老師の言葉 0
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引越しでもしないと、物は減らない。ホント思うね。借りている家なのだから、いつかは引っ越さないといけない。なのに、いつまでも住んでいるつもりで物が増えていく。もっと言うなら、いつか死ぬのに、たとえば、30年も50年も使えるほどの量のポロシャツやTシャツが出てくる。ぼくの場合は本だ。一生かかっても読めないだけの本が段ボールに入っている。今回、かなり始末したが、それでも何箱もの段ボールを鈴鹿にもっていく。きちんと整理して、本箱に並べたいが、果たしてできるのだろうか?妻の場合、スーパーへ行けば、安売りしている消耗品を次々と買ってくる。トイレットペーパーもティッシュ。どうせ使うから安いときに買いだめておこうという合理的な考え方なのだが、孫が大人になっても使えるほど買わなくていいと思うが。引越しでは、荷物を車に積んだり、箱に詰めるときの緩衝材として、えらく役に立っている。親せきに桃を送ったときも、「おいしそうな桃とティッシュをありがとう」とのお礼メールがきた。物は使いようだ。引越し日は決まっている。今日から、ひたすら段ボール詰め。今回は、借りていた畑の草を刈って返すとか、ヤギの柵に使おうとしていた木製のパレットを捨てにくとか、柵にしていた鉄製のパイプを外したり、けっこう肉体労働をした。腰や肩が痛むけれども、「できるじゃん」と自信もついた。客観的に見て、これだけの荷物を老齢(?)の2人でまとめるというのは、なかなかできないことだと思う。数日後、「良かった良かった」とおいしいお酒を飲んでいるのをイメージして、今日もがんばろう!
2024年09月29日
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10歳ほど年上のいとこが、2週間ほど前に脳梗塞で入院した。8月には米の収穫でお世話になった。脳梗塞も心筋梗塞も、はっきりした前兆がないので、倒れたと聞いてびっくりした。幸い大事には至らなかったが、言葉が聞きとりにくい、左の手足がしびれるという症状が残っているようだ。リハビリでどこまで回復できるか。働き者で、ゴルフ好きで、週に一度はコースに行っていた。自作のゴルフ練習場があって、畑仕事とゴルフと、老後を楽しんでいた。息子がアメリカにいるので、年に一度は夫婦で出かけて行った。ちょうど、旅行を準備しているときで、元気だったら、今ごろアメリカで楽しんでいるはずだった。いつごろからか海外旅行が趣味となり、英会話を勉強して、日常会話には不自由しないくらいに上達したみたいだ。海外へ行けば、レンタカーを借りて、あちこち走り回っていた。小さな村に生れ育ったが、行動的で、新しいことを体験したり見たりするのが好きな人だ。80歳を前に、脳梗塞という、ひとつ間違えば生死にかかわる病気をしたことは、大きな彼の節目になると思う。70代80代で大病をすれば、ほとんどの人が、前へ進むのをやめてしまう。現状維持に意識が向かうのだが、そこからもうひと伸びする人もいる。ちょうど、ぼくも故郷へ帰り、これからいろいろ活動しようと思っていたころだ。退院してきたら、もうひとつ、深い話ができるかもしれない。
2024年09月22日
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鈴鹿へ帰って、さてさてなにをやるか。山梨ではヤギに加えて、スモモや桃の栽培をした。鈴鹿でも果樹をやるのがいいかも。放置してあった田んぼを開墾するという案も出ている。知り合いがやってくれるのだ。土を入れて畑にする。そこに果樹というのはいいかも。そんなことを考えていたら、妻が新聞記事を見せてくれた。山梨でパパイヤを育てている人がいるという記事だった。ぴぴっときた。パパイヤがどんな実で、木の大きさがどれくらで、どうやって育てるのか、さっぱり知らないが、「やってみたい」と思ったのだ。新聞記事をていねいに読んで、ネットでも調べてみた。すると、新聞に出ていた人が、かつてぼくが会いたいと思っていた人だということがわかった。共通の知り合いがいる。さっそくメッセージを送って紹介してもらった。ぼくが彼に会いたいと思ったのは、パパイヤとはまったく別の話。いわゆるスピリチュアルな世界のことだった。彼の研究していることにすごく興味があったが、行動にはつながらなかった。それがパパイヤでピピッときたわけだ。こういうのも縁だろう。鈴鹿へ帰ったら、パパイヤ畑を作ろう。数日前までパパイヤのパの字も出てなかったのに、こんな展開になるとは。こういう調子だから、ぼくと一緒に何かをやろうとする人は振り回されてしまう。ただ、しっかりした根っ子は間違いある。ぼくの表現がへたくそなのもあって、まわりが理解できないだけ。でも、根っこは見えないもので、理解されなくても仕方ない。根っ子が大事なわけで、赤い花が咲こうが、黄色だろうが、実がなろうがなるまいが、ぼくはあまり気にしないというところか。簡単に言うなら、自分が楽しくできて、少しでも世の中の役に立つこと。堅苦しく生きている人が、こんな風に生きてもいいんだと思えること。そんなアピールができればいい。
2024年09月19日
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断捨離とよく言われるが、定期的に不用品を処分していくのは大切なことだ。ぼくは掃除が苦手で、いらないものがどんどん増えていく。なぜ処分ができないのか。どこに捨てればいいかわからないのが大きいことに気づいた。たとえば、ヤギを飼うための柵に使っていた木製のパレット。使わないので、借りた畑に積んでおいた。使わないのだから処分すればいいのだが、どうすればいいかわからない。だから、ずるずるとそのままにしておいたのだ。今回、引っ越しをするのでどうしても処分しないといけなくなった。いろいろ調べた結果、車で10分くらいのところに処分してくれる(有料だが)会社があるのを知った。妻と10数枚のパレットを、2回にわけて軽バンに積みこみ、処分場に運んだ。4000円ほどかかったが、気持ちもすっきりした。鉄製の柵が何枚かあった。鉄は買ってくれるよと教えられて、別の会社へ持ち込んだ。そしたら、1300円くらいで買ってくれた。車で40分ほどのところには、地域の処分場がある。本はブックオフに売りに行った。いらないものはどうしたらいいかを知っていれば、動こうという気になれる。断捨離しなければと思っているだけでは、片付けは進まない。まずは、処分してくれる場所を探すこと。そこが見つかると、次に進める。ぼくの場合は、そこがポイントだった気がする。
2024年09月18日
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実家の裏に、隣家の所有する大きな畑がある。ヤギーずにとって、良質の草が生えるので、ときどき、エサを食べさせに連れて行っている。何本か木があるので、夏場の日陰も十分だ。隣家の60歳くらいの家主は、町で暮らしていて、ときどき草刈りに来る。几帳面な男なので、空き家と畑の管理はしっかりやっている。「この畑、ヤギの放牧場に借りたいのだけど」顔を合わせたので頼んでみると、「ええよ、ええよ。好きに使って」とありがたい返事だ。使わない畑の草刈りというのはけっこう負担になる。ぼくとヤギーずで草を管理するのだから、彼にしてもありがたい申し出に違いない。そんなわけで、来月は、この畑に柵を作って、ヤギーずを放牧する。ヤギーずも快適な暮らしができるし、ぼくたちのエサを取りにいく手間も楽になるはずだ。あいつらが来た当初は、ずっとリードでつないでいた。わずかな行動範囲。今考えると、かわいそうだったと思うけれども、そうやって飼われているヤギはたくさんいると思う。そのあと、放し飼いができる小さな場所を作った。だいぶん自由度が増えたが、それでも走り回るほどはない。別の場所を囲って、スペースが大きくなった。大きな岩もあったりして、これだと億ションレベルだ。彼らにしてみれば、十分すぎる住まいだけれども、欲張りな飼い主は、もっと快適な場所を提供したいと思っている。今度はすぐそばに放牧場まで作ってもらえるのだ。どんどんゴージャスになるではないか。ヤギのいる公園みたいにできたら最高だ。ぼくの腕では、そこまでは無理かな。こういうときは、必ず助っ人が現れるもの。他力の小原田の本領発揮となりますか。
2024年09月08日
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昔の友だちが夢に出てきた。40年以上会ってない。3人で古い汽車に乗った。もう一人は若い女性で、友だちが連れてきた。挨拶もしないし、友だちも紹介しようとしない。まるでそこにいないような扱いだ。汽車に乗ったら、その女性は消えてしまった。2人で向かい合わせに座る。汽車はどこへ行くのかわからない。友だちは知っているようだった。「懐かしいね」会話が始まった。会話と言っても、一方的に彼が話をする。それも自慢話ばかり。「ぼくが部長をだったときにはね・・・」というサラリーマン時代の手柄話だ。あいつは確か、大手の会社で取締役まで出世したんじゃないかな。大成功のサラリーマン生活だったとおもう。でも、人の自慢話は面白くも何ともない。そんな奴じゃなかったのにと、右から左に聞き流しながら、ぼくは気持ちのこもってない相づちを打つ。そんな情景がダラダラ続いた。なぜか、ぼくの心にはかなしみが広がっていった。目が覚めてもきちんと記憶に残る夢だった。ぼくは思った。「あいつ死んじゃったんじゃないか」同い年だから、まだ死ぬのは早いが、死んでもおかしくない年齢でもある。最後に俺のこと思い出してくれたのかな。自慢して旅立っていくのだから、満足のいく人生だったのだろう。元気でやっていたら失礼な話だが、ぼくの夢に突然出てきて、それもリアルな感じだったので、何か意味がありそうな気がしてしまうのだ。70歳に手が届く年齢というのは、老人と言われると抵抗があるけれども、人生の終盤に差し掛かっているのは間違いない。若いころは、時間は無限にあると思っていたが、やっと、残された時間という感覚をもてるようになった。生きている間にこれだけはやりたいという気負いはないけれども、まだ動く体に感謝しながら、動けるだけ動いて、死ぬ瞬間まで「こんなことやりたいな」と若者のような希望をもって、やれるところまでやれればいい。いくつになっても、一所懸命に生きていれば、思わぬことが起こってくる。エキサイティングにスリリングに。そして、古い友だちが元気でがんばっていることも祈っています。まだ、死ぬのは早いな。
2024年09月05日
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今年は、実家のある鈴鹿で、ひょんなことから稲作をすることになった。わずか半反(500平方メートルくらい)だけど、志は高くもって、無肥料・無農薬にチャレンジだ。村の人に手伝ってもらいつつ、知り合いを呼んで田植えをやった。水の管理は娘がずっとやってくれた。雑草をどうするか、多くの人が頭を悩ませていることだ。ところが、うちの田んぼはどういうわけか、あまり草が生えなかった。 肥料を入れてないので、まわりの田んぼに比べると生育は遅かった。それでも、穂が出て、頭を垂れ始めた。 問題は稲刈り、脱穀、乾燥、もみすりをどうするかだ。うちには何一つ機械がない。稲刈り、脱穀は、だれかに頼めばコンバインでやってくれるだろう。問題は乾燥だ。今は大きな乾燥機でまとめて乾燥するので、うちのようにわずか半反、2俵や3俵だと、ほかの米と混ぜて乾燥させてもらわないといけないのだそうだ。せっかく無肥料、無農薬で栽培したのに、普通に栽培した米と混ざってしまう。それでは意味がない。頭が痛い。 ところが天は見捨てるようなことをしない。近くの親戚に相談したら、「うちに乾燥機あるから」昔ながらの古い乾燥機を使っているのだそうだ。それを使えば、2俵、3俵でも大丈夫だ。 そんなわけで、自然栽培米2俵(120キロ)が、昨日、玄米になった。去年は慣行栽培だった田んぼなので、厳密には自然栽培とは言えないだろうが、それでも、水の管理をしただけでできた米だ。 どんな味なのか、楽しみにしている。
2024年08月24日
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お盆だ。昨夜、亡母が夢に出てきた。お盆のせいなのか、アマゾンプライムで『母と暮らせば』を半分くらい見た影響か。 生前から心配症だった母は、夢の中でもやっぱり心配していた。 「お前なあ、このごろちょっとも仕事してへんやないか。大丈夫なん?」 心細そうな顔をしていた。ぼくがなにか新しいことをやろうとするときに見せた、困りっ切った表情だ。ぼくは昔から、「こんなことがしたい」とひらめくと、すぐに行動に出るタイプだった。「よし、やるぞ」と心の中でエネルギーが沸き立ってくる瞬間が好きだった。 ついつい、母にも話してしまう。すると、母の顔が曇る。 ぼくは気勢がそがれた気がして、機嫌が悪くなったものだ。 娘がこんなことを言ったことがある。「おばあちゃんは、お父さんを籠に入れて、ずっとそばで見ていたいんじゃない」ぼくを文鳥のように育てたかったのか。よく観察している。 大空を飛び回りたいぼくとは相容れない感性だった。 夢の中でも、ぼくは不愉快になっていた。 「仕事はしてるよ。前よりもずっと働いている」ヤギの世話をしたり、畑の草刈りをしたり、自分でも感心するほど汗をかきながら働いている。 ただ、収入にならないことばかりをしているのが、母の不安でもあるのだろう。 そのことは、ぼくも「大丈夫かな」と思ったりもしているが、もう人生の集大成の時期だから、目先の安定だけを求めるという、安易な方向には流れたくない。 新しい時代のライフスタイルを体現したいというのが、ぼくの夢だ。そして、自分の思いや体験を文章にして残すこと。 お金について、母は心配してくれているが、ぼくもお金はとても大切だと思っている。ただ、求めなくても、やるべきことをやっていれば、思わぬ形で循環するのがお金というもの。 それも新しい時代のスタイルではないか。実践したいものだ。 母が亡くなって2年になる。こんなふうに心配して夢に出てくるというのは、まだあちらの世界へ行ってないということか。 もしそうなら、お盆を機に、この世への未練を断ち切り、次のステップに歩を進めてもらいたいと思っている。
2024年08月13日
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寝付きの悪い日は、無理に眠ろうとせずに、布団にうつぶせになって、YouTubeでサンドウィッチマンのコントを見る。笑える。ぼくの年代だと、コント55号や、やすし・きよし、ツービート、B&B、紳助・竜介、ザ・ぼんちなどの笑いが懐かしいが、サンドウィッチマンは、昔の漫才とは違うし、今の浮ついた笑いでもない、表現は難しいが、「地に足のついた笑い」という気がする。大笑いというよりも、体の芯から笑いが沸き起こってくる感じで、ぼくは大好きだ。とにかく、面白かったら声を出して大笑いすることにしている。笑いは自律神経を整える。おかげでこのごろゆっくり眠れている。笑いで大病から回復した人もいる。医学的にも、免疫力を高めることがわかっている。笑いもいいし、感動もいい、スポーツでハラハラしたり興奮するのもいい。泣いたり、たまには怒りもあっていい。感情を表に噴出させて、心を撹拌する。それが自律神経を鍛えるトレーニング。ぼくは、サンドウィッチマンの笑いのほかに、ラグビーが好きなので、2015年ワールドカップのジャパン対南ア戦かな。YouTubeで見る。心が動く。間違いなく、免疫力がアップする。
2024年07月13日
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もうすぐパリオリンピックが始まる。ぼくはスポーツ好きだが、まるで盛り上がらない。世の中はどうなのだろう?メダルが期待できるのは、バレーボールにバスケット、体操、柔道、卓球かな。陸上競技にも期待できる選手がいるようだ。水泳はどうなのだろう。新しい競技も増えてきて、ルールもわからないし、オリンピックもずいぶんと薄味になったなという気もする。ぼくが年を取ったせいか、オリンピックそのもののエネルギーが低下しているのか。興味がわかない。
2024年07月09日
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暑い!つぶやいても怒鳴っても、何も解決しないのだが、言わずにいられないほど暑い!昨日まで何日か鈴鹿にいた。同じ三重県の松阪市が日本で最高の気温。39・7度だったらしい。「えっ、もう少しで40度じゃん!!」耳を疑った。鈴鹿でも35度。日本各地で当たり前に40度になる時代が近づいているかも。暑い中、汗だくになりながら、ヤギたちのスペースに日よけをかけた。その下でぐったりしているヤギたち。ハーハーいっている。水をまいてあげたりして、何とかこの暑さからのダメージを軽減してあげないと。一昨日も暑かったが、畑の草取り、ちょっと遅いけれども、サツマイモの苗を植えるなど、畑仕事で汗を流した。そんなことで、クタクタになって、昨日帰ってきたわけだが、我が家は、標高5~600メートルのところにあるので、日が沈むと気温がぐんと下がる。これは助かる。エアコンなしで4年過ごしている。昼間はきつけれども、古い農家だから、家に入るとひんやりするし、窓を開けておけば、涼しい風が入ってきて、昨夜は布団をかけて眠った。ヤギたちもずっとここで過ごしていたから、鈴鹿に移って、夜は眠れてないかもしれない。今は7月の初め。あと2ヶ月以上、こんな調子かも。上手の乗り切らないと。
2024年07月06日
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大橋純子さんが急逝されたとか。73歳だそうだ。今年は、坂本龍一さん、谷村新司さんはじめ、ミュージシャンの方の訃報が相次いでいる。ぼくよりちょっと年上の方々。青春時代を彩ったアーティストたちだ。小学校のころはグループサウンズが爆発的人気を博していたし、中学時代はラジオの深夜放送が流行って(そう言えば、東海ラジオのアマチンさんも亡くなった)、洋楽にかぶれる奴も増えてきたし、高校生になればステレオコンポを買う友だちもいた。ぼくは、音楽にはあまり興味がなかったが、音楽を知らないと、ちょっと仲間外れになってしまった気がしたものだ。大学1年の夏休みにアルバイトをして、10万円くらいで真っ黒なコンポを買った覚えがある。アリスのアルバムも買ったな。一番音楽に親しんだころの人たちが、お亡くなりになったというニュースに触れるのは、何となく寂しいものだ。
2023年11月11日
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日曜劇場の『下剋上球児』を楽しみにしている。舞台が三重県だとことで、ワクワクするものがある。三重県は地味な県で、テレビドラマの舞台になることはあまりない。だいぶん前になるが、『高校生レストラン』があった。映画だと、『浅田家』が面白かった。『下剋上球児』は、万年一回戦負けの高校、白山高校が甲子園に出たノンフィクションをイメージして作られた、フィクションドラマ。練習はいつもキャプテン一人。試合があると、幽霊部員を引っ張ってきたり、助っ人を頼むわけだから勝てるはずがない。キャプテン一人がバットを振っている姿を見て思い出した。10年くらい前に、高校のクラス会に出た。そのときに、「お前、一人ラグビー部でがんばっていたな」と言われたことがある。何人もがそう言うから驚いた。無茶苦茶弱いチームで、部員数もぎりぎり。練習に来るのは数人だった。試合のときには、幽霊部員や他の部活のガタイの大きな奴をかき集めていた。ぼくが一番まじめにやっていたのは確かだが、それでも一人ではなかった。でも、まわりからは、一人しかいないラグビー部に見えていたみたいだ。「だれも練習にこんのに、お前はようがんばってたわ」なぜそんな話題になったか忘れたが、何人もが口々にほめてくれた。あの当時、とてもかわいくて、ぼくもよく覚えている女の子まで、「一人でがんばっていた姿見て、リスペクトしてたよ」と言う。そんなん、あのとき言うてくれたら良かったのに。と思ったけど、おぼこい少年だったぼくは、女の子に声をかけられるだけで真っ赤になってうつむていただろう。ぼくのラグビー部は、ずっと弱いままだったし、ぼくもまったく上手にならなかった。ドラマにはならないけれども、何をやっていても、見ている人は見ていて、思わぬ評価をしてくれることもあるわけだ。
2023年11月06日
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一昨日、昨日は、ラグビーワールドカップを、手に汗を握って観戦した。ぼくの場合は、夜遅いのも、朝早いのも苦手だから、ジェイスポーツで楽しませてもらった。ジャパンが敗退して、もう4年に一度のお祭りも終わった感があったが、準々決勝は、どれもしびれる試合だった。4試合中3試合が、80分、試合時間が過ぎても、どちらが勝つかわからない灼熱の攻防。見ているこちらも体中に力が入って、声も出るし、ジャパンの試合以外で、こんなにも興奮できるとは思ってもみなかった。ラグビーだと、2点差だとペナルティゴールで、4点差だとトライで、6点差だとトライ&ゴールで逆転できる。同点を経ることなく勝利をつかむというのは、何とスリリングなシステムかと、改めて思った。伝説の2015年、ジャパン対南ア戦も、3点差でラストプレーだった。ペナルティで引き分けを狙えるシーンで、リーチがスクラムを選んだ。あくまでも5点をとって勝つんだという意思を見せた。これが最大の山場だった。そして、見事に左端ぎりぎりにヘスケスが飛び込んだ。あの瞬間の体の震えは、今でも脳裏に焼き付いている。彼らは、勝っても負けても、その瞬間に命をかけている。折れそうになる心を奮い立たせて、もつれる足を叱咤激励して、必死にタックルに入り、鬼のように突進する。あんな体験ができるのは、一握りの人たちだけだ。その姿から、ぼくたちは感動をもらう。久しぶりにラグビーを堪能させてもらった。
2023年10月17日
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義父のお通夜、告別式が終わった。コロナ以来、家族葬が当たり前になったが、ぼくは、この流れはとてもいいと思う。家族葬と言っても、思わぬことが起こってくるものだ。義父の場合、札幌でやることは決めていて、娘2人と家族を入れて11人。プラス親戚が10人くらいの規模で準備していた。そしたら、義父の兄弟だけでなく、その子どもたちも参列してくれて、30人以上のにぎやかなお別れになった。家内にとっては従妹に当たるのだが、母親方の従妹とは親しくしていても、父親方は離れていることもあって、初めて会うと言う。お酒の好きな、明るくて気さくな人たちだった。葬儀場に雑魚寝したのだが、手早く布団を敷いてくれる。昔話は90歳になり義父の妹がよく知っていた。80年ほど前の写真を見ながら、この人はだれだれで、こんな人だったと、面白おかしく話してくれた。お通夜の席は、自然と思い出話になる。きっと、義父も聞いていたはずだ。お通夜や告別式の大切な役割は、思い出話と、何もなければ会うことのなかった人と出会えることだろう。だれかが言っていたが、お通夜や告別式は、「死んだ人のためではなく、生きている人のためのものだ」その通りだと思う。人は死によって新しい縁を作り出すこともできる。
2023年07月28日
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九州の大雨による水害。川の濁流は、テレビで見てても怖くなってくる。これ以上、被害が広がらないといいが。被災者の方、心よりお見舞い申し上げます。救援・救助に動いている方々、本当にご苦労様です。昔から、梅雨末期になると九州を中心に大雨が降ったが、これほどの雨は、ここ数年のことだと思う。地球に異変が起こっているな。ぼくは、1990年か91年。9月の初めだった。大雨でひどい目にあったことがある。伊豆の下田を襲った集中豪雨。取材からの帰り、伊豆急下田駅に向かうバスの、まさに真上に猛烈な雨が降ったのだ。乗客はぼくを含めて12人。まさかあんなことになるとは夢にも思わなかった。夕方3時ごろ。右に川が流れ、左は崖。バスが止まった。がけ崩れで道路がふさがれている。これは戻るしかないと振り返ると、後ろもがけ崩れ。民家が潰されているではないか。進めず戻れず。救援隊がくるまでバスの中で待つか。そう思った瞬間。大きな衝撃が。がけ崩れがバスを襲ったのだ。後方の車輪あたりだったので横転は避けられたが、バスは川岸まで横滑りした。次がきたら・・・。川に落ちてしまう。川は茶色く濁った水がゴーゴーと音を立てて流れている。落ちたらおしまいだ。落ちるかもしれない。崖を見ると、茶色い泥水が激しく流れ落ちている。怖い怖い。運転手も乗客も気が気ではない。おばさん方はバスを降りて、傘をさして右往左往している。動いていないと不安でたまらない。運転手がバスを降りた。「私は地元の人間なので、このあたりの地理はわかります。この山を越えれば駅があります。私はそこまで行きます。ついてくる人は来てください」そう言って、さっさと山の斜面を登り始めた。乗客はどうしていいかわからない。でも、ついて行くしかない。「行きましょう」ぼくはみなさんに声をかけて運転手の後を追った。みんなが後に続いた。雨中の行進。高齢のおばあちゃんがいたので、ぼくが手を引いて、「大丈夫だから」と励ましながら歩いた。1時間半ほどかかって駅に着くと、運転手さんが連絡をしてくれていたのか、救助隊がやってきた。助かった。線路を歩いて次の駅まで行き、バス会社が準備してくれていたスーパーで下着や洋服を買い、民宿に行って、お風呂へ入って、おむすびをいただいた。ビールも飲んだかな。気持ち良かった。おいしかった。あのとき冷静に行動できた自分を、ほめてあげたい。おばさん方のグループから、「あなたがいたので助かりました」というハガキをもらったもの。
2023年07月11日
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実家には古くて深い井戸がある。ぼくが子どものころは、水道がなかったので、飲み水も風呂の水も洗濯も、もっぱら井戸の水に頼っていた。滑車でくみ上げていたような記憶がある。手押しのポンプもあったように思う。冷たくておいしい水だった。冷蔵庫がないので、果物はかごに入れて井戸に吊るしておく。いい感じに冷える。この井戸を復活させようと、業者の方に来てもらっている。今日も来てくれたようだが、「お金をかけてポンプを設置するのはもったいない」と専門家が言うくらいの、わずかな水量しなかい。「どうする?」次女から電話があった。ぼくには迷いはなかった。単なるノスタルジーに過ぎないのかもしれないが、「この井戸を復活させる」と決めたのだから、やるしかない。長年放置されていた井戸が、次女たちが住むようになってから、気にしてもらえるようになった。実際に業者を呼んで行動を起こした。とても喜んでいるように思えて仕方ないのだ。井戸には神様がいると言われている。放置しておいたことは申し訳ございませんでした。これから大事に使わせていただきます。そんな思いがあれば、必ず力をお貸しくださるはずだ。
2023年07月04日
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ヤギの本を読んでいて笑ったのは、ヤギが仮病を使うという話。ある実験に使われたヤギ。実験室へ入るときには必ずびっこを引くのだそうだ。飼育小屋へ帰るとすたすたと歩いている。うちの子では仮病らしきものは見られないけど。知り合いから面白い話を聞いた。ある人が上司に愛犬の散歩を頼まれた。言うことをきかない生意気な犬だった。早く散歩を終わらせたいのに、立ち止まって動こうとしない。「何やってんだバカ、歩け」と頭をポカリ。仕方ないなあと歩き出す。でも、しばらくすると止まる。ポカリ。その繰り返し。すっかり険悪な関係になってしまった。上司の家へ帰った。上司の姿を見るや、その犬は、突然、足を引きずる。「痛い、痛い」と言っているかのように、いかにもつらそうな顔。「どうした、どうした」上司が頭をなでる。「何かあったのか?」上司ににらまれる。「別に何も・・・」上司は完全に犬を信じている。そんなことが何度か続いて、彼は犬の散歩をクビになってしまったとさ。犬の勝ち!動物、あなどれないぞ。
2023年06月24日
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このごろ寝つきが悪い。一番の原因は日ごろの肉体労働で体が痛むことだと思う。首から背中にかけて痛みがあって、眠りに集中できない。眠りにつくまでの時間は、妄想で楽しんでいる。たぶん、うつらうつらしながら、徐々に眠りに入るのだと思う。やがて、痛みを忘れてすーっと眠れる。昨夜はいい夢を見た。天使が降りてきた。天使と言っても、背中に羽が生えているわけではない。若い小柄な女性。とてもやさしくて、気がきいて、彼女がそばにいると心がぽかぽかする。彼女は、ぼくのことだけ大事にしてくれる。「天使だ」ぼくは思った。思いもよらぬことで表彰されることになった。夢の中だよ。びっくりしながら賞状とか賞品を受け取る。そばに彼女が付き添ってくれている。すごく安心している自分がいる。守られているという感じがする。まわりの人にも彼女の姿は見えているみたいで、ぼくと彼女が特別な関係だということがすぐにわかる。それくらい、ぴったりのエネルギー。こういう夢を見ているときは、起きるのが惜しくなる。夢だということはわかっている。忘れないように、夢の内容を言葉にして、記憶に刻み込む。5時に目覚ましが鳴った。静かな音に設定してある。停止ボタンを押して、目を閉じる。いつもなら、目を開けたとたんに消えていく夢だが、今朝は、心のポカポカ感と一緒に、内容も鮮明だ。続きが見られるような期待感もある。続きはいつかのお楽しみにして早起きをしたが、今日はいい一日になりそうだ。ありがたいな、うれしいな。こういうささいなことに喜びを感じられるぼくは、幸せになれる素質があるのだと思う。
2023年05月02日
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結婚した次女の氣恵が鈴鹿で暮らすことになった。一昨年の秋に一人暮らしだった母が倒れてから、ぼくの実家が空き家になっている。そこに住んでくれるというのだ。週末は3人で3匹の犬たちを連れて実家へ帰った。いったん山梨へ戻り、今週中には引っ越しをすませてしまうようだ。感慨深い。ぼくは、18歳で実家を出て、あちこちを転々とした。実家は弟に任せて、もう帰る気はなかったが、彼は49歳で亡くなってしまった。実家が空き家になって朽ちていくのは悲しいもので、どうしたらいいか答えの出ない悩みの中で迷走していた。そしたら、急転直下、次女が結婚、鈴鹿に行くと言い出した。今回は、片付けのために帰ったわけだが、犬たちが家の中や庭を走り回り、人が出入りするようになって、家が生き返った気がする。20軒ほどの小さな村で、ほとんどが高齢者。そこに彼女たちが住んで、波風が立つことになるだろうが、何とかしないと10年後には住人がいなくなってしまう瀕死の村だ。カンフル剤になってエネルギーを注入してほしい。「若い夫婦が移住したことで、村がよみがえる物語を作っておくれ」ぼくの願いだ。もちろん、ぼくもできるだけの協力はする。自分の故郷だから。
2023年04月24日
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札幌の義父。91歳。倒れて何ヵ月かになる。2月の次女の結婚式には出席することができた。ずいぶんとやせてしまったが、意識もしっかりしているし、ほっとした。全身の血管が硬くなっているそうだ。血流が悪くなって、片足のすねから下の色がどす黒くなってきているというので、弘美が主治医に相談にいった。何とか血栓を取り除くことができて、血流をぎりぎりのところで取り戻せた。足を切断ということになったら大事だったから、家族で胸をなで下ろしている。弘美は、父親のこれからの希望を聞いてみた。家へ帰りたいということならその段取りをしたいし、もし良かったら山梨へ来ないかということも言った。そしたら父親は、「山梨へ行く」と言ってくれたそうだ。札幌から山梨までというのは、けっこう体にも負担がかかりそうだし、心配もあるが、主治医は「大丈夫だろう」と言ってくれているし、ここは、本人の希望通りにしてあげたいと思っている。幸い、次女の婿の知り合いが介護施設を経営しているそうなので、近いうちに、そこを見に行こうと思っている。鈴鹿で一人暮らしをしていたぼくの母親も、倒れて寝たきりになって、どうしようかと悩んだが、思い切って山梨へ連れて来た。知り合いが経営している高齢者や障がい者、病人を移動させるサービス会社のおかげで、快適に山梨の病院に入った。コロナであまり面会はできなかったし、富士山を見せてあげられなかったが、少なくとも、ぼくは安心できたし、母とも手を握ってお別れをすることができて良かったと思っている。自宅で最期を迎えたかったのかなと思ったりもするけれども、孫たちとも会えたし、きっと母も喜んでくれたことだろう。ぼくの両親もいなくなり、弘美の母親もかなり前に亡くなっている。最後の親の看取りが近づいている。面会も自由にできそうだし、早く山梨に来ないかなと、ぼくたちは首を長くして待っているところだ。
2023年04月18日
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前歯がやっと治った。根っ子から折れていたので、入れ歯で仕方ないと思ったが、何とかぎりぎり差し歯が可能だった。ただ、あまり強い力がかかると折れる危険性があるので、固いものを食べるときには注意しないといけない。次は左下の奥歯。縦に真ん中で割れたので、半分だけ抜いた。抜けた部分にブリッジで補強するとのことだ。時間はかかるが、ていねいに治療してくれるので助かる。80歳くらいまでは自分の歯でいたいものだ。ということは、あと10数年。歯もそうだし、耳も聴こえにくくなっているので、ケアしないと。目も良くないな。老いと仲良くするには、精神面ばかりではなく、肉体も大切にしないと。だけど、山梨へ来て、肉体労働をするようになって、体重はベストの64キロくらいになったし、体もしまった。これは、うれしいことだ。
2023年03月10日
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今日は67回目の誕生日。31回目の結婚記念日。いつの間にかという気もするが、振り返れば、いろいろあった。10代のころはあまり記憶に残ってない。特に高校時代は薄い日々だった。大学へ入って、授業はさっぱりわからず、劣等生を体験した。学校に適応できず、少しずつ社会の矛盾を感じ始めた時期だった。へたくそだったがラグビーが大学生活の中心だった。ラグビーがなかったら不登校になってたかも。今でも、ラグビーを見るのは数少ない趣味。一生の楽しみをもらった。大きな会社へ就職した。しかし、続かなかった。「どん底へ落ちるかもしれない」と悩み、「落ちてもいい」と辞めた。鈴鹿の実家へ帰りアルバイト生活をして、名古屋で再就職、そこも3年しか続かず、27歳のときに東京へ出てフリーライターとなった。30歳でヨーロッパを1ヶ月ほど回ってきた。32歳で中国4ヵ月ほどの旅。ここで気功を知る。真氣光の中川雅仁先生、ホリスティック医学の帯津良一先生と出あい、人生が大きく変わった。帰国後、気功やがんの代替療法を取材して回った。イルカとあって、それを本にしたらベストセラーになった。華の30代だった。結婚もした。39歳で長女が生まれた。その年、中川先生が亡くなった。精神的にも経済的にも大きなダメージだった。中川先生は、何をやっても長続きしないどうしようもないぼくを、本を出して、まわりから「先生」と呼ばれるまでにしてくれた恩人だった。講演会や研修会で人前に立たせてもらって、ギャラもくださった。会報誌の原稿料もありがたかった。結婚相手の弘美とも、先生の研修会がきっかけで知り合った。イルカとの縁も先生だった。次女、三女が生まれたけれども、収入は激減し、ぼくはけっこう能天気だったが、弘美はお金の工面で、ずいぶんと苦労したと思う。しかし、あちこちから仕事の声もかかってきて、自分の足で歩き始めることができうようになったのは、50代になってからかな。40代は、不惑どころか、惑いっ放しだった。50代でも長女の不登校があったりして、まだまだこころは揺れ動いていたな。このころは、帯津先生が心の師として、ぼくにはなくてはならない存在だった。欲張らず、こだわらず、流れに任せて生きていく。中川先生に基礎をもらい、帯津先生を見て、少しずつ身に付いた生き方だった。弘美にも助けられた。娘たちの存在も大きかった。60代で、両親と妹、弟が亡くなった。心にぽっかりと穴が開くというのは、ああいう状態を言うんだという体験をした。山梨移住があって、ヤギーずとの暮らしが始まった。友だちが亡くなったり、病気になったり。いろいろ考えさせられた。氣恵が結婚して、鈴鹿で暮らすと言い出した。故郷の小さな村を何とかしたいと思っていたぼくとしては、ありがたい話だ。甲州市、鈴鹿市の二重生活が始まると思う。ぼくの人生も終盤に入った。いのちは永遠に続くとは言え、小原田泰久としての今生を、きちんと仕上げておかないと。今年は、移住も3年目になるので、きちんと本にまとめようと思う。いのちのことをもっと考えてみたい。そして、この激動の時代の生き様を、実践で表現したいとも思っている。「イルカみたいに生きてみよう!」の実践版だ。ヤギーずも、いろいろ教えてくれる。たくさんのお祝いメッセージもいただいた。ありがとうございました。ぼくは、本当に人に恵まれている。いい人生を生きている。これからも小原田泰久らしく、肩の力を抜いて、のんびり、ゆっくり生きていきたいと思う。
2023年03月06日
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入れ歯を覚悟したけれども、ぎりぎりのところで差し歯にできるようだ。わずかに残った根っ子に、土台を作るところまで終わった。並みの歯医者さんだったら、問答無用で入れ歯になっていたと思う。ぼくも覚悟していた。歯科治療のことなどさっぱりわからないから、すべてお任せということになる。「できたら歯を残したい。入れ歯は避けたい」と、希望を伝えることができたので、歯医者さんもいろいろ考えた上、根っ子を残す治療に取り組んでくれたのだと思う。もちろん、希望通りにできるかどうかは歯の状態にもよるし、歯医者さんの技術力もあるだろう。子どものころから長期の休みには必ず歯医者に通っていた。小学生のころから、前歯に金がはまっていた。笑うときらりと金歯が光る。変な子どもだった。それから考えれば、左の奥の親知らずを抜いただけで60代後半を迎えているのは驚きだ。歯を残すには歯茎を健康に保っておかないといけない。歯磨きが大事だが、歯だけをごしごし磨いても歯茎が劣化して、歯がダメージを受ける。なぜ歯茎が炎症を起こすのか。ぼくは、くちびると歯茎の境目がポイントだと思う。ここに、食べカスがたまる。ほとんどの人はそこを掃除しないので、食べカスが腐って、歯茎の炎症へとつながっていく。はぶらしをぐっと突っ込んで磨いてみるといい。臭いにおいが口の中に広がったり、痛みがあったりする。毎日歯ぶらしをつっこんで付け根を磨いていると、においも痛みもなくなる。それで歯周病の予防になると、ぼくは思っている。しばらくさぼっていたので、今回のような大工事になってしまったのかもしれない。
2023年02月08日
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弘美の占星術によると、今年の弘美と氣恵はとても運勢がいいということだ。特に、「移動」することが運勢を高めるのだと言う。そういう意味で、氣恵が鈴鹿に引っ越すことは大正解だ。ぼくの実家があるのは、鈴鹿市の南部にある20数軒の小さな集落。高齢者ばかりで、10年先はどうなっているのか、明るい未来を想像できる住民はいないと思う。そこに、氣恵夫婦が住む。常識の枠にははまり切らない夫婦なので、静かに暮らしている老人たちは戸惑うかもしれないが、いいカンフル剤になると思う。ぼくもこれまで以上に、頻繁に帰って、村に人が集まるような仕掛けをしたいと思っている。それにプラスして村に引っ越したいという家族が現れた。ぼくのいとこの娘一家。30代の夫婦と幼い2人の女の子。母が亡くなり、先祖代々の土地をぼくが引き継いだ。田んぼや畑、山林で、田んぼは米作りを委託しているが、ほかは放置してある。あちこちに点々とあって把握し切れない。有効に使えないものかとずっと思っていたが、彼らが、この村を気に入ってくれて、畑の一区画を譲ってくれないかと言う。150坪くらいかな。最高の展開ではないか。上の子が来年は小学校へ入る。それを機に家を建てたいので、場所を探していたようだ。夫の方は、ときどき実家の竹藪の整備に来てくれている。キャンプやツーリングなどアウトドアが趣味で、山や竹藪をきれいにしたかったという奇特な男だ。5歳の娘もたまに付いてきて、この村がすっかり好きになったと言う。時を同じくして、2組の若い夫婦が越してくるなんて、画期的なことだ。それも住むだけということではなく、村が活性化する活動をしてくれそうな2組だ。ぼくも絡みながら、先のない高齢者の村がよみがえっていくのを見てみたい。楽しみな流れになってきた。
2023年02月07日
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仕事で東京へ。いつもは日帰りだが、珍しく1泊2日。高尾に用があったので、各駅停車の旅だ。電車に乗って、スマホで仕事の予定を確認しようとした。ない!忘れてきた。ギリギリまで充電していて、そのまま置いてきてしまった。「どうしよう」取りに帰るわけにはいかない。2日間、スマホなしで過ごしてみるか。「それもいい経験だ」と腹をくくろうとしたが、不安で仕方ない。こういう精神状態では良くない。携帯電話などない時代を平気で生きてきたのに、一度経験した便利さは手放せなくしまう。電車が次の「勝沼ぶどう郷」駅に近づく。ここで降りるか。でも、辺ぴな駅で公衆電話はあるだろうか。あれは、妻に連絡してスマホを届けてもらうという手がある。約束の時間には間に合わないかもしれないが、その旨、連絡ができる。でも、公衆電話がなかったら。だれにも連絡ができない。どうする! どうする!電車が止まった。ドアが開く。出ようかやめようか。躊躇していると、何と、反対方向の電車がやってくるではないか。これに乗って塩山に戻ればいい。塩山には公衆電話はある。妻に電話をして届けてもらおう。次の特急に間に合う。高尾には止まらないけれども、メインの池袋での打ち合わせには楽勝だ。そんなわけで、スリル満点の東京行きだった。それにしても、スマホの存在は大きいことにがく然とした。こうやって人は文明に毒されていくのだ。そして、ぎりぎりのところで救われるものでもある。
2023年02月03日
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昨年は母親が亡くなり、鈴鹿の実感が空き家になってしまっている。わずか20軒ほどの小さな集落。年寄りばかりの村になっている。このままだと近い将来、消えてしまう。村の人たちも、そのことを憂慮しているけれども、手を打つこともできない。母が倒れてから、いろいろなことがいろいろなことが起こってきた。まず去年の正月。いとこの家へ遊びに行ったとき、はじめて紹介されたのが、いとこの娘婿。彼が、「竹藪の手入れをしたい」と申し出てくれた。実家の周囲にはたくさんの竹藪がある。タケノコは絶品だが、このままだと村を飲み込んでしまう勢いで竹が生えている。アウトドアが大好きで、竹藪とか山の整備がしたくてたまらなかったと言うのだ。願ったりかなったりだ。彼は土日になると実家の前の竹藪に入って、きれいにしてくれている。おかげで、去年の春のタケノコ掘りは楽だった。彼は間もなく40歳。奥さんがいて、年中の娘。去年2人目の娘が生まれた。つい昨日の話だ。「相談があります」彼から言われた。「再来年は長女が小学校へ上がります。家を建てようと思っています。土地を譲ってくれませんか。家族全員、あの村が気に入っているんです」ありがたい話じゃないか。ぼくも、彼ら一家がうちの実家に住んでくれればと思ったこともあったが、彼らは村はずれにある、うちの畑に新居が建てられたらと思っているようだ。実家は、次女が住もうかと考えているみたいで、準備を進めている。若い人たちが住むことで、村は間違いなく活性化する。彼がやっているような竹藪の手入れ。キャンプの好きな若者が集まって、自分たちが気に入るようなキャンプ場を作ってもいい。竹は資源だ。事業にもなる。ぼくは、前々から、自然エネルギーの村にすればいいと思っていた。ソーラーシェアリングシステムとの出あいで、これも一部は実現できそうだ。村のお寺は、住職もいないし、檀家も減っているので、維持するのにぎりぎりのところだ。売電でどれくらいの収益があるかわからないが、お寺の維持に使えばいい。あるいは、村の財政に寄附する。そうすれば、うちの土地でもやってみようという人も現れるのではないか。太陽光パネルの下で、無農薬のイチゴを作る。ノウハウは教えてもらえる。いちご狩りは人でにぎわうよ。この利益の一部を村に還元する。ぼくの培った人脈を使って、勉強会を開く。魅力的な会を作るのは、ぼくは得意だ。さらに、ものすごくご利益のあるお地蔵さんが、この村を守ってくれていることもわかった。2体もある。お年寄りに話を聞くと、2体ともに目を治すのが得意なのだそうだ。実際に目の病気で悩む人に効果もあるのだろうが、「視界が広がる」と考えれば、運勢を良くするパワーがあるのだとぼくは思う。困っている人、悩んでいる人を救うこともできるわけで、もっときちんとお祀りしたい。ちょっと手を加えれば、過疎の村が、とんでもなく魅力的に変貌する。過疎だからこそ、手を加えることができる。「こんなとこ、住みたくないわ」ほとんどの住人がそう思っているけれども、そんなことはない。ぼくは、自分が生まれた村を再生させたいし、ひとつのモデルとして、世の中に発信していければと思っている。そういう面で、若い人たちが味方についてくれるのは、この上なく頼もしい。面白くなってきたぞ。
2023年01月21日
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映画「地球交響曲」の龍村仁監督が亡くなられたそうだ。1番から9番までの9作品。大きな仕事をされた。1番が初めて上映されたのが1992年。「地球の声を聴こう」というキャッチフレーズは新鮮だった。ダフニーさんと象のエレナの交流。アフリカのだだっ広い国立公園。ダフニーさんが呼ぶと、エレナが姿を現す。感動のシーンだ。こんな人がいるんだと驚いた。2番は佐藤初女さんだ。おむすびで人を癒す。映画をきっかけに、講演を頼んだり、初女さんが主宰する森のイスキアへ何度も行ったりした。やっぱり「こんな人いるんだ」という驚き。3番はカメラマンの星野道夫さん。ぼくは、カナダのマデレーネ島へ行ったとき、偶然にも星野さんとお会いできた。そのとき彼のことを知らなかった。いろいろ話をして、ここでも「こんな人いるんだ」と心が洗われた。彼が亡くなり、彼の足跡を龍村監督は追った。試写会に行ってずっと涙が止まらなかった。監督とも何度もお会いした。とにかくエネルギッシュ。そして、見えない力に身を任せる覚悟というものがあった。「イルカが教えてくれたこと」という本では、この映画が巻き起こしたうねりについて書いた。この映画のすごさは、内容もさることながら、自主上演という仕組みを作ったことだ。映画というのは映画館で観るものだった。しかし、常に観る側だったぼくたちが、フィルムを借りて、会場を決め、人を集めて、上映会をやった。ぼくも何度もやった。500人1000人が入る会場での上映会。そんなチャンスなど普通はない。でも、仲間を集めて、勢いでやってしまうと、できてしまう。1000人の会場がいっぱいになったときの迫力はすごい。素人だから混乱もする。しかし、終わったあとの満足感、達成感。得難いものだ。映画で人と人とのつながりを作る。社会を動かす。ぼくにとって、とてつもなく大きな経験になった。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。ああいう方は、ひと通り過去を振り返ったら、「これが死後の世界か」と、興味津々、動き回るはずだ。次は、「黄泉の国交響曲第一番」かな。
2023年01月03日
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3・11を超える大災害が2025年7月に起こるという予言がある。「私が見た未来」という漫画にある。作者は、たつき諒さん。彼女は、長い間夢日記をつけていて、夢の内容が現実に起こることがたびたびあるのだそうだ。2011年3月11日の東日本大震災も夢で見て、1999年に出した本の中に書かれている。ほかにも、たくさんの正夢を見ている。いろいろな人が、2025年とか2031年といった年号を口にしている。大災害があって、人類滅亡の危機に瀕するというような話だ。ぼくは、年号はともかく、地球に大変動が起こるのは避けられないような気がする。今も、その経過の中にあるのではないか。やがて決定的なことが起こるのではないか。予言者ではないぼくたちも、何が起こるか、潜在的に知っているはずだ。忘れていても、夢で見た未来は、確実に潜在意識にインプットされている。敏感な人は、その対策というつもりはなくても、知らず知らずのうちに、動いている。動かされている。ぼくは、山梨での生活が3年目になり、今年は、鈴鹿でも動き出そうと思っている。もう60代後半。大人しくしていれば、何とか死ぬまでやっていける。にもかかわらず、動こうとする自分が抑えられない。なぜ、そんなことをやろうとしているのか、数年後にはわかる日がくるというわけだ。ぼくだけではない。たくさんの人が動き出している。野生の動物たちは、災害を予知して、安全なところへ逃げ出す。人間にも同じような能力があるはずだ。
2023年01月02日
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Facebookの投稿で、後輩の死を知った。大学で一緒にラグビーをやった。彼は一浪しているから同い年だ。ぼくは早生まれで66歳だから、67歳かもしれない。最後に会ったのはいつだったか。ぼくが東京で作った草ラグビーのチームで、何度か試合に出てくれた。30年以上前になる。そのころ、彼は大手のアパレルメーカーに勤めていて、「工場長になるんだ」と張り切っていた記憶がある。千葉県津田沼のグランドで試合をした。終わってからゴールポストを片付けていた。サッカーとの共用グランドだから、ゴールポストは取り外し式になっていた。みんなで、バーを取り外していたら、それが落下した。そして、彼の頭に当たった。大けがにならなかくて良かったが、試合よりもインパクトのあるシーンだった。諏訪だったかでやった合宿にも、フェアレディZに乗って、さっそうとやってきた。帰りに同乗させてもらったが、気が狂ったようにぶっ飛ばす。なんでこいつに乗せてもらったのだろうと後悔するような、冷や汗の帰路だったのを思い出す。その後、彼の勤める会社は傾いてしまったし、故郷の知多半島に帰ったと、風の便りに聞いていたので、きっと会社を辞めたのだろうと思う。彼の後半生をぼくはまったく知らない。何を考え、何をして、数十年を生きたのか。そして、どんな亡くなり方をしたのか。若いころしか知らなくて、ずっと記憶の外にあった人が、訃報によって、突然記憶の内側に入ってくる。不思議な感覚だ。ご冥福をお祈りします。
2022年12月15日
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ついに入れ歯になる。左の奥歯のかぶせものがとれて、しばらくそのままにしておいたら、バランスが崩れたのだろう、右上の前歯がぐらぐらしてきた。歯医者さんで診てもらったら、奥歯は縦に割れているし、前歯は歯肉の中で横に折れているとのこと。「これは入れ歯ですね」ということになった。生後5ヶ月で歯が生え始めた。そのせいか、ひどい歯並び。その上、歯磨きもいい加減だったので、子どものころから、夏休み、冬休み、春休みは歯医者通いだった。小学生のときに前歯が虫歯になって、金歯になった。金歯とは25歳くらいまで付き合った。数年に一度は口の中の大工事。祖母が40歳そこそこで入れ歯になったという話を聞いていたので、ぼくも、自分の歯が長持ちするとは思っていなかった。だから、66歳まで抜いたのは左の下の親知らずだけですんだのは、ぼくとしてはラッキーだと思っている。けっこう歯がボロボロになってから気づいたのは、歯磨きは、歯ばかりをきれいにしてもダメだということ。大事なのは、歯茎であって、特に、くちびると歯茎の間をきれにしておかないといけない。歯茎の隅に食べ物のカスがたまり、それが腐敗して、歯茎が炎症を起こす。虫歯菌が繁殖したり、歯周病になって、歯を支えきれなくなってしまう。そのことにはずいぶんと前に気づいて、しばらくは歯茎掃除をまじめにしていたのだが、いつの間にか忘れてしまっていた。あらためて、しっかりと歯と歯茎の掃除をしようと思う。
2022年12月04日
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「原発を止めた裁判長」というドキュメンタリー映画が、静かに広がっている。原発を止めた裁判長、樋口英明さんの樋口理論を柱に、原発事故ですべてを失った農家が復活しようと新しい試みにチャレンジしている姿を描いている。農家が取り組んでいるのは、ソーラーシェアリングという自然エネルギーシステム(太陽光)。原発という巨大な発電システムの危険性は、彼らは嫌というほど知った。でも、電気のない生活は難しい。となると、自分たちで電気を作ればいいじゃないかという発想に至った。それも安全な自然エネルギーで。太陽光発電はどうだろう?彼らとしては、農地を使えなくしてしまう発電方法には疑問があった。山に作れば、木が切り倒される。大切な自然を壊すことになる。そこに登場したのが同じ太陽光発電でも、3メートルほどの支柱を立てて、その上にパネルを乗せるというソーラーシェアリング。営農型太陽光発電と言われていて、上では発電ができて、下では農業ができるというものだ。広い土地にこのシステムを導入し、農業をしながら、電気も作ろうという試みだった。ぼくも、太陽光発電には素直に「Yes」と言えない。山梨でも元果樹園にパネルが並んでいる景色が広がっているが、果たして、これでいいのかと疑問があった。だから、「ソーラー」と言われた瞬間に拒否反応が出た。しかし、ソーラーシェアリングのことを映画で知って、これならいいかもと思えるようになり、今回、その開発者である長島彬先生に会いに行ったのだ。79歳の長島先生。子どもみたいな無邪気な人だった。こういうタイプの人が、世の中をいい方向に変えていく。これだったら、エネルギーの自給自足ができる。実際、長島先生の実験場では、畑に作ったソーラーシェアリングの施設で、住居の電力をまかない、その下では、タマネギなど野菜畑が作られていた。簡単に組み立てられた上、パネルが小さく角度もないので大風にも強い。撤去も楽々。反射もない。適度な日陰ができる。中古のコンパクトカーを買うくらいの予算でできる。これはいける。ぼくの直感だ。鈴鹿の実家を改装するときには、これは必須かもしれない。今、いくつかのメーカーが取り組んでいるが、強い風が吹いたときの安全性が問題だそうだ。長島先生は、それをクリアした新しいシステムを作り上げた。ぼくが「いい」と思ったのは、長島先生が新しく開発したものということで理解していただきたい。
2022年11月10日
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東京の渋谷に「門茶庵」という居酒屋があった。山小屋風のいい雰囲気のお店だった。四半世紀も前の話だ。渋谷駅の南口を出て、公衆トイレ(今はないかな)の横の歩道橋を上り、国道246を渡って、山手線沿いに歩いていくと、ツタのからまる無人のマンションがあって、その先の三差路を右に上ると、左側にひっそりと待ってくれている。今では高層ビルが立ち並ぶにぎやかな場所だが、あのころは、渋谷の中でも開発の遅れていた場所だった。1984年、フリーライターとして東京で働き始めた。お世話になった雑誌の編集部がすぐ近くだったことから、仕事を終えたら、この店に寄るのが日課だった。ママさんとマスターは、同棲の走り。上村一夫の「同棲時代」のモデルだったそうだ。そういう先進的な夫婦だから、ぼくが相談しても、当たり前の答えは返ってこない。本当に勇気づけられた。中国へふらりと行こうと思ったときも、まわりは、「30歳も過ぎて、落ち着いた生き方をした方がいい」とアドバイスしてくれた。しぼんでしまいそうなぼくの背中を押してくれたのが、ママとマスターだった。思い切って行った中国旅行で、ぼくの人生は大きく変わったのだから、感謝してもしきれな恩人というわけだ。久々に門茶庵へ行く夢を見た。現実の門茶庵は20年以上も前に閉店している。2人は、北九州市へ移住した。夢の中の門茶庵は、海沿いのおしゃれな場所にあった。テラスからはサーファーたちが遊んでいる姿が見られる。湘南の景色だが、ぼくは渋谷に行ったつもりだ。昔の3倍はあるフロア。たくさんの若者であふれている。軽快な音楽が流れて、そこをさっそうと歩くママさん。ショートカットの髪はシルバーに染められている。かっこいい。マスターは厨房で忙しく働いているのだろう。姿が見えない。若者たちが囲んでいるテーブルに案内される。相席で仲良くなるのが、このお店のルールだ。ママさんは、お客さんが入ってくると、この人に必要な人は? とぱっとわかるみたいだ。初対面にもかかわらず、すぐに盛り上がる。ぼくは、初めて会う人とはなかなか打ち解けられないのだが、このお店では、何のプレッシャーも感じない。そんな夢だった。夢がメッセージだとしたら、この夢にはどんな意味が込められているのだろうか。忘れないでおこう。それにしても、ママさんとマスター、もう80歳を過ぎているが、元気だろうか?
2022年10月27日
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変な夢を見た。超能力者になった夢。ガラスのコップをもっていた。あれっ。まるで紙コップのように握りつぶせてしまう。別のコップをもっても同じことが起こった。スプーン曲げができるかも。スプーンは簡単にぐにゃぐにゃになった。外国人がやってきた。ぼくは英語ができない。「ハロー」と声をかけた。彼は英語で話すのだが、ぜんぶわかってしまう。それも、話す前に日本語がぼくの頭に飛び込んでくるのだ。彼がしゃべろうと思った瞬間、言葉として出る前に、ぼくにはわかってしまう。コップにしてもスプーンにしても会話にしても、役に立つかどうかわからないが、面白い夢だった。66歳にして、脳の回路に変化が出てきたような気がする。生活の変化によって、これまでOFFだった遺伝子がONになったのかもしれない。面白いことが起こってきそうな予感がする。
2022年10月01日
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『空白を満たしなさい』を読んで、こりゃすごいと思った。平野啓一郎さん。芥川賞作家。もちろん前から名前は存じ上げていた。でも、難しい内容の本だろうと思って読もうとしなかった。食わず嫌いだった。読みやすく、内容が深い。次は何を読もうか。『マチネの終わりに』が気になった。38歳の男性ギタリストと40歳の女性ジャーナリストの切ない恋の物語。コミックになっていることもわかったので、まずは物語の流れを知りたくて読んでみた。なるほど。みんな一生懸命に幸せになろうとしている。でも、それぞれベクトルが違うのですれ違ってしまう。次は映画。福山雅治と石田ゆり子。コミックとはイメージが違ったが、石田ゆり子はすてきだな。コミックと映画の感想。静かに深く物語が進んでいく。残念ながら、ぼくの心は安定したままだった。ほぼ筋を追うだけに終わって、のどに小骨が刺さった感じで読み終わった、見終わった。一冊しか読んでないが、平野さんの作品は、多面的に人の内面をあぶり出して、人の奥深くに潜んでいる、かなしみ、迷い、生きる矛盾を伝えてくれているような気がする。心や魂といった部分にアクセスしている。だから、絵や映像での表現が難しい作品かもしれない。原作では、登場人物の内面をどのように表現しているのだろうか。興味がわいてきた。読み始めた。前半は淡々と物語が進んでいく。コミックや映画で筋を知っているから、ぼくの感情が揺り動かされることはなかった。あるところから、急に嵐がやってきた。どのあたりだっただろうか。いや、最初から静かな波はあった。知らないうちに波は大きくなり、気がつけば嵐になっていた。気がついたら外は大雨になっていたという感じだ。雨はかなり前から降っていて、雨音は聞こえていたのに、音も気配も意識しないまま時間が過ぎて、ふと気がついたら、「ザーッ」という激しい音が飛び込んできた。カーテンを開けて外を見た。稲光が町を照らしたかと思うと、激しい雷鳴が轟く。泣きながら小説を読んだのは久しぶりだった。読み終わったあと、ぼくは、無性に映画をもう一度見たくなった。原作で登場人物の心のひだに触れたあとでの映像は、とても新鮮だった。心に響いた。さらっと流した場面が突き刺さってくる。感情移入が始まる。福山雅治や石田ゆり子が、最初に見たときとは違う人物になっていた。最後は泣いた。しばらく余韻に浸っていた。原作があって、それが映画化されたりコミック化される。原作にこそ真髄が詰まっているのだと思う。たぶん、小説と映画とでは脳の働く部分が違うのだろう。映画やコミックなら、登場人物が固定されてしまう。福山雅治だったり石田ゆり子だったり。しかし、小説では違う。「洋子は走った」そんな文章があったら、走っている洋子さんを自分の頭の中で作り上げないといけないのだ。髪型は?服装は?体型は?バッグをもっているのだろうか?表情は?・・・小説を読んでいるときには、瞬時に、登場人物の姿を頭の中に描いているはずだ。イメージという面では、映像化されたものよりもはるかに自由度が高い。原作を読んでから映画を見るか。映画を見てから原作を読むか。難しいね。作品にもよると思う。『マチネの終わりに』では、コミック、映画、原作、映画という順番で見たり読んだりしたが、いきなり原作を読んだら、どうだったのだろう。面白い体験をした。平野さんの本は、もっと読んでみたいと思う。
2022年09月29日
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ニュースを見ていて驚いた。子どもたちの合唱コンクールがあったという話だったが、全員がマスクをして歌っていた。あれでいい声が出るのだろうか?ここまでする必要があるのだろうか?サッカーやラグビーは、接触スポーツだから、もっと感染のリスクは高い。こっちの方がマスクが必要な気がする。外だからいいのか。それなら、ボクシングや相撲は?ぼくは幸いにも田舎に住んでいるので、週に一度くらい町に出るときに、お店に入るのにマスクをする程度。買い物をする間の20分とか30分で、息が苦しくなってくる。駐車場に出て、マスクをとったときのさわやかさ。マスクを外して、新鮮な空気を胸いっぱいに吸った方が、免疫力も高まって、感染しにくくなるのではと思ったりするが。何十年か前、雑誌か本に未来予言が出ていて、「町を歩く人みんながマスクをする時代がくる」と書かれたいたのを覚えてる。ぼくは、大気汚染でガスマスクをしている姿をイメージして、そんなバカなと思ったけれども、予言をした人は、今の状態を見ていたのだろうな。みんながマスクをしている社会。異常だと思う。本当にしないといけないのか?効果があるのか?きちんと検証してほしいものだ。
2022年09月12日
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母の四十九日の法要を鈴鹿の実家で執り行った。65年くらい暮らした場所だ。5歳から85歳まで、20人ほどが駆けつけてくれた。賑やかなお別れの会になって良かった。母が倒れたのが去年の10月。11月には介護タクシーで山梨へ連れて来た。いったんは回復する様子があったが、次第に弱っていき、施設に移ってからは、食事の量も少なくなった。コロナでほとんど会えなかった。7月も後半になって、施設から何度も電話が入るようになった。食事がとれなくなってきたということだった。そろそろ終わりの準備かなと思った。7月27日、個室へ移ったので面会できるとの連絡があった。次女の氣恵と駆けつけた。母はベッドの上でぼんやりとぼくの顔を見た。手を握って、「ありがとう」を繰り返した。覚悟はしていたが、涙があふれた。29日、長女と三女が山梨へ来ることになっていたので、みんなでお見舞いに行く予定だった。12時半ごろ、「急変して・・・」という電話があった。施設へ行くと、すでに母は旅立っていた。80歳を過ぎてから苦労やかなしみの連続だった。苦しくてつらい日々だった。それでも1人でがんばれたのは、親戚や近所の人の支えがあったから。母が亡くなって、まわりで支えてくれた人たちのありがたさが身に染みる。不義理ばかりをしてきたぼくに対しても、こんなに親切にしてもらっていいのだろうかと恐縮するくらい、世話を焼いてくれる。母も、最期に、お世話になった人たちに囲まれて、喜んでくれたことと思う。暑さも峠を越えて、台風で天気の心配があったが、好天に恵まれ、母のがんばった一生を祝ってくれた。ご苦労様でした。
2022年09月06日
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高校野球は今日が準決勝だけど、優勝候補の大阪桐蔭がいない。どう転んでも優勝だと思っていたから、ちょっとびっくりだね。ぼくはスポーツはよく見るけれども、ひとつのチームだけが強いという状況は好きじゃない。子どものころはジャイアンツファンだったから、巨人軍の9連覇は、途切れるのが怖かった。巨人は優勝して当たり前だと、洗脳されていた。その後は、ラグビーで新日鉄釜石が7連覇。神戸製鋼も7連覇。どこが止めるのか、それが楽しみだった。帝京大学の9連覇のころも、帝京に勝つチームを待ちわびていた。相撲も、白鵬ばかりが優勝するのはつまらなかった。大阪桐蔭も、勝てるところはないだろうと思いつつ、番狂わせがあるかもと、かすかな期待をもって、ラジオを聞いていた。だいたい、大阪桐蔭というと強いのが当たり前だから、名前負けする。最初から選手がびびってしまっている。下関の選手はすごかった。ピッチャーは思い切って内角にびゅんびゅん投げるし、バッターも気迫のあるスイングをしていた。「同じ高校生だろ」とよく言うけど、高校生とは思えない連中だからやっかいだ。でも、甲子園まで出るチームなら、「同じ高校生」は通用するんだろうな。いい試合だった。準決勝、決勝が楽しみだ。
2022年08月20日
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夢の中で、ぼくは最初にフリーライターとして働いた編集部で働くことになった。当時の仲間の何人かが、ぼくを迎え入れてくれたが、ほとんどが娘たちと同じような年ごろの若者たち。ぼくは、自己紹介をしないとと緊張している。ここに何年前にいたのだろう?どれだけ考えても出てこない。目が覚めてから数えてみた。27歳のときにフリーライターになったのだから、もうすぐ40周年じゃないか。大学を出てから、大手企業に勤めたが、2年しか続かなかった。会社を辞めてバイト生活。大学の先輩が心配して、彼が社長を務める小さな会社に誘ってくれた。自動車会社の下請けで、特殊鋼の卸をしていた。ぼくは、1トン車に乗って、鉄の塊をせっせとお客さんに運んでいた。3年間お世話になった。この3年間で、ぼくは、ピラミッド社会の悲哀を味わった。大企業というのは、まわりには澄み切った上澄み液しか見せないが、底にはヘドロがたまっている。ぼくは、そのへ汚泥にまみれて息ができなくなりそうになっている虫けらだった。上澄み液だけしか見られなかったぼくが、少しは社会を学ぶことができた貴重な時期だった。代替療法、癒し、ホリスティック医学、環境問題、エネルギー問題、自然栽培などに、興味をもってきたのも、このときの体験がベースにあるような気がする。ひょんな出会いから、フリーライターになった。文章など書いたこともない。編集のことも知らない。よく飛び込んだと思う。27歳だった。40年間、コツコツやってきた。1冊でも自分の名前で本が出せたら最高の幸せ。そう思っていた。そしたら、「イルカが人を癒す」という本を出す幸運に恵まれた。出ただけでなく、売れた。本屋さんへ行くと、目立つところにぼくの本が山積みになっていた。夢じゃないかと思った。毎年1冊の割合で新刊が出た。「イルカみたいに生きてみよう」というベストセラーも出た。あるときからペースはがくっとダウンしたが、それでも20冊以上の本が出た。万々歳の人生じゃないか。それに飽き足らず、山梨へ来て、ヤギを飼う生活を始めた。何をやろうとしているのか、ぼくにもわからない。でも、人生の終盤に差し掛かり、何かを仕掛けようとしているのは間違いない。
2022年08月13日
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鈴鹿の実家へ帰っていた。22日に豊田市にいる三女と合流。実家に2泊して、24日には、山梨から次女も来た。2ヶ月弱あけているので、実家は夏草に覆われている。23日は、三女と一緒に草取りにはげんだ。風があって、涼しい一日だったので助かった。空き家の管理は大変だけど、自分の生まれた家だから、このまま朽ち果てさせるのもしのびない。部屋を掃除していたら、古いアルバムが出てきて、いろいろな思いがよみがえる。そんなときに、母がお世話になっている施設から、食が落ちて、水分もとらなくなったとの連絡があった。昨年の10月に脳出血で倒れて、意識がもうろうした状態で今に至っている。「十分にがんばったからもういいよ」そう言ってあげたい気分だ。コロナと体調が落ち着いたら、長く暮らした場所へ連れて帰ろうかと思っていたが、ちょっと無理かもしれない。どんな思いで今を過ごしているのか。母が亡くなれば、ぼくが生まれて育った家族がいなくなる。ぼくにとっても、ひとつの区切りが近づいている。
2022年07月26日
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夢はよく見る。睡眠時間はけっこう長いから、朝方はうつらうつらしていて、そのときに夢を見ているのかも。夢を見ているときは、夢の中だと認識しているわけではない。現実には寝ているのだけれども、意識としては、夢が現実だろうと思う。だから、起きたときに、冷や汗をかいていたり、うれしかったり、涙を流していたり、心臓がどきどきしたりしている。夢に、体も心も反応している。母親が倒れて8ヵ月になる。脳出血だった。ぼんやりした状態が続いている。きっと、夢を見ている状態なのだと思う。施設に入って、話もできず、寂しいだろうと思うけれども、もし、楽しい夢を毎日見ているなら、それが母の現実なのだから、幸せなのではないか。そうあってほしいと願っている。ネガティブな人だったから、つらい夢の中で過ごしているかもしれない。それだと、かわいそうだな。
2022年06月24日
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これからは食料とエネルギーが大事なテーマになるはず。ともに、日本は輸入に頼っているから心もとない。早急に自給できる体制を作らないと。食料もエネルギーも、一ヵ所で大量に作ってまかなおうとするから無理が出るわけで、地産地消を目指すべきだと思う。我が山梨県では、小水力発電、バイオマス発電が広がってきている。県内の電力は県内で作るくらいの意気込みでやっていくことで、県民の意識、結束力も高まって、活気が出るはずだ。太陽光のパネルがあちこちに作られているけれども、日当たりのいい果樹園が壊されているのはちょっと考えものだ。地域の特性をうまく使えば、日本にもたくさんの資源がある。海のある場所なら、今、話題になっている洋上風力発電をやればいい。潮の流れや波を利用した発電方法もある。日本は四方を海に囲まれているわけで、なんでそこに目を付けなかったのか、いろいろな事情を優先した結果の出遅れだったのだろう。ヨーロッパでは洋上風力が主力エネルギーとなり、中国をはじめとして、アジア圏でも急速に広がっている。狭い範囲をカバーすることをベースにしたエネルギー供給。そう考えれば、いくらでも知恵は出てくるはず。小さな村が、自分たちのエネルギーは自分たちで作ろうと立ち上がっても面白いと思う。1人が100歩歩こうとするのではなく、100人が1歩ずつ歩く動き。これが世の中を変える近道ではないか。
2022年06月06日
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昨日は、4月から豊田市で働いている三女のところで一泊して、今日、鈴鹿市の実家へ帰った。母が倒れて空き家になっている家。田舎だから、敷地も家も広い。それに、田畑もあれば、山林もある。管理するのは大変なことだ。山梨でヤギと暮らしている場合じゃないだろうと言われるかもしれない。鈴鹿でもヤギが飼えるし、土地を借りる必要がないのだから、ヤギたちの住処を作るにしても、もっとやりやすいのは間違いない。しかし、ぼくは山梨から鈴鹿という流れは必然だと感じている。まずは山梨なのだ。実際、山梨でいろいろな動きが出てきている。東京から直接鈴鹿に来ては味わえなかっただろう刺激をもらっている。山梨でしっかりした足跡を残して、あるいは残しつつの鈴鹿だろうと思う。それまでの間、まわりの人たちの力を借りながら、時期を待とうと思う。ある程度の動きを作れれば、力強い応援団が出てくるはずだ。別に、大きなことをやろうという気はない。あくまでも、家族的なレベルでの動きだ。一昨日も、静岡から3家族13人が訪ねてくれた。3歳から60代まで、ヤギさんも一緒に盛り上がった。あんな場を作っていくことだ。氣恵のキッチンカーにも、学校帰りの子どもたちが寄ってくれる。買い物をするわけではないが、いろいろお話をして、中には、車の前にある小さなテーブルの上でランドセルをあけて、宿題を始める子もいる。そういう人とのかかわりが生まれるとうれしい。この間、ぼくは帯津先生の一泊セミナーを開催した。いい感じだった。先生に、「山梨養生塾」を立ち上げていいですかと話したら、「やってください」と了解してくれた。養生というのは、決して健康法ではない。もっと広いものだ。いのち(生命)を正しく養うこと。まずは、ぼくの人脈の中から、すてきな方を呼んで講演会をやることにしよう。映画上映もいい。自分だけのことを考えて生きるより、自分と家族のことを考えて生きる方が幸せだし、自分と家族と仲間のことを考えて生きるともっと幸せだし、自分と家族と仲間と地域の人たちのことを考えて生きれば、幸せはさらに膨らむ。山梨では、養生をテーマに一緒にやっていける仲間ができつつある。鈴鹿でも種をまいている。本当にじわじわだが、妄想が現実化しつつある。さらに前へ進むには、ぼくがもう少しレベルアップしないといけない。がんばりがいがあるというもの。家族のいない故郷はさみしくもあるが、エネルギーが湧き上がってくる場所でもある。明日は山梨へ帰って、またヤギさんたちやスモモのお世話だ。そこから、また何かが生まれてくる。
2022年05月30日
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2019年の6月だったか、母が白内障の手術をした。病院に付き添って、待合室にある血圧計に手を通した。何となくだ。それまで、めったに測定しなかったが、計ったときは、130・80くらいの極めて正常な数字だった。ところが、そのときは、なんと180・100くらいあった。驚いた。もう一回計った。同じような数字だ。実家では、いろいろな問題が起こっていた。2018年2019年というのは、ぼくにとっては「よくぞ耐えた」と思える年だった。2018年に父が亡くなり、2019年には2人の兄弟が相次いで旅立っていった。身内の死が、これほどまでに心身にダメージを与えるとは思ってもみなかった。以来、ずっと高血圧が続いている。家庭用の血圧計を買って毎日測定した。サプリメントも飲んだし、神経ブロック注射にも通った。気功もやった。だけど下がらない。病院へ行ったこともあった。検査をしても、どこも健康。ただ血圧だけが高い。「食事に注意して様子を見ましょう」ということで帰された。「もういいや」と開き直った。血圧計も使わなくなった。山梨へ越して、母が倒れたが、母をこちらの施設へ入れて、やっと一息入れられた気がする。昨日、2年ぶりくらいで計ってみた。147・88。あの病院での衝撃以来、もっとも低かった。病院へ行けば高血圧と診断される数値だが、これなら大丈夫。いろいろ体の不具合が起こってくるのは仕方ない。いちいち気にしていたらキリがない。適度な健康で満足しつつ、もちろん健康には気をつける必要があるが、健康第一ではなく、健康は、あくまでもやりたいこと、やるべきことをやるための手段と考える。今は、やるべきことをやるに十分な健康状態だ。そのことに感謝し、無理せずあわてず、一つひとつ、目の前のことをこなしていこう!
2022年05月14日
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30年まではいかないが、20数年ぶりに会う知り合いが訪ねて来てくれた。77歳と78歳のご夫婦。栃木県の那須烏山から車でやって来た。 2ヶ月ほど前、突然、ご主人から電話があった。「ちょっと相談したいことがあって」しばらく近況を語り合ったあと、電話をした理由を彼は話した。 奥さんが原因不明の体の痛みで困っていると言う。病院へ行ったが検査の結果は異常なし。「年のせいですよ」と言われて、夫婦そろってむっとしている。 「さてどうしようかと思っていたとき、小原田さんのことを思い出したんです」 30年近く前、彼らは埼玉県加須市で料理屋を営んでいた。古民家を改装したすてきなお店だった。 弘美や長女の氣子と一緒に何度かお邪魔した。 あるとき、世間話をしていると、奥さんが「首から肩にかけて痛みがあって大変なんです」つらそうな顔で首筋をさすった。「ぼくは氣功をやっているんですけど、ちょっと試してみますか」そんなことから、床に正座した彼女に氣を送ることになった。 ぼくが氣を送ると、彼女の体がぐらぐら動き始め、後ろに引かれてバタンと倒れた。ご主人はあっけにとられたように見ていた。 20分くらいたって、「はい、いいですよ」と言うと彼女は起き上がった。 「何だったんですか?」きょとんとしている。「で、どうですか?」「楽になった。痛くないわ」首をぐるぐる回している。 以来、彼女はすこぶる体調が良くて、彼女もご主人も、ぼくを恩人のように思ってくれていた。 だから、病院で原因不明と言われたときに、ぼくのことを思い出してくれたのだ。ぼくはすっかり忘れていたが、あのとき、奥さんの治療をしたあとにこんなことがあったらしい。ご主人の話。「女房の治療のあと、『実は・・・』とお話したのが入院中の友だちのことでした。便が出なくて苦しくて仕方ないと言ったら、小原田さんが『帰りに寄りましょうか』って言ってくれたんです」思い出さないなあ。「だから、私が車で病院までお連れしました。病室へ行って、小原田さんがお腹にさわったかどうかわかりませんが、何やらやっていました。氣を送っていたんでしょうね」うーん。まるっきり忘れている。「20分くらいやって、『これで大丈夫ですから。明日には出ますよ』って帰りました」えらそうなこと言っているな。こんな治療家って、ぼくは嫌いなんだよね、今は。「そしたら、その日のうちに、大量の便が出たんです」ホントかいな。まるで記憶にない。すごい気功師じゃないか。そうだよ。ぎっくり腰で動けなくなった人の背中をさっとなでただけで治ったこともあったもの。あのまま調子に乗って気功治療家になっていたら、ひょっとしたら今ごろ大家だったかもしれない。別に後悔してないけど。できたら大家にはなりたくない。この夫婦は、ぼくに気功を受けるつもりでやって来た。だって、彼らにとっては奇跡を起こす気功師だもの。でも、治療という面では、ぼくよりも妻の弘美の方がはるかにレベルが高い。ここ1ヶ月ほど、ぼくは坐骨神経痛で大変だった。右だから車の運転のとき、アクセルを踏んでいるのがつらいんだもの。自動運転の車が欲しいと思ったよ。もう困ってしまって、弘美のヒーリングにお願いしたら(お願いしないとやってくれない)、何回かの施術でなんともなくなった。改めてすごいと感心した次第だ。我が家は、体調が悪いときには弘美に頼る。そんな話をしたらまたまたびっくり。弘美もぼくと同じで、自分の腕をひけらかしたりせず、いつも普通のおばさんのふりをしている。だけど、言っちゃ悪いが、ぼくも弘美も、そこらの治療家よりもはるかにきくよ~~~。親しい人しか治療はしないけどね。昨日の話に戻ろう。2人と懐かしい話やら、気功のことをしゃべっていると、あっと言う間に1時間半ほどたってしまった。そしたら奥さんが言い出した。「なんか首のあたりがすごく軽くなったの。痛みもないし」氣ってそういうものなんだよね。その後、奥さんは1時間ほど弘美の治療を受け、ぼくはハイゲンキという氣を中継する装置でご主人の治療をし、不思議な石をプレゼントした。2人ともニコニコ。体が軽くなった。足が軽い。ひと山越えて秩父へ出て、熊谷から那須烏山に向かうという。気を付けてお帰りください。いい再会だったなあ。
2022年04月27日
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講演に呼ばれたのはずいぶんと久しぶりだ。それもイルカの話をしてほしいとのこと。今日10日の13時30分から。静岡県の富士川ふれあいホールで。「愛の地球(ほし)へ」という映画の上映会もある。この映画は見てないけれども、イルカからのメッセージがテーマのひとつになっている。かなりスピリチュアル色の濃い映画のようだ。ぼくの話とマッチするか、わからないが、ぼくの人生がイルカによって大きく変わったのは事実だから、その体験をお話してこようと思う。考えてみれば、ぼくがイルカとかかわったのが1991年だったかな。30年も前の話になる。イルカと癒しの第一世代と言ってもいいかもしれない。「イルカが人を癒す」という本を出して、そのとき、ドルフィンスイムのレジェンドでもある野崎ユリカさんの本も同時に出て、書店に行くと、目立つところに2冊が並んで積まれていた。そこからイルカブームが始まったので、ユリカさんとぼくは、イルカブームの火付け役のように言われたこともある。一緒に講演もしたことがあったし、ユリカさんにお願いして、セミナーをやったり、ハワイでのドルフィンスイムツアーを企画したりもした。ぼくにとっては、懐かしき華やかな時代だったな。2019年までは小笠原に毎年、20名くらいの人を連れてイルカと泳ぎに行っていた。我が家の夏のビッグイベントだった。イルカという生き物は、本人がどう思っているかはわからないが、人の生き方に大きなインパクトを与える力がある。イルカについては、若い人たちがいろいろ語っているので、ぼくには出番がないかと思っていたが、こうやって声をかけてもらえるのはうれしいことだ。当日参加もOKとのこと。興味ある人は、ぼくの昔話に付き合ってください。
2022年04月10日
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ここ1年ほど、寝つきが悪かった。それまでは、いつでもどこでも、横になったらすぐに眠りに入ったのに、1時間も2時間も、寝返りを打ったりしながら、たぶん、うとうとはしていたのだろうが、何とも気持ち良くない。ところが、この1ヶ月はいい感じで寝付ける。森修焼というエネルギー陶器の影響があると思う。森修焼とは20年ほどのお付き合い。谷口修という一途な男が、ある不思議な石を見つけたことが始まりだった。この石を粉にして陶器を作ると、さまざまな現象が起こった。その陶器をもつことで、命のエネルギーが高まって、体は元気になるし、気持ちは前向きになる。さまざまな劇的な変化が起こった。エネルギーはどんどん進化する。そして、今、評判の商品がコンセントに差し込むだけで、家の中の電気環境が改善されるというもの。人間の体は微弱な電流で動いている。電気製品があふれる空間に身を置けば、人の体や心をコントロールする電流にノイズが入る危険性がある。それが、体調不良の原因になっていると、谷口さんは考えた。さまざまな方法で電気の害を抑えようとし工夫をし、今の商品にたどり着いたのだ。ぼくも、この間、最新のものを取り付けた。チェック項目。そのひとつが、寝つきがどうなるかだった。電流の乱れは、ホルモンの分泌にも影響を与える。たぶん、寝つきが悪いのは、そこに原因がある可能性がある。コンセントをさした数日後から、よく眠れるようになった。この商品の影響はあると思う。今、森修焼をすももの木に巻いて、さてどうなるかを試している。無農薬で実がなるのは間違いないだろう。問題は、どんな実がなるか。シンクイムシという虫にやられる危険性がある。これをクリアして、立派な実がなれば、ぼくは、この路線をもっと進めていきたい。植物は人間よりもはるかに敏感だから、確実に、いい結果が出るだろうと、ぼくは思っている。
2022年03月25日
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地震で火力発電所が壊れて、停電が起こるかもしれないというニュースが流れている。ロシアとウクライナのこともあって、エネルギー不足が深刻になる気配もある。世の中は、電気自動車が普及しつつあり、ますます電力が必要になる。原発を再稼働させろという話もあるが、果たしてそんな目先の対応でいいのだろうか。ぼくが今、お手伝いしている本のテーマは洋上風力発電。ヨーロッパでは電力供給の柱になっているそうだ。日本は10年遅れてのスタート。しかし、海に囲まれていて風資源にも恵まれている日本にはぴったりの発電ではないか。洋上風力発電の必要性を熱く語るのは、渋谷正信さん。渋谷潜水工業という会社の社長だ。橋脚など海洋構造物の工事を請け負っている。潜りについては、プロ中のプロ。去年も彼の本のお手伝いをしたが、実は、20年ほど前に、イルカのことでお世話になったことがある。思わぬ再会に、2人ともびっくりしたものだ。20年前、ぼくが初めてイルカと泳ぎにバハマへ行く直前のこと。彼はドルフィンスイムの草分け的な存在で、江の島の海で、ぼくにスノーケリングを教えてくれた。洋上風力発電。彼の話は魅力的だ。洋上風力発電の役割は電力を作り出すことだが、彼の視線は海の中に向かっている。8年ほど洋上風力発電にかかわっているが、あの風車の海面下の部分が彼の心をひきつけた。海藻が茂り、魚たち、貝類がたくさん集めっているのだ。どこの海も沿岸部では魚介類が獲れなくなっている。海藻が減って、海底が砂漠化しているのだそうだ。風車が建つと、砂漠化した海がよみがえる。海の中の工事を請け負ってきた人だけあって目のつけどころが違う。日本の海のあちこちに洋上風力発電の風車が建てば、魚が戻ってきて、漁業が活性化し、地域が盛り上がるというシナリオが、彼の頭の中ではできている。しかし、そこまで考えて洋上風力発電を推進している人はほとんどいない。海の中の環境がどうなるか、洋上風力発電の可能性をそこまで広げて啓蒙したいと、彼は言っている。今の時代に大切なテーマだと思う。ただ、これから建設に入るわけだから、あと数年は待たないと風力の恩恵を受けることはできない。もう少しの辛抱だ。
2022年03月23日
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16日、17日、18日と鈴鹿の実家へ帰っていた。たくさんの本が箱詰めになって山梨の家に積み上げられている。その一部を、車で鈴鹿に運んだ。いずれ、ちょっとした書庫を作って、仕事場兼お茶飲みスペースにできればいいな。親戚の若者が、竹藪をきれいにしてくれている。おいしいタケノコがあがるので、知り合いに声をかけてタケノコ掘りをしたいと思う。20軒ほどの小さな集落。住人は年寄りばかり。このままでは消滅してしまう。そこに現れた若者が、4歳の子どもを連れて藪をきれいにしている。興味をもたないはずがない。ニコニコ気立てのいい若者は、今では、村の人気者になっている。確実に活性化しているのだ。若者や子どもの存在は大きい。タケノコ掘りにも、子ども連れの若い人を呼んでみたい。山梨も楽しみだが、鈴鹿でもいろいろやれそうだ。
2022年03月20日
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久しぶりに「イルカの話をしてほしい」という講演の依頼がきた。4月に静岡の富士市で。去年出版した「そうだ、イルカみたいに生きてみよう!」を読んでくださった方からのオファーだ。ぼくがイルカとのコミュニケーションの現場に立ちあったのは、1992年だったか。1988年に気功や代替療法の取材を始めて、自分でもどうしてイルカなのかわからなかったが、後々イルカが癒しの主役のような扱いを受けるようになり、自分自身もイルカと出あってから、人生が大きく変わったわけで、ぼくにとっては大きな節目だった。オーストラリアだった。当時はまだ珍しかった、気功とチャネリングを組み合わせた方法で、イルカとの意識交流が行われた。精神世界(今で言うスピリチュアル)がブームになりつつあった。癒しという言葉が少しずつ使われ始めていた。オーストラリア、バハマでイルカとの意識交流を行い、それを「イルカが人を癒す」という本にまとめた。イルカに注目が集まっている時期でもあって、書店に平積みになるほど話題になった。イルカ関係の本をつづけさまに書いた。講演の依頼もあちこちからきた。雑誌の取材も受けた。華やかな30代だった。ぼくは、イルカと癒しの第一世代になるかもしれない。若い人たちが、特に女性がイルカに夢中になって、新しいイルカ文化を作ってくれた。今活躍している人たちは第何世代になるだろうか。イルカの世界では、ぼくは昔の人。かっこよく言えば、レジェンドかもしれない。昔話をして喜んでもらえるだろうか。でも、ぼくがイルカから感じたことは、今の不安定な時代だからこそ大切だという自負もある。少しでもお役に立てるなら動こうと思っている。
2022年03月01日
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