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自死に追い込まれた人たち今朝、浪江から避難していた人が一時帰宅して自宅の倉庫で自殺したという報道をきいた。福島県下だけで地震と原発事故による何人目の犠牲者だろう。今、「いのちの電話 福島」主催の公開講座に参加している。電話相談員養成の前置き的な講座だが、自殺を思う人の余りに重たい心の揺らぎを考えたとき、自分がそうした相談に正面から向かい合うことはとてもできるとは思えない。全国で年間3万人を超える自殺者がいると新聞で読んだことがある。何とも痛ましい。何故、人は死を選択するのだろう。それを知りたいと思った。江藤淳の『妻と私』を読んだ。江藤淳については村上龍が『限りなき透明に近いブルー』(1976年)で芥川賞を受賞した時に確か「トータルカルチャーとサブカルチャー」という切り口で受賞作はサブカルチャーでしかないという解りやすい、スカッとした酷評に共感したことを憶えている。ところが、それから二十何年後だろうか、江藤淳が自死したということをニュースで知った。あれだけしっかりとモノいう人、世論に安く迎合しない文言批評家でも自死を選ぶのかと何か鮮烈な印象が残った。今回の公開講座を聴講するにあたって江藤淳の自死について思い出し、晩年の作品『妻と私』を読んでみたいと思った。同じような辛い体験をし、苦しみ、悶えた人、その中で、ある人は自死の淵に追い込まれ、ある人はとどまる。この違いは何なのだろう。『妻と私』の中の 「いったん死の時間に深く浸り、そこに一人残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んでいくのである」 という一節に、江藤にとって長年連れ添った最愛の人の喪失感がいかばかりであったかを知ることができる。正直、体験してみないと窺い知ることができないくらい、何とも大きいなことであったに相違ないと思う。だが、この喪失感だけで人は自死に追い込まれるものだろうか。それプラス何かがあって、複合的な要因が自死にいざなうのだろうか。その辺りを知りたい。手がかりになるかどうかわからないが、『江藤淳という人』(新潮社 福田和也) 『江藤淳』(慶応義塾大学出版会 田中和生) を読み始めた。『幼年時代』(文芸春秋 江藤淳)を図書館に予約した。これが一番が核心に触れているような気がする。次回4回目の公開講座は、高齢者と日々、接している特別養護老人ホームの施設長が講師だ。何かヒントを得ることができるかもしれない。
2012年05月28日
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一茶は、なかなかしたたかな人昔、教科書で名前が出てきて何句か読んだ程度の一茶。『一茶』(藤沢周平)を読んでイメージが膨らんだ。当時、読んだ句 「めでたさも中位なりおらが春」「やせ蛙まけるな一茶これにあり」 「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」「これがまあ終のすみかか雪五尺」 「ともかくもあなたまかせの年の暮」 生活苦の中で老いの不安に苛まれ志をあきらめて江戸から後ろ髪を引かれるように雪深き信州に戻った一茶を知ると、これらの句も味わい深く、胸に迫ってくるものがある。こういう「伝記小説」ものを読むと、ついつい全部解ったような気になってしまうのが悪い所で、一茶を知る機会にはなったものの果たして何処まで理解できたのだろう。そんなことを考えていたら、数日を挟んで読んだ 『周平独言』 (藤沢周平・中央公論新社)の『三人の予見者』の中で面白いことが書いてあったので少し長いが紹介する。「対象がどのような人間であれ、一人の人間の全貌をつかむということはむつかしいことである。厳密なことを言えば、この作業は不可能に近い。人間はそれぞれが、他の人間が窺い知ることのできない暗部をかかえて生きている存在であるだろうし、その意味では一人ひとりが一個の謎である。」「しかし一方、人間は個として存在するだけでなく、社会的存在として他者に見られている自分を併せ持つ生き物である。そして人間は、自分のことは自分が一番よくわかっていると思うほどには十分に自分を知悉しているわけでもなく、時には他人の目の方が正確にその人間をとらえていることもありうる。」「だから、ある人間を理解しようとして、まずその人間の外に現れた部分の理解から取り掛かるのは方法として正しいことだし、次にその理解を手掛かりに、内面を推し測って、かくもあろうかという人間像まで肉迫することも可能なことである。しかしそれでも、人間の謎はまだ残ると私は思う。」藤沢周平は、歴史上存在していた人物をこうした方法論を持って描いていた。これは人間に限らず、あらゆる物事を理解することにも通ずる方法論だと思う。ただ、その際に外に現れた事象をどれだけ多く収集し把握することができるかで肉迫のほども違ってくると思う。松本清張や司馬遼太郎、立花隆が一つのテーマの本を書くにあたって資料の収集に半端じゃない労力を費やすのは、つとに有名だ。古本屋や専門書店の棚から関係する本や資料がごそっと消えると何かで読んだことがある。こうした書き手のものは信用できそうだ。『一茶』の巻末にある参考書目もたくさんの本や資料が上がっていた。詰まる所、小説家の力量は、まるでそこに居たかのような想像力をかきたてる筆力以前の事実に対する真摯さいかんなのではないだろうか。
2012年05月08日
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猿橋勝子 こんな凄い女性がいた我が国に世界的な著名な女性科学者がいたことをご存じだろうか。つい最近まで僕は知らなかった。日本学術会議に女性として初めて会員に選出され、日本物理学会会長にもなった猿橋勝子だ(1920-2007年)。このブログで先に紹介した児玉龍彦氏が、国会での参考人発言の後に緊急記者会見をした時に「放射線量の微量測定法を確立して核実験の禁止に道を開き、全世界に希望をもたらした女性科学者」として紹介していた。早速に県立図書館の蔵書を調べたら三冊見つけた。なるほど偉大な女性科学者だ。彼女は、アメリカのビキニ海域での核実験やソビエト連邦の核実験によって地球規模での放射性物質の汚染が広がっていることを海水や大気中の微量の放射性物質の分析を通して明らかにした。圧巻はアメリカの研究者から分析結果が信用できないとクレームが出た時に、カリフォルニア大学のスクリップス海洋研究所に単身、乗り込み相互検定をして正しいことを認めさせ、独自に開発した分析方法が高く評価されたという女性だ。女傑というイメージを持たれるかもしれないが、数々のエピソードと多くの人の証言は、細やかで、情熱的で、優しさと正義感なあふれた女性を想像させる。「諸刃の剣の科学。その功と罪とを最も的確に把握しているのが科学者である。だから科学者こそが、哲学者の視座で功と罪とを語り続けなければならない。猿橋がなによりも大切にした人間としての原点である」一人の女性科学者の生き方が、後年、児玉龍彦氏のような数多くの真摯な研究者、科学者に人間としての原点を見つめることの大切さを教え、輩出してきた。そして勇気ある行動をもたらした。組織や力ある者に迎合し、調子よく立ち振る舞うのは男女どちらが多いだろう。狩猟をしてきたDNAは、今でも戦争や争いごとに男を向かわせているのだろうか。中東のイスラム世界では今でも女性は車の運転ができないと聞く。日本でも戦前、女性には参政権が与えれていなかった。どうも男尊女卑の社会や、そういった時代は世の中を混乱させ、不安な容易ならない事態を生みだしているような気がしてならない。今福島で、汚染の広がる地域で、名もなき市井のお母さんたちが子どもを守るために立ち上がっている。世の中を変えるキーパーソンは女性のような気がしてきた。男女共同参画社会基本法があるくらいだから、まだまだ企業や公務員の管理職は男が圧倒的に多い。形式的に制約がなく男女平等に参画できるとしたら、選挙権や被選挙権の行使ではなかろうか。政治家が男女半々になったら、女性の、母親の声をさまざまな政策に反映することができる。そうすれば、今よりまともな社会に何歩か近づくのじゃなかろうか。
2011年09月05日
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村上春樹 『1Q84』を読み終えてこの人の小説はいつも不思議な時空へ僕を誘う。1984年であって、そうでない1Q84年。読み進めながら??…疑問符が湧き、不可解で気持ちがざわついてくる。そのおぼつかなさは不愉快でない。だから先へ先へと読むことを急き立てる。読了すると心は、その不思議な世界に置いてきぼりにされてしまう。暫く余韻に浸ってからうつつに戻ると、彼の不思議な世界の不可解さだけが僕の記憶の中に、もう一つ重なって残される。
2011年02月18日
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性が合わない本もある作者の町田康はパンクロック出身だという。パンクロックを初めて聞いたときに違和感をおぼえ、リズムが邪魔して詩も理解するまで伝わって来なかった。パンクロック出身の人はどんな小説を書くのだろうと関心を持って読んだ。ダメだ。読み進められない。最初読み始めた『宿屋めぐり』は数ページで諦めた。その五分の一ほどの厚さの『きれぎれ』も途中何度投げだそうかと思った。バックに音楽がない分、言葉や文章でリズムを作っているようだが、それを弄するあまり文意が僕にとっては如何とも不自然で、突如として変わる文脈や流れについていくことに疲れてしまう。小説を読んで難行苦行させられるのは、めったにない体験だ。それでいて悟りはなく、一向に新しい文章表現に親しみを覚えず、ただただあぐねるばかりで、わしの頭もついに硬直しちゃったんだなぁと自分を見下げてしまう。あ~ぁ読まなきゃ良かったと後悔しきりだが、やはり気になるのは芥川賞を受賞したという事実だ。この時の選考委員は何を理由に賞に値すると考えたのか知りたくなった。知って安心した。当時の選者の意見は割れていた。「読み初めてから読み終わるまで、ただただ不快感だけがせりあがってきて、途中で投げ捨てたくなる衝動と戦わなければならなかった。」(宮本輝)「『きれぎれ』には、nothing 以外にはモチーフがない。『きれぎれ』の文体は、作者の「ちょっとした工夫」「ちょっとした思いつき」のレベルにとどまっている。そういったレベルの文体のアレンジは文脈の揺らぎを生むことがない。」(村上龍)「文章のスタイルとか語り口に特徴があると見られている人のようである。しかし、次のような文章に見える特色は、スタイルや語り口以前のものである。<......木崎の住まい、谷志保1244。いままで行ったことのない地域。チーキ。><......意外なほど深く切れていた。血がだらだら流れていた。まるで鎌のような草だ。鎌草。鎌草少将。少将くらいな気持ちで行かないと駄目だ。こんな指が切れたくらいのことは少将にとっては些事だ。俺は自分にそう言い聞かせ、指をくわえた。>--駄じゃれとしても、低調の部類だろう。泰然と構えて、言葉の機能の奥深さを知り、洗練されねばならないのに、作者はこれまでの特色にひたすら勤勉であって、痛ましい気がする。文章とは、いわば人間の顔色のようなもので、全身体の状態が正直にそこに現われる。両作品は、ともにネガティブな様相を書こうとしている。そういう作品が力強い、鮮烈な作品になり得るためには、作者はポジティブなものを扱う以上に、溌剌とした創造力に満ち溢れておらねばならず、文章の問題も所詮はそこに繋がる。なお、個性と趣味・嗜好との混同は禁物で、後者に執着していては作家は衰弱するということを又しても付記しておく」(河野多惠子)強く推していたのは石原慎太郎。なーるほど。そういえば『太陽の季節』も好きになれなかったもんなぁ。さてさて 分厚い『宿屋めぐり』 読もうかなァ 読むのを止そうかなぁ~♪
2011年01月16日
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多田富雄の「わたしのリハビリ闘争」NHKの日曜日に放映されるアーカイブスで多田富雄を知った。世界的な免疫学者の権威であることも知らなかったが、新作能の作者であることも勿論知らなかった。放映されたのは「脳梗塞からの再生 免疫学者・多田富雄の闘い」(2005年制作) で、視聴者からの要望の高いものを再放送したものだった。多田富雄は2001年に脳梗塞を患い左半身麻痺と嚥下障害、発声障害を抱えながら執筆活動、後輩の研究者の指導にあたっていた。ところが突然降ってわいたように抜き打ちに行われた2006年のリハビリ診療報酬改定によって、リハビリ医療を受けている人々が180日を過ぎると治療が受けられなくなるという「医療の切り捨て」に直面することになり、多田もその渦中にあって、命を賭して立ち上がる。この生きる闘いを続けた多田富雄の映像記録だ。その多田富雄の人物と生きざまをもっと知りたくて図書館から借りてきたのが『わたしのリハビリ闘争』(青土社)と『寡黙なる巨人』(集英社)そして『独酌余滴』(朝日新聞社)だ。この間の雨で『わたしのリハビリ闘争』を読み終えた。その改正は病気や障害の多様性、患者の個別性を無視して一律にリハビリ医療の上限を180日するという内容で、最弱者である人々の生存権を脅かされることにつながる危険があるという。なぜならリハビリは回復だけでなく、回復できない障害を持った患者の機能を維持させ、それ以上機能低下を起こらないようにすることも、もう一つの大切なリハビリ医療なのだ。上限の日数が来たから止めるということは、この身体機能の維持的療法を取りやめることでありさまざまな機能の低下を、ひいては命を縮めることを是認することであるという。恥ずかしながら、このリハビリ治療の維持的療法という面を考えてなかった。そして、このリハビリ診療報酬改正の犠牲者の一人が、あの社会学者の鶴見和子さんだったということも初めて知った。その彼女が病床から詠んだ歌が紹介されていた。 ねたきりの予兆なるかなベッドより おきあがることのできずなりたり彼女はこうも書いている。長いが紹介したい。「戦争が起これば、老人は邪魔ものである。だからこれは、費用を倹約することが目的ではなく、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか」「そこで、わたしたち老人は、知恵を出し合って、どうしたらリハビリが続けられるか、そしてそれぞれの個人がいっそう努力して、リハビリを積み重ねることを考えなければならない。老いも若きも、天寿をまっとうできる社会が平和な社会である。したがって生きぬくことが平和につながる。この老人医療改定は、老人に対する死刑宣告のようなものだとわたしは考えている」(「老人リハビリテーションの意味」『環』26号 藤原書店)ところで政権が代わって、この老人医療改定は是正されたのかなぁ。
2010年06月19日
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難しい本の読後感本の紹介をブログに書くと、他の人に読後感を押しつけているようで気が引ける。そのつもりは全くないが、たいして興味がない本について読まされる立場は苦痛ではないだろうか。初めっから、そういう時はコメントしない手もあるが、それも寂しいものだ。だがお付き合いいただける人には申し訳ないと思う。そこで、本だけでなく、別の話題も入れるようにしたり、違った類のものを二冊読んで紹介するのはどうだろうと思い立った。そうすればどちらかにコメントをしていただけるのではないかと思う。前回でいえば、図書館と美術館の話題も入れたように。『動人物 動物のなかにいる人間』(日高敏隆 福村出版)さて、この本のタイトルがふるっている。人と人以外の動物の関係を書いているが、人も勿論のこと動物だ。「動物はどこまで動物か」とかタイトルをいろいろ悩んだという。このタイトルのヒントをくれたのが京都の梁山泊主人の橋本憲一さんだと、あとがきに書いてあった。吟味された天然魚介と、旬の京野菜など、素材の持ち味を生かした割烹料理のご主人だが、美術品のコレクターであり、自らも陶芸をやり、エッセイや書くという芸に秀でた人の提案というのはうなずける。この本の中でさまざまな人間と他の動物との共通点を紹介してくれている。動物と学習の関係も興味深い。たとえば鳥のさえずりについて、かつては「本能的」なものと考えられていた。けれども孵化させ完全に隔離飼育したところ、まともにさえずることができなかったという。本能的、生得的と思われていた行動も実は学習経験を要するというのだ。ではすべての鳥がそうかというと、例外もある。鶏だ。孵化後耳を聞こえなくした鶏は、殆ど正常と変わりがなかったという。さて人間はどうなんだろう。多分に育つ環境に左右されているように思うが果たして...こうした興味につきない話題が次々と展開される。面白い本だ。『 多元化する「能力」と日本社会 -ハイパー・メリトクラシー化のなかでー 』うーん これは何じゃい と思いながらも読み始めた。というのは、前回紹介した『シニアー世代の学びと社会』の中で参考文献として引用されている個所が興味深かったから、先日返しに行ったついでに借りてきた。難しいタイトルのわりに調査結果を分析して具体的で分かり易かった。何よりも説得力のある論理の展開が魅力的だ。ハイパー・メリトクラシーとは「むき出しの」メリトクラシーの意味で、著者(本田由紀 教育社会学)の造語だという。メリトクラシーも馴染みがないが、「能力」ある人々による統治と支配が成立している社会を意味するという。ちょっと前までのメリトクラシーな社会では、勉強を一生懸命すれば、まずは成績や学歴などを手にすることができ、学校を出た後の社会的地位もかなり確実に予測することができた。人々のたどるべき道筋が整えられており、人生における原因(努力)と結果(地位達成)の結びつきが明白だった。ところが今求められている能力は、ちょっと違ってきたようだ。確かに経済界が求める人材像には、これまでの努力とはなじまない、主体性や独創性、プレゼンテーションやコミュニケーションの能力、論理的思考力などの能力がよく言われている。このような、一人ひとりの人格や個性の中に踏み込み、「むき出しに」にするような能力がハイパー・メリトクラシーの社会だという。そこでは個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満し一挙手一足投、微細な表情や気持ちの揺らぎまでが注目の対象となっている。ある面、個人の尊厳まで土足で入り込んでくる。しかも、そうした能力は個々人の幼児からの日常的な生活環境、家庭(たとえばコミュニケーションのゆとりのある家庭とそうでない家庭)に大きく左右されるものだという。めぐまれた環境条件で、それを身につけることができた者は、力強くこの社会を泳ぎ渡ることができ、不十分な者は途方に暮れざるをえない。社会的不平等という問題もはらんでいる。確かにそうだ。知らぬ間に、自分でも職場でそういう人材を求めていた。やれるかやれないかを斟酌せずに、ロジカルシンキングを当然と要求し、事業の随所でPLAN(計画) - DO(実行) - SEEあるいはCHECK(検討)をやってきた。これって、人によって当たり前でも、人によってまた随分と無理強いになっていたことだろう。最近思うのだが、この歳になると、ある事柄や出来事、時には言葉にぶつかると、そこから過去の事柄や出来事を思い出すことが多くなるが、そのほとんどは良い思い出よりも、反省的なことが多いような気がする。僕の性格によるのだろうが、また脳の記憶というのは、そういうものなのかもしれないと慰めている。
2010年03月13日
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図書館もいいなぁ竹細工の本探しから図書館が今、マイブームになりつつある。サラリーマン時代は、読みたい本というよりも読まなきゃならない本が多数を占めていたが、最近は読みたい本が中心だ。もとより難解なものは敬遠してエッセイものとか小説ものがほとんどだ。大半はネットでブックオフから105円のモノを探し出して送ってもらっていた。だが、このところ県立図書館に行ったついでに開架式の本棚や新刊コーナーに立ち寄ることを覚えた。今更ながら図書館って、こんなにも豊富に本があったんだと実感した。ネット上ではタイトルでしか判断できないけど、図書館だと手にとって"はじめに"を読んだり目次を見て内容がある程度見分けられるのが嬉しい。もちろんタダなのが最高の魅力だ。お陰で読書のジャンルも広がった。 最近の2冊『知ってほしい アフガニスタン 戦禍はなぜ止まらない』(レシャード・カレッド 高文研) 著者は、アフガニスタン出身で日本に留学して医学を学び、静岡県島田市で病院や社会福祉施設を開設して運営しながら京都大学医学部の臨床教授でもある。同時にNGO「カレーズの会」を立ち上げ、アフガニスタンの復興支援活動も行っている。このところ以前に比べ報道の機会が少なくなったが、自衛隊の派遣の関係やNGOのスタッフの殺害ニュースなどで目にし、耳にするアフガニスタンやイラク。でもこの戦争がどうにも理解しにくかった。 読んでいて大国に翻弄され、大国に利用された複数部族・武族の対立が根にあることを知った。古今東西、戦争は弱者を犠牲者にしているが、ここでも6割以上が子どもと女性だという。復興を願って国連を通じて莫大な金が投じられているが、実態は武装集団の武装解除や社会復帰の検証がないまま、巨額な資金がどう使われ、どう役立ったかか不明のままだそうだ。最近は地方の治安が悪化し一般住民がまた犠牲になっているという。その原因の一つが国際社会から提供された援助金の不公平で効率の悪い分配と、それによる格差の拡大(一部の政府役人が豪邸を建て豊かな暮らしをし、一方で多くの一般市民が衣食住に事欠く生活を強いられている)からだという。報道からだけでは解らない内実がずいぶん歯に衣着せずに書かれているようだ。しかも長年続けてきた医療・教育のボランティア活動を通じて得た情報だから信憑性も高く納得させられた。今度報道ニュースを見たときに、少し見る目が変わるような気がする。もう一冊は『シニア世代の学びと社会』(牧野篤 勁草書房)。山里に籠り自給・自立・自律した生活を目指しながらも、今一つ心穏やかでないのはなぜだろう。同じシニアの皆さんはセカンドステージをどのように生きているのだろうかと関心を持ったのが読む動機だ。2001年と2007年に実施した調査をもとにシニア世代の価値観と生き方を分析してる。団塊の世代以前と、団塊の世代が加わった2007年の違いが興味深かった。自分の属する団塊の世代に一脈通じるものがあった。大まかに言うと2001年のシニアが「健康」「社会貢献・ボランティア」「趣味」「仕事」「家族」に深い関心を持って生きているが、意識は、自らを家族、友人・知人そして社会との関係の中において、自分がこれまで生きてこられ今ここにいることに感謝し、その感謝から恩返し・人様に迷惑をかけない生き方をしようとしている。これに対して団塊の世代が加わった2007年の特徴は、関心を持っていることは順序は若干異なるが「健康」「趣味」「家族」「ボランティア・社会貢献」「経済」「仕事」と変わらないが、「好奇心と自己中心性」が意識として根底にあるのが特徴という。自分を強く社会に押し出して社会の様々なことに強い好奇心をもって、しかも自分自身にも強い関心を持ち、積極的に前に前進しようとする強い自律性と自立志向を持っているという。なるほどと思う。確かに自分の中にも「好奇心と自己中心性」の意識が強い。だが新しいことに立ち向かっているときは良いが、これはどこまで持続するものなのだろう。息切れしないのだろうか。自己中心性のもとで心の穏やかさ、和やかさは保てるのだろうか。この本では残念ながらそこまでは触れていない。
2010年03月02日
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本と研修から冬のこの時期は、毎年、充電期間でもある。本を読んだり、気になる研修会に参加できるのもこの時期だ。主催者側も雪が降って何もできない、この時期に開催してくれる。自然を満喫しているものの、冬の厳しさに対峙すると、その素晴らしさ以上に過酷さに滅入ってしまうこともある。そんな自分を励ますために改めて自然=森林について知ろうと思った。一つは『癒しの森で心身をリフレッシュ 森林療法のすすめ』(上原巌 コモンズ)の本だ。実践例が中心で理論的には物足りないが、その分読みやすい。いくつか紹介されている具体例の中で面白いと思ったのは、「里山を利用した知的障害者の療養」(4章)と「森林カウンセリングの可能性」(3章)だ。サナトリウムや健康保健施設は別にして、これまで福祉施設の里山の中での開設は往々にして人里離れた所に隔離するというように一般的に否定的に捉えらていたように思う。この実践例では野外活動を通して利用者の能力や個性を引き出したり総合的なリハビリテーションを試み、一定の成果を上げている。自然の中に閉じ込めるのではなく、反対に豊かな自然を積極的に活用するという発想の転換だ。「森林には言葉はない。しかしながら森林のなかに入るものそのままの姿を包み込み受容する。受容こそがカウンセリングの基本的な要素である。森林がカウンセリング空間ととして利用できる最大の理由は、ここにある。」 なるほどと思った。 丁度この本を読んでいたときに、昨年の秋に参加させていただいた「キノコ栽培の研修会」の関係機関から思いもよらない案内状が届いた。『林業普及指導員全体研修会・林業研究グループ等活動発表会』(主催:福島県、後援:福島県林業協会、福島県林研グループ連絡協議会)だ。そもそも林業普及員という言葉も初耳だし、林業研究グループという存在も知らなかった。一日かけて実践発表報告があるという。「子どもの森づくり」とか「子どもたちと森のいい関係作り」などの報告事例のタイトルが魅力的だった。午前中は林業普及指導員の実践例で、聞いたこともない林業の専門用語が頻繁に出てきて半分も理解できなかったが、午後は里山に住む人たちの地域実践で、どれもすばらしく関心をひくものばかりだった。とくに『森林資源活用による環境学習、交流事業の展開』(NPO法人 りょうぜんさとやま学校)には目を見張った。盛んだったシイタケ栽培の村が高齢化とともに廃れていく中で消費者と生産者との交流を通してオールシーズンの体験交流の場づくりに発展していった経過が報告された。なによりも「交流を通して、こんなことをやりたいという小さな声があがったら、それを大切にして村の中からできる人を捜して具体化する」という積極的な姿勢には、だからこそここまで発展させることができたんだなと納得させられた。 自分だけで、この可能性を秘めた豊かな空間を独り占めしてはいけないなぁと思う。ここに、これから僕がやらなければならない何かヒントがありそうな気がする。
2010年02月11日
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日々の生活と隣り合わせな貧困問題貧困問題が山谷(東京)や釜ヶ崎(大阪)、寿町(横浜)といった特定の地域に住む人たちだけのことではないということを教えてくれたのが公園で見かけたブルーシートや段ボールの路上生活者たちだった。それでも、それは特別の人たちのことと思っていたら、日比谷公園の年越し派遣村から始まって派遣切りやワーキングプア、ネットカフェ難民の報道が、貧困は決して特別の問題じゃない、日々の生活と隣り合わせのことなんだと気付かせてくれた。じゃぁ貧困ってどんな事なんだと関心を持って読んだのが 『反貧困の学校 貧困をどう伝えるか、どう学ぶか』、 『反貧困の学校2 いま、はたらくが危ない』(宇都宮健児、湯浅誠編 明石書店)と 『「使い捨てられる若者たち」は格差社会の象徴か』(原清治、山内乾史著 ミネルバ書房)の3冊。前者を読み終わっての感想は、この問題は一筋縄では解決しない根が深い問題だということ。景気や企業倫理の問題はもとより税制問題、教育問題、女性差別の問題、医療や保健・福祉の問題にまで広がりがあることを知った。とはいえ手をこまねいているだけでは、いけないほどことは深刻なようだ。何はともあれ「労働者派遣法」の改正が急務のように思える。派遣会社は「自分で時間を選べる」「いろんな職場や労働を体験できてスキルアップになる」「派遣労働は希望して自らが選択している」というが、どうも実態はそれほど安易でないし楽観できそうもない。一度沈みだすと前の首相が行っていた「再チャレンジすればいい」など到底不可能なくらい雇用関係は厳しい現状にある。「自由」という言葉を聞くと惹かれ、それだけで賛同したくなる気持ちが僕にはあるが、どうやら、ここ10年くらいの「新自由主義」といわれる政策に世の中全体がシテヤラレ、その弊害があっちこっちに社会のひずみととして生じている。セイフティーネットの社会福祉も必要なところに行きわたっていなし運用もシビアなようだ。そういえば7,8年前に生活保護基準が高すぎるって声高に批判されて弱者切り捨てがまかり通った。でも、ひずみの中から救済されずに悲惨な日々を送り、住まいを追われ路頭に迷う人たちがいるのも現実だ。知れば知るほど、この日本が成熟社会なんて誇っていられない気がしてくる。後者の本で触れていたのが新自由主義をバックボーンにした教育における不平等と格差の拡大の実態だ。例えば学校での「ゆとり教育」も、この時期の教育改革の一つだが、平成14年に授業時間が小学校で418時間、中学校で210時間削減された。その結果子どもの学力が大きく低下した。しかし塾や家庭教師などで補完できる学力上位組の子どもたちには低下は見られず、塾などに行かない(行けない)子どもに低下が見られたという。こうした下位組の子どもたちの延長に、不況のもとで厳しくなった就職競争から安易に降りてしまい、手じかなアルバイトにつき、結果として使い捨てられていく姿と重なるものがあるという。子どもたちに夢をもたせられない社会、国ってやはりおかしいと思う。久しぶりに農業関係や小説・エッセイ以外の本を読んだ。世捨てものみたいな気分で生きていても所詮は社会や他人との関係の中でしかで生きていけないのだから、こうした時事にも無関心であっていけないのかもしれない。このところ無関心を装っていた社会とのつながりを、ここらで少しだけ改めてみようかという気にさせられた本だった。貧困問題が少し見えてきた。その構造にも少し踏み込んで関心を持たねばならない思った。
2010年01月19日
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最後は涙なみだの年の瀬今年最後の小説『悼む人』を読み、映画『半落ち 』を観た。最近は、涙が出るほどの感動を覚えるとワナワナと胸が震え嗚咽してしまう。読み終わり、観終わるのが惜しくて途中何度も本を読むのを中断し、DVDを止めたことだろう。 第140回直木賞受賞作『悼む人』は見も知らぬ人を悼んで全国を訪ね歩く青年 静人の話。どんな人でも何処かで誰かに愛され誰かを愛し、感謝し、感謝されて生きてきた。静人はその一片を心にしまい悼む。自殺者が年間に3万人を超えるようになって久しい。交通事故による死亡者も膨大な数に上る。こうした死だけでなく、さまざまな病死をはじめ日常茶飯事になった人の死に私たちは麻痺して無感覚になってきていないだろうか。一人の青年の悼むという行為を通して、人が生きるということ、生きてきたという確かさにしっかりと向き合うことが大切であることを知らされた。私もあまたの葬儀や通夜に参列したが、どれほどにその人を悼んで焼香しただろうかと振り返って恥ずかしい思いがする。 『半落ち』のシーン「半落ち」とは「一部を自供する」と言う意味の警察用語。警察学校の教職に就く梶聡一郎(寺尾聡)が、アルツハイマーの妻を殺害したとして自首してきた。しかし殺害し自首して来るまでの二日間の空白について頑なに自供をしない。この半落ちをめぐって被告と殺すことを請うた妻の秘密、事態を強引に収拾しようとする県警幹部、中央検察庁から左遷された検察官、全国紙の地方支局から本社復帰をねらう記者、アルツハイマーの父を抱える裁判官、それぞれの人間模様を通して人は何のために生きるのかを問う。それにしても寺尾聡は歳をとるにつれて父親(宇野重吉)に似てきた。二世俳優では他に三国連太郎の息子の佐藤浩一も好きだ。残念なのは伊藤雄之助を父にもつ伊藤高も上手いのに寺尾や佐藤ほど映画出演に恵まれていない。
2009年12月30日
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『吾れ老ゆ故に吾れ在り』を読み終えて 波多野完治といえば彼が訳した『15少年漂流記』を少年期に読んで楽しんだ。その後、学生時代に心理学で何冊かお世話になったが、仕事では生涯学習の関係図書をずいぶんと参考にさせてもらった。その彼の卒寿間際に書いた本がタイトルの『吾れ老ゆ故に吾れ在り 老いと性と人生と』だ。「私も九十に近く、いまさら隠し事をしてもいたしかたないから、自分の体験を基礎に置いて書く」というだけあって、けっこう赤裸々に書いている。九十一歳の長寿を保った渋沢栄一の葬式の時に、子どもの焼香の最後が五歳の男の子で、参列者は曾孫が順序を取り違えたのかと思ったというエピソードが紹介されているが、こうした壮挙は別にして、波多野は60半ばで「不覚をとった」というように、大分個人差があるようだ。しかもセックスにはいろいろな発現のしかたがあって一様ではないという。さすが老いても心理学者に変わりはない。フロイトのリピドーや心理的な代償行動に触れながら高齢者の『性』に対する「年甲斐もなく」とか「いい年をして」といった世間の批判や抑圧に抗する『性』のあり方を真摯に語っている。時には夏目漱石をはじめ岡本一平画伯、獅子文六、大岡昇平、円地文子、室生犀星、高見順などといった懐かしい文豪や、著名な方々の『性』を引き合いに出しているので面白い。この本なかで「発達を一方向的に構造の複雑化という面から見ていたのでは五十歳以降の『知的発達』は見えてこない。50歳以降、たぶん複雑化という意味での知的構造は停止するか退歩するのであろう。しかし、それは停止または自己限定することによって構造的に変化し、別の発達を開始するのである。...この方面の発達はたぶん、量的な退歩を自覚することによって行われるのではなかろうか。もうこれ以上増えない、という境界に立ったからこそ、このような深みへの転換が行われるものと思う」 と波多野は言う。量的に退歩する一方の自分にとって、この言葉は勇気づけられる。これは『性』の問題だけでなく広く知的、身体的、心理的な面にも言える。高齢者の『性』についていえば大げさなものだけでなく、もっと淡々とした静かな深みのあるものなのかもしれない。とはいえ抑圧されがちな高齢者の『性』や恋愛も、団塊の世代がこぞって高齢者に突入する5年後には、少しは変わり始めてほしいものだ。 葛の花この草は私にとっては雑草というか、やっかない草だ。最初は遠慮がちに木に寄り添うが、そのうちにしっかりと幹と枝に食い込んで一体化してしまう。昨年植えたリンゴの木にもしっかりとまとわり付いた。幹から切り離したが、葛の根は深い。新たな芽を伸ばし蔦は地を這って次なる主を探し始めるに違いない。
2009年08月04日
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『インストール』これが本当に17歳の高校生が書いたものなんだろうか。やはり才能ってあるんだなぁ。以前、友人で小説家を目指していたのがいた。行李いっぱい習作がなければ一人前になれないと口癖のように言って暇さえあれば書いていた。だがいつしかその夢も潰えたようで商社マンになっていた。何度か習作を読ませてもらったが大げさな表現や難しい語彙が散りばめられ読み切るのがきつかった。感想を聞かれるのが何よりもつらかった。『インストール』(綿矢りさ)は、もっと若い人が書いた作品だというのにスーと小説の世界に入っていけた。題材もありえそうで面白いし、タイトルも意味深長でいい。コンピューターにソフトを導入するというよりも、学校をさぼり一月の間、見知らぬバーチャルな世界をコンピューターを介して体験していく、それがソフトを組み込んでいくような体験だったと言いたかったのだろう。高校生の主人公と小学生が出てくるが、それぞれの親の描き方もあっさりと淡白で好い。「17歳、最年少の文藝賞を受賞した」という紹介がなく、本屋や図書館の棚から偶然取りだして読んだら普通に楽しめる小説だ。この本とは、そんな出会いがしたかった。
2009年07月08日
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『心に残る人々』だれしもいろいろな出会いがあり、沢山の人とかかわるなかで記憶に残り、ときには色濃く影響をうけたり、楽しい思い出となる巡り逢いがあるに違いない。この本『心に残る人々』(文春文庫)は、小説家や思想家、俳優他の75人の、そんな人との出会いを「不思議な出会い」 「おもいでの家」 「学生時代」 「あこがれのスター」 「気になるあの人」 「おせわになったあの方へ」にわけて綴っている。そういえば僕にも、いろんな出会いがあったなぁというのが読後の感想だ。これを機会に、このブログで幼少の頃からの巡り逢いの中で記憶に残っている小さな出会いを紹介していくことにしよう。皆さんにとって、いろんな出会いを思い出していただく機会になれば嬉しいですね。 庭に咲く姫リンゴの花
2009年05月03日
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朝型人間の読書「あの銀行 昔の名前 なんだっけ」 シティバンクの一般公募の川柳の一つ。確かに昔、通勤途上に車窓から見た某銀行の支店の看板も何度変ったことだろう。職場が入っているビルの銀行名も数度変った。そのたびに大きくなり、その他の国内の銀行の合併が繰り返され、ついには4大メガバンクが誕生していった。その熾烈な銀行の合併劇の舞台裏を描いたのが『新金融腐蝕列島 混沌』(高杉良)だ。 それにしても、どうしてこんなにも銀行のみならず企業は合併され、巨大化しなければならないのだろうか。巨大化した資本は、さらなる増強のために世界中に投資されていく。その結果が地球規模のマネーゲームを生み出し、今日の世界的な不況、経済破綻をとなったというのに。その巨大化の波が農業にも押し寄せてきた。農地を集約化した大規模農業を進める農業政策が進められようとしている。大規模化すればモノカルチャー化せざるを得ない。単一品目に集約し生産化することで機械化が進み効率的な生産が可能となるからだ。それはさらにグローバル化している。その典型が一国の農業生産の7割近くが砂糖キビだったかつてのキューバだ。それがいかに大きなリスクをかかえたものであるかを教えてくれたのが『有機農業大国 キューバの風 生協の国際産直から見えてきたもの』 (首都圏コープ事業連合編 緑風出版)。モノカルチャーでは、ひとたびその作物が病害虫にやられたら壊滅的な被害を受けるため農薬が使われる。天候不良などにより壊滅的打撃を受けるリスクを負っている。豊作を目指して化学肥料が大量に使用され、時には豊作から価格暴落が起る。一方で大量の化学肥料の使用で土地はひ弱になり、さらに肥料を投入せざるえなくなる。弱った土壌には害虫が増え、農薬の投入が繰り返されるという負の連鎖にはまり込んでいく。この本を読んで、キューバのモノカルチャーから脱皮していく取り組みは、「本来の食べ物のあり方」「本来の暮らしのあり方」は何かを問う「新しい価値の創造」の過程でもあったのではないかと思う。
2009年04月29日
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抱腹絶倒 ワハハのハ『吉里吉里人』(井上ひさし著 新潮社)をやっと読み終えた。かれこれ一月、イヤそれ以上かかったなぁ。併行して読み始めた何冊かの本の方が先に読み終わっていた。じゃぁ面白くなかったのか、読みずらかったのかというとそうではない。何せ厚くて面白くて楽しみながら読んでいたら遅くなった次第。東北の陸続きの小さな村が、ある日突然日本から独立する。奇想天外というか壮大なテーマでありながら、日本で焦眉の問題になっている農業問題や医療問題、防衛問題等が物語の中にサラッと織り交ぜ、エロチックな話がふんだんに語られながら、それを豊かな東北の言葉(吉里吉里語)で語るのでイヤらしさを感じさせず大らかに楽しめる。本でこんなに笑ったことがあっただろうか。これは退屈な時に時々ひもどきたい本だ。もう一つのお笑いのもとは、お隣が貸してくれた『綾小路きみまろ 爆笑スーパーライブ第3集』だ。このCDは早速にパソコンに取り入れた。確かに可笑しく笑わずにはいられないのだが、不思議と聞いていると眠くなりお終いまで聞かずに寝入っているから面白い。 庭先の花春ですね。4月に入って降った雪が嘘のようです。
2009年04月16日
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必要に迫られての都市有機農業『200万都市が有機野菜で自給できるわけ』(吉田太郎 築地書館)を地域通貨で親しくなった友人が貸してくれた。アメリカの海上封鎖に続いてソビエト連邦の崩壊により食糧、石油や農薬や化学肥料が手に入らなくなったキューバが選んだのが有機農業の道だった。しかも移送費もかからないように消費者の身近な都市の空き地を利用した。堆肥づくりはミミズを使う徹底した環境と調和した農業だ。必要に迫られてのキューバの有機農業ではあったが、それをコアにしながらも地球環境問題をはじめ自然医療、自然エネルギーなどのさまざまな部門にわたって持続可能な社会づくりを目指して取り組んできた様子を全体にわたって紹介している。社会主義の国というイメージは隣国のように圧政の下、上から押し付けた政策や運動かと思っていたが、民間のNPOや諸外国のNGOと連携してワークショップやブレンストーミングなどにより地道に下から積み上げる中から作り上げていたのは意外だった。何よりもラテンという気候風土からか明るく大らかなのがいい。興味をもったのはハーブ・薬草だ。保健省が植物学者や医師等の科学者チームを組んで処方箋や技術マニュアルを編集して国内での分布や収集及び保存法、臨床上の効果特性、成分の化学構造、副作用、投薬方法、栽培方法を明らかにしている。その中でも目を引いたのはニンニクだ。風邪、高血圧、喘息、胃痛、循環系疾患、消化系疾患等に有効だという。ただ、いくつかの組み合わせなのか、単独で効用があるのかは、この本からだけでは判断できないのは残念だ。著者は、東京都庁の農業水産部に勤め都市農業の国際的動向に関心をもつ中で偶然にネット上から入った情報がきっかけで、この本を書くことになったという。現在は長野農業大学校勤務。他に『1000万人が反グローバリズムで自給・自足できるわけ(スローライフ大国キューバ・リポート)』、『世界がキューバの高学力に注目するわけ』、翻訳書『百姓仕事で世界は変わる』(いずれも築地書館)がある。 トロピカル・フルーツヨーグルトなんとなくトロピカルでしょう。昨年とれたキウイにブルーベリー、イチジクの甘露煮、スグリ、干し柿にヨーグルトをかけてみたもの。来客にも人気のある一品(「美味しい」って褒めてくれるのを真に受けてます)。
2009年04月08日
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『金融腐食列島』と『エンデの遺言』前者『金融腐食列島』(高杉良 角川文庫)は護送船団方式と批判された大手銀行の内幕を鋭くえぐった小説で、ワンマン会長のモデルが某都銀の〇〇〇とあるし、複数の銀行の実態をモデルにしたというだけにリアルだし、総会屋=暴力団とのつながりも生々しい、さらに貸し渋りの実態や監督官庁との関係も驚かされる。この金に支配される社会にアンチテーゼを唱え「暴走するお金の正体を探る旅に立ち」、現代のお金の常識を破るさまざまな地域通貨の試みを紹介し、新たな貨幣システムはどうあるべきかを問うているのが後者『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』(河邑咲厚徳+グループ現代 NHK出版)だ。日本のバブル経済崩壊後の混沌とした金融システムの破綻が実態を超えた土地の投機だったという。今や世界的な規模に起こっている経済の破綻が一時期のオイルダラーをはじめとした狂信的な投機マネーの行き着いた先と考えると、どちらも生産などの実態を伴わないマネーゲームの結果だったというのはうなずける。本来、金は(1)交換の媒体(2)価値の尺度(3)価値の保存だったものが、(4)投機的利益の道具となりサービスや生産物の実態を伴わなくなってしまった。今や世界を動く外国為替の98%が投機の動機で動いているという。金が金を生み出すというのは、どうみても普通ではないし、それが現在の結果を生み出しているというのも考えてみれば至極当然なのかもしれない。成長を前提にし、成長を強制する性格をもつ現行金融システムが競争社会のさまざまなを歪を生み出す大きな要因の一つになっているというエンデの言葉を改めて考えさせられた。子どもに読んで聞かせた、あの時間泥棒の『モモ』の作者がミヒャエル・エンデだったと後で知った。投機目的な「嘘」のお金でなく、自然や人の営みや他人を思いやる心などを支える「実のお金」を求める人たちが、ささやかな数だが地域通貨を生み出し支えている。私も地元の小さなちいさな地域通貨に参加させてもらっている。
2009年04月04日
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『他力』と『大河の一滴』同じ作家のエッセイは書いた時期が離れていた方がいい。同じ時期の本は話題が重なって面白くない場合が少なくない。同じ時期、その人の興味や関心事が同じなのはいたしかたないが、やっぱし読者としては今一つだ。とはいえ同じ本の中で繰り返されたり、別の本でも何度も取り上げても、なんとしても伝えたいという書き手の思いがある場合は許せる。『他力』が1998年で、『大河の一滴』は1999年出版されている。『他力』を読み終える。少し前に読んだ『大河の一滴』と大分重なっていて途中で何度も止めようかと思ったくらいだ。ただ書き下ろしもあるというので続けて読んだが、これが私の悪いところだ。読む本が沢山あるのだから捨て読みも必要なのだが、これがなかなかできない性分なのだ。しかも読んでいるうちに繰り返されて出てくる話題への関心が深まってくる感じがしてくるからいけない。そのどちらにも書かれていたもので気になった話題が結構あったが、その中から一つだけ「面授」について紹介する。「面授」は仏教用語で大切な教えを文章でなく師から弟子へ直接伝授することをいうようだが、情報も同様で人を介して、人から人へ情がしっかりこもったものとして伝え受け取ることこそ確かな活きたものとなるというようなことが書いてあった。前にインターフェースについて関心を持っていたので引き込まれた。インターフェースは情報を仲介するモノだが、モノの世界なのでどんなに工夫しても、どうしても無味乾燥というか伝わりにくさが気になっていた。モノだけでなく、そこに人を介することで、どれだけ人は情報を得やすく、使いやすくなるかと思っていた。そういえば仏教だけでなくキリスト教も古代のギリシャの哲学者たちも、中国の老子、荘子の思想も面授だった。今は紙も豊富だし、コンピューターやプリンターも家庭の中まで闊歩している。便利な世の中になった反面、細やかな意思の伝達やコミュニケーション、真に伝えたいことは伝わっていないのかもしれない。
2009年02月18日
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古文は苦手だったが『西行』はよい こういう本は古文が混じっているので読み始めると初めの数十ページは読みにくくてしょうがない。いつ投げ出そうかと思ってしまうが、それさえ超えればそれなりに味わい深く読み進めることができる。歌枕について語っているところが頷けて面白い。歌に詠まれているが時にはまったく架空の存在が、さも事実のように伝わり、不特定の場所がいつのまにか設定されて観光客が集まって喜んでいる現象を嘆いている。そんな中に自分もいたので面映ゆい。また西行の歌には、けっこう詞書があるのが特徴という。たしかに歌そのものを読んだだけでは分りにくいが、詞書があれば情景や状況、場面がくっきり浮かんで歌の意味が解しやすい。自分でも下手な歌や句をブログに時々載せてきたが、状況を説明するのは反則かなぁと気に病んでいたが、西行法師でさえ長々と詞書を添えるのだから開き直ることにした。西行法師は若くして出家して「平安時代の教養人なみに仏法を学び、熊野三山に入峯し、高野山で修業したあげく、神仏習合世界に開眼した。最後には風のままに生を楽しむ無碍の境に入る。」だけあって自然の中にあっちこっちに庵を結んで暮らしてきた。この山里の我が家も庵のような粗末なものだ。ここは前にも紹介したが下の集落からヘアスピンのように曲がりくねった林道を何度も登り上がったところにある。そのせいかしばしば谷を伝わって下から霧がのぼって来るし、上からも山肌を伝わってからガスが降りてきて霧中の木立の中に家が建っているあり様は自然そのもの。風のままに生を楽しむロケーションとしては十分ではあるが、隠遁しているというまでの心境にはほど遠く、般若心経を写経していても心ここにあらずで、人恋しくなってか都会での生活を懐かしむことがしばしある。九十九(つづら)折り 煙の先の 庵にて なぜに浮かぶか 喧騒の日々
2009年02月10日
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『包帯クラブ』この本も今回購入した箱に入っていた一つだ。天童荒太の作品はどれも心の内面を扱っていて面白い。どれもサスペンス調だったが、この『包帯クラブ』は違う。10代を読者として意識したのか軽いタッチで、他の作品のように読後に重たくやるせない感じがしない。でも扱っているのは心の問題であることには変わりはない。心に疼きを感じていた高校生が、偶然出会った変な男の子に自分の気持ちを見透かされたように傷ついた心象の一部に包帯を巻いてもらった。不思議と気持ちが癒されたことで悩んでいた親友にも試してみると同じように心が晴れたという。そこから友達を誘って「包帯クラブ」が結成され、同じように何かの原因で落ち込み悩んでいる人たちの原因となったモノに包帯を巻いて携帯で画像を送る活動が始まる。人は何らかの心の痛手、心に傷をもって生きている。その傷をつけたのは心ない人の言葉であったり行為なのだが、その傷を癒すのも人の優しさだと言っているのだろうか。二か所でホロリとさせられた。僕は本を読んだり映画を見ていて何よりも幸せを感じるのはこのホロリだ。いい映画、本に巡り合ったと実感するのは、このホロリとした時だ。この本は2007年に映画化されたという。一度見て観てみたい映画だ。
2009年02月06日
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『大河の一滴』後書きに「一生に一度くらいは自分の本音を遠慮せずに口にしてみたい」とあるように、これまでの五木寛之のものと一味違う。最初から「おや!?」と思わせるものがあった。彼の作品の初期のものはよく読んだが、「青春の門 再起篇」以降、一時休筆した辺りだろうか遠ざかってしまった。その後、彼が龍谷大学に学んだと何かで読んだ。丁度、司馬遼太郎の『空海』を読んで仏教に関心をもったので、大学でわざわざ仏教を学び直したという五木寛之に興味がわいた。その後の本を読んでみたいと思っていた。今回はそのよい機会だった。最初の章に当たる「人はみな大河の一滴」が、この本の核心部分だろう。「地獄一定」すなわち今たしかに、ここにある現実は地獄だと言い放つ。随分と突き放した物言いをするように感じるのは、後書きの「本音を言う」という覚悟故なのだろう。僕はこれまで仏教でいう地獄も極楽もあの世のことと考えていた。「地獄一定」をこのように理解する、いやそう悟ることが仏への道なのかもしれない。五木は言う。人は多かれ少なかれ、死や病への不安をもち、差別する自己と差別される痛み、怒りと嫉妬、我慾に迷い、人や自然を傷つけ、嘘を重ね、執着を絶つことができず、その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きる。それを地獄だという。地獄とは死後の世界でなく今現在の日々をいう。それと対極をなすのが時間空間を超えた浄土の世界だという。時に地獄にありながら、その苦しみから解き放され浄土を垣間見ることがある。それが極楽だという。しかし極楽の時間だけが長く続くことはほとんどない。極楽の感動は消え、ふたたび地獄の岩肌が立ち現れる。生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還(おうげん)しながら暮らすことだと。悪をなす存在である人は苦しみ、否応なしに老い、すべて病を得て最後は一人孤独なうちに死んで浄土へ往生する。それは生前どのような人であったとしても、すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かうという大きな生命の物語を信じることに他ならない。なるほどと思う。だがこうした心境に、根っからの思い至ることができるのはいつのことだろうか。
2009年02月02日
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本との出会いブックオフに注文した本が届いた。1500円を超えると送料がただになる。2000円足らずで何と今回は10冊も購入できた。書店に行くと一番目につきやすいところに高く積んであるコーナーで帯を読んだり、後書きを読んで買えるが、年金生活には新刊本は高嶺の花だ。最近は少々時間が経過しているものだがインターネットで購入することがほとんどだ。だがネットだと手に取って中身を見るわけにはいかない。そこで僕は、他の人の書評や紹介を読んでだり観たりして、それを参考に買うことが多い。今回は「書物との対話」(河合隼雄)から白洲正子を知って『明恵上人』を読みたいと思ったが適当なものがなかったので『西行』にした。どちらかというと著者で気にいると、そこから手繰り寄せて読む方だ。『明恵上人』は法華宗と聞いていたので、前から気になっていた五木寛之の『蓮如』と『大河の一滴も』『他力』を一緒に購入した。また前から好きな評論家の佐高信の対談『日本企業の表と裏』を読んで相手の高杉良が気になったので企業小説を何冊か購入した。NHKの「週刊ブックレビュー」という番組も好きだ。毎回3人の小説家や評論家他が2冊の本を紹介して合評する。小説だけでなくさまざまなジャンルの本が紹介されるので関心が広がって思わぬ本を探し出すことがたびたびだ。決して新刊本ばかりでないので古本で探してあると幸せな気分なる。このところBSでやっている「私の一冊 日本の100冊」でも何冊か気になる本を見つけたので古本を探している。日本の年間の書籍の新刊数は7万点を超えているという。累積する過去のものまで加えると想像できない数だ。この中から読む本を選ぶのは至難の業だ。本との出会いは気紛れだし、ほんの一部しか読めないのだとしたら、その出会いは大切にしたい。老いさらばえるにしたがって一層そう思う。
2009年01月30日
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白き瓶 藤沢周平の『白き瓶』を読んだ。サブタイトルに「小説 長塚節」とあるように歌人であり、小説家でもある長塚節の鎮魂賦です。僕にとっては、文学史といえば高校時代の、ただただ暗記するための教科に過ぎなかったんだけど、これを読んでとても興味を持ちました。この本を読んで登場する明治の文豪達の結びつきが垣間見え、生き生きとつながってきたんですよ。正岡子規の弟子である伊藤左千夫と長塚節の関係も、また伊藤左千夫その人の自己主張の強い破壊的な性格(我を強く、同人や弟子達が離反して孤独な、薄幸な人物)と、小説「野菊の墓」の清廉さとのギャップというか、相反する感情が同時に存在する小説家のいかがわしさも面白かった(素敵な小説でも、手放しでは信用おけんなぁという感じかな)。長塚節の小説『土』が、当時、朝日新聞に勤めていた夏目漱石の推薦で、新聞小説として連載されたんですねぇ。このつながりも面白い。独身で37歳の若さで結核で亡くなった(一説では童貞だったという)彼が、ただ一つの恋に破れ、ともすれば崩れそうになる自分の気持ちを、寒い冬のさなかに、ひっそりと咲き続ける山茶花に託して歌った。山茶花のわびしき花よ 人われも生きの限りは思い嘆かむ打ちしなえ我にも似たる山茶花の 凍れる花は見る人もなし 雪舞う森僕はニューミュージックも好きだけど演歌も大好きです。 雪を見ると新沼謙治の「津軽恋女」が浮かびます。「降り積もる雪雪雪また雪よ~津軽には七つの雪が降るとか~♪ こな雪 つぶ雪 わた雪 みず雪 かた雪 ざらめ雪 こおり雪♪」犬の散歩をしながら、今日のこの雪は何雪なんだろう、なんて思いながら口ずさみます。 そこで今一つ、こんな雪もあってもいいかもと一句杉木立 すさぶ寒風 けぶる雪
2008年02月20日
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