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「信玄の戦略」(109章)にほんブログ村にほんブログ村 (三方ケ原の合戦) 元亀三年十二月二十二日の卯の刻(午前八時)、遂に信玄は全軍に進撃の命令を発した。ここに浜松城攻めが始まったのだ。 武田軍団三万余が山が崩れるように動きだし、南下を開始した。 信玄は甲冑の上に熊の羽織りをまとい塗輿に乗っての出陣であった。 法螺貝が秋葉街道の夜明けの山並みに炯々と響き渡り、武田二流の御旗が風に靡き、騎馬武者を先頭に大軍が粛々と進撃して行く。 鉄砲足軽が武田菱の旌旗を差し、黙々と鋭気を秘め足並みを揃えている。 武田勢の先鋒隊として小山田信茂率いる三千名が威風堂々と行軍し、盛んに母衣武者が、背の袋を風に膨らませ物見のために山間に消えて行く。 東の山並みが旭日で真っ赤に染まってきた。 信玄は輿の窓を開けた。 気の引き締まる冷気を躰に受け、信玄が朝焼けの光景に見入いった。 先鋒隊が天竜川を渡河し、街道を南下しているさまが望見できる。 信玄は暫くその様子を眺め、満足の笑みを浮かべた。 武田軍団動くの急報が、浜松城の家康にもたらされた。「とうとう、動きおったか」 家康が天守閣から北東の山間部を眺めやった。 物見が次々と騎馬を駆って武田勢の動きを知らせてくる、家康は小太りの躰を城門に移し、逐一、報告を受けている。 こうしたところが家康の性格であった。 身が強張るほどの恐怖と闘争心が家康の躰を駆け巡っている。「申しあげます、武田の先鋒は西ケ崎の村を通過いたしました」「なにっ、すでにそこまで押し寄せよったか?」 本多平八郎が唐の頭の兜と自慢の黒糸嚇し甲冑姿で真偽を糺した。 西ケ崎から浜松城までは二里の行程である。「矢張り浜松城に攻め寄せる魂胆ですか?・・・・殿、いかが為されます」 本多平八郎が兜を跳ね上げ、家康を仰ぎ見た。「為されます・・・・平八郎、なにを狼狽えておるのじゃ」「狼狽えてはおりませぬ」 本多平八郎が家康に食ってかかった。「喚いておる暇があったら、手勢を率いて物見をいたせ」 家康の口汚い言葉に、かっとなった平八郎が手勢を連れて駆け出した。 このまま武田勢に討ちかかり討死してやる。と、猪突猛進し敵勢に近づき、その武田軍団の偉容に眼を剥いた。 重厚な陣形の武田軍団が遠方から寄せてくる。衝きかかれば一瞬にして反撃を食らう、すきのない陣形で山のようにひた押しに寄せて来る。「これでは犬死にじゃ」 彼は猟犬のように、物陰から翳へと忍び武田勢の動きを見張っている。「なんじゃ、あの動きは」 浜松城の北方一里あまりの、有玉付近で武田勢が方向転換を始めたのだ。 通常の戦術なら軍勢を叱咤し、南西の浜松城へと怒涛の進撃をするのに、武田勢は西へと方向を変えたのだ。(三方ケ原台地に向かう積りじゃな)と、一目で悟った。「使い番、敵勢は有玉から三方ケ原に向かうとみた、殿にそのように伝えよ」 その知らせを受け、徳川の武将達が呆然と成った。 彼等にも武田軍団の異様な陣形が望見できるのだ、戦慄するような光景である。 数千頭もの騎馬武者が、整然とした隊形で彼等の目前を横切って行く。 足軽の長柄槍隊の穂先が、折から昇った太陽の光をうけて鈍く輝き引きも切らずに続いている。 まさに壮観な眺めである。 続いて武田随一の戦闘力を誇る最強の赤備えの騎馬武者が密集し現われた。「あれが、山県三郎兵衛昌景の赤備えか」 どこから眺めてもすきがない、先頭の駿馬に大兵の武将が大身槍を抱えている。 その武将が武田の猛将、山県昌景である。「伝令をだし、本多平八郎に城に戻るように申せ」 家康の下知がとんだ。「はっ」 母衣武者が猛然と城門から駆け去った。 「殿、出戦は無理にござる」「徳川殿、籠城のお下知を願いたい」 織田家の援軍の三将も必死で籠城を勧める。「信玄入道め、わしを挑発しておる。誘い出して殲滅したいのじゃ」 家康は信玄の挑発は理解出来る。併し、浜松城の西を悠々と横腹を見せ、通過する信玄の戦略に、武将としての誇りを傷つけられていた。 一方、信玄は病を持つ身での籠城戦は避けたかった。 両者が智嚢を絞って駆引きをしているのだ。 本多勢が砂埃をあで帰還してきた。 「殿、我等には手が出ませぬ」 勇猛で聞こえる本多平八郎までが弱音を吐いている。「ひとまず籠城じゃ」 家康は籠城を覚悟し城門を閉じるよう下知した。 なおも、武田軍団は続々と浜松城の徳川勢に横腹を見せつけ行軍している。「おうー」 突然、武田軍団から挑発するかのような鬨の声があがった。 浜松城の大広間で家康が歯噛みをしている。 漸く三河と遠江を手に入れたが、このまま手をださず武田勢に勝手な振る舞いをさせるなら、わしの信用はなくなる。 家康は眼を据え、胸裡で考え続けている。 三河武士の意地をみせる、これなくては徳川家の威信は地に落ちよう。 この地の豪族の信を得る事が出来ずば、徳川家はこのまま滅亡するのみじゃ。 家康の身内に狂気が充ち、立ち上がるや凄まじい声を張り挙げた。「石川数正っ、わしは信玄入道と決戦に及ぶぞ」 「何を仰せになられます」 真っ先に織田家の三将が止めに入った。「ここは、われらが領土。合戦が出来ぬと申されるならばお帰りあれ」 初めて家康の顔が乾いて見える。「・・・・」 その家康の剣幕の烈しさに、三将は沈黙した。「良いか皆共、わしは叶わぬまでも出戦いたし、信玄入道の本陣に斬り込む、皆も覚悟を固めよ」 家康の狂気がこの場の武将連にも乗り移った。「おうー」 雄叫びが大広間に響き渡った。 まんまと家康は信玄の挑発に乗ってしまったのだ、たとえ自分への誘いと分かっていても、黙って西に向う武田勢を見過ごす事が出来なかったのだ。 武田軍団は浜松城を南にみて北西の、祝田(ほうだ)の地に向かって方向を変えた。祝田は浜名湖の最北端にちかい位置にあり、その南東から上り坂が続き三方ケ原台地に至るのだ。
Apr 27, 2015
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「信玄の戦略」(108章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄の戦略と家康の戦術) 十二月十九日、守将の中根正照は城兵の命と引きかえに武田勢に下った。 こうして堅城で鳴らした二俣城は落城したのだ。 中根正照は武田家に人質を送り、家康の居城、浜松城に引き上げて行った。 その一行の様子を小十郎が、そっと物陰から窺っていた。 部隊の将兵の交じり、撤退する川田弥五郎の姿を見つけたのだ。 弥五郎は鹿毛の駿馬に騎乗し、昂然とした態度で鞍上で揺られている。(あのお方は如何される、まだ武田の間者で働かれるのか?) そんな思いで小十郎は、川田弥五郎を見つめていた。 中根勢は寒風の吹きすさぶ山道を、重い足を引きずって去って行った。 信玄は依田下野守に五百名の手勢を与え、城の修復と守将を命じた。 信玄は久しぶりに合代島の本陣を引き払い、二俣城を本営とした。 彼の心身も限界にちかい疲労が蓄積していたのだ。 その晩は誰も近づけず、一人で酒を嗜み安眠した。 翌日、急報がもたらされた。 織田信長の救援部隊が浜松城に入城した、その報せであった。 城内の大広間には信玄をはじめとし、上洛軍の武将が全て集まっている。 信玄の体躯に鋭気が満ち溢れている、屋根のある部屋で安眠した所為だ。 「増援部隊の将と人数はどうじゃ?」 信玄になりかわって勝頼が訊ねた。「佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀(ひろひで)の三将と三千名にございます」 報告の者が下座から織田勢の加勢の状況を述べた。「美濃を侵され、信長、臆したな」 信玄には信長の心境が手にとるように判る。 信長め、奴は四面楚歌の状況じゃな、たかだか三千の援軍で何が出来る。 せいぜい籠城いたし、合戦を長びかせる積りじゃ。「これで浜松城には、一万一千名が籠もる事になりましたな」 高坂弾正が不敵な面魂をみせ、信玄に語りかけた。「これが籠城ともなると些か面倒じゃ」 馬場美濃守が顔を曇らせた。 美濃守の言う通り、家康が籠城戦を挑むと落城まで数か月かかる。 信玄が広げた大地図を仔細に見つめ、巨眼を鋭く瞬かせた。「三河、遠江の徳川の支城はほとんど潰した。浜松城は孤城じゃ」 信玄が絵図から顔をあげ、野太い声を馬場美濃守に懸けた。「はい、健在な城は遠江では高天神城、三河では岡崎城と野田城のみ」 馬場美濃守が素早く答えた。 「浜松城の抑えには、六千も配置いたせば家康動けぬな」 信玄が馬場美濃守を見つめ含みのある事を述べた。「御屋形は、浜松城を攻めずに素通りいたすと申されますか?」 流石は歴戦の将、馬場美濃守である。信玄の言葉の裏を読み取った。 「美濃、余の戦略は三策ある。ひとつは浜松城を素通りいたし野田城を攻める。いまひとつは秋葉街道を北上し東美濃から一気に岐阜を衝く」「それは、・・・」 馬場美濃守が唸った、満座の武将達も唖然としている。 野田城は豊川の上流の西にある城で南下すれば三河湾に至る。 そこを我が勢が占拠すれば三河と遠江を分断出来る。 そうなれば家康は遠江の浜松城で孤立してしまう。 もう一策は直接、家康など気にせずに信長の本拠地の岐阜を攻めると御屋形は云うのだ。 信長が援軍を三千しか出せぬと言う事には訳がある。彼は近畿の信長包囲網で身動きが不可能と成っているのだ。 これはこの場の武将達にも理解は出来る。 三河、遠江を放って信長の居城、岐阜城を直接攻撃すれば天下は望めるが、あまりにも無謀過ぎる戦略である。 それを遣れば物資の補給が途絶える恐れがある。「して、最後の策は」 信玄が薄い笑いを浮かべ、質問を発した勝頼を見つめた。 「家康次第じゃ。奴め若いに似ず強情、討って出るやも知れぬ。それなれば上策じゃがな」 「討って出まするか?」「勝頼、武将は信用が一番。弓取りとして諸国の武将に笑われては失格じゃ」 一言、父親として勝頼に薫陶を与えている。「叶わぬまでも家康は我等と合戦に及ぶと、御屋形はお考えに御座いますか」「余が家康ならばそういたす」 信玄が強い口調で言い切った。 勝頼はじめ諸将連も、信玄の洞察力に勝る者は居ない。全ての者達が信玄の答えを待っている。「今宵はこれまでじゃ」 信玄の顔に疲労の色が濃く滲んでいた。 馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせた。二人は信玄の顔色の悪さで何事か察したようだ。 武田軍団は二俣城から、動く気配もみせず山のように不気味に居座っている。 一方、浜松城では織田家の三将を交えた軍議が開かれていた。「徳川殿、信長公のお考えをお伝えいたす」 援軍の佐久間信盛が、信長の考えを告げた。「このまま籠城をお願え申す」 これが信長の伝言であった。 信長の真意は徳川勢が、浜松城に籠城する事にあった。遠江を席巻した武田軍団は、三河に進攻するか本国にもどるかだろう。戻るなら戻らせる。 万一、武田勢が三河領内に進攻するとなると浜松城の籠城が生きてくる。 今、信長は必死で態勢を建て直している、これが完了した暁には総力をあげて三河に討って出る。そうなれば浜松城と連携し武田勢を挟撃できる。 そうした事態となれば武田軍団に勝利する可能性の目がでる。 それは家康とて十分に判っている事であった。 だが、徳川の領土を信玄の思うままに蹂躙され、三河の諸城は戦わず降伏するなどは、なんとしても避けたい。 武将の意地をみせ、家康の存在を示さずば男がすたる。 家康は信長の要請と自分の意地との狭間で、迷いに迷っていた。 今朝の物見の知らせでは、武田軍団は二俣城から動く気配がないという。 家康の決意が固まった。「存念を申す。武田勢が浜松城に攻め寄せよせるなら、三河武士の誇りかけて決戦をいたす」 家康が甲高い声で叫び、一座に異様な空気が流れた。「徳川殿、それは出戦という意味にござるか?」 滝川一益が鋭く訊ねた。「左様、叶わぬまでも武田勢に打撃を与え、素早く籠城いたす」 織田の三将は籠城策を聞き、家康の戦術に乗ることに決した。
Apr 22, 2015
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「信玄の戦略」(107章)にほんブログ村にほんブログ村 (弥五郎の伝言) 翌日、城攻めがはじまった。武田の鉄砲足軽が物陰を利して接近した。 城内の将兵も気づき、武者走りで鉄砲の標準をあわせている。 山県勢の赤備えが銃弾の届かない地点に待機している。 山県三郎兵衛が采配を手にし、大手門を鋭く見つめている。 傍らに小十郎の貧相な姿があった。 「小十郎とやら、川田弥五郎から連絡があったら直ぐに兵を退く」「畏まりました。顔さい覚えれば結構にございます」 相変わらず、抑揚のない声で応じ、「山県さまは川田さまをご存じにございますか?」 小十郎が低く訊ねた。「逢うてみなければ分からぬ」「それは面倒にございますな」 そう小十郎も答え、内心は三郎兵衛門さまと同じじゃ、と思った。(今川家に居った時の川田さまの顔はすっかりと忘れてしもうたわ)「大殿を駿河に追放した時に顔を見た。まだ年端もゆかぬ少年であった」 山県三郎兵衛の脳裡に、川田弥五郎の幼い顔が浮かんだ。 あれは天文十年であった、既に三十年も経ているのだ。「生きておれば、何か動きがあろう」 小十郎の相手をしながら、三郎兵衛が前方の武者走りを鋭く見つめている。 寒気と共に風向きに変化が生じ始めた。 山県三郎兵衛の采配が振られ、待機していた鉄砲足軽が前進を開始した。 物頭が素早い動きで先導し、その後を足軽が追走している。「放てー」 山県三郎兵衛が大音声で叫んだ。 凄まじい銃声が、二俣城を囲む山々に響き渡り白煙が湧き上がった。 それに呼応するかのように二俣城内からも応戦の火蓋がきられた。 双方とも射撃戦となり、大手門前は硝煙が充満し視界が遮られている。 今が好機じゃ、そう山県三郎兵衛は瞬時に感じた。「者共、攻め寄せよ」 山県三郎兵衛が潮時と見て、大身槍を手に白煙の中に向って馬腹を蹴った。 喚声と軍馬の嘶きと馬蹄の音が入り混じり、あっという間に大手門に接近した。 流石は剽悍で聞こえる赤備えの山県勢である。 双方の銃撃が、益々、烈しさをましている。 山県三郎兵衛が、小十郎を従い大手門を横切った。 突然、彼の肩先を一本の矢が空気を切り裂き飛来し掠め去った。 山県三郎兵衛が手綱をしぼり兜の眼庇より、きっと矢の飛来した方角を見据えた。城内から渋い声が懸かった。「山県殿とお見うけいたした。仕留める事が出来なんだとは些か残念」 城門の上に一人の武者が現われた、その兜のなかの顔に笑みがある。「何者じゃ」 三郎兵衛が剽悍な眼差しをみせ吠え、小十郎がじっと武者を見つめている。 「徳川の軍監、川田弥五郎。この顔忘れるでない、今度会ったら命を頂く」 喊声の轟く中で武者が名乗りを挙げた。 紛れもなく川田弥五郎と名乗った。「小十郎、しかと見たか?」 「はっ、今宵、城内に忍び込みます」(矢張り面影は残っておる)と小十郎は確信した。 山県三郎兵衛が片手を大きく振って、引きあげの合図を送った。 赤備えが一斉に馬首を返した。 弥五郎に違いない、三郎兵衛は先刻の顔を懐かしく思い浮かべていた。 日没ともなると、二俣城は寒気に覆い尽くされる。谷底から風が吹きあがってくる所為である。暗闇をぬって小十郎の躯が、素早く城内に消え失せた。 周囲に人気がないことを確認し、彼は大手門に向って疾走した。 この寒気の夜に一人の武者が闇にまぎれて立ち尽くしていた。「川田さまに御座いますか?」 物陰に潜んだ小十郎が武者に声を潜めて訊ねた。 「信虎公の使いの者か?」 「小十郎に御座います」「わしは、そちを知らぬな」 そっけない返事が返ってきた。「お弓殿の配下に御座る」 「近くに寄れ」 慌しい会話を交え弥五郎の声が途絶え、小十郎が傍らに寄り添っていた。 「驚くほど身軽じゃな」 「忍び者に御座います」 小十郎の答えに弥五郎が不審げな顔をした。「川田さま、それがしをお忘れか?」「・・・どこぞで逢うたか?」「駿府城で何度かお会いいたしましたぞ」 小十郎の言葉に弥五郎は何の反応も見せず、短絡に訊ねた。「何が知りたい」 「城の井戸の数」 「水の手を断つか、笑止」 風が吹きぬけ、城内の各所には篝火が焚かれ、火の粉が舞っている。「我等の計略が可笑しゅうござるか?」 小十郎が怒気を含んだ忍び声で訊ねた。「この城に井戸なんぞあるものか、城の下は川じゃ。大櫓を組んでそこから毎日汲みあげる」 川田弥五郎が周囲を警戒し小声で告げた。「成程、その大櫓を壊せば城は干しあがりますか。その手立てを教えて下され」「その前に聞く、大殿の信虎公はお元気か?」 弥五郎の声に懐かしさが込められている。「八十才を越えらましたが、お元気で京に暮らして居られます」「そうか、京に居られるか。お会いしたいものじゃ」 川田弥五郎の声が湿って聞こえた。「川田さま、武田家にお戻りには為られませぬか?」「わしは信虎公の家来じゃ、今更、戻れぬ。良いか上流で大筏(おおいかだ)を組んで何艘も流すのじゃ。必ず大櫓に追突いたし壊れる筈じゃ」「有り難し、早速、明日から掛かりまする」 小十郎が嬉しそうに言った。「小十郎、信虎公にお会いしたら、漸く大殿のお下知が果たせたと伝えてくれえ」「畏まりました。して貴方さまは如何成されます?」「徳川家に留まる、そうすれば信玄公のお役にたとう」「承知、そのようにお伝い申し上げます」「小十郎、見つかると不味い、去れ。お弓さまに宜しく申してくれえ」「分かりました。お礼を申しあげます」 抑揚のない声と同時に、小十郎の姿が闇に溶け消えた。 それを確認し、川田弥五郎は甲冑の音を響かせ持ち場にもどって行った。 数日、何事もなく武田軍団は山の如く静まり、厳重な監視の将兵が風を避け屯している。 その様子を天守から眺めた、城主の中根正照は安堵の笑みを浮かべた。 流石の信玄も、この城には手を焼いておるなと感じたのだ。 そうした膠着状況の中で武田勢は、城の水の手を絶つ準備に追われていた。 城方の将兵が仰天する光景が、唐突に目前に起こったのだ。 何艘もの大筏が上流から押し寄せるように、天竜川の激流を流れ下ってくる。「敵の策略じゃ」 知らせを受けた守将の中根正照は望楼から眺め唇を噛んだ。 あの大筏が大櫓に激突すれば、大櫓は破壊され水の手が断たれる。 二俣城は大櫓から、釣瓶でもって飲料水を汲みあげていたのだ。 城を包囲する武田勢の将兵も、息を飲み手に汗を滲ませ見守っている。 白く泡立っ激流が岩にあたり、烈しく牙を剥く急流を大筏が流れるさまは、壮観、壮大な眺めである。 筏は激流にもまれ、岩に当たり砕けるものもあるが、何艘かは大櫓に激突し、大櫓がきしみ音を響かせ、今にも崩れそうである。 信玄は熊の羽織りを着込み帽子を深く被り、その光景を凝視している。 容赦なく天竜川の冷たい川風が吹きつのってくる。 これも父上の策と思うと自分の病魔に憤りを覚えていた。「わぁー」 大筏を見つめていた武田勢の将兵が歓声をあげた。遂に大櫓が崩れ水飛沫を挙げ天龍川に雪崩落ちたのだ。「これで二俣城は陥ちたな」 信玄は満足し本陣に戻った。 総大将の四朗勝頼と、援軍の山県三郎兵衛は一ヶ月以上も苦戦を強いられ、漸く水の手を絶つ事に成功したのだ。
Apr 16, 2015
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「信玄の戦略」(106章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢、二股城に集結す)「御屋形、このまま一気に浜松城を攻撃いたしますか?」 馬場美濃守が本陣に駆けつけ、信玄に性急に訊ねた。「我等は一言坂より天竜川を北上し、合代島(ごうだいじま)に軍勢を進める」 信玄が気負いなく応えた。 「この機会を逃し、また北に戻りますのか?」 馬場美濃守は不審そうな顔付で信玄を見つめた。 襲い来た徳川勢を一言坂で一蹴したのだ。そのまま目前の天竜川を渡河し、軍勢を西南に進めれば、家康の本拠、浜松城は目と鼻の距離にある。 徳川勢は逃げ戻り、襲い来る武田勢への備えで城に籠っている筈である。「家康は肝を冷やしておりましょう」 馬場美濃守が浜松城を攻めよと暗に勧めている。「機会は何度でもある。天竜川の東北へ全軍を進め合代島に向うのじゃ」 信玄が濃い髭面を厳しく引き締め下知した。「眼の前に浜松城がございますのじゃ。このまま見逃すのは惜しゆござる」 馬場美濃守が納得できずに浜松城の攻撃を主張した。「美濃、わしは勝頼の将器を確かめたいのじゃ」「その為に二股城に退き返しますのか?」「二俣城を陥せば甲斐からの軍勢も合戦に必要な物資の搬入にも困らぬ」 信玄の言葉で美濃守は納得した。武田の輜重隊は秋葉街道を南下し、青崩峠、兵越峠を利用し誰はばかる事もなく物資を遠州に運べるのだ。 更に御屋形は跡取りの四朗勝頼さまの器量が見たいのじゃ。 漸く馬場美濃守は合点した。「二股城を落せば三河の豪族は我等に恭順いたそう。浜松城はそのあとでよい」 信玄は武田の全軍でもって徳川家を滅ぼす腹であった。「戦略とは面白きものにございますな」 戦わずに三河一帯を手に入れる、戦略を改めて美濃守は感心の面持で聴いた。 武田本隊は浜松城を目前にし、全軍が横腹を見せ天龍川の東の街道を北上し、遠ざかって行く。何千頭の騎馬武者を先頭に、真ん中に武田二流の御旗が風に靡き、輿が担がれている。そこが信玄の本陣であると誇示している。 武田勢の行軍を見事な光景であった。先頭から後尾まで余す事もなく見せ、徳川勢と家康は呆然とした思いでそれを眺めていた。 武田勢は途中で遮る、徳川の支城、匂坂城を包囲し瞬く間に攻略し神僧を越え、二十日に合代島に着陣し、そこに信玄の本陣を構えた。 ここから北西、約一里半に二俣城がある。武田、徳川にとり二俣城は重要な城である。 家康は危険を犯し何度も救援の軍勢を繰り出すが、途中ですべて遮られる。 それでも一向に苦にせず、何度でも兵を繰り出してくる。 若いに似ず合戦を知っておる、信玄が感心するほど執拗であった。 二股城の将兵の士気も盛んで、攻城の総大将勝頼を大いに悩ませているが、力攻めで陥せるほど簡単な城ではない。 天然の要害に護られた堅城であった、大手門へは坂道が一本あるのみである。 山県三郎兵の赤備えも何度なく攻撃したが、急坂の小路で思うように騎馬が操れずに、攻撃が頓挫していた。 日増しに冷気が厳しくなって来た、既に十二月を迎えているのだ。 信玄の本陣から見える景色は、常緑樹と落葉樹の木々が見られるだけである。 まさに殺風景な光景が広がり、寒気のみが烈しくなっていた。 そんな折、東美濃の秋山信友の使者が到着し、朗報がもたらされた。「秋山伯耆守の家臣、磯辺盛信にございます。遂に岩村城を攻略いたしました」「岩村城を手に入れたか」 信玄にとってはまさに快挙の知らせである。「我等は岩村城に籠もり、信長の出方を窺がっておりまする」「よく遣ったと伯耆守に申せ。こののちは慎重に行動せよ、なんと申しても信長の膝元じゃ。機を見て明智城をも攻略いたせと伝えるのじゃ」「畏まりました」 使者の磯辺盛信が、荒武者らしい面構えで答えた。 東美濃の岩村城が我が手に陥たならば、足元に武田勢がひそんだことになる。 益々、信長の奴は三河への救援部隊を出し難くなる。「軍兵が必要となったら、内藤昌豊に相談いたせ。余から内藤に申しておく」「判りましてございます」 信玄は使者に引出物を与えて帰した。 流石は、秋山信友じゃ、奴が暴れるほど信長は岐阜から動けぬ事になる。 信玄は使者を返し思慮している。 この秋山信友は猛将として知られていた。岩村城主は信長の叔母が、信長の末子、勝長を養子として守っていたが、秋山信友が城を攻略し、勝長を養子とすると偽って女城主を妻とした。 信玄死去後も岩村城に籠もり、明智城ほか数城を陥し、長篠合戦後も信長と攻防を繰り返した武将であった。 ようやく信玄の考えが纏まった。「誰ぞ、二俣に使いを出せ。勝頼と山県三郎兵衛に直ぐに参るよう伝えよ」 一人となり信玄が咳き込んだ、また病魔が蠢きだしたな。あと二年じゃ。 なにとしても命を永らえる、信玄は祈る思いで心に決した。 勝頼と山県三郎兵衛が騎馬で駆けつけて来た。二人は深刻な顔付をしている。 また叱責を受けると覚悟した面魂である。「馬場美濃守と高坂弾正を呼んだ、暫く待て」 「はっ」「勝頼、そちに訊ねる。二俣城は飲料水の確保をいかがいたしておる」「しかと確かめてはおりませぬが、二股城は二つの川に囲まれておりまする。飲料水には事欠かぬと考えておりまする」 勝頼が当然至極とした顔つきで答えた。 山県三郎兵衛がはっとした顔つきを見せた。「馬場美濃守、高坂弾正入りまする」 野太い声と同時に二人が姿をみせた。「皆、揃ったな、これから申す事を良く聞くのじゃ」 信玄が四人の顔を見渡し、河野晋作から聞いた川田弥五郎の件を語り聞かせた。「これは驚きましたな、大殿はこの事あるを予測し、川田弥五郎を徳川家に潜らせておられましたか」 馬場美濃守と山県三郎兵衛が驚いた顔をしている。「余と美濃に三郎兵衛しか弥五郎の事は知らぬ。弥五郎は父上の小姓として駿河に参った、生きておれば幸いじゃ。早速、明日にでも城攻めをいたせ。 河野の忍び者を差し向ける」 「拙者が、城攻めを行いまする」 山県三郎兵衛が剽悍な眼差しで請負った。「あの少年が二股城に潜みおるとは、思いも及ばぬことにございます」 馬場美濃守が往時を偲ぶ眼差しをしている。「父上の為にも二股は直ぐにも陥せ」 信玄の下知が四人の腹に凛として響いた。
Apr 13, 2015
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「信玄の戦略」(105章)にほんブログ村にほんブログ村 (一言坂の合戦)「これで二俣城への兵力は、一万四千と成ったか」 宿舎の中で信玄が独り言を呟いた。 山県三郎兵衛昌景が戻ったことは心強い。あの男の事じゃ遮二無二、敵城を落さんと攻撃いたすであろう。 武田勢、最強の赤備え隊が戻って来たのじゃ。 信玄が囲炉裏の炎を見つめ、薄く破顔をした。 翌日の十月十三日、武田勢は陣形をととのえ、太田川を渡渉(としょう)し、見附方面に進撃を開始した。 先鋒は歴戦の猛将、馬場美濃守信春の軍勢である。 徳川勢との遭遇戦を予期した陣形で、襲いくれば一気に壊滅を計る戦術をもってのことであった。 一方、徳川勢は、その日の早朝三千の軍勢を浜松城から東に向け出撃させた。 目指は見附の地に滞陣する武田本隊の主、信玄の首級である。 総大将は大久保党の党首、大久保忠佐(ただすけ)が指揮を執っていた。 副将として本多平八郎忠勝が従っており、内藤信成の勢も加わっている。 朝日が昇り空が茜色に染まってきた、真っ向から陽を浴びての行軍である。「急がねばならぬ」 大久保忠佐が空を仰ぎ見て騎馬を急がせた。 この態勢で敵に遭遇すれば勝ち目はない。朝日の為に敵勢の動きが見えぬ。「一言坂を越え、見附に近い地点に布陣ですな」 若い本多平八郎が、黒糸嚇しの具足に唐の頭(からのかしら)を付けた鹿角の兜姿で騎馬を寄せて訊ねた。「平八郎、主は内藤勢と見附方面の物見をしてくれぬか」「承知いたしました」 本多平八郎が自慢の大身槍を抱え、すぐさま物見の為に先行して行った。 本多、内藤率いる偵察隊が一言坂の難路をのぼり終えた時、武田勢の先鋒と遭遇した。 それを見た偵察隊は干戈を交えずすぐに退却したが、馬場勢は素早い動きで徳川勢を追撃し、太田川の支流の三箇野川や一言坂で激戦が始まった。 前方には武田本隊一万九千名の精鋭が、山のように静まり布陣している。 それは朝日を背にし黒々とした小山のように見えた。 その鋭気が、ひしひしと徳川勢に感じとれる。 喊声と鋼の音が響き、後方の大久保忠佐は敵勢と合戦が始まった事を知り、全軍を急がせ一言坂に軍勢を集結した。「見事じゃ」 大久保忠佐が、栗毛の駿馬に跨り、鋭く敵陣をみつめ呟いた。「後れをとりました」 本多平八郎が自慢の大身槍を抱え駆け寄ってきた。「打ち破られると、天龍川の手前で全滅ですぞ」「平八郎、ここは引けぬ。三河武者の意地をみせるのじゃ」 大久保忠佐が陣形を固める下知を下した。一気に戦機が盛り上がった。「内藤信成(のぶなり)一千で押し出せ」 「心得申した」 内藤勢が長柄槍隊を先頭に、整然と足並みをそろえて押し出した。 徳川勢から士気を鼓舞する、法螺貝が朝の冷気を破って鳴り響いた。 信玄の本陣から百足衆が駆けだし、先鋒の馬場勢に駆け込んだ。 馬場美濃守が采配を振った。鬨の声があがり、一斉に先陣が動き出した。 先鋒の馬場勢のみが前進し、武田本隊は山のように静まりかえっている。 まるで隙がない武田軍団の前で、内藤勢の足が止まりかけている。 「仕掛けよ」 見逃さず馬場美濃守の戦場焼けした下知が響いた。「おうー」 三千名の武田勢が雄叫びをあげ、内藤勢に突きかかった。 長柄槍が交差し、怒号、喚声、悲鳴が沸きあがり混戦となったが、瞬時に内藤勢が崩れたった、まるで赤子の様に鎧袖一触で蹴散らされた。 馬場美濃守が、黒糸嚇しの甲冑姿で騎馬を駆けさせ、巧に徳川勢を押し詰めている。「内藤勢を見殺しにするな」 大久保忠佐が栗毛の馬で混戦に割り込んで行った。 三千対三千の戦いとなったが、武田勢の本隊は攻撃する気配も見せない。「おのれ」 本多平八郎が歯噛みをし、自慢の大身槍で武田の足軽を瞬く間に、三名突き殺し血ぶるいし荒れ狂った。 気がつくと本多勢は、一言坂近辺まで押し詰められていた。 まるで兵士の強さが違う、武田勢は全て歴戦の猛者であり、戦いを足軽一人一人までが知っている。 お互いに連携したり、一人となって突きかかり、自在に動いている。 敵将の馬場美濃守の巧みな采配で、徳川勢は散々に討ち取られ、混乱のなかで敗走に移った。「掛かれ。掛かれや」 馬場美濃守の声が戦場に鳴り響いている。「我等が殿軍をいたす」 本多平八郎が手勢を集め、叫ぶと同時に一斉に討って出た。 大久保勢と内藤勢の敗残兵が顔を蒼白にし、坂道を転がる様に逃げ下っている。この合戦で本多平八郎の奮戦は目をみはるほどであった。 彼の働きで辛うじて徳川勢は、全滅をまぬがれたのだ。 本多平八郎は大久保忠佐と内藤隊を逃すために殿軍を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。 急戦で陣形も固まらぬ本多勢を、武田先鋒の馬場美濃守は容赦なく突撃し、三段構えの陣形のうちの第二段まで打ち破った。 また信玄の近習である小杉左近は、本多勢の退路を阻むため本多勢の後方、一言坂のさらに下に先回りをし、鉄砲を撃ちかけた。 武田本陣から法螺貝が鳴り響き、馬場勢が一斉に軍を止めた。「無念じゃ」 本多平八郎は手勢をまとめ、一言坂を下り敵勢の様子を眺め切歯扼腕した。 虎が猫を弄ぶように、先鋒の馬場勢は動きを止め、我が勢を嘲笑している。 天地が沸騰するような勝鬨があがった。「最早、これまでじゃ」 覚悟を定めた本多平八郎は大滝流れに陣をとり、坂下で待ち受ける、小杉勢が攻め寄せて来た、平八郎は兵を督励し敵中突破し逃走を計った。 これは無謀な突撃で本多勢は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるよう下知して本多勢を見逃したのだ。 死兵と化した軍勢に当たる馬鹿はいない。左近はそう見極めての事である。 このとき平八郎は、小杉左近に名を聞き感謝の言葉を残したと言われる。 こうして徳川勢は死傷者六百名をだし、ほうほうの呈で浜松城に逃げ戻った。 完全に緒戦は完敗であった。 だが本多平八郎忠勝の奮戦は敵味方の目をひいた、武田家の小杉左近は、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」と一言坂に、この狂歌を書き記した表札を残したと云われる。 唐の頭とは、中国から渡来した、ヤクの毛で高価で知られていたのだ。 こうして本多平八郎の働きで徳川勢は無事に天竜川を渡り切ることに成功し、撤退戦を無事に終了させたのだ。
Apr 4, 2015
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