みではなく、そういう背後事情を踏まえてみれば、その視点が、折口の歌の世界を解釈する上でものすごく重要なポイントになっていることがよく分かる。その視点に、読者にも納得させられてしまうんです。 例えば、折口が写実一辺倒の「あららぎ」に参加しながら、創作的な恋の歌を作り続けたのは何故なのか、とか。 彼の歌にしばしば現れる「我つひに遂げざりしかな」というフレーズが出てくるのは何故なのか、とか。 あるいはやはり彼の歌にしばしば出てくる「おおきな忘れ物をした」という表現の、「忘れ物」とは何なのか、とか。 フィクションとして自分の人生を自分で創作しながら生きてきた折口が、その人生の晩年に至って、創作のために切り棄ててきたものに苛酷なしっぺ返しを受けている。それこそが「忘れ物」であり、「遂げられなかったこと」であり、その象徴が、ひでだったのではないかと。 そう考えると、そら怖ろしいような世界が垣間見えるわけですけど、その怖ろしい世界を折口は生きていた。そのことがこの本を読むとよく分かる。 しかも、この本を書くにあたって、中川さんはご母堂様を煩わせて、若き日の折口との記憶を辿らせるのですが、そのことがひでさんに若き日の情熱を思い出させ、結果として、今の夫のことを精神的に裏切らせるようなことをさせてしまうことになる。 その意味では、かつて折口がそうしたように、今は息子の中川さんが、ひでさんに対してひどいことをしているわけ。文学というものは、本当に近づけば、そうやって人を傷つけずにはおかないわけですよ。 でも、とにかく、そうやってこの本は書かれたわけですな。だから、最初に言ったように、こういう本は、人生で一冊しか書けないような、そういうような類の本であるわけ。 とにかく、少なくとも折口信夫という人に多少なりとも興味のある人は、この本を読まないという選択肢はないような気がする。それほどの本です。残念ながら、中川さんは、昨年、お亡くなりになったようですけれども。 それにしても、こういう本を読んじゃうと、こういう、ある意味血まみれの本であってこそ、文学研究の名に値するんじゃないかと痛感しますね。 こう言っちゃなんだけど、そして、もちろん自分自身に対しても言っているわけですけれども、アメリカ文学の研究者とかが、「研究」とか言っちゃって、ある作家なり作品なりについて、あーだこーだ言ったところで、それは『相聞』と比べてどうなんだ? それは『相聞』と同じ位、血まみれの本なのか? と問うた場合、自信をもって「しかり」と言えるものがどれくらいあるのか。 それを考えたら、もう、黙るしかないね。"相聞 : 折口信夫のおもかげびと" 【中古】afb価格:1296円(税込、送料別)
June 3, 2016
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昨年末受けた人間ドックの結果が芳しくなかったということで、産業医の方から精密検査に行け行けと言われていたんですが、忙しくてそれどころではなく。しかし、そうはいっても倒れてしまったら元も子もないので、今日は思い切って朝も早よから大学病院に行ってきました。 だけど、満身創痍のワタクシ、心臓と肝臓と腎臓が悪いので、循環器科、内科、泌尿器科と3つ一遍に受診するのですからもう大変。それぞれの科の看護婦さんから「今すぐ、こっち来て!」「あら、こっちが先よ!」「いえいえ、あなたは私のものよ! 誰にも渡さない!」って、モテモテよ。 で、血は取られる、尿は取られる、エコーでまさぐられる、X線撮られる、ありとあらゆることをやらされてしまった。 しかし、それはまあよしとしましょう。問題は泌尿器科の触診ですわ。 そう、肝臓と腎臓って近くにあるけど、腎臓の方は泌尿器科マターなんですよね。 で、今日は内科でも循環器科でも服を脱ぎまくっているので、泌尿器科の触診でも普通にシャツを脱げばいいのかと思っていたわけ。 ところが。 私が何の気なしに「シャツは全部脱いだ方がいいですか? それともまくり上げるだけでいいですか?」と看護婦さんに尋ねたところ、看護婦さん曰く、「あ、上はまくり上げるだけでいいですけど、下はズボンとパンツを膝まで下ろして下さいね」と。 はあ・・・。 ん? え? ええ? え゛ーーーーーー!? 今、なんとおっしゃいました? パンツ? 膝まで? おろすって? 一瞬固まっているワタクシを、看護婦さんは目で優しくなだめながら、シャーーーーっとカーテンを引いて下さいまして。 そう、泌尿器科ってことは、・・・・そうなんです。白昼にすっぽんぽんと。もう、初体験。 まあね、お医者さんの方は日常茶飯事なんですから。こちらも気にするこたあないんだ・・・。 ・・・・・・。 人生、長く生きていると、色々な体験をさせていただくものでございます・・・。
June 2, 2016
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某元野球選手が覚せい剤がらみで有罪判決、だそうですけれども、さてさて、彼はこの先、薬物依存を断ち切れるんでしょうか。 こういう話が出る度にいつも思い出す光景がありまして、それは何十年か前にテレビで見たドキュメンタリーで、インドにおける麻薬常習者への「治療」のシーン。 インドだから大麻とか、麻薬に関する歴史が深いわけで、その分、大きな社会問題になっているのでしょうけれども、当時この国の麻薬常習者への「治療」ってのが凄かったんですよ。 どうやるかというとね、超強力な「嘔吐誘発剤」っていうのを麻薬常習者に飲ませちゃいまして、麻薬をやる度に何時間も嘔吐させ続けるの。吐くものがないから、水を飲んでは吐く。常習者たちが一列に並んで、水を飲んでは「オエ~」っとやるわけ。何時間も。 で、それをずーっと続けているうちに、パブロフの犬状態になるわけよ。麻薬を使うどころか、麻薬を見たり、「麻薬」っていう言葉を聞いただけで猛烈な吐気が襲ってきて、実際に吐いてしまう。だからこの「治療」を受けた後では、もう彼らは実質的に麻薬に近づけない身体になっちゃうの。 ある意味、非人間的。だけど、効果は確かにある。 で、思うのだけど、この種の治療を刑罰として強制的に受けさせるというのは人道的に疑問であるとはいえ、もし仮に本人が自主的に受けたいというのだったら、それは一つの選択肢なのではないかと。 だからもしK氏が本気で麻薬から足を洗いたいというのであれば、ねえ・・・。オエオエ治療、どう? K氏だって、自分を食い物にしようと悪魔のささやきでもって近づいてくる奴に、思いっきり頭からオエオエを吐きかけてやったら、いい気分なんじゃないか? ま、K氏も今回の件では多くのファンを随分ガッカリさせてしまったわけですから、どういう方法にせよ、一つ腹をくくって更生の道を歩んでほしいものでございます。
June 1, 2016
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