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侘しい おかずラジオ放送「鎌田實 いのちの対話」で食べ物を取り上げていた。リスナーや公開放送の参加者から食にまつわるエピソードが寄せられていた。どれもが胸にキューンと響くものばかりだった。 散歩は携帯ラジオ、竹細工しながらはこっちのコンポそのなかに弁当の話題があった。弁当と言えば僕にも忘れられない想い出がある。中学生の昼時間だった。昭和37年、この頃はどんな時代だったのだろう。そんなに豊かな時代じゃなかったように思う。弁当に入っている肉といえば鯨の南蛮漬けの焼いたもので豚肉や牛肉はお目に掛かったことがなかった。多くは魚でカジキマグロが焼いてあったり煮魚がはいっていた。時々油で炒めた赤いウインナー(これも魚肉だったろう)にカレー粉で味付けしたやつ、そしていつも欠かさずに卵焼きが入っていた。それに海苔の2段重ねの飯が僕の弁当の定番だったように思う。男子どもはパッと食って廊下に飛び出す。僕も口に放り込んでほとんど噛まずに飛び出す方だった。女子生徒はだいたい何人かがグループでお喋りしながら食べていた。その日、いつもは前の扉から出ていくのに、たまたま後ろの扉から出た。一人だけ一番後ろの席にいた子が包んできた新聞で囲うようにして隠して食べていた。かえって逆にそれが目立った。僕が後ろを通ったときに彼女は食べてかけていた弁当箱の蓋を閉めた。だが背中越しに一瞬、見てしまった。弁当は一面が紅かった。外に何もおかずはなかった。ピンクのでんぷでなく紅い紅生姜のようだった。僕は知らんぷりして何も見なかったように扉を飛び出した。彼女の家はレンズ磨きのコウバをやっていた。家内工業だった。ほどなくして知ったことだが、その頃、コウバが倒産したという。
2011年02月11日
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母への最初のプレゼント靴下は長靴で作業をしているとけっこう早く穴が開いてしまう。そんな時、連れ合いが東京に行って居ないときには自分で繕いものをする。老眼の目には針に糸を通すのがなかなか上手くいかない。細い小さめの針だといっそう通り難い。そうそう、小学生のころに母が針に糸を通すのに苦労していた。側で遊んでいると 「○○○ ちょっと糸を通してね」 とよく頼まれるようになった。5人兄姉の末っ子で母が30半ばに産まれた子どもだったので、その頃には老眼になっていたのだろう。ある時、縁日にいくと屋台で簡単に糸を通す道具を売っていた。チェスの駒のような形をした金具を針の頭に被せて大きめに開いた穴に糸を差し込むと簡単に通すことができるというもの。30円だったか50円くらいだったと思う。その時は金が足らず次の縁日のときまで金を貯めて買って母に上げた。母は大切に裁縫箱に入れて嬉しそうに使ってくれた。これが生まれて初めて母にあげたプレゼントだった。 薔薇と小菊が好きだった母 一度もこの庭の花を見てもらえなかった
2010年11月02日
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6本の柿木中学生の頃まで父の仕事の関係で社宅住まいだった。庭は都会にしては珍しく広かったが果物の木はイチジクとビワしかなかった。僕には友人の家の秋に赤く色づいた実がいっぱいなる柿木が羨ましくてならなかった。中学生の頃に父が停年して建てた家にはさほど大きくはないが庭が付いていた。僕は柿を植えることを提案した。それから数年して柿木の実がなる頃には僕は見向きもしなくなっていた。それから40年近く経って、縁があってこの里山の家を購入するときに、真っ先に目についたの大きな柿の木だった。秋にはアンポ柿が実って干し柿にできると教えられると気持ちが大きく動いた。購入を決める前に柿木の実がなる頃にもう一度訪れた。柿木にいっぱいの実がなっていた。ここにしようと決めた。去年は幾分少なかったが、今年は大きな実が沢山なった。3本がアンポ柿で干し柿にする。2本が渋柿で焼酎抜きにした。そして1本が甘柿でそのままいただいている。手の届く所に柿の実がある。小さいときの願いが叶った。
2010年10月30日
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ももしきや… 「し」と「ひ」小学生のころ、正月に恒例になっていたのが百人一首のかるた遊びだった。高校生や中学生の姉三人に混じって末っ子の僕はいつもビリッケツだった。でも必ず1枚だけはとることができた。それが ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 順徳院 小学生の僕は、これを勝手に軒端にかかったももひきを懐かしんだ歌と理解して、この下の句を目ざとく見つけてはそっと自分の近くに正面を向けて置いておく。読み手の母が目配せしてくれて「も」と読み出したらつかさず”ハイ”と得意げにとったものだった。今なら、さしずめ 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば 源宗干朝臣 だろうか。僕が得意だったのは坊主めくりだ。着飾ったお姫様が大好きだった。正月を迎えると想い出す。 皆さま 今年もよろしくお願いいたします。
2010年01月06日
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蛇の抜け殻からの想い出去年は薪置き場でヘビの抜け殻を見つけた。長いのでアオダイショウかと思う。今年は山羊のヤエのいる農機具小屋の藁置き場で見つけた。大きさ太さからするとマムシでないかと思う。藁は重宝でいろいろなものに使えるから脱穀をした後に田んぼに返す以外に残しておく。長い藁は稲刈りや麦刈をしたときに束ねる紐代わりになるし、作物の保温、保湿に役立つので根元に敷いてやったり、踏み込み温床の囲いやヤエの床に敷いてあげる。その藁山のビニールシートを開けたらでてきたのが写真の抜け殻。蛇で思い出すのは地下鉄での駅で見た蛇だ。勤務先の事務所に通う最寄駅の鍛冶橋で出口へ上っていくと前を行く女性が大きな悲鳴を上げた。驚いて見ると長くて太い蛇が階段を横切っているところだった。なすすべもなくただただ横切って下水の穴に消えていくのを呆然と見ているよりしょうがなかった。都心に蛇なんて予想だにしないことが突然目の前に起こると咄嗟で何もできなかった。それが、最近ではカサカサ音がすると姿見えずとも蛇じゃないかと用心する。草むらを歩いて行くときも、小屋に入って作業するときも長靴は常用だ。普通に歩く音だけでも蛇は逃げていく。出会いがしらに足で踏んづけたり、攻撃していると間違われると向かってくるという。村の人はマムシを見つけたら必ず殺せという。長年の生活の知恵なんだろうが、逃げてくれた方がホッとする。あの目は不気味だ。できるだけ会いたくない相手だ。ご用心!ご用心!
2009年07月22日
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我が家の水芭蕉今年も池の脇に咲いてくれました。水芭蕉というと、あの歌詞 「夏が来れば思い出す 静かな尾瀬 遠い空 水芭蕉の花が咲いている…」を連想します。よく口ずさみながら尾瀬の木道を歩いたものです。最初の尾瀬行きは仕事関係の友人に同行させてもらった時でした。夜行に乗って疲れた体で三平峠を超えて三平下から沼尻そして下田代十字路、さらに疲れたついでに三条ノ滝に足を伸ばした時にはクタクタで、急な険しい道にもう一歩も歩けない状態でした。でも忽然と現れた滝は水量が圧倒的で、そのみごとさにうっとりと見入ってしまいました。それからは連れ合いを誘って何度か夏の尾瀬に出かけていきました。水芭蕉は勿論のことニッコウキスゲの群生やアヤメに魅了されました。至仏山に登ってガスに合って戸惑いながら登ったこと、その晴れ間から尾瀬ヶ原を一望した時の感動は忘れられません。疲れた身体を引きずって辿り着いた鳩待峠の小屋でかじった林檎、清水に浮かべてあったリンゴは冷たく、それはそれは甘酸っぱいものでした。そんなことを思い出させてくれた水芭蕉です。
2009年04月21日
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煤とタールで詰まった煙突山深く雪の多いここでの生活で憧れていたのが薪ストーブの生活。だが都会生活の体験しかないから土台知識は乏しいし、あっても本からだから頼りないし生きた情報からはほど遠い。山があるから樹の心配はない思っていたが、伐って1年くらいは放置しておいて乾燥させないと使えないなんて知らなかった。最初の冬は、納屋を壊した柱など廃材を使ったり、夏に伐っておいた山の木を燃やした。ある日、煙突を伝わってタラ~リ、ズルーと黒いものが落ちてくるではないか。タールだった。それがストーブに触れると臭いわ、その刺激で目から泪が出るわで、とても炎に癒されるどころか落ち着いて暖まっていられない。といって外だけでなく火を焚かない部屋はマイナスだ。これまで体験したことのないような体の芯までがジーンと冷えてくる寒さは遠慮容赦ない。役立たない薪ストーブに代わって部屋の真ん中に陣取ったのは押入れから出てきた石油温風ストーブだった。デーンと大きな顔をして陣取ったのはいうまでもない。原因は何だろう。リフォームをしてもらった工務店を呼んだ。ストーブの大きさに合った排煙装置になっていなかったようだ。それに加えて生っぽい薪をくべたために煙突の出口がすすとタールで詰まっていた。煙突を直し薪ストーブの火が戻ったのは1週間後だった。しばらく石油ストーブは押し入れにしまわないことにした。 今年は順調な薪ストーブ
2009年01月11日
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雪の日の列車事故に遭遇東京でも何年に一度まとまった雪が降ることがある。そん時は雪に慣れない都会は途端に交通はマヒして電車やバスは大幅に遅れてしまう。また必ず転倒して骨折した人が何人か出て、それがニュースになったりする。雪が降り積もりそうな夜には黒光りするレールのポイント付近にカンテラが焚かれることがある。白一色の中に赤黄色の火が揺らぎ浮かびあがっている光景はとても幻想的だ。そんなカンテラが焚かれていた大雪が降った日に停車中の電車に後続の電車がつっこんで衝突する事故が起こったことがある。私は衝突した側の電車に乗っていて事故に巻き込まれた。吊革を握っていたが、キーという音とともに4メールほど吹っ飛ばされた。その衝撃はすざまじかった。幸い倒れていいた人の上に覆いかぶさるように落ちたので、それがクッションになったようだ。下敷きになった人を助け起こしながら立ちあがたが痛みは大したことはない。落ちた拍子にメガネが何処かに飛んでいってしまっていた。周りには何人かが倒れていた。連結のドアの角に頭をぶつけたのか血を流してうずくまっている人もいた。日曜日だったので乗客は少なかった。誰が開いたのか片側のドアが開いていた。意外なほど降り口から地面までの距離がある。何人かの人を手助けしながらようやく下に降りることができた。雪で線路が埋もれた道をホームまで歩いた。駅は人でごった返していた。救急車がけたたましくサイレンを鳴らして何台も到着した。200名余の負傷者が出たという。私は軽い鞭うち症と診断された。事故は車輪とブレーキシューの間に雪が挟み込まれたのが原因とされた。事故は22年前の大雪の日に友人の母親の葬儀に出かける途中の出来事だった。福島のこの山里で三度目の冬を迎えた。一昨日から降り続ける雪はこんなに積もっている。この雪を見ていたら、あの日の東京の雪の大事故を思い出した。 ここでは列車事故はないが代わりに車のスリップ事故には用心が必要だ。
2008年12月27日
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