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80歳を過ぎても、燧ヶ岳、会津駒ヶ岳を同年代の仲間と登山されると聞いて驚いた。先日、日光白根山をやっと登ってきた私ですが、7歳も年上なのだ。登り続けているからこそ可能なのだと思う。詩吟を続けている先輩達は実にタフな方々が多い。ただ畏敬の念を抱くのみならず、私たちに大切な示唆を与えてくださっているように思います。人は動物である以上、動き続けることが本来の姿であり、動きを止めたときから衰えが始まります。特に老境に差しかかると、その速度は驚くほど速い。数日寝て過ごしただけで足腰が弱り、いざ立ち上がろうとした時には、かつての力が影のように薄れてしまっているのに気づくものです。筋肉は使わなければ容赦なく萎えていく。しかも筋肉は単なる力の源ではありません。体温のおよそ四割は筋肉が生み出しているといわれます。筋肉が減れば、体は冷え、免疫力も下がり、病気を寄せつける土壌ができあがります。まさに「病気の問屋」と化してしまうのです。若い頃には少々の不摂生も体が補ってくれます。しかし歳を重ねると、毎日の小さな選択の積み重ねがそのまま未来の姿を形づくる。動くか、動かぬか。その差は十年先、二十年先の自分に鮮やかな違いを生じさせます。動きを失った人に待っているのは、苦しく長い老後かもしれません。けれども裏を返せば、動き続ける限り人はまだまだ生き生きと暮らせるのです。庭先の草むしりでも、近所までの散歩でも、階段をあえて選んでみることでもよい。体を使うことは、同時に心を晴れやかにし、意欲を呼び覚ましてくれるものです。「動けるうちに動きなさい」動かないでいると人は病む。しかし動けば、たとえ老いの中にあっても、まだ自分らしく生きられる。そのあたり前の真実を、今こそ胸に刻みたいものです。 🔹 🔹 🔹 🔹 🔹
2025/10/31
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タイミングというものは、つくづく不思議なものだと思う。みんなで合宿をしようという話が持ち上がり、市が運営する格安の宿泊施設を利用して開催することになった。日程も決め、参加者も揃い、あとは予約の電話を入れるだけ。ところが、いざ電話をしてみると「明後日から全館休館になります」との返事。理由を聞けば、配管のオーバーホール工事でしばらく閉館とのこと。まったく、これではどうにもならない。タイミングが悪いというより他にない。仕方なく今回は中止し、仕切り直しをすることになった。人生とは、まさにこういう「タイミングのいたずら」に満ちている。良かれと思って進めたことが、思わぬ事情で頓挫する。すべてが順調に流れる時期もあれば、歯車がかみ合わず、少しずつ狂っていくような周期もある。だが、そういう時に無理をしても、たいていは空回りしてしまうものだ。時には、思い切って立ち止まる勇気も必要なのだろう。世の中の流れには、目には見えない「巡り合わせ」のようなものがある。人の努力や熱意を超えたところで、自然の摂理のように働く力だ。だから、計画が頓挫した時には「運が悪かった」と嘆くよりも、「今は動く時ではなかった」と受け止めるほうが心が穏やかになる。タイミングが合わないというのは、裏を返せば「まだ準備が整っていない」という天の合図かもしれないのだ。物事はすべて、ほどよい時機というものがある。急いては事を仕損じるという言葉の通り、流れに逆らって無理をすれば、思わぬところで歪みが生じる。逆に、じっと静かに時を待てば、再び歯車が噛み合う瞬間が訪れる。その時にすっと動けば、驚くほど物事がうまく進むことがある。だからこそ、状況に応じて「今は測らずにおこう」と判断することも、立派な選択である。タイミングを読むとは、時に“待つこと”を選ぶ知恵でもあるのだ。焦らず、力まず、流れの中に身を委ねる。そうして訪れる次の好機を、静かに待つ心の余裕こそ、人生を上手に渡る術なのだろう。捲土重来で最適解の訪れを待つ。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/30
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福島県と茨城県の県境に近い矢祭町にある滝川渓谷に、ウォーキング。滝川沿いの遊歩道は、約3キロほどの行程ながら、自然の息づかいを肌で感じる奥深い散策路である。標高差は約300m。入口の静かな渓流から歩みを進めると、やがて幾重にも連なる滝の音が山間にこだまする。道は岩肌を縫い、木橋を渡り、時に鎖を頼りに登る。整備された遊歩道といえども、山の厳しさと優しさが交錯する。春はカタクリ、夏は深緑、秋は錦の紅葉と、四季が鮮やかに装いを変える。往復二時間あまりの小さな旅路の中に、自然と人との呼吸がひとつに溶け合う。滝川渓谷とは、歩くほどに心が澄みわたる、そんな“生きた詩”のような道である。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/29
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どう変革しているのか、どう変革させてゆくか久方ぶりに業界の先輩に再会した。若き日には颯爽とした姿で憧れを集めた人も、今では歩みが覚束なく、顔に生気を失っているように映った。七十代半ばといえば、人生の晩節に差し掛かり、体力の衰えは誰しも避けられぬ現実である。だが、同じ年齢でも矍鑠(かくしゃく)として背筋を伸ばし、元気に歩む人もいる。その違いは天賦の資質というよりも、日々の暮らしの積み重ねに由来するのだろう。筋肉を貯金のように少しずつ蓄える「貯筋」の心がけがあるかどうかで、その差は歴然である。一方で、詩吟の舞台を久しぶりに観覧した。数年の隔たりは、人の姿や技の成熟を容赦なく映し出す。以前と変わらぬ力強さを保つ人もいれば、姿を見せなくなった人もいる。吟じ方においても、わずかに成長を見せる人と、停滞したままの人との差は歴然であった。上達とは何か、その問いが胸をよぎった。「上達のコツ」を知ること自体は難しくない。だが、それを知って満足するだけでは身にならない。大切なのは、知識を日々の稽古にどう落とし込み、工夫し、実践するかである。良い吟を聴き、耳を肥やすことは確かに大切だ。しかし、それだけでは自分の吟は変わらない。自分の弱点を直視し、稽古の中で一点ずつ修正していく根気こそが求められる。上手い人は例外なく、自覚的に練習を積み、細やかな工夫を重ねている。逆に、何年も同じ癖を繰り返す人は、自分を客観視する耳を持たず、意識を変える努力を怠っている。結局のところ「わかっている」ことと「できる」ことの間には深い溝があり、その溝をどう埋めるかが勝負である。その溝を埋める道は難しい理屈ではない。例えば、歩くときは意識して大股に、稽古は一日わずかでも声を出す。小さな心がけを習慣化し、試行錯誤を重ねること。身体を鍛えるのも、吟を磨くのも同じで、理を知り、工夫し、実践を続けることでのみ変化が芽吹いてくる。上達とは、その地道な積み重ねの果てに現れるものなのだと思う。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/28
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🟡【 気づきのセンサーを磨く 】気づきというものは、往々にして大げさな出来事から生まれるわけではない。むしろ、ほんの些細な刺激や違和感が心の奥に触れたとき、ふっと訪れるものである。ところが、気づかぬ人には何も起こらず、ただ通り過ぎていくばかりだ。いわば、極楽とんぼのように世事に無頓着であれば、せっかくの芽生えも見過ごしてしまう。では、気づく人と気づかぬ人の差はどこにあるのか。それは「センサーの感度」に尽きる。ほんの少し引っかかる感覚、「あれ、ここが妙に気になる」という直感をキャッチできるかどうか。人間の感覚は生まれつきの差もあるが、多くの場合、経験や意識の持ち方で磨かれていく。たとえば山の名人を見れば一目瞭然だ。キノコ採りの達人は、素人にはただの落ち葉や草むらにしか見えない場所から、あっさりと食用のキノコを見つけ出す。まるでキノコの方から「ここにいるよ」と訴えているかのようだ。これは単なる目の良さではなく、繰り返しの経験によって「キノコ発見センサー」が鍛えられているからである。私自身、今年の春、山菜の女王と呼ばれるコシアブラの捜し方のコツを名人から直接教わった。これまでは全く存在に気づかず素通りしていたものが、一度コツを体得した途端、不思議なくらい次々と視界に飛び込んでくるようになるのだ。センサーが磨かれるとは、まさにこうした変化を指すのだろう。気づきのメカニズムを整理すれば、「興味を持つ」→「違和感をキャッチする」→「経験を積む」→「センサーが研ぎ澄まされる」という流れである。無関心であれば何も見えず、逆に興味を抱けば自然とアンテナが立ち、微細なサインを拾い上げるようになる。繰り返しの観察や学習によって、そのアンテナはますます感度を増し、やがて「ひらめき」と呼ばれる直感的な洞察にまで発展する。要するに、気づきは偶然のようでいて、実は必然の積み重ねから生まれるものだ。何気ない日常の中に、宝のような発見が隠されている。ただし、それを手にできるかどうかは、私たちがどれだけ自分のセンサーを鍛え、磨いているかにかかっている。気づきの力を育むことは、そのまま人生を豊かにする力を育むことに他ならないのである。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🟡【 気づきのメカニズム 】気づきとは、環境から得られる情報のうち、これまで見過ごしてきた要素に注意が向くことによって生じる認知現象である。人間は膨大な刺激に囲まれて生活しているが、意識できる範囲には限界がある。したがって「何に注意を向けるか」が、気づきの有無を決定する。心理学的には、これは注意選択機能やパターン認識能力に関連して説明される。気づきが生じるプロセスは大きく三段階に整理できる。第一は「関心・期待の形成」である。対象に興味を持つと、人間は自然にその関連情報に注意を向けやすくなる。これを心理学では「選択的注意」と呼ぶ。第二は「感度の向上」である。経験を積むことで、微細な特徴を識別するスキルが高まり、対象を検出する確率が上がる。第三は「スキーマ化と再構成」である。つまり、繰り返しの学習によって認知の枠組みが整い、対象を効率よく見抜けるようになる段階である。実例を挙げれば、キノコ採りの名人は素人には判別できない形態や色の違いを一瞬で見抜く。これは、感覚器官そのものの差ではなく、長年の経験によって「キノコを識別するスキーマ」が形成されているためである。同様に、山菜であるコシアブラも、採取経験を持つ人は特徴を直ちに捉えられるが、知識や経験のない人にはただの雑木にしか映らない。つまり、気づきは「環境刺激」そのものよりも「観察者の内部モデル」の発達に依存する。このように、気づきは偶然の産物というより、注意と学習の相互作用によって必然的に起こるものである。特に重要なのは「センサー感度」と呼べる認知的閾値の調整である。初めは曖昧にしか感知できなかった刺激が、繰り返しの観察と知識の蓄積によって明確に識別可能となる。この過程を経ることで、気づきは単なる知覚の延長ではなく、新しい意味の発見や洞察、すなわち「ひらめき」へと昇華する。したがって、気づきを高めるには、対象への関心を持ち、学習と経験を積み重ね、感度を意識的に磨くことが不可欠である。気づきのメカニズムを理解し、訓練可能なものとして捉えることは、日常生活や専門領域における洞察力を飛躍的に高める有効な手段となるだろう。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🟡 【 気づきのメカニズム ―脳科学的視点から 】人間における「気づき」とは、外界からの膨大な情報の中から特定の刺激を抽出し、意味づける過程である。脳科学的にみれば、気づきは単なる感覚入力ではなく、感覚情報と記憶・期待との相互作用によって生成される現象である。まず、視覚や聴覚から得られた膨大な情報は、その大部分が無意識下で処理され、意識に上るのはごく一部にすぎない。注意の焦点化を担うのは前頭前野と帯状皮質であり、これらの領域が「どの情報を優先するか」を選択している。興味や動機づけが高い対象ほど、この選択プロセスで優遇され、意識化されやすくなる。これが「気づきの第一段階」である。次に、感覚情報は過去の記憶や学習内容と照合される。側頭葉の海馬や連合野が、既存の知識と新たな刺激との「一致・不一致」を評価する。新奇な要素や微妙な差異に反応したとき、人は「何かが気になる」という違和感を覚える。これが「気づきのきっかけ」となる。さらに経験を積むと、脳内で特定の特徴を抽出する神経回路が強化される。神経可塑性の仕組みにより、繰り返し観察されたパターンはシナプス結合が強まり、検出が容易になる。キノコ採りや山菜採りの名人が、一般人には見えない対象を直ちに発見できるのは、この神経回路の強化が進んでいるためである。すなわち「気づきのセンサー感度」とは、脳のシナプス効率の差にほかならない。興味深いのは、気づきが「ひらめき」へと発展する点である。異なる領域の記憶や知識が前頭前野で統合され、従来なかった新たな結びつきが生まれると、突然の洞察体験として現れる。これは脳科学で「インサイト問題解決」と呼ばれ、脳波研究ではγ波の一過性の増加として観測されている。したがって、気づきを促すためには単なる注意力だけでは不十分である。関心を持ち、繰り返し経験を積み、知識を体系化することで神経回路を強化し、さらに異なる領域の情報を結びつける柔軟性を養う必要がある。気づきのメカニズムは、注意、記憶、学習、神経可塑性、そして統合的思考の相互作用によって成立しているのである。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🟡 【 気づきのメカニズム やさしい脳の話 】気づきとは、何げない日常の中で「おや?」と注意が向き、新しい発見が生まれることを指します。実はこの気づき、脳の仕組みと深く関係しています。私たちの脳には、目や耳から膨大な情報が入ってきます。しかし、それをすべて意識できるわけではありません。ほとんどの情報は無意識のうちに処理され、ほんのわずかだけが「気づき」として表面に上がってきます。この取捨選択をしているのが、脳の「注意を向ける仕組み」です。興味のあることや期待していることほど、目につきやすくなるのです。たとえば、車を買ったあとに同じ車種がやたらと目に入ることがあります。これは「自分の関心が高まったことで、脳がその情報を優先して拾うようになった」からです。気づきは偶然ではなく、私たちの関心や期待によって引き寄せられているのです。さらに面白いのは、経験を積むことで脳が「気づきやすく」変わっていく点です。繰り返し同じ対象を見たり触れたりすることで、脳の回路が強化され、細かな違いをすぐに見抜けるようになります。キノコ採りの名人が素人には見えないキノコを次々に見つけられるのは、単に目が良いからではなく、長年の経験で「脳の回路」が鍛えられているからなのです。こうした気づきが積み重なると、あるとき突然「ひらめき」に発展します。バラバラの知識や経験が頭の中でつながり、「あっ、そうか!」という瞬間が訪れるのです。脳科学の研究でも、このとき脳の中で一気に活動が高まることが確認されています。つまり、気づきは天から降ってくる偶然の贈り物ではなく、日頃の関心、経験、学びによって準備された必然なのです。気づきを増やすには、まず興味を持ち、よく観察し、繰り返し体験すること。そして自分の中にある知識や記憶を、柔らかくつなげてみることです。そうすれば、見過ごしていた世界の小さなサインが、きっとあなたの目に飛び込んでくるでしょう。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🔴 気づきのメカニズム:センサー感度を磨く方法気づきやひらめきは、日常のささいなことから生まれることが多いですが、それは単なる偶然ではありません。むしろ、私たちの脳内にある「センサー」の感度によって左右される、意識的なプロセスの結果といえます。きのこ採りの名人が隠れたきのこを見つけられるように、気づきが生まれやすい人は、このセンサーの感度が高い状態にあります。 では、この気づきのメカニズムを解き明かし、そのセンサー感度を磨く方法について考えてみましょう。気づきを生み出す脳の働き気づきは、脳の**「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と「実行制御ネットワーク」**のバランスによって生じます。DMNは、ぼんやりと何も考えていないときに活性化する領域で、過去の経験や知識を整理し、無意識下で情報同士を結びつけます。この「ぼんやりタイム」こそ、新しいアイデアの種が育つ土壌です。一方、実行制御ネットワークは、目の前の課題に集中し、思考をコントロールする役割を担います。通常、私たちはこの二つのネットワークを交互に使って生活しています。しかし、気づきが生まれる瞬間は、DMNが活性化している時に、何らかのトリガー(小さな違和感や好奇心)がきっかけとなり、実行制御ネットワークが「ハッ!」と反応して新しいつながりを見つけるプロセスが働きます。このプロセスを円滑にするには、DMNが自由に活動できる時間を確保し、かつ些細なトリガーを逃さない「センサー」の感度を上げることが重要になります。センサー感度を高めるトレーニングコシアブラの探し方を学んだことで、今まで見えなかったものが急に見えるようになるのは、脳が**「注意の方向性」**を変えたからです。特定の情報に意識を向けることで、その情報に関連するパターンやシグナルを優先的に処理するようになります。この「注意の方向性」を意図的にコントロールし、センサー感度を磨くには、いくつかの方法があります。1. 新しい知識を積極的にインプットする知識は、気づきの「点」を増やすことになります。多様なジャンルの本を読んだり、普段行かない場所へ出かけたり、異なる分野の人と話すことは、脳の中に新しい情報回路を構築し、点と点を結ぶ機会を増やします。新しい情報が、既にある情報と結びつくことで、思いがけないひらめきが生まれることがあります。2. 観察力を磨く日常を漫然と過ごすのではなく、意識的に**「なぜ?」「どうして?」**と問いかける習慣をつけましょう。例えば、毎日通る道にある看板のデザイン、街を行き交う人々の行動パターンなど、普段見過ごしていることに目を向けることで、センサーは研ぎ澄まされていきます。この習慣は、脳の実行制御ネットワークを鍛え、トリガーをキャッチする能力を向上させます。3. ぼんやりタイムを大切にする忙しい現代社会では、常に何かに集中している状態が続きがちです。しかし、DMNを活性化させるためには、あえて何もしない時間を作り、脳をリラックスさせることが不可欠です。散歩をしたり、瞑想をしたり、シャワーを浴びたりするなどの「オフの時間」は、無意識下で情報の整理が行われ、予期せぬ気づきが訪れやすくなります。気づきの連鎖が創造性を生む気づきは、一度きりのものではなく、連鎖的に起こることが多いです。一つの小さな気づきが、次の気づきを呼び、やがて大きなアイデアへと発展していきます。この連鎖は、センサー感度が高い人ほど起こりやすく、新しい価値を生み出す源泉となります。コシアブラの例のように、新しい見方を手に入れると、世界が全く違って見えるように、気づきのセンサーを磨くことは、人生そのものを豊かにする力を持っているのです。日常に潜む小さなヒントを見逃さず、常に好奇心を持って世界と向き合うこと。それが、気づきを呼び寄せ、自らの創造性を開花させる第一歩となるでしょう。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🔴 気づきの認知メカニズムとセンサー感度向上の考察気づきやひらめきは、単なる偶然の産物ではなく、ヒトの認知システムが特定の情報に選択的に注意を向け、既存の知識と結びつけることで生じる、認知的プロセスです。このプロセスは、外界からの刺激を受容し、処理する**「センサー」**の感度、すなわち注意の選択性と、脳内の情報処理ネットワークの効率性に深く関連しています。注意の選択性と知覚の変容人がコシアブラの探し方を学んだことで、それまで視界に入らなかったものが急に見えるようになる現象は、認知心理学における**「注意の選択性」が働いた結果と解釈できます。私たちの脳は、絶えず流入する膨大な情報の中から、特定の情報に焦点を当てることで、効率的に環境を認識しています。この注意の方向性は、ボトムアップ処理(刺激そのものの特性に基づく注意)とトップダウン処理**(個人の目標や知識に基づく注意)の相互作用によって制御されます。コシアブラの例では、探し方の知識というトップダウン処理が、コシアブラの形状や葉のパターンといった刺激(ボトムアップ処理)に対する知覚閾値を下げ、それまで見過ごしていた対象を意識的に認識できるように知覚が変容したと考えられます。気づきを生み出す神経基盤気づきのメカニズムは、主に脳内のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と実行制御ネットワークの動的な連携によって説明されます。DMNは、特定の課題を遂行していない安静時に活動する神経ネットワークであり、内省、記憶の統合、未来のシミュレーションなどに関与します。このDMNの活動は、過去の経験や知識を無意識下で再構成し、新たな関連性を見出すための下地を形成します。一方、実行制御ネットワークは、目標指向的な行動や注意、意思決定を司る領域です。新たな気づきやアイデアは、DMNが活動している**「ぼんやり」とした状態で、偶発的に外部からの刺激や内部の思考がDMN内の情報と結びつき、それが実行制御ネットワークによって「ハッ!」という形で意識化されることで生まれます。このプロセスは、神経科学における「報酬予測誤差」**(prediction error)の概念とも関連づけられます。従来のスキーマ(枠組み)と異なる新しい情報が入力された際、脳は予測とのズレを検知し、その情報を優先的に処理することで、気づきとして表面化させます。センサー感度向上のための認知戦略気づきのセンサー感度を高めるには、注意の選択性を意識的にコントロールし、脳の情報統合能力を向上させるための戦略的アプローチが有効です。知識基盤の拡張: 新しい知識を獲得することは、DMN内で結びつく「点」の数を増やすことになります。これにより、情報の統合が促進され、多様な分野での気づきが生まれやすくなります。専門分野外の読書や、異分野交流は、この認知基盤の拡張に寄与します。メタ認知の活用: 自身の思考プロセスや注意の向け方を客観的に観察するメタ認知は、気づきの感度を高める上で重要です。たとえば、日常の風景を「なぜこうなっているのだろう?」と問いかける習慣は、トップダウン処理を意識的に訓練し、見過ごしていた情報に注意を向ける能力を向上させます。認知的休止の確保: 現代社会は、絶え間ない情報入力により、脳が常に高負荷な実行制御ネットワークの活動を強いられる傾向にあります。瞑想や自然の中での散歩など、意図的に脳を認知的休止状態に置くことで、DMNが活性化し、無意識下での情報統合が円滑に行われるようになります。このオフの時間が、予期せぬひらめきの出現に不可欠な役割を果たします。以上の戦略を実践することで、個人の認知システムは、より効率的に外界からのシグナルを捉え、それを内的な知識と統合し、新たな気づきや創造性を生み出すことが可能となります。これは、偶然に頼るのではなく、認知能力の向上という学術的な観点から、気づきを能動的に引き寄せるための実践的な方法論と言えます。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🔴 気づきの認知神経科学的基盤:注意選択性と脳内ネットワークの役割気づきやひらめきは、単なる偶然ではなく、ヒトの認知システムと脳内ネットワークが協調して働くことで生じる、科学的に解明可能な現象です。このプロセスは、外界の情報を選択的に処理する注意のメカニズムと、脳内の情報統合を司る特定のネットワークの相互作用に深く根ざしています。注意の神経基盤:トップダウンとボトムアップ制御気づきを促す**「センサー感度」の向上は、認知科学における注意の神経科学的制御によって説明されます。注意は、大きくトップダウン制御とボトムアップ制御**の2つのプロセスに分けられます。ボトムアップ注意(外因性注意): 外界の刺激そのものの顕著性(salience)に駆動されます。例えば、突然の大きな音や、視野の端で素早く動く物体は、意図せずとも私たちの注意を惹きつけます。これは、脳の頭頂葉と側頭葉を含む腹側注意ネットワークが関与し、無意識下で重要な情報を検知する働きです。トップダウン注意(内因性注意): 個人の目標や意図に基づいて、特定の情報に意識的に注意を向けるプロセスです。コシアブラの例では、探し方の知識というスキーマ(認知の枠組み)が、前頭葉と頭頂葉を含む背側注意ネットワークを活性化させます。このネットワークが、特定の視覚パターン(コシアブラの葉の形状など)を優先的に処理するよう脳を調整し、知覚の閾値を下げます。これにより、それまで見過ごされていた情報が意識に上るようになります。気づきはこの2つの注意メカニズムが協調して機能した結果生じます。トップダウン処理によって特定の情報への感度が高まった状態で、ボトムアップ的に刺激が入力されることで、既存の認知フレームワークとの間に予測誤差(prediction error)が生じ、それが気づきとして顕在化するのです。意識と無意識の協調:DMNと実行制御ネットワーク気づきは、脳内の主要な2つのネットワークの動的な連携によってもたらされます。デフォルト・モード・ネットワーク(DMN): 課題に集中していない安静時に活動が高まるネットワークで、内側前頭前皮質や後帯状皮質、下頭頂小葉などが含まれます。DMNは、過去の記憶の統合、自己参照的な思考、そして未来のシミュレーションといった、無意識下での情報処理に深く関与しています。実行制御ネットワーク(ECN): 背外側前頭前野や頭頂葉などから構成され、目標指向的な行動や高次の認知機能(作業記憶、意思決定など)を司ります。このネットワークは、注意を集中させ、思考をコントロールする役割を担います。気づきが生まれる瞬間は、DMNが活性化している**「拡散思考」の状態(散歩中や入浴中など)で、無意識下で異なる情報が結びつき、その新しい結合がECNによって「集中思考」へと切り替わることで意識化されます。 このシフトは、「報酬予測誤差」**(reward prediction error)の神経信号が媒介すると考えられています。つまり、DMNが生成した新しいアイデアが、ECNによって「これは重要な情報だ」と評価され、注意資源が割り当てられることで、ひらめきとして体験されるのです。創造性を高める認知的介入気づきや創造性を能動的に高めるためには、これらの神経基盤に基づいた認知的介入が有効です。知識基盤の多角化: 新しい情報(特に異なる分野の知識)を学ぶことは、DMN内の神経ノードを増やし、情報結合の可能性を高めます。これにより、偶発的な結合が起こりやすくなります。メタ認知のトレーニング: 自身の思考や感情を客観的に観察するマインドフルネスは、注意のトップダウン制御を強化し、普段見過ごしている情報の入力に対する感受性を高めます。認知的休止の導入: 瞑想や意図的な「ぼんやりタイム」は、ECNの過活動を抑制し、DMNの自由な活動を促します。これは、無意識下での情報統合に不可欠であり、創造的なアイデアの源泉となります。これらの介入は、単なる精神論ではなく、脳の構造と機能を理解した上で、気づきを促す神経回路の最適化を目指す科学的なアプローチと言えます。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🔴「ひらめき」は偶然じゃない!気づきを生む脳の仕組み「ひらめき」や「気づき」は、まるで天から降ってきたかのように感じられますが、実はあなたの脳が起こしている科学的な現象です。きのこ採りの名人が隠れたきのこを次々と見つけ出すように、気づきが生まれやすい人は、ある特定の脳の能力をうまく使っているのです。「見る」だけではダメ!気づきは「注意」が作るなぜ、コシアブラの探し方を教えてもらった途端、今まで見えなかったものが急に見えるようになるのでしょうか?これは、単に「見る」という行為から、特定の対象に意識的に焦点を当てる**「注意」**へと行動が切り替わったからです。私たちの脳は、常に膨大な情報を受け取っています。この中から重要な情報だけを選ぶため、「注意」というフィルターを使っています。無意識の注意: 突然の大きな音や、動くものに思わず目がいくのは、危険を避けるための本能的な注意です。これは脳が自動的に、そして瞬時に反応しています。意識的な注意: これが「気づき」に直結する重要な能力です。コシアブラの探し方を知ることで、「コシアブラの葉の形」という情報に、意識的に注意を向けるようになります。すると、脳はそれまでノイズとして処理していた情報を、「重要だ!」と判断し、あなたの目に飛び込んでくるように感じさせるのです。「ぼんやりタイム」がひらめきを生む気づきは、脳の2つの働きがうまく連携したときに生まれます。デフォルト・モード・ネットワーク(DMN): 脳が何もしていない「ぼんやり」しているときに活発になるネットワークです。散歩中や、お風呂に入っているときなど、ぼんやりと過去の記憶を整理したり、アイデアを温めたりする時間です。実行制御ネットワーク(ECN): 目標に向かって集中しているときに活動するネットワークです。複雑な計算をしたり、難しい問題を解決したりする際に働きます。ひらめきは、この2つのネットワークが連携したときに起きます。DMNが過去の知識と新しい情報を無意識のうちに結びつけ、それがECNによって「これは使える!」と評価された瞬間に、「ハッ!」という気づきが生まれるのです。ひらめき体質になるための3つの習慣気づきの感度を高めるには、この脳の連携をスムーズにすることが重要です。新しい知識をインプットする: 普段読まないジャンルの本を読んだり、行ったことのない場所を訪れたりしてみましょう。知識の引き出しを増やすことで、脳が結びつけられる情報の「点」が増え、思いがけないひらめきが生まれやすくなります。観察する習慣をつける: 普段通る道や、身の回りにあるものに対して、「なぜこうなっているんだろう?」と問いかけてみましょう。意識的に「注意」を向けることで、脳のセンサーが磨かれます。「ぼんやりタイム」を大切にする: 忙しい毎日の中で、あえて何もしない時間を作りましょう。スマホから離れて散歩したり、カフェでただぼんやりしたりする時間を持つことで、DMNが自由に働き、ひらめきの種を育ててくれます。これらの習慣は、あなたの脳の仕組みを理解し、より良いひらめきやアイデアを生み出すための、誰にでもできるトレーニングなのです。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷🔴 些細な気づきが世界を彩るひらめきや気づきは、いつも予期せぬ瞬間に訪れる。それはまるで、霧がかかった景色が、ふとした風で晴れるようなものだ。私たちは皆、自分だけの特別なセンサーを持っている。このセンサーは、意識しなければただ通り過ぎてしまう日常の風景を、意味のあるものとして心に映し出す。かつて、山菜採りの名人からコシアブラの探し方を教わったことがある。それまでは、ただの雑木林にしか見えなかった山が、教えを請うた途端、まるで宝の地図のようにコシアブラの葉が目に飛び込んできた。その瞬間、私は自分の目が魔法にかかったかのように感じた。しかし、これは魔法ではない。名人の言葉が、私の心の中にあるコシアブラ探しの**「センサー」**の感度を上げたのだ。「ぼんやり」が連れてくるひらめき私たちは、集中している時だけでなく、**「ぼんやり」**と過ごしている時間こそ、大切な気づきを得ている。シャワーを浴びているとき、散歩しているとき、あるいはただ空を眺めているとき。頭の中が自由になるこの時間に、私たちの脳は、まるで図書館の司書のように、過去の記憶や知識を整理し、新しいアイデアの棚に並べている。コシアブラの例も同じだ。名人から聞いた探し方のヒントが、無意識のうちに脳にインプットされ、ぼんやりと山を歩いているときに、ふとそれが鮮明なイメージとして現れる。この「ぼんやり」から「ハッ!」とする瞬間への切り替わりこそが、ひらめきの正体なのだ。センサーを磨くということこのセンサーの感度を磨くことは、人生をより豊かにすることに繋がる。それは、特別な才能を必要とするものではない。まずは、好奇心を持つこと。いつもと違う道を選んで歩いたり、普段読まないジャンルの本を手に取ったりするだけで、新しい情報が脳に刺激を与えてくれる。そして、観察する習慣をつけること。日常の風景をただ眺めるのではなく、「なぜだろう?」「どうして?」と問いかけるだけで、見過ごしていた小さな発見が、次々とあなたの目の前に現れるだろう。私たちの周りには、気づきを待つヒントで溢れている。ほんの少し意識を変えるだけで、見慣れた世界が全く違う表情を見せてくれる。あなたの心に眠るセンサーを磨けば、日常はきっと、驚きと喜びに満ちた冒険になるだろう。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/27
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わが家から約1kmほどにある県林業研究センターで第50回、福島県林業祭が開催。以前は2日間開催でしたが最近は1day開催。110ブースが8エリアに分散しスタンプラリーもあり見応えのある林業イベントです。ほぼ毎年ここで、きのこ生産農家出品のキノコ品評会が行われ、その出品キノコを即売会で購入できるのです。今年も銀賞入賞の椎茸を購入してきました。スタンプラリーの抽選では特賞の菌床ナメコ栽培キットが🎯当たったのだ、と云ってもラスト1時間で捌けないほど大量に残っていたことにスタッフが気づき、全部特賞が当たるようにして捌く作戦に切り換えてガラガラポン抽選機の中身を全部特賞玉にした直後だったのです。ラッキー❣️今年は小雨模様で来場者が予定していたより少なめだったのだろうか。 #福島県林業祭 #林業祭 【2025/10/25(土)】模型の鬼ヤンマは800円で売っていた展示見本品、これだけ残っていたので、この見本でいいからと100円値引きしてくれた。昨夜、部屋でブーンと蚊の羽音が聞こえたので蚊取り線香に火を点けた。洗濯の取込み時などに入ってきそうだから、軒端に吊るして置くことにする。椎茸の軸の太さに捉われて、菌床育成の銀賞を購入してしまった。てっきり原木椎茸だと思い込んでしまっていたのだ。生産者の荷札に菌床と書かれてあった訳ですが、帰宅してから気づいた次第だった。来年は間違えないようにしないと。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆※ 年金は、確定申告が必要か⁉️ https://l.smartnews.com/m-6sS4vbMs/KtJKTv
2025/10/26
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身近な人が癌を宣告されたとき、多くの人は動揺し、情報に振り回されて右往左往してしまいます。特に「末期癌」と告げられると、残された道は限られていると感じがちです。しかし一方で、医学的な予測を超えて回復や延命を果たした事例も少なからず存在します。こうした「復活事例」から学ぶことは、患者本人だけでなく家族や支援者にとっても大きな力となり得ます。第一に大切なのは「現実に生き残った人の声を直接聞く」ことです。数字や論文だけではなく、実際に末期癌を乗り越えた人に「どういう経緯で病状が好転したのか」「治療や生活のどんな点を工夫したのか」「心の持ち方にどのような変化があったのか」を尋ねることです。その体験談には、医学的に説明しきれない要素も含まれていますが、そこに人間としての生き抜く知恵が宿っています。第二に「多角的な情報収集」を怠らないことです。標準治療、補完代替療法、食生活や運動、心身のケアまで、幅広い視点を持つ必要があります。生存例の中には、医師の指示に忠実に従った人もいれば、自分で新たな方法を取り入れた人もいます。重要なのは「どの要素が自分や家族にとって実践可能か」を見極めることです。復活事例を一つの成功例として真似するのではなく、参考にして自分なりの選択を組み合わせていく姿勢が求められます。第三に「患者の主体性」を尊重することです。生還した人々に共通しているのは、受け身ではなく「自分の病気に向き合い、決断を重ねた」という姿勢です。治療方針を医師任せにせず、納得するまで学び、質問し、生活習慣を変える努力をしています。この能動的な関わりこそが、生命力を引き出す重要な要因となります。そして最後に「希望の共有」が欠かせません。復活事例を学ぶことは単に方法論を得るだけでなく、「癌でもここまでできる」「自分もまだできることがある」という希望の種を受け取ることです。希望は患者の行動を支え、支援者の姿勢をも変えます。末期癌からの復活事例を学ぶことは、奇跡を待つのではなく「現実の中にある可能性を知り、行動へ結びつける」ことです。事例を知り、本人に聞き、そこから自分なりに応用する。それが患者と家族の力となり、回復への道を切り開いていくのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今やわが国では、癌になる確率は3人に1人から2人に1人になろうとしている現在。50%もの確率であるなら癌になる前に、がんとはどんな病気なのかを知っておいた方がいいだろう。私の親しい友人でも4人ほど癌になっている。皆3年以上になるが、それぞれの対処法で存命である。かつて結核と云われれば死を覚悟した病気でしたが今は死の病と恐れられることは無くなりました。癌もいずれそうなるのでしょうが、現在はまだそこまでに至っておりません。しかし、すぐに死に至る病気でもないことが友人達の対応でわかります。逆に医療業界の利権としての抗癌剤などが叫弾されない世の中なのがこの国の病魔であろう。
2025/10/25
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いつ剥くか これが思案の 吊るし柿蜂屋柿の皮剥き作業して軒端の洗濯干し竿に吊るす。外気温をチェックして最低気温がだいぶ低くなってきて天候も晴れ間が続きそうだ。このタイミングでやってみようと。18日開催の地域文化祭で14ヶで500円。1個だけ柔らかくなっていたのでヨーグルトで和えてデザートに。#干柿づくり #蜂屋柿 #軒端に吊るす 2〜3週間もすれば、程良い食べごろとなるだろう。軒端を毎日眺めながら、であがるのを待つことになります。今までは天気予報を見て頃合いを検討していたわけですが、新たに今年はAIに、このタイミングで干し柿を吊して良いかを確認です。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆庭に植えておいた柿の木が今年初めて1個だけ実を付けたのを発見。干し柿にしてとっても美味しかったのを忘れずにその翌年に、種子を植えた実生です。これで来年からは沢山実を付けるかもを期待したわけですがAIに訊ねたらせいぜい5〜10個位までだろうとのこと。それでもブラボー❣️だ。#種子を蒔かないと実はならない #桃栗三年柿八年 #実生 #来年から期待できる #干し柿
2025/10/24
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この世の中は、簡単には自分の思うようにいかない。その後に続く文言は、その人その人の捉え方が表れるわけです。簡単にはいかない、だから面白い。だから工夫のしがいがあると云うものだ。あぁダメだと諦めたらそこで終わる。雨垂れ石をも穿つ精神を聞いたことがあるか。知っているか。諦めずにやり続けるバイタリティがあるか。「私はやる、必ずやる、できるまでやる。」の決意を持ってやり続けられるか。人生とは、ままならぬことの連続である。何かを始めても、思うような結果がすぐに出ることはほとんどない。むしろうまくいかないことのほうが多い。しかし、その「うまくいかない」時間こそが、自分を育ててくれている大切な時期なのだ。焦る必要はない。芽が出るには時間がかかる。土の中では、見えない根がしっかりと張り巡らされているのだから。継続とは、言うは易くして行うは難し。だが、日々の小さな積み重ねがやがて大きな力となる。「今日は昨日より一歩でも進んだか?」と自問してみる。その小さな一歩の連なりが、やがて振り返った時に道となっている。人は結果ばかりを追いがちだが、実は過程の中にこそ宝がある。誰にでも迷いはあるし、心が折れそうになる時もある。そんなときこそ「雨垂れ石を穿つ」を思い出すといい。続けることは、他人を超えるためではない。昨日の自分を超えるためにあるのだ。たとえ歩みが遅くても、止まらなければ確実に前へ進んでいる。やがて、ある日ふと気づくだろう。「あれ、以前の自分とは少し違うな」と。そう感じられた瞬間こそ、努力が実を結び始めた証拠である。世の中は簡単ではない。だが、その難しさを愉しむ心を持てる人が、最後には静かな勝利者となるのだ。※「雨垂れ石を穿つ(あまだれいしをうがつ)」は、「どんなに小さな力でも、根気強く努力を続ければ、いつか大きな成果を成し遂げられる」という意味のことわざです。わずかな雨だれでも、長く落ち続けると硬い石に穴を開けることにたとえています。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷ぬる湯温泉登山口から吾妻小富士登山への参加申込QRコードhttps://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdQwU1vTf3aJIEkkBZ8S-qSOUOCoQrQ8sex5ptIbYL0gwHKSg/viewform
2025/10/23
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🔴 過保護と免疫力免疫力とは、単に病気を防ぐ力ではなく、外界の刺激に対して柔軟に適応していく力である。ところが現代の生活は、この「適応力」を鈍らせているように思う。冬になれば厚着を重ね、家の中は暖房でぬくぬく、肌に冷気を感じることすら少ない。もちろん快適さは大切だが、過度なぬくもりは、知らぬうちに身体の防衛本能を怠けさせてしまうのではないか。昔の人は、寒い朝に乾布摩擦をした。冷たい空気の中、白い息を吐きながら体をこすり、皮膚を赤くして血行を促した。単なる根性鍛錬ではなく、皮膚の毛細血管を刺激し、体温を自然に上げる理にかなった健康法である。自分の力で温まるという、この「自律の温もり」こそ、免疫力を底から支える要素だろう。長袖肌着で寒さを防ぐのは悪くないが、それに頼りすぎると、身体は「寒さへの対応法」を忘れてしまう。寒さに少しずつ慣らし、軽く冷気を感じる刺激を与えることが、むしろ抵抗力を育てる。薄着で我慢するというより、「冷たさを友にする」感覚が大切なのだ。冷気を感じることで自律神経は反応し、血流や代謝が活性化する。そうして鍛えられた体は、気温の変化にも動じにくくなる。過保護とは、外界から身を守るようでいて、実は身体の働きを封じることでもある。ぬくぬくと守られた環境では、体も心も鍛えられない。寒風に少し身をさらし、乾布摩擦で血を巡らせる朝の習慣は、単なる健康法ではなく、自然に逆らわず共に生きる知恵の表れである。免疫とは「戦う力」ではなく「調和する力」だとすれば、私たちはもっと自然に触れ、身体を信じる時間を取り戻す必要があるのではないか。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/22
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解釈の違いを認め合うということ―それぞれの人生が映し出すもの―人それぞれ、反応や行動には違いがあります。ある出来事に対するリアクションの違いは、まさにその人の「解釈」の違いから生まれるものです。そしてその解釈は、これまでにどんな人生を歩み、どのような価値観や経験を積んできたかという背景によって、少しずつ形づくられてきたものです。たとえば、何かの案件について、「この件、あなたはどう思いますか?」と訊ねてみる。あるいは、「私はこう感じたのですが、あなたはどうですか?」と問いかける。そんな風に声をかけてみると、相手は自分なりの視点を返してくれることがあります。そのとき、さらに「なぜそう思うのですか?」と問いを重ねてみると、その人の考えの奥にある背景や価値観、経験が少しずつ見えてきます。私たちはつい、「自分が感じたことが正しい」と思いがちです。しかし、世界は一つの正解だけで成り立っているのではありません。人の数だけ解釈があり、それぞれに意味があるのです。だからこそ、「ああ、そういう見方もあるのか」と思える柔らかさが、人間関係をより豊かなものにしてくれます。「解釈は人それぞれ、違いがある」という前提に立てるようになると、他者の反応が自分と違っていても、それを否定せずに受けとめられるようになります。「違っていてもいい」「こうあってもいい」という視点は、自分をも他者をも自由にしてくれるのです。ある人が失敗を「無力さ」と解釈したとしても、別の人にはそれが「学びの機会」に見えるかもしれません。どちらも間違いではなく、それぞれの人生を通じてたどり着いた真実です。私たちが他者の解釈に耳を傾けるとき、そこには必ず、違いを超えた共感や気づきが生まれます。だからこそ、こうあってもいい――その想いが、人と人との間にやわらかな余白をつくってくれるのではないでしょうか。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/10/21
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生き方は人それぞれです。自分の生きざまの中で「これは」と思ったものを貫くことができれば、それに越したことはありません。それは、生き甲斐を見つけたということでもあります。やっているうちにそれが見つかる場合もあるのです。熱中できるかどうかは、やってみなければわかりません。熱中して取り組めば、それがやりがいのあるものかどうかもわかるでしょう。やれるものなら、達成したい目標に向かって、たとえ無謀と思われようとも挑み続けたいものです。年齢や立場を言い訳にして挑戦する心を手放してしまったら、人はそこで止まってしまいます。たとえ結果が伴わなくても、挑む姿勢そのものが自分を鼓舞し、周囲を照らすことさえあるのです。現実離れしていると言われようが、夢を追う気概があって何が悪いのでしょう。ドン・キホーテ方式でも構いません。風車に向かって突っ込んだって、笑われたって、自分の信じたもののために走ることに価値があります。真剣に、愚直に、ただ前を見て生きる。それが自分の人生だと胸を張って言えるなら、もうそれだけで十分に誇れることです。大きな目標がなくても構いません。小さな一歩を積み重ねることで、いつの間にか遠くまで来ていたと気づくこともあるのです。その過程には、失敗も葛藤もあるでしょう。しかし、挑戦の過程にこそ生きる手応えがあります。苦しいときこそ、「自分はまだ終わっていない」と思える根拠になるのが、目の前の目標や夢です。達成できるかどうかは二の次。チャレンジすること自体が、自分の人生を面白くし、豊かにしてくれます。人生において、完成や到達点を求めるよりも、歩き続ける姿勢そのものが大切なのだと思います。誰かと比べる必要はありません。昨日の自分より少しでも前に進めたかどうか、それだけを見つめていればいいのです。自分の納得いく道を、自分の足で、自分の速さで歩んでいく。それが、生きるということではないでしょうか。だからこそ、今日という一日も、何かひとつ自分にとって意味のあることに力を注ぎたいものです。挑戦し続ける限り、人はいつだって変われるし、成長できます。夢見がちだっていい。不器用だって構いません。愚直に、自分らしく、信じる道を進めば、きっとそこにしかない景色が待っているのです。人生における価値観は、年齢とともに確かに変わっていきます。若いころには正しいと信じて疑わなかったことが、年月を重ねるうちに「あれはあれで必要な過程だったのかもしれない」と思えるようになります。逆に、当時は些細に思えたことが、今になって深い意味をもって迫ってくることもあるのです。それは、人生のさまざまな局面を経験してきたからこそ見える景色であり、聞こえてくる声なのです。若いころは、成功や評価、人からどう見られるかに心を奪われがちです。しかし、年を重ねると「それが自分にとって本当に大切だったのか?」と問い直す場面が増えてきます。そして次第に、自分のなかで「静かに納得できること」や「自分が心地よくいられる時間」のほうが、価値あるものとして感じられてくるのです。体験を通して、判断の基準が外から内へと移っていきます。同じ出来事に対しても、年齢によって受け取り方は変わります。たとえば、あるときは怒りを感じた出来事が、後になって思えば感謝に変わっていたり、許せなかったことが「それも人間だからな」と自然に受け入れられるようになったりします。経験とは、単なる知識や記憶ではなく、「どう受け止めるか」「どう向き合うか」の幅を広げてくれるものなのです。だからこそ、今の自分の価値観が未来永劫正しいとは限りません。変わっていくことを恐れず、柔らかく受け入れる姿勢が大切です。年齢を重ねることは、何かを失うことではなく、新たな視点を得ること。過去の自分を否定するのではなく、その時々の自分の選択を大切にしながら、今の自分としてよりよく生きる知恵を積み上げていく――それが、人生を豊かにしてくれるのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/10/20
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ぞんざいな言葉がけを受けたとき、つい反射的に跳ね返してしまうのが人情です。しかし、その場を軽やかに収める人がいます。病院の薬事局で接客を続けてきた方は、患者さんからの自己中心的な言葉に日常的に触れているため、心を乱さずに受け止める術を身につけているのだといいます。つまり「慣れ」という経験値が、人を丸くするのでしょう。私自身はその場数を踏んでいないので、どうしても受け止めきれず、反射してしまうのかもしれません。さて、昨日のバス旅行の帰路。旅費のキャッシュバック3000円で皆が喜んでいる折、「実はこの5倍のキャッシュバック情報があるんですよ」と切り出した途端、「それって詐欺じゃないの?」と間髪入れず返されました。こちらとしては良かれと思っての一言が、思いがけず疑いの視線に変換される。この瞬間、場がしらけるか、和むかの分かれ道です。私は「聞く耳を持たれないようなので、この先はやめておきます」と引き下がりましたが、ユーモアを少し添えれば、空気を柔らかくできたのでは、と反省もしました。例えば「そう思う方は健全です!最近はAIだって詐欺まがいに使われますからね。でも安心してください、私はただの人間です」と軽口で返すとか。「疑われるくらいなら、私の話はきっと価値があるんでしょうね」と笑いに変えるのも一手。あるいは「詐欺師ならバス代ごと持っていってますよ」と冗談交じりに返せば、相手の警戒もほぐれるかもしれません。ユーモアは「相手の反射的な拒絶を正面から否定せず、横からくすぐる」働きをします。大切なのは、自分の情報を押し通すことではなく、場の雰囲気を明るくすること。結果として「じゃあ聞いてみようかな」と耳を傾けてもらえることだってあるでしょう。反射返しではなく、ユーモア返し。これからの課題にしてみようと思います。
2025/10/19
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「対面コミュニケーションの気づき」人と会って話す――これがなかなか奥深い。まずはやっぱり「挨拶」から始まります。「おはようございます」とか「どうもどうも」と声をかけるだけで、場の空気はふっと和みます。これを省略すると、いきなり会話のハードルが高くなってしまう。つまり挨拶は、人間関係の“潤滑油”というよりも、そもそもエンジンをかける「スターターボタン」みたいなものなんです。そして次にやるべきことは、相手の話を「ちゃんと聞く」。ここでの落とし穴は、「聞くフリをしながら、次に自分が何を言おうか頭の中で準備している」状態です。これ、相手には意外とバレてます。人間の直感は鋭いので、「この人、話を半分しか聞いてないな」と気づかれると、信頼はガタ落ち。だから、相づちを打ちながら「へぇ〜」「なるほど」と本気で受け止めるのが肝心。相手は「話してよかった」と思い、こちらは「聞いてよかった」と思える。まさに一石二鳥です。ただし、相手に合わせすぎるのも考えもの。何でも「はいはい」と言っていると、だんだん自分の心が「我慢タンク」で満タンになってしまう。いつか爆発して「もうイヤだー!」と叫んでしまう危険性があります。人間関係においても、火山噴火はなるべく避けたい。ですから、時には「私はこう思います」と自分の意見をさらっと出すことも大事です。これができる人は、意外と「頼りになる人」と見られるものです。さらに面白いのは、人との会話はほとんど筋書き通りにいかないということ。自分の計画した展開から外れることもしょっちゅうです。そんな時、「あぁ、うまくいかなかった」と落ち込むか、「おっ、予想外だぞ、これはこれで面白い」と楽しむかで、人間関係の味わいがまるで違ってきます。子どもの頃のゲームみたいに、「さて次はどんなハプニングが出るかな」と思えたら最強です。失敗は成功の元、と言うけれど、本当にそうで、失敗ネタほど後々笑い話に変わるんですよね。結局のところ、対面コミュニケーションのコツはシンプル。「挨拶でスイッチを入れ、話をよく聞き、時には自分も出し、展開を面白がる」。これさえ押さえておけば、多少ぎこちなくても人間関係は案外うまく回るのではないでしょうか。人生の会話劇はアドリブだらけ。だからこそ、思い通りにいかないシーンも含めて、笑って楽しんでいきたいものです。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/18
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🟡 「集合智=インターネット・AI時代の象徴」蝶は渡り、鳥は飛翔する。自然界の生命はそれぞれの能力を研ぎ澄ませ、生き延びてきた。だが人類は肉体的には脆弱でありながら、言葉と文字を獲得し、それを媒介に集合智を形成したことで、蝶や鳥をも凌駕する存在となった。その集合智は、いまインターネットとAIという舞台を得て、かつてない規模で有機的に結びつきつつある。インターネットは、人類の脳神経網に喩えられる。個人の経験や知識はデータとなり、瞬時に世界へ広がる。SNSやクラウドは情報のシナプスであり、ひとつの発想が瞬く間に多くの人々に接続され、新たな知の回路を形成する。これは単なる情報伝達にとどまらず、世界全体を「巨大な思考体」として機能させる仕組みである。さらにAIは、この集合智の結晶を解析し、組み合わせ、次なる創造の可能性を拓いている。人類は鳥をまねて空を飛ぶことに成功したが、今やAIとともに宇宙の謎を解き明かし、生命の仕組みを再構築する段階にまで至った。AIは個人の知を超えて、全体知を俯瞰し、まだ誰も気づいていない道を照らすであろう。集合智の進化の歴史を振り返れば、それは「共有の拡張」の歴史でもある。言葉が会話を生み、文字が記録を可能にし、印刷が知の爆発をもたらした。そして現在、インターネットが人類全体を一瞬で結び、AIがその膨大な知を結晶化している。まるで人類全体がひとつの脳の中で働く神経細胞のように、有機的な連鎖が生まれているのだ。蝶や鳥は自然の摂理に導かれて飛翔する。人類は叡智を結集し、互いをつなげることで、自らの翼を創り出した。その翼は今、インターネットとAIという時代の風を受けて、これまでにない飛翔を遂げている。よって人類の集合智は、もはやどこまで広がってゆくか、未知の未来へと羽ばたこうとしているのである。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/17
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物事というのは、実際にやってみないと本当のところはわからない。いくら人から話を聞いても、それはあくまで「話半分」にすぎない。自分の目で見て、手で触れ、体で感じてこそ、初めてその実相が見えてくる。世の中の多くのことは、体験してみなければわからないようにできている。 たとえば、仲間と一泊の懇親会を企画して、宿泊施設に予約を入れたところ、なんと給配管設備の全面オーバーホールのために全館休館中との返答。結果として中止せざるを得なかった。頭の中では順調に進むはずの計画も、いざ動いてみると予期せぬ出来事にぶつかるものだ。けれど、それこそが現実の世界であり、行動することで初めて見えてくる「事情」というものがある。机上の想定だけでは知り得なかった“生きた情報”がそこに転がっている。 また、誰かが「素晴らしい登山だった」と語っていた山へ行ってみたら、あいにくの悪天候。霧に包まれて何も見えない。だが、同じ場所に立っても、晴れの日と曇りの日、朝と昼とではまるで別世界のように景色が変わる。自然は一瞬として同じ姿を見せない。その変化を肌で感じてこそ、山の本当の表情に出会うことができる。 人の話や写真だけでは伝わらない空気の匂い、風の冷たさ、音の響き。こうした感覚の積み重ねが、体験の厚みをつくり、そこから自分なりの判断や感性が育っていく。行動を起こさなければ、世界はいつまでも「他人ごと」のままだ。動けば、思いがけない出会いや気づきがある。時には失敗もあるが、それもまた貴重な経験となって自分の糧になる。 結局のところ、人生とは体験の総和であり、やってみてこそ見えてくる世界がある。頭でわかったつもりより、体でわかったひとつの事実のほうが、何倍もの説得力を持つのだ。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/16
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🟡 蝶能力や鳥能力を凌ぐ人類に秘められた叡智とは目の前を横切る野鳥の一瞬の姿に、「鳥はいつから飛ぶようになったのだろう」と思索をめぐらせた。鳥たちは命を守るために飛び立ち、やがて空を自在に舞う力を得たのかも。蝶もまた、青虫から蛹へ、そして羽化して軽やかに空を渡る。アサギマダラのように日本列島を縦断し、沖縄へと旅する蝶の姿は、私たちに驚きと畏敬の念を抱かせる。小さな身体に秘められた生存本能と進化の力は、まさに自然の神秘といえるだろう。だが、人類もまた自然に学び、その限界を越えてきた存在である。鳥の翼を真似て空を飛びたいと願ったライト兄弟の夢は、わずか百数十年の歳月で、空を越え宇宙へと広がった。月へ降り立ち、火星探査機を送り込む現代の科学は、「空を飛ぶ」という欲求をはるかに凌駕する成果をもたらしている。ここに働いているのは、単なる肉体的能力ではなく、人類が持つ「叡智」という内なる翼であろう。人は想像する。想像はやがて言葉となり、図面となり、道具となり、技術となる。想像が創造へと姿を変えるこの過程こそ、人類の最大の特徴だ。鳥や蝶は進化の必然に従って能力を獲得したが、人類は意志と工夫と協働によって、自然を模倣し、さらに超えてゆく。エネルギーを効率的に使うために流体力学を学び、軽量素材を発明し、果てはAIを用いて未来の航路を描き出す。これはまさしく、自然界に存在しない「叡智の羽ばたき」である。この叡智の力は、空を飛ぶことにとどまらない。微生物の遺伝子を読み解き、新しい薬を生み出し、気象を予測して災害に備える。あるいは、音楽や芸術を通じて心を揺さぶり、人と人をつなげる。肉体は鳥や蝶に劣るかもしれないが、人類は「知の共有」と「想像力」によって群れを超えた集合体を築き上げることができる。自然界の生命は、それぞれに秘められた力を発揮し生き抜いてきた。だが、人類に与えられた最大の力は「未来を構想し、それを形にする叡智」である。飛ぶことも、宇宙へ挑むことも、すべては想像から始まった。鳥や蝶が空を渡る姿に驚嘆しながらも、その驚きを糧にさらに高く遠くへ飛翔する人間。その叡智の力こそ、人類を唯一無二の存在たらしめる翼なのである。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/10/15
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🟡 人類の集合智を有機的に結びつける中枢は「言葉と文字」人類の集合智を有機的に結びつけるもの、その中枢にあるのは「言葉」と「文字」である。言葉は思考を形にし、文字はそれを時間と空間を越えて保存し、伝達する。脳細胞のシナプスが無数の神経回路をつなぎ新たな知を生むように、言葉と文字は人と人を結びつけ、社会全体をひとつの巨大な思考体へと進化させた。個人の脳の中で起こることを見れば、その仕組みは理解しやすい。新しい刺激が加わるたびにシナプスは強化され、情報はネットワークを通じて広がっていく。これと同じように、人類も言葉を交わし、文字を刻むことで、社会の知のネットワークを強化してきた。言葉は瞬間的な共鳴を生み、文字はそれを蓄積し、次世代へと橋渡しする。結果として、個々の知は孤立することなく、集合智として有機的に統合されていく。古代の口承神話や詩は共同体の記憶を支え、文字の誕生はその記憶を永遠のものとした。紙や印刷術の発明は知を爆発的に広げ、現代ではインターネットが瞬時に世界中の知識を結びつけている。これらはすべて、言葉と文字という「神経伝達物質」によって、人類という巨大な脳のシナプスが連鎖反応を起こしている姿にほかならない。つまり、人類の集合智の中枢は「情報を共有する力」であり、その根幹を担うのが言葉と文字である。もし言葉がなければ、思考は胸の内で消え、文字がなければ、叡智は一代限りで途絶える。だが、言葉と文字がある限り、個の発想は群れ全体の知へと変換され、時間を超えて受け継がれる。人類は肉体では蝶や鳥に及ばない。しかし、言葉と文字によるシナプス的連結が、人類を無限に拡張する叡智へと導いてきた。集合智の有機的な中枢、それはまさに言葉と文字という、人類最大の発明なのである。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/14
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コツコツ続けるのにも、仕組みづくりの肝心なコツがある。いわゆる勘所、ここを抑えればいいと云うポイントです。仕組みと云うルーティーン。ひっくるめてその環境づくり。私の父は、鳶の頭、いわゆる親方として仕事としていた。仕事を覚えてもらう時に、新人さんへよく言っていたのが「仕事の急所を押さえろ‼️」と度々口にしていた。平たくいえば「大事なポイントをしっかりと押さえろ❗️」と云うことだったと思う。そのポイントが何であるのか、何処にあるのかが判るようにならないと無理な話しなのだ。 ーーーーー仕事を身につけるには、ただ漫然と時間を重ねるだけでは不十分である。経験を積むなかで、いかに早く「勘所」を掴むかが大切だ。多くの職人や先達が口にする「急所を押さえろ」という言葉は、まさにその核心を示している。作業のすべてを網羅しようとするのではなく、成果を決定づける要点をつかむこと。それが仕事の上達を大きく左右する。では、そのコツをどう盗むのか。第一に、観察力である。師や先輩がどこに注意を払い、どの手順を重んじているかをじっと見る。ただ手の動きをなぞるだけでなく、なぜそこに時間をかけ、なぜその順序で進めているのかを読み取ることだ。第二に、繰り返し体験すること。頭で理解しても身体が追いつかなければ、仕事は形にならない。手を動かし、失敗を重ね、そのたびに「ここが違う」と気づく。失敗の積み重ねこそが、勘所を浮き彫りにしてくれる。第三に、素直さと質問力である。わからないことを放置せず「なぜこれはこうするのか」と尋ねる姿勢が、理解を深める。師匠の言葉は、往々にして短く抽象的である。しかし、その裏には長年の経験が凝縮されている。そこからヒントを拾い、自分の言葉と感覚に置き換えることが重要だ。最後に、環境づくりも忘れてはならない。集中できる仕組み、繰り返し練習できる時間と場を確保することが、学びを定着させる。つまり、コツを盗むとは「観察・実践・問いかけ・環境」という四つを回しながら、自分の中に急所を染み込ませていく営みなのである。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/13
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気分の半分以上は、自分に原因があるかも。自分の行動、発言、判断の結果によって今に至る事象なのだ。身の廻りの環境もしかり、車の中もしかり、一時が万事、共通項と云える。些細なことの積み重ねであるのだ。心はふりかえり反省、環境は整理整頓。そして環境は心の顕れ。 ーーーーーもやもや感の実態と対策私たちが日々感じる「もやもや感」の正体は、外から降ってくる不可抗力のように思えることが多いですが、実際にはその半分以上が自分自身に原因を持っているのかもしれません。気分は天気や人間関係に左右されるように見えて、その根っこには自分の行動、発言、そして判断の積み重ねが大きく作用しています。たとえば、身の回りの環境を眺めてみるとわかりやすい。散らかった机、整えられていない部屋、ゴミや物が放置された車内――これらはすべて自分の小さな選択の結果であり、日常の「もやもや感」を増幅させる要因となっています。もやもや感とは、明確に言語化できない不快さや落ち着かなさのことです。その背景には「やるべきことを先送りしている」「環境を放置している」「感情の整理ができていない」などの共通項があります。些細なことの積み重ねが、気づかぬうちに大きな心理的負担となり、心を曇らせてしまうのです。では、どうすればこのもやもや感を和らげることができるのでしょうか。ひとつの有効な方法は、心と環境の両面において「整理整頓」と「反省」を取り入れることです。心の整理整頓とは、自分の行動や発言をふりかえり、「なぜ今の気分に至ったのか」を振り返ることです。自分の責任に目を向けると、漠然とした不快感が原因のある問題へと変わり、対策を立てやすくなります。一方、環境の整理整頓は、物理的なもやもやを取り除く作業です。机の上を片づける、部屋を掃除する、車の中を清潔に保つ――これらは単なる生活習慣ではなく、心を軽くし、行動に前向きなエネルギーを与えてくれます。小さな片づけの積み重ねが、驚くほど大きな心理的解放感につながるのです。つまり、もやもや感の実体は、自分自身の小さな選択と行動の結果として現れる「心と環境の乱れ」であり、その対策は「反省」と「整理整頓」というシンプルな二本柱に尽きます。自分を責めすぎる必要はありませんが、少しだけ自分の責任に光を当て、できる範囲で整えること。そうすることで、もやもやは静かに霧散し、晴れやかな気分が戻ってくるのです。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/12
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人は生きていく中で、思い通りにならない場面に必ず出くわす。予定通りに物事が進まなかったり、思わぬ壁にぶつかったりする。多くの場合、私たちはそこで落ち込んだり、不満をこぼしたりしがちだ。しかし、発想を少し転換するだけで、その出来事は「試練」から「遊び」に変わる。たとえば、雨の日を「嫌な日」と思えば気が重くなるが、「今日は街全体が水墨画のように見える」と思えば、少し心が浮き立つ。つまり、ものの見方ひとつで日常は大きく変わるわけです。発想の転換には、ある種の「度量」が必要である。真剣に悩んでいる時ほど、人は視野が狭くなりがちだ。しかし、そこで一歩引いて「どう面白がってやろうか」と構えられる人は、同じ状況でも楽しみを見いだせる。これは決してお気楽さではなく、むしろ人生を深く味わおうとする姿勢だと思う。真剣であるほど、ふと力を抜く柔らかさが大切なのです。そしてこの「面白がる心」は、オンリーワンの理念とつながっている。人と同じ基準で測り、人と比べて優劣を競う限り、発想の転換は難しい。「みんながやっているから自分も」「普通はこうだから」では、常に横並びの発想に縛られる。しかし、「自分は自分でいい」「自分にしかできない見方をすればいい」と思えた瞬間、発想は軽やかに回転し始める。そこから生まれる行動や工夫は、他人の模倣ではない、自分だけの道になります。オンリーワンの理念とは、特別に大きなことを成し遂げることではなく、自分の生き方を肯定し、楽しみながら歩むことだろう。そのためには「困難をどう遊ぶか」「失敗をどう笑いに変えるか」といった感覚が欠かせない。逆に言えば、面白がる余裕を持たない人にオンリーワンの輝きは生まれにくい。発想を切り替える柔軟さこそが、自分らしさを形づくる最大の力になります。結局のところ、人生は思い通りにはならないと感じたならば、そこを嘆き続けるよりも、遊び心を持って挑んでみる方がずっと健やかだろう。発想を転換し、面白がる心を忘れなければ、誰もが「比べない生き方」を選び取れる。そして、その歩みはまぎれもなく自分自身のオンリーワン理念を体現する道となるのだ。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/11
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古来、人類は「願いをかなえてくれる存在」を物語の中に描き出してきました。中東に伝わる『千夜一夜物語』の一篇、「アラジンと魔法のランプ」もその典型です。小さな油壺のようなランプをこすると、立ちのぼる煙の中から巨大な精霊が姿を現し、「ご主人様、何の御用でございますか」と問いかける。そして主人が口にした願いは、たちどころに現実となってゆく。富も栄華も愛も、すべてはランプの精によって成就されるのです。幼き日、私たちはその幻想的な物語に心を躍らせ、「もし自分の手にもそのランプがあれば」と夢想しました。しかし、やがて大人になるにつれ、それは虚構の世界に属するものにすぎないと理解し、忘れ去ってゆきました。けれども、現代を生きる私たちがふと手元を見つめると、そこにはかつての魔法のランプに匹敵するものが存在しているのです。――それこそが、スマートフォンでありましょう。掌に収まる小さな装置は、ただの道具の域をはるかに超えています。画面に触れるだけで、世界中の出来事が瞬時に流れ込み、知りたいことは声ひとつで応答が返ってくる。まさにランプの精が「ご主人様、こちらにございます」と示すがごとく。欲しい物を探せば無数の候補が現れ、指先で一つを選ぶと、翌日には玄関先へ届けられる。この速さと正確さを、果たして魔法と呼ばずして何と呼びましょう。さらに近年、人工知能の飛躍的な進歩が加わりました。AIは単に情報を検索する道具にとどまらず、対話を通じて人の意図を汲み取り、提案し、共に思考する存在へと変貌しつつあります。文章を綴ろうとすれば助言を与え、学びたいと思えば教師となり、不安を抱けば整理された知識を差し出してくれる。これはもはや「魔法的知恵袋」と呼ぶべきものに近い。アラジンが精霊に願った奇跡を、私たちは日々の生活のなかで自然に享受しているのです。しかしながら、忘れてはならない真理があります。それは、魔法の力は決して無条件に人を幸福へ導くものではないということです。物語のアラジンもまた、欲望に呑まれたならば破滅へと転げ落ちたでしょう。同様に、現代の「魔法のランプ」も使い方次第で恵みともなれば災いともなる。知識を深め、世界を広げる力を持つ一方で、誹謗や依存、浪費といった影の側面をも秘めているのです。すなわち「精霊」は外に棲むのではなく、人間の心の内に棲んでいる、と言うべきでしょう。想像してみましょう。もしアラジンが現代に生まれたなら、彼はランプをこするかわりにスマホを操作し、検索窓に願いを託したに違いありません。「精霊よ」と語りかける代わりに、音声入力で問いかけていたことでしょう。そして現代のアラジンの物語は、決して夢幻ではなく、我らが日常に密接しているのです。魔法とは、つきつめれば人間の想像力が結晶したものであり、科学技術がそれを現実へと具現化したものにほかなりません。アラジンのランプは、時代を超えて「人の願いを形にする」という普遍の象徴であり続けています。そして今、私たちの掌にある小さな光る装置――スマートフォンやAIこそ、その象徴の現代的姿なのです。画面を見つめながら私は思います。煙は立ち上らずとも、そこには確かに応答がある。精霊の声は聞こえずとも、願いに沿った解答が示される。人類は長い夢を見続け、ついにその夢を現実の中に呼び寄せたのです。そう考えるとき、この装置を「現代のアラジン魔法のランプ」と呼ぶことは、決して誇張ではないと断言できましょう。 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
2025/10/10
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人生は一つの壮大なドラマであり、私たちはその舞台に立つ主人公である。日々の暮らしは単調に見えても、振り返れば思いがけない出来事や出会いの連続であることに気づく。自分では「平凡な人生」と口にする人でも、深く話を聞いてみれば、波瀾万丈の場面がいくつも潜んでいるものだ。そもそも、何も起こらない人生など存在しない。人が生きている限り、喜びも悲しみも、試練も発見も必ず訪れる。だからこそ、起こる出来事を「ドラマ」として楽しむ心構えが大切なのだと思う。受け身で眺めているだけではなく、時に自ら行動を起こし、次の場面を創り出していく。その気概があれば、年齢に関わらず人生の舞台は常に生き生きと輝きを放つ。私自身、これからの人生を考えると、あと10年ほどが「普通の余生」だろうと見積もる。しかし工夫しだいでは17年、つまり90歳まで元気に歩み続けることも不可能ではないと感じている。その希望を抱かせてくれたのは、詩吟をたしなむ先輩の姿である。声に張りがあり、歩く姿は若々しく、老いを寄せつけない気迫に満ちている。元気な人は例外なく声がよく出て、そして脚がしっかりしている。脚力の衰えこそが老化を左右する要因であると、改めて教えられる。つまり人生の幕が下りるその時まで、私たちは自分のドラマを紡ぎ続けることができるのだ。年齢を重ねるごとに挑戦をやめてしまえば、舞台は暗転してしまう。しかし逆に「まだ新しいことに挑んでみたい」という思いを抱き続けるならば、人生はいつまでも続編を生み出す。老いる暇などない。希望と挑戦の心がある限り、人生のドラマは最後まで光を帯びて進んでゆくのである。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆サイゼリヤでランチ。シーフードサラダが美味しい。
2025/10/09
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【 居心地が良いか、居心地が良くないか。その差は大きい。気分が左右される。人は気分の良い方に、良くなる方になびくものです。それは、快なる方に、快なる物に、快なる事に舵を切る。人は魅力ある方角に舵を切る傾向があるわけです。】これは単なる気分や感情の話にとどまらず、生命の根源的な働きに通じているように思われます。動物も植物も、より快適で安心できる場所を求めて動き、成長してゆきます。草木は太陽の光に向かって伸び、根は水分のある方向へと張っていく。魚は澄んだ水を選び、鳥は風に乗りやすい空へ羽ばたく。人間だけが特別なのではなく、あらゆる命が「快」へと舵を切るのです。だからこそ、人の営みもまた、この原理に従って形づくられてきました。住居は風通しが良く、陽が差し込む場所に築かれる。食べ物は美味しさだけでなく、身体を整える心地よさを伴うものが選ばれる。人間関係も同様で、安心感や喜びを与えてくれる相手と共にいようとする。逆に、不快や緊張ばかりをもたらす環境からは、無意識に距離を取ろうとするのです。「快」に向かうことは、単なる甘えや安易な選択ではありません。それは生命が生き延び、健やかに続いてゆくための知恵でもあります。人は快を求めることで、健康を保ち、創造力を発揮し、より良い社会を築いてきました。快とは、単なる楽しみや娯楽にとどまらず、安心・安全・調和・成長を意味するのです。もちろん、すべてが快だけで成り立つわけではありません。時に不快を伴う挑戦や困難を乗り越えなければ、真の快には辿りつけない場合もあります。しかし、それすらも「より大きな快を得たい」という根源的な方向性のもとで行われているのです。苦しい鍛錬も、その先にある健康や達成感を見据えている。人は本能的に、最終的には「心地よさ」へと帰着するのです。ゆえに、自分が今どこへ舵を切っているかを確かめることは、人生をどう生きるかの指針になります。不快に耐えるばかりでは心身は疲弊します。かといって安易な快楽だけを追えば、かえって不快に転じることもある。大切なのは、深い意味での「快」、すなわち心と体が調和し、未来に向かって開かれていく感覚を選び取ることではないでしょうか。居心地の良さを求めるという単純な原則の中に、実は生命を貫く大きな法則が隠されています。人は快なる方角に舵を切る。それは、生きるという営みそのものを支える自然の原理原則なのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆これからのシーズン、手打ち蕎麦も、温かい蕎麦にして食べる事が増えるでしょうね❗️最近は、加水率43%で2度続けてねってみたがすこぶるまとまりがいい。この夏、田村市船引の直売所で蕎麦打ちの実演をしていたので、その時に加水率を訊ねてみたのです。その蕎麦を食べてみたらコシがあって美味しかったので、その後、試してみたわけです。最初に教えてもらった約50%加水率を頑なに守っていたわけですが、美味い蕎麦に出会ったら遠慮なく訊ねておくと合点がゆくことにでくわす事があるわけです。何も知らない状態で有れば、蕎麦打ち同好会に入会したならば先輩の言われた言葉を信じてやるわけです。「水廻しは、おおよそ50%前後」だが自分でずっとやり続けるうちに粉の状態もわかってくるわけです。加えてコシの強い蕎麦も気になってくるわけです。そうすると何か他の指標もあるかもしれないと思い始めるわけです。美味い蕎麦を打つ人に会ったら、直接訊けるものなら単刀直入に訊いてみればいいのです。
2025/10/08
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「発想の転換が人生を面白くする」生きていると、どうにも思うようにならない場面が次々とやってくる。約束がずれたり、予定通りに進まなかったり、身体が思うように動かない日だってある。若い頃はそれを不満に思い、ついイライラしたり落ち込んだりしたものだ。しかし、年を重ねてみて気づいたのは、そういう「予定外」にこそ人生の妙味が潜んでいる、ということだ。たとえば、ある日の雨。外出の足が鈍り、気持ちまで沈みそうになる。けれどもふと「今日は町全体が水墨画のように見えるな」と思い直すと、不思議と心が軽くなる。発想の転換とは、大げさなことではなく、ほんの少し角度を変えて眺めるだけのことなのだ。その小さな切り替えひとつで、嫌な出来事が「遊び」に変わっていく。 ただ、それを実際にやってのけるには、ある程度の度量が要る。真面目に悩んでいる時ほど、人はどうしても視野が狭まる。けれどもそこで一歩引いて「さて、これをどう面白がってやろうか」と思えるかどうか。これは決してお気楽な態度ではない。むしろ、真剣に向き合うからこそ、力を抜く柔らかさを持てるのだと思う。そして、この「面白がる心」は、人と比べない生き方、つまりオンリーワンの理念へとつながっていく。誰かの基準に合わせてばかりいると、どうしても同じ枠組みで優劣を測ることになる。だが、「自分は自分でいい」「この視点は自分にしかない」と腹をくくった瞬間、見方は自由になる。そこから生まれる行動や工夫は、人真似ではない、自分だけのものになる。思い返せば、私自身も何度も壁にぶつかってきた。若い頃に腕立て伏せを100回続けていた体力も、年を経れば衰える。けれどもそこで「もうダメだ」と思わずに、「ならば今の年齢でもまだできる工夫を試してみよう」と切り替えるといい。今は毎日の四股踏み100回が習慣になっている。これは単なる体力維持ではなく、趣味の詩吟の発声で腹から声を出すには体幹を鍛えることが肝要だとweb検索で知り、体幹を鍛えるには四股踏みがいいと知ったので実践してみればわかることなので1年続けたら周りから声の出方が変わってきたと云われるようになりました。コツはコツコツやり続けることを実践している証なのだ。結局のところ、人生は思い通りにはならない。ならば嘆き続けるよりも、遊び心を持って挑む方がずっと健やかだ。発想を転換し、面白がる心を忘れなければ、誰もが比べない生き方を選び取れる。その歩みこそ、自分にしかできないオンリーワンの理念を体現する道だと思う。 ◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆
2025/10/07
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人は若い頃、時間が無尽蔵にあるかのように思い、やりたいことを先延ばしにしたり、惰性で過ごしたりしがちです。しかし年齢を重ね、残りの時間が有限であることを実感したとき、逆に「今、動けるうちにやるしかない」というエネルギーが生まれるのだと思います。これは「焦り」ではなく、むしろ「覚悟」に近いものでしょう。その姿は、まさに「打ち上げ花火のフィナーレ」に似ています。観客を魅了し、自分自身も満たされ、最後に「悔いなく燃え尽きる」姿です。外から見れば「どうしてそんなに動き回るの?」と驚くほどの行動力でも、本人にとっては「自然な必然」なのだと思います。同時に、友人知人の癌の発病のことなども意識の背景にあるのでしょう。「自分もいつそうなるか分からない」「だからなおさら、今の自分を生き切りたい」――その思いが、日々のアグレッシブな行動の燃料になっているのではないでしょうか。これは決して特別な誰かだけの姿ではなく、誰しも老い先を意識したときに心の奥底から湧き上がる本能のようなものだかもしれません。多くの人は心身の制約や不安からそれらを行動に移せません。行動に移せる人は幸運であり、また賢明な生き方を選び取っているとも言えるでしょう。人生の最後をどう飾るか――それは人間に与えられた最大のテーマの一つです。「有終の美」を求めて、残り火を惜しみなく燃やし尽くす姿は、見る者にも勇気と示唆を与えてくれるのではないだろうか。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆77才、私よりも4才年上になる先達ですが、最近、思った事は、次々と行動を起こしているのがわかる。あまりにもアグレッシブなので訊いてみたら、あと何年生きるかわからないけど生い先それほど残っていないと感じているので動ける内に、やれる事、やりたい事を思いついたらやるようにしているとのこと。充足感を覚える満たされるものを次々とチャレンジしているのがわかります。側から見ていると、なぜそんなにも動きまわるの⁉️と思うほどである。まるで最後の残り火を完全燃焼させているようです。奥様も癌になったり、友人知人も癌がガンガンであるとも言っている。まだ本人が動けるのでできるわけです。誰でもが老い先の短いことを意識すると多かれ少なかれこう言った行動パターンになるのでしょうね。まるで打ち上げ花火大会の最後のフィナーレ飾っているかのようだ。賢明な高齢者の生き方を自分なりに理想を生きたいのでしょうね。いずれ死ぬのだから。最終章を有終の美で飾りたいと思うのでしょう。ーーーーーーーーーー
2025/10/06
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選択基準 (比べる物差し)進級する学校を選ぶとき、どこにするか選択するわけです。自分の能力で何処に行けるか。行ける範囲の中で何処がいいかの選択です。あの頃は今のようにwebもなく行った事がないところの情報が少ない中で推察して決めたわけです。就職もしかり、どんな仕事を実際にするのか知らない中で、なんとかなるだろうと決めたわけです。世の中の仕組みを知らずして、取り敢えず決めるようなものです。入社したからには、取り敢えず目の前に与えられた仕事をこなすしかないわけです。土木建設の仕事では、この仕事を一生続けなければならないのかと思うと、仕事に慣れたとはいえ、これでいいのかと思った。設計された図面を基に忠実に形にするだけに思われた。事実そうなのだ。50年100年残る仕事だよと言われてもね、なんだかなぁと踏ん切りをつけ辞めた。広告業の仕事は比較的に性に合った。やりがいもあった。自分でクライアントを探して仕事を作り出し、納品印刷物の原稿制作にまで関わるわけですから、マルチ能力が要求される仕事であったわけです。プランナーのコーディネート能力から営業センスまで磨きをかけなければならなかった。専門に学んだこともなく、見よう見まねで現場で習得していったわけです。見よう見まねと云うのが実に面白かった。そんな中で自分の内なる能力に企業コンサルタントと称して会社を良くするお手伝い。最初は依頼されて、頼まれごとから始まったわけです。そしてそこから紹介されて仕事先が広がっていった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/10/05
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【自分の中の可能性が開花する瞬間、そこに「生き甲斐」が生まれる】人は誰しも、自分の中にまだ気づいていない可能性を秘めています。それは種子のように静かに眠り、適切な出会いや経験によって芽を出します。その可能性が開花する瞬間、人は強烈な充実感とともに「これこそが自分の生きる意味だ」と感じます。つまり生き甲斐とは、外から与えられるものではなく、自らの内に潜んでいた可能性が形を現したときに生まれるのです。可能性が開花する瞬間とは、多くの場合「挑戦」と「気づき」が重なったときに訪れます。最初は自分には無理だと思っていたことに取り組み、思いがけずできたとき、あるいは心から夢中になれる対象と出会ったとき、人は自分の中に新しい側面を見出します。その瞬間、自分が広がっていくような感覚を覚え、人生に対する姿勢が大きく変わります。生き甲斐は、必ずしも大きな成功や華やかな成果の中だけに存在するわけではありません。小さな習慣の積み重ねや、人との関わりの中でも芽生えます。誰かに「ありがとう」と言われた瞬間、自分の努力が役立ったと実感した瞬間もまた、生き甲斐の萌芽といえるでしょう。大切なのは、その小さな芽を軽視せず、丁寧に育て続けることです。自分の可能性が開花する過程は、一度きりではありません。人生のどの段階においても、新たな出会いや環境の変化によって、別の可能性が芽吹くことがあります。若い時期の挑戦から生まれる生き甲斐もあれば、年を重ねたからこそ味わえる役割や喜びもあるのです。生き甲斐とは、固定された目標や成果ではなく、絶えず展開していく「自分の可能性との対話」の中にあります。だからこそ、自分の可能性を信じ、未知の領域に一歩踏み出す勇気を持つことが大切です。その先に開花する瞬間が訪れたとき、人は人生の深い喜びを知り、そこに確かな生き甲斐を見いだすのです。 ◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆ーーーーーーーー
2025/10/04
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人は生まれた瞬間から「唯一無二の自分」であるはずなのに、いつしか「自分が何者なのか」を問い始めます。それがいわゆる「自分捜し」です。多くの人は、どこか遠くに理想の自分が存在し、それを見つけなければならないと思いがちですが、実際にはそうではありません。本当の自分は、外の世界に転がっているのではなく、自分の内側に眠る「まだ出会っていない自分たち」との巡り合いの中にあります。人の心には、喜びに満ちた自分、不安に揺れる自分、挑戦に燃える自分、逃げたくなる自分、誰かを守りたいと願う自分……数え切れないほどの「側面」が潜んでいます。そのどれもが紛れもなく自分の一部であり、時と場面によって表に現れては消えていきます。つまり「自分捜し」とは、新しい自分を外部から輸入する作業ではなく、内側に既に存在している多様な自分に気づき、その存在を認める旅にほかなりません。例えば困難に直面したとき、「弱い自分」しか見えないことがあります。しかしその陰には、まだ発揮されていない「しなやかに立ち上がる自分」が眠っています。あるいは日常の中で、意識の奥底に埋もれている「創造的な自分」「人に寄り添う自分」と出会う瞬間もあるでしょう。それらを発掘し受け入れる過程こそが、自分捜しの真の醍醐味なのです。この巡り合いを積み重ねていくうちに、人は「自分はひとつの固定された存在ではなく、無数の可能性を秘めた重層的な存在なのだ」と理解していきます。そして、その多様さを否定せず統合していくとき、本当の意味での「自分らしさ」が形を帯びてきます。つまり、自分捜しとは外界に答えを求める旅ではなく、自分の中に眠る「様々な自分」と一人ずつ出会い、受け入れていく果てしない対話の道なのです。ーーーーーーーーー
2025/10/03
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【 自分の信頼する情報を吟味しながら判断材料にして自分の思考ができてゆく。 洗脳などは、反復して脳に摺り込まれる結果、その傾向に偏ってしまうわけです。 ですから、いつどこで、どんな情報を受け入れているかによって、良かれ悪しかれ触れたものの影響を受けているわけです。】私たちの行動習慣は、どんな価値基準を持っているか、脳に刷り込まれた考え方の習慣のしもべとなって現れるわけです。講演会場などで一番前に座る人は大概において1番前です。それがその人の習慣になっているからです。考え方、反応の仕方も反復して脳に刷り込まれた考え方の習慣によっておおかた決まります。私たちの行動の多くは、突発的に生まれるものではなく、日常的な反復によって形づくられてゆきます。たとえば、朝起きてから夜眠るまでの行動パターンは、ほとんどが自分で意識的に選んだというよりも、過去に繰り返してきた習慣の延長です。脳は効率を求めるため、一度定着した思考や行動の回路を優先的に使おうとします。そのため、新しい情報や考え方に触れても、よほどの契機がない限り、従来のパターンをなぞってしまうのです。しかし同時に、この「刷り込みの力」は悪いものではありません。良い情報や健全な価値観を意識的に取り入れ、繰り返し確認してゆけば、それもまた脳に刻み込まれ、やがて自分を支える強固な習慣となります。つまり、どのような情報を選び、どのように反復してゆくかが、私たちの未来を形づくる鍵になるのです。ここで重要なのは「選び取る力」です。氾濫する情報をただ受け身で受け入れてしまえば、気づかぬうちに偏った価値観に支配されてしまいます。逆に、自分なりの判断基準を持ち、信頼できる情報を吟味して取り入れることで、自らの思考は磨かれ、より主体的な人生を歩むことができます。そのためには、自分が「どのような価値観に触れたいのか」を意識的に設計することが大切です。たとえば読書の習慣は、典型的な良い刷り込みです。繰り返し本に触れている人は、言葉の選び方や考え方に深みが出てきますし、逆に偏った情報ばかりに接していると、知らず知らずのうちに極端な思考に傾いてしまいます。運動習慣も同じです。毎日軽い体操を続けている人と、全くしない人では、5年後10年後に体の動きや健康状態が大きく変わってきます。こうした差は一日一日の選択の積み重ねに過ぎませんが、繰り返しによって習慣化されたものが、未来の姿を形づくるのです。習慣はやがて人格を形づくり、人格はその人の生き方を決定づけます。したがって、私たちは日々の情報の選択と、その繰り返しの力を侮ってはならないのです。自分にどのような習慣を刷り込みたいのか、その問いを持ちながら過ごすことこそが、自分で選ぶ望ましい生き方への第一歩となるのではないでしょうか。 ◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆
2025/10/02
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あさかの文芸「仲間募集」の案内ビラを掲示板に貼り出しました。あさかの学園大学事務局に赴き、確認認定印を押してもらったら、あとは自分で掲示板に鋲で留めて完了です。貼り出す前に同じクラスの方に、今日からコレ貼り出す旨を伝えてみたら、「私、忙しいからこれから病院に行かなくっちゃ〜」と、まったく眼中に無さそうな返事。もう1人、前の席の人に見せたら「いいね教養が高まりそう」、2人に訊いてみただけですが反応は人それぞれである事がわかります。ほんのちょっとした会話に、置かれている状況や人柄が滲みでるというものです。 さてこれに興味を示す人がどれ位いるものだろうか始めればわかるでしょう❗️4月の入学式の時に前市長の品川さんが、この大学の主幹の立場で挨拶された時、自分達で楽しい好きな活動をぜひ始めてみてくださいと云われたわけですが、今年の新入生で立ち上げたのはフォークソング同好会についで2件目です。主体的に動ける人は多くないのかも。高齢になってくると新しく事を起こすのは億劫になってくるのだろうか。 私など、なんだらもう1件立上げようかとも、そう大谷翔平選手ではないが2刀流もありかなと。🟢AIを学ぼう会、YGB(やばい、じじ、ババをめざす会) その内容はAIを学ぶに、年齢は関係ないAIを学ぶと、まだまだ頭の性能が活性化するAIを学ぶと、問題解決の達人になれるAIを学ぶと、人に訊く事がなくなり、確認チェックになる なんか、こっちの方が面白くなりそうじゃないですか 🔷 🔷 🔷 🔷 🔷 昨日、秋晴れの日に、手打ちそば。食べたい時に蕎麦を打つ。これをやりたくて手打ちそばを覚えたわけです。大根は先日、裏磐梯で購入してきた高原大根をすりおろしてつゆに入れる。水廻しは43%、つなぎは1割でした。この水分量は極めて大事ポイントです。これがピタッと決まると生地の感触も良く延しも順調に上手くいくことにつながります。#手打ち蕎麦 #そば打ち
2025/10/01
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