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「限りなく少なく」豊かに生きる ドミニック・ローホー著 原秋子訳 図書館に足を運ぶと背表紙の題名に引き寄せられることがある。自分の日頃の潜在意識と共鳴するかのような気がする。こう云うことに関心を持っていたのかと思う自分との遭遇でもあると思っている。故にまだ足を運んでいない初めての図書館に寄るたのしみでもあるのです。館内に並んである蔵書は図書館によって異なるわけです。各図書館の個性みたいなもの、よって未知なる遭遇への楽しみがあるわけです。内なる知的好奇心を知るキッカケにもなるのです。断捨離、方丈記にみる精神そうです、図書館で出会った『限りなく少なく豊かに生きる』という一冊は、まさに私の内なる声を代弁してくれるものでした。必要以上の物を持たず、身の回りを整え、心を自由にする——そんな断捨離の思想が、現代に生きる私たちに静かに問いかけてくるものがあります。この思想に触れると、自然と鴨長明の『方丈記』の世界が頭に浮かびます。たった一丈四方の庵に身を寄せ、世の無常を見つめながら、己の心の平穏を求めたその姿は、まさに「少なく持ち、多くを感じる」生き方の極致とも言えるでしょう。現代の私たちは、物に囲まれ、情報に溺れ、便利さと引き換えに何か大切なものを手放してしまってはいないでしょうか。方丈記の中にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という一文は、変化と無常を見つめながらも、静かに受け入れていく態度を示しています。断捨離もまた、ただ物を減らすことが目的ではなく、何を手放し、何を本当に大切にするかという選択を通して、心の在り方を問い直すことなのだと感じます。日々の暮らしの中で、私たちは多くの「ノイズ」に囲まれています。それは物だけでなく、情報、人間関係、期待、義務といった目に見えないものも含まれます。断捨離は、それらを一つひとつ見つめ直す行為でもあります。そうすることで、初めて本当に自分にとって必要なもの、心を豊かにするものが見えてくるのではないでしょうか。図書館という場所が、静かながらも濃密な出会いの場であるように、断捨離もまた、自分自身との対話の時間です。物を減らすことから始まり、心を軽くし、そしてより深く世界と関われるようになる。そんな生き方に、今あらためて惹かれています。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/31
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ああなりたい、こうしたいと云う欲求が生まれたら願望実現へのレールをつくる胸板を厚くしたいと思ったら、、、(まずは目標をたてる)どんな方法があるのかを調べてみる(目標に到達させる方法を探る)具体的に行動に移す、、、、、、、(やってみる、実行し続ける)大胸筋の筋トレメニュー仕事の基本に、Plan - Do - See(プランドゥシー)がある仕事を上手に進めるためには、Plan - Do - See(プランドゥシー)、つまり 計画 - 実行 - 評価を心掛けることが必要といわれています。願望を現実に変えるには、単なる「思い」だけでは足りません。それを形にするためには、具体的な行動計画を立て、実際に動き、そして振り返るというプロセスを通じて、ビジョンを「実現可能なもの」に変えていく必要があります。まさに「願望実現のレールづくり」が、その第一歩となります。たとえば「胸板を厚くしたい」と思った時点で、すでにレールの起点が生まれています。そこからは、目標を明確にすることが肝心です。「3ヶ月後にベンチプレスで◯kgを挙げる」といった具体的な数値があれば、進捗も見えるようになります。次に必要なのは情報収集です。筋肥大に効果的なトレーニング法、栄養管理、休息法など、自分に合った方法を見つけるプロセスがレールの構築にあたります。そして実行——ここがもっとも重要です。行動に移し、結果を見ながら軌道修正を行っていく。この一連の流れこそが「Plan(計画)– Do(実行)– See(評価)」という仕事にも通ずる基本姿勢なのです。ビジョン実現とは、いわば「日常の中で非日常をつくりだす」営みです。大きな夢ほど、毎日の小さな積み重ねが不可欠です。そしてその積み重ねの中でこそ、自分自身の変化と成長に気づくことができます。行動を通じて自信が生まれ、さらに一歩先の願望へとレールは延びていきます。大切なのは、「できるかどうか」ではなく、「どうしたらできるか」と問い続けることです。思考を止めず、行動を止めず、そして評価を怠らないこと。その繰り返しが、ビジョンを現実のものへと変えていく力になります。夢は叶えるものではなく、日々の行動で“近づけていく”もの——それが、願望実現のレールづくりの本質です。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/30
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川柳には以前から興味を持っていましたが、この歳になるといろんな理不尽なことに遭遇すると、つい一言も口走りそうになるでないですか。云ってみたところ双方とも納得するなんて事はなかなかないわけで、却ってわだかまりを引きずることになったりします。それよりも笑いやユーモアに変え楽しんでしまった方がいいかもと、川島だから川島流の川柳でいこうと、、、今日は、川柳同好会の例会とやらを見学参加してきました。2時間ほど。何をどうやるのだろう2時間も⁉️ 当然、川柳を詠むであろうことは予測できますよね、他に何をやるのだろうかと思ったら、課題の宿題を2題、3句ずつ作ったの提出して仲間が佳作と天地人を選び発表する。選者は自分の詠んだ川柳は軸として発表する。時間進行のフォーマットに則っていた。今日のその場での出題は「梅雨」、私も梅雨の句を3句ほど詠んで提出して1本佳作に選出された。いちおう佳作に撰んでおいて気分よく入会してもらおうというサービス精神か(笑早すぎる 梅雨に心の 準備なし言葉の力というのは不思議なもので、たった十七音の中に、その時々の感情や風景、皮肉や哀愁までも込められてしまう。これまでの人生で心に引っかかっていた「なんだかなあ」という場面が、川柳として形になったとき、妙にスッと気持ちが軽くなる。そんな体験を知る事ができました。落語や講演を聴くのとは違い、そこに自分も句を詠むことで当事者となるわけですから。今日の例会で感じたのは、川柳とは自分の句が誰かの心に触れ、選ばれる。逆に誰かの句に「なるほど」と頷く。そこには句を通じてちゃんとした対話があり、人と人との共鳴がある。実に奥が深い、体験してみないことには知りえない世界でした。これからは、身の廻りの出来事も少し違った角度から眺めてみるようになるでしょうね。ちょっと腹が立つようなことでも、「これは一句になるぞ」と思えれば、冷静にユーモアを交えて観察できる。川柳は、もしかすると人生をより豊かにするための“心のメガネ”かもしれません。少しずつですが、学びながら、自分らしい「川島流」を築いていけたらと思うわけです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆諺に「案ずるよりも産むが易し」という言葉があります。あれこれと迷うところが有ったら、同好会に足を踏み入れてやってみたらわかるのだ。蕎麦打ちがそうだった。詩吟も然り、カラオケだってなんとかなったじゃないか。川柳も半年から1年やってみれば概略の状況が掴めるだろう。合うか合わないかもわかるというものです。やり始めてみないことには外から眺めているだけでは、わからない事がある。思い返してみれば、何かを始める前には、いつも心のどこかで「自分にできるのだろうか」「続けられるだろうか」と、妙に慎重になっていた気がする。でも、いざ始めてみると、案外どうにかなるものだ。最初は右も左もわからなくて戸惑うけれど、人は慣れるし、周りの人が教えてくれる。何より、楽しもうとする気持ちがあれば、自然と続けられる。川柳もまた、最初の一歩を踏み出すまでに少し迷いがあった。五・七・五というわずか17音に、自分の思いや風景、時にはユーモアをどう表現すればいいのかと、構えてしまったのだ。しかし、実際に書いてみれば、そこにあるのはただの「言葉あそび」ではなく、自分自身の生活や感情を見つめ直す時間でもあると気づいた。句会に出て、他の人の作品を聴いたり、感想をもらったりするうちに、「なるほど、こういう視点があるのか」と驚かされることも多い。まさに、百聞は一見に如かず。知識や技術は、実際に手を動かし、口を動かし、そして耳を傾けることで、少しずつ身についていく。始めることをためらっていた自分に今なら言える。「完璧じゃなくていい。下手でもいい。とにかくやってみることだ」と。うまくいかなければ、それはそれで一つの経験だ。やらなかった後悔よりも、やってみての反省の方が、ずっと前向きだ。何かを始めるのに、年齢や才能を言い訳にしてはいけない。人生のどの段階においても、新しい世界は開ける。そう思えば、これから先も、まだまだ面白いことに出会える気がしてくる。さあ、次は何をやってみようかな。そんなふうに思える自分が、いるのはちょっと頼もしくもあり誇らしくもある。いつだって今日が人生の始まりの精神で。
2025/05/29
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自然体、例えば白髪の頭髪をそのまんま、あるがままに染めずにいれば余計な出費はかからない。一方、気になるのでと黒く染めれば、ずっと染め続けねばならないわけです。自分のありたい姿、願望であるなら化粧や身だしなみと一緒と云う処でしょうか。私の場合、ジアミン(白髪染めの化学物質)に皮膚が反応して被れるので使えないという事もあり、地のまま白髪で有ります。気にしなければ個性として認知され、そういうものだと思われるわけです。白髪は見苦しいと思わなければ気にならなくなるわけです。自分の造形を受け入れればいいわけです。ところがであります。散髪に行って、鏡で頭頂部などを見えるようにしてくれチェックできるように見せてくれるのです。「ここ1年でだいぶスカスカが進んだ様に見えますね」と言ったら、髪の毛が細くなったんですよと返してくれるのです。そこで髪の毛に活力を与えて太くしてくれる整髪料などないの⁉️と尋ねてみました。2〜3のメーカの製品名を挙げてくれましたが、必ずしも即効性があるとは言えない様ですと。と云うことは、自分の手で頭髪の毛根に気功手当をして髪の毛に栄養が行き渡るような実験をしてみましょうかね。果たして気功手当によって髪の毛が太くなるのかの実験です。問題は毎日毛根に気功手当が続けられるかどうかがポイント。とはいえ、「あるがまま」を受け入れることと、「できる努力を惜しまない」ことは矛盾しないと思うのです。私は、無理に若作りをしようとは思いませんが、自分の身体に対して丁寧に向き合うことは、大切な営みだと考えています。ましてや、せっかく自分には“気功手当”という得意技があるのですから(笑)、これを使わない手はありません。毛根に向かって手をかざし、じんわりとした熱を意識しながら、エネルギーを注ぎ込むようにしてみます。目を閉じて深呼吸し、頭頂部に意識を集中。手のひらから放たれる温かな「気」が、細くなった毛根をじわじわと刺激していくのを感じます。気功は、目に見える即効性は乏しいかもしれませんが、継続することで確かな変化をもたらすものだと私は信じています。問題は、これを「毎日続けられるかどうか」。まさにここが勝負所。気功とは心身の調律でもあるわけで、日々の実践の中で自分自身と向き合う時間が生まれます。髪の毛が太くなるかどうか、それも確かに気になるところですが、それ以上に「自分の身体と、時間をかけて付き合うこと」そのものに大きな意味があるようにも思うのです。もし結果として髪に張りが出てきたなら、それはもちろんうれしい。でも、たとえ目に見える変化が乏しくとも、自分で自分の手を通じて「整えていく」行為は、確実に心を穏やかにしてくれるのです。そう考えると、気功手当の実験は、髪の毛のためでありながら、実は自分の内面を見つめ直す旅なのかもしれませんね。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆🔸発酵あんこの作り方、炊飯器で作れる砂糖なしの自家製あんこ。 https://l.smartnews.com/m-llJvsZy/Kx4b23
2025/05/28
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背表紙の本の題名に手が伸びる数ある図書館の本の中に自分の関心と共鳴するものがあると思わず手が伸びる。著者と本の題名です。目次を目で追うと関心ある言葉が並びます。知の巨匠とも称される立花隆氏を俯瞰したような書物でありました。いつか必ず死ぬのに、なぜ君はいきるのか 作家、立花隆「人間とは何か」など80年の生涯を通して追い求めてきたテーマ好奇心を持ち続けていれば決して精神的に年老いる事はないでしょう。人間は、いずれ死にます。でもそれまでの間に、どれだけワクワクする体験をすることができるのか。立花隆は、私たちにとって、生きること、学ぶことについての羅針盤の役割を担ってくれるのです。 2022/10 池上彰解説やりたいことをやれ、勝ち負けで生きるな 人間何が幸せかといえば、「やりたいことを、やりたいように、やる」 という一点に尽きると思っている。旅の価値、人生の価値は成り行きにある 旅は(人生はといってもいいが)結局のところ出会いなのである。出会いは 本質的に計算になじまないのだから、出合いに期待するなら、予定なんて立てずに成り行きにまかせるのがいちばんである 求めんとする意志 ほんとうの情報力とは? 未確認情報はウラ取りをする未来を考えなくてはいけない人はどう生きるのか❓なぜ生きるのかに対する答えはなくても、現に人は生きています。なぜ生きるのかは人間にはとらえきれないことかもしれませんが、どう生きるかは自分で決めることができます。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆🔸『重曹』には癌や、被爆、肝臓病、インフルエンザ、アレルギー、虫歯など、いろいろな病気を治す効果があるかも?!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2025/05/27
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それをやらずにはいられない。憧れて、自分もあれをやってみたい。憧れの対象が行動の原点。何気にやってみたら、やり進めてゆく中で面白さに気づく。そして更に精進してゆくパターン。ハマってゆくパターン。トレーニングの世界。最初は病院から勧められた運動療法の一環であったので取り敢えずやり始めた。最初の頃は要領が判らずに負荷をかけ過ぎて筋肉を痛めてばかりいた。基礎体力も足りない人の進め方もわからない状態だったわけですが、やり続けていたら負荷体力みたいなものが追いついてきた。そのころになると汗をうっすらですがサウナとは違う汗をかく爽快感みたいなものがわかり始めてきたわけです。心なしか筋肉らしきものもつき始めた。そうなってくるとトレーニング意欲というものが、やらずにはいられなくなるわけですが、そうなるのに約10ヶ月余もかかりました。もう一つ、身体の柔軟性。以前ヨガをやって居た30年以上前は床に坐り開脚して両手を挙げてゆっくり前屈するとペタッと胸まで床に付いたものですが、今一度その柔軟性を取り戻したいと思ったわけですが、額が床マットに付くようになりました。果たして今年中にピタッと胸まで付くようになれるだろうか。これもじっくり継続してチャレンジしていきたい。これもコツコツと続けて行く挑戦です。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日の25日、雨模様であった天候が雨が止んだので山開きに足を運んでみた。天候が違うと印象がどう違うのかと。霧の中を登って行くのも幻想的ですね。緑がとてもきれいでワンダフル‼️ひょうんなことから地元の方でこの山に詳しい方に山椒魚が居る秘密の場所を教えてもらった。昔はウジャウジャいたが今日は2匹だけといたと云う、しかも黄金色に輝く山椒魚だと云うので、ぜひ見てみたいと帰路に案内してもらい見たのですが、その時は1匹だけでしたが目視できました。阿武隈山系に山椒魚が生息していたのです。井伏鱒二の山椒魚の短編小説が知られていますが、私なりの短編小説を書いてみようかなと云う気にさせられますね。「黄金色に輝く山椒魚」と聞き、井伏鱒二氏の書いた短編小説の名作を思い出したわけです。しかもこっちは黄金色に輝いていたって❗️しかも2匹、興味をそそられるではないですか。小説の山椒魚はオオサンショウウオであった。それらしきものを見つけた時、背中の紋様の黄金色が細長いので随分痩せている山椒魚だと思った。「手で触って確認してみようか」と口にした途端に、スルスルと身体を蛇行させながら脇の岩陰に移動して視界から消えてしまった。幸い写真撮っていたので拡大してみたら、黄金色は背中中央に縦に連なる紋様で両サイドと手足は地面と同じ色の保護色になっていることが見てとれた。
2025/05/26
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自分好みの味に仕上がった時、素材に合った調理法を見つけた時、菊芋の調理法をあれこれと試作を試みたところ、シャキシャキ感を活かす調理が良いだろう。菊芋のキンピラなど候補に挙げた。油揚げの甘辛煮を作った煮汁が余っていたので、菊芋をスライス切りして、それに鷹の爪を輪切りにしてタネごと1本入れてみた。これが実にピタリとはまった。人参、ごぼうも一緒に炊きあげればキンピラだ。最初に油揚げの甘辛煮を作ったあとの煮汁でやればいいかも。 ーーーーーーー自分好みの味に仕上がった時、素材に合った調理法を見つけた時、その喜びは何にも代えがたい。今回、そんな発見を求めて世界三大健康野菜の一つ、アピオスに挑戦してみた。アピオスは甘みとホクホク感が特徴で、栄養価も高い。じゃがいもに似た風味を持ちながら、よりコクがあるので、どんな料理に合うか考えていた。蒸して食べるのが一般的だが、せっかくならもう一歩踏み込んで、より美味しく楽しめる方法を探したい。そこで、まず試したのがアピオスの甘辛炒め。ちょうど油揚げの甘辛煮を作った煮汁が余っていたので、これを活用することにした。アピオスを薄めの輪切りにして、フライパンで軽く炒める。表面に焼き色がついたところで、甘辛煮の残り汁を加えて、じっくりと煮絡める。さらに、鷹の爪を輪切りにしてタネごと入れることで、ピリッとしたアクセントが加わる。しばらく煮詰めると、アピオスがほどよく味を吸い、甘辛さの中にほのかな辛みが効いた絶妙な一品に仕上がった。この時点で、すでに「これはいける!」と確信したが、ここでさらにもう一工夫。仕上げにすりごまをたっぷり振ると、香ばしさが増して奥行きのある味わいに。さらに、黒酢をほんの少し加えてみたところ、甘辛さにコクが生まれ、さっぱりとした後味になった。これはご飯が進む味だ!ここで思ったのが、この味付けなら他の根菜とも相性がいいのでは? そこで、人参やレンコンも加えてみることに。結果は大正解!特にレンコンはアピオスのホクホク感と対照的なシャキシャキ感があり、食感の違いが楽しめる。さらに発想を広げて、アピオスの炊き込みご飯にも挑戦。細かく刻んだアピオスと、甘辛煮の残り汁を使って炊き込むと、ホクホクのアピオスが甘辛い旨みを吸って、まるで栗ご飯のような上品な仕上がりに。ごまや山椒を加えても、風味が引き立って美味しい。こうして、ひとつの食材から次々と新しいアイデアが生まれる。料理はまさに実験と発見の連続だ。アピオスの可能性はまだまだ広がりそうだ! ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆天気予報では雨模様であったが雨が止んだので、高柴山の山開きに足を運んでみる気になった。一昨日の天気の良い時も登ったが天候が違うと印象がどう違うのかと。駐車場から登り口にマイクロバスで運んでもらえる。登り口には山開き記念の山バッジを頂けた。10:40 駐車場(登山口まで1kmをマイクロバスで5分)10:45 登山口(登り頂上まで1.1kmを30分)11:15 頂上展望台12:00 下山開始(サンショウウオ探索などあって30分)12:30 登口到着(マイクロバスの待ち時間の都合で30分)13:00 駐車場に到着霧の中を登って行くのも幻想的ですね。緑がとてもきれいでワンダフル‼️だった。ひょうんなことから地元の方でこの山に詳しい方に山椒魚が居る秘密の場所を教えてもらった。昔はウジャウジャいたが今日は2匹だけといたと云う、しかも黄金色に輝く山椒魚だと云うので、ぜひ見てみたいと帰路に案内してもらい見たのですが、その時は1匹だけでしたが目視できました。阿武隈山系に山椒魚が生息していたのです。井伏鱒二の山椒魚の短編小説が知られていますが、私なりの短編小説を書いてみようかなと云う気にさせられます。#サンショウウオ #山椒魚
2025/05/25
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【 2025/05/23(金) 】天候が良いので高柴山(884m)に登ってきました。登り1.1km、往復2.2km、登山口から山頂までの標高差175m、手軽に登れる山です。平日でもありほとんどが定年後のむかし若かった方々です。中には90才の方も。2万株とも3万株とも云われるピンク色の山ツツジがほぼ満開のなだらかな山頂広場。展望台に辿り着いたら友人2人にばったり遭遇。気分の良い風が吹く展望台でのんびり時を過ごしてきました。11:00 登り口11:30 頂上 展望台(90分のんびりと)13:00 下山開始13:40 登り口に到着下山中、登り口まであと300m位の場所で目の前を両手に竹の杖を付いて歩くご年配の男性の足どりが怪しい、やがてへっぴり腰から腰砕けになってその場にへたり込んで動けなくなって立ち上がれませんでした。こんな時は私の出番です。私のザックを枕にして横になってもらい腰に気功手当約10分ほど。立ち上がってもらって確認。復活して歩けるようになって良かった。聞けば78才、昨日テレビで高柴山の光景を見て須賀川から奥様と2人してやってきたとのことでした。気功手当10分で立ち直れることがわかりました。 一昨年の山開きに参加しましたが、山躑躅が峠を過ぎていたので、満開のツツジを天気の良い日にとのリベンジでした。が、なんかイキイキと咲いてなさそうな感じ。地元の方が云うには虫にやられているかもと。15年前の2010年の山開きは霧の流れる中であったが満開で燃えるような勢いを感じたものです。今回の高柴山は4〜5回目になるかと思う。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/24
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たまにはリフレッシュしよう非日常、ハレの日、旅、登山など、ちょっと日常の生活圏から離れてみることによって気分、心持ちが変わる。気分転換、リフレッシュする。異空間に身を置いてみると云う事です。リフレッシュすると再起動する。高齢化したと思ったら再輝動もいいね。リフレッシュの効用日々の生活は、知らず知らずのうちにルーティン化していきます。決まった時間に起き、同じ道を通って職場や学校に向かい、似たような作業をこなし、家に帰る。この繰り返しの中で、気づけば新鮮さや刺激を失い、心が停滞してしまうことがあります。そんなときに大切なのが、「リフレッシュすること」です。本を読むことでも、行った事のない隣町の図書館に行ってみると気分が代わりリフレッシュします。普段、目にする事のない本が置かれていたり気になっていた著者の本に遭遇できたりすることが有ります。広いデスクを独り占め、この町は図書館を利用する人が少ないのかと思うような穴場も有ります。リフレッシュとは、単に休息をとることだけではありません。むしろ、日常の枠から一歩外に踏み出し、普段とは違う環境に身を置くことが重要です。たとえば、旅に出たり、登山をしたり、行ったことのない場所を訪れたりすることで、新しい景色や文化、人との出会いを経験することができます。それによって心が刺激され、新たな気づきを得ることができるのです。また、リフレッシュには精神的なリセット効果があります。日常生活の中で蓄積されるストレスや疲労は、知らず知らずのうちに心を曇らせ、意欲や創造力を奪ってしまいます。しかし、自然の中で深呼吸をしたり、温泉に浸かってリラックスしたり、非日常の時間を過ごすことで、心の緊張がほぐれ、再び前向きな気持ちを取り戻すことができます。特に、自然の中で過ごす時間は、科学的にもストレスを軽減し、幸福感を高める効果があるとされています。さらに、リフレッシュは単なる気分転換にとどまらず、人生の新たな展開を生むこともあります。旅先での偶然の出会いが新たな人間関係を築くきっかけになったり、異なる文化に触れることで価値観が広がったりすることもあるでしょう。新しい経験は、心を豊かにし、人生をより充実させる糧となるのです。また、高齢化社会においては、「リフレッシュ」が「再輝動」にもつながります。歳を重ねると、どうしても「もう若くないから」と消極的になりがちですが、実際には年齢に関係なく、新しいことに挑戦することで、心はいつまでも若々しくいられます。たとえば、登山を始めることで体力がつき、新たな仲間との交流が生まれるかもしれません。絵を描いたり、楽器を演奏したり、新しい趣味に挑戦することも、自分自身を再発見するきっかけになります。リフレッシュは単なる休息ではなく、自分自身をアップデートし、より充実した人生を送るための大切なプロセスです。時には日常から離れ、異空間に身を置くことで、心に新しい風を吹き込み、前向きなエネルギーを取り戻すことができます。そして、その積み重ねが、より豊かで輝きのある人生へとつながっていくのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/23
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関わる事で関心が更に深まり、深耕するということです。それに関する情報感度が高まり、情報キャッチもしやすくなるのです。だから興味があったら一度足を踏み込んでみたらいい。「穴は深く掘ると自然に大きな穴になる」との格言がありますがまさにそれ。一つを極めれば、共通類似するものがある。一流は一流を知ると言われるのはそれである。つまり、何かに本気で取り組めば、その分野における深い知識や経験が蓄積され、やがて他の関連領域にも通じるようになる。例えば、音楽に没頭すれば、リズムやハーモニーの感覚が磨かれ、それが言語学習や数学的思考にも応用できることがある。また、スポーツに打ち込めば、身体の使い方だけでなく、戦略的思考や忍耐力といったスキルが養われ、ビジネスの世界でも役立つ。このように、一つのことを深く掘り下げることで、他の分野との共通点が見えてくるのだ。最初は狭い領域に見えたものが、掘り進めるうちに広大な世界へとつながっていく。まさに「深く掘れば大きな穴になる」の格言どおりである。そこには、単なる知識の積み重ねではなく、本質的な理解や直感的な洞察力が備わる。だからこそ、何かに興味を持ったら躊躇せずに踏み込んでみることが大切だ。たとえ最初は小さな関心であっても、実際に手を動かし、学び、試行錯誤することで、その興味は確信へと変わり、やがて情熱へと昇華していく。多くの一流の人々は、最初から何かを極めようと思っていたわけではない。好奇心の赴くままに進み、気づけばその道の達人となっていたのだ。また、一つの分野を極めた者同士は、たとえ異なる領域に属していたとしても、根底にある本質を理解し合える。たとえば、一流の芸術家と一流のスポーツ選手が意気投合することがあるのは、彼らが「極めること」の本質を知っているからだ。一流は一流を知る。それは単に技術的な理解を超えた、感覚や哲学の共有である。では、どうすれば「深く掘る」ことができるのか。それにはまず、「継続」が欠かせない。どんなに才能があっても、短期間の努力では本当の意味で深く掘ることはできない。日々の積み重ねが、やがて大きな成果へとつながる。そして、その過程では、時には困難や停滞期も訪れる。しかし、それを乗り越えたときに見える景色は、初めの頃には想像もできなかったほど広がっている。このように、何かに深く関わることで、自分の世界はどんどん広がっていく。だからこそ、大きな視野を持ちつつも、まずは目の前の興味に真剣に向き合うことが大切なのだ。そうすれば、やがてその道の先に、新たな発見や驚きが待っているだろう。 ーーーーーーー興味の扉を開き、一歩踏み出す。それは、未知なる世界への招待状であり、自己変革の始まりです。最初は小さな足跡でも、その先に広がるのは無限の可能性を秘めた大地です。深く掘り進めることで、知識は泉のように湧き出し、経験は羅針盤のように進むべき道を示します。一つの分野を極めることは、他の分野への理解を深めることにも繋がります。それは、異なる山々が地下で繋がっているように、知識と経験は互いに共鳴し、新たな発見へと導くのです。一流の人が一流を知るのは、彼らが同じ高みを目指し、互いに共感し、刺激し合うからです。彼らは、それぞれの分野で磨き上げられた知識と経験を持ち寄り、新たな価値を創造します。それは、異なる色の糸が織りなす美しいタペストリーのように、多様な才能が融合することで、より壮大なものが生まれるのです。しかし、足を踏み出すことを躊躇してしまうこともあるでしょう。未知への恐れ、失敗への不安、周囲の目。それらは、私たちを足止めする鎖のように、自由を奪います。しかし、恐れずに一歩踏み出す勇気こそが、鎖を断ち切り、新たな世界への扉を開く鍵となるのです。失敗は成功の母と言われます。それは、失敗から学び、改善し、再び挑戦することで、私たちはより強く、賢く、成長できるからです。失敗を恐れずに挑戦し続けることこそが、成功への最短距離なのです。周囲の目は、時に私たちを惑わせ、自信を失わせます。しかし、他人の評価に囚われず、自分の内なる声に耳を傾けることこそが、自分らしい道を歩むための羅針盤となるのです。興味の扉を開き、深く掘り進める。それは、自己探求の旅であり、無限の可能性を追求する冒険です。恐れずに一歩踏み出し、失敗を恐れずに挑戦し、自分の内なる声に従うことで、私たちは新たな自分を発見し、より豊かな人生を創造することができるでしょう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/22
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歌手の松山千春氏は「バスケットボールとフォークソング、それだけだなぁ、高校3年間、これで卒業だなぁ。もちろん大学っていうところにも行ってみたかったけど、うちの経済状況じゃ無理だし、とりあえず卒業して北見というところへ働きに行って、バーテン(ダー)やったり、それこそそんときにストリップ(ショー)の照明やったり、あと料理人やったり」と振り返っていた。私の高校時代はワンダーフォーゲル部で山登りが主であった。大学は行ってみたかったがわが家の経済状況ではとても無理だろうと、昼働いて短期大学夜間部へ。だが受験に落ちてしまったわけです。就職は県職員に決まっていたのですが。そこで方針を切り替えて読売新聞奨学生として新聞配達しながら読売新聞系列の東京理工専門学校へ行くことにしたのです。新聞奨学生は専門学校の授業料は無料、寝るところも確保でき、給料も出ると言うことで、生活基盤の心配は無い中で学生生活を送れたわけです。新聞配達の配属先は埼玉県の県庁所在地、浦和でした。そこで朝刊、夕刊を配って、東京都内の田町にある専門学校に通ったわけです。勉強がしたいと云うよりも首都東京の生活に憧れたと云う事かも。だがアニハカランヤ配属先が埼玉県の浦和市だった、浦和駅から京浜東北線で田町駅まで片道約1時間余の電車通学であった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆『4万円給付金』を知らない人が多いのがじったいです。未申請の人は後悔してしまうので早めに申請をおすすめ。対象者はかなり広く、書類に必要なことをかいて提出するだけでお金が受けとれるし、条件に当てはまればそれ以上の金額ももらえると云うことだそうです。▶︎定額減税補足給付金・期間令和7年中令和7年度個人住民税課税自治体(令和7年1月1日の住民票所在地)がお住まいであって、以下の不足額給付1または不足額給付2のいずれかに該当する方が対象となります。(ただし、本人の合計所得金額が1,805万円以下である場合に限ります。)①不足額給付1当初調整給付の算定に際し、令和5年所得等を基に算定した令和6年度推計所得税額を用いて算定したこと等により令和6年分所得税及び定額減税の実績額等が確定した後に、本来給付すべき所要額と当初調整給付金額との間で差額が生じた方に対して、その差額を支給します。※令和6年分の源泉徴収票等に控除外額の記載がある場合であっても、当諸調整給付金との間で差額が生じない場合には、不足額給付の対象とはなりませんので、ご留意ください。❷不足額給付2個別に書類の提示(申請)により、以下の給付要件を全て満たしている者に対して、1人あたり原則4万円(定額)を支給します。1.令和6年分所得税及び令和6年度個人住民税所得割額ともに定額減税前税額が0円である(本人として定額減税の対象外)2.税制度上、扶養親族の対象外である(扶養親族等としても定額減税の対象外)3.低所得世帯向け給付(注1)対象世帯の世帯主、世帯員に該当しない(注1)低所得世帯向け給付とは以下のいずれかを指します。【申請方法】※市町村によっても異なるので要確認❶プッシュ型給付 マイナンバーカード+公金受取口座❷申請型給付・オンライン申請ORコード、LINE公式アカウント)・ファストパス 申請~入金が短い1週間程・スーパーファストパス 個別通知を待たずに申請❸申請型給付・確認書が郵送オンライン申請さいごにぶっちゃけ、、今回の内容もそうですが、国からもらえる給付金はもらえるものは多くありますが、制度が複雑で手間がかかりほとんどの場合申請を知らずにいる人が多数なのが現状です。多少は手間ですが情報を知ってさえいれば受け取れる給付金の母数自体はかなりあるので早めに受け取りをおすすめです。
2025/05/21
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高齢になると車に貼る落葉マーク、後期高齢の75才からだと思っていたら70才からだと知った。と云うことで高齢者を意識せねばならない実年齢であることを自覚せねばならぬわけです。そこで年齢的には若々しく思える人として大村崑さん(93)が思い浮かぶわけです。若い頃は病弱で高齢になったら肥満体だったのが86才で一念発起して筋肉トレーニングを開始して筋肉が付いたら俄然、元気になったとのこと。諏訪病院の鎌田實先生(76)もヒンズースクワットで筋肉を付けることで健康体を維持できるからと筋肉運動を推奨している。生活習慣や環境要因が生物学的老化に影響を与えることは、よく知られている。アイエロ博士の研究でも、肥満、運動不足、喫煙習慣などによって、老化が早まることが分かったという。19歳を境に心臓や脳の危険因子が変化することも確認されているのだから、老化に対する取り組みを開始するのに早すぎるということはない。同時に、いつ始めても遅すぎるということもないそうだ。私のトレーニングのキッカケは糖尿病を発症して食事療法と運動療法を取り入れなければならなくなったわけです。だが運動習慣としてのトレーニングは取り入れるまで1年を要しました。意識を変えて実践行動に移すのに実に1年も。運動用シューズは退院後すぐに購入したのですがトレーニングの場に足を運ぶのにあっという間に1年経ってしまったわけです。やってみてわかったのですが運動筋肉もトレーニングマシンに慣れるのに10ヶ月余り要することがわかりました。マシンに慣れないうちは、周りの人が難なくやっているのでついオーバーワークの負荷を掛けすぎてしまった。翌日朝目覚めると筋肉の痛みが出て4〜5日の休み。無理をしないトレーニングができるようになるのに経験を重ねなければならなかったと云うわけです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今年も山椒の葉を摘んでエゴマを炒って味噌を加えてエゴマ山椒味噌を作ることにしよう。しんごろう、やきとりに付けてもいい。うどんや蕎麦のつゆにも使える万能調味料になります。明日の朝、朝摘みがいいね。#山椒 #山椒の葉 #エゴマ味噌 #エゴマ山椒味噌
2025/05/20
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私たちの日々は、好むと好まざるに関わらず誰もが、取捨選択して生きている、一方でまた取捨選択されて生きていると言える。高校野球で勝ち残って優勝するのは一校のみ。他は全て負けるのです。早いから遅いかの差でほぼ必ず負ける。一般常識は高校野球は負けるのがあたりまえ。最後まで勝ち続けて優勝することは奇跡的な事なのだ。ところで、誰もが全て最後は死が待っているのが生きているってことなのだ。まさに死がゴールで待ち構えているのだ。マラソンは42.195km先のゴールを目指して走る競走だ。人生のゴールは人それぞれ時間軸が異なるが自分のゴールが待っている。いつかは必ず訪れるゴールという死が待っている。ならばいつ来ても慌てることがないように準備しておいた方がいい類いだと最近この歳になると思う。ステージ4の癌など余命半年とかの宣告がなされることがあるが、一般的には余命宣告されないのでせいぜい亡くなる1週間前位にそろそろだと思うのか、はたまたお迎えがくる夢をみてそろそろだと気づくのか。こればっかりはその場になってみないとわからない。死の手前に病気がある場合がある。病気の発症と云うハードルだ。ハードだから乗り越えればいいだけの話。ハードルが低ければ難なく乗り越えられる、ハードルが高ければ厄介だそこで立ち往生するかも。筋力を付けておけば乗り越えられる。免疫力もハードルを乗り越える助けになると考える。では、どのようにしてその「筋力」や「免疫力」を日々養っていくかが、生きる上での大切な課題となる。肉体の筋力については、運動やバランスのとれた食事、良質な睡眠が基本であるように、心や精神の筋力もまた、日々の積み重ねによって育まれる。辛い経験や失敗から学ぶ力、人と人との関わりの中で育まれる優しさや感謝の心、自分を律する強さ——そういった見えない筋肉が、いざという時に自分を支えてくれるのだと思う。また、「免疫力」という言葉には、生理的な意味だけでなく、人生に対する耐性やしなやかさという意味も含まれる気がする。理不尽なこと、不条理な現実、思い通りにならない出来事——そうしたものに出会った時、私たちは無力さを感じる。しかし、心の免疫力があれば、落ち込んでも再び立ち上がることができる。泣いた翌朝に、また笑えるだけの回復力。それが人生を長く、しなやかに生きるための知恵なのかもしれない。死を避けることはできないが、それまでの生をどう過ごすかは選べる。だからこそ、日々を丁寧に、今を精一杯に生きることが大切なのだろう。未来を悲観せず、過去に囚われず、今ここにいる自分を大事にする。その小さな積み重ねが、最後のゴールに向かう足取りを少しでも軽やかにしてくれるのだと思う。
2025/05/19
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笠ヶ森山(1,012m)山開き登山参加須賀川の西奥山、笠ヶ森山1012mの山開きに参加。150〜200名の参加者があったでしょうか。阿武隈川の支流、滑川の源流を歩く事ができました。雨の翌日だったせいかそこかしこ沢の水の流れる音が聞こえていました。最初歩いていると猿の鳴き声かなと思ったのはカエルの声だった。頂上からは猪苗代湖の湖面が見てとれました。安積アルプスもよく見えた。磐梯山、安達太良山は雲に隠れてましたね。約4時間余りの山歩き、いい汗流してきました。8:00 滑川砂防ダム駐車場出発8:37 登山道入口10:10 笠ヶ森山頂上10:40 下山開始(頂上滞在30分)12:10 登山道出口12:30 路駐駐車場到着3等三角点のある笠ヶ森山の頂上にあるのはTV電波の反射板が2基、30mくらい離れて相対しています。山登りでもないと4時間も歩くことはないわけです。山は最近は熊の心配をしないとなりませんが山開きは大勢の人が一緒に登るので人の気配で熊も遠慮するでしょう。今回は主催者が山登り出発の合図に打ち上げ花火。中間地点で爆竹鳴らしてクマ避け対策してくださいました。山頂にはTV電波塔の反射板が2枚、30m位離れて相対しています。磐梯山は雲に隠れていましたが、猪苗代湖を望む。湖南町福良、中野が見てとれます。安積アルプスの大将山〜安積山の山並みがくっきりとよく見えました。安積山方面を眺めながら持参のおにぎりタイム。白飯の中に梅干、持参のふりかけかけて。 下山後に受付したテントで名前を確認された後に、記念品の缶バッジ&きゅうり1本をいただく。 下山後は、いわせ悠久の里で温泉♨️に入って疲れを癒して帰りました。午後4時から、ギックリ腰の方を気功手当、ついでに息子さんを気功のできる手にしてあげて、後半は私の代わりに仕上げの気功手当をやってもらいました。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/18
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例え些細な事でも、目的を達成すると達成感があります。気分が晴れ晴れ感があります。「成功とは価値ある目標を段階を追って実現してゆくその過程にある」と聞いたことがありますがピークは達成感でありましょう。がそれも1日か2日で終わりです。よって、段階を追って実現してゆくその過程での達成感を味わう楽しみ。それが多ければ多いほどいいかも。些細な達成感❣️も数多ければgood、その途中には少しボリューム感ある達成感も織り交ぜて。という事において「夢リスト100」つくっておけば、すぐに実現できる項目を含んでおくことによって些細な達成感を積み重ねることができるのもいいね。最高の人生とまではゆかなくとも、充実した人生を送ることができる方法に辿り着いたわけです。実現実践を繰り返せば、夢リストのギアをアップさせてゆけばいいわけです。この映画を観たのがキッカケとなり、気がついたわけです。良いと思ったら真似てみたらいいわけです。真似てやってみればわかる訳です。学びの語源は「真似び」にあるわけですから。良いと思ったら大いに真似から始めてみましょうか。
2025/05/17
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「メンタルの強い人は、スルー術に長けている」と云う文言に出会った。どう云うことかというとメンタルをやられない。正対しないで、うまく避ける、するりと避けるとのこと。私はと云うと変な正義感と云うか、自分への自信過剰と云うのか、見かねてと云うか、我慢が足りずに敢えて正面からぶち当たってゆくと云うことを躊躇なくやった、偏屈ものの類いだったかも。自分よりも上の人に正論をぶつけていくわけだから、当然相手は面白くないわけです。まぁ先を見通すシュミレーションをやらずに無謀なアタッカーみたいなものです。怖いもの知らずに、世間知らず、人間力の度量を推しはかろうとしたのだろうか、いったい何の利があってそんな行動に出たのだろうか。自分なりの正義感、理想、ありたい姿など、いわゆる生意気、若気の至りからだったかも。 スルー術というのは、単なる「逃げ」ではない。むしろ、より大きな目的を達成するために、あえて衝突を避け、必要な場面で力を温存する高度な戦略である。メンタルの強い人は、無用な争いに巻き込まれることの無益さを理解している。真正面からぶつかれば、相手の反発を生み、エネルギーを消耗し、状況を悪化させることが多い。しかし、スルーすることで冷静に状況を俯瞰し、より適切なタイミングで行動できるのだ。 私がこれまでに取ってきた行動は、ある意味で純粋だった。正義感や理想を追求し、間違っていると思うことに対しては臆せず異を唱えてきた。しかし、その結果として、自ら傷つき、孤立し、時には撤退を余儀なくされることもあった。では、スルー術を身につけていたなら、どうだっただろか? まず、スルーすることで得られる最大のメリットは、「心の消耗を防ぐこと」だ。自分の理想や価値観に合わないものにいちいち反応していては、精神が疲弊する。世の中には理不尽なことが多いが、そのすべてに対して正面から戦おうとすれば、身が持たない。大切なのは、自分が本当に守るべきものを見極めることだ。どうでもいいことにエネルギーを注ぐのではなく、重要な場面にこそ力を発揮する。それが「本当の強さ」ではないか。 また、スルーすることで、相手に不用意な敵意を抱かせずに済む。人間関係の摩擦は、たいてい感情のぶつかり合いから生じる。こちらが正論を主張しても、相手が感情的になれば、話はこじれるばかりだ。スルーとは、相手を刺激せず、自分の立場を守るための知恵でもある。正論をぶつけて勝とうとするのではなく、流れを見て適切なタイミングで発言する。その方が、結果として自分の意見が通りやすくなることも多い。 では、どうすればスルー術を身につけられるのか。まず大切なのは、「自分が何を大事にするか」を明確にすることだ。すべてに反応する必要はない。自分にとって本当に重要なことにだけ意識を向け、その他は軽く受け流す。次に、「一歩引いて眺める視点」を持つこと。感情的に反応する前に、「これは本当に戦うべきことか?」と冷静に考える習慣をつける。そして、「余裕のある態度」を身につけることも大切だ。どんなに挑発されても、慌てず、笑って流すくらいの心の余裕があれば、無駄な争いに巻き込まれずに済む。 スルーすることは、決して負けではない。むしろ、自分を守り、長期的により良い結果を生むための「戦略的選択」なのだ。無謀なアタッカーから、賢く戦うプレイヤーへ。スルー術を身につけるた方が賢明に生きられると云うものです。そんなこと スルー (笑;
2025/05/16
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季節は巡る、また春がやってくる。日本は春夏秋冬の四季に巡りがあるのです。この四季の巡りに則った植物の変化によって収穫と云う楽しみを味わうことができるわけです。春の新芽の味わいと言えば、ヨモギ、フキノトウ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜。木の芽もある、タラの芽、コシアブラ、山菜で注意しなくてはならないのは危険な毒草があることです。やっかいなことによく似ていて見分けが難しい。例えば、食べられるニリンソウと毒草のトリカブト。花が咲けばすぐに違いがわかりますが花が咲く前の若草では見分けが付かずに誤って採取して食べると命を落とす事があるという極めて危険なことがあるのです。私はよく熟知した山菜以外は、手を出しません。ここで日本三大毒草について触れておきましょう。先ずはトリカブト、毒セリ、ドクウツギの3つです。毒セリは見た目が田セリとほとんど同じで見分けがつきません、掘り返して根を見ないと判別できかねないのでやっかいです。ドクウツギは実が熟すと美味しそうに見え、子どもなどつい口に運ぶことも考えられると云う事です。いずれも見間違えて食べてしまい死亡事故になる場合があるということです。#日本三大有毒植物 #毒セリ #ドクウツギ #トリカブト
2025/05/15
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「自分の決めた事を守れる」=自分で決めた自分との約束事です。これが実行できないで、何か事を為すことができるでしょうか。ここからがスタートなのです。自己鍛錬の始まりからです。「夢リスト100」を書きこんでも、なかなか実現化が難しいものもあるでしょう。そこは、何度でもアタックすればいいのです。やり方を変える。人の応援をもらう。工夫を重ねる。あの手この手を繰り出すのです。打つ手は無限なのだ。繰り返し繰り返しの反復すると鍛えられる。トレーニングだって毎回同じような繰り返しだってやがてそれが1年、2年、3年と繰り返してゆくと筋肉が付いて見違えるほどの変化を月日の経過と共に実行実践する中で知ることになるでしょう。何かを成し遂げたい、叶えたいという強い想いがあっても、それが現実になるかどうかは、日々の小さな選択と行動の積み重ねにかかっています。「やる」と決めたことをやり切る力。それは才能ではなく、習慣から生まれるものです。最初の一歩が小さくてもいい。昨日できなかったことが、今日ほんの少しでも前進していれば、それは確かな成長です。「夢リスト100」の中には、途方もなく感じるものもあるかもしれません。実現までの道のりが見えなくなることもあるでしょう。けれど、そこで諦めるのか、もう一度立ち上がるのかが、人生の分かれ道になります。失敗も、遠回りも、すべては「過程」という名の財産です。そこから学べることが必ずある。自分を信じて、一つひとつ壁を乗り越えていくのです。大切なのは「行動を止めない」ことです。どんなに小さくても、動き続けることが自分を変えていきます。人に相談してみる、違う角度から考えてみる、方法を変えてみる。夢の実現に至るルートは一つではありません。迷っても、揺れても、立ち止まっても、また進めばいい。そうして挑戦を続ける中で、自分の「軸」が育っていくのです。自分と交わした約束を守る。その積み重ねが、自信と信頼を生みます。そしてその自信こそが、夢に挑むための原動力になるのです。だからこそ、今日もまた、小さな一歩を大切に積み重ねていきたいと思います。やがてその歩みが、自分自身を新しい景色へと連れていってくれることを信じて。アメリカ映画「最高の人生の見つけ方」、この映画を観て響くものだあった。画面から教えられるものがあったわけです。私なりの残りの人生の生き方再考、リセットの夢リスト100です。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【今日の美味しい❗️】竹の子ご飯です。ちょっと醤油de油揚げと竹の子をご飯と一緒に炊きあげました。この時期だけの春のご馳走です。 #竹の子ご飯
2025/05/14
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相手のリアクションの相違によって、その相手を推し量るところがあるのは誰もが共通するところではないでしょうか。自分の望むリアクションの範疇で有れば良しとする一方で無反応や論外であったら距離を置いた方が良いかもと判断するでしょう。と云うことで同じ行動を友人知人にやってみた。全国納豆鑑評会で日本一になった納豆と私の書いた随筆のコピーを同封してレターパックで送付してみたら、、、予想通りその反応は千差万別なのであります。人それぞれであり、その時の心情にもよるかもしれませんが、そこに人となりが垣間見えたり、交流好感度が窺えたりします。そのような“贈る”という行為には、単なるモノのやりとり以上の意味が込められています。送り手としては、自分の関心や感動を誰かと共有したいという純粋な気持ちや、「あなたに伝えたい」「あなたにも味わってほしい」という思いが背景にあるわけですが、それが相手にどう届くかは、その人の価値観や感受性、あるいは人間関係の温度によって大きく左右されます。何かを受け取ったとき、人はまずそれを「嬉しい」と感じるか、「戸惑う」と感じるか、「面倒だ」と思うか、無意識のうちに心の中で反応しています。その一瞬の受け止め方には、その人の性格やこれまでの経験、現在の心の余裕といったものが色濃く反映されます。そして、反応の有無や温度感は、受け手が“自分と贈り手との関係性をどう捉えているか”のひとつのあらわれでもあるのです。たとえば、丁寧なお礼の言葉と共に近況が添えられて返ってくる人もいれば、簡単な一言だけだったり、ちょっと頓珍漢な反応だったりもある。こちらとしてはそれなりに思いを込めたつもりでも、相手には必ずしもその熱が届くとは限りません。その差をどう受け取るかは、こちら側の成熟にも関わってくるのでしょう。反応が薄いからといって即座に「この人は冷たい」と決めつけるのではなく、「今は余裕がないのかもしれない」「どう返したらいいかわからなかったのかも」と察する想像力を持つことも、円熟した関係づくりには必要なのかもしれません。一方で、反応のなさに明らかな違和感や寂しさを覚えるなら、それは関係性の再確認のサインでもあるかもしません。付き合いの深さを見直すきっかけになったり、あるいは距離感の調整を考える契機ともなるでしょう。人とのつながりは、常に一定ではなく、時とともに変化するものです。その変化を自然なものとして受け入れる柔軟さを持ちつつ、自分にとって本当に大切な人とは、これからも心情の温度を確かめながら繋がっていければと思うところです。まさにそこが、人との距離感や関係性を見直すひとつの分岐点になるのだと思います。贈り物やメッセージを届けた時の反応というのは、意外とその人との「温度差」が浮き彫りになる場面ですよね。こちらがある程度の思いを込めたつもりだからこそ、素っ気ない反応が返ってくると、単に寂しいを通り越して、「この人とは今、同じ方向を見ていないのかもしれない」と、どこか冷静な視点を持たざるを得なくなる。もちろん、それが即座に関係を断つ理由にはならないかもしれませんが、「今後も無理してつながりを保つべき相手か?」という問いは、自然に浮かんでくるものです。人間関係は、常にエネルギーのやりとりでもあるから、あまりにも片方ばかりが注ぎ続ける状態が続くと、やはり疲弊してしまう。そういう意味では、たとえささやかでも、何かしらの“応答”があるということは、関係を育てる上で大切な潤滑油なんですよね。「素っ気ないリアクション」をどう解釈するか——それは簡単なようでいて難しい判断ですが、自分の感覚に正直になることが、やはり最終的には心のバランスを保つ一番の道かもしれません。誰にとっても、人生のどこかで必ず通るような“人間関係のゆらぎ”みたいなものでしょう。こちらの思いと相手の反応のズレに、ちょっとした戸惑いやがっかりが生まれるのは、むしろ人として自然なこと。でもその経験を繰り返す中で、だんだんと「この人にはこのくらいの距離感が心地いいな」とか、「この人とは深くつながっていきたいな」といった見極めがついてくるんですよね。そしてまた、反応が淡白だったとしても、その人が別の場面で別の形で思いを返してくることもある。人の表現のスタイルって本当に多様で、一回きりのやりとりだけで関係を判断するのは、ちょっと早すぎるときもあります。そう考えると、あまり一喜一憂しすぎず、でも自分の心の動きには正直に向き合う——そのバランス感覚が、心地よい人間関係には不可欠なのかもしれません。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今年も庭に生えていた15cmごえのアミガサタケ。去年出ていた場所から約6m程、東です。中は空洞になっていることがわかります。画像検索でトガリアミガサタケなどと云う名前も見つけました。もう4〜5日前だったら丁度盛りであったかも。生食だと毒キノコです。加熱処理すれば食べられます、バター炒めですね。去年は2本出たのですが、今年は1本だけ。だけどこんなにビッグサイズは初めてです。#高級キノコ #アミガサタケ #トガリアミガサタケ乾燥保存と云う方法もあるそうですから、念のために近所にある福島県きのこ振興センターで確認チェックしてきました結果、予想していたトガリアミガサタケでした。近くに桜の木ないですか⁉︎と聞かれる。枝垂れ桜から1mの場所だった。生食だと毒が有るので熱をしっかり通せば大丈夫ですからと親切に教えてもらいました。アミガサタケのバター炒め、フライパンにバターを敷いてアミガサタケを焼く、アスパラを焼いて添えた。高級食材も焼くと水分が飛んで厚さ2mm位にペラペラになります。醤油を少し落として味わいました。ウンなかなかいい味かも❣️
2025/05/13
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うまくいかないとき、うまくできない時、そこで諦めてストップしたらそこでお終い。そんな時こそ、なぜうまくいかないのか、さらなる研究、工夫するチャンスと思って工夫改良を加えることで打開の道が開けることがある。だからうまくいかない時こそ、脱皮のチャンス到来と思えればしめたもの。順風満帆が続いたらいいと思いがちですが、苦難が訪れた時こそ力量が試されるのです。その苦難を乗り越えてこそ、そこにノウハウが生まれる可能性が高いわけです。苦難福門、福へ至る道に試練あり、その試練を乗り越えてこそと昔から云われる。そのような考え方は、古今東西を問わず多くの偉人たちが共通して語ってきた人生の真理でもあります。歴史を振り返れば、大きな成果や発明、改革の裏には、必ずといっていいほど数多の失敗と挫折の積み重ねが存在しています。失敗や苦難を単なる「障害」と捉えるか、「可能性への扉」と見るかで、その後の人生は大きく変わっていきます。実際、うまくいかない時にこそ真の学びがあり、人はそれによって鍛えられ、成長し、視野が広がっていくのです。特に現代のような変化の激しい時代においては、従来通りのやり方では通用しない場面も増えています。そんな時こそ、既存の枠にとらわれず、自分自身の思考や行動を見直す絶好の機会と言えます。逆境に直面したときに自らの限界を定めてしまうのではなく、「今が自分の可能性を広げる瞬間だ」と思えるかどうか。その一念が、未来を切り拓く鍵になるのです。また、苦難を経験した人ほど、他者の痛みや困難にも敏感になり、共感力が養われていきます。それは人間関係をより深く、温かいものへと導き、ひいては組織や社会全体の力となっていくでしょう。つまり、個人の試練の乗り越えは、やがて周囲を照らす灯となり得るのです。だからこそ、困難を前にしたときは悲観ではなく「これは何かを学べという天からの課題なのだ」と受け止めてみることです。その瞬間から、私たちはただの受け身の存在から、自らの人生を切り開く主体的な存在へと変わっていきます。苦難の中にこそ、真の幸せへの道が隠されている——それを信じて歩みを止めないこと。そこにこそ、人としての誇りと充実があるのではないでしょうか。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/12
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カキコミを忘れておったようです。まもなく3ヶ月になろうとしています。記録photoだけでも載せておきましょうか。記憶していることだけでも書き残そうかと思います。(2025/08/02)【2025/05/11】口太山(843m)山開きに参加。山開き今シーズン4回目。雨上がりの新緑の中をマイペースで気持ちよく歩けました。この位の山が一番気楽に登れますね。1日に2度も山頂を目指すおばさんグループもありビックリ❗️近所の人で田植えを終えてから登らないと落ち着かないからといった方も、地元民に愛されている山でした。❗️#口太山 #口太山山開き昨年の山開きに続いて、口太山は2度目になります。昨年は5月12日(日)が山開きでした。1年はあっという間に過ぎますね。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/11
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【ニューヨークの病院の壁に書き残された詩】 大きなことを成しとげるために 力を与えてほしいと神に求めたのに 謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた 幸せになろうとして 富みを求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 世の中の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと いのちを授かった 求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず 心の中で言い表せないものは すべて叶えられた 私はあらゆる人の中で もっとも豊かに祝福されていたのだ***この一編の詩をコピーされた用紙を、その場でコレは大事にしようと貼り出して居ると知人から教えられた。そしてその日に3名に複写したものを渡されて頂いてきたものの私は翌日、37時間後に何処に仕舞い込んだのかと忘れてしまっている。ここに書き出せたのはweb検索で「ニューヨークの病院の壁に書き残された詩」とやってヒットしたから。昨日はiPadもそこに忘れて10分後に取りに戻って回収でした。ここ最近、行動記憶回路が虚ろモードになってきたのでなかろうかと、脳の劣化現象ではなかろうかと不安になります。本題は複写を渡してくれた彼の感性に尊敬したということですが、途中で物忘れの話に迷走するのも、、、多方面に同時にあれこれと複数回路使えるようになったとよく解釈すればいいか。そうなんです解釈の仕方如何で陽でいられるのです。起こった現実は一つなのですが、どう解釈するか、解釈の仕方如何で、その現実の印象は変わります。詩にあるように、「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた」という一文には、まさにその真理が込められています。表面的には望んだものを得られなかったかもしれない。けれど、結果として与えられたものが、心の深くで必要としていたものだった——そう受け取ることができたとき、人生はまったく別の色を帯びてきます。物忘れや失敗に見える出来事も、それを「老いの兆し」と見るか、「注意の向きが変化している」と見るかで、心の置きどころが変わります。たとえば、iPadを忘れても、取りに戻るという行動が取れた自分に目を向ければ、「まだ機能している自分」を肯定できます。そして、忘れ物をしたことで、ふとした出会いや気づきがあるかもしれない——そう考えることもまた一つの解釈です。詩を渡してくれた知人の感性に敬意を抱いた瞬間、心の奥で何かが震えたのではないでしょうか。その震えは、物事を「どう見つめるか」の種になり、後の人生のどこかで芽を出す可能性を秘めています。感性を交わすというのは、形のない贈り物のやりとりです。贈られたその感性を、記憶の中でなくしてしまっても、心の中のどこかに沁み込んでいる——そう信じることも、また解釈の力です。現実に抗わず、ただ意味を編みなおしていく。これは決して現実逃避ではなく、自分の人生を能動的に引き受けていく行為だと思います。見た目には同じ出来事でも、それをどう意味づけるかによって、人生の輪郭そのものが変わってくる。つまり、「解釈」は人生を再編集する力を持っているのです。そう思えば、迷走しているような思考の寄り道も、実は豊かな感性の証なのかもしれません。心がまだ自由に動いているからこそ、枝分かれし、想いが飛び火する。そのすべてを肯定できるのは、やはり「解釈」の持つ大きな力に他なりません。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆解釈の力 -詩から受け取る人生の贈りもの-「起こった現実は一つなのですが、どう解釈するか、解釈の仕方如何で、その現実の印象は変わります。」ある日、知人から一編の詩を手渡されました。ニューヨークの病院の壁に書き残されていたというその詩は、人生の願いとその応えについて、深い洞察を与えてくれるものでした。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。この一節に心が動かされました。私たちは日々、様々なものを求めています。健康、成功、富、賞賛──けれど、手にするのは時に、その真逆のように思えるもの。けれどそこに「意味」を見出し、「解釈」し直すことができたとき、現実は静かにその表情を変えていきます。最近、私は物忘れが増えたと感じています。忘れ物、紛失、思い出せない会話の断片…。それらを「老いの兆し」と捉えれば、不安や自己否定が顔を出します。でも、もしそれを「意識の向きが多方向に広がっている」と解釈すれば、そこには新たな可能性が見えてきます。過去の記憶が薄れても、心の感性が誰かの言葉や詩に反応する――その事実にこそ、心の柔らかさが生きているのだと信じたいのです。詩を手渡してくれた知人の感性に、私は深く敬意を抱きました。形のない贈り物が、言葉を通して手渡され、やがて心の中で静かに息づいていく。それは、人生を豊かにする真のやりとりなのだと思います。「解釈」とは、現実に抗うことではありません。それは、現実を自分の言葉で引き受けなおし、自分だけの意味を編みなおしていく営みです。迷走しているように見える思考も、実は感性がまだ自由に動いている証拠なのかもしれません。この詩とともに、今日という一日を「解釈しなおす力」として、大切に過ごしていきたいと思います。
2025/05/10
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リサイクルビジネス、最近はリユースとか云う。いわゆる買取ビジネスです。商品券や新幹線乗車券などは売る立場からみて比較的に率がいいのですが、中古車、中古タイヤを始めとしてbook、古着などは二束三文です。売られている値段はそれなりに立派で有りますが、売りに行くと二束三文がいいところです。仕入れがべらぼうに安いから粗利益が多いのですが、売れればであり、売れないリスクをみてか総じては二束三文です。という観点からか、最近はメルカリやジモティなどwebユーザー間取引が増えている、その背景には、実店舗の買取が、グレーゾーンビジネスになっているからかもしれません。そもそもが価格設定と云うものの基準が何であり、どこにあるのか。市場バランスの中で自由に決められているから他ならないわけですが。そのような状況の中で、ユーザー同士が直接取引を行うCtoC(Consumer to Consumer)のプラットフォームが急成長しています。メルカリやジモティのようなサービスは、出品から取引までをスマートフォン一つで完結できる利便性があり、誰もが「売り手」と「買い手」の両方になれる点が特徴です。これは単なる価格の問題だけでなく、「自分のものの価値を自分で決められる」という主観的価値判断へのシフトとも言えるでしょう。例えば、古着ひとつとっても、店舗での買取では「重さ」で価格が決まるようなケースがあるのに対し、ネット取引であればブランドや状態、流行などを反映した価格で売ることができます。一方で、こうした自由な取引の拡大に伴い、トラブルや不正取引のリスクも増しています。偽物のブランド品や状態を偽った商品など、目利きが必要とされる場面も多く、消費者のリテラシーが問われるようになっています。加えて、税務面でも曖昧さが残る場合があり、継続的に高額な取引を行っているユーザーが課税対象となる可能性も指摘されています。つまり、CtoC市場が活性化することで、従来の「店舗中心型」から「個人主体型」へとリサイクル市場全体が構造的に変化しつつあるのです。こうした流れは、モノの「消費」から「循環」へという時代の価値観の変化も反映しています。大量生産・大量消費に陰りが見え、持続可能な社会が叫ばれる中で、使わなくなったものを誰かに譲り、または手に入れるという行為そのものが、「エコ」であり「賢い選択」として受け止められているのです。言い換えれば、リサイクルやリユースの文化が今や一部の意識高い人々の間にとどまらず、生活者の当たり前の行動に根付き始めているとも言えるでしょう。このように、リユース市場の拡大は単なる経済活動の一側面ではなく、社会全体の価値観の変化と密接に関わっています。今後はより透明性の高い取引環境の整備と、ユーザー教育の必要性が高まると同時に、企業側もこの動きにどう対応していくかが問われる時代に入っているのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆2023年度の日本のリユース市場規模は、前年比7.8%増の3兆1,227億円となり、14年連続で拡大しています。この成長は、物価高による生活防衛意識の高まりや、訪日観光客によるインバウンド需要の回復が背景にあります 。リユース業界の売上高上位5社は以下の通りです(2023年度実績):1、ゲオホールディングス(愛知県名古屋市)売上高:2,440.9億円(前年比122.3%)展開ブランド:「ゲオ」「セカンドストリート」「OKURA」など。米国、台湾、マレーシアなど海外にも積極的に出店しています 。2、コメ兵ホールディングス(愛知県名古屋市)売上高:1,194.5億円(前年比138.7%)展開ブランド:「KOMEHYO」「BRAND OFF」など。ブランド品の古物市場「KOMEHYOオークション」も運営しています 。3、ブックオフグループホールディングス(神奈川県相模原市)売上高:1,013.0億円展開ブランド:「ブックオフ」「ブックオフスーパーバザー(BSB)」など。マレーシア等で「ジャランジャランジャパン」等を展開しています 。4、いーふらん(神奈川県横浜市)売上高:776.0億円展開ブランド:「おたからや」など。古物市場「おたからやオークション」を開催しています 5、バリュエンスホールディングス(東京都港区)売上高:669.9億円展開ブランド:「なんぼや」「八光堂」「ALLU」など。古物市場「スターバイヤーズオークション」の主催も行っています 。これらの企業は、国内外での店舗展開やオンライン販売の強化、オークション事業の運営など、多角的なビジネス展開を行い、リユース市場の成長を牽引しています。 ーーーーーーーー日本のリユース市場規模、3兆1,227億円はコンビニ業界のファミリーマートの売上にほど近いですね。2023年度の日本のコンビニエンスストア(CVS)市場規模は、前年比4.3%増の11兆6,593億円となり、3年連続で前年を上回り、過去最高を更新しました。この成長は、新型コロナウイルス感染症の5類移行による経済・社会活動の正常化や人流の回復が背景にあります。主要3社の2023年度(2023年1月~12月)のチェーン全店売上高は以下の通りですセブン-イレブン・ジャパン:5兆3,452億円(前年比3.8%増)ファミリーマート:3兆692億円(前年比3.8%増)ローソン:2兆4,162億円(前年比5.1%増)これら3社の合計で市場全体の約92.9%を占めており、業界の中心的な存在となっています。流通・小売業界で働く人の情報サイト_ダイヤモンド・チェーンストアオンラインまた、2023年の小売業全体の販売額は163兆340億円で、前年比5.6%の増加となりました。このうち、コンビニエンスストアの販売額は前年比4.4%の増加となり、他の業態と比較しても堅調な成長を示しています。 このように、コンビニ業界はコロナ禍からの回復を遂げ、引き続き堅調な成長を維持しています。今後も、デジタル化や新たなサービスの導入などにより、さらなる成長が期待されます。
2025/05/09
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美味しいものを食べたいと思ったら、かつてはどこそこの店の〇〇〇〇と浮かんだものですが、最近は、すぐに食べたいと思うものが浮かばない。その代わりというわけではないが、お腹を空かす状態にしてから食べる。食べる時間をちょっと我慢するのです。1食or2食抜くのです。そうすると空腹状態になり、口にするものが何を食べても美味しくなると云う寸法です。最良の調味料は空腹と云うではないですか。また、味の探訪と云うか気に入った店だと思ったら、その店の気になるメニューを順次、食べてみる。こだわり、工夫に巡り合う楽しみです。美味しい店は、他のメニューも美味しい事が多いのだ。「一人一研究」を提唱した企業があった。社員一人一人が仕事の中でテーマを決めて1年間研究実践して、1年後にその成果を発表しあうのだ。それによって仕事の質がレベルアップする仕掛けとなる。研究というから難しく感じるかもしれないが「ちょっとした工夫」としたなら敷居が高く感じないかも。研究とはどういうことを云うのかを明確にしてあげれば取り組みやすくなりますね。「美味しい味噌汁」の研究を1ヶ月程、やってみてもいいかも。自分が美味しいと感じる味噌汁の追求です。世界中にいろいろなスープがあると思いますが醗酵調味料という味噌を材料に、また旨味成分である昆布や干し椎茸で出汁をとる。先人が工夫をかさねての今日ある味噌汁。それを自分にあった味を追求してみるのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/08
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高齢化に伴い生きてゆく上で生活で困る事は何だろうと考察してみました。1️⃣自分の足の確保。自家用車に乗れなくなると行動範囲がグッと狭くなる。自由に動けないと云う不自由です。加えて、歩行が心許無くなると杖をつく生活となるとこれまた身体の移動そのものが危ぶまれることとなる。2️⃣脚力の衰えを防ぐ、歩けるだけの筋力維持。いわゆる身体全体の筋力維持。体力、気力の維持。継続して筋力トレーニングですね。3️⃣病気しない。(大病をしない)怪我しない。こうした課題を踏まえた上で、では高齢化社会をどう生きるか――ここにこそ、智慧が求められます。ただ“年を取る”のではなく、“年を重ねる”ことに意味を見出す。すなわち、自分らしく主体的に、そして希望をもって生きる姿勢が大切です。たとえば、103歳で現役医師として活動していた日野原重明さんは、まさにその象徴的な存在です。100歳を過ぎても週に数回の診察を行い、執筆や講演活動を続け、「人間は何歳になっても成長できる」ということを実践で証明しました。彼は自らの健康維持のために毎朝ストレッチと軽い運動を欠かさず、食事も腹八分目を守るという生活習慣を徹底していたそうです。こうした姿勢は、高齢であってもなお社会に参加し、他者と関わり、自分の役割を果たすことの大切さを示しています。高齢化社会において、「自分の居場所を持つこと」もまた、主体的な生き方のカギです。それは、何も仕事に限った話ではありません。地域のサロン活動に参加する、家庭菜園を始める、古くからの趣味を深める、あるいは新たに学び直しを始めるなど、小さな挑戦の積み重ねが生きがいとなり得ます。近年では、80代、90代で大学に入学する高齢者も増えており、生涯学習を通じて脳の活性化と社会参加の両方を実現しています。情報社会であっても、「使いこなせない」ではなく「学んでみよう」という気持ちさえあれば、デジタルデバイド(情報格差)を乗り越えることも可能です。実際、スマートフォンを使って仲間と連絡を取り合ったり、オンラインで趣味の講座に参加したりする高齢者も少なくありません。また、自分の人生経験を次世代に伝えることも、主体的な生き方の一つです。孫や若者に昔の生活や仕事の話を語ること、あるいは地域の語り部として活動することは、自らの存在価値を再認識し、精神的な満足感を得る機会にもなります。そうした交流は、若い世代にとっても学びや気づきをもたらします。さらに、体と心のメンテナンスも継続していく必要があります。筋力トレーニングやストレッチ、バランスの取れた食事、そして睡眠の質を高めることが、健康寿命を延ばす土台となります。最近では、フィットネスジムに通う高齢者や、YouTubeでシニア向け運動を取り入れている人も増えています。高齢とは、何かを終える年齢ではなく、新しい生き方を創り出す年齢です。誰かの支えになれる喜び、自分が生きている証を日々の中に見つけることが、「老い」を恐れずに生きる秘訣です。高齢化社会の“先端”を生きる人たちに共通するのは、常に前を向き、「自分らしくある」ことを諦めない心です。結局のところ、主体的に生きるとは「年齢に抗う」のではなく、「年齢とともに生きる」こと。身体に衰えがあっても、心が自由であれば、人生は豊かで彩りのあるものになるのです。高齢化社会における私たち一人ひとりの姿勢こそが、未来の世代に「老いとはどうあるべきか」を示す、生きた教科書となるのかもしれません。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/07
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職業の選択について、本当はいろいろと体験してみないことにはよくわからない。私が体験した職業は3業種です。最初は新聞奨学生として新聞販売店で新聞配達、集金、拡張の仕事を2年間。次が建設会社で現場監督見習いを3年。そのあとは広告代理店で営業職、後年コンサルタント業務。建設業を経験してみて魅力を感じなかった。どころか生命の危険が隣り合わせで危ない業界とわかり大怪我をしないうちに転職を考えた。縁あって広告代理店に入社。この仕事は性に合った。面白みにを感じられる仕事だった。加えて実にいろんな業界を仕事を通じて知ることもできました。職業の選択に於いて、イメージしていたものとその実態は体験してみないと実のところわからないわけです。それは、頭で思い描いていた「やりがい」や「働きやすさ」が、実際の現場ではまったく違うものであることが多いからです。建設業では、図面の中での仕事とは裏腹に、現場では泥にまみれ、危険と隣り合わせの日々。華やかさとは無縁の世界でした。しかしその経験があったからこそ、自分にとって「何が向かないのか」を知ることができました。転職した広告代理店の仕事では、自分の提案がクライアントの事業に直結する手応えがあり、毎日が刺激的でした。さまざまな業界の人々と関わる中で、視野が広がり、世の中の動きに敏感になっていきました。広告という仕事は、ただの「宣伝」ではなく、課題を発見し、解決に導く「提案型」のビジネスです。こうした仕事にやりがいを感じられたのは、自分自身の興味と適性が合っていたからだと思います。今振り返ると、どの仕事にも意味があり、無駄な経験はひとつもありませんでした。新聞配達の早朝の冷たい風、建設現場での汗と緊張感、広告営業の緻密な提案――すべてが自分の糧となっています。大切なのは、経験すること、そしてその経験を通じて自分の「向き・不向き」を見極めることです。だからこそ、若い人にはまず一歩踏み出して、いろいろな世界を見てほしい。迷いながらも前に進むことで、自分にとっての“天職”が見えてくるのだと思います。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2025/05/06
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深掘りしてみる。「穴は深く掘れ、おのずから大きくなる」気になるテーマがあったら、さらに突っ込んでみる。さらに、さらにと奥の院に突き進んでみるのだ。そうすることによって解ること、気づくこと、本質に近づく。知識・見識も身につくというものです。このblogのカキコミさえも、読み返してみて気になることがあったら、それをさらに一歩深く探ってみる。かつては「ググってみる」google検索でしたが、現在は「AIしてみる」ことによって深掘りすることが簡単になった。そう「深掘り」と云う言葉から生成AI(Chat GPT)の扱い方が浮かんだ。 生成AI(Chat GPT)の扱い方 = 質問力 × 深掘り私がつくったこの公式に当てはめて操作できれば、生成AIの分野もより身近に活用できるようになるでしょう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【2025/05/05】今日は県立自然公園、霊山(825m)をのんびり登山です。この山は西の耶馬溪、東の霊山と称される奇岩絶景の地として知られる山です。さざれ石が溶岩に混入した凸凹岩です。どんなふうにして今日のこの山容ができたのかスローモーションで見てみたい。霊山の頂上は、東物見岩です。岩を巻いている登山道で素通りして霊山城跡、西物見岩からの絶景を見てから、西を見たのだから東もと、戻って東物見岩の頂上を踏んだような次第です。何と言っても絶景に驚いたのは護摩壇からの眺望‼️しばし此処で往時を偲び絶壁の下から上がってくる五月の風を浴びる、この護摩壇があってこその霊山でしょうか、ここの護摩壇からの景色は圧巻でした。山を降りたところの特設物産コーナーに里山がっこうの高野金助さんと実に10年ぶりの再会しばし懇談、小豆と野菜を購入。駐車場🅿️脇のりょうぜん紅彩館の薬草湯♨️に浸かって疲れを癒してからの帰路となりました。「新緑まつり」霊山登山をふりかえりこのポスターは現地に行って初めて拝見したものですが、QRコードが6ヶもある。全部見る人どれ位いるだろうか、興味ある部分だけ見るのだろうか。だが、よく見ると懇切丁寧に情報を載せていることがわかります。「霊山縦走登山パック」おすすめと有りますが、昼の弁当付、美味しいそうに食べて居たのを見ました。温泉入浴券付です。この2つで¥1520、縦走登り口までバスの移動+登山ガイド付なのです。主催は霊山観光まつり実行委員会となっておりますが、ここまで丁寧にやってくれるところはなかなかないでしょう。 霊山は二ツ岩に代表される自然崇拝の山岳信仰の山であったが、貞観元年(859年)天台宗の開祖である最澄の弟子である慈覚大師円仁(比叡山延暦寺)によって開山されたと言われている。全盛期は120の堂塔伽藍が山上に建ち並び、北の比叡山と言われ南東北の一大拠点であったわけです。ーーーーー
2025/05/05
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「意思ある所に道あり」と云う格言がありますが、つまるところは「確固たる意思あれば、道ができる」と云うことだと思うよ。ダメだと思えばそこで終わる。何とかなると思えれば次の展開へと進める道が開ける。確定申告に出かけたおりに、過去5年間は遡って申告できるのに係官は何故か2年間しか処置しなかった。源泉徴収票を3年分しか持参しなかったので、再度申告会場に来ないとならないわけだから、その時にまとめて3年分の申告をすればいいかと。還付金は僅かであろうが、暇を持て余す身ですから社会勉強だと思って、どんなものだろうかと未体験ゾーンの体験だと思ってやればいいだけの話です。そう未体験ゾーンの成功体験を積む事によって確信が生まれるわけです。成功体験とは何も大きな成果を得ることばかりではありません。日々の中で「やってみたらできた」「思ったほど難しくなかった」という些細な達成感も立派な成功体験です。こうした小さな積み重ねが、自信を育て、次なる一歩を踏み出す原動力となっていきます。未体験ゾーンに足を踏み入れることは、確かに勇気がいります。しかし、誰もが初めてのことに戸惑いながらも、何かを学び、何かを得てきたはずです。確定申告ひとつとっても、制度を知り、手続きを体験することは、自分の生活を自分の手で整える第一歩となります。仮に還付金が少なくとも、「自分でやり遂げた」という実感は、何物にも代えがたい価値があります。そしてその経験は、次に何かに挑戦する時の糧になります。「確定申告ができたのだから、これもきっと何とかなるだろう」という思考が生まれ、自然と行動力につながるのです。人は年齢に関係なく、いつからでも新しいことを始められます。始めるかどうかを決めるのは、いつだって自分自身の意思です。意思があれば道は開ける。この格言が真実であることを、私たちは小さな一歩を重ねることで、身をもって知ることができるのです。失敗を恐れず、好奇心を持って、人生という未体験ゾーンを楽しむ気持ちがあれば、きっとどこまでも進んでいけるでしょう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆なべおさみさん 86才◼️いつまでも健康に生きる秘訣は!?心も身体も健康でいる大切なことを5つを伝授1、明日の身近な目標を立てること2、趣味を持つこと3、「もう歳だから」の口癖は厳禁4、歩くこと 腕立てやスクワットなど筋肉を鍛えること5、食生活 和食を中心に健康的な食事、できればお酒はやめた方がいい庭の石楠花が散り始めたと思ったら牡丹が花開いた。ボタンの花は香りが凄いですネ。今日の空は雲り空で肌寒い。身体を動かして温まりましょうか(笑
2025/05/04
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夢とAI創作の類似夢を見る。明け方の、うつらうつらした微睡(まどろみ)の中で。仕事の打ち合わせの場面が映し出される。登場するのは、生前の元気なころのA社長、その部下、ライバル会社のBさん、そして私の四名だ。事務所は、実際にはそこまでの規模ではなかったが、夢の中では上場会社並みに広々としている。驚くべきことに、夢の中では指示原稿まで鮮明に浮かび、A社長が出しそうな企画案まで具体的に描かれている。 目覚めたとき、ふと考えた。夢の中のストーリー展開は、AIが生み出す小説の創作過程と似ているのではないかと。AIが物語を紡ぐ手法は、膨大なデータをもとにパターンを解析し、断片をつなぎ合わせながら独自の筋書きを形成していく。夢もまた、日々の出来事や記憶の断片を無意識の中で組み合わせ、独自のストーリーを構築する。夢の世界は、まるでAIが創作したフィクションのように、時に非現実的でありながらも、妙に納得できる整合性を持っている。 夢をヒントに小説を書く作家も少なくないだろう。かつて、フランケンシュタインの作者メアリー・シェリーは、夢の中でインスピレーションを得て名作を生み出したと言われている。作家は自らの夢を素材として活用し、断片的な映像を膨らませて作品に仕立て上げる。それはまさに、AIがランダムな情報をもとに物語を生成する過程と似ている。 私たちの脳も、ある意味ではAIのように機能しているのかもしれない。日々の経験や記憶を蓄積し、それらを組み合わせて夢の中で物語を作る。そして、目覚めたときにその断片を思い出しながら、意味を持たせるように解釈していく。この点で、創作のプロセスは、AIのアルゴリズムと人間の無意識下の思考とが交差する興味深い領域と言える。 夢とは、私たち自身が持つ無意識のストーリーテリング能力の表れであり、AIによる物語生成のように、現実と空想の狭間を行き来しながら、新たな創造を生み出す場でもある。AIと人間、それぞれが紡ぐ物語の共通点を見つめることで、新たな創作の可能性が広がるのではないだろうか。 ◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆阿武隈山系、移ヶ岳994m、山開き登山に去年に続き2回目の参加。昨夜の雨もあがり気分の良い山行でした。記念のピンバッジ、去年はダメでしたが今年はいただくことができました。頂上でのんびりおにぎりといちご大福(地元の和菓子屋さんが現地出張販売を購入)でした。眺めのいいところで食べるものは美味しいですね。今日の登山は歩行距離3.1km、高低差265mです。山腹にある移ヶ岳瑞峰平に車を置いての登山です。
2025/05/03
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「物(もの)を開(ひら)き務(つと)めを成(な)す」と読み下す。 人間の知恵を開発し、事業をなしとげること。 「開成」の語源。 『易経(えききょう)―繋辞上』に、「夫易、開 レ物成 レ務、冒 二天下之道 一、如 レ斯而已者也」とある。「夫(そ)れ易は、物を開き務(つと)めを成し、天下の道を冒(おお)う。斯(か)くのごときのみなる者なり。」語句の意味:夫(そ)れ:そもそも(文頭の感嘆・提示の語)易(えき):『易経』、またはその思想(陰陽の変化を説く書)開物(かいぶつ):万物の道理を明らかにすること成務(せいむ):人間の務め(仕事や責務)を成し遂げること冒天下之道(てんかの みち を おおう):「天下の道を冒す」は、天下の原理・道理を包み込む、あるいは体現するという意味如斯而已(かくのごときのみ):このようなものでしかない、これに尽きる現代語訳:そもそも『易(えき)』とは、万物の道理を明らかにし、人の務めを成し遂げさせ、天下の道を包み込むものである。ただ、それだけのことに過ぎないのだ。解釈:この一文は、『易経』という書物や思想の本質を簡潔に述べたものです。つまり、『易』は単なる占いの書ではなく、自然や社会、人間の在り方すべてを含んだ「道(タオ)」を示し、それによって人間の営みを支えるものである、という高い評価を示しています。そして最後に「斯くのごときのみなる者なり(ただそれだけのことなのだ)」と結ぶことで、逆説的にその偉大さを強調しています。このような語り口は、荘子や韓非子、また朱子学などにも見られる中国古典の特徴です。「開成」を取りあげたのは、郡山市内に開成の地名があるのです。開成山大神宮の敷地内に一文字が85cm角の郡山市内では一番の大きさがある開成山石碑です。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◼️油揚げの美味い食べ方、5選 https://l.smartnews.com/m-kE7AoJa/4FSaIt船引町のお人形様と呼ばれる藁人形。かつては5体あったそうですが今は3体に減ってしまったとのことを散歩中の近所のお年寄りに教えてもらった。江戸時代に疫病が流行った時に部落の出入口に疫病除けとして創られたのが始まり。顔立ちが火伏せの面と似ているかも。だが俄然こっちの顔の方が迫力があるね。人の背丈の倍位あります。この造形デザインを考えた先人のセンス凄いじゃ〜ないですか。
2025/05/02
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思考の習慣、ポリシー、考え方は、どこから生まれてくるか日頃、どんなニュースに触れているか、いわゆる見たり聞いたりしていること。いわば人は触れたものに似るわけです。今日、マスコミと云われる大手新聞、テレビだけを見ているとそれらに洗脳される。いわゆる新聞社の多くは元を正せば政党のPR紙からスタートしている。ある意図をもって紙面から伝えることから始まったわけです。なぜこう書くのだろうかと疑ってかかる位がちょうどいい。つまり、私たちの「思考の習慣」は、日々どんな情報に接しているかによって形作られるのです。情報に触れるという行為は、単なる受動的なインプットではなく、知らず知らずのうちにその人の価値観や判断基準、さらには行動パターンにまで影響を及ぼしていきます。特に現代のように情報が溢れかえっている社会では、どの情報を信じ、どの視点を採用するかが、その人自身の「思考の癖」を決定づける要因となるのです。ここで重要なのは「多様な視点」に触れることです。もし一つの媒体、一つの思想、一つの価値観だけに依存してしまえば、思考の幅が狭まり、やがては他の意見を排除するような硬直的な思考態度が身についてしまいます。自分にとって都合のよい情報ばかりを追いかけ、耳障りの良い言葉だけを取り入れていると、いつの間にか「自分の考え」だと思っていたものが、実は他者の思想のコピーであった、ということになりかねません。例えば、SNSのアルゴリズムは利用者の好みに応じて情報を最適化してくれますが、それは裏を返せば、見たいものしか見えなくなる環境をつくり出しているということでもあります。いわゆる「フィルターバブル」です。これは便利であると同時に、思考の偏りを生む危険性を孕んでいます。だからこそ、意識的に異なる立場や反対意見にも目を向ける必要があります。また、日々の読書や対話、自然とのふれあいなど、デジタル情報とは異なる種類の「体験」も、思考の深みや柔軟性を育ててくれる大切な要素です。新聞やテレビ、ネットニュースだけでなく、歴史書や哲学書、詩や文学といった「時間を超えた知」に触れることで、私たちは短期的な視点を超えた長期的なものの見方を身につけることができるでしょう。最終的には、自分の思考を常に問い直し、「なぜそう思うのか?」「その情報の前提は何か?」と疑う習慣をもつことが、思考の自立へとつながっていきます。情報に流されるのではなく、情報を選び、咀嚼し、自分の血肉とする——そのような姿勢こそが、現代を生き抜くために欠かせない「思考の力」だと考えるところです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日の夕陽(18:11)郡山市中央図書館から駐車場に戻る時に日の入りが綺麗っだったのでパチリ。100年前に建てられた郡山市公会堂の背景が茜色に染まる。
2025/05/01
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