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「あせる」ということも「今を否定するこころ」から始まっています。願いが叶うことに「執着」することも「今を否定するこころ」から始まっています。苦しいおもしろくないと思うことも「今を否定するこころ」から始まっています。今流行の引き寄せの法則。そこで基本となるのは毎日を気持ちよく過ごすことです。今を否定していると当然毎日を気持ちよく過ごすことはできませんから引き寄せの法則を実行しようとするとき毎日を気持ちよく過ごすために今を否定する自分でいないようにしようと思います。しかし毎日を気持ちよく過ごすために今を否定する自分でいないようにしようと思った時点でもうすでに今(の自分)を否定しているのです。一見、前向きに観えるその考えも実は、「今を否定するこころ」から始まっているのです。何かの法則にすがった時点で自分で気づかないうちにそれを自分が「できているか」「できていないか」の「二元論の眼に見えない鎖」で自分で自分を縛ってしまうことにひとはなかなか気づけません。だから本来「自分のこころが軽くなることが目的」でその「手段」としてその法則を始めたのにいつしかその法則を「きちんと実行できているか」が目的にすりかわってしまっていることにも気づけなくなるのです。目的は自分のこころが軽くなることです。その手段として自分が選んだ法則を自分がうまく実行できないことでこころが重くなっていたらそれは本末転倒なのです。大切なのは法則をきちんと実行できる自分になろうとすることではなくその法則を必要としている今の自分のこころがなぜ重たいのか?その理由を自分で自分に明確にしてあげることなのです。わたしは法則を否定しているわけではありません。今流行の法則はどれもすばらしいものだと思います。けれども「今を否定するこころ」があるからこころが重たくなる。そこに気づかないでそのこころの重たい自分をさらに否定(変えようと)して法則を始めても法則はきちんと機能しませんよということをいいたいのです。どれだけ法則に従った生きかたができたとしても「今を否定するこころ」をかかえたままではあなたが本当にたどりつきたい場所へは行けないのです。こころが重たいのはその法則がきちんと実行できていないことに原因があるのですか?それとももっと根本の原因があるのですか?そしてその法則を実行する前にあなたが確認しないといけないことは何でしょう?この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月31日
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今日3本目です(笑)わたしが今まで生きてきて思うのは何かを信じる生きかたをできたならすてきだろうなということです。信じるとは今までがこうだったから信じられないということではなくて自分が何かを信じるという立場に立つことを決めるか決めないかということなんです。何かを信じられないとき聴いてほしい歌があります。花家路この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月29日
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猫の写真を歌にのせて♪バンザイ~!猫でよかった!無言坂猫天城越え猫ギニャギニャハートの子守歌酒と泪と男と猫聖猫たちのララバイクリスニャスイブ大都会猫異邦猫かニャしいときはいつも宇宙戦艦ニャマト
2008年03月29日
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息をしている歩いている花の香りもっと吸いたい!いっぱい吸うきもちいい風風風足音見上げた空信号が変わった
2008年03月29日
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他人を助けるとは自己を助けること。しかしそれが自分だけが得をするための動機で行われるのならば本末転倒になる。すべてはひとつ。「個」とは自己を知るための手段。
2008年03月28日
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みなさま本日もお越しいただきまして今日歩いていると突然花の香りがしました。視界には花はないけれども。その匂いをかいだ瞬間に自分のこころが切り替わりました。「あー自分って何て単純」と思いました。そしてその単純な自分を複雑にしているのも自分だと思いました。そして人間に必要なものはぜんぶ無料で用意されていてだからわたしははだかで生まれてきたのだなとも思いました。 愛というものには一切のおしつけがましさがありませんから「気づける自分」になるしかありません。「あたりまえ」を疑う「きっかけ」として人生には「ドラマ」が用意されています。自分自身の手によって。何をどれだけ否定してもわたしたちは愛から逃げることはできない。愛の外へ飛びだすことはできない。自殺をしようがひとを殺そうが愛は「その次の選択」をする機会をいつも与えてくれる。本人がそれに無自覚でいることとは関係なしに。それはいつか気づくときがくることを愛は信じて疑っていないから。愛とは意図ではなくただそうあり続けること。変化し続ける物質の世界で唯一不変の流れ。そしてそれは誰の中にでもある流れ。わたしたちは愛から逃げることはできない。愛の外へ飛びだすことはできない。それは自分が他人になれないのと同じこと。わたしたちは自分から逃げることはできない。自分の外へ飛びだすことはできない。 何かを伝えるということにも2通りあると思います。ひとつは自己を満たすため。もうひとつは自己からあふれるものをただ流すだけ。「自分」というものが「独立したもの」から「流れの一部」になったとき私の書くものも変わっていくような気がします。「流す」のではなく「流れる」。それが自然により近いと思えるからです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月27日
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みなさま本日もお越しいただきまして今日はとりとめもなく抽象的なことを書きたいと思います。現段階のわたしがたどりついているところは「なぜそれをしているのか?」「なぜそれをしたいと思うのか?」という「動機」が自分ではっきりと確認がとれているということが大切だということです。そしてその「動機」が純粋すなわち自分の素直な気持ちにのっとった動機であるときその行動のベクトルは「自分のため」だけには自然と向けられなくなるということです。これはあくまでもわたくし個人の思いですが。そしてそれが純粋な動機かどうかは「叶った先が自然と見えてくるか?」がひとつの目安になるように思います。叶った先が見えるとは叶う前叶ったとき叶った先一貫して同じものを感じていたいと思う自分の姿が想像できていてまたそう感じていることに確信が持てているとでもいいましょうか。「根拠のない自信」がそこにあるとでもいいましょうか。空を見上げるだけで「すべて大丈夫」という気持ちが自然とわいてくる状態とでもいいましょうか。「思い」と「自分」との間に「思考」や「感情」が入ってこない状態とでもいいましょうか。そんな感じのものだと今のわたしは思います。わたしは今まで地べたをはいずりまわるような人生を生きてきて「ほしい」「ほしい」「ほしい」「なりたい」「なりたい」「なりたい」ばかり叫び続けてきていろんなひとをうらやみ、ねたみ、うらんできました。そのわたしに欠けていたものは『自分に受け取れる準備ができているか?』ということに意識を向けることでした。受け取る準備ができていないにもかかわらず「受け取れない」ということにばかり目を向けて、すねて、人生を投げていました。今回、わたしが気づいたことはどれだけ人生を投げていても見捨てられることは決してないということです。どれだけ天にツバを吐き悪態をたれてもわたしが受け取れる準備を「自分でつくること」をじっとだまって待ち続けていた存在がいたということです。わたしが人生でするべきは「悪いことはしないでおこう」ではなくいい、わるい、関係なしに「自分に素直になろう」だったことにようやく気づけたんです。どんなにマイナス思考でどれだけ精神世界の教えから外れた生きかたをしていようとも「ギフト」は必ずすぐそばに用意されています。あとは自分に「受け取る準備」を整えるだけです。受け取る準備を整えるとは『こころとからだを開くこと』なのです。こころを開くとは自分の思いに素直になること。からだを開くとはその素直な思いにのっとった行動を起こすことです。受け取るとは受け身で待つことではなく自分の思いに素直に動くことだとようやくわかったのです。それは結果は関係なしで自分の「こうしたい」にどれだけ素直に動いてあげられるか?ということです。 どんな現実を生きていようと必ず「その先」は存在します。ひとの真似をして「正解」を生きようとしないでください。あなたの「素直な気持ち」の中に「すべての救い」が隠されています。「自分の素直」に従うことが「一番怖い」。けれどもそれは、あなたがあなたをどれだけ大切にしているかを質問されているだけのことなのです。 この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月24日
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みなさま本日もお越しいただきまして今日2本目です。公園や校庭などには遊具があります。その遊具の危険を表わすことばとして「ハザード」と「リスク」ということばがあります。「ハザード」というのは「あってはならない危険」を意味しています。死亡事故などにつながりかねない危険のことです。一方「リスク」とは「なくてはならない危険」を意味します。危険が一切ない遊具ではこどもが成長できないからです。つまり遊具には大事故にはつながらないけれどもこどもの成長をさまたげないための危険が必要とされるのです。そこのさじ加減がつくる側の腕の見せどころなのです。 わたしたちおとなが何かに挑戦するときも「ハザード」ということばではなく「リスク」ということばを使うのはなぜなんでしょう(笑) この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月22日
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みなさま本日もお越しいただきまして今日立ち読みした本にグラウンディングのイラストがのってました。「あぁ、こうイメージすればいいんか」とクスノキさんの前でやってみたら初めてできました。両足の先が、ガ~~~ッと熱くなって左足の裏が靴ズレしたみたいに今でもヒリヒリと痛いです(笑)「タイムスイッチ」ということばがあります。ビジネスの現場で使われることばです。たとえば飛びこみの営業をしていてなかなか成果がでないとき「今日もダメだったらどうしよう」「明日はどうだろう」といったところに意識が向いてやる気が失われていくとき「タイムスイッチをいれてごらん」といった使いかたをします。タイムスイッチをいれるとは「5年先、10年先の自分にとって 今やっていることはどんな財産になると思う?」というところに意識を向けてもらうということです。つまり今日や明日だけを観ていたら「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」という思いに答えがでてこないので「こんな仕事辞めようかな」となってきますけどタイムスイッチをいれて「今日」を観ている視点を「5年」や「10年」に伸ばして「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」の意味を長いスパンでとらえてみることで「今は自分の顔を売る時期」とか「今は給料をもらって 営業の練習をさせてもらっているんだ」とか「今つくっている人脈で5年後独立しよう」とかそういった発想もでてくるようになるということなのです。これは人生にも応用できると思うんですね。「なんでこんな人生なんだ」という「背景」やそんな人生を生きないといけない「意義」が見えてこないからひとはストレスを感じます。それは「今すぐ答えがほしい」と思っているからです。そこでタイムスイッチをいれて「この苦しみは5年後の自分の 何につながっているんだろう?」といったとらえかたをしてみたら「問題が解決していない」という現状は同じでもすぐに答えがほしいと思っていたときと何か違った感じが出てくるような気がするのです。今日ばかりを観ていたら問題は自分の視界に100%映ってますけど「5年の中の1日」というとらえかたをしたら100%の割合が減ってくるような気がするのです。「その問題がすべて」「これが解決しないとどうにもならない」ではなくなってくると思うのです。 「問題が解決できたら楽になれる だから道中苦しいのはしかたない」それもいいですけどこういった「やりかた」も必要に応じて「採用」して同じ答えが出ないなら少しでも道中も楽になるようにしようという歩きかたもあると思うのです。 この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月22日
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みなさま本日もお越しいただきまして光があるから影ができます。光が強く広範囲であるほどいろんなものに影ができます。不安が大きいときもこれと同じで愛が強く広範囲であるひとほどいろんなものに不安を感じます。大きな愛を持つひとほど大きな不安を感じるのです。それは「自分はそれだけの愛(光)を出しているから それだけの不安(影)を感じている」ということなのです。愛のないひとに不安はないのです。ですから不安があることは「いけないこと」ではないのです。「愛と不安はワンセット」なのですから。 愛は「いいもの」 不安は「わるいもの」と分けて『考えて』いる間は不安はなくなりませんがそれだけの不安をつくりだすだけの愛が自分にはあるんだということを自分の中に『感じて』あげれば愛と不安はひとつに溶けていくのです。不安を「なくそう」とすることは同時に愛を「なくそう」とすることでもあるのです。 ~あとがき~大切なのは不安を「なくそう」とすることよりも不安があることが自分の中で「いけないこと」でなくなれば「なくそう」とする必要すらもなくなってくるということなのです。「不安はあっていいのです」そのことを自分に認めてあげることから始まっていきます。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月21日
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みなさま本日もお越しいただきまして今日は古内東子を聴いています最近わかったことはわたしは何も知らないし何もわかっていないということです。それがわかると同時に40年来わたしの中に住み続けていたひとを見下す傲慢な自分がいなくなりつつあることを感じました。うまくいかないのはうまくいくやりかたをやっていないから。このことを素直に受け取れる自分になれつつあります。法則がどうだとかこころのもちかただとか3次元の仕組みがどうだとかそんなことにばかり注視してきたのですが『それらを包みこむ全体』をまったくみていませんでした。理屈を並べる前にひとに会いに行く。それも答えや報酬などの『見返り』を求めに行くのではなくて自分をさらけ出しに行く。それが一番『速い』と思ったんです。今までお金と結びつく才能を持っているひとや普通の親に育てられて人間の基礎となる部分を親にねじ曲げられなかったひとやたとえそうであっても「なにくそ」と思える気質を持ち合わせているひとや救いあげてくれるひとが目の前に現れてくれるひとをずっとうらやましいと思っていました。けど『この自分でやっていくしかないんや』という『スタートライン』にようやく立てた気がします。自分の中に『否定』があったのは『こんなはずじゃない』というのがいつもあったからでけど今の自分がまぎれもない否定しようのない自分なんですよね。「あきらめる」ということばは『明らかに観る』ということばだと聞きますがほんとにそうだと思いました。あきらめることで苦しかったり投げやりになるのならばそれはあきらめではなくて逃げなんですね。本当にあきらめることができたらひとは前向きになれることを知りました。世の中にはうらやましいと思えるひとが腐るほどいますけど自分は自分を生きるしかないということを知りました。そのうらやましいと思うひとが叶えているのは自分の「夢」ではなくて自分の「欲望」であることを。「欲望」を追いかけている間は自分と他人の「差」が気になる。けれども「夢」を追いかけることができたらひとは気にならないということを。自分が「どうなりたい」じゃなくて「どうありたい」をはっきりさせることが大切だということを。 どんな過去があろうともどんな苦しい道のりであろうとも何ができなくて何がなかろうとも自分は『特別』ではない。そこに気づくとひとは『素直』に近づけると思うのです。 この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月19日
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もっと、こうしていればよかった。なんで、あんなことしてしまったんやろう。あのひとことさえ、言わなければ。ほんまに、傷つけてしもたなぁ。なんで、もっとよく考えなかったんやろう。もっと、別のやりかたがあったのに。あ、こう言えばよかったんや。なんで、あのひとはあんなこと言ったの。なんで、あのひとはあんなことしたの。なんで、もっと、こうしてくれなかったん。なんで、もっと早く言ってくれなかったん。自分も、相手もそのときは、そうするしかなかったんよ。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪もう春ですね♪
2008年03月18日
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昨日夢の中で早速カウンセリングをしている自分がでてきました(笑)相手の悩みは許せないひとがいる、きらいなひとがいるなんかそんな感じだったと思うのですがわたしはそのひとに「共に生きていると思ってみてはどうですか?」と言ったのは、はっきりと覚えています。目が覚めて思ったのですがもろに自分が自分に言っていることばですよね(笑)なので今日は夢にでてきたとおりわたしたちは同じ地面の上に立ち同じ空気を吸って同じ風に吹かれ同じ太陽の光をあびて同じように誰かを好きと思い同じように誰かをきらいと思い同じように何かによろこび同じように何かを悲しみ「共に生きている」ということを意識して外を歩いてみました。すると外界からの刺激に対して自分の反応が変わっていることに気づきました。「共に生きている」という「生きている」に注目した立場に立つと「そのひとがどういうひとか」というのはあまり気にならなくなりました。わたしたちは「わたし」という立場に立って「わたしはどう思うのか」を思うこともできますし例えきらいなひとでもそのひとと「共に生きている」という立場に立って「わたしはどう思うのか」を思うこともできます。どちらがいい、わるいではなくてひとが思うことはそのひとが今いる立場で変わってくるものということです。そしてその立場は自分で選ぶことができるということなのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月17日
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今朝起きたら「住吉大社」ということばが出てきたので行こうと思いました。ネットで調べたら往復の電車賃が1280円。昨日は神戸総合福祉展にConaさんの応援に行ったので所持金は1000円。さてどうしたもんかと思っていたらこの前出版社に原稿を送ったときに向こうから送ってきた500円の図書カードがあるのを思い出しそれを親に買いとってもらって行ってきました。住吉大社は初めて行ったのですがものすごく歴史のある神社でした。しかし土地そのもののエネルギーはさほど感じませんでした。地形をみると地脈を南海電車の線路がちょうど直角に横切っていたのと敷地が広くところどころ鳥居もなく外とつながっていたのでそのせいかもしれません。けど木はすばらしかったです。樹齢1000年クラスのクスノキさんが4本もありました。最初の1本に手をあてているときおひさまがちょうど自分を照らし始めてその両方を感じていたら急に泣けてきまして。すぐにおさまるかなと思っていたらやばかったので横のトイレの近くに人通りのないビニールに入れた落ち葉を積み上げたゴミ捨て場があったのでそのゴミの山に向かって声をあげて泣いていました(笑)鼻水がでてきたので手鼻をかんだら(笑)鼻血がでてきて(笑)よっぽどエネルギーが強かったんやなと思いました。悲しくもないのに泣けるというのは自分の本当の声と出会えたときに起こりやすいのですが何の声を出会ったのかよくよく思いだしてみると「デビュー」ということばと出会って泣けてきたみたいなのでした。なので住吉大社でデビューすることにしました。肩書きは神社カウンセラーベタなネーミングなんですが自分のスタイルというものをみてみたら部屋の中で話しするよりも屋外でからだを動かしてもらってなおかつ土地や木のエネルギーに手伝ってもらいながら殻にヒビを入れてそのヒビから本人さんに殻の中をのぞいてもらうのを最小限のことばで補完していく。このやりかたが私にとって一番しっくりくるやりかたやなと思ったんです。雨の日はどうすんねん?というのは何も考えてないのですが(笑)けどこれやったら神社カウンセラーよりももっと別の肩書のほうがええんかな?エネルギーカウンセラー神社ヒーラー神社セラピストう~ん。セラピストちゅうのもどういうひとを指すのかよー知らんのに使うのもなぁ。まわからないときはひとに聴けですからそのうちどこかにおちつくでしょう。まとにかく今月中にはデビューします。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月16日
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今のわたしにはこれがある。これができる。これがわかる。その自分だから「こそ」できることって何だろう?その「こと」が好ききらい得意不得意はとりあえずおいといて。それを今みつめなおしています。それは「正解」ではないけど「とっかかり」にはなると思うんです。だから行動を起こす前の「なるべく失敗したくないから」という動機でみつめているわけじゃないんです。成功法則を覚え実行しようとしていた私は成功したいんじゃなくて「失敗したくないから」というのが「本音」で成功法則にしがみついていたから結果がでなかったんです。自分の中のこのからくりに気づけなかったんです。けれども「失敗したくない」という思いは「成功」していたわけです。それは未知の分野に踏み込まないという行動を起こすことで。つまり新たなアクションを何も起こさなかったら失敗したくても失敗のしようがないからです。だから動けなかったのではなく動かなかったのですね。その動かない自分を無意識に認めたくない自分が「お金がないから」「○○がこうだから」といった理由を探してきて動かない自分じゃなくてこうだからしかたなく動けない自分なんだと自分に言い聞かせていたわけです。そしてわたしはそのいいわけを探してくる自分にまんまとだまされていたわけです。とりあえず「自分なりに」動いてみないと失敗することさえできないということにやっと気づけたんですね。私が今いる何も起こらない場所は「安定」ではなく「停滞」だったんです。お金がなくて腹が減ったら山に木の実を取りにいけばいいわけです。その場に立って「ツイテル ツイテル」と何万回言ってもお腹はふくれないんです。こんな簡単なこともわからない自分になってしまっていたんですね。ホームレスのときはちゃんとできていたのに。動きます。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月15日
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花粉飛んでますよね~クシャミが止まりましぇ~んさて本題!こころおだやかに。「こっちの事情も知らないで」と思うようなことばをあなたの過去や生い立ちをまったく無視してあなたの一面だけをみて投げかけてくるひとがいます。そこで反論をしたり怒りを覚える自分に正直でいることも大切です。しかしそれは最初のステップなのです。それをやり終えたその次には「反論したい」「怒りたい」と思う自分が相手のことばの何に反応しているのか?を探す段階に入っていきます。その反応している自分とは「そうじゃないんだよ、こうなんだよ。 わかって」と言っている自分です。けれども誰もあなたの過去は体験していませんから誰にもわかってもらえるはずがありません。つまり他人に自分を完全に理解してもらうことなんて不可能なんです。そして「そうじゃないんだよ、こうなんだよ。 わかって」ということばは自分が自分に向かって言っていることばなんです。あなたを理解しないことばを投げかけてくるひとというのはそれに気づく「きっかけ」なんです。あなたを理解しないことばを投げかけてくるひとというのはあなたの本当の声の代弁者なのです。この先あなたにいろんなことばをなげかけてくるひとが現れてくると思います。それによって深く傷つけられたり深く感情を揺さぶられることでしょう。そこで怒りたかったら怒ってもいいし相手を責めたかったら責めてもいい。しかしそれはいずれはそんなことを言ってくる相手さえもこころおだやかにまるごと受け入れる自分になるための欠かせないステップのひとつであるということを頭の片隅に置いておいてほしいのです。ひとのことばにゆれない自分になるには「なぜそれをしているのか?」その確認を自分にはっきりととってやっている自分でいることです。あなたはあなたのやりたいと思ったことをやるために生きているのであって正解をやるために生きているのではないのです。苦しい人生 = 間違いではないのです。たまたまそれを「苦しい」と受け止める自分がいるだけでそれを「苦しい」と受け止めることを続けるかやめるかの選択があるだけであなたのこれまでの道のりは正しい、間違いで計れるようなチンケなものではないのです。大成功者が生きることもあなたが生きることもひとひとりが生きるということにおいては同じなのです。おなじ命を抱えて生きているのです。大切なのはあなたと他人にどれだけの差があるかということではありません。あなたがあなたをどれだけ大切に扱うかなのです。自分を大切にできないのに文句だけ言うのはちょっとピントがずれているのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月13日
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なんかのどとあたまが痛くて風邪みたいですといってもそんなにひどくはないのでほったらかしにしてます最近思うんはねー人生も商売も太陽を真似したらいいということです。太陽は光を「出して」いるんじゃないんですよね。太陽から光が「あふれて」いるだけなんですよね。そーゆーことなんですわー話しは変わりますけど「こころの影」ちゅうのも光が「自分の外側」にあるからできるわけですわ。だから内側から自分そのものが光ってしまえば影は、できようがないんですわさて本題!苦しいときは『もうこれ以上、 わたしは、わたしを見捨てない』このことを選択するだけでいいのです。自分にそっと寄り添い自分を受け止めてあげてください。できる、できないを気にする前に「そうする」と決めてしまうことが大切なのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪私が昔作っていたポストカードです。
2008年03月12日
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実は私楽天での日記はここが3つめでして最初のひとつめは女性にふられて自暴自棄になって消して2つめは姉に不義理をかまして「けじめ」の意味で消しまして2つめのときはセミナーやイベントの企画とかいろいろと活動してまして20万アクセスを超える結構人気どころだったんですよ。こんなこともしてましたしなんかねーこの3つめおりこうさんなことばかり書いていて「ちょっと違うなー」というのがでてきたのでまた新しいスタイルを模索したいなぁと思っています。さて本題!昨日も書きましたけど私たちは「今」にしか存在することはできませんから「ありのまま」の自分って「今のまま」の自分ってことなんです。つまりありのままに生きるって今のままの自分に気づくということなんです。今の私はこれが好き。これがきらい。これができる。これができない。こんな性格。こんな考えかた。などなど・・・そういった今の自分の「まま」を丁寧に自分で自分に確認をとってそれをそのまま認めそこにいい、わるいの評価を一切つけ加えないそれがありのままに生きるということです。それが一番楽な生き方だと私は思います。なぜ生きるのが苦しいのかというと今のままの自分に「このままではダメ」とダメ出ししているのはこの広い宇宙の中で「自分たったひとりだけ」ということに気づいていないからです。だから自分が自分にダメ出しすることさえやめたら生きるのは苦しくなくなるのです。でもそう簡単にやめることなんてできないですよね。そう思わざるをえないいろんな過去があったのですから。だからね苦しいからといって無理に自分を認めようとか無理に自分を好きになる必要なんかどこにもないんです。なぜなら私は私をきらい!私は私を認められない!そう思っているのが今のままの自分なんだと認めてしまえばそれでもうありのままに生きていることになるからです。ありのままに生きるって正解で生きること正しい自分で生きること理想の自分で生きることではないのです。どんなになさけなくてはずかしくってみっともない自分でもその自分から目をそらさないで生きるということなんです。どんな自分でも目をそらさない。それが本当に強いってことなんです。で「本当に強い」ってことは「本当にやさしい」ってことなんです。ですから自分に目をそらしたくなるところが多ければ多いひとほど本当のやさしさに気づくチャンスを誰よりも多く与えられている愛されているひとなのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪離婚して、自己破産して、ホームレスになってそのうえ、こんなアホなことしてる奴でも宇宙は生きることを、許してくれているわけですわ。どんなに「いやや~!!」と思っても死ぬまでは生きんとしゃーないわけですわ。そやから「生きてさえいれば、そのうち何かある」と思っていたほうが、楽なんですわ♪
2008年03月11日
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今日はトイレのノブが壊れかかっている我が家にケアマネージャーが来たのです91歳のじいちゃんの介護認定の件で。ケアマネの人と私を含めた親戚3人の4人がかりでの「デイケアに通いませんか?」とのお誘いに「わしはどこもわるくない!」「近所の○○さんは リハビリに通って わしより早く死んだぞ~」と一同あっさり撃沈後日に日を改めることにしました~さて本題!最近の私のところに来るメッセージは「すべては変わり続ける」というものです。そうなんですよね。これを読んでいる間にも瞬間、瞬間にすべては変わっていっているんですよね。だから本当は「何も固定できない」のですよね。「自分とはこうだ」とも「こうなればしあわせだ」とも。瞬間、瞬間ですべてが変わり続けるということはこの世はパラパラマンガのように「今という瞬間の連続」で成り立っているのであって過去というものは今と記憶との比較未来というものは今と想像との比較であってすべて今が基準になっているんですよね。手にふれることのできる現実は今にしかないんですよね。「自分とはこうだ」「こうなればしあわせだ」それを決めたのは過去の自分なんですよね。だからその思いを固定しないで今を新たにみつめなおしていかないと今にいながら過去に生きることになるんですよね。そして自分が過去に生き続ける限り同じことの繰り返しになってしまうんですよね。瞬間、瞬間ですべてが変わり続けるこの世の中で「自分とはこうだ」「こうなればしあわせだ」と固定しようとする行為こそ一番世の中に抵抗する行為なんですよね。抵抗しているから苦しいんですよね。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月10日
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今日2本目。妹尾榮聖さんのメルマガに(まぐまぐID:0000110436)こんなことが書いてありました。全ての人は幸せになることを求めています。これは、国や文化、宗教や習慣に関係なく、全ての人が持っているおさえがたい欲求ですね。 何故なら…。人間はそもそも、幸せに生きる存在だから。それが本来の姿だから、その姿に戻ることを心から渇望してしまうのです。 これは故郷を離れた人間が、故郷を慕うのと同じ理屈ですね。そして、海外など故郷から離れていれば離れているほど、その慕う気持ちが強くなるように…。本来あるべき姿とかけ離れているとするなら、幸せを求める欲求は強烈に強くなるものなのです。幸せに生きるのが、本来あるべき姿だということは…。そもそも人間は、幸せな成功をするための力を持っているということです。魚が「泳げるだろうか?」と悩むでしょうか?鳥が「飛べるかなぁ…」と不安になるでしょうか?虎が「自分に狩なんてできるだろうか?」と考えるでしょうか? そんなこと考えませんよね。だって、それが本来あるべき姿だからです。 普通に自分が持っている力を引き出せば、当たり前にできるんですから、考えることも悩むことも無いのです。 これが分かれば…。もし現在、あなたが幸せな成功をすることができていないと感じているとするなら、「それは力を引き出すことができてないからに過ぎない」ということが分かりますよね。引用終わり。『本来あるべき姿と かけ離れているから しあわせを求める欲求が強くなる』この「本来あるべき姿とかけ離れている」というのはしあわせに生きていないということの他に「こころとからだが、かけ離れている」ということでもあると思うんです。つまり考えることにばかり注目してからだが感じていることを無視して生きている状態です。だから私はいくら「頭」で自分のやりたいことを自分にたずねても答えが得られなかったわけです。今日はこのことをチキンいぢめが好きな姉(笑)から教えていただきました。姉が教えてくれた篠さんのブログ↓癒しは手から私はたまに原因不明で右の金玉が痛くなるのですがそれも「からだに意識を向けてないよ」という「からだからのサイン」だとわかりました。あまりにもからだを無視しているから「痛み」で注目するようにしむけてくれていたわけです。人生で大切なことは右の金玉が教えてくれた。新しい本のタイトルにしようか迷っているところです。迷う以前の問題やろ!と思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月10日
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私の長年の疑問に「なぜここまで気づいても この現実なのか?」というのがあったんですがなんとなくわかってきました。それは『ものごとを 自分の気持ちが よくなる見方で 見ているか?』これができてないからなんだなということです。結局いくら気づきを積み重ねてもものごとを気持ち良くない見方(自分が気持ちよくなくなるとらえかた)で見ていたら出力がマイナスになるということです。それは「見返りを求める自分」にもあてはまります。私には「物質的に豊かになるには まず、こころが豊かでないといけない」という知識があります。だから感謝「しよう」としていました。けれども感謝とは意図して「する」ものではなく気がついたら「感じて」いるものです。感謝「しなければ」と思う自分は本音は感謝を感じていないから「しなければ」と思うわけでそれは逆に自分に目に見えないストレスをためることになり結果これも出力がマイナスになるということです。豊かになれる「から」感謝しよう。金運がよくなる「から」トイレ掃除をしよう。ぜんぶ見返りを求めて起こしている行動でだから見返りがないと判断したときぜんぶ投げ出してしまう。これが私の「パターン」でした。見返りがないと判断するとそれまでやってきたことの価値を一瞬でゼロと感じる極端な自分がいる。損か得かでしか判断できない。それは「あせり」と「もうこれ以上傷つきたくない」の裏返しだったと思います。結局今の自分が満たされていないから見返りが必要になってくるんですよね。だから自分の純粋な「ただやりたいからする」でなかなか行動が起こせない。けれども自分が満たされるのはやりたいことをやっているときだからどこかでやりたいことをやっちゃわないと見返りを求めて行動を起こしてしまうスパイラルからは抜け出せない。しあわせになれる「から」それを始めようとするのではなくやりたいことを始める中にしあわせはあるような気がします。しあわせになれる「から」だとそれが達成できるまでしあわせは感じにくいけどやりたいことをやっていると過程からしあわせでその過程がしあわせということが結果としてのしあわせも呼ぶことになるのかなと思います。今まで自分が大きく変われる結果にばかり執着してきましたけど日々何を感じているかの積み重ねなんだなということがようやくわかるようになってきました。しゃれにならんくらいの遠回りでしたけど(笑)この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月10日
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今日マイカル茨木にかけうどんを食べに行ったらミニコンサートのようなものをやってました。CHH(Cooley High Harmony)という男性4人組のコーラスグループでした。4月23日にメジャーデビューするそうです。今が一番ワクワクドキドキする時期やろうなぁと思いながらみていました。彼らは自分の内なる「これがやりたい」という声に出会えたからそのワクワクドキドキを体験できるわけですがいくらたずねても自分の内なる「これがやりたい」という声に出会えなかった私はとうとう40になってしまいました。さてどうしましょうという感じです。とある離婚を繰り返す女性がいました。なぜそうも離婚を繰り返すのかその女性の心の深いところを探ってみたら「父親への復讐」が動機であることがわかりました。本人にはその「自覚」がなかったのですが無意識の彼女は離婚を繰り返すことで父親を困らし父親に復讐していたみたいです。その復讐の種は気に入らない名前を父親からつけられたからということだったみたいです。これは超有名なプロ野球選手の娘さんの実話です。これと同じで40になってもこんな現実の中しか生きられないということはまだ行動を起こす動機に「何かへの復讐」が私の無意識の中に含まれているのかなぁ?と思ったりもします。金さえあれば魂の専門家に話しを聴きにいくこともできるんですけど金がないことも含めて自分の人生ですから誰にも文句は言えるはずもなくかといって自分で自分の心を処理するのももう限界が見えてきてますんでどうしたもんかなぁと思いながらだらだらとしている毎日です。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月09日
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理想は毎日会うひとでも今日初めて会うひとのように接する自分でいられることです。むずかしいことではありますけれども。人生をつまらなくする一番簡単な方法は「自分はわかっている」という立場から世の中や自分の人生をみることです。「わかった」と思ってしまうとそこで追及をやめてしまうのがひとの常です。しかしそれは「自分の今の段階」での「わかった」で最終的な「わかった」は死ぬまで生きてもたどりつけないものです。「わかった」からといって自分が完成するわけでもすべてが解決するわけでもなくただその段階においてある特定のことがわかった自分がいるだけです。「わかった」と思うことは自己満足も得られますけどそう思うことで「自分の立場(視点)を固定してしまう」というリスクも同時に含んでいるということも念頭においておかないと自分が「わかって」いるのかそれとも「わかったつもり」になっているのかの見極めさえもつかない自分になってしまうのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月08日
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あまりいい例えではないのですが根本的なことをものすごくおおざっぱに言うと生きるのが苦しいと感じるひとは生まれてから今日までの出来事を「よかった」「よくない」「いい」 「わるい」「好む」 「好まない」などと「分類」する生きかたを選んでいるひとだと言えると思います。そしてそこを卒業したひとというのは生まれてから今日までの出来事は分けることのできないひとつのかたまりつまりぜんぶでひとつということに納得のいったひとだと思うのです。この石はこのかたちで存在しているだけでそこに「正しい」も 「間違い」もつけようがないですよね。「この石の正しいかたち」なんてないですよね。この石も自分も同じなんです。自分も生まれてから今日までの出来事がぜんぶ集まってできたひとつの石でそこにも「この石の正しいかたち」なんてないですよね。宇宙でたったひとつしかない石の「正しいかたち」なんて決めようがないじゃないですか。このように自分という石がそのかたちで存在しているということに正しい、間違いがつけられない以上その石をつくっている生まれてから今日までの出来事にも正しい、間違いはつけようがないじゃないですか。つまり生まれてから今日までの出来事をいい、わるいと分類することは心臓はいい肺はわるい右手は正しい左足は間違いと言っているのと同じことなんです。ぜんぶあって今の自分なんです。過去の出来事が自分を苦しめているのではなく過去を分ける自分が自分を苦しめているのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月05日
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今日名前の知らない木に手をあてていてわかったことがありました。それは愛「する」ことはできないということです。愛は「する」ものでも「される」ものでもなくてただ、そこにあるだけのもの。愛は「行為」ではなく「存在する流れ」ということだと私は思ったんですね。愛は「特別なもの」ではなく空気と一緒でどこにでもあるものだと。愛「している」のではなく愛「されている」のではなく空気と同じように自分の周りのすぐそこにある愛を相手をきっかけとしてそのときの自分が感じているだけで人が地球を包む空気をコントロールできないように愛も「する」とか「される」とかコントロールできないということがわかったんです。「すき」とか「きらい」とかの「感情」は自分でコントロールできます。でも愛は空気と同じでその存在を感じることしかできないのです。つまり「自分が」感じるか、感じないかだけでそこに相手が何をしているかは関係ないわけです。相手の行為で自分の感じるものが決められるのならばそこで感じているものは「愛」ではなく「愛情」という「感情」なのです。「愛情」で相手と接していると「もっとこうしてほしい」という「期待」が生まれその期待が満たされない限り自分のこころが満たされることはありません。しかし愛は自分が感じることができたらそれで満たされる自己完結のものなのです。~裏話~実はこの名前の知らない木に先日も会ってましてそのときぐだぐだに落ちこんでいて「愛とは何ですか?」と質問していたんですね。今日は質問したことすら忘れて会っていたんですけどこれ書いていて「そういや質問していたな」ということを思い出しました。こっちは質問したことすら忘れているのにきっちり答えを返してもらってなんかねことばにできない気持ちで満たされています。「自然」はどんな人でも「無条件」でおつきあいしてくれます。人に会うのが苦手でひとりでは処理しきれない深い深いこころの傷があっても自然にふれて無条件に受け入れてもらう体験を重ねることで「信頼するこころ」を取り戻すこともできるのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月04日
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バランスというものはとても大切だと思います。「気づき」も大切ですけどそれと同時に「行動」を起こしているということもとても大切です。自分が部屋から出るには実際に自分が歩くしかなく部屋の中でいくらこころを変えても部屋から出ることはできないのです。どんなにすばらしい気づきを得ても自分のからだを動かさなければ部屋から出ることすらもできないのです。現実は行動の繰り返し(習慣)によってつくられていきます。気づきはその行動を変えるために存在します。ですから気づいた感動で満足しないで「その気づきは 自分のどんな行動(習慣)を変えるために 得たものなのだろう?」と自分の行動(習慣)をみつめなおし新たな気づきで新たな習慣をつくっていくことで初めて本当の意味で「気づいた」となるのだと思うのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月03日
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「明日から1週間 お金は全部こっちが出すから 後のことは心配しないで 好きなところへ旅行に行っておいでよ」そう言われたらあなたならどこに旅行に行きますか?そのとき頭に思い浮かんだ旅行の行き先。そこを自分が選んだ理由は何なのでしょう?「何のために」あなたはそこへ行きたいと思ったのでしょう?その「何のために」がたとえば「ゆっくりするため」だったとします。そしたらゆっくりすることを達成できる場所が「行き先」になります。たとえば温泉地なんかですね。このように「ゆっくりしたい」つまり「自分はどうしたいのか?」が 最初に自分でわかっているから「温泉地に行く」つまり「ゆっくりするためには 自分はどうあればいいのか?」を 選択できるようになります。その行き先が決まって初めて電車、車、飛行機などの「交通手段」つまり「ありたい自分にたどりつく手段」を決めることができるようになります。つまり自分の中で「こうしたい」という「理由」とそれを実現するための「行き先」がはっきりしていないとどれだけお金がいる?誰とつながればいい?どんなセミナーに出たらいい?どんな本を読んだらいい?どんな資格を取ればいい?どんな情報を集めたらいい?といった「交通手段」は選びようがないわけです。選びようがないものを有名な先生だから。売れている本だから。有望と言われている資格だから。手軽にお金が稼げそうだから。ここに「答え」がありそうだから。とついつい「とりあえず」選んでしまってはいないでしょうか?何かしていないと自分が取り残されていくようで。しかしキツイ言い方ですが行き先の決まっていない旅行の交通手段を探すよりかは行き先を決めるために「自分はどうしたいのか?」をまず、探したほうがいいと思うんです。それがわからなければ「自分はどうしたいのか?」をわかりながら生きている人に会いに行けばいいわけです。では「自分はどうしたいのか?」をわかりながら生きている人に会うためにはどうしたらいいのか?ここで必要になってくるのが「交通手段」なんです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月02日
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今日は「脳の仕組み」という側面から書きたいと思います。人間の脳というのは得するときのうれしさよりも損したときの悔しさをはるかに大きく感じるようにつくられています。それは言い換えると目の前の出来事を過大評価し将来の出来事を過小評価する傾向が人間には普遍的に存在するということです。同じ、1万円でも今すぐ手に入る1万円と1年後に手に入る1万円とではどちらの「価値感」が自分にとって大きいでしょうか?逆に今すぐ払わないといけない1万円と1年後に払わないといけない1万円とではどちらの「損失感」が自分にとって大きいでしょうか?人が過去を悔み続けたり借金してバクチをしたりいやなことをつい、先のばしにしてしまう原因のひとつに脳の仕組みそのものが深く関係しているということがこの例えからなんとなくわかっていただけたでしょうか。 これはかつて私たちが狩猟生活をしていたことに原因があります。そのときの私たちは出会った獲物を即座にとらえないと次に、いつ獲物に出会えるかその保障はまったくありませんから出会った獲物をとり逃がすということは死に直結します。それが「目の前の出来事を過大評価する」というかたちで現代の脳に受け継がれています。そして次に、いつ獲物に出会えるか未来に保障がないということが「将来の出来事を過小評価する」というかたちで現代の脳に受け継がれています。そしてその当時は食糧の保存技術がありませんでしたから腐らせてしまうほど獲物はとらえません。それはとらえた獲物を誰かに盗まれ(奪われ)たら死に直結するということでもありました。それが「得するときのうれしさよりも 損したときの悔しさを はるかに大きく感じる」というかたちで現代の脳に受け継がれています。このように私たちの脳は狩猟生活時代という過程を経て「現在」と「未来」との間に「獲得」と「喪失」との間に心理的な歪みを持つ脳の仕組みをつくりあげてしまいました。そして現代においても私たちの意思決定はこの歪みに大きく支配され続けているのです。それは狩猟生活から現代へと社会が大きく変わっても脳の仕組みだけはそのまま残っているからです。ここに注意しないといけないのです。つまり私たちが過去を悔み続けたり何らかの不安にとらわれているときもともと脳がそういう仕組みになっているから仕方のない部分もあるということなのです。けれどもそこで大切なのはその脳の仕組みは「生きるか死ぬかの状況でつくられた」ということです。つまり自分が死に直面していない状況でその後悔や不安を感じている場合「私たちの持つ脳の仕組みが 過剰に反応して 不安や後悔を脳の中につくっているだけで 目の前の現実の中には 不安や後悔はどこにも存在しないやん」と客観的に観ることで冷静さを取り戻すことができるようになるのです。そこから「それは本当に後悔しないといけないことなのか?」それとも「脳が後悔したがっているだけなのか?」「それは本当に不安に思わないといけないことなのか?」それとも「脳が不安に思いたがっているだけなのか?」と自分をながめながら「本当は自分はどうしていたいの?」と自分にたずねていけばいいのです。すぐに答えは返ってこなくとも。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年03月01日
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