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嵐山光三郎さんの『漂流怪人・きだみのる』という本を読了したので、心覚えを。 きだみのるさん、本名は山田吉彦といい、『ファーブル昆虫記』の翻訳で有名な人。フランス語とギリシャ語に堪能で、フランス留学中はパリ大学で岡本太郎と共に社会学者・人類学者として名高いマルセル・モースの指導を受けた経歴の持ち主。 しかし、何と言ってもきだみのる氏を有名にしたのは、第2回毎日出版文化賞を受けた『気違い部落周游紀行』ですな。戦中・戦後の20年間を八王子の山奥にある恩方村で暮した、その時の体験記で、これは私も大学生くらいの時に読み、すごく面白かった記憶がある。しかし、そのタイトルに難ありということで今ではあまりマスコミにも取り上げられないという。冨山房から出た版は、今のところ絶版のようですけど、古書としてまだ簡単に見つかるレベルだと思います。気違い部落周游紀行 [ きだみのる ]価格:1512円(税込、送料無料) きだみのるというと、昔からどこか謎めいた人として誰もが煙に巻かれてきたわけですけれども、ああ、彼はモースの弟子なのね、と分ってしまえば、色々、なるほどと思うところがあります。つまりきださんは基本的に社会学者であり、人類学者なわけですな。だから彼は『ファーブル昆虫記』を、虫を対象にした社会学・人類学と見做して訳出したのであり、またファーブルが昆虫を観察するような目で八王子・恩方村の村人たちを観察し、その観察記を『気違い・・・』として書いた。だから、あれはきだみのる自身が書いた一種の「昆虫記」だと思えばいいのではないかと。そして、人を「虫」として冷徹に観察し、本の中に描いたからこそ、彼は20年世話になった恩方村の人々から鎌を振りかざして追い払われたのでしょう。 ま、それはともかく、本書は、平凡社の編集者として晩年のきだみのるに接することになった嵐山さんが書いた、きだみのるとの一種の「交友記」ということになる。 恩方村での20年を除いて、人生の大半を住所不定のまま漂流して暮したきださんですが、嵐山さんが接した頃、きださんは「ミミくん」という少女と暮らしていた。きださんはミミくんのことを「同志」と呼び、ミミくんはきださんのことを「おじさん」と呼んでいましたが、本当のところ、ミミくんはきださんの実の娘、実に68歳の時の娘で、当時きださんが下宿していた家の大家の奥さんとの間に出来てしまった子どもなんですな。それできださんが引き取っていたのですが、なにせきださんは漂流老人ですから、ミミくんを学校に入れることができない。それでミミくんは小学校にも行かず、そのままきださんと行動を共にしていた。 というわけで、生きること、食べることに貪欲で、自分の書くものに対する絶対の自負を持ち、他人に迷惑をかけることなどものともせず、しかし、ミミくんに対しては若干の負い目を感じながら生きていた、そんな偏屈な漂流老人きだみのるの姿を、嵐山さんは本書に記しております。 そういう意味では、きださんというのは、ちょっとヘンリー・ミラーみたいな人だったのかも知れませんな。 ちなみに、ミミくんについてさらに言えば、結局、きだみのるさんは、ミミくんを学校に入れるために、当時熱血教師だった佐々木某に預けるのですけれども、この佐々木某というのが実は曲者で、ミミくんにきだの悪口を吹き込んで二人の仲を裂き、彼女を自分の養女にしてその子育て記を小説にして世に出るということをやってのける。佐々木某とは、作家・三好京三のこと。しかも、三好はそのミミくんに手を出したとか出さないとかで後にミミくんから離縁されたのだとか。まあ、その辺の事情については、本書ではきださんサイドからのみ語られるので、真実のほどは分りませんけれども、複雑な出自の影響からか、ミミくんがその後波乱万丈な青春時代を過ごすことになったのも事実。 そんなこんなで、晩年のきださんは、金銭的にはむしろ好転していた反面、三好京三の裏切りから不本意に同志ミミくんを奪われるようなこととなり、寂しく死んでいったようなところがある。少なくとも本書を読む限り、そんな印象を受けます。 ま、そんな感じ。 で、じゃあこの本がすごく面白いとか、すごく感動的か、というと、うーーん、どうかなあ。 もちろん嵐山さんはきださんの著作に感銘を受け、十分にリスペクトはしていたのでしょうけれども、しかし、嵐山さんがリスペクトしていたのはきださんだけではないのですから、結局、「好きな作家のone of them」であった感は否めない。だから、とことんきださんに惚れぬいて、という形できださんに接していたわけでもなさそうで、その辺が本書の食い足りないところ、かなあ。 例えば、編集者が書いた作家の晩年、という意味では、ヘミングウェイの晩年を描いたA・E・ホッチナーの『パパ・ヘミングウェイ』という本がありますが、この本の素晴らしさと比べてしまうと、やっぱり『漂流怪人』は、まだまだ、という感がある。 しかし、それにしても謎の多いきだみのるさんだけに、その晩年のスケッチ、というだけでも価値はある。本書を通じて、多くの人が『気違い・・・』以下、きださんの著書に触れる、その入口になるなら、いいのではないでしょうか。そういうものとして、ちょいと軽めに「教授のおすすめ・・・」程度に推しておきましょうかね。漂流怪人・きだみのる [ 嵐山光三郎 ]価格:1728円(税込、送料無料)
April 30, 2016
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「世界的歌手急死」の文字、そして派手なステージ衣装を身に纏った「誰か」の写真が目に入った瞬間、理性より先に直観で誰が死んだのか、私は悟りました。それは私が最も恐れていたニュースであり、だからこそ、まるで何度も予行演習をしていたかのような瞬時の反応を私はしたのでした。 プリンス急逝。 その第一報の衝撃の後、私はざわざわした気持のままネットの世界を駆け廻り、オバマ大統領をはじめ世界中の有名・無名のプリンスファンのコメントをむさぼるように読みました。が、それらがいずれも心からの哀悼の言葉であることは疑い得ないとしても、結局、どのコメントも私の心を鎮めるものではありませんでした。 私の心を鎮めるものがあるとしたら、それは「第一報は誤報でした」という、たった一行に収まる訂正記事以外、あり得ないからです。 それどころか、正直に言えば、プリンス急逝にまつわるニュースには、私(あるいは私と同レベルのファン)の心を逆なでするものの方が多かった。例えば彼の死を報じた大新聞の多くは、プリンスが映画『パープル・レイン』で世界的な人気を得たとか、過激なまでに性的な歌詞で「話題を呼んだ」とか、そんな三十数年前に終っていることを書き並べ、グラミー賞を7回も獲っただの、アルバムが1億5千万枚も売れただの、ロックの殿堂入りしているだのといったつまらない肩書を紹介した後、マドンナやらミック・ジャガーやエルトン・ジョンあたりのコメントを付して型通りの記事をまとめていた。無論、新聞の訃報欄などというものは、どのみち急ごしらえで作るのだから仕方がないではないかと言われればその通りなのですが、こんな記事でプリンスの生涯をまとめて欲しくないという気持はやはり残ります。 シェイクスピアが今死んだとしたら、モーツァルトが今死んだとしたら、ピカソが今死んだとしたら、それでもマスコミはこのレベルの訃報記事を書くのだろうか。彼らの訃報は、例えば「マエケン、大リーグで活躍」のニュースより話題性の低いものになるのだろうか。 私がプリンスのことを初めて知ったのは、1984年のこと。小林克也さんをVJに据えた『ベストヒットUSA』で『When Doves Cry』のプロモーション・ビデオを見たのが最初だったと思います。自伝的映画『パープル・レイン』から切り取ってきたシーンを織り交ぜながら、後半、バックバンド「ザ・レヴォリューション」を従え、鏡を効果的に使いながら歌い踊るプリンスの姿を見た時の衝撃。衣装から何から完全にプリンスの世界観を反映させ、見るもの全てをその中に引きずり込むようなパワフルな映像に、マイケル・ジャクソンのそれとは全く異なる、しかしそれより遥かに魅力的なものを私は見た。「泳ぎが得意」という意味では、魚もイルカもさほど差が無いかもしれないけれど、泳ぐ魚を見ていても退屈するばかり。それより、泳ぐことを心の底から楽しんでいるかのようなイルカを私は見ていたいと思う。それと同じように、私はマイケル・ジャクソンが華麗に歌い踊るのもスゴイとは思うものの、ずっと見ていたいと思うのはプリンスの方でした。 この映像を見た後、私がすぐにアルバム『パープル・レイン』を(もちろん1980年代前半のことですから、LPとして)購入し、ひたすら聴きまくったことは言うまでもありません。そしてこのアルバムに入っている『Let's Go Crazy』や『Baby, I'm a Star』、そして『Purple Rain』といったシングルカット曲が次々とヒットチャートを駆け上るのを「さもありなん」と眺めつつ、プリンスがこの『パープル・レイン』以前に発表したアルバムにも次々と手を伸ばしてみた。 そして2年前の1982年に2枚組LPとして発表された『1999』を聴いて、プリンスが『パープル・レイン』以前に、既に驚くべき才能を世に顕していたことを知ったのでした。『Automatic』や『Lady Cab Driver』の怪しげで淫靡な世界から『Little Red Corvette』の爽快でポップな音作りまで、そこにプリンスがプリンスとして存在していたんです。 そしてさらに順に過去に遡って『戦慄の貴公子(Controversy)』、『ダーティ・マインド』、『愛のペガサス(Prince)』と聴き進め、彼が18才の時にワーナーブラザースと契約して製作した処女作『For You』まで聴いて、この早熟の天才がここまで歩んできた道を見通すと共に、その全アルバムに記してある「Produced, Arranged, Composed and Performed by Prince」の文字に驚きを禁じえなかった。彼は作詞・作曲・編曲をすべて自分でこなすばかりでなく、管楽器とバイオリンを数少ない例外として、アルバムの制作に用いられるほぼすべての楽器を自分で演奏していた。こういう芸当は、何度も引合いに出して申し訳ないのですが、マイケル・ジャクソンには出来ないことでした。 しかし、これらのことにも増して私を驚かせたのは、『パープル・レイン』の商業的大成功からほとんど間を置くこともなく、プリンスが翌1985年に新譜『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』を出したこと。ビートルズの『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を意識して作られたとも言われるこのアルバム、プリンスが麻薬的な空想の中で作り上げたドリーム・ワールドとも言うべき「ペイズリー・パーク」に集う人々を描いたコンセプト・アルバムであり、LPのジャケットに描かれたアート・ワークも含め、『1999』や『パープル・レイン』までのアルバムとはまるで異なる、極めて幻想的な世界を見せてくれた。 「幻想的」という言葉は、「文学的」という言葉に言い換えることが出来るかも知れません。すなわち、『アラウンド・ザ・ワールド』は、プリンスが音楽で描いた小説なのだ、と。私がそんな風に思ったのは、丁度このアルバムが出た時、私が卒業論文の執筆に取り組んでいたからでしょうか。私が卒論のテーマとして選んだアメリカの女流作家フラナリー・オコナーの諸作品が持つ独特の宗教的/戯画的世界と突き合せても、『アラウンド・ザ・ワールド』はまったく遜色がなかった。少なくとも私にはそう思えた。だからこのアルバムを『パープル・レイン』の商業的成功に比して完全な失敗作であるとみなす世間一般の評価に、私はむしろ喜びさえしたのでした。なぜなら、プリンスのやろうとしていることが分かる人間は少なくいのだということ、そして自分はその少ない人間の内の一人であるということを確信出来たからです。 そんな馬鹿なことを考えるほど、私は既にプリンスの魅力に圧倒されていたのでした。 ところが、プリンスはそんな私の理解のさらに上を行く。あの完璧な『アラウンド・ザ・ワールド』からわずか1年後に、これまた前作とは全く異なるコンセプト・アルバム『パレード』を出すんです。『アラウンド・ザ・ワールド』が極彩色の幻想世界を描いたものであるとするならば、新作『パレード』は、その印象的なジャケット・デザインが示す通り、色彩を極度に切り詰めたブラック&ホワイトのお伽噺。プリンス自身が監督・主演を果したロマンス映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサントラですが、映画の商業的失敗はさておき、アルバムとしては素晴らしい出来で、特にシングルカットされた『Kiss』は、極端に伴奏を削り、シンプルなビートのみで構成される演奏が斬新で、再びプリンスを全米ヒットチャートNo.1の座に返り咲かせることになる。 どんなに高く評価したとしても、プリンスは次の作品で必ずその評価の上を行く。その限界の見えない右肩上がりの芸術的達成をリアルタイムで追うことが出来るということ、そしてこの怪物的天才と同時代を生きることが出来、彼が一体どこまで行くのかを見届けることが出来るということ――それは、ビートルズに間に合わなかった私の世代にとって、願ってもないセカンド・チャンスなのではないか。私には、そういう風に思えました。 そしてそんな私の過度な期待すらも圧倒するかのように、プリンスの快進撃は続きます。それは彼自身の作品のみならず、彼の「子分たち」の作品のプロデュースという形でも花開く。例えばザ・ファミリーへの楽曲提供とか。バングルスに提供した『マニック・マンデー』とか。ペブルスのアルバム『ペブルス』とか。特にジル・ジョーンズのアルバム『ジル・ジョーンズ』は、全曲プリンスの作詞・作曲で、隠れた傑作と言ってもいい。 そして、このあまりにも旺盛な製作ペースに目を瞠る我々をさらに驚かすような噂として、当時、まことしやかに伝わってきたのは、プリンスは既に数百曲の自作曲の録音を済ませており、その気になれば何枚でも新譜を出し続けられるということ。またこれはプリンスに近いシーラ・Eの発言だったか、ちょっと記憶が不確かですが、「彼はモーツァルトのように頭の中に完璧な音楽が鳴り続けていて、それをどんどん譜面に起こしていかないと解放されない」という趣旨のコメントを読んだことがあって、プリンスもまた音楽の神に魅入られたアマデウスであったのかと、私は激しく納得したのでした。 そしてその20世紀のアマデウスは『パレード』からわずか1年の後となる1987年に再び2枚組のアルバム、『サイン・オブ・ザ・タイムズ』を出す。そしてその翌年には『LOVESEXY』を、その翌年には『バットマン』を、その翌年には『グラフィティ・ブリッジ』を。プリンスの飽くなき音の探求は続きます。 そして1990年、「ヌード・ツアー」の一環として来日、東京ドームでコンサートを開くこととなる。レコードさえ聴いていれば満足で、めったなことではライブに行かない私も、プリンスの来日となれば是非もなく、このコンサートには行きました。予定されたオープニングは遅れに遅れ、結局、1時間以上遅れて始まったのですが、後で聞いたところによると、飛行機の都合で日本到着が遅れたプリンスは、渋滞する高速&首都高の路肩を爆走して東京ドームに向い、休む間もなくそのまま演奏に入ったのだとか。飛行機での10時間以上にも亘る移動の疲れもものともせずコンサートをやりきったということも驚きですが、噂によると、コンサート後も彼はほとんど眠らず、食べず、口にするのはわずかなお菓子ばかりで、そのまま作曲し、東京にいる間に新曲のレコーディングまで済ませて帰ったとのこと。 そして翌1991年、新しいバックバンド「New Power Generation」を前面に出した新譜『ダイアモンズ&パールズ』が出る。そして翌年には『ラブ・シンボル』が。その翌年にも、またその翌年にも、さらにその翌年にもプリンスは新譜を出し続け、結局、30年以上にも亘ってほぼ毎年のように新譜を、それも時には2枚組、3枚組、さらには4枚組の新譜を出し続けます。それも、常に時代の最先端を行く音作りで我々を文字通り驚かせながら。結果的には「最晩年」となってしまったこの2年ほどに限っても、新バックバンド「サード・アイ・ガール」を率いての『アート・オフィシャル・エイジ』と『プレクトラムエレクトラム』の2枚に加え、『ヒット・アンド・ラン・フェーズ1』『ヒット・アンド・ラン・フェーズ2』と都合4枚のアルバムを出し、そのいささかの翳りも見せぬ創作パワーを我々に見せつけている。 創作力の枯渇とか、インスピレーションの枯渇など、並のアーティストを襲う危機的状況は、プリンスにはまったく無縁だったのです。 それにしても、私はプリンスの一体何にこれほどまでに惹かれるのか。無論、彼の存在、そして彼のやることなすことすべて、というのが唯一の答えなのですが、それにしてももう少し分析的に考えると、まず彼の作詞能力、とりわけ韻の踏み方の絶妙さに私は圧倒される。 例えば最近の作品では、”HARDROCKLOVER” の冒頭、 There's nothing for the record And nothing to condemn It's in between this waking life And REM But you walked into the party To tell me to live up to our dreams We 'bout to get it started Turn my guitar up so I can make this woman scream! の2行目と4行目、"condemn" と "REM" で韻を踏むなんて、どうやったら思いつくのだろう。 あるいは"My Computer" という歌の次の歌詞、 called an old friend of mine just the other day No congratulations, no respect paid All she did was wonder if the rumors were true I said, "No, I ain't dead yet but, uh, what about you?" I can count my friends with a little peace sign, one, two It was Sunday night, instead of doing what I usually do, の下から2行目とか。 ああ、そんなことを言っていたら、プリンスのすべての歌詞に言及したくなってくる。 "Shy" という曲の冒頭、 After a month of just being alone he said, "I wonder what L.A.'s thinking" Streets he roamed in search of a poem amongst the wild and drinking When he sees cool dark skin in hot virgin white The search was over at least for tonight When she co-signed and then told him she was ... Shy - Cool dark skin in hot virgin white Shy - Lips say won't but her body say might Shy - Looks like we're going to take the long way home tonight これだけでもう映画のワンシーンさながらの喚起力。これ一発で、持って行かれてしまう。 プリンスを評価する追悼記事の中で、歌詞に触れたものが一つもないのは、私には非常に不可解でした。なぜならプリンスが作っていたのは「うた」であり、「うた」で重要なのはまず歌詞だろうと思うからです。そしてプリンスは、卓越した作詞者でありました。 一方、音楽的側面に関して私が解せなかったのは、彼の音楽について「ソウルやR&Bといった黒人特有の音楽をロックと融合させた・・・」的なことが、画一的に語られていたこと。というのは、私にとってプリンスの音楽はそういうものではなかったから。 例えばローリング・ストーンズの『ジャンピングジャック・フラッシュ』などを聴けば、ストーンズはロックだなとは思う。しかし、ビートルズの音楽はロックか? と問われたら、明確にそうだ、とは答えにくいでしょう。ビートルズの音楽は「ビートルズの音楽」としか言いようがないから。 それと同様、私にはプリンスの音楽は「プリンスの音楽」としか言いようがない気がします。それほどソウルっぽいとも、R&Bっぽいとも、特には思わない。否、もし仮にプリンスの音楽は白っぽいか、黒っぽいか、と問われれば、私はむしろ白っぽいとすら思う。 そもそもプリンスはNY生まれでも、シカゴ生まれでも、南部生まれでもなく、ミネアポリスの出身。そしてそのギターは、ジミ・ヘンドリックスではなく、サンタナの影響を受けたもの。またアーチストとして最も強い影響を受けたのはカナダの白人女性シンガーソングライター、ジョニ・ミッチェルなのであって、そういう意味では、プリンスは白人文化の中で自らの芸術的センスを磨いた、とすら言えるでしょう。事実、シンニード・オコナーの『Nothing Compared to U』のように、プリンスの作った歌はしばしば白人女性によって歌われたりカバーされてまったく違和感がないし、またバックバンドについても、ロージー・ゲインズといった黒人女性シンガーとデュエットすることの多かった「NPG時代」より、リサとウェンディの白人女性コーラスを重用した「ザ・レヴォリューション時代」の方が、プリンス自身の声をより輝かせたような気がする。 少なくともプリンスが曲を作るに当たって「よーし、基本ロックで作って、そこに少しばかりR&Bっぽいテイストを入れよう」というような形で「ロックと黒人音楽の融合」を果たそうとしていたとはとても思えない。だから、そんな風に適当にプリンスの音楽性をまとめて欲しくないんです。プリンスはプリンスの好きなように歌を作っていたんだから、それは「プリンスが作りたいと思っていた音楽」でいいんです。「何とかと何とかの融合」なんて簡単に言って欲しくない。 でまた、「うた」が良くて、音楽が良くて、それだけでもスゴイのに、プリンスの場合、さらにパフォーマンスが素晴らしかった。 まず楽器演奏について言えば、何と言ってもギター。超絶技巧という面だけで言えば、ひょっとしたらプリンス以上の人も居るのかもしれないけれど、こと「カッコよくギターを弾く」ということになったら、プリンス以上の人って、他にいるだろうか。同じことはピアノにも言えて、プリンスがピアノを弾いているのを見ると本当にかっこいい。 また楽器演奏を含めたプリンスのステージ・パフォーマンスの素晴らしさたるや、もう、筆舌に尽くしがたいというか。しかも、自分一人のパフォーマンスではなく、バックバンドの統制もすごくて、その辺はジェームズ・ブラウンに範を取ったというだけのことはある。 そしてもう一つ、私がプリンスに関して好きなところは、彼が音楽上の偉大な先輩をリスペクトするところで、ジェームズ・ブラウンやマイルス・デイヴィスはもとより、ジョージ・クリントンやメイシオ・パーカー、チャカ・カーンといった、大御所ではあるけれども、一時、埋もれていたような人を手助けして再びスポットライトが当るようにしているし、その逆に、レニー・クラヴィッツのような実力のある若手を引き上げることもしている。つまり、ちゃんと歴史を見て、その中での自分の役割をしっかり演じている。その賢さ。一番新しいバックバンド、「サード・アイ・ガール」のメンバーだって、プリンスと一緒にパフォーマンスすることで、随分勉強になったのではないかと。 若い時こそ、セクシャルなイメージが強く、人によってはプリンスのことを苦手に思う向きもあったかと思いますが、本人が「ああいうセクシャルなことは、もうマドンナに任せた」と言っていたように、最近ではそういうイメージはほとんど影を潜め、むしろ『Baltimore』のような、真っ当な正義を貫くようなうたを発表をしたり、アーティストの魂のこもったアルバムをアルバムとして聞いてくれ、という趣旨のことを簡潔な言葉でさらっと言ってのけるなど、三十年を越えて第一線で活躍してきたキャリアを背景に、プリンスは今や発言者としての地位を獲得し、事実、彼の発言は、人々にリスペクトを持って重く受け入れられるようになってきた感がある。 またそうだからこそ、最近のプリンスの様々な言動は、ある種の感動をもって受け取られるところがあって、例えば最近私が耳にした噂に、あるクラブにプリンスが顔を出した時の話がある。その時、クラブ専属のバンドが演奏していたのだけれど、どうもそのバンドのギタリストの腕が悪かったらしいんですな。それでプリンスはしばらくは我慢して聴いていたのだけれど、さすがに我慢できなくなってきて、自らステージに駆け上がり、そのギタリストからギターを奪うと、飛び入りで演奏に参加し、「ギターってのはこうやって弾くもんだ」とばかり「手本」を見せたと。そしてその後、ギタリストにギターを返して去って行ったというのですが、そういうちょっとした「噂」が、むしろ微笑ましいものとして、快哉を叫びたくなるようなものとして、人々の間に広がって行くような感じがある。ああ、自分もその場にいて、プリンスが飛び入りで束の間演奏したその演奏を聴きたかったな、という思いが、特にプリンスの熱狂的なファンでない人たちの間にも湧き起こるような、そういう地位を、プリンスはついに獲得したのだと、私は思います。 だから、私はプリンスにもっと生きていて欲しかった! 60代、70代のプリンスがさらにどの方向に進化するのか、それを見たかった! プリンスが死んだあと、おそらく、ペイズリー・パーク・スタジオに残されているであろう膨大な量の音源が、切り売り的に売り出されるだろうという噂があります。だから、ファンとしては当分、プリンスの作った音楽に餓えることはないだろうと。 実は私もそのことをちょっとだけ思いました。まあいいや、まだまだプリンスの新譜は出るのだから、と。 しかし、それはプリンスの死の知らせがもたらした絶望が私に強いて痛みを忘れる即席の薬を探させた結果であって、本当はそんなことは何の慰めにもならないことは私自身、よく分かっているのです。 その存在を知ってから三十数年の間、私の頭と心と腹の中でずっと鳴り続けていた音楽、それを作ったプリンスがもういないということ。私はまだそのことを、整理し、納得することができないでいます。プリンスを思うためにプリンスのアルバムを聴き、聴くほどにその死がますます惜しまれる。その果てしのない堂々巡りの中、私は今、この痛みがいつか遠のいてくれることを祈りながら、ただひっそりと息を潜めているのです。
April 24, 2016
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信じられない・・・。プリンスが死ぬなんて・・・。 ああーーーーーーーー!!! 嘘だと言ってくれ・・・。
April 22, 2016
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山川紘也・山川亜希子夫妻の書いた『引き寄せの極意』という本を読んだので心覚えを。 この本、じっくり30分くらいかけて読了したのですけど、それは私が学術的に読んでいるからそうなるので、普通は15分くらいで読めると思います。いや、そんなに掛からないかな? つまり、大した内容はないんだよね。 で、系で言うと、『ヤバい系』ですね。「ヤバい系自己啓発本」。又の名を「スピリチュアル系」。 そもそも表題が紛らわしいのですけど、『引き寄せの極意』とあるので、引き寄せ系の自己啓発本かと思いきや、実はばりばりスピリチュアル系だったっていう。だから、ヤバいことが所々に顔を出す。 例えば、こんな感じ: 「愛って何でしょうか? 僕が精霊に教えてもらったときのことは衝撃でした。死ぬまで忘れられないでしょう。ある日、精霊からのメッセージで「とし(僕のことです)は愛を知らない。今晩、愛を教えよう」というメッセージが自動書記によって出てきたのです。」(70頁) 「ワクワクすることをしなさいと言ったのはバシャールという異星人でした。」(87頁) 「2015年の秋、清水浦安さんの主催で『在日宇宙人、在日天使の会』という驚くべき名称の集会がありました。」(91頁) 「そして、私たちの前に現れた精霊、サン・ジュルマンからは、『今、地球はとても大変な時期を迎えている。あなた方人類の意識が変わらない限り、この地球は壊滅してしまう。だから宇宙のすべての存在が人類の意識を変えようと必死になっている』と言われました。」(148頁) 「かつて、私はアッシジの聖フランシスコの精霊からいろいろなメッセージをいただいていたいことがありました。」(189頁) ほらー! めちゃくちゃヤバいじゃん! これさあ、マジで読む奴とかいるのか? っていうか、「在日宇宙人、在日天使の会」って何? だけど、むしろ私が興味あるのは、この本より、これを書いた山川夫妻のことなんですよね。 というのは、山川紘也さんって、経歴から言うとスゴイのよ。東大法学部卒。大蔵省入省。マレーシア、アメリカなど海外勤務を経て退官。もう、エリート中のエリートじゃん。でまた奥さんの亜希子さんも東大経済学部卒。外資系企業勤務ですと。 ふーーむ・・・。これだけの経歴を経て、それで、その結果、こう仕上がったかと。 でも、ある意味、やっぱりめちゃくちゃ頭いいのかしらこの二人、と思うのは、彼らがそれぞれの経歴を経て翻訳家になった後の実績です。 まず、米国の女優シャーリー・マクレーンのベストセラー『アウト・オン・ア・リム』を訳している。それから最近ではロンダ・バーンの『ザ・シークレット』他、あれこれ訳している。これ、本当は佐野美代子さんという方が最初、翻訳したいと思っていて、それで山川夫妻に出版社との仲介を頼んだらしいのですが、結果として翻訳者の地位を佐野さんから奪っちゃうような形になったのではないかと。 で、その他、このジャンルの本で、それなりに話題になっている本を片っ端から翻訳しているところを見ると、あれじゃない、山川紘也さんなんて、大蔵省に勤めていた時より儲かっているんじゃない? あ! ひょっとして、「聖フランシスコの精霊からいろいろなメッセージをいただいて」とか言っているのも全部計算ずくだったりして。そんな風に言っておけば、まともな人からは敬遠され、ヤバい人からは絶大な支持を集められてちょうどいい、とか、そんな計算があるんじゃないの? 危ねえ、危ねえ、あやうく騙されるところだったぜ・・・。 ということで、この本、実はすごい本なのかも知れませんけれども、まあ、その辺の高度な(?)駆け引きに興味のない方には、近づかない方がいいかも、と言っておきましょうかね。 それにしても、学問のためには、「バシャールという異星人」の本も読まなくちゃならないのかしら。結構、キツイものがあるねえ・・・。須藤元気のことは好きだけれども・・・。バシャール スドウゲンキ [ 須藤元気 ]価格:1620円(税込、送料無料)
April 22, 2016
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自己啓発本として有名なスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、副題に「人格主義の回復」とあるのですが、本書を通読して思うに、確かにコヴィーさんが本書を通じて一番訴えたかったのがこれだろうと。 じゃあ、人格主義を回復するために何を排除しなければならないかというと、人格主義の対極にある「個性主義」であるとコヴィーさんは言います。 コヴィーさんはアメリカ独立(1776)から200年の間に出版された「自己啓発本(成功本)」を読み漁ったらしいのですが、その結果分かったことがある。それによると、最初の150年間に出されていた自己啓発本は、例えばベンジャミン・フランクリンの自伝に代表されるように、「誠意・謙虚・誠実・勇気・正義・忍耐・勤勉・質素・節制」を重視し、これら人格的な徳の育成こそが成功のカギである、と教えていた。それに対して、最近の50年間に出版された自己啓発本は「個性・イメージ・態度・行動様式・スキル・テクニック」といった表面的なことしか教えていないと。つまり、自己PRを上手にやって人間関係を上手に泳ぎ回れ、とか、積極的な心構えを崩すな、とか、そういうことしか教えていない。もう、ほとんど、人心を操るテクニックみたいな感じになっていると。 で、こうしたうわべだけの自己啓発本がここ50年間、アメリカ中に蔓延しているんだ、と気づいた時、コヴィーさんは、自分もまたこうしたうわべだけを見るようなレンズを通して世界を見ていたことに気づくんですな。ここがコヴィーさんの偉いところ。彼は常に自分を軸にして、すなわち自己反省を基にして、物事を考えております。 だけど、そういううわべだけのやり方では、やっぱりうまく行かない。一夜漬けのテクニックでは、人間関係・社会関係の波は乗り切れないと。それは、コヴィーさん自身の子育て体験からも明らかであると。 農場に一夜漬けは効きません。春に種まきを忘れ、夏は遊び呆けたら、秋の収穫はない。それと同じように、人生だって一夜漬けは効かないわけですな。だから、遠回りをするようだけれども、秋の収穫を期待するなら、春に種を播かなければならない。つまり、人格の陶冶からスタートしなければならない。 それがコヴィーさんのいう「人格主義の回復」なのであります。 だからさ、この本は「アドバイス系自己啓発本」の中でも本格派よ。小手先のテクニック養成ギプスではないわけ。 だけど、ここがこの本のいいところなんだけど、「だから、はい、皆さん、まずは人格者になりなさい」なんて、突き放したりはしない。もっと具体的に、「じゃあ、人格を陶冶するって、どうすればいいの」というところをちゃんと教えてくれる。まさにアメリカン・プラグマティズムの良き伝統でありまして。 コヴィーさんによれば、人間というのは、物を見る時に、必ず「パラダイム」を通して見ている、というのですな。パラダイムというのは、まあ、日本語風に言えば「色眼鏡」みたいなものでしょうか。 例えば「地球が宇宙の中心だ」というパラダイムで見れば、太陽が地球の周りをグルグル回っているように見えるし、それはそれで大概の説明はつく。 だけど、「実は地球の方が太陽の周りをグルグル回っていたんだ」という風にパラダイムがシフトすると、世界はまるで違ったものに見えてくる。このパラダイム・シフトを経験する前は正しいと思っていた「地球中心説」が、まったく間違いであったということが判明する。 だから、パラダイムというのは、それが間違っていれば大変危険なことになるわけですな。コヴィーさん流に言えば、間違った地図をもって旅行するようなもので、目的地には絶対到達できない。 で、人間が社会生活を営む上で様々な困難な状況に巻き込まれるのは、大概、パラダイム(地図)が間違っていたからだ、というのが、コヴィーさんの主張でございます。だから、まず自分自身が拠って立つパラダイムを点検し、それを正しいものにすることから始めようと。 そして、パラダイムを点検し、それを正しく補正できるのは、人間の特権である、と、コヴィーさんは言います。なんとなれば、人間だけが自分自身を第三者の視点から見直すことができるから。想像力というものが備わっていない他の動物に、「自省」なんかできないよと。 で、間違ったパラダイムを補正するのはどうすればいいか、パラダイムを正しく設定するにはどうすればいいのか、って話になったときに、コヴィーさんが持ち出してくるのが「原則主義」。曰く、「自然界に存在する引力の法則などと同じように、人間社会にもまた、時間を超えて不変であり異論を挟む余地のない、普遍的にして絶対的な法則がある」(28頁)。だから、この確固不変の原則に立脚すれば、パラダイムを正しく建てることができると。 おっと、この辺の「引力」を引き合いに出す言い回し、ちょっと「引き寄せ系自己啓発本」のレトリックに似ております。だけどその内容は全然違う。何せコヴィーさんがいう「原則」とは、「公正・誠実・正直・人間の尊厳・奉仕・貢献・本質・美徳・可能性・忍耐・養育・励まし」といったもの。すなわちどの宗教・信仰とも関係がない(あるいは、どの宗教・信仰とも共通する)、長く存続し、完全にその有効性が立証されている指針のことなのですから。 コヴィーさんはアインシュタインの言葉「我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったときと同じ思考のレベルで解決することはできない」(42頁)を引きながら、だから、生きていく上での問題に直面したら、これらの原則に従ってまず自分を変えなさいと言います。自分を一つ上のレベルに持ち上げて、パラダイムを変えて、そこから外部の問題に取り組みなさいと。相手(他人、社会)を変えるのではなく、まずあなたが変わりなさい、『インサイド・アウト』のアプローチをとりなさい、と。例えば結婚生活がうまく行っていない場合、相手を責めるのをやめて、まず自分のスタンスを見直す。自分が変わって、良き夫/良き妻に変われば、相手もそれに対応して良き妻/良き夫に変わり、結婚生活も立て直せますよと。すべては、自分の考え方を変えるところから始めなさいと。 あ! ああ! この「インサイド・アウト」の考え方って、結局、「引き寄せ系自己啓発本」と同じことを言っているわけですな。引き寄せ系では、世界は自分の思想の反映だから、自分の思想を変えれば世界は変わるよと主張するわけですけれども、これって、一言で言えば「インサイド・アウト」だからね。 結局、引き寄せ系自己啓発本って、荒唐無稽なことを主張しているようで、それをコヴィーの本みたいな地道な自己啓発本と読み合わせると、実はメタ・レベルでは同じことを言っているんだ、ってことがよくわかります。 ま、それはさておき、とにかくコヴィーさんは以上のような前置きをした上で、より具体的にどうやって自分を変えていけばいいかということを、「7つの習慣」として提示します。「人間は繰り返し行うことの集大成である」というアリストテレスの言葉を引用しつつ(過去の引用が多いところも、自己啓発本の特徴)、原則を基盤にしたパラダイム・シフトをするために心がける習慣を7つ提示します。 ところでその7つの習慣は、3つのパートに分かれます。まず「私的成功」を達成するための3つの習慣として、「主体的であること」「終わりを強く思い描くことから始めること」「最優先事項を優先すること」が挙げられる。次いで「公的成功」を収めるための習慣として「Win-Winを考える」「まず理解に徹し、そして理解される」「シナジー創り出す」の3つをマスターし、最後に、それらすべてに関わることとして、「刃を研ぐ」という第7の習慣が提示される。 ちなみにこの提示の仕方も「インサイド・アウト」でございます。まず私的成功を収めてから公的成功を狙い、最後に、それまで身に着けたすべての習慣に磨きをかけようというね。 で、どの習慣もすごく具体的で、かつ実現できれば有効だろうなと思わされるものばかり。しかも、それらの多くは、コヴィーさん自身の経験談を踏まえて提示されるので、説得力もある。だからそれらについては、興味のある方が個々に読んでいただければいいと思うのですが、この中で一つ、私が特に感銘を受けた習慣を挙げるならば、やはり一番最初の「主体的である」ということかなあ。 というのはね、このパートに、本書全体を通底するある概念が語られているから。 それは何かと言いますと、「刺激と反応の間には選択の自由がある」という概念でございます。これ、すごく感動的で重要よ。 つまり、人間、生きていく上で自分の身に様々なことが起こるわけですよ。それが「刺激」ね。で、人間以外の他の動物であれば、そうした刺激に対してとる行動は、本能とかそういうものから出てくる画一的な反応です。 だけど、人間には「自覚」(自分自身を客観的に見つめる能力)・「想像」(現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力)・「良心」(心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識して、自分の考えと行動がその原則と一致しているかどうか判断する能力)・「意志」(他の様々な影響に縛られず、自覚に基づいて行動する能力)という四つの特異な能力が授けられているので、これらを総動員して、単なる刺激への反応以上の行動を主体的に選択することができる。この選択の自由こそが、人間の尊厳であると。 で、このことを自覚するかしないかは別として、人間というのは常にそういう具合に、刺激に対する反応を自ら主体的に選択しているわけですな。 例えば、いじめられっ子が他人の中傷で傷ついたとする。それは刺激(いじめ)に対する反応(傷つく)のように見えるけれども、実はそうじゃない。刺激は刺激(これは自分では選択できない)だけれども、反応は選択の結果である。つまり、「いじめられて傷つく自分」を自ら選択した結果であると。エレノア・ルーズベルトがかつて言ったように、「あなたの許可なくしてあなたを傷つけることはできない」ということであり、ガンジーがかつて言ったように、「自分から投げ捨てさえしなければ、誰も私たちの自尊心を奪うことはできない」わけ。 だから、いじめられっ子が卑屈になったとしたら、その卑屈な自分は、自らの選択の結果ということになります。その意味で、人間は過去の選択の産物なんですな。(あ! ああ! あああ! これもまた、引き寄せ系自己啓発本の言い分と同じだ! 「今ある自分は、自分が思った通りの人間だ」っていう。) だからこそ、他の道を選択することもできる、っつーことになる。ここが重要。 じゃあ、どうすればいいかというと、まず自分に起こる事柄、自分が関心を持つ事柄の中で、自分にコントロールできることとできないことを分けなさい、と、コヴィーさんは言います。で、自分にコントロールできること、コヴィーさんの言葉では「影響の輪の中にあるもの」について、主体的に働きかける。そのちょっとした一歩を踏み出すことによって、状況というのはどんどん変わっていき、やがて、以前には自分の影響の輪の中にはなかったものまで、そこに入ってくることもある。そうすれば、それを主体的に変えることによって、さらに影響の輪を広げていけばいい。 天気が悪いと、気分が落ち込む。で、暗い顔をしていると、友人たちもどんどん離れていく。これじゃ、ダメ。もちろん、天気は自分の意志では変えられないかもしれないけど、その代わりに、自分の頭の中に晴れやかな青空を思い浮かべることはできるでしょう。それは、あなたの選択の結果であるから、あなたの頭の中の青空は、誰にも奪うことができない。そして、その自分の中の快晴を見つめ、それに従って快活に行動すれば、あなたの周りにいる人までつられて快活になるかもしれない。前とは異なって、あなたの周りに友人がどんどん集まってきて、それがあなたをさらにハッピーにする。 これがインサイド・アウトの革命であり、主体的な選択をする生き方であると。 天気の話なんて、まあ、些末な例かもしれません。でもね、これと同じ作業をして、ナチスの過酷な拷問を生き延びたヴィクター・フランクルという人もいる。ナチスはいかに拷問を加えようと、フランクルから人間の尊厳を奪えなかった。そう考えると、この主体的選択というのが、いかにすごいことか、ということがわかるでしょう。 私、こういう考え方、好きかも。 つまりさ、人間の自由とか、自由意志って、究極的には選択の自由のことだと思うわけよ。それ以外に、人間に自由なんてない、とすら言えると思う。私はね。そして、そこに、人間の尊厳ってのがあるんだと。 そのことをコヴィーさんはちゃんと言っている。だから、私はこの本、信用するわけ。 というわけで、コヴィーさんのこの本、すごくいいと思うんですな。これは、数ある自己啓発本の中でも、確実におすすめできるものではないかと思います。教授のおすすめ!です。完訳7つの習慣 [ スティーヴン・R.コヴィー ]価格:2376円(税込、送料無料)
April 21, 2016
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井上章一さんの『京都ぎらい』、えらく評判になっているらしいと聞き及び、早速一読してみましたので感想を一言。 井上さん自身、嵯峨に育ち、現在も宇治に在住なのだから、対外的には「京都出身」ということになるのでしょうが、実は京都の中にもヒエラルキーがあって、「洛中でなければ京都というなかれ」という不文律があると。だから、嵯峨とか宇治の人間が京都人を代表して京都のことを語ろうものなら、洛中の、つまり「真の」京都人から強烈な痛打を喰らうというのですな。 例えば井上さんがお若い頃、京都の文筆家で旧家の出である杉本秀太郎氏と話す機会があった時、井上さんが嵯峨の出であることを知ると、杉本さんは「昔、嵯峨の人たちが、自分のところによく汲み取りに来てくれたもんだ」と言ったそうで。つまり、嵯峨の連中なんてのは、洛中から見れば京都でもなんでもない、ただの田舎で、京都には汲み取りに来るぐらいが関の山だと。そういうことを、わざと言う。そういう「真の」京都人のいやらしさ。 で、洛中の人間から事ある毎にそういう扱いをされ、洛中の中華思想に毒されてきた井上さんが、その積年の恨みつらみをぶちまけたのが、つまりはこの本、ということになるわけ。 で、その後、京都の坊主どもが芸子遊びをしまくっているとか、今はそれにも飽きてキャバクラ三昧だ、とか、京都の寺院の信じがたいほどの金儲け主義とか、そういうのを暴露。 で、こんな調子でばんばん京都の悪口を書くのかと思いきや、後半はちょっと歴史的な話も混ざり出す。 例えば、織田信長は本能寺で討たれるけれども、このことからも明らかなように、京都の寺ってのは、もともとホテル業だったんだ、とか。 でもその後、南北朝がどうだとかこうだとか、私は南朝派だとか、そんな話になってくると、アレ? これ何の本だっけ? と疑問が浮かび出してきまして。 で、最後、京都の人間からすると「七」は、どうしても「ひち」と読みたい、その点では洛中の人たちとも一緒、みたいな話になり、何の話?と思っているうちに、はい、おしまい、となる。 何コレ? 読み終わって、何の知的興奮も覚えなかったという。京都の悪口はそれなりに面白かったけれど、それにしてもさ、国際日本文化研究センター教授ともなれば、悪口を言うにも、もう少し、レベルの高いやり方があるのではないかと。 それに後半の歴史云々の話になると、歴史資料に基づくでもなく、井上さんの空想が生みだした仮説を語っているだけなので、面白い解釈なのかもしれないけれど、だーかーらー? って感じ。 うーーん、井上章一。どうした、井上章一。サントリー学芸賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞者ってのは、この程度なのか? いやあ、これはちょっと期待はずれだったなあ。 ということで、この本、ばかに売れているようではあるけれども、教授のおすすめ! はなーしーよ。京都ぎらい [ 井上章一 ]価格:820円(税込、送料無料)
April 20, 2016
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「昭和の男」シリーズ、今日は大学での勉強ライフについて。 今、書き物の大半を・・・いや、大半どころか、99%位をパソコンで行なっている私ですので、「書く」ということはすなわち「キーボードを打つ」ことと同意であるわけですが、1980年代前半の学生時代、パソコンだのワープロなんて影も形もなかったので、当然、授業を受ける時には「ノートに鉛筆書き」をしていた・・・んでしょうなあ。 そういや、大学生になって家庭教師をやるようになった時、当時中学3年生くらいだった教え子が、「ポケコン」に凝っておりまして。 そう、パソコンという名称が普及する前、「マイコン」とか「ポケコン」という言葉があったのよ。シャープとかカシオが、横長の電卓みたいな小型のコンピュータを発売していて、簡単なプログラミングが出来るようになっていた。それから、プログラムを紙に打ち出す機能まであったりして。 教え子がそれをいじっているのを見て、こういうものが将来、自分の生活に関わってくることがあるかもしれない、なんて、想像もできませんでしたが。 ま、とにかく、私の学生時代には、そういうものは何もなかったので、授業を受ける時には、ちゃんとノートを広げ、鉛筆・・・というか、シャープペンで書きこんでいた。その意味では、それこそ先人たちの受講スタイルとまったく異なるところがなかった、と言っていいでしょう。 で、一連の授業を受けた後、レポートの課題を言い渡されることもある。そういう時は、鉛筆で下書きして、それをレポート用紙に清書したものでございます。文章の推敲だって、鉛筆で書いたり消したりですから、超原始的。そして清書する時は、さすがに鉛筆というわけにはいかないので、なんらかのインクを使ってペン書きするわけですけれども、そんな時私が愛用したのは、水性ボールペン。たしか100円くらいで売っている「サクラ ボールサイン」というのではなかったかと。 でもね、これも今時の「三菱 ジェットストリーム」なんかと比べると、書き心地があまり良くなくて、時々インクがかすれたりして、イマイチな感じでした。でも、他に選択肢がなかったのよ。 大体、図書館で本を探すのだって、今みたいにパソコンをつかった検索なんかできないわけだから。 私たちの頃は、図書館の入口付近にかなり大きなスペースがあって、そこに木製のカードボックスがズラッと並べてあって、その紙製のカードを一枚一枚めくって目指す本を探したんだから。本のタイトルで探すボックスと、筆者の名前で探すボックスの2種類があって。うーん、今からわずか30年前までそんな原始的な状況だったんだからなあ。時代の変化ってのはスゴイものでございます。 でも、今思い出してみると、カード検索していた時の、あの手ずれしたカードの匂いまで懐かしくなってきます。 カードといえば、私の学生時代までは、「カード」という言葉に異様なまでの魔力がありましてね。 つまりね、当時は「カード」こそが、情報収集と情報整理のキーワードだったんですわ。 川喜田二郎っていうえらい文化人類学者がいて、この人が「KJ法」という情報整理術を編み出したんですな。それは『発想法』っていう本に書いてあるんですけど、要するに、何でもかんでも情報をカードに書きだしていって、それがある程度たまった段階で、そのカードを分類し、まとめるのですが、その分類の仕方を変えることによって、情報のまとめ方も変わってくる。そうやって、色々な分類の仕方を試すうちに、最初は思っても見なかった情報のまとめ方を思いついたりしたらしめたもの。新しい発想が、そこから生れると。 ま、川喜田さんは文化人類学者だから、沢山の人を使ってフィールドワークをすることがある。そうして集めてきた情報をいかにまとめるか、という必要性から生れたカードの活用法なわけですけれども、情報を頭の中に置いておかないで、カードに書きだす形で可視化し、それを物理的に操作する(カードの組合せ法を変えたりする)ことで、ブレーンストーミングも出来るというところが、他の学問分野でもこの「KJ法」が有効なんじゃないかと考えられたんですな。 で、同じくカードで情報を整理することを唱導したこの時期のベストセラーが、梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』という本。この本で梅棹さんが提唱したB6版のカードが、後に「京大式カード」として名を馳せるわけですな。発想法 [ 川喜田二郎 ]価格:712円(税込、送料無料)知的生産の技術 [ 梅棹忠夫 ]価格:864円(税込、送料無料) 梅棹忠夫さんも川喜田さんと同じく文化人類学者だけど、この時代、学問の世界に文化人類学者が与えたインパクトって、凄かったわけですな。 ま、とにかく、従来は「知識」とか「智恵」と呼んでいたものを「情報」と捉え直し、さらにそれをカードに書きだすことによって個人の人格とか個性から切り離して、モノとして扱うという感覚。これこそが、この時代にもてはやされた文化人類学者たちの新しい「やり方」だったわけですな。無論、それは、やがて来るコンピュータ時代には、当たり前のことなのですが、コンピュータではなく、紙のカードがベースだったというところが大時代なところでございまして。 で、そういう時代に学生やってたものですから、私もね、恥ずかしながら、カードを作ったり、それを分類したり、なんて真似事をしたものでございますよ。まあ、恥しい! でも、実際にやってみると、カード式情報分類法って、とてつもなく時間が掛かるもので、そのあまりの効率の悪さに辟易して、すぐにやめてしまったのは、私が賢かったからか、それとも辛抱が足りなかったせいなのか。 ところで、梅棹さんの『知的生産の技術』と、タイトルが似ているのですけど、もう一つ、この時代のベストセラーとされたのが、渡部昇一さんの『知的生活の方法』という本。知的生活の方法 [ 渡部昇一 ]価格:777円(税込、送料無料) 渡部昇一さんというと、今はもう右翼の論客みたいになっていますけど、元々は英文学畑の人。それだけに、川喜田さんや梅棹さん以上に私の専門に近い人ですが、この本は、そんな渡部さんが田舎から出てきて、上智大学に入学して、ビタミンCを取るために大根を生で齧りながら一生懸命勉強して、成果も出して、本も沢山買えるようになって、自宅を図書館みたいにしちゃいました、それで今はすごく快適です、だから皆さんも私を見習いなさい、みたいなことが書いてある本。そういう意味では、勉強の仕方についての本というよりは、自己啓発の本ですな。 ま、そういう本ですから、結構、外連味もある本なんですけど、何せ当時の私は、それこそ渡部さんみたいに英(米)文学の研究者になりたいと思っていたのですから、この本、結構、楽しみながら、折ある毎に読み返したりしたのでした。これの「続」まで買って読んじゃったよ。 それで、これは蛇足の話なんですけど、後に私も人並みに研究書なんかを出版するようになった時、出版社が私には断らずに、私の本を渡部昇一さんに寄贈したらしいんですな。それで、ある時、渡部さんから私に礼状が届いたことがある。若い時にご著書を読ませていただいた渡部さんからいただいたその礼状、記念に今でもとってあります。 というわけで、ノートと鉛筆、レポート用紙に水性ボールペン、そして図書館の検索カードと、情報整理のための京大式カードを操り、文化人類学者の先人たちの情報革命に影響されながら、私の学生時代は進んでいったのでございます。
April 19, 2016
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1983年の春まだ浅い2月に、我が家は東林間から栗平へと引っ越しをしたのでした。 東林間のマンションには10歳の時から19歳まで、ちょうど10年過したわけですけれども、まさにティーンエイジャーの多感な時期を過しただけに、思い出も多かったかな。 だけど、ここが凄いところなんですけど、10年住んで、別な家に引っ越すってんで、そのマンションを売ったら、買値の倍で売れたっていうね。 今、そんなことあり得ないでしょ。10年住んだ家が、買った時の倍の値段で売れるなんて。だけど、その時はそうだった。それだけ景気も良かったし、インフレでもあったということでしょうか。 でも、そんな風だから、家の買い替えは随分楽だったわけですな。 で、新たに買った家は、曲りなりにも一戸建て。母にしてみれば「念願の」、というところでしょうか。借家、マンション、一戸建て、と推移したわけですから、すごろくで言えば、あがり、みたいな? で、その家は小田急線の多摩線沿いにあるのですけれども、この多摩線というのは、1974年の開通ですから、1983年というと、まだ完成から10年経っていない。だから、本数も15分毎で、1時間に4本しか走らないの。 でまた、当時は乗客もまだ少なくてね! だって、電車の長椅子ってあるじゃん? 7人掛けくらいの。で、この7人掛けの長椅子を、一人で占有できるんだから。だからね、大抵、乗客は、この長椅子に横になって寝るのよ。 最初、多摩線に乗った時、長椅子それぞれに一人ずつ、人が横に寝ている図を見て、私、驚愕しましたもん。なんだ、この乗車の仕方は?!って。 引っ越した当初は、そんな風でした。 で、栗平駅の駅前も閑散としたもので、駅の脇に小さな小田急ストアが1軒あるだけ。周囲は新規に造成された住宅用の区画は出来ていましたけど、家はほとんど建っていないので、見晴しのいいこと。 そして春になると、その造成地に土筆が生え、老人たちが「揚げヒバリ」を楽しむという、なんとも風流な光景が展開するというね。住宅がびっしり立ち並んだ今から思うと、隔世の感がありますな。 ちなみに、この辺りはいわゆる「多摩ニュータウン」の東端に当るようなところでありまして。多摩ニュータウンというのは、東京の稲城から八王子、多摩市、そして町田にかけての多摩丘陵沿いに開発された、日本最大のベッドタウンでございます。この一大ベッドタウンの建設に関しては、それはそれで一冊の本が書けるほど面白いドラマがあるわけですけれども。で、その後、大学の郊外移転も相次ぎ、中央大学、明星大学、都立大、大妻女子大、恵泉女学園大、多摩大、国士舘大等々、石を投げれば大学に当るような状況にもなるという。とにかく、国内最大級の規模で、自立的な郊外型計画都市の建設が行われたんですな。で、我が家も、いわば、その流れに乗ったと。 こういうことって、まあ、人の人生にとってはどうでもいいようなことであるように見えて、案外、決定的な足跡を残すものでありまして。 つまりね、私は今でも、丘陵地帯を切り拓いて人工的に造成した住宅地に惹かれるのよ。逆に、古い歴史を持つ下町とか、全然興味がない。それで、名古屋の大学に赴任してからも、結局、そういう住宅地に家を買っちゃったという。 そういう意味で、私は昭和四十年代後半以降の、東京の住宅供給政策の申し子みたいなところがあるわけ。やっぱり、時代の子なんですな。自分でもそういう自覚はある。 ま、とにかく、19歳の私は、多摩ニュータウンの端っこに新たに居場所を得、大学2年生以降はそこから三田に通学する、そんな日々が始まったのでありました、とさ。
April 18, 2016
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「昭和の男」シリーズ、今日は1982年から1983年辺りのお話。 大学1年の時の記憶で一つ覚えているのは、私も大学生になった以上、アルバイトをした方がいいのではないかと考えたこと。 それで人並みに『アルバイトニュース』を買った記憶がある。 因みに『アルバイトニュース』は1967年創刊で、リクルートの『From A』は1982年の創刊。だから、多分両方買えたのでしょうけれども、私は老舗の方を選んだんですな。『アルバイトニュース』は1986年に『an』に名称変更して今日に至っております。 で、その雑誌を見ながら、通学の途中でいつもその前を通るコンビニの『ローソン』で働いてみようかなと考えた。 ということは、1982年の段階で「コンビニ」はもう普及していたってことですな。調べてみると、セブン・イレブンが1973年から、ローソンは1974年から日本進出でございます。だから1982年なら、もうどこでコンビニを見かけても別に珍しくもない状況だったのでしょう。 だけど、結局、そういうところでバイトする勇気が出ず、バイトと言えば家庭教師をするのにとどまったのでした。もっとも人間的なコネで、玉川学園に通うお金持ちの子弟だけを教えましたので、時給は1万円。その意味では、コンビニで働くより割は良かったかなと。 いずれにせよ、私が学生の時代にはバイトの情報を扱う媒体もしっかりあったし、コンビニも存在していたということは確かでございます。 それからもう一つ、大学生になったんだから、と決意したのが自動車の免許を取ること。で、大学1年生の秋から日吉にあった自動車教習所に通い出したのでした。確かね、当時、生協の扱っていたパックで17万5千円くらいでしたよ。もっとも、私はほとんどストレートで合格しましたので、この内のいくらか返金されましたけどね。 だけど、当時の自動車教習所ってのは、まあ、ヒドイところでね。何がヒドイって、教官がヒドイ。ちょっとハンドル操作をミスしたりすると、罵詈雑言の雨よ。こっちは運転出来ないから習いに行っているのだし、そっちは我々が習いに行くからおまんま食えるんだろ? と思うのですけど、まあ、理不尽なところでした。一度などは、あんまりひどいことを言われるので、路上でクルマ止めてほとんど掴み合いになりそうになっちゃった。 そうだ、名前も思い出した。白井って教官だったよ。最低な奴。 今、学生に聞いても、自動車学校(名古屋では教習所ではなく、自動車学校という)で嫌な思いをしたことは無い、と言いますので、時代は変ったのかもしれません。でも、昔の教習所はほんと、嫌なところでした。 で、そんな感じで嫌な教官にいじめられながら、どうにかこうにかここを卒業し、横浜・二俣川にある運転免許試験場に行って学科だけ受けて、見事、自動車免許を取得したのでした。 だけど、当時はさ、免許を作るのも大変よ。 二俣川の運転免許試験場の回りに「代書屋」ってのがずらっと並んでいる。で、そこで書類を作成してもらわないとダメなの。代書屋だよ、代書屋。 その頃はパソコンもワープロもなくて、代りに「日本語タイプ」という機械があった。で、プロの代書屋さんが、この日本語タイプを操って正式な書類を作ってくれるわけ。ずらりと文字が並んでいる中から、一つずつ文字を拾ってはガシャっとやるのですから、どの文字がどこにあるかを把握していないといけない。素人ではとても無理な作業なのであります。 今思い出すと、すごく時代掛かった感じですけれども、お役所の回りに代書屋がずらり、という時代を知っているというのは、今ではちょっと自慢ですな。 で、晴れて免許を取得した私は、念願のマイカーを買ってもらえることになったのでありまーす。 免許取ったら自動車を買ってもらえた、なんて言うと、なんだかリッチな感じですが、私の父も母も免許を持っていなかった(もちろん今もない)ので、これが我が家にとって待望のマイカー1号なわけ。だから、特に贅沢って感じでもないわけ。 それで、どうせ最初はあちこちぶつけるだろうからってんで、とりあえず中古車を買うことになったのですが、何せクルマを買ったことがそれまでないわけだから、様子が分らない。そこで、父の教え子で、当時ヤナセに勤めていたKさんに来てもらって、一緒にディーラー周りをしてもらったと。 で、私としては、スズキの「セルボ」ってクルマが買いたかったんですよね。軽自動車なんだけど、デザインがすごく良かった。 でも、当時の軽自動車のエンジンって2サイクルですから、排ガスが青くてすごくガソリン臭いのよ。この排ガスにマッチの炎を近づけたら、もう一度ボッ!って火がつくんじゃないかってほどガソリン臭かった。それに、当時の軽自動車の規格は今のよりよほど小さかったので、家族4人乗ったらギューギュー詰めになってしまう。 で、Kさんも「普通自動車を買った方がいいんじゃない?」とやんわりアドバイスしてくれたし、値段との折り合いもあって、結局「ザ・日本の大衆車」って感じのトヨタ・カローラを、確か50万円で購入したのでした。 だけど、当時、カローラってベストセラー・カーだから、車種も多くてね。私が買ったのは「2ドア・ハードトップ」って言う奴。もちろん4速マニュアルね。 そう、当時はね、クルマはマニュアルが当然でした。っていうか、女の子が「マニュアルに乗れない男なんてカッコ悪い!」って、当たり前のように口にしていましたからね。女の子にそう言われちゃ、大学生の男の子としては、それ以外の選択肢なんかないのよ。 それにしても懐かしいね、「2ドア・ハードトップ」っていう言葉の響き! 今、そんなクルマないじゃん。 で、そのカローラ・2ドア・ハードトップ、必ずしも私の好みを反映して買ったクルマではなかったのですが、今思い出してみても、割と出来のいいクルマだったのではないかと。2ドアとはいえ、後部座席も結構広々していたし、シートの座り心地も悪くなかった。1300ccのエンジンも悪くなかったし、それにそもそも当時のカローラってまだFFになる前で、FR駆動だったからね。ハンドリングも悪いはずがない。 だけど、当時のクルマはエアコンがなかったからねえ。夏場なんか窓を開けて運転するのが当たり前でした。ま、窓開けて、肘を窓枠にかけて運転するのがまたカッコよかったんだけど。でも、対向車線をトラックがやって来るのが見えると、排ガスをまともに喰らうのを避けるために急いで窓を閉めたりしてね。それからカーステレオもなくて、ラジオだけ。ハンドルだってパワーステアリングじゃないから、今との比較でいえばウソみたいに重かった。「パワステ」ならぬ「重ステ」という奴。 でも、そんな不便だらけのクルマだったけど、当時はそれが普通だったし、とにかく自分専用のクルマがあるってのは、嬉しかったですなあ。 そして、クルマが我が家にやってくると同時に、我が家にはもう一つ別な大きな出来事が起るのでした。大学2年に進級する時、引っ越しをしまして、長年住み慣れた東林間を離れ、同じ小田急線沿線の栗平というところに家を買ったのでした。ま、その辺のお話はまた後日。
April 17, 2016
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昨夜、「給料日ディナー」と称して外食してしまいました。 と言ってもね、今回の給料日ディナーは理由あって節約バージョン。なんと我らが向かった先は・・・「大戸屋」だったのでーす。 なぜ大戸屋かと言いますと、一つにはこの有名な定食屋さんに行ったことがなかったから。それともう一つ、先日、『孤独のグルメ』の再放送を見ていて、井之頭五郎さんが「アジフライ」を食べているのを見て、どうしようもなくアジフライが食べたくなったから。 というわけで、大戸屋に入った我らは迷うことなく「アジフライ定食」をオーダー! 出てきたそれは、アジの身も部厚く、なかなか美味しいものでございました。 だ・け・ど。 うーん、大戸屋。もちろん不味くはないのだけど、普通だな。っていうか、ある意味、豪華過ぎるといいましょうか。定食屋にしては、という意味ですが。 なんか、こう、定食屋って、もう少しショボイものであってほしいわけ。そのショボさも味わいたいのだから。そういう点では、むしろ一品ずつおかずをとっていくタイプの定食屋、ほれ、カフェテリア方式でトレーにメインのおかずと副菜とご飯とみそ汁なんかを乗っけていき、会計してもらってから、お茶とかふりかけとかももらって席に着くみたいな奴、ああいう方がそれらしくていいかなと。大戸屋だと、普通のレストランと変わらないよね。 さて、大戸屋でアジフライを堪能した我らが次に向かったのは、一社駅の近くにあるシャレオツなカフェ、「プレスト・コーヒー」。ここで美味しいカプチーノやら、チーズケーキなどをいただき、備え付けのシャレオツな雑誌などを熟読し、さらにイケメンで感じのいい店長さんとロンドン談義、器談義などを楽しんだ次第。やっぱり大戸屋だけで終ったら、給料日ディナーというには寂し過ぎますからね。 ってなわけで、節約バージョンながら、週末を控えたこの日を楽しく終えたのでございます。 さてさて、「昭和の男」シリーズ、今日はまた1982年頃の雰囲気漂うお話を。 1980年代前半の気分を表す言葉を一つ選ぶとすると、私なら「おいしい生活」という言葉を選びます。これ、西武百貨店の名キャッチコピーで、作ったのは天才コピーライターの糸井重里さん。 このキャッチコピーのすごいところは、「おいしい生活」って何なのか、よく分からないってところだよね! 何だよ「おいしい生活」って。 だけど、分からないことは分らないとはいえ、この言葉をよーく噛みしめているうちに、その云わんとするところは何となく分かってくる。 世に「うまい話」という言葉がありますが、この場合の「うまい」というのは、漢字で書けば「旨い」であって、要するに投下した労働以上の、あるいは投資した以上の大きな見返りがある、というような時に使うわけですな。で、「おいしい生活」の「おいしい」という部分には、今述べた意味での「旨い」というニュアンスが込められていることは確かでしょう。 だけど、それだけだと「得をする生活」ということになってしまって、損得の話になってしまう。ところが、「おいしい生活」と言った場合、そういう損得の話だけではない何かがあるような気もするわけですよ。 つまり、おいしい食べ物を楽しむように、生活そのものを楽しもうよ、というメッセージ。仕事一途なモーレツ社員の生活なんて、ちょっとおいしくないんじゃないの? もっと生活を彩るような何かを始めようよ、っていうようなメッセージ。そういったものが込められているのではないかと。 で、それはメッセージであって、モノではないわけですよね。そこが重要。つまり、西武百貨店は、このキャッチコピーを通じて、百貨店が扱う商品としてのモノではなく、ライフスタイルの向上というメッセージを売ったわけ。それが、糸井重里の天才であり、また西武百貨店のすごさがあった。 実際、この時期の西武百貨店、否、「セゾングループ」は、モノを売る百貨店である以上に、文化を作り出すクリエーターでもあったんですよね。 例えば書店の概念を変えた大型書店「リブロ」、そして洋書や美術書に強い「アール・ヴィヴァン」とかね。「パルコ出版」で本も出版して。音楽方面で言えば「WAVE」、演劇方面で言えば「銀座セゾン劇場」に「渋谷パルコ劇場」。美術方面で言えば「セゾン美術館」。これらすべて、商売の為というよりも文化興隆の為に作ったものであり、企業が文化そのものに投資する、いわゆる「メセナ事業」の走りですな。西武は、まさにこのメセナで名を上げた。 で、これに東急グループが追随したのか、1984年には「Bunkamura」構想をぶち上げると。「オーチャード・ホール」とか、「ル・シネマ」とか、「シアター・コクーン」とか、『ザ・ミュージアム」とか、「ドゥ・マゴ」とか、そういう奴。これで池袋を拠点とする西武、渋谷を拠点とする東急が、互いに切磋琢磨してメセナに打ち込むと、そういう時代に入って行くわけですな。 それに加えて、この時期にもう一つメセナの中心となったのがサントリーじゃないかな。1979年創設の「サントリー学芸賞」とか。1986年開館の『サントリー・ホール」とか。ま、もっともサントリーは寿屋時代の1956年から『洋酒天国』なんて洒落たPR誌を出していた経緯もありますが。 とにかく、こんな感じで企業が競って文化に金を出すようになったことで、ますます東京の街が面白くなっていくと。それゆえに、ますます『ぴあ』のようなガイドが必要になっていくと。1980年代って、そんな感じよ。景気が良かったから、こういうウソみたいにラッキーなことが、文化方面に起っていたわけですな。 だからやっぱり、文化サイドから言えば、企業がじゃんじゃんヒモ付きでないお金をくれるのだから、「旨い話」だったのかもね。 で、そんな時代に気の利いた一言で斬り込んでいき、がっつり儲けるという、まさに「おいしいところ」を卓越したセンス一発で軽やかに泳いでいたのが、糸井重里さんを始めとする「コピーライター」だったわけで、コピーライターなる職業があれほど華やかな脚光を浴びたのも1980年代だったとすれば、1980年代は「コピーライターの時代」、でもあったのかも知れません。
April 15, 2016
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今学期、私はたまたま再履修ばっかりの英語のクラスを一つ担当しているのですけど、その中にツワモノが一人いまして。 なんと、単位を落とし続けて今や「8年生」だと。 うーん、四半世紀近く大学で教えているけど、8年生は初めてだ。律儀に全学年、表裏を味わい尽くしたわけですな! 卒業が2年くらい遅れている学生だと、ちょっと病んだ感じのが居たりするのですが、この8年生君と来たら、まあ見た目は爽やかな好青年で。NHKの歌のお兄さんくらい勤まりそう。 で、俄然興味が出てきて、「お前さん、どうやったら大学に8年居ることになるんだい?」と聞いてみた。すると8年生君曰く、「麻雀とスロットで身を持ち崩しまして」と。 なんでも、大学に入学して最初に入ったサークルで麻雀を覚え、連日朝まで麻雀漬けの日々となり、次いでスロットにもはまって、今日に至ると。 ふーむ! 古典的! こんな学生像、団塊の世代によくいたタイプじゃん! 見上げたもんだ。ある意味、これぞ大学生というか。 だから、褒めてあげました。よくやったと。 もう、彼の存在が凄すぎて、隣に坐っていた5年生君なんて、「僕なんか足元にも及ばないっす」としょげ返っていました。 で、そんなすごい学生を見た直後のこと。 非常勤でうちの大学に来ていらした本学名誉教授のA先生をお見かけしたので、私がお誘いし、共同研で同僚たちと一緒にコーヒーを飲むことにしたのですが、その場で私がこの8年生君のことを話すと、A先生も非常に面白がられ、自分が学生の頃にはそういう猛者が沢山居た、という話になった。 で、A先生曰く、「当時は学費も安かったからねえ、何年でも大学に居られたもんだ」と。 そんな話から、およそ四十数年前の国立大学の学費の話題になったのですが、それを聞いたらビックリよ。 今65歳くらいのA先生の学生時代、国立大学の学費って、月千円だったんですって。年額にしても1万2千円! ええ゛ーーーーー! そんなに安かったの? ま、物価の推移もありますが、当時コーヒー1杯90円、岩波新書1冊150円だったそうですから、当時と今の物価の比率は1:5くらい。それを考慮しても、大学の学費が月5千円、年額にして6万円だったらバカ安ですよね。 しかもね、医学部も同額だったというのだからさらにビックリ。 医学部の学費が月千円だったらいいよね! そしたら、私より7つ年上のアニキことK教授が、「僕の時は年額3万5千円だったよ」と。 ええ゛ーーーー! そうなの? それだってバカ安じゃん! 今、国立大学の学費って、文科系でも年額60万円くらいするよ。医学部だったらもっと高いんじゃないの? 私立よりは安いかも知れないけれど、それでもまあ、結構な額だ。それに比べたら、一昔前の国立大の学費って、安かったんですなあ・・・。 そうか、四十数年前までの日本は、大学の学費が国家負担である今のドイツ並の教育大国だったわけね。 大学8年生君のおかげで、教育の在り方に関し、今の日本がいかにダメになったか、思い知らされることになったのでした、とさ。
April 15, 2016
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研究室の窓からふと外を見ると、ついこの間まで落葉しきった枝で空に格子を描いていた欅が、芽吹いたばかりの新緑を風にざわざわとなびかせております。段々、寒くも暑くもない、いい季節に入ってきますな。GWまであと2週間の辛抱。 父の米寿記念の写真俳句集の出版へ向けて、少しずつ動いておりまして、昨日は出版社の方と打ち合わせ。 ところで、写真俳句というのは写真と俳句が対になって一つの作品をなすので、句のページと写真のページが隣り合わせになる。だけどね、出版コストという面から言うとこれはまさに地獄絵図でして、一番金がかかるタイプの出版形態なわけ。例えば「口絵」と称して本の冒頭とか真ん中辺にカラーページを集めてしまうと、めでたくコストダウンになるのですけど、文章と写真が混在するとなるとそうはいかない。結局、白黒のページも含め全頁カラー印刷になるので、出版費用がすごく高くなってしまう。 ということで、普通の印刷・製本方式だとお金がかかりすぎることが判明したので、今回は「オンデマンド方式」の出版形態をとることに。これだと、1冊単位で出版部数も決められるので、無駄がないからね。 さてさて、「昭和の男」シリーズ、今日は1980年代前半の、アカデミック系雑誌について。 ニュー・アカ・ブームが起こっていた1980年代初頭、『ユリイカ』とか『現代思想』といった雑誌が幅を利かせていたって話をしましたが、もう一つ忘れてならないのが、冬樹社が出していた『GS たのしい知識』という雑誌。1984年創刊で、浅田彰、伊藤俊治、四方田犬彦責任編集で、印象としては「鳴り物入り」で出た、って感じ。その創刊の辞がこちら。******* 知識は長いあいだ重力の魔にとらわれてきました。ものを知れば知るほど、人は悲しみの淵に沈みこむ。学問を重ねるほどに、陽もささぬ、狭い洞窟のうちに幽閉されてしまう。古来より哲学者たちが唱えてきた「絶学無憂」の一語こそは、こうした知識の不幸をめぐるパラドクサルな意識のあらわれであったといえるでしょう。 いま、わたしたちの周囲にあって、知識はかつてない頽廃に陥っています。僧房を思わせる研究室の薄暗がりのなかで醸成され、隠蔽される知識。ひとえに現実的効用という目的のみに奉仕する知識。あるいはてぎわよく無害に調理され、カタログふうに羅列される啓蒙的知識。およそ、知識と名のつくほとんどすべてのものが、こうした制度的格子に応じて秩序づけられ、鈍重な足どりで生産・分配・消費の回路をめぐっているというのが現状です。わたしたち「たのしい知識」は、正面切ってこの構図を破壊しようとは望みません。そうではなく、そこに今ひとつの新しい回路、目的も自己信仰もない回路を設けようと意図しています。いや、それは回路というよりも、回路の紛い物、始点も終点もない知識の移動・横断・滑走といったほうが正確かもしれません。 十二世紀のトゥルバドールたちは自分の作詩術を、オック語でla Gaya Scienzaとよびました。この語がのちにニーチェの警句集の標題となり、最近では映画作家ゴダールが〈五月〉直後に撮った作品にまで深い影を投じていることは、よく知られているところです。陽光のなかの軽快な知識。舞踏と哄笑をともない、たえずおのれの位置をずらしてゆく知識。わたしたちが必要としているのは「歓ばしき叡智」でも「華やぐ知慧」でもありません。音楽に、哲学に、映画に、休みない横断線を引き続ける「たのしい知識」なのです。 速度、浮気っぽさ、ユーモア。「たのしい知識」は、これまで知識が厳粛な表情のもとに禁じてきたこうした要素を、異教の神の魔法のマントのように身にまといます。秘教伝授の経典でも、能率のよい啓蒙書でもない、この軽薄にして過激な知的倒錯の企てを、どうかあたたかい眼で見守って下さるよう、お願いいたします。******* うーん! 今、こうして読み直すと、今から30年ちょい前の知の最前線の傾向っていうか、手触りが実によく蘇って参ります。 軽やかに書いてあるけれども、この文章の中にはニーチェだとかなんだとか、様々な引用やオマージュが散りばめられていて、それらに気づいたら、実はこれが恐ろしいほどの教養を踏まえた文章だということがわかるし、その一方で、そうなんだよ、というヒントもあちこちにあって、教養を隠しているのか、見せびらかしているのか、どっちにも取れる(実際、両方なんだろうけれども)。その辺のことも含めて、1980年代ってこんな感じだったよなと。 だけど、大きく見ればやっぱり「軽チャー」の流れの中にあるものでしょうねえ、この雑誌に集った執筆陣はそのつもりはないのでしょうけれども。 そう、それからこんな感じで「知」が「たのしい」ものとなり、やがてファッションともなった1984年、『マリ・クレール』っちゅー雑誌が、『スーパー・エディター」こと安原顕氏の手によって、女性ファッション誌からカルチャー誌に変貌した、なんてこともありました。安原顕さんって、以前には『パイデイア』とか『エピステーメー』を創刊した人で、毀誉褒貶相半ばする人ですけれども、ま、それでもとにかく1980年代の知のありようを考える時にはどうしても名前の出る人ではありますな。 とにかく、1980年代のニュー・アカ・ブームってのは、今振り返ってみると、「知」なるものをファッションにまで変えたという点で、案外、大きなムーヴメントだったのではないかと。そして、まさにそういうブームの中、私は大学生活を送っていたのでございます。
April 14, 2016
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今朝の新聞で秋山ちえ子さんが亡くなられたことを知りました。享年99。お歳に不足はないけれど、これでまた一つ、昭和の記憶が失われたというところですなあ。 もっとも私は、かの有名なラジオ番組「秋山ちえ子の談話室」を聞いたことがなく、またこの番組の名物、終戦記念日の「かわいそうなぞう」の朗読も聞いたことがない。それでもその名声は知っているのだから、よほどのもんですよね。信念を持った、芯のしっかりした、尊敬すべき女性だったのでしょう。ご冥福をお祈りいたします。 さてさて、「昭和の男」シリーズ、大学生活編でございます。 大学に入ってもう一つ印象的だったのは、同級生の多様性ですね。中学・高校までは、遠くから通ってくるといっても限度があるので、結局、同じ東京や神奈川近辺の住民ばかりなわけですけれども、さすがに大学となると、地方から上京してきた人もいるので、そこがまず面白かった。 たとえば、1年生の時に何かの授業で一緒だったY君は新潟・佐渡の出身の苦学生で、しばしば、アパートの近所にあるパン屋さんでタダでもらってくるビニール袋いっぱいの食パンの耳をお昼ご飯としてかじっていた。そんなY君にとって最大のご馳走は自作のカレーなんですけど、「野菜だけで肉は入ってないんだ」と、少しはにかんだように私に告げた、その時のことをよく覚えております。私の通っていた小学校・中学校は、日本でも一、二を争うほど授業料の高い私立の附属校で、お金に不自由のない友人ばかりと付き合ってきた私としては、大学で知り合ったY君の切り詰めた生活ぶりを見て、少し世間知が広がったような気がしたものでした。 Y君は囲碁部に所属していたのですが、その練習のために自分で紙で作った碁盤を持っていましてね。私も彼とその紙製の碁盤でオセロゲームをやったことがある。囲碁部である彼と比べて私は囲碁をまったく知らないし、そんな素人なら、オセロだって簡単に負かせるだろうと思ってやり始めたのでしょうが、実は私の特技はオセロゲームでありまして、少年時代からほとんど負けたことがない。それですぐにY君も私を見くびっていたことに気づき、途中からえらく真剣に、うんうん唸りながら試合を進め、結局Y君が勝ったのですけれども、私の手筋の良さをほめてくれて、是非、囲碁部に入らないかと大真面目に勧められたのもいい思い出でございます。 そんな風に、つかず離れず付き合っていたY君について、もう一つ覚えているのは、ある時彼が空を見ながら、私に「ねえ、今日は晴れているの? 曇っているの?」と尋ねたこと。 私が「え? 晴れているじゃん?」と答えると、Y君曰く「ふーん、これが晴れなのか・・・」と。 Y君の故郷、佐渡島では、晴れた時の空は本当に真っ青で、東京のかすみがかった、白っぽい青空とはくらべものにならないというのですな。 それを聞いて、高村光太郎の「智恵子抄」にある「東京には空がない」っていうのは本当だったんだと、印象深いものがありました。 さて、そんな感じで、大学に進学してから中学・高校時代とは傾向の異なる、色々な同級生を知るようになったわけですが、その同級生の中にはY君とはまた全然違う方向で私を驚かせてくれた人もおりまして。 その人は、同級生とはいえ、年齢は私よりも一つか二つ上。つまり、浪人時代を経て大学に入学しているので、私よりよほど大人に見える。タバコなんか吸っちゃったりしてね。で、高校から直で上がってきた同級生なんか幼稚で、話し相手にもならん、というようなオーラを発していたりして。 で、そういう、パッと見、だいぶ大人に見える奴を含めて数人で立ち話をしていた時、そいつが栗本慎一郎の話をしだした。 栗本慎一郎? それ誰? で、どうやらその栗本某というのは、明治大学の先生で、そいつに言わせると、今、一番面白い学者だと。だから、自分はしばしば明治大学に潜入し、いわゆる「もぐり」でその先生の授業に出ていると。 それを聞いて私はビックリ。だって、高校時代であれば、自分が通う高校の授業をさぼって他校の授業に出るなんてことありえないじゃないですか。でも、大学ではそれも可なんだと。そして、そういうアクションをしている奴がいるんだと。それは、ちょっと新鮮な驚きでした。 で、そんなことを得意気に吹聴している奴は放っておいて、とりあえず栗本慎一郎とかいう人の本を読んでみようと思った私は、すぐさま書店に行った。そして買ったのが『パンツをはいたサル』でございます。【中古】新書 ≪政治・経済・社会≫ パンツをはいたサル 人間は、どういう生物か / 栗本慎一郎…価格:450円(税込、送料別) で、読んでみたら、たしかに面白かった。基本的には経済人類学の本なのですが、それを栗本流に敷衍して、様々な事象を人類学的に読み解いていくその手法が鮮やか。学問的な知識、それも理系・文系取り交ぜた様々な学問の知識を総動員し、それを応用しながら現実を解釈する面白さが伝わってくるような本だったんです。少なくとも、少し前まで高校生だった私を魅了するには十分なものでした。 で、そこから栗本慎一郎氏の本をあれこれ読み始めたのですけれども、そうすると、例えば吉本隆明とか、山口昌男とか、柄谷行人とか、蓮実重彦とか、丸山圭三郎とか、浅田彰とか、岸田秀とか、中沢新一とか、今村今司とか、廣松渉とか、そういう、いわゆる「ニュー・アカデミズム」と総称されるような一連の学者・知識人たちのことに気づかざるをえない。そしてそこからさらにソシュールだ、ノーム・チョムスキーだ、レヴィ・ストロースだ、ロラン・バルトだ、ラカンだ、デリダだ、アルチュセールだってな海外の学者・知識人の名前にも親しむようになり、言語学とか、文化人類学とか、構造主義とか、神話学とか、脱構築だとか、そういう学問領域にも興味が出てくる。 良きにつけ悪しきにつけ、そういったもろもろすべてを、私は栗本慎一郎氏経由でどばっと一時に受け取る羽目になったのでございます。 で、実際、そうやってわーーっと読み始めたものの、いったいどのくらいを正しく理解したかってのはアレですけれども、とにかくね、なんだか学問の世界では、古い伝統的な学問の形が、もっと新しい学問の在り方によってひっくり返されつつあるらしいぞ、ということはわかった。そして、自分もその流れに乗り遅れないようにしないと、この先、学者として食っていくことはできないようだぞ、という風にも考えた。 結局、『ぴあ』が「今、東京の街ではあっちこっちで面白いことが起こっているんだから、見逃すなよ!」とせっついたように、「ニュー・アカ」の波が、「今、大学では面白いことが起こっているぞ!」ということを、我々新入生を焚き付けた--そんな時代だったわけですな。 今から三十数年前、1980年代初頭の大学って、そんな感じでしたよ。今から考えてみると、団塊の世代が体験した政治的な学生運動が、いわば失敗に終わった後、今度は学問の上で、新しいものが古いものに対して盾突くようになった、と、そんな感じでしたかね。つまり、政治の場から学問の場へ、新旧の戦いのバトルフィールドが移動したと。 でもそのおかげで、もちろん当時だってアホな学生はたくさんいたのだろうけれども、やっぱり今と比べると、大学生の中で学問というものの比重がよほど大きかったような気がします。 その証拠に、というべきか、この時代には『ユリイカ』とか『現代思想』といった雑誌は普通に読まれていたもんね。「青土社」なんて出版社は、ほとんど崇められていたんじゃない? ま、その辺の話をしだすとまた長くなるので、また後日ということにいたしましょうか。
April 13, 2016
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さて、「昭和の男」シリーズ、いよいよ大学編でございます。 1982年に慶応義塾大学に入学した私は、晴れて大学生となったわけですが、やはり高校時代と大学時代、色々なことが異なって参ります。 例えば服装とか。 小学校・中学校・高校と、初等・中等教育時代のすべてを通じて制服を着ていた私としては、制服のない大学生活というものが新鮮。というか、苦痛。毎日毎日、何を着ればいいのかを考えなければならないというのは、お洒落な人にとっては楽しいことなのでしょうが、私にはかなり面倒くさいことでありまして。大学も制服だったらいいのにと、何度も思ったことでございます。 それでも、何かの参考になればと、一度だけ『Men's Club』という男性向けファッション雑誌を買ったことがある。無論、そんなものに載っている服は値段の高いものばかりで、とても真似できるものではなかったのですが、それでもそういう雑誌を買ったということは、私にとって大学進学の一つの記念的行事のような気がして、今でもよく覚えております。 そう、それからもう一つ、大学に入学して間もなく買った雑誌がありました。それが『ぴあMap』ね。 『ぴあ』という雑誌、1971年創刊でありまして、80年代にはもちろん一般の認知度も高く、映画を見に行くための必需品という感じがあった。もっとも、同じ時期に同じ映画・イベント雑誌としてもう一つ『シティロード』ってのがあって、『ぴあ』派と『シティロード』派に分かれていたような記憶があります。私もあるときは『ぴあ』を買い、あるときは『シティロード』を買いという感じでしたかね。 ただ、『ぴあ』の方がよりインパクトが強かった要因として、一つには表紙がある。及川正通氏の描く『ぴあ』の表紙イラストには独特の外連味があって、これなしには『ぴあ』を思い出せないというほど雑誌と一体化したイラストでした。 そして『ぴあ』の誌面のごちゃごちゃ感。これがね、また、良かったんですな。正統派のニュースもゲリラ的ニュースも等しく取り上げるその編集方針もさることながら、誌面そのものの「わいわい、ガヤガヤ」した雰囲気が、生き物のように蠢く大都会・TOKIOのお祭り騒ぎを象徴しているようでしたからね。特に、ページの端に細かい字で綴られた「はみだしYou とPia」のコーナーが面白く、これを読むためだけに『ぴあ』を買う価値がありました。 で、その『ぴあ』が、私の大学進学を祝うかのように、1982年の春、『ぴあmap』なる別冊を出したんだよね。 これは「Big in Tokyo」(おそらく「Begin Tokyo=東京(生活)を始めよう」の意味も含んでいる)のキャッチコピーを掲げ、東京の主要都市の地図と共に、どこに映画館があるか、どこに劇場があるか、どこに書店があるか、どこに図書館があるか、どこでお花見ができるか、複雑を極める地下鉄の乗り換えはどうなっているか、などなど、「東京を楽しむ」ということに焦点を当てた前代未聞の斬新なマップ集だったのであります。 私、もちろん、これを買いました。その後、改訂版も出たし、文庫版なんかもあれこれ出たけれど、この一番最初の『ぴあmap』を超えるものはついに作られることはなかったと思います。 で、このmap は、『ぴあ』本体もそうであったように、とにかく「東京は楽しいんだ、街ってのは楽しいんだ」ということを、本当によく体現していたんですわ。ある意味、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という獅子吼をそのままコンセプトにした地図だったというか。でまた実際、当時の東京ってのは、なんだか若者の心をゾワゾワさせるようなイベントに満ちていた。『ぴあmap』は、だから、その「ゾワゾワ」のその良き案内人になったんですな。 例えば1年生の時など、授業は日吉で行われますから、その授業に空きができた時など、このmapをもって東横線で横浜の方に行き、中華街や山下公園なんかに一人で冒険に行ったりしましたよ。私は大学なんてのは自分の都合で行くものだと思っていて、あえて友達を作ろうとか全くしなかったので、たいてい一人で行動していましたからね。それだけに、このmapだけが頼り、ってとこがあって、それだけ一層、親しみがあった。 ってなわけで、私の大学生活は、ある意味、『ぴあmap』を片手に始まったという感じでしたね。
April 12, 2016
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先日新聞に、若者の音楽離れのことが書いてあって、今時の若者は音楽を日常的には聴いていないし、興味もない、というのが大半なんだとか。 で、その記事読んで本当かいな、と思っていたのですが、今日、ジャズ史の授業で学生にどんな音楽を聴いているか問うたところ、まさにその新聞記事通りの反応だったのでビックリ。 ジャズを聴いたことがないどころか、ロックすらも聴いたことがないってさ。聴くのはせいぜい嵐とスマップと、そのくらいですと。 私の世代だと、外から帰って自室に入ったら、まず好きな音楽オン! だったけどなあ。その場合の音楽ってのは、もちろん洋楽で。 いや、音楽に限らず映画も同じで、今年のゼミ生に聞いたら、まずトラボルタを知らなかったし、タランティーノを知らなかった。当然、最近タランティーノが『ヘイトフル8』撮ったことも知らなかったと。 ちなみに、私が訊ねているのは「国際文化コース」の学生だからね。 要するに、そっち系の文化は、最早、日本にはないな。ってういか、「国際」っていう言葉の意味が、多分、分かってない。 ひょっとすると、海の向こうに外国があるってことにも気づいてないかも知れないな。 先日、『「ぴあ」の時代』って本を読んだのですが、雑誌『ぴあ』を作った矢内廣は、田舎から中央大学に進学してきて、好きな映画を観まくろうと思ったものの、お金がないのでロードショーには行けない。 そこで、二番館、三番館など、料金の安い名画座を探していくのだけど、当時、どこに名画座があって、その名画座でどんな映画をやっているか、何時からやっているかなどの情報がまったくなかったし、たとえ分かったとしても、田舎から出てきたばかりでは、その名画座へ行くのにどうやって行ったらいいのか、地下鉄はどう乗り継げばいいのか、そういうのが全く分からなかった。 で、自分と同じような田舎出の映画好きは沢山居るだろうから、そういう連中に向けて、東京中の映画やイベントの紹介雑誌を作ったら売れるだろう。そう考えた矢内は中央大学の仲間たちと一緒に『ぴあ』を作ったと。 それが1971年の話。今から45年前ですか。 今、『ぴあ』なんて雑誌がなくてもインターネットがあるので、そんな情報、スマホでいくらでもゲットできる。だけど、情報はあっても、実際に映画を見る奴はいないし、芝居を見に行く奴もいない。45年という歳月は、それだけの差を生み出したわけだねえ・・・。 あれかねえ、例えば今から何十年かしたら、誰もスマホゲームやらない時代とか来るのかしら? 大学でそういうゲーム史を取り上げて、「みんな、スマホゲームしたことある?」とか尋ねても、「やったことない」とか「見たことすらない」とか、言われちゃったりする日が来るのかしら。 まあ、別に洋楽聴かなくたって、映画観なくたっていいようなもんだけど、自分が愛した、そして愛しているものに、次代の人たちがまるで無関心って、ちょっと、何だか悲しいものがあるっつーか。 要するに、長生きはしたくないなってことで。
April 11, 2016
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「昭和の男」シリーズ、今は大体1980年頃の話になっております。 この頃、アメリカでは1980年の選挙で俳優出身のロナルド・レーガンが大統領に。一方日本では1982年に首相が鈴木さんから中曽根さんに交替し、双方タカ派ということもあっていわゆる「ロン・ヤス」の日米蜜月時代が始まります。レーガン大統領は、「スター・ウォーズ構想」でアメリカの軍事的優位をチラつかせながらソ連と核兵器削減の交渉に臨むという一種の棍棒外交を推し進め、キナ臭いんだか、臭くないんだか、よく分からないという状況に。 で、それでもやっぱりキナ臭かったんだろうと思うのは、1980年のモスクワ五輪へのボイコット問題でございます。 この回のオリンピック、アメリカがボイコットするっつうんで、政治とスポーツの祭典は切り離して考えた方がいいんじゃないのってな声もそれなりにあったものの、結局、日本もお付き合いする羽目になるというね。 で、可哀想だったのが、当時、メダルを狙えるんじゃないかと言われていた選手たち。特に柔道の山下泰裕選手と瀬古利彦選手あたりが一番の被害者だったのではないかと。何とか参加させてくれと政府関係機関に陳情した山下さんの、泣きそうな顔を今でも思い出すことができますなあ。 そう、それから1980年と言いますと、ポーランドで大規模なストライキがあり、それを仕切った自主管理労組「連帯」の委員長・ワレサ氏が一躍脚光を浴びたのがこの年。ワレサさんも、翌年にはポーランド政府に軟禁されたものの、その後1990年には大統領となり、祖国の自由化を推し進めるという、波瀾万丈な生涯。そういうのに弱い日本人からは、漠然とながら慕われていたのではないかと。愛嬌と頑固さが共存した田舎者っぽい顔立ちに立派なお髭がチャームポイントでした。 また1981年というと、イスラエルとの国交を回復したエジプトのサダト大統領が暗殺、1982年にはイギリス・フォークランド紛争があり、1983年にはフィリピンでアキノ上院議員暗殺、またソ連が領空内に侵入した大韓航空機を撃墜。世界史的には、やっぱり全体的にはキナ臭いですなあ。 あ、あと、1983年には田中角栄元首相が有罪判決。 一方、もう少し日常的なことに目を向けますと、1982年にフジテレビの『笑っていいとも!』がスタート、1983年にはNHKの朝ドラで『おしん』が大人気。あ、あと1981年には目刺しがお好きな土光敏夫氏を会長に据えた臨時行政調査会がスタートしております。 そう考えると、頭の上を飛び交う世界政治的十字砲火を首をすくめて避けながら、国内では「清貧」ブームと「お笑い」ブームが混在する、そんな感じの時代だったのでしょうかね。 で、そんな中。私は1982年に大学に進学するのでございます。
April 10, 2016
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私は春になると聴きたくなる曲が一つあって、それは Dexy's Midnight Runners の「Come on Eileen」という曲。1982年ですな。全曲聴きたいというより、前奏? 前奏が聴きたい。何だろうね、この曲の前奏を聴くだけで、ああ、春だ~って気になるのよ。これこれ! ↓Come on Eileen さてさて、そんな浮かれた前奏に乗りながら、ついに私、誕生日を迎えてしまいました。皆さん、おめでとうって言って! この歳になると、さすがに誕生日を喜んでもいられないのですけど、とりあえず夜は家内と香久山にある「Fruttare」というお店で外食。食事もワインも美味しく、いい誕生日となりました。また来年の誕生日までの一年、良い年にしたいものでございます。 で、その他の時間、主に本を読んでいたのですけど、まず読了したのがオリソン・S・マーデンの『成功の原理原則』。オリソン・マーデンは、何しろ、サミュエル・スマイルズの『自助論』読んで奮起し、自分もアメリカのスマイルズたろうと思って自己啓発家になっただけに、系統としては伝記系の人。だから、本書にも電話を発明したグラハム・ベル(マーデンはベル博士の隣家に住んでいたのだとか)、デパート王ジョン・ワナメーカー、石油王ジョン・ドックフェラー、発明王トーマス・エジソン、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーに対するインタビューが載っております。それにしてもすごいメンツですな・・・。 で、こういう「○○王」になってしまう人たちの成功の秘訣ってのは、別に突飛なことでも何でもなくて、一生懸命働く、仕事に集中する、稼いだお金の一部は貯えて投資に回す、千載一遇のチャンスは恐れず掴む、とか、そんな感じ。 エジソンなんかは一日18時間とか働いちゃうそうで、マーデンが「それって大変なことじゃないすか?」って尋ねると、エジソン答えて曰く、「別に大変じゃないよ。だって、誰だって起きている間には何かはしているんだろ? 俺はただ、漠然と何かをするのじゃなくて、その時々にやっている研究を集中してやっているだけ」なのだとか。 一事が万事。何かを成し遂げる人ってのは、当たり前のことを当たり前にやっている人のことなんですな。 で、まあ、この本もさあーーっと読み終わって、次にスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』を読み始めたわけ。これ、ベストセラーだから読んだことある人も多いと思いますが。 そしたらさ、これが、めちゃくちゃ面白い本だったの。 これは自己啓発本のジャンルで言えば、アドバイス系。だけど、その中ではかなり突出しているんじゃないでしょうか。 何と言っても、時々コヴィーが繰り出すエピソードがめちゃくちゃ面白い。そしてそこから引き出してくる教訓の説得力が半端ない。 例えば、アメリカ海軍の実話なんだそうですけど、ある時、霧の夜に海軍の戦艦が演習していたと。そしたら進行方向に灯りが見える。で、このまま双方進行方向を変えなければ衝突することになる。 そこで戦艦の艦長が、相手に向って「進行方向を20度変えてくれ」と通信したのですが、相手からは「そっちが変えろ」と返信がきた。 艦長はちょい腹を立てて「こちらは米国海軍の戦艦の艦長である。そちらが変えろ」と再度伝えると、相手からは「こちらは米国海軍の二等水兵でありますが、そちらに進路を変えていただきたい」と返事が来た。 で、もうめっちゃ腹を立てた艦長が「こっちは戦艦だぞ、そちらが進路変えろ」と最後通告したわけ。 そしたら向こうから返事が来た。「こちらは灯台であります」と。 艦長が慌てて戦艦の進路を変えたのは言うまでもありません。 要するにね、艦長は自分に都合のいいパラダイムで物事を判断しようとしたのだけれど、現実はそのパラダイムではうまく動かなかった、ということなんですわ。だから、まず自分のパラダイムが、本当に正しいものかどうかの検討から始めないとダメだと。 ね! めちゃくちゃ面白いじゃん? こんな感じの面白エピソードを交えながら話を進めていくコヴィーの説得力たるや、すごいものがあるよ。 っつーことで、まだ途中までしか読んでいないのですけれども、アドバイス系の自己啓発本としては出色の作品と見た。現時点で教授の熱烈おすすめ!としておきましょう。興味のある方は是非!
April 9, 2016
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先日、アマゾン1円で購入しておいた玉村豊男さんの『小さな農園主の日記』(講談社現代新書)を一日で読んでしまいました。 群馬県の田舎でワイン農家+レストランを営みながらエッセイストとしてモノを書き、さらに画家としても活躍される玉村さんの本については、自分もそういう生活が営めたらなあという羨望があって、見かければつい買って読んでしまうのですが、この本もたまたまアマゾンから「あなた、こういう本、お好きじゃありませんか」的なおススメをされたのを機に買っておいたわけ。 で、1ページ目を開いてちょっとビックリ。 というのも、冒頭近く、「きょうで、私は五十三歳になる。」という一文があったから。 なぜこの一文にビックリしたかと言いますと、私自身、明日、五十三歳になるからでありまーす。そう、明日は私の誕生日なの~。 この本、実は玉豊さん(と勝手に略称させていただきますが)が五十三歳の誕生日を迎えられた1998年10月8日から、翌年の同日までの一年間の日記を本にしたものなんですな。あとがきによると、これまでエッセイストとして様々なジャンルの本を書いてきたけれども、日記エッセイというものを書いたことがなかった。しかし、日記というのは、特定のテーマに縛られることなく、様々な想念をつめ込むことができるという意味で、かなり面白い媒体なのではないかと。そのようなことを思いつつ、将来書くべき本格的日記エッセイのためのいわば助走として本書を書いてみた。それがこの本の由来であると。 というわけで、この本、玉豊さんの53歳の一年間の記録でもあるわけですけれども、それにしても53歳になろうとしている私が、まさにそのタイミングで読み始めたってのも、偶然にしては出来過ぎた話。 とにかく、そんな奇遇を面白がりつつぱあーーっと読んでしまったわけですが、ま、読んでみればいつもながらの玉豊節で、読んだからといってなにか賢くなるわけでもなし。だけど、53歳の男の日常なんて、そもそもそんなに啓発的なものであるはずもなく、その著書を通じて割とよく存じ上げている玉豊さんという人物の日々の暮らしを垣間見る的な面白さだけを味わった、という次第。 それにしても、53歳当時の玉豊さん、結構、忙しくて、群馬県にあるご自分のヴィラデスト農園での農作業はほとんど若いスタッフに任せたまま、東京やら海外やら、やたらに出張される。出張の名目は、テレビ出演であったり、画廊との打ち合わせであったり、講演会での講演であったり。要するに、マルチタレントの生活なわけですな。要するに、有名人なわけ。 だから、単にサラリーマンが脱サラして田舎で農業始めましたっていうのとはわけが違う。 その意味で、こういう生活は玉豊さんだからこそ成り立つので、今私が大学を辞めて長野県に移住したって、成立しない話なわけ。 大体、こんなどうでもいいようなことを綴った日記が、講談社現代新書として本になり、売られるんだから。その時点で、エッセイストとして勝ち組だ。 同じ53歳でも、えらい違いですなあ・・・。 ってなわけで、結局、「羨ましいなあ、色んな意味で」という読後感を抱いたまま、この本を読了した私なのでありまーす。そういう羨望を味わいたい方には、この本、おすすめです。 アレレ、この本、私は1円で買いましたけど、8,000円以上の値を付けて売っている店もあるなあ。ひょっとして、今買っておくと、後で高く売れるかもよ!
April 8, 2016
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「昭和の男」シリーズ、決して事前に計画立てて書いているわけではなく、その日その日に思いついたことをテキトーに書いているので、色々と書き落としがあるのですけれども、今日はふと、「クイズ番組」とか、その辺のことも書いておきたいなあと思いついたので、時代を少しさかのぼってしまいますけれども、その辺のお話を少し。 クイズ番組というのは、案外、時代を反映するものなのではないかと思うのですけれども、私がまず最初に認識したクイズ番組は何かといいますと、NHKの『連想ゲーム』ではなかったかと。1969年4月から放送開始だそうですから、私が幼稚園の時ですかね。 確か私が・・・と言うか、我が家がよく見ていた頃は、この番組は土曜日の夜7時半からの放送で、まあ、ゴールデン・タイムもいいところですよね。それだけ人気があった、ということなのでしょう。当時のキャプテンは、白組が漫画家の加藤芳郎さん、紅組が中村メイコさんでしたが、ヒントの出し方が二人とも上手なものでした。紅白に分かれて、すなわち男対女で勝負を進めるというやり方は、NHKの好む方式だったのでしょう。紅白歌合戦の発想ですからね。 一方、民放のクイズ番組でよく覚えているのは「パンシロン」のロート製薬が提供していた『アップダウンクイズ』。一問正解毎にゴンドラが上に上がるという方式は、見た目にも回答者の優劣がよく分かり、しかも一番上まで行けば夢のハワイ旅行、しかし一問でも解答を間違えばゴンドラが一気に一番下まで下がってしまうというヒヤヒヤ感もあって、なかなか面白いものでした。NHKの『連想ゲーム』とは異なり、解答者がタレントではなく一般人であること、知識を問う問題を出題すること、早押し方式の解答法など、民放のクイズ番組の在り方として、後のクイズ番組に与えた影響も大きかったのではないでしょうか。 『アップダウンクイズ』と同様に人気のあったもう一つの番組が『クイズ・タイムショック』だったかな。これは1分間に何問正解できるか、その時間制限が面白さの鍵で、秒針を表す電光パネルが刻一刻と時間を刻んでいく様が面白かった。司会者は昭和を代表する二枚目俳優の田宮二郎さん。全問正解すると100万円だったか、100万円分の海外旅行券だったか、とにかくそんな感じ。『アップダウンクイズ』もそうですが、当時「100万円」という単位のお金、そして「海外旅行/ハワイ旅行」というのが庶民の夢だったことが如実にわかりますな。 あとね、もう一つよく覚えているのがフジテレビの『クイズグランプリ』という番組。これ、たしか15分番組で、これに前後してもう一つの昭和の名番組『スター千一夜』かなんかと抱き合わせだったのではなかったかと。これも視聴者参加型、知識を問う問題、正答する毎に賞金が加算される方式など、他のクイズ番組と似た内容のものでしたが、一つ特徴的だったのは、クイズの出題のジャンルが分かれていたことで、正答した者が、自分の得意分野の問題の選択権があったこと。「芸能・音楽の10点問題」みたいな感じ。そうやって、正答した者がどんどん自分の有利な方にコマを進められるというところが面白かった。司会者の小泉博さんの顔、今でも思い出せます。 このあたりが1960年代末あたりからスタートした1970年代の代表的なクイズ番組でしたねえ。 その後のクイズ番組では、1975年スタートの『パネルクイズ アタック25』、1976年スタートの『クイズダービー』などがありますが、この辺まではそれ以前のクイズ番組の延長線上にあるものとして理解できる。 で、「お、クイズの形式がちょっと変わったな」と思われたのは、愛川欣也司会、1981年スタートの『なるほど! ザ・ワールド』ですかね。これは日本人にとってさほど馴染みのない外国の文化・風習を基に出題するもので、既存の知識では解答できないという意味で知識を問う問題とも言い切れないし、また半分は外国の文化・風習の紹介ともなっていたところも斬新。またそれを紹介するタレントのキャラ自体が面白さの要因となっていたところも新しかった。 そして、これを追うように登場したのが1983年スタートの『世界まるごとHOWマッチ』。司会は大橋巨泉。出題の方式としては先行する『なるほど!』に近いものの、解答はすべて金額の多寡、すなわち、このサービス、このモノはいくらなのか、という金額換算を問う問題だったのが目新しかった。 『なるほど!』や『HOWマッチ』になると、もうクイズで賞金をもらえるかどうか、なんてことはどうでも良くて、むしろ見知らぬ外国の様子が見たいという、そちらの興味の方が主というところがありました。つまり、1980年代に入ると、「死ぬまでに一度でもいから、ハワイというところに行ってみたい」的なものは、最早庶民の夢ではなくなっていたということですな。そういう意味では、既に昭和のメンタリティを超えているところがある。 しかし、まだこの頃のクイズ番組ってのは、「知っていることが重要」、という一点だけはまだ堅持しております。 でも、今はそうじゃないもんね。 今のクイズ番組って、「おバカなタレントが、いかにモノを知らないか」ってことを明らかにするための出題、みたいなところがあるじゃない? なんだこんなことも知らないのか、ってな感じでタレントの無知ぶりを視聴者が見て笑うという。タレント側からすれば、むしろ笑ってもらった方が得策なので、その意味では「知識がないことが重要」になってくる。つまり、平成のクイズ番組は、昭和のそれとは趣旨が逆なわけ。クイズ番組の趣旨が倒錯しております。 そういう風に考えると、知識というものに価値があった昭和のクイズ番組って、真っ当で、すがすがしかったよね! 私が昭和という時代に惹かれるのは、案外、そういう「まともさ」があったから、かもしれません。
April 6, 2016
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今日は在学生ガイダンス、新入生ガイダンス、大学院ガイダンスと続き、さらにその後で会議まで入って、かなりディープな新学年の仕事はじめとなりました。 で・す・が! いいこともあったのよ~! そう、昨年の秋に申請していた科研費が認められ、その内定の通知が来たのでありまーす! やった~、この先三年間、リッチに研究できるわーん。うれぴー! そりゃ、そうだよね。だって私の今の研究テーマは「引き寄せ」だから。それを研究しつつ、「科研費取りたいよー」と思っているのに、その科研費を引き寄せられなかったら、その時点でダメじゃん? でも、実際に取れたわけだから、やっぱり引き寄せって、あるのかもね。 あ、ちなみに、二、三日前に「最近、老酒飲んでないなあ。たまには飲みたいなあ」と思ったんですけど、そうしたら、今日、中国人の同僚の先生から、「釈迦楽先生、これ老酒なんですけど、お好きですか?」とかって、いきなり一瓶いただいちゃって。もう、私の引き寄せパワー、今、マックスかも。宝くじ買おうかな。 さてさて、「昭和の男」シリーズですが、1980年代に入りますと、いきなり、ちょっと妙な事件が日本を騒がせます。 一つはね、「金属バット殺人事件」。東大出の父、兄弟親戚も一流大学を出ているようなエリートサラリーマンの次男が、大学受験に失敗、2浪の末、親子の諍いの後、酒に酔った状態で寝ていた両親をバットで殴り惨殺するという凄惨な事件。1980年の冬の出来事でございます。 これ、「金属バット」という言葉の響きも手伝ったのでしょうけれども、加熱する「受験競走」を背景に、その負け組の怨念が噴出したものとして、社会的に相当なショックがあったものです。何しろ、受験生を抱えた家庭なんてのは、日本中に何十万軒とあったわけだし、その受験生の部屋には金属製かどうかは別として大抵バット位はあるわけですから、そりゃ、受験生の親の背筋は凍ったことでしょう。っていうか、その当時は私だって受験生予備軍だったわけだし。 だけど、その後、大学の英文科に進学した私にとって、さらに衝撃だったのは、1982年の斎藤勇殺人事件ね。 斎藤勇(さいとう・たけし)さんというのは、日本の英文学界の至宝。日本英文学会の設立人の一人でもある斯界の巨人。当時齢95にしてまだまだ研究に打ち込まれていたその時に、27歳の孫に惨殺されるという事件でした。それも、加害者の孫に「悪魔」呼ばわりされ、額にナイフを突き立てられての死だったというのですから、凄まじい。 そう、それからもう一つ、この頃、正確には1981年のことですが、佐川一政による「パリ人肉事件」というのもありましたねえ。唐十郎が、これをネタに『佐川君からの手紙』を書き、芥川賞を取るというおまけ付で。 1980年代初頭、日本はバブル時代前夜で、イケイケな感じが蔓延していた一方、光が強ければ影は一層暗いというべきか、そのイケイケに乗れなかった人たちの哀しみが爆発的な怒りに転じたような陰惨な、そして猟奇的な事件もちょこちょこあって、浮かれていた日本人に冷や水を浴びせかけるような形になったのでした。
April 5, 2016
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足が弱くなってちょっと元気がなかった父ですが、私が写真俳句集を作ってあげると言い出した途端、急に元気回復して、句集に入れる88句の選定など、一気に仕上げてしまったという。やっぱり、近い未来に楽しみがあるってのは、老人にとって心のカンフル剤になるんでしょうな。 で、そんな感じで、いかにも「嬉しいなあ、早く出来ないかなあ」的なオーラを出してくるので、私もちょっと急いでこの仕事を仕上げてしまおうかと思い始めたのですけれども、ちょっと手を付けてみると、これがまた結構大変で。 何が大変かと言いますとね、私が縦書きの文章の編集に慣れていないこと。 ワードを熟知した私にとって、横書きの文章の編集なんてのは実に手慣れたものなのですけど、これが縦書きとなるとまったく勝手が違う。 例えば、横書きの文章だと、ある一文をページの真ん中に持ってくる、なんてのはボタン一つなわけですよ。 ところが縦書きの文章を一行、ページの真ん中に持ってくるとなると、どうやっていいのだかわかりゃーしない。結局、ワードって、もともと縦書きの文章の編集を想定してないんじゃないかな。 というわけで、句集の編集をワードでやるというのは、実はすごく骨が折れることなんだと判明した次第。ううむ、安請け合いしたけど、結構大変だな、こりゃ・・・。 さて、「昭和の男」シリーズも、昭和50年代後半、すなわち1980年代に入ったところなんですけど、この頃、日本で何が流行っていたかと言いますと、ずばり、「青い珊瑚礁」を引っさげて『夜のヒットスタジオ』だの『ザ・ベストテン』といった歌番組を席捲した松田聖子さんだったのではないかと。それより前、絶大な人気を誇っていたのはピンクレディーでしょうが、やはり人気というのは永続はしないものでありまして、独特の振り付けで歌い踊っていた彼女たちの人気が落ち着いてきたところで、踊らずに歌唱力だけで勝負する新しい才能が出てきたと。 で、彼女がその持前の歌唱力の他にもう一つ社会的なインパクトを与えたのは、その独特の髪型でございます。 ま、私の通っていた男子校ではアレですけど、この時代、少なくとも高校生以上の女子の大半が聖子ちゃんカットでしたからね。どの学校のでもいいから、1980年代初頭の高校の卒業アルバムとか、見てごらんなさいな。クラスの女子のほぼ全員が同じ髪型、聖子ちゃんカットだから。それはもう、今から見ると爆笑ものよ。でも、ま、それだけ圧倒的な人気があったのでしょうな。 で、さらに、髪型と共に松田聖子さんの売りとなったのが「清純そうな媚」――いわゆる「ぶりっ子」的な路線でありまして、それを指摘し、さらにそれを揶揄する形で人気を得たのが山田邦子さんであり、また松田聖子へのアンチテーゼとして次に出てくるのが中森明菜さんであった・・・ ・・・かどうかは分かりませんが、とにかく、この辺の人たち、人気があったことは事実。もちろん、人気があればあるほど、私はまったく無関心だったので、よくは知りませんが。 むしろ、洋楽派の私にとって関心があったのは、1981年から、いよいよ洋楽は音だけでなく映像で楽しむ時代に入ってきたこと。そう、『MTV』の誕生であります。 しかし、少なくとも日本において洋楽のビデオを身近なものにしてくれたのは本家『MTV』ではなく、小林克也さんが司会を務めるテレ朝の『ベストヒットUSA』(1981年スタート)だったのではないかと。私もこの番組は熱心に見た方ですけれども、この番組を通じてアメリカやイギリスのポップスター、ロックスターの多くを知ることが出来たという意味で、本当にお世話になったと言っていい。 例えば、デュランデュランとか、ユーリズミックスとか、トンプソン・ツインズとか、ティアーズ・フォー・ティアーズとか、ヒューイ・ルイス&ザ・ニューズとか、ジェファソン・エアプレインとか、カルチャー・クラブとか、ワムとか、ヴァン・ヘイレンとか、シンディ・ローパーとか、ジャーニーとか、ポリスとか、ヒューマン・リーグとか、トトとか、ダリル・ホールとジョン・オーツとか、ハワード・ジョーンズとか、ライオネル・リッチーとか、クール・アンド・ザ・ギャングとか、クリストファー・クロスとか、数えきれないですけど、懐かしい名前はいくらでも書きだせる。 だけど、世間的に言うと、1980年代前半、最大の話題はマイケル・ジャクソンの『スリラー』と、そしてそのプロモーション・ビデオが出たことですかね。あれは確かに、すごかった。最初にロング・バージョンを見た時は、感動しましたもんね。あれはまさに、音だけじゃなくてビデオだったからこそのメガヒットでした。あ、それから『USA・フォー・アフリカ』も忘れちゃいけないけれども。 が! 私はね、マイケル・ジャクソンではなく、プリンス派だからね。『ベストヒットUSA』で「When Doves Cry」のビデオが見たことが、私を完全にプリンス教信者にしてしまったという。 ま、その話になると長いので、割愛。 とにかく、洋楽が映像化した、その刹那を目撃したってことが、我々後期昭和世代の一つの特権だったのではないかと。 だけど、ここでまたもう一つのモーメントがある。1983年辺りから始まる、ソニー・ウォークマンの本格普及でございます。 この頃、カセットテープが音楽の媒体として最大の魅力を発揮していたことは前に書きましたが、そのカセットケースとほとんど変わらない大きさでありながら、それを再生できてしまうという、信じられないようなモノが出てきた。それも日本発信で。これは、本当に驚きました。 音楽が聴くものではなく見るものになった、だけではなくて、持ち歩けるものになった。これが1980年代前半の、音楽にまつわる大きなパラダイム・シフトでありました。例えば映画『ターミネーター』とか見ても、ウォークマンがその時代の象徴として、重要な場面で使われていたりしますからね。 とにかく、この時代、邦楽にしても洋楽にしても、まだ日本人全体が同じ音楽に対して反応する、という状況が維持されていたし、またその影響力がそれなりに大きかった、ということはありますな。つまり、音楽が面白かった時代だったと言ってもいいんじゃないかな。
April 4, 2016
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ひゃー、春休みも終わってもうた〜。 今日は名古屋に戻る日。私の春休みも今日でおしまいでございます。やだね〜、また新学期かい。わたしゃ、働かないのがいいよ。早く定年になりたい。 さてさて、今日は夕食を御馳走になってから名古屋に帰る予定なのですが、午後はちょいと暇。ということで、家の近くにある「コーチャン・フォー」という巨大書店に行って本を眺めてきました。 で、嵐山光三郎氏が書いた『漂流怪人・きだみのる』という本を立ち読み。ふむふむ、なかなか面白そう。あと開高健がきだみのる等と対談した『人とこの世界』(ちくま文庫)もなかなか。きだみのるってのは、なかなか面白い人なんですけどね。あと荻原魚雷氏の『本と怠け者』(ちくま文庫)は・・・うーん、私が買うほんじゃないか。その他、あれこれ物色して楽しみました。 それから文房具売り場ではパイロットのキャップレス万年筆を試し書き。ほほう、これはなかなかよろしいぞ。これなら気軽に使えそうだし、書き味も滑らか。私が使うとすれば太字・・・かな。 ってなわけで、本の売り場と文房具売り場を右往左往して大分楽しんだのでした。結局、何一つ買わなかったけどね! さ、そろそろ名古屋に帰る支度でも始めますかな。いや、その前に「昭和の男』シリーズ、今日の分を書いちゃおうっと。 高校時代、やはりラジオはよく聴いていましたけど、今とは違って当時の私は馬鹿みたいに早寝の人だったので、深夜ラジオに対する思い入れってのはあんまりないんだなあ。特に当時の若者なら誰でも聴いていたはずの「オールナイトニッポン」はほとんど聴いたことがないという。文化放送の「セイ!ヤング」にもあまり愛着はなく、強いて言えばTBSの「パックインミュージック」を少々、ってな感じ。野沢那智と白石冬美の「ナッチャコ・コンビ」、小島一慶、林美雄あたりのをたまに聴くくらい。 後期昭和史を書くに当たって、深夜ラジオのことにこれだけ無知ってのもすごいよね! でも、私の趣味じゃなかったので、仕方ありません。いつも言いますけど、多くの人が聴いているものは、基本、聴かないのよ、私は。天の邪鬼だから。 でも、時々、アレ、これは面白いなと思うものがあれば、それに気づくくらいのアンテナは張っていたので、例えば小林克也、桑原茂一なんかが「スネークマン・ショー」を始めた時は、そのシュールな内容に瞠目したものでございます。ま、私はそれ以前からFENを聴いていましたから、ああ、これは「ウルフマンジャック・ショー」の真似だな、というのはすぐに気づきましたが。 私がラジオを聴いていたのは、やはり音楽を聴くためというところがあって、前にビリー・ジョエルのことを書きましたけれども、私の中学・高校時代ではもう一人・・・というかもう一組、「アバ」の大衆的な人気がすごかった、ということを覚えております。もう、出す曲出す曲全部ヒットというね。だから、後年、アバのヒット曲で構成された『マンマ・ミーア』というミュージカルが出た時、アバの曲が染み付いている私たちの世代は、一斉に「その手で来たか! やられた!」と思ったんじゃないでしょうかね。 1970年代半ばから後半にかけて、と言うと、後はイーグルスとかドゥービー・ブラザースあたりのカリフォルニア・サウンドが思い出されるかなと。私はどっちかというと、ドゥービー派ですが。マイケル・マクドナルドの、ちょっとくぐもったような声が好きなのよ。あ、それからシカゴとか。ピーター・セテラがボーカルだった頃のシカゴはすごかったからね。あとは、アース・ウィンド・アンド・ファイアーとか? そう考えると、この時期、豪華な豪華な「アメリカ版GS時代」ってのがあったわけですな。 だけど、この辺りで超弩級の出来事が。 そう、1980年の冬、12月8日ですか。ジョン・レノン殺害。 1980年、私は高校2年生でしたけど、ちょうどこの時、クラス合宿というのがあって、私のクラスは1週間ほど学校内の寮に泊まり込んでいたんですな。何のための合宿なのか、よく思い出せませんが。 で、誰だったかがジョン・レノンの死のニュースを聞きつけて、皆でリラックスしてしゃべっていたところに駆け込んできた。クラスの中には熱狂的なビートルズ・ファンとかもいましたから、えらい騒ぎで。 ま、私は例によって人が大事だ、大事だ、と騒いでいると、逆に白けるタイプなので、騒ぐ友人たちから少し離れて眺めているだけでしたけれども、小学生の時からのビートルズ・ファンとしては、内心、あの奇跡の四人組が一堂に会することはもはや物理的にありえないのかと、いささか残念な気持になったことだけは覚えております。 とにかく、ジョン・レノンの死は、1970年代の終わりを告げる出来事ではありましたな。 実際、1980年代に入ると、音作りにしてもシンセサイザー全盛の時代になってくるしね。 その一つの象徴がYMOの登場。『ライディーン』とか、流行りました。 でまた、これは音楽の話ではなくなってくるけれども、この辺りで日本では「漫才ブーム」ってのがやってくる。ツービートやらB&Bやら紳介竜助やら、その辺りの一連の漫才コンビがどーっと。 そして「ひょうきん族」なんかも始まって、「楽しくなければテレビじゃない」を標榜したフジテレビの「軽チャー路線」が始まるのもこの頃。なんか、日本文化のタガが外れてしまったような時代として、1980年代がスタートするわけですよ。 それが良くなかった、と言うつもりはないけれども、勤勉と教養重視の世界観が強固な芯としてまずあって、他方、そういうものを批判し、それに対して真っ向からぶつかっていくようなカウンター・カルチャーがあって、という図式で進んできた1970年代が終わり、その双方に対して揶揄的というか、「そんなに真面目にならないで、もっと軽いノリで楽しもうよ」という立場が出てきたな、という感じはしましたね。 で、私はというと、年齢の割に古い考え方をする方なもので、どちらかというと、「カルチャーvsカウンター・カルチャー」という図式の上で生きていたい人なんですな。そういう真剣勝負が好きなの。だから、そういう真剣勝負を笑い飛ばすような「軽チャー」路線に乗る人たちに対してむしろ違和感っていう。 だから、漫才ブームとか、全然興味なかった。「ひょうきん族」も一度も見たこと無いし。 そういう意味で、1980年代、私にとっては、とっても生き難い時代だったなと。でも、巡り合わせとあれば仕方が無い。自分の感性とちょっと違う世界が主流をなしつつある中、私はそこに突入しなくてはならない年齢だったのであります。
April 3, 2016
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さて、1979年に高校生となった私ですが、のんびりした校風の中学校から割とシビアな受験校に移ったこともあり、学習面で周りの友人たちに追いつかなければ、という必要性があって、割と勤勉に勉強を始めたのではなかったかと。桐蔭学園の附属中学校から進学してきた「内進組」は、中学の段階で既に高校の教科書に入っていましたからね。 で、他の教科はいいとして英語と数学だけは学校で使う教科書や問題集の他に、自主的に参考書や何かを買って勉強した記憶がある。 で、その時使った参考書なんですが、まずね、英語方面では当時、当然のように「赤尾の豆単」というのをまず手に取りました。旺文社から出ていた小版の必須英単語集でございます。 「赤尾の豆単」の赤尾って誰?って話になるわけですけど、これは赤尾好夫って人のことで、そもそも旺文社を設立した人ですな。だから旺文社の赤尾の豆単と言えば、ある意味、旺文社の看板商品みたいなところがあった。ちなみに、赤尾好夫氏は文化放送の設立にも貢献したのだそうで、だからですかね、文化放送で「旺文社ラジオ講座」ってのがあったのは。いわゆる「ラ講」って奴。これは私も時々聴きましたっけ。今もあるの、ラ講? ところで、赤尾の豆単って、要するに重要単語がアルファベット順に並んでいるというもので、面白味という意味では何の工夫もない。だから、「abandon 捨てる」とか、アルファベットの最初の方に来る英単語はよく覚える割に、アルファベットの後半に差し掛かる頃には挫折してしまうという。これ、「赤尾の豆単あるある」ですな。 で、そんな時にですよ、青春出版社の新書版で森一郎さんの『試験にでる英単語』の噂を聞きつけた。「豆単」に対抗する「でる単」(関西方面では「しけ単」と略称)ですな。1967年の初版以来、累計1500万部という、怪物のような大学受験用単語集。森一郎さんってのは、かつて東大合格者数ナンバーワンだった都立日比谷高校の英語の先生だった人。 で、この『でる単』っていうのは、その名の通り大学受験の試験問題によく出る英単語を頻出順に並べたもの。なので、当然、収録された英単語はアルファベット順に並んでいるわけではない。だから、最初のページから覚えて行けば、覚えた分だけ受験に強くなるのであって、豆単と違って「aから始まる英単語には強いが、mから始まる単語以降は全然知らない」というような事態にはならない。そこが、他の類書と違う画期的なところだったわけ。しかも、覚えるべき単語数も結構絞られていて、800語くらいだったんじゃなかったかしら。だから、やろうと思えば二日くらいで全部覚えられる。 で、私も二日くらいでこの本に載っている英単語全部覚えてみたのですけど、そしたら英語の成績が俄然良くなってしまった。少なくとも、私にはすごく効果のある英単語集でございました。 その他、英語関連で言うと、英語の先生であった父に勧められて「ハラセン」の『英文標準問題精講』とか、そんなのもチラッとやりましたかね。「ハラセン」ってのは原仙作の略で、原さんもまた旺文社顧問かなにかで、受験英語の神様としてあがめられていた人。これ「標準問題」とかいいながら、全然標準じゃなくて、めちゃくちゃ難しい。今の大学生じゃとても読みこなせないでしょう。ま、ハラセンで勉強した、なんてのは、多分、ギリギリ私の世代までじゃないかな。 っていうのは、もう私の世代ですと、むしろ代ゼミとか駿台の名物講師が書いた参考書の方が一般的だったから。例えば伊藤和夫の『英文解釈教室』とか、Z会の『基本英文700選』とか。その他、岩田一男の本とか、あれこれ読みましたっけ。 でも、とにかく私が高校の頃なんて、英語の授業で読まされる英文は、それこそバートランド・ラッセルとか、ジョン・ボイントン・プリーストリーとか、サマセット・モームとか、そんな連中のエッセイとかでしたけど、これも今じゃ、大学生だって読めないレベルだよね。日本人の英語力ってのは、この30年で大分落ちたね。 さてさて、一方、数学の方ではどんなだったか。 まずね、一般的だったのは『チャート式』って奴。これは高校のみならず、中学時代からあったんじゃないかしら。もちろん「チャート式」ってくらいだから「チャート」が重要なんだろうけれども、何がどうチャートなのかさっぱり分からないという奴。中学の時は何となく使いましたけど、高校になってからはあまりピンとこなかったので使いませんでしたかね。 高校時代に使った記憶があるのは、矢野健太郎の『解法のテクニック』という奴。これは、数学の出来る奴から勧められて使ったもの。それからもっと出来る奴が使っていたのが『大学への数学』。研文書院の。これは表紙が真っ黒で、威圧感たっぷり。私も買ってはみたものの、ちょっとお手上げって感じでしたね。 むしろ私にとって一番ためになったのは、寺田文行さんの『鉄則』シリーズでした。これは旺文社。寺田さんは、旺文社のラジオ講座も担当されていて、「よろしいか?」というキメ台詞の、ちょっと独特の寺田節で、全国の受験生に親しみ易く数学を解説してくれていた。で、この『鉄則』を使い始めてから、私の数学の成績も大分上がった記憶があります。 ちなみに、学校の他に予備校とか塾とかに行く気がまったくなかった私ですが、それでも周りの友人たちの影響で、何かやった方がいいんじゃないかと思い、通信添削はやりました。 当時、通信添削の二大主流はZ会とオリオン。私はZ会に入りましたけれども、オリオンって、今、あるのでしょうか? Z会は、今でこそ小学生向けくらいのものまであるようですけれども、昔は大学受験専門、めちゃくちゃ難しい出題で、しかも月3回の提出でしたから結構、しんどかった記憶があります。あまり難しくて手がつけられず、仕方なく学校の数学の先生を悩ませて提出、なんてこともありましたけど、高校の先生には申し訳ないことをしたもんです。 ところで、何でこのばりばり文系の私が高校の時にこれほど一生懸命数学を勉強していたかと言いますと、高校生までは将来、生物学で食って行こうと思っていて、当然、理系の大学に進むと思っていたから。だから、数学・物理はさておき、生物学だけは誰にも負けまいと、学内・学外の模試なんかでも常に満点取ってました。そのまま生物学に進んでいたら今頃STSP細胞を・・・。 ま、文系に転じて良かったのかもしれません。 とにかく、こんな参考書を友に、高校時代を過していた私なのでした。
April 2, 2016
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今回、割と家のことが忙しくて東京に帰っていても友人たちと会うチャンスがなかったのですが、今日は忙しさの合間を縫うように、夜、旧友のTと相模大野で飲んできました。 このT、なかなか尋常の人ではなくて、いつも何か驚かせてくれるのですけれども、今日も開口一番、「免許取っちゃった」と。 免許? なんの? よくよく話を聞いてみたら、大型重機の免許だそうで。ショベルカーとか、そういう奴。 で、話を聞いて驚いたのですけれども、ショベルカーとかって、実は別に免許なんて要らないんですってね。何の資格も必要なく、動かすことが出来る。なぜなら、公道を走るわけではないから。工事現場で穴掘ったり、ノリ面を削ったりする分には、それは単に私有地で好きなことをやっているだけだから何の資格も免許も要らない。実際、工事現場で働いている人の中にも無免許の人もいるそうで。 だけど、そのショベルカーでダンプに砂利を積む、というような作業をしていて、ショベルカー側の不手際で事故でも起してダンプカーを壊してしまった、なんていう場合、無免許だと保険が下りない、なんてこともある。そこで事業所としては、作業員にはなるべく免許を取っておいてもらいたいわけですな。だから、そういう免許を出すところがあると。 で、Tはそういうところへ行って免許をとってきたと。 で、実際、どういうようなことを練習するのか、ってな話になると長くなるのでアレですけれども、じゃあ、一体何故、薬剤師として働いているTに大型重機の免許が必要なのか。そこですよね? まさか、今からガテン系に転職するとか? そしたら、そうではなくて、彼の将来の夢として、「夢の重機ランド」を作りたいと。そういう野望を実現するための第一歩として、自ら重機の資格を取ったのだそうで。 重機ランド・・・。なんでしょう、それは? Tに言わせると、男として生れたからには、一度はブルドーザーとかショベルカーを運転してみたいだろうと。だからその男のロマンを実現するために、重機を操縦できるテーマパークを作ったら絶対人気が出るに違いない。そこでTとしては、将来そういう重機ランドを作って、新感覚の男のテーマパークを作りたい。 そういう次第だったのでした。 齢50をとっくに越えて、なお目を輝かして夢を語るTを前に、私なんぞはまだまだ修業が足りない、私もTのようにでっかい夢を持たねばと、思ったことでございます。実現するといいな、重機ランド。 さて「昭和の男」シリーズ、そろそろ1979年に突入いたしましょうか。 この年、私は玉川学園というところの中学部を卒業し、そのまま高等部には進学せず、桐蔭学園という別な私立高校へと進学したのでした。 ところで、玉川学園はもちろん共学なんですけれども、私は桐蔭学園も共学なんだろうと思って入学したわけ。っていうか、それ以外の可能性をまったく考慮していなかった。そしたら、入学式の日に女子が一人もいないじゃん? で、近くにいた同じ入学生に「今日、女子はどうしたの?」って聞いて、ビックリされました。桐蔭学園は男子校だったのでありまーす。 だけどね、私、どんな環境にも割とすぐに適応するタイプでして、男子校の雰囲気にもすぐ慣れました。で、慣れてみると、男ばっかりというのも案外サバサバしていいものでありまして。今はそうでもないようですが、私が入った頃の桐蔭学園は、神奈川県内でも有数の進学校だったので、めちゃくちゃ頭のいい奴も多く、刺激になりましたし。 だけど、やっぱり入学した当初は、周りに親しい友人もいないわけだし、ちょっと緊張した気持で日々通学していたような気がします。 で、そんな高校進学当時にヒット曲を連発していたのが、ビリー・ジョエルだったのでした。アルバムで言えば『ストレンジャー』の次の『ニューヨーク52番街』の頃。『ストレンジャー』に入っていた「ムーヴィング・アウト」「素顔のままで」も良かったけれど、『ニューヨーク52番街』には「マイライフ」とか「オネスティ」とか、ヒット曲が目白押し。その次のアルバム『グラスハウス』(1980)も良くて、この頃のビリー・ジョエルは飛ぶ鳥を落とすようだったけれど、今でも彼の曲を聴くと、高校進学当初の張りつめたような気分が戻って来るような気がします。 さらに、1979年というともう一つ、渡辺貞夫の『カリフォルニア・シャワー』が出た年でしょ。これ、レコードとして買ったわけではありませんが、買わなくてもラジオで頻繁に掛かっていたので聴くともなく聴いてしまった。そのタイトル通り、これを聴いているとカリフォルニアの青い空、青い海が目の前に広がるようで、ビリー・ジョエル同様、私の高校1年生の頃の気分を思い出させてくれるというか。 高校生ともなると、やがて来る大学受験という試練があるわけですけれども、さすがに1年生だとそんな深刻な感じもなく、何となく「そのうち何とかなるだろう」とか、「真面目に素を出して行けば、認めてくれる人もいるだろう」とか、そんな楽観的な、気楽な、伸び伸びとした気分の方が横溢していた。そんな気分に添うような音楽が、たまたま当時の私の周りにはあった、ということなんでしょうな。 ってなわけで、私の1979年は、こんな音楽に乗って始まったのでございます。
April 1, 2016
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