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夜の空を見上げた地球ができて今日までのあいだいったい、どれだけのひとがどれだけの想いを胸に空を見上げてきたのだろうふとそんなことを思ったわたしたちの一生は星のまばたきにも満たない長さでその中で泣いたり笑ったり憎んだり信じたり裏切ったり迷ったり悩んだりいろんな自分を生きていくそれでいいんじゃないのかなと最近思うどんなに時代が変わっても空を見上げるひとのこころは変わらないような気がする完璧絶対正しいそれらにすがると安心できるけどこのあまりにも短い旅は安心を求めるために始めた旅じゃなかったことが最近ようやくわかってきたもっとわたしたちは自分というものを楽しまないといけない「怖い」という感情はこの旅をさらに楽しむためにみずからがつくりだした「演出」ということに気づかないといけない「怖い」と感じる自分はいるけれど「怖いこと」はどこにもないのだわたしたちの周りには愛しか存在しないのだだからもっと自分を周りを信頼していい空気や電波と同じで目に見えないものは見えないだけであって無いわけではないだから目にみえるものだけを観て聴こえてくるものだけを聴いて判断をしてはいけないその現実に隠された目に見えないメッセージを感じとるのだショックな出来事とは今まで積み上げてきた自分を壊すために訪れるのだ古いビルを残したままその土地に新しいビルを建てることなどできないのだ変わることは怖いことではない変わることは怖いことではない変わることは怖いことではないそれはとても自然なこと感じるものにひらめくものにただ身をゆだねて動いていけばいい他人に気をつかう前にもっと自分に気をつかってほしい偉そうに書いてますけど自分に向けて書いてますんでご容赦ください♪今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月29日
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山川亜希子さんのお話しを聴いてきました。シャーリー・マクレーンの「アウト・オン・アリム」にご主人が出会ってご主人が「この本を翻訳したい」と言いだしてから夫婦の運命が大きく動きだしたお話しから始りいろんな本の裏話が聴けました。見た印象は「芯の通ったお嬢様」という感じでした。お嬢様の気品を持ちながらふわふわしたとこがなくすーっときれいにグラウンディングを自然体でされていました。外見の見た目で感じるそれではなく「存在が美しい」のです。山川さんはチャネラーでした。本人も「翻訳はチャネリング」とおっしゃってました。よく、自動書記でいろんなアドバイスをもらうとおっしゃってましたけどそれは誰にもできることで「自分を信頼することで つながるパイプを太くすればいい」とおっしゃってました。「信頼すること」「許すこと」「興味のあるものはやってみる。 それが、ひょんなところから 本当にすべきことにつながっていく」「からだの声を聴くこと」山川さんのお話しを聴いていてやっぱり「ルート」が違うだけでたどりつく場所はここなんやなぁと思っていました。驚いたのは「なまけもののさとりかた」を翻訳したのが山川さんだと聞いたときでした。金沢でホームレスをしていたとき古本屋で100円で買ったこの本を兼六園で読んでいたときのことを思いだしました。そのときはあまりよくわからなかったのですが今読み返してみるとまた違うんだろうなとまた読みたくなりました。山川さんご自身の著書「宇宙で唯一の自分を大切にする方法」も生活が安定しだしてから古本屋で100円で買って読んでたことも思いだし少なからず縁のあるひとなんやなぁと思っていました。やっぱり自分とつながることが最優先なんですよね。それをおろそかにしていると「答えは外にある」という錯覚から抜け出せないんですよね。結果どうなるかはわからないけど興味のあるものに1歩踏み出してみる。それをしないで効率よく、何の失敗もしないでいきなり天命に出会おうとしても出会えないと思うんですね。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月29日
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昨日は何の脈絡もなく突然じいちゃんが「背広を買いに行け」とお金をくれたので梅田の大丸に背広を買いに行ってました。なんで突然そんなことを言いだしたのだろう?それが不思議でなりませんでした。ひょっとしたらわたしは背広を着てする仕事をする方向に進めと見えない力から言われているのでしょうか?背広のすそ上げを待つ時間映画を観に行きました。クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者です。監督が、ムトウユージから本郷みつるに戻ってかなり期待して行ったんですけどしんちゃん映画史上、最悪の作品でした。ぜんぜん、作る側が楽しんでいない。このままでは、原 恵一監督がカムバックしてくれない限りしんちゃん映画は、なくなるかもしれません。わたしは、めったに劇場に行かないのですが十数年ぶりに行ったMI:3もはずれでしたし今回もはずれでしたしなんか劇場で観ようと思う映画ははずれの確立が高いです。
2008年04月27日
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「認めてほしい!」まだいましたね。そう思っているわたしが。わたしのことを認めるか、認めないか決めるのは相手の自由なのに「なんで認めてくれないんだ!」とプンプン怒っているわたしがわたしの中にまだいました。こどもですね(笑)「認められない自分は価値がない」まだ、その縛りがわたしはきついみたいです。だから「自分は価値がない」というわたしの思いを証明するために認められないという現実を自分で引き寄せているとも言えます。あとはそのポジションに居続けるのか別のポジションに移る決意をするのかの選択があるだけです。結局は自分で自分を認められないから他人から認めてもらうことでその穴埋めをしようとしているだけで「なぜ自分で自分を認められないのか?」というところに意識をもっていかないといけないんですけどそこに目を向けようとせず「ただ甘えたい」を求めるわたしが根強くいます。人間の基礎を形成する幼少期に怒鳴られるとか叩かれるとかそういった記憶しかなく学校でも社会でもありのままのわたしを見ようとしてくれるひとがいなかったのでしかたがないといえばしかたがないんですけど。けどそれも言い訳にならず「じゃ、これからどうするのか?」がいつもあるだけで。しかたがないと思えるようなことでも実はぜんぶ自分で用意していたが人生のからくりですから。けどどんな正しいことばよりだまってギュッと抱きしめてほしいそれを求めちゃいけないんかなぁと思ったりもします。けどねぇ自分で書いててキツイんですけど抱きしめてくれるひとが現れないというのも自分が望んでいる現実なんですよね。つまり「頭」では「抱きしめてほしい」と思っているわけですけど潜在意識の中でそれより「優先順位の高い思い」があるからそれが優先されて現実になっているわけです。たとえば「ひとに甘えちゃいけない」とか「依存することはいけない」とか「わたしを抱きしめてくれるひとなんていない」とか。それが何なのか今のわたしではまだ自分に確認が取れていない状態なんですけど。ほんとねぜんぶ自分がつくった「この現実」なんです。納得いく、いかないは関係なしに。だから今まで自分を守るために採用してきた縛りをひとつずつひとつずつ時間をかけて解き放つ作業が待っているわけです。けど潜在意識の中の縛りというのは透明なフィルムみたいなもんですからなかなか気づけないのがやっかいなとこなんですね。けど「それが今の自分」と認めてしまわない限りはいつまでもスタートが切れないわけです。生まれてから肉体が始まるスタートと本当の自分が発動するスタートと2種類のスタートが人生にはあるわけです。けど人生は理屈じゃなくて「生きる」ということですからわたしも考えてばっかりの自分から少しずつ動いていこうとしています。結構自分の気づきやひとを見抜く力には自信あったんですけどそれも思いこみでひとがお金を払ってまで求めるレベルのものではないということがわかってカウンセリングやヒーリングやカードリーディングや数秘は趣味にしようと思っています。これからは石鹸や味噌や漬物をつくって片田舎の食堂のおやぢでもっと「リアルな世界」に向き合っていく時期に入っていくのだと思います。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月25日
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生きてるのが楽しくないと感じているとき同じことの繰り返しになってしまっていることがあります。生活がパターン化してしまっているとでも言いましょうか。そんなとき自分を否定してしまいがちですけどこれにも意味があるんですね。それは同じことを繰り返すとひとは自分の中の違和感に敏感になれるんですね。つまり次にクリアしないといけない自分の課題が自分で認識しやすくなるということです。人生には「いいとき」と「わるいとき」とがあるように思えますけどこのように「いいとき」と「もうひとつ上のいいときに行くための準備のとき」があるだけなんです。この「準備のとき」を「わるいとき」と目をそむけてしまうと次にクリアしないといけない自分の課題にも目をそむけることになってしまいその課題に気づけるまで「わるいとき」が続くことになる仕組みになっているわけです。楽しい「こと」があるわけではないんですね。その「こと」を「楽しいと感じている自分」「楽しいと感じていない自分」がいるだけなんですね。すべて自分の受け取り方次第なんです。人生で求められているのは正しい自分でもいいことをする自分でもなくなんでも楽しめる自分になることなんです。「いい自分」「わるい自分」「正しい自分」「間違ってる自分」「好きな自分」「嫌いな自分」2つの相反する自分を交互に生きながらやがてどちらの自分も「認め」その「真ん中の自分」で生きることがなんでも楽しめる自分になることなんです。 ~おまけ~ありがとうこの日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月24日
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キャ~!!!念願の包丁買っちゃいました~♪堺一文字光秀造 青鋼 紋鍛錬 本霞 出刃包丁210mm世果福(よがふく)の名も入れてもらいました♪この包丁は青鋼の中でも青二鋼より固い青一鋼を使っている極上品。お値段もデンジャラスです~~(爆)わたしは今まで100均で買った包丁を使っていたんですけどやっぱり切れないんですね。で今だから言えることなんですけど思ったように切れないと無意識にストレスがたまるんですね。けれども「使えないわけではないから」と自分の中の微妙な不快感をほおっておくとそれが、他の現実に微妙に影響してくるんですね。ぜんぶ、つながっていますから。「今、何を感じているか?」が未来をつくる種になりますから。わたしが現段階で到達しているところは毎日を自分がここちよく感じられるように工夫をこらすことはおこたってはいけないということです。つまりわたしが今回こんなデンジャラスな値段の包丁を買ったのもスパスパ、サクサク切れることで「自分がここちよくなるから」です。包丁は自分がここちよくなるための「手段」で包丁にかけたお金は自分が心地よさを感じるために投資したお金なんです。だから道具を買うときはそれが「毎日」使うものであればなおさら値段ではなくて「それを使うことで自分のこころの中に何が残るか?」そこを大切にして自分がここちよくなるものならばときにはふんぱつすることが自分を大切にすることだと思うんですね。それに、いいものは長く使えますから長い目でトータルで見たら結局はそんなに高くはないと思いますし高い道具は大切に扱いますからその姿勢が他のものを大切に扱うことにもつながっていくと思うんですね。だから、金額以上のメリットって結構あると思うんですよ。それに自分が本当に気に入った道具はそれを持ってながめているだけでもいい気分になれると思うんですね。だから「ブランド」とか関係なしに自分がそれをお店で観た瞬間の「いい!」「好き!」という直感で選ぶのが大切だと思うんです。わたしも本当は今日、包丁買うつもりなんてなかったんですけどたまたま通りかかったお店でこの包丁を持ってみてその持ちごこちに感動して衝動買いしちゃったんですね。ま、料理のお仕事を始めるというのもあったんですけど。けど何て言うんでしょう。今だから言えることですが『出会ったときがアクションを起こすとき』そういうふうに巧妙に仕組まれているのが人生ではないかと思えるのです。 ★うんちくコ~ナ~★『なぜ、包丁と言うのか?』これは中国戦国時代の思想家荘子の養生主篇 第三に出てくる文恵君曰善哉吾聞庖丁之言得養生焉から来ています。「庖」は料理人のことで「丁」は人名です。 つまり包丁は、もともと庖丁と書き「料理人の丁さん」という意味です。で料理人の丁さんが文恵君のために牛を捌いた時その鮮やかな技を誉めると料理人の丁さんは 腕のよい料理人でも1年ごとに刀を取り替えますがそれは筋のあるところを切り裂くことがあるためです。普通の料理人は1ヶ月ごとに刀を取り替えますがそれは骨を無理に切って刀を折るからです。ところが私の刀は、今は19年になり、料理した牛は数千頭ですが砥石からおろしたてのように刃こぼれひとつありません。もともと骨の筋と筋の間には隙間があり刀の刃には厚みがありません。厚みのないものを隙間のあるところへ入れるのですから広々としていて、刀を使いこなすのに充分なゆとりがあります。だから19年使い続けても研ぎたてのようなのです。と答え、それを聞いた文恵君は 「善いことを聞いた、養生(正しい生き方)を会得した」 と喜んだそうです。 このお話から「包丁」ということばが出来上がりました。 ~おまけ~追及しているのは古い傷を癒すことであって新しい傷を創造することではない。どうか背伸びをしないでもらいたい!失敗は必要なのだ!つまづくのは、あたりまえなのだ。まだ、あなたがよちよち歩きの段階にいることを自覚してほしい。私たちが、自分自身に求めるべきなのは進歩であって、完璧さではない。エゴはすぐにでも偉大になりたいと思うが回復の道は、直線ではない。それは、紆余曲折のある曲がりくねった道なのだ。自分にとっても、他人にとっても自分がかっこ悪く見えることが何度かあるだろう。だが、恥をかきたくない、かっこよく見られたいという欲求は、捨てなければならない。創造性を回復する道の途中でいつもスマートでいることなど不可能だ。ジュリア・キャメロン著「ずっとやりたかったことを、やりなさい」(サンマーク出版)より。初心者であることを自分に許そう~ジュリア・キャメロン~「よがふくのひとり言」霧と言えば、摩周湖やろ!!!!この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月23日
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昨日わたしたちの本質は自由そのものと書きました。これは人間だけに限らず「かたち」あるものはすべて「自由」が「かたち」になったものです。「自由」が「かたち」になっているからいろんな種類の生きものがいていろんな種類の「もの」があってそして「常に変化し続ける」のです。ですから変化を恐れることは自分を自由から遠ざけてしまうことになるのです。どうすればありとあらゆるものから自由になれるか?ひとがそれを追い求めるのはそれが自分が自由そのものであることを思いだすための道だからです。 ~おまけ~昨日思いついたこと箇条書き。・自分を 通そう とし続けると 逃走か 闘争にしか 行きつかなくなります。・人生とは 自作自演の 物語。・自分を 喜ばせた その恩恵として 成功を 受け取れる。・今までピッタリであった洋服でも あなたが成長し変化すれば 着替えるしかありません。 人間関係もこれと同じ。・わたしたちは 鏡がなければ どんな格好をしていても それに気づくことも なおすこともできない。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月22日
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ひとは父親と母親から生まれますから自分の中には男性のエネルギーと女性のエネルギーとがあります。男性のエネルギーとは与える力。女性のエネルギーとは受け取る力です。自分の中のこの2つのエネルギーバランスがとれているかどうかは自分と両親との関係にそのまま現れてきます。父親との関係がうまくいっていないときは自分は周り(宇宙)から愛を与えられていないと感じるようになってしまいます。母親との関係がうまくいっていないときは周り(宇宙)が用意してくれたギフトを受け取ろうとしなくなります。親との関係を改善するために特別なことをする必要はありません。過去につくられた親に対する怒りや恐れや悲しみなどから『自由になる意志』さえ持てばいいのです。過去、親から何をされていようが何を言われていようがそして今、現在でもそうであろうがそこからあなたの中に生まれた怒りや恐れや悲しみなどから『自由になる意志』さえ持てばいいのです。その怒りや恐れや悲しみなどがつくられた原因は親にあります。あなたはぜんぜん悪くない!!!!けれどもその怒りや恐れや悲しみに『縛られること』を選んでいるのはあなたなのです。どれだけ自分の中に親に対する怒りや恐れや悲しみがあろうともそれらから『自由になる意志』さえ持てばあなたは「許せない親を持つ自分」から解放されるのです。もう親が変わることを待ち続けなくてもいいのです。『わたしは、親に対する怒りから自由になります!』『わたしは、親に対する恐れから自由になります!』『わたしは、親に対する悲しみから自由になります!』そう、宣言するだけでいいのです。今まで許せなかったのはあなたが怒りや、恐れや、悲しみから自由になることを選ばなかったからで「親の在り方」が原因ではなかったのです。 ~おまけ~怒り恐れ悲しみそこから自由になれたとき本当は自由とは「なるもの」ではないということに気づきます。それはそうなれたときわたしたちが「自由が具現化したもの」つまり「自由そのもの」であることに気づくからです。そこから自由に「なる」必要なんかどこにもないことがわかってくるのです。わたしたちの本質は自由そのものです。だからときに何かに自分から縛られにいくという自由も使ってしまうのです。「自分とは何か?」を思いだす「手段」として。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月21日
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19日土曜日はかめおかゆみこさん のワークショップに参加していました。たけがまさんすばらしい場をつくっていただきありがとうございます♪参加して思ったのは主催者や講師の「波」に合った参加するひとがやっぱり来るなぁということでした。講師の波が「助けたい」とか「教えたい」とか「救いたい」だと「答え欲しい欲しい」さんが集まりやすいんですけどかめおかさんのように参加者を「信頼」していると「自分で何とかしたいんだけどヒントちょうだい」さんが集まってくるんですね。「答え欲しい欲しい」さんが集まると参加者同士のエネルギーの奪い合いが始まるのでその場にいるだけでしんどくなってくるのですけど「自分で何とかしたいんだけどヒントちょうだい」さんが集まると「自分で何とかしたい」と自分から「自発的」に自分の人生と向き合うところから出発してますから今度は逆に参加者同士のエネルギーの「与え合い」が始まって参加者全員でひとつの大きなエネルギーを「共有」できるので楽しいしあったかくなれるし初対面のひとでも受け入れやすくなるんですね。普段の生活ではずかしい、みっともない、なさけないと自分を「隠そう」とする生きかたをしているわたしですがそうやって参加しているうちに初対面のひとが苦手ってわたしが「ひと」というものを根本的に信頼していないから苦手と感じていることがわかったんですね。過去自分をさらけ出して拒否されて傷ついた経験が続いてそこからわたしを拒否したのはこの世の「一部」のひとなのにいつしかこの世の「すべて」のひとからわたしは拒否されるのだに思いがすりかわっていたから誰も信頼できなくなっていたんですね。初対面のひとに囲まれてわたしが感じていた緊張や落ち着かない気持ちは接してみないと相手がどう反応してくるかはわからないのにとにかく拒否されない「何者」かになろうとしていたからでした。初対面のひとの前にいるからではなく自分が自分ではなく「何者」かになろうとしていたから緊張や落ち着かない気持ちを感じていたのでした。認めてもらうには「特別なもの」にならないと認めてもらえないという思いこみがありました。そしてそれは「特別なもの」しか認めようとしない自分の裏返しから生まれた思いでした。「自分に自信が持てるようになれれば」ではなく今の自分を大切にしていけるようになればなるほど自分を「はずかしい」と思うことも減ってくるように思います。自信とは「持とう」とするものではなく本当に自分を大切にしているひとだけが自分の中からみつけるもの。今のわたしはそう思います。初対面のひとが苦手なひといませんか~♪*************************************** 今日のフォーカスチェンジ 福岡倶楽部 ★第3回ワークショップ★ http://aiiro.jp/ws/***************************************日時/2008年4月27日(日)10時~17時会場/クローバープラザ 第3和室 福岡県春日市原町3-1-7 講師/かめおかゆみこ参加費/前納8000円、当日10000円 ※参加費には、昼食代が含まれます。定員/ 25名(定員になり次第、締め切ります)申込み/http://aiiro.jp/ws/問合せ/picece@gmail.com(第3回事務局・太田美穂) 電話090―4488―3999この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月21日
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今日はわたしの住む茨木市の総持寺で包丁式がありましたので観てきました。包丁式とはこんな感じです。写真では鯉ですが今日は、見事な天然ものの鯛でした。何でも、住職さんの話しでは天然ものと、養殖ものでは脂の質が違うので包丁(刀)の入るスピードが変わってくるため練習は常に、天然ものを使ってやるそうです。今日、行われたのは山蔭流包丁式の結之鯛というものでした。山蔭流とは何かといいますと第58代光孝天皇のころ四条山蔭中納言藤原政朝郷というひとがそれまでの宮中料理の諸作法をひとつにまとめ四条流包丁式と命名しました。つまり今現在、日本料理と呼ばれているものの大元をつくったのが、山蔭中納言でありその、山蔭中納言を日本料理の祖神とするところから山蔭流が生まれました。で、包丁式とは何かといいますと来賓客をもてなすために右手に包丁、左手に真名箸を持ち来賓客の目の前で魚には一切手をふれず調理することをいいます。で、なぜ総持寺でこれが行われるのかというと総持寺が山蔭中納言が建立したものでありそこから山蔭中納言の命日の4月18日に京繁協友会で修行する一流の料理店の調理長クラスのひとが包丁式を奉納し山蔭流の免許の許し状を得るためなんですね。これから実際に観てみたい方は7月23日に大阪天満宮8月1日に住吉大社でもありますので足を運ばれてみてはどうでしょうか。魚に包丁を入れるまで5分くらい、箸で包丁を挟んだり包丁を天にふりかざしたりまな板のふちを手でなぞったり「儀式」のような動きをするのですがそれを観ていて調理人とまな板がある空間のエネルギーを清めているように感じたんですね。食材とは、エネルギーです。つまり、調理の上手なひとはエネルギーの扱いが上手なひととも言えるわけでこういった諸作法を考案できるひとというのはかなりエネルギーというものの本質を熟知していたのではないか?と思いながら見ていました。今でも、天皇陛下が宮中で儀式を行う際その前を歩く式部官長というひとがいるのですけれどもなぜ、天皇陛下の「前」を歩くひとがいるのかというと天皇陛下がこれから進む場を前もって清めておくという役割があってものすごく魂のレベルの高いひとがその役割についているということを聴いたことがあります。そういったことから天皇家には世間には公表されることのないエネルギーの法則というかこの世の仕組みの知恵が代々受け継がれていてだからこそ世を統治できたのではないかという推測がわたしの中にあるんですね。で、今回の包丁式もそれにつながるものを感じたんですね。この世は目に見えるものと目に見えないものとで成り立っていて目に見えないものも信じられるようになれたとき初めてこの世の「本当の姿」を体感できるみたいです。そしてこの世で人間だけに与えられている力が目に見えるものと目に見えないものとを「つなぐ」力でそこに気づいたひとが成功法則の本や引き寄せの法則の本なんかを書いているみたいですね。キーワードは「つなぐ」ということ。そして、どんなひとでもつなぐことができるということ。片方だけ観ていたら「つなぐ」という発想すら出てこないですよね。・おまけ総持寺の近くには土蔵を改造した中にあるむちゃくちゃおいしい蕎麦屋さんがあります。貞寿庵この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月18日
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部屋に帰って来て蛍光灯をつけるとき「電気とは何か?」を知らなくても蛍光灯はつけることができるわけで。「蛍光灯はなぜ明るくなるのか?」を知らなくても蛍光灯はつけることができるわけで。今までのわたしと言えば「電気とは何か?」「蛍光灯はなぜ明るくなるのか?」そんなことばかり追い求めて「蛍光灯のつけかた」を学ぼうとせずに「暗い」「暗い」と言っていたようなものでした。 理屈抜きでどうやったら蛍光灯がつくのかそこを素直に学べばいいと思ったわたしが知ったことは人間が「発明」したものはこの世に何もないということです。電気も人類が生まれる前から地球にあったものでそれを人間が「発見」しただけで蛍光灯も人類が生まれる前から地球の物質のこれとこれを組み合わせて電気を流せば明るくなる仕組みというものがもともとあってそれを人間が「発見」しただけで。つまり今の文明というものはすべて人類が生まれる前から地球に「用意」されていたものを発見した数に比例した文明だと言えると思うんですね。この先どんな劇的な「発明」があったとしてもそれも人類が生まれる前から地球に「用意」されていたものや仕組みをただ「発見」したにすぎずそう考えると人類が生まれる前からすでにぜんぶ用意されていて後はそれを見つけるかどうかという仕組みで地球は成り立っているみたいです。このことが最近のわたしは人間もそうなんだと思えてならないんですね。人間の中にもすべてが用意されていて自分の中から何をどれだけ発見するかでそのひとの現実が変わっていく。そんな仕組みで人生も成り立っていると思えてならないんですね。でも「わたしはこうだから」「今までがこうだったから」という思いの中で生きているときは自分の中にすべてがあってそれを見つけるだけで人生を変えていけるなんて思えるはずもなく「わたしなんかに」「わたしは別」なんかと思ってしまいますよね。「わたしなんかに」「わたしは別」と思うのは過去の体験から生まれてくるのですがこんなマイナーでマニアックなページに来るあなたというのは今のわたしと同じようにその過去の体験を「誤った認識でとらえてないか?」ということに疑問を持つ時期に来ているのかもしれませんね。過去の記憶というのは「事実」ではなく「自分がそう受け取りたがっているのかもしれない」ということです。「自分はこんなもん」と思いながら生きてその思いにふさわしい人生を受け取るのも自由だし「ひょっとしたら思い通りに生きることは 誰にでも許されていることなのかもしれない」と「自分はこんなもん」と決めつけるのをやめてみてなぜ「自分はこんなもん」と思いながら生きるようになってしまったのか?その原因を探しながら「自分のこれからの可能性を信じてみたい」という立場に立ってみるのも自由だと思うんです。ただわたしの経験から言うと「過去こうだった」というところから「これからはこうありたい」というところに意識を向けなおしてそれに考えかたや言葉や行動を合わせていったとき出会うひとは変わってくるみたいです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月16日
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今日は資源ごみの日だったのでペットボトルとか出すついでに部屋の掃除もしました。わたしたちは「どんな空間にいるのか?」で気分が変わってきます。しかし長年住んで毎日見慣れた場所は「空間」としてとらえることがないので「その部屋(場所)」でテレビをみることで「その部屋(場所)」でごはんを食べることでからだが、よろこんでいるのか慢性的なストレスを感じているのかわざわざ確認することはありません。その部屋の中での「毎日使うもの」(筆記用具、歯ブラシ、調味料、下着、靴、食器などなど・・・)の「あたりまえの配置」を、わざと変えてみる。その部屋の中にある「あたりまえにあるけど使わないもの」を(過去1か月、それを使わずに生きていけたのなら)捨ててみる。そうしたら、思わぬところから変化がでてくるかもしれませんね。 わたしは小学校の横に住んでいるので朝礼の声が部屋の中まで聞こえてくるんですね。昨日は校長先生らしきひとが新入生にお話しをされてました。「3つの約束」というお題でそのひとつに「自分でできることは、自分でがんばる」というのがありました。「自分でできることは、自分でがんばる」じゃ「自分でできないこと」は、どうしたらいいの?と思ったんですけどそのことには校長先生はふれませんでした。そこからできる、できない、じゃなくて慣れている、慣れていないやりたい、やりたくないなのかもしれないなぁと思ったのでした。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月16日
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相手が何を発言していても相手を裁かないで「自分の思うことと違うことを 相手は思っているだけ」と受け止めて「ただ聴く」ということはむずかしいことです。ひとの中には自分が正しいと思うこと自分が正しくないと思うことがあってそれをなくすなんてそう簡単にできることじゃないからどうしても差別的な発言や攻撃的な発言などを耳にしたときただ聴くなんてできなくて「どうしてそんなことを言うの?」「かわいそうなひと」「そんな言い方ないと思うわ!!!」なんてふうに相手を裁いてしまいますよね。けど結論から先に言ってしまうと何を言っているか何をしているかそんなの関係なしに「自分も相手も等しく受け入れる自分」にならないと「ほんとうのしあわせコース」には入っていくことができないんですね。そういう自分でないとこころから相手のことを祈ったり相手のよろこびを自分のよろこびとして受け取ることなんてできませんから。かといって相手を裁くことをやめるために正しい、正しくないと思う自分を自分から「なくそう」とすることや「変えよう」とすることも正しい、正しくないと思う自分が自分の中にいることは「いけないこと」と自分を裁いていることになるんですね(笑)だから自分も相手も等しく受け入れる自分になるには「どんな自分でも等しく受け入れる自分」でないとできないわけです。ここで問題なのは正しい、正しくないと思う自分が「いること」ではなく正しい、正しくないと思う自分を「使って」相手や自分を見てしまっていることなのです。そういった自分がいることを認めつつ使わなければいいのです。けどこれはなかなかむずかしいことです。相手を裁くことは無意識に瞬間的に反射的に起こってしまうからです。何か言われてすぐに「カチン」とくるように。しかし自分を客観的にながめる訓練を積めば裁いた後に「裁いてしまったな」と気づくことはできるのです。そして気づくことができたら正しい、正しくないの自分で相手を見ていた「視点」を「自分の意志」で別の視点に変えることができるようになってくるのです。そこでわたしが今使っているのが「神の視点」です。自分と相手の中間点の上空に神の視点を置いてそこから自分と相手をながめている立場に立つのです。神様になったつもりで(笑)すると不思議なことに相手の言葉に対する「ひっかかり」がかなり減るんですね。ただこれをやると相手の言葉がほとんど「頭」に残らないんですよ。神の視点に立つということは「聴く」というところではなくお互いを「包み込む」というところに意識が行きますから。だからこちらに返答を求めて相手の言葉が止まったときに困るんですけど笑顔で「そうですね」と言っておけばわたしの経験上まず問題なく会話は進みます(笑)あとはてきとうに笑顔で「うん」「うん」と言っておけばいいです(笑)「神の視点」に立つと自然に余裕ができるので笑顔も楽にできます。ただこれはしたくない会話の内容をふられたときに使っているだけで建設的な内容の話しとか相手が真剣に話しているときなどは「頭」に言葉が残るようにながめつつ聴くというように意識の振り分けをするようにしています。確かにしたくない会話をふられるということは自分に不要な価値観や概念に気づくために起こってはいるのですけれどもそうそう毎回、毎回効率よく自分の学びに結びつけるなんてできるはずもなくやはり「したくないことはしたくない」というのが人間だと思うので自分のこころに余裕があるときは学びに結びつけたらいいし余裕がないときはこういう「技」を使って「なるべく自分が心地よくいられるように工夫する」というのもありだと思うんですね。わたしとしては。学ぶということは何がなくても何ができなくても「すでに」しあわせであるということを思いだす「手段」であって「目的」ではないのですから。自分はいつも与えられるだけである自分ひとりでできることは何もないここに気づき感謝と共に生きることができるようになれば学ぶことすらもう必要ではなくなるのですから。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月14日
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最近教会に行ってます。このまえの日曜日で2回目でした。イースターの日に無料のゴスペルのコンサートがありましてそれを観に行ったらその翌日も同じ歌手のひとがわたしの家の近所の教会で無料で歌うというので生まれて初めて日曜日に教会にひとが集まるやつに参加しました。200人以上はいたと思うんですがその集会?が終わったあとその歌手のひとがいきなり、わたしのほうにやってきて手を握り、お祈りをしてくれたんですね。「???」やったんですよ。200人以上もいる中で集会が終わったあとまっすぐに、こっちに来てお祈りをしてくれたから「なんで俺に?」ととまどっていたら今日、初めて教会に来たということで来てくださったみたいなんですね。無料で歌だけ聴いたらとっとと帰るつもりでいたのに(笑)そしてその歌手の方だけでなくその教会のスタッフのひともみんな、わたしが今日、初めて来たということで声をかけてくださったので200人以上もいる中でどのひとが、どういうひとなのかスタッフ全員が一人、ひとりに気を配っているという普通のセミナーなんかではありえない「教会」というものの「姿勢」にびっくりしたんですね。まぁ、常連さんが多いので初めての人間は目立つということもあるのかもしれませんが。けどその、「接し方」がわたしが初対面のひとに対して絶対にできない接し方だったのでキリスト教というものの中のどういった考えかたを採用したらあのように初対面のひとに対してこころをオープンにして無条件で受け入れることができるのか?すごく興味がわいたんですね。だから先入観を捨ててキリスト教というものを勉強してみることにしたんです。ずっとひとりで、つきつめてきたのでわたしの信じているもののどこまでがわたしの「独善性」なのか確認する意味も込めて。イエス・キリストがキリスト教を信仰していたのではなくイエス・キリストの「生き様」がキリスト教になったのだと思うんですね。よく知らないで言ってますけど。そんなことを思っていたら2人の方を知る機会がありやはりひとに影響を与えるのはひとのこころを揺さぶるのは「どれだけ自分の人生と正面から向き合ったか?」という「そのひとの生き様」だと思ったんですね。野口 シカ「母に、出来るまでやってみること、 やれないことはやってみないからなのだ。 と言うので 部屋の掃除・火をおこすこと・寝具の上げ下げなど 出来るまでやらせました。 でもどんなに苦心して何十回、何百回やっても出来ないのは 着物を着たり、帯を結ぶこと、髪を結うこと、 これだけは出来ませんでした」 ~中村久子自伝より~中村 久子この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月14日
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ここ半年ばかり同じセーターをずっと着ていました。寝るときも起きたときも。別に会いにいくひともいないしでかける場所もないしお金もないしで毛玉だらけのセーターをひとの眼を気にすることなくずっと着ていました。わたしは服は着れたらいいという性格なのですがそんなわたしでも半年も同じ服を着続けるとさすがに何かこころ動くものがありまして服を変えてこころを変えてみようと思い20年ぶりぐらいに「ジャケット」なるものを購入してみました。わたしは自分の服の好みというのがまったくわからないので店員さんに選んでもらいました。せっかくなのでシャツも買いました。そこまではよかったのですが家に帰っていざ、ジャケットのポケットにものを入れようとしたときぜんぶのポケットが縫い付けてあることに気づきました。ぜんぶだったので買う時にちゃんとチェックしておけばよかったなぁと思いつつも「なるほど。製造コストを下げるために ポケットのデザインだけあるのが 今のジャケットのデザインなんやな」とひとりで納得していました。けどカバンを持ち歩く習慣のないわたしにはポケットのないジャケットはやはり不便で「どうしようかなぁ。 洋服の病院に持っていって ポケットつけてもらおうかなぁ」と思っていた矢先ジャケットと同じブランドの系列店をみつけてそこの店員さんに思いきって聴いてみました。「あのー、つかぬことを おうかがいしますけど これは、こういうデザインなんですか?」「これは、しつけ糸ですね」「しつけ糸?」「ジャケットが型くずれしないように ついているものです。 本当は、もっとゆるいものなんですけど ここまで固く縫い付けてあるのは めずらしいですね」わたしは40歳になって初めてこの世に「しつけ糸」というものが存在することを知りました。で、早速、その店で買ったわけじゃないけどそれらしい態度で(笑)その店員さんにしつけ糸を切ってもらいました。しつけ糸は、後の切れ込みのところにもついていました。後姿は、見るひとが見たらわかる状態で今まで着ていたみたいです。しばらくするとわたしのジャケットはポケットが5つもあるジャケットに生まれ変わっていました。5つもポケットができたことに素直に喜ぶわたしを笑うわけにもいかず店員さんは下を向き表情を隠しておられました(笑)いやー、やっぱり聴いてみてよかったです。自分の「感覚」はあてにしていいけれども自分の「判断」はあてにならないときもあるということとわからないことは素直に聴けばいいということをしつけ糸から教えてもらいました。・オマケちょっとこれ観てみてください。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月13日
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普段、偉そうにわかったようなことを書いていますけど2日も続けてセミナーに参加して本当に思ったことはわたしは何も知らない何もわかっていないということです。みんな親が子どもを観るようにわたしのことをぜんぶお見通しでそれをあえて気づかないフリをしてくれていただけでわたしひとりが「わかっているつもり」になっていたことが本当にわかりました。わたし程度の気づきでは時間使って交通費使って会いに来てくれるひとなんていないのはあたりまえのことだと本当に納得できました。けどこれは日記なんでこれからもわかっている口調であれやこれや書くのは続けると思います。だって、なんかそういうふうに書きたいんだもん(笑)この2日で浮き彫りになったのは「はずかしい自分」でした。無職の自分は、はずかしい。友達のいない自分は、はずかしい。恋人のいない自分は、はずかしい。「これ」といった誇れるものがない自分ははずかしい。経済力のない自分は、はずかしい。どこに行くにも何をするにもいつもひとりで行動している自分ははずかしい。いっぱい、いっぱい自分のことをはずかしいと思っている自分がいました。けど見透かされまいといくら無意識にとりつくろっても観るひとが観たらすぐにわかるということがわかってある意味開き直りに近いですけど隠すのをやめることにしたんですね。天狗の鼻をへし折っていただいてまた新たなスタートに立てることができました。ありがたいことです。ゴミを捨てるには一度、ゴミを手に取らないと捨てることができないように何かを手放すには一度、「それが自分」とあるがまま認めて初めて手放すことが可能になってくるんだなとわかりました。ゴミをながめているだけでは捨てることはできないんですよね。ゴミを見て見ぬふりをしている間は捨てることはできないんですよね。意を決して自分の手を汚してゴミを自分の手でつかまない限りは。もうはずかしい自分を隠すために何かになろうとすることも自分を大きく見せようとすることもやめます。だってしんどいもん。だから今まで得た知識や気づきもぜんぶ捨てようと思います。何かになれないから苦しい思いをするよりも何も知らない何もわかっていない何もできない何も持てない自分がここちよくおだやかに感謝と笑顔で生きて行ける道を探していきたいと思います。きっと宇宙の中にはそんな道もあると思うんです。何も知らないから何もわかっていないから何もできないから何も持てないからいっぱい、いっぱいいろんなひとに甘えていっぱい、いっぱいいろんなひとを頼って生きていくと思うんです。でもそうしないと生きていけないのがわたしですからそうやって生かさせていただこうと思います。わたしのような者が生きていける余地をつくってくれている宇宙の包容力に感謝しながら。わたしの人生に苦労というものは存在しませんでした。気づきというものも存在しませんでした。ただ、わたしが生きていたという事実しかありませんでした。そしてこれからもわたしはわたし以外の何かになることもなくただ、わたしを生きていくだけです。けどもしできうることなら肩書きや何をしているかではなくひとりの人間としてわたしを認め受け入れてくれたこの地球上の数人のひとたちには何かできる自分であれたらいいなと祈っています。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月12日
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大分と福岡にお住まいの方にチャンスです!!!離婚、自己破産、ホームレスと裏街道のエリートコース(笑)を邁進していたわたしがここまで立ち直れたのはかめおかゆみこさんとの出会いがあったからでした。その、かめおかゆみこさんのワークショップが大分と福岡で開催されます!!!*************************************** こころとからだの ナチュラルライフセラピー 大分に初上陸!かめおかゆみこの からだほぐし・こころほぐし・軽やかな表現力 http://www.reku-kan.com***************************************日時/2008年4月26日(土)13時30分~16時30分会場/コンパルホール4F 集会室定員/30名参加費/大人3500円 小学生・中学生1000円お申込み/Re空間 info@reku-kan.com 電話097―551―3001 *************************************** 今日のフォーカスチェンジ 福岡倶楽部 ★第3回ワークショップ★ http://aiiro.jp/ws/***************************************日時/2008年4月27日(日)10時~17時会場/クローバープラザ 第3和室 福岡県春日市原町3-1-7 講師/かめおかゆみこ参加費/前納8000円、当日10000円 ※参加費には、昼食代が含まれます。定員/ 25名(定員になり次第、締め切ります)申込み/http://aiiro.jp/ws/問合せ/picece@gmail.com(第3回事務局・太田美穂) 電話090―4488―3999ザ・ハイロウズの「罪と罰」という曲の歌詞に正しい道だけを選んで選んでいるうちに日が暮れて立ち止まったまま動かない結局何にもやらないなら有罪・・・という歌詞があります。今までのわたしというのはこうだったんですね。「正しいかどうか」だけを重視していたから行動が起こせなかったんですね。だから、現実が変わっていかなかった。そんな自分から変わっていけたのは「とりあえず動いてみたから」でした。自分に必要のない情報は自分の目の前には現れません。だからわたしは何も考えないで「とりあえず」かめおかゆみこさんのワークショップに参加してみました。それが人生の転機になったんですね。生きるのが苦しいときって自分の「考えること」は大切にするけれども自分の「からだ」はおざなりになってしまうんですよね。しかしかんがえることとからだ両方あって自分なんですから両方に意識を向けていかないと誰もが生まれながらにして持っている「苦しい」から抜け出す力はうまく発揮されないんですよね。わたしはそのことをかめおかゆみこさんから教えていただいたんですね。だからわたしはあなたにも「とりあえず」行動を起こしてほしいんです。大分:2008年4月26日(土)のお申し込みはこちら福岡:2008年4月27日(日)のお申し込みはこちら迷わず行けよ。行けばわかるさ。by一休さん♪大阪でもあります♪2008年4月18日(金)/大阪・からだほぐしワークhttp://plaza.rakuten.co.jp/kamewasa/50112008年4月19日(土)/大阪・かめわざワークショップhttp://plaza.rakuten.co.jp/kamewasa/50114月19日はよがふくも参加します♪ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今日はbun_taoさんのセミナーに参加していました。日本で販売していない昔ながらの製法でつくられたアロマオイルの匂いをかいでそこから出てくるからだの反応でいろんなことを読み取っていくものです。参加しているひとがみんなどこか共通のものを持っていてなんかこういう世界(笑)は狭いというかつながっているというかとっても不思議でした。それとbun_taoさんとわたしに共通の知人がいたりして(笑)。bun_taoさんとは初対面なのに他人の気がしないでものすごくわたしと近い「匂い」を持つひとでbun_taoさんも16歳から37歳まで鬱で苦しんでいてわたしと似たような過去なんですよね。でみんなこんな色が見えますとかこんな感じがしますと言っているのにわたしひとりだけ受け入れられない匂いがあったんですね。それは3種類のハスの花を合わせたアロマオイルでした。そこにあるメッセージは「自己開示」でした。つまりその匂いを私が拒むということは自己開示したくない自分がわたしの中にいるということなんですね。それは「素の自分をさらけ出せば 必ずわたしは拒否される」という40年来わたしが抱え続けてきている思いです。親からも学校からも社会からも好きになったひとからも100%拒否された経験しかないわたしが今だにぬぐいきれない思いです。けど今日わかったことは「拒否される自分さえも 自分が認め 受け入れてあげたら 他人に自分を隠す必要は なくなってくる」ということです。「完璧」を目指さずに「それが自分」と受け入れて前に進まない限り「次」へは行けないんですよね。「無難な自分」を出していると嫌われることはないけれども好きになってもらえることもないんですよね。「もうこれ以上傷つきたくない」というのがわたしの深いところに根強くいますから「拒否されること」は「いけないこと」という方程式でわたしはずっと動いていたんですけど自分の中で「拒否されること」と「いけないこと」は関係ないと置き換えることで「これが自分なんだから 相手がどう思うのかは 相手に任せるしかない」というところにようやく立ってみようという気になろうとしている自分がいます。さいわい最近はことばで態度でわたしを受け入れてくれるひとが「現実」に目の前に現れてくださるのでそのこともそう思う後押しになってくれています。なぜそんなひとが現れてくれる現実とわたしが出会えるようになれたか考えてみると自分で自分を認める度合が高まってきたからだと思います。ひとから拒否されることで自分の価値を決めていたころはそんなひとは現れてくれませんでした。しかしどんな自分も「それも自分」と認めていくほどに出会うひとも変わってきたように思います。ぜんぶひとと出会ったことで気づけたことです。自分ひとりで考えている間は自分に都合のいいことしか観ることはできないんですね。待っていても誰も会いには来てくれません。だから自分から会いに行くしかないんですよね。大分:2008年4月26日(土)のお申し込みはこちら福岡:2008年4月27日(日)のお申し込みはこちらこの日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月11日
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青い鳥はあたりまえの中に隠れているから見つけられないのです。あたりまえの中にある青い鳥を見つけるには「感謝」というこころで「あたりまえ」という「フィルター」を溶かすしかないのです。でも感謝とは「しよう」と思ってもできるものではないですから「感謝しなきゃ」と思っているうちは別の方向に行ってしまいますよね。見返りを求めているうちは本当に手にしたいものは手にできません。「知識」に頼り「自分は正しい」と思っていることに気づけない間はここでつまづきます。人生にいつも「なんでこうなの?」がつきまといます。1か月働いて手にしたお金だからそのお金は「自分の所有物」と思っている間は「本当の豊かさ」には気づくことはできません。豊かさとは「流れ」です。ですから「失いたくない」と思うこころが「自分から流れること」を止めてしまいます。そして自分から流れないところには新たな流れは入り込む余地はないのです。目に見えるものかたちのあるものだけが豊かさだと信じているうちは失う恐怖から逃れることはできないのです。ひとは安心を求める自分としあわせを求める自分とのせめぎあいの中で生きています。信頼のないこころは安心を求め信頼の中にあるこころはしあわせを求めます。かたちあるものはいつか必ず滅びる物質の世界で求める安心とは不安を先伸ばしにしてその場の自分をなぐさめているだけなのかもしれませんね。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月10日
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ごくごく身近なあたりまえの中に奇跡や次に進むための答えはどうやら眠っているみたいです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月10日
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他人に対してできることって・愛すること・信じること・祈ることこの3つしかないなぁと最近、妙に納得しています。けどわたしがすべての場面でそれを実行できているかというとそうではなくてそれができているかできていないかにはわたしはあまりこだわっていなくてその場面、場面で感じている「揺れ」がその3つから外れたために起こっている揺れなのかの確認だけとって「ではどうするのか」だけを自分に問いかけるようにしています。ただ・愛します・信じます・祈りますと思いだしたときに「コミットメント」は対象を特定せずに行うようにしています。それはわたしにとっては実行はできていないけどそう生きますという思いというかそう生きたいという願いというか。それをしだしてから感じることは現実に流れがでてきたことと小さな思いが「即、現実になる」というのを何度か体験させてもらったということです。そこから、ふと感じたことはわたしたちをとりまく大いなる存在というのは「もっと甘えてほしい」と思っているんじゃないかな?ということです。あくまでわたし個人の感想ですけど。「思いは現実になる」あっちこっちで言われていることです。これは本当のことだと思うんですね。今までのわたしというのは直感的にそれを本当のことと思いつつも「実体験」として体験していなかったからどうしたらそういう自分になれるのかずっと探していたんですね。でも、現実が動きだした今少しずつ「コツ」がつかめてきたような気がします。それは一切の抵抗をやめて人生に白旗をあげることだとわたしは思うんですね。矛盾して聴こえると思いますがそれは人生において何ひとつ自分の思い通りになるものはないということが本当に腑に落ちて初めてひとは思いの通りの現実を引き寄せるコツを思い出す。ということです。つまり思いの通りにいかないのは「おかしい」という立場の自分から思いの通りに現実を起こそうとしてもうまくいかなくて純粋にこころの底から人生とは「思いの通りにいかないものなんだな」と思える自分になれたとき素直に天に甘えることができるようになりそこから「どんなこころの状態で 天に願いを打ち上げたらいいのか?」がわかってきたんですね。それは・愛しているとき・信じているとき・祈っているときのこころの状態と同じ状態だったんです。ただね「願いを叶えたいから」を出発点としてそのこころの状態に「なろう」としてもなれませんから注意してください。それはまだ「人生は思うようにいかない」ということが本当に腑に落ちた自分ではありませんから。「思うようにいかない」ということが本当に腑に落ちて初めて「ただ純粋に願う」ということができるようになるのですから。それと言い忘れましたけど自分が・愛します・信じます・祈りますとコミットメントするということはわたしは・愛されている・信じられている・祈られているということを思いだすことでもあるんです。だからその両方をコミットメントするようにわたしはしています。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月08日
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今日はとある集まりのお花見に行ってました。強制がなく同情もなくお互いがお互いの持ってるものを持ち寄ってひとつのかたちになっているとてもすてきな集団です。わたしもそんな集団とご縁が持てるまでに自分の波を高めることができたのかと思うと感慨深いです。それもこれもあの過去があったからこそ。苦労がただの苦労で終わるのか自分の肥しになるのかはそんな現実を拒否するかそんな現実も愛の化身と信頼できるようになるのかで分かれてくると思います。判断の基準が自分の考えることにあるのか自分の感じることにあるのかということです。人生というのはとてもシンプルで自分の中にすでにあるものにただ気づいていくということが人生というものです。その気づくきっかけとしての目の前の出来事です。夢を叶えることやなりたい自分になることさえも自分の中にすでにあるものに気づくためのきっかけでそうなれることがゴールでも完成でもないのです。生きるとは自分の中にすでにあるものに気づき続けること。だからどんな自分になれたとしても死ぬまでひとは「過程」の中にあるのです。物質的に豊かになることや夢を叶えることは気づき続ける過程を「楽しめる」ためのオプションでそれが目的ではないのです。自分に素直なひとは楽しみながら気づくことができ自分に素直でないひとは苦しみながら気づく。ただそういう仕組みになっているだけでどちらを選ぶかの選択権はいつもそのひとにありどちらを選んでもそこに優劣はないわけです。自分の進みたい道で気づいていけばいいわけです。「こうなれたらしあわせになれる」というのは幻想以外の何者でもなくてどんな現実の中に生きようと「自分はどうありたいのか?」そこを見つめる真摯なまなざしがあなたを「すでにある」しあわせに導いてくれるのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月04日
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昨日は去年の年末いろんなものを捨てたとき調理師免許まで捨ててしまったので(笑)大阪府庁まで再交付の手続きに行っていました。府庁に行く途中真新しい学生服に身をまとった集団がわたしの横を通り過ぎて行きました。四月・・・いろんなことが始まるときです。彼らがおとなになったときも純粋に夢を求めることができる平和な日本でありますように・・・この四ケ年がわたくしにはどんなに楽しかったかわたくしは毎日を鳥のように教室でうたってくらした誓っていうがわたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない「生徒諸君に寄せる」 宮沢賢治 中等学校生徒諸君諸君はこの颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る透明な清潔な風を感じないのかそれは一つの送られた光線であり決せられた南の風である 諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて奴隷のやうに忍従することを欲するか 今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならばわれらの祖先乃至はわれらに至るまですべての信仰や特性はただ誤解から生じたとさへ見えしかも科学はいまだに暗くわれらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ むしろ諸君よ更にあらたな正しい時代をつくれ 諸君よ紺いろの地平線が膨らみ高まるときに諸君はその中に没することを欲するかじつに諸君は此の地平線に於けるあらゆる形の山嶽でなければならぬ 宙宇は絶えずわれらによって変化する誰が誰よりどうだとか誰の仕事がどうしたとかそんなことを言ってゐるひまがあるか新たな詩人よ雲から光から嵐から透明なエネルギーを得て人と地球によるべき形を暗示せよ 新しい時代のコペルニクスよ余りに重苦しい重力の法則からこの銀河系を解き放て 衝動のやうにさへ行はれるすべての農業労働を冷く透明な解析によってその藍いろの影といっしょに舞踏の範囲にまで高めよ 新たな時代のマルクスよこれらの盲目な衝動から動く世界を素晴らしく美しい構成に変へよ 新しい時代のダーヴヰンよ更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って銀河系空間の外にも至り透明に深く正しい地史と増訂された生物学をわれらに示せ おほよそ統計に従はば諸君のなかには少くとも千人の天才がなければならぬ素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである 潮や風……あらゆる自然の力を用ひ尽くして諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ ああ諸君はいまこの颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る透明な風を感じないのか この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月02日
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今日も引き続き法則の話しを書きたいと思いますが理由はわかんないんだけどその法則に何かひかれる理由はわかんないんだけどこの法則は本当のことを言っていると思うそんなふうに感じるということはその法則を自分はすでに知っているということなんですね。自分の中にないものにひとは反応できないですから。だからその法則を学んでいるときその法則を学んでいるのではなくてそのひとのことばを借りて思いだしているだけなんです。法則とは宇宙の仕組みであって答えではありません。宇宙の仕組みとは自然の仕組みでもあります。だから自分が「自然体」で生きることができたら意識しなくても学ばなくても法則の中を生きる自分になれるわけです。つまり、世に出ている法則とは自然体すなわち世のひとが自分らしく生きれるようになってほしくてこの時期を選んでいろんなひとが広めているのであって物質的にどうこうなるというのはその法則に目を向けさせるための悪意のない意図的な「ニンジン」みたいなものだとわたしは思うのです。それは自分らしく生きれるようになれた結果物質的なものは「後から」ついてくるのですけれどもそれを正直に言っていてもなかなか興味を示してもらえないからだと思います。「物質的に思い通りになりますよ」ということを呼び水にして「まことの自分と向き合う入口」に立ってもらうことがその法則が世に出る真の目的だとわたしは思うんですね。法則とは宇宙の仕組みですからその法則で思うような人生をつくりたいと思うのなら「宇宙を信頼できているか?」が第一の条件になってきます。宇宙を信頼できているか?ということはその宇宙の中にある地球もその地球の中にある自分も信頼できているか?ということなのです。あなたが出会った法則はあなたが一気に変われる答えではありません。わたしたちはどんな意識レベルにあろうとも思い通りの現実を創っているのですがあなたが出会った法則とはあなたがまことのあなたに気づくことでまことのあなたが望む思い通りの現実を創っていけることを思いだすプロセスを手助けしてくれるものなのです。すべてはサポートで主導権はあなたにあります。と同時にあなたもあなた以外のすべてに対するサポートなのです。主人公でもあるし脇役でもある。これが共に生きるということなのです。「感謝」と「信頼」それを「しよう」とか「しなければ」といったところから抜け出して自然と感謝している自分自然と信頼している自分にたどりつけたときあなたは法則をひとに伝えている立場に立っていることでしょう。何を知っているかではなく何を感じて生きているかが何よりも大切なのです。この日記が広まればいいなと思う方は2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年04月01日
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