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今日は、福知山に講演を聴きに行ってトンボ帰りで夜は、お友達の彩さんのベロニカライブに行ってました。彩さんの歌声は、ほんとうに癒しの声です。とっても、すてきな時間を過ごさせていただきました。最近、思うのはある一時期自分を客観的に見る時期が必要なのですがそれも、度を越してしまうといけないなということです。なぜなら自分を客観的に見ることにより自分への理解を深めていくのですがその自分を客観的に見る自分も実は「本当の自分」ではないからです。本当の自分で動いているとき自分を客観的に見ることなく自然とからだが動いているものです。「ためらいなく動ける自分に」これからのわたしの課題です。ブログランキングに参加しています。2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月29日
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自分を受け入れてくれるひとの「数」で自分の価値を決めようとしている自分がいました。「数」さえ、多けりゃいい。それって、ひとを、「モノ」を見るのと同じ目で見ていたことに気づけました。自分を大切にしないで自分を「モノ」のように見ているからひとも、「モノ」のように見てしまう。わたしが、世間やひとに感じていた「距離間」は、ここから来ていたような気がします。ブログランキングに参加しています。2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月28日
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わたし、まだまだ自分を信頼できていませんでした。ここで、包み隠さずプライベートのいろんなことを書いていたのも一見、自己開示に見えて実は「こんなわたしでも、まだ受け入れてくれる?」と読むひとを「試して」いたことに気づけました。「どんなひとでも、対等」このことにようやく気づけそうです。そのひとに対してまだ、何か、伝えることがあるうちはわたしには価値があって伝えることがなくなったらわたしの価値はなくなってそのひととの関係も終わってしまう。ずっと、そう思っていました。「そこから、始まることもある」ということなんかあたまの片隅にもありませんでした。「わたしは、理解してもらえない」そう、思い続けてきたわたしが実は、自分を出していなかったことに気づけました。わたしは「相手が、どう反応するか?」いつも、そこに気をとられて自分を出していました。けど、それって「本音の自分」じゃないんですよね。だから誰も、わたしのほんとうの姿を見たことがないしそして自分自身も自分のほんとうの姿を見たことがないことに気づけたんです。それなのに「わたしは、理解してもらえない」と「結論」を出していたんですね。わたしは仕事をしていない友達がいない恋人がいないそういったことで負い目に近いものを感じていてだから「与えられる自分」でないと他人と対等に話しできない、といった「強迫観念」を、ずっと抱えていました。「いいひとの枠を外れてはいけない」、といった「強迫観念」を、ずっと抱えていました。「いいひとであると、うまくいく」ずっと、そう思っていました。しかし、それは本当の自分を隠したい「恐れ」がわたしに、「いいひと」を演じさせようとしていたのです。ひとに、自分を隠すのもひとと自分が、対等でないと思えるのもすべてわたしが、わたしを信頼できていないからでした。だから「目に見えるものだけ」で自分と、相手とを、比べていました。自分を出していい。それで、相手がどう思うかは、相手の自由。なんてさんざん、偉そうに書いていてそれを、一番実行できていなかったのはわたしでした。わたしは「あきらめる」ことで傷つくことからずっと、逃げてきました。しかし、これからは「いいひと」であることをやめて「自分はどうしたいのか」にもっと、正直になっていこうと思っています。ひとと対等になるために自分に条件をつけることをやめて「初めから、対等である」ということを思いだしていこうと思っています。ブログランキングに参加しています。2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月27日
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こういった日記を見に来る方は「ありがとう」を何万回唱えるといった文章を見かけたこともあると思います。これは自分が笑顔でいることをつくり笑顔から始めるのと同じことをしているんですね。だから「ありがとう」と唱えているときこころから「ありがとう」と思っていなくてもいいんです。ただこころから「ありがとう」と思っていないから「回数を必要とする」ということなんです。洗面器に水が入っています。この「水のかたち」を変えようと思えば「洗面器のかたち」を変えたらいいわけです。・ありがとうを唱える・つくり笑顔をするこれらの「かたち」から入る行為はそれらを繰り返すことで「洗面器のかたち」を変える行為なんですね。洗面器の中の水は、自分のこころです。つまり「ありがとう」を何万回も唱えることで「ありがとうのかたち」の洗面器をつくることで中の水(こころ)がありがとうにふさわしいかたちになりそこから、感謝を「引き出せる」ようになるということなのです。だからどーしても許せない相手を許さないと先に進めないなと感じたときはこういったありがとうを機械的に唱えるといった「かたち」から入るアプローチは時間と回数がかかりますが「継続」さえおこたらなければ確実に効果のある方法なのです。ただしあくまでも方法のひとつでありその他の方法もたくさんあります。ことばはことだまといわれその、ことだまが現実をつくると思われていますがことばの役割は、そのことばにふさわしい「自分の感じるもの」を自分の中から「引き出す」ことにありその、引きだされたものが現実をつくっています。ですから自分の感じるものの中でどれを表に出すか?自分でコントロールできない間は自分が表に出したい自分の感じるものを出すのにふさわしいことばを選んで繰り返し唱えるという「かたち」から入る方法を選んでみるというのもひとつの選択肢なのです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月25日
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今回偉そーに書いてますけどぜんぶ、自分に向けて書いてます。『違いを楽しみながら、ただ味わうだけでいい』「すき」「きらい」と思うのも「いい」「わるい」と思うのもひとと自分を比べて落ちこんでしまうのもぜんぶこのことが納得できる(腑に落ちる)自分になるための「プロセス(過程)」なんですね。苦しいと感じる出来事は「すき」「きらい」「いい」「わるい」と「分けて」いる間は「わたしはこうだ」「あのひとはこうだ」と「決めつけて」いる間は「違いを楽しむ」ことはできませんよという、メッセージなんですね。すべては、うまくいっているということはすべては、メッセージということなんです。気づけないのではなくて気づきたくない自分がいるだけ受け取れないのではなくて受け取りたくない自分がいるだけなのです。あなたが「そうなりたい」と思うひとは「あなたもそうなれる」という可能性を「提示」してくれているだけで「そうなりたい」と思うひととあなたとの間に「優劣」は存在しないのです。そのひとがあなたに提示しているのは「自分を信頼するだけでいい」ということなのです。あなたが「そうなりたい」と思うひとがそのひとの中に持つものとあなたがあなたの中に持っているものは「同じ」なのです。そこにある違いは同じ持っているものの中で「何をどれだけ、表に出しているか?」なのです。それは自分を信頼している度合に比例して表に出せるものが変わっていくということなのです。自分を変えようとする前にこの、ダメダメな自分を信頼することから出発しなさい。あなたが「そうなりたい」と思うひとがあなたに伝えようとしていることはそういうことなのです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月24日
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「横入りをした」「映画館で大声で話してる」「信号無視をした」「道に火のついたタバコを捨てた」「無賃乗車した」「万引きをした」「こどもにキツイ叱りかたをしてた」そんな場面をみかけたとき何も思わないひともいれば相手を責める、といった「強い反応」の出るひともいます。ここで「反応」がでる、でないの違いは自分に対して「それはしてはいけない」と「ブレーキ」をかけているひとに反応がでるわけです。だから「自分にブレーキをかけていないことは 相手がしていても、自分は反応しないのです」つまり信号無視をしてるひとをみてそのひとに対して批評したり、批判したり、あわれに思ったりなど自分の中に「反応」が起こっているとき自分の中に「信号無視をしてはいけない」という「自分に対するブレーキ」があるから「反応」がでるのです。ではなぜ自分の中に、ブレーキがあるのか?それは『自分がそれをしてしまうひとだから』ブレーキがあるのです。自分が、信号無視をしてしまうひとだから自分の中に、「信号無視をしてはいけない」というブレーキを、自分で用意しているのです。自分が、信号無視をしないひとならブレーキは初めから、必要ないのです。だから信号無視をしてるひとを責めたり、批評している自分に気がついたときは「自分も信号無視をしてしまうひとだから」責めたり、批評しているんだなと自分をながめてみてください。そこに同じ、信号無視をしてしまうひと同士がいてそのとき相手は「する」と決めて動いているわたしは「しない」と決めて動いているだけなのです。うそをつかれて腹が立つ、ということはあなたの中に「うそをついてはいけない」というブレーキがあることの証明でありあなたも、相手と同じ「うそをついてしまうひと」だからそのブレーキを、自分は必要としているということなのです。だからただしい、まちがいと誰かに対して批判をしているとき自分も場面によっては状況によっては「それをしてしまうひと」ということを思い出して相手をながめてみたらまた、「違った印象」が相手に対して、でてくるかもしれないのです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月24日
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昨日は夏至なので旧大江町の元伊勢に行ってました。この日の元伊勢は全国からヒーラーさんや神道系のひとが集まります。駐車場には、湘南ナンバーの車もありました。読売テレビも取材にきていました。夏至の日は、太陽が伊勢の二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩の間から昇り「平安京」のあった場所の上を通り元伊勢の日室ヶ嶽の山頂に沈んでいく日で1年のうちで、もっとも強くなる太陽のエネルギーを受け取ることができるからです。けれども、この時期は梅雨の時期にあたり日室ヶ嶽の山頂に沈んでいく太陽を拝めるのは10年に1度と言われています。これが、10年に1度と言われる写真。昨日も、雨が降る曇り空でした。なので、わたしは、日没を待たずに樹齢2000年の御神木とひたすら、ヒーリングしてました。そのあと、天岩戸神社に行って帰ってきました。なかなか、屋久島以外では樹齢1000年以上の木とは出会えないのでここは、本当に「知るひとぞ知る」場所です。この地方の元伊勢といえば天橋立の籠神社(このじんじゃ)が有名でみんな、そっちに行きます。けど、そこは、すでに「観光地化」してしまっていて土地のエネルギーが、ひとの「想念」に負けてエネルギー的にいえばほとんど、昔のエネルギーは残っていません。籠神社近辺で、本当にエネルギーを感じたいならその裏にある、真名井神社がおすすめです。ここに来るひとはほとんどいないので「当時」のエネルギーが残っています。昨日も、夏至ということでほとんどのひとが日室ヶ嶽の前に集まっていたんですけど「これが絶対」「これだけ」と思ってしまうとそれ以外に宿る宇宙エネルギー(神)の存在を無視してしまうことになりかねないんですね。「1年で最高になる太陽エネルギー」だけが「すべて」でも「正解」でもないのです。それを求めることは否定しませんがそこに「効率を求める自我」が働いていないか?「自分に尋ねる余裕」がないと「その場所から動けなくなってしまう自分」となかなかお別れできないのですね。このことはいろんな場面に応用できないでしょうか?いついかなるときも何気ない日常のふと、目をやるその先にあなたを支えるサポートやあなたの探している答えは存在しているのです。それに、気づくかどうかは別として。「特別な日」「特別な場所」「特別なひと」そういう「神話」にとらわれないでそれだけを「絶対」「すごい」「特別」と思わないことが何気ない日常に潜む奇跡に気づくコツなのです。特別なイベントのない日常を軽視してはいけないのです。ほんで、今日はロンドン在住の、日本の美容業界では、知るひとぞ知るファッションデザイナーのヨウジヤマモトとガチで打ち合わせするようなひとに呼ばれてほんまにプライベートでいろんな話しをしていたのですが(ヒーリング関係)(いっぱい飯おごってもらいました♪)なんで仕事もしないでじいちゃんに飯食わしてもらってるようなまったく無名の俺が こんなすごいひとと知り合いなのか謎なのです。ほんと、人生って不思議です。~おまけ~ヒエログリフという文字があります。ピラミッドなどに書かれている文字です。漢字ならば、甲骨文字などがあってそこから漢字になったというルーツがあるのですがこの文字は、ルーツのない「突然現れた文字」として有名です。いきなり誰かが発明した、もしくはいきなり誰かが「持ち込んだ」としか考えられない不思議な文字なのです。そんなヒエログリフをローマ字読みに変換する無料ソフトをみつけました♪これを、古代エジプト人に読ませたら「KAMEOKAYUMIKO」と発音するはずです。最後の記号は文字ではなく女性を現わす記号です。ちなみに「YOGAFUKU(よがふく)」はこうなります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月22日
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あほみたいに長いです。そしてめっちゃ「自我」で書いてます。あー、はずかし。どうやら、今日は自分の中を整理するために書いていたみたいです。だから読まなくていいです。今、けっこー雨降ってます。明日も、明後日も西日本は、大雨に注意みたいです。19日は満月、21日は夏至とこの、エネルギーのピークの重なる時期にこの雨。意味深です。わたしには古い大道具を片づけて新しい大道具をセットする前の舞台の大掃除のように感じられます。わたしたちは地球の上でしか、生きていけませんからその地球の流れと自分の流れとを照らし合わせてみることはひとつの「智慧」のように思います。陽極まれば陰となり陰極まれば陽となるといいますが陽極まれば陰となりが夏至の日にあたり陰極まれば陽となるが冬至の日となります。これは、太極図といってこのことを、わかりやすく描いた図です。黒を陰白を陽とすると、面積が一番大きくなったところ(極まったところ)で次の色につながっていることがわかります。そして陰と陽ふたつで円(循環)がつくられていることもわかります。よくポジティブはいいネガティブはわるいと言われますがそれも、この図の白の部分、黒の部分、どちらかにだけ意識を向けた考えかたです。白と黒、2つあって、初めて円(自分)になれるのですからポジティブなときもネガティブなときもその両方を併せ持つ自分が「出したいほうを出している」ということを知りポジティブなときの自分はネガティブなときの自分は自分の「一面」であり「自分そのもの」と思わないことが、肝心です。「ずっと、ポジティブでいつづけよう」と言っていること自体自分で自分を受け入れようとすることから逃げている証なのです。これは、勾玉(まがたま)という日本古代の装身具です。太極図の半分と、すごく似ています。胎児の最初のころの姿も太極図の半分と、すごく似ています。これってなぜ、人間が男と女2種類でしか生まれてこないのかを教えてくれているような気がするんですね。陰と陽を、男と女に変えて見てください。白の中に黒い丸、黒の中に白い丸があります。これは陽中の陰、陰中の陽を現わしています。つまり男性の中には、男性性と女性性があり女性の中には、女性性と男性性があるということです。だからひとが異性にひかれるのは種の保存という目的の他に自分の中の異性性に気づくためという目的もあるような気がするんですね。男と女でしか新しい命は生まれないということは自分の中の男性性と女性性がうまくいってないと「自分を発揮する」ということは難しいようにできているのではないかと思うわけです。でわたしの経験から言うと父親とうまくいってなかったひとは自分の男性性を否定する傾向が強く母親とうまくいってなかったひとは自分の女性性を否定する傾向が強いということなんです。わかりやすい例で言うとわたしの知っている限り親を嫌いでしあわせな結婚生活を送っているひとは知りません。たいてい、「自分を苦しめる」結婚相手を「自分を苦しめる家族を持つ」結婚相手を選んでいます。そして、それが「親への復讐」のために「自分を苦しめる」結婚相手を「自分で選んでいる」ことに気づけていないのです。「自分を苦しめる」結婚相手を無意識のうちに「自分で選ぶ」ということは「あなたのせいで、わたしはこうなったのよ」という「無言のアピール」を無意識のうちに親にしているからなんですね。「自分が不幸になることが最大の復讐」なんです。それが、最も、顕著に現れているのが「自殺」や「無差別殺人」です。だから生きるのが苦しいとき自分は誰かに対して復讐したいと思っていると疑ったほうがいいですね。その相手に、直接復讐できないから「自分が不幸になる」という「歪んだかたち」を選んでいることがほとんどですから。でその復讐相手の97%は親です。自分が忘れている、親にされたことも含めて。これは、わたし、言い切ります。親以外の許せないひとも自分で気づいていない親への復讐が呼び寄せている場合がほとんどですから。人生がうまくいかないということはそこに自分の中に否定している男性性、女性性、どちらか、または両方があるということです。それを解決する手段として恋人または、配偶者を持つという方法があります。これが、一番早いと思います。しかし「経済的不安を埋めるため」「寂しさを慰めるため」などで、異性とつきあっているうちはこのことに気づけません。そして恋人や配偶者のいないひとには親との関係を見直すという方法があります。どちらでもいいんです。そして、すべては自分の中の男性性と女性性とを統合するために起こっていたのです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月20日
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部屋に緑があったほうがいいなということで2年前に、100均でお店に2個あるアロエの1個を買いました。後日、その100均に行ったら残りの1個が売れ残っていたのでなんとなく、それも買いました。これが、そのときの写真です。1個が、枯れかけています。「アロエほど丈夫なものを枯らすなんて、わたしは・・・」と、思っていました。当時のわたしは自殺する根性がなかったので「このまま、現実が変わらないなら 今すぐ、この場で殺してくれ!!!!」と、天にツバを吐いていた時期でした。家にある植物というものはその家のひとの気が枯れてくると自分の気を、家のひとに分け与えてそのひとの代わりに、枯れてくれます。気の枯れたその家のひとに我が身をなげうって、気を与えその家のひとの気が枯れていることを気を与えきった後の、枯れた我が身の姿で教えてくれるのです。だから、アロエが枯れるということはわたしは、よっぽどひどい状態なんやなとアロエをこれ以上枯らさないために自分の考えることに注意を増やしていったのでした。そのかいあってか今ではここまで、大きくなってくれました。そして、数日前、アロエに変化がありました。たった1日で、こんなに長い茎が2本も伸びていました。なんと、アロエに花が咲いているのです。アロエに花が咲くことなんて知らなかったわたしは、びっくりしました。これが、アロエ(不夜城)の花です。この、トウガラシみたいなのが開いていくのかなぁと、思っていたのですがどうやら、このままのようです。アロエは、花もとがっているのですね(笑)この地味で、丈夫なだけで、華がないアロエと自分とを、だぶらせていたわたしはアロエにも花が咲くという現実を、目のあたりにして「ひょっとしたら、このわたしでも・・・」と、淡~い、淡~い、期待を持っていたりなんかしちゃったりして(笑)今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月19日
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浄化の仕組みをエネルギーの側面から考えていたら「怒り」も浄化の1種やなーと思いました。「怒り」とはためこんだ感情(エネルギー)を外に出す「下剤」です。怒りのせいで、普段よりも力が出るのではなくそれだけ外に出さないといけない感情(エネルギー)がたまっていたということです。つまり感情を表に出さない習慣を身につけているとある程度たまったところで「怒らざるをえない場面」を用意されるということなのです。ですから怒りをおさえるという行為はとても苦痛なのです。怒る必要があるから怒っているのです。だから、怒っていいのです。感情は何年先、何十年先になろうともいつかは、表に出さないといけません。それは排泄物を出さないと息を吐かないと生きていけないことと同じことです。わたしたちのからだは何かを貯めこめるようにはできていないのです。怒ることはいけないことではありません。感情を感じたときにこまめに出していくかある程度ためて怒りの力を借りていっきに出すか自分がやりたいやり方を選んでいるだけなのです。けれども火山の噴火と同じでいっきに出たときのほうが被害は大きいですよね(笑)イライラするというのは感情をためこむ習慣がついていて結構、たまってきてますよというメッセージです。その現実があるからイライラするのではなくて「出すべきもの」があるから出しやすいようにイライラさせられているんです。出そうとしないから。「いつかは、その感情を出さないといけない日が来る」それからは逃げられないんですね。その日を来世まで持ち越すひともいますけど(笑)それでも逃げられないんですね。感情を表に出す怖さから逃げることは感情をためている間ずっと、不快に生きることを自分に容認していることと同じことなんですね。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月19日
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まずは目に見えないものが先にあってその次にその目に見えないものにふさわしい現実がやって来ます。それはなんで?と、問われても「この世がそういう仕組みになっているから」としか言いようがありません。ですからこの世で生きている限りはこの仕組みに従って生きるしかありません。この、目に見えないものとは「自分が信じていること」を指します。その「自分が信じていること」にふさわしい現実がやってきているのですからわたしたちは「自分が信じていること」に囲まれて生きていることになります。逆に言えば自分の信じるものが変われば現実も変わっていくということです。しかし自分が何を信じているのか自分で気づけていない場合も多いんですね。具体的な例をあげますと苦労が絶えない現実にいるひとは「苦労なくして、成長はありえない」「楽して、お金が手にできるはずがない」「ひとに気に入られると、自分の価値は高まる」といったことを「信じて」いるから自分で苦労を引き寄せていることに気づけていない場合もあるということです。ですから人生に問題がある場合自分が何を信じているからその現実と出会っているのか?探してみたらいいと思うんです。自分を受け入れてくれないひとが現れているとしたら「このままのわたしでは、受け入れられない」「このままのわたしでは、愛されない」「このままのわたしでは、認めてもらえない」「このままのわたしが、好かれるはずがない」「わたしをわかってくれるひとなんていない」そういったことを「信じて」いるから「そのひと」が現れている確率がかなり高いんですね。だから自分で自分にOKをあげる割合が増えて信じるものが変わっていけば「自動的に」「そのひと」のあなたに対する対応も変わっていくんですね。あなたが信じているものに従って「そのひと」も動いていますから自分の信じているものを変えないで「そのひと」だけを変えようとしても無理なんですね。つまり、「そのひと」はあなたが何を信じているのかを教えてくれているだけということです。「他人は鏡」とはそういうことです。出来事やひとにいい・わるいと評価を下す自分から自分が何を信じているからその出来事、ひとと、出会っているんだろう?と、疑問に思う自分になる。それがこれからの課題なのです。~おまけ~めったに本を買わないわたしですが今日、本屋で本に呼ばれて衝動買いした本がありました。「見るだけでしあわせになる魔法の絵本」中河原 啓 ・著マキノ出版ながめるだけでいいかなり波動の高い絵本なのでおすすめです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月18日
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散歩する道のわきに小さな石を敷き詰めた素足で歩くコースがあります。いつもその上を歩くとき足の裏が、痛くて痛くて手すりを持ちながら体重をおそるおそるかけながら歩いていました。今日、目薬を買いにいくとき途中の神社に急に入りたくなっておまいりしたら足の裏が妙に地面としっくりくっついている感覚を覚えました。そこで気づきました。わたしも、ようやく地球を信じて、任せて体重をあずけられるようになってきているのだと。そのとき、思ったんですね。わたしは片方の足を交互に支えてもらっていたから歩くことができていたんだと。それからは地球に支えてもらっていることを足の裏で意識しながら歩いていました。で、そんなとき小さな石を敷き詰めた素足で歩くコースの横に来たので歩いてみました。さきほどの信じて、任せて、普通に歩くように足をおろしてみたら痛くないようにおそるおそる体重をかけていたときよりぜんぜん、痛くないんですね。それに手すりを持たなくてもコースを歩けました。こんなことは初めてなのでおどろきました。いつもは、1歩踏み出すたびに「あたたた」「あたたた」と言いながら、手すりを持ってよたよた歩いていたのですから。ようやく信じて、任せるということがどういうことなのか。実践としてできる自分になりつつあります。そして「痛みがある場面」ほどそれがわかりやすいということもわかってきました。
2008年06月17日
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今日も長い!(笑)時間とは概念です。わたしたちは「今」というものを知るために「過去」と「未来」を自分の中に創りだします。わたしたちが生きて体験できるのは「今」しかありません。明日も寝て、目が覚めたら「今」なのです。つまりわたしたちは「今の連続」を生きていてそこに朝とか、日曜日とか、午後とか名前をつけているにすぎません。浄化の仕組みを知る上でわたしたちは「今」にしか、生きることができないということを知ることはとても重要なことです。こころの浮き沈み不安や後悔というものは「今」にしか生きれないわたしたちが存在しない「過去」や「未来」に意識を向けることから始ります。なぜ、意識を向けてしまうかというとそれは「引っ張られているから」なのです。わたしたちは過去の出来事というこういう場面でこういうことがあったという「ただのデータ」に「傷つけられた」「つめたくされた」「認めてもらえなかった」「やさしくしてもらえなかった」などの「想い」をその出来事と「セット」にして自分の中にしまっています。その、想いが今にある意識を過去へ引っ張るのです。ですから、浄化とは過去の記憶とセットになっている想いを浄化して過去の記憶をただのデータに戻して・意識を今に向けられる機会を増やしていくこと・意識が今と過去を行ったり来たりする 回数を減らしていくことを言います。それは過去そういった想いをいだいたときの自分をみつけだしてあるがまま認め、受け入れてあげることであって「いらないものを捨て去ること」が浄化ではないのです。「いらないもの」なんか自分の中にはないのです。自分の中を「いるもの」と「いらないもの」に分けてさらに、それを捨てようとすることを動機に浄化という、自分をよくしようという行為を始めようとすることはいらないもの(否定)を捨てる(否定)という否定を否定しているだけで自分が浄化をすることを肯定しているのではないのです。だから浄化がうまくいくはずがないのです。これは「自我の一人二役」という気づくのが最も難しいからくりなのです。浄化とは過去そういった想いをいだいたときの自分をみつけだしてあるがまま認め、受け入れてあげることと書きました。それはこどものときの自分の目線から見た親に対する想い(期待)なんです。大人になってから自分に起こるさまざまなトラブルの原因はその大元をたどっていくと必ず自分の中で未消化になっているこどものときの自分の目線から見た親に対する想い(期待)にたどりつくんです。ただ今の自分の問題の原因は自分の中の未消化の親子関係と言われてもこどものときの自分の目線から見た親に対する想い(期待)は「忘れてしまっている場合が多い」のですね。それに自我が古い傷に触れないように「巧妙なすり替え」を行っていますから自分の中で親に対する想いは整理がついていると自我のすり替えによって思わされているひとも多いのですね。わたしたちは親から生まれてきますから親がすべての基礎なのです。その親との間にわだかまりをかかえていると目の前の現象、人間関係何らかのかたちで問題が起こってきます。たとえば「親に認めてもらえなかった」という想いを消化できずにかかえているとこどもにとって、親は自分の世界のほとんどを占めますから「親はわたしを認めてくれない」から「わたしを認めてくれるひとはいない」に自分につけるシールがすり替わりそのシールはおとなになっても「親に認めてもらえなかった」という想いが消化できるまではがれることはありませんから「認めてもらえないわたし」を感じざるをえない人間関係を何歳になっても自分で引き寄せることになります。親がこんなことをした。親にこんなことを言われた。に注目するのではなくそのとき自分は親にどんな期待を持っていたのか?そこを探すのです。親がこんなことをした。親にこんなことを言われた。から傷ついているのではなくそのとき、親に対して持っていた「もっと、やさしくして」「もっと、愛して」「もっと、受け入れて」「もっと、かわいがって」「もっと、認めて」「ちゃんと、はなしを聴いて」などの期待に親が応えてくれなかったから傷ついているのです。そのとき持っていた「期待」を思い出すことが今の「なんでこんな人生なの?」の原因を解明する鍵なのです。すべて親に対して持っていた期待を親に裏切られたことで自分で自分につけたシールが今の目の前の現実をつくる「出発点」になっているのです。それは、親が自分の出発点だからです。シールの説明はこちらいくらお金を使っていろんなひとの話しを聞いたり本をよんだりセミナーに参加しても「根本の部分」で人生が変わっていかないのは自分が親と向き合っていないからなのです。どんなひどいことをした親でもこころから感謝できる自分に「自分から」なっていかない限り人生において慢性的にかかえている問題は終わらないのです。許せない親ほど自分の中のどこに「磨き残し」があるのか教えてくれる貴重な存在なのです。「誰からも愛されなくても 自分から愛することはできる」この究極の課題に取り組もうとしている志の高いあなたがその親を選んだのです。それにはまず「愛されない自分」を体験する必要があるからです。そのためにあなたが必要として選んだ親なのです。いつ、自分から、親に飛び込んでいくか?人生を変えるタイミングはまさにそこなのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月16日
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すべてはうまくいっている。いろいろな学びってそこに立つためのものそんなふうに思っています。すべてはうまくいっている。その立場で人生に起こる出来事をながめることができたならその出来事を想い通りにいかないとか自分は傷ついたとかそういう「受け止め方」をしなくなると思うんですね。人生をうまくいくようにしようといろんな技術や法則を学ぶ前に「なぜ、すべてはうまくいっていると思えないのか?」その理由を自分に追及することが実は先なんですね。すべてはうまくいっているのですね。実は。そのことを信頼するかどうかは自由です。すべてはうまくいっているから自分に必要なことしか起こらないのですね。実は。そのことを信頼するかどうかは自由です。それはそのことを信頼しないこともすべてはうまくいっている過程だからです。今は、そのことを信頼しない自分という立場で学ぶことがあるからです。どんなひとのどんな現実もすべてはうまくいっている過程なのです。それが信頼できないのは自分が信頼できないから自分に現れる出来事も信頼できなくなっているからなんです。どんなひとも深いところでは自分に必要な答えを知っています。その答えを知ることができないのは自分の深いところとつながっていないからです。その自分の深いところとつながる唯一の方法が自分を信頼することなんです。そして自分を信頼するとはあるがままの、いまの自分を「認める」ということなんです。決して「信頼するに値する何かになる」ということではないのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月14日
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「わたしは、地獄から這い上がってきたんですよ」這い上がってこれるような場所を地獄とは呼びません。自分の「苦労自慢」「不幸自慢」をしているときまだまだそのひとの中には「復讐心」が残っているのです。ほんとうに苦労や不幸を乗り越えて自分の肥しにできたひとは「今」の話ししかしません。そして乗り越えたひとにしかできない笑顔で生きています。わたしがシールを浄化することで目指しているのがその笑顔で生きることなんです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月12日
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謙遜よりも謙虚を。遠慮よりも感謝を。ひとは誰かからやさしくしてもらったり親切にしてもらったりしてほしいことをしてもらったときうれしくなります。自然と感謝の気持ちがわいてきます。しかしやさしくする親切にするしてほしいことをしてあげるこういったことは自分で自分にもしてあげられることなのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月12日
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今日むっちゃ長いです。いつものことだけど(爆)どんな問題でも解決できるすばらしい方法があります。それはかめおかゆみこさんの言葉を借りて言うと「自分とまっすぐにつながること」です。なぜなら自分とまっすぐにつながると問題が問題でなくなるからです。そのことを「問題だ」ととらえるから「解決する必要」がでてきます。しかしそのことを「問題だ」ととらえない自分になると問題そのものがないわけですから解決する必要もなくなります。問題があるから解決策が必要になっているのではなく自分でそのことを「問題だ」と受け止めてしまっているから解決策が必要になっているのです。では、どうすれば自分とまっすぐにつながるようになれるのでしょうか。それはシールを貼るのをやめることです。「感謝がない」「わがまま」「とろい」「明るい」「暗い」「無口」「不器用」「いじわる」「いけず」「けち」「だらしない」「かっこいい」「元気」「スケベ」「男らしい」「女らしい」「お金持ち」「乱暴」「太ってる」「やせてる」「やさしい」「きもい」「自分勝手」「頑固」「無愛想」「あたたかい」「つめたい」「できない」「なれない」「持てない」「わかってもらえない」などなど・・・・とても、とても、書ききれませんけどこういったシールをわたしたちは無意識のうちに自分や他人に貼りまくっています。自分とまっすぐにつながるということは「本来の自分」とつながるということです。しかし「本来の自分」は長いあいだ上から、このシールを幾重にも貼られてしまって隠れてしまっているからなかなか、自分でさえ見つけることが、困難になっています。だから、自分の本音がわからない。自分に素直になれない。と、なってしまうのです。それは「シールの自分」を長年、見慣れるあまりそのシールの下に何があるのかを忘れてしまったからです。あなたの中には2人のあなたがいます。ひとりは、本来の自分。もうひとりはシールを製造して、本来の自分の上に貼っている自分です。この、シールを製造している自分を自我(エゴ)と呼びます。この自我とは「よい」「わるい」「ただしい」「まちがい」「きれい」「きたない」「正義」「悪」など・・・世の中を2極に分けて見る自分です。つまりこの自我を「自分そのもの」と思っているうちは「わたしにはできない」「わたしには持てない」「わたしでは叶えられない」「わたしでは受け入れてもらえない」「わたしは暗い」「わたしは不器用」「わたしは傷ついている」「この年齢では無理」「迷惑をかけちゃだめ」「役に立たなきゃだめ」「いいことをしたほうがよい」「場を乱してまで言いたいことは言っちゃだめ」「好かれないとだめ」(これ全部、わたしのシールです(爆))などなど・・・そういったシールの自分を「自分そのもの」と思ってしまうのです。だから、問題が絶えないのです。なぜなら問題とは自分が「好き」「きらい」「できる」「できない」「よい」「わるい」「ただしい」「まちがい」などと物事を分けることで生まれるからです。つまり人生の問題はすべて「あなた、本来の自分で生きてませんよ」という、メッセンジャーなのです。人生の問題は本来の自分に気づくためにやってきてくれているのですから本来の自分に気づけば『問題を必要としない自分』になれるのです。つまり問題と出会ったときは自分が自分や他人にどんなシールを貼っているからそれを「問題」と、とらえてしまうのだろう?と、尋ねる「機会」に使うほうがよいのです。解決策を探す前に。で、このシールはおもしろいもので「その存在に気づけば」勝手にはがれてくれるんですね。そして自分からはがれたシールと同じシールが他人からもはがれるんですね。逆もあります。自分が、他人につけていたシールをはがしたらそれと同じシールが自分からもはがれます。「他人は自分の鏡」というのはこのことを言っているんです。つまり他人を批判しているということは鏡にうつった自分に貼っているシールを自分で批判しているということなんです。自分では、自分にそんなシールがあることは気づいてはいないけれども本来の自分が「そんなシールは自分には必要ない」ということを訴えているからです。それが「自我の他者の批判」というかたちで現れているのですね。先ほど人生の問題は本来の自分に気づくためにやってきてくれていると書きましたけれどもそれを用意しているのは実は本来の自分なんですね。人生の問題という「あなた、本来の自分で生きてませんよ」というメッセージはシールの下の本来の自分から来ていたんですね。自我は損得で行動を起こします。本来の自分は愛で行動を起こします。自我は不安を埋めるために行動を起こします。本来の自分は信頼で行動を起こします。どちらの自分で生きるのが正しいじゃなくてどちらの自分で生きるのが楽だと思いますか?選んでください。ということなのです。それを問われているのが今の時代なんです。~あとがき~シールは存在に気づくだけではがれると書きましたけれどもそれは、上の方のシールで本来の自分に近いシールほど糊が強力になりますので気づいただけでははがれない場合があります。(こころの傷とシールがセットになっている場合とか)そんなときはどうか専門家の手を借りてください。有名か無名かではなく自分に合うか合わないか自分の直感で専門家は決めてください。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月10日
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携帯メルマガ「フォーカスチェンジ・フラッシュ」 創刊1周年記念プレゼントキャンペーンのお知らせ。 わたしが、ホームレスから立ち直るきっかけをくれた方でもありわたしの、腹違いの種違いの姉(笑)でもあるかめおかゆみこさんが発行している まぐまぐ殿堂入りメルマガ「今日のフォーカスチェンジ」から、名言をピックアップして、毎朝お届けしている3秒で読める、今日1日の気づきの素携帯メルマガ「フォーカスチェンジ・フラッシュ」が6月15日で、創刊1周年を迎えることとなりました。 それを記念しまして、かめおかゆみこさんが厳選した「スペシャル開運グッズ」が当たるプレゼントキャンペーンをおこないます! (携帯メルマガは、パソコンからの登録もできます)(6月15日スタートですので、 なるべく、余裕をもって、登録しておいてください) 読者登録はこちら携帯から直接登録される場合は、ミニまぐ画面にて http://mini.mag2.com/ メルマガID 68733 を打ち込んで検索→登録 キャンペーンの内容や、応募方法は6月15日の携帯メルマガにて、お知らせします。
2008年06月09日
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その本の中に答えがあるわけではありません。そのひとの言葉の中に正解があるわけではありません。人生とは自分で決めたことをやってみる。そして、その結果を味わう。ただ、それだけです。だから答えも正解もないんです。わたしたちは答えも正解もないことを知るためにいろんな本を読んだりひとの話しを聴きにいったりしているのですね。やりたいことをやっていいのです。ただし、それが「本当にやりたいことなのか?」という確認は自分にとる必要はありますが。わたしたちは自分で気づかないうちに「やりたいから」ではなく「ただしいことだから」「いいことだから」「しかたないから」「逃げたいから」なんかで行動を起こしていることが結構あるんですね。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月09日
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あのひとの、言うことだから、信用できる。この文章を言っているとき相手の言っていることに自分が「あのひと」という「色」をのせているから「信用できる」と言っていることに、気がついているでしょうか?つまり言っていることばの内容を信用しているのではなく「あのひと」が自分の信用しているひとだからそのことばにも、信用という「色」をつけて「信用できる」になっていることに気がついているでしょうか?だから信用がない相手が言うことばは言っていることばの内容を吟味することなく「信用できない」になってしまうのではないでしょうか?人生の出来事を学びに変えるためには「今、自分に何が起こっているのか?」を正確に把握する必要があります。その「正確に把握すること」を邪魔しているのが自分がひとや、物事につけている「色」なんですね。その自分がつけている「色」という「先入観」が人生の出来事を「自分の都合がいい」ように塗り替えてしまっていることに気づいていないからなかなか「正確に把握すること」ができにくいんですね。「今、自分に何が起こっているのか?」を正確に知る、ということは「今、自分のこころが、何に反応しているのか?」を正確に知る、ということなんです。しかし相手に、「嫌い」という「色」をつけているとその「嫌い」に意識が向いてしまってそこに「反応」してしまうから自分のこころの反応にまで意識がまわらなくなってしまうのです。だから、いったん「色」を落としてしまうんですね。それは相手というスピーカーから発信されたただの情報であると。嫌いな相手を、スピーカーという無機質に置き換えることでいったん、「嫌いという色」を落とすんです。そこで、色のついていない相手の言葉を「ただの情報」としてたんたんとながめてみると本当は、自分は何に反応していたのか?が見えやすくなってきます。嫌いなひとを、色を落としてスピーカーにしてみました?自分「から」相手に色をつけてしまったがためにその色によって自分が反応「させられている」ことに気づいていただけたでしょうか?自分でつけた色に自分が踊らされていることに気づいていただけたでしょうか?嫌いな相手があなたを反応させているのではなくあなたが相手につけた「嫌いという色」があなたを反応させていたのです。「嫌いという色」をつけざるをえなかったいきさつはいろいろあると思います。しかし「嫌いという色」をつけている限りそのひとと会うたびにそのひとを思いだすたびにあなたは「自分が感じたくないものを感じる」という、反応を死ぬまで続けないといけないのです。そこから、抜けだすには「相手につけた色を、自分から取る」これしか方法はないのです。自分「から」つけた色は自分「しか」取ることはできないのです。『これからの自分のために』「わたしは、ダメなんです」「あのひとは、わたしを傷つけた」「あのひと、嫌い」「わたしには、できない」「あのひとに、言ってもムダ」・・・そういった、自分やひとに自分がつけてしまった「色」をひとつずつ、取っていくと「決めて」みませんか?「色」のない無色透明な自分や相手を観るように努力してみようと「決めて」みませんか?よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月06日
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先日アランに会ったのですが(ドロンではなく、コーエンの方)そのことで、わたしに変化が起こりました。わたしが会場についたときちょうど、サイン会をやっていたのですがその後ろ、3メートルくらい離れたところから「ほ~。こんなおっさんなんや」と眺めていたら、「熱い」んですよね。つまり、オーラの直径が、半端じゃなくでかいんです。3メートル離れていても、アランのオーラの中でまた、そのエネルギーが熱いくらいに強いんです。けど、まぁ、いい機会なので、しばらくそれを浴びていました。で、セミナーの最後に瞑想ワークがありました。座っている自分のひざにはバスケット(かご)が置かれています。材質は、自分の好きな材質で。そして、自分には「光の雨」が空から降り注いでいます。その、バスケットに、光の雨がたまっていきます。そして、ある程度たまったらそのバスケットを大きくしていってくださいという指示があったんですがわたしの場合そのバスケットが一瞬にして湖に変わったんですね。イメージというものが極端に苦手なわたしとしては自分でびっくりしました。そして、湖を想像できるということはひょっとして、自分で思っている以上に自分の器はでかくなっているのかな?と思ったんですね。けど、そのときは光る水の湖の中心に自分がいてその水で会場を満たしているというイメージだけして終わったんですけど今日、住吉大社行っていろんな木と会ってみたら今までと違うんですよね。今まで、見向きもされなかった木に呼び止められたりして。確実に扱えるエネルギーの量感じる度合が格段に上がっているんですよね。ハートチャクラの開放度が上がったと言いましょうか。自分を高めるには自分より高い波動を持つひとに会えというのは、ほんまやなーと思いました。けど、アランのおっさんどー見ても、ふつーのおっさんなんですよ。だからね相手に「すごい」と思わせているうちはほんまにすごくないんやなと思ったんです。「ほんまもんほど、ふつー」これは、知識としては知っていたんですけどほんまでした。これは言い換えると自分がどんな立場に置かれてもいつも自然体ということだと思うんです。ということは訪問販売の電話のひとに「お嬢さまと呼んでくれたら・・・」と言ってるあのお方もほんまもん!?!?う~ん。認めたいような認めたくないような・・・(爆)後から蹴りをくらわないうちに退散!!!!
2008年06月05日
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「真実」 と「自分にとっての真実」 は違うことが多いんですね。自分がそれを体験したということは真実です。しかし自分がそれを「どう受け止めているか」(どんな意味をつけているか) とそれの「本当の姿」 は違う場合が多いと言ったほうがいいでしょうか。過去の体験からくる「わたしは○○だ」「あのひとは○○だ」というのは真実ではなくてただ、自分が「そう受け取りたい」「そう意味をつけたい」と思っているだけなのかもしれませんね。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月05日
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今日3本目です。今日、神社を出て自転車に乗ろうとしたときひとりの、あばあさんがわたしを、犯罪者をみるようないぶかしい顔でずっと、にらんでいました。その態度に、一瞬、反応しそうになったのですがふと、視線を変えると信号の向こうに口を、ぽか~~~~んと開けてボ~~~~~~っとしているおじいちゃんがいました。そこで、思ったのです。わたしは、どちらの立場も選べるのだなと。わたしがおばあさんに反応しそうになったのはそのおばあさんと同じ立場に立とうとしたからでした。そしてなぜ、そうしそうになったかがわかりました。それはわたしに「自分の価値は、ひとによって決められる」という、思いこみがあったからでした。「自分の価値は、ひとによって決められる」と思っていたからあばあさんが、犯罪者を見るような眼でわたしをにらんでいたことに反応しそうになっていたのでした。相手がどんなふうにわたしを観ようともそれと、わたしの価値は何の関係もなかったのです。そこに気づくことができました。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月04日
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今日、2本目です。汚れ(けがれ)ということばがあります。これは「気枯れ」 から来ています。自分の中の気が枯れると汚れた発想が出てきやすくなるからです。気とは、エネルギーです。そしてひとや、自然と触れ合うとそこに、気の循環が起こります。好きな人と会ったり自然の中にいると気持ちがよくなるのはそこに、気の循環が起こっているからです。しかし誰とも会わないでひとりで考え事をしていると自分の気を消費するだけですからだんだん、気が枯れてきます。すると、ろくでもない考えが出てきやすくなります。自分を苦しくする考えしか出てきにくくなります。そして、煮詰まってしまいます。だから、そんなときはひとと会ったり自然の中に行って自分の中の気を循環させてあげるとまた、違った発想がでてきやすくなります。そのとき何も考えないでいるほうがより新しい発想を得やすくなります。学校の試験みたいにあらかじめ、答えの決まっているものは考えて答えを出すのですが人生のようにあらかじめ、答えの決まっていないものは何も考えないで「ひらめき」というかたちで答えが出てくるのを「待って」いたほうが答えを得やすいと思います。わからないのは今、わかる必要がないから。わかる時期が来ればそのうち、いやでも答えを知ることになる。そんな、スタンスでいいのではないでしょうか。答えは「自分で考えて出さないといけない」と思っているより「そのうち、答えの方からやってくる」とやってくることを、信頼して、任せていたほうが答えが出ない間を楽に過ごせると思うのですがどうでしょうか。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月04日
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あれからさらに2匹のゴキブリが部屋の中に侵入してました。なぜ、ホイホイ防衛ラインが突破されたのか?それは、壁づたいに侵入されていたからでした。「床を通って入ってくる」は人間の発想でした。それと、もうひとつわかりました。進入路に影をつくらないこと。どうも、ドアの外側の上に登りドアとのれんの間に身をひそめドアが開くとその高さから壁をつたって侵入していたみたいでした。なので、のれんを外しました。ゴキブリが多いということはそれだけ隠れる場所が多いということ。隠れる場所が多いということはそれだけ、物が多いということ。だから、物を減らして隠れる場所を減らせばゴキブリは、隠れる場所が多いところへ移動していく。ゴキブリは「不必要な物が多いのではありませんか?」という、メッセンジャーだったのです。・・・と意味もなくきれいにまとめてみました(笑)
2008年06月04日
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わたしの祖父も両親も家の中にどれだけゴキブリがいようと気にならないみたいです。わたしは、中学生のときテーブルの上にあった麦茶を、容器ごとラッパ飲みしたとき飲んだあと、容器を観るとその麦茶の中に数十匹のゴキブリが浮いていたときがありました。それでも、何ともなかったので人間のからだってすごいなぁと思ったのを覚えています。あるとき、ビデオデッキが動かなくなったので裏ぶたを開けてみると一面、ゴキブリがびっしりで機械が見えない状態だったこともあります。台所はいつも、洗われていない食器が山積みで風呂上がりはいつも、同じ濡れたバスタオルをずっと使わねばならず部屋の中は、足の踏み場がないほどゴミだらけでした。わたしは、そんな環境の中で育ってきたんですね。で、20年ぶりくらいに帰ってきてまた、身近で過ごすようになったんですがぜんぜん変わってませんでした。今は、じいちゃんと暮らしているので家の中はずいぶんましなのですがゴキブリの数は、うちの実家といい勝負です。ちょっと、部屋のドアを開けたままトイレに行こうものならその数十秒の間に、必ずゴキブリが部屋の中に入ってきます。もういいかげん、そのつど殺すのもしんどいので「ホイホイ防衛ライン」を部屋の入口につくりました♪これで、入ってこられたらもう、敵を「あっぱれ!」とほめるしかありません(笑)人間の知恵は自然には及ばないのだとあきらめるしかありません(悲)今日はアラン・コーエンさんのセミナーに行っていました。アラン・ドロンなら知っているのですが最近、やたら名前がでてくるのでどんなひとだろうと見に行ってました。会場には周りのひとは気づいていませんでしたけどはづき虹映さんが、奥さんとプライベートで聴きに来ていたのでそれを見つけたことのほうがわたし的には、うれしかったです(笑)言ってる内容は基本中の基本のことでしたが・・・とこれを書いているわたしの横を今、ゴキブリが・・・・ホイホイ防衛ライン初日にて敗れる!!!!!・・・・・もう、受け入れます。だって、同じ宇宙の仲間じゃないか。アハ・・アハハハ・・・・え~とどこまで・・・そうそう。基本が大事ということです。基本をきっちり日常で実践できていたら○○の法則とか習いに行く必要はないということです。その基本とは何か?・自分を輝かせることをする。・自分が消耗することをしない。これだけです。自分が愛するひとにしてあげるようなことを自分にしてみるのもいいと思います。けれどもその基本さえも自分はすでに知っているということです。だからすべては、大丈夫。こうしないといけないということは何もないのです。今の自分に、正直になれるよう自分で、自分を導いてください。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月03日
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自分が変われば、周りが変わる。今、これを少し体験しています。ほんと、そーだなと思います。理由はわからないけど周りが勝手に変わってくれるそんな感じです。だから自分が変わることが順番として、最初になってくるのですけどどんなときに、自分が変わりやすいかというとわたしの経験では「はずかしい自分を他人にさらけ出したとき」が一番大きく、自分の中が変わっていったように思います。ここでのコツは「ありのまま」さらけ出すということではずかしいことの一部を隠したり脚色を加えたりするとそんなに変化はありませんでした。はずかしい自分を、他人にさらけ出しなさい。大嫌いなひとの目を見て、感謝を伝えなさい。そんなこと言われた日にゃものすご~~~~~~~くこころが抵抗すると思うんですね。「絶対にイヤ!!!!!!」と。けどわたしの経験からいうとこころの抵抗が大きいものに飛びこんだときほど自分の変化も大きかったんですね。だからこころの抵抗の大きさというのは自分の変化のバロメーターになると思うんです。大きく変わりたいひとはこころの抵抗の大きなものに飛びこめばいいし小さく変わりたいひとはこころの抵抗の小さなものに飛びこめばいいし変わりたくないひとは何もしなくていいですよ。そんなことをこころの抵抗は教えてくれているような気がするんですね。だからこころに抵抗がある、ということはその大きさと数だけ自分は変化できるということなんです。しかし自分の中の「自我ちゃん」は「現状維持」がお仕事ですから自分を変えようとするあなたに「そんなことに挑戦したら 怖いよ~。危ないよ~。傷つくよ~。 それよりも、昨日と同じ安全な生きかたをしようよ」とささやいてきます。ここで、ほとんどのひとは自我ちゃんの言うことをきいてしまうんですね。なぜなら怖いことに挑戦しなくても生きてはいけるからです。ここで「わたしは、本当はどうしたいの?」と自分に、もういちど質問してほしいんですね。その質問を繰り返しているうちにいつの日か自我ちゃんの言いなりにならない日が来るかもしれませんね。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月02日
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結局は自分で気づいていく以外に道はないような気がします。「知った満足」で終わるのではなく知ったことを、今の自分と照らし合わせて自分で気づいたものだけが「腑に落ちて」いくのだと思います。生きているといろんな出来事が起こります。それに、ひとつ、ひとつ「いいこと」「わるいこと」と”意味をつけていく”生きかたもあれば何が起こっても「それがいまの自分に必要なプロセス」と出来事に意味をつけずその出来事で自分のこころがどう動いているのか?そこを見つめていくというすべての出来事を今の自分に必要だからベストのタイミングで起こっているんだと真摯に受け止めていく生きかたもあると思います。「いいこと」「わるいこと」と「自分の都合」を基準にそのことを観ているひとと「それがいまの自分に必要なプロセス」とそのことに「評価」を加えずそのことを観ているひととではまったく同じことが起こっていても自分の中の「そのことへの意味」はまったく違ってくると思います。自分の人生で何が起こってもそのことに対する受け止め方は「ひとつではない」ということです。「ついてない」「おもしろくない」「苦しい」そう思えることでも自分の現実に対する受けとめかたを変えさえすればまた、ちがったことを思う自分になれるのです。「そのこと」が起こったからおもしろくないのではなく「そのこと」が自分の人生で起こることはいけないことだと思っている自我がおもしろくないとあなたに感じさせているのです。誰でも「おもしろくない」と思っているのは「自分」だと思っています。しかし、それは「自我」なのです。「自我」を「自分」と錯覚しているから人生を投げやりになったり自殺してしまうのです。わたしもまだ「過程」ゆえ自我と自分との距離の置きかたを誰でも実践できる方法でお伝えできないのですがこれは本当のことです。自分が「心地よくない」と感じるものはぜんぶ「自我」のしわざですから「これは自我の声で、自分の声ではないんだ」とどうか、そこにおぼれないでください。不安になっても「自我が不安になりたいだけで わたしが不安になりたいわけじゃないんだな」と他人ごとのようにながめていてください。知識や理屈は必要ありませんから「心地よく感じるほう」を選択していってください。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年06月01日
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