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from Hawaii !!! 「ハワイも季節の移り変わりを感じる時期だけど、でもやっぱり晴れている日はまだまだ夏気分〜!」
2017.10.28
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平安時代中期、北方の天災を鎮めようと、御所に祀らおれていた由岐明神を鞍`馬に遷宮することになり、このとき松明を担いだ行列が10丁(約1キロ)に及びました。これに感激した鞍馬の人々が由岐明神の霊験と儀式を後世に残そうとしたのが祭りの始まりです。午後6時、「神事にまいらっしゃれ」という合図で鞍馬の各戸にかがり火が一斉に点火され、小さな松明を担いだ幼児たちが街道を練り歩きます。続いて小型と中型の松明を担いだ小中高生、そして最後に大松明を担いだ若者たちが登場します。一行は鞍馬太鼓が打ち鳴らされる中、「サイレイ、サイリョウ」と囃しながら練り歩きます。 午後8時ごろから鞍馬山の山門前の石段に百本以上もの松明が集まり、炎を上げて燃え盛ります。やがで合図とともに注連縄が切られると、松明が一気に焼かれ、祭りは最高潮に達します、その後、若者が神輿を迎えに石段を駆け上がり、お神輿は参道を下って渡御に向います。最後に御旅所に戻されて祭りが終わります。鞍馬の火祭が終わると鞍馬周辺は紅葉が色づき始めます。10月22日(日)京都府京都市左京区鞍馬本町由岐神社http://www.yukuinjya.jp※ 今日は台風最接近中、この雨,、お昼間の「時代祭」は中止となりました。鞍馬の火祭も中止かな・・・、誠に申し訳ございませんが未確認です。ご容赦を。
2017.10.22
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オアフ島内、道路横断中の「歩きスマホ」が禁止に2017年10月25日から施行されます。過日2017年7月27日、カーク・コールドウェル・ホノルル市長は、道路横断中にスマートフォンなどの電子機器を使用することを禁止した条例に署名しました。Aloha! 2017年10月25日から、オアフ島内において、道路横断中のスマートフォンなどの使用が禁止されます。もちろん観光で訪れた場合の旅行者も対象となります。横断時、オアフ島でのみならず、日本でもハワイでも、一人一人が注意しましょう。https://www.aloha-program.com/information/detail/19…対象となる行為 規制される行為は、歩行者が道路を横断中に電子機器類(携帯電話、スマートフォン、ノートパソコン、タブレット端末、携帯電子ゲーム機、ポケットベル類(Pager)、デジカメほか)の画面を見る行為で、道路横断中のみが規制対象となり、歩道の通行中や、道路横断中であっても単に音声通話をしているだけであれば規制対象外となります。ペナルティーについて 罰金額は初回違反が15~35ドル、1年以内に2回目の違反を犯した場合は35~75ドル、初回から1年以内にさらに3回目の違反を犯した場合は75ドル~99ドル。施行はいつから? この条例はオアフ島内において、今後約3ヶ月の啓発・警告期間を設けた後、2017年10月25日から施行されます。オアフ島へ渡航される際はこの条例に留意し、くれぐれも違反しないようにしてください。 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii
2017.10.21
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「ちょっと言いたくなる京都通」として奥深い京都の良さや京都の人も知らない情報などをおりまぜながら、わかりやすく紐解いていきたいと思います。ぜひ身近に京都を感じてください。さて、今回は独特の世界観を持ち数多くの仏教美術を残した、堂本印象画伯の作品を多く所蔵する『京都府立堂本印象美術館』をご紹介いたします。今回のテーマは・外観も内観もインパクトがおますんえ。・京都画壇の花形え。・宗派を超えた信仰どす。■ 外観も内観もインパクトがおますんえ。京都の神社仏閣を訪ねていると、建築物、庭園などの美しさに出会うとともに、京都ならではの日本美術にも触れることができます。 今回ご紹介するのは、「京都府立堂本印象美術館」。近代日本画家の大家、堂本印象画伯(1891年?1975年)は絵画、彫刻、スケッチなどを含め、生涯で数多くの作品を残しました。こちらでは、その作品約2100点を所蔵しています。生涯を通して多くの仏教美術も制作した堂本印象。 東寺・小子房や智積院・宸殿(しんでん)のふすま絵などが有名です。以前、この京都通で東福寺を取り上げましたが、本堂のダイナミックな龍の天井画が印象の作品です。また画伯制作による釘抜き地蔵のユニークなモニュメントもご紹介しました。 衣笠山を背景に、金閣寺、龍安寺、仁和寺へと続く「きぬかけの路」に、ひときわ斬新なたたずまいを見せているのが「京都府立堂本印象美術館」です。学生で賑わう立命館大学の向かい側に位置しています。1966年に開館したこちらの美術館は、堂本印象が構想に構想を重ねて、自ら外観・内観の全てをデザインしました。 エントランスの柱からドアノブまで画伯のデザイン。ランプの傘やさりげなく置かれたイスも似かよっているようでいて、ひとつずつ異なるデザインが施されており、ディテールに至るまで印象のこだわりと情熱が伝わってきます。目を引く外壁とエントランスの白い柱は、印象が構想段階の細やかなスケッチなどを描き残しており、いかに美術館の建築にエネルギーを費やしていたのかがうかがえます。 当時、画伯はすでに75歳でしたが、年齢を超越したパワフルな創造への意欲には驚かされます。金色がふんだんに使われた華やかなデザインやデコラティブな装飾に、ダリやガウディのスペインの建築やアートを連想します。1952年に印象は初めて海外を訪れました。約6ヶ月をかけてイタリア、西ドイツ、スペイン、フランス、スイスなどを遊学します。 風景のスケッチをする傍ら、あちこちのアトリエや美術館などを精力的に訪ねたそうです。その時、強く受けたインスピレーションがこの美術館に表れています。海外遊学後、印象が一番変わった点は、彫刻、陶芸、染色への関心だそうです。そこから、建築などの空間美術を手がけるようになり、平面から立体へと世界が広がったと考えられています。■ 京都画壇の花形え。堂本印象は、1891年(明治24年)京都市上京区の造り酒屋で生まれました。敬虔な信仰心のある両親のもとで育ったと言われています。同時に、父親は家業を営みながら、富岡鉄斎を始めとする芸術家たちとの親交もあり、歌、俳句、茶道、花道、書画、骨董などへ造詣の深い趣味人でもありました。 一方、母親は沢山の子どもを育てながら、いつも忙しく一生懸命、家業に明け暮れていたと言います。これらの家庭環境、両親への想いは、印象の画家としての作風に強い影響を与えました。印象が20歳の時に、父親はこの世を去り、その追想とも言える絵画を『故父』という作品で表しています。また母親への想いを表すエピソードは数々ありますが、こちらの美術館の外壁のレリーフに、母を思わせる顔が刻んであるそうです。 美術館に設けられたスローブや一部バリアフリーな建築は、高齢であった母親を思いやる気持ちからだと言われています。印象は、京都市立工芸学校を卒業後、西陣織の図案を描いていましたが、日本画を志すようになり、27歳で現在の京都市立芸術大学の前身である京都市立絵画専門学校に入学します。1919年、28歳で第1回帝展に『深草』で初入選を果たしました。それは決して早い方ではなく、遅咲きの大器でした。 その後、精力的に作品の創作に取り組み、第3回帝展では『調鞠図』で特選、第6回帝展では『華厳』で帝国美術院賞を次々と受賞。時代の寵児として一躍注目を集め、日本画壇において確固たる地位を築いてゆきます。創作に加えて、絵画専門学校の教授として、また私塾東丘の主宰者としても多くの後進の育成に努め、1944年、上村松園らとともに帝室技芸員になりました。印象の作風は、初期の頃からそのモチーフも描き方もインパクトがあるものでした。 日本画でありながら、どこか西欧風のモダンな雰囲気が感じられるのです。『木華開耶媛』では、イタリアのボッティチェリを、『故父』や『坂』では、フランスのアンリ・ルソーを思わせると評されています。これは、大正時代という、海外の趣味が取り入れられ始めた、独特のモダンな空気感が漂っていた時代背景と関連しているようです。時代と共に少しずつ変化してゆくというより、奥行きが広がってゆく印象の作風。早い時期から仏教絵画を描き始め、「祈りの表現」は、多彩なテーマを持つ印象の大きなひとつの主題であり、生涯のライフワークとなります。■ 宗派を超えた信仰どす。多くの人がそうであったように、印象もまた、戦争を体験することでひとつのターニングポイントを迎えます。戦後、戦争体験から生まれた悲しみや絶望、社会の混沌とした状況を絵で表現するようになりました。1952年の海外遊学で印象の作風が大きく変わったと思われがちですが、実はそうではなく、戦後に少しずつ変化の兆しがありました。助走段階であったその感覚を確認するかのように、海外へ渡った印象。 ヨーロッパで、日本とは全く違う風景や建物を懸命にスケッチしたと言われています。そこでの感銘は深く、風土・芸術など多くのことを吸収したそうです。帰国後、1953年にパリの地下鉄をモチーフに描いた作品『メトロ』を発表。モダンな作品は油絵のような感じを受けますが、筆の線、立体表現は日本画の技法に徹底的にこだわっています。日本画の画材でどこまでできるか、一種のチャレンジだったのでしょうか。この『メトロ』を皮切りに様々な試みを始めたと言われています。70歳にして発表した『交響』は、最も前衛的であると絶賛されました。 「日本画の枠を超えた自らの美への模索」が、この『交響』でした。従来の日本画では表現しきれない心象風景を新しい手法で表現したと言われています。一方、ライフワークであった仏教絵画も意欲的に制作します。若い頃から、仏教への造詣が深く、晩年に仏教をテーマにした作品を多く生み出しました。印象にとって信仰とは、何かひとつの宗教というのではなく、宗派を超えたものでした。「祈りの形」のひとつとして、教会のステンドグラスなども手がけています。仏教を主題に描かれた、観音菩薩像、阿弥陀如来などをはじめ、寺院空間に放つ、ふすま絵や天井画なども数多く残しました。 1963年、高知市の五台山竹林寺書院のふすま絵を発表。当時、この作品は大きな反響を呼び起こしました。なぜならば、「風神」「雷神」「太平洋」「瀬戸内海」の4題24面からなるこのふすま絵は、日本画家による抽象画という、これまでには決してなかった作風だったのです。日本画にとらわれず、また宗派を超えて、自由な感性で創作を続けた堂本印象。その作品には多くのメッセージがこめられています。伝統と革新、東洋と西洋、仏教とキリスト教…そして「祈りの形」。 日本の伝統がしみ込んだ芸術的感性の奥行きを一段と広げた印象ならではの世界観-…日本画壇に強烈な刺激を与え続けた偉大な存在であったことに改めて気づかされます。 こちらの美術館では、年間5回の企画展が行われます。本来、一人の画家だけの作品でこれだけの企画展を開催するのは難しいことです。印象が多彩であり色々な切り口を持っているからこそ、その多様性のある表現や様々な作品のプレゼンテーションが成り立ちます。建物そのものが作品である「京都府立堂本印象美術館」で、印象の世界観を感じてみませんか。※11月30(木)まで、特別企画展を開催中です。「超『日本画』モダニズム -堂本印象・児玉希望・山口蓬春」この機会にぜひ、ご来館してみませんか。また、「土曜美術茶論(サロン)」では、学芸員やスペシャリストの興味深い話が聞けます。11月18日(土)「戦争と美術---画家たちの戦争協力」京都府立堂本印象美術館館長/立命館大学文学部長 木村一信さん参加は自由ですので興味のある方は、詳細を美術館までお問い合わせください。取材協力:京都府立堂本印象美術館京都市北区平野上柳町26-3電話 (075)463-0007
2017.10.18
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~10月オープン!ザ・ラナイ@アラモアナ~ この秋、アラモアナセンターに新たなダイニングスペース「ザ・ラナイ@アラモアナ」がオープンします。10月27日(金)にダイヤモンドウィングにオープンするこちらは、フロアスペースが広々の450席。モダンな雰囲気の中、ハワイや世界各国の様々なグルメを堪能することができるスペースだとか。・地産地消をモットーにハワイ産の食材を使ったヘルシーなメニューやスムージーが楽しめる、「Da spot」・自然の牧草のみを食べて育った牛肉を使ったパテがこだわりの100%オーガニックバーガーショップ「Maharoha Burger」・オアフ島東部アイナハイナで大人気のコールドスイーツのお店「Uncle Clay’s House of Pure Aloha」・シェリンプや野菜の炒め物などの料理を始め、新鮮なフルーツジュースやスムージー、Bobaティーが人気のカフェ「HiTEA Cafe」などが入店するそうだ!!!他にもすでに決定しているショップも沢山あるので、チェックしてみてください。新たなグルメエリアとして、人気を呼びそうです。10月終りのオープンと云うことですがハワイ旅行の予定のある方も楽しみですよ!!!http://khon2.com/・・・/da-spot-uncle-clays-among-eateries-to-b・・・/ 参考文献 ハワイ州観光協会
2017.10.14
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陰暦9月の節。陽暦の10月8日か9日。季節的には秋の長雨が終わり、本格的な秋が始まるころ。露は結び始めのころは涼しく感じられるが、この季節には寒々として冷たく感じられる。ここ2~3日はまさに冷たく感じました。今日から2~3日は逆に夏に戻る程気温が高くなるそうです、朝夕の気温差の大きいこの時期、体調維持に気をつけましょう。
2017.10.08
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ハワイのことわざ A‘ohe hua o ka mai‘a i ka lā ho‘okahiバナナは1日にして熟さず。日本では「石の上にも3年」、イタリアでは「ローマは1日にして成らず」と言われるように、何ごとも辛抱が必要という意味のことわざです。是非覚えて行いて下さいね 参考文献 ハワイ州観光協会 go-hawaii
2017.10.07
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10月の秋風が気持ちいい毎日、いかがお過ごしですか。さて、日本の秋といえば古来より「菊」。祇園の舞妓さんの花簪(ハナカンザシ)も10月は「菊」ですし、京都の菊として知られる嵯峨菊、貴船菊(秋明菊)も、大覚寺や貴船神社などで訪れる秋の旅人の心を和ませてくれます。今日は菊のお話をしましょう。野生種は存在せず、中国で1500年ほど前にチョウセンノギク(C. zawadskii var. latilobum)とハイシマカンギク(C. indicum var. procumbens)を親に交配によって生まれたとされている。日本人と菊との関係は古く奈良時代から始まり、重陽の節会に菊酒を飲み長寿を願うという風習が長く伝わることになりました。花言葉は「清浄と高潔」。香りは外からの邪気や毒気を防ぎ、仏様を守る「涼血解毒」という作用があるそうです。菊は当時、薬用植物として重宝されていて、ビタミンA・B、カリウム、鉄、リンなどを含んでいます。日本にも350種ほど野菊が自生しているが、ヨモギのように食用とされ、観賞の習慣は平安時代頃、中国から秋の重陽の節句とともにもたらされた。万葉集には現われないが、古今集あたりから盛んに歌にも詠まれるようになった。「心あてに折らばやをらむ初霜のおき惑わせる白菊の花(凡河内躬恒 - 小倉百人一首 第29番)」春のサクラに対して日本の秋を象徴する花となるが、それが決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、「菊紋」を天皇家の家紋とした頃からである。平安時代には菊を観賞して親しむ文化が生まれ、菊の苗を原産地である中国から輸入し、宮廷内で熱心に栽培していました。詩歌や絵画、装飾デザインにも採り入れるなど、菊は京都の宮廷芸術にとって重要な存在になったのです。江戸時代に入ると栽培熱が高まり庶民自ら"品種開発ブーム"を巻き起こし、育種が進んで多数の品種が生み出され創意工夫し、現在に見られる和菊のほとんどの品種を生み出しました。菊細工や菊人形など「菊合わせ」と呼ばれる新花の品評がしばしば行なわれた。これらは江戸時代から明治、大正にかけて日本独自の発展をした古典園芸の1つとして、現在では「古典菊」と呼ばれている。全般に花型の変化が極めて顕著であるのが特徴で、「江戸菊」には咲き初めから咲き終りまでの間に、花弁が様々に動いて形を変化させるものすらある。このように発展した日本の菊は幕末には本家の中国に逆輸入され、中国の菊事情を一変させた。明治時代になると、花型の変化よりも大輪を求める傾向が強まり、次第に「大菊」が盛んになった。花型としては厚物、管物、大掴み、一文字などに収束し、花の直径が30センチメートルに達する品種も現れた。この傾向は菊を日本の象徴として見る思想と関係していると思われ、戦後にまで続いている。
2017.10.04
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