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「信玄の戦略」(104章)にほんブログ村にほんブログ村 (二股城に山県勢が合流する) この辺りは真冬でも遠江で聞こえた温暖な気候の一帯であった。 武田勢は宿営地の中で特に日当たりの良い場所に信玄の宿舎を建てた。 わざわざ甲斐から運んだもので、簡単に組み立てられるものである。 内部は四畳半ほどの広さで、囲炉裏も設えてあった。 その宿舎で休息した信玄の体調もいくぶん回復した。 翌日の昼過ぎに、信玄の思惑どおり武田水軍が太田川を遡り、駐屯地の近くに兵糧、武器弾薬の類を満載した五十艘の軍船が到着し、盛んに物資の荷揚げを行っている。 その日、勝頼の使い番が駆けつけ、只来城を陥落させ二俣城を包囲したとの知らせが届いた。「御屋形、四郎勝頼さま遣りましたな」 馬場美濃守が満面に笑みを浮かべている。「美濃守、浮かれるな。甲斐を出てから九日ぞ、御旗通り速く動かねばな」 信玄が不機嫌な顔付をしてたしなめた。『疾きこと風の如く、徐かなること林の如し、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し』 この言葉が武田家の戦訓である。「御屋形、それがしは合戦で浮かれた事なぞございませぬぞ」 馬場美濃守が、いつもの厳つい面魂で信玄に噛み付いた。彼は勝頼の緒戦の勝利が嬉しかったのだ、それは信玄の胸裡を知る、美濃守だけに分る喜びであった。それを浮かれるなとお叱りを被とは解せぬ。「美濃、余が悪かった。許せ」 信玄も馬場美濃守の胸中は分る、それ故に率直に詫びた。「御屋形が、詫びられるなら、なにも含むところはございませぬ」 馬場美濃守信春が、具足の草摺の音を響かせ足早に宿舎を去った。「ご免っ」 代わって小荷駄奉行の浅利昌種が、箱を抱えて姿を現した。「何かございましたか?・・馬場さまが顔を赤くされておられました」「余の軽率な言葉で気を悪くさせた、浅利、何か急用かの」「水軍は荷を降ろし帰還いたしました。これを、御屋形さにとことづかりました」 信玄が箱の中を見ると、熊の毛皮で作った羽織であった。 「これは、有り難い」 信玄が手にとり眺めている、ご丁寧にも大きな頭巾が付いている。「浅利、礼を申すぞ、これなら鎧の上からでも羽織れるな」「滅相な、これは古府中のお麻さまからの、差し入れにございます」「お麻が余のために縫ってくれたのか」 信玄の顔に血色がもどった。「ささ、羽織ってくだされ」 促され羽織った。「これは暖かい、お麻に礼状を書かねばならぬな」 信玄が上機嫌で熊皮の羽織を纏っている。 お麻が腹違いの妹であることは、信玄のみが知っていた。 楚々としたお麻の面立ちと母親似の眸子が懐かしく思いだされた。(お麻は父上とお弓の娘じゃ) かって躑躅ケ崎館で遭った、女忍びのお弓の容貌が過った。 そこに高坂弾正が緊張した様子で姿をみせた。「御屋形、家康、動く気配にございます」 「-・・・動くか?」「浜松城に不穏な動きがあると、物見より報せがございました」 高坂弾正が信玄を見つめた。この人物は信濃で越後勢と睨みあいの時期に海津城城代を務めた、無類の戦上手の武将である。「今宵は夜襲に気をつけよ、明日は見附まで進出いたす」 信玄が驚く様子も見せず、明日の戦術を告げた。「見附にございますか?」「そうじゃ」「見附から一言坂を下れば、眼の先に天竜川がございます。それを渡河すれば家康の本拠、浜松城は直ぐにございます。決戦を成されますか?」 高坂弾正の眼が生き生きと輝いている。「浜松城の攻略は、遠江、三河全土を手に入れた後と決めておる。まずは 二俣城を攻略いたす、それが片付かぬと兵糧が続かぬ。余は見附から天龍川の東を北上し神僧(かんぞう)を経て、合代島(ごうだいじま)に本陣を構える」 信玄は逸る高坂弾正を制し、自身の戦略を披露した。 これには信玄自身の考えがあった、二俣城は徳川の本拠、浜松城と支城の掛川城、高天神城を結ぶ要所で、家康にとって遠江支配の要であった。 家康は三河への対処などもあって、支城の兵力を集中出来ずにいる。 故に浜松城防衛の軍勢は八千人余しか動員できずにいたのだ。 信玄は家康の胸中を知り尽し、このまま二股城を攻撃すれば徳川勢は我等の動きを眺める以外は、ないと見通していたのだ。 それ故浜松城を目前にしながらも、二股城の攻略を企んだのだ。 「見附は天龍川を渡河した地点、徳川勢は必ずや、襲ってまいりましょう」 高坂弾正が厳しい眼差しをみせ断言した。「余は、それを待っておる。明日は臨戦態勢で進撃いたす」「見附の西に一言坂がございます。襲いくるには格好な地形にございます。恐らく徳川勢はその辺りまで押し出して来ましょう」「一言坂か、覚えておこう」 信玄が炯々と眼光を光らせ肯いた。「御屋形、今宵は篝火を増やし警戒を強めまする」 高坂弾正が足早に立ち去って行った。「いよいよ、合戦にございまするか、気が昂ぶりますな」「浅利、二俣城を陥せば、我等はこの地に居座り続けることができる。甲斐の残存部隊や兵糧、武器も秋葉街道を使えば補給も可能と成る」 信玄が満々たる自信を示している。「早く陥さねばなりませぬな。小荷駄奉行の務めは合戦より、気が重いものにございます」 浅利昌種の言葉は本音であった。「明日、勝頼に督励の使者を差し向けよう。それまでは気張れ」「はっー」 浅利昌種が強ばった顔つきで宿舎から去った。 本陣の幔幕の外は、信玄の旗本衆が厳重に警護し、さらに河野晋作配下の忍びも闇にまぎれ警戒している。 信玄は囲炉裏に手をかざし、何度も浜松城攻略の図上戦略を練っていた。 突然、馬蹄の響きと馬の嘶きが聞こえ、「何者かー」 と、警護の旗本の誰何(すいか)する声が響いた。「それがし、山県昌景が配下の海野信高にござる。火急の用で罷りこした」「馬場美濃守じゃ、火急の用とは何事じゃ」 馬場美濃守の戦場焼けした声が、宿舎まで聞こえてくる。「山県勢、先刻、長篠城より戻り、勝頼さまのご陣に加わり申した」「ご苦労、我等も二俣城付近に出る。それまでに城を陥せと三郎兵衛に申せ」「判り申した。御屋形さまには、よしなにお伝い下され」 慌しい、遣り取りが交わされ、馬蹄の音が遠ざかった。 山県勢は降伏した奥三河の山家三方衆を加え、六千名で勝頼勢と合流した。 これにより勝頼の軍団は一挙に一万四千名に膨れあがったのだ。
Mar 31, 2015
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「勝頼勢、二股城を攻撃する」(103章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢、南下を開始する) 犬居城の城内外は武田勢の軍勢で埋め尽くされ、旌旗、幟、指物が風に翻っている。その光景は壮観そのものである。 軍勢の間を騎馬武者が砂塵を巻き上げ、連絡に駆けまわっている。 甲冑の音、兵士等の声、馬の嘶きが交わって潮騒と成って城内に聴こえる。「壮大な眺めにございますな」 天野景貫がその光景を天守から眺め、思わず感嘆の声を洩らした。「天野、励んでくれよ。余は馬場美濃守と話がある、座を外してくれえ」 信玄が天野景貫を退け、馬場美濃守と今後の話し合いを交わしている。「美濃、余は本隊を東南に向ける」 信玄が濃い髭跡をみせ断じた。「周智郡の天方城、飯田城を陥して南下為されますか?」 馬場美濃守が信玄の胸中を見透かすように訊いた。「我が本隊は袋井から見附に進撃いたす。そこに水軍も来る筈じゃ」「十分な補給を行い、家康を葬りまするか?」 馬場美濃守の言葉に信玄が頬を崩した。 馬場美濃守の推測通り、信玄は補給物資の搬送を陸路は少なくし、水軍を活用する戦術であった。これなら小荷駄の数も少なく、それに要する人足、牛馬の数も少なく出来る。 家康の居城の浜松の東には、天下に名高い天竜川が海へと繋がっている。 武田水軍が天竜川を遡れば、見附の手前で本隊と合流できる。 その見附と天竜川の間に、一言坂と言う合戦に適した場所がある。「浜松の若造、城から打って出てるかの」 と、興味深い顔つきで美濃守に訊ねた。「家康のこれまでの合戦を見ますれば、必ず、打って出ましょうな」 馬場美濃守が、すかさず断言した。「余もそう思っておる、若いが合戦を知っておる」 信玄は思う、家康という若い武将は合戦の何たるを承知しておる。 奴が我が武田勢に一戦もせずに、浜松城に籠城するようなれば奴の将来はない。武将として生きる覚悟があれば、必ず我が軍勢に牙を剥くはずである。 三河、遠江の諸豪族も、全国各地の豪族も家康の行動を興味深く見ている。 敗北を覚悟して戦いを挑むことこそが、家康という武将の将来が拓けるのだ。 二人は、なおも語らっている。 「美濃、わしは勝頼に只来城と二俣城の攻略を命じた。勝頼の器量がいか程か見たいのじゃ」 「御屋形、二俣城は面倒な城にございますぞ、天龍川と二俣川との合流点、その崖上に築かれた堅城にございます」「承知の上じゃ。徳川にとり遠州平野の北の要の重要拠点、城主の中根正照(まさてる)は、なかなかの武将と聞いておる。じゃが二千の兵に手こずるようでは、勝頼の将来も先が知れよう」「恐れいりました」 馬場美濃守信春は勝頼を思う、信玄の親心を知らされたのだ。 信玄は一人となり、一心に書状をしたためている。京の将軍義昭、近江の浅井長政、特に念入りにしたためた相手は、越前の朝倉義景であった。 信玄は信長包囲網の強化を図っていたのだ、これが成功すれば、信長は家康への後詰が不可能と成る。 徳川勢が浜松城に籠っている間に、南方に点在する徳川家の支城を簡単に陥せる、それが信玄の上洛の戦略であった。「御屋形さま」 低い忍び声がした。 「河野か、姿をみせよ」 何時の間にか、河野晋作が部屋の隅に影の様にうずくまっている。 信玄は書状を丁寧に封をしながら、 「何か急用でも起こったか?」 と、かすれ声をかけ咳き込んだ。「京の大殿さまと山本さまの、言付けをお知らせに参上致しました」 信玄は、さり気ない素振りで懐紙で口を拭い、河野晋作に顔をむけた。「余になにを成せと仰せになられた?」 河野晋作は、二俣城に信虎が放った川田弥五郎の存在と、小十郎を伴ったことを告げた。 「・・・父上は恐ろしいお方じゃな」 信玄が、ぽっりと呟いた。数十年も前から、この事あると予測しての万全な手配りに、眼の覚めるおぼえがした。「まず、勝頼の力量をみる。余りにも損害がでるようなら父上の申された通り、そなたの伴った忍び者を使う」 「はっ、畏まりました」 返答した河野晋作には、信玄の顔色が蒼白にみえた。「河野、余がしたためた三通の書状を至急、義昭公と朝倉義景殿、浅井長政殿の許に届くよう手配いたせ」 蒼白な顔色の信玄が眼光を炯々と輝かせている。 河野晋作は何も問い質すことも出来ずに部屋を出た。「ふうーっ」 信玄が、大きく吐息を吐き、懐中から懐紙をとりだし眺めた。 微かに血糊が付着している。 「京に辿り着けるか?」 信玄が低く呟き、愛用の土瓶を使い、何時ものように薬を調合しだした。 この薬で、余は織田徳川の連合軍を破る事が出来るのか、黙然と考え続けた。元亀三年(一五七二年)十月十二日、武田軍団が山のように動きだした。 城内から陣太鼓の乱れ打ちが轟いた。 法螺貝が、びょうびょうと山々に響き渡り、武田本隊が整然と東に向かった。 先鋒は小山田信茂、原昌胤、高坂弾正、馬場信春。二陣は武田信廉、 武田信豊、土屋昌次、駒井昌直。脇備えとし、小山田昌辰、小宮山昌友、 真田信綱、原隼人。後備えは、浅利昌種、跡部勝資。 武田本隊は南東に大きく迂回し、破竹の勢いで天方城、飯田城、各輪城を一気に攻略し、軍団を西方に向け久野城を包囲した。 この地点は、現代の東名高速の袋井インター近くである。 その勢いは朝に一城、夕に一城を抜く勢いであった。久野城主の久野宗能は守りを固め、討って出る気配がない。「軍勢を袋井と太田川の中間に進めよ、そこで露営する」 たかだか五百名ほどの城を奪ったとて、何の益もない。信玄の下知を伝えるべく、本陣から百足衆が先陣に疾走してゆく。 武田本隊は、信玄の下知した場所に軍団を止め休息した。 更に十四日、二十七歳と成った勝頼は、八千の軍勢で犬居城を出陣した。 案内役として天野景貫が、緋縅の鎧に武田菱の前立兜を被った勝頼の傍らに寄り添っている。 従う武将は、穴山信君、歴戦の猛者、甘利昌忠である。百足衆も二騎従っていた。この勢は犬居城の西の光明山の裾を通り、南下し第一目標の只来城に向かうのだ。それ故に勝頼は逸っていた。 一気呵成に只来城を陥とし、遠州平野の北の要の二股城へと迫った。 時に元亀三年十月中旬の事であった。
Mar 24, 2015
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「上洛軍出撃す」(102章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢、秋葉街道を南下する)「御屋形、ご本陣の配置はいかように成されます?」「馬場美濃守、心配はいらぬ。余の本陣は旗本に守らせ変幻自在といたす」 信玄が珍しく巨眼を和ませている。「そうなりますと先鋒は、矢張り山県殿にございますな」 代わって高坂弾正昌信が訊ね、甘利昌忠が興味深く聞き入っている。「いや、途中で三郎兵衛には別命を与える積りじゃ」 「はて合点が参りませぬな」 馬場美濃守信春ともあろう武将が首をひねっている。「本隊の出陣は基本通り高遠城といたす。全軍は秋葉街道を南下いたし、青崩峠の犬居城に向う。犬居城の天野景貫(かげつら)が我家に降った」「何とあの天野景貫が味方と成りましたか?」 秋山信友が驚いた顔付をした。「犬居城から三郎兵衛は三河の東を狙うのじや。長篠城、野田城が当面の目標となろうが、無理は禁物じゃ。三河の豪族を牽制する事が目的じゃ」 信玄が床几を廻し、肘を載せ一座を見廻している。「これは壮大な戦略ですな」 高坂弾正が唸った。 この天野景貫と言う武将は今川家に属していたが、義元の死を契機とし、徳川家康に属し、武田家の信濃の押さえとして犬居城で睨みを利かせていた。 併し、武田勢の上洛の噂を聞き、景貫は武田家に与力をし三河侵略の先導役として活躍する事に成るのだ。 まさに信玄の戦略は壮大で巧緻なものであった。 当面の攻略地の遠江を視野に入れながら、三河、美濃までも含めた信玄の上洛戦略を、初めてこの場の武将は知らされたのだ。 元亀三年(一五七二年)十月三日、仏法の庇護者でもある信玄は将軍、足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じ、甲斐の躑躅ケ崎館を出陣した。 諏訪の高遠城に入り、各地の軍勢の集結を待って西上の征途に就くのだ。 黒鹿毛の駿馬に跨り諏訪法性の兜をかむり、鎧の上から緋の法衣を纏っての出陣であった。 十月の冷気が信玄の身内を引き締め尊厳な想いがする。 信玄の本陣は軍勢の最先端に位置し、諏訪法性の御旗と孫子の御旗が強い風をうけ靡いている。 本陣には旗本の今井信昌や真田昌輝、岩手信盛等の猛者が守りを固めている。 後続する軍勢は甲斐の躑躅ケ崎館の直属部隊で、旗、幟、旌旗が威風堂々と翻っている。 これが甲斐を見る最後かも知れぬ、信玄は兜を深く被り眼庇より、見慣れた風景に惜別の視線を這わせた。 長い合戦の場面が蘇ってくると同時に、病魔への恐れが胸中を過った。 これからは寒気で震える真冬の季節に向うのだ。 己が病魔に打ち勝ち、家康、信長を蹴散らし上洛できるか、それは疑問であるが、成し遂げねばならない。 信玄が無意識に館にむかって片腕を突き上げた。 これは己自身を鼓舞する無感覚の動きであった。「御屋形さまが手を振っておられるぞ」 躑躅ケ崎館に残る留守部隊と行軍の将兵が雄叫びを挙げた。 館の門前には留守居の者に交じり、煌びやかな衣装姿の女衆も見送っている。 そこには信玄の愛妾達の姿も見えるが、正室の三条の方は見えない。 彼女は三年前の元亀元年に病没していた。 信玄は万感の思いを振り払い愛馬を急がせた。 百足衆も代替わりし、若い精悍な面魂をもった武者に代わっていた。「笠井頼重」 「はっ」 百足の指物を背負った黒具足の武者が、見事な手綱さばきで寄ってきた。 彼が百足衆の組頭である。「しばらく皆の疾走する英姿が見たい、騎馬を駆けさせよ」「心得ました」 笠井頼重が大きく騎馬を旋回させるや、百足衆が猛然と疾走を始めた。 背の武田菱の指物が折れんばかりに風を受け撓(いな)っている。「見事じゃ」 信玄が遠ざかる六騎の英姿を眺め満足そうに呟いた。 軍勢は棒道に入った。この道は若い時期に信玄が信濃攻略の為に作った軍事道路で、信玄の棒道と云われていた。 紅葉真っ盛りの道を進み佐久に向かった。諏訪、高遠城は甲斐から最も近い場所に位置している。「見事な紅葉じゃ」「左様にございますな」 旗本の一人が目を細め紅葉を愛でている。 信玄は高遠城を上洛の為の兵站基地として使う考えであった。 城代の秋山伯耆守信友は、信玄が入城すると直ちに配下の伊那衆を主力に、東美濃に軍勢を進めていった。目指すは信長の膝元、東美濃にある岩村城と明智城の攻略である。 続々と各地から上洛の将兵が集まり、二千名の北条家の援兵も到着した。 夕刻と同時に無数の炊飯の煙が高遠城の上空を漂っている。 信玄は各将を大広間に集め上洛の意義を語り、檄をとばした。 翌朝、山県三郎兵衛昌景率いる、赤備え勢五千が粛々と出陣した。 この軍勢は先遣部隊とし、降った遠江の犬居城を一路目指しているのだ。 遅れて信玄率いる本隊二万七千名が高遠城から出陣した。 軍勢は基本方針通り秋葉街道を南下した。先鋒は小山田信茂勢が当たった。 秋葉山は紅葉の盛りであった、信玄は輿に乗って中陣にいる。 出来るだけ躯を休める、寿命と時の経過との鬩ぎ合いと信玄は考えていた。 延々と武田軍団は山間の街道を進んでいる、甲斐と遠江の国境を越え目的の犬居城の天守が樹木の間から見えてきた。 ここから浜松城までは約二十里の距離である。 前方に平服姿で騎乗した一人の武士が武田軍団を出迎えていた。 犬居城主の天野景貫であった。「お初にお目にかかります。天野景貫にございます」 中年の武将が緊張した様子で丁重に挨拶を述べた。「ご苦労じゃ」 信玄が声をかけた。 天野景貫の案内で信玄をはじめとする、武将連が犬居城に入城した。「余に与力いたし感謝しておる」 信玄が緋の法衣を纏い天野景貫に労いの言葉をかけた。 「恐れいりまする。これより遠江、三河の領土をご案内仕ります」「天野殿、馬場美濃守にござる。ご助勢かたじけない、数日休息いたし、軍勢を分けます。一軍は四郎勝頼さまが指揮いたし只来城を陥とし二俣城に向かいます。ご貴殿には先導をお願いいたす」「畏まりました。ご貴殿が鬼美濃と異名される、馬場殿ございますか?」 天野景貫が慌てて平伏した。 信玄は無言で座布団に腰を据えているが、圧倒する気迫を漲らせている。 天野景貫は信玄や馬場美濃守の前で、自分の器量の小ささを思い知らされた。「山県昌景の軍勢がここを発ったのは何日にござる?」 馬場美濃守が戦場焼けした野太い声で糺した。 「五日前にございます」 「何か申し残した事は御座らぬか?」「間者の報告によれば長篠城は、徳川から離脱した由にございます。山県さま は長篠城に押し入り、真偽をお知らせ致すとのお言葉に御座いました」「左様か」 「いかにも三郎兵衛らしき言葉よな」 信玄が笑みを浮かべた。
Mar 17, 2015
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「信玄の陣形」(101章)にほんブログ村にほんブログ村 (武田勢の上洛の戦略) 信玄はそんな信豊の張り切った初々しい態度に頬を緩めた。 川中島合戦で討死した、直ぐ下の弟の典厩信繁の温顔が過ったのだ。 信玄が最も頼りにした弟の嫡男、信豊は父親似の顔つきをしていた。 信玄が内藤修理亮を見つめ下知を下した。「内藤修理亮、そちは小幡信貞と和田業繁(なりしげ)の西上野衆を伴い、直ぐに帰還いたせ。余も軍勢を整えすぐに来援に向う」「はっ、畏まりました」 内藤修理亮が素早く主殿から立ち去った。 信玄は大軍を発し西上野から利根川に軍勢を進め、北条勢と合流し利根川を挟んで、上杉勢と対陣した。しかし合戦に至らず両軍は兵を引いた。 三月にも謙信は関東に進攻し、信玄も再び出馬したが、上杉勢は突然に関東から兵を引きあげた。再び越中で騒乱が烈しくなっていたのだ。 こうした出陣が信玄の体力を消耗させていが、本人の信玄も気付かずにいる。 春とは言うものの、この季節は寒い日々が続いていた。 労咳という病は冷たい空気が最も肺に悪い影響を与えるのだ。 (征途) 古府中は猛暑のなかにある。七月となり信玄の体調も回復に向かい、彼は慎重に越中の様子を窺がっていた。越中は予想通り混乱の極みとなっていた。 謙信は甲相同盟の復活を知り、関東攻めを視野におさめていた、その為には越中を静謐にする必要から、鯵坂長実(あじさかながざね)を新庄城の城代に任じ、一向門徒衆への備えとしていた。 一方の門徒衆は信玄の要請を受けた、石山本願寺門主顕如の命で総大将に、豪勇で聞こえた玄任を差し向け、六月に一斉に越後勢に対し蜂起したのだ。 彼等は上杉家の属城の日宮城を攻略し、救援軍の鯵坂勢を神通川で撃破し、援軍の山本寺定長の軍勢も破り、越後に雪崩れ込む勢いを示していた。 上杉謙信は関東出兵を目論んでいたが、急遽、大軍を越中に出撃させた。 それが八月十八日であった。新庄城に入城した謙信は一向門徒衆の烈しい攻撃に眼を剥いた。 加賀の一向門徒衆までが富山城に籠城しており、三万とも四万とも言われる大軍団であった。 彼等は今迄の謙信が戦った門徒衆と違い、大量の鉄砲を保有していた。 謙信は制圧まで二ヶ月と値踏みしたが、門徒衆の抵抗が烈しく、越中から軍勢を引くことが叶わなくなっいた。 信玄が待っていた機会が、漸く訪れたのだ。 久しぶりに甲斐盆地から狼煙があがった。上洛の準備を促す狼煙であった。 各地の武田勢は、一斉に小荷駄に軍需物資を積み込んでいる。 それは膨大な物資であった。軍兵の糧食、騎馬隊の馬の餌、さらに人夫と、小荷駄を引く牛馬の食糧、そして最も重要な武器、矢弾の量は見たこともない膨大な貨物であった。「こたびの合戦は京の都までじゃ、積み残してはならぬ」 小荷駄奉行達は懸命に人夫等を督励している。 躑躅ケ崎館の主殿に股肱の重臣が集まっていた。馬場美濃守信春を筆頭に高坂弾正昌信、山県三郎兵衛昌景、甘利昌忠、秋山信友等の五将であった。 彼等はいずれも戦塵に明け暮れた歴戦の猛者であり、信玄がもっとも頼りとする武将達であった。「御屋形、内藤修理亮殿が居られませぬが、いかが為されました」 馬場美濃守が不審そうに訊ねた。「こたびの上洛には親類衆すべてを引き連れる積りじゃが、我が留守中に何が起こるか判らぬ」 信玄が静かに口をひらき、股肱の五人に視線を這わせた。「いらざる斟酌を申しました。内藤殿なれば安心いたし留守に出来まするな」 高坂弾正昌信である。 「そうじゃ、念願の上洛。何としても連れて行きたいが仕方があるまい」 信玄の言う通り念願の上洛である。武将として一期の誉れであるのに、あえて内藤修理亮を残した信玄の、心の奥を全員が理解した。「徳川家康を一蹴し信長の息の根を止めねば成りませぬな」 馬場美濃守が戦場焼けした声を張りあげた。「上洛の軍略を申し聞かせる」 信玄が普段と変わらぬ声で一座を見渡した。「上杉謙信は来年まで越中より動けまい、又、わしの留守に甲斐を襲うような事もなかろう。謙信はそうした男じゃ、従って後顧の憂いなく軍勢を進められる」 数年間の合戦を通じて信玄は謙信の気象を見切ったようだ。「左様に心得まする」 馬場美濃守が賛意を示した。「よって余は上洛を果たすまでは甲斐に戻らぬ覚悟じゃ」 御屋形の覚悟を聞けばそれでよし、一座の五将は黙して平伏した。「まず、当面の陣構えを申し聞かす」 信玄が自ら立ち上がり、傍らの衝立を動かした。 一斉に五将から感嘆の吐息が洩れた。「先鋒」 馬場信春、山県三郎兵衛昌景、甘利昌忠。「二陣」 高坂弾正、小山田信茂、原昌胤。「三陣」 武田四郎勝頼、 武田逍遥軒信廉、武田信豊、穴山信君。「脇備え」 土屋昌次、小山田昌辰、小宮山昌友、駒井昌直、真田信綱。「後備え」 原隼人、 浅利昌種、 跡部勝資。「これは、見事な陣形ですな」 馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせて唸った。「余もいささか頭を痛めた」 信玄の顔に満足感が浮かんでいる。「申しあげます」 「何じゃ三郎兵衛、不服でもあるか?」「原隼人の後備えは勿体ないと考えます。原は陣場奉行にございまする」 余は途中で拾った豪族たちに道案内をさせる積りじゃ」 信玄の言う、道案内とは糧食や武器弾薬の補給を指す言葉である。 小荷駄の全責任者は陣場奉行の原隼人の勤めであるが、信玄は彼の任務を軽くする事を考えていたのだ。「これは迂闊なことを申しました。お許し成されませ」 赤備えの山県三郎兵衛が顔を赤らめた。「あとは何か申すことはあるか?」「拙者の名がございませぬ、訳でもございますか?」 高遠城代の秋山伯耆守信友が憮然とした顔つきで訊ねた。「伊那高遠城の城代を忘れはせぬ。余の前に立ち塞がる最強の敵は織田信長じゃ。そちは伊那衆を率い東美濃を侵略いたせ、まずは岩村城を陥せ、 信長はそれで岐阜城から動くことが叶わぬ。それをそちに頼みたい」「これは有り難い仰せ、つつしんでお受けつかまつります」 三郎兵衛と肩を並べる、猛将の秋山信友が厳つい顔を崩した。「岩村城を攻略いたしたら、次ぎは明智城じゃ東美濃一帯を脅かすのじゃ」「ははっー」 「伯耆守、羨ましいのう。お主の斬り取り放題じゃな」 山県三郎兵衛が心底から羨ましげな声をあげた。 両人とも飯よりも合戦が好きな武将であった。「何を申すか、京が拝めんのじゃ。その腹いせに大いに暴れまわってやる」 その様子をみて一座から哄笑が湧いた。
Mar 14, 2015
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「信玄、病魔を捻じ伏せる」(100章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、上洛を宣言する)「大殿、何故に今年の秋とお考えにございます」 河野晋作が不審そうに訊ねた。「河野、そちは春でも良いと思っておろう。信玄は越中の一向門徒衆の動きを見る積りじゃ。彼等が蜂起致せば上杉謙信は武田に手がだせなくなる」 信虎が河野に諭すように語り、皺深い瞼を閉じた。「成程、それならば後顧の憂いなく上洛の軍勢を動かせますな」「河野、心して聞くのじゃ。御屋形は信濃の高遠城から軍勢を発すると考える、武田勢は真っ先に手強い城を落さねばならぬ」 勘助が信虎の後を継いで口を開いた。「山本さま、それはどの城にございます?」 その言葉で河野晋作の顔が引き締まった。忍び者の血が騒ぐようだ。「二俣城じゃ。あの城は難攻不落の堅城、御屋形とて手を焼こうな」 勘助がずばりと核心を突いた。「二俣城にございますか、あの城を陥さねば浜松城の攻略は不可能ですな」 河野晋作は漸く二人の考えが腑に落ちた、確かに二俣城は手強い。 攻略が長引けば、上洛戦に支障が出る。 二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵に築かれた城である。 位置的には浜松城と掛川、高天神城の中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点であった。 武田勢が補給路を確保するためにも、徳川勢の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要がある。 併し、二俣城を囲む急流が文字通り天然の濠を成しておる堅城であった。 城将は中根正照で城兵の数は少なく一千二百名ほどであるが、この城の攻め口は北東の大手口しかなかった。 その大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとする武田勢の進撃を阻止し、力攻めをすれば損害は甚大となる厄介な城塞であった。「小十郎を連れて行け、二俣城には大殿の隠れ忍びが居る。川田弥五郎と名のる男じゃ、彼は二俣城に籠もっておる筈じゃ。その男と接触するのじゃ」「驚きでものが云いませぬな」 河野が禿げあがった勘助を見つめ仰天している。 山本さまも山本さまじゃが、大殿も大殿じゃ。 二人の謀略に河野晋作が驚嘆している。「小十郎、そちがその川田弥五郎に会うのじゃ」「山本さま、判りましたが手づるがございますか?」 小十郎が例の抑揚のない声で訊ねた。「城を包囲した時に生きておれば合図があろう。それを確認し忍びこむのじゃ」 勘助が往時を偲ぶように隻眼を光らせている。「流石は勘殿じゃ、わたしは弥五郎の顔を忘れてしまいましたぞ」 お弓が感嘆の面持ちで懐かしそうに呟いた。「わしも忘れた。わしの許におった頃は未だ若者であった。今は中年となって おろう。勘助の申す通り、生きておれば必ず弥五郎から合図がある」 信虎までが懐かしそうな顔をして断言した。 「これは全て大殿のお考えじゃ。武田の上洛が始まったら、わしも遠江に出向く、河野、その時は頼むぞ」 深夜となり三人がそっと信虎の棲家から去って行った。 お弓が影法師のような勘助の後姿を見送っていた。 今度は何時会えるか判らない、物憂い月が雲間から覗いていた。 甲斐に異変が起こっていた。各地の豪族との年賀の儀式は済んでいたが、恒例の重臣達との祝宴が催される気配がないままに日が経っていたのだ。 重臣等は何事もない素振りで、任地先の城で信玄の呼び出しを待っている。 その頃、信玄は病の床に就いていたのだ、予期はしていたが喀血と高熱が信玄を襲ったのだ。 近侍の者数名が知るのみで他の者には一切秘事とされた。 信玄の寝所は武田の忍び衆で厳重に警護されていた。はからずも河野晋作の危惧が現実となったのだ。 信玄は高熱にうなされながら、寿命が長くはないと悟っていた。 だが何としても上洛を果たすまでは死ねぬ、あと三年は命を永らえると強靭な精神力で病魔をねじ伏せ起き上がった。 恒例の年賀の式典が行われたのは、一月の十日であった。躑躅ケ崎館の主殿には常と変わらぬ信玄の姿があった。 彼は厚い綿入れの羽織姿で上座に腰を据えている。 右に武田四郎勝頼を筆頭に、武田信廉、武田信豊、仁科信盛、穴山信君等のご親類衆が居並び、左には馬場信春、内藤昌豊、高坂弾正、山県昌景、小山田 信茂、秋山信友、甘利昌忠等の御譜代家老衆が並び、その他の武将連が連なっている。庭先にも幔幕が張られ畳が敷かれ、そこにも武田家の主だった者が控え、今年は海賊衆や百足指物衆も招かれていた。 今年こそ上洛のお下知があろう。全ての強者達が上座を見つめている。 信玄の背後には、新羅三郎義光の鎧と武田家二流の御旗が飾られている。「皆の者、余は訳があって年賀を遅らせた」 何時もの信玄の声音である。「年内に我が武田家は上洛の軍勢を発する」 信玄の声が主殿に凛と轟いた。「・・・-」 一座の者達から声にならないざわめきが起こった。「その為に大勢の者達を年賀に招いた。本日は大いに飲め、堅苦しい話は抜きじゃ。行き先は遠江の浜松城じゃ、上洛の時期はおって皆に知らせる」 信玄が大杯を片手に一座を見廻し、満足そうな笑みを浮かべた。 余は病魔に打ち勝った、その事が嬉しいのだ。 するすると旗本奉行衆頭の今井信昌が信玄の傍らに寄り、何事か囁き素早く主殿から去った。「静まれー」 信玄の声で一座に静寂が支配した。「西上野より火急の使者が参った。上杉謙信、我が属城の石倉城を陥し厩橋城に籠もったとの知らせじゃ。北条殿も軍勢を利根川に進めておられるとの事じゃ」「しゃっー、またしても関東に乱入いたしましたか?」 武田逍遥軒信廉が顔を染めて吠えた。「御屋形、我等も早速にも軍勢を進めねばなりませぬな」 内藤修理亮である。彼は西上野郡代として箕輪(みのわ)城を任されていた。「上洛までに手を打たねば越後勢煩くて叶いませぬな」 武田信豊が声を荒げた。 「信豊、余が阿呆に見えるか?」 信玄の問いに信豊が顔を赤らめた、御屋形が手をこまねくような事はなされぬ。 一座の重臣連が顔を見つめあい失笑を浮かべた。 ちなみに信豊と言う若者は、川中島で討死した武田典厩信繁の嫡男である。
Mar 10, 2015
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「上洛への布石」(99章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、徳川領内を席巻す) 一方の信長は三万の大軍を擁し、浅井家の本拠地、小谷城を包囲していたが、大嶽に滞陣する、朝倉勢の存在が邪魔となって動けずにいる。 信長の許にひんぴんと信玄の動きが伝わってくる、遂に甲斐の猛虎が牙を剥き咆哮したのだ。 信長は戦慄し、横山城の守将木下藤吉郎に小谷城包囲を命じ、直ちに軍団を引き払い、岐阜に帰還した。 これ以上、近江の地に止まっている訳にはいかない、信玄の上洛を阻止せねばならないのだ。 岐阜城に帰還した信長は、自分の置かれた情況を改めて思い知らされた。 織田勢は各地で足止めをくらっている。積年の敵である石山本願寺は摂津に、近江には浅井、朝倉勢が滞陣し、更に足元の奥美濃にも敵がいたのだ。 信長により追放された元美濃の国主、斉藤龍興(たつおき)の一党が反抗し、それにも軍勢をさいていた。 南近江では六角承禎の残党が蜂起し、福島野田には阿波から戻った三好一党が、石山本願寺と協同で戦線を構築し織田勢に叛いている。 まさに四面楚歌であり、一兵の増援も期待できない情況に陥っていたのだ。 頼むは浜松の徳川家康のみ、併し、それも信玄が上洛の軍を起こせば真っ先に餌食となる。 家康がせいぜい集められる軍勢は九千余名と冷静に読みきっていた。 強兵で聞こえる甲州勢と信玄の采配なれば、鎧袖一触で敗れるじゃろう。 我が軍勢が集結するまでは捨て殺しじゃ。と、信長は非情な決断を下していた。 流石の信長も打ち手を失い、苛立ちのなかで岐阜城に居座っている。 元亀三年(一五七二年)の波乱にとんだ年が明けた。 京の菊亭大納言の荒れ果てた庭の片隅に、信虎の棲家がある。 落ちぶれたとはいえ、大納言の庭には樹齢何百年の松の大木が茂り、信虎の部屋の丸窓の前の、大木の影に万両がひっそりと花をつけている。 信玄から送られる金子のおかげで信虎は、悠々自適の生活を送っていた。 貧乏公卿の大納言も信虎からの生活費で裕福に暮らしている。 その信虎の棲家に三人の男が訪れてきた。 真っ先に山本勘助と小十郎が姿を現した。「勘助、久しく逢わぬ間にそちも老いたの」 妖怪のように痩せ細った痩躯の信虎が、勘助の顔をみて揶揄した。「大殿にはお変わりもなく祝着に存じます」 勘助が祝いを述べた。「世辞はよい、わしも八十となった。いささか長生きをいたしたが、ようやく念願が叶うかと思うと生きて参った甲斐がある」 信虎が妖怪じみた顔でにたりと笑みを見せた、声だけは往年の気迫がある。 お弓が酒肴の用意を整え姿をみせ、陰気な部屋がぱっと明るくなった。「お弓殿は変わりませぬな」 勘助がお弓の姿を眩しそうに見つめた。「勘殿、年の話はなしにございますぞ。小十郎も酒(ささ)を飲みなされ」 小十郎の躯も一回りちぢんで見える。「遅くなり申した」 野太い声と同時に、河野晋作が鍛えた躯を現した。 五人は暫し久闊を祝し、黙したまま酒肴に舌鼓をうった。 庭先から風の音が寒そうに聞こえてくる。 「京は甲斐に劣らず寒い」 信虎が厚い綿入れを着込み、しんみりとした口調で杯に視線を落とした。「本日は何事にございます。こうして集まるのも久しゅうございますな」 お弓の声に誘われるように勘助が、信虎の魁偉な容貌をみつめ口を開いた。「大殿、いよいよ御屋形は上洛を決意なされましたぞ」「甲斐を捨て三十一年となるが、信玄の奴、ようやった。矢張りわしでは甲斐 一国が精々と最近になって悟った」 信虎が魁偉な眼を細め呟いた。「だが、それがしには心配な事がございます」 河野晋作が低い声で応じ、彼の顔色が冴えない。「いかがいたした?」 信虎が顔をもたげ河野に視線を向けて問いかけた。 「これは内密にござるが、御屋形さまは病んでおられるようです」「河野、その話は真か?」 勘助が思わず鋭い声をあげた。「忍び者の我等は御屋形さまの私生活を垣間見る時がござる。何となくそんな感じに捉われます、心配にございます」 河野晋作の顔に心配そうな色が滲んでいる。「お元気がないのか?」 勘助が性急に訊ねた。「いや、常とお変わりございませぬが、気にかかります」「ならば心配ないは、上洛の軍を起こせば元気になる。のう勘助」「御屋形に限っては心配ござらん。人一倍お身体に気を配っておられる」 勘助は十数年前の信玄の面影を瞼の裏に思い描いていた。「拙者の取りこし苦労ですかな」 河野晋作が笑い声で杯を干した。「昨年の三河進攻なんぞを見ますと御屋形には、微塵も焦りがございませぬ」「勘助もそう見たか。わしの見立ても同じだ、余裕を持って甲斐に引きあげたの」 信虎の答えでほっとする空気が部屋に漂った。「左様にございますな、あの家康が反撃できぬ素早い動きを成されました」 勘助が嬉しそうな笑みを浮かべ、お弓の顔を見つめた。 二人の眼と眼が合い、躰を許しあった和やかな雰囲気が漂った。「して上洛の時期は決しておるのか?」 信虎が河野晋作に視線を向けた。「御屋形さまからは未だご沙汰はありませぬが、最近は公方さまや越前、近江と我等の出番が頻繁にございます」「河野、そちは何処に行って参った」 勘助がお弓から視線を移し訊ねた。「越中、富山城からの帰りにございます」「富山城は越中における一向門徒衆の巣窟じゃな、勘助」 「左様に」 おうむ返しに勘助が答えた。「信玄は秋に上洛の軍勢を起こすとみたが、どうじゃ?」 信虎が相貌を歪め、自信をこめて言い放った。 「拙者も同感にございますな」 勘助が隻眼を鋭く光らせ、頬に微かな笑みを浮かべた。「武田の軍師と意見があえば間違いはあるまい」 信虎の妖怪じみた顔に満足そうな笑みが刷かれた。
Mar 6, 2015
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「上洛への布石」(98章)にほんブログ村にほんブログ村 (信玄、徳川領内を席巻す) 信虎が将軍、義昭の許で信長に反抗している事を信玄は知らずいる。 更に最近、父である自分に逆らい、若くして切腹を遂げた嫡男の義信が、しばしば夢に現れるのだ。 義信が健在ならば、こうも苦しむ事はなかっただろう。 武田家の当主を約束された、四男の勝頼は武将としては申し分ないが、国主として客観的に見ると、その資質には大いに問題がある。 それ故に自分が健在のうちに武田家の二流の御旗を京に翻すことが、信玄の悲願と成っていた。 何としても命のあるうちに遣らねばならない。 その一念で命を刻んできたのだ。 信玄は自分の死期を感じはじめていた、最近の躯の疲労は異常である。 軽い咳払いをしながら、信玄は自分で煎じた薬湯を苦く飲み干した。 信玄は病魔を抑え合戦に明け暮れることになる。まさに執念である。 元亀二年(一五七一年)二月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江、三河侵攻作戦を実行したのだ。 信濃の高遠城から武田の精兵八千名が出撃し、伊那街道を南下し、鈴木重直(しげなお)が守る、徳川の足助城(あすけじょう)を包囲した。 総大将は武田信玄で四郎勝頼も加わっていた。 伊那街道にある足助城は三河を結ぶ要衝の地にあったが、瞬く間に攻略された。この城は徳川にとり武田勢の押さえとして重要な城であり、真弓山城とも言われ、三河加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市足助町)の真弓山に聳えていた。 足助城を陥した信玄はその勢いで五月までに小山城、田峯城、野田城と、徳川家の諸城を次々と落とした。 この伊那街道とは信濃の松本と飯田を結び,さらに根羽を経て三河の吉田(豊橋)に達する街道を言う。 この街道も当時は塩の道として有名であった。 信玄は病魔を隠し、誰にも悟られず数ケ月の長期遠征を行ったのだ。 その知らせが浜松城の家康にもたらされた時は、すでに遅く徳川勢が動く間もない、素早い奇襲攻撃を信玄は見せ付けたのだ。 家康が岡崎城から浜松城に居城を移した訳は三河地方は安泰と感じ、遠江支配を重点とする目的で、浜名湖の東の浜松城に拠点を移したのだ。 それを嘲笑うかのような信玄の戦略であった。更に十日後には浜松城近郊の吉田城に攻撃を仕掛け、二連木の地で徳川勢を叩きつぶし兵を引いて行った。 この二連木城は、朝倉川南岸の三河の渥美郡の北の端にあった城塞で、これだけでも武田勢が、長駆の行程を奔りぬけ攻撃した証拠である。 まさに風林火山の御旗どおりの、素早い攻撃を三河と遠江の二ケ所にみせ、武田勢は疾風のように本国に引きあげて行った。 家康の気持ちは何となく浮かなかった、信玄のこの軍事行動が何を示す事なのか理解出来ずにいたのだ。 それに頼みの織田信長が未だ、近江の地に留まっている事にも理由があった。 その訳が唐突に知らされ、全国の諸大名の間に戦慄が奔りぬけた事変であった。 九月十二日、突然に比叡山に悲劇が襲った。織田勢三万の大軍が夜明けと同時に坂本に火を放ち、京の巨刹、比叡山延暦寺になだれ込み、老若男女を問わず、容赦ない殺戮が行われたのだ。 高僧、学僧、僧兵、それに三千の堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰した。 先年に浅井、朝倉勢に味方をした延暦寺に対する、信長の報復であった。 四方を敵に囲まれ、身動きの出来ぬ織田勢の困窮を知りながら、延暦寺は山頂の堂塔伽藍に浅井、朝倉の連合軍を籠もらせた。その犯した罪は重い。 信長からみた延暦寺は既に腐りきっていた。古い権威にすがり、僧俗の身で刀槍を携え弱者を苛め。肉食をなし妻帯なんぞをする者に、なんの庇護がいる。 玉石混淆ともに砕く、これが信長流の思考法であった。 ここに八百年の伝統を誇った延暦寺は、この地上から完全に消失したのだ。 当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。 そうした天皇の件も承知で信長は、この暴挙を行ったのだ。 更に比叡山は天下を狙う者にとり、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い堂塔が建ち、数万の兵力を擁する事が可能な戦略的な重要な拠点である。 信長包囲網で各勢力から包囲された信長にとり、近江の平定と比叡山の無力化は戦線打破の重要な課題であった。 これを知らされた信玄は怒りに身を震わせたという。「おのれ信長、天魔に化けよったか」 と非難した。信玄は比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。 彼は古い形の武将で権威や信仰心には忠実であった。 謂れもない口実で比叡山全土を焼き払い、高僧や老若男女を一人も残さず、殺戮した信長を仏敵として憎んだ。「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」 これは信玄の有名な軍法の歌で、彼の一面が偲ばれるものである。 こうした思考を身につけた信玄には、信長の行動は理解を超えていたのだ。 この年の十月に信玄の好敵手であった、北条氏康が五十七才の生涯を閉じた。 彼は死に臨み上杉家との同盟を破棄し、武田家と再び同盟を結ぶよう倅の氏政に遺言した。上杉謙信頼りにならず。 信玄は曲者ではあるが一旦同盟すれば裏切る事はない。 この甲相同盟の修復で武田家は念願の北条家の脅威が解消したのだ。 ここに信玄は心置きなく西上に意をそそぐ態勢を固めたのだ。 この北条家の方針転換で一人の男の人生が狂う事になる。元今川家の当主の氏真であった、彼は信玄に追われ北条家の庇護の許で暮らしていたが、甲相同盟の復活で北条家に居られず、今川家の人質であった家康に庇護を求めるのである。 皮肉な巡り会わせであるが、武将失格の男の末路は憐れである。 信玄の上洛に向けた外交が積極的となった。近江の浅井長政に対しては信長の挑発にのらず、籠城の継続を勧め、越前の朝倉義景には浅井家の救援部隊を大嶽(おうずく)から撤兵せすに滞陣するように、義昭から密書を発してもらった。 信玄は朝倉義景が弱腰の武将と看破し、その動向に不安を抱いていたのだ。 朝倉勢が引き上げないかぎり、信長の小谷城攻撃は不可能と踏んでいた。 更に越後にも調略の手を伸ばしている。 上杉謙信の牽制として一向門徒衆の蜂起を石山本願寺に申し送っていたのだ。 こうして武田家は背後に気を配る事なく、ようやく上洛できる態勢となった。 併し、人生は皮肉なものであった。信玄が北条家と袂を分かち、悪戯に浪費した日々が信玄の躰に病魔が宿り、過酷、苦悶な上洛を強いいる事と成るとは、信玄も宿老も誰一人として気づく事がなかったのだ。
Mar 2, 2015
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