全7件 (7件中 1-7件目)
1
イギリスに住むダンナのお母さんが亡くなった。一人で郊外のコテージに住んでいた彼女は、自分のベッドで眠るかのように死んでいるのを発見された。シンガポールに駐在中事故で夫を亡くし5人の子供達を女手ひとつで立派に育て上げ敬虔なクリスチャンだった彼女は子供達が自立した後も教師として地元に貢献し、数年前に不慮の事故で息子の一人(ダンナの弟)を失いながらも定年後は信仰にその生涯を捧げた。その強さと他人を思いやる心の広さには頭があがらず、恐縮してしまうが、でも接してみると子供のように無邪気で純粋な少女のような女性だった。私もダンナも彼女が大好きで、大変尊敬していた。今年の5月には彼女を訪れる計画を立てていてつい先日電話で「もうすぐ会えるね」と話していたところだった。眠りながらたった独りでひっそりと死んでしまうなんて、2日間誰にも気づかれず、そこにそのまま横たわったままだったなんて神様これはちょっと酷いよ。どんな思いであの世に旅立ったのだろう?考えると、哀しくてせつなくてくやしくてたまらない。あと12週間もすれば、笑顔で再会を果たせたのに。死というのは、なんでいつもこんなに突然なのだろう。
2003.02.27
コメント(2)
肩こりひとつせずに生きてきた人生だったが、ここにきて背中がバリバリになってしまった。顔をちょっと上に向けるだけでも激痛!首を回して横を見るだけでも激痛!これではいけないと、3週間前からジムにも再び通いだしたしストレッチやクイックマッサージなどで対処してきたが何の助けにもならないことに気づく。そこで今日は近所の中国式整体に行ってみた。初めての整体45分間。そんなに力いれていいの?というくらいの痛さにショック。そんなことしたら骨はずれない?というくらいの体の違和感にショック。終ってからも皮膚の痛みが残り、騙された気分にさえなった。しかし、数時間後洗濯をしていたら、何故か背骨がシャンとしている自分に気づく。昔から猫背で意識しないと背骨をまっすぐにできない私だったが、ちゃんと普通に背中が伸びている。さらに背骨が骨盤の上にちゃんと乗っかっているような気分。あれ?こんな感じ初めて。単純な私はちょっとだけ気分が良くなった。少し通ってみようかな、この整体。
2003.02.23
コメント(0)
私は隅田川の東京湾河口に住んでいる。この川は利根川の支流荒川から分岐して、東京湾と河口で繋がる。そしてこの東京湾は太平洋となり、彼の島々へと続く。東京の埋立地に引っ越してきてから、少しでも時間が空くと季節も時間帯も問わず豊海埠頭へ自転車で向かっては迫るような海面を飽きずに眺める。停泊する船、釣り人、冷蔵建物に荷を収めるトラック。右手に竹芝桟橋、左手に晴海、正面にはレインボーブリッジとその向こうにお台場。行き交うボートやフェリー、そして時折屋形船。ここに立つと、東京が馬鹿げた作り物のように浮かび上がってくる。幾万もの人口ライトが密集する建物の群れが海の上に乗っかっている姿は滑稽だ。その作り物の都市の内側でビルと渋滞とコンクリートの道路に囲まれ生活する人々を想像すると叫びたくなる。こうして埋立地側から「向こう側」を見ることで定期的に覚醒しようとしている自分がいる。日中はまぎれもなく「向こう側」で生きている私だがそこに埋没し続けるだけの勇気はない。時折体重計に乗って体型を管理するのと同じように自分の心のバランスをとってみる。この黒く膨張した海水は遥か彼方の太平洋へと続くんだ、と自分に言い聞かせながら。
2003.02.22
コメント(0)
アラームの電子音で目覚める。ベッドに横たわったまま目を開けて見慣れた天井を見つめる。ココロを満たすのは諦念。本能ではなく義務感。義務感が私の肉体を「起床」のルーティンへ送り出す。デジタル表示の現在時刻を確認して、フルスピードで「やること」のスケジューリングをアタマの中で行う。義務感でベッドから起き出し、ストーブに火をつけ、キッチンで湯を沸かし、本能でトイレに駆け込む。TVのスイッチを入れ、紅茶を飲みながらタバコを吸う。2人分のランチボックスを作りながら、キッチンで立ったままトーストをかじり、アタマの中では会社での今日のミーティングをどう展開させようかと考える。昨夜から置きっぱなしの洗い物を一気に片付け、シャワーを浴び、歯を磨く。TVのニュースの断片をインプットしながら、着替えて化粧をする。ニュースは相変わらず事件、事故、惨状、闘争、紛争のオンパレード。昔、知人が事故で死んだ時にそれが信じられなかった私は、TVのニュースでその事故のレポートを見て、初めて信じることができた。でも今私はこの安全で快適な部屋の中に居て、TVのスクリーンから伝えられるレポートを見て本当に「それ」が起きている同じ地球に存在しながらも、世界がとても遠くに感じられるようになってしまった。私の住んでいるこの「箱」は、私と世界をこんなにも隔ててしまう。小走りで家を飛び出し、自転車にまたがる。外気の冷たい空気を吸う。行き交う人々の存在する世界へ出る。ウォークマンで電子的なオンガクをアタマに流し込みながら、生活する人々、働く人々、行き交うトラック、あくびする猫達の間を抜け埋立地の独特の空気と匂いを浴びながら、一路駅へと向かう。知り合いとすれ違いざまに、私の顔はつくり笑顔になるが、それは交流を拒絶した表面上の礼儀。空を見上げると、とても青い。突き抜けるように青い空を見上げると、自分がどこにいるのかが不安になってくる。What a hell am I doing here?そんな疑問を持ったら最後、生き残れることはできない。だけど一体私はここで何をしているの?私はちゃんと生きているんだろうか?惑わされないように、ウォークマンのボリュームを少しだけ上げてみる。地下鉄の駅には群集がいる。一様に身だしなみを整えたビシネスピープルと学生ばかりだ。規則正しく到着する電車は、人の塊を飲み込み、吐き出し、飲み込み、また吐き出す。死人の様に感情の片鱗もうかがえないサラリーマンと意を決したかのように攻撃的な不機嫌さを隠そうともしないOL。電車の「箱」の中には、悪意、敵意、苛立ち、諦め、麻痺した感覚、鬱屈していく欲求不満、抑圧された怒り、プライド、そんな空気が充満する。目的駅に着くやいなや、足早に人混みのなかを器用に縫って、一定のテンポで行進、進む。機敏に、非人間的に。空調により乾燥しきった空気と、眩しくて眩暈がしそうな蛍光灯の明るさで作り上げたオフィス環境。ここが私の日の大半を過ごす場所だ。部下への指示、他部署との調整、上司への報告、同僚とのミーティング、派遣社員の面接、外部業者との打ち合わせ、一般的なオフィスワーク。情熱を傾ける必要の無い、するべきことをし遂げるだけの会社の家畜。早く抜け出したいという理由だけで、休憩も取らずに「席弁」しながらガムシャラに案件を片付けていく。窓から見える空は、朝と同じように遠く青い。外部から隔離されたこの「箱」の中で、今日も明日も、きっとそれからもずっと囚われた感情を持ちながら同じことをくりかえす。オフィスでの時間はとても速く流れる。気がつくと、閑散としたオフィスで自分ひとりだけが残っている。他に誰もいないと判ると、私はPCでCDを流しながら仕事を続ける。同僚、後輩、上司の「ちょっと、いい?」攻撃に邪魔されながら行う日中よりもずっとずっと効率的に仕事がはかどる。だけど誰の為に?夕食の支度もできないほど遅くまで残業して、家に戻れば家族の苛立ちに対面して、一体得るものはなんなんだろう。年収の数パーセントにしか影響されない仕事の評価が、なんぼのものなんだろう。Is this what you really want ?情けないけど、答えは決まってるじゃないか。遅い帰路につきながら、たったひとつの単純な疑問を何度も何度も心のなかで否定している自分を見つける。帰宅途中で見上げる空は、残念ながら星ひとつ見つからない都会の夜空だ。閉塞感に押しつぶされそうな時に読む本:「森の生活」ヘンリーDソロー
2003.02.15
コメント(4)
不定期だけど不真面目ではない程度にこの楽天HPを続けてきて、これが100回目の日記記入となる。ナントカ記念日とか、キリ番何番とかに対して「何がそんなにうれしいの?」と思ってしまう私がこんな100回目の日記記入にこだわるのは可笑しなハナシではあるけれど。でもいい区切りなので、これまで一度も書いたこともないし、ダンナ以外の他人とは話し合機会の少ない「死」についてちょっとだけ。「死」について考えたことのない人は、多分まずいないと思う。なのに何故私達はそれについて語ることを避けてしまうんだろう。身近な人の死を思い起こさせて、傷つけてしまうから?私は自分の父親が「死に至っていく過程」を歩んでいた時期、一番他人と語りたかったのは「死」についてだった。どうして人間は死んでいくのだろう。この体中の細胞がどのように変化していくのだろう。唯一確かな「自分」という精神は、肉体が滅んだ後どうなってしまうのだろう。死の瞬間というのはどのような感覚なのだろう。死んだら「私」はどこに行っちゃうんだろう。なんで私達は「死」をこんなに恐れているんだろう。10歳くらいの物心ついた時から「?」だったこの疑問は今でも私の中で疑問のままだ。「その時がきたら、こんな疑問がクリアになっちゃうんだろうか。だとしたら、ちょっとだけ待ち遠しいな」なんて不謹慎なコトも考えたりして。「死」は真摯に受け止めなければならない?「死」はタブー化されている?「死」は日常生活からは抹殺されている?そんなに特別なことですかね?誰にでも平等にやってくる「死」は言い換えれば誰もが毎日の日常で普通に接していくものなんじゃないの?ただそれが、ニュースで伝えられる死者数だけだったり死体なき惨状の現場、その事件の背景説明、嘆き悲しむ親族そんな形でしか、情報でしか体験できないからリアル感がない。今の日本で接する「死」は、棺に収まった「眠ったように動かない」死んだおばあちゃんせいぜいそのくらい。私は「死」が怖いのかな?それとも単純に自分の「死」を信じられないだけなのかな?もしくは世界中で繰り広げられている惨劇に対してこんなに冷静でいられてしまう自分がもどかしいからなのだろうか?不安だから読む本:「チベット死者の書」「臨死体験」「死の瞬間」「死への準備日記」
2003.02.11
コメント(1)
昨年末にタイのコタオへ行ってきたばかりだけどもう「あ~どっか行きたい!」熱にとらわれている自分を発見。気が付くとネットで格安航空券をチェックしている。日本が寒いからだろうか、暖かいところばかり目が向いてしまう。先日日記にも買いたが、そろそろHOLIDAYではなくTRAVELをしたくなってきた。2ヶ月くらいインド近辺に行きたい、行きたい、行きたい。会社勤めというのがネックになっているけど、ひとつの会社に束縛されなくてもいいじゃない、というのが私のこれまでの持論だったりするので、退職にしろ、休職にしろ、そろそろ真面目に考えてみよう。だけど、一旦サラリーマンの安定を味わっちゃうと抜け出すのはちょっとしんどいよね。毎月決まった金額が銀行に振り込まれて、年2回のボーナスも当然のように受け取って保険も年金も万端そこそこの生活レベルをキープして年に4回のホリデイなんていうのが「あたりまえ」の生活。何もかもなげうってココロの平安を選ぶ?それともこのままワーカホリック状態で人生を犠牲にする?転職?専業主婦にだけはなりたくないけど選択は私次第だ。
2003.02.08
コメント(2)
どうせ1ヶ月坊主に終るだろうと思いながらも始めたこのHPだがもうそろそろ100回目の日記記入となることに気づいた。すごいな、これ。さらに驚くのは、まだまだ吐き出したいことが山盛り。いやそれどころか、全然核心にふれるところまで行き着いていない!という事実。想いはここにあるのに、それを言い尽くすことができない。言葉を重ねれば重ねるほど、嘘っぱちに見えてくる虚脱感。ああああああああああああああああああ。まあ気長に、少しずつ進めていこう。
2003.02.05
コメント(1)
全7件 (7件中 1-7件目)
1