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やっぱり泣いてしまった 『神様のカルテ』小説を読んだのは震災の前。震災で図書館も長いこと閉鎖され、車のガソリンもなく大幅に返却期間を越えて借りていた小説だった。映画化されると予告編を観て、どんなふうに映画化されたの興味があったが、ようやく観ることができた。映画に原作を越える別物を期待するか、それとも原作をできるだけ忠実に反映し具体化したものを期待するかは、人によって分かれるところだろう。 少女雑誌のような装丁だが本格小説ただ映画の時間的な制約からは、原作を反映するといっても限界が勿論ある。どうしても削ぎ落す作業が必要になるが、原作の何処あたりを取り上げるかで大分様子が違ってくるように思う。原作の『神様のカルテ』は、地域医療における深刻な医師不足をベースに、そこで働く過酷な医師たちの姿を一人の純朴な青年医師の生き方を通してヒューマンに描いている。このベースの部分はきちっと映画に反映されていた。どこをクライマックスにもってくるか。本の中では感動し泣かされる個所はいくつもあったが、僕にとっては消化器内科副部長の死にまつわる所が圧巻で、ここかと思った。だが、これを全体で2時間の中で収めるのはきついと判断したのかもしれない。映画では大学病院で見放なされた末期がん患者(加賀まりこ)と最期までを向き合い、みとる場面をもってきた。キャストも満足いくものだった。特に、女性と言うよりも中性に近い、多くは語らず、ただそこに居てくれる、話を聴いてくれるだけで癒される、そんな存在感のある恋人のまんまのような連れ合い・栗原榛名を宮崎あおいが好演してる。大好きな女優さんだが、いつ観ても、何を演じても上手い。主人公の栗原一止は嵐の櫻井翔だったが、純朴な青年医師をうまく演じていた。妻夫木聡だったらどんな一止を演じたか観たかった。その他の俳優では、消化器内科部長の柄本明もとぼけた感じがよく出ていた。主任看護師の池脇千鶴もピッたしの感じがした。いずれにしても小説に登場する人物は読者が自分なりのイメージを作り上げている。それを実在する俳優さんに演じさせるのだから大変だと思う。うまいキャスティングをしている。ロケハンティング(撮影場所探し)も大変だった思うが、信州松本の雪に覆われた美しい山々、地方都市のちょっとした小路や風景が舞台効果となって随所に見られ、ロケ地での撮影が十分に生かされた映画になっている。一止が帰宅する神社前の坂道、榛名が撮影しながら待っている高台のロケーション、どういう位置関係にあるんだろう。多分まったく別の場面の撮影なんだろうが、自然につながっている。住まいが御嶽荘という元旅館という設定なのだが、セットなのか、もしかしたら何処かの旅館を見つけたのか、小説のイメージをうまく再現して古めかしく朽ちた感じがよく出ていた。一つだけ旅館の中にある小さな渡り橋は演出のために設定したのか、たまたまあったから利用したのか、小説の中には描写されていないが違和感があった。
2011年09月15日
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『The Tree of Life 』 と 『 コクリコ坂から 』よく映画を観るようになった。まっ暗闇だと怖いが、あの程度の暗がりで、知らぬ人ではあるが、人のいる気配がして、時にフゥーと息を吐き、すすり泣いたり、笑ったりする、仕草や息遣いが感じられ、そんな一時を過ごすのが今の僕には心地好い。先週、観たのが『ツリー・オブ・ライフ』で、今日、観たのが『コクリコ坂から』。前者は今年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した前評判の映画だ。予告編を観て親子間の確執がテーマなんだろうかと思っていたが、テーマはもっとスケールが大きく、タイトルの通り「命の樹」(生きることの系とか繋がり?)を子の誕生から親(厳格な父親と慈愛深い母親)と息子たちとの関係、そのなかで葛藤しながら成長していく子ども そして兄弟の死、大人となり幼き日を回顧するへと成長していく様を描いている。後悔の念に駆られる父親の姿が痛々しい。終始、重っ苦しく、観終わってからも床に就くまで胸が押さえられているような感じがした。 それに対して、今日観た『コクリコ坂から』は、観終わってホンワカとして心が和んだ。また映画の時代背景が東京オリンピックの前年で、画面には僕が小学6年生の頃の懐かしさがあふれていた。たとえば肉屋さんの測り売り、釜で炊くご飯、布団の下にスカートを敷いて押しつけてアイロン代わりにしているシーンなど、思い出がいっぱい詰まった映画だった。この時代、古い物を壊し、新しいものを造り上げる経済成長優先の時代で、それを象徴するようなバンカラ的な雰囲気の残る高校のサークル室のはいった建物「カルチェ・ラタン」の建て替えを進めようとする学校側と、それに反対する学生たちの青春模様。それに若い二人の複雑な恋をからめた。ハッピーエンドに終わり、そこに流れる主題歌がグッとくる。http://www.youtube.com/watch?v=o_zGdZ3wTNg
2011年09月01日
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最初は 『 小川の辺 』から原作が藤沢周平だと、どうしても観たくなる。しかも主演が『 山桜 』で好演した東山紀之となると居ても立ってもいられない。そそくさと映画館に足が向いてしまった。戌井朔之助(東山紀之)は主君の命により藩政を批判して脱藩した妹の夫である藩士を討ちにいく。二人は藩で1,2を争う剣術の使い手。しかも妹も朔之助と共に幼くして父から剣術の指導を受けた腕前を持つ。夫を討てば妹は刃向かい剣を交えることになるかもしれない。その危険を回避したいと願って、幼いころから妹に想いを寄せていた若党が付き従って道中を共にする。終に小川の辺の小屋に密かに隠れていた二人を見出す。主君の命に従い敢然と立ち合う凛々しさ、討ち果たした後に妹と剣を交わし心惑う様子、さらには若党の押し殺すような気配、そしてラスト...。見ごたえがあった。 次は 『星守る犬』 で涙して熟年離婚が世間でかまびすしくなって久しい。大体にして原因は無口と言うか、感謝の気持ちがありながら言葉に表現できない、不器用な夫に原因があるようだ。この映画も、そんな男が主人公である。相談されても「好きなよう(いいよう)にしたら いいんじゃないの」と答えてしまう。決して悪気があってのことじゃない。そんな、頼りのない、主体性のない男を西田敏之が好演している。熟年離婚の末路も寂しそうだが、映画の男も犬との逃避行の末、キャンプ場で死後半年経って白骨体として、犬の遺体と共に発見される。行路死亡人として対応にあたった役所の若い職員が、車中で死んだこの男の人生に強く興味を持ち、持ち物だったと思われるレシートを頼りに、男の最期を辿る旅に出る...。旅の途中で出くわす人たちとのエピソードが温かく悲しい。主人思いの犬のしぐさが優しく愛おしい。そしてあまりに淋しくつらいラストだった。西田の巧さは言うに及ばないが、何よりも驚いたのは犬の名演技だ。 31日に 『 アレクセイと泉 』 立ち止まり 考えるこの映画、福島の原発事故に押しつぶされそうになって暮らす身には、ふと立ち止まって、もう一度自分の置かれている状態を見つめ、考え直してみる機会になった気がする。チェルノブイリ原発の爆発事故で被災したベルルーシの小さな村ブルシチェのドキュメンタリーだ。原発から100数十キロの村で、森からも畑からも、採取されたキノコからも放射性物質が検出される。多くの人が避難する中、村の高齢者たちの多くが生まれ育った土地に残ることを選択した。その中に一人の青年アレクセイがいた。この村には人々の生活に欠かせない水を与えてくれる泉がある。村中が汚染されているのに、この泉からは放射性物質は検出されなかった。水は大地を100年かけて浸透して命の水を湧き出す。映画は、村の人々の電力に依存しない、薪を割って燃料にして、泉の水を汲み、育てた小麦とジャガイモを主食に、野菜を作り、豊かな自然の中で営々と暮らしている、その姿を坦々と映しながら、「この百年、人間は何の豊かさ求めてきたのだろう。豊かさとは何なんだろう」と暗黙に語りかける。今回は、上映後、監督の本橋成一さんから、この映画の製作の動機について話しを聞くことができた。汚染された地にとどまっていた人を取材した時に 『 何処へ出て行けって言うんだい 人間が汚してしまった土地なんだろう 』 この言葉が耳から離れなかったという。本橋さんが言いたかったのは、汚染された地に留まれと言いたかったのでは勿論ない。原子力発電によって生み出された電気を何の疑いもなく享受してきた私たち自身が、まぎれもなくいた事実から目をそらさず、逃げ出さないでいてほしいと言いたかったのだろう。それは "人間が"という言葉で全てを一括りにすることで"危険はない”と慢心して原発を推し進めてきた人たちを免罪してしまうことではない。これまでの原発に依存した電力大量消費の在り方に、一人ひとりが無関心であってはならないと警鐘を鳴らしたかったに違いない。
2011年08月01日
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『妻を看取る日』 を観た随分前から予告をしていたドラマだ。連れ合いがいるときに、「ちょっと観ておきたいね」と言ったら、「そうねぇ あなたの方が長生きしそうだものね」と軽口をたたいていた。ガンで妻を失った医師の実話だ。昨日までいた人が居なくなったら、その喪失感はいかばかりだろう。今はとても考えられない。想像を絶するものだろう。知り合いの医師で同じような体験をした人がいる。彼は学会先で妻の突然の死を知らされた。奥さんが亡くなって数年経ってから仕事関係で知り合った人だ。家に何度かおじゃまする機会があった。家の中は手をつけることができず、奥さんの生前のままの状態であるという。何かに触れると思い出が甦り、不安になり、とどめなく涙がでてきてしまうので手をつけられないと言っていた。ドラマの原作は国立がんセンター名誉総長・垣添忠生の『妻を看取る日』(新潮社刊)だ。まだ読んでいないが読んでみたい。お迎えはどっちが先か分からないが、いつなんどき死が突然やってくるか分からない。僕が残されたら、その時、絶望の淵から這い上がることができるだろうか。
2010年12月17日
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アンダンテ 稲の旋律隣の町の文化センターで映画会が催された。映画館の上映もいいが、こうしたホールでの上映会もいいもんだ。JAが後援していて、ここの組合員さんは半額で見られるとあってか会場は満員である。周りの席はほとんどがご婦人方で、ご近所同士といった雰囲気で始まる前から和気あいあいとしているのも映画館と一味違う雰囲気だ。この映画は、原作者の旭爪あかねが自らの対人恐怖の苦しみや、ひきこもり生活の体験を元にした小説を山田耕大が脚本化し金田啓が監督したもの。映画の主人公「千華」は、対人恐怖症でひきこもりの30歳の女性。幼い頃から母親の押し付け的な期待で音楽の道を歩むが、やがて自分自身を見失い大学を中退してしまう。中退後、アルバイト生活に入るが長続きせず、仕事を転々とする生活を繰り返し、ついには家に閉じこもりがちになり、日毎、両親とのいざこざが絶えなくなってしまう。たまたま外出した折りに、途方に暮れて乗った電車がいつしかのどかな田園地帯を走っている。揺れる夏の緑の稲に誘われるように、とある片田舎の駅に降り立ち、田んぼに「誰か私を助けてください」と書いた紙切れをペットボトルに詰めて置いてくる。暫くして、ペットボトルを拾った米農家の「晋平」から手紙が届く。こうして二人の交流が始まる。無駄の多い効率性とは相容れない農作業の体験を通して、人それぞれに合った速度でゆっくり歩めばよいことを知り、新たな立ち直りの道を見出していく。 2時間の映画の中に家族関係、農業問題、女性の自立などの問題が盛りだくさんにあって、いろいろと考えさせられた。何よりも、野良仕事の大変さや忙しさにかまけて、このところ映像に映し撮られた作物の美しさを見失っていたように思う。こんなにも素敵な稲や野菜を育てていたんだと気付かされた。原作を読みたくなった。もともとはNHKラジオで原作者の話を聞いたのが観るきっかけだったので、ぜひ原作は読みたいと思っていた。図書館に予約しておいたら、『稲の旋律』 は一ヶ月後だそうで、その前に続編に当たる 『風車の見える丘』 と完結編の 『月光浴』 が先に届いてしまった。続編、完結編を読んでから最初に戻るのもいいかもしれない。
2010年11月22日
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予告編は優れもの久々に映画館の暗闇で映画を観て感動した。『おかんの嫁入り』 (監督・脚本 呉美保 原作 咲乃月音「さくら色~オカンの嫁入り 宝島社文庫」 ) だ。 何といっても、この二人の女優さんはうまい。初の共演だという。ある場面でじわッと涙が出てきた。息苦しくなった。はじめ娘の生活感のなさが気になったが、それも意味があることが進行とともに解ってくる。テレビでの映画の紹介コーナーで予告編を観て、好評を聞いて、こりゃぁ観なきゃぁと思ったのだが、どうも解説の部分が余計だったようで感動を幾分妨げてしまったのが、返す返すも惜しかった。観る前には映画評論家の解説は聞かないほうがいいかもしれない。その点映画館での予告編は、良くできているものが実に多い。削ぎ取って削ぎとって余分なものを入れないで、見たい気持ちをけしかける。だから、この映画の感想もこの程度にして、これから見るかもしれない人のために粗筋は伏せておくことにしよう。サラで見てほしい。そうそう、今度 『アンダンテ ~稲の旋律~』 という映画が福島でも上映されるという。これは先日、NHKラジオで原作者の旭爪あかねさんの話を聞いて観たくなったもの。こういう原作者の話から観るパターンはどんな観賞後感想になるのだろう。
2010年11月04日
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俳優さんは やっぱしスゴイ雨の休みの時間つぶしは読書かパソコンの映画・ドラマが定番になっている。一昨年辺りからだがネットで無料の韓国ドラマを時々観るようになった。今、テレビで放映中の『善徳女王 』も、実はもう最後まで見終わっている。『The Great Queen Seondeok-』というタイトルで会話は韓国語で字幕は英語だったが、これが意外と解るのだ。といってもパソコンの前のシャープの電子辞書と首っ引きなのは当然のこと。ところが不思議なもので最初は繰り返し、くりかえし辞書を引いていたが見続けていると不思議と、それが三回に一度、5回に一度引く回数が減っていく。しかも意味も段々と理解できるようになってくる(と勝手に思い込んでいる)。これが病みつきになって、その後 『スプリング・ワルツ』『 華麗なる遺産』 『I love you ,Don't cry』 と現代ものも観るようになった。 これは英語力が上向きになったのかと思ったら、どうもそうではないようだ。ほとんどが俳優さんの演技の表情に助けられていたように思う。それが判ったのは今観ている 『Dong Yi』 だ。これは今韓国で同時放映されているものを2日後にもう観れるのだが、こっちは中国語の字幕スーパーだ。中国語の簡体字のため日本語の漢字と大分違い漢字からの理解は一割程度だろうか。ところがストーリーはおおよそ理解できるのだ。俳優さんの演技力って大したものです。
2010年05月24日
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他人事でない 災害このところの異常気象で各地で痛ましい土砂災害が起き、多くの犠牲者が出ている。この山里も長雨で田圃の見回りで畦を歩いていると端が崩れている箇所があり、いかに地盤が緩んでいるか分かる。このままこの天気が続くと裏山が崩れてこないかと心配になる。先月行政区の定例会に町の担当者が来て「ハザードマップ」の説明をしてくれた。町の中に土砂崩れの恐れのある危険個所がずいぶん沢山あった。他人事ではない。先日、借りてきたDVD『252/生存者あり』を観た。映画の舞台は東京の新橋。異常気象によるヒョウや高潮、さらには大型台風が近づき地下鉄の駅構内や地下道に大水が流れ込み、都市生活のもろさを露呈する。映画は、二次災害の危険もはらむ困難に立ち向かい、地下に生き埋めになった生存者の救出をするハイパーレスキュー隊の人間ドラマ。 タイトルの252は救助を求める音の合図というのを初めて知った。2回打ち、間をおいて5回打ち、さらに2回打つことで生存を伝える。閉じ込められた5人の中に元レスキュー隊員がいた。瀕死の重傷を抱えながら助けを求めて鉄棒で鉄筋の柱を叩き続ける252の合図。近づく超大型台風に一刻の猶予もない中での救出作戦が展開される。見逃した映画もDVDで十分に楽しませてくれることが分かった。それにしても迫力ある画面を映画館の大スクリーンで見れたら凄かっただろうなぁ。
2009年08月02日
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『愛を読むひと』ハンナという21歳年上の女性と知り合った15歳のマイケルは、彼女と毎日ベッドを共にするというひと夏を送る。ハンナはマイケルにさまざまな本を朗読をさせる。ある日突然ハンナは姿を消してしまう。互いに何の連絡も取らないまま8年の時が過ぎ、数年後、法学生となったマイケルはナチス戦犯の裁判で被告席に座るハンナを見つける。彼女は300人のユダヤ人を死なせた罪に問われていた。 何故かハンナは愛の行為の前に本を読ませる。この朗読という伏線が後半の裁判の行方、そして無期懲役で収監された彼女への朗読テープの差し入れへとつながっていく。彼女が重罪を科されようとも守り抜きたいと願った尊厳が朗読の行為に秘められている。ときどき映画の日本でのタイトルの付け方に疑問を思う。そのままの方がいい時が多いが、この『愛を読むひと』もそうだ。これよりも元々の『朗読者』の方が合っているように思う。この映画は、ユダヤ人のホロコーストを取り上げた映画としては直截的に残虐な表現していないが、それがむしろ一層悲しみを伝えてくれている。前半の甘い愛欲のシーンには戸惑ったが、それがハンナの物思いに沈み、陰りのある憂いをおびた表情を際立たせている。映画の進行とともに、その暗さの背後に戦争の傷跡があったのかもしれないと気づかされる。そして戦争が貧しい善良な女性を戦争に巻き込み、知らないうちに加害者に仕立てる恐さを伝えてくれる。それにしてもハンナ役のケイト・ウィンスレットが、あの『タイタニック』のローズとは驚きだ。綺麗で演技力のある女優さんだったが、どっしりとした名女優に変貌した。昨年のアカデミー賞で主演女優賞というのもうなづける。邦画:洋画が7:3だったが、こういう映画を観ると5:5でもいいな。
2009年07月02日
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『剣岳 点の記』雨との予報で映画を観に出かけたら、午前中だけ少し降っただけだった。でも種を播いた落花生やニンジン、黒豆には恵みの雨だったに違いない。久しぶりに大きなスクリーンいっぱいに迫力のある映像を見せてもらった。映画はこうでないといけない。日本地図というと伊能忠敬を思い出すが、幕府による国家事業であったし江戸時代を通じて国家機密だった。防衛を考えれば当然だが、それは明治政府以後も同じだった。当初は内務省が所管だったが、その後、軍の参謀本部測量局が担い日本全土の正確な地図作りを始めた。そして国内地図上の唯一の空白地点が前人未到の険しくそびえる剣岳であった。その参謀本部の命令によって文官測量士が剣岳頂上への三角点設置と周辺の三角点網の整備を行う物語だ。しかも当時、ヨーロッパの登山技術と装備を備えた山岳会が初登頂に挑もうとしていた。軍の威光から山岳会に後れをとるわけにはいかなかった。命からがらの登頂に成功する。だが…これから観る人に悪いから顛末は書かないことにする。でも頂上に上り詰めた寸前に、現地の案内人が一歩退き先頭を譲る場面には泣けた。測量師は頑として前に立たない。「あなたなくしては、この困難な踏破は実現しなかった。あなたは仲間だ」 麓の村の案内人(左)と測量士山岳文学の巨匠、新田次郎の原作だ。
2009年06月24日
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重力ピエロ連れ合いを福島駅に送りがてら映画を観た。『スラムドッグ$ミリオネア』を観たときの予告編でやっていた一つで、タイトルが妙に気になった。「重力」と「ピエロ」がどう結びつくんだろう。こういう言い方ってないよな。そう思いながら観終わった。最後の最後に空中ブランコを飛ぶピエロを観ている親子の回想シーンがある。タイトルはどうやらここからきたようだ。 空中ブランコを観る家族 【ストーリー】遺伝子を専攻して大学院に通う兄の泉水と芸術的な才能を持つ弟の春は、血のつながり は半分だが仲の良い兄弟だ。父と三人で平穏に暮らしている様に思えた家族だが、実は春の出生に関わるあまりにも重たい忌まわしい事件があった。それは、心の奥深く重たく沈んでいるだけだった。事件の加害者の出現と時を同じくして起こる連続放火。その現場には謎めいたグラフィックアートと文字が残されていた。 このタイトルは、画面での台詞の通り「血のつながりなんか何でもないし、遺伝子なんて関係ない、自分たちは最強の家族だ」 「愛と絆で忌まわしい重力なんてはねのける」と言いたかったのだろうか。そうも言いたかったのだろうが、こうもいいたかったのではないだろうか。ピエロがまるで重力がないかのように空中ブランコを飛び振舞っているが、最後には逆らえずに落下する。自分たちは固い絆で結ばれた最強の家族だと言い聞かせ、重たい過去を忘れたように振舞い生きてきた家族も、結局は最後に引きずってきた重さに耐えきれない。そういうこともあると言いたかったのかもしれない。ちょっとネガティブすぎるかなぁ。もうちょっとポジティブに考えないといかんかなぁ。タイトルの重力ピエロはなかなか意味深だ。そう思うとなかなかいいタイトルに思えてくる。伊坂幸太郎の同名の原作を読みたくなった。
2009年06月19日
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『スラムドッグ$ミリオネア』田植えの合間に映画で中休みした。日本でもみのもんたが司会をした同様のクイズ番組がある。何度か見たことがあるが、現在は特集番組になったようだ。映画はインド版の「クイズ$ミリオネア」がストーリーの軸となって展開されていく。インドといえばバンガロールがアメリカのシリコンバレーを凌駕するほどのIT産業が盛んで21世紀の世界経済をリードするとさえいわれている。映画の舞台となったムンバイもインド最大の商都であるが、一方で貧困を象徴するスラム街を擁している。主人公は、そのムンバイのスラム街出身の無学の若者。「クイズ$ミリオネア」に出演した彼は、あと少しで史上最高額の賞金を獲得するというところで、不正を疑われて逮捕される。学歴ゼロの彼がなぜ次々と正解できたのか。警察での尋問、少年時代からの壮絶な体験と純粋な恋愛の経過をクイズ番組の問題と交錯させながら進み、最終問題の回答に向き合う。そして劇的な恋人との再会のラストシーンにつながっていく。 映画はとても臨場感にあふれていた。これは迫力あるカメラワークもさることながら、映画がこのスラム街で実際に撮影され、現地の子どもたちが出演したことによるのだろう。つい最近、このスラム街が打ちこわしされる様子がニュースで報道された。出演した子どもたちの家が無残に壊され行き場を失った子どもたちの姿が映画と重なって痛々しかった。 恋人の役の子役 ルビナ・アリ
2009年06月04日
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『グラン・トリノ』先日、久しぶりに映画を見た。『グランド・トリノ』だ。ベトナム戦争での体験が深い傷となった老人は、それゆえに気丈に振る舞い頑固一徹な生き方をするが、周りから疎ましく思われ孤独だ。ただ一人の理解者である妻に先立たれ、どう人生にピリオドを打つか迷っている。隣に住むラオスの戦禍から逃れて移民してきたのモン族の青年が不良仲間にそそのかされて老人の愛車「グラン・トリノ」を盗もうとしたことから、その家族との交流が始まる。暴漢から娘を助け、生活習慣の違いに戸惑いながらも家族との気持ちが通じ始める。仕事に就き前向きに生き始める青年を援け付きまとう不良グループに立ち向かうが、それが裏目に出て家族が襲撃をうけ娘が暴行を受けてしまう。 結末は辛いがすがすがしい。頑迷な老人をクリント・イーストウッドが渋く演じている。黄昏を迎えた高齢者は、誰もがこれまで生きてきた過去を振り返りながらどのように最後のピリオドを打とうか迷っている。自分とは違った終止符ではあるが、今まさに迷いながら自然の中での生活を選び、日々を過ごす自分に納得するものを感じた。
2009年05月12日
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映画 『禅 ZEN』 を観て五木寛之の『蓮如』を読んだ。蓮如上人の浄土真宗は念仏(南無阿弥陀仏)を称えることで、阿弥陀如来の慈悲で浄土へ往生して成仏するという教えだ。一方、映画で観た道元禅師は禅宗で、当時隆盛を誇った臨済宗に出家したが失望して中国にわたり天童山で如浄禅師と出会い、坐禅をする無限の修行こそが成仏であり、「只管打坐(しかんたざ)」ただひたすらに坐るという教えをひろめた。同じ仏教でありながらあまた宗派がある。その本は釈尊でありながら、こうまで悟る方法や教義が違うのはなぜなのだろう。他にもキリスト教ありイスラム教あり、それぞれにカソリック、プロテスタント 他、シーア派、スンニ派 他とまた別れる。人々は生まれ育った場所で流布している宗教とその宗派に知らぬ間に染まり信仰して生涯を終える。こうなるとほとんど宗教との出会いは偶然というほかない。さてさて私はこれまでどんな宗教に出合っただろう。どれが身に合った教えだっただろうか。そんなことをふと考えてしまった。映画の中で道元が言う 「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて すずしかりけり」 邪心なく目の前の自然をあるがままを捉える。それはただただ座禅をすることで体現できるのだと。今、縁あって自然の中に生活している。西行法師が「此の歌すなわち是れ如来の真の形体なり。されば一首読みいでては一体の仏像を造る思いをなし、一句を思いて続けては秘密の真言を唱うるに同じ」 と好きな和歌に仏道を見出したように、この地にあっては念仏を唱えるよりも有閑に座を組んで自然をあるがままに捉えてみたい、そんな気にさせられた。
2009年03月15日
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『誰も守ってくれない』加害者の人権が重んじられると同様に被害者の立場も尊重されるべきだという当然の要求がようやく認められてきた。だが相変わらず加害者の家族へのマスコミをはじめ世間の節度を越えた報道や糾弾の声は凄まじく、それを苦に、あるいは責任を感じて自殺をしたり立ち上がれない家族も少なくないという。特に未成年の犯罪者の場合、家庭教育の責任、背景にある養育の問題から両親への風当たりは強い。この映画は、そんな未成年の子どもが犯した殺人事件から家族がマスコミに晒され、インターネットによる興味本位な誹謗中傷という暴力から「誰も守ってくれない」被害者に陥っていく様子を描いている。 昨日までどこにでも見られる穏やかそうな一家の生活が、高校3年生の息子の殺人事件から突然に壊れ、家族が引き裂かれる。母親は追い込まれ自殺をし、15歳の妹の沙織(志田未来)は証人として警察に保護され刑事の勝浦(佐藤浩市)と身を隠すが、行く先々でネット社会の環視の渦に飲み込まれていく。だが執拗なマスコミや野次馬の関心も、やがて新しい別の事件が起こると、まるで引き潮のように他所に移っていく。そして傷ついた家族だけが残される。ラストシーンで勝浦が自分に言い聞かせるように沙織に言う。「これからは君が家族を守るんだ」「守るというのはその人の痛みを理解するということなんだ」それは、この広い社会を家族と見立てて、映画を見ている一人ひとりに伝えたいことなんだろう。涙でスクリーンが霞んでしまった。
2009年02月20日
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二つの映画 『ベンジャミン・バトン -数奇な人生ー』 と 『恍惚の人』二日間、連続して映画を見てきた。前者は80歳の身体で誕生して徐々に若返り、赤ん坊の姿で死んでいく男の数奇な運命を描いている。80歳で生まれた男の子は黒人夫婦が営む老人施設の前に捨てられベンジャミンと名づけられて大切に育てられる。施設に入っている祖母を訪ねてきた少女エリザベスに淡い恋心を抱く。二人は成人して再開して 恋人となり娘が誕生するが、幼児にかえっていく将来の自分を考え、娘の成長と愛する人の負担を考えて立ち去る。時が過ぎ、路上で栄養失調で倒れ記憶を失った少年が保護され、もっていた日記から歳老いた妻と再会する。 若返っていくベンジャミン 年老いていくエリザベス後者は有吉佐和子の原作を豊田四郎が監督した認知症をテーマにした最初の映画。認知症という言葉が生まれる以前の徐々に世の中でボケ老人のことが取り上げられた時代の作品で、この小説から「恍惚の人」という言葉が流行ったと記憶している。小説もいいが老人役の森繁久弥、介護に疲れきる嫁役の高峰秀子が好演している映画は古さを感じさせない。『ベンジャミン・バトン』は奇想天外なラブストーリーとしても泣かせられたが、赤ちゃんに帰るに従って食事したことを忘れるなど記憶障害や見当障害の認知症がおきてくる赤ちゃんを抱く歳老いた恋人の姿はあまりにせつなく悲しい。だが還暦も考えてみれば同じなのだろうか。人の一生を考えた時に単に年齢だけでなくボケが始まったときが新しい短い人生の誕生と考えたら、この映画は奇妙だが何とも現実的に思えてくる。期せずして老いることを考えさせられる映画に巡り合えた。
2009年02月12日
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『ブタがいた教室』上映期間が9日までというので急いで出かけたら「希望者が多いので12日まで延長します」とのこと。でも昨日からの雪で30センチ、今晩も降るというから、山里に閉じ籠るというよりも閉じ込められそうなので、昨日観ておいたのは正解だったようだ。この映画は実話だそうでドキュメンタリーものが他にあるというので調べたらあった。映画を観てから実録ものを観たが、映画の子どもたちがとても自然なのに驚いた。子どもたちの台本は白紙だったと知って納得がいった。 それにしても重たい映画だ。「生きるために」と大上段に構えずに、みんな当たり前に肉や魚を食らい穀物野菜を食べている。だが食べているものは自分で育てた作物ではない。自分で飼い命を絶った動物ではない。スーパーで売られているものは料理するだけになっているし、ファーストフード店ではただ口にいれるだけよい姿になっている。そこからは生きていたものを、命あるものを殺していただいているという意識は生まれない。豚を飼い、それを食べることで命について学ぼうという担任の先生と38人の子どもたちの900日にわたる記録が原案だ。私の子どもが通っていた小学校でも鶏と兎を飼っっていたが、それを食べることまではしなかった。それをやったら口角泡を飛ばすすごい議論になっていたことだろう。実際の小学校でも親も教師も巻き込んだ激論になったという。ここまでやるからこそ初めて分かる命の尊さ、人間が生きるってことの業の深さを知ることがあるのかもしれない。生き物を大切にする情操教育にもなるかもしれない。しかし一歩間違えば逆な影響も考えられる。教育現場でここまでの試行をしてよいのかも疑問もあわく。この実践のように、とことん皆で話し合う、適切な教師や親のフォローがあったからこそ「いのちの授業」と一定の評価もされたんだろう。私も鶏の解体実習を二度体験したことがある。鶏の首に包丁を入れ掻き切ったときの後味の悪さといったらなかった。だが食べることは命を絶つことなんだ、その命をいただくことなんだということを、これほどまでに実感したとはなかった。小学生の多感な時期でいいのか、どこの時点で体験するんのがいいのかは分らないが、きちっとした教育方針と方法のもとで一度は命を絶っていただく体験と向き合うことが必要だと思う。いまのように無差別に殺傷する事件が後を絶たない世の中にあって、命についての学校、家庭での教育の在り方を考えさせてくれた映画である。
2009年01月10日
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『地球が制止する日』 こちらも1951年の作品のリメイクもの。といっても洋画。最初の作品は観てないので比較はできないけれど、今のCG技術を駆使しているだけあってSFに相応しい作品になっている。たとえば地球が大量の未知な合金でできたウンカみたいなものに襲撃をうけるシーンは迫力がある。あっという間に鋼鉄の塊も大きな建造物が飲み込まれ崩れ去り消滅していく様は見事だ。すごいのは半世紀も前に人類が奢り高ぶって地上を支配することによって地球を瀕死の状態にしてきたということへの警鐘を鳴らす映画を作ったということだ。その当時の地球のどのような問題状況を見て、こういう映画を作る気になったんだろうか、とても興味が湧いた。51年というと世界大戦の6年後だからもしかしたら戦争だろうか。いずれにしても先見性のあるプロデューサーであるし監督だ。今回は未だ世界の何処かで繰り返し起こしている戦争や温暖化に象徴される地球規模に進む地球破壊への警告のためにリメイクしたのだろう。50年以上も経ってまたも宇宙からの使者が訪ねて来ざるを得ないのは悲しいことだ。でも「救うのは人類ではなく、地球だ」という使者の言葉は厳しい。観ての感想だけど、SF映画は娯楽ものでハラハラとするスペクタクルが売りでいいのかもしれないなぁ。真面目さを加えると、筋や展開に無理がでてしまう。≪ストーリー≫ある日、地球に彗星のような不明物体が衝突しそうになり緊急に各分野の科学者召集される。しかしそれは宇宙から地球を救うために人類に警告しにやってきた使者が乗る球体だった。クラトゥと名乗る使者は危険インベーダーと判断され拘束されそうになるが、科学者のヘレンに助けられる。行動を共にする中でヘレンの子どもへの無償の愛を見て、またヘレンの地球をこれ以上破壊しないという固い決意を聞き、人類への希望を見出したクラトゥは人類を破滅することを中止する。 科学者のヘレンと子ども みなさん 今年一年お付き合いいただきありがとうございました。 新しい年が素敵な年でありますように。 来年もどうぞよろしくお願いいたします。
2008年12月31日
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『闇の子共たち』貧困にあえぐ家庭の犠牲になっているのがいつの時代でも子どもたちだ。かつて日本でも口減らしのために子どもが売られていたちうのを何かで読んだことがある。 この映画の舞台は今のバンコクだ。貧しい農村から売られてきた子どもたちが海外からの旅行客の一時の快楽の慰めものになっている。その子どもたちが生きたまま殺され臓器が売買されている。この弱いものへの残虐非道な行為を暴き報道する日本の新聞社の特派員。だが実は彼にも拭い切れない過去があった。それを物語の最後に知らされる。この終わりかたが何ともやるせない。移植用の臓器を取り上げた小説に帚木蓬生の『臓器農場』があるが、これはサスペンスものでハラハラドキドキはしたが、フィクションと分っているから安心して読んでいられた。ところが『闇の子供たち』は、悪評高い売買春とからめているのでノンフィクションかと思われるほどリアルだった。
2008年12月30日
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『私は貝になりたい』この映画は3回映画化されたという。今回観たのは中居正広が主演した映画だが、ずーと以前、私がまだ小学生の頃にフランキー堺が主演したものを観た記憶がある。面白いことに遠い昔の『私が貝になりたい』の印象の方が今回を上回った。小さいながらに戦争って怖い、嫌だなぁ、自分が捕虜を殺せと命令されたらやっぱし殺しただろう、などと真剣に考えた記憶がある。映画館には小さな子どもを連れた親子連れもちらほらいたが、どんな印象をもったんだろう。映画は戦争責任が戦争を引き起こしたものだけでなく、戦争に巻き込まれた一般市民にまで及んだ事実をドラマ化したものだ。田舎町のしがない理髪師が徴兵され、上官の命令で捕虜の処刑に加担したことから戦後になって逮捕され、極東裁判で裁かれ絞首刑になる。絞首台に上りながら吐く 「・・・せめて生まれ変わることができるのなら、いいえ、お父さんは生まれ変わっても、もう、人間になんかなりたくありません・・・人間なんていやだ、牛か馬のほうがいい。・・・いや、牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。・・・どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ、深い海の底の貝にでも・・・そうだ貝がいい、貝だったら深い海の底の岩にへばりついているから何の心配もありません、兵隊にとられることもない、戦争もない。・・・どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・」この言葉を聞いて当時の僕は泣いたんだろうか。涙よりもきっと恐くて震えていたんではなかっただろうか。A級戦犯の裁判とは別にB級さらには名もなく”ノー”と云えない絶対服従のC級の二等兵までもが逮捕され、数百名も処刑されたという。幼い心にも戦争の理不尽さがきっと沁み込んだに違いない。
2008年12月26日
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雨に感謝の 映画デー『おくりびと』を観た。主演の本木雅弘が青木新門 著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け監督の滝田洋二郎に持ち込んで映画化が実現したという。昔、遠藤周作の晩年の作品「深い河」を読んだ時に、そのあとに『「深い河」を探る』という対談集も読んだ。その対談相手の一人が本木雅弘だった。最初読んだ時は、ん?俳優さんがなぜ?と思ったが、彼はすごい読書家で勉強家だということが後で知った。この「深い川」も死者を扱った小説だった。期待した通りの素敵な映画だった。 死は誰もが避けて通れないという言葉はよく聞くが、「死は誰もが通過する門のようなもの」という台詞は耳新しかった、この映画の主人公は死者を納棺するという生業だ。忌み嫌われる職業だろう。だからこそ死をどう捉えるかが大切になる。門の先があるから死に装束が必要であるし、それは貧しい人も裕福な人も、自ら死を選んだ人も、そうでない人も、苦しんで死んだひとも、穏やかに死を迎えた人も、生前の幸・不幸と関係なく、新しい世界へ入っていくための門を通過するときに、穏やかな顔立ちで、清らかな身支度をさせて通過してもらう儀式が大切なんだと映画は言っているようだ。死は重たいテーマだ。だから暗くなりがちなところを、あえて始めは観客の負担を軽くするようにユーモラスに笑いを誘いながら描いてくれる。そしていつしか深いテーマが目の前に繰り広げられて涙がとどめもなくこぼれてくる。そして観終わった後に穏やかな暖かいものが残っていた。 主演の本木もさることながら納棺業の雇い主の山崎努、清廉な妻役の広末涼子、「死は誰もが通過する門」と語る火葬場の職員の笹野高司は何ともいい演技をしている、巧い。第32回モントリオール世界映画祭グランプリを受賞した。そうだろうなぁ。 ≪ストーリー≫主人公は才能があまりないと自覚しているチェロ奏者。所属している楽団が解散して路頭に迷い、死んだ母の残した郷里の家に帰り職を探す。そして見つかったのが思いもよらぬ納棺師の仕事だった。本人もはじめはさげすんでいたが、さまざまな死者と、その遺族を前にして徐々に納棺師の役割、その意義を身をもって感じるようになっていく。頑なに納棺師の仕事をやめてほしいと懇願する妻も、親しい人(吉行和子)の死を前に粛然とその業を行う夫に目をみはる。そして主人公に幼少のころは母と自分を捨てて家を出た父親が死んだという知らせが届く。苦悩しながら父の亡骸と対面する。納棺師として父の旅支度をする。父親の冷たくなった手をみると、幼少のころ川原で拾い父にあげた石ころが大切に握られていた。涙をこぼしながら父親を愛おしそうに触れる夫を妻がやさしく見守る。
2008年09月26日
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マンデラの名もなき看守アパルトヘイト(人種隔離政策)の下の南アフリカ共和国では、一握りの白人が大多数の黒人を虐げ支配してきた。この映画は、この地に住むすべての人々が自由であり、平等であることを訴え、運動して獄中につながれた指導者 ネルソン・マンデラと名もなき看守の出会いと人間的な交流を映画化したもの。うだつの上がらない看守が、妻とともにマンデラが収監されている島の監獄に赴任する。マンデラを危険なテロリストと疑わず、幼少のころ覚えた黒人方言「コーサ語」を使って検閲官として会話を諜報して監視をする。はじめは居丈高に接していたが、いつしかマンデラの思想と人間性に関心を抱くようになる。ある事件から黒人寄りと同僚から白眼視され島での生活が重苦しいものとなり辞表を決意するが、「コーサ語」を話せることで重用され島外での任務に就くことになる。数年後、南アフリカ共和国のアパルトヘイト非難は国の内外に起こり、マンデラは別の刑務所に移動され、その刑務官にマンデラから唯一信頼されている彼が抜擢される。時代は大きく動き、もはやマンデラを捉えておくことができなくなり、マンデラは27年間の獄中生活から解放される。実際にあった話というのは説得力がある。この映画のテーマは「それでも人間は変わることができる」というマンデラの信念だという。確かに、人の心の底には、今そこには表れ出ていないとしても、非人間的な差別や暴力に抗する優しさ、正義心があり、何かのきっかけがあれば、この映画ではマンデラの人柄や思想、人間的な繋がりがあって、人の心は揺り動かされ、人として変わっていけるものなんだ。そう言いたかったのだろう。看守役のジョセフ・ファインは、人として誰もが持つ出世慾や名誉欲と暴力や差別、非正義との板挟みの中で苦悩する内面的な心の動きを上手く演じていた。 マンデラ役のデニス・ヘイスバートは重厚な演技で、指導者としての品格ある物腰、滲み出る優しさと強さが光っていた。 スクリーンに 画きだされた 強さ優しさ どこかに忘れ 置いてきたまま
2008年09月18日
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つい最近の出来事なんだなぁ 広州5・18わずか28年前の1980年5月18日にお隣の韓国で起きた史実を映画化したもの。 当時、関心がなかったのか、ニュースで大きく取り上げられていなかったのか、広州の惨事についてのはっきりした記憶がない。ただ、当時の韓国は軍部が掌握していて戒厳令が布かれた国で、野党指導者の金大中が東京で拉致され国外に連れ出され、逮捕されたという事件は知っていた。そうした軍部の強圧な支配が背景にあって5月18日、大学を封鎖した陸軍空挺部隊と民主化を求め軍事クーデターに抗議するる学生が衝突をした。その後、軍部の鎮圧活動は情け容赦なくデモ隊だけでなく市民にも及ぶようになり、翌19日にはデモの主体が学生から激昂した市民に変わっていった。21日、デモに対峙した空挺部隊が一斉射撃を行い多数の死傷者を出すに至る。ところが、この事件は軍部の言論統制により国内はもとより外国にもほとんど知らされていなかった。映画の起の部分ノンポリで平凡な兄弟の穏やかな生活が、5月18日のデモの鎮圧によって、否応なく巻き込まれていく。この日、仲の良い兄弟は映画を見ていた。そこに真っ赤に血に染まった学生が転がり込んでくる。映画館の外は、デモ隊が襲いかかり、容赦なくこん棒を振るい、血で真っ赤に染まり、市民が逃げ惑う。その暴力の矛先が映画を見ていた市民や兄弟にも及ぶ。映画の承の部分兄のミヌはタクシードライバーをやって大学生の弟ジヌの面倒を見ている。そのジヌの友人がデモに参加していて殺された。弟たち学生は全学で抗議行動を起こす。その抗議の波は市民も巻き込み広がっていく。映画の転の部分21日、予期せぬ事態が起こる。対峙していた部隊が市民に向けて一斉に発砲する。弟のジヌはその犠牲者の一人となった。兄のミヌは立ちすくみ、倒れた血まみれの弟を抱いて病院に駆け込むが助からなかった。病院は次から次と死傷者担ぎ込まれてきた。学生と市民は武器をとって戒厳軍に立ち向かう。映画の結の部分人々は息子を恋人を友人を失った怒りを盾に銃を持ち戒厳軍と戦う。その中に兄のミズがいる。ミズが思いを寄せる看護師のシネもいる。町の牧師がいる。大学の教官もいる。高校生もいる。幼い子どもと妻が家で待つ夫がいる。戒厳軍のまえでは赤子のような市民軍だが、何よりも自由の大切さを知っている彼らは恐れおののきながら、しかしひるまず立ち向かう。そして5月27日、鎮圧される。 観ていて思わずシートに座りなおす迫力のあるシーン。身の毛がよだつような権力の弾圧の恐ろしさ、最後のシーンは息を凝らして最後まで一気に観終わった。看護師のシネさんは清純で優しいなかにも、悲しみをこらえ、きりっとした強さを持つ女性を見事に演じてた。次に出演する映画は何だろう、楽しみだな。 うまくいった トマトケチャップ今年もトマトだけは上手くいきました。沢山取れたんで、昨年に引き続きトマトケチャップを作ってみました。どうやらトマト作りとケッチャップ作りは一人前かな??
2008年09月02日
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歩いても 歩いても映画「歩いても 歩いても」是枝裕和監督を観た。ごくありふれたどこにでもありそうな日常を描いた作品だ。長男の15回忌に集まった親子模様と暮らしをサラッと撮っている。このタイトルは、二つの意味があるように思う。一つは、夫婦の歩んできた営み、それをまた子どもたちが繰り返して生きていく。こんな子子孫孫の生きていくことの繰り返しをいっているようだ。もう一つは、二人して歩んできた長い夫婦生活、そのなかの若き頃の夫の浮気という暗い一コマは歩いても歩いても妻(樹木希林)の心にかき消えないで残っている。それを象徴するような浮気相手との生活場面に垣間見せた夫(原田芳雄)の素顔、『ブルーライト横浜』の ” 歩いても 歩いても ♪ ” と口ずさむエピソードとを重ねているように思う。この回想シーンでの樹木希林の表情は怖かった。老い認めたくない夫の意固地さ、妻のしたたかな強さと冷酷な面、子どもと親の意識のずれ等、自分自身や家族や周囲に思い当たることがたくさんあった。館内は同じような歳格好の人が多い。照れ笑いが起こり、すすり泣く声も聞こえた。 長男の墓参りいくシーン コーンの天麩羅映画の1シーン。子どもの頃に、母親がよく作ってくれたコーンの天麩羅について懐かしそうに妻(夏川結衣 夫が死別して再婚)と子ども(連れ子)に話す次男(阿部寛)。 映画館から帰ってきて、早速にこのコーン天麩羅を作ってみました。パリッと揚がって甘くて美味かった。
2008年08月31日
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原作に忠実な映画 「山桜」藤沢周平の原作を映画化した「山桜」を観た。季節はずれの桜だが、季節を忘れるほどにスクリーンの桜を観いってしまった。また、藤沢周平の描く山形が好きになった。 <あらすじ>http://www.yamazakura-movie.com/うららかな花曇りのもと、ひとりの道を行く女性がいる。名を野江。若くしてすでに二度の不幸な結婚を経験していた。最初の夫には病で先立たれ、二度目の嫁ぎ先は蓄財に執着する夫と舅、野絵を出戻りの嫁とさげすむ姑の家庭。しかし二度の失敗は許されないと心に言い聞かせ、嫁として懸命に耐え続けていた。叔母の墓参りの帰り、山道で薄紅色の花をいっぱいにつけた一本の山桜に出会う。その美しさに思わず手を伸ばすが届かない。その背中に突然男の声が。「手折ってしんぜよう」 折った枝を差し出す武士は手塚弥一郎と名乗った。野江が最初に嫁ぐ前に縁談を申し込まれた相手だった。密かに見初めてくれいたとの話だったが、母一人子一人の家と聞き、会うこともなく断ってしまった人だった。野江を見つめ弥一郎が静かに口を開く。「今はお幸せでござろうな」思いがけない言葉に戸惑う野江。今の境遇を押しかくして、ただ「…はい」とだけ答える。「さようか。案じておったが、それは何より」と微笑み、去っていく弥一郎。山桜に手繰り寄せられたようなただ一度きりの偶然の出逢い。どこかで自分のことをずっと気遣ってくれている人がいる。そう思えるだけで野江の胸の中にぬくもりが広がり励まされ、嫁ぎ先の家に健気に尽くし過ごす野江。手塚弥一郎が、突然城中で藩の重臣、諏訪を斬ったのは半年後のことだった。豪農と組んで農民を虐げ私腹を肥やし続ける諏訪に、わが身を犠牲にして立ちむかったのだ。「切腹は必至」と笑い飛ばす夫に、思わず手にした夫の羽織を打ち捨てる。羽織の家紋を蔑にしたと離縁されてしまう。不幸な娘を温かく迎えてくれた家族。「遠回りしただけ、きっと貴方にも幸せが訪れる」と優しく母親が話してくれる。即刻切腹の沙汰が下ると思われたが、擁護する声が強く、下手な処分は農民の暴動を招くと藩主が江戸から帰国する春まで裁断を待つことになる。雪に閉ざされた厳しい冬の間、弥一郎の身を案じ、ひたすら祈り続ける野江。又穏やかな春が訪れる。野江は一年ぶりに、あの山桜の下に立つ。花いっぱいにつけた小枝を手に訪れたのは手塚の家だった。出迎えたのは、誰も訪れることもなく、ただ一人息子の帰りを待つ弥一郎の母だった。予想だにしなかった、息子があなたのことを愛おしく思っていたと言う言葉が野江を包み、心を溶かす。 「ここが私の来る家だったのだ」それは回り道だった野江の新しい季節の始まりだった。 映画ってほんとうにいいですねぇまた涙がこぼれ出てきた。
2008年08月20日
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「西の魔女が死んだ」雨が降ると草木も僕も一休み。前の雨の日はフランス印象派の絵画だった。今回は映画。福島で映画を観るのは初めてのこと。あまり大きくない小ぢんまりとした落ち着いた映画館だった。中学に進んで間もなく学校に行けなくなった「まい」は、森で暮らすお祖母ちゃんの”西の魔女”の暮らす自然がいっぱいの森で一夏を過ごす。お祖母ちゃんとの心のつながりを通して「魔女の修行」をしていく中で、しだいに生きる力を取り戻していく。愛されることの喜び、生きることへの希望、老い、そして死という重たいテーマが明るい緑の木々の映像の中に展開する。 久々に 胸ふさがれし スクリーン 暗がりにかする 妻のハンカチ 自家採取の種やはり自家採取の種のほうが自分の土地に合うのか育ちやすい感じがする。これはニンジンの花。このあと種できたところで採取する。きれいな色のスグリ酒こちらはあと半年もすれば呑めるようになるでしょう。 明日はいよいよ梅酒の仕込みです。糖分は極力抑えることにします。
2008年07月11日
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