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菅原御伝記には書かれています。天穂日命十四世の孫、野見宿禰は垂仁天皇崩御の際、その喪葬に任じ。ついで皇太子(景行天皇)はさらに土師氏をもって陵戸に充て、兼ねて山守たらしめた。爾後、土師氏は永く菅原の地(菅原伏見邑)に住することになり、奈良朝の末、天応元年(781年)居地によって菅原の姓を賜ったのである。事実土師氏は長きにわたって「葬式屋」と陰口を叩かれ続けていたのでした。旧西郷邸のサクラです。明治政府を辞し鹿児島に戻り西南戦争で亡くなるまで暮らした家のあとです。まだまだ満開とは言えません。
2008年03月31日
彼らにとって手ひねりの泥人形をつくることはたやすい仕事でした。元来が彼らの業をする仕事は土器つくりだったのです。そしてさらにその前は宇陀・長谷・三輪地方の産鉄鍛冶だったのです。それが王権との長い争乱の中でついには産鉄権を奪われて八雲たつ出雲などと曖昧に表現される土蜘蛛に落とされ、そして土焼きのなりわい分相応と土部におとしめられたのです。野見宿禰はこの埴輪作りの功績で姓を賜りました。土師臣(土部臣)はじのおみという姓を下賜されたのです。野見という呼び名も決して誇れるようなものではありませんでした。けれどもこの土師氏もまた陰口をたたかれるような姓であったのです。
2008年03月30日
崇神天皇の32年の出来事です。野見宿禰は埴輪をもって殉死に替えることを進言して容れられました。以後天皇陵に生きた人間が埋められること、殉死・殉葬させられることはなくなりました。崇神天皇のおゆるしをいただいた野見宿禰は一族の屯する初瀬川あたりに駆け戻りました。殉葬者の代用に土人形を献上することになった。皆も是非力を貸して欲しい。 ・・・・・そう要請しました。いつ降りかかってくるかも知れないわが身への危機をかわす手段です。一族に異論なんかあるはずもありません。総力を挙げての埴輪つくりが開始されました。土人形や土の馬・・おもいつくままに様々な土焼きが製造されていきました。
2008年03月29日
西郷さんの最後の家です。私ンチからさほど遠くありません。ここの桜はまだあと少しかかります。鹿児島の気象台も今日開花宣言を出しました。昨日の嵐のような天気で鹿児島では竜巻まであったようです。
2008年03月28日
奈良県櫻井市に出雲という場所があると聞きます。初瀬川という地名は今もあるのでしょうか。その初瀬川に沿った出雲の聚落に十二柱神社があって境内の右手の奥の狭いところに今でも古びた供養塔は建っているのでしょうか。野見宿禰の墓と伝えられる大きな五輪塔です。足を運んだことがありません。行ってみたいところはたくさんあります。けれども私の行きたい場所はあんまり観光案内に載っていないところばかりなのです。今頃はもう桜が咲いていると思います。
2008年03月27日
日本書紀は書いています。野見宿禰はすなわち留まりて仕えまつる・・・・出雲国から馳せ参じて当麻蹶速を殺した功績によって与えられた恩賞とはすなわち当麻蹶速の土地・民・技術・神々だったのです。その当麻蹶速から野見宿禰へと移った所領地の名は腰折田コシオレダといいます。そして大変興味深いことではありますが。野見宿禰の出身地出雲はもしかしたら島根県のそこではないかも知れません。ご近所の桜も花をつけ始めています。
2008年03月26日
この川、甲突川の堤の上は桜の並木です。もうすぐ、ほんの数日で桜の花盛りになると思います。遠目には見えませんでしたがココにひとつ。むこうにひとつ・・桜の花が開いていました。テントが見えているのは春の木市が始まっているのです。
2008年03月25日
焦るなよ。もうちょっと待てよ。そう言っているのは大久保利通です。ちょっと余裕がないんです。ちょっと焦っているんです。落ち着きなさい・・・・彼はそう言っているようです。
2008年03月24日
雨の日曜日です。常緑樹はいつも緑を誇っていますがいつでも枯れ葉を抱えています。季節の変わり目の強い風の日や雨の降る日曜日には不必要な枯れ葉が振り落とされます。
2008年03月23日
もうひとり対戦相手の野見宿禰のみのすくねもまた特殊な一族のトップです。土師連はじのむらじの祖でした。そしてやはり土蜘蛛ではありました。ふたりの対決は立ち会いのはじまる前から悲惨な空気をはらんだものだったのです。土蜘蛛・・まつろわぬものたちです。ふたりの戦いははじめからひとりが消される運命でした。カタヤケシという古い地名はカタヤケシ・・片方が消される・・から来ています。もっとも一説に過ぎませんが。
2008年03月22日
この中に二羽・・新米のウグイスがいました。ほぉ~ほけきょの練習中です。ウチで訓練してた子よりもちょっと上手でした。
2008年03月21日
当麻蹶速たぎまのけはやの悲運は垂仁天皇七月の七月七日、全く突然訪れました。力比べをヤレ・・という命がくだったのです。彼は産鉄をなりわいとする一族のトップでした。彼はオオクニヌシのモデルであったろうと言われています。旧王族であったであろうという説にも信憑性があります。王族の最大のスポンサーでもあったのです。とりあえず彼は王権にとって目の上のタンコブではありました。新しい王権と血のつながりも作られていきました。彼らいわゆる土蜘蛛つちぐもの一族です。ミノムシは鬼の子だと言われていました。
2008年03月20日
びびりました。私は上を向いていたからです。立ち止まってぼぉ~っと上を眺めていたからです。犬はちょっと恐いです。
2008年03月19日
坊主になってお詫びをする・・そんな言葉を時々耳にします。現在の常識はときどき古の非常識です。私の常識はときどき世間の常識とズレテしまいます。坊主とは世捨て人です。人ではあっても人にあらざる者のことです。僧とは曾ては人であった者のことです。だからこそ僧という字を使います。少なくとも奈良時代から平安時代の初期までは出家するということは原則として家を出るということでした。家を出るとは家に定住しないということ。戸口人別を離脱するということ・・・・です。現世に身を置きながら現世の人間ではなくなること。生きながらにして死に体となることです。死に体であるとは一切の欲望とは無縁の存在となる・・・そういう意味です。ただ単に頭を丸めた・・そんな意味ではありません。671年10月17日病の天智天皇は実弟大海人皇子おおあまのみこを枕元に招いて後事(譲位)を託しました。けれども大海人皇子はこれをきっぱり辞退、その日のうちに落飾出家してしまいました。
2008年03月18日
太安万侶が書いた古事記の序文は格調高い文章です。諸家の持てる帝紀および本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加うと聞けり。いまの時に当たりて、その誤りを改めずば、いまだ幾年も経ずして、その旨滅びなむとす。これすなわち邦家の経緯、王家の鴻基(こうき)ぞ。かれこれ帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り、実(まこと)を定めて、後の世に伝えんと思う。この美しい言葉断固とした決意が官撰国史である日本書紀と同じ編纂趣旨であったことを物語っています。ですから・・だからこそ蘇我蝦夷に罪を被せ天皇記・国記を焚書にふしたのは、天武天皇その人だったのではないかと思えるのです。古事記と日本書紀の共通の主張は、天皇家を中心とする国家統一の思想だったということです。しかしながら天皇中心主義を謳いあげるにしては天武天皇自身が大きな矛盾を抱えていました。壬申の乱で彼が縊死に追い込んだのは他ならぬ皇太子だったのです。大友皇子が一説に認められているようにもし天皇になっていたとしたら、彼は天皇殺害という大逆罪を犯したことになるのです。蛇足ですが・・大友皇子は明治3年1870年「弘文天皇」と追諡されています。やっぱりやっちゃっています。かも知れません。
2008年03月17日
もう一方で天武天皇の詔によって古事記と同時作業で発足した日本書紀の方は、太安万侶の古事記撰上から八年後の養老4年720年5月21日完成しました。紀30巻・系図一巻が元正天皇に撰進されました。六国史の筆頭に挙げられる「官撰」の国史第一号となりました。この経緯からふたつの書物は「記紀」とセットで呼ばれてはいるものの、現存する最古の文書である古事記は日本書紀と同等の扱いを受けてきたとは言えません。つまり現存する我が国最古の官撰国史は日本書紀であり、その範疇に決して含まれることのない古事記は最古の「文芸書」ということになります。そんなお遊びであるのならどうして天武天皇は記紀の編纂を同時進行させたのか。下級の官僚にすぎない一舎人の稗田阿礼を四年間も拘束して、身分的に考えてもあり得ない一対一の密室作業を行ったのか。しかもひとりの史生(下級の書記・記録係)を置かないで、です。文字を使うことを拒否して稗田阿礼の頭の中に保存させるという奇妙な形を取ったのか。古事記は面白い成立をしています。
2008年03月16日
ほら調所広郷があんな不自然な格好をしているのはイスに腰掛けているからなのです。あんな不自然な姿勢は長くは続けられません。いくら我慢強い彼であっても・・ちょっと無理です。ドラマ篤姫で平幹二郎が重みのある演技をやっていました。けれども調所広郷のこの像には、あんまり人気はないようです。ここで人が立ち止まっているのを一度も見たことがありません。彼は調所笑左衛門広郷と言います。島津重豪の茶坊主でした。重豪と斉興は彼を経済面のトップに据えました。斉興もただの悪役ではありません。もちろん調所広郷もです。
2008年03月15日
太安万侶はその翌年和銅5年712年正月28日稗田阿礼のそらんじる帝紀・旧辞・・・天武天皇の修正が加えられた内容です・・・を「古事記」三巻にまとめ元明天皇に献上しました。わずかに四ヶ月のスピード作業です。この時点で阿礼は59歳。語り部としての並みならない暗誦力は、まさに鬼才としか言いようがありません。しかし阿礼の残した功績については、彼がどのような叙勲を受けたかなどを語るモノは何も伝えられてはいません。彼に関しての記録はただひとつ太安万侶が古事記の序文に書いた下記の数行に過ぎません。時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八。人となり聡明にして、目に渡れば口に誦み(よみ)、耳にふるれば心にしるす。すなわち阿礼に勅語り(みことのり)して、帝王の日継(ひつぎ)および先代の旧辞を誦み習わしめ給いき。思うに古事記撰上とともに稗田阿礼はふたたび用済みとなってなんの顕彰もされることもなく放り出されたのではないか。わずか28歳の舎人阿礼は本当に帝紀・旧辞を暗誦している天才だったのか。たくさんの群臣があるなかでどうして稗田阿礼だけがそれを諳んじていたのか。天武天皇と稗田阿礼による古事記誦習作業そのものに疑問を持たずにいいのか。なんて・・・・****例によって回りくどい長い前振りばかりです。菅原道真を語ろうとしていたわけです。その前に彼の先祖野見宿禰のことを書くための準備が長引いているわけです。道真は天皇陵に生き埋めにされる一族の末裔だったのです。
2008年03月14日
稗田阿礼が帝のお召しをうけたとき彼は28歳でした。そして誦習作業が中断されお役後免になった段階では32歳になっていたはずです。それが685年9月24日です。その阿礼がふたたび喚び出されたのは和銅4年711年9月18日のことです。元明天皇が太安万侶に詔して阿礼の記憶を繰り出させ天武天皇が阿礼に誦習させた帝記・旧辞を聴取しこれを筆録するように下命したためです。
2008年03月13日
幸いにしてすでに記録の消失してしまった帝紀・旧辞は一介の舎人とねり稗田阿礼ひえだのあれがそらんじていました。ただの舎人が・・・・です。とっても不思議なことだと思います。太安万侶の古事記序文を言葉通りに信じるとすれば古事記作成は天武天皇が勅語みことのりをもって阿礼を召し彼の暗誦していた帝紀・旧辞を帝が修正しさらに修正の加えられた帝紀・旧辞をふたたび阿礼が暗記していくこんなに複雑な方法で行われていきました。古事記が推古天皇の条で終わってしまっているのは天武天皇が病を発しふたりの「帝紀・旧辞修正版」の暗記暗誦作業が中止せざるを得なくなってしまったためです。685年9月24日のことでした。それっきり稗田阿礼という一舎人の存在は忘れ去られてしまいます。
2008年03月10日
お昼から雨が落ちるのは分かっていたのです。桜島にこの雲ですから。引き潮と満ち潮が入れ替わるときに海が川に向かって攻め上ってきます。大きな波ができるのです。
2008年03月09日
ある世代から上の世代には大化の改新と名前で有名なこの政変は現在の大学入試では乙巳の変いっしのへんと呼ぶのが一般的です。年代チェック・・です。実は微妙に異なるのですが・・・・ここでは今さほど重要なことではありません。この政変により皇極女帝退位。軽皇子かるのみこが即位して孝徳天皇に中大兄は皇太子、鎌子は内大臣となりました。この乙巳の変は臭い物(・・・・汚らわしいむさい鬼の意味です。ココでは蘇我蝦夷・入鹿の父子が鬼に擬されました。)には蓋(・・・・葬り去る、封じ込めるの意味です)をしたあとの言い種ですから額面通りに受け取ると歴史の真実は見えなくなってしまいます。大化の改新と称された645年6月19日のバラ色に惑わされてはなりません。それよりも6日前に天皇記・国記が作為的に焼亡していることは心に置いておく必要があります。天武天皇が律令の作成と、本来ならば蘇我蝦夷・入鹿を滅した天智天皇によって行われるべき天皇記・国記の再編、つまり古事記・日本書紀の編纂に着手したのは681年のことです。乙巳の変から36年の年月が流れていました。しかし。天武天皇はこれらの完成を見ることはありませんでした。草薙剣くさなぎのつるぎの祟りという恐ろしげな託宣を受け686年9月9日に亡くなっています。・・・・霊や怨霊が、荒ぶる神々が存在していた時代です。
2008年03月08日
皇極紀は宮廷・大極殿で入鹿が斬殺(6月22日)され、翌13日に父蝦夷が自邸に放火自害したことによる天皇記・国記の消滅・・・そう述べています。焼亡の責任を蝦夷に負わせているわけです。また僅かに国記のみ全焼を免れたのは中大兄一派に加担する船史恵尺ふねのえびとえさかが猛火をかいくぐり運び出したからだ・・・とも書き記しています。しかしこれでは話が少し違います。せっかく危険を冒してまで典籍を搬出したのであれば大切な天皇記を焼いてしまったというのでは、敢えて記録に留めこれを顕彰するには値しないのではないか・・・そう思います。
2008年03月07日
帝記・旧辞は大化元年645年6月13日に焼失しました。馬子の子である蝦夷(-645年)と蝦夷の子・入鹿(-645年)の王権壟断を憎む中大兄皇子なかのおおえのみこや中臣鎌子なかとみのかまこの謀略により蘇我氏の主流が滅亡したときにこの二つの書物もまた消滅してしまったわけです。大化の改新・・・です。もちろん蘇我氏が王権を掌握して、その権勢下で書かれた「天皇記」と「国記」が蘇我王権に都合良く書かれていただろうことは想像に難くありません。史実もまたかなり改竄されていたに違いありません。であったにしても・・です。「天皇記」を焼いたのが蘇我王権の事績を後世に伝えたくない中大兄一派のしわざであったろうことは容易に考えられます。
2008年03月06日
古事記・日本書紀が書かれる前に、この国では天皇記・国記が著されていました。推古天皇の28年(620年)聖徳太子と蘇我馬子の手になる我が国最古の帝記・旧辞です。けれどもこの二つの書物は歴史から完全に消滅してしまっています。日本にもしもトレジャー・ハンターが存在しているとしたらもしも私が彼らに意見を言える立場にあるならこの2冊の書物を探せと頼みます。これらの書物は作為的に消去されてしまった疑いがあります。ほとんど間違いありません。
2008年03月05日
日本書紀の垂仁天皇七年の条に相撲の事始めのお話が載っています。野見宿禰のみのすくねと当麻蹶速たぎまのけはやのお話です。遠い遠い昔のお話です。菅原道真のお話です。天神様のお話です。訳の分からない戯言です。けれども私の中ではちゃんとつながっているつもりなのではありますが。本当は黄砂なのか桜島の降灰なのか区別のつかない・・鹿児島です。暇な私の頭の中は完全にクルクルクルクル・・パアパアパアティです。
2008年03月04日
桜島がケムっているのはきっと雨のせいばかりではありません。黄砂・・・私の中ではそんなに悪いイメージばかりではなかったのですが・・鹿児島・・高校生の卒業式・・今日は旅立ちの島津雨でした。
2008年03月03日
いい天気風もここちよい日曜日でした。鳥が・・たぶんシラサギだと思うのですが・・・水遊びをしていました。先日の写真・・高見橋より4kmほど上流です。甲突川です。ばしゃばしゃ歩いて・・気持ちよさそうでした。ちょっとお腹もすいていたようです。
2008年03月02日
イザナギは桃の樹の実を投げつけて雷神や黄泉の国の軍勢を撃退しました。そしてその桃の実に言いました。・・・桃の木ではなく桃の実にです。今私を助けてくれたように、葦原の中つ国・・この地上の世界のあらゆる生ある人々が苦しい目に遭って悲しみ悩むことがあれば助けよ・・・そう命じました。そして彼に名前を与えました。オホカムズミの命といいます。今もなお昔話の中で桃太郎がその役割を果たし続けているのです。桃は弱きモノを助ける守り神です。神代の時代から・・・です。**島津家のお雛様です。鶴丸城にあったものです。きっと篤姫も見ていると思います。現在は仙巌園(磯庭園)に保管されています。
2008年03月01日
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