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のんびりだらだらの一日いい天気で火曜日で昭和の日で水槽の掃除もしました
2008年04月29日
記紀神話によれば天孫ニニギノミコトが土地の娘アタツヒメと出会って結婚し、アタツヒメが一夜の契りでニニギノミコトの子を妊ったことから貞操を疑われたという、そのゆかりの地です。アタツヒメの名前は薩摩の国阿多の娘という意味です。「アタ」という地名は鹿児島にたくさん残されています。市来、日吉、吹上、金峰、加世田、大浦、笠沙、坊津、川辺・・・・さらに枕崎にも・・数多くあります。アタのハヤトの主たる生活圏は野間半島の付け根から市来にいたる海岸線はては加世田へ30余キロにわたる砂丘地帯・・この海岸線を吹上浜といいます。そのアタのハヤトたる大富豪の娘だからアタツヒメ(阿多の娘)と名付けられたのであって本名というわけではありません。このアタツヒメには別に異名もあります。コノハナサクヤヒメです。この人物どうも実在の人物のようです。するとニニギノミコトもまた実在していたのかも知れません。彼が高天原からやってきたのだということを事実だと言っているのではありませんが。海を見ながら浜を眺めながらいろんなことを考えます。
2008年04月28日
砂に風が絵を描いていました。この砂浜の北・・数キロの港から船は出発しました。慶応元年1865年のことです。19名の若き薩摩藩士のヨーロッパへの旅立ちでした。耳元を走りぬけて行く風は時々息を詰めてそしてただぴゅう~とだけ言っただけです。
2008年04月27日
こんなところまで降りてしまいました。水面に風が流れていました。鳥は風に乗っていました。私は風を読み切れずにいました。
2008年04月25日
カラスがたくさん集まっていました。ウチから80Mほど離れたところとなりのとなりのゴミ収集所のあたりです。電柱の上、建物の屋根・・ちょっとした数でした。今日は生ゴミの収集日でうちの収集所を見下ろせる電柱の上にもカラスが一羽静かにまるで偵察するようにとまっていましたからほんのちょっとの恐怖でした。彼らがゴミを荒らしたわけではありませんでしたが何か不穏な雰囲気が漂っていたことだけは確かです。カラスがたくさん集まるとちょっと恐怖・・・です。
2008年04月24日
朝からぽつぽつの雨です。お昼にはザァーザァーの雨でした。夕暮れまるで台風のときのような激しい雨で道路が川のようになっていました。日が暮れて風は治まったようですけれども雨音は相変わらず恐いくらいです。鹿児島は今日一日雨でした。気温もそれほど上がっていません。
2008年04月23日
今年はツバメがよく鳴きます。いつもよりも大きな声です。そんな気がします。チュキ・チュキ・チュキ・キュロ・キュロ・キュィーキ・・・なんだかヘンテコな声をかけてくれます。今年はご近所さんに巣作りをしていません。ウチの前の電線には遊びに来てくれてはいますけれども。飛行訓練のコースも変更になっているようです。
2008年04月21日
昼間は汗をかいてしまいそうな暑さになります。そのせいなのかも知れませんが。夕方涼しい風が吹いてくると、なんだか切ない気持ちになります。小学生の頃校庭の鉄棒に座って感じていた・・あの切なさです。ジャングルジムのてっぺんで感じたあの風です。あれはちょうどこの季節だったのではないかと思うのです。空がちょうどあんな色だったように思うのです。
2008年04月20日
尾びれのないアカヒレがいます。我が家の水槽にやってきたときから彼には尾びれがありません。彼は上手に身体全体を振って泳ぎます。アカヒレの顔なんてほとんど区別がつきませんから彼以外のアカヒレ軍団は誰が誰だか分かりません。彼は凛々しい顔をしています。彼は元気に育っています。彼の勇姿を上手に写真にとらえることはできませんが。
2008年04月19日
酒田県の旧庄内藩の菅実秀が乗り込んだ列車・・当時の陸蒸気おかじょうきはまだ新橋から神奈川までしか開通していません。神奈川・・今の桜木町です。木綿の着物に、ももひき、わらじ、一刀を腰に・・・そんな服装です。途中で静岡の開墾場や製茶業を見学しました。そして神戸から長崎そして熊本までは船の旅。あとは陸路で鹿児島に到着したのは5月17日の夕刻です。50日もかかったのでした。
2008年04月18日
雨が花びらを散らします。雨が桜の季節の幕をひきます。明治8年4月8日7人を連れて菅実秀は東京を出発しました。新橋駅を汽車でたったのです。菅実秀・・・この西郷と向き合って話しているおじさんです。
2008年04月17日
政治家としての大久保一蔵の手腕は精忠組の脱藩中止の前後から「深い読み」で発揮されています。大久保は囲碁を軽視していました。国家大事の時に暇つぶしなど・・と考える人物ですから。その彼が突然囲碁の猛練習を始めます。ある程度打てるようになると僧乗願のもとに出かけました。乗願は同志税所長藏(篤)の実兄であり久光の碁の相手です。乗願を通して久光に接近しようという術策です。
2008年04月16日
島津久光をぼんくら扱いにする歴史家や小説家は少なくありません。けれども彼は決して凡愚ではありません。私はそうは思いません。極めて保守的な人物ではありますがある時代にはなかなか革新的でもあります。斉彬も鹿児島を訪問した勝海舟に弟のことを紹介しています。若いときから読書が好きで博覧強記な点は自分など及ぶものではない・・・・と。
2008年04月15日
新しい道路の工事が進んでいます。近場で桜島を眺められる場所がどんどん少なくなっていきます。この場所もきっと道路が完成してしまったら交通量の増加で写真を撮ることなどできなくなります。便利にはなるのでしょうけれども・・・・町の風景がどんどん変わっていきます。九州新幹線全線開通に向けて大きな工事がめだっています。
2008年04月14日
甲突川河畔の桜がやっとそろい始めました。私の花見はお弁当もお酒もなくてただぶらぶらと花を楽しんで歩きました。ここちよい風が川面を流れていました。首筋を走る風もここちよいものでした。
2008年04月13日
桜島フェリーが桜島の港に入ろうとするとき桜島フェリーが桜島を去ろうとするとき小さな鳥居が見えます。圧倒的な桜島の大きさについつい見のがしてしまいそうになりますが。月読神社です。黄泉の国から舞い戻ったイザナギが禊ぎをすませて一番最後に生んだ神聖な三柱の神々アマテラスの妹/弟。スサノオの姉/兄。・・・あのツクヨミです。月読の命です。あまり語られることのない神。ほとんど記述されなかった神。ツクヨミは桜島に祀られています。
2008年04月12日
天満自在天は火雷天神でもあります。火雷天神と道真の怨霊が習合したときから、道真公すなわち天神様となりました。さらに道真公は学問に造詣の深い人物でありその道真公が天神様なのですから天神様はすなわち学問の神様であるという短絡がうまれます。そして経済的な安定をめざして変容をとげて行きます。全国にある天神社としてもその方が都合がいいに決まっていました。怨霊神が本来の火雷天神だなんて表看板に掲げてしまっては受験生はきっとお参りにはでかけないと思います。
2008年04月10日
道真をこんなにもむごい流罪に付した王権にはうしろめたい思いがつきまとっていました。道真怨霊の祟りを恐れた王権は20年後の延喜元年922年にいたってようやく道真を本位本官に復しています。そして90年後の正暦4年993年には、さらに正一位太政大臣を追贈しています。90年後に太政大臣を贈らねばならないほどのことが起きていたのです。道真を鎮めなくてはならなかったのです。「大鏡」や「北野天神縁起」に書かれています。怨みをいだいて死んだ道真は、その死霊が天満自在天となり青龍と化しました。そして7年目に左大臣・藤原時平を取り殺しました。時平の急死は延喜9年、彼は39歳の若さでした。
2008年04月09日
配所のわらぶき家は雨風を凌ぐ屋根さえも崩れていました。雨の日は着衣も書物もただ濡れるにまかせるしかしかありません。夜は夜で書見のための灯油すら思うよう手には入りませんでした。抑圧された物質面精神面からの煩悶が道真の五体を日々蝕んでいきます。そしてやがて彼を死へと逐いやってしまったのでした。まさに終身刑以上の屈辱的な扱いでした。道真の遺骸は、彼の門生であった味酒安行の手で現在の太宰府天満宮境内に葬られました。その墓守をしていた安行によって延喜5年905年に道真を祀る小さな祠堂が建てられたのです。これが現在の天満宮の始まりです。p.s.数日前に母と見あげた黒神地区からの桜島です。おそこから溶岩がこぼれ出ている映像を見てちょっとびっくりです。母もです。
2008年04月08日
道真は太宰府浄妙院(俗称榎寺えのきでら。現在は榎社と呼ばれています)の地で、二年に渡る悲惨な配流生活を送り、延喜3年903年2月25日、ついに許されることなく命果てました。死因とされている脚気と消化不良はその日の食事も満足に摂ることのできなかった結果だといいます。彼を慕った梅たち・・・飛び梅の伝説もまた後から作られたものなのでしょう。道真は思いっきり惨めに死んでいったのでした。
2008年04月07日
桜島に渡るのにフェリーを使ったのは桜の咲く恐竜公園まで急な坂道が続いているからです。林芙美子の碑まで行くのにかなりの距離があるからです。母はあんまり足が丈夫でないからです。ときどき小雨の落ちる中桜島で遊びました。母はおみやげにマツボックリを拾いました。私のポッケの中に入れていました。私がマツボックリを拾ってしまうのは血のせいだと思いました。
2008年04月06日
政治家であり儒学者でもあった菅原道真は「類聚国史」を撰修したほか「日本三代実録」の編纂にも加わっています。彼は政治面でも活躍した人物であり歴史物の編纂にも大きく貢献していたのです。けれども菅原道真という人物をもっとも有名にしているのは「学問の神・天神様」として祀られたことです。しかしながらそのことも真相は道真を蹴落とすための中傷によって筑前太宰府に大宰権師の身分で左遷された哀しい話に端を発していたことは言うまでもありません。道真は鬼神となるべくして最強の祟り神になったような気がします。聖徳太子と菅原道真は私の中では一二を争う祟り神です。
2008年04月05日
菅原道真をねたみ藤原氏に尾を振る三善清行(みよしきよゆき)文章博士は言います。あなたの土師氏以来の系譜から言っても右大臣をお受けするなど大変厚顔しく沙汰のかぎりである。 ・・・とです。露骨に直接辞任を迫っています。世の人に列してからすでに四代、しかも右大臣になってまで、明らかに下位の文章博士からこんな厭みをいわれるほどだったのです。それほど垂仁天皇御下賜による土師臣の姓にはこんな厭みを裏付けるような意味が含まれていたのです。それ故に一族は改姓を図って蔑みの目をかわそうと暗く長い影を曳きずり続けていたのです。
2008年04月04日
やっと桜が本気になってきました。それでもまだ七八分あるいはたったの三四分なんです。週末は結構キレイに開きそうだ・・・と前田一郎気象予報士が。けれども土日は雨になるかも・・・と前田一郎気象予報士が。お弁当持って花見に出かけようと思っているのにです。ブー・・です。桜島が煙を吐いていました。追伸どなたか教えてください。桜島フェリーに車で乗り込むにはどうしたらいいのでしょうか。車でどこに行けばいいのでしょうか。
2008年04月03日
古人の四男清公きよとも(~842年)は父の期待に応え二十歳で文章生試もんじょうしょうしに合格、三十四歳で従五位下・大学助に任ぜられました。その後、文章博士、式部大輔、弾正大弼、左京大夫を歴任、従三位にまで登りました。この間に「令義解」などの編集にも参画しています。清公の子是善これよし(812~880年)もまた儒家の道を歩みました。彼は参議・従三位にまで進んでいます。長年にわたって文章博士をつとめ「貞観格式じょうがんかくしき」や「文徳実録」の編纂にも加わった人物です。是善の子菅原道真(845~903年)は古人から数えて四代目にあたります。平安前期の律令官人として、父是善を越えて899年従二位・右大臣にまで登りました。藤原時平の左大臣に対して、道真の右大臣就任は藤原王権による他氏排斥に大手を広げて立ちはだかる姿に映ったであろうことは容易に想像できます。王権を作り上げていった装置。王権を正統にした一族。この国の歴史を書いた人々。それは藤原氏です。鎌足が中大兄皇子を選んだときから歴史は変わり始めていたと思います。
2008年04月02日
始めて菅原の姓を名乗った人物・・・土師宿禰古人はじのすくねふるひとは野見宿禰が土師臣いらいの宗家です。そして勅許された菅原氏の本宗です。約五世紀にもわたる涙ぐましい努力によってやっとギリギリ「世の人」になれたのでした。遠江介・従五位下・・・人の世界の最下層ではありますが・・・古人は清貧の生涯を終えていますが土師氏が菅原氏となってのちも子孫が出世するにはひたすら学問に励む以外にはないのだ・・その旨を子どもたちに諭していました。菅原の子どもたちは出世するために学問に励むことになります。出世する・・世に出る・・この言葉の意味は現在のものとは違います。世に出る・・人間になるという意味なのですから・・・・
2008年04月01日
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