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特に報告すべき事はない。観察可能な腫瘍は現在無いから、いいのだか、悪いのだか分からない。ただスケジュール通りに淡々と抗がん剤を打ち続けている。 幸いにして強い副作用は出ていない。それどころか脱毛がなくなった。これは時期的には重水素減少水を飲み始めてから変化なので、それが効いたのかもしれないが、違うのかもしれない。 本当に分からないことばかりの世界である。抗がん剤の可否の議論も、まるで原発の賛否のような一種の神学論争になっている。 現在「観察可能な」腫瘍はない。従って抗がん剤の力であれ、重水素減少水やフコイダンなどその他のサプリの影響であれ、なんでもいいからこの状況が続いていけばいいのである。 いまのところ大きな問題はなく、正月は家で迎えられそうである。
Dec 26, 2014
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今年の「おきなわ文学賞」小説部門は「二十年の眠りと涙を一粒」久々に学部大学生の一席受賞となった。しかも昨日のべた「クオリティーオブライフ」と同一の作者である。全くタイプの違う二つの小説が、それぞれ第一位になるというのは前代未聞である。実は他のジャンルではセンスのある作者が詩や短歌、随筆などで同時受賞というのはあったが60枚近い短編を二作というのは、全く労力が違う。 選考は「二十年の眠りと涙を一粒」と「スクラップ-あるベトナム帰還兵の手記-」とに分かれた。一方は義理の父(母の再婚相手)と娘との心のつながり、もう一方は題名の通りベトナム帰還兵の物語である。部分部分のインパクトでは「スクラップ」の方が勝っているように思われた。実作者である田場美津子氏も同様な見解であった。 http://okinawa-bungaku.com/selection.html 反面「スクラップ」には傷も多いのに対して、「二十年~」は文章、構成、いずれも申し分のない完成度である。結局議論の結果「二十年~」の一席受賞となった。 「スクラップ」の場合、途中の傷や言葉の誤用はともかく、ラストに不満が残った。これが文学賞にしばしば生じる問題点である。60枚と言えば分類上は「短編」なのであるが、一般の方には相当の分量である。途中まではおもしろいのに最後でスタミナが切れてしまうという例が非常に多い。 その点「二十年の眠りと涙を一粒」は途中の伏線などを消化しながら、きっちり終わらせた。20歳と少しでこの完成度はたいしたものである。また秋沙美代という少しふざけたペンネームであるが、書き手が女性であることにいささかの疑問を持たないほど、こまやかな「娘」心の表現に成功した。 まだ学部3年生で多様な引き出しをもち、完成度が高いというのはまさに今後のさらなる飛躍が期待できる。若干の不安は完成度が高いがゆえに小さくまとまってしまうことくらいだが、そんな不安を吹っ飛ばして、中央に進出して貰いたい。
Dec 25, 2014
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「週明け」といいつつ、やっぱ入院してからになってしまった。 先週「琉球大学びぶりお文学賞」の授賞式があった。http://www.u-ryukyu.ac.jp/top_news/biblio2014122401/沖国のページの方が見やすいかも・・・http://www.okiu.ac.jp/topics/detail.jsp?id=791 行けないという程の体調では無かったのだが、夕方の院生指導は絶対休めないので、大事をとった。後で聞いたのだが、沖国の佳作の学生は、去年卒業したゼミの学生の弟だと言うことである。また詩の部門では日文の名嘉さんが佳作を貰っており、今写真をみるとちょっぴり行けば良かったと思う。 今年の小説部門は一作だけの受賞作が沖大生、佳作横並びながら実質的な二位が沖国生の作品と言うことになり、県内大学オープン化二年目にして、その効果が早くも出たといえるだろう。もちろんわれわれ選考委員には受賞者決定後までは、それぞれの属性等秘されており、純粋に内容だけで審査している。 この上位二者は、学部生の作品としてここ数年の中で突出しており、またタイプが違うため単純比較は難しいのだが、この二作品のうちでは「クオリティオブライフ」が受賞作であるというのが、三人の選考委員の共通した感想であった。 「クオリティオブライフ」は福祉施設実習に参加した大学生の体験を中心とした作品である。問題を先鋭化するために、本人の意識が全くなく、回復不能と判断された状態での安楽死・尊厳死が、合法化された世界を舞台としている。若い世代の一人として医療費の増加や家族の負担等の問題から、尊厳死に肯定的であった主人公だったが、非常に包容力のある施設長の判断で、実習生ながら尊厳死の現場に立ち会うことになる。単純にシステムとして許容してはいても、実際に生きている存在が死んでいくその瞬間何を感じるのか。ここらへんはぜひ作品そのものを読んでいただきたいところである。 この作品はモチーフそのものの重要性ということもあるのだが、モチーフによりかかって単純な意見文に陥ることなく、淡々と描写を重ねることで優れた小説表現となっている。しかも近年の若い世代に少なくない奇抜な比喩や、感性豊か(っぽく見える?)な警句などを用いず、それゆえかえって新鮮な印象を与えるのである。 作者が福祉文化学科3年次ということで、日頃の学習や貴重な実習体験を今回の作品で素材としたことは明かであるが、必ずしも体験重視というだけのタイプの創作者ではない。この作者は秋沙美代という女性的なペンネームで女性視点の作品を書き、今年の「おきなわ文学賞」を受賞しているからである。(つづく)
Dec 24, 2014
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『がんが自然に治る生き方』(ケリー・ターナー 著、長田美穂 訳 プレジデント社 2014/11/13 )という本がある。非常にありふれた題だが、全米でベストセラーになった本の邦訳で、絶望的と言われた状況からRADICAL REMISSION(劇的な寛解)に至った患者たちの9つの共通点を抽出したことで話題となった。9つとは以下のとおり。1抜本的に食事を変える2治療法は自分で決める3直感に従う4ハーブとサプリメントの力を借りる5抑圧された感情を解き放つ6より前向きに生きる7周囲の人の支えを受け入れる8自分の魂と深くつながる9「どうしても生きたい理由」を持つ このうち具体的・実践的なのは1と4のみであり、他の7つは精神的な問題である。これらについてはいろいろ考えることがあったのだが、今日は最後の9「どうしても生きたい理由」を持つ、について。 私のような微妙な年齢だと、なにかあまりにも命に執着するのも見苦しいような気がして、「潔く運命を感受しよう」などと思わないこともないのだが、そんなこと考えるとやはり長生きしないようである。どうしても生きるという意思は基本の基本である。 実は私には理由があるのである。一つは3男。まだ5歳である。もう一つは今までサボっていたのがいけないのだが、沖縄文学研究のあまりにも中途半端なことである。本当は自分のやってることの意義がようやく明確になったのは今年の首都大学での発表であった。沖縄の文化はすべて「政治」に食われてしまい、表現の多様性など全く知られていない。当たり前であり、戦後沖縄文学の葛藤など沖縄県民自身の関心の外なのである。じゃあ消え去っていいのかといえば、絶対にそうではない。日本の文化・文学の中でも例外的な特色をいくつももっているのである、とこの問題を書き始めると長くなるので別な機会にする。 とにかく私にはまだ時間が必要である。次男から9年も経って授かった命。彼が私の家をどんなに明るくしたか。私の人生に意義をつか加えたか・・・やはり成人、もしくは大学卒業くらいまでは見守ってやりたい。また心を入れ替え変えてちゃんとやりますので、研究時間をもう少し下さい。 というわけで私は70才まで生きることにした。
Dec 19, 2014
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自分がかかるまでは「がん」という一種類の病気があって、それが単にどこに出来たかで「肺がん」とか「胃がん」とか呼ぶのだと思っていた。しかしどこに出来るかで「がん」は全くその性質を異にするのである。 その中で「食道がん」は厳しいがんであるうえ、なかなか新しい治療法が出てこない。例えば白血病などはかつては不治の病の象徴だったが、現在ではかなりの割合が助かるようになった。食道がんの場合、早期の治療は進歩し、私の場合も手術は成功したのだが、これが転移していると非常に厳しいのが現状である。基本的には1950年代に発見された5FU(フルオウラシル)とシスプラチンという抗がん剤が今でも主力である。 これらは副作用がきつい上に、治療法も厳しい。特に5FUは24時間×5日の点滴を基本としている。故に絶対入院が必要なのである。さらに標準治療の場合、これを中二週で行う。月によっては第一週と第四週がまるまる入院ということになってしまう。実際には中二週とはそれ以上詰めると白血球が戻らないという基準のようだが、患者がはっきり意志を示さないと医師としては標準療法に従わざるを得ない。なぜなら医師が標準治療を守った上で患者が死亡した場合、医師としてはやむを得ないが、勝手に治療法を変えた場合責任を問われる可能性があるからだ。体が耐えられるぎりぎりの濃度で、二週おきにがんがんやっていけば、たしかに一年持たないような気がする。 私の場合は主治医と話し合いの上、最終的には私の合意のうえで、標準療法の半分の濃度を経過を見ながら投与すると言うことになった。冬休みまでは卒論指導をしたいので、22日までは仕事。祝日を挟んで、クリスマスから入院である。気の毒に思う人もいるかもしれないが、あくまで私が主体的に決めた日程である。
Dec 12, 2014
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なんで食事療法にこだわるかというと抗がん剤では治らないからである。 どうして根治できないかは諸説あるが、抗がん剤は単なる延命に過ぎず、人によっては抗がん剤で体が痛めつけられる分を差し引けば、延命にもならないともいう。がんは次第に抗がん剤に耐性をつけていく。体は次第に弱っていく。やがてアウトである。この夢も希望もない治療?が現代医学で承認された標準療法である。生き延びた人には抗がん治療をやめた人も多い。 一方私の場合、今のところ副作用は極めて限定的である。退院した翌日から学生を見たりできる。ということはしばらく抗がん剤で様子を見るというのが、まあ無難なような気がする。しかしいつ治療に困難が訪れるかわからない。それゆえ元気なうちに可能性のある療法、厳密なデータは存在しないが、完治もしくは一種のがんとの共生状態で何年も生きている人の仲間入りしようというわけである。 明日また病院であるが、今のところ観察可能な腫瘍はない。しかし血液の中にどのくらいがん細胞があるのかわからない。いくつかのマーカーという数値があり、人によっては参考になるのだが、私の場合ほとんど健康と同じ数値しか出ない。PETという目に見えないがんも測定できる検査も今月中に受ける予定である。 外見だけをみるとほぼ治っている。元気そうですね、といわれると複雑な心境である^^
Dec 5, 2014
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