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四、多様性。沖縄戦とは何であったか。基地とは何であるのか。 以下の二篇はいずれも摩文仁、沖縄県平和祈念公園で朗読されたものである。 沈黙の渚 (1979.6.22) 中里友豪 空はつながっている(2014.6.23) 石垣市の小学校三年生○恒例の「平和の詩」今年の応募は一五〇八篇だった。 黒いもくまおう(2004,8) 當間弘子 (日本文化学科四年)○沖国大のヘリ墜落を素材にした作品である。 五、大和化、同化の最終段階。○「日本人として足下の日本文化を学びたいです」○「自分をまるっきり日本人だと思っていたので、大学でナイチャーに出あったとき戸惑った」・・・ ゆいまーるツアー 宮城隆尋 道 宮城隆尋 七月三十一日の手紙~静かな空の下で~ トーマ・ヒロコ 私でないもの 西原裕美
Jul 23, 2014
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この部分だけはそれなりの資料的価値がると思われる。別紙 山之口獏賞受賞者と生年沖縄、奄美在住もしくは出身の過去一年に発表された「詩集」に対して贈られる。現在の選考委員は天沢退二郎氏、以倉紘平氏、与那覇幹夫氏。1回 1978 岸本マチ子(1934)『黒風』*1932年生とする資料もある。2回 1979 伊良波盛男 (1942)『幻の巫島』3回 1980 勝連敏男 (1940)『勝連敏男詩集1961~1978』 芝憲子 (1946)『海岸線』 4回 1981 大湾雅常 (1930)『海のエチュード』 5回 1982 高橋渉二 (1950)『群島渡り』 船越義彰 (1925)『きじなむ物語』 6回 1983 矢口哲男 (1951)『仮に迷宮と名付けて』7回 1984 高良勉 (1949) 『岬』 与那覇幹夫(1939) 『赤土の恋』 8回 1985 市原千佳子(1951)『 海のトンネル』 9回 1986 八重洋一郎(1942)『孛慧(ばず)』10回 1987 松原敏夫 (1948)『アンナ幻想』11回 1988 佐々木薫 (1936)『潮風吹く街で』 12回 1989 進一男 (1926)『童女記』 13回 1990 大楠孝和 (1943)『夫婦像抄』 14回 1991 花田英三 (1929)『ピエロタへの手紙 』 15回 1992 上原紀善 (1943)『サンサンサン』 16回 1993 山中六 (1953)『見えてくる』 17回 1994 仲川文子 (1944)『青卵』 18回 1995 安里正俊 (1942)『マッチ箱の中のマッチ棒』19回 1996 仲嶺真武 (1920)『再会』20回 1997鉋浦敏 (1933)『星昼間』 21回 1998 中里友豪 (1936)『遠い風』 22回 1999 宮城隆尋 (1981)『盲目』 藤井令一 (1930)『残照の文化-奄美の島々』 23回 2000 宮城英貞 (1938)『実存の苦木泉』 山口恒治 (1940)『真珠出海』 24回 2001 山川文太 (1941)『げれんサチコーから遠く』 25回 2002 勝連繁雄 (1941) 『火祭り』 佐藤洋子 (1951)『(海)子、ニライカナイのうたを織った』 26回 2003松永朋哉(1982)『月夜の子守唄』 27回 2004 仲程悦子 (1949)『蜘蛛と夢子』 水島英己 (1948)『今帰仁で泣く』 28回 2005 大城貞俊(1949)『或いは取るに足りない小さな物語』 久貝清次 (1936)『おかあさん』 29回 2006 該当者無し30回 2007仲村渠芳江 (1953)『バンドルの卵』 31回 2008 大石直樹 (1960)『八重山讃歌』 32回 2009上江洲安克(1959)『うりずん戦記』 トーマヒロコ(1982) 『 ひとりカレンダー 』33回 2010瑶いろは(1978)『詩集 マリアマリン』34回 2011下地ヒロユキ(1957)『それについて』 新城兵一(1944)『草たち、そして冥界』 35回 2012 網谷厚子(1954)『瑠璃行』36回 2013 西原裕美(1993) 『詩集 私でないもの』 37回 2014かわかみまさと(1953)『与那覇湾―ふたたびの海よ―』 米須盛祐(1937)『ウナザーレーィ』1920代5人1930代10人1940代17人1950代10人1960代1人1970代1人1980以降4人 1950年代は、55年以降0であり実質的にはほぼ昭和20年代生まれという分厚い表現の層があるといえる。55年生まれのものは17歳で復帰を迎えている。沖縄戦後詩は占領下を生きた人々の表現という仮説が成り立つ。 一方60年代、70年代という空白期間をこえ、80年代以降の若い世代が、新しい層を形成していくのか、このまま尻すぼみなのかは、現時点で何ともいえない。
Jul 23, 2014
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今回のレジュメは沖縄戦後詩という多様な表現の紹介が第一目標だったため、詩作品の引用が中心となった。ほとんど大半が全国的にはうもれて終わるわけで、著作権より広く紹介するほうが重要なような気もするが、やはり法律は法律。ネットでは、作品についてはタイトルと作者名のみを記すのみにした。 沖縄・戦後状況と歌(うた) 大野隆之はじめに 大城立裕の「カクテル・パーティー」以降沖縄文学は小説を中心に論じられているが、沖縄の民衆にとって広義の文学とは芝居であり、「うた」であった。刻一刻と変化する沖縄の状況を、ウチナーンチュたちは、詩、短歌、琉歌とさまざまな形式でうたってきた。今回は簡単ではあるが、戦後沖縄の多層的で多様な思想、表現を、おもに口語自由詩を中心にたどっていきたい。 一、収容所からの出発、カンカラ三線とうた。 村 其の二 牧港篤三○生き延びた安堵感、新しい生活への期待、アメリカ文明に対する驚き、「人間」としての米兵、悪夢のような沖縄戦が反復されるのは、やや後のことになる。○解放者アメリカのわずかな時期。豊富な食料。文教政策、医療政策。これらは短期間ではあったが、あたらしい「世紀」として歓迎された。 コザ高校 詞 世礼国男 一九四八(昭和二三)年 1 中城湾頭緑の丘辺/橘薫り楊梅みのる秀麗の地に学徒一千/新しき世紀の学園 コザ高校2ああ千載の 封建破れ/丘上指呼す 遠近の島英雄の夢今はた何処/新しき自由の学園 コザ高校 3太平洋上 朝日は昇る/民主の波は 輝き寄する吾等謳わん人類の誉れ/新しき平和の学園 コザ高校4若き血潮の 燃え立つところ/希望は翔り 力地に満つ吾等築かん文化の楽土/新しき叡智の学園 コザ高校○アメリカが提示する「普遍」的理念、戦後を希望の新世紀とし、戦前の抑圧を暗示している。二番は神話の時代から琉球王国の伝統を歌っているとみられるが、それすら過去のものでしかない。○戦前に歴史をもつ旧制中学は、やや複雑な問題をはらむ。 最も長い伝統を持つ首里高校は戦前の校歌に若干の改変を行った。沖縄第一中学校歌を土台とし、現、首里高校校歌の改変部分は( )で表記した。 1仰げば高し弁が峰/千歳の緑濃きところ眺めは広し那覇の海/万古の波の寄るところこれ一千の健児(学徒)らが/気負い立つべき聖天地2それ海南の一孤島/世は濁浪のよせくとも自疆の巌永久に/進取の船に棹さしてたゆまず進め我が友よ/理想の岸は遠からじ3ああ果てしなき海原も/雲にそびゆる高峯も渡るに何か難からん。越ゆるに何か難からんわれに不断の勢力あり われに一如の至誠あり 4建国二千六百年(古城のほとり咲き匂う)栄えある歴史偲ぶれば(文化の華を偲ぶれば)我らが本務軽からずいで中山の健男児(若人よ)若き血潮のよどみなく奮い励めよ国のため(奮い励まん諸共に)○二中、那覇高校は全面的に新しい校歌を作った。一番全てが先の大戦を歌うという他に例を見ない作品である。那覇高校 校歌 (1949発足)作詞 真栄田義見 1 世紀の嵐吹きすさみ 故山の草木形変え千歳の伝統うつろいて 古ぬる跡も今はなし2東支那海水清く 空はなごみて地は静か乾坤ここに春に逢い 新沖縄の夜は明けぬ3城岳原頭空高く いらかはそびえ陽に映えてもゆる理想の二千余の 若き力の意気高し4雨にも風にも嵐さえ たゆまず進む学(ふみ)の道結ぶ心のゆたかにも 励まし励む那覇高校5沖縄の空狭くとも 心は通う五大洲世界に伍する高き道 いざおうらかに進みなむ○同じように大戦で大きな被害を受けた広島第一中学→国泰寺高等学校の校歌では「ああよみがえる 広島の」という非常に暗示的な形で表現されている。 ○以上の改変、新作に占領軍の指揮指導が行われた形跡はなく、それぞれの学校が独自に判断したものだと思われる。二、占領政策の転換と抵抗の歌、『琉大文学』 一九五〇年朝鮮戦争が勃発するとアメリカの占領政策は「解放」から「抑圧」へと転換する。奇しくも同じ五〇年に開学した琉球大学にうまれた『琉大文学』は、当初は一般的な文芸活動をしていたが、徐々に思想的な運動となった。新川明や川満信一は現在にいたるまでの沖縄の言論にまで大きな影響を与えている。ブラック・アンド・イエロー(駐留黒人兵に捧げる歌の一) 新川 明島(2) 川満信一○大学卒業後に書かれたものだが、『琉大文学』の典型的といってもいい作品。 「空道」・・・清に朝貢するときには、どんな指示命令にも即座に対応するため、琉球王の署名捺印の入った白紙を持参した(とされる)。○生硬なプロレタリアリアリズムから、「反復帰」へ。沖縄独立ではなく、国家そのものを否定しようとする新川、川満らの「反復帰」論は、具体的な政治システムの提案などは無かったが、復帰前後の若い知識人たちを引きつけた。その後、たとえば目取真俊らは、その後継者と見なしうる。マスコミや知識人の指導的なポジションにいる彼らの声は、沖縄の多様な声の中で大きな声であり、中央のマスコミの単純化をへて、まるで沖縄には一つの声しかないような誤解を生み出している。三、沖縄における世代という「層」について。 世代というとらえ方は本質的ではないという見方もあるが、何度も不連続な激変を体験した近代沖縄県民は、世代によって全く性質の違う世界を生きたとすらいえる。たとえば「山之口獏賞」という一つの賞をどのような世代が受賞しているか、といった小さな事実をみるだけでそれが理解できる。(別紙資料)。
Jul 23, 2014
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かつてはバブルの残り香みたいな感じで反感もあったが、20年ぶりに行ってみると、木も伸びていい感じである。衰退するに違いないとか言われていた駅前も、いい感じであった。ここに凱旋できたかw さて県外で沖縄の話をする時には、注意事項がある。早稲田の沖縄文化協会とかの特殊な学会以外では、「参観者は基本的に沖縄のことを何も知らない、もしくは誤解している」ということである。これは例えば私が「山形の文学」について何も知らないことと同じことである。青森だと太宰と寺山修司がなんとなく思い浮かんだりするが、今調べたら葛西善蔵とか、三浦哲郎もそうなんだ・・・とか、まあ全然知らないのである。 要するに人々はよその県のこととか普通知らないのであるが、変なマスコミが持ち上げるために沖縄の自意識が高くなってしまう。「沖縄のことを私たちはもっと知らなければなりません」って、逆に四国の四つの県と県庁所在地をきっちり言える沖縄県民は非常に少数である。 福島の大熊町の人々のこととか関心はあっても、今現在人々はどんな状態か、私は知らない。何ができるのかもわからない。要するにそういうことである。沖縄のことも普通知らないし、知ってもらいたければわかりやすく発信すべきである。 さらに人々は楽しいことは知りたい。どこのお店がおいしいのか知りたい。どこの観光地が楽しいのか知りたい。どこの風景が綺麗なのか知りたい。今現在沖縄本島で一番綺麗なのは多分古宇利島である。だからドラマになる。 一方一番騒音きついのは、嘉手納のF15が入ってくるとこか、上大謝名のC130のルートか、住んでいるという点では上大謝名の方がきついかとか思うが、こんな情報知りたい人は滅多にいない。 私は沖縄のことを他府県の人々に知ってほしいと思う。沖縄独立などと主張してるのは、いかれた少数である。若い世代はアメリカより、中国の方が怖い、嫌いだ。そして今回のテーマでいえば、沖縄の詩というのは結構面白いですよ。それだけである。 詩というジャンルはかつては若者の自己表現の有り様として、それなりの意味があった。しかしまだ不十分な研究であるが、早い観点では1971年吉田拓郎の「旅の宿」遅くとも1973年荒井由実の「飛行機雲」あたりから、シンガーソングライター、すなわち詩だけではなく曲も作れて歌も歌えるという存在が主流となり、単なる言語表現である「詩」の役割は大きく後退した。しかしそのような時代にあっても沖縄の詩は大きな意味を持っていたのである・・・・と内容になってきたので続きは明日。
Jul 22, 2014
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今回の出張目的はいうまでもなく首都大学東京での発表だったわけだが、飛行機チケットがもったいないので早めに東京に入り、出かけたのが写真の松竹大谷図書館である。日本唯一のシナリオ図書館。東京にはなんでもあるなあ。 今回の目的は目取真俊の「風音」シナリオ、および中江監督作品の状況だったのだが、楽勝ですぐ出てきた。司書は非常に優秀で、かつ客が少ない(私がいた時間4人)ため、異常に親切である。私が「風音」シナリオをゲットしたのは入館後5分であった。閉架図書館でこれほどのスピードはほかに例がない。 ただ問題点としては、出版されて市場に出た資料のコピーはできるのだが、未発表シナリオのコピーはできない。例えば「ナビィの恋」のシナリオは出版されているのでコピーできるが、「風音」はダメである。小説版をコピーして持参するなど万全の準備が必要である。 その他例えば「遊星より愛をこめて」のシナリオとかもあるのかないのかチェックすればよかったなあ。
Jul 21, 2014
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長男が生まれた16年前以来、里帰り期間を除いては久々の夫婦二人のデートであった。ニイニイありがとう^^ さて、コンサートであるが、4000人収容の宜野湾海浜を埋め尽くすのは50代を中心に40から60代がメイン。30代以下もいないこともなかったけれどごく小数だった。おばちゃん、おっさんが総立ちの中、御年66歳の小田和正が信じられないほどの体のキレで会場を歌いながら歩き回るという、ある意味シュールな情景。けどファン層はユーミンとかサザンとかもこんなもんなんで、今や日本中あちこちで普通に発生している状況なのだろう。 構成は、序盤、ニューアルバム「小田日和」のプロモーションであった。正直大半の客はオフコースを聞きに来ているのであるwそれを承知で、軽妙なMCやイメージ映像を用いながら、多くのファンが初めて聞くナンバーを披露する。最近の小田和正の楽曲は、「君」という二人称で、クールでありながら倫理的な愛を語る、というのがコンセプトなので、初めて聴く曲でもどこか懐かしい。 後半になるとオフコース時代のナンバーを放出。時折観客にマイクを向けるタイミングは絶妙で、観客の合唱が結構上手。しかしその興奮の中でもニューアルバムのナンバーも折込み、決して懐メロ歌手ではなく、まさに今動き続けるアーティストであるというこだわりは凄かった。 観客の多くは私を含め「夫婦」であり、現在の幸福と、10代20代の青春時代に遡行するというコンサートであった。終了時の下手な祭りより豪華な花火も凄かった。40年以上トップに立つアーティストというのはさすがである。
Jul 6, 2014
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