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「みことばの働き(4) みことばの光」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙5章8~14節 最後にみことばの光について学んでみましょう。 人間というものは、まず生命(種)が与えられ、次に食物(糧)をとらなければなりませんが、これだけでは不十分であり、さらに教育や文化など、人間として向上していくために知識や知恵や真理が必要です。この知識や知恵や真理に相当するものが光です。 一、光自体の働きについて 光には様々な働きがありますが、特に大切なのは、次の3つです。 1.照明する働き 「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます」(13節)とあるように、すべてのものを照らして明らかにする働きです。私たちは、みことばの光によって神ご自身と自らの罪深い姿と十字架の救いを知ることができます。 2.結実する働き 「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(9節)とあるように、良い実を結ばせる働きです。適度な暖かい光は、神の恵みの象徴であり、私たちの信仰を成長させます。 3.焼却する働き 「来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」(第二テサロニケ2章8節)とあるように、強い光は焼き尽くす火の働きがあります。これは光の中を歩むキリスト者の罪を焼き尽くすものですが、同時に罪を悔い改めない罪人を焼き滅ぼすものです。 聖書は、みことばが光であるだけでなく、三位一体の神、すなわち神とキリストと聖霊が光であることを教えています(第一ヨハネ1章5節、ヨハネ1章9節、16章13節)。 二、光を生かす働きについて この神とみことばの光を十分に生かすためには、次のような3つのことが必要です。 1.光のほうに出てくること(ヨハネ3章20、21節)。 私たちは、みことばと聖霊の光によって自らの罪深い姿を示されたなら、逃避せずに罪を悔い改めてキリストの十字架を信じなければなりません。これが光のほうに出て来ることであり、そうしなければ暗黒と罪の中に止まることになるのです。 2.光の中を歩むこと(第一ヨハネ1章7節)。 光のほうに出て来て光の子どもとなった私たちは、事ごとにみことばと聖霊の光によって教えられたり、示されたりしたことを直ちに実践しなければなりません。これが光の中を歩むことです。 3.光を輝かすこと(マタイ5章16節)。 そして私たちが光の中を歩んで奉仕や善行に励むなら、神の光を反射して、ほかの人々が神を知って救われ、神の栄光が現れるようになります。これが光を輝かすことです。 三、光による働きについて それでは、人が光のほうに出て来ないなら、光は何にもならないのでしょうか。決してそうではありません。神は、光によって次のような働きをされるのです。 1.知識を与える 光は私たちの心の眼を開けて、見えるようにさせます。この「見える」というのは、「分かる」ということであり、「分かる」というのは、「区別する」ことができるということです。この区別することができるということこそ知識です。 2.知恵を与える そして光は、私たちに知識を与えるだけでなく、その理解したことを実行に移す知恵をも与えてくれるのです。 3.啓示を与える しかし最も大切なことは、これらのことが単なる人間な知識や知恵ではなく、神からの啓示であるということを悟らせるのが光の働きです。みことばと聖霊の光は、「御子を私のうちに啓示」することができるのです(ガラテヤ1章16節)。 私たちは、みことばの光というものをこのようにとらえているでしょうか。
2006.10.31
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「みことばの働き(3) みことばの糧」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙5章11~14節 第三にみことばの糧について学んでみましょう。 一、糧自体の働きについて みことばが糧であるとは、どのようなことを教えているのでしょうか。 糧は、いのちを存続させるものであり、いのちは、ただ糧によってのみ存続することができます。創世記の2章と3章には「食べる」または「食(糧)を得」ということばが、実に22回も記されています。聖書は、人類が堕落したのは、食べてはならないと神に命じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べたからであると教えています。 すべての人に罪をもたらした恐ろしい人類の堕落が、食べてはならないものを食べたことによって起きたとは、何と驚くべきことでしょうか。食べるというのは、そんなに重要なことなのでしょうか。そもそも食べるとは、何を意味しているのでしょうか。 キリストは、「わたしを信じている者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6章47節、異本の訳)と言われましたが、また「このパン(キリスト)を食べる者は永遠に生きます」(同6章58節)とも言われました。この二つのことばから、「食べる」とは「信じる」ことを意味していることがわかります。 そして聖書は、「食べ……生きないように」(創世記3章22節)と記していますが、あるものを「食べる」とは、それを「信じて、それによって生きる」ということを意味しています。ですからアダムとエバが禁断の木の実を「取って食べた」とは、神のことばではなく、悪魔のことばを信じて、そのことばによって生きたということを教えているのです。 私たちは、いったい何を食べて(信じて)生きている者でしょうか。 二、糧になる働きについて 聖書は、人間の心を土にたとえているだけでなく、からだの消化器官にたとえて教えています。すばらしい神のことばという糧も、心の消化器官が悪ければ、十分な栄養にならないからです。からだの消化器官は、次のような3つの働きをしています。 1.消化・吸収の働き――これは、神のことばをよく反芻し、思い巡らすことにたとえることができます(詩篇1篇2節)。 2.解毒・殺菌の働き――これは、「神のことばを曲げず」(第二コリント4章2節)、また「神のことばに混ぜ物」(同2章17節)があれば、取り除くことにたとえることができます。 3.代謝・排泄の働き――これは、絶えず新しくみことばに教えられて、あかしをし、「内なる人」が「日々新たにされてい」くことにたとえることができます(第二コリント4章16節)。 私たちは、神のことばを心の消化器官の働きをするものとして信じているでしょうか。 三、糧による働きについて それでは、心の消化器官が弱い時は、どうすればよいのでしょうか。それは、神のことばを糧、すなわち「堅い食物」(14節)として食べるのではなく、「神のことばの初歩」すなわち「乳」(12節)として飲むことです。みことばの乳は、私たちの心の消化器官を強くし、ついには堅い食物も食べられるようにしてくれるのです。乳または糧の3つの栄養素は、次のような働きをします。◇炭水化物――からだを動かす熱量の働きをします。◇蛋白質――からだを丈夫につくる働きをします。◇ビタミン・ミネラル――からだの調子を整える働きをします。 私たちは、神のことばを炭水化物のような心の力や熱量として、またビタミン・ミネラルのような心の恵みや潤いとしてだけでなく、蛋白質のように私たちの心と信仰自体を丈夫にする神学や教理として食べなければ、心の消化器官を強くすることはできないのです。 私たちは、神のことばをこのような3つの栄養素として食しているでしょうか。
2006.10.30
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「みことばの働き(2) みことばの種」 甲斐慎一郎 マルコの福音書4章1~34節 次にみことばの種について学んでみましょう。 一、種自体の働きについて みことばが種であるとは、どのようなことを教えているのでしょうか。 種は、動植物が発生するもとであり、生命の最小単位です。すべての動植物は、種から生まれるということができます。この種は、良い土の中に埋められるなら、「芽を出して育ち」(27節)、また「実をならせるもの」です(28節)。このことから種の働きには、3つのものがあることがわかるでしょう。◇種には、生命の力があります。◇種には、育成の力があります。◇種には、結実の力があります。 詠み人知らずの作者が信念と行動と性格と運命の密接な関連を適切に表現しています。 「思いを蒔けば、行為を刈り取る。 行為を蒔けば、習慣を刈り取る。 習慣を蒔けば、性格を刈り取る。 性格を蒔けば、運命を刈り取る」 心にとって最も大切なものは、ことばです。ことばは、人間の心の生命です。もしことばがなかったら、何も考えることはできず、その結果、正しく意志を働かせることもできないでしょう。ことばは、私たちの心という土の中にはいると、思考や連想や想像によって、私たちの心の中で生育し、会話や品性や行動という実を結ぶようになるのです。 ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」と述べています(第一ペテロ1章23節)。神のことばは、罪のために死んでいる私たちの心を生かす生命の種です。この神のことばは、私たちの心の中で生育し、会話と品性と行動において、神に喜ばれる実を結ばせるのです。 二、種を育てる働きについて この種蒔きのたとえ話において、主イエスは、私たちに4種類の土、すなわち心について教えておられます。 1.道ばたの土――これは、自らを守らず、世の様々な罪と悪の感化によって踏み固められた心です。しかしこれでは、種が育たず、しかも悪魔という鳥が来て食べてしまいます。 2.岩地の土――これは、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」感情的な信仰心、「根がない」根拠を持たない信仰心、そして「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま」うという御利益信仰心を表しています(16、17節)。 3.いばらのある土――これは、罪を悔い改めず、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」という「いばら」を取り除かないで信じようとする心です(19節)。 4.良い地――これは、思慮深く、いばらを取り除いて、よく耕された心のことです。 私たちは、種が良く育つように、4番目のような良い地にすることが必要です。 三、種による働きについて このような4種類の心は、みことばの種が蒔かれた後も、宿命として定まっているのでしょうか。決してそうではありません。「なぜなら、みことばの種は、普通の種とは違って、反対に土を良くすることができるからです」(R・C・トレンチ)。すなわち私たちは、みことばという種の働きによって、道ばたの堅い土も柔らかくされ、岩地も深い土とされ、いばらも取り除かれるのです。 そのためには、どうすればよいでしょうか。それは、みことばを良く聞くことです(3、9、23、24節)。聞くことは、見ることよりも、はるかに重要です。なぜなら私たちは、聞く時にのみ、ことばが心に深くはいって心が変わりますが、私たちが何かを見ても、その見たことが私たちの心に何かを語りかけない限り、それは意味がなく、心は変わらないからです。「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とある通りです(ローマ10章17節)。
2006.10.29
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「みことばの働き(1) みことばへの責任」 甲斐慎一郎 使徒の働き17章10~15節 「旧新約聖書のみことばは、キリスト教の信仰と実践の唯一で、十分な最高の規準である」と言われています。これは、長いキリスト教会の歴史のなかにおいて最も大切なことであり、もしこの聖書の権威が失われるなら、キリスト教とキリスト者は、そのいのちを失ってしまうでしょう。 私たちの信仰のいのちとも言える神のことばは、どのような働きをするのでしょうか。◇みことばの働き(1)――みことばへの責任◇みことばの働き(2)――みことばの種◇みことばの働き(3)――みことばの糧◇みことばの働き(4)――みことばの光 まずみことばへの責任について学んでみましょう。 一、みことばへの3つの責任 「ヤコブの手紙」の1章21節と22節には、みことばに関して3つの動詞が記されています。すなわち「聞く」と「受け入れる」と「実行する」です。これは、みことばへの3つの責任を教えています。 1.みことばを聞く責任 これは、単に耳で聞くことではなく、心で聞くこと、すなわち私たちの心に語りかける神の声を聞くことです。私たちが聖書を読み、また集会に出席しなければならない理由の一つは、これです。 2.みことばを信じる責任 私たちがみことばを聞くのは、それを信じて、罪をはじめ様々な問題から救われるためです。 3.みことばを行う責任 しかし私たちがみことばを信じるのは、みことばに仕えたり、みことばを宣べ伝えたりすることによって、神のみこころを行うためです。 そして私たちが永遠に救われるか滅びるかは、この神のことばを、ほんとうに聞いているかどうか、ほんとうに信じているかどうか、ほんとうに行っているかどうかによって決まるのです。 二、みことばを信じるための助け ベレヤのユダヤ人は、「みことばを聞き……聖書を調べ……そのため……信仰にはいった」(11節)と聖書は記しています。このことから、みことばを聞くだけでなく、聖書をよく調べて学ぶなら、それだけ信じやすいことがわかるでしょう。私たちを真の信仰に導く正しい聖書の読み方は、次のような3つのことです。 1.観察――まず何が記されているかという聖書の内容を正確に観察し、把握することです。 2.解釈――次に聖書の真の解釈者である聖霊によって、聖書の中心であるキリストに導かれるような説き明かしをすることです。 3.適用――最後に説き明かされたみことばを私たちに当てはめ、自分のものとすることです。 三、みことばを行うための助け パウロがエペソの教会の長老たちに語った訣別の説教のなかに、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々のなかにあって御国を継がせることができるのです」というくだりがあります(使徒20章32節)。みことばが私たちを育成し、御国を継がせるとは、何とすばらしいことでしょうか。 私たちがみことばを信じるだけでなく、そのみことばが私たちを育成するなら、それだけみことばを実行しやすくなるのではないでしょうか。私たちは、みことばを実行するために、みことばに育成されることが必要です。そのためには、みことばがどのような働きをするかを知らなければなりません。聖書は、みことばの働きについて、次のような3つのことを教えています。◇種としての働き――神による霊的ないのち◇糧としての働き――神による霊的な栄養◇光としての働き――神による霊的な知恵 次回から3回に分けて学びます。
2006.10.28
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「神のことばへの責務とそれに伴う特権」 甲斐慎一郎 列王記、第二、22、23章 「みことばを……ただ聞くだけの者であってはいけません。……みことばを、すなおに受け入れなさい。……みことばを実行する人になりなさい」(ヤコブ1章21、22節)。 宗教改革より以前の時代は、聖書の数も少なかっただけでなく、聖書を解釈する権威が教会にあったので、聖書は民衆の手に届かないところにありました。それに比べると私たちは、いつでもどこでも聖書を手にして、自由に読むことができます。しかし特権が大きければ大きいほど責任も大きくなります。 一、神のことばを聞く責務とそれに伴う特権 「シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のことばを聞いた」(22章10、11節)。 神のことばへの責務とそれに伴う特権の第一は、神のことばを聞くことです。これは肉体の耳で聞くことではなく、心で聞くこと、すなわち私の心に語りかける神の声を聞くことです。 神のことばを聞く方法が3つあります。 1.第一は聖書拝読です。私たちは、神の語りかけを聞くために書を読まなければなりません。 2.第二は集会出席です。私たちは、集会に出席することによって最も容易に神の語りかけを聞くことができます。ですから聖書を読まず、集会に出席しないことは、神のことばを聞く責務を果たしていないことです。 3.第三は苦難や試練に会うことです。私たちは、苦難や試練を通して神の語りかけを聞くことができます(詩篇119篇67、71節)。れは、聖書を読み、集会に出席するだけでは、十分に神の語りかけを聞くことができない人に与えられる場合と、聖書を読まず、集会に出席しない人が、神の計り知れない愛のゆえに神の語りかけを聞く最後の機会として与えられる場合とがあります。 そしてこのように神のことばを聞くのは、「主のみこころを求め」て、それを知るためです(22章13節)。 二、神のことばを信じる責務とそれに伴う特権 「わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり」(22章19節)。 神のことばへの責務とそれに伴う特権の第二は、神のことばを信じることです。私たちが神のことばを聞くのは、それを信じて(ローマ10章17節)、罪をはじめ様々な問題からの救いを体験するためです。 私たちが神のことばを信じなければならない理由の一つは、神のことばは必ず成就するからです。実に350年以上も前に語った神の人の預言は(第一列王記13章2節)、ヨシヤの宗教改革において成就しました(23章16節)。まさに「時至らば必ず成就すべきわが言葉」(ルカ1章20節、文語訳)と記されている通りです。神のことばは、信じようが信じまいが必ず成就します。すなわち信じる者には神のことばの通りにすばらしいことが起こり、信じない者には神のことばの通りに恐ろしいことが起こるのです。 三、神のことばを実行する責務とそれに伴う特権 「彼は……契約のことばをみな、彼らに読み聞かせた」(23章2節)。 神のことばへの責務とそれに伴う特権の第三は、神のことばを実行することです。ヨシヤ王は、聖書を民に読み聞かせた後、偶像の破壊と過越の祭りを行っています。これを私たちに当てはめるならば、罪を徹底的に始末し、十字架の救いを感謝する生活を送ることです。 神のことばを信じるなら、必ず神のことばを実行します。神のことばを信じた人は、罪を徹底的に始末し、十字架の救いによって救われたことをあかしするようになるでしょう。しかし自分は、良い行動や生活が伴わないので、救われたことをあかしすることができないと言ってはなりません。救われたことをあかしすることが信仰の告白となって、良い行動と生活が伴うようになるからです。救われたことをあかしすることは、私たちが信じて体験したことの実践なのです。 実に私たちの日々の歩みと永遠の運命は、神のことばをほんとうに聞いているか、信じているか、実行しているかにかかっているのです。
2006.10.27
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「聖書の発見」 甲斐慎一郎 列王記、第二、22~23章 「私は主の宮で律法の書を見つけました」(第二列王記22章8節)。 これはユダの王ヨシヤの第18年に、王が書記シャファンを主の宮に遣わした時、大祭司ヒルキヤが彼に語ったことばです。「律法の書」とは、聖書のことであることは言うまでもありません。 しかしこのことは、単に失われていた聖書が見つかったという物理的または物質的な意味における聖書の発見ではありません。それは、ヨシヤの宗教改革と呼ばれている23章の記事から分かるように、人々の信仰と生活を根底から改革する宗教的または霊的な意味における聖書の発見です。 10月31日は、宗教改革記念日です。今から489年前の1517年にマルチン・ルターが宗教改革を始めた日です。それで宗教的または霊的な意味における聖書の発見ということについて、次のような3つの観点から学んでみましょう。 一、聖書の発見――その歴史的な面 二千年にわたる教会の歴史の中で、西暦千五百年以後の四百年間は、各世紀において聖書の発見に基づいた顕著な宗教運動を見ることができます。 ◇16世紀……ルター、ツヴィングリ、カルヴァン、ノックスらによる宗教改革。 ◇17世紀……清教徒革命とクロムウェルの共和制に見るピューリタン運動。 ◇18世紀……ジョン・ウェスレーとその後継者によるメソジスト運動。 ◇19世紀……世界の各地に起こったリバイバル(信仰覚醒運動)。 これらの宗教運動は、それぞれ時代と地域を異にし、その内容と特徴も違ったものですが、共通していることは、宗教的または霊的な意味において聖書を発見し、聖書の教えに立ち返ったことです。そのことによって個人も教会も社会もどんなに変えられたことでしょうか。 二、聖書の発見――その教理的な面 それでは宗教的または霊的な意味における聖書の発見とは、どのようなことでしょうか。 1.それは神の発見です。 聖書は神の律法の書です。神の律法は、神がどのような方であり、その神のみこころがどのようなものであるかを私たちに教えるものです。ですから聖書の発見は、すなわち神の発見です。 2.それは罪の発見です。 ヨシヤ「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂」きました(第二列王22章11節)。私たちは、神がどのような方であるかを知るなら、自分がどんなに罪深い者であるかを発見するのです。 3.それは救いの発見です。 ヨシヤ王は、「モーセのすべての律法に従って、主に立ち返」りました(第二列王23章25節)。自分の罪深さを発見した者は、聖書に従って主に立ち返ることが救いであることを発見するのです。 三、聖書の発見――その実際的な面 このように聖書によって神と罪と救いを発見した者は、その後、どのような生き方をするでしょうか。それは、神のことばである聖書に自らの生命と生活と人生を賭けて生きることです。聖書は「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりもいなかった」と記しています(第二列王23章25節)。 実業家は事業に、選手は競技に、俳優は演技に、芸術家は作品に、自らの生命と生活と人生を賭けて生きています。そうでなければ決して成功することはできないでしょう。 「彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(第一コリント9章25節)。私たちは、朽ちない冠を受ける者にふさわしく、聖書に自らの生命と生活と人生を賭けて真剣に生きているでしょうか。
2006.10.26
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「神のことばによって生きる」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙4章12、13節 「神のことばは生きていて、力があり……心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4章12節)。 「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』」(マタイ4章4節)。 一、私たちに光(真理)を与えてくださる神のことばによって生きる 神が天地万物を創造された時、最初に造られたものは光です(創世記1章3節)。これは物質の光ですが、私たちにとってまず必要なのは、真理を知る光です。 「神のことばは……両刃の剣よりも鋭く……刺し通し」、人の心を照らし、隠れている罪を暴き、私たちが何を考え、何を感じ、何をしようとしているかという「たましい」の状態も、そのたましいの奥にある「霊」の状態も、「判別することができます」(12節)。 もし私たちが神のことばという光に照らし出されなければ、真の神がどのような方であるのかということも、また人は何者であり、どこから来て、どこへ行くのか、さらにそのありのままの罪深い姿も、そしてその罪から救われるためには、どうすればよいのかということも何も分からず、暗闇に閉じ込められてしまうことでしょう。 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と記されているように(詩篇119篇105節)、私たちは、暗闇を照らすともしびである神のことばを信仰をもって読むなら、人間にとって最も大切な真理を知ることができるのです。 二、私たちに熱(愛と力)を与えてくださる神のことばによって生きる 太陽は光とともに熱を発しています。熱は愛であり、また力です。「神のことばは……力があり」ます(12節)。エマオという村に行く途中のふたりの弟子は、イエスと出会い、別れた後、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていた(すなわち愛と力に満ちていた)ではないか」とルカは記しています(ルカ24章32節)。 詩篇の著者は、「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」と述べています(119篇11節)。イエスは、荒野に象徴される悪い環境の中でも、また断食に象徴される肉体の弱さの中でも、神のことばによって悪魔の誘惑に打ち勝たれました(マタイ4章4、7、10節)。 私たちは、神のことばを心から信じる時、聖霊に満たされ、神の愛と力が与えられて、勝利の生活を送ることができるのです。 三、私たちに結実(生命)を与えてくださる神のことばによって生きる 「神のことばは生きてい(文語訳は、生命があり)」ます(12節)。ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは……朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」と述べています(第一ペテロ1章23節)。 「種」は、良い地に蒔かれるなら、「芽を出して育ち」、「人手によらず実をならせるもので」す(マルコ4章27、28節)。イエスは、種蒔きのたとえにおいて、「良い地に落ちた」種は、「芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」と教えられました(同4章8節)。すなわち種には、生命の力と発育する力と結実する力があります。 パウロは、ミレトでの説教においてエペソの教会の長老たちに、「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と語りました(使徒20章32節)。 私たちは、神のことばの光に照らされて真理を知り、みことばを心から信じて聖霊に満たされ、愛と力を受けるなら、それは必ず行為と生活、奉仕と働きにおいて豊かな実を結び、「教えと戒めと矯正と義の訓練」を受けて、「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となる」ことができるのです(第二テモテ3章16、17節)。
2006.10.25
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「神のことばである聖書」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 私たちは、「聖書は神のことばである」と安易に語ったり、使用したりしていますが、このことばのほんとうの重みを知っているでしょうか。聖書は、なぜ神のことばなのでしょうか。私たちは、このことをしっかりと心に銘記しなければなりません。そうしなければ、どんなに聖書を読んで、その内容を知ったとしても、それは普通の書物を読んでいるに過ぎず、その結果、永遠のいのちや救いに関係がないばかりか、私たちの心と生活に何の変化も起きないからです。 一、神よりの啓示の書である聖書 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1、2節)。 ここには「神は……語られました」と明白に述べられています。聖書は、人間に対して神が語りかけていることを記した書物です。このことを専門的なことばで「啓示」と言います。 「啓示」ということばは、もともと「おおいをとる」とか「ベールをはぐ」という意味があります。ですから「啓示」とは、人間の理性や人の探求では分からない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです。 私たちは、この神より啓示された聖書によってのみ、真の神とその神のみこころや神のご計画、また人間の窮状とその救い、さらに世の終わりや次に来る世(来世)について知ることができるのです。 二、神の霊感を受けた書である聖書 ◇「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益す」(16節)。 ◇「聖書の預言はみな……決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(第二ペテロ1章20、21節)。 聖書は、神の語りかけを記した神より啓示された書物ですが、その神の語りかけを人間がどのようにして誤りなく記すことができるでしょうか。それで神は、聖書の記者たちが聖書を書くにあたって、間違いなく神の啓示を記すように働かれました。このことを専門的なことばで「霊感」と言います。 「霊感」ということばは、もともと「神の息や神の霊を吹き込まれる」という意味があります。H・オートン・ワイレーは「霊感とは、その書き記すところが、神の意志の表現となり得るために聖書の記者たちの上に与えられる聖霊の働きである」と述べています。 三、神によって必ず成就する書である聖書 ◇「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」(使徒1章16節)。 ◇「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55章11節)。 聖書のことばは、必ず成就します(ルカ1章20節)。すなわち信じる者には、聖書に記されているすばらしいことが必ず成就し、信じない者には、聖書に記されている恐ろしいことが必ず成就するのです。なぜ聖書のことばは、必ず成就するのでしょうか。それは、聖書は神より啓示され、さらに誤りなく記されるように神によって霊感された正真正銘の神のことばだからです。 聖書は、神より啓示されたことばです。ですから私たちは、神のことばを聞かなければなりません。聖書は、神によって霊感されたことばです。ですから私たちは、神のことばを信じなければなりません。聖書は、神によって必ず成就することばです。ですから私たちは、神のことばを実行し、人々に宣べ伝えなければならないのです。
2006.10.24
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「救いの達成」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙2章12~16節 「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(12、13節)。 真の救いには、常に「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」という人のなすべき分と、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」という神のなされる分との両面があります。 聖書が初めから終わりまで私たちに勧めていることは、「怠ることなく常に目を覚まして励み」、しかも「思い煩うことなく重荷を主に委ねて安息する」ことです。 この「励みつつ安息する」または「安息しつつ励む」ということを可能にする秘訣は、人のなすべき分と神のなされる分とをきちんとわきまえて、前者にのみ心を配り、後者は神に任せることです。しかしこれを反対にするなら、思い煩って焦り、心の安息と気力を失い、怠慢になるのです。 一、神の前になすべきこと 神の前において人間のなすべき分は何でしょうか。このように言われると人はすぐ「あれもしなければ、これもしなければ、あれもしていない、これもしていない」と考えてしまいます。しかし神の前において私たちの果たすべきことは決して多くありません。 聖書全体から学んでみると、第一は、神のことばによって示された罪を悔い改めて神に立ち返る「悔い改め」です。第二は、神のことばを信じて立ち上がる「信仰」です。第三は、神のことばに従う「服従」です。第四は、神のことばに従って神にすべてをささげ、お任せする「献身」です。ほかのことはみな、この4つのことについてくるものであり、私たちがこの4つのことをする時、神は私たちにほかのことをも行わせてくださるのです。 ですから私たちは、この4つのことを果たすことを忘れて、「あれもできていない、これもできていない」と言って、嘆いたり思い煩ったりしてはなりません。この4つのことを果たし、後のことは神に任せて、神が行わせてくださることをしていればよいのです。 二、自分のなすべきこと 人間は、たとえどんなに良いことをしようとも、反対にどんなに悪いことをしようとも、神の前に出られるのは、キリストの十字架のゆえに先の4つの条件を果たす時だけです。これ以外に人間は神の前に立つことはできません。しかし「それでは、さんざん悪いことをして、最後に悔い改めればよいだろう」と言うのは、その動機と方法において間違っていることは明らかです。 それで自分自身に対して心がけなければならない最も大切なことは、動機の純粋さと方法や手段の正しさです。これこそ人のなすべきことであり、結果は神がよいようにしてくださるのです。 結果は神のなさる分であり(箴言16章33節、21章31節)、人の力ではどうすることもできないことですから、私たちとしては、純粋な動機と正しい方法で物事を行い、結果は神に任せることが必要です。しかし良い結果のみを夢みて、動機の純粋さも方法の正しさも心がけなければ、結果が良くても悪くても、それは私たちの信仰を妨げ、私たちをつまずかせる原因となるでしょう。 三、ほかの人になすべきこと 私たちは、人に対しても純粋な愛の動機と正しい方法(忍耐と謙遜と知恵)をもって接することが人のなすべき分です。その結果、ほかの人々がどのような態度をとろうが、私たちは、思い煩うことなく、神に委ねて、心を安んじていればよいのです。そして純粋な動機と正しい方法で物事を行う秘訣は、先の4つの条件を果たすことです。 このようにする時、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行い……非難されるところのない純真な者……傷のない神の子どもとなり……彼らの間で世の光として輝く」ようになるのです(14~16節)。
2006.10.23
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「覚えることと忘れること」 甲斐慎一郎 イザヤ書44章21、22節 記憶することは大切なことですが、何でもはっきりと覚えていれば、良いというものでもありません。たとえば愛する者を失った悲しみや、惨い事故または恐ろしい災難に遭遇したり、それを目撃したりした記憶が当時のままいつまでも鮮明に残っていたなら、正常な精神を持つことができなくなってしまうでしょう。私たちは、記憶することも大切ですが、忘れることも大事なことなのです。 一、3種類の記憶について 「弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしか」ありませんでした(マルコ8章14節)。 人間の記憶には大きく分けて、からだで覚える「肉体的な記憶」と、頭で覚える「頭脳的な記憶」と、神とそのわざを覚えている「霊的な記憶」の3つがあります。 自転車に乗ることや泳ぐことなどは、「肉体的な記憶」で、年月が経っても忘れることはありません。「頭脳的な記憶」は、文字通り頭で覚えていることです。弟子たちがパンを持って来るのを忘れたのは、彼らの「頭脳的な記憶」の喪失のためであり、決して「霊的な記憶」の喪失のためではありません。 しかし弟子たちが五千人の給食の奇蹟を見ても、四千人の給食の時に信仰を働かせることができなかったのは、彼らが、神とそのわざを忘れていたからです。これが「霊的な記憶」の喪失です。 二、私たちの信仰について 信仰とは、どのようなものでしょうか。この記憶と忘却という観点から考えるなら、次のように言うことができます。 1.神をとらえること これは神をいつも覚えていて忘れないことですが、その有効な方法の一つは、神のすべての恵みを忘れずに覚えていることです(詩篇103篇2節)。 2.神にゆだねること これは問題や課題を神の手に託し、そのことに関しては、くよくよしたり、心配したりしないで、忘れることです。私たちは、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」む時(ピリピ3章13節)、信仰に成長していくことができるのです。 三、神の救いについて この箇所において神はイザヤを通して次のように仰せられました。 ◇「イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない」(21節)――神の記憶。 ◇「わたしは……あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」(22節)――神の忘却。 別な章においても明白に語られています。 ◇「女が自分の乳飲み子を忘れようか。……たとい女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(49章15節)――神の記憶。 ◇「わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(43章25節)――神の忘却。 これらの言葉から、神の救いは、神が私たちを忘れずに覚えていてくださり、しかも私たちの罪を思い出さずに忘れてくださることであることがわかります(エレミヤ31章34節、ヘブル8章12節、10章17節)。神は、キリストの十字架のゆえに私たちの罪をその記憶から抹殺して全部忘れてくださるのです。 四、隣人への愛について 真の愛とは、どのようなものでしょうか。この記憶と忘却という観点から考えるなら、次のように言うことができます。 1.隣人のことをいつも覚え、その行った善行を忘れないことです。パウロは、愛するキリスト者のことを思わぬ時はなく、いつも覚えて祈っていると告白しています(ローマ1章9節、エペソ1章16節、第一テサロニケ1章2節)。 2.隣人の行った悪を思わず、忘れることです(第一コリント13章5節)。愛は隣人を赦し、その罪を忘れます。 神は、その愛のゆえに私たちを忘れずに覚え、また私たちの罪をみな忘れてくださいました。その神の愛を受けた私たちは、今度は隣人を愛すべきではないでしょうか。
2006.10.22
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「隠れたものと現れるもの」 甲斐慎一郎 ルカの福音書12章1~12節 「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません」(2節)。 これとほぼ同じ内容のことばが、他に3回も記されています(マタイ10章26節、マルコ4章22節、ルカ8章17節)。しかし何をたとえているのかということを前後の文章、すなわち文脈から意味を判断するなら、一つ一つに違いがあるようです。それぞれの言葉から、「隠されていても、必ず現れてしまうもの」について考えてみましょう。 一、隠されていても、必ず現れてしまうもの――罪(ルカ12章2節) この箇所において隠されているものとは、心の中の秘密や内緒の出来事を指していますが(3節)、1節にパリサイ人のパン種である偽善について記されていることから、ここでは罪について述べているのでしょう。 パウロは「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります」と言っています(第一テモテ5章24節)。罪は、いつまでも隠し通せるものではありません。たとえ人の前で隠すことができたとしても、神に前において隠すことは不可能です(ヘブル4章12節)。 このように罪は、決して隠せるものではなく、必ず発覚してしまうものであることを知ることは非常に大切です。なぜなら人が悪いことをすることの理由の一つは、罪を隠すことができると思うからです。 聖書は次のように教えています。 「自分のそむきの罪を隠すものは成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(箴言28章13節)。 二、隠されていても、必ず現れてしまうもの――真理や善行(マタイ10章26節) この箇所において隠されているものとは、神の啓示によってのみ分かる真理のことを指していますが(27節)、この章の内容が12使徒の派遣の説教であることから、真理とともに神に対する良い行いや奉仕について述べているのでしょう。 パウロは前に述べたことばを続けて、「同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません」と言っています(第一テモテ5章25節)。 このように真理は、最後には必ず悪に打ち勝つものであるということを知ることは非常に大切です。なぜなら、もし私たちがこのことを信じなければ、真理に従うことによる苦しみに耐え切れず、悪と妥協して罪を犯し、堕落してしまうからです。 三、隠されていても、必ず現れてしまうもの――福音(マルコ4章22節、ルカ8章17節) この箇所における隠されているものとは、これらの章の内容が天の御国のたとえ話を教えていることから、「神の国の奥義」(マルコ4章11節、ルカ8章10節)のことを指しているようです。 パウロは、福音のことを「世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて」と述べ(ローマ16章25、26節)、また他の箇所においても福音の中心であるキリストのことを「多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちの現された奥義」と言っています(コロサイ1章26~28節)。 福音の中心はキリストであり、またキリストの十字架です。私たちはキリストの十字架を仰ぐ時、そこに人の計り知れない罪の深さとともに、神の計り知れない愛の深さを見るのです。なぜなら十字架とは、いままで隠されていたすべての罪が暴露されて罰せられるとともに、いままで隠されていた神の愛が惜しみなく現されて罪人を救うことができるものだからです。 私たちは、「罪」も「真理や善行」も「福音」も隠されていたとしても、必ず現れてしまうことをほんとうに知っているでしょうか。
2006.10.21
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「豊かな結実」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書15章1~8節 9月から11月頃までは、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋、芸術の秋、食欲の秋、収穫の秋、結実の秋で、最もよい季節です。 1~8節には「実を結ぶ」という言葉が7回も記されています(2、4、5、8節)。ここは私たちに結実について教えています。しかし一口に結実といっても、どのようなものがあるでしょうか。新約聖書は、キリスト者の結ぶ実を8つほど教えています。◇福音による悔い改めの実(マタイ3章8節)◇祈祷による祝福の実(ヨハネ15章7節)◇献身と服従による聖潔の実(ローマ6章16、22節)◇施しによる義の実(第二コリント9章10節)◇信仰による御霊の実(ガラテヤ5章22、23節)◇伝道による働きの実(ピリピ1章22節)◇懲らしめの訓練による平安な義の実(ヘブル12章11節)◇賛美による唇の実(ヘブル13章15節) この結実に関してキリストは、私たちに3つの有り様を教えています。それは無結実と結実と豊かな結実です。 一、無結実について(2、6節) 無結実のものは「取り除かれること」(2節)と、「投げ捨てられること」(6節)と「火に投げ込まれて燃やされること」(6節)がはっきりと記されています。これは何と恐ろしく厳粛なことでしょうか。 ぶどうは、実を結ぶこと以外に何の役にも立ちません(エゼキエル15章1~5節)。そのように人間も神に喜ばれる良い実を結ぶ以外に何の役にも立ちません。 良い実を結ばないということは、ただ「土地をふさいで」(ルカ13章7節)障害になるだけでなく、木から離れていること、すなわち「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあ」り(コロサイ1章21節)、罪の実を結ぶ有害なことですから、取り除かれれて、火に投げ込まれるのです。 二、結実について(4、5節) この個所においてキリストは私たちに「実を結べ」とは命令されていないことに注意しなければなりません。キリストが私たちに命じておられるのは、「わたしにとどまりなさい」です(4、5節)。これが結実のための条件であり原因です。「そういう人は……実を結びます」(5節)という言葉は、結実はあくまで結果であることを教えています。 日本語において結実も結果もともに、「み(実、果)を結ぶ」と書き、同じ字であることは誠に興味深いことです。 「キリストにとどまる」とは、神に直結することです。私たちが自分および自分が生み出すものを心の支えにしたり、他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えにしたりするならば、神には直結していません。見えるところによらず信仰によって、ただ神と神の与えてくださるものだけを喜ぶことこそ神に直結していることなのです。 三、豊かな結実について(2節) ここでキリストは、「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と語っておられます(2節)。 キリストにとどまることによって実を結ぶようになった者はだれでも、神の言葉や聖霊の光(ヘブル4章12節)、また苦難や試練や懲らしめという「はさみ」によって刈り込みをされます。 この父なる神の刈り込みは、私たちに次のような3つのことをさせるためです。◇離別――汚れたものに触れないこと◇放棄――悪いものを捨て去ること◇献身――良いものさえもささげること 神が聖書の言葉や聖霊の光、また苦難や試練や懲らしめという「はさみ」によって刈り込みをされる時、私たちが離別と放棄と献身によって、それに応えていくなら、私たちは豊かな実を結ぶようになるのです。 私たちは、豊かな実を結ぶ者となっているでしょうか。
2006.10.20
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「安息を与えてくださる主」 甲斐慎一郎 マタイの福音書11章 聖書は、人の心は疲れており、安息を必要としていると教えていますが、「心の疲れ」には、次のような2種類のものがあります。 第一は、必要な力やエネルギーを受けたり、補給したりしないことによる疲れです。 第二は、力を受けても不必要なところに使ったり、浪費したりすることによる疲れです。 第一の疲れに関しては、「神より与えられる安息」を、第二の疲れに関しては、「信仰者が見いだす安息」を聖書は教えています。 一、神より与えられる安息(28節) からだが疲れてくると次のようになります。 1.物事に集中することができなくなったり、まともに考えられなくなったりして、間違いを犯しやすくなる――判断を誤る。 2.おっくうになったり、面倒になったり、大儀になったりする――力を失う。 3.他の人のことなど顧みる余裕がなくなり、自分のことだけするようになる――自己中心。 心の疲れもからだの疲れに似ています。 1.判断を誤る――心の疲れている人は、何が善であり、何が悪であるかが分からなくなって、間違いを犯してしまいます。 2.力を失う――心の疲れている人は、正しいことや良いことをする力がないだけでなく、罪や誘惑に勝つ力もありません。 3.自己中心――心の疲れている人は、神のことも他の人のことも考えず、わがままです。 この心の疲れの解決は、キリストのところに行くことです。キリストのところに行くとは、次のような3つのことをすることです。 ◇第一に、この心の疲れは神より離れた罪のためであることを認める。 ◇第二に、その罪を悔い改めて神に立ち返る。 ◇第三に、キリストの十字架は自分の罪のためであると信じる。 このようにする時、私たちは神より安息が与えられます。これこそ罪の重荷から解き放されて安息する「救い」です。 二、信仰者が見いだす安息(29、30節) 不必要なところに力を使う心の疲れとは、どのようなことでしょうか。この11章には3つの問題が記されています。 1.バプテスマのヨハネの疑惑(2~6節)。キリストは、バプテスマのヨハネにも理解されませんでした。 2.この時代の人々の非難(16~19節)。この世の人々は、罪を悲しむことを教えた悔い改めの使者ヨハネも、神を喜ぶことを教えられた福音の使者キリストも受け入れずに非難しました。 3.悔い改めなかった町々(10~24節)。コラジンやベツサイダやカペナウムの町々は、キリストが多くのわざを行われたにもかかわらず悔い改めませんでした。 私たちは、自分を理解してくれると思っていた人に誤解されたり、どんなに良いことをしても非難しかされなかったり、いくら労しても良い結果が出なかったりした時、よし、この私が分からせようとか、この私が悪口を封じようとか、この私が良い結果を出そうとか言って、気負い立つなら、心の疲れのために打ちのめされてしまうでしょう。なぜなら、「この私が」という力みこそ、やめなければならない「自分のわざ」(ヘブル四章10節)であり、心を疲れさせる不必要な労力だからです。 ほんとうの意味と実質において、人を理解させたり、人の悪口を封じたり、良い結果を出したりすることができるのは、神のみであり、人には不可能です。 それよりも私たちのなすべきことは、キリストのくびきを負うことです。これは神にすべてを明け渡す全き献身と、神にすべてをゆだねる全き信仰と、神にすべて従う全き服従を表しています。そうする時、私たちは、たましいに安息を見いだし、容易にキリストの荷を担うこと、すなわち神より与えられた奉仕と義務に励むことができます。これこそ自分のわざを休んで安息する「きよめ」です。 私たちは、神より安息が与えられ、たましいに安息を見いだしているでしょうか。
2006.10.19
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「真に記念すべきもの」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙8章8~13節 学校や会社には創立記念日というのがありますが、教会にも創立記念日があります。それで記念ということについて考えてみましょう。 一、記念するということの2つの意味 記念ということについて、辞書には次のように記されています1.何かを行って過去の物事への思い(記憶)を新たにすること。2.後日の思い出のために残しておくこと。 記念には、過去の記憶を新たにするということと、将来の思い出のために残しておくということの2つの意味があります。 二、記念しなければならない理由 なぜ私たちは記念する必要があるのでしょうか。それは、時が経つと記憶が薄れ、ついには全く忘れてしまうからです。このようなことを風化と言います。風化というのは、地表の岩石が日射、風、水、生物などの作用によって次第に崩れて砂や土になる現象のことですが、それを人の心に当てはめ、強烈な印象や記憶が年月を経て、次第に薄れていくことを意味しています。「戦争体験の風化が始まる」というような言い方をします。「初心忘るべからず」とか「初心に帰る」また「初心を貫く」という言葉がありますが、初心を貫くことができないのは風化があるからです。 三、心の風化についての聖書の警告 聖書は心の風化について警告しています。 ◇「あなたは初めの愛から離れてしまった。……悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示録2章4、5節)。 ◇「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを思い起こしなさい」(ヘブル10章32節)。 ◇「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです」(同3章14節)。 信仰も、人間の心が持つ以上、風化ということを避けることはできません。この風化を防ぐものが「記念」です。 四、風化を防ぐ記念の必要性 心の風化を防ぐものは記念ですが、記念は過去の記憶を新たにすることから始まります。私たちは、時を定めて、記念の時を持つことによって風化を防ぎ、初心に帰ったり、初心を貫いたりすることができます。記念には、5年、10年、50年という長期間のものだけでなく、毎年、毎週、そして毎日するものもあります。○○記念日は毎年、聖日礼拝は毎週、聖書拝読と祈祷は毎日です。これらは、神の恵みを新たに記念するものです。 記念は、次に将来の思い出のために残して、「ひたむきに前のものに向かって進」む(ピリピ3章13節)ためです。主は十字架につけられる前夜、パンと杯を取り、「わが記念としてこれを行え」(第一コリント11章24、25節、文語訳)、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(同11章27節)と、福音の宣教を命じられました。 五、真に記念すべきもの 記念には、○○記念日、○○記念病院、○○記念公園、○○記念出版、○○記念誌、○○記念写真など、日時、場所、物などがあります。しかしどれほど日時や場所や物によって記念したとしても、もし私たちの心がそれに伴っていなければ、言い換えれば、そのような記念をする私たちがそのことを忘れてしまっていたならば何にもなりません。 「記念」という言葉は「念(思い)」を「記す」と書きます。神は、「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」と言われました(8節)。神の律法とは、神の教え、神の思い、すなわち神のみこころのことです。それが私たちの心に書き記されるとは、聖霊が心のうちに住むことであると聖書は教えています(エゼキエル36章26、27節)。神のみこころが私たちの心に記されることが記念であり、真に記念すべきもの、いや真に記念すべきお方は神ご自身です。 このようにする時、私たちは、過去における神の恵みの記憶が新たになり、将来に向かって前進することができるのです。
2006.10.18
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「心に記される神の律法」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙8章7~13節 「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(10節)。 これは、神とイスラエルの家とが結ぶ新しい契約について、旧約時代の預言者エレミヤが述べた神の言葉です。律法を心に書きつけるとは、どのようなことなのでしょうか。 一、旧約聖書に記されている律法の種類 旧約聖書に記されている律法には、次のような3種類のものがあります。1.モーセの十誡に代表される道徳の律法2.いけにえやささげ物に関する儀式の律法3.現代の六法に相当するイスラエルの法律 第三番目のイスラエルの法律は、その国だけのもので、ほかの国は関係がなく、第二番目の儀式の律法は、キリストの十字架による贖いによって不要になりましたが、第一番目の道徳の律法は、永久に守るべきものです。 イエスは、律法を廃棄するためではなく、儀式の律法は十字架の贖いによって、道徳の律法は信仰と聖霊によって、二つとも成就するために来られたのです(マタイ5章17節)。 二、石の板に記された神の律法 ヘブル語の聖書は創世記から申命記までのモーセ五書を律法(トーラー)として区分しています。神はイスラエル人に律法を与えられましたが、そのことは彼らにとって誇りであり、また大きな特権でした(ローマ2章23節、3章2節、9章4節)。この時の様子を聖書は、次のように記しています。 「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト31章18節)。 神は、この律法を守るようにイスラエル人に命じて、彼らと契約を結ばれました(同24章3~8節)。ところが彼らは、この神の律法にそむいて、神との契約を守り通さなかったので、神も彼らを顧みられなかったのです(ヘブル8章9節)。 三、神の心に記された律法の精神 それでは、神は何のためにイスラエルに律法を与えられたのでしょうか。 1.律法は、神がどのような方であり、その神の御心がどのようなものであるかを私たちに教えるものです(出エジプト20章)。 2.律法は、人間の心を照らし、私たちの罪深さと無力さを教えて、私たちに罪の意識を生じさせるものです(ローマ3章20節)。 3.律法は、人間に救い主の必要を示し、私たちを救い主キリストのもとに導く養育係の役目を果たすものです(ガラテヤ3章24節)。 神は、このような3つの目的のためにイスラエルに律法を与えられたのですが、これこそ神の心に記された律法の精神です。この神の心に記された律法の精神を知った少数の神の人や聖徒たちは、律法を守りましたが(詩篇40篇8節)、大多数の人々は、これを理解することができず、律法にそむいて、神との契約を守り通さなかったのです。 四、人の心の板に記される神の律法 神の律法を守るためには、その律法の精神を知らなければなりません。言い換えれば、神の律法の精神を知った者だけが、神の律法を守ることができるのです。これは、親子でも同様であり、親の心を知った子どもだけが親の戒めを守ることができるのです。 それで神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエルの民と新しい契約を結ぶ日が来ることを約束されました。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法を彼らに与えるのではなく、神の心に記された律法の精神を彼らの心の中に与えることです。これは言い換えれば、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち神の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけることです。 神は、このことをキリストの十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成就されました。罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ、神の律法が心に記されることなのです。
2006.10.17
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「神の国と神の義を求めなさい」 甲斐慎一郎 マタイの福音書6章31~34節 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(33節)。 冒頭の聖句は、キリスト者であるなら、だれでも知っている有名な御言葉です。 メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、「神の国」とは、「あなたがたの関心事は、神がご自分を、あなたがたの魂の中に現して下さり、そして、そこに住まわれて支配してくださること」であり、「神の義」とは、「神が心の中で統治して下さっていることの結ぶ実である。……それは、イエス・キリストを信じる信仰から流れ出てくる、神への愛と全人類への愛である」と述べています(ウェスレー著作集、第4巻、説教、中、207、208頁、新教出版社)。 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とは、どのようなことなのでしょうか。聖書から学んでみましょう。 一、新生(義化)を求めなさい キリストは、宣教を開始された時、最初に「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え(マルコ1章15節)、ニコデモに「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(ヨハネ3章3節)。 人が新しく生まれるためには、次のような3つのことが必要です。 1.第一は認罪、すなわち人に対して、自分に対して、そして神に対して罪を犯していたことを認めることです。 2.第二は悔い改め、すなわち神に背を向けていた罪を悔い、神に立ち返ることです。 3.第三は信仰、すなわちキリストが私たちの罪のために死なれたことを信じることです。 このようにする時、私たちは、罪が赦され、義と認められ、新しく生まれ変わり、神の子どもとされるのです。 二、聖化を求めなさい パウロは、「神の国は、飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と述べています(ローマ14章17節)。 義と平和と聖霊による喜びは、聖霊によって罪がきよめられる時に与えられます。ヨハネの手紙第一の1章には、次のような2種類のことが記されています。 1.二種類の罪――罪の行為と罪の性質。「罪を犯し」(10節)――罪の行為。「罪はない」(8節)――罪の性質。 2.二種類の条件――悔い改めと全き献身。「罪を言い表す」(9節)――悔い改め。「光の中を歩」む(7節)――全き献身。 3.二種類の約束――罪の赦しと罪のきよめ。「その罪を赦し」(9節)――罪の赦し。「罪から……きよめ」(7節)――罪のきよめ。 私たちは、心の中に罪があることを認め、神に全く明け渡して光の中を歩み、イエスの血はすべての罪から私たちをきよめることができると信じるなら、聖霊によって罪がきよめられ、神の愛が心に注がれるのです。 三、栄化を求めなさい パウロは「私たちの国籍は天(神の国)にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と述べています(ピリピ3章21節)。ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えられることが栄化です。 この栄光にあずかるためにパウロは、「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と切なる願いを告白し(同3章10、11節)、また「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」と述べています(ローマ8章17節)。 ペテロも自分のことを「キリストの苦難の証人、またやがて現れる栄光にあずかる者」と語っています(第一ペテロ5章1節)。パウロもペテロも、栄光にあずかるためには、キリストの苦しみにあずかることが必要であると述べているのです。 私たちは、まず第一に何を求めているでしょうか。
2006.10.16
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「個人の尊厳の自覚」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章29~31節 現代のように人口が非常に多くなり、人々が大都会に集まって来るようになると、多くの人々は、社会とか大衆また団体というものを重要視するようになってきます。 そのためにひとりの人間の存在がますます小さなものとなり、個人というものが失われてしまいます。ですから私たちは、社会が大きくなればなるほど、ますます個人に目を向け、個人の尊さを自覚しなければなりません。そうしなければ、真の人間らしさが失われ、人格の崩壊という最悪の事態を招いてしまうことになるからです。 一、個人の「存在の価値」を自覚すること 私たちは、個人の存在の価値というものを自覚していませんと、数え切れないほど多くの人々に圧倒されて、「どうせ自分など、いてもいなくても同じだ。自分が何をしようとも、この社会には関係がない」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の価値を見失うと、無責任になってしまうのです。 イエスは「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」と言われました(31節)。ダビデは、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」と(詩篇8篇4節)、広大無辺な大宇宙を造られた偉大な神が、小さな自分にも心を留めて顧みてくださることに驚嘆しています。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、それゆえ責任をもって生きていかなければならないということを自覚する時、神への恐れと信仰が芽生えてくるのです。 二、個人の「存在の意義」を自覚すること 私たちは、個人の存在の意義というものを自覚していませんと、私たちの周囲に起きる様々な苦難や困難に敗北して、「なぜ自分だけがこんなに苦しみに会うのか。何だかわけが分からなくなり、何もかもいやになってしまった」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の意義を見失うと、失望落胆して無気力になってしまうのです。 主イエスは「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました(29節)。まして多くの雀よりもすぐれた人間と、その周囲に起きる出来事に対して、神は雀以下の配慮しかしてくださらないことがあるでしょうか。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、周囲に起きる苦難や困難も、決して無意味ではなく、それらは神が個人個人を造り上げるために最高の知恵と愛の配慮をもって送られていることを自覚する時、希望に満ち、気力にあふれてくるのです。 三、個人の「存在の目的」を自覚すること 私たちは、個人の存在の目的というものを自覚していませんと、多くの人たちの存在が煩わしくなって、「他人なんかどうなってもかまわない。自分さえ良ければよいのだ」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の目的を見失うと、自己中心になり、隣人に対して全く無関心になってしまうのです。 イエスは「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」と言われました(30節)。神は、ひとりびとりを特別な関心をもって愛してくださいます。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と仰せられました(イザヤ43章4節)。私たちは、ひとりびとりの人間が神の目には「キリストが代わりに死んでくださったほど」に尊い愛の対象であり(ローマ14章15節)、個人個人の生涯には、深い神のご計画と目的があることを自覚する時(第一コリント2章9節)、隣人に対する無関心が取り除かれて、愛をもって接することができるようになるのです。 私たちは、「個人の存在の価値」と「個人の存在の意義」と「個人の存在の目的」をどれだけ自覚しているでしょうか。
2006.10.15
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「三種類の悩み」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙4章6~10節 この世に住んでいる人で何の悩みも持っていない人は、おそらくだれもいないでしょう。そこで悩みについて学んでみましょう。 一、あってはならない悩み これは罪に至るまちがった悩みであり、決してあってはならない注意すべきものです。 1.卑屈な悩み これは、自らの惨めな境遇や環境を恨んで卑屈になり、恵まれた人を憎み、嫉妬し、果ては復讐心や殺意を抱く悩みのことです。聖書の言葉で表現すれば、喜ぶ者とともに喜べない悩みです(ローマ12章15節)。 2.贅沢な悩み しかし人間は、恵まれた境遇や環境にあれば悩みがないかと言えば、そうでもありません。神と人の恩を忘れ、自分よりも不遇な人が大ぜいいるにもかかわらず、贅沢とわがままな心のために、不平と不満と呟きが絶えない悩みというものがあります。聖書の言葉で表現すれば、泣く者とともに泣けない悩みです(ローマ12章15節)。 3.見栄の悩み 人間は、自らの体裁や面子にこだわり、見栄を張ろうとすると悩みが尽きないだけでなく、罪を犯してしまう者です。 二、ゆだねなければならない悩み これは人類の堕落以後、罪の傷痕として残っているあらゆる欠陥や弱点、また有限な人間として避けられない無知や無力など、人の知恵や力の及ばないものに対する悩みです。また自分は悪くなくても他の人の罪のために苦しめられたり、悩まされたりする悩みです。 しかし私たちは、欠陥や弱点、また無知や無力、そして患難や苦難があったとしても、いつも悩み苦しむわけではありません。私たちは、どのような時に悩むのでしょうか。 1.まず頭脳的に理解することができず、不可解に思う時、人は悩むものです。 2.次にたとえ頭脳的には納得することができても、感情的に不安定で心が穏やかでない時、人は悩むものです。 3.最後に頭脳的に納得し、感情的に安定しても、目前の問題課題が自分の意志ではどうすることもできない時、人は悩むものです。 このような悩みは、全知全能の神が摂理の御手をもって「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)ことを信じて、ゆだねるべきものです。 三、なくてはならない悩み ヤコブは、罪ある人たちと二心の人たちに、「あなたがたは、苦しみなさい(文語訳は、悩みなさい)。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」と勧めています(4章9節)。 私たちは、自分のいやな性質やかたくなな性格、また最もいけない所や恥ずべき悪癖、そして汚れた思いや罪深い心のために真剣に悩んだことがあるでしょうか。 私たちは、神と人と自分に対して真実であろうとすればするほど、また真に敬虔な人、真に愛の人、真に謙虚な人になろうとすればするほど、自分の弱さと罪深さのために悩み苦しむものです。しかしこれは私たちが心から罪を悔い改め、私たちの罪のために死んでくださったキリストの十字架を信じて罪を赦され、あらゆる点において成長しようとする時にどうしても必要な悩みなのです。 四、三種類の悩みの関係 私たちは、「なくてはならない悩み」が深くなればなるほど、ますます神に近づくとともに、キリストの十字架の救いの必要性が分かり、救いの経験が明確になっていきます。 そしてこの救いの経験が明確になればなるほど、罪に至る「あってはならない悩み」がなくなってくるとともに、「ゆだねなければならない悩み」も神にゆだねることができるようになり、悩みが軽くなっていきます。 しかし私たちに「なくてはならない悩み」がなければ、罪のためにますます「あってはならない悩み」が深くなるとともに、「ゆだねなければならない悩み」もゆだねることができず、いよいよ悩むようになるのです。 私たちは、どのようなことに悩み、苦しんでいるでしょうか。そしてその悩みは、解決しているでしょうか。
2006.10.14
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「聞くことに注意しなさい」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙2章1~4節 人間が万物の霊長として他の動物と異なるゆえんは、人間には人格があり、その人格の表現として言葉があるということです。 言葉を覚えるために最も必要なことは、聞くことです。人格を持ち、言葉を語る人間にとって、聞くということほど大切なことはありません。パウロが「信仰は聞くことから始まり」と述べ(ローマ10章17節)、ヤコブが、「聞くには早く……しなさい」(ヤコブ1章19節)と勧めているのも、もっともなことではないでしょうか。 このヘブル人への手紙の2章から4章までの間に「聞く」という言葉が8回も記されています(2章1、3節、3章7、15、16節、4章2、7節)。それで「聞く」ということについて、聖書の中から3つのことを学んでみましょう。 一、私たちは、なぜ聞かなければならないのでしょうか 古今を通じて、また洋の東西を問わず、政治の世界であれ、経済の世界であれ、またどのような世界であれ、人民の声は何か、世論はどうか、世界の動向はどうなっているのか、ということに耳を傾けず、また様々な情報を適確にとらえずして、大成したり、成功したりした人は一人もいないでしょう。 現代は情報化時代であり、人々は、この世に取り残されず、賢くき抜くために適確な情報を得ようと汲々となっています。 しかしここに世のどんな情報よりも大切な情報があります。それは、この天地万物を造られ、この世界を支配しておられる神の声であり言葉です。世の情報は私たちの地上における生活を左右します。しかしこの神よりの天の情報は、私たちの永遠の運命を決定するのです。 「神は……語られました」(ヘブル1章1、2節)。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」(1節)。 二、聞くことに密接に関係のあることは、何でしょうか 聖書は、聞くということに密接に関係のあることを5つ教えています。 1.「イエスの話を聞こうとして」(ルカ15章1節)。聞くということに密接に関係のある第一のことは、願うことであり、求めることです。 2.「父から聞いて学んだ者は」(ヨハネ6章45節)。聞くということに密接に関係のある第二のことは、知ることであり、学ぶことです。 3.「羊はその声を聞き分けます」(ヨハネ10章3節)。聞くということに密接に関係のある第三のことは、判別し、判断することです。 4.「聞いたことを……しっかり心に留め」(ヘブル2章1節)。聞くということに密接に関係のある第四のことは、信じて心に留めることです。 5.「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」(ヨハネ10章4節)。 聞くということに密接に関係のある第五のことは、従うことです。 三、聞くということは、私たちにとって何を意味するのでしょうか 私たちにとって聞くか聞かないかということは、主が「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4章9、23節)と言われたように、私たちの心の問題です。 私たちは、何を聞こうとしているか、何を聞いているかによって、私たちの実質が計られ、また私たちが神の御声を聞こうとしているかどうかによって、私たちの心が神の前にどうであるかが計られます。私たちが信仰者として、また一人の人間として成長していくかどうかは、神の御声と人の声を正しく聞くか、聞かないかにかかっているのです。
2006.10.13
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「宝のあるところに心も」 甲斐慎一郎 マタイの福音書6章19~24節 聖書の中には「宝」という言葉が何回も記されています。それでこの「宝」という観点から、真の宗教の特徴や信仰生活において最も大切なことについて学んでみましょう。 一、宝の意味について 私たちは、「宝」という言葉を聞くと「宝物」や「宝石」を思い浮かべます。しかし必ずしも目に見える有形のものだけでなく、無形の精神的な宝もあります。「無形文化財」などは、その一例でしょう。どちらにしても宝は、有形と無形とを問わず、私たちが最も大切で価値があり、尊いと考えているものです。 主は「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と言われました(21節)。すなわち宝というものは、私たちの心を引き付け、私たちの心を奪うものです。 そして聖書は「富に仕える」ということを教えています(24節)。宝は、私たちが拠り頼んでしまうだけでなく、ついにはそれにひれ伏して仕えてしまうものです。 1.私たちが最も大切であると考え、最も尊く価値があると思うものはみな宝です。 2.私たちの心をとらえて離さず、私たちの心を奪って夢中にさせるものはみな宝です。 3.私たちが当てにして拠り頼むだけでなく、ひれ伏して仕えるものはみな宝です。 二、宝の種類について それでは宝には具体的にどのようなものがあるでしょうか。多種多様なものがあるように思われますが、聖書は二種類の宝しか教えていません。色々な宝があっても、それらはこのどちらかに包含されるからです。 1.天上の宝 この宝の代表は真の神でありキリストです。パウロは「私たちは、この宝(キリスト)を、土の器(弱くてもろい人間)の中に入れているのです」と記しています(第二コリント4章7節)。イザヤは「主を恐れることが、その財宝である」と述べています(イザヤ33章6節)。また「神からの栄誉」も天上の宝です(ヨハネ5章44節)。真の神から出て、私たちをこの神に導くすべての良いものも天上の宝に含まれるでしょう。ただし神以外のものに拠り頼んだり、礼拝したりしてはならないことは、言うまでもありません。 2.地上の宝 この宝の代表は富であり、「マモン」です。「マモン」とは黄金の神を意味し、真の神に対立する偶像です。真の神を無視して金銭で買えるものだけを最も尊いものとするなら、それは地上の宝です。この世から出て、この世に属するすべてのものも地上の宝に含まれるでしょう。 三、宝の用い方について この「自分の宝を地上にたくわえるのはやめ」て、「天にたくわえなさい」というのは(19、20節)、「地上の宝」を自分の宝としてはならず、「天上の宝」を自分の宝にしなさいということを教えています。 私たちは、このようなことがほんとうにわかる時、「たよりにならない富に望みを置かない」で、富や金銭を神と人のために「惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」なるのです(第一テモテ6章17、18節)。 四、宝の厳粛さについて キリストは、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と言われました(22、23節)。 「目」とは「内側の心における動機」のことです(22節)。「目が健全」であるとは、天上の宝を宝として動機が純粋であること、「目が悪」いとは、地上の宝を宝として動機が不純であることを教えています。私たちの目が健全なら、全身(言葉や行動また全存在)が明るい(聖い)が、その目が悪ければ、全身が暗い(罪深い)のです(22、23節)。 それで主は、当然の結論として次のような厳粛なことを教えられました。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(24節)。 私たちは、何を宝として生きているでしょうか。
2006.10.12
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「聖書の人生ドラマ」 甲斐慎一郎 申命記8章1~20節 ドラマという言葉は、一般には「演劇」と訳されています。しかしこの英語の語源は、ギリシャ語の「行為」という言葉であり、ドラマチック(劇的な)という形容詞でよく使われるように、ドラマには「劇的な事件」という意味があり、それは必ずしも「演劇」とか「芝居」というような虚構の世界だけを意味しているのではありません。事実や現実の世界でも、いわゆる劇的であるならば、それはドラマなのです。 このように考えていくならば、私たちの人生もドラマです。また聖書は、神と人間と悪魔という三者の三つ巴の戦いを記した壮大な歴史ドラマであるということができます。 この聖書のドラマの特徴は、時間的には世の初めより世の終わりまで記した最も長いものであり、空間的には上は天の御国より下は地獄まで及んでいる最も広大なものです。しかし最大の特徴は、私たち自身が、このドラマの中に生きていることであり、私たちは単なる観客や読者でいることは絶対にできないということです。 一、その構成について まず聖書のドラマまた私たちの人生ドラマの構成について考えてみましょう。 1.第一に、このドラマは、神の御心や計画という筋書きやストーリーがあるということです。神は、その摂理によって様々なところに伏線を敷き、また悪魔や悪人でさえも用いて、ドラマには欠かせない悪役を演じさせているのです。 2.第二に、このドラマは虚構の世界ではなく、事実や現実の世界であるということです。私たちは、「事実は小説よりも奇なり」という言葉のように、小説よりも不思議な事実や現実の世界の中で、二度と繰り返すことができない厳粛な人生を送っているのです。 3.第三に、このドラマは原作者が神であるとともに主人公であるということです。神は、この世界を支配し、その主権と愛によってこの世界に介入されるのです。 二、その主題について 次にこの聖書のドラマまた私たちの人生ドラマの主題は何でしょうか。それは、「人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練」し(5節)、「訓練された人々」が「平安な義の実を結」び(ヘブル12章11節)、父なる神が「栄光をお受けになる」ことです(ヨハネ15章8節)。 1.訓練の基礎――私たちのうちにあるものを知ることです(2節)。 私たちは、苦しみに会う時、最も醜くて罪深い本性や地金が表れてきますが、それを通して神は、私たちに本当の姿や実質を教えて、その実質にふさわしい訓練をされるのです。 2.訓練の目的――主の口から出るすべてのもので生きるためです(3節)。 最も醜くて罪深い自我を示された私たちは、神のもとに追いやられ、神によって生きる以外に真理の道を歩むことができないことが分かるのです。 3.訓練の結果――ついに私たちをしあわせにすることです(16節)。 真のしあわせは、神の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶことであり(ヘブル12章10、11節)、これによって神の栄光が現れます(ヨハネ15章8節)。 三、その見方について 最後にこのドラマの見方について考えてみましょう。3つの見方がありす。 1.第一は自分の立場から見る見方です。これは誰でもしていることですが、どうしても主観的になり、多くの場合、視野が狭く、浅薄で低い見方になりやすいのです。 2.第二は観客または読者の立場から見る見方です。これは自分を離れて自分を客観的に見ることであり、相手の立場に立って見ることもでき、より真理に近づく広い見方です。 3.第三は原作者である神の立場から見る見方です。これこそ様々な人間的な限界や環境的な障害を乗り越えて、最も真理に近く、高尚で深遠な理想的な見方です。 私たちは、聖書のドラマまた人生ドラマにおいて、どのような生き方をしているでしょうか。
2006.10.11
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「キリストのかおり」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、2章14~17節 「かおり」とは「におい」のことです。においの特徴は、発生源は小さくても、その影響や感化は広範囲に及ぶことです。聖書は、大切な真理を「かおり」にたとえて教えています。その中で代表的なものを3つ選んで学んでみましょう。 一、人のかおり――人の言葉や行為とその影響や感化 聖書は、ニネベの人々に対して「彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ」と記し(ヨナ1章2節)、またコルネリオに対して、「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています」と教えています(使徒10章4節)。 人間の悪い言葉や行為は、「悪臭」の発生源のようなものであり、それは周囲の人々に悪い影響や感化を及ぼすだけでなく、天に上って神のみこころを痛めます。これに対して人間の良い言葉や行為は、「芳香」の発生源のようなものであり、それは周囲の人々に良い影響や感化を及ぼすだけでなく、天に上って神のみこころを喜ばせます。 私たち人間は、「悪臭」か「芳香」を放ちながら互いに様々な影響や感化を及ぼし合っています。特にマスコミの発達している現代は、「悪臭」であれ「芳香」であれ、電話やテレビやパソコンを媒体として、これらが文字通り光(電波)の速さで伝達されているのです。 しかし私たちが特に心しなければならないことは、「死んだはえは、調合した香油を臭くし」(伝道者10章1節)とあるように、悪の影響や感化の強さです。私たちは、きれいにするよりも汚くする方が、建設するよりも破壊する方が、そして向上するよりも堕落する方がはるかに容易であることを決して忘れてはなりません。 二、キリストのかおり――キリストの贖いとその影響や感化 レビ記の1章には、全焼のいけにえについて記され、それは「主へのなだめのかおりの火によるささげ物である」と説明されています(9、13、17節)。そしてこの全焼のいけにえは、キリストの十字架による贖いの死のひな型です。このことをパウロは、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」と述べています(エペソ5章2節)。 人間は、神の前に罪という悪臭しか発することができない罪人であり、神の怒りを受けて罰せられる者です。しかしキリストは、その罪人を救うために十字架の上で死なれ、ご自身が全焼のいけにえとなって神の前になだめのかおりをささげ、罪という悪臭を消してくださったのです。 三、福音のかおり――福音の力とその影響や感化 このキリストのかおりは、私たちにとって人を罪から救う「福音のかおり」にほかなりません。なぜならキリストの贖いは、香ばしいかおりとして神の怒りをなだめ、その愛のみこころを動かして、私たちのために救いの道を備えられたからです。 私たちは、福音を信じるなら、「神の前にかぐわしいキリストのかおり」(15節)になり、良い言葉や行為という芳香を放つ聖徒に変えられ、永遠のいのちに至ります。しかし私たちが福音を信じなければ、相変わらず悪い言葉や行為という悪臭を発する罪人のままで、永遠の死に至るのです。 それとともに福音を信じた「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人人の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおり」です(15節)。すなわち私たちの語る福音を信じる者には、それは「いのちに至るかおり」になり、また信じない者には、それは「死に至るかおり」になるという人々の生死にかかわる重大な影響や感化を及ぼすのです(16節)。
2006.10.10
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「大いなる神」 甲斐慎一郎 詩篇46篇1~11節 マルチン・ルターやアイザック・ワッツが、この詩篇に基づいて作った賛美歌(267、286番)は、余りにも有名であり、今なお多くの人々に愛唱されています。私たちが大きな問題に取り囲まれ、八方塞がりの状態にある時、この詩篇を読むなら、必ずや大いなる慰めと平安を得ることができるでしょう。この詩篇は、休止を表す「セラ」という言葉によって3つに区分することができます。 一、個人を助けられる大いなる神(1~3節) 「神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助け」(1節)というみことばほど私たちを慰め、そして励ましてくれるものはないでしょう。 避け所とは、言うまでもなく、安全な避難場所のことです。大地震や大洪水のような天変地異や、それに象徴される大きな苦難や患難があっても、神を避け所とするなら、絶対に安全です(詩篇91篇1~9節)。 しかし私たちは、避け所である神のもとに逃げ込めば、それでよいのではありません。避け所である神のもとにおいて、力を受け、失われたものは回復され、足りない所は補われ、弱い所は強くされなければなりません。 さらに私たちは、いつ、どこで、どのような苦しいめに会っても、すぐにまにあう「おりにかなった助け」(ヘブル4章16節)が必要ですが、神こそ、そのような求めに充分にこたえられる方です。 二、神の都を守られる大いなる神(4~7節) このように私たちの安全な避難場所であるとともに、また力であり、さらにおりにかなった助けを与えてくださる神は、神の民の住んでいる神の都を守られます。 この旧約聖書に記されている神の都や神の民は、新約聖書においては教会に当てはめることができます。なぜなら教会は、世から選び出されたキリスト者の集まりであり、新約の神の民だからです(ガラテヤ6章16節)。 川は、いのちの水を象徴し(エゼキエル47章1~12節)、それはまた聖霊を表しています(ヨハネ7章38、39節)。キリスト者には、聖霊による喜びがあり(ガラテヤ5章22節)、神の国は義と平和と聖霊による喜びだからです(ローマ14章17節)。 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国がゆらいでも、神はそのまなかにいまして、その都はゆるがないように、世がどれほど教会を迫害しても、キリストが建てられた教会は、びくともせず、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです(マタイ16章18節)。 三、全地を支配される大いなる神(8~11節) 個人を助けられ、また教会を守られる神は、全世界を治められる万軍の主す。「国々は騒ぎ立ち……地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」ことでしょう(詩篇2篇1、2節)。しかし神は全地であがめられるのです。ここには3つの呼びかけが記されています。 1.「来て」(8節前半)――神がアブラハムを狭い天幕から外に連れ出されたように(創世記15章5節前半)、私たちも自分の狭い考えや自分の殻の中に閉じこもらず、そこを出て、主のみわざがよく見えるように、神のもとに行かなければなりません。 2.「見よ」(8節後半)――アブラハムが神の声に従って天を見上げたように(創世記15章5節後半)、私たちも神の招きに応じて神のもとに行くなら、必ず数々のくすしい主のみわざを見ることができるでしょう。 3.「知れ」(10節)――私たちが血肉を静めて神を待ち望むなら、この方こそ真の神であり、全地を支配される万軍の主であることを知るようになるのです。
2006.10.09
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「ただこの一事に励んでいます」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙3章13節 現在の日本は情報化社会であり、人々は情報の洪水の中で生活しています。多くの人々は様々な情報に振り回され、一体何が正しいことで、最も大切なものであるのか、全くわからなくなっているのではないでしょうか。 ともすれば私たちキリスト者も、色々な情報に気をとられて、真理を見失ってしまうことがあります。そこで、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」(ローマ12章2節)、永遠に変わらない神の言葉である聖書を学んでみましょう。 B・F・バックストンは、聖書に記されている4つの「一つ(のこと)」という言葉に目を留めるように教えています。 一、一つの欠乏――「あなたには、欠けたことが一つあります」(マルコ10章21節) この金持ちの役人は、小さい時から神の戒めを守っていると思っていました。しかし彼は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めの神髄を守っていませんでした。このイエスの言葉は、金持ちの役人にとって頂門の一針であり、それは彼の致命的な欠陥です。 この一つが欠けていることは、すべてのものが欠けているのと同じことでした。いわゆる肝心要のところがぬけていたのです。私たちは自分の姿を見て、「あれも足りない。これも足りない」と言って、多くの欠乏に目を向けている間は、根本的な欠陥に気づいていないのです。 二、一つの必要――「どうしても必要なことは……一つだけです」(ルカ10章42節) マルタは、イエスをもてなすために色々なことを心配しているうちに、心が入り乱れ、イエスとマリヤを非難するようになってしまいました。それは、どうしても必要な一つのことを見失ってしまったからです。 私たちは自分の欠乏を見て、「あれも必要だ。これも必要だ」と言って、多くの必要に心を奪われている間は、自分にとって本当に必要なものに気づいていないのです。 三、一つの願望――「私は一つのことを主に願った」(詩篇27篇4節) 人は、自分の欠乏と必要に気づくなら、それを求めます。しかしその時、「あれも欲しい。これも欲しい」と言って、多くのものを求めるならば、「二兎を追う者は一兎をも得ず」という諺のように、一つも得ることができなかったり、たとえ得ることができたとしても肝心なものを求めなくなったりするのです。 メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、「あなたは、もっと多くのことをすることができるように、一時にはわずかなことをしなさい」と興味深い言葉を述べています。 ダビデは、最も大切な一つのこと、すなわち「主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見」ることを求めたのです(同27篇4節)。 四、一つの目標――「私は……ただ、この一事に励んでいます」(ピリピ3章13節) 一つの根本的な欠陥を自覚し、どうしても必要な一つのことに気づいて、最も大切な一つのことを願った者は、パウロのように、ただ、この一事に励むようになります。それは「神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走」ることです(同3章14節)。 前述したウェスレーは、説教集の序文において、「わたしはひとつのことを――すなわち天国への道を知りたいと切に願う。……わたしを『一書(聖書)の人』にして下さい」と記しています。 私たちは、根本的な一つの欠陥――神の前において罪人のかしらであること――を自覚しているでしょうか。どうしても必要な一つのこと――罪からの救い――に気づいているでしょうか。最も大切な一つのこと――罪からの救いを受けて、神に喜ばれる歩みをすること――を求めているでしょうか。そして一つのこと――神の栄冠を得ること――に励んでいるでしょうか。このような人こそ、主によって多くのことを成し遂げて、神の栄光を現すことができるのです。
2006.10.08
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「生きている信仰と死んでいる信仰」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、25章1~44節 ダビデとアビガイルの姿から、実際の生活の中に生きている信仰と、そうではない死んでいる信仰について考えてみましょう。 一、死んでいる信仰(1~22節) ダビデにとってサムエルは偉大な恩師であるだけでなく、ヨナタンのほかにダビデが悩みを打ち明けることができた掛け替えのない人でした(19章18節)。そのサムエルが死んだのです。これはダビデにとって大きな衝撃であるとともに信仰の危機でした。 アビガイルに会うまでのダビデの姿を見てみましょう(1~22節)。ダビデの求めに対してナバルは彼を侮辱しました(10、11節)。このナバルの恩知らずと非礼な態度にダビデは怒り、すぐ「めいめい自分の剣を身につけよ」(13節)と部下に命じています。しかしこれはあまりにも思慮がなく、軽率であるだけでなく、祈りもせず、神の導きも求めない不敬虔な態度でした。 この箇所(1~22節)には、22節において呪いの誓いのために神の名を口に出していますが、それ以外に神の名は記されていません。ダビデはナバルに侮辱された腹いせに、ただ復讐のみを考えて、その思いの中にも、その会話の中にも、その行動の中にも、全く神はいませんでした。この時の彼の信仰は死んでいたのです。 私たちも日常の生活の中において、特に自分の思い通りに物事が運ばない時、祈りもせず、神の導きも求めないで、ただふるまうなら、その思いと会話と行動の中に全く神はおられず、その信仰は死んでいるのです。 二、生きている信仰(28~44節) これに対してアビガイルの信仰は、どうでしょうか。24節より31節までのわずか8節の間に、実に「主」という言葉が7回も出てきます。このことから次のような3つのことを学ぶことができます。 1.人の会話の中に生きておられる神 アビガイルの何げなく話している言葉の中に、何と多くの神の名が出てくることでしょうか(26~31節)。 彼女は(1)復讐について(26節)、(2)家の繁栄について(28節)、(3)奉仕について(28節)、(4)生命について(29節)、(5)敵の生命について(29節)、(6)約束について(30節)、(7)幸福について(31節)、ことごとく神にふれており、神と切り離しては考えられない会話をしています。 このようにすべての会話が神と切り離せない言葉を語るものこそ生きている信仰です。 2.人の行動の中に生きておられる神 しかしアビガイルは、単にその会話や言葉の中に神の名が出てきただけでなく、人の行動の中にも神が生きておられることを知っていました。 彼女の行動は、すべてのことの中に神がおられ、すべての出来事や人間関係の中に常に神が介入し、干渉し、働いておられることを信じていたことをよく表しています。 このように人の行動の中にも常に介入し、干渉し、働いておられる神を信じて行動するものこそ生きている信仰です。 3.人の心と思いの中に生きておられる神 このようにアビガイルの会話の中にも行動の中にも神が生きておられたのは、その心と思いの中に神が生きておられたからにほかなりません。このようなアビガイルの生きている信仰によってダビデの死んでいた信仰は生き返ったのです。 私たちは、聖書に記されている真の神を信じることによって心の中に神が生きるようになるだけでなく、継続的に聖書を学ぶことによって、私たちの人間的な思いが神の思いと入れ替わり、その思いの中にも神が生きておられるようになります。これこそ自分だけでなく、ほかの人をも生かすことができる生きている信仰なのです。
2006.10.07
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「感謝の心を持つ人になりなさい」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙3章15~17節 このコロサイ人への手紙の3章15節から17節には、各節毎に「感謝」ということばが記されています。パウロは、コロサイの教会の人たちに感謝の大切さを教えています。 一、感謝の心を持つことについて 新改訳聖書が「感謝にあふれて」(16節)と訳している言葉は、欄外注の別訳では、「恵みにあふれて」とあります。ギリシャ語の「カリス」という言葉は、「恵み」とも「感謝」とも訳すことができます。 受ける資格のない者に価なしに与えられるものが「恵み」ですが、その「恵み」に対する応答が「感謝」です。「恵み」は上から下り、「感謝」は下から上るのです。 神は、人間の側で何もしなくても、あふれるばかりの「恵み」を与えてくださいますが(マタイ5章45節、使徒14章17節、第一テモテ6章17節)、この「恵み」への当然の御礼と恩返しが「感謝」です。 しかし神を離れた罪深い人間は、「忘恩の徒」ですから、神への「敬虔さ」がなければ感謝することはできず、隣人への「愛」がなければ、人が行っている正しいことや良いことや立派なことを感謝して喜ぶことはできず(14節)、「謙遜」でなければ、自分に対する正しい忠告を素直に感謝して受け入れることはできません(12節)。 このように感謝の心を持つためには、神への「敬虔さ」と、隣人への「愛」と、自らの「謙遜」が必要です。そしてこれらが与えられる条件は、神への信仰と服従と献身です。 二、感謝の原動力について 人は、神からどれほど多くの賜物や才能、また名誉や地位、そして金銭や財産を与えられたとしても、最大の賜物であるキリストによる罪からの救いを受けなければ、真に感謝の心を持つことはできません。真の救い以外のものは、決して永続せず、いつ失われるか分からない不安定なものであるだけでなく、罪のために破壊されてしまうからです。 この世において最大の、しかも真に永続する感謝は、ただ一つ、罪からの救いです。罪からの救いこそ感謝の原動力です。ですからたとえ他のすべてのものがなくても、また失われたとしても、キリスト者は、罪から救われたことを感謝することができるのです。 三、感謝の表れについて 1.感謝の表れの第一は、神への礼拝です。 キリスト者は、罪から救われたことを心から感謝し、神の前にひれ伏して神への礼拝をささげます。私たちを恐ろしい罪に陥れる偶像礼拝や自己崇拝から救われるためにも、この神への礼拝は最も大切なことなのです。 2.感謝の表れの第二は、きよめの追求です。 私たちが神への礼拝をささげる時、罪の行為が赦されたことを心から感謝しますが、その時、罪の行為の原因である心の中に住む罪がきよめられなければならないことを示されます。人は、罪の行為が赦されて聖霊が与えられる時、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5章22、23節)という御霊の実の萌芽が与えられますが、心の中に住む罪のために十分に実を結ぶことができません。しかし私たちが神への信仰と服従と献身によって心から神に感謝をささげる時、聖霊が心の中に住む罪をきよめてくださり、御霊の実を豊かに結ぶことができるのです。 3.感謝の表れの第三は、人々への証しです。 罪からの救いを受け、感謝の心を持ったキリスト者は、他の人に福音を宣べ伝えずにはいられなくなります。キリストは、父なる神が祈りに答えてくださることを感謝して、ラザロをよみがえらせました(ヨハネ11章41節)。ヨシャパテは、まず神に感謝の賛美をささげることによって大勝利を得ました(第二歴代誌20章21、22節)。パウロとシラスは、祈りと感謝の賛美をささげることによって、自分たちと他の人々を救うことができました(使徒16章25~34節)。このように感謝は、最悪の事態をも好転させ、道を開いて、豊かな実を結ぶ働きをするのです。
2006.10.06
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「教会の熱心な祈り」 甲斐慎一郎 使徒の働き12章1~5節 「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」(5節)。 冒頭の聖句は、ペテロが捕らえられた時、教会が神に熱心に祈ったことを教えていますが、この初代教会の祈りから聖書が教えている真の祈りについて学んでみましょう。 一、聖霊の働きが顕著に見られた初代教会でさえ、神に熱心に祈らなければ全く無力であったということ この使徒の働きの12章の初めは、へロデ王がヤコブを殺し、ペテロを捕らえて牢に入れるという恐ろしい事件が起きたにもかかわらず、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続け」る(5節)以外になす術がないというお先真っ暗の状態でした。 このように聖霊の働きが顕著に見られた初代教会でさえ、祈らなければ全く無力であったということを決して忘れてはなりません。 二、教会の熱心な祈りによって最悪の事態が好転しただけでなく、福音の前進という最良の結果をもたらしたこと しかしその後、ペテロは奇跡的に救い出され、ヤコブを殺したヘロデ王は神に打たれて死に、この章の終わりは、「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った」(24節)という輝かしい福音の前進で締めくくられています。 このようになったのは、教会が彼のために神に熱心に祈り続けていたからです。祈りこそ最悪の事態をも好転させ、最良の結果をもたらすものです。 三、聖書は、真の祈りについて次のような3つのことを教えていること 1.祈りは、神と人との正しい関係を保つ秘訣です。 ダビデは、バテ・シェバとの姦淫とウリヤの殺人の罪を犯した後の一年間、罪を告白せずに黙っていたので、神の前に出られませんでした。しかしナタンの叱責を受けて罪を認め、悔い改めた時、神の前に祈り、神と正しい関係持つことができました(詩篇32篇、51篇)。私たちは、罪を認めて悔い改め、神の前に祈る時、神と正しい関係を持つことができるとともに人との関係も正しくなるのです(マタイ5章23、24節)。 2.祈りは、私たちを動かすものです。 メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、「祈りの目的は、……必要感と……神への絶えざる依存感を定着させ……あなたがた自身を動かすことにある」と述べています(ウェスレー著作集、説教、中、87頁、新教出版社)。私たちは、祈り続ける時、願望が増し加わり、意志が強くされて、実行力のある人に変えられるのです(第一サムエル1章10~18節)。 3.祈りは、神の御手を動かすものです。 ヨブ記の1章と2章には神と天使たちがサタンと激しく戦う(ここでは白熱化した討議をする)という天上の出来事と、その結果として起きる地上の出来事が記されています。この世の神であるサタンも神の許しなしには何もできないのです(マタイ10章29節)。 「祈り……は神の前に立ち上って、覚えられ」(使徒10章4節)、神とサタンとの激しい戦い(白熱化した討議)の中に私たちの言葉も加えられます。もし私たちが祈らなければ、天上の出来事の結果として起きる地上の出来事はすべて、どうすることもできない運命として受け止めるしかないでしょう。 しかし私たちが祈るならば――それが神のみこころにかなったものであるなら――その祈りは神の前に立ち上って覚えられ、神のご計画の中に組み入れられるだけでなく、神は、サタンの恐ろしい企みを打ち破って、地上にそのみこころを行われるのです。 ジョン・ウェスレーは、「神は、祈りの答えとしてでなければ、何事もなさらない」と言っていますが、まさにそのとおりです。私たちは、地上に神のみこころが行われるために神に熱心に祈り続けましょう。
2006.10.05
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「人の願いと神のみこころ」 甲斐慎一郎 ルカの福音書22章42節 「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22章42節)。 このイエスの祈りから「人の願いと神のみこころ」について考えてみましょう。 一、人の計画と神のみこころ 箴言に「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(19章21節)ということばがあります。「主のはかりごと」とは「主のみこころ」のことです。 私たちはだれでも、将来に対して望みを抱き、自分なりに様々な計画を立てて歩んで来たにちがいありません。しかしその希望や計画の中には良い志だけでなく、野望や野心もあったのではないでしょうか。私たちの希望はすべてかなえられたでしょうか。私たちの計画通りにすべての物事が運んだでしょうか。答えは「否」と言わざる得ません。 私たちが正直に自分の半生を振り返ってみるなら、私たちの心に多くの計画があったとしても、野心や野望という良くない計画や身勝手な願いは実現せず、主が良いとみられることしか成就していないことを痛感するのではないでしょうか。 二、人のつぶやきと神のみこころ エジプトを脱出して荒野を放浪していたイスラエル人について、聖書は、「民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし」と記しています(民数記11章1、2節)。 「つぶやき」は、一般的には不平や不満や文句と同じような意味で使われています。それは身勝手で不当なものですが、一種の願いです。また「祈り」も神への願いであるということができます。ですから人間は、祈りであれ、つぶやきであれ、心の願いに満ちている者であることがわかります。 私たちの心が神と正しく結びついているなら、その心の願いは祈りとなって表れますが、神より離れているなら、それはつぶやきとなって表れます。言い換えれば神に造られた人間は、神との交わりの中にありましたが、堕落したことによってその祈りがつぶやきに変わってしまいました。ですからつぶやきは、偽物の祈りであるということができます。 私たちのつぶやきは、それが独り言であれ、人に対してであれ、みな神に対するつぶやきになります。イスラエルの民は、「この荒野で死んだほうがましだ」とつぶやきましたが(同14章2節)、神は、「わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう」と言われ、彼らは、そのつぶやきのとおりに、死体となってこの荒野に倒れたのです(同14章28、29節)。 神は、私たちがあまりにも貪欲で、悪いと知りつつ強引に身勝手な願いを通そうとするなら、そのとおりにされることがあります。これを許容的な「神のみこころ」と言います。これは放任という恐ろしい神の刑罰なのです。 三、人の願いと神のみこころ 聖書は「主は彼らの願いをかなえたまいしかど、そのたましいをやせしめたまえり」と教えています(詩篇106篇15節、文語訳)。イスラエル人は、その激しい欲望が満たされ、願いはかなえられましたが、そのたましいは、やせ衰え、からだは疫病に打たれて死んでしまいました(民数記14章33、34節)。 人間は、自分の心や霊性が向上することよりも、自分の思いどおりに物事が運ぶことのほうを願いやすいものです。しかし人間は、自分の身勝手な願いどおりに物事が運ぶことによって、かえって心が堕落したり、霊性が低下したりし、反対に自分の身勝手な願いどおりにならないことによって、悔い改めて神に立ち返り、心や霊性が向上するのです。 人間の願望は、つぶやきに代表されるように、自分でも気がつかないほど不純で身勝手なものです。ですから私たちは、自分の願いがかなえられたり、自分の思いどおりに物事が運ぶことを願ったりするのではなく、自らの心や霊性が向上することを求め、主のみこころのとおりにしてくださいと祈ることが何よりも必要で、大切なことなのです。
2006.10.04
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「モーセの祈りに学ぶ」 甲斐慎一郎 詩篇90篇1-17節 この詩篇の90篇は、40年間の荒野の放浪の終わり近くに書かれたモーセの晩年の作です。彼の愛した同胞の民イスラエル人は、「鉄の炉エジプトから」(申命記4章20節)出たものの、カデシュ・バルネアにおいて目的地のカナンにはいろうとせず、不信仰の退却をしたので、神の御怒りを受けて、次々としかばねを荒野にさらしてしまいました。しかも彼自身も小さな失敗のためにカナンの地にはいることを許されなかったのです(民数記20章12節)。 モーセの悲しみと心痛そして孤独感は、いかばかりであったことでしょうか。私たちは、このようなまれな境遇と立場に置かれたモーセが、この詩篇の著者であることを念頭において、この詩篇を読むならば、一つ一つに言葉に計り知れない重みがあることがわかるでしょう。 この詩篇は、永遠の神と有限な人間を鋭く対比させており、その構成は実に雄大であり、その内容は極めて厳粛なものですが、ただ冷たく観察しているのではなく、かえって神に対するほとばしり出るような祈りから、彼の熱い心情を察することができます。 一、モーセの黙想(1-11節) この箇所には3つ黙想が記されています。 1.生命のはかなさ(3-6節)。 ここには、「人をちりに帰らせて」とか、「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます」とか、「夕べには、しおれて枯れます」という言葉が用いられています(3、5、6節)。20歳以上の男子だけで60万人もいたイスラエルの人々が、40年間のうちに次々とひとり残らず、しかばねを荒野にさらしていくのを毎日毎日、目撃したモーセにとって、まさに人の生命は、このように映ったのであり、これ以外に死を表現する言葉がなかったのでしょう。 2.人生のむなしさ(10節)。 イスラエルの民は、40年間も荒野を放浪しましたが、その中には熱い日があり、また寒い日があり、雨の日や風の日も多くあったことでしょう。周囲は殺風景なだけでなく、危険な荒野であり、そこを天幕をかついで毎日毎日死ぬために、あてどもなくさ迷ったのです。まさに人生は、「労苦とわざわい」としか言いようがなかったのでしょう。 3.人間の罪深さ(7-9、11節)。 ここには何回も何回も「神の怒り」、すなわち罪に対する神の刑罰が記されています。モーセは、放浪しながら死に絶えていくイスラエルの民を見ながら、それがみな民の不信仰の罪のためであることを思い、今さらのように人間の罪深さと罪の恐ろしさを知ったことでしょう。 しかし私たちは、永遠の神を私たちの住まいとする時、すなわち永遠の神が私たちの生命となり、私たちの環境となるとともに、私たちの心の中に住むならば、この「生命のはかなさ」も、「人生のむなしさ」も、「人間の罪深さ」も解決するのです。 二、モーセの祈り(12-17節) この箇所には3つの祈りが記されています。 1.知恵を祈り求めています(12節)。 「自分の日を正しく数える」とは、自らの生命のはかなさとともに、人間には必ず死と死後の審判があることを知って(ヘブル9章27節)、神を信じ、神を恐れることです。この神を恐れることこそ、知恵の初めです(箴言9章10節)。 2.救いを祈り求めています(13-15節)。 罪深い人間に必要なことは、罪を赦され、神の祝福と恵みが豊かに与えられることです。 3.わざの確立を祈り求めています(16、17節)。 私たちは、神のみわざが現わされることによって、私たちの手のわざが確立され、神に喜ばれることを行なうことができるように祈らなければなりません。 このような祈りをすることによって神に近づくことこそ、永遠の神を私たちの住まいとする秘訣なのです。
2006.10.03
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「祈りの教え」 甲斐慎一郎 ルカの福音書11章1~13節 さて、イエスはある所で祈っておられました。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言いました(1節)。 そこでイエスは、彼らに「主の祈り」(2-4節)と「真夜中の友人のたとえ話」(5-8節)と「求めなさい」(9-13節)という祈りについての3つの話をされました。イエスは、この祈りについての3つの話を通して、ほんとうの祈りとは、どのようなものであるかを教えられたのです。 一、祈りの内容について(2-4節) この「主の祈り」は、「祈るときには、こう言いなさい」と言って(2節)、イエスが模範的な祈りとして弟子たちに教えられたもので、5つのことを祈っています。 1.「御名があがめられますように」……神の栄光が現されることを求める祈りです。 2.「御国が来ますように」……神のみこころが行われることを求める祈りです。 3.「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」……私たちの肉体的、物質的な必要を求める祈りです。 4.「私たちの罪をお赦しください」……私たちの霊的な救いを求める祈りです。 5.「私たちを試みに会わせないでください」……私たちが誘惑や試練から守られることを求める祈りです。 イエスは、まず何を祈るべきかという祈りの内容を私たちに教えられました。これは非常に大切なことです。なぜなら、自らの身勝手な願いを神に押し付けたり、人を呪ったりするようなものは祈りではなく、この「主の祈り」に示された課題の範囲内のことを神に求めることこそ真の祈りだからです。 二、祈りの精神について(5-8節) この真夜中の友人のたとえ話は、「熱心に求めるなら、少ししか持たず、しかも、物惜しみする人間でさえも与えてくれるとするならば、まして豊かに持ち、しかも、物惜しみされない神が、どうして与えてくださらないことがあるだろうか。」(R・C・トレンチ)ということを教えています。 イエスは、まず主の祈りによって「祈りの内容」を示されましたが、次にこの真夜中の友人のたとえ話によって「祈りの精神」を教えられました。それは、執拗なほどの熱心さと忍耐強さです。 私たちは、主の祈りによって示された祈りの内容から逸脱したり、離れたりすることなく、その範囲内で、あつかましいほど熱心にしかも忍耐強く祈らなければなりません(8節、欄外注)。これこそ聖書が教えている祈りの精神です。 三、祈りの応答について(9-13節) このように、主の祈りによって示された祈りの内容から少しも逸脱することなく、熱心に、忍耐強く祈るなら、そのような祈りが答えられるのは当然ではないでしょうか。 そしてイエスは、この「祈りの応答」において非常に大切なことを語られました。それは、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と言われたことです(13節)。 私たちは、祈りの応答として、何か良い物が与えられるとか、物事がうまく運ぶとか、そのような目先のことを期待しがちです。しかし聖霊が与えられることこそ、最高の祈りの応答であることを忘れてはなりません。なぜなら、聖霊を受けることは、全知全能の神が私たちとともにおられることであり、それは、すべてのものが与えられることと同じだからです(ローマ8章32節)。
2006.10.02
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「静寂の力」 甲斐慎一郎 イザヤ30章15~24節 イザヤが預言者として活動していた時代のユダは、北にはアッシリヤ、南にはエジプトという二つの強大な国家に挟まれた小さな国でした。その頃、アッシリヤがユダに攻めて来ました。イザヤは、民に「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と仰せられた主のことばを告げました(15節)。 一、静寂の力の必要性(16節) ところが民は、「いや、私たちは馬に乗って逃げよう」と言いました(16節)。 ミデヤンの地において神の前に静まることを身につける前のモーセは、神を恐れず、人を恐れました(出エジプト2章12、14節)。そのために彼は、自分の力を知らない高慢のために出過ぎたまねをし(同2章12節)、また神の力を知らない不信仰のために正しいことにも臆してしまいました(同2章15節)。 このように人は、神の前に静まって力を得なければ、出過ぎたまねをし、しかも必要で肝心なことができなくなってしまいます。言い換えれば、止まっていなければならない時に飛び出し、進んでいかなければならない時に後ずさりするのです。これは忍耐と勇気の欠如によるものですが、この忍耐と勇気の欠如こそ、静まることが必要な理由です。 二、静寂の力の秘訣(18節) イザヤは「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」と言いました(18節)。 キリストは、人間の外側のことばや行動は、内側の心や思いの表れであると言われました(マタイ5章21~32節、12章34節)。心に満ちていることがことばになり、行動になるのです。ですから神に喜ばれない出過ぎたまねをせず、しかも神に喜ばれる必要で肝心なことをするためには、まず心がそうなっていなければなりません。 もし私たちの心の中に、神に喜ばれない願いが満ち、また神に喜ばれる願いがほとんどなければ、出過ぎたまねをし、必要で肝心なことができなくなってしまうのは当然です。 私たちは、静まって神を待ち望まなければなりません。祈りは、ただ神の前に自分の願いを並べ立てることではありません。それは、神に喜ばれない願いや思いを静め、神に喜ばれる願いや思いを燃え立たせて、神のみこころと力を待ち望むことです。 祈りの消極面は、静まることです。静まるとは、神以外のすべてのものから目を離して分離することであり、人間的または肉的な願いや思いを止めることです。私たちは、こうする時にのみ、真の忍耐を身につけることができ、出過ぎたまねをして飛び出すことから救われるのです。 祈りの積極面は待ち望むことです。待ち望むとは、ただ神のみに目を向けて期待することであり、神のみこころと力を受け取ることです(イザヤ40章31節)。私たちは、こうする時にのみ、真の勇気を身につけることができ、臆して後ずさりすることから救われるのです。 三、静寂の力の効果(21節) イザヤは、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く」と言いました(21節)。 静まって神を待ち望む人は、全く自主性がなくなり、神の操り人形になるのでしょうか。決してそうではありません。右に行くことも左に行くことも自由であり、日常茶飯事は聖書の教えに基づいた常識を働かせて自主的に行動することができます。 しかし静まって神を待ち望んでいる人は、常識を働かせている小さな出来事の中にも、気がつかないうちに神に導かれ、また大きな出来事は、アジヤからピリピに渡ったパウロのように特別な神の導きと干渉によって進退しているのです(使徒16章6~10節)。
2006.10.01
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