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ローマ教皇ユリウス2世逝去。1513年2月21日ユリウス2世は計り知れないほどの勇気と確固たる意志を持った支配者であった。向こう見ずでその計画は途方もなく大きなものであった。ユリウス2世は世俗的な君主であったならば、最高の栄誉に浴していたであろう。それにもかかわらず、彼は全ての前任者を越えてその記憶がもっとも光り輝き、もっとも栄光に満ちた教皇であった。現代(マキャベリの生きた時代)において、知りうる限り、大事業はすべて吝嗇と考えられた人々のみによって成し遂げられている。例えば、ローマ教皇ユリウス2世は、教皇になるまでは気前が良いという評判を用いたが、その後は、戦争を起こすために気前が良いという評判を維持しようなどとはしなかった。また、現在のフランス王ルイ12世は、国民に重税を掛けずして数次にわたり大戦を行ってきたが、これも長期間倹約を行って膨大な支出に備えてきたからである。現在のスペイン王フェルナンド5世が、気前がよいと称されるようであれば、あれだけの戦争を起こし、勝利することはできなかっただろう。ゆえに、君主は、民衆から搾取せずにすむよう、自らを守りぬけるよう、貧乏になって軽蔑されないよう、また、強欲にならぬよう、吝嗇であるという評判を少しも気にしてはならない。これは、君主を支配者たらしめる悪徳の一つなのである。
2004年08月31日
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みなさん こんにちは、実はメインブログをココログの知的体育会系フリーエージェントの実践記録に移管しました。以前、はじめてこられた方へでも、触れていますが、「この楽天については、7月末までを目処に、新しいブログを立ち上げるための実験的ブログ」です。いよいよ本番稼動しました。しかし楽天もアクセス数もバカにできないので困っています。どうぞ、これからもよろしく。
2004年08月30日
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☆戦争終了の後に何をどのように行ったかで、その国の将来は決まってくる。勝敗は、もはや成ったことゆえどうしようもない。問題は、それで得た経験をどう生かすか、である。<第二章 第一次ポエニ戦役後>○戦闘の結果を左右する戦術とは、コロンブスの卵であると同時にコロンブスの卵ではない。誰も考えなかったやり方によって問題を解決するという点ではコロンブスの卵だが、そのやり方をと踏襲すれば誰がやっても同じ結果を産むとはかぎらないという点で、コロンブスの卵ではないのである。<第三章 第二次ポエニ戦役前期>○天才とは、その人だけに見える新事実を、見つけることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気づかなかった旧事実に、気づく人のことである。<第三章 第二次ポエニ戦役前期>○(ハンニバルの言葉として)多くのことは、それ自体では不可能事に見える。だが、視点を変えるだけで、可能事になりうる。<第四章 第二次ポエニ戦役中期>○信頼は、小出しにしないほうが、より大きな効果を産みやすい。<第五章 第二次ポエニ戦役後期>☆優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間ではない。率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。持続する人間関係は、必ず相互関係である。一方的関係では、持続は望めない。<第六章 第二次ポエニ戦役終期>○神話や伝承の価値は、それが事実か否かよりも、どれだけ多くの人がどれだけ長い間信じてきたかにある<建国の王ロムルス>☆多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである<二代目の王ヌマ>○人間の行動原則の正し手を、宗教に求めたユダヤ人。哲学に求めたギリシア人。法律に求めたローマ人。<二代目の王ヌマ>○戦争は、それがどう遂行され戦後の処理がどのようになされたかを追うことによって、当事者である民族の性格が実によくわかるようにできている。歴史叙述に戦争の描写が多いのは(中略)戦争が、歴史叙述の、言ってみれば人間叙述の、格好な素材であるからだ<ペルシア戦役>☆歴史は必然によって進展するという考えが真理であると同じくらいに、歴史は偶然のつみ重ねであるとする考え方も真理になるのだ。こうなると、歴史の主人公である人間に問われるのは、悪しき偶然はなるべく早期に処理することで脱却し、良き偶然は必然にもっていく能力ではないだろうか<南伊ギリシアとの対決>☆第三章:複合の君主政体について○「戦争を避けるために混乱を放置してはならない」第四章:アレクサンドロスに征服されたダレイオス王国で、アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して反乱が起きなかったのは、なぜか○「(君主政体の違いについて)一つはひとりの君主と他はすべてが下僕である者たちによって治められる方法・・・いま一つはひとりの君主と封建諸侯たちによって治められる方法」第五章:征服される以前に、固有の法によって暮らしていた都市や君主政体を、どのようにして統治すべきか○「獲得された諸政体が、固有の法によって自由に生活するのに慣れてきたものであるときには、支配を維持するための方法は三つある。第一は、これらを壊滅させること。第二は、みずからそこへ移り住むこと。第三は、固有の法によって暮らすのを認めながらも、内部にあなたと密接な関係を保つ寡頭政権を確立し、租税を取り立てること。」第六章:自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について☆「新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを敵にまわさねばならない。・・・そして新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎない・・・この生温さが出てくる原因は、一つには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、新しい実態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。」 ↓☆「したがって、これら改革の側に付く者たちが自分の力で立っているのか、それとも他社の力に依存しているのかを、すなわち自分たちの事業の遂行にさいして、彼らが祈っているだけなのか、それとも実力を行使できるのか、仔細に検討しておかなければならない。」○「ここから生まれてきた事実によれば、軍備ある予言者はみな勝利したが、軍備無き予言者は滅びてきた。・・・人民は本性において変わりやすいので、彼らを一つのことを説得するのは容易だが、彼らを説得した状態に留めておくことは困難であるから。」第九章:市民による君主政体について○「賢明な君主は、いついかなる状態のなかでも、自分の市民たちが政権と彼のことを必要とするための方法を、考えておかねばならない。そうすれば、つねに、彼に対して彼らは忠実でありつづけるだろう。」第十二章:軍隊にはどれほどの種類があるのか、また傭兵隊について○「すべての政体が・・・持つべき土台の基本とは、良き法律と良き軍隊である。」第十四章:軍隊のために君主は何をなすべきか○「精神の訓練に関しては、君主は歴史書を読まねばならない。そしてその内に卓越した人物たちの行動を熟慮し、戦争のなかでどのような方策を採ったかを見抜き、彼らの勝因と敗因とを精査して、後者を回避し前者を模倣できるように勤めねばならない。」第十五章:人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて☆「いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常に隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、自らの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての価値において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。」○「悪徳からも、可能なかぎり、身を守るすべを知らねばならないが、それでも不可能なときには、さりげなくやり遣り過ごせばよい。」第十六章:気前の良さと吝嗇について○「賢明であるならば、君主は吝嗇ん坊の名前など気にしてはならない。」○「奪い取らないことによって、無数に近い人びとのすべてに気前の良さを示し、また与えないことによって、少数の人びとのすべてに吝嗇を行使することんある。」○「君主たる者は・・・吝嗇ん坊の名前が広まるのを・・・いささかも気にしてはならない。なぜならばこれを彼をして統治者たらしめる悪徳の一つであるから。」☆「その君主は自分のものや自分の臣民のものを費やしてきたのか、それとも他人の所有物を費やしてきたのか。第一の場合ならば、控え目にすべきである。第二の場合ならば、いかなる形の気前の良さも惜しんではならない。」○「気前が善いと呼ばれたいばかりに、憎しみにまみれた悪評を生み出す強欲という名前へ陥ってゆくよりは、むしろ憎しみの混ざらない悪評を生み出す吝嗇ん坊という名前を身につけてゆくほうが、はるかに賢明なのである。」第十七章:冷酷と慈悲について。また恐れられるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か○「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない。」第十八章:どのようにして君主は信義を守るべきか○「闘うには二種類があることを、知らねばならない。一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。」 ↓☆「君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、なかでも、狐と獅子を範とすべきである。なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからゆえに。したがって、狐となって罠を悟る必要があり、獅子となって狼を驚かす必要がある。」○「君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを現実に備えていることではなくて、それらを身につけているかのようにみせかけることだ。いや、私としては敢えて言っておこう。すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、身につけているようなふりをするのは有益である、と。」 ↑○「あなたの外見をだれもが目で知ってはいても、あなたの実態に手で触れられるのは少数の者たちだけであるから。」第十九章:どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか○「陰謀に対して君主がなすべき最も強力な手当の一つは、大多数の人びとから憎まれないことである。」第二十章:城砦その他、君主が日々、政体の維持のために、行っていることは、役に立つのか否か○「君主たちが既存の政体を新たに征服したさいに、その政体の内部にありながら支持してくれた者たちがいたときには、自分を支持してくれた者たちがいかなる理由で支持に踏み切ったのかを、よく考え直して、思い返す必要があるということだ。そしてその理由が、自分たちに寄せられた自然の敬愛のためではなく、単に彼らが元の政体に満足していなかったためだけであるならば、彼らを味方にしておくことは困難であり到底かなわぬであろう。なぜならば、彼らを満足させることは不可能であるゆえ。・・・満足していないがために、相手の味方について、それまでの政体が征服されるのに力を貸したがごとき者たちよりも、以前の政体に満足していたがために敵対した者たちのほうが、己の真の味方になることは、はるかに容易に看て取れるであろう。」第二十一章:尊敬され名声を得るために君主は何をなすべきか○「旗幟を鮮明にする態度は、中立を守ることなどよりも、つねに、はるかに有用である。・・・勝ったほうには、逆境のなかで助けてくれなかった疑わしい味方など、要らないし、負けたほうには、武器を執って自分と運命を共にしたがらなかった、あなたのことなど、受け容れられるはずもないから。」☆「慎重な心構えとは数々の不都合の特質をよく見分けて、最悪でないものを良策として選び取ることにある。」第二十三章:どのようにして追従者を逃れるべきか☆「良き助言というものは、誰から発せられても、必ず君主の思慮のうちに生まれるのであり、良き助言から君主の思慮が生まれるものではない。」第二十五章:運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか○「運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らってあらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、すなわち土手や堤防の築かれていない箇所であることを承知の上で、その場所へ、激しく襲いかかってくる。」○「私としてはけれどもこう判断しておく。・・・慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば運命は女だから・・・そして周知のごとく冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。」
2004年08月29日
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ローマ人の真のアイデンティティを求めるとすれば、それはこの開放性ではなかったか権力と富を享受しうるようになったローマで、敢えてそれから逃避せず、しかし、その奴隷にならないよう日毎自らをいさめ誘惑と戦う・大衆は普通、彼等の属する集団やその価値によって自己を規制している。そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作され易い。・幸運に臨んでは慎み深く、他人の不運からは教訓を学んで、つねに最善をつくす・巧妙な外交をおこなうものは、契約を破ったりは滅多にしないものなのである。・よい政治体制とは国内の活力と多様性とを保ちながら、秩序と安定とを与えるもの・勝敗の分かれ目はレーンが述べたように「社会を組織する能力」の差にあった。(ジェノヴァに勝ったヴェネツィアの要因)・挫折は自らの限界を悟らせる。そして、人間は知恵を持つようになる。・幸運に助けられた目ざましい成功と、どうしても克服できない脆弱性、その二つが通商国家の運命であるというほかない。・それをしていることを十分に承知している人間の行う偽善は、有効であるとともに、かつ芸術的に美しい○プロイセンのフリードリッヒ大王の言葉・・・「戦勝とは敵にその地位を譲ることを余儀なくさせることである。」○よく話題にのぼるモルトケとシュリーフェンの違いについてはそのいくつかを列挙して対比している、以下はその一部・・・「モルトケは撃破しやすい敵をまず攻撃しようとしたが、シュリーフェンは最も強大で、危険な敵を全力をあげて撃滅する必要を説いた。」「モルトケが外交との調節をはかることを考えたが、シュリーフェンは政治家を信ぜず、武力による撃滅戦に傾倒した。」「モルトケが作戦計画において初期作戦を重視し、綿密な計画作戦を指導するが、その後は状況の変化に対応する情況作戦を考えたのに対し、シュリーフェンは全期間を通じて緻密な計画作戦が可能であると信じた。」○フラーからの引用・・・「小銃が歩兵をつくり、歩兵が民主主義をもたらした。」○毛沢東の十大軍事原則・・・1「まず分散した敵を討ち、集中した強大な敵はあとで撃つ。」2「まず小、中都市および広大な郷村を占拠し、あとで大都市を占領する。」3「敵の生産力を殲滅することを主目的とし地域の奪取は主目的としない。」4「絶対優勢の兵力を集中し、敵を四囲から包囲殲滅につとめ、不徹底な消耗戦を避ける。」5「準備と確信の無い戦いは行わない。」6「勇敢に戦い、犠牲と疲労、連続作戦を恐れない気風を養うこと。」7「つとめて運動戦によって敵の殲滅をはかる」8「都市攻撃にあたっては敵の守備薄弱部を、中程度の守備に対しては状況と能力の許す限り機を見て、堅固な守備に対しては条件の成熟を待ってこれを奪取する。」9「敵の兵器と人員の大部を捕獲、捕虜として自己を補充する。わが軍の人力と物力の補給源は主として前線にある。」10「部隊の休息と整備は二つの戦役の間をりようして行うが、休息を長きに失せぬよう、また敵に反撃の余裕を与えない限度で行うこと。」○あとがきにて・・・「歴史は過去を取り扱うものであるが、それを扱う方法は過去からだけでは生まれてこない。将来に対するある種の見通しがあってこそ過去の扱い方も出てくるのである。」「戦略は、戦場における勝利のためのリスクを最小限にするように事前に準備し、また戦場における勝利の果実を最大限に活用する策略。」「戦術は、戦場において最大のリスクに挑戦し、最大の勝利を獲得するための術。」・・・と著者なりに定義してから始めている。また、冒頭部分で日本の平和論には戦術研究が徹底的に欠けているとしている。忌むべき病気を研究する医学のように忌むべき戦争を研究する戦争研究があまりにもおざなりなことを、こういう本の例にもれず嘆いている。以下は気になったり印象に残っている点を列挙・・・指揮官の決断力についての既述の中で、元の状態の把握、微小変化の発見、何物かの認識、敵か味方かの識別、真偽の判別、正確な報告の伝達のそれぞれが80%の精度であると仮定して実際に頭脳に入ってくる情報について・・・「指揮官は約25%の情報量で決断を求められている。」・・・と断言しているのはちょっと言い過ぎのような気がしたが完璧を踏まえてからしか動かない官僚思考型が多い日本の中では強調したかった点なのだろう。僕も同感してしまう。戦史の基本中の基本であるカンネーの戦いについては・・・「この戦闘は戦術の極意をすべて含んでいる。弱点を見せて敵を中央突破の攻撃に誘い込んで逆に敵に弱点を生じさせ、歩兵陣の両翼の防御と、中央の歩兵陣の遅滞行動で敵を拘束し、左翼の騎兵で機動打撃する攻撃。」と述べている箇所は今まで僕が読んだこの戦いについての説明の中では一番簡潔でかつ要点をまとめてくれていると感じた。「戦時向きであり、平時向きであるような武将は、この世に存在しない。」・・・とチンギス・ハーンが述べていると書いているがどうもここらへんはうさんくさい。リデル・ハートの著作あたりからの引用か?キャプテン・ドレイクの言葉として・・・「イングランドの防衛線は国境や英国海峡にはない。大陸側の港の背中にある。」・・・としている言葉は海洋防衛の基本を示す言葉だろう。ただこの純軍事的な考えが日本の朝鮮侵略につながっていったという政治的事実も無視できないと思う。そして、この本の中でもっとも面白かったのはナポレオン戦争以降盛んになった戦史研究についてだ。一般的に戦闘開始以前の理論戦闘力が優位な側が勝つという考えが当然のこととされている。(当たり前と言えば当たり前だね)しかし、過去605の戦例から理論戦闘力の比(「Force Raito」=「F.R」)を表にしてまとめてみると・・・理論戦闘力が優勢側の勝利は辛うじて過半数を超える56%で劣勢側の勝利は36%(残り引き分け)。また、劣勢側が攻撃したケースが26%あり、そのうち勝利もしくは引き分けが59%になっている。事前に相手より三倍以上の兵力整えられれば勝利するなどのような一般化されている常識は史実からは遊離していると述べている。また、ソ連のチェモシェンコやドイツのグーデリアンなどに強い影響を与えたとされるJ・F・フラーの『機甲戦ー作戦原則第三部の解説ー』を紹介しているのだがこの中で戦いの原則を著者なりの注釈を加えて既述している。特に・・・「戦いにおいては、明確な目標を確立し、徹頭徹尾、追求せよ。(注)当然の話であるが、これほど実行が難しいものはない。」「敵の作戦計画を破壊するように、機動せよ。機動の目的は、敵の精神の均衡を破壊することである。(注)馬鹿な指揮官は、敵の物理的戦闘力を破壊しようとする。優れた指揮官は、敵の思考力を破壊する。」「集中の原則・・・(注)わが決勝点に戦闘力を集中しようとすれば、敵も集中しようと努力する。要点に対して相対的に優勢な戦闘力を集中するには、適切な分散によって敵に分散を強要することが必要である。集中のタイミングは、敵の反応が遅れた瞬間である。」・・・などは様々な方面にも応用できるものだろうが以前読んだリデル・ハートの理論そのままといった感じだった。ロンメルの言葉として・・・「大胆な作戦は、常に予備と代替の作戦計画を持っている。」・・・これもリデル・ハートの『戦略論』などに添ったもの。また、フラーはこの本の冒頭で研究を含めた戦前での準備について・・・「戦争になって、新しい戦闘教義を創造することは、よほどの天才でない限り不可能である。」と述べているがこれは戦争だけでなくすべての物事においても通じることだろう。それとこの本を読むまで意外に理論として認識していなかったのが航空戦力を砲兵の代わりとして使用するということだ。ポーランド侵攻戦でグーデリアンを始めとするドイツ軍はフリードリッヒやナポレオンが砲兵に騎兵を支援させたように航空戦力に機甲部隊を支援させたとしている。航空機はその維持費の高さ、防御力の脆弱さ、運用の難しさから騎兵の後継者とした考えを僕はもっていたが砲兵の後継者としての運用が現代戦でのデビューでもあったのだということが意外だった。十七世紀の英国の海軍戦闘訓令の失敗から有事における法の原則を・・・「決められないことは決めるな!」と言い切っているのはちょっと行きすぎだと思う(^^;冷戦後の戦争作戦については連合作戦には戦闘力の要素を相互に補完し合う方法(古代ローマ型)と連合する国々がそれぞれ完全な軍事力の要素を持って連合する方法(第二次大戦型)があるが、前者はかつて技術的に困難が多いことと連合部隊内における主権の問題によって崩壊したことになっている。そのため「戦闘力の要素を補完し合う連合作戦は過渡期の方法であろう。」と述べているが最近のNATOによるユーゴ空爆などは前者に位置するものだろうこれからどうなるか見きわめていきたい。最後に・・・「名将は、育てられるものではない。育つ環境を与えるだけである。」・・・というのは軍事教育だけでなく教育すべてに通じる言葉だろう。
2004年08月28日
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矢吹丈(人形)オレ ライフアップ丸尾オーナー 操体プラクティショナーりょう昨日は、某テレビ局のディレクターさんと飲む予定でしたが、緊急の取材でカット(T_T)でも、りょうと丸尾オーナーとで楽しく飲みました。 與之更始いこう!ともに新時代へ フリーエージェントの時代へ 店長のえっちゃんも、キルゴアお気に入りの焼酎を片手にこれからのことについて!さて、平成16年8月25日にイベントを行います知的体育会系フリーエージェント キルゴアFA宣言&操体プラクティショナーりょう 29歳誕生会 日:2004年08月25日 時間: 20時集合 20時15分開催 22時過ぎぐらい解散) 費用:参加費 4200円(ウチ税200円) 飲み放題です! 8月25日は 操体プラクティショナーりょうくんの29歳の誕生日のお祝い、そして8月15日に会社を退職して、フリーエージェントになったキルゴアの未来へのマニフェストを宣言いたします。皆様のブログ・メルマガでも告知をいただければと思います。 「りょうとキルゴアの知人達の出会い・交流の場」として活用ください。 大物ゲストも来る可能性があります。依頼中です 古市佳央 さん這い上がり ある「顔」の喪失と再生の半生記当然、ライフアップ丸尾オーナーもリキいれてくれてます。(^_^)V 参加資格:楽天日記、GREE、MIXI、ブログなどで2人のうちどちらかを知っている方、祝いたい方は誰でも可!参加方法:ここのコメントで参加宣言をするか、楽天の私書箱へメールをくれるか、ohori@hi-ho.ne.jpに連絡してくださーい!締め切り:月曜日の午前中まで(人数を確定させるため)お早めにどうぞ!!場所:東京都 (渋谷ライフアップ) Relax Dining Bar LIFE UP (アジアン・創作無国籍レストランバー) 東京都渋谷区桜丘4-2-1階 (JR渋谷駅南口徒歩5分) TEL.03-3476-5663☆FAX.03-5457-1386
2004年08月20日
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明鏡止水(「明鏡(めいきょう)」とはくもりのない鏡のこと。「止水(しすい)」とは波の立たない静かな水面のこと。どちらも、ありのままに姿や形を写し出すことができたこと。悪い考えの無い澄んだ心境を表していて、一点の曇りも無い鏡と静かに澄んだ水に例えたもの)より着想生物群の繁栄の基礎たるものは、生物にとって生存しやすい環境を構築することである。生存の要件は、全ての生物にとって一概に適用しうるマスターキーは下記である。環境が穢れ過ぎると生物は死滅する。穢れは、何も手をくわえねばますます穢れてゆき、生存に適することのない環境が構築される、生物は自らの遺伝子の存続と繁栄のため、自らの生息する環境を浄化しなければならない、浄化とは変転、流転させることである。生存環境に実在する万物を、滞留させると穢化するのである。我々にとって、止まることは死である。生物の死は肉体という遺伝子の乗り物の機能の停止である。死の状態とは、停止の状態である。私の理念の主題は、常に穢れる方向(死滅への方向)に向かう環境を生物自身の叡智(ミーム=生存保障システム)を、その穢れる方向性を食い止めるべく反作用(=浄める方向性)にもっていき、繁栄を実現する状態をバランスさせてゆくことにある。ただし、過度の浄化はまた、生物の死滅へ繋がる。具体的には、砂漠は日が照りつけ熱砂になり、熱による浄化がおこなわれた状態ではあるが、浄化の行き過ぎにより、生物の生存に適さない状態となっている。寒冷地においては、冷気が浄化せしめているがこれも生存には適すことがないのである。生物が存在できるからこそ、エントロピー(排泄による汚濁)がおこるのである。我々、生物は生存のため他の生物を捕食する業と生存環境を穢す業を背負っているのである。ただ、その業自体も意味のある行為である。捕食は生存適正数調節に必要であるし、排泄は、環境の養分供与のため必須である。明水理念は、生物の生態体系の法則を守る。つまり、養分(=エネルギー)を適切に生態系に沿って滞りなく流す思想である。1.生存環境は穢れる方向へ向かう性向がある2.穢れの帰結は、その環境下で暮らす生物の死滅である。3・穢れを食い止めるため、その反の力を加え、環境を浄化させなければならない。4・環境に存在する万物を、流転せしめることが、浄化へと繋がるのである。5.浄化は、その環境に生存する生物の叡智によってなされる。6.浄化の行き過ぎは、生物自体の生存に適さなくなる。7.浄と穢の比率は、78:22で中庸(=バランス)をとる。
2004年08月19日
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トム・ピーターズエクセレントになるためにまず必要なことの九九・九パーセントまでは、やってみせるというやる気を奮い起こすことで、周囲の者が(同僚を含めて)どんな邪魔立てをしようとも、妥協をしないという強い決意が大切だ岡本呻也 新日本人革命「価値観」とは、各人が各々の心の内で定めている、「物事の持つ意味づけ」である。 日々、何かの折に深く考えていくと最終的には、「人間とは何か」という疑問に到達するだろう。われわれは、いずこより来たりて、何のために生き、いずこへと去るのか。 そこからすべての疑問がスタートし、自分たちを囲む現実を検証してものの価値や意味を考えることになる。ルネサンスの時代の人間たちが、それまでの中世の神による呪縛を離れて、自分の足で立ち上って考え始めたのも、ここが出発点だったのではないだろうか。 「人間とは何か」を真摯に考える態度を持っていたから、「地球の回りを太陽が回っているんじゃない、本当は太陽の回りを地球が待っているんじゃないだろうか」という、今まで自分が立っていた常識を全く覆す認識に到達したのである。科学的態度というのは過酷なものであり、根源的な疑問を持ち続けなければ保てない厳しさを持っている。 しかし旧日本人は、普段はそのような真剣な問いを自らに課す必要性を感じていない。自分の中で独自の価値観を追求し続ける姿勢を持たないのだ。 「何が正しいか、何が間違っているかという判断基準は、原理原則に従って、自分が主体的に決めるものではない。判断基準はその時その時において、常に自分の周囲からもたらされるものであり、周囲の状況に応じて、なるべく多くの人と同じ選択を行っておけば間違いがない」という相対主義的な処世術が身についているので、時代や環境は変わっても変化しない不朽の価値を追い求めようとする気持ちはあまり持たないようだ。群れで行動する小魚や草食動物を思わせる行動様式である。そして、そうした付和雷同型の思考・行動傾向を持つ人間だけで群れようとし、自分たちと違う価値観を持つ人を許容せず、組織から追い出してしまおうとする。つまり自分を高めるため、脱皮するためには、価値を知ること、そとて「驚き」がぜひとも必要なのだ。一度それを知ってしまえば、さらにより高い価値の探求を続けるように意識づけられる。「もうこれ以上はいいや」と探求をやめてしまった時点で人間的な成長は止まってしまい、旧日本人のお仲間になってしまうのだ。人間、驚きや感動がなくなったら終わりである。 朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。終わる日の来ぬ探求もまた楽し。「ザ・ゴール」エリヤフ・ゴールドラット・ルー、まだわからないのか。真の制約条件は機械なんかじゃない。ポリシーなんだ。(p513)TOC導入において克服しなければいけない最大の障害が、変化に対する抵抗であることはみんな認めるところだと思う。(p535)
2004年08月17日
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帝政打倒 連合国側は、イスタンブールの皇帝政府を、アンカラ政府に対する対抗馬として使い、出来るだけ有利な取引をトルコと行おうとしていた。そのため、ローザンヌで新たに和平会議を開きたいという連合国側の申し出は、アンカラ政府に対してだけでなく、皇帝政府にも送られた。 そのことが明らかになったとき、トルコ全土で怒りの嵐。祖国を滅亡させるも同然の条約を連合国と結び、「ギリシア軍は敵にあらず。ギリシア軍に抵抗する者は反乱者なり」という勅書まで出した皇帝が今なおトルコの主権者とは。すでに半ば自分達こそ主権者だと自覚していたトルコ国民は、メフメット6世に対する怒りを爆発させた。 ケマルはその国民の怒りを背景にして、一気に強硬策。国民議会で、皇帝制度とカリフ制度とを分離して、帝政の方は絶対に打倒しなければならないと演説。だが、議員達は動揺。彼らはメフメット6世の一貫した祖国への裏切りに対してこそ激怒していたものの、帝政打倒までは主張していなかった。そのため、帝政打倒をただちに決議せよというケマルの要求は拒否された。 しかし、国民は議員達より、ずっと急進的になっていた。もはや国民はケマルこそ自分達の唯一の指導者だと信じていた。 その国民に向かって呼びかけた。「国家の主権は国民のものである!オスマン王家はそれを私物化し、6世紀に渡って祖国を不法に支配し続けたのだ。今こそ諸君は自分達の権利を取り戻さねばならない。皇帝制度がある限り、再びメフメット6世のごとき人物が現れ、祖国を滅亡へ導いてしまうであろう。ついに独立を守り抜いた我々が、今なすべきことは2度と祖国の独立を危うくしないために、その危険の原因となる皇帝制度を廃止することだ!」 ケマルに煽られた民衆は、議会が開かれている建物に押し寄せ、「帝政打倒!」を絶叫。 11月3日、ケマルは議会で大演説をした後、「私は諸君が本日この場で、皇帝制度の廃止について、満場一致で賛成するものと信じる!」と怒鳴るように言った。そして、ただちに挙手による投票を求めた。議長は弱々しい声で、「ガーズィの提案を採択し、これより議決を行います」と言った。何人かの議員は手を挙げなかった。しかし、議長は、「満場一致で議決!皇帝制度は廃止されました」と宣言。 民衆は帝政が打倒されたことに狂喜。民衆はアンカラの粗末な議事堂になだれ込み帝政廃止に賛成したかどうかを、全ての議員に問いただし、曖昧な返事をしたものに集団暴行をやった。 ▼ローザンヌ和平会議 1922年11月下旬に開催。1923年7月合意。トルコは大戦前のヨーロッパ領土を取り戻し、北イラクこそ英国に譲ったが、小アジアは確保。その上、治外法権制度は完全に廃止され、財政管理権もトルコの手に戻った。ボスポラスとダーダネルス海峡を非武装地帯にすることと、両海峡を国際管理委員会の支配下におくこと。しかし、その国際管理委員会の議長国にはトルコがなったのだから、トルコの面子はたったと言うべき。 ▼親日家ケマル アタチュルクの晩年、トルコへ赴任した武富大使は、その執務室の書架に、主としてフランスで出版された莫大な数の日本に関する書物が並んでいたと雑誌に書いている。また、アタチュルクは武富大使に、「私は日本から多くのことを学びました。日本はトルコ共和国の先生です」と語ったという。 武富大使の前任者だった吉田大使はアンカラで病死されたが、危篤の知らせにアタチュルクは病院へ駆けつけ、その額に心からなる別れの口づけをしたという。他国の大使公使でアンカラで客死した例は、他にもいくつかあるが、その最期にアタチュルクが駆けつけたのは、吉田大使の場合だけだったそうである。 ▼トルコの留学生は、ドイツで歓迎された 何故なら、自分達がヴェルサイユ条約という、屈辱極まる和平条約を阻めなかったのに、トルコが同じ様なセーブル条約を実力で阻んだことは、ドイツ人を驚嘆させたから。 ▼当時のアタチュルクの睡眠時間 せいぜい4、5時間。そのうえ、例の大酒のみの習慣は続いていた。アルコール度では50度もある強い酒で、それを毎晩1本(約700cc)は飲み干していた。しかも、彼の起床は大体午前7時だったが、一度も二日酔いの症状はみせなかった。 ▼超人 わずか15年の統治において、一国にルネサンスと宗教革命と産業革命とをもたらした鉄人。 ▼借金返済 アタチュルクは苦しい国家財政にもかかわらず、トルコ帝国が外債という形で借りていた、約1億6000万金貨リラ、つまり今日の邦貨で10兆円を越す借金を、旧帝国の約束通りの利子をつけて返し続けた。そして、この借金をトルコが払い終えたのは、アタチュルクの死後16年目の1954年のことであり、対ロシア戦争の軍費調達のため、初めて外債という形で西欧から借金した1853年から数えれば、実に101年もかかった勘定になる。 そして、そういう誠実さや、自らその独裁を終わらせようとしたところからも、同じく独裁者でありながら、彼がスターリンやヒトラーとは根本的に異なる人物であったことが容易に証明されよう。(大島直政著『ケマル・パシャ伝』新潮選書)
2004年08月15日
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ソ連と連携、仏伊の撤退 祖国滅亡の危機感に燃え上がったトルコ国民軍の士気は高く、反対に連合国軍の兵士は、もう戦い続けることに嫌気がさしていた。だから、セーブル条約は調印されたものの、連合国にとっては不渡り手形同然。そうしないためには、本国から大軍を送り込まねばならないが、英仏伊のいずれも大戦後の経済混乱で、そんな余裕はなかった。 ソ連はその国際的な孤立意識から、アンカラ政府と事実上の国交を結び、武器援助さえした。 さらにソ連にとって、トルコと共通の利害があった。それは、アルメニア問題。両国にとり、アルメニアが旧ロシアとトルコ領にまたがる完全独立国となっては困るのだ。しかも、ここが反ボルシェヴィキの拠点にもなっていた。だから、トルコ国民軍の進撃と同時に、ソ連軍も進撃し、挟み撃ちにして壊滅させた。かくてセーブル条約が保証した「アルメニア国」は幻となった。 小アジアの南東部に進駐しているフランス軍を急襲。フランスは新領地シリアでの反乱に手を焼き、小アジアから大量の部隊を引き抜いていたため一方的にトルコ軍の勝利。フランスは休戦条約を結び、小アジア東南部から完全撤兵。次に、イタリア軍を、その侵入拠点の東地中海の諸港に追いつめた。イタリア軍には厭戦ムード。そして、本国の国内経済がほぼ破綻という状態で、ゼネストが荒れ狂っていたと同時に、軍紀も大いに乱れていた。トルコ国民軍がやってくると、一戦も交えずに退却。休戦協定を結んで小アジアから撤兵。 ▼イギリスと組んだギリシア軍の侵入 ギリシア首相ヴェニゼロスは、英国首相ロイド・ジョージにこうもちかけた。ギリシアを軍事援助することで、ギリシア軍が連合国の代理人となり、アンカラ政府を倒してみせる、そのかわりギリシアは、小アジアの西半分をギリシア領とする事を認めよ。 アイルランドの内乱が泥沼化し、新たに植民地としたアラブ地方での反乱に手を焼き、一兵もトルコに送る余裕のない英国にとって、武器弾薬をくれれば代理戦争を引き受けてくれるというギリシアの提案は魅力的だった。 ギリシア軍はいたるところで、非戦闘員を虐殺。皆殺しにされた村も少なくなかった。ロンドン・タイムズの従軍記者は、男はおろか女子供まで、釘で木に張り付けにされ、なぶり殺しにされた村の光景にショックを受け、「わが政府が狂犬を飼い続けるのは許されるか?」という記事を書いたほどの大虐殺。 1921年1月、ケマルはイスタンブールとアンカラの中間にあるイノニュ高原で待ち伏せ。そして、ギリシア軍を撃退。しかし、武器弾薬の不足で追撃は出来なかった。3月再度やってきたギリシア軍を、激戦の末かろうじて撃退。この2度の勝利は、アンカラ政府の国際信用を高め、アフガニスタンなど数カ国が、こちらをトルコの正当政府と認めた。 ▼サカリア川の激戦 1921年7月、ギリシア軍は10万の兵力を持って三度攻撃。ケマルは、イノニュ高原での迎撃を諦め、サカリア川まで200キロ後退し、そこに新たな陣地を設置する作戦。敵の補給線を延ばさせ、包囲されにくい場所で戦うという狙い。もしここを突破されたら、敵は一気にアンカラを突き、救国戦争も終わり。この戦いの直前、平和の回復までという条件付きで、大国民議会はケマルに独裁権を承認。 8月14日、10万のギリシア軍と、5万のトルコ軍が激突。ギリシア軍の猛撃に対して、大砲も弾丸も兵士も、何もかも不足しているトルコ軍は、ただ敵の砲撃に耐えに耐えて、白兵戦に移ったときに勇気を示すしか方法がなかった。ダーダネルス海峡戦の再現。開戦から1週間の間に、トルコ側の師団長が7人、ギリシア側の師団長が13人も、それぞれ白兵戦で戦死。 それでも将兵は、前線を駆けめぐって自分達を励ましてくれるケマル将軍を信じて戦い続けた。 そしてついに、8月29日、奇跡が起こった。数日来、ケマルはギリシア軍が自軍の右翼に攻撃を集中させ、何とか突破させようとしている意図に気付いて、その逆を突こうと決断。無理な上にも無理を重ねて、ギリシア軍の右翼の方を逆に包囲するかのような作戦をとった。これは、日露戦争の奉天会戦で日本軍がとった作戦によく似ていた。 ケマルが無理をして自軍の中央部においていた兵力の大半を、自軍の左翼へ移動させたことは、トルコ軍の中央部の防衛力を危機一髪の状態にした。もし、ギリシア軍が、自軍の右翼に対するトルコ軍の攻勢を陽動作戦だと見破り、予備兵力の全てをトルコ軍の正面に投入していたら、トルコ軍は総崩れになっていただろう。しかし、ギリシア軍はそれに気付かなかった。 ギリシア軍の参謀本部は大慌てし、トルコ軍の右翼突破を命じていた全軍団を自軍の右翼への増援に向かわせるため、退却移動の命令を出した。この命令が運命の一戦を決定づけた。 勝っているという自信のないギリシア軍の全ての前線は、自分の所が退却作戦の犠牲にされるのではないかと疑い、作戦変更の命令を勝手に解釈して、総退却をやってしまった。それは8月29日の午前2時頃のこと。もっとも、トルコ軍は、追撃は出来なかった。 この勝利は、アンカラ政府の国際的地位を不動のものにした。まず、フランスが密使を送ってきて、秘密協定を結んだ。それによると、フランス政府は事実上、セーブル条約が無効化したことを認め、将来開かれる新たな和平会談で、トルコが旧オスマン帝国領だったシリアのフランス支配を認め、他のアラブ地域で英国と係争中のフランス側の利権を支持してくれるなら、アンカラ政府を公認し、武器弾薬さえ供給するというのである。続いてイタリアが、やはり武器弾薬の売り渡しなどを申し出た。 英国国民はトルコに対する政府の介入を、全く無用のものだと思い始めていた。 1922年8月26日、約10万名に増加していたトルコ国民軍に対して、「前進せよ。目標は地中海!」という総攻撃の命令を出した。ギリシア軍の前線は、南北に延びていた。その長大な前線の中央部を突破して敵軍の背後に回り、包囲撃滅するというのがケマルの作戦。 勝負はたった1日でついた。 9月9日、トルコ国民軍がイズミールに入城。この日、イズミール港の沖には数隻の英国軍艦が浮かんでいた。しかし、全ての砲には覆いがかけられていた。英国が、もはやトルコに対する武力干渉を諦めたこと、同時にセーブル条約の履行を断念し、ギリシアを見捨てたことをも示していた。 この対トルコ問題をめぐって、保守党は連立の打ち切りを宣言。かくて、ロイド・ジョージ首相は辞職に追い込まれた。そして、翌月の総選挙までの暫定内閣の首相となった、保守党党首ボナー・ロウは、ケマルとの妥協を決断。その仲介役は、アンカラ政府に対するフランスの全権大使ブイヨン。 10月、ムダンヤでトルコと英国の代表が、イタリア、フランスの仲介で会談。その結果、セーブル条約は無効であり、新たな和平条約を結ぶための会議をできるだけ早く開くことで合意し、全面停戦条約を結んだ。ここに事実上、救国戦争は終わった。 皇帝政府が連合国に降伏した1918年から、アンカラ政府が「トルコの生存権」を、ついに英国に認めさせた1922年までの4年間は、トルコ人にとって苦闘の連続。西欧列強を相手に、貧しい敗戦国国民が奇跡的な勝利を収められたのも、 ケマル・パシャという超人的な指導者 がいたから。ドイツでさえ、屈辱極まるヴェルサイユ条約を拒否できなかったのに、ケマルの鉄の意志と行動力は、ついに列強を屈服させた。 その上、 ケマルは、トルコ人を「オスマン帝国臣民」から「トルコ国民」に成長させた 。いや、この救国戦争が終わった段階では、まだトルコ人は完全にトルコ国民になったとは言えないかも知れない。しかし、もう十分に「国民意識」と呼べるものは育っていた。だからこそ、ケマルは救国戦争に続いて、嵐のようなトルコ革命をやり遂げられたのである。
2004年08月14日
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ケマル・アタチュルク資料よりケマルの挙兵 連合国にとって、大きな障害となったのは小アジアにおける治安悪化。彼らの横暴ぶりに対して、占領地の民衆の中にはゲリラ活動に走る者も出たし、残存トルコ軍団も、皇帝政府の復員命令を無視して、各地で占領軍と小競り合いを始めていた。 そのため、連合軍は残存トルコ軍団の復員を皇帝政府に要求し、全軍の信望が厚い人物を派遣するよう命じた。そして、大宰相に、その役目はケマル・パシャがいいだろうと提案。それが虎を野に放つようなものであることに、全く連合国側は気付かなかった。彼らは自分たちに対して、トルコ人が本格的な戦争を新たに始めようなどとは夢にも思っていなかったし、そんな力など残っている筈がないと馬鹿にしきっていた。 かくて、1919年5月16日、ケマルはイスタンブールを出発。5月19日、黒海沿岸のサムスン市に上陸。 ギリシア軍が、ケマルがイスタンブールを出発する前日、エーゲ海最大の貿易港イズミールへ上陸を開始した。この事件はケマルに幸いした。というのは、このギリシア軍の侵入によって、虚脱状態だった一般トルコ人が、一気に奮い立ったから。 一方、ケマルは英軍の支配下にあるサムスンを密かに離れて、80キロほど内陸部のアマシア市に潜入。ここに秘密司令部を設置すると、小アジアに残存する全軍団に電報で、情勢報告と代表将校を自分のもとに送るよう要請。 どの軍団でも、それまで復員を要求していた兵士達が、ギリシア軍の侵入を知ってショックを受け、復員要求を取り下げると共に、逆に軍の上層部を突き上げだした。しかも、エーゲ海沿岸に近い軍団では、すでに将校達が軍司令官の不決断を無視して、勝手にギリシア軍に対してゲリラ戦を始めていた。だが、残存軍団の兵力は、やっと5万人になるか否かの程度。 ▼トルコ「国民」意識 当時のトルコ民衆は、まず自分をイスラム教徒と考え、次に皇帝にしてカリフの支配するオスマン帝国の臣民だと意識して、ようやくその次に自分をトルコ民族に属する者だと思っていた。ところが、ケマルは、「何よりも先に、諸君はトルコ人なのだ」というナショナリズムを新たな国家原理として導入しようとした。後世の我々からみれば、そのケマルの信念は当然のこと。だが幕末の日本人に、「貴方は××藩の藩士でなく、貴方も××藩の農民ではなく、いずれも同じ日本人なのだ」と説いても、99%は納得してくれなかったはずである。当時のトルコ人の意識も似たようなもの。そして、「トルコ国民」という意識は、ケマルを指導者とする救国戦争と革命によって、だんだんと育っていったのである。 ▼シワス国民会議 1919年9月、トルコ各地に公然と、あるいは秘密に作られた抵抗委員会の代表者達が、小アジアのほぼ中央部にあるシワス市に集まった。 彼らの大半は旧青年トルコ党のメンバーであり、必ずしもケマルを自分達の盟主と認めてはいなかった。「敗戦国といえども、民族自決の権利はあり、連合国のトルコ分割政策には実力で抵抗する」という世界に向けての宣言は満場一致で決議されたが、「この会議の参加者こそ真のトルコを代表する者である」という宣言には抵抗する者が多かった。つまり、それでは皇帝政府を無視した新政権の誕生を意味することになり、皇帝の大権を犯すものだというのである。 皇帝が、クルド人の部隊にシワスを攻撃させ、会議の参加者を逮捕ないし殺せと命じさせた。 これを知ったケマルは、先手を打って2個師団を率い出撃準備中のクルド部隊を急襲し、数日で蹴散らした。 それ以後、ケマルはシワス国民会議の事実上の主権者となった。 この会議こそ真のトルコ国民を代表するものだという宣言が議決された。さらに、全土からの税金も、「新政権」が徴集権を持つことまで議決させた。 しかし、この会議は崩壊した。理由は、皇帝の巧みな策謀にある。皇帝は、総選挙を実施して、帝国議会を再開すると声明。非合法性の強いシワス国民会議の議員であるより、正当国会の議員の方が魅力的。しかも、皇帝は、クルド部隊への命令は大宰相の独断だったとして、大宰相を解任。かくして、議員は去っていった。 ▼トルコ大国民議会 1920年、帝国議会が開催。この議会は、連合国を挑発。休戦協定を結んだ段階で連合国に占領されていなかった地域は明らかにトルコ領土であり、・・・列強と結んだ不平等条約は、全て撤廃されなければならない、という内容の「国民誓約」なるものを議決。 そんな要求を、「病人は今度こそ息絶えた。あとは遺産をどれだけ多く相続するかが問題だ」(英国首相ロイド・ジョージの発言)と考えている連合国が相手にするはずがなかった。列強の野心を打ち砕くには実力で対抗するしかないというケマルの理論が分からなかったのである。 英国は約10万の兵士をイスタンブールに上陸させた。国会に向かった部隊は、脱出に成功した十数人を除いて、残りの議員を全て逮捕し、「人民の最高の義務は皇帝の命令に従うこと。イギリスの高等弁務官は皇帝の代行者として、秩序を乱す者を逮捕し、裁判する権利を所有する」というビラをいたるところに貼った。この英国の不法な行動に対して、皇帝は抗議をするどころか、自分を「反徒」どもから守ってくれたと喜んだ。 ケマルはこのことを知り、ただちに小アジアで新たな選挙を実施。そして、選出された議員と、かろうじて首都から脱出してきた議員によって、4月23日に「トルコ大国民議会」を開催。 ケマルは満場一致で議長になった。今度の議員達は皇帝政府に対して、何等幻想を持ってなかった。 「主権は人民にある」「皇帝政府はトルコの真の代表ではなく、このトルコ大国民会議こそ唯一の合法政権である」「皇帝政府が外国と、如何なる条約を結んでも無効である」などという議案が次々と可決された。 皇帝は全イスラム教徒のカリフとして、アンカラの会議のメンバーは「神の敵」と宣言。皇帝は「カリフ軍」なるものを結成。聖職者達は、「この神聖な軍隊に加わる者には天国が約束されている」という皇帝の言葉を町や村に伝え回った。すると、たちまち何万にもの人々が志願してきた。彼らの大半は農民で、皇帝が「神の代理人」であることを信じきっていた。かくて、トルコ人同士による殺し合いが始まった。連合国側は喜んだ。 この段階でケマルは最大の苦境にあった。英仏伊軍にギリシア軍、さらに連合国の後押しで成立しようとしていたアルメニア軍とクルド軍、その上にカリフ軍と、ゲリラ戦で戦わねばならなかったから。しかし彼は絶望していなかった。「まもなく国民は皇帝の正体を知るだろう。そして我々の政府だけがトルコを救えると分かるだろう。何故なら、連合国側が近く皇帝政府に和平条約を押しつけてくるという情報が入っている。そして、その条約の内容がどんなものか見当がついているし、皇帝が何等敵に抵抗しないことも分かっている。その時こそ、国民は一気に目覚めるだろう」 このケマルの予言は当たった。それが、セーブル条約。要するに、トルコは小アジア中西部の荒涼たる高原において、九州の半分ほどの大きさの国家としてのみ存在が認められ、しかも、海岸線はゼロ。さらに連合国は、トルコにおける治外法権の継続と賠償金支払を要求。トルコに対する事実上の滅亡宣言も同じこと。こんな条約を皇帝が認めるわけがない、と人々は思ったが、皇帝は、自分の地位と皇室財産の保障と引換に、条約に調印。皇帝はそれがどんなに大きな衝撃を彼の臣民に与えるか、まるで分かっていなかった。 今やあらゆるトルコ人が目覚めた。皇帝に対する憤激は、大げさにいえば一夜にして「カリフ軍」なるものを消滅させた。彼らは前非を悔いてアンカラ政府に投降し、ケマルに従うことを誓った。なおも皇帝を支持しようとする聖職者達は、村や町から追放されたり殺されたりした。それは事実上の「反イスラム革命」の始まりだった。
2004年08月13日
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ケマル・アタチュルク資料よりダーダネルス海峡戦 英仏側は、味方の損害も大きいことを覚悟せねばならぬが、成功すれば一気にトルコを屈服させ得る大作戦、すなわち、小アジアとバルカン半島とを隔てるダーダネルス海峡を大艦隊で突破して、海路イスタンブールを突くという作戦を立てた。 地中海から黒海への通路を確保するということは、対独戦で苦戦を続けているロシアへ、自由に兵器や物資を送る道が開けることを意味。その上、英仏側に好意的なルーマニアへ、武器援助して参戦させ、東側からオーストリアを崩していく道も開けるはずであった。つまり、ダーダネルス海峡さえ突破できれば、トルコ・オーストリア・ドイツ側に崩壊の連鎖反応を起こさせられると連合国は考えた。 この大作戦の最高指揮者には、英国海軍大臣チャーチルが自ら買って出た。 まさに「海峡戦争」が始まろうとする段階で、陸相エンヴェルが東部戦線から横槍を入れてきた。すなわち、ケマルを格下げにして、海峡防衛に当たる全部の軍団に口出しできる地位から外し、ヨーロッパ側からエーゲ海に突出して、小アジア側との間にダーダネルス海峡を構成するゲリボル半島の、それも予備軍的な性格の強い一軍団のみを指揮させろというのである。ケマルへの信頼を深めていたザンデルス将軍の抗議にもかかわらず、エンヴェルは横槍を押し通した。しかし、ケマルは何等不平をいわなかった。自分が配属される地点こそ、敵が狙っている要地であり、総司令官のザンデルス将軍が自分を信頼しており、いざとなれば事実上の総指揮権を自分に委ねるであろうことを確信していたのである。そして、ケマルのカンは当たった。 1915年3月18日、5隻の戦艦を中心とする英仏連合艦隊は、長さ約60キロ、幅が2キロから7キロのダーダネルス海峡へ押し寄せてきた。・・・・しかし、この日の艦隊突入は、トルコ側にどの程度の防衛力があるかを知るための、いわば「威力偵察」だったらしい。 そして、やはり陸軍を投入してトルコ側の諸要塞を制圧しなければ、海峡突破は不可能であることを思い知らされた。 そこで、英仏側は次のような作戦を立てた。まず、トルコのヨーロッパ領から細長く伸びているゲリボル半島の、大軍が上陸可能な地点に一気に押し寄せる。そして、起伏の多いゲリボル半島のあちこちに設けられているトルコ軍のトーチカを一つずつ陥れながら、海峡を見おろせるいくつかの高地を確保。その高地に重砲を引き上げ、小アジア側のトーチカや要塞群を破壊し、次にゲリボル半島の海峡に面している砲台群を背後から攻撃し占領する、というのである。そうなれば完全に海峡を制圧したことになり、艦隊は無傷で通過できる。あとは内海マルマラを北上し、イスタンブールに艦砲射撃を行って、皇帝政府を屈服させるだけ。要するに、ゲリボル半島の、それも一部の高地を占領できれば、それがトルコの降伏に直結。 この大作戦は4月25日に開始された。連合国は第1陣として4万の兵士をゲリボル半島の先端2ヶ所に上陸させた。 この高地は、ちょうど日露戦争の旅順戦における203高地のようなものであり、ここを占領すれば、一望のもとにダーダネルス海峡とトルコ側の要塞群を見おろせるのである。つまり、この高地に重砲を引き上げれば、海峡を制圧したも同じ。 敵がアルブルヌ海岸へ上陸したとの急報を受けたケマルはただちに動員できる限りの部下をその方面へ投入し、自分自身も急行した。これは明らかに独断専行。しかし、この独断専行は英仏軍の意図をくじいた。連合軍は予想以上の反撃を受けて水際にほぼ釘付けにされてしまった。日没とともに夜陰に乗じて増援部隊が上陸したが、翌日も海岸に釘付けにされてしまったのである。3日目、4日目と部隊の増援は続き、作戦も当初のジョンクバユル高地への最短ルートは険しすぎて大軍を投入できないから、北方の丘陵地帯を迂回する作戦に変更されたが、その方面でも前進は容易ではなく、その進み具合は1日で約100メートルに過ぎなかった。 そして、英仏軍が1ヶ月後に約3キロほどトルコ軍の戦線を後退させたときには、上陸第1陣の部隊はすでに全滅しており、全兵員の半数以上が死傷という状態で、それ以上の前進は不可能になっていた。 艦隊の海峡強行突破に失敗した英仏軍は、やはり陸軍による半島制圧しか手段はないと再決意。そこで8月6日、10万という英仏軍が増援部隊としてゲリボル半島へ上陸。戦局を一気に逆転させるつもりだった。 8月9日の未明、英仏軍は新たな目標であるコジャチメン高地へ向けて進撃を開始。 砲弾が雨のように降ってくる間、トルコ軍は塹壕に身を潜めて、ただ耐えに耐えているしかなかった。 事実上の総司令官になっていたケマルは、小アジア側にいる砲兵部隊のいくつかを、ただちにゲリボル半島へ回すよう命令していたのだが、一日や2日で移動できるものではない。そのため、飛んでくる英仏側の砲弾100発に対して、トルコ側が射ち返せたのは、せいぜい1発か2発。 敵の意図に気付いたケマルは、近くの各前線へ伝令を走らせ、前線が手薄になる危険を承知の上で、可能な限りの歩兵部隊をコジャチメン高地へ集めようとしていた。そして、ケマルのカンは当たった。英仏側が砲撃を終わらせ、歩兵部隊を投入してきたとき、トルコ軍は凄惨な白兵戦を繰り返しながらも、ついに敵軍をコジャチメン高地へ近づけさせなかった。ところが、英仏軍の最初の目標だったジョンクバユル高地の方は、逆にトルコ側に不利な形勢。この方面のトルコ側の防衛力が手薄になったと判断した、英仏軍の最高司令官ハミルトン将軍は、予備軍の全てをジョンクバユル高地占領を目的として投入。 コジャチメン高地をめぐって凄惨な白兵戦を繰り返していた頃、こちらも激戦の末ではあったが、ついにニュージーランド兵からなる部隊が、初めてジョンクバユル高地の一角を占領。 急報に接したケマルは、コジャチメン戦線を維持できるぎりぎりの部隊を残し、手持ちの軍団の大半を率いて危機に陥ったジョンクバユル戦線へ駆けつけた。これは相当に危険な賭だった。もし、英仏軍が翌日もコジャチメン高地へ大攻撃を加えてきたら、どうなるか分からないから。しかし、ここでもケマルの読みは当たった。ジョンクバユル高地の一角の占領に成功したという知らせは、英仏軍首脳部の判断力を狂わせてしまい、やはりジョンクバユル高地の完全占領を最大目標にするべきだと、コジャチメン戦線の部隊へ移動命令を出してしまった。ケマルは一晩中、自分が率いてきた部隊の他、近くの戦線から集められる限りの兵と火砲をジョンクバユル戦線へ集めた。そして、夜明けと同時に反撃に出た。戦闘は、まず双方の大砲の射ち合いから始まった。だが、トルコ軍にとって幸運だったのは、英仏軍の占領した高地の一角への大砲輸送が、斜面が険しすぎるため思うように行かなかったこと。そのため、トルコ軍の砲弾が尽きるのとほぼ同時に、英仏軍の砲弾も尽きた。あとは歩兵による白兵戦しか方法がなかった。砲火が静まると、ケマルは真っ先に塹壕から飛び出た。その瞬間、敵の小銃弾がケマルの身辺に集中し、その一弾が彼の腕時計を砕いた。しかし、ケマルは突っ立ったままで、右手を高く上げると、「全員、突撃!」と叫んだ。ただちに、全トルコ兵は喚声を上げて突撃を開始。彼らは自分達の司令官の勇気に感激し、先祖の騎馬民族の血を蘇らせ、危険をものともせずに敵陣へ殺到。激戦は数時間続いた。英仏軍は約2000の戦死者を残して、ジョンクバユル高地から追い落とされた。 翌日の英仏軍の再攻撃も、8月21日の軍団新編成による再々攻撃も空しい結果に終わった。この方面の戦闘で、英仏軍は約500名の将校と、約2万名の兵士を失った。それに対してトルコ側の死傷者は、その10分の1ぐらいであった。 ダーダネルス海峡戦の場合、もしも1915年に英仏軍によって突破されていたら、首都を海軍で突かれたトルコ帝国は、ただちに降伏していただろう。そして、英仏軍が地中海から黒海への海上輸送ルートを確保できたため、ロシア帝国への大量の援助物資が輸送でき、ロマノフ朝は倒されなかったであろう。それどころか、ルーマニアも、もっと早く連合国側に参戦し、ブルガリアは中立を守り、トルコの農産物に頼っていたドイツも大打撃を受け、第一次大戦は1916年の末までにけりがついていた可能性が高い。 同時に、ケマルという、それまでトルコ国民にほとんど知られていなかったも同然の35歳の人物が、いきなり「首都の救い主」という英雄として、国民の前に華々しくデビューしなかったら、大戦後の「トルコ維持戦争」も、あるいは始まらなかったか、始まったとしても中心になる人物を欠いたため、線香花火のようなものに終わっていたかも知れない。いかにケマルが軍事的、政治的天才であったにもせよ、「首都の救い主」という華々しいデビューの機会がなかったら、「トルコ共和国の父」になれるほど民衆の信望を一心に集めることは出来なかったに違いない。 ▼トルコの降伏 皇帝政府の降伏声明は、エンヴェル一派の軍首脳には秘密のまま、メフメット6世の命令で発表されたもの。イスタンブールに迫りつつあった連合国の首脳部は、トルコが降伏しても、メフメット6世の身分と皇室財産の安全は保障すると、密約を提案。そして、メフメット6世はその密約に飛びついた。皇帝に出し抜かれたエンヴェル一派は、ハンガリアを経由してドイツに亡命。 トルコの降伏を知った、ドイツ軍参謀総長ヒンデンブルクが、「事態は今や絶望的になった」と側近に語ったように、ドイツは大戦の後半になると、トルコの農産物に頼りきっていたのである。 「大トルキスタン」復活を生涯の夢としたエンヴェルは、ドイツ降伏後、内戦が続いているロシアに潜入し、トルコ系諸民族を煽り立て、反革命運動を起こさせた。初めの内こそ、数千人の兵士を率いて各地で華々しく戦ったが、やがて部下は少しずつ減り、戦うどころか逃亡の毎日を送らねばならぬようになった。1920年の春、ウラル河に近い草原の雪がとけ出した頃、雪に埋まっていた彼の遺体が発見された。彼だと確認されたのは、トルコ帝国の大将軍としての軍服と勲章からだったが、遺体は十数発の銃弾を受けていたという。この大いなる夢想家は、結局のところ自分の夢に殉じたと言っていいだろう。 ▼連合国のトルコ分割 休戦協定を結んでから半月もたたぬ内に、イスタンブールに大軍を違法進駐。何故違法かというと、休戦協定では、連合国側は戦時中に占領した地域にだけ軍隊を駐留させるという約束だったから。そのことを皇帝政府が抗議すると、連合国側はロシア革命の影響からトルコを守るためだと説明したが、実際はトルコを分割し、連合国間で分配するための第1歩に他ならなかった。 そのことが誰の目にも明らかになったのは、首都への違法進駐に続いて、英軍がボスポラスとダーダネルスの両海峡を「管理」の名目で占領し、フランスがシリアから小アジア南東部へ多大の兵員を送り込み、イタリア軍も地中海の主要港を電撃的に占領してしまったから。全ては大戦中の、トルコ分割の秘密協定によるもの。 この連合国側の意図に気付いたトルコ人の間で、たちまち大混乱。ある者はイギリスのみを頼って、その保護国になるべきだと主張し、別の者はフランスに頼るべきだと説いた。さらには、アメリカの委任統治国になって再生をはかるしかないという論者も現れる始末。 しかしいずれにしても、トルコは自力では再生できないと考えている点で同じ。だから、イスタンブールに帰った日から説き始めた、ケマルのトルコ自力再生論など、ごく一部の軍人は別にして、政治家や知識人からは見向きもされなかった。
2004年08月12日
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ケマル・アタチュルク資料より 真の男 超人わずか15年の統治において、一国にルネサンスと宗教革命と産業革命とをもたらした鉄人。オカメミジンコのオスです▼ケマル・アタテュルクの少年時代 7歳になって公立小学校の常として、大半がコーランの章句の暗記だった授業に反発して、「登校拒否」を両親に宣告している。母ズベイデにとって、これは大変なショック。彼女はわが子に将来、イスラム教の聖職者になって欲しかったから。彼女にとって、イスラムの教えに従い、その守護者であるトルコ皇帝を敬うことが人生の第1義であった。ところが、わが子は7歳の少年ながら、どうやらイスラム教も皇帝も、大して価値はないと考えているらしいのである。 ▼エンヴェル・パシャとケマルの対立 オスマン・トルコ帝国の存続を認めるかどうか。 エンヴェルは全世界のトルコ系民族の大同団結を説きながら、帝国を現実に構成している20をこす異民族には冷淡。彼は、それらのナショナリズムを認めないくせに、トルコ民族だけのナショナリズムを主張。その主張の正当付けには、トルコ民族が中東のどの民族よりも優秀であり、トルコ帝国の支配下にあった方が各民族は幸福だというエゴイズムを唱えた。ケマルは、多民族を支配している帝国のシステムそのものが、すでに時代遅れと考えた。帝国を解体し、帝国内でトルコ人が絶対多数を占めている小アジアや、バルカン半島の一部のみを固有の領土とするトルコ民族国家を作り、アラブ地域などは分離独立させてしまうべきだと確信。 ▼青年トルコ党革命 1908年のセラニキ軍団のクーデターでは、ケマルは何等重要な役割は演じていない。それどころか、エンヴェル達は「統一と進歩のための委員会」から、事実上、ケマルを追い出していたのである。 このクーデターは、エンヴェル達の「委員会」のことをすっかり調べあげていたハミット2世が、いよいよ弾圧を開始するとの急報を得て、いわば「委員会」が破れかぶれで起こしたもの。だから、準備も何も整っておらず、首都の軍団と話さえつけていなかった。それなのに、ことを起こせば首都の軍団も呼応するだろうぐらいの甘い気持ちでやったというのが真相に近い。ところが、バクチは当たってしまった。「反徒」鎮圧を皇帝から命じられた師団は、イスタンブールを離れるやいなやクーデター側に寝返ってしまった。そして、セラニキ軍団と合流して、首都に逆進撃する構えを見せた。すると首都に残っていた軍団までが革命側に呼応してしまった。 多分エンヴェル達もびっくりしたであろうが、わずか数日でクーデターは成功。したたかなハミット2世は、首都の軍団が「反徒」に呼応したのを知るや、先手を打って憲政復帰を宣言。今までの政府の過失の全てを大臣達に転嫁して罷免するとともに、革命家達を「国の救い主」として迎えると発表。すると、余りにも容易にクーデターが成功したことに茫然自失してしまったらしい「青年トルコ党」の幹部達は、たちまちハミット2世と妥協。妥協の第1条件は、ハミット2世が自ら独裁制を捨て、憲法の制約下に皇帝もあることを認めること。そして、「時間稼ぎ」のためならなんでもするつもりの皇帝は、それをあっさり認めた。 マケドニア、アルバニア、アラビアで相次いで反乱。もはや、非トルコ系の諸民族はオスマン帝国内にとどまる意志のないことを、実力行使で示し始めた。そして、それに対して「統一と進歩のための委員会」が打った手は、全く説得工作なしの軍事行動であった。エンヴェル一派の「オスマン主義」の正体が暴露されたと言っていい。 しかも、「反徒」達が地方の反乱で首都を手薄にした隙に、ハミット2世はエンヴェル一派を「神の敵」と宣告して、反革命を起こした。 この時、もしも、在マケドニアの第三軍団が皇帝に味方をしていたら、その反革命が成功していた可能性は極めて高い。ところが、第三軍団は反徒を鎮圧せよとの皇帝の命令を無視して、逆に「皇帝軍」を鎮圧するため、イスタンブールへ進撃。第三軍団が「反逆」に踏み切った大きな理由は、幕僚達が軍団長を説得したから。その一人がケマル。 かくて反革命は粉砕され、ハミット2世は監禁されて、その弟がメフメット5世として即位。新皇帝は全く政治には関心がない人物であり、完全にエンヴェル一派のロボット。「青年トルコ党の独裁」が開始。第三軍の幕僚達が革命への功績を認められ、政府の要職についた中で、ケマルはセラニキ士官学校の校長という閑職を与えられた。エンヴェルはケマルをどうしても権力の座につながるような地位におきたくなかったのだ。
2004年08月11日
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経営コンサルタント武沢信行さん メルマガより抜粋●ドイツ人・シュリーマンは、子供のころに父親から何度も聞かされた、「ホメロスの物語」を忘れることができなかった。それは3000年以上も前のギリシャとトロヤの戦争物語だ。まるで神話のような大昔の話だ。やがて彼は、「ギリシャに滅ぼされたトロヤの遺跡が必ずある」と信じるようになる。そして、「トロヤ遺跡の発掘」を人生の最終目標に決める。●それからの彼の行動が現代人と違うところだ。彼は人生を逆算方式で生きることを決意する。彼の戦略はこうだ。◇最終目標・・・トロヤの遺跡発掘◇中間目標・・・発掘資金と時間を確保するための充分な富の蓄積◇短期目標・・・貿易商人として成功する◇手段・・・貿易に必要な語学をマスターする●夢に向けた最初のステップ、それは14歳のときである。商業学校を卒業し、遠くの村の食料雑貨店で働く。朝5時から夜11時までコマネズミのように働きながらも、ホメロスの物語を自分で読むために、ギリシャ語の勉強を志す。しかし現実は厳しく、勉強のための本を買うお金も時間もなく働き続け、やがて健康を害して退職する羽目になる。●雑貨店をやめた彼は、外国へ行く船のボーイになるが、そこでも彼を待ち受けていたのは「不運と不幸」でしかない。乗った船が嵐で沈没し、丸裸でオランダの海岸に打ちあげられたのだ。志を立ててから早6年、すでに20歳になっていた彼の前途には、希望の光は一筋もなかったかにみえた。●だが、絶望のどん底に見たこの大地が、シュリーマンの開運のワンダーランドとなる●だが、そうした少年の気持ちとは裏腹に、現実は厳しい。健康を害し、乗った船は沈没する。夢に近づくどころか、どんどん遠くなっていくように思えた。そんなシュリーマンにとって、丸裸で打ち上げられたオランダが、開運のワンダーランドとなったのだ。●成功には、地の利、時の利・人の利が大切だと言われるが、シュリーマンにとって、オランダでの努力がまさしくそれだ。6年間のアンラッキーがウソのように成功を始める。●まず、ある貿易会社会社に就職し、その後の4年間で何と18カ国語をマスターしてしまう。彼のひたむきな努力が認められ、ロシア支店を任されるまでに立身出世。独立した後、10年強の期間で、彼は大商人となって、トロヤ遺跡発掘のための資金を充分に確保してしまうのだ。●あれから月日がたってシュリーマン49歳、ヒッサルリクの丘にたつ。この丘の地下にトロヤ遺跡が眠ると信じた彼は、いよいよ人生の最終目標に向けて、発掘を開始する。そうした彼の行為に対し、多くの考古学者は、「ホメロスの物語を信じて大金を使うなんてバカげた話さ。あれは単なる伝説だよ」と陰口をたたき合っていた。穴掘り労働者150人も誰一人として、遺跡を信じている人間など、いない。●シュリーマンの人生は、この発掘という挑戦のためにあった。今さら他人の批判や陰口などが気になるようなヤワな信念ではない。燃えるように暑い日も、凍るように寒い日もヒッサルリクの小屋を拠点に発掘をつづける。それは「毎日タマネギの皮をむくような仕事でした」と、後に語っている。●そうして2年が経過したる日の午後。「シュリーマンさ~ん、何か変なものが出てきたました!」と、穴掘り労働者の声。駆けつけてみると、それは城壁のようなものであり、さらに掘っていくと神殿や宮殿に通じた道も見つかった。やがて土の中から、きらりと光るものが現れた。●それは、黄金の王冠、首かざり、耳かざり、指輪、水入れ…。おびただしい宝ものの数々。「こ、これは・・・まさしく、」立ちつくすシュリーマンの脳裏には、子どものころに本で見た、まっかに燃えるトロイの絵がはっきりとよみがえった。「ホメロスの物語は、やはり伝説ではなかった。わたしが信じつづけたことは、夢ではなかった。」シュリーマンは、あふれる涙を、こらえることができなかった・・。●しかし、多くの大人たち(考古学者)は最初、この遺跡をトロイのものとは誰も認めようとしなかった。シュリーマンはその後も数々の発掘に成功し、そのたびに、莫大な財宝を発見し、事実を証明していく。そして、68歳のとき、現地に考古学者を集めて学会を開催し、とうとう誰もが認める「トロイ遺跡」となったのだ。彼の物語と彼の生涯はここで終わっている。●いかがだろうか、これは実話だ。常識で考えれば、遺跡の発掘をしたいのなら、商人ではなく考古学者を目指すのではないだろうか。決して大商人になるという中間目標を設定したりしない。なぜなら、それ自体が達成できるかどうかわからないし、遠回りに感じる。しかも、大商人になるために彼は、語学をマスターすることに多大な時間を割いている。それだけではない。奥さんを決めるときも自分にない語学ができる人を選んでいるのだ。●生涯の目標を逆算方式で計画したからこそ出来た行動に違いない。◇最終目標・・・トロイの遺跡発掘◇中間目標・・・発掘資金と時間を確保するために充分な富の蓄積◇短期目標・・・貿易商人として成功する◇手段・・・貿易に必要な語学をマスターする●えてして「戦略的」な行動とは、目的とは違う方向に進むようにみえるものである。新年を迎えるにあたり、私たちの人生や経営にも、シュリーマンと同じような戦略的な考え方が参考になるのではないか。
2004年08月10日
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サバイバル・キャンプ講座抜粋人が生き抜いていくための必須条件とは何でしょうか。その問いに、小野田寛郎さんは,「生きる目的を持ち、その目的に向けて突き進む強固な意志を持つこと」 と明解に答えてみせます。孤立無援の長い歳月を極限のなかで貫いた小野田さん。凄絶な体験を宿すからこそ、言葉には重みがあります。 小野田さんは講座で、窮地にあって人は何を考え、いかに対処すればよいかを説き、それがサバイバルを要する状況であればあるほど、「人は秘めた力を発揮する」ともアドバイスしてくれます。 講座の底流にあるのは「人は一人では生きられない」という道理です。自然を味方に生きた小野田さんは自然の恩恵を知り尽くす人であり、「人間も自然の一部」と言います。講座を通して目指すのは、人間の弱さと強さを知り、自然に対する傲慢さ、尊大さを悔い改めることです。講座に「サバイバル・キャンプの基本」を組み込むのも、身をもってこのことを学ぶためです。併せて小野田さんは、21世紀の価値観や社会のシステムのあり方などを浮き立たせたいとしています。昭和19年12月中野学校を卒業し、任務でルパングに就いたが、受け身ではなく自分の意志として、命をかけて国を守ることを貫いた。信念がないと生きることはできない。信念があれば何か道があるはず。ご飯に味噌汁が食べたいと思っても食べることはできない。手に入らないものを望むのは、自分を弱くする。不可能なことを考えてはならない。(※便所掃除の神様といわれるイエローハットの鍵山相談役も、できないというのは、できないことをやろうとするからできないのであって、できることをすれば誰でもできる。便所掃除はだれにでもできることである。なにか通じるように感じた。)食料は、干し牛肉(略奪した牛を解体したもの)・バナナ・ヤシのミルクしかない。バナナだけでは、力がでない。ヤシは油を取るためで食料ではない。限られた食料の中で生き延びて行くには、食べながら自分にあったバランスを見つけるしかなかった。着たきりの服は破けてくる。島の住民から略奪した服を改造しようとするが、ポケットに入れた縫針は、いざ使おうと思ったときはサビて使えない。穴をあけその後を竹で縫ったが時間がかかりすぎてできない。そこで針の製作に取り掛かったが、困難を極めた。たった10本の針ができたが、ナイフなどいろいろなものを利用してこの程度の本数しかできない。いままでうぬぼれていた。人間は弱いものだと痛感。苦しい場面にあうと、昔はよかったと思うことがある。これが人間を弱くする。現実をしっかり認識して、どうするか考えることが、生きる上では一番大切。例えばマッチがあれば・・・・など。火を炊く時、煙を出さずに燃やすことは難しい。「ああ、また雨か・・・。」とマイナスにとらえた時点で、もうすでに雨にくらい負けしている。その時に風邪などひいてしまうことがある。「3日間のとおり雨だ。」とやり通すぐらいの気構えを持つことが大切である。とにかく人間は自然が無ければ生きられない。また、社会が無ければ生きていけないことが、体験でわかった。29年間に討伐隊が133回来た。年に3回はやりあったことになる。そのような状況で、どう気持ちを落着かせるかというと。故郷に「感謝」の気持ちを捧げるために手を合わせた。神仏は敬うが、助けて下さいと手を合わせたことは無い。もし、手を抜いて死の直前に悔いが残るようなことがあったら悔しいと思い、常に精一杯やることをやった。ここまでやったから仕方が無いと、あきらめて死ねる心境を持てるまで努力してきた。苦しいときに不平を言わないこと。また、他人に責任転換をするのはもってのほかである。医者も薬もないときは、自分の治癒力のみ。毎朝の大便や痛いところはないか、自分を確認し健康管理をしてきた。最後は自分一人になったが、一人になっても弱い気持ちを自分の中に認めてはいけない。一人には一人の強みがあり、二人には二人の弱みがあった。両方を比較検討して一人でも少しの強みを見つければ、一人でもやっていける自信がでてくる。このように常に冷静に考えることが大切である。アメリカのサバイバルの教科書の中にも、「生きることの希望を持つこと、あくまでも望みを失わないこと。そして、現状把握をする。いまはどうなっているのか。早く対処する。」とある。死を決して実行すると、潜在能力が活性化し、何にでも対処できる。今、自殺者が増えているが残念でならない。死にものぐるいでやれば、道はひらける。追い込まれると、頭が働かなくなる。思考力が落ちる。何事もやってみなければわからない、すべて健康がベースとなる。常に病気にならないよう体を管理してきた。最後に余談ですが、ルパング島から出て来たとき日にちを確認したが、約30年間で6日だけ、ずれていた。記録などはしていないが、どうして記憶したかというと、昨日に1日をたしてその日だけを覚えていた。しかし、苦しい状況になると頭がからっぽになり、そのため日程がずれてしまった約30年もの間、ルバング島のジャングルにこもって任務を遂行し続けた小野田寛郎さん。カレンダーなどがない環境だったのに、“救出”されたとき、今日が何年何月何日かを4~5日の狂いで指摘したという。 私たちは今日が何日かさえすぐに思い出せないことがある。それに比べると驚くべき記憶力である。だが、小野田さんは涼しい顔で言う。「簡単ですよ。毎日1日ずつ加えていけばいいんですから」。あるとき雨天や徹夜の戦闘が続いたためにズレが出たらしい。「4~5日のズレはうるう年の数よりも少ない。ま、合格でしょう」と笑う。 さらに、小野田さんは日本帰還後ブラジルに移り、小野田牧場を作り上げる。関西国際空港の倍、東京の港区よりも広い大牧場である。現地に着いたとき、手元にあるはブルドーザーが1台だけ。ある牧場に「お宅の隣のジャングルを開墾させてください。その代わり開墾した土地の半分を私にください」と申し入れ、牧場の外周に沿って1日にブル1台分の幅だけ開墾していった。翌日はまたその外側を…この繰り返しであの広大な小野田牧場の基盤を築いた。 長大な計画を前にしたとき、人はその大きさゆえに困難さを見通してしまう癖がある。「無理だ」と最初からあきらめてしまうのだ。しかし、どんな大きな計画も実は小さな行為の積み重ねで形になっていく。巨大さの方ではなく実行段階の一つの行為に着目すれば、決断に際してひるむことは少ない。ちょうど「カレンダー」ではなく「日めくり」を見るように。カレンダーだと日数の多さが目に飛び込んでくるが、日めくりだとその日1日しか見えない。 全体を見渡す必要のある立案段階ではカレンダー思考、第一歩を踏み出す決断段階では日めくり思考と使い分ければ効果的だろう。
2004年08月09日
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すべての人間は夢をみるが、同じ夢をみるというわけではない。夜に精神の穢らわしい隠れ家で夢を見る者は、昼に目覚めてそれが虚しいものであると知る。しかし、昼に夢みる者は危険な人間たちである。なぜなら、彼らは眼を見開いたままその夢を実行し、それを実現するかもしれぬからである。T.E.ローレンス~「智慧の七柱」序章~ 2015年の予言を防げ 1995年に李鵬 前首相が、オーストラリアを訪問した際、ハワード豪首相との会談中に「日本は20年も経てばこの地球上から消えてなくなる」と発言した。確かにこのままでは、日本は消えてなくなるかもしれない。江華島事件を鑑めば、見過ごせぬ事件である。尖閣諸島や沖の鳥島周辺など日本の排他的経済水域で 事前通報無し調査中国は中国側の調査船が 尖閣諸島や 沖の鳥島周辺など、日本の排他的経済水域で 事前通報無しに調査を行う ケースが増えていて、 去年は8件、今年は既に 11件となっています。22日、北京で行われた協議の中で、 日本側は 国連海洋法条約を順守して、 再発防止に努めるよう 中国側に強く求めました。これに対して中国側は 「沖ノ鳥島は、 島ではなく岩であって、 その周辺に 日本の排他的経済水域は 存在しない」として、問題はないとの認識また、米経済誌『フォーブス』アジア太平洋支局長のベンジャミン・フルフォードによると現在の日本は、「泥棒国家」kleptocracy(クレプトクラシー)である。日本をダメにした「政・官・業・ヤクザ」連合という泥棒たちが国民の金を巻き上げ、それで延命をはかっているだけだからだ。日本人はいまこそ、勇気をもってこの構造structureを破壊し、自分たちの手で本当の民主主義国家democratic stateをつくるべきではないのか? 日本人はいつから、こんなに臆病cowardになってしまったのだろうか? 日本の危機Japan's crisisは、経済の危機ではなく、日本人が勇気braveryをなくしてしまった危機である。日本人が臆病であり続けるかぎり、日本に未来はない。 との評されている。明治維新で体制を一新できたわが国が、現状の体制を変革できないという事はありえないと信ずる。 人が創った制度ならば、人によって壊し、刷新することは可能である 。ニッポンの権益に組み込まれていない草莽の人びとを崛起せしめ、李鵬が予言した2015年までには、日本型官僚制社会主義による泥棒国家をこの日本から消滅せしめ、海の都ベネチアやオランダのような自由で民主的なかつ尊敬に値する市場経済自立国家へと導くため寄与する。
2004年08月08日
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まずい、官僚独裁主義がますます進行しています。一般には目のとどかないところで。 司法試験から行政法をはずすこと司法試験から行政法をはずすことにより、行政法に詳しい弁護士がいなくなります。行政法を知らない裁判官なんて三権分立からしておかしくなります。重要点抜粋4 行政法の適正な執行の阻害 行政法を適切に執行することは国民的な公益である。しかし、裁判官が行政法に精通しなくなると、行政法が正しく執行されず、裁判も長引き、行政側にとっても、とんでもない迷惑判決が増える可能性もある。前述の話とは逆に、裁判所が行政の裁量に不当に介入して、素人判断をする事態も予想される。これもまた法治国家に反する事態であるだけではなく、たとえば、環境影響評価法についてこうした事態が発生すれば、産業界も困ろう。5 諸外国では?ドイツでは、司法試験は、公務員試験をかねた国家試験になっている関係もあるが、行政法の主要部分は必修科目である(9)。先般、来日した ドイツの憲法裁判所J・キューリンク判事は、司法試験から行政法をはずすことは「想像を絶する」と述べた 。韓国でも台湾でも行政法は必修である。司法試験行政法廃止は法治国家の危機 神戸大学教授 阿部泰隆氏一 はじめに-法曹三者の合意 司法試験改革に法曹三者(最高裁判所、法務省、日弁連)が合意した。試験科目の点では、民事訴訟と刑事訴訟を必修にして、受験生の負担を考慮して、かわりに法律選択科目を廃止するのがその主要点である。たしかに、訴訟法の一つを選択しないで司法修習を受けるのも問題なので、両訴訟法を必修にするのもわかる。 しかし、その反面、選択科目を廃止するのはいかがか。種々の代替策を十分に比較検討したのであろうか。行政法廃止の点では、筆者には、「法治国家の実現・行政に対する国民の権利保護という、法曹にとって考慮すべき重大な要素を適切に考慮せず、考慮すべきでない要素を考慮しすぎた」立法裁量の瑕疵があるように思われる。二 法治国家の重要性行政活動は法律に基づき、法律の範囲内で行われなければならない。これが「法治国家の原理」(法律による行政の原理)である。この行政活動の基準となるのが行政法規であり、行政が法律に従っていることを担保するのが行政訴訟である。戦前は行政訴訟を専門に扱う行政裁判所があった。通常の司法裁判所は、行政事件を扱わず、違憲審査権もなく、民事刑事の紛争を裁くだけであった。 戦後は、行政裁判所が廃止され、違憲立法審査権が導入されたので、裁判所は、下級審も含めて、民事と刑事の紛争を裁くことのほか、憲法の定める三権分立の原理に基づき、立法・行政を適切に統制するという重要な任務を担っている。現在の裁判所は、戦前の行政裁判所と司法裁判所のほか、憲法裁判所という三つの機能を兼ねているのである。この行政活動の規範となり、行政訴訟の基準となるのが行政法である。これは憲法の具体化法として、国家と国民の間の法律関係を定めるもので、私人間の利害調整規範である民事法、処罰に関する刑事法と並ぶ、国家の基本的な法制度であり、さらには、社会保障法、土地法、環境法、税法など、実用的な応用法の基礎法となっている。三 法治国家は風前の灯火1 行政裁判は不活発 行政の横暴を阻止する最後の砦が訴訟である。しかし、日本の行政裁判は本来果たすべき役割を十分果たしているであろうか。実務法曹界からは、「行政訴訟はやるだけムダ」(1)、「現在の行政運営の実情は、法律による行政の原理という見地からは、ほぼ絶望的である」(2)とまで極言されている状況にある。 まず、日本の行政訴訟は、出訴件数は年間一五〇〇件弱で、ドイツと比較すれば、人口比で換算すると三五〇分の一である。しかも、過日来日したドイツ連邦行政裁判所裁判長ゲンチ氏によれば、勝訴率はドイツでは二〇%程度と推定されるが、日本では数%もあるだろうか(3)。 その原因として、論理的には、日本の行政が間違いを犯さない、負けそうな事件はすべて是正しているということも考えられる。しかし、法治国家が十分に理解されていないのではないか。 まず、原告適格など、行政訴訟の窓口は狭い。たとえば、京都の一条山訴訟はまちなかの里山が悲惨にもいわゆるモヒカン刈りにされたのに、建設省では、周辺住民には開発許可を争う不服申立て資格(訴訟の場合の原告適格)がないとされてしまった。周辺住民はこんな無謀な開発を争うこともできないのである。これは今の判例では維持される可能性の高い事例である。 欠陥のある廃棄物処分場が許可されても、これまでの判例(前橋地判平成二・一・一八行集四一巻一号一頁)では周辺住民は取消訴訟を起こせない。住民が実力行使か住民投票などを活用せざるをえないのも、法律のルールに乗った判断の機会がないためである。これは産業界にも不利である。 行政訴訟は出訴期間、不服申立庁、不服申立前置主義など不明確なことが多く、障害物競走のようなものである。都市再開発法の処分につき、自治大臣に不服申立てをしないと訴えが却下される(最判平成五・一二・一七民集四七巻一〇号五五三〇頁)が、その根拠は地方自治法二五六条であって、都市再開発法を担当している者でさえ気がつかない条文である。憲法三二条の定める裁判を受ける権利の保障の観点から柔軟に解釈すべきである。 さらに、訴訟の審理方式でも、ドイツでは当事者の主張をよく理解して、その趣旨にあった主張ができるように示唆している。日本の行政訴訟でも、一九六三年のいわゆる個人タクシー事件、群馬中央バス事件の東京地裁判決では、訴訟指揮、釈明を積極的に行った(4)。しかし、今日の裁判所では、職権証拠調べ(行訴法二四条)は活用されず、釈明権も民事訴訟の審理方式に倣って、それほど活用されないので、行政法に必ずしも習熟していない原告側は苦労している。 日本では、裁判官が行政の活動を審理するさいも、その裁量を大幅に認めてしまいやすい。その理由の一つには、日本の裁判官の守備範囲が広すぎて、行政法にかならずしも通じていないことにある。ドイツなら、独立の行政裁判所があり、最高裁判所である連邦行政裁判所にも六〇人もの裁判官がいるので、裁判官がそれぞれの行政領域の専門家となって、行政活動をチェックしている。 日本の公務員は先輩の誤りをなかなか認めたがらない傾向にある。被告行政庁は当該法律の主管省として、立法理由から運用の実態を知り尽くしていて、徹底的に反論するし、専門家の訟務検事が代理してくれる。これに対し、原告庶民は素人で、行政には歯が立たない。弁護士は、一部の者を除き一般には行政法は不得意である(5)。裁判官でも、そもそも行政事件では自分の頭で考えていないという疑問もあると指摘される(6)。そうすると、本来勝つべき事件でも、原告は負けやすくなる。最近の例でも、都市計画で決まった路線とはずれ、計画によらないで途中まで違法に造った道路の前方の家を収用するために、できた道路にあわせてあとから計画を変更することを許した例がある(広島高判平成八・八・九行集四七巻七・八号六七三頁、広島地判平成六・三・二九判例地方自治一五八号九一頁)(7)。道路は、計画をつくってから、造るものであって、事実上工事をして、後から計画をつくって収用しようというのでは、何のための計画か、何のための法治行政か、わからない。しかし、一部の裁判所はこんな無茶も許してしまうのである。 また、行政も、行政指導にみるように不透明で、訴訟による解決をできるだけ回避するように圧力をかける運用をしている。ゲンチ裁判官によれば、ドイツでは、訴訟を回避するように不透明な解決をすれば、会計検査院から指摘されるとか、隣人の訴訟で争われるなど、歯止めがあるので、このような不透明な解決はしにくいということである。 この状況では、行政に不満でも、多くの国民はあきらめざるをえない。訴訟を嫌う日本人の意識が訴訟を少なくしているという見方もあるが、逆に、訴訟を起こしても割が合わない制度が訴訟嫌いにしている面もあるのである。これでは法治国家は機能不全に陥っていると言える。2 行政法試験廃止で知識経験の絶対的な格差 商法は重要科目であるから廃止されない(法曹三者の合意では口述だけ廃止)が、かりに、商法を司法試験科目からはずしても、両当事者とも条件は同じであるから、不平等ではない。しかし、行政訴訟ではこれからも行政側は専門家であるのに、行政法を司法試験科目からはずせば、裁判官や弁護士のなかで行政法を習った者が激減する。丁度、司法試験で裁判官と弁護士は刑事訴訟をとらず、検事だけがこれをとっているようなことになる。今日行政訴訟が細々と生き残っているのは、行政法で司法試験を受験した一部の弁護士が頑張っていることによるところが大きいのであるが、行政法が試験科目から廃止されると、被告行政庁との知識経験の格差は絶対的になり、行政が訴訟で敗訴することはきわめて少なくなろう。そうすれば、行政訴訟はますます提起されにくくなり、提起されても、原告勝訴の可能性がほとんどなくなるので、ますます行政訴訟は減る。これは悪循環である。 今日、行政訴訟を権利救済の実効性の観点から改革することが望まれている(8)が、これでは、逆行している。3 法治国家化の要請に矛盾 今日、行政を透明にし、国家の重点を行政から司法に移行させ、日本をより法治国家にすべきだというのが国民的な合意と思われる。行政が事前に不透明な関与をするのではなく、いわゆる規制緩和により、明確なルールに基づいて規制し、事後に監視することに重点を移すことになるが、そこにはまた裁判所による救済が前提となっている。最近制定された行政手続法、環境影響評価法、近く制定が予定される情報公開法も、法治国家の手段である。さらに、これは行政と民間人や企業との関係だけではなく、国と地方の関係にも及んでいる。地方分権推進委員会の中間報告と勧告では、地方を国の中の組織法として位置づけるのではなく、国と地方の間を法主体間の法治国家関係にして、その間の争いを最終的には訴訟で解決しようとしている。 したがって、行政法に精通した弁護士を増やすこと、本来なら、必修とすることこそが、今日的要請に合致するのである。 しかし、司法試験改革の動きはまるで逆の動きである。国のやっていることと、法曹三者の提案していることは矛盾しているのではないか。4 行政法の適正な執行の阻害 行政法を適切に執行することは国民的な公益である。しかし、裁判官が行政法に精通しなくなると、行政法が正しく執行されず、裁判も長引き、行政側にとっても、とんでもない迷惑判決が増える可能性もある。前述の話とは逆に、裁判所が行政の裁量に不当に介入して、素人判断をする事態も予想される。これもまた法治国家に反する事態であるだけではなく、たとえば、環境影響評価法についてこうした事態が発生すれば、産業界も困ろう。5 諸外国では?ドイツでは、司法試験は、公務員試験をかねた国家試験になっている関係もあるが、行政法の主要部分は必修科目である(9)。先般、来日したドイツの憲法裁判所J・キューリンク判事は、司法試験から行政法をはずすことは「想像を絶する」と述べた。韓国でも台湾でも行政法は必修である。四 行政法は民事・刑事法とは異質 行政訴訟を、民事事件に習熟した裁判官が民事事件方式で事件処理をすることが、司法統制が機能しにくい原因の一つである。
2004年08月07日
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今日、理財の方策は、これまでにないほど綿密になってきています。しかし、各藩の窮乏はますますひどくなるばかりです。田地税、収入税、関税、市場税、通行税、畜産税など、わずかな税金でも必ず取り立てます。役人の棒給、供応の費用、祭礼の費用、接待交際費など、藩の出資は少しでも減らそうとします。理財の綿密なことはこのようであり、その政策を実施してきて数十年になります。であるにもかかわらず、藩はますます困窮するばかりで、蔵の中は空となり、借金は山のようです。 なぜだろう。知恵が足りないのだろうか。方策がまずいのだろうか。それとも、綿密さが足りないのだろうか。いや、そうではない。 だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています。 というのも、近ごろは、平和な時代が長く続いたために、国内は平穏で、国の上下とも安易な生活に慣れてしまっているのです。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事なのです。 そこで、国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようとして、そのほかのことをいい加減にして、放ってしまっているのです。 人心が日に日に邪悪になっても正そうとはせず、風俗が軽薄になってきても処置はせず、役人が汚職に手を染め、庶民の生活が日々悪くなっても、引き締めることができない。文教は日に荒廃し、武備(武芸)は日に弛緩しても、これを振興することができない。 そのことを当事者に指摘すると、「財源がないので、そこまで手が及ばない」と応える。 ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、なおざりにしているのです。そのために、綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、理財の道もまたゆき詰まってしまいます。にもかかわらず、ただ理財の枝葉に走り、金銭の増減にのみこだわっています。 これは、財の内に屈していることなのです。理財のテクニックに関しては、綿密になったにしても、困窮の度がますますひどくなっていくのは、当然のことなのです。 さて、ここに1人の人物がいます。その人の生活は、赤貧洗うがごとくで、居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまです。ところが、この人は、平然としているのです。貧しさに屈しないで、独自の見識を堅持しているのです。この人は、財の外に立つ物である、といえます。結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになるのです。 これに反して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることがその願いなのですが、そのわりには年中あくせくしていて、求めても手にいれることができないで、そのうち飢えが迫ってきて、とうとう死んでしまう者もいるのです。これなどは、財の内に屈する者である、といえます。 ところが、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ますと、あの財の外に立つ者にも及びません。財の内に屈する世間の普通人となんら変わらない愚行を犯しているのです。なんと悲しむべきことではないでしょうか。 ためしに、中国の政治に例をとってみましょう。その古代の、夏、殷、周という三つの時代のそれぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもありません。その後に出た政治家で、郡を抜く管子や商君について言わせてもらえば、彼らの富国強兵の策を儒家は非難しています。 ですが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を重んじており、また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重にしているのです。 このように、この二人は独自の見識を持っている者であり、必ずしも理財にのみとらわれているわけではないのです。 ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは、こまごまと理財ばかり気にしていますが、いつしか国の上下ともに窮乏して、やがて衰亡していくことになるのです。このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことなのです。 そこで、今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって、財の内に屈しない。そして、金銭の出納収支に関しては、これを係の役人に委任し、ただその大綱を掌握し管理するにとどめる。そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針はここに確立するのです。理財の道も、おのずからここに通じます。しかしながら英明達識の人物でなければ、こういうことはなしとげることはできないのです。ある人が、次のように言って反対します。「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に、土地が貧困な小藩というのは、上下とも苦しんでいるのです。綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきているのです。その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に、方法がないのでしょうか。それでもなお、財の外に立って、財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと間の抜けた論議ではありませんか」 私は、この人に次のように答えます。「義と利の区別をつけることが重要なことです。 綱紀を整えて、政令を明らかにすることは義です 。餓死を逃れようとすることは利なのです。君子は、(漢代の菫仲舒の言葉にありますように)ただ、(義を明らかにして、利を計らない)ものです。ただ、綱紀を整えて、政令を明らかにするだけなのです 。餓死や死をまぬがれないかは、天命なのです。 その昔、滕国に対して、ただ善行をすすめました。 侵略されて、破滅するということへの不安は、餓死や死への不安よりも、もっと恐怖です。だというのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけなのです。 貧困な弱小な国が、自ら守る方法は、他にないのです。義と利の区別を明らかにするだけなのです。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まります。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらないものなのです。飢えと死とは心配するにはおよびません。まして、理財などはいうにたまりません。 しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいないのです。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。これによって飢えや寒さによる死から逃れることができのだ〉とおっしゃるのでしたら、現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは、何故なのでしょうか。 【方谷の教えた帝王学】「事の外に立つ」板倉勝静が松山藩に迎えられ、その教育係に付いたのが藩校有終館の学頭だった方谷であった。勝静に対する方谷の教育態度は当時の常識では考えられないほど厳しい物だったという。そんな方谷が一貫して勝静に教えた帝王学とは「事の外に立つ」と言うことだった。「政治も経済も事の内に屈してはならない、藩の財政が窮するのも、理財をはかる物がことごとく財の内に屈しているから、姿勢を正し、心を引き締め、文武をはかり治国の大方針を確立することこそ第1義である。」餓死が迫っている、経済的な危機が目の前に迫っている、そんな時はみなそれぞれ異口同音に「必要なのは金・・こんな時に綱紀などといっている場合ではない、緊急事態だ!」と言う。しかし、現在の平成の大不況にあって、政府が幾ら緊急の経済対策をとっても自体はいっこうに改善しようとしない、むしろ使える金は先細りの一途をたどっている。方谷の言う「事の外に立つ」とは、小手先の対応でその場をしのいだところで、何の解決にもならない、綱紀を整え政令を明らかにするのが義であり、餓死から逃れようと財貨を求めあがくのが利である。抜本的な方針を整え戦略を実行し、義をあきらかにすれば、かならず利もついてくる、ということであった。
2004年08月06日
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多くの法律があることがしばしば悪行に口実を与えるものであり、国家がわずかの法律しか持たず、しかもそれが極めて厳格に守られている場合の方が、はるかによく治まっているのであるできる限り幸福に生きるために、私は暫定的に幾つかの道徳の規則1.私が共に生きてゆかなければならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く2.私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度をとることであり、いかに疑わしい意見でも、一旦それをとると決心した場合は、それがきわめて確実なものである場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従い続けること事例:森に迷い込んだ旅人どこかの森に迷い込んだ旅人が、あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、いわんやまた一つの場所に留まっているべきでもなく、 常に同じ方向に、できる限り真っ直ぐに進むべきであって、その方向を彼らに選ばせたものが初めは単なる偶然にすぎなかったかもしれぬにしても、少々の理由ではその方向を変えるべきではないのである。というのは、こうすることによって、旅人たちは彼らの望むちょうどその場所には行きつけなくとも、すくなくとも最後にはどこかにたどり着き、それは恐らく森の真ん中よりは良い場所であろうからである。3.常に運命よりもむしろ自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろを自分の欲望を変えるように努めること、そして一般的に言って、我々が完全に支配しうるものとしては我々の思想しかなく、我々の外なるものについては、最善の努力を尽くしてなお成し遂げえぬ事柄はすべて、我々にとっては、絶対的に不可能である、と信ずる習慣をつけること4.私は人々がこの世で携わる様々な仕事をすべて吟味にかけ、その中から最も良いものを選ぼうとした。そして、他の人の仕事については何も言うつもりはないが、私自身は、今携わっている仕事を続けるのが最も良いと考えた。それは自らの全生涯を自らの理性の開発に用い、自ら課した方法により、真理の認識においてできる限り前進する
2004年08月05日
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1.自分を守れるツール(武器:スタンガン、こしょうスプレーなど)2.ソフトウェア(ツールを最適に使う知識)3.アーツ(武術:ジークンドー クラブマガ 少林寺拳法)4.システム(なにかあったらすぐ近所などが駆けつけてくるGPSシステムと携帯発信機能を結合させたコミュニティセキュリティシステム) 5.ダメージコントロールナレッジ(さされたときや怪我など被害を最小限にするダメージコントロール知識)などを組み合わせたあたらしいプロテクトシステムを構築を目指します。上記のうち、4.システム(なにかあったらすぐ近所などが駆けつけてくるGPSシステムと携帯発信機能を結合させたコミュニティセキュリティシステム) のコンテンツが充実しそう!ある方より情報をいただいた。PHS位置情報取得dll
2004年08月04日
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正義・正義というが正義も視点・パラダイムが変われば変じる可能性もあります。そこで遵守してもらいたい正義とはなにかと考えた。つきつめれば「交換」の正義である事に気が付いた。交換の正義とは何か。500万円という価値を稼ぐのに、1時間で匪賊が略奪したものであろうが、農家が1年間育てた作物を換金したものであろうが、法匪【行政の方々】の意味のない書類のやり取りで費やされた人件費1ヶ月であろうが世間での500万円の価値使用効力に何ら変わらない。リスク・投資額・投与時間・知能の投入に比例して満足度と収益でかけ合わされた産出価値は現在の日本では正しく算出されるのだろうか?ハイリスクハイリターンなら古今東西共感される基準ですがローリスクハイリターンが確立された基準であれば、一般的に人間の性向として、ラクして安全にリターンが大きい道へ流れてゆきます。結果、略奪の方がリスクが少なければその方へ流れます。略奪の仕方は強奪という方法をとらずとも、税率上昇・国債発行にて略奪、いや合法的に徴収し○○事業として予算を組んで分配し、○○事業に係わる調査として事業に取り組まなくても予算消化して仕事をした報酬という共感を世間に抱かせエクスキューズする手段があります。リスクを織り込まざるを得ない事業よりもリスクを織り込まないで事業で得る価値の方が収益効果(資金・満足度を含む)が高いという状況では交換の正義は働いているとはいえないのです。だからといって政府が干渉して価格維持制度などで裁定(補助金投入)が行われるのは健全ではありません。誰もリスクあるところに飛び込まないからこそ、先行者利益をリスクテイカーやイノベーター(革新者)が受益できるのであってここを裁定によって先行者特権を歪めるといつまでたってもその分野の革新がすすまず老朽化します。ちょっとわかりにくいので一言で、「誠実な労働、社会への貢献、卓越した知力、危機への克服能力などで報酬が公正に資金と交換される」 ことではないかということです。サラリーマンの場合、基本的に人的資源(労力・知力)の供与で、1日1000円程度の食費の投資で1万円のリターンがある。(年収500万円程度と仮定)翻って農業に時間あたりの投資効率を考えときにはどうなのだろうか。(勝ち組農家の方は除外してください。)こまかく計算しなくとも若い地方の人材が農業に目をむけないのは、現実を身近で観ているのでは。農業に目をむけるのは、現実に農村の実情を知らないサラリーマンばかりなのではないだろうか?おいしい空気・おいしい食・自分で決められる時間などを考慮しても交換の正義が機能していない(=不当利得・横領が横行する状態)農協による農村及び農業者維持指導制度では、交換の正義がより働いてきた分野でやってきた人間では耐えられなくなる。交換の正義は空気のようなもの。清浄な空気で育ったが、排気ガスの多い場所へ引っ越したようなもの。昔から住んでいるものは気付かずともそうでない人間は気付く。無論、農業が好きならば、交換の正義・天候リスク・近隣リスクすべてを克服してでも突破してゆく超人がきっといるはず。不適合者は速やか退出する。そして適合者が担ってゆきやすい状況を促そう。適合者の数がいなければ、それによって存立する組織も弱体化する。そこで自然裁定がはたらくようになる。ジョン・ロックと私的所有の正当化 ・ロックは自然状態に労働を基礎とする所有権の確立を見ていた (1)各人は自らの身体とその諸能力の所有者である→その労働の所産も各人に帰属すべきものである(私的所有の正当化) (2)人間にとって有用な事物の価値の99%→その生産のために費やされた労働に等しい 以上の考察より、労働の産物は各人の所有権として各人に帰属するのが正当であるとされた★富の無限の蓄積 ・最初、ロックは所有権について自然法(理性の法)による一定の制約をおいていた ・論理の過程でロックはこの制約を撤廃していく→貨幣の導入が無限の富の蓄積を可能にし、労働の余地を押し上げ、新たな生産をもたらし、社会全体の富の増大を可能とする(富の蓄積の正当化) ・しかし、貨幣の導入による生産の拡大は、所有における不均衡、不平等を産み出さざるをえない(この点の是正についてのロックの視点は少ない)★配分の正義は交換の正義の結果である ・富、権力などの配分の基準となる正義論…アリストテレス『ニコマコス倫理学』正義は大分して2つある(「配分的正義」「整正的正義」) ・「配分的正義」とは:国家と市民との関係において成立し、各人の有する価値に応じた事物の配分を意味する(近代の算術的平等と異なる)「整正的平等」とは:市民の相互交渉において、交換された事物がその価値において相互に等しいことを要求する(ある種の階層秩序を前提とした正義概念) ・ホップズの『リヴァイアサン』では…(1)すべての個人は平等 (2)整正的正義(交換的正義)は各人の主観によって決定されるべき →唯一の正義は契約を守ることである→事物の配分は市場を介した交換の過程に委ねられていった ・ロックもまた、法律による強制なしの自動調整メカニズムによる経済論を唱えた★アダム・スミスと市場社会の正当化 ・スミスはもはや、労働や所有権の神聖性から論を展開しようとはしなかった ・分業こそ生産力改善の最大の要因(各人が自ら特定の職業に従事することが、結果的には社会全体の富の増大につながる) ・仁愛に期待するよりも利己心に期待して働きかけた方がよい「わたしの欲しい物をください。そうすればあなたの欲しい物をあげましょう」 ・資本主義の分配と交換のシステムは分配の公平さをももたらす(交換の正義が満たされる→配分の正義も満たされる)★自然的自由の体系とユートピア資本主義 ・分配と交換の正義の考え方…経済的秩序と政治的秩序の分断をもたらす(政府の介入の縮小と市場の自動調整→自然的自由の体系と呼ばれる) ・経済の論理が社会の論理となる ・資本主義のユートピア化 ・しかし、自然的自由の体系は放置されれば不平等と格差を生む
2004年08月03日
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<<インド人に発言を控えさせることが如何に困難か、それに比べて、如何に日本人に発言をさせることが困難か、人類最大の永遠のテーマだ>>リベラル・アーツ、と言う学問がある、あえて日本語に直せば、古典教養学、とでも言うのでしょうか、頭の中を白紙にして、まったく、自分の頭を自由にすること、職場や、上司や、同僚に気兼ねすることなく、また家庭にも縛られることなく、自由に自分の考えを述べること、この訓練を日本人もやらなければ〈学校教育で)益々、世界から馬鹿にされる、今世界で一番存在感のない国は、日本なのだ(コロンビア大学で考えた世界と日本の著者、ベッシャーさんの言葉)日本は論理学やディベートを教えない。公務員の先生方を養う目的での授業しかなく、本当に必要な論理学が教えられていない。教えたら、今の日本の状況に憂うる人間が増えて公務員さんにとって最適化された現状を変革する機運が高まるのを防止するためなんでしょうか?国の誇りよりも自分たちの快適環境が重要なんだろうな次に生まれ変わったら、アメリカ合衆国海兵隊の将校になって日本の態度を呆れてみたい。
2004年08月02日
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『先覚者は常に同時代の人から迫害を受ける―中略―もしも孔子、釈迦、イエスキリストがまだ生きていたら、その教徒たちは慌てずにいられぬだろう。彼らの行為に対して、教主先生はいかばかり慨嘆するだろうか。それ故、もし生きていれば迫害される他はない』阿Q(アキュー)という人物は、前世紀30年代中国の著名な作家魯迅の小説「阿Q正伝」の中で虚構化された主人公だ。無知ゆえ、負けても理由をつけて自己を慰め、無闘争心、いつも自己満足(悪くなければ良いこと)している阿Qがもつ人格的特徴は20世紀初頭の中国人そのものだ。魯迅が阿Qのどうしょうもない生活態度を通して、当時の中国人の精神状態を余すことなく表現した。中国の近代化が遅れた原因は「阿Q精神」によるものだと多くの中国人が認めている。 中国では唐の時代に政治・経済・文化の隆盛を極めた。やがて宋の時代に入り、北方遊牧民族の脅威の前に団結することなく内争を繰り広げた結果敗北してしまった。中国が自分で国を滅ぼしたと言って良い。ヨーロッパの産業革命が100年、日本の明治維新が30年でかつての大清帝国を追い越したのと比較して、清朝は滅亡の道をたどった。清朝の最盛期に君臨した乾隆皇帝はヨーロッパの宣教師から数学や天文学を学んだが、趣味の領域に留まりヨーロッパの科学や思想が宮廷の壁を超えることはなかった。 約100年前に中国近代史を切開いたとも言える青年運動である「五・四運動」は、弱体化した死亡同然の中国を救うために「科学、民主」のスローガンを提言した。それから100年経過した今日、未だにその目標は成就されていないのではなかろうか?魯迅の時代から半世紀も過ぎ去ったが、「阿Q精神」の遺伝子を受け継ぐ人々が少なくない。簡単にいうと、明日仕事がなくても今日満腹できれば満足できるという精神構造だ。 歴史の重圧は自分で簡単に下ろせるものではないかもしれない。私は、中国も一度「脱亜入欧」を経験したらよいと思う。勿論アジアの諸国と反目して、覇権国家を目指すものではなく、ここでいう「脱亜」とは、中国人自身の保守的態度と決別することを意味する。つまり「非科学的考え方、盲目的な権威崇拝、非効率的行動」という「阿Q精神」を一掃することだ。 近代的生産方式、科学的思考の導入、そして法律・行政制度をはじめとする政治改革の推進を通してそのレベルを直接世界基準に合わせることだ。この目標を実現するために、当然なことだが現状の課題を明確に認識することが重要であろう。清朝の末期に改革を唱える学者が「中学を体にし洋学を用にする(中国の思想のもとで、西洋の技術を導入)」を提言したが失敗した。バケツいっぱいの水をこぼさないと、新しい水が入らないと同様に、自分の思想の中に何が足りないではなく、要らないものをどんどん捨てるべきだ。しかし、すでに慣れ親しんだ考えを捨て去るには、勇気と論理的思考がなにより必要だ。 中国が将来どのような国になるかということについて、既存の知識と情報で将来の絵を描くことは出来なくても、全く新しい「中華思想」を創造する時が来ている。但し、その場合科学的思考と合理性を重んじながらも、更に人間性を満たす精神を軸に周辺国に尊敬される国を目指すことが理想であろうこの文に対してのコメント地方選挙の真っ只中です。せめて被選挙人達が、この高階さんのご紹介下さった記事を読み、考え、討論するような政治家が育たないかなーと思いつつ,拝読していました.明治政府は西洋列国に追いつくために《運命》を迷信と切り捨てて,科学性や合理性を求めました。世界の素粒子学者はすべからく《運命》があると信じているそうです[NHKラジオ朝4時からの,心の時代:稲盛会長]人生は《縦糸》が《運命》であり,《横糸》が《因果》であると。この,縦糸と横糸の複雑に絡み合う,織り成す糸が人生であり,『人はよいことを考え,よい事をなせば,必ず,よい結果がえられる』『悪いことを考え,悪い事をなせば,人は、必ず悪い結果がえられる』と。これが《因果》であると。しかし,この『因果』は人の心のもち方によって変わるのであるから,《運命》も人は変えられるのだと,稲盛会長は話して折れられました.NHK教育テレビではビジネスマンのための教育番組を放送しています、国内企業の今も上手く言っている企業の成功事例が何時も紹介されています。それによると*目標の共有化*問題の共有化*成果の共有化これが上手く行った企業は成功しているような感じを受けています。再び雷峯塔の倒壊について 魯迅瓦礫の原にいることは、なお悲しむに足らない。瓦礫の原で、旧いしきたりを補修することこそ、悲しむべきなのである。 われわれは革新的破壊者を必要とする。なぜなら、彼の内心には、理想の光があるからである。われわれは、彼と寇盗や奴隷との区別を知らなくてはならない 。自分が、後の二者に堕落しないよう注意しなくてはならない。これを区別するのは、別にむつかしいことではない。ただ、人を観察し、自分を反省すればよい。言動や、思想の中に、それ(破壊)によって自分の所有にしようとする兆候を含有しているものは寇盗である。それによって目先の小さな利益をつかもうとする兆候を含有しているものは奴隷である。たとえ前方に、どれほどあざやかな美しい旗をうちたてていようとも。
2004年08月01日
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