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「信玄の戦略」(最終章) (巨星、墜つ) にほんブログ村にほんブログ村 信玄は先遣隊の用意した本営に入り、すぐに臥所で横になった。 信玄は綿のように疲れきっていた。 武田勢は徳川勢の来襲に備え、警備を強化し夜を迎えていた。 伊那街道への備えには、甘利昌忠が騎馬武者で警護にあたっている。 そんな時、関東の要石、西上野の箕輪城主内藤修理亮昌豊が姿を見せた。 彼は信玄の上洛の陣に加わらず、関東の守りを命じられていた。「これは内藤修理亮さま、何処に参られますぞ」「御屋形のご容態が悪いと聞き、駆けつけるところじゃ」 内藤修理亮の言葉に甘利が畏まった。「御屋形のご体調が悪いとは真か?」「真にございます。御屋形さまが息災の内に、帰還して頂こうと思い、この田口で宿営しております」「判った。わしは先駆けするが、配下を頼む」 武田家四天王の一人、内藤修理亮は懸命に馬を駆けさせた。「御屋形さま、お休みにございますか?」 今井信昌が臥所に低く問いかけた。「眠ってはおらぬ」 「西上野より内藤修理亮さま、駆けつけて参られました」「なんと内藤修理亮昌豊が?」 部屋の外で微かな咳払いがし、静かに三人の宿老が姿を現した。 内藤修理亮が主人の変貌ぶりに声を失った。 「西上野より、馳せ参じてくれたか?」 信玄と昌豊の眸子が確りと交わった。 馬場美濃守と高坂弾正の二人も、信玄の枕頭に座った。「御屋形、甲斐は直ぐにござる。お気を強くお持ち下され」「死ぬる前に、そなたに会えるとは思はなんだ」 信玄の声がかすれて聞こえる。「そのようなお気の弱い事を申されますな」「丁度よい機会じゃ、山県が居らぬが、そちたちに相談がある」 信昌が部屋の不審な者が近づかぬように、無言で辞して行った。「昌豊、余は数日で死する」 信玄が明確な口調で断言した。「死んだのちの天下なんぞは興味がない、武田家の天下取りは終りといたせ、勝頼では甲斐一国でも難しい」「そのような事はございませぬ」 馬場美濃守が静かに反論した。「子の器量を見るは親の眼が一番じゃ。残念じゃが勝頼は、家康にも劣る」「・・・」 「余が死んだら、越後の謙信と和睦いたせ。奴は稀有の武将じゃ。良いの」「畏まりました」 三名の宿老が黙然と平伏した。「余の死は三年間秘匿いたせ。それまでに知れてしまうが構わぬ。余の存在が不明なだけ敵は用心いたす。三年後に余の亡骸を恵林寺に葬ってくれえ」 信玄の呼吸が荒くなってきた。「美濃、弾正、修理亮、勝頼がこと頼むぞ」 信玄が三人の名を区切るように呼び、四郎勝頼の将来を託した。 「畏まってございまする」「昌豊、余はそちの顔をみて安堵いたした」「御屋形、今宵はお静かにお休み下され」 内藤修理亮が頭を垂れた。 翌日、武田勢は田口を発ち、信州飯田の南西にある、駒場(こまんば)に宿営した。ここは天竜川を臨む伊那盆地の一角で、三州路と美濃路の分岐点にあたる山村である。 信玄の容態は悪化の兆しをみせ、一日中昏睡状態となっている。「馬場殿、二万の大軍を留める必要はありません。半数は帰国させましょう」 高坂弾正の意見で、軍勢の半数が勇んで甲斐に帰路についた。 残った将兵は信玄の宿営地を固めるように、山村の各所に駐屯している。 四月十一日の巳の刻(午前十時)頃、信玄は昏睡から目覚めた。 山野には桜が満開に咲いている。 信玄の枕頭には勝頼を筆頭に御親類衆の武田逍遥軒、武田信豊が顔を揃え、武田四天王の馬場美濃守信春、高坂弾正昌信、 内藤修理亮昌豊、山県三郎兵衛昌景等が顔を揃えていた。「皆うち揃っておるの、余は夢をみていた。京に武田の御旗が翻る夢じゃ」 信玄の顔色に赤みがさしている。「勝頼、余を起こせ」 「ご無理は禁物です」 信玄は勝頼に手を借り脇息に寄りかかり、一座に視線を廻した。「直ぐに別れが参ろう、名残り惜しいが仕方があるまい。命ある者は死す。皆々、勝頼の行く末を頼むぞ」 「承りましてございます」 全員が落涙して平伏した。「勝頼、余が死んだら三年間、喪を秘すのじゃ」 「何故、父上の喪を隠しまする?」「勝頼、余は天下に恐れられた武将じゃ。余の死が洩れたら叛く者も現れよう。それを恐れるためじゃ」 信玄が諭すように話しかけた。 今の信玄は、一人の父親として語っているのだ。「父上、それがしは叛く者も恐れませぬ。天下を望む事も諦めませぬ」 勝頼が顔面を朱色に染め叫んだ。「信廉や宿老達に申し渡す。余の遺言に違背はならぬ」 信玄の声が凛として響き、勝頼が不満そうな顔付をしている。「美濃、弾正、修理亮、三郎兵衛」 信玄が宿老の一人一人に声をかけ、「これが余の遺言じゃ」 死に行く者とは思われない眼光をみせ断じた。「ご違背は決していたしませぬ」 馬場美濃守が代表し約束した。この一言から彼等の悲劇が起こるのであった。「これで、思い残すことはない」 信玄の顔色が鉛色に変わり、冷汗が首筋を伝っている。 馬場美濃守が信玄を褥にそっと寝かした。 御屋形の死で武田は終りかも知れぬ、そんな思いが脳裡を過ぎった。 天正元年四月十二日、駒場を囲む山並は眩しい新緑につつまれ、山桜が満開となっている。 信玄の容態は誰の目からみても悪化している。 宿老は信玄の枕頭を離れず、荒々しい呼吸を続ける主を見守っている。 独り勝頼だけが、違った思いで父の容態を眺めているようだ。 天下に恐れられた信玄も、死すればただの男。瀕死の父と争った日を想いだしているようだ。 旗本の今井信昌が懸命に、信玄の額の汗を拭っている。「夢じゃー」 信玄が突然、大声を挙げた。「御屋形」 馬場美濃守が覗き込むように声をかけ、一座の全員が信玄を見つめた。「源四郎、京の瀬田に我が旗を立てよ」 源四郎とは山県三郎兵衛の幼名であり、彼はじっと次ぎの言葉を待ったが、再び信玄は声を発する事はなかった。 医師の監物が脈を探り、「ご臨終にございまする」 と、悲痛な声をあげた。 こうして武田信玄は、波乱にとんだ五十三才の生涯を閉じた。 夜の帳が落ち、駒場の本陣から荼毘の炎が燃え盛っている。 荼毘の炎の見える小高い丘に、老武士が草叢に座り落涙している。 老武士が笠を脱いだ、隻眼で老醜の顔が闇に浮かびあがった。 それは年老いた山本勘助の姿であった。「御屋形さま、無念に存じます」 勘助には言うべき言葉がなかった。 ひと際、炎が高くたち昇った。勘助が肩を揺すって闇に姿を没した。 信虎は信玄の上洛の軍旅を知るとお弓を伴い、信濃の伊那郡に移り住み、信玄の死去を知り落胆の日々を過ごし、翌年の二月三日にその地で没した。 享年、八十一才であった。 信玄の葬儀は遺言どおり三年後の天正四年四月十六日、恵林寺で行われた。 そこに出席した武将は高坂弾正のみで、あとの馬場美濃守、内藤修理亮、山県三郎兵衛の姿はなかった。 彼等、三名は長篠の合戦で勝頼の無謀な戦術で鬼籍に入っていたのだ。 この六年後に武田勝頼と武田一族は信長に破れ、甲斐の田野まで逃れそこで自害し、武田一族は滅亡した。 この原因は小山田信茂の裏切りにあったのだ。 (了)
May 30, 2015
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「信玄の戦略」(114章) (信玄、死を悟る) にほんブログ村にほんブログ村 武田忍びの頭領、河野晋作も信玄から直に聞かされ承知していた。 その為に塗輿を担ぐ人足は、すべて忍びの者に変わっていた。 信玄は戦塵のなかで病と闘うよりも、暖かい布団でゆっくりと療養したい、そうした願いでこの鳳来寺に来たのだ。 信玄は鳳来寺の客殿で体調の戻るのを待っている。 ようやく容態も安定し、顔色に血色が戻ってきた。「余は病魔をねじ伏せた」 それがつかの間の事とは分かっているが嬉しかった。 季節は三月を迎え、野鳥のさえずりが心地よく聞こ始めた。 天下の耳目は信玄の動向を注目している。昨年は遠江の三方ケ原で、徳川、織田の連合軍を完膚なく破り三河に進出し、徳川家の重要拠点、野田城を攻略し、ぴたりと動きを止めている。 信玄の次の標的は何処か、色んな憶測が飛び交っているが、武田勢は鳳来寺に滞陣し動く気配をみせない。 こうした状況下の京で二月十三日に将軍義昭が、信長打倒の兵を挙げた。 この背景には信長包囲網の完成にあった。 信長の本拠尾張、美濃は西に石山本願寺、三好三人衆、六角承禎(じょてい)、 浅井長政。南は長島一向門徒、北には朝倉義景、加賀一向門徒、東には天下最強の武田軍団が迫っていた。 義昭は浅井家、朝倉家に決起の御内書を発し、本願寺にも近江で蜂起するよう要請し、受けて、顕如は近江の慈敬寺に門徒衆の決起を命じた。 義昭は御所の強化の為に濠普請を行い、近江石山と今堅田に砦を築いた。 義昭の戦略は、信玄の発病で絵に書いた餅となっているが、彼は知らず、ひたすら信玄の上洛を待ち望んでいた。 信長は義昭を牽制し、岐阜で信玄の進攻を戦慄する思いで待ち受けている。 彼の膝元の東濃では武田勢に明知城を攻略され、彼等の動きは烈しさを増し、虎視眈々と岐阜城を窺がっている。 これが信長の置かれた情況であり、桶狭間につぐ最大の危機を迎えていた。 だが信玄は三河で動きを止め動く気配を見せない、それが不気味であった。 信玄の臥所に馬場美濃守と高坂弾正の二人が、忍びやかに訪れて来た。「両人、来てくれたか」 「御屋形、今朝は血色も宜しいようで」「心配をかけさせたの、信昌、余は起こせ」 信玄が起き上がり、脇息に身をあずけた。傍らには今井信昌が控えている。「御屋形、お聞き苦しいとは存じますが、ひとまず甲斐にお戻り下され」 馬場美濃守が強張った顔付で声を励まし、忠告をした。 病み衰えた信玄の眼光が鋭くなり、馬場美濃守を見据えていたが、「今になって引き返しては、何のために討ってでたのか意味を成さなくなる」 信玄の声に力が漲っている。「承知で申しあげておりまする」 「弾正、そちも同じ考えか?」「御屋形あっての上洛にございます。甲斐に戻り、お躰を治す事が先決かと」「弾正、それに美濃もよく聞くのじゃ。余の命はそう長くは保たぬ」 瞬間、部屋が凍り付き、三名が信玄を仰ぎ見た。「余は五年も一人で病魔と闘ってきた。余が死ねば上洛の意味はない」 信玄の普段と変わらぬ声に、馬場美濃守と高坂弾正が声なく俯いた。「余の薬湯を」 今井信昌が囲炉裏に掛けられた土瓶から、湯呑みに移し手渡した。「これは余が調合したものじゃ。すでに五年間も飲み続けておる」 信玄が湯呑みを掌に包み苦そうに、音をたてて啜った。「未練にみえるか?余は一日でも生き永らえ上洛を果たしたい。快癒せぬ事を承知で飲んでおる、妄執、・・・未練かの」 信玄の顔に自虐の色が浮かび、すぐに平常にもどった。「今の徳川家を見よ、もはや我等の敵ではない。我等は信長を討つ」 信玄が毅然たる声で命じた。「御屋形の決意、しかと心に刻みつけました」「二日後に軍勢を発する」 二人が平伏し拝命した。「信昌、少々疲れた」 信玄は褥に臥せ、手で二人に去るように合図し瞼を閉じた。 その夜、信玄は再び喀血し高熱にうなされるのであった。 鳳来寺の一室で勝頼を上座として、御親類衆と重臣達が全て集っていた。「勝頼さま、御屋形の病は益々悪化いたしております。ここは軍をお引き下され」 重臣を代表し、馬場美濃守が進言した。「馬場美濃守、そのように容態が悪化しておるのか?」 信玄の弟の武田逍遥軒信廉が、非難するように訊ねた。「最早、ご本復は無理かと」 「父上のご容態は、そのように悪いのか?」 勝頼が重苦しい顔つきで訊ねた。「鳳来寺に滞陣いたし、既に一ヶ月を経過いたしました。御屋形が少しでもお元気なうちに、甲斐にお連れいたしましょう」 高坂弾正が沈痛な声で勝頼に訴えた。「なれど、父上は二日後に出陣をお命じなされた」「御屋形はその夜に再び喀血され、意識がございませぬ。なんとしても甲斐を一目、お見せしたいものに御座います」 馬場美濃守と重臣達が、勝頼と御親類衆に頭を下げた。 だが信玄は再度起き上がった、倒れてから五日後の事であった。枕頭に勝頼と逍遥軒、さらに馬場美濃守、高坂弾正の四人が凝然と控えていた。「勝頼、余の命はあとわずかじゃ」 「父上っー」「狼狽えるな。余は甲斐に帰国いたす、すぐに用意をいたせ」 信玄は自分の死期を予感しているようだ。「信昌、例の箱をこれに」 信玄の命で今井信昌が、漆細工の小箱を勝頼の膝前に置いた。「勝頼、開けて中を見よ」 勝頼が箱の蓋を外し顔色を変えた。 部屋の者達の眼も釘付けとなった。箱には百枚ほどの白紙が治められ、白紙の左下に、信玄の直筆の署名と花押が記されている。「これは、余が数年前より用意しておいたものじゃ」 「父上っー」 勝頼の悲鳴を聞き信玄が、「余は死ぬるが、これがある限り余は生きておる」 信玄の直筆の署名があるかぎり、信玄存命の証しとなる。 「美濃、弾正、この書簡の意味は判るの?」 二人は信玄の覚悟の凄さを改めて知らされたのだ。「余を一人にいたせ」 一座の足音が途絶えるまで天を仰いでいたが、それが消えると瞼を閉じた。 「無念じゃ」 血を吐くように呟いた。 もう一歩で上洛が果たせたのに、岐阜を目前とし帰国せねばならぬとは。 武将としての恥辱をひしひしと感じていた。「父上、お赦し下され」 信虎の面影に向かい、詫びの言葉を呟き、目尻から一筋の涙が伝え落ちた。 三月末、突然に武田軍団が鳳来寺を発った。先頭には武田家累代の家宝である諏訪法性と孫子の御旗が靡き、本陣には騎馬に跨り、唐牛の白毛の飾りのついた諏訪法性の兜を深々と被り、伝来の大鎧の上から朱の法衣を纏った信玄が、見事な手綱捌きを見せ進んでいる。 これは影武者で信玄の弟の武田逍遥軒信廉が、務めていた。 軍勢から少し距離をおき塗輿が続いていた。見る者がみたら異様に映る光景である。 警護の武者が密集隊形で塗輿を取り囲んでいる。 いずれも凄腕の家臣である、更に武田の忍び集団が周囲を警戒している。 輿では信玄が憔悴した顔をしているが、眼光を炯々と輝かせ揺られていた。 すでに全国制覇は諦めたが、甲斐を見るまでは死なぬ、と心に決めていた。 武田勢は緩やかな速度で粛々と、伊那街道を北上して行く。 何も知らない足軽は国に帰れる喜びを隠そうともせず、眼を輝かせている。 その日は鳳来寺、北方八里に位置する田口の地に宿営した。
May 25, 2015
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「信玄の戦略」(113章) (三河、野田城攻略)にほんブログ村にほんブログ村 三方ケ原合戦の大勝利は、瞬く間に諸国に広まり、石山本願寺の顕如は、信玄と勝頼に太刀や虎の皮を贈呈し勝利を祝った。 更に顕如は遠江、三河、尾張、美濃の一向門徒衆に檄を発し、岐阜の近郊に要害を築かせ、信長勢の支配地に騒乱を起こさせ、信長に脅しを掛けたのだ。 さしもの信長も窮地に陥り、近江の軍勢を撤退させる必要に迫られた。 十二月三日、織田勢は突然、軍勢を返し本国に撤退した。 その時の越前の朝倉義景の態度が、反織田勢として不手際であった。 戦略的に見るなら、信長が撤退を行った時を見逃さず、小谷城の浅井長政と共闘し、織田勢に追い撃ちをかける。 これが兵法の常道であるのに義景はそれをせず、織田勢の撤兵を見送った。 更に信玄の忠告を無視し、大嶽(おおずく)から軍勢を越前へと引いたのだ。 その報告に接した信玄の失望は大きかった。 信玄が義景に大嶽滞陣を進めた訳は、織田勢が撤退する時の反撃を想定した為であった。凡庸な朝倉義景は信玄の真意を理解出来なかったのだ。 信玄は将軍義昭に再度、朝倉義景に出兵を促すよう書状を送ったが、義景は出陣が出来る事が叶わなかった。 ただ時期が悪かった、この季節の越前は豪雪に見舞われていたのだ。 折角、信玄が腐心した信長包囲網は、こうして脆くも崩れたのだ。 (妄執の果て) この頃、信玄は刑部の陣営で人知れずに病魔と闘っていたのだ。 武田の将兵も知らず、勝頼さえも知らない秘事であった。 織田信長も徳川家康も、動かぬ武田軍団を注視していた。 徳川勢は浜松城に籠城し、家康に従属していた豪族等は武田に降り、単独で攻めかかる戦力を失っていた。 信玄は本陣で愛用の土瓶をかき混ぜ、自分の余命を考え続けている。 恐らく京までは保たない、これが信玄の偽らぬ本心であった。 この刑部でも、何度となく喀血していた。 その度に全身から力が失せた、だが最近は徐々に力が漲ってきた。 病魔が小康状態となったのか、回復に向かったのか信玄もつかめずにいる。「人は死ぬ直前に一時的に元気を取り戻すと申すがな」 信玄が低く独り言を呟き、土瓶の薬湯を苦く啜っている。 上洛は自分一人の願いではない、父の信虎の宿願でもある。 越後勢と戦った川中島で討死を遂げたと偽った、山本勘助の願いでもある。 無性に勘助に会いたかった。「奴の事だ、どこぞで余を見守っておろう」 そんな思いがしていた。 二俣城攻略の策は、信虎と勘助の謀略であった事は承知しているが、あれ以来、一切、連絡が途絶えていた。 信玄が湯呑みを口にはこび、薬湯を飲み干し苦い笑いを頬に刻んだ。 快癒する見込みのないことを承知で、このように薬湯を飲んでいる自身への、自虐の笑いであった。 部屋は蒸すように暑い、信玄の肺は外気を受けつけぬほど弱っていたのだ。 早う、春になるのじゃ、余は春を待って美濃に進撃いたす。あの悪逆非道な織田信長を打ち倒し、京の瀬田に武田家二流の御旗を立てる。 戦国大名として武田信玄は、最後の夢を自分の余命に託していたのだ。「明朝を期して野田城攻略の軍勢を発する」 信玄の下知が下った日は、一月二十二日のことである。 待ちに待った進軍の下知で全軍から、歓声が沸き起こった。 野田城は長篠城の西南に位置し、刑部より六里ほど西に向かった地点にある。 城は豊川右岸の突端にあり、柔ケ淵の絶壁を防壁とし堅固で聞こえていた。 城主は菅沼定盈(さだみつ)である。 彼は初めは今川家に属していたが、永禄四年より徳川家康に仕えてきた。 翌日の二十三日は、風もない快晴の日和となった。信玄は愛馬に白鹿毛に跨り、軍団の中陣で馬を駆っている。 快晴にも係らず綿入れの頭巾を被り、眼だけを出し熊の羽織りを纏っている。 一時も早く片づけたい。これが信玄の願いで山県昌景の赤備えと勝頼の率いる、騎馬武者が先鋒隊として先駆けしていた。 二万八千の大軍が刑部を出発し、豊川の河原に集結を終えたのは正午であった。 蟻一匹、逃さぬ堅固な陣形で野田城を包囲した。 菅沼定盈は眼下に展開する、武田軍団の威容を眺め全滅を覚悟した。 城から見下ろせる南の日当たりの良い場所に、人夫たちが手際よく本営らしき建物を組み立てている。 「あれが武田勢の本陣か?」「強襲したいが、届くまでに全滅じゃな」 それほど見事で巧緻な陣形を持った武田勢であった。「籠城じゃ」 幸いにも兵糧は十分にある、二俣城と違い井戸水も豊富にある。 武田勢の攻め口は、城門の急峻な小道が一筋のみ、一年でも保てる。 その内に、徳川勢か織田勢の援軍も駆けつて来るであろう。 城主の菅沼定盈は覚悟を決め込んだ。 こうして対陣が始まったが、武田勢は包囲したたげで攻撃を仕掛けてこない。 家康は織田信長に救援の使者を何度も遣わし、隙をみては出兵するが、堅固な武田勢の防衛線に阻まれ、虚しく浜松城にもどるのみであった。 そんな時、東美濃の秋山伯耆守信友より朗報が届いた。岩村城に続き、 明智城をも攻略したとの知らせであった。 信長の足元の東美濃に火が点いたのだ。「信友、やるわ」 信玄は上機嫌でその朗報に接した。 野田城を包囲し半月が過ぎ、籠城する菅沼勢が仰天する出来事が起こった。 五十名ほどの人夫が、城の崖下を掘りはじめたのだ。「何事じゃ」 「崖を崩す算段とみた」 「馬鹿な、穴を掘って崖を崩す気か」 城内の将兵が笑いを堪えていたが、 人夫達の真意を悟り真っ青となった。 信玄は甲斐から、金掘り人夫を呼び寄せ崖の下を掘りすすめ、野田城の水脈を断ち切る戦術にでたのだ。これには城主の菅沼定盈も仰天した。 二月五日、とうとう水脈が切れた。籠城の将兵は絶望感にうちひしがれた。 菅沼定盈は城内の甕(かめ)等に、水を貯え十日ほど籠城を続けたが、水の渇望により、二月十五日に城を開き武田の軍門に降った。 またしても徳川の最重要拠点の野田城も、二俣城同様に水の手を断たれ落城したのだ。 野田城が墜ち、徳川勢は三河での合戦が不可能となり、武田勢は磐石と成った。 信玄は野田城を山県三郎兵衛に守らせ、自ら軍団を率い野田城の東に位置する、鳳来寺に軍を進めた。「御屋形さまは何処に向われるのじゃ」 将兵達は次の目標を岡崎城と思っていたので、全員が不審そうにしている。 鳳来寺は由緒ある山寺で、鳳来寺山の山頂付近に建てられ真言宗の寺院である。 本尊は開山の利修上人の作で、薬師如来が祀られてある。 寺の本堂に至るには千数百段の石段を登らねばならない、途中の参道は鬱蒼とした霊木の杉林に覆われ、大木は緑に苔むし尊厳な雰囲気が漂っている。 武田軍団は山裾や峰々の林のなかに宿舎を建て滞陣した。「御屋形さまに何が起こったのじゃ」 全将兵が不審を感じていた。 「いや、戦勝祈願と聞いておるぞ」 それぞれが密やかに語り合っている。 信玄は野田城攻略後、ほとんど誰にも姿を見せることがなかった。 寒気で風邪をこじらせ、労咳がいっそう悪化していたが強靭な気力で保っていたのだ。 「余は死なぬ」 何度となく信玄は気力を奮い立たせていた。 馬場美濃守と高坂弾正、警護頭の今井信昌の三名は信玄の病を知っていた。
May 19, 2015
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「信玄の戦略」(112章) (三河、野田城攻め)にほんブログ村にほんブログ村 大久保忠世の槍の柄で尻を突かれた馬が、狂ったように駆けている。 その鞍上で家康は、恐怖で身を強張らせている。 人間とはこうした生き物かも知れない、一度、恐怖に陥ると正常な精神に戻れないようだ。 後方から戦場のどよめきが追いかけるように聞こえてくる。 家康はその場から逃れようと必死で馬の首にしがみついている。「徳川家康殿、馬を返されよ。見参」 地鳴りと馬蹄の音で家康が振り向いた。後方から赤備えの一団が黒雲の如く追撃し、大兵の武者が大身槍を旋回させ、大音声を挙げて迫って来る。「奴が武田家の猛将、山県三郎兵衛昌景じゃな」 家康は瞬時に察したが、恐怖が先に身内を駆け抜けた。 家康の周囲を十数騎の警護の旗本が駆けていたが、その声に引き寄せられ、数名が馬首を返し猛然と穂先を合わせたが、瞬時に血煙と苦悶の声を漏らし、突き伏せられ、路上に転がり落ちた。 まるで赤子の手を捻るような手並みを見せられた。「馬を返されよ」 山県昌景が、羅刹のような野太い声を挙げ、家康の許へと接近して来る。「殿っ、早くお城にお戻り下され」 幸運にも前方から出迎えの騎馬武者が現れ、怒涛の勢いで赤備えの一団に、衝き掛かったが、手もなく馬上から突き落とされた。 家康は馬の平首に顔を伏せ、懸命に逃げ惑った。 漸く彼の目前に浜松城の大手門が見えてきた。「助かった」 心中で叫び声をあげ、必死の思いで城門に駆けこんだ。「殿っ、ご無事にございましたか?」 守備兵が群って出迎えた。「無念じゃ」 家康は馬から転がり落ち、大きく息を吐いた。「殿っ-」 騎馬武者が一騎、血槍を抱え駆け戻ってきた。見ると大久保忠世の弟の大久保忠佐である、彼も全身血塗れで蘇芳色に染まっている。 大久保忠佐は豪胆にも、武田の赤備えに交って城まで戻って来たのだ。「篝火を増やせ。城門は閉じるな」 家康はあとから逃げ帰る家臣を思い、慌しく命じ奥に引き上げた。 こうして居城に戻り、人心地がついた。同時に彼本来の姿に戻った。 続々と敗残の将兵が逃げ戻ってくる、その中に酒井忠次が加わっていた。「武田の赤備えが襲ってこようが、決して城に入れてはならぬ、大太鼓を打ち鳴らすのじゃ。その方等は城門の翳に身を潜めておれ」 酒井忠次が下知し、大久保忠佐と左右の闇に身を隠した。 浜松城の大手門は、大きく開けはなたれ篝火が夜空を焦がしている。 怒涛の勢いで浜松城に迫った山県昌景が、手綱を引き絞って騎馬を止めた。 彼の眼前に赤々と燃えた篝火に照らされた城門が見えるが、一兵の守備兵も見当たらない。ただ、大太鼓の音が規則正しく不気味に響いてくるだけである。 流石に猛者で鳴らした赤備えも急迫のために、武者の集まりが間に合わない。(迂闊には城内に突入はできぬ、敵になにか策がありそうじや) 数々の合戦を経験した、歴戦の山県三郎兵衛が剽悍の眼差しで城内の異様な、雰囲気に気付いている。「ここでの無理押しは成らぬ」 山県昌景は無念の思い抱き軍勢を引いた。 これが歌舞伎で有名となる、「酒井の太鼓」であるが、武田勢が軍勢を返し、家康の首級を取らなかった事が謎である。 これには信玄にとり、のっびきならぬ要因があったのだ。 信玄は城攻めに時を掛ける事に、疑問を持っていたのだ。 それは彼の体調の所為である。 こうして家康は辛うじて助かり、湯漬けをかき込んで大鼾をかいて不貞寝を決め込んだ。 こうなったら為るようにしか為らぬ。その間に続々と敗残の将兵が引きあげ、全員を収容して城門が閉じられた。 こうして三方ケ原合戦は終息した。徳川勢戦死千三百余名、一方の武田勢は三百余名の損害を出したが、一方的な武田方の大勝利であった。 勝利を確信した信玄は、三方ケ原台地で陣形を整え宿営を命じた。 浜名湖より吹きつける寒風が、容赦なく武田の宿営地を襲い、幔幕が風に煽られている。 信玄は篝火を増やし、躯を暖めながら思案している。 このまま浜松城を包囲し落城に追い込むか、軍勢を西に向け三河の野田城を落し、岡崎城に攻め寄せるか。 野田城は三河湾に注ぐ豊川の近くにある要衝で北には長篠城が控えている。 その野田城を落せば、尾張と三河の国境近くの岡崎城は簡単に落とせる。 それは織田領と三河領の国境を確保し、家康を遠江に孤立させる策であった。 信玄の額に冷たい汗が滲んできた、顕かに体調に変化が起きているのだ。 呼吸をする度にぜいぜいと異様な音がする。「敵襲じゃ」 突然、先陣から将兵のどよめきが起こった。「何事か?」 「敵の夜襲かと思われます」 旗本の今井信昌が、落ち着いた口調で答えた。 馬場美濃守と高坂弾正の両将が、草摺りの音を響かせ本陣に現れた。「御屋形、徳川勢もなかなか遣りますな」 「夜襲と聞いた」「左様ですが、既に追い散らし申した」 馬場美濃守が騒ぎの報告を述べた。「誰じゃ、夜襲の大将は?」 「大久保党の当主、大久保忠世との知らせにございます」 かわって高坂弾正が答えた。 「家康め、若いに侮れぬな」「報せでは家康は逃げ戻り、湯漬けを喰らい大鼾で寝込んでおるそうです」 馬場美濃守の言葉に、瞬間、信玄が暗い眼差しをした。 信玄は我が子、四朗勝頼と家康を脳裡で比較したのだ。 家康は二十九歳、勝頼は二十六歳の筈である。 同年代の武将であるが、武将としての器量は家康が数段に勝っている。 それが虚しく思えたのだ。 籠城もせずに果敢に出戦した覚悟も見事であり、敗北した夜に夜襲を掛けるとは到底、勝頼には真似が出来まい。 そう思うと自身の病魔が忌々しいのだ。 だが夜襲の件は、大久保忠世が独断で実施した事であった。(合戦に敗れ、おめおめと手をこまねいては居れぬ) 三河武士の誇りを見せてやる、これが大久保忠世を駆り立てたのだ。 武田勢も家康もそれを知らずにいたのだ。「御屋形、お顔の色が優れませぬな」 馬場美濃守が不安そうに訊ねた。「両人、済まぬが甲冑を脱がしてはくれぬか。些か疲れた」 二人が甲冑を脱がせ、寝衣装に着替えさせ眼を見つめあった。 逞しい信玄の体躯から肉が削げ落ちている、信玄を臥所に寝かせ足音を忍ばせ本陣を去った。 「馬場殿、御屋形はご病気かも知れませぬな」「高坂、今宵のことは二人だけの秘密じゃ」 信玄股肱の宿老は不安を胸に秘め、引きあげた。 翌日、信玄は軍団の引き上げを命じた。 武田軍団は三方ケ原台地を西に向かい、刑部(おさかべ)の地に宿営した。 ここで天正元年の正月を迎え、一月十九日まで滞陣を続けるのであった。
May 14, 2015
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「信玄の戦略」(111章) (三方ケ原の合戦 3)にほんブログ村にほんブログ村 家康が掌に汗を滲ませ武田勢の動静を注視している。 馬蹄の音を響かせ物見の武者が駆け寄ってきた。「申しあげます。敵はこの台地の北端に陣を構え押し寄せて参ります」 絶叫するような声で武田勢の動きを報告した。「祝田を背に陣を構えたと申すか?」 かの地の背後には深い崖がある。追い詰め逆落とすれば勝機はある。 そこは犀ケ崖という地名で、家康の脳裡に一瞬勝利の望みが湧いた。「各陣営に伝えよ。これより合戦に入る、鉄砲隊の射撃を合図に鶴翼の陣で武田勢を押し詰めるのじゃ」「鶴翼の陣形にございますか?」 物見の武者が不審顔で訊ねた。 鶴翼の陣とは大軍のみが取りえる陣形である。 徳川勢の兵力は武田の三分の一に満たないのだ。 小勢の軍勢が鶴翼の陣形で合戦に及ぶなどは聞いた例がなかったのだ。「二度と云わせるな、鶴翼の陣形で臨むと各将に念を押すのじゃ」 家康が口汚く再度、念を押した。「畏まりました」 物見の武者が後方の味方の陣を目差して駆け去った。 家康にとり、この合戦は賭けであった。絹糸のように細い軍勢で以って三倍の武田勢を包囲し、三方ケ原台地の後方に押し詰める。 当然、武田勢は魚鱗の陣形で対応する筈である。 まさに家康にとり、これ以上、心細い合戦を行うなど考えもしなかった。 だが家康に残った戦術は、どう考えてもこの戦術しかないのだ。 信玄は根洗いの松の本陣の前の、大木の翳に寒風を避けていた。 彼は諏訪法性の甲冑と緋の法衣姿で、寒さよけに熊の羽織りを纏って床几に腰を据えている。 地鳴りような歓声と鬨の声が湧き揚がった、両軍の先鋒隊が接近したのだ。 徳川勢の将達は家康の下知で絹糸のように軍勢を薄く配置し、鶴翼の陣形で臨んでいた。小勢ゆえ、その戦術は悲壮極まる光景であった。 一箇所でも陣形が破られるなら、この合戦の帰趨は完全な敗北である。「敵勢に包囲網を破られては成らぬぞ」 徳川勢の将達は配下に厳命していたが、彼等にもどこまで通用するのか分からぬ状況であった。 徳川勢、一千三百名の将兵を率いた石川数正と、三千名を擁する武田の先鋒、小山田信茂の軍勢との激闘の幕があけた。「鉄砲隊、前進せよ」 石川数正が塁代の甲冑に纏い、鞍上から塩辛声で下知を発した。 それを合図に石川勢の鉄砲足軽が火縄銃を構え膝を地面につけた。 対する小山田信茂の采配が降られ、二~三百名の軍兵が姿を現した。 全員が胴丸のみを着け、腰に小刀と小袋をぶら下げた異様な一団である。「なんじゃ」 石川勢の鉄砲隊が不審声を発した。 その一団が俊敏に散開し、猛烈な勢いで石川勢の鉄砲隊に迫ってきた。 彼等こそが郷人原衆と呼ばれる、投石隊の礫の名人達であった。 投石隊の接近で石川勢の鉄砲の火蓋がきられた。「ごうー」 白煙と銃声の轟く中、郷人原衆は一斉に地面に躰を伏せた。 銃弾が彼等の頭上を通過するや、一斉に立ち上がり手の礫を投石した。「あっ」「痛い」 石川勢の鉄砲足軽が礫を顔面や肩に受け、悲鳴をあげて苦悶している。 致命傷には成らぬが、その威力は侮れない。 郷人原衆は小袋の石を投げ終り、一斉に後方に身を潜めた。「掛かれや」 小山田信茂が見逃さず、攻撃の命を発し、自ら先頭で石川勢に攻め寄った。 二倍以上の兵力をもつ、小山田勢が押し気味に戦闘を続けている。 長柄槍隊が突撃し、血刀を振り回す軍兵と軍馬が狂奔する。 味方の不利を悟った右翼の酒井忠次と、左翼の本多平八郎と織田の三将の勢が、小山田勢を押し囲むように猛烈な攻撃をはじめた。 芋を洗うような混戦の中、小山田信茂勢のみで徳川勢と渡り合っている。 他勢は、その合戦の様子を静まり返って見つめている。 小山田勢は徐々ではあるが、巧妙に軍勢を後方に引下げている。「敵は怯(ひる)んだ、押し返せ」 本多平八郎が愛用の槍を抱え、本多勢が猪突猛進した。 信玄の本陣から、法螺貝が勁烈な音を響かせた。 同時に静観していた馬場美濃守と高坂弾正の勢が、左右から徳川勢を押し包むように合戦に参加した。 流石に武田家の誇る歴戦の両将だけはある。 一気に徳川勢を翻弄し、将兵が剽悍な勢いで本多勢を蹴散らしている。「怯むな」 家康も自ら合戦に参加し、後詰の大久保、内藤、鳥居、榊原勢が三河勢の意地をみせ馬場、高坂勢めがけ雄叫びをあげ殺到した。 徳川、織田の連合軍は全てが合戦に参加したのだ。 まさに阿鼻叫喚の呈をようし、両軍の将兵が死力をつくして戦っている。 一旦、引いた小山田勢が息を吹き返し、再び攻めに転じた。 徳川勢も果敢に信玄の本陣を目指しているが、三倍の大軍の壁に遮られ苦戦に陥った。押しても引いても、まるで硬い壁のように跳ね返される。 武田の三将は互いに連携を取り、大きく戦線を広げ徳川勢を包囲しはじめた。 徳川勢は全軍が戦線に投入され、控えの兵力はないが、武田勢の半数以上は控えに廻り、合戦の帰趨を見つめ動こうとはしない。 本陣の信玄は百足衆の報告で全てを掌握している。「鉄砲を放て」 傍らに控えていた鉄砲足軽の火縄銃が轟音を響かせた。 馬場勢と高坂勢が一斉に軍を引き、小山田勢も戦線から離脱を図っている。 徳川勢が不審に感じた時、天地が蠢動した。地面が揺れ動く馬蹄の音である。 満を持していた武田勝頼と、甘利昌忠の率いる騎馬武者が、雄叫びをあげ、左右から突風のような突撃を敢行した。 それは最早、合戦ではなく殺戮場であった。血が飛沫、兵が転がり、軍馬が斃れ、至る所から苦痛と悲鳴、嘶きが起こっている。 そんな中、武田騎馬隊が縦横に駆けまわり、徳川勢を突き崩し追い廻している。 家康は先陣で愛用の槍を捨て太刀で阿修羅のように奮戦していた。 「殿っ、お引き下され」 榊原康正と大久保忠世が駆けより、無理やり家康を鞍上に乗せた。「まだ負けてはおらぬ」 家康が血塗れた太刀を振り廻し、猛禽のような眼で戦場を見廻している。 周囲は最早、絶望的な情況となっていた。 鶴翼の陣形はずたずた寸断されている。「本多殿と石川殿等が兵を収容しております。一時も早く城にご帰還下され」 榊原康正が襲い来る騎馬武者を大身槍で突き伏、叫んだ。 「ご免」 何か言わんとした家康を無視し、大久保忠世が槍の柄で馬の尻を叩いた。 馬が狂奔し戦場から駆けだした。「織田の将、平手汎秀(ひろひで)討ち取ったり」 戦場から勝ち名乗りがあがっている。 この一戦で徳川、織田の連合軍は完膚なく破れさった。「わっー」 突然、戦場の一角から喚声が沸き、武田の誇る最強の軍勢赤備えが、家康の逃げ去った方向に向かい疾走をはじめた。 先頭は山県三郎兵衛が、自慢の朱柄の大身槍を小脇としている。 三方ケ原合戦は一刻(二時間)ほどで終った。厚雲の間から真っ赤な夕陽が戦場を照らし出し、折れた槍や旗指物が散乱し、将兵の死骸や死にきれない負傷者や、大刀や槍で傷ついた軍馬が無残な姿を晒している。 家康は馬上で生まれてはじめて恐怖を知った。 あたりは逃げ惑う兵が充満している。 突然、兵等が恐怖の声をあげ街道から逃げ散った。 馬蹄の音か迫ってくる、後方をふり向いた家康は声を飲み込んだ。 武田家最強の赤備えの一隊が、追いすがってくる様が眼に入った。 家康は不覚にも、鞍壺に脱糞した事も気付かなかったと言う。
May 9, 2015
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「信玄の戦略」(110章) (三方ケ原の合戦 2)にほんブログ村にほんブログ村 この三方ヶ原は浜松城の北西に広がる東西二里半、南北約四里の平原である。 そこは農民達の入会地として使われている原野であった。 そうした地形の為に大軍を展開するには絶好の場所であった。 その頃、徳川勢一万余は浜松城を出陣し、武田勢の追撃に移っていた。 家康は浜松城を無視され、武将の誇りを傷つけられ信玄の策略に思いをよせる、心の余裕を失っていた。 徳川勢出陣する。その報告が信玄の許に届いていた。 「矢張り家康、出て参ったか」 信玄の頬に血色がもどってきた、戦国武将としての血潮が滾るのだ。 信玄は蕭然(しょうぜん)とした物寂しい冬の原野を進み、祝田の坂の手前、根洗(ねあらい)の松と云われる場所で軍勢を止め、魚鱗の陣形で徳川勢を待ちうけた。武田勢は松林に囲まれ、寒風を遮る場所に本陣を定めた。 本陣の横には苔むした石地蔵が祀られている。「風で躰が冷える、幔幕を巡らせ」 信玄は自分の体調をおもんばかっている。 床几に腰を据え前方に展開する、我が兵の動きを魁偉な眼を和ませ見つめた。 将兵の声、軍馬の嘶き、馬蹄の音が心地よく聞こえてくる。 猛然と軍勢の前後を駆け抜ける伝令の騎馬武者、穂先を天に向け配置に就く長柄槍隊の偉容、火縄銃を肩にした足軽、それら皆が頼もしく見通せる。 あの場所で徳川勢を蹴散らしてやる。その思いを秘め眺めている。 百足衆の一人、諏訪頼豊が馬蹄の音を響かせ駆けつけて来た。「敵勢は小豆餅付近に押し出して参りました」 騎馬が興奮し足掻いている。 「うむ」 信玄が大きく肯いた。傍らには馬場美濃守と高坂弾正の両将が控え、周囲には旗本の今井信昌、真田昌輝等が厳重に守りを固めている。「美濃、敵の陣形はどのようじゃ」「物見の報告では右翼は酒井忠次、中央は石川数正、左翼は本多平八郎と援軍の織田三将との事にございます」 馬場美濃守が臆する事もなく野太い声で報告した。「いずれも音に聞こえた豪の者じゃ、家康はどうじゃ?」「家康の本陣は中央に置いておる模様にございます。更に大久保忠世、内藤信成、鳥居元忠(もとただ)、榊原康正(やすまさ)等が控えておる模様にございます」「御屋形、敵は全軍で出撃したと思われますな」 高坂弾正が物柔らかな口調で信玄に声を懸けた。「一万の小勢じゃが、油断は禁物じゃ」「心得ておりまする」 馬場美濃守が簡潔に応じた。 家康は三方ケ原の入口で十町の距離をたもち、武田勢の動きを見つめている。「わしの下知まで待つのじゃ」 飽くまでも家康は慎重であった。 彼の目前には三万余の武田軍団が、ひっそりと山の如く横たわり、旗指物が無数に翻っている。その中に獲物を狙う猛虎が牙を剥いてひそんでいるのだ。 それが判るだけに攻撃の糸口を見え出せないでいる。「よう粘るわ」 信玄が感心の声を洩らした、たかだか三十一歳の若輩の家康がである。「既に攻撃態勢は整え申した、一斉に押し出しまするか?」 戦機を感じとっ歴戦の馬場美濃守が訊ねた。 突然に猛烈な寒風が三方ケ原台地を吹き抜け、薄暗い空に浮いた雲が流れ、真っ赤な夕日が両軍の陣を照らしだした。「陣形を変える。先鋒は小山田信茂の三千、右翼は美濃、そちが受け持て」「左翼はいかが計らいまする」 「高坂弾正、そちの勢に任せる」 風が唸り声をあげて吹き抜け、残照が雲間に消えようとしている。「更に中陣は勝頼と甘利昌忠の騎馬武者といたす、余の合図で進退いたせ」「これは、面白い合戦となりまするな」 高坂弾正が嬉しそうな笑いをあげた。「暫くは小山田勢に合戦を任せる、頃合をみて余の合図で右翼、左翼同時に仕掛けよ」 信玄が厳しい声で命じた。 「拙者と高坂がかき回し、その後に武田騎馬武者が片を付けまするか?」「その前に小山田信茂に郷人原衆を使えと伝えよ」「面白うございまするな」 馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせている。 信玄の言う郷人原衆とは、二百から三百名の投石隊のことである。 この頃の火縄銃の射程距離、殺傷距離は明確な資料が乏しく説明が困難である。また実戦での弾込めの煩雑は著しく火縄銃の評価を低下させ、当時の大名は火縄銃の使用に消極的であった。 因みに2005年頃に行われた実験では、口径9mm、火薬量3グラムの火縄銃は距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み背面に亀裂を生じしめ、また厚さ1mmの鉄板を貫通した。鉄板を2枚重ねにして2mmにしたものについては貫通こそしなかったものの内部に鉄板がめくれ返っており、足軽の胴丸に命中した時には、深刻な被害を与えるのではないかと推測されている。なお、距離30mではいずれの標的も貫通している。 こうした理由で信玄も火縄銃を重要視せず、投石隊を編成していたのだ。 信玄が厳かな声で下知した。「両人とも部署につけ」 「畏まりました」 両将が草摺りの音を響かせ本陣から去った。法螺貝が炯々と鳴り響いた。「百足衆」 「はっ」 信玄の声で諏訪頼豊が姿を現した。 「軍勢をゆるやかに北西に移す、小山田勢に後備えを命ずる。祝田の北端まで移動したら、攻撃態勢を整える。さよう各陣に伝えよ」 百足衆が、本陣から猛烈な勢いで四方に散っていった。「誰ぞある」 信玄の声に旗本の真田昌輝が本陣に顔をみせた。「昌輝か、ご苦労じゃが山県三郎兵衛を呼んで参れ」 そうしている間にも、武田軍団はじりじりと陣を移動させている。「山県昌景にございます」 赤具足の甲冑姿の山県三郎兵衛が精悍な顔を現した。「そちに特別な任務を与える。すぐに合戦が始まろう、二陣の騎馬武者の攻撃が終ったら、そちの出番じゃ、家康の首を刎ねるのじゃ」「はっ。武者とし一期の誉にございまする」 山県三郎兵衛が畏まっている。「首は冗談じゃが、家康を執拗に追い回せ、浜松城に逃げ帰るまでじゃ」「機会がござれば、徳川殿の首級頂戴いたしても構えませぬか?」「それは最善の戦果じゃが、なかなか難しいじゃろう。余り深追いはするな」「畏まりました」 三方ケ原台地に風が強まってきた、空も薄雲から厚雲に変化している。 そろそろ夕刻が迫っている、徳川勢は移動する武田軍団を追いつつ戦闘態勢を整えている。陽が落ちれば戦力の差など問題ではない。 思わず家康が兜の眼庇より空を仰ぎ見た、急速に空が鈍色に変化してきた。 家康が待っていた夜の訪れである。 三方ケ原台地に夜の帳が訪れ、家康が前方を見て身震いした。 何時の間にか武田の大軍団が小山のように、家康の目前に接近していた。
May 5, 2015
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