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今日2本目です。世界一しあわせになる方法。それは今、ここの自分を大好きになること。以上(笑)あれが「持てたら」こう「なれたら」その「条件」を自分につけているのは実は「自分そのもの」ではなく「自分の一部」の自我なんです。自我は何かが足りない何かが欠けているという「欠乏感」とこうしないといけないこんなことしちゃだめだという「強迫観念」を燃料にして動いています。だからあれが「持てたら」こう「なれたら」しあわせになれるのに。問題が解決するのに。と「たら」を出発点としてそれを持てたり、なれたりしてもそうなった時点で「もっと、もっと」や手にしたものを失う恐怖が始まってまた、「新たな問題」が生まれるだけなんですね。それは本当の自分に従って生きているのではなく自我を自分と錯覚して生きているからなんです。本当は「いろんな方法」があるのです。でも、自我はデジタルな野郎なんです。0か1かの野郎なんです。正しいか、間違いか。いいか、わるいか。善か、悪か。だから「選択肢がいつも、ふたつしかない」なんですね。そして自我は「他人に反応すること」が大好きなんです。あなたが他人の行動、言葉、書いていることに「反応」しているときあなたの中に正しいか、間違いか。いいか、わるいか。善か、悪か。それらが渦巻いていないでしょうか?それはあなたが、あなたではなく自我をあなたと思って動いている証拠なんです。「頼まれてもいないのに」アドバイスしようとしたり「自分にされているわけでもないのに」ひとの行いを批判したりそんなときは「あなた」ではなく「自我」が動いているのです。世の中にはいろんな教えやいろんな本がありますがそれぞれ表現は違えど本当の自分と自我は違うものなんですよということを言っていて自我 = 自分 という錯覚から目覚めることを諭しているわけです。今まで「自分の声」と思っていたものが実は自分の声でなく自我の声だったということに気づくことが本当の自分を生きこの世の本当の姿を知ることには欠かせないのです。しかしあなたが死にたくないように自我も死にたくないのです。だから、巧妙にあなたになりすまそうとします。そしてあなたの人生の主導権を奪い続けようとします。それに自我を自分と思ってきたから自我を手放すことは自分が自分でなくなってしまうような錯覚も生むから自我を手放すことにはどうしても抵抗が生まれるんですね。本当の自分は、運転手。自我は、車のコンピューター。肉体は車です。つまり正しいか、間違いか。いいか、わるいか。善か、悪か。で生きているあいだというのはあなたが車のハンドルを切っているのではなく自我という車のコンピューターにハンドルを支配されている状態なのです。それは自我という車のコンピューターが事故を起こさないようにつまり「もうこれ以上傷つかないように」進化し続けてきた結果なのです。それはそれで必要なことだったのです。「い・ま・ま・で・は」しかし本当の自分から「もうそろそろ、ハンドルを握らせてくれよ」という「サイン」がきているはずです。「生きるのが苦しい」と感じるかたちで。だから自分を客観的にみつめてそれは自我の声なのか?自分の声なのか?見極める姿勢がこれからとても大切になってくるのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月31日
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今日も浄化してたら急におなかが痛くなって。「2日連続か!?!?」と思っていたのですがなんとか今日は大丈夫でした(笑)こんなことを聴いたことがあります。感情をためこむクセのあるひとは便秘になりやすく感情を手放すことをあせっていると下痢になりやすいと。たしかに、自分の中にあせりがあるのかもしれません。それと手放すことへの抵抗も無意識にでているのかもしれません。今日おバカなことばかり繰り返す自分をいつものように責めようとしたときふと、気づきました。わたしはこころの深いところで「現在進行形」で自分を責めているから「自分を責めやすい場面」をわざわざ自分で自分に用意しているんだな、と。だから同じ過ちを繰り返してしまうのか、と。なので「自分をもう責めない」と決めました。自分で自分にそう、宣言しました。すると、不思議なものでやってしまった過ちがぜんぜん、気にならなくなりました。その件に関しては過去を引きずる自分がいなくなりました。自分がバカだから未熟だから同じ過ちを繰り返していたのではなくて「あんた、こころの深い部分では 自分のこと、責めてまっせ」という声にならない自分からのメッセージがわたしがそのことに気づくまでその「場面」を用意していたことに気づけたんです。それと同時にわたしが、復讐心をもっていたことにも気づけました。頭では、もうやめようと思っているにもかかわらず繰り返してしまうのは復讐心からきていました。復讐心さえも相手を責めているようで、実は自分で自分を責める口実を持つために自分で用意していたものであると気づけました。ひとや環境を責めることはきっかけは相手にあるかもしれないけれども自分で自分を責めていない限りそのことで復讐心は自分の中に生まれてこないことがわかりました。なんで、自分は自分を責めてしまうのか?その理由がわからなくても「自分を責めない」と決めることができたらすっきりしたのでこーゆーアプローチもありなんやなぁと思ったのでした。★よがふくが今日お勉強したこと★すべての出発点は自分で自分を責めていることでありそうしているあいだは自分や、ひとなどを「責めざるをえない場面」をそのことに気づくまで自分で自分に用意してしまう。だから、なんで、自分は自分を責めてしまうのか?それを探そうとするんだけどその理由は、潜在意識という自分で自覚できない場所にあることがほとんどで自分では、わからないケースが多い。今のわたしにもわからない。けど、「目的は自分を責めなくなること」であるから理由がわからなくても、いきなり「もう、わたしは、わたしを責めない」と本気で決めたら案外、これがうまくいきました(笑)ということが今日のわたしの学びでした。今まで自分で自分を責めることに「メリット」を感じていたから今日まで本気で決めることができなかったのでしょうね。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月31日
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今日1日ぎくしゃくした日でした。想いと現実がちぐはぐといいますか。なんか、すんなり事が運ばない日でした。空を観て風を感じて雨が降ると思ったので傘を持って出たんですがぜんぜん降らなかったしひさしぶりに大好きな、すがき屋の肉ラーメンを食べたらバイトの女の子の麺の湯切りが不十分でスープが薄かったしけど、そのバイトの女の子がかわいかったので許している自分を見てなんだかなーと思ったり(笑)そのあと、神社行って浄化していたら屁がでそうになって屁を出したら屁じゃなくてんこちびったり。もー、40になっておそとでんこちびった日にゃもーなにもかもど-でもよくなります(笑)なので、そこで浄化は中止。そのあとパチスロ行ってボロクソにやられてきました。んこちびったので「今日は運がついてるかも♪」と変なこじつけをしたのが大間違いでした(笑)んこちびった上にパチスロで負けて「何やってるんや俺」とそーとーにへこんでいたんですけどいまでは、昔のようにそこで、へこみ続けずに切り替えができるようになってきたのでよがふくちゃんも少しは成長しているみたいです。つまり人間というものは順調に行っているときよりも順調に行かないときのほうがこころが動くわけです。で、人間というものはこころが動かない限りいろんなことに気づくきっかけを得ることができないんですね。つまり「何でそんな出来事が起こったの?」を探すためではなく「なぜ、自分は、その出来事でこころが動くの?」を探すためにその出来事は起こっているわけです。だから「わたしの人生は 何でこんな出来事ばかり続くの?」を問うても答えはでてこないのです。なぜなら、その出来事は「なんで、あなたは、この出来事を 拒否するのでしょうね?」と、たずねているからです。その出来事を拒否する理由をたずねられているのにその出来事の起こる原因を探しているからその出来事が繰り返し起こるという「質問」が続くわけです。だからその出来事を拒否しない自分になれたらその出来事が続くことを終わらせることができるのです。それには拒否の仕組みを知る必要があります。つまり、ひとには「○○はいいこと」「○○はいけないこと」という価値観があるから拒否が起こるわけです。たとえば「損をするのはいけないこと」「得をするのはいいこと」みたいに。この価値観があるから損をすることに、拒否反応がでるのです。ですから自分が拒否してしまう出来事はその拒否を生みだす「○○はいいこと」「○○はいけないこと」という価値観を「両方」手放しなさいと言っているのです。それは「損をするのはいけないこと」という価値観だけを手放しても「得をするのはいいこと」という価値観が残っていたらまた「損をするのはいけないこと」という価値観が新たにつくられるからです。なぜならコインの表、裏、と同じで「○○はいいこと」「○○はいけないこと」という価値観はふたつでひとつだからです。「受け入れる」とは価値観を「手放す」ことなんです。それを、浄化と言うのです。「やさしくするのはいいこと」「やさしくしないのはいけないこと」という価値観があるからやさしくしないひとを拒否します。だからひとがやさしくしてくれなくてもおだやかな自分でいるためには「やさしくするのはいいこと」「やさしくしないのはいけないこと」という価値観を、両方手放す必要がでてきます。「やさしくすること」と「いいこと」は別のことです。それを、自分で勝手に「結びつけて」しまっているだけなのです。自分が、やさしくしたいからやさしくするだけで「いいこと」だと思ってやさしくするわけではありません。それが自分が本当にやさしくしたいのではなくてこういうときには、こうするのが「いいこと」だと思ってやさしくしているのならばそれはやさしくしているのではなくただの、打算です。ただの、損得勘定です。わたしたちは自分がしたいことをするために生きているのであっていいことをするために生きているわけではありません。ひとはひとから認められたいときにだけ「いいこと」をしようとするのです。なぜなら自分の中の「いいこと」は他人から植えつけられた価値観でできているからです。自分のオリジナルではないのです。よーく思いだしてください。「いいことだからしよう」と思っているとき他人に合わせようとしている自分はいませんか?他人から認められたいと思っている自分はいませんか?もうその時期は終わったのです。もうそうしなくても生きていける自分になれたのです。これからは他人にではなく自分に気を使う時期です。他人からではなく自分から自分を認める時期です。あなたは「いいひと」ではなくあなたになるのです。よがふくはA型です。山羊座です。しかしA型がよがふくなわけではありません。山羊座がよがふくなわけではありません。A型も、山羊座もよがふくがよがふくにつけた「ラベル」です。本当のよがふくはA型でも、山羊座でもなくよがふくなのです。だから「自分は○○だ」というのもあなたがあなたにつけた「ラベル」であなたそのものではないのです。「いいひと」もそのラベルのひとつなのです。ひとに合わせようとするからひとに認められたいと思うからあなたは何かになろうとする。それはひとに合わせなくても認められなくてもしあわせに生きていけることを知らなかったから。しかしもう、そのことを知る時期に来たのです。知っていることだけがこの世の真実のすべてではないのです。眼に見えるものはこの世の半分なのです。自分に合わせたひとだけが自分を認めたひとだけが知ることのできる世界があります。その世界に行く鍵はひとつ。「自分の本音から逃げないこと」です。しかし、ひとりだと逃げたくなる。そのためにいろんなサポーターがいるのです。もっと、いろんなひとを頼っていいのですよ。・・・・ときれいにまとめてみたところでんこちびるような男に説得力がないのが悲しい・・・(笑)そんなわたしでもよければ(爆)よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月30日
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今日、3本目です。最近わたしのところへ来るメッセージは復讐です。つまり人間関係がうまくいかないということは自分の深いところに親に対しての復讐心がありお金がうまくいかないということは自分の深いところにお金に対しての復讐心があるということです。親のせいでこうなった。お金がなかったからこうだった。そこを乗り越える必要があるみたいです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月29日
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今日、2本目です。いま気づきました。わたしがひとから認めてもらうためにあれこれしていたのはひとが反応することで自分の存在を確かめようとしていたからだと。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月29日
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みなさんに教えてほしいことがあります。レジに並んでいるとき自分の並んでいるところがぜんぜん進まなくて隣のレジがスッス、スッス、進んで行ったらなんか、こころが動きません?わたしの場合、なぜか「損した」といったような感情がでてくるのですがなんで、「損した」と思うのだと思います?それに、なんか流れているレジに急いで、並びなおしたいって衝動にかられません?なんで自分の価値観がレジで待たされることがいけないことでスムーズに流れることをいいことだと思っているのかその原因がわからないんですよ。流れているレジに並んでいるひとに比べて自分は時間を無駄にしていると思っているのでしょうか?では、なぜわたしは時間を無駄にすることに反応するのでしょうか?そしてどういうことを「無駄」 だとわたしはとらえているのでしょうか?待たされる ということに意味がないと思っているから待たされる と 無駄 をむすびつけてしまっているのでしょうか?どなたか、教えてくださーい。途中報告。わたしは、今浄化というものに取り組んでいるのですがそれは自分の本音でやっていると思っていたことがじつは、それすらも自我と二人三脚状態でしていたことだったということに気づいてショックを受けたからです。なので本当の自分 と 自我 を切り離してそこからどんな風景が見えてくるのか?そこからどんな現実が起こってくるのか?その確認がとりたくて分野ごとに体系づけた浄化に今までの自分の知識とか経験とかぜんぶ捨てていちから、真っ白になってこどもが、初めて、ひらがなを習うときのように先入観ゼロで取り組んでいます。おかげで、最近では自分と自我との「距離」がでてきたのを感じています。そして自分と自我との「距離」がでてきましたので相手のことばが相手の本当のことばなのか相手の自我のことばなのかがわかるようになってきました。この見分けがつくようになると相手のことばに反応する回数がものすごく減るんですね。相手が、自我でしゃべってるなというのがわかるとそれは、そのひとの本当の声じゃなくて自我に踊らされていってる声なのであっさり流すことができるようになってくるんですね。そこから気づいたことは自分が自分の自我と二人三脚やっていたから相手のことばに、「つい」反応してしまっていたんだなということです。そして自分と自我との距離ができるほど自分のことしか気にならなくなるということです。それは、無関心になるということではなくひとがなにをしていてもそこに「反応」しなくなるからOKがだしやすくなるということなんです。みんなそのひとのペースでやりたいことをやりたいようにやっていることにOKがだしやすくなるということなんです。じゃ、自我って何なのよ?浄化って何よ?と思う方もおられると思いますが今、わたしはお金払って、習っている状態なんで表にだしたくても出せないことがたくさんあるんですね。なので、知りたいひとは無料のPDFがあるので下からそれをダウンロードして読んでみてください。ここをクリック。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月29日
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・・・っていうか完璧になれないんだからどんな段階でも日記書いていいよね。ということで前言撤回して(笑)途中経過を書いていくことにします。まー今日感じたことは「自分は○○だから」「環境が○○だから」ということは一切言い訳にならないということです。「自分は○○だから」「環境が○○だから」と思ったときは「で?」「だから?」と自分に質問してみてください。そしたら自分が何かに対して言いわけしていることが見えてきますから。言いわけしてるってことは逃げたいことがあるってことですから。その逃げたいものを見つけて「なぜ、逃げたいのか?」ということがわかれば次の展開が見えてきますから。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月28日
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この日記1か月をめどにしばらく休みます。というのもものすごく根本的なところでものすごーくかんちがいしていることに気づけたからです。なのでこれから1か月をめどに自我の解体作業にはいります。技も知識も道具もことばもいらない。存在そのものとして提示せよ。そこを目指します。書きたいから書く。伝えたいから伝える。さらにその向こう側がありました。わたしの場合それすらも自我との二人三脚でした。ほんとうにしあわせな人生って「今」に居続ける人生です。しかし過去の記憶とセットになった今の自分を過去に引っ張る力があるから「今」に居続けることができなくなり今と過去を行ったり来たりする揺れ幅がそのままこころの揺れ幅になります。だから今に居続けるためには過去の記憶とセットになった今の自分を過去に引っ張る力を消し去って過去の記憶をただの記憶に置き換える必要がでてきます。そのための自我解体を始めようと思っています。最近のわたしに出てくるメッセージはすべて親・親・親 です。ほんと自分の親に対する思いがそっくりそのまま自分の人生の目の前の現実をつくっていることをまざまざと感じています。親ってほんとすごいです。自分のすべての問題は自分と親との関係性の中にすべて含まれています。自分が親に対して持っている「ひっかかり」をすべてクリアにできたなら自分が自分の目の前に問題と感じていることもすべてクリアになるのです。わたしはわたしにとってベストな親を選んで生まれてきたことがよーやくわかりました。親が「ひととしてどうか?」ということなんてぜんぜん関係なかったのです。親がわたしを愛してくれなかったのではなく愛してくれないことをわたしが望んでいたんです。親は最高の自分の鏡だったのです。いま自我がワサワサと騒いでいます。消されてしまうのではないか?と。必死にわたしをその方向へ導いてくれたひとを否定しろと言い続けています。けどわたしは自我を解体すると決めたのです。そしてそれは自我を消し去ることではないのです。わたしが消し去るのはわたしを過去へ引っ張るエネルギーなのです。そのための自我解体なのです。わたしの自我さん。いままでわたしを守るためにほんとうにありがとうございます。わたしはこれからあなたを解体してあなたとひとつになります。どうかよろしくおねがいします。ということで1か月ばかし消えます♪
2008年05月27日
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連チャンでお申し込みが入って今日も鞍馬ワークでした。途中2回、参加者とわたし見ず知らずのひとから怒られました。1回目は、電車の座席に荷物を置くな2回目は、鞍馬山で、ここへは立ち入るなでした。この2つのメッセージに共通するのは何か?みんなで考えてみたら「他人のエリアに踏み込むな」ということばがでてきました。そこから、さらにつっこんでみんなで考えてみると「ひとに頼ってはいけない」ということばがでてきました。つまりわたしと参加者全員に、共通して「他人のエリアに踏み込んではいけない」という価値観があってそれが「ひとに頼ってはいけない」という価値観につながっていることがみんなで確認できました。なので、早速みんなでその価値観を浄化しました。途中参加者と観光客とのあいだに運命的ともいえる出会いがあったり今日、集まるべくしてみんなここに集まっているそんな感じのワークでした。最後までものすごーくいい感じで進んでいたのに最後の最後に参加者のひとから怒られてしまいました。この内容で、3500円は安すぎると。なので、内容を考えてみると・ハンドヒーリングの伝授。・木とのエネルギーワーク。・石のマントラでのヒーリング。・観念、価値観、感情の浄化ワークの伝授。・歩きながらのカウンセリング。・質問による、紙に書く自己内観。・カードリーディング2回。確かに、安いです(笑)セルフイメージの低さが値段の低さにつながっていたみたいです。なので、値上げしました(笑)2日続けてやって思ったのは久々のカウンセリングなのに自分のカウンセリング能力が上がっていたことでした。以前のように価値観の押しつけにならず「なんで、○○なんでしょうね」と一緒にわからないフリをしてさりげなく誘導をかけることができるようになっていました。「認められたい」がなくなってきているから余裕をもって相手に考えさせるようにもっていけるようになっているのだと思いました。そして、あの過去があったから何気ない会話からそのひとの「核」を見抜ける力がついたんだとも思えました。自分がこれまで自然とやってきたものを組み合わせただけなのでさほどワークでやっていることに価値は自分で感じてなかったのですが今日、値段が安すぎると言われてあらためてカウンセリング、エネルギーワーク、浄化ワークカードリーディング、自己内観がセットになった総合的なものをいつしか自分は提供できるようになっていてなおかつ確実に結果がだせるように自分はなっていたんだなぁと思いました。自慢ですが(笑)数十年抱えていた思いをわたしのワーク1日できれいさっぱりクリアできた方もおられました。後から聞くと、そのひとはわたしが、あまりにも核(自分が触れたくない部分)をつくので話しを聴いている途中わたしに対して「殺してやる」と思っていたそうです(笑)けど悩みが重ければ重いほど傷が深ければ深いほど痛みが一番大きいけれども核をつくのが結果的に長い目で見て一番なんですね。しかしそれを実行するか先伸ばしするかの選択肢はいつも、そのひとに与えています。なぜならそのひとの人生はそのひとだけのものだからです。わたしにできることは問題の根っこの提示と根っこに対する選択肢の提示。それだけです。その後、こうしなさいとまでは言えないのです。そのへんの距離感がわかってきたことも自分の余裕につながってきていると思います。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細ご希望の日によがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月26日
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鞍馬山ワーク無事終了しました。参加者の「根っこ」にたどりつくことができてよかったです。朝10時から晩7時まで歩きっぱなしのしゃべりっぱなしだったので今、ものすごく眠たいです。なので今日は短く(笑)自分の才能に気づくには自分の中の男性性と女性性との融合が不可欠。そしてその融合を阻む一番の原因は自分と親との関係。おやすみなさい。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細あなたの望む日時で鞍馬山ワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月25日
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とあるお偉い先生によるとわたしたちはDNAの5%くらいしかスイッチをオンにしていないそうです。脳の使用割合は凡人で5~10%成功者と呼ばれるひとで15%くらいだそうです。あの、アインシュタインでさえ脳の40%しか使っていなかったそうです。DNAの根拠は知りませんが脳は、根拠があります。アインシュタインの脳の輪切りが今でも保存されているのですが脳というのは、電気が通ったところすなわち、使われたところというのは色が変わるのだそうです。それで、使用割合がわかるのだそうです。それにわたしのこれまでの学びの中で聴覚、視覚といった人間の五感と言われるものさえも「あらかじめ」かなりの制限が加えられていることがわかってきました。つまりわたしたちが、五感の機能をフルに使えるようになったら夕日を観て感動することも音楽を聴いて涙することもできなくなってしまうのです。どうやら、人間の五感というものは「体験する」ということにふさわしいように「あらかじめ」かなりの制限が加えられているみたいなんですね。このようにわたしたちというのはあれができないこれができないではなくてそうできないようにリミッターがかけられているだけみたいなんですね。それは力を持つことには責任がついてまわるからだと思うんです。核ミサイルの発射命令を下す権限を持つひとに人格が問われるように。どうやらわたしたちには誰にでも、例外なく現実を思いのままに創造するちからがあるみたいです。でも未熟な人格(霊格)のひとにいきなり、その力を与えるととんでもないことになってしまうのでどうやらその力を5%程度使えるところからわたしたちはスタートしているみたいなんですね。だから「自分本来の力」を5%しか使えていない今の自分を否定したり決めつけたりするのはもったいない話しだと思うんですね。「これが100%の自分」と決めつけないでその5%を上げていく方向に意識を向けることができたらまた、人生のとらえかたも変わってくると思うんですね。「何かになろうとしなくていい」という教えはこのことを教えてくれているような気がするのです。それよりも「本来の自分」を解放することに力を注げと。じゃどうしたら、本来の自分は解放できるのか?それは、みなさんもうご存じだと思います。どういう人格のひとが現実を思いのままに創造するちからを持てばみなさんは安心して暮らせていけますか?そういうことなのです。「思いのとおりに生きたい」を動機として力は得られるのではなく「引き受ける覚悟」を持てた結果として後から、力はついてくるものなのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月24日
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隣の芝生は青く見えるとよく言われますが青い芝生の持ち主でも誰も知りえないような傷をみんな、抱えているんですよね。ほんと許せない相手っていると思うんですよ。わたしにもいっぱいいました。でもそんな相手さえも自分で自分に用意しているってことにいつか気づかないといけないのが人生の残酷な部分だと思います。頭で理解するにはとうてい無理な領域の話しです。どう考えても自分に落ち度はないと思うから自分が自分にそんなひとを用意するはずがないと思うから絶対に許せない相手がいるわけですから。しかし仮にいつの日か許せないひとがあなたに土下座したり警察に捕まって自分の正しさが証明できたとします。そのように許せないひとが「ざま~みろ!」と思えるぐらいの罰を受けたらそれ以降のあなたはずっと、しあわせになれるのでしょうか?許せない奴に罰を与えたいという憎しみが解消されて初めてやってくるのがしあわせなのでしょうか?あなたは「せいせいした気持ち」になりたいのでしょうか?それとも「しあわせ」になりたいのでしょうか?もし、仮に許せない相手さえも自分で自分に用意しているとすればそれを用意している自分にはどんな意図があると思いますか?許せない相手がいるひとは憎しみにおぼれる前に少しだけこのことをみつめていただきたいのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月23日
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最近の自分を観てるとひとというのは自分が何とつながっているのか?を思い出すたびに損得で動くことが減ってくるように感じます。いつの日にか「こうすることは、いいことだから」「こうすることは、正しいことだから」で、動かない自分になれたらいいなと思っています。サイコロには、面が6つあります。その面を増やしていって、目に見えないくらい小さな面のあつまりにしていくとやがて、球になります。自分の中に、無数のいろんな自分(面)があるのも自分が、球だからなんだなとふと、思いました。逆に無数のいろんな自分(面)があるから球でいられるとも言えると思うんです。だからどんな自分(面)も自分が自分(球)であるために欠かせない自分だと言えると思うんです。この自分(面)は 表に出そうこの自分(面)は ひとには隠そうとしてたら球ではなくいびつなかたちになってしまうと思うのです。おそらくそういうことだと思うのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月22日
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今日2本目です。あなたは笑うことができます。でもいつしかなにかがないと笑えないと思うようになってしまった。あなたは喜ぶことができます。でもいつしかなにかがないと喜べないと思うようになってしまった。あなたは楽しむことができます。でもいつしかなにかがないと楽しめないと思うようになってしまった。こどものころ好奇心だけでこの世を見ていたあなたはいまでもあなたの中にいるはず・・・・よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月21日
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本日の日記には昭和50年以降に生まれたかたにはわからない表現が含まれています(笑)ひさびさに2時間以上かけて気合入れて日記書いてボタン押したら・・・・なぜ画面には違った画面がでてくるの?教えて?おじいさん。どうしてなの?ペーター。2時間以上もかけたんだよ。ひ~どいや~、ひ~どいや~!プ~ンプンプンプン、プンプンプン!ほんまに燃え尽きたぜ・・・まっしろにな・・・状態です(笑)けどね今になって思うと価値観や知識のオンパレードで「認めて」「すごいでしょ」の内容で素のありのままの自分で書けてなかったから消されちゃったのかなと思います。「自分を大きく見せようとしなくていいです。 あなたの書くものはそうじゃないでしょ?」と言われているようで。ほんといつも見られてますねー(笑)「誰に?」という質問にはお答えできません(笑)(実は、答えは自分。ですけど(笑))ひとりで部屋の中で何をしてても何を思っていてもそのひとの自由で誰にも見られることはないですけど「本当の自分」はそれを観ているんですよね。そして周りに誰もいないひとりの状態で感じていることというのは「自分の中にある自分だけのもの」というふうにとらえてしまいがちですけど実は自分の感じているものというのは「自分」という枠だけには収まらず自分が会ったこともない見ず知らずのひとにさえも影響を与えるものなんですね。なぜならわたしたちが感じているものが明日の地球の現実をつくるからです。プレッシャーをかけるつもりはありませんけどもし、あなたが自分を責めているならそのことが自分が会ったこともない見ず知らずのひとが自分を責めるきっかけになるという事実だけは知っておいてください。あなたの感じているものはあなただけのものではないのです。なぜならわたしたちはひとつのところから枝分かれして存在しているからです。「自覚」がなくても「つながり続けている」という事実は変えられないのです。「わたしなんて」と思うひとには「わたしが明日の地球の現実をつくっている」という事実は認められにくいと思うんですけどそれが事実なんです。もしあなたが感じるものがあなたにしか影響を及ぼさないなら「自己責任」ということばでかたづけられるのですけどそうはいかないのがこの世の真の姿なんですね。だからといってあなたにこうしないといけないということもないんです。自由に生きてください。けど生きることに少しでも余裕ができたなら自分が感じていたいものを感じられるように自分の生きかたに工夫を加えてほしいんですね。それが見ず知らずのひとが自分が感じていたいものを感じて生きることへのきっかけになるのですから。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月21日
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今日、2つの「やっと」を体験しました。1つめの「やっと」はロッテリアのチーズバーガーをやっと食べることができたことです。あれだけ自信満々に宣伝しているので前からずっと気にはなっていたんですけどなかなか食べる機会に恵まれませんでした。注文して、初めて見た感想は「小さっ!」でした(笑)この値段でこの小ささはよほど、素材にお金かけているんやなと期待して食べてみたんですけど・・・食べてみたんですけど・・・食べてみたんですけど・・・・・・・・・・・・お察しください(笑)2つめの「やっと」はやっとどうしていけばいいかが腑に落ちたことでした。したいことが思い浮かばなかったのは今のわたしが浄化をしないといけないからでした。感情の奥には必ず自分が守りたいと思っている価値観や概念があります。その感情がどの価値観や概念から生まれているのか?それをひとつずつ丁寧にみつけていってみつけるたびに浄化していく。これを集中してやっていくことに決めました。この価値観や概念は数千とか数万とかの単位で自分の中にあります。何年かかるかわかりませんが腰を据えてやっていくしかありません。無意識の中にある価値観や概念は自分で気づくことは非常に難しいのですがそれを教えてくれているのが「感情」であることがわかりましたので感情を注意深く感じ取るということが今後のわたしの非常に重要な作業になってきます。ここで大切になってくるのがマイナスの価値観や概念だけを浄化しようとしてはいけないということです。たとえば約束を守らないひとがいて感情が動いたとします。そこでなぜ感情が動いたのか自分を観ていくと「約束を守らないことはいけないこと」という価値観が自分にあるから感情が動くことが観えてきます。そこで「約束を守らないことはいけないこと」という価値観を浄化するのですが「約束を守らないことはいけないこと」という価値観が自分にあるということは「約束を守ることはいいこと」という価値観も、自分の中に同時に存在しているということなのです。だから「約束を守らないことはいけないこと」という価値観だけ浄化して「約束を守ることはいいこと」という価値観を浄化しないで残しておくとまた「約束を守らないことはいけないこと」という価値観が浄化した後に新たにつくられることになるのです。それは「○○はいけないこと」「○○はいいこと」という価値観は必ずワンセットで存在するからです。これが「いい」「わるい」「ただしい」「まちがい」の世界で生きている間のからくりなのです。つまり「浄化」の真の目的は「いい」「わるい」「ただしい」「まちがい」を超えた世界で生きる自分になることにあるのです。「いい」「わるい」「ただしい」「まちがい」を超えた世界。それこそがまぎれもない真の自分の世界だからです。真の自分に気づく道とは知識を得ることではなく自分が何をいいと思い自分が何をわるいと思い自分が何を正しいと思い自分が何をまちがいと思っているのか?日常の出来事や出会うひとによって動く感情をてがかりにそれらをみつけていって浄化していくことなのです。ひとつずつ。ひとつずつ。例をあげると思うようにいかなくてイライラするということは「思うようにいかないのはいけないこと」「思うようにいくことはいいこと」という2つの価値観が自分にあるからです。このように「イライラしている自分」を感じたら「なぜ、今、イライラしてるの?」とイライラという感情を手がかりにその感情を生みだしている価値観を探して浄化していくのです。ここで「思うようにいかないのはいけないこと」「思うようにいくことはいいこと」という2つの価値観を浄化できたなら思うようにいかない場面に出会ってもイライラにおぼれず自分や周りの状況を冷静に見渡せるようになっていくのです。なぜなら、その価値観に気づいたことで「イライラの役割」が終わったからです。感情は自分の価値観に気づくためにあるのですからどんな感情が自分にあってもいいのです。どんな感情も真の自分に近づく「手がかり」なのです。大切なのはその感情におぼれないでその感情を生みだしている価値観を探そうとする姿勢をもつということなのです。すべての環境は今、気づかないといけない価値観に気づくために用意されています。思うように動けない肉体的不自由はこころの自由の鍵なのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月20日
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今日2本目です。今日先ほど書いた買い物の途中駅の階段で急にむしょうに父親のことが腹が立ちました。「なんでそんなことわざわざ言うんだろう」ということをつい最近言われてそれを急に思いだしてひとりでめっちゃ怒っていたんですね。けど今、思ったんですけどきらいなひとが目の前にいるってめっちゃ、恵まれているんですよね。「ひとは自分の中にあるものしか認識できません」つまり好きなひとというのは自分の中の自分の見たい部分を見せてくれるひと。きらいなひとというのは自分の中の自分の見たくない部分を見せてくれるひと。なんです。このひとは明るいから好き。このひとはやさしいから好き。と思えるのは自分の中にもそのひとと同じ明るい自分やさしい自分がいるからでこのひとは自分のことしか考えないからきらい。このひとは意地悪するからきらい。と思えるのは自分の中にもそのひとと同じ自分のことしか考えない自分意地悪な自分がいるからなのです。だからきらいなひとと出会うという出来事はそのひとがやってるようなことをやるような自分は自分の中にあってはならないと思っているということに気づくために起こっているのですね。「あなたが隠しているところはここですよ」とそのひとはきらわれ役をかってでて伝えてくれているわけです。「正しいか」「間違いか」じゃないんです。そーゆー自分が自分の中にもいることを素直に認め、受け入れられるか?人生ではそれだけを問われているんです。そしてそれを素直に認め、受け入れたとききらいなひとはきらいなひとではなくなるのです。きらいなひとが存在するのではなくそのひとをきらいと思う自分がいるだけなのです。そしてそのひとをきらいと思う自分は自分が隠しているものをそのひとがまざまざと見せつけるもんだからきらいと思うのです。苦しみの9割以上は『正しくあろうとする自分』からつくられています。もう1回言います。「正しいか」「間違いか」じゃないんです。そーゆー自分が自分の中にもいることを素直に認め、受け入れられるか?人生ではそれだけを問われているんです。だからどんなに醜く意地汚くずるがしこく身勝手でわがままな自分が自分の中にいてもそういった自分が自分の中にいることを認め、受け入れてあげるだけでそういった自分はもう、表に顔を出さなくなるのです。それを「浄化」と言うのです。「浄化」とは「あってはならない自分」を自分の中から消し去ることではありません。「あってはならない自分」を認め、受け入れることで自分と「ひとつ」になっていくことを言うのです。しかし「あってはならない自分」をいきなり認め、受け入れることには抵抗が生まれます。だから一度、手放してから認め、受け入れる必要が生まれてきます。それを体系づけたのが「ワーク」と呼ばれるものなのです。よがふく無料セッション始めました。くわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月19日
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ウクレレを買いました(笑)教則本に「タフワフワイ」というハワイの曲がのっていたのですがそれがなんと!牧伸二の「あ~やんなっちゃった」のあのメロディなんですね。牧伸二はここからパクっていたのかと思いました。これでわたしも練習を積めば「あ~やんなっちゃった」ができるようになります!かみさま・・・いったいわたしはどこへ行こうとしているのですか?でウクレレのチューナーを買いに行ってたんですけどその電車の中で急にスカイプ用のウエブカメラを買おうという発想がでてきて心斎橋で降りる予定を変えて日本橋で降りました。で、いろいろ探しているとウエブカメラとマイク一体型のヘッドフォンのセットが580円!で売っていたのでそれにしました(笑)パソコンにつないでみるとまー案の定ピンボケで顔の輪郭がわかる程度のカメラだったんですがヘッドフォンとセットで580円だったのでよしとしました。でなんでウエブカメラを買ったかというとスカイプで対面セッションを始めようと思ったからです。無料で。相手の顔はこっちに見えなくてもこっちの顔が見えるだけで安心感がでるかなーと思ってカメラを導入しました。よがふく無料セッションくわしくはこちら↓よがふく無料セッション詳細とっても素敵な動画をみつけました。ページ中ほどにあります。ここをクリック。5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月19日
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今日2本目です。今日、晩御飯を食べた後散歩に行こうとして靴をはこうとしたとき胸の奥がざわざわしました。いつもの罪悪感につながる前兆の感覚です。やりたいこともみつからず散歩くらいしか思いつかない自分を責める前兆のざわざわです。でも今日はそこでわかったんです。やりたいことがみつからないのはやりたいことをやらないと充足感は得られないという思いこみに気づくためだったんだということが。そして何かをしている自分には価値があって何もしていない自分には価値がないという思いこみにも気づけました。何もしないで消費ばかりを繰り返す自分に対する罪悪感というのは何をしていようが何もしないでいようがそれ以前に「自分が存在している」ということに目を向けさせるためにわたしにやってきていたのでした。ひとはしあわせになるために生まれてきた。よく言われていることばです。それをわたしは本当にやりたいことをみつけてそれに全力で進むことが自分をしあわせにする方法だとずっと思いずっと本当にやりたいことは何か?そればっかり探してみつからず半ば、あきらめの中で生きていました。でも今日、わかったんです。何をしているか、していないか以前に自分を愛せていることが自分をしあわせにする基本だと。やりたいことをみつけている自分には価値があってやりたいことをみつけられない自分には価値がない。そう思いこんでいたわたしは無意識のうちにやりたいことをみつけられない自分は愛すべき対象ではないと決めつけていたんです。自分が何をしているか何をしていないか以前に「自分が、今、ここにいる」ということに目を向けることが先だったんです。行為に価値を見出す前に自分が存在していることに目を向けないといけなかったんです。「存在としての自分を愛する」それがすべての出発点でだからわたしはなかなかスタートがきれなかったのだとわかったんです。何ができている、できていない何を持っている、持っていないそういうことで自分が自分につける価値と自分が、今、ここで生きて、存在しているということはまったくの別物で結びつけることはできなかったのです。愛するとは文字通りただ、愛するということ。愛する対象に価値は必要ないことがやっとわかったのです。そして愛しているとき愛するという意識さえもなくなるということも。存在、しぐさ、すべてが愛の表現になりすべてのものを大切に扱えるようになるのです。何かになろうとしなくていいということがこういうことやったんかーとよーやくわかりました。自分を愛さないといけないではなくて愛するだけでいい。この違いがわかるまで長かったです(笑)さぁこのポジションに立てて現実が動いていくのでしょうか?あとは確認作業が待っているだけです。5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月18日
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今日は鶴見の三井アウトレットパークでお友達の彩さんのミニライブがあったのでそれを観に行ってました。彩さんのHP。とっても、とってもすてきな歌声でした。聴いているだけで浄化されるとても波動の高い歌声です。聴きに行ってほんとうによかったなーと思いました。今日もそうだったんですけど大神神社行ったあたりから電車やバスが出たすぐあとでホームにつくというのがずっと続いています。これは、自身のタイミングがわるいのかなと思ったりしてたのですけどいろんな周りのメッセージを読みといてみたらどうやら「待て」の合図みたいなんですね。つまり電車やバスが出たすぐあとでホームやバス停にたどりついて待たされるということはどうやら「人生において今は待つ時期なんだよ」というメッセージのかたちみたいなんです。だから待つ時間の間にやらないといけないことがどうやらあるみたいなんです。次へ行く準備というか。おそらくそれは自分の本音以外の部分で動こうとしていたので「待て」の合図がかかり待ってる時間を利用して「本当はどうしたいのか」という自分の本音の部分をもう一度再確認しなさいということだと今は受け止めています。 昨日「本当のことは目に見えない」と書きましたけどもうひとつ知っておくと便利なのが「自分の知っていることだけが真実ではない」ということです。それは人間は知っていることよりも知らないことのほうが多いことをついつい忘れがちに生きてしまうということです。だからありえない出来事やありえないことをするひとと出会ったときそれはまだ自分が知らないことを知るきっかけなのかもしれないと思ってみることもできるのです。5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月18日
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いろんなひとのブログを読んでいるとまだ20代そこそこなのによくもまーここまで気づいてらっしゃると思えるかたがゴロゴロいます。わたしの20代なんて金!金!金!でサラ金に借金しながらパチスロばっかししてましたからねあげくの果てに自己破産して離婚してホームレスですからねインディゴチルドレンというかこの時代の地球の流れに沿って生まれてきたひとにはかなうはずもありません。かなわないなりにもわたしのレベルで書けることを今日も書かせていただきます。金!金!金!で生きていたときのわたしというのは目に見えるものがすべてでした。手でさわれるものがすべてでした。しかし「愛」「しあわせ」「命」「魂」「エネルギー」「感情」「思い」「気持ち」・・・本当のことは目に見えないんですね。わたしたちが行動を起こす出発点はすべて、この目に見えないものを出発点にしています。ほしいものがあるしたいことがあるそれもほしいものを手にすることでしたいことをすることで「感じたいもの」があるからそれを手にしようとそれをしようとわたしたちは思います。そうわたしたちは目に見えないものを感じるために生きていると言っても過言ではないのです。お金がほしい地位がほしい安定した収入がほしい車がほしい家がほしいパートナーがほしいやりがいのある仕事がしたいひとの役に立ちたいひとから認められたい・・・そう思うのもそれが手にできたらそうなったらその先に自分が感じたいものを感じられるであろうという予測があるからです。その予測が正しいかどうかはまた別の話しになってくるのですがつまりなにかがほしいこうなりたいということにものすごく執着してしまうときそれが手にできなければそうならなければ自分の感じたいものは感じることができないという強烈な思いこみがあるんですね。わたしがかつて金!金!金!と思っていたように。だから目に見える現実で手にさわれる物質の量で自分の人生はこうだと決めつけてしまっている場合「本当のことは目に見えない」とつぶやいてみてほしいんです。自分が感じたいものは目に見えるものや手にさわれるもので決定されるのではなく自分の感じるセンサーの方向を変えてあげるだけで感じることができるのだということに気づいてほしいのです。目に見えるものや手にさわれるものはあくまでもセンサーの方向を変えるきっかけにすぎないのです。そのきっかけ以外にも「自分の意志」でセンサーの方向を変えることができるのだということを知ったとき人生の幅が広がっていくのです。センサーの方向を変えるとは自分の意志で意識を向ける方向を変えていくということです。まずは自分の浄化に力を注ぐ。そして腹式呼吸で自分に意識を向ける中で自分の感じたいものの確認を取る。そして自分の感じたいものに沿って自分の意識を向ける方向を自分でコントロールしていく。それが自分で自分の人生を創造していく方法なのです。わたしも自分の人生でみなさんにサンンプルを提示できてないのでこういうことを書いてもいまいち説得力に欠けるのですがこんなわたしでも浄化の方法はお伝えできます。↓5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月17日
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本気で生きるってどういうことだろう?と考えていました。そもそも「本気」というのが何なのかがわたしにはわかりません。思いつくことと言えば今にすべてを注いで生きるということなのかな?ぐらいです。「わたしはこれがしたい!」というのがみつかってそれに全力で進んでいるときはたから見てそのひとは本気で生きているなと映りやすいと思います。その一方でわたしのようにしたいこともみつからずダラダラ、フニャフニャと生きていたらはたから見て本気で生きているなと映らないと思います。けどはたから見てどう映るかより自分がいま何を感じているのかそれを自分で把握していてその感じたものに対してどう動いているのかをきちんと把握できていることが大切だと思うんですね。誰からも理解されなくてもなぜ自分はそうしているのか?そのことを自分が自分にきちんと確認がとれていたらそれでいいと思うんです。確かに自分のしていることがひとから認められ同意を得られたらこんなにうれしくてこころ強いことはありません。だからひとから認められ同意を得られるように自分を合わせるのかそれとも同意を得られなくてもなぜ自分はそうしているのか?というところにいつも立ち返る自分でいるのか。そういうことだとわたしは思うんです。確かにわたしのしていることはひとりよがりに映ると思います。けれども今までずっと自分を押し殺してきたわたしとしては自分がしたいやりかたでやってみるというのが最優先なんですね。効率を求める前に自分の思いがどうなのかという確認がとりたいんですね。ひとが認めてくれなくても今、ここにこうしてわたしがいるのはもっと大きなものに認められているからなんです。だからといってひらきなおっているわけでもないですけど(笑)わかってくれるひとだけわかってくれたらいい。これはあまりよろしくない考えかたなんです。でも、今のわたしはこの考えかたにしがみつきたいんですね(笑)自分で納得がいくまで。納得いって次に行きたいんですね。つまり自分の本当の思いを大切にできているならそれを達成するために自分を変えることに抵抗は生まれないのですけど自分の本当の思いよりもエゴ(プライド)が大切になっているから自分を変えることに抵抗が生まれるのですね。それがいまのわたしなんです。小学生が大学の勉強をできるように知識というものはいくらでも段階を飛び越えることができますけれども種からいきなり花が咲かないように行動し、体験するという段階というものは飛ばすことができません。情報があふれるあまり知識と自分の行動レベルとのバランスがとれていないことが今のわたしの現実をつくっているのですね。自分が何を知っているか?と自分が何をしているか?はバラバラではなくバランスがとれていないといけないわけです。こんな未熟で何もわかってないわたしですけどできることはできますんで自分が完ぺきになるのを待たず前にでようと思っています。5月25日よがふくワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月16日
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家の近くに青紫の花がいっぱい咲いているのですがそれがあやめなのかかきつばたなのかしょうぶなのかぜんぜんわからないわたしです。 昨日は急に広い場所に行きたくなったのですが大阪近辺で広くてなおかつ場のエネルギーがいいとこなんて思いつかなかったので大神神社に行ってました。昨日は大神神社横の狭井神社がすばらしかったです。めちゃくちゃ癒してもらいました。自然はヒーラーさん相手なら何万も払わないとやってもらえないことを無料でやってくれるのでほんとうにありがたいです。ただし「癒してもらおう」と行っても癒しを「受け取る」ことはできません。自然の癒しを受け取るとは自分をさらけだすということです。とりつくろったりいいかっこしている間はいくら自然があなたを癒したいと思ってもあなたがそれを拒んでしまうのです。無意識に。みっともないところも意地汚いところもなさけないところもはずかしいところもぜんぶ自然の前にさらけだして「自分ひとりでは何もできないわたしです」というポジションに立てたとき初めて自分の周りは自然のサポートに満ちていることに気づきそこからそれを受け取ることができるようになるのです。そこで大切なのは「意志表示」です。自分がどうしたいのかという。自分の中の癒しや気づきが進んでも現実が変わっていかない場合この「意志表示」がきちんとできていない場合が多いのです。ただやみくもに癒しを求めても「わたしはこうしたい」というのがなければその場しのぎの「慰め」に終わってしまうのです。「わたしはこうしたい」という思いを持つのに「こんな自分にならないと」という「条件」は必要ないのです。どんな自分でも何を思ってもいいのです。あとはその思いと向き合うか見て見ぬふりをするかだけなのです。 どんなにすばらしいエネルギーに癒してもらってもその効力は3日もすれば消えてしまうのでまだそれが残っている間に今日はクスノキさんに会いに行ってました。それはどうしてもみつからないものがわたしの中にあるからです。それは怒りです。自分の中の浄化は結構進んだのですがどーしても何に対して怒っているのかがわからない怒りがわたしには根強く残っています。それが何に対してなのかがわかれば次に行けるという直感だけはあるのでクスノキさんに会いに行きました。自転車でクスノキさんのある神社の鳥居の前まで来たときふと「被害者」という単語が頭の中にでてきました。それでなぞがとけました(笑)わたしの0歳から35歳までというのは家庭でも学校でも職場でもずっと腕力とか経済力とか力のあるものに屈伏させられてきた人生でした。それに対する怒りであることがわかったんです。そこでクスノキさんの前で被害者であることを手放すワークをしていました。わたしの場合「手放します」よりも「自由になります」のほうがしっくりくるのでいつも「わたしは被害者であることから自由になります」といった具合に宣言しています。けれどもそれをしている間また自分が誰かを責めている妄想が頭の中で始まりました。そこで「あれっ?」と思って自分を観ると「被害者である」と思うのは自分が相手にされたことを「しいたげられた」と思っているからであるということに気づけたんです。相手にされたことを「しいたげられた」と自分が受け止めているから自分に怒りが残っているのであってそれは「しいたげられた」という「事実」ではなく自分がその出来事に対して「しいたげられた」と勝手に受け止めていただけ勝手にそう思っていただけということに気づけたんです。だからそれは「しいたげられた」のではないと「そのことで、しいたげられたと思う自分から 自由になります」と宣言しました。すると「しいたげられた」と思っている間は過去、自分が傷つけられた出来事は自分の中で「独立した」出来事だったのですがそれらもぜんぶつながって今のいろんなことが見える、わかる、自分にたどりつくための、ひとつのイベントというふうに思えてきたんです。どんなに傷つけられても殺されない間は自分には可能性は残るわけですから。 今、いろんなカウンセラーやヒーラーやセラピストがいますけどどれだけのひとがほんまに苦しいひとに寄り添えるのか?と思います。だれでも、相手に対して容赦なく正しいことを言うことはできます。でもほんまに苦しいときは正しいことばより不本意ながらも苦しく生きざるを得なかった自分を認め、受け入れ何も言わず寄り添ってくれることが何よりの救いになります。ほんまに苦しいひとが求めているのは答えでも、ことばでもなくあるがままの自分を認め、受け入れてくれる相手の姿勢なんですよね。条件をつけずにいつもあるがままの自分を認め、受け入れてくれるひとがいてくれたらそれだけで自分で答えを見つけていけるんですよね。カウンセラーやヒーラーやセラピストは自分がしてきた苦労以上の苦労をしているひとに出会ったときそれを想像することができませんからどーしても知識やことばや答えを並べてしまいがちになります。どうかそこで相手をどうにかしようとせず同情ではなくただ寄り添ってあげてほしいと思うのです。時間と交通費とお金を使ってまであなたに会いたいというひとがいるカウンセラーやヒーラーやセラピストはその責任を果たしてほしいと思うのです。最初はお金のためでもいい。相手を癒すことを自分の癒しに置き換えていてもいい。でも時間と交通費とお金を使ってまであなたに会いたいというひとがいるとうことは自分はそれだけその役割として宇宙から必要とされているということを肝に銘じていつかただ寄り添うことのできるカウンセラーやヒーラーやセラピストになってほしいと思うのです。 今日めっちゃうまいビールと出会いました。シメイ・ブルーというベルギーの修道院でつくっているビールです。後味がこれまで飲んだどのビールよりも違います。ビールは苦くて苦手というひとにもこれなら!と思えるビールです。ただ、売っているところは少ないと思いますが。5月25日ワークやります。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月15日
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ここ数日こころの中がゴタゴタしていました。わたしは親に受け入れられませんでした。そして親から受け入れてもらうことを「あきらめている」わたしが今、ここにいました。それが世の中から受け入れてもらうことを「あきらめている」わたしにスライドしていました。そして世の中から受け入れてもらうことを「あきらめている」ことが自分を孤立した存在であるかのように錯覚させすべてのものを信頼できない礎になっていました。けどわたしの考えかたは親には受け入れてもらえないかもしれないけれどわたしの存在そのものは受け入れてもらえているようなそんなふうに思えるようになってきました。受け入れてもらえないからあきらめるのではなく自分はそのひととどういう関係を築きたいと思っているのか?相手の拒否にゆれるこころの中でそのことをもう一度確認できる自分でありたいなと思ったのでした。でもこれからどうしていけばいいかわからないのでクスノキさんに聴きにいってました。クスノキさんは「したいようにすればいい」と言ってました。それを聴いて思ったのは「どうしたらいい?」を求めている自分は「正解」を求めている自分でそれは効率よく立ち回ろうとしている自分なんだということでした。「失敗したくない」「遠回りしたくない」それは誰でも思うことだけど「人生のリスクがゼロになる 正解なんてどこにもないから したいと思ったことを やってみるしかないでしょ?」とクスノキさんの「したいようにすればいい」には含まれている気がしました。「本当に自分は何がしたいのか?」その問いに答えられるひとなんか自分以外にいるはずもなくただ地道に注意深く自分を感じる訓練を続けていくしかないんやなと思ったのでした。 「生命は」 吉野 弘生命は自分自身で完結できないようにつくられているらしい花もめしべとおしべが揃っているだけでは不充分で虫や風が訪れてめしべとおしべを仲立ちする生命はすべてそのなかに欠如を抱きそれを他者から満たしてもらうのだ世界は多分他者の総和しかし互いに欠如を満たすなどとは知りもせず知らされもせずばらまかれている者同士無関心でいられる間柄ときにうとましく思えることさも許されている間柄そのように世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?花が咲いているすぐ近くまで虻の姿をした他者が光りをまとって飛んできている私も あるとき誰かのための虻だったろうあなたも あるとき私のための風だったかもしれない虻=アブ今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月13日
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今日はバイオディーゼルのつくりかたを習いに行ってました。ちなみにわたしはまだ自分のことでいっぱいいっぱいですので環境問題にはほとんど関心がありません(笑)洗濯に粉せっけんを使っているくらいです。でもなんかおもしろそうなので習ってきました。バイオディーゼルは・油(食べられる油)・メタノール・苛性ソーダ以上でつくることができます。ちなみにわたしがつくる石鹸は・油(食べられる油)・水・苛性ソーダでつくります。そう手作り石鹸をつくるひとにはバイオディーゼルは簡単につくれると思います。工程もほとんど似ていて石鹸なら型入れする段階で・洗い・乾燥の工程が加わるだけです。石鹸作りもそうなのですが苛性ソーダを1グラム単位できっちりと量ることがバイオディーゼル作りでも大切になってきます。未使用の油なら苛性ソーダの量が決まっているので誰にでも作れるのですが揚げ物などで使った後の廃油を使わないとバイオディーゼルを作る意味が薄くなってきます。廃油を使う場合不純物を取り除き水分を取り除きそこからpH8.5になるまで試薬を入れてその試薬の量で苛性ソーダの量を決めないといけないのでここが個人でつくる場合の最初の難関だと思います。しかしこれも慣れの問題だと思います。今の家では作れないですけどいろいろ条件が整ったらわたしもつくってみたいと思いました。バイオディーゼルに興味がでたかたはこちら。 帰りの車のラジオで興味深い話しを聴きました。世の中にはいろんな職種があるのですがその既存の職種という枠に自分をはめて収入を得ようとするのではなく自分のできることを、したいことを「換金」する方法を探してそこから自分の仕事を「発明」していく。世の中にはまだまだ存在しない職種がいくらでもあると思うんです。おおざっぱですがこんな内容でした。その方は「ブックマネージャー」という本屋を演出する仕事をされているのですが「ブックマネージャー」というのも自分でつけた名前なので日本でひとりだろうとおっしゃってました。「収入」ではなく「換金」ということばを強調しておっしゃってたのがとても印象的でした。今のわたしにはとてもありがたいお話しでした。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月11日
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昨日の晩は空が鳴っていました。空は青空だけやないんやと今さらながら思いました。ひとにはすき、きらい、があります。それはそれで何の問題もないのですがやがてそのすき、きらい、を超えてすきなものともきらいなものともひとつになっていくんだよと空は言ってました。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月09日
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今日3本目です(笑)10年20年30年・・・生きるほどに自分が生きていることがあたりまえになってくるような・・・そんな気がします。ある年齢を超えたらその感覚もまた変わってくるものですけど。何を持っていようとどんなに有名であろうと思い通りにこの世を動かしていようとどんなに苦しく生きていようとひとはすべて等しく死亡率100%であることからは逃げることはできません。わたしたちは死亡率100%のいきものなのです。最近のわたしは自分はいつか必ず死ぬということから目をそむけずにそれをあるがまま受け入れることができたときようやく「今」を生きることができるようになるそんな気がしています。それは死の恐怖を押し殺して自分を切羽詰まらせることではなくてごくごく自然な流れのような気がします。だって地球の歴史で死ななかったひとは誰ひとりいないんだも~ん♪今のわたしはそんなノリです(笑)わたしたちは「死」そのものが怖いのではないのです。本来の自分を発揮しないまま死を迎えることが怖いのです。だから本来の自分で生きることへの覚悟がないひとほど死への恐怖は強いのです。そういうひとほど自分の中で勝手に死を「特別なもの」にしてしまうのです。ひとがまばたきすることも木から葉っぱが落ちることもひとが死ぬことも宇宙の中では実は同じことなのです。そこに「格差」をつけているのはひとの価値観なのです。表があるから裏がある。光があるから影ができる。死があるから生きることができる。そーゆー仕組みになってるんですわ。もうそれはそーゆー仕組みやからしゃーないとしか言いようがないんですわ。だからこの地球では死が存在しなかったら生きることさえできないんですわ。なんで今こうしてこんな仕組みの中を生きているのか誰にもわからんけれどもひとは誰でも100%死ぬならそれはしゃーないなとそれは今日かもしれんなとあっさり受け入れたほうが「じゃ、生きてる「今」は、何をするねん?」というところに立ちやすいのと違いますやろか。死への逃避が結果的に皮肉なことに無謀自己破壊につながります。この世のありとあらゆることは認めて受け入れて初めて前に進めるようにできています。自分がいつまでも生きていると思っているから見て見ぬふりをして先送りは起こります。でも先送りしてもいいんです。要はそれを先送りにしたまま死んでも後悔はないと覚悟を決めて先送りできていたらそれでいいのです。本当生きるということは楽なことやし背負うこともないのです。世のためひとのためというのはそうすることが自分が本当にこころからしたいことではないのならそうしたいひとに任せておけばいい。それよりも自分の死を受け入れ今に生きることのほうがよっぽど世の中のためになるのです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月08日
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立夏を境に木の葉の匂いが変わったのを感じました。掘ったばかりのたけのこに似て「これから」という匂いです。花の花粉の匂いもより遠くまで飛ぶようになりました。今日この世そのものが天国であることを教えてもらいました。それはどこにいても自分の感じかたひとつでしあわせを感じることができるからです。ただ今のわたしの段階では急に砂漠に放り出されたらしあわせを感じることはできないと思うので教えてもらったことは知識の段階で止まっていますけれども。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月08日
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動けば動く。このあたりまえのことにようやく取り組めそうな今のわたくしです。少し動いただけでもいろんなひとのお世話になります。そこで「感謝をする機会」を与えてもらえます。うまくいかないこともあります。うまくいかなかったとき今まで「おりこうさん」でこの世をやりすごしてきたわたしは「失敗してはいけない」という根深い思いがありましたので「結果」でこころが動いていました。でも今になって思うことは「結果」はさほど重要じゃなくその結果と出会ったときになぜ、こころが動いたのか?そこに注目しないといけないなということです。それは「今のままでもいいじゃない」という自分ではないから結果でこころが動くことに気づけたからです。「今のままでもいいじゃない」と思えないから「望む結果」に「執着」してしまいそのとおりにいかないとこころが動くのです。つまり思うようにいかなくてこころがアップダウンすることはなぜ「今のままでもいいじゃない」と思えないの?という「質問」だったんです。だから『自分は「今のままでもいいじゃない」と思えていないから 結果でこころがアップダウンするんだ』ということに自分で気がついてなぜ、「今のままでもいいじゃない」と自分は思えないの?という問いを自分にして自分と向きあわない限り「思うようにいかない」という「質問」が繰り返し来るんだなということがわかったんです。夢は何かを否定するために持つものじゃなかったんです。「ない」から「持つ」のが夢ではなかったんです。今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月08日
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5月11日の母の日用事があるので今日はおかんを美容院につれていって服とズボンと靴を買ってあげました。何を選んでもいいと言っているにもかかわらず「セルフイメージ」で服とズボンと靴を選ぶおかん。美容院も「値段」を気にしていました。そこにどーこー言うつもりもなくおかんに任せてました。ここに来るひとにだけ言っておきますけど値段を気にするのは失うことへの恐怖から始まっています。つまり自分が手にしたお金は自分の所有物という思いこみです。そこに縛られている限り自分を喜ばせるためにものを買うことはできなくなります。自分が気に入ったものではなく値段で無意識に妥協してしまうのです。そしてそうしている限り自分が自分につけているセルフイメージ以上のギフトが自分にやってきたときそれを受け取れなくなるのです。人生の基本は毎日を「しあわせ」に生きることで物を所有するということは「楽しみ」を演出するに過ぎません。失うことへの恐怖は「安心」「安定」を最優先にした生きかたであって「しあわせ」を最優先にした生きかたではないのです。お金があるから生きていけるのではなく自分がいるから生きていけるのです。自分が今何を感じて生きているか?よりも自分をごまかして自分に我慢をさせて何かを得ようとしているときそこに自分を一番大切にしている自分はいません。それは「しかたのないこと」なのでしょうか?やむをえず「とりあえず」のお金を稼いでいるにしてもそのお金を稼げるのは「自分」がいてくれているからではないでしょうか。お金のために寝不足になる。お金のために値段で食べ物を決める。お金のためにストレスを飲みこむ。そういったものを一手に押し付けられた「からだ」はどう思っているでしょうか?そしてその「からだ」を使ってお金を稼いでいるのは誰でしょうか?あなたは誰ですか?思い、考え、判断しているのがあなたですか?からだや感じることはあなたではないのですか?手足が動くことや健康でいることは死ぬまで完璧に保障されていることなのでしょうか?あなたは誰ですか?あなたは誰ですか?あなたは誰ですか?そして今あなたは本当はどうしたいのですか?あなたは自分が死ぬ日を知っているのですか?だからそうやって自分をしあわせにすることを自分が感じたいものを自分に感じさせてあげることを先伸ばしにしているのですか?今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月06日
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今日は映画「4分の1の奇跡」を観てきました。映画のあと中山靖雄さんのお話しがありました。中山靖雄さんのお話しはとてもおもしろかったです。話しがあちこち飛ぶんですね。で、自分でもまとまりがつかなくなって「ごめんなさい」と謝ったりまた、まとまりがつかなくなると「みなさんでまとめてください」とかその「在りかた」がおかしくて。講演というより名人芸という感じで。そこに計算があるのかどうかはわかりませんが。 その中で「へそ」の話しがありました。へその「へ」は船の舳先(へさき)の「へ」と同じで「先頭」という意味。へその「そ」は「素」で「もと」という意味。わたしたちは、へそのおで母親とつながりその母親は、その母親とへそのおでつながりその母親の母親は、その母親と・・・という具合に一番最初の女性(一番の素(もと))とのつながりのなごりが「そ」でありそのつながりの先頭に自分がいることが「へ」でありそのふたつをあわせて「へそ」というのだそうです。ここからはわたしの私見ですがご先祖が「原因」であってわたしたちはその「結果」です。だからわたしたちに求められるのは「これからのいのちに対して、どんな原因であるか?」だと思うんです。親という「原因」に傷つけられたという「結果」をもつひとにはそのことはよくわかってもらえると思います。だからこそ親との関係修復に自分から動いていかないといけないことも。わたしはこの親に生まれたからこそこの世の本当の姿を知ることができるかもしれないそんな場所までたどりつくことができました。まだ100%、親を受け入れるとこまではきていませんけどこの親がつながってくれたからこそこの世で「感謝」というものを自分が体験できるんだということには感謝しています。1分、1秒、違わずに両親が出会ってくれなければわたしはわたしを感じることもこうして文字を書くこともできないわけですから。この世に生まれさえすれば「自分次第」でどうにでもなるわけです。どんな育てられ方をされても「自分次第」でどうにでもなるチャンスを与えてくれたのは親であるということには変わりないわけです。殺されなかっただけましです。おとうさん。おかあさん。わたしはあなたたちの生きかたには賛同できないけれどいつかそこに批評を加えることなくありのままのあなたたちを受け入れる自分になりたいと思っています。あなたたちがそう生きたいことを尊重できる自分になりたいと思っています。 人生上昇塾というメルマガにまぐまぐID:0000187992 こんなことばがありました。「本当の自分」は「土地」(場)のようなものなんですね。 場があるから、自由に建物を創造することができます。 場がなければ、何も生まれてこないのです。 でも、自我は、自分を「建物だ」と思い込んでいますから 他の建物と比較して、もっと高く、もっと豪華に・・とがんばります。 でも、どれだけがんばっても、比較対象は無数にありますから、 その欲は一生満たされることはありません。 逆に「本当の自分」は、最初から“完全なる存在”であることが 腑に落ちた瞬間に、永遠の安心感を手に入れることができます。 「本当の自分」は「土地」。うまい例えやな~と思いました。 力があるから背負うのではなく背負うから力が出るのだ。「4分の1の奇跡」の監督 入江富美子さんが今日舞台挨拶で言ってたことば。これもしびれます~♪今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月05日
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今日は鞍馬山に行ってました。すごいひとでした。この時期これだけのひとが鞍馬山に集まることに今の流れを感じました。ただエネルギー的には鞍馬山より貴船神社でした。貴船神社奥の院今、ものすごくいい状態です。おすすめです!おそらく、明日5月5日の立夏でピークを迎えると思いますので右でもなく左でもなく上でもなく下でもないニュートラルな自分に立ち返りたいひとは5月の5,6あたり貴船神社奥の院でしばらくぼーっとすることをおすすめします。
2008年05月04日
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ここに来るひとはカードリーディングするひとも少なくないと思いますので今日はわたしなりのコツを書きたいと思います。質問が生まれると同時に答えも生まれます。カードリーディングでポイントになるのはここです。つまりはっきりとした質問をすればはっきりとした答えがかえってきます。あいまいな質問をすればあいまいな答えがかえってきます。ということです。カードをひいたりしていまいちピンとこないメッセージがきたときは自分が漠然とした質問をしているときがほとんどなんですね。ほとんどと書いたのは自分で認識できないあまりに深いところからのメッセージのときもピンとこない場合があるからです。でもほとんどが自分が漠然とした質問をしているからと思っていいと思います。カードリーデイングに慣れていないあいだは質問をまず紙に書くのがいいです。そうしないと受け取ったメッセージによって勝手に頭の中で質問を書き変えてしまう場合があるからです。自分に都合のいいように(笑)できるだけ具体的な質問をしてその質問を投げかけたあとは頭を真っ白にしてカードをひきます。そしてメッセージの内容よりもまずそのメッセージに出会ったとき自分がどんな反応をしたか?自分の反応を観察します。特定の単語に反応したとか拒否反応がでたとかすんなりきたとか。それとメッセージの内容を合わせて総合的に読み取るようにします。これは人をリーディングするときも同じです。それとカードは自分が自分の深いところの答えとつながるための「道具」であると認識することです。あくまでも答えは自分の中にあって主導権は自分にあるということです。よく「カードが語りかけてくる」というひとがいますけどそれは導かれる結果は同じですけど主導権が自分にない状態ですからカードリーディングを続けていくほどにいろんなことが起こりやすくなるのでカードに答えがあると思うのはあまりよろしくないと思います。カードに対する感謝は必要ですけど。それとカードにもいろんな種類があります。自分の感覚で選べばいいわけですけどひとつの目安としてネガティブなこともきちんと書いてあるカードのほうが深い質問をするには適しています。大切なのはカードリーディングの結果がどうであろうと決めるのはいつも自分ということです。占いにしても「今の自分のままでいつづけたらそうなりますよ」というだけで今、ここから考えかたや行動を変えたらまた未来は変わってくるのです。そして占いやカードリーディングの結果ネガティブなメッセージが来たとしてもそれは何の問題もなく「あなたの中にその課題と向き合う準備ができましたよ」ということなのです。ただ、そのことのお知らせなのです。そこから向き合うかどうかはそのひとの自由になってくるのですけど(笑)今日はまあまあええこと書いてたやんかと思うかたは2つのクリックご協力ください♪ブログ名は「光の音」で登録しています♪
2008年05月02日
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誰にも「わたしを愛して」と強要することはできない。でも自分から愛すると決めることはできる。最近このことばの意味の輪郭が見えそうな気がしています。ひとというのはやっぱり自分を満たすために生きているのだと思います。「自分の何を満たすのか?」はひとそれぞれ違いがありますけれども。「すでに満たされている」ことを知って何も求めなくなる。今生を終えたら神の段階に入るひとはそれでもいいですけどそうじゃないわたしは自分の本音に貪欲でいいと思っています。「体験」をしにここまで来ているのですから。風がきもちいい。おひさまが温かい。食べ物がおいしい。そういったものはからだがあるうちの期間限定のものですから。からだがあるからこそ感じることができることがあって今回の自分が何を感じるためにここに来たのか?そこをつきつめる努力はおしんではいけなかったのだと40年、「思考の中」で生きてきた最近のわたしは思っています。思考に任せるのが無謀。本音に任せるのが勇気。今までのわたしは本当に幻をよりどころとしていました。すべてがつながっている中でひとりで生まれひとりで死んでいく。「完全なる個」という自分と「すべての一部」という自分とどちらも自分だからそのパラドックスに目覚める前はとまどうけれども結局宇宙がど-たらとかこころがどーたらとか精神世界がどーたらとかそんなことに気づかなくても知らなくても「あー、たのしかった。 やるだけやりました。 ごちそうさん」と感謝で死ねるかどうか?そこなんやなと最近とくに思うようになりました。絵を1枚も売ったことのない岡本太郎さんが芸術活動を続けていくことができた理由が今のわたしにはわかりつつあります。飛びこむんですよね。自分に。自分に飛びこむために得た肉体であって守るために得た肉体ではないんですよね。そうですよね。岡本太郎さん。
2008年05月01日
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