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自分自身の言葉で語れ 自分自身で生きたまえ私には忘れられない先生がいる。哲学者のS先生だ。先生の本に埋もれた研究室にお邪魔するのが好きだった。ゼミで先生の著書の書評を提出したときに思いもかけず褒められことがある。その時、たまたま本棚から先生の著書を1冊取りだして、その本の背表紙にサッと書いてくれたのが、この言葉だ。そしてもう一冊、茶色く変色した厚手の岩波の文庫本(確かカントの『純粋理性批判』だった)を所望していただいた。その本には、先生のアンダーラインンが引かれ、欄外の余白に思い付かれた註書きがメモされていた。以前に本棚の掃除を頼まれたときに見つけ、研究者はこうして本を読むのかと、それ以降真似をして書きこんだものだった。この言葉は仕事を始めてからも座右の銘となり、何か文章でまとめるときにも自分自身に問いかけるようにした。今思うとで若気の至りで、○○主義というと、それにはまり込み、型にはまった考えをしがちで、信じ込みやすく一度信じると猪突猛進に突き進む、そんな僕の様子を見ていてハラハラしたに違いない。自分自身の言葉で語るとは、咀嚼するまで読みこなしてから自分の言葉にして書けということで、これはつらい作業だった。果たしてどこまで自分の言葉で書けてきたか、自分自身の生き方をしてきたか心もとないが、少なくともそのことを気にかけた書き方はしてこれたように思うし、そのことを意識した生き方をしてきたと思っている。 竹やぶ前の池の傍らに咲く芙蓉
2009年08月07日
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Tくん と Tさん先日観た『グラン・トリノ』で主人公が、はじめ隣家のモン族の家庭を黄色の下劣なヤツらと蔑んでいた。その差別用語を聞いてふと昔のことがよみがえった。韓流ブームで沸いた韓国映画の日本への輸出も一時の8割減という。一時の流行だったのだろうか、それとも韓流ブームによって日本人の中にあった朝鮮人への差別は薄れたのだろうか。私の小学生時代の友達にT君とという在日朝鮮人がいた。両親は小さなラーメン屋を営んでいた。彼は秀才でいつもクラス一の成績だった。昼休みなど僕らがドッジボールに興じている時に校庭の隅で一人何かを読んでいた。あるとき読んでいたノートを見せてもらった。当時は高学年でローマ字を教わるが、それとは違うようで読めなかった。訊くと中学で習う英語だという。物静かなたち振る舞いで、正面からジッと目を見ながら静かにボソっと話しをする。ラーメン屋の2階が住まいで、家によく遊びに行って軍艦将棋で夕方まで遊んだ。そのT君とは同じ区内の中学に進学したが、クラスが分かれて新しい友達ができていつしか疎遠となった。中学時代は男子と女子が分れて2学級が合同して授業を受けるが、その時は久しぶりに隣のクラスのT君が一緒だった。ある日、口ごたえしたことがないTくんが静かに体育の先生に抗議をしていた。先生の顔が赤くなり「…のくせに」と言っていきなり体育用具室の鍵のついた厚い板の角で頭を殴った。彼はひるまず恐いくらいキッと睨んで立っていた。差別用語を聞いたのは、これが初めてであった。彼は都内のもっとも秀才が集まる高校へ進学していった。Tさんとは高校時代に知り合った。それは色白で一重の瞼をした綺麗な女の子だった。日本名でTと言っていた。ある日、僕の誕生日にプレゼントしてくれるというんので駅で待ち合わせをした。現れた彼女はチマチョゴリの民族衣装を着ていた。一緒にいて人の往来がとても気になった。差別意識なんて僕の中には露ほどもないと思っていた。中学時代のT君への教師の暴力に憤りを感じた自分なのに、何だろうこの気持ちの揺らぎは…。その時間は終始ぎこちなかった。ほどなくして彼女は僕から去って行った。僕は心の底にあった差別観を憎んだ。心から恥ずかしく思った。
2009年05月15日
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お好み焼きのおじさん小学生の低学年頃の想い出の一つ。毎月1のついた日に縁日があって商店街に百メートルくらい屋台が出た。僕はパン屋の前に出店されるお好み焼きの常連だった。といってもお客さんというよりも香ばしいソーズの臭いを嗅きながら焼かれるのをジーと見ていた。縁日の日は学校が終わると小遣いの5円玉を握って一目散に駆けつけた。改造したリヤカーに鉄板がのっていて前の棚は何段かになっていて小さな引き出しがついている。その中にパン粉や青のり、紅ショウガの容器、ひき肉のいためた容器、チリメンジャコ、卵などが入っている。白いコック帽をかぶった屋台のおじさんは、注文を受けると特性のシャモジで大きな容器から溶かした小麦粉をすくって熱い鉄板に載せてシャモジのそこで薄く丸く延ばす。その手際良い動作は見ていて飽きない。中学生や上級生たちの注文は、ほとんど10円、15円の値段の野菜入りお好み焼きで、5円の違いはチリメンジャコを入れるか入れないかの差だ。野菜を載せて、もう一度溶かした小麦粉を載せて、おもむろに前の引き出しを次々と開けてサッとパン粉を振り掛け、紅ショウガをのせてから青のりをかける。この一連の作業が魔法のようだった。大小の小手を両手でもって、鉄板の上のものをひっくり返してからギュッと押し、先の角っちょでサクサクと孔を軽く開けてハケでソースを付ける小手でクルッとひっくり返す。ジューという音とともに焼けたソースの臭いが僕の鼻を刺激する。1時間くらい見ていて十分臭いを嗅いでから、ぎゅーと握っていた汗ばんだ5円玉を渡しながらパンテンを注文する。これは食パンを溶かした小麦粉容器にチョコっと浸けて焼いて青海苔を掛けてソースをつけただけのもだが焼けたソースの香ばしいといったらなかった。小さな新聞紙にくるんでふーふーしながら食べる味は格別だった。この幼少の頃の体験以来、僕の大好物はお好み焼きだ。広島に出張した時に焼きそばと卵の入ったお好み焼きを鉄板の前に座って小手を使って食べた。ますますお好み焼き狂いとなった。 フジの中に紅いサツキ台所の窓を開けたら紫の花が咲いていた。裏に回ってみるとフジに雑じってサツキも咲いていた。花というと目線がどうしても下に行って地面ばかりを見てしまうが、意外な処に咲いているもんだ。
2009年05月07日
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