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今朝は本当に冷えました。ラジオでムッチャンが言っていました。ムッチャンっていうのは鹿児島ローカルのタレントさんです。朝の番組をやってます。鹿児島の大口という街で最低気温が-5℃だったのだ・・・と。これは北海道の札幌よりも寒かったんだよ・・・と。リスナーのハガキが読まれていました。金魚の入った外の池に氷が張っていましたヨ・・・と。ウチの金魚たちは元気です。朝からご飯くださいのマスゲームやってます。けれども最近はちょっと身体が重いのかちょっと大きくなりすぎたのかちょっぴりダンスは手抜きです。2月1日から冷え込むでしょう天気予報に周囲はブツブツ言ってます。私は少しワクワクしています。雪になるかも知れません・・そんなオマケがあるからです。
2007年01月31日
薩英戦争の和平交渉が進んでいる頃日本はまるごと活火山の上にあるようなものです。京都の尊皇攘夷派の公卿たちが公武合体派に押されて長州藩に逃げ込んだいわゆる七卿落ちの直後です。長州は浪人を集めてスキをねらっています。何かことが起こればいつどこで爆発するかわからないそんな不穏な空気が満ちていました。薩摩もイギリスも和解のタイミングを測っています。イギリスは実はすでに幕府から賠償金10万ポンドをせしめていましたそれは白壁船の上にちゃんと積まれていたのでした。頬被りしたままさらにイギリスが主張していた2万5千ポンドの賠償金ココに薩摩は目をつけました。弱腰の幕府はこの金を貸してくれるというのです。しかも返さなくてよいという裏取引はすでにできていたようです。薩摩が提案をしました。2万5千ポンドを支払う・・・です。そのかわり薩摩藩が買いたい軍艦をイギリスに斡旋して欲しい。もちろん軍艦の購入にはお金は支払う。談判の再開です。薩摩の提案でイギリスも顔がたちます。双方とも態度を一変なごやかなムードで実質的な交渉がはじまりました。英 なぜ軍艦が必要なのか薩 我が国には軍艦は一隻もない。 斡旋してもらえれば主君にも申し開きがたつ。英 では軍艦を買って、いったいどこと戦争するつもりか。薩 今敵がいるわけではない。 軍備は必要だ。 一隻だけでは足りない。数隻ほしい。10月6日第四回目の会合で正式に和平は成立しました。薩摩は軍艦を買うためにカネを払いました。斡旋料を支払ったのは幕府ですがイギリスは薩摩からカネをとりその上通商の道筋をつけました。その後イギリスが犯人の引き渡し・処刑について触れることはありませんでした。徳川幕府は賠償金を立て替えたことを公にすることはありませんでした。賦に落ちないところがたくさんあります。論理もあちこち矛盾しているように見えます。納得できないこともいくつかあります。外交とは呼べないような馴れ合いにも見えます。歴史は理屈通りには行かない・・そういうことなのでしょうか。刀を差し丁髷を頭に乗せた侍と軍事力と名誉を何より重要としていた騎士とのそんな時代の外交日本の外交事始め・・です。昨日朝の桜島です。今夜の鹿児島は冷え込んでいます。
2007年01月29日
家老小松帯刀が交渉代表に選んだのは重野厚之丞です。後に国漢の第一人者となった人です。東京大学に国史科を設置した人物です。広辞苑に抹殺博士というあだ名が載ったのはこの男です。このとき若干36歳でした。9月28日この重野が口火を切りました。鹿児島においてわが方の汽船三隻を掠奪したのは不法きわまるどういう所存か奇襲攻撃にニールは虚をつかれました。しばらく答えられずに黙っていましたが鹿児島攻撃には触れず昨年生麦村でわがほうの商人を殺傷したことは非道きわまるどういう理由かと正攻法で逆襲に転じます。決して非道でもなくとがめられる筋合いでもない。諸侯の行列を横切る者は処断されるのが昔からの日本の習慣である。英人だから切ったのではなく違法行為だから殺傷されたのだ。被害者の妻子らにはまことに気の毒ではある。この会談のもようは英国でも報道され英国でも諸侯の行列の通行を妨げる者への道徳的習慣的処罰規定のことが話題になりました。それまでは女王陛下や貴族の行列を乱すなんてそれと同じ行為を英国の紳士が行ったことは報道されていなかったのです。考えてもいなかったのです。この日のことを同席した幕府外国方調べ役鵜飼弥一は書き留めています。幕府のいままでの外人との交渉はいつも彼にいいように言われて歯がゆい思いであった。しかるに今回は彼が終始受け太刀であった。積年の悔しさが今日はいっぺんに解消した。談判4時間で夕暮れになりました。幕府の取りなしで初回は破裂のまま別れました。五代才助が長崎のトーマス・グラバー邸に住みながらイギリスへ留学生を派遣すべきであるというレポートを提出するまであと少し時間がかかります。鹿児島中央駅前の若き薩摩の群像雨の日は立ち寄る人の姿も見えません。
2007年01月28日
7月3日です。この日は日曜日でした。英艦隊は午前十時から前日に戦死した旗艦のジョイスリング艦長以下11人を水葬にして弔いました。イギリス軍には強硬論もありました。和平を望む声もありました。午後三時艦隊は静かに碇をあげて南下を開始したのです。谷山沖で一晩を過ごし翌日には湾を出ていきました。英国側は結局戦死者13負傷者50を出し艦も損傷したのですがこの時点で陸上の薩摩藩にはそんなことは分かりません。薩摩は戦死5重軽傷十数と死傷者こそ少なかったのですが。30万ドルもの汽船3隻と他に船を数隻やられてしまいました。集成館・台場の損害もひどかったです。何より約500戸の上町が全焼しています。半分は勝ったような気がするけれども半分は負けたかも知れないそれが本音だったようです。口では強がりを言っていても外国人の強さを初めて実物で思い知らされたのでした。300年の鎖国の眠りから呼び覚まされたのでした。先君島津斉彬の「無謀な攘夷はできない」という遺志が皆の胸によみがえって議論のネタになりました。攘夷論者の大久保一蔵(利通)もすっかり考え込んでしまいました。最初に開港説を切り出したのは家老の小松帯刀です。まず藩内を整えてしかるのちに外に向かう藩論は決定しました。和平交渉に踏み出したのです。幕府に向かって話をつけるけれども場合によっては英国との直接談判もやむなし・・です。和平交渉は9月28日英国公使館で始まります。長い期間だらだら文にお付き合いくださって本当にありがとうございました。この戦いの中の細かいエピソードは後日機会を見て話をさせていただきます。教科書であまり語られることのない事件です。薩英戦争の大きな流れをつい語ってしまいました。ちょっと生意気な記事でした。お付き合い・・ありがとうございました。薩英戦争は事実上2日間で終結しました。しかも2日目は小さなすれ違いがあっただけです。英国艦隊は薩摩軍の敷設していた水雷地区を通過することなく去りました。
2007年01月27日
先頭のユーリアラス号は午後0時50分に碇を上げて戦列を整え2時10分に第8号台場に向かいました。110ポンドの回転砲5門と40ポンドの回転砲8門は2年ほど前に備えたアームストロングの新兵器です。まだ実践らしい砲撃をやったことはありません。まずは榴弾を発射しながら進みます。私はしばらく白壁船の上です。2時20分。右舷から台場に向けて実弾と榴弾の集中砲撃を開始しました。その後マストの上からの偵察してみても台場に将兵たちの姿は見えません。みな退却してしまったようです。台場の砲4門も無惨に打ち砕かれているのが見えます。ただどこから飛来してくるのか薩摩軍の砲弾が艦の周辺にときどき落下しています。このとき烈風がひときわ激しく吹きました。勝ちいくさの勢いとこの烈風に乗って艦は台場に近づいていきます。砲煙が台場あたりを覆い尽くして岸までの距離すら正確にはわかりません。およそ600から700mだったのではないでしょうか。海上に浮かんでいた白壁船がゆっくりと動き始めました。しだいに岸に近づいてきます。薩摩軍はかねてから海の上に標的を立てて訓練を重ねてきました。白壁船がその標的の位置に近づいてきます。しめしめ・・・きっとそう思ったに違いありません。すでに射程距離内に入った白壁船は630mの地点を通過しました。「撃て」の合図で薩摩軍は撃ちに撃ちました。日頃の訓練の見せ所です。2時50分でした。敵の一弾が艦橋に落下して破裂しました。突然のことです。艦長ジョスリングと副長ウイルモットが吹き飛ばされて即死しました。キューバー提督は副官バルグルとすぐ近くの艦橋にいたのですが運良く助かっています。キューバーはこのとき艦長の死を見ながら平然と動きません。恐怖も覚えず沈着にふるまっていました。戦後艦長と副長の戦死を大いに悲しんだことは言うまでもありませんが。さらに敵の榴弾は飛来。3番砲の近くで破裂しました。7人が即死し6人が重軽傷を負いました。その後も弾は飛んできます。イギリス旗艦になすすべはありません。新兵器アームストロングも台風に悩まされて思うようには発射できませんでした。勝運は薩摩についていたようです。もし開戦の日が晴天であったなら戦いの様相は変わってしまっていたかも知れません。この日英艦レースホース号やパーシュース号は苦しい戦いの中で戦果もあげていました。市街地にロケット弾を打ち込んで民家や建物に火災を起こさせたり。砲台を攻撃して焼き払ったり。集成館に猛撃を加え大砲製作所をはじめ諸工場を粉砕しました。反射炉と溶鉱炉だけは助かったものの軍備工場群は終夜燃え続けていました。
2007年01月26日
各台場とも、いっせいに砲撃を開始しました。けれども残念なことに英艦まで届かないのです。前年から訓練は続けられていました。1000メートル位の沖合に標的を立てての訓練でした。英艦は射程外に浮かんでいたのです。武器の性能はどうしようもありません。それでも仰角をぎりぎりまであげて砲を撃ちます。少しずつ調子は出てきました。桜島の横山台場は事情が違いました。パーシュース号は真下に停泊していたのです。イギリスは薩摩が独自の砲を作っていることまでは知らなかったのです。日本国内に戦いに備えて準備をしている藩があったことを知らなかったのです。そして背中の桜島が薩摩にとって重要な場所であることを知らなかったのです。横山台場から発射された弾は最初から正確にパーシュース号に着弾しました。驚いたパーシュース号は一瞬混乱に陥って逃げ出します。あんまり慌てたものですから碇を上げる暇さえなかったのです。イギリス海軍にとって碇は陸軍の軍旗に匹敵するシンボルです。その碇を失ったイギリス海軍は緒戦に敗北してしまったわけです。後日薩摩藩はそういう事情を知らずに気前よく碇を返してあげています。知らずに・・です。旗艦ユーリアラス号は最初は岸の近くにいました。薩摩の砲弾は途中で水煙をあげて落下します。海中の魚をびっくりさせていただけです。けれども白壁船が一発も砲を撃たなかったのにはちゃんとした理由があります。余裕を見せて落ち着いていたわけではありません。実は幕府からせしめた賠償金が弾薬庫の前に山積みされたままだったのです。それを移動させるのに2時間もかかってしまったのでした。そして戦闘準備を整えた旗艦白壁船はゆっくりと動き出しました。薩摩軍のうるさい砲台を叩いておかねばなりません。イギリス海軍の威力を無礼な武士にみせつけなければなりません。ゆっくりと岸に向かって近づいて行きます。1863年7月2日 戦いは始まっていました。午後2時20分白壁船は台場に向けて集中砲撃を開始しました。
2007年01月25日
突然5隻の英艦が薩摩の3汽船を襲いました。数十人の英兵が乗り込んで来て引き渡しを要求したのです。まだ宣戦は布告されていない。していない。どういう理由でわが船を強奪するのか。くってかかっても銃剣をつきつけて実力行使です。切って捨てれば簡単に始末できたところですが。まだ許可が出ていません。命令あるまで戦うことあいならんという支持が出ています。頭にバカがつくほどの単純な薩摩の武士にとって戦いの中における本営の命令は絶対です。3汽船の乗員はボートで重富に上陸させられました。どうしても退去しない二人の人物は捕虜として船上にあるままです。3汽船をぶんどった英艦は引き上げていきました。午前10時頃のことです。英艦の射程距離を計算して常盤町に置かれていた本営の島津久光・茂久(忠義)親子のもとに直ちに連絡が入りました。緊急会議が開かれ英艦を打ち払うべしと一決布告を告げる急使が各所に走りました。天保山の砂揚げ場台場でも11門の砲に弾丸をこめて鎌田市兵衛の砲兵隊が英艦を睨み付けていました。第一弾が高く弧を描いて英艦に飛びました。ときに文久3年1863年7月2日の正午のことです。イギリス本国からの指示の中に薩摩は欧米から買い入れた高価な汽船を持っているからそれを捕獲しておくのは交渉に臨む一策である・・・とありました。その汽船が重富の入り江に隠してあるのを英艦隊は2.3日前から知っていたのです。イギリスはまずこのこのことから作戦を開始したのです。もちろんこの内の一隻は五代才助(友厚)が上海に密航してドイツから買った天佑丸です。そしてもちろん捕虜になった一人は3隻の船を管理していた五代才助です。
2007年01月24日
室外でしびれを切らした奈良原と海江田が独断決行を決め号令をかけようとしたそのときに海から声が流れてきました。奈良原!海江田!奈良原!海江田!・・叫ぶ男を乗せた小舟が猛烈な速さで旗艦に近づいてきます。君命である!まず答書をおさめ兵士を率いて直ちに帰還せよ!手は出すな!特別攻撃はくずれました。怪しげなスイカ売りを他の6艦は艦にあげなかったのです。無礼で生意気な答使隊が去ったあと旗艦ユーリアス号は黄色の旗を掲げました。警戒を厳重にせよ・・という信号です。3日目6月29日も無事に終わりました。この頃江戸城で話しを聞いた勝海舟がまだ大した力を持たないまま発言力もないまま国防のことを真剣に考え始めていました。薩摩の国策・薩摩の軍備力・薩摩の技術力を真似なければならない。幕府が日本国が国防を固めなければならない。まだ無名の書生にしか過ぎない坂本龍馬は勝海舟の使いでパトロン金主を探して走り回っていました。龍馬があこがれの薩摩に入国を許されるまでまだ少し時間がかかります。翌日7月1日ニールの腹は決まりました。新兵器アームストロングの威力を見せぬ限りこの無礼なる侍どもはイエスと言いそうもない。キューバー提督に適切な威圧手段をとるように命じました。その日の午後から天候は崩れました。入港4日目も一発の撃ち合いもなく平穏に過ぎました。けれども
2007年01月23日
8隻の決死隊は午後3時頃英艦に向かいました。奈良原と海江田の2隻は白壁船に着いて声をかけました。答書を持っているものが一人だけ上がるように眼光鋭いスイカ売りをすっかり警戒していましたがおろされたハシゴを登って書面を持っているか・・・・イヤ・・という問答の間に次々と乗船してしまいました。答書を持参するのは島津公の一門である多少の従士を率いるのは当然の礼であるお一人だけあげられるはずがないではないか・・しばらくして数人の士官が腹を立ててやって来ましたが全員乗艦してよいという許可がでました。その時にはすでに40人ほどが乗り移っていたのです。将官室で第一回目の会談がはじまりました。生麦事件の下手人は当日逃走した。捜査したが今もって不明である。逮捕したらただちに貴下に引き渡す。・・ウソばっかり。二人は室外にそろっていました。遺族養育金は拒まない。しかし諸藩は何事も幕命に従うことになっている。今日まで幕府は何も言ってこないのだ。・・これは本当のことでした。そして薩摩の言い分です。生麦村の周辺を貴国人らが遊歩してよいという許可を幕府は出していたのか。少なくとも我々は聞いていない。しかも当藩の行列を徒党を組んで乱すとはいったいどういう意図があったのか。聞きたい。ニールはカンカンになったのでしょうけれどもそれでも貴下の質問はどういう意味か理解できない。とはぐらかしました。江夏喜蔵は言います。拙者の言うことは明白ではないか。それが分からないというのは貴下の学識が浅く理解力が足りないのではないか。ニールはお前さんオバカなんじゃないのと愚弄されたわけです。もう顔はまっかです。江夏たちは生きて帰るつもりはありません。切り込み開始の号砲を今か今かと待っているのです。ニールをからかって時間を稼いでいたのです。戦うために理由が必要だった時代です。命をかけるためにも理由は必要でした。国と国がその名誉をかけて戦います。自国の名誉ばかりではありません。相手の名誉も立てなければなりません。戦いにもルールのあった時代です。目の前の敵に水も運び食料も提供する。敵も味方も戦うためには理由が必要だったのです。それがどんな些細な理由であったとしてもです。第三者からみて納得できない理由であったとしてもです。p.s.本日もだらだらと長い文章をお許しください。少々時間が足りないのです。冷たい雨が落ちているせいではありません。
2007年01月22日
伊地知らの報告を受けた島津久光はひそかに考えていた特別攻撃を断行することにしました。生麦でリチャードソンを殺害した二人海江田武次と奈良原喜左衛門が久光に呼び出されました。過激派の二人はすっかり興奮して作戦をたてました。8隻の小舟にスイカ・ニワトリ・野菜などを積んでいく。白壁船に2隻とあとの6艦に1隻ずつです。決死隊はスイカ売りの町人に化けて小刀をしのばせる。各艦に乗り移ったら様子を見て台場から大砲を白壁船に撃ち込む。それを合図に英兵を襲撃して軍艦を奪う・・・こんな筋書きです。久光は実弾は艦を損壊させるからまずいだろう空砲にせよ・・・そう言いました。この辺りは異説がたくさんあります。大久保一蔵(利通)・海江田らの発案で久光は最初それをとめたが、やむなく許可したという説も・・です。「薩藩海軍史」によると実際にこの決死隊に参加したのは70人ほどです。明治維新に活躍したたくさんの知名人も含まれています。黒田了介(清隆・のち首相)。大山弥助(巌・のち元帥)。西郷伸吾(従道・のち海相・内相)。伊東四朗(祐享・のち元帥)。吉原弥二郎(重役・のち初代日銀総裁)。谷本兵右衛門(道之・のち東京馬車鉄道社長)。・・・それこそ数えきれません。それこそ事件は現場で起こります。作戦通りにことが運ぶとは限りません。それでも3日目6月29日作戦はスタートしました。*****昨日の写真は鹿児島市祇園之洲にある旧薩摩藩砲台跡の石碑です。そして今日の写真は薩英戦争記念碑です。たくさんの日本人イギリス人が傷つき亡くなりました。江戸後期の武器をもってしても多くの命が奪われたのです。まさに無益な戦争です。薩摩藩はこの戦争から多くのものを学びました。だからこそイギリスとの和平交渉には全力であたりました。この交渉を期に薩摩とイギリスは急接近します。薩英同盟を締結し以後親密な関係が成立します。私はいかなる理由があろうとも戦争を認めません。どんな理由で・・でもです。人間の命を奪って成立する正義など認められるワケがありません。正義は必ず勝つ・・のではなく勝ったものが正義であるという頭の悪い価値観からそろそろ卒業してもいい頃です。愚かな年長者は経験を語り賢い年長者は歴史から学ぶ耳に痛い言葉です。私もすぐに経験を語りたがるからです。歴史を学ばなければなりません。自分に都合のいい歴史ではなく資料に埋もれた声をあげない歴史の声に耳を傾けなければなりません。自分自身への戒めとしてしか意味のない言葉ではありますが。誰かに語るべきものでもありませんが。
2007年01月21日
白壁船の責任者はジョン・ニール代理公使です。例の幕府に呆れかえって見切りをつけた人物です。24時間以内に回答なき場合は自由行動をとる公式の書を渡してそう告げました。薩摩の公式な言い分です。藩主は現在病気で霧島という遠地で保養中である。すぐに使者を出しても往復に数日はかかるそんな短時間に返答はできない。ウソばっかり・・・いいえ方便です。結局さらに6時間延期することで別れました。ニールの書の内容です。英国政府の命令として生麦事件を責めた上で1.加害者を英国将校の前で死刑にすること。2.賠償金として2万5千ポンド出すこと。以上守られない場合は攻撃する。 ・・・ でした。薩摩の返事はその日の内に届けられます。書面では行き違いもあるので明29日わが方の外人応接公館で話し合いたい。幹部の上陸を要請する。水か燃料の希望があれば届ける。 ・・・との内容です。ニールは「水や果菜は売って欲しい・・・」 とだけ答えました。二日目28日も戦火は起こりませんでした。天下の大英帝国は初めからまともに戦争をする気はありません。あまりに実力の差があると思い込んでいます。しかし日本の問題児薩摩藩が売られたケンカを買わないわけがありません。この時のために本気でヤル気で準備もしてきたのです。城下と桜島の間の錦江湾に黙って入ってきた無礼者を本気で叩きつぶそうと作戦を練ります。叩きつぶす・・それも少し違います。英兵は切って6隻の軍艦を頂戴してしまおうとしていたのです。伊地知らの報告を受けた島津久光はひそかに考えていた特別攻撃を断行することにしました。生麦でリチャードソンを殺害した二人海江田武次と奈良原喜左衛門が久光に呼び出されました。
2007年01月20日
正月来っ しょがっ きぃっ歳やいらんち としゃ いらんち眼鏡長丈。 メガネおせ正月がくるたびにひとつ歳をとると言います。もうこれ以上歳はいらないのにネガネの背高さんが言っています。これくらいの意味でしょうか。今年もメガネのふじさんのさつま狂句は健在です。鹿児島弁では文末に「ち」をつけることがあります。なんですって!・・は・・なんち?必要ありませんヨ・・は・・いらんち!こんな具合です。*****実は私は今ちょっとパニックに陥っています。楽天ブログの編集画面が変更になっています。写真が大きく載せられません。もう15分もこうやって行ったり来たりしています。上手にブログを更新できずにいるのです。
2007年01月19日
今朝の桜島は薄く煙っていました。桜島のむこうすぐ横を龍の形をした雲が走り抜けて行きました。巨大な龍の白い髭なのかそれとも彼の吐く息なのか感動的な絵でした。6月28日の朝です。海江田武次(信義・のちの海軍中将・枢密顧問官)は見慣れぬ黒船が陣形を組んで前之浜の方向に向かうのを見ました。文久3年1863年の6月28日です。彼は身体を少し害していたのです。桜島の古里温泉で湯治していたのです。昨年、自分と奈良原喜左衛門が生麦で切った英国人のことが海江田の脳裏をかすめました。すぐに船の用意をさせて目の前の海を渡ります。英艦隊の間をぬって前之浜にたどり着きました。薩摩は正使を出しました。伊地知竜右衛門(正治・のちの宮中顧問官)たち三名が白壁船に向かいました。真っ白に塗られた美しい船だったようです。あだ名が決まるまでに時間はかからなかったようです。
2007年01月18日
文久三年1863年3月1日英国代理公使のジョン・ニールは最後の通告状を出しました。サツマのサブローに犯人をださせて処刑しろまた賠償金として10万ポンド払えと言うのです。冒頭になが~い日本政府へのお説教がついていました。もし20日以内に回答がなければシナにいる海軍提督が大軍を率いてやってくるぞという脅しもついていました。サツマへの実力行使の通告です。幕末の閣僚や吏員は全くの無気力でした。4月6日に江戸城で会議が開かれはしたものの議論百出それをまとめられる者もいません。このときひとり熱意をもって処理にあたったのは小笠原壱岐守(長行)です。朝廷は「英国に賠償金なんて払う必要なし」と無責任なことは言うし英国は軍艦で江戸湾近くに進入してくるし間に入って困り果てた小笠原閣老は独断で10万ポンドを払ってしまいました。当時の相場で26万9066両2分2朱・・でした。サツマのサブローとは島津斉彬の弟・・島津三郎久光のことです。とにかく久光の一行は行く先々で「さすがは薩州公」と歓呼をもって迎えられています。凱旋将士あつかいです。ペリー来航以来幕府がいつも外人に押されていることは庶民までみんな知っていたのです。久光の行列に幕府の急使が追いついたのは静岡・府中でのことです。8月26日です。生麦事件の後処理・・薩英戦争がはじまります。世界に冠たる大英帝国と薩摩藩の戦いのはじまりです。
2007年01月17日
1853年5月島津斉彬は江戸をたって帰国の途につきました。6月3日阿久根についたときにニュースを受け取っています。米艦隊浦賀に来航。天下騒然。・・・というニュースです。2年前にジョン万次郎の語ったことがまさに適中したのです。いよいよ国防急務のときです。薩摩一藩の問題ではありません。全国の大名がいっせいにかかることが必要です。斉彬はただちに請願書を送りました。大船建造の禁をとき外国からの兵器購入を許されよ・・です。幕府には斉彬の申し出をはねつける理由はもはやありません。9月15日300年続いた大船建造の禁止令はついに解禁されました。斉彬の計画書は続きます。大船12隻、蒸気船3隻の合計15隻の洋式軍艦を造りたい・・・とんでもない計画です。幕府の返事もふるっていました。よろしい。そのかわり二隻は献納して欲しい。カネはちゃんと払うから・・・風向きは変わってきました。*******下手な文章のつなぎ方でごめんなさい。少し時間が足りません。時間が足りないとだらだらだらだら・・長い文章になってしまうのです。読みにくい文章になってしまいます。ただただ説明的になってしまいます。それで読みづらくて・・ごめんなさい・・・です。もう少し考えて読みやすい文章を心掛けます。せめて努力はしたいと思います。風向きが変わってきました。はっきりと南からの風です。今年の冬は早めに引き上げてくれるかも知れません。大寒を前に適当なことしか言えませんけれども。
2007年01月16日
ネットのお友だち「ききょうさん」からバトンをいただきました。暇な日曜日の夜・・久々の挑戦です。例によって回答はふたつ作りました。○○バトン・・映画やアニメや・・■アニメ、漫画、ゲームで好きな作品を全て挙げてください・一時期「かわぐちかいじ」にはまりました。 『沈黙の艦隊』や『ジパング』『太陽の黙示録』などが好きです。・他にもアニメもたくさん見ています。■1で挙げた作品でコスしたいのは・「かわぐちかいじ」でコスプレしたらちょっと変です。 ■大嫌いな人は居ますか?・苦手な人はいます。 例によって「ナスのうらみあげ」でうっぷんばらしをします。 鹿児島に帰ってきてから一度も「うらみあげ」していません。■今欲しいものは?・「新しいPC」と「MDを再生できるコンポ」と 古いLDを再生できる「LDプレイヤー」と・・・・ 速く動く腕と・・才能です。■オシャレさんですか?・自分では少し気にしています。■流行のファッションは好き?・流行のファッションがどんなものなのかをよく知りません。 目で見て気に入ったものが好きです。■好きな映画を全部挙げてください・岩井俊二のラブレターが好きです。 中山美穂の手の演技・・特に指の使い方が好きです。 好きな映画は多すぎて列挙できません。■行きたい場所は・とにかく今は東京に行きたいです。 今年中で長野と福岡と北海道と・・行きたいです。 鹿児島に帰って来てから出かけた県外の場所は熊本だけなのです。■自分の名前(HN)について何か言ってください・呼びにくい書きにくいポイントがズレテいるような気がします。 古い古いお芝からもらいました。 雪虫そのものは最近始めて見ました。■このバトンを回してくれた人はあなたから見てどんな人?・真摯に子育てなさっておられる方です。 この方の考え方はとても健全だと思います。 快く支持できます。■好きな人に一言・言葉はいつでもウソをつきます。 口をついて出てくる言葉は考えていることとが かけ離れてしまっていることが多いのです。 私の場合ということですが。 無意味に喋りすぎているときは 別に言いたいことがあるときです。 安心していると落ち着いていると私は言葉を発しません。 これは特に応えになっていませんね。■このバトンを渡したい5人・「すみれ」さん。 「chiblits」さん。 「サクラシンマチの木村」さん。 「koji」さん。 そして 「kaorin」さん。 お願いしたいのですが。いかがでしょうか。 それから次の方々は特別注文です。 「翔盟さん」「まささん」「kaysayさん」に是非お願いしたいと思います。 拒否なさると「うらみあげ」・・・・です。 半分冗談です。・・でも半分です。日曜日 鹿児島もいいお天気でした。この時間は冷え込んでいます。私はバトンが苦手です。上手に答えられずにごめんなさい。
2007年01月15日
もっとも今日の写真ではありません。一月一日初詣の日の写真です。お客さんがいてちょっと照れて立っていました。島津斉彬の像の話です。徳川の鎖国政策は、大船建造を禁じていました。その国禁を破って薩摩藩は洋式軍艦を造り始めてしまいました。しかし島津斉彬は筋を通します。琉球大砲船を造りたい。琉球船を改造して大砲を備えるがふだんは諸島の運搬船にあてる。ことある場合は警備につく。幕府に許可願いを出したのは嘉永5年1852年のことです。薩摩がこの願書を出したときには「いろは丸」はもう半分以上も進工していました。造りたい・・ではなくて・・造るだったのです。願書に添えて来年あたり米艦船がやってきますよ・・と情報も入れておきました。幕府も痛し痒しです。筆頭閣老の阿部正弘は譜代の水戸家よりも一番頼りにしている親友斉彬のやることだしむげに却下もできません。翌年の3月になって幕府は小さな声で返事をしました。知らないふりをしてやるよ・・・という黙許です。歴史は教科書に載っているようには流れていません。外様大名薩摩藩は結構好き勝手に動いていたように思います。とりわけ江戸生まれの江戸育ち・・江戸弁しか話せなかった島津斉彬はおもしろい藩主でした。彼の早すぎる死に関して暗殺説が消えることがありません。
2007年01月14日
鹿児島の歴史資料館は「黎明館」といいます。歴史記念物の公開・展示も行っていますが。県内外の歴史研究機関でもあります。夜明け前の暗い時代けれどもやがて訪れる時代のために熱を蓄えていた・・・黎明の時素敵な命名だと思っています。当時15歳の中浜万次郎は漂流中に無人島にたどりついて米国の捕鯨船に救助されそのまま米国に渡りました。勉強したり世界を見聞したりしたあと11年ぶりに帰国しました。米船サラ・ボイバ号に乗り沖縄の南端に来たときにボートに乗り移りました。密入国の罪人として琉球でつかまり薩摩藩の在番奉行に報告がはいりました。メリケンで11年も暮らした26歳の青年島津斉彬の好奇心をくすぐらないはずもありません。大切にして、すぐに鹿児島に移せ・・・命がくだりました。ペリー来航の2年前に島津斉彬は万次郎からその予告を聞いてしまいました。万次郎は一度故郷の高知へ帰ります。しかし後年薩摩の開成所(陸海軍学校)教授として迎えられています。郵便の父・・前島密たちも一緒でした。島津斉彬が「新いろは丸」の建造に着手したのはその年の冬のことです。1851年です。黎明館は県立図書館の隣に建っています。斉彬も住んだ鹿児島の城鶴丸城の城趾に建っているのです。
2007年01月13日
久しぶりで鹿児島中央駅に出ました。本当はもっと頻繁に通わなければならないのです。私が怠け続けているスポーツクラブがあるからです。鹿児島にもスタバがあるとお友だちに話しました。でもそのあとで本当にスタバがあそこにあるのかちょっと心配になりました。一度だけしか入ったことがなかったからです。記憶があやふやだったからです。スタバはちゃんとありました。鹿児島中央駅の大階段の下にありました。けれども私はお店には入らず五代友厚の写真を写して帰ってきてしまいました。若き薩摩の群像の写真を撮りました。寺師正容の「いろは丸」は台風にあって破壊されてしまいました。寺師も亡くなりそのままになっていたのです。残された資料と設計図を見た島津斉彬は寺師の実子市来四郎に言いました。「日本のもとをつくる大事跡だ」そしてカネを与えて寺師の霊を改めて弔わせたのです。その資料を参考に「新いろは丸」の建造を考えていた斉彬のもとに琉球から珍しい報告が届きます。土佐の漁師がメリケンから琉球にたどりついたという報告です。いわゆるジョン万次郎のことです。
2007年01月12日
嘉永4年5月島津斉彬は藩主に着任するとただちに洋式軍艦の製造を思いたちました。資料を集めているうちに近臣の市来正右衛門(四郎)がいろは丸の関係書類と設計図を保存していることを知ります。斉彬の「見たい」という言葉に市来は胸が熱くなりました。亡父の寺師正容が生涯をかけた仕事が改めて今新しい藩主の手で実現されるかも知れないという感激が胸を熱くしたのです。日本の国が徳川の長い眠りから覚めるその以前のお話です。ほんのちょっとだけはやくゴソゴソと起き出した者タチがいたのです。明朝はまた今日よりも2℃気温が下がると言います。間違いなく真冬なのですが・・・・ずいぶん長い時間が過ぎたような気がします。新年はまだ始まったばかりだと言うのに・・です。
2007年01月11日
幕府への報告が残っています。水夫一人不足せり、よって才蔵なる者を傭い入れ同行す。岩瀬公圃が配慮したのでした。五代才助は刀剣と衣類を岩瀬の行李におさめて自分はボロをまとい顔にすみを塗りました。あくまで水夫としての乗船だったのです。一行が上海に着いたときにたまたま停泊していたドイツの汽船「ジヤウジキリー号」が売りにでていました。才助はその話を聞いて密かに手を回します。その汽船に便乗して港内を巡航させました。実際の船体検査をおこなったのです。そして買い取ってしまいました。12万五千ドルの買い物です。翌日の英字紙「上海新聞」に記事がでました。日本の千載丸の一水兵が高額をもって汽船を購入せり。珍しきことなり。船を買った五代はどうやって薩摩に運ぶかちょっと考えてしまいました。この船はまもなく名前を変えこの桜島の真ん前に姿をあらわします。歴史の舞台にまもなく登場してきます。桜島の上空をこまかい鱗の雲が覆っていました。久しぶりに眺めた桜島です。桜島は美しい山です。美しい背景を従えています。
2007年01月10日
島津久光は外国嫌いであると言われます。そんなことはないと思います。私はそんなことはないと思っています。海外への関心と理解はなみならぬものがあります。正しい意味で兄斉彬の道を推し進めた名君だと思っています。この時も五代才助を励まして快諾しました。別に密命を与えています。大変な出費を伴う仕事の依頼でした。五代才助が長崎に帰ってみるとあと二日で出帆お期日が迫っていました。しかもすでに定員はいっぱいで才助の加わる余地はありません。日本はまだ鎖国です。もちろん簡単に渡航できる時代ではありません。若い情熱が走り暗雲を払いのけようとしていた時代です。時代がかったドラマが繰り広げられています。後に語ればドラマでも彼らにしてみれば命がけの動きです。五代は簡単に諦める男ではありません。チャンスを作っていく人物です。この時五代才助は・・・・日付が変わって私の声が戻ってきました。喉が楽になりました。外出禁止令きっと明日は解除です。明日は街へ出ることができます。きっと出かけると思います。
2007年01月09日
安政6年五代才助は再度長崎に遊学しました。24才のときのことです。あるとき学友の岩瀬公圃から聞かされました。幕府の内命で貿易視察のために帆前船の千載丸で上海に渡ることになった・・と。五代は必死で同行をせがみますが薩摩公の許しが先決であるしかも四五日後には出帆だから・・そう言われてしまいます。五代才助はすぐに早かごに乗りました。鹿児島にではなく北をめざします。大坂にいる国父島津久光に会うためにです。島津斉彬は前年8月急死してしまっていたのです。時代が動き始めていました。幕末は男が男として走り回っていた時代です。女が女として生きようとしていた時代です。歴史の教科書に載っている偉人達の他にもたくさんの人間が走り回っていました。おもしろい時代です。今が面白くないなどというつもりはありませんが。年を越してもまだ私は若き薩摩の群像の周囲を行ったり来たりしています。しつこい性格なのだと思います。
2007年01月08日
私はすぐに忘れてしまいます。源氏物語が世界最古の小説だということを・・です。彼女の前に小説はなかったのだということを・・です。紫式部は小説というジャンルを知らずに物語を小説をフィクションを書いたのです。人類は源氏物語で始めて文字に表現された人間の心理を見たのです。私はついつい忘れています。紫式部が光源氏が弥生式土器で食事をしていたのだということを・・です。清少納言や紫式部は下着をつけていなかったのだということを・・です。p.s.源氏物語は世界最古の長編小説というのは正しい言い方ではないのだと・・も聞いています。正しくは「源氏物語は古代最後のそして最高の長編小説」なのだそうです。けれども私は源氏物語の先にあるとされるふたつの小説の存在を確認できていません。梅雨まで待てずに源氏物語をめくってしまったのは冷たい雨のせいです。雪に変わるかも知れません。せきこんでいる姿に外出禁止令が発令されています。一歩も外へは出られません。
2007年01月07日
藩主島津斉彬が手に入れた世界地図を五代秀堯に託しました。模写して欲しかったのです。コピ-して欲しかったわけです。五代秀堯は息子の才助を試します。やってみるかと反応をみたようです。才助はそれはそれは喜んで模写しました。一枚ではありません。ちゃんと二枚作ったのです。一枚はお殿様にそしてもう一枚は自分自身のためにです。彼は勉強部屋にそれを張って暇さえあれば眺めていました。そのうち平面地図では物足りなくなってとうとう大地球儀を作りあげました。色を塗って各国首都間の距離を測って記入しました。半径60cmもある大きなものだったようです。お正月が終わってしまいました。オセチを食べて、お雑煮食べて、百人一首をして・・・お正月さんはまた来年です。ずっと昔のお正月に小さな地球儀を作ろうとしたことを思い出しました。私の地球儀は完成できなかったのですけれども。平面が立体にならなかったのでした。五代は優秀な子どもだったのだと思います。
2007年01月06日
幕末の薩摩藩で五代才助(友厚)だけは幼少から薩摩や日本の枠をはみ出していました。いつも世界を俯瞰していたのです。父親の五代秀堯は町奉行でした。普通の奉行ではありません。大変な学者です。薩摩には薩・隅・日の地理・歴史を詳しく表した「三国名勝図会」という本があります。五代秀堯はこの大著の発行人であり、編集責任者だったのです。薩摩が欧州へ留学生を送ったその最大の功労者こそ五代友厚です。新年になってお天気はすぐれません。新年の繁華街は人で賑わっていました。山形屋というデパートがあります。その駐車場に車を駐めました。母と少しだけ別行動をして五代友厚の像を見て来ました。彼の像は山形屋の駐車場から歩いて1分のところにあります。
2007年01月05日

初詣パート2は荒田八幡宮に行きました。ここがまた歴史の古い神社なのです。歴史の本をそのまま信じるとすれば1300年くらい昔に建てられた神社です。和銅年間です。和同開珎が造られた頃です。奈良の大仏様の開眼よりも昔です。祀られているのは応神天皇・・他・・この他がクセモノで本殿横にはいろいろな神様がいらっしゃいます。裏手には初詣の時期にはしっかり封印されたままですが蛭子も祀られています。蛭児神社があります。あの蛭子です。鹿児島の古い神社を回っていると私の妄想は明治維新・幕末から一気に神話の世界へワープします。まつろわぬものたちが闊歩したクマソの時代へ飛んで行ってしまいます。ちょっと危ない性格かも知れません。
2007年01月04日
雨にたたられて初詣客は少なかったとは言いながら彼を眺めに足をのばす人はあまりいません。ご本殿から10mも離れずに島津斉彬は立っているというのにです。島津斉彬照国は亡くなるとすぐに神になりました。朝廷から正式に神格を得ているのです。であるにしてもあんまりいっぱい写真を撮ってあまりに長く銅像の前で遊んでいるのはちょっと怪しい人物なのかも知れません。ですから私の同行者はちょっとひいてしまっていたかも知れません。きっとひいてしまっていました。私は斉彬の顔も素敵だと思っているのです。彼は本当にかっこいいです。斉彬の銅像は戦時中の供出も免れています。
2007年01月03日
島津斉彬は純粋な江戸弁を話しました。江戸弁しか話せませんでした。その江戸弁で阿部正弘に話します。斉彬は阿部を評価している・・・・と君は私事をもって公事を左右する人物ではない・・・・と少なくとも自分はそう思っていない・・・・と阿部の態度は決まりました。その日のうちに将軍の許可を得て日章旗制定令を発しました。a.日の丸をもって日本国の総船章と定める。b.幕府の艦船は、白紺の吹きぬけをたて、帆は白地に中黒を使う。c.諸侯はそれぞれの旗章をもって区別する。ここに当時の蘭人たちが「世界一の旗章」と激賞された日の丸が日本国の国旗と定まりました。雨の照国神社は思ったほどの人出ではありませんでした。照国神社は島津斉彬を祀った神社です。
2007年01月02日
大晦日はしめ縄をつけてお餅を飾り付けました。日が暮れてちょっとお昼寝をしたのですが・・・夕方のうたた寝です。ちゃんとパジャマを来てお布団に潜っていたものですから・・・目が醒めたら紅白歌合戦が始まっていました。我が家は大晦日は紅白歌合戦に決まっているのです。明けましておめでとうございます今年もよろしくお願いします。
2007年01月01日
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