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トイレの水の節水と、ポタポタとたれる水漏れの対策先日トイレの節水対策を何かしたいなと思い、いろいろと調べました。水洗トイレなので、流す回数を減らすか、流す水の量を控えめにしないかぎり節水はできません。結局、トイレに行く回数を制限はできないし、流さないと臭いも気になるわけですから、一回に流す水の量を制限するしかありません。トイレの水タンクの中にはフロートが浮いていて、タンクの中に水がたまるとそのフロートが浮き上がり、その力でタンク内への注水を留める仕掛けになっています。その仕掛けに不具合が出ると水が止まらなくなります。また、このフロートの位置が調整できれば、たまる水の量を減らすこともできます。昔、タンクの中にペットボトルなどを入れて、たまる水の量を制限するやり方がはやりましたが、これをやると、タンク内のこのトイレの機構に影響を与えて(引っかかりなど)水が止まらなくなったり、逆に水が出なくなったりする原因となりますのでやめておかれる方が良いでしょう。ちなみにフロートはこんなものですこのフロートを取り替えてしまえば、フロートが原因の水漏れは防げます。だいたい10年から15年程度で不具合が出てくるそうです。うちもご多分に漏れず、築12年で不具合が出てきました。まだ、パッキンとか変えればもったかもしれませんが、節水を考えて今回取り替えることにしました。ネットでちょっと探せばこんなのとか出てきますので、これを購入します。取り付けは、プライヤーかモンキーレンチがあれば、素人でも簡単です。まずは、トイレのタンクに水を供給している水道管をたどっていくと(もちろんトイレの部屋の中にあって見えるところにありますよ)手で回せる止水栓か、ドライバーで回せる止水栓がありすので、これを回して水を止めます。これをやらないと、トイレ関係は修理ができませんよ。この止水栓を見つけられない方は、もっと簡単に、水道のメーターのところにある栓を止めればもっと簡単。とにかく水道を止めて作業を開始します。やり方は、これらの修理用のフロートに修理要領が詳しく書かれているので不器用な私でも20分程度で完了しました。取り付けの時に、節水のため、フロートにとりついている棒をやや下向き加減に手で曲げます。これによって、少し下で水が止まるようになります。あまり下に向けすぎて肝心な「モノ」が流れないのでは困りますので、修理前の水の位置から3センチか5センチ程度下がるくらいで調整します。このようなボールタップならためられる水の量が調整できますので、私はこれを使いました。取り付けも丁寧な説明書がついてました。うちには一階と二階に一つづつトイレがあるのですが、一階はこれで簡単にポタポタも解消し、あわせて節水対策もばっちりでした。でも二階のトイレはこれを付け替えてもいっこうにポタポタはおさまりません。水を流して何ともないときもあれば、少しすると「ポタポタ」と水が流れる音がする・・・・。初めは取り付け不良かと悩み、何回と無く取り付け直してみました。3回取り付けなおしても一向になおらないので、「これは、購入したボールタップの不良が原因だろう!」と考え、実はもう一つ購入して付けなおしてみたりしました。でも直らず。・・・・・・・そこで、ネットでいろいろと調べてみたら、タンク内のフロートゴム玉が劣化していることが原因の可能性が出てきましたものはこういうモノですこれは単純なもので、単なるゴムのボールのようなものなのですが、これが、タンク内の底の部分に蓋をすることによって水が止まる仕掛けなのです。ただ、ゴム製なので、10年程度でかなりの劣化が生じ、水が隙間から漏れ出る可能性が高くなるようです。そこで、こちらも購入して取り替えることにしました。このフロートゴム玉には「大」と「小」の二種類があるのですが、この見分け方もここのリンクをたどっていただくと簡単にわかります。この見分け方に従って「大」か「小」のどちらかを購入し取り替えます。この取り替え方も以外に簡単。先ほどと同じように、タンク内にいく水をストップしてから水を抜き、作業を行います。ただ、このゴム玉は劣化していますので、手で触ると、真っ黒になりますので手袋とかをしてから作業をすることをおすすめします。あと、このゴム玉がのっかているタンク内の底の穴にも水垢が付着していたり、ゴミが付着して止水不良を起こす可能性があるので、作業のついでに柔らかいボロ切れできれいにふき取ることをお忘れなく。うちは上記手順で、トイレの節水&ポタポタ水漏れから解消されました。
2008年04月30日
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あなたは敬語で知らぬ間に恥かいてるのでは?ネットでおもしろく役立つニュースをみつけました。日刊ゲンダイより・・・・・・・・・・・・・・・・新年度がスタートして2週間。新任のあいさつ回りや担当者同士の顔つなぎ接待があちこちで重ねられていることだろう。そんな場で飛び交っているのが珍妙な「ビジネス敬語」。日本語として変だったり、使い間違えていたりで、知らぬ間に恥をかいているかもしれない。【日本語として間違い】●とんでもございません「とんでもない」を丁寧に言うつもりで、ほめられたときなどに恐縮して使うが、日本語になっていないばかりか、相手にも失礼にあたる。とんでもないはそれ自体がひとつの言葉で、「とんでも」が「ない」わけではない。「とんでもない」の「と」は「途」からきたもので、道理、筋道という意味だ。だから、「とんでもない」は筋が通っていないと指摘すること。ほめられて、「めっそうもないことでございます」なら品よく見える。●お世話様でございます 世話は目上が目下にかけるもの。部長が部下を「世話をかけるね」とねぎらう。目下が使うなら「お世話をおかけします」だ。「お」「様」を付け、「ございます」と言ったところで敬語にはならない。●お宅様がおっしゃられた… 典型的な二重敬語。「お宅様がおっしゃった……」で十分。【バカっ丁寧で滑稽】●お名前様を頂戴「名前に様を付けるなんて聞いたことありません。頂戴(ちょうだい)するも物をやりとりするわけじゃないんだから変です。英語の“Can I have your name?”からの発想でしょうかね」(翻訳家・菊谷匡祐氏)「お名刺を頂戴」はおかしくない。●××社さん… 人でもないのに「さん」をつけるのは妙だが、××社だけでは偉そうにしている印象を与えそうで、つい付けてしまう。まあ、このくらいは許されるだろう。ただ、「××社様」は旅館の歓迎看板じゃないんだから、ちょっとやりすぎ。●ご高配、ご笑覧 文面ならいいが、会話で使うには硬すぎて場違い。【聞いていて不快】●××させていただきます いまや氾濫している。「販売キャンペーンをさせていただきまして」なんてセリフが平気で飛び出す。「させていただくは誰かの許可・承認のもとに何かをするということです。自分の意思でやっているのに、させていただくというのは、どこか押し付けがましい印象になるだけ。“販売キャンペーンをいたしまして”のほうがずっとスマートです」(菊谷匡祐氏=前出)●○○はお休みをいただいております GWになると増えそう。こちらが休みを与えたわけでもないのに、「いただいて」は違和感がある。「休んでおります」でいいじゃないか。●××したいと思います 思いますは自分の考えや予測の表現だ。「1時までにご参集ください」で済むところを、「ご参集いただきたいと思います」では、「キミがそうしたいということなのだな」と“強要”を感じさせてしまう。【自分に敬語を使ってどうする】●お声がけ 声をかけるのは自分のほうだ。●ご拝見させていただき 二重どころか三重敬語。“拝見”するのは自分なのに――。 ******************************************お互いに気をつけましょうね~!
2008年04月30日
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オー・シャンゼリゼ街を 歩く 心軽く 誰かに会える この道で素敵な あなたに 声を かけて こんにちは僕と行きましょうオー シャンゼリゼ オー シャンゼリゼいつも 何か 素敵な ことが あなたをまつよ シャンゼリゼ
2008年04月29日
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ビージーズ Too Much Heavenまずは、曲を聴いてみましょうビージーズ (The Bee Gees) は、英国王領マン島生まれの英国人の三人兄弟を中心に構成された男性ボーカルグループ。1963年オーストラリアでデビューし、後に米国を中心に活動。1960年代から2000年代まで息の長い活動を続け、「Massachusetts」、「Holiday」、「How Deep Is Your Love」、「Stayin' Alive」、「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝し、グループとしての活動を終了した。代表曲1967年The New York Mining Disaster 1941 (ニューヨーク炭坑の悲劇)全米14位,全英12位 - 村上春樹の短編小説のタイトルにもなっている。 To Love Somebody 全米17位 Massachusetts 全米1位,全英1位 Holiday 全米16位 World 全英9位 1968年Words 全米15位,全英8位 Jumbo 全英25位 I've Gotta Get A Message To You(獄中の手紙)全米8位,全英1位 I Started A Joke 全米6位 1969年First Of May(若葉のころ)全米37位,全英6位 - 日本では同名のドラマ『若葉のころ』の主題歌となっている。 Tomorrow,Tomorrow 全英23位 Don't Forget To Remember 全英2位 1970年Let There Be Love IOIO 1971年Lonely Days 全米3位,全英33位 Melody Fair - 映画「小さな恋のメロディ」の主題歌として日本のみでシングル・カットされ大ヒットした。(オリコン3位) In The Morning- 映画「小さな恋のメロディ」の主題歌として日本のみでシングル・カットされた。(オリコン36位) How Can You Mend A Broken Heart(傷心の日々)全米1位 1972年My World 全米16位,全英16位 Run To Me 全米16位,全英9位 Alive 全米34位 1973年Saw A New Morning Wouldn't Be Someone 1974年Mr Natural Charade 1975年Jive Talkin 全米1位,全英5位 Nights On Broadway 全米7位 Fanny(Be Tender With My Love) 全米12位 1976位You Should Be Dancing 全米1位,全英5位 Boogie Child 全米12位 Love So Right 全米3位 1977年Edge Of The Universe 全米26位 How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)全米1位,全英3位 1978年Stayin' Alive 全米1位,全英4位 Night Fever (恋のナイト・フィーバー)全米1位,全英1位 1979年Too Much Heaven (失われた愛の世界)全米1位,全英3位 Tragedy (哀愁のトラジディ)全米1位,全英1位 Love You Inside Out 全米1位,13位 Spirits(Having Flown) 全英16位 1981年He's A Liar 全米30位 Living Eyes 全米45位 1983年The Woman In You 全米24位 Someone Belonging To Someone 全米49位 1987年You Win Again 全米75位,全英1位 1989年One 全米7位 1991年Secret Love 全英5位 1993年Paying The Price Of Love 全英23位 For Whom The Bell Tolls 全英4位 1994年How To Fall In Love Pt.1 全英30位 1997年Alone 全米28位,全英5位 I Could Not Love You More 全英14位 Still Waters Run Deep 全英18位 2001年This Is Where I Came In 全英18位
2008年04月28日
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Alone Again 歌っているのはギルバートオサリバン曲を聴きたい方は上記写真をクリック!!!!!ギルバート・オサリバンの名前ですが、本名ではなく、イギリスの有名なオペラのソングライターコンビ、ギルバート&サリヴァンの名前をもじっているようです。ギルバートオサリバン大学在学中にバンド活動を始めた彼は、1960年代中盤に自らが作詞・作曲を手がけたオリジナル作品のデモテープをあらゆる音楽出版社に売り込む。そして1967年CBSより、シングル『Disappear』でデビューする。2年後の1969年、彼はトム・ジョーンズなどのマネージャーとして知られるゴードン・ミルズの主催するMAMレコードと新たに契約。そして翌1970年、シングル『ナッシング・ライムド』 (Nothing Rhymed) をリリース。この曲は全英シングルチャートで最高8位まで上昇するヒットになる。またこの曲が収録されたアルバム『ヒムセルフ~ギルバート・オサリバンの肖像』 (Himself) は全英チャートで最高5位をマーク、86週にわたってランクインするロングセラーとなり、一躍彼はスターダムにのし上がる。1972年には、シングル『アローン・アゲイン』 (Alone Again - Naturally) が世界的に大ヒット。とりわけアメリカではビルボードで6週連続1位、同年の年間シングルチャートでは2位を記録するほどの大成功を収めた。同時期に発売されたアルバム『バック・トゥ・フロント』も全英でNo1を獲得し、その後彼は『ゲット・ダウン』 (Get Down) などをはじめ、主にヨーロッパと日本を中心に1970年代前半から中盤にかけ、次々とヒットを連発した。しかしミルズとの関係が悪化し、袂を別った頃からその人気に翳りが見えはじめ、1980年代は音楽業界から長らく遠ざかっていた。1990年代ごろからはシーンに復帰し、自らの半生をモチーフとしたミュージカルのスコアを書いたり、サッポロビールのCMのために新曲 (Taking a Chance on Love) を書き下ろしたりと、マイペースながら精力的に創作活動を続けている。日本国内での人気は根強いものがあり、杉真理をはじめとしてオサリバンに影響を受けた日本のミュージシャンは数知れない。また来生たかおや久保田利伸らとは曲をデュエットしている(前者とは共作も実現)。彼自身日本には思い入れが強いようで、先述の日本のアーティストたちとのコラボレーションや日本の企業のCMソングへの楽曲提供、更には数年間隔で来日ツアーを行うなど、近年の彼の仕事はやたらと日本がらみのものが多い。1993年発表の唯一のライブ盤およびLDや2005年発売の初のライブDVDも、日本で記録されたものである。テレビドラマやCM、映画などに楽曲が使用されることも多く、その都度その時点の契約レコード会社から新しいベスト盤が発売されている(原盤権は彼の会社が管理している)ためコンピレーションの類は日本国内のみで発売されたものを含め数多い。
2008年04月28日
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『UFO時代のときめき飛行 アメリカン・ヒーロー』(The Greatest American Hero) は、1981年 から1983年まで3シーズン、パイロット版+全42話が制作されたアメリカの特撮コメディテレビドラマ。日本では日本テレビ系で1982年に日本語吹き替え版が放送された。上記写真をクリックすると「アメリカンヒーロー」のオープニングをごらんになれます!!!人気はあったもののほとんど再放送されていない作品であったが、2004年8月にDVD-BOXがリリースされた。2006年7月10日より、AXNにて再放送されていた。ストーリー主人公ラルフ・ヒンクリーは平凡な高校教師であるが、妻とは離婚訴訟中で、一人息子の親権を争っている。そんなある日。その場に居合わせたFBI捜査官のビル・マックスウェルと共に、突然UFOと遭遇し、胸に漢字の「中」に似たマークのついた赤いスーパースーツを与えられ、世の中の正義を守るために悪と戦えと告げられる。混乱したラルフはスーツの取扱説明書を無くしてしまい(UFOと遭遇した場所から立ち去るときに落とす)、手探りでスーパーマン稼業をはじめることとなってしまった。そんな彼の秘密を共有し、助けるのは美人の恋人パムと、ビルのふたり。スーパースーツの能力上記の様に、取扱説明書を無くしてしまった為、このスーパースーツがどのような能力を持っているのか分からなかったが、ストーリーが進むにつれ、少しづつ能力が判明していった。飛行-空を飛ぶ事が出来る力。最初はどうしたら飛ぶのか分からなかったが、偶然出会った子供から、アニメを元にしたアドバイスをされ、飛べるようになった(三歩助走をつける)。ただし、飛び方は自己流なので、バランスが悪く、飛んでいる間、体が安定しない。着地はいつも失敗。 怪力-最初から判明していた能力。乗用車を片手で軽々持ち上げる。 高速移動-常人を遥かに超えるスピードで移動する能力。作中では走っていると言うより、歩いているように移動する。 透視-物体を透かして見る能力。 サイコメトリー-対象とする人物の持ち物から、残留思念を読み取る。 透明化-体を透明にする事が出来る能力。ただし、自分の意思に反して突然解除される事がある。 耐弾性-スーツを着用している間、弾丸を弾き飛ばす程の強固な防御力を得る。 発火-物を燃やすことが出来る。但し、狙った対象とは別のもの。 縮小-本人と手荷物を1cmくらいのサイズに縮小できる。なお、縮小状態から戻る際に手放していた手荷物は、元のサイズには戻らない。このために再びもらった取扱説明書をまた無くしてしまう。 キャスト〔 〕内は日本語版での吹き替え声優。ラルフ・ヒンクリー - ウィリアム・カット〔富山敬〕:熱血だが平凡な高校教師。バツいち子持ち、養育権について係争中の主人公 パム・デビッドソン - コニー・セレッカ〔戸田恵子〕:美人弁護士。ラルフの恋人 ビル・マックスウェル - ロバート・カルプ〔小林修〕:FBI捜査官 ロンダ・ブレーク - フェイ・グラント〔土井美加〕:ラルフの教え子 トニー・ビリカーナ - マイケル・パレ〔井上和彦〕:ラルフの教え子 パコ・ロドリゲス - ドン・セルバンテス〔塩屋翼〕 第17話から 主題歌ジョーイ・スキャベリー(Joey Scarbury)「グレイテスト・アメリカンヒーロー」のテーマ(Believe it or Not)は全米で2位になった
2008年04月27日
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地上最強の美女バイオニック・ジェミー(ちじょうさいきょうのびじょ - 、原題:The Bionic Woman) は、ユニバーサル作成のSFテレビドラマ。1976年から1978年にかけて第3シーズンまで制作され、第1・第2シーズンはABC、第3シーズンはNBCで放送された。もともと「600万ドルの男」の1エピソードだったが、あまりに好評だったため新たな番組として製作されたスピンオフ作品。日本では日本テレビ系で、第1・第2シーズンが1977年1月から10月、「地上最強の美女たち! チャーリーズ・エンジェル」を間に挟み、第3シーズンが1978年3月から8月にかけて放送された。主演のリンゼイ・ワグナーは、本作で1977年、エミー賞主演女優賞を受賞。元プロテニスプレイヤーのジェミー・ソマーズは、スカイダイビング中の事故により瀕死の重傷を負う。婚約者であるスティーブ・オースティン大佐(600万ドルの男)は、科学情報局(OSI)に頼み込み、彼女に自分と同じバイオニック移植手術を施させた。上記写真をクリックするとバイオニックジェニーのオープニングをごらんになれます両足、右腕、右耳をサイボーグ化された彼女は生命の危機からは脱したものの、移植の拒絶反応から、スティーブのことを含めて全ての記憶を失ってしまう。しかし彼女は、自分を救ったOSIのためにバイオニック・パワーを使った諜報活動を志願するのだった。右耳:隣室から電話の通話を聞いたり、1km先の微弱な音声もキャッチできる。 右腕:出力1558W(≒2.12PS)の原子力電池搭載。片手で1トンの重量物を持ち上げる。 両足:出力4928W(≒6.7PS)の原子力電池搭載。最大走行速度95km/h(≒100m走3秒79)。10階建て程度のビルから飛び降りたり、数メートルの壁を飛び越せる。 本人の心臓は、右腕、両足に血液を供給する必要がないため、95km/hで走っても心拍数は平常時と変わらない。義手・義足の動力源は原子力電池。シリーズの概要『バイオニック・ジェミー』は、OSIのエージェントとなったジェミーが、バイオニックの能力を駆使しながら活躍する姿を描く。だが、女性エージェントということで、『600万ドルの男』のハードな雰囲気とは異なるシリーズとなった。例えば、美人コンテストにミス・カリフォルニアとして出場したり、アメリカ・インディアン風の女子プロレスラーになったり、修道院のシスター姿になったりするなど、コスプレ的潜入捜査が多いのもその表れである。また、普段はベンチュラ空軍基地内の小学校で教師を勤めているため、生徒たちとの交歓シーンもあった(が、途中でこの設定は、劇中では特に説明なく放棄されてしまった)。コミカルなエピソードも少なくなかったが、一方では核兵器開発競争に警鐘を鳴らす、『ジェミー 地球壊滅を救え!』のように重厚なものもある。シリーズを通して最大の仇敵として知られるのは、フェムボットという人間そっくりのロボットであり、その製造者は、バイオニックとロボット工学のどちらが優れるかをドクター・ルディと争った元OSIのフランクリン博士であった。ジェミーは、スティーブ・オースティンと共に、ロボット対バイオニックの死闘を演じた。フェムボットは後に復活し、ジェミーは再度戦う羽目になる。また、ジェミーと同じ顔に整形したリサという女性(リンゼイ・ワグナーの一人二役)も登場し、リサは、一度はジェミーになりすますことに成功したものの、バイオニックの能力がなかったため正体を見破られる。しかし、再登場したときには、新開発の薬物でバイオニックに匹敵するパワーを得て、ジェミーを翻弄した。第3シーズンで、放送系列がABCからNBCに移ると、内容がより低年齢の視聴者を意識したものに変更された。その第一が、バイオニック・ドッグであるマックスの登場だ。マックスは、火事で両脚と顎に重傷を負い、まだ実験段階だったバイオニック移植手術を施された犬だった。マックスは、ジェミーに飼われることになり、任務遂行でもパートナーを組んだ。この他には、宇宙人の再三にわたる登場などが上げられる。だが、マックスの登場は好評だったものの、それ以外の路線変更は返って視聴率の低下を招き、シリーズはこのシーズンをもって打ち切られた。しかし、最終回となった『さよなら! ジェミー』は、OSIを辞めようとしたジェミーが、それを阻止しようとする政府機関から追跡される、見応えのあるエピソードとなった。「600万ドルの男」とのクロスオーバー冒頭にあるように、「バイオニック・ジェミー」はもともと「600万ドルの男」の1エピソードだったのが、好評を得たためにスピンオフ化されたものである。しかも、アメリカ本国では1976年から1977年にかけ、両シリーズは同じABC系列で、並行して放映されていた(「600万ドルの男」は日曜夜8時から、「バイオニック・ジェミー」は水曜の夜8時から放映)。このため、クロスオーバーといわれるユニークな試みが、幾度かなされている。例えば、一つのエピソードの前編を「600万ドルの男」、後編を「バイオニック・ジェミー」で放映するというようなのがそれだ。実は、日本での「バイオニック・ジェミー」の第1話「バイオニック・ジェミー誕生」は、アメリカでは「600万ドルの男」の枠で放映され、後編の「バイオニック・ジェミーのお値段」が、「バイオニック・ジェミー」枠での第1話であった。また、「ゴールドマン局長暗殺指令」三部作では、Part1と3が「バイオニック・ジェミー」、Part2が「600万ドルの男」枠で放映されている。そうした以外にも、スティーブとジェミーが相手方の枠のエピソードにゲスト出演することが、何度かあった。しかし、1978年になると、「バイオニック・ジェミー」の放映がNBC系列に移ったのに対し、「600万ドルの男」は引き続きABC系列で放映されたため、先述のようなクロスオーバーは行われなくなってしまった。また、それ以外の理由も取り沙汰されている。例として、実は、スティーブ役のリー・メジャーズは、自分の妻ファラ・フォーセット(当時は、ファラ・フォーセット・メジャーズ)をジェミー役に推薦していたが、実際にその役を射止めたのは、リンゼイ・ワグナーだった。しかも、ジェミー(リンゼイ)の登場は好評で、別シリーズ化されたばかりか、ついには本家の「600万ドルの男」より人気が出てしまった。そのため、リーとリンゼイは不仲だったというのだ。だが、1987年から3本制作された、続編のスペシャル版では、再び両者の共演が実現した。ジェミーとスティーブの関係の変遷このような「バイオニック・ジェミー」と「600万ドルの男」の制作事情から、シリーズ内でのジェミーとスティーブの関係は、次のような複雑な変遷をたどっている。「誕生! バイオニック・ジェミー秘話1,2(600万ドルの男)」スティーブ・オースティン大佐は、故郷のカリフォルニア州オーハイで高校時代の同級生ジェミー・ソマーズと再会し、二人は婚約する。しかし、デートでスカイダイビングを楽しんでいたとき、ジェミーは落下事故を起こし瀕死の重傷を負う。スティーブがゴールドマン局長に懇願し、ジェミーはバイオニック移植手術を施されて救われる。だが、ジェミーの身体はバイオニック組織に拒絶反応を起こしてしまう。ルディ・ウェルズ博士の懸命の処置にもかかわらず、ジェミーは死亡。スティーブは、悲しみに暮れるのだった。「甦ったバイオニック・ジェミー1,2(600万ドルの男)」任務遂行中にバイオニックの両脚を損傷したスティーブは、OSIの施設で修復手術を受ける。そこで彼は、死んだはずのジェミーの姿を目撃した。実はジェミーが死亡し、スティーブが手術室を飛び出した後、若き医師マイケル・マルチェッティの施した実験的施術によって、ジェミーは甦生していたのだ。しかし、その際に受けた脳へのダメージにより、ジェミーはスティーブとの日々も含め記憶を失っていた。しかも、親身に治療を続けるマイケルを、ジェミーは愛するようになっていたのだ。スティーブは、ジェミーの幸せのために、自分が身を引くことを決意する。「バイオニック・ジェミー誕生、バイオニック・ジェミーのお値段(バイオニック・ジェミー)」だが、ジェミーは故郷オーハイに戻り、ベンチュラ空軍基地内の小学校の教師を勤める一方、OSIのエージェントとしても働くことを決める。スティーブとも再会し、二人は新たな関係を踏み出した。(なお、ジェミーを蘇生させたマイケルとの仲は、結局進展しなかったようで、マイケルは「グランド・ツーリー管制室応答なし」のエピソードで再登場しているが、謎の隕石に精神を操られてしまうという、散々な目に遭っている)こうして再び恋愛関係に戻るかと思われた二人だったが、「バイオニック・ジェミー」第3シーズンになると、スティーブは、劇中では何の説明もなく、登場しなくなってしまう。替わって登場したのが、OSIの同僚クリス・ウィリアムズであった。二人の関係は、回を追うごとに親密になっていき、最終回を迎える。しかし、1987年製作の「バイオニック・ジェミー・スペシャル 甦った地上最強の美女」で、その後クリスが任務遂行中に死亡したことが明らかにされた。一方、スティーブにも空軍パイロットの息子がいて、事故で重傷を負い、親同様バイオニック手術を受けるという事態が起こるが(ジェミーと性能比べをして勝ち、ジェミーが「自分が旧式なんだと思い知らされた」と溜息をつくシーンがある)、とにもかくにもジェミーとスティーブの再会は果たされた。その後、1994年製作の"Bionic Ever After?"(日本未放映)で、二人は永いときを経て、結婚に至っている。
2008年04月27日
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The Tymes - So Much In Love (original version)何その曲??と言うなかれ。一度聞けば「あーあの曲!!」ってだれもがっきたことのある曲です曲を聴いてみたい方は写真をクリック!!!The Tymes は日本ではあまり広く世に知られていませんが、非常に長い歴史を持つグループです。 1960年に The Latineers というグループのメンバーだった、Donald Banks、Albert Berry、 Norman Burnett、George Hilliard にリード・シンガー、George Williams が参加して、フィラデルフィアで結成されました。1963年に彼らは Cameo-Parkway Record と契約、同年放ったデビュー・シングルが、「So Much in Love」。曲はメンバーの George Williams と、フィラデルフィアのアレンジャー Roy Stragis、そして The Tymes の担当となった Cameo-Parkway のプロデューサー、 Billy Jackson の3人の共作によるもの。
2008年04月26日
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600万ドルの男600万ドルの男ってご存じでしょうか?wikipediaによると、600万ドルの男(ろっぴゃくまんどるのおとこ、The Six Million Dollar Man)は、1973年から1978年までアメリカ合衆国のABCネットワークで放送されたテレビドラマシリーズで、3本のパイロット版と、5シーズン108話が制作された。上記写真をクリックすると600万ドルの男の出だし部分をごらんになれます元NASAの宇宙飛行士で、月に行ったこともあるスティーブ・オースティン大佐は、スペースシャトルの基礎となったリフティングボディ(劇中ではHL-10)の滑空テスト中に事故にあい、命は取り留めたものの、左目失明、右腕・両足不随となる重傷を負った。NASAのメディカルスタッフによって失われた人体を補完強化する改造手術を受けてバイオニック・マン(サイボーグ)となった彼は、その強化された力を使い、政府の秘密情報機関・OSI(Office of Scientific Intelligence―科学情報部)のエージェントとして活躍することとなった。この改造手術の費用に600万ドル(放映開始当時の日本円で約18億円)かかったというのが番組タイトルの由来である。番組のオープニングでは毎回、オースティンが事故に遭遇しサイボーグに改造された経緯を紹介する映像が流されたが、この事故の映像は実際に起きたものであり、またこの事故に遭遇したパイロットが主人公のモデルである。その事故はNASAが開発したM2-F2実験機の滑降飛行試験の1967年5月10日に発生した事故でブルース・A・ピーターソンに実際に起きた出来事であり、その時の交信会話と事故映像をオープニングに使っていた。ピーターソンは現実に生死の境を彷徨い、九死に一生を得たが右目を失明し、パイロットとしての復帰はできなかった。しかし彼は(サイボーグではなく)、NASAの航空エンジニアとして活躍したという。なお、オープニングのバックで流れるテーマ曲は、「ブルースの真実」が有名なサックス奏者兼作編曲家の、オリヴァー・ネルソンの作曲。日本では近年、ジョン・グレゴリーによるカバー演奏版が「時空警察」のテーマ曲としても使用された。サイボーグ化された身体左目―1km先まで見える望遠能力;赤外線の範囲まで可視可能 右腕―コンクリートも砕くパンチ力が出せる 両足―最高100km/hで走れる(≒100m走3秒6) 本人の心臓は、右腕、両足に血液を供給する必要がないため、100km/hで走っても心拍数は平常時と変わらない。義手・義足の動力源は原子力電池。「600万ドルの男」は、OSIのエージェントであるスティーブ・オースティンの、バイオニック・パワーを駆使した活躍を描く。その任務は多岐にわたり、敵役も外国のスパイに限らず、テロリストやマッド・サイエンティストから一般の犯罪者まで、さまざまだった。初期の宿敵としては、人間そっくりのロボットを製造するドレンツ博士が登場した。彼はスティーブの友人のロボットを製造し、本物を拉致してすり替えを行う。しかし、スティーブは最後に正体を見破り、ロボット対サイボーグの死闘を繰り広げた。ロボットを倒されたドレンツは、今度はスティーブの能力を分析し、自分のロボットに応用しようと画策。さらに、ゴールドマン部長のロボットを製造して、本物とのすり替えを実行した(このアイディアは、後の「バイオニック・ジェミー」のフェムボットにつながる)。また、二人目のサイボーグとして、元レーサーのバーニー・ミラーが登場。彼は、スティーブを上回る700万ドルの費用をかけ、事故で失われた両手・両脚をバイオニック化されていた。だがバーニーは、自分のパワーをコントロールできず精神不安定となり、スティーブは対決を余儀なくされる。バーニーは、その後もう一度登場し、スティーブは再度サイボーグ同士の戦いをするはめになった。三人目にバイオニック手術を受けたのは、スティーブの婚約者ジェミー・ソマーズ(リンゼイ・ワグナー)である。彼女の登場は大変な好評を呼び、続編を経て、スピンオフ作品である「地上最強の美女 バイオニック・ジェミー」が制作された。その他、日本で話題となったエピソードとして、グアム島で横井庄一氏、ルバング島で小野田寛郎氏が発見された出来事にヒントを得たと思われる、「特攻! 最後の神風」がある。これは、特攻に失敗しジャングルに潜伏していた元日本兵を、スティーブが救出する話だった。なお、本シリーズには「SOS! 宇宙船救出作戦」などのエピソードで、リー・メジャーズの妻だったファラ・フォーセット(当時は、ファラ・フォーセット・メジャーズ)もゲスト出演している。リーはファラをジェミー役に推薦したが、それは叶わなかった。しかし、ファラは「地上最強の美女たち! チャーリーズ・エンジェル」の出演でブレイク。
2008年04月26日
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『雨音はショパンの調べ』は1980年代初めにイタリアで生まれたイタロ・ディスコと呼ばれるシンセサイザを使う英語によるヨーロピアンなダンス音楽の走り。 ちょうどサッカーのようにアメリカを除く世界各国で流行った歌で, 日本では小林麻美さんのカバーでヒットしました。歌っているガゼボは本名ポール・マッツォリーニ。 イタリア人外交官とアメリカ人歌手の息子としてレバノンのベイルートで1960年2月8日生まれました。 パリにいたときにクラシック・ギターを, ロンドンにいたときにパンク・ロックに興味を持ってバンドを組み, 15歳のときにイタリアに帰ります。 やがてプロデューサで作曲家のピエールルイジ・ジョンビニと知り合い意気投合, 1982年に Masterpiece でデビュー。 翌年アルバム Gazebo を出しこの中にあった I Like Chopin が本国イタリアを始めヨーロッパ, アジア, カナダなどで800万枚の売上げになるヒットとなりました。
2008年04月26日
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NEVER MARRY A RAILROAD MAN日本人ってこの手の音階によわいのですよね。この曲は日本でもチャート2位になりました。「悲しき鉄道員 / ショッキング・ブルー」(NEVER MARRY A RAILROAD MAN/ SHOCKING BLUE) (US#102,UK#-) (70年9月) 「ヴィーナス」に続き、惜しくも2位止まりとなったショッキング・ブルーの第4弾シングルは、「悲しき」シリーズの第1弾でもあります(第2弾「悲しき恋心」、第3弾「悲しきハプニング」)。しかし60年代から70年代にかけて邦題に「悲しき...」が付いている曲がく多く、邦題だけでは誰の何ていう曲か分からなくなっちゃうこともしばしばです。しかしこの曲は「悲しき鉄道員」。これでは絶対、間違えませんね。しかし「鉄道員」ですよ。もうちょっとないのかなぁ...。 アメリカではHOT100一歩手前の102位、イギリスではチャートインしなかったものの、日本では50.5万枚を売り上げました。
2008年04月26日
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ドゥービー・ブラザーズ (The Doobie Brothers) はアメリカのバンド。1970年代に人気を博したウエストコースト・ロックを代表するバンドのひとつ。1970年にトム・ジョンストンを中心に結成、翌1971年にデビュー。1972年に「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」のヒットを放つ。この後のメンバーチェンジでリズムセクションはファンキーさを増し、サザン・ロック色の濃い音楽性を確立する。1973年のアルバム「キャプテン・アンド・ミー」からは「ロング・トレイン・ランニング」、「チャイナ・グローブ」、1974年のアルバム「ドゥービー天国」からは「ブラック・ウォーター」といったヒット曲が生まれ、一躍アメリカン・ロックを代表する人気バンドの一つとなった。取り急ぎ曲を聴いてみたい方は以下の写真をクリック!!!1974年、スティーリー・ダンを脱退したジェフ・バクスターが加入する。ところが、その頃からバンドの顔であるジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、ジョンストンの代役としてバクスターの紹介で加入したのが、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルドだった。マクドナルドはその個性的な歌声とともに、バンドに洗練されたAORの強い影響をもたらす。それまで野性味あふれる快活なギターロックを奏でていたドゥービーの音楽性は一変した。AOR路線への転向はファンの間で大きく賛否が分かれたが、商業的には大成功を収める。1978年のアルバム「ミニット・バイ・ミニット」とシングルカットされた「ホワット・ア・フール・ビリーブス」はともに全米1位を獲得、その年のグラミー賞でアルバムタイトル曲は最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、「ホワット;」は最優秀楽曲に輝いた。もはやマクドナルドのワンマンバンドとなったドゥービーにかつてのロックバンドの面影はなく、メンバーは次々と脱退。キース・ヌードセン、ジョン・マクフィーら一部のメンバーはアメリカに活動の場を移した矢沢永吉のバックミュージシャンを務めるなどしていた。マクドナルドにとってもドゥービーの看板は不要となり、1983年に初期のメンバーが集まって「フェアウェル・ツアー」と銘打ったライブを行なった後、解散した。
2008年04月25日
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Venus by Shocking Blue「ヴィーナス / ショッキング・ブルー」(VENUS / SHOCKING BLUE) (US#1,UK#8) (70年2月) オランダ出身の5人組(74年以降は4人)、ショッキング・ブルーの我が国でのシングル売上は、ポール・マッカートニーを上回る143万枚(洋楽アーティスト第9位)、堂々10曲のシングルをチャートインさせています。 洋楽史上初の最高位2位を記録したこの「ヴィーナス」(全米1位・日本での売上55.5万枚)、16年後、バナナラマによりカバーされ、これまた全米1位を獲得。ロビー・ファン・レーベン(Robbie van LeeuwenもしくはRobert Leeuwen)がオランダで結成した。ボーカルのマリスカ・フェレスは、途中から参加した。マリスカはハンガリーとドイツのハーフだった。マリスカの父親は、ジプシー・オーケストラでバイオリンを弾いていた。マリスカは、父親とともに幼少の頃から歌を歌っていた。ショッキング・ブルーに加入する前には、いくつかのバンドでボーカルをしていた。1969年7月に、オランダで、「ヴィーナス」を発売した。「ヴィーナス」は、ビルボード(Billboard)誌では、1970年2月7日に、週間ランキング第1位を獲得した。ビルボード誌1970年年間ランキングでは第22位。ビルボード誌の集計では、ショッキング・ブルー最大のヒット曲となった。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーで、週間チャート1位を獲得した。オランダでの週間チャート最高位は、第3位だった。代表曲Lucy Brown Is Back In Town(オランダで21位) Send Me A Postcard Darling ヴィーナス(オランダで3位、ビルボード1位、オリコン2位) マイティ・ジョー(ビルボード43位。なお、世界的にはミリオンセラーを記録) 明日に向かう道(オランダで17位、ビルボード75位) 悲しき鉄道員(ビルボード102位、オリコン2位) 日本では、回転数を早めたシングルにより大ヒットを記録した。ラヴ・バズ(ニルヴァーナのカヴァーでも知られる。)
2008年04月25日
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ナオミ カムバック!!(日本で1位に輝いたイスラエルデュオ)>上記リンクをクリックして聞いてみてください。よく、モノマネとかで歌われているあの曲です!!!みなさんこの曲知っていますか?結構、物まねされていますよね。でこの曲を歌っていたのはなんとイスラエル人!繰り返される「ナオミ カムバック トゥ ミー♪」というフレーズと、その後に続くティンパニの音が知らず知らずの間に脳裏にこびりついて離れなくなった人も当時は多かったのではないでしょうか。
2008年04月24日
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パワードスーツwikipediaによれば、パワードスーツとは、SF作品などに登場し、人体に装着される電動アクチュエーターや人工筋肉などの動力を用いた、外骨格型または鎧型、あるいは衣服型の装置である。日本語では直訳で強化服、半分だけ訳して強化スーツとも呼ばれているほか、ロボットスーツと呼ばれる物も存在する。医療・介護分野に於けるものは、パワーアシストスーツと呼称されることもおおい。ということになっています。またパワードスーツは人間の筋力を増強するために、「着用して利用する」という機械装置である。人間は古くから自分の筋力の限界を様々な形で補ってきており、建設機械などでは人間の力を超えて遥かに作業効率の良い装置も一般的に使われているが、パワードスーツはその最も個人化した概念といえよう。種類や用途によっても様々な呼び方が存在しており、2000年代においてその呼称は定まっていない。本稿では便宜的に一般名称として、もっとも初期からサイエンス・フィクション(SF)用語として普及した「パワードスーツ」を用いているが、同概念で別呼称があることに注意して欲しい。アメリカ陸軍 コンセプトモデルのモックアップ関連する呼称・類似概念現実の、医療機器としての利用を念頭に置いたものなどはパワーアシスト(Power Assist)機器ないし装置等と呼ぶ。これは近年一般的に見られる電動アシスト自転車の延長的な呼び名とも言えるが、同時に「人の力や仕事を補助する(助ける)」という意味で、自立行動が難しい障害者の行動を助けたり、あるいは介護する者の力仕事を助けるという意味合いとも言えよう。1968年にはジェネラル・エレクトリック社が"Hardyman"を発表している。この装置は「外骨格(Exoskeleton)」と呼ばれるタイプのもので、人が装着しない状態でも自重を支えるフレーム構造を持ち、人間が装置に搭乗して操作する事で、その操作に従って仕事をするという発想である。強化外骨格はこのHardymanのような装置全体で一つのシステムであり、人間は搭乗するような形のものを指す言葉である。しばしば人間が装着してその力を増幅させるパワードスーツそのものと混同される事もあるが、強化外骨格はパワードスーツの一形態に過ぎない。なお2006年現在で医療関連で開発・商品化が進められているパワーアシスト機器も、基本的には強化外骨格である。また強化外骨格は「外骨格」という言葉から甲殻類のように全体を被う鎧が付属しているとイメージされる事もあるが、装甲の有無は関係が無い。なお「パワードスーツ」という用語は、以下で述べるとおり一作品に登場したものが代名詞となり、フィクション・ノンフィクションを問わずこの手の機器の総称としてSFや娯楽作品を中心に便宜上使われている。「身に付けた機械装置で力を付与する」という古くからある概念であるため、平行進化の形で実用化の研究も進められている日本ではアニメで有名ですが、例えばガンダムはむしろロボットに近いもので、アニメではどちらかといえば装甲騎兵ボトムズに出てくるアーマードトルーパーに近いもののような気がします。日本では現実の話として実用化に向けて研究g明日すんでいる模様で、その使用用途は勿論軍事向けではなく、介護用などの福祉産業がメインと思われます。筑波大学の大学院の山海研究室のHPをたどるとその主な内容が見られます→→→ここをクリックして筑波大学の研究室にgoロボットスーツHAL(Hybrid Assistive Limb)この山海研究室のHPを見ますと、その構造は主に外骨格になっており、その動力は関節に仕込まれたパワーユニットによるものであることがわかりますなお、このパワードスーツはすでに実用化が始まっている模様です→→→詳しくはこのリンクをクリック!!!!!!!
2008年04月23日
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WHAT A FEELING「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」("Flashdance... What a Feeling")は、アイリーン・キャラの楽曲・シングル。1983年公開の映画『フラッシュダンス』の主題歌であり、同年のアカデミー賞受賞作品である。単に「ホワット・ア・フィーリング」と呼ばれることも多いが、「フラッシュダンス」まで含めたものが正式な曲名である。「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」は、1983年にビルボードHOT100で第1位を記録し、プラチナディスクに認定されたのに加えて、1984年にはアカデミー歌曲賞とゴールデングローブ賞 主題歌賞を受賞した。この曲の伴奏には、シンセサイザーが多用されている。この曲は映画『フラッシュダンス』のオリジナル・サウンドトラック・アルバムと、アイリーン・キャラの2ndソロ・アルバム『ホワット・ア・フィーリン』(What a Feelin')に収録された。2007年3月、「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」はユナイテッド・ワールド・チャートの音楽史上で成功を収めた曲ランキング第22位を記録した。また、同チャートのソロ女性歌手による成功を収めた曲ランキングでは、 シェールの「ビリーヴ」、ホイットニー・ヒューストンによるバージョンの「オールウェイズ・ラヴ・ユー」、セリーヌ・ディオンの「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」に次ぐ第4位を記録した
2008年04月23日
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セントエルモの火セントエルモの火(セントエルモのひ、英語 St Elmo's fire)は、悪天候時に静電気などが尖った物体に発生させる、青白いコロナ放電による発光現象。雷による強い電界が船のマストを発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることがある。放電によるシューという音を伴う場合がある。1750年、ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにした。セントエルモの火は、カエサルの『De Bello Africo』、大プリニウスの『博物誌』、メルヴィルの『白鯨』、ダーウィンのビーグル号での経験を書いた手紙、サミュエル・テイラー・コールリッジの『老水夫行(The Rime of the Ancient Mariner)』において言及されている。セントエルモの火の名は、船乗りの守護聖人である聖エラスムス(聖エルモ、St. Erasmus of Formiae)に由来する。イタリアのセントエルモ教会(Cathedral of Assunta e Sant'Erasmo)でよく見られたためにこの名がついたというのは俗説である。大プリニウスによれば、古代ギリシャでは、発光が一つの場合「ヘレネ」の魂、二つの場合「カストルとポリュデウケス(ポルックス)」の魂と見た。カストルとポリュデウケスはアルゴ船の神話により航海の守護神とあがめられていたため、二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。音楽と内容は関係ないけれど、この曲を歌っているジョン パーという人には逸話があります彼はデビュー当時、記憶喪失だったことがひとつの売りだったのである。記憶喪失で自分自身がよく判らないまま全米NO.1アーティストになった!
2008年04月22日
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THOSE WERE THE DAYS(『花の季節(悲しき天使)』) 『花の季節(悲しき天使)』の原曲は、20世紀前半頃のロシア歌曲『長い道を/“Дорогой длинною”』。 アメリカのジーン・ラスキン(Gene Raskin)は、ロシア歌曲『長い道を』のアレンジ版をロンドンのブルー・エンジェル・クラブで歌っていた。メリー・ホプキンの大ヒットデビューシングル それをポール・マッカートニーが聞き付けてアレンジを加え、メリー・ホプキンのデビューシングルとしてイギリスで1968年8月にリリースした。 メリー・ホプキンの『Those were the days』は、全世界で500万枚以上の大ヒットを記録。日本では、『悲しき天使』のタイトルで広まった。 ちなみに「悲しき~」というタイトルは、当時の日本で流行っていたネーミングの一つ。フランス語版では『花の季節』のタイトルで知られている
2008年04月21日
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アランパーソンズプロジェクト ALAN PARSON'S PROJECTアラン・パーソンズ・プロジェクト(The Alan Parsons Project)は、1976年にデビューしたイギリスのロック・バンド。アラン・パーソンズとエリック・ウルフソンの2人を中心として結成された。「アイ・ロボット」「アイ・イン・ザ・スカイ」「ドント・アンサー・ミー」などのヒット曲で知られる。略称はAPPドントアンサーミーをお聞きになる方は以下の写真をクリック!!!!。ビートルズやピンク・フロイドなどの作品を手掛けてきたアビイ・ロード・スタジオのエンジニアであったアランが、エリックから「エドガー・アラン・ポーを題材にした作品を作らないか」という誘いを受けて、このプロジェクトを立ち上げた。その作品はファースト・アルバム『怪奇と幻想の物語~エドガー・アラン・ポーの世界』としてリリースされ、グラミー賞にもノミネートされた。その後もコンセプト・アルバムを主体とした作風で、コンスタントにアルバムを発表。プログレッシブ・ロックを彷彿とさせる壮大なスケールのサウンドと、ポップで聴きやすい音楽を展開し、英米で大きな成功を手に入れた。また、一切のライブ活動を行っていないことでも有名アイイインザスカイを聞きたい方は以下の写真をクリック!!!!!!。1986年までの活動期間中にアルバム10枚を発表しグループは解散したが、90年代以降のアランとエリックはそれぞれソロ活動を行っている。
2008年04月20日
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(The Rubettes - Sugar baby love )この曲聞いていると何か懐かしいような新鮮なようなそんな気になりますルベッツ(The Rubettes)は70年代のイギリスのバンド。 82年に解散し 85年に再結成し、メンバーは変わりつつもあるが 活動を続けている1974年『Sugar Baby Love』でデビュー、英国チャート1位を獲得。 1982年 一時的に解散 1985年 再結成~現在 メンバーアラン・ウィリアムズ(Alan Williams, 1948年12月22日 - ):ボーカル、ピアノ ミック・クラーク(Mick Clarke, 1946年8月10日 - ):ベース、ボーカル ジョン・リチャードソン(John Richardson, 1947年5月3日 - ):ドラム マーク・ハーレー(Mark Harley, ?年?月?日 - ):キーボード ルーベッツのシュガーベイビーラブを聞いてみよう!ここをクリック!彼らのデビュ-曲SUGAR BABY LOVE は、デモ・レコ-ディングがそのまま使用された。出来は素晴らしいの一言。コ-ラスが次々と重なり合い(全員ヴォ-カルがとれた)、最後に高音のファルセットが流れるヴァ-ス、リズミカルなドラムそしてdoo-wop 調の分厚いコ-ラスとビ-トの効いたメロディ-、まさに名曲である。しかし、ファルセットを含めリ-ドを歌ったのはAlanではなく、Paul da Vinci というシンガ-であった。彼はTHE RUBETTESに入るのを断ったのであった。すなわち、THE RUBETTESはデビュ-シングルのシンガ-が居ないという状況でスタ-トを切ったのである。このアイコンをクリックするとシュガーベイビーラブをダウンロードして購入できますSUGAR BABY LOVE は,イギリスの人気番組TOP OF THE POPS の出演がきっかけで爆発的なヒットとなり、遂に全英1位となった(以下、チャ-トは全て全英)。彼らはTVやステ-ジで、お揃いの帽子をかぶって飛んだり跳ねたりと、当時人気絶頂のグラム・ロッカ-に負けない楽しく元気一杯のパフォ-マンスを演じたのであった。そして6ケ月後、SUGAR BABY LOVE の次に出たのがAlanがリ-ドのTONIGHT である。前作同様、ヴァ-スからファルセットがフュ-チャ-されたこの曲は、コ-ラス、曲調共に軽快で12位とヒット。続いて彼らは1950年代風の楽曲の溢れるファ-ストアルバムWEAR ITS'AT を発表、たちまちイギリスの人気グル-プとなったのである
2008年04月19日
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オリビアニュートンジョンーーザナドゥオリビアニュートンジョンのザナドゥってソフトバンクの宣伝で使われていたのでみなさん聞いたことがあると思いますでも、ここに貼り付けてあるyoutubeのはオリジナルのオリビアニュートンジョンのザナドゥですが、ソフトバンクのCMで使われていたのはモノマネのオリビアニュートンジョンが歌っているってわかりますか?こちらはオリジナルの曲こちらはそっくりさんによるザナドゥ(ソフトバンクのCM)実はこういうことは他のCMでも結構あったりするようです。なぜ、こんなことになったのか?それは、オリジナルの曲の許可があり無い場合と、法外な著作権料をふっかけられるからというのが真相だそうです。でも、このソフトバンクのCMみたいにきれいに歌ってもらえるのであればどちらでもいい気がします。オリビア・ニュートン・ジョン/オリビア~ベスト・オブ・オリビア・ニュートン・ジョンオリビア・ニュートン・ジョン/ライヴ・ベスト(DVD) ◆オリビア・ニュートン・ジョン
2008年04月19日
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Procol Harum - A whiter shade of pale 1967何度もリバイバル・ヒットしている古典。 60年代末期はこういう宗教音楽風なのもヒットしました。 『ティンカーベルズ・フェアリーダスト(Tinkerbell's Fairydust)』というグループの『2010(トゥエンティ・テン)』というのもこの『青い影』と同じ感じの曲でした。 曲を聴くには、上記リンクをクリックしてください!!!この歌も1960年代末から70年代にかけてのポップスの特徴である意味不明な詞で有名な曲です。 この歌は旋律と詞の落差の非常に大きいのです。 聞いた感じはバロック調で,厳かというか宗教的ですが, その詞は客船で船旅をしている(酒と船とに)酔っ払ったカップルがテーマ。 1960年代末から70年代初めは, 米ソの冷たい戦争や中国の文化大革命とかが賑々しく進行していた時代。 若者文化もヒッピーだのインド哲学だのサイケだのといった現実逃避的な文化が, なんかカッコいいと思われていた時代です。
2008年04月19日
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ザ・ホリーズ (Hollies - Bus Stop)Hollies - Bus Stopザ・ホリーズ (英:The Hollies)はイギリスのロックバンドホリーズというバンド名はメンバーが好きだったバディー・ホリー(Buddy Holly)をヒントにという説と命名時期がクリスマスシーズンでヒイラギ(Holly)をヒントにという説、またその2つを掛け合わせたものという説がある。ホリーズ誕生からデビューへそもそもホリーズの始まりは、アラン・クラークとグレアム・ナッシュの2人が5歳の時にマンチェスター市内の小学校の同級生として出会ったことによる。2人はあっという間に無二の親友となり、2人でギターを弾きながら歌うコーラス・デュオを結成。その後一時的にバンド形式で活動するが、エヴァリー・ブラザーズの影響で再びギター・デュオに戻る。その名も「リッキー・アンド・デイン(ヤング)」というこのデュオは徐々に活動の場を広げ、エリック・ヘイドックがベーシストとして在籍していた「カーク・ダニエルズ・アンド・デルタズ」との共演を経て、2人はヘイドックと意気投合し新バンドの結成を思い立つ。そしてドラムのドン・ラスボーン、リードギターのヴィック・ファレルを加え、1962年に「ドミネイターズ・オブ・リズム」というバンドが結成された。同年12月、マンチェスターの名門ライブハウス、オアシス・クラブに出演した際、楽屋で『バンド名の紹介はどうする?』とクラブの人間に問われたメンバーは、『そうだなぁ。今夜はホリーズと紹介しておいてくれ』と答える。ホリーズ誕生の瞬間である。当時の英国北部は、加熱するビートルズ人気を受けて『我こそはビートルズのような有望なアマチュアバンドを発掘し、第二のブライアン・エプスタインと成らん』と目論むマネジメント業界の人間がロンドンから大挙して押し寄せ、ちょっとした音楽バブルの様相を呈していた。ホリーズのライブハウスへの出演を取り仕切るマネージャーのトミー・サンダーソンは、ジョージ・マーティンの弟子でEMIパーロフォンのプロデューサーだったロン・リチャーズへの口利きを約束した。プロデビューへの可能性にメンバーが沸き立つ中、唯一ファレルは安定した生活を捨ててプロになる事に難色を示し、バンドを脱退してしまう。ギタリスト不在となったホリーズの急場を凌ごうとチーサムが目をつけたのは、マンチェスター近郊で活躍していたアマチュアバンド「ザ・ドルフィンズ」のギタリストで16歳のトニー・ヒックスだった。63年1月、ホリーズの演奏を観に訪れたロン・リチャーズは彼らの才能と可能性を確信し、すぐさまEMIのオーディションに呼ぶ。結果は大成功。ホリーズはEMIパーロフォンからのデビューが決定する。63年4月にホリーズのプロとして初のレコーディングが、アビイ・ロードにあるEMIスタジオで行われる。ホリーズはその後、数多くの名曲をこのアビー・ロード・スタジオで録音することとなる。そして翌5月にシングル「(Ain't That) Just Like Me」でレコード・デビュー。全英25位という幸先の良いスタートを切るが、ラスボーンの技量に満足していなかったリチャーズはドラマーの交代を勧め、ラスボーンはロード・マネージャーに転向。新しいドラマーには、ヒックスの「ザ・ドルフィンズ」時代の僚友ボビー・エリオットが抜擢される。ドラマーがエリオットに交代し、ホリーズは一気に加速を始める。11月に発表した3枚目のシングル「ステイ」が初の全英トップ・テン入りを果たし、翌64年1月に発売した1枚目のアルバム「ステイ・ウィズ・ザ・ホリーズ」は全英2位の大ヒットを記録する。この人気により、デビュー1年未満の新人バンドでありながら、3月にはNMEポールウィナーズ・コンサート出演の栄誉を勝ち取ることとなった。
2008年04月18日
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男の世界音楽は上記のリンクをクリックして聴いてみてください!うーん マンダム!!この曲使ったCMって結構覚えている人いるんじゃないかな?チャールズ・ブロンソンっていう人が出ていました。男の魅力のいっぱいの役者さんでしたね。wikipediaによれば、生い立ちブロンソンはチャールズ・デニス・ブチンスキー(Charles Dennis Buchinsky)として1921年11月3日に、ペンシルバニア州エーレンフェルドでリトアニア系移民家庭に15人兄弟の5男として生まれる[1]ブロンソンの母語はリトアニア語であった[2]。ブロンソンはポーランド・リトアニア連合に暮らしたリプカ・タタール人の子孫であり、そのルックスのためメキシコ系やメスティーソのように思われた。ブロンソンは後にメキシコ人やインディアンの混血役をしばしば演じている。炭坑夫の父はブロンソンが10歳の時に死去し、ブロンソンは兄たちと共に炭坑に入り、石炭を1トン掘るごとに1ドルを得た。伝えられるところによれば、家庭は大変貧しかったため、学校へは妹の服を借りて通ったという[3]。エリック・プレストンによって書かれた伝記『Charles Bronson: From West To Best』では、アメリカの第二次世界大戦への参戦後に徴兵されアメリカ陸軍航空隊に入ったとされるが、公式の記録では、1943年に陸軍航空隊を志願し、ボーイングB-29の射撃手として東京大空襲にも参加したとされる。俳優デビュー第二次世界大戦終了後の1946年に軍を除隊。美術学校に入学する。ここで舞台の裏方となり、エキストラも経験し芝居に目覚めていく。1948年に友人と共にニューヨークに行き、本格的に演技を学ぶ。生活は苦しく、レンガ職人やウェイターをしながら舞台に端役として出演するようになる。その後、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のパサディナ・プレイハウスで本格的に演技を勉強する。1951年『赤い空』で映画デビュー。当時は本名「Buchinsky」を名乗っていたが、その後「Buchinski」に改名。さらに冷戦を受けてハリウッドに「赤狩り旋風」が巻き起こったことから、当時共産主義圏であった東欧風の響きを持つ名前を避けて、映画『太鼓の響き』からチャールズ・ブロンソンを名乗るようになった。スター1958年の『機関銃(マシンガン)ケリー』で主役に抜擢された。さらに『荒野の七人』(1960年)や、 『大脱走』(1963年)などのヒット作に出演し、共に男臭い風貌と巧みな演技が人気を呼んで俳優としての地位を確立。その後の『さらば友よ』や『雨の訪問者』への出演で押しも押されもせぬ国際映画スターの仲間入りを果たした。その後も独特の個性と演技力を活かして、アクション作品を中心に数多くの作品で主役や脇役を演じ活躍した他、日本をはじめとする世界各国でテレビCMにも出演した。私生活では、1949年、女優ハリエット・テンドラーと結婚したが、1967年に離婚。翌1968年ジル・アイアランドと再婚して多数の作品で共演。1990年にジルが乳癌で亡くなりブロンソンも俳優業からの引退を宣言した。1998年にキム・ウィークスと再婚するが、ブロンソンはアルツハイマー病を発症。病との闘いの末、2003年8月30日に肺炎で死去。81歳没。なお、死後の2004年に公開された「キル・ビル2」のエンドクレジットにはブロンソンを尊敬するクエンティン・タランティーノ監督により「R.I.P. Charles Bronson(チャールズ・ブロンソン。安らかに眠ってください)」 との言葉が挿入されている。マンダム日本では大林宣彦演出の化粧品マンダムのテレビCMに出演し、男性向け化粧品にふさわしい男臭いムードで一世を風靡した。撮影費は2000万円、ブロンソンへのギャラは3万ドルであった。アリゾナ州の砂丘とハリウッドのスタジオで撮影が行われた。ブロンソンは「私の初主演映画だ」といい出演を快諾。泥水をかぶる場面も「これがアリゾナにお水さ」と嘯いたという。CM中、ブロンソンは荒野を馬で駆け、カウボーイハットで河の水を汲み頭から浴びる。そして一言「うーんマンダム」。このセリフは日本中で大流行し、化粧品に縁のない幼い子供まで真似をするほどだった。当時ヒットしたCMソングは「男の世界(歌 : JERRY WALLACE)」。商品とCMの大ヒットから、メーカーの丹頂が社名をマンダムに変えたことはあまりにも有名。海外映画スターのCM起用の先駆けともなった。なお、この商品の爆発的ヒットにより、当時の丹頂は業績を急回復させ、倒産の危機を免れたという。マンダムは後に彼の葬儀に献花を贈っている。 吹き替え大塚周夫がブロンソン作品の吹き替えの声を自ら売り込み、合わない場合は使わなくて良いと言うことで吹き替えが行われた。実際に朴訥な役柄など声が馴染み、その後ほとんどのブロンソン作品の吹き替えを担当することになった。大塚曰く、「ブロンソンには独特の間合いがある」とのことで、吹き替えを担当する役者にとっては非常に難しい存在であったという。そうした所以か、一時期、ジャン・ギャバンの死去に伴い、活動を縮小せざるを得なかった森山周一郎が担当した折は、ブロンソンをこなしたということで再び森山に脚光があてられ、後の大ヒットドラマ『刑事コジャック』に抜擢されるきっかけとなったほどである。 主な出演作『赤い空』 - The People Against O'Hara (1951年) The Mob (1951年) The Marrying Kind (1952年) My Six Convicts (1952年) Pat and Mike (1952年) Battle Zone (1952年) 『肉の蝋人形』 - House of Wax (1953年) Crime Wave (1954年) Apache (1954年) 『ベラクルス』Vera Cruz (1954年) Jubal (1956年) 『荒野の七人』 - The Magnificent Seven (1960年) Master of the World (1961年) X-15 (1961年) Kid Galahad (1962年) 『大脱走』 - The Great Escape (1963年) 『バルジ大作戦』 - Battle of the Bulge (1965年) This Property Is Condemned (1966年) 『特攻大作戦』The Dirty Dozen (1967年) Honor Among Thieves (1968年) 『ウエスタン』Once Upon a Time in the West (1968年) 『さらば友よ』Farewell, Friend (1968年) Lola (1969年) The Family (1970年) 『雨の訪問者』Rider On the Rain (1970年) 『夜の訪問者』Cold Sweat (1970年) 『レッドサン』Red Sun (1971年) 『メカニック』The Mechanic (1972年) 『チャトズ・ランド』Chato's Land (1972年) Chino (1974年) 『マジェステック』Mr. Majestyk (1974年) 『狼よさらば』Death Wish (1974年) 『ブレイクアウト』Breakout (1975年) 『ストリートファイター』Hard Times (1975年) 『セントアイブス』St. Ives (1976年) 『特攻サンダーボルト作戦』Raid On Entebbe (1976年年) 『テレフォン』Telefon (1977年) 『ボーダーライン』Borderline (1980年)*テレビタイトル『マッドギャリソン』 『デスハント』Death Hunt (1981年) 『ロサンゼルス』 - Death Wish II (1982年) 『スーパーマグナム』Death Wish 3 (1985年) 『バトルガンM-16』Death Wish 4: The Crackdown (1987年) 『禁じ手』Kinjite: Forbidden Subjects (1989年) 『インディアンランナー』The Indian Runner (1991年) 『狼よさらば 地獄のリベンジャー』Death Wish V: The Face of Death (1994年)
2008年04月17日
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Bee Gees - Massachusetts ビージーズ (The Bee Gees) は、英国王領マン島生まれの英国人の三人兄弟を中心に構成された男性ボーカルグループ。1963年オーストラリアでデビューし、後に米国を中心に活動。1960年代から2000年代まで息の長い活動を続け、「Massachusetts」、「Holiday」、「How Deep Is Your Love」、「Stayin' Alive」、「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝し、グループとしての活動を終了した。ビージーズを聞くには上のリンクをクリック!!!!ギブ兄弟は、英国マン島に生まれる。1946年9月1日にバリー、1949年12月22日にロビンとモーリスが二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、イングランド、マンチェスターに移る。ここでハモリながら歌うことを覚え、地元の映画館でひょんなことからステージに立つ。これが好評で歌うことに自信をもつようになった。1958年、家族でオーストラリアのクイーンズ州に移住する。一番下の弟、アンディ(1958年3月5日-1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。ここで兄弟は小遣い稼ぎに歌を歌うようになる。最初のグループ名はラトルスネークス(Rattlesnakes)、その後、ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ(Wee Johnny Hayes & the Bluecats) になった。そして三人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ(Bill Gates)に紹介される(マイクロソフトの創業者ではない)。紹介したのは、ビル・グード(Bill Goode)。ゲイツは自分とグードのイニシャルから彼らのグループ名をBee Geesとつけた。ビージーズはその活動の歴史のほぼ全部を、以下に挙げるギブ3兄弟によって行っている。全員共通してボーカルを担当。バリー・ギブ(Barry Gibb)(1946年9月1日-)・・・3兄弟の長兄に相応しく長身で、ギターを演奏しながら独特のハイトーンボイスを響かせる。1978年のコンサートでは、口ヒゲに長髪であったが、1997年のコンサートでは、ヒゲはそのままだが額が後退している様だった。 ロビン・ギブ(Robin Gibb)(1949年12月22日-)・・・モーリスとの二卵性双生児で次男。一時的に脱退し、その後復帰した。以前からソロ活動に積極的であり、現在もソロ活動を積極的に行っている。以前の長髪の美青年は影を潜め、禿げ上がった頭とやつれた姿が印象的。 モーリス・ギブ(Maurice Gibb)(1949年12月22日-2003年1月12日)・・・3人の中では比較的裏方に回ることが多かった三男。ギター、ベース、キーボードなど多種の楽器を演奏することができた。グループのライブバンドのバンドマスターでもあり、ステージではベースやキーボードを演奏することが多かった。2003年1月12日急逝。97年のコンサートでは帽子を被っていた。 サタデー・ナイト・フィーバーディスコで大人気を誇っていたビージーズのナンバーを大きく取り入れた映画サタデー・ナイト・フィーバーが1977年に公開された。1998年にミュージカル版もロンドンで製作され、翌年にはブロードウェー公演も果たし、日本公演は2003年に新宿コマ劇場で行われた。業績・受賞全世界で2億3000万枚を超えるレコードを売り上げているビージーズは現在に至るまでビートルズ、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、ポール・マッカートニーと並んで歴史上最も成功した上位5ユニットのアーティストに数えられる。彼らの楽曲は古くはエルヴィス、近年はデスティニーズ・チャイルドといった日本においても知名度の高いアーティストらによってカバーされている。1971年から1979年にかけて米国のビルボードチャートに9曲のナンバーワンヒットを送り出した。1978年の3月には、製作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクインした。この記録はビートルズが1964年の4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。1977年の最終週から1978年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。英国に於いてはビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。1997年にはメンバー3人全員がアーティストの殿堂に、さらにはグループがロックの殿堂に記録された。他にも"英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト"の栄誉も受賞した。2001年にはボーカルグループの殿堂入りを果たした。2004年9月20日にダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽史上初めて3つの殿堂入りを記録した。How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)全米1位,全英3位 上記をクリックするともう一曲ビージーズを聞くことができます!!!
2008年04月16日
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The Seekers - Georgy Girl-1968曲を聴きたいかたは以下をクリック!!!!!「ジョージー・ガール」-シーカーズ映画「ジョージー・ガール」の主題歌【映画の概要】ジョージーは大柄な上に、色気のない娘。男には相手にされず、あまつさえ友人が産んだ子供を押し付けられる始末。だが、彼女の良さを認める男性が現れた。彼女は子供と共に、男のもとに嫁入りする……。気だての良い女性が、幸せをつかむまでを描いた作品。 シーカーズといえば「ジョージー・ガール」といえるほどこの曲はインパクトの強い名曲。現在HONDA VAMOSのコマーシャルで爽やかに流れているので、その度耳を奪われている方も多いと思う。
2008年04月15日
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Video Killed the Radio Starレディオ キルドザ レディオスター!!レディオ キルドザ レディオスター!!このフレーズにあなたは必ず聞き覚えがあるでしょう!ちょっと古くさいような新しいようなこのメロディ。私の今日のテーマソングです(笑)******************************************バグルス(The Buggles)はイギリスのバンド。『ラジオ・スターの悲劇』のヒットで知られる。1977年、ジェフ・ダウンズ、トレヴァー・ホーンにより結成。二人は大のイエスファン同士で、イエスに憧れてバンド活動を開始する。1979年にデビュー曲の『ラジオ・スターの悲劇(Video Killed The Radio Star)』が全英1位の大ヒットを記録。きっちりと計算された音作りのエレクトリック・ポップは、ニューウェーブの時代を象徴する一曲となった。アルバム『プラスティックの中の未来』発表後の1980年、ダウンズとホーンの二人はそろってイエスに加入する(メンバーが一挙に脱退してしまい窮地に陥っていたスティーブ・ハウにグループごと吸収される)。ところが、イエスは畑違いの二人を入れたことで従来からのプログレッシブ・ロックのファンから不興を買い、結果解散に追い込まれてしまった。二人は再びバグルスとして1981年にセカンドアルバム『モダン・レコーディングの冒険』を発表するが、まもなく活動を停止した。『モダン・レコーディングの冒険』を編集している頃はダウンズは制作から去っており、すでにホーン一人の作業だった。その後ダウンズはエイジアに参加し、ホーンは売れっ子プロデューサーとして一時代を築く(後の再結成イエスのプロデュースも担当しロンリー・ハートなどのヒット曲を制作)。1981年8月1日12時15分、アメリカで開局したMTVが最初にオンエアしたミュージックビデオが『ラジオ・スターの悲劇』である。『ラジオ・スターの悲劇』は多くのアーティストによってカバーされた。2000年6月、ブロード・バンド(The Broad Band)によるパロディー音楽「ビデオ・スターの悲劇(Internet Killed The Video Star)」としてカバーされ、shockwave.comでFlashアニメーションとして配信された。2004年11月11日、ダウンズとホーンはウェンブリー・アリーナで行われたチャールズ皇太子信託基金のチャリティーコンサートに再びバグルスとして参加し、『ラジオスターの悲劇』を演奏した。
2008年04月14日
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マホガニーのテーマって知ってます?この曲はネスカフェの宣伝で使われていました私がこの曲を知ったのはこのネスカフェのテーマでが初めてでした。でも、後日実はこの曲はダイアナロスのの歌っている曲とわかって、ダイアナロスってすごい人だなって感動したのを覚えてますまずは、ネスカフェの宣伝をご覧くださいこの写真をクリックすると音楽が始まりますこれを聴いて初めてマホガ二ーのテーマを知ったのです当時は昼間はこの曲が頭の中を駆けめぐっていました(笑)そしてこちらが本家のダイアナロスのマホガニーのテーマですまた画像をクリックすると音楽映像が始まります皆様も懐かしんでくださいTheme from Mahogany (Do You Know Where You're Going To) (1975)
2008年04月13日
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賢者の石(けんじゃのいし、羅:lapidis philosophorumあるいは羅:lapis philosophorum )とは、中世ヨーロッパの錬金術師が、鉛などの卑金属を金に変える際の触媒となると考えた霊薬である。直訳すれば「哲学者の石」とするのが正しい。「賢者の石」は意訳である。人間に不老不死の永遠の生命を与えるエリクサーであるとの解釈もある。哲学者の石、天上の石、大エリクシル、赤きティンクトゥラ、第五実体(第5元素)など複数の呼び名がある。これを得るために錬金術は発達したという。「賢者の石」、「哲学者の石」ともにラテン語の直訳だが、形状は石とは限らない。錬金術師たちが、様々な手段を用いてこの賢者の石を希求したという話が伝えられている。12世紀にイスラム科学からの錬金術が輸入されると、ヨーロッパでは賢者の石の探求熱が高まった。神秘主義的なヘルメス思想とともに、様々な伝説と風聞が広まり、小説の題材としても使われるようになった。 黒魔術と関係付けて語られることもある。中国の練丹術中国の道教では、服用すれば不老不死を得る(あるいは仙人になれる)という霊薬(仙丹)を作る術として錬丹術(煉丹術)がある。仙丹が賢者の石に相当する。『抱朴子』などによると金を作るのは仙丹の原料にすること、仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてるという二つの目的があったことになっている。賢者の石の組成を推定する 辰砂中世ヨーロッパ錬金術に多大な影響を与えたジャービル・イブン=ハイヤーンの説に、水銀と硫黄の2要素説がある。その2要素の比率により卑金属や貴金属が生じるとした。 後に塩が加わって3要素説が生まれるが、いずれにせよ錬金術師たちは常に水銀に関心を寄せていた。 水銀を原料になんらかの反応を繰り返すことで賢者の石ができると考えていたようである。水銀と硫黄の化合物である硫化水銀には色の異なるものがあるが、代表的なものは赤色を呈する。天然でも産出され辰砂という(写真)。中国で不老長寿の霊薬仙丹・金丹の原材料とされた。漢字「丹」は辰砂のことで赤色も意味する。(邪馬台国も産地とされる。)「赤きティンクトゥラ」のティンクトゥラは、ラテン語で tinctura。本来は染料の意だが、生薬をエタノールに浸して作る液剤を言う。日本語でチンキ。製法からすると梅酒も赤きティンクトゥラで、体力回復には役立ちそうである。赤チン(マーキュロクロム液)はこの製法に依らない水銀製剤で、その殺菌作用から、かつて家庭常備薬として、傷口に塗っていた。金を創出できなくとも、金メッキ(鍍金)は可能である。金を水銀に融かすと金アマルガムとなる。銅の表面を磨き上げてから金アマルガムを塗り加熱すると、水銀のみが蒸発して表面に金が残る。ジャービルは、金を融かすことのできる王水を発明していた。金を王水で融かし、乾燥させると黄色の粉末、塩化金酸ができる。塩化金酸の水溶液も金メッキの材料となる。銅に塗布すれば表面が塩化銅となり、代わりに金が析出する。賢者の石とは黄血塩(フェロシアン化カリウム)ではないかとの説もある。黄血塩は家畜の血や皮から膠(にかわ)をとるところで作られる。 この黄血塩と硫酸を混合した液体に金を入れて加熱すると、この液体に金が溶け込む。猛毒であるため近年は避けられているが、シアン化金化合物は電気メッキあるいは無電解メッキ材料のひとつとして現在も使われている。金を融かし込んだ溶液に卑金属を漬け、銅線で微弱な電気を送ると卑金属表面に金が固着する。電気鍍金である。最古の電池としてバグダッド電池が古代中近東メソポタミアのごく一部で使われていたとの見解もある。
2008年04月11日
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サンジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain、生没年不詳)は、18世紀、ルイ15世時代のフランス宮廷に突如登場した謎の人物。錬金術師。「不死の人」と呼ばれ、ヨーロッパ各所に様々な年代に現れた怪人で、生まれは1561年だと言われている。確認できる記録に現れるのは1710年。フランスの音楽家ジャン・フィリップ・ラモーの日記によれば、当時50歳前後に見えたという。しかしその25年後、1735年にオランダのハーグに現れた彼は25歳前後に見えたと言う。その後、1750年にルイ15世と謁見した彼は40歳前後、1760年前後のルイ15世時代のヴェルサイユ宮殿には50年前と同じく50歳前後の姿で現れている(これらの記述から、1710年の人物と1735年以降の人物は別人であるとする説もある)。多くの外国語に堪能で医学や科学の知識にも優れ、優雅で洗練された物腰のため、フランス宮廷で人心を集めた。ヴォルテールをして「彼は不死ですべてを知っている」と言わしめたという。ルイ15世の依頼でダイヤモンド内部の傷を取ったという話も残っている。ポルトガル系ユダヤ人とも、ルーマニアのトランシルバニア地方にあるラコッチー王家の王位継承者王家に縁の人物(ただし、当時ルーマニアは国家としてはまだ存在していなかった)ともいわれ、自分の年齢を二千歳とも四千歳であるともし、ソロモン王やシバの女王と面識があったとも語った。十字軍では、パレスチナにおいて、イングランド王リチャード1世とも会話したともいう。また「自分は不老不死なので、霊薬を口にする他は食事は必要としない」と言って、実際に人前では全く食事をしなかった。ルイ15世はサン・ジェルマンを気に入り、シャンボール城に彼のための錬金術実験室も用意させた。またフランスの外交特使として各国に派遣され活躍したが、同時にプロイセン王国のフリードリヒ大王にも仕えた秘密外交官であったと言う。1762年、ロシアのエカチェリーナ2世の即位に至るクーデターに加担したとも言われている(この時にはヴェルダン伯爵という別名を名乗っていた)。しかしルイ16世の代になると先代ほどの信頼を得ることができず、フランス革命を予言して警告するも、聞き入れられなかった。その後フランス革命前後の時期にもフランス国内に現れ、1792年の王妃マリー・アントワネットの処刑の折、見守る群衆の中にサン・ジェルマンの姿があったという。また同時期の錬金術師として知られるカリオストロの師匠であったという風評も多く残っているが、この二人が接触していたことを裏付ける資料は確認されていない。サン・ジェルマン伯爵の死については、1777年にドイツのカッセルで死去とも言われているが、ドイツのエッケルフェアデ教会の記録には、「1784年2月27日死去、3月2日埋葬」という記録が残されている。しかしその後もヨーロッパ各地で目撃が報告されており、1785年に友人の前に姿を現したサン・ジェルマン伯は、これからヒマラヤに隠遁すると告げている(但しその友人がどこの誰なのかは不明)。また1821年には教育家ステファニー・フェリシテ女史が彼に面会したと語っている。なおフランス革命後、皇帝ナポレオン1世もサン・ジェルマンの行方を追わせている。ナポレオンはエジプト遠征の前とエルバ島へ流される数ヶ月前に「“チュイルリー宮殿の赤い服の男”に出会い、助言をうけた」と言われており、この“赤い服の男”がサン・ジェルマン伯爵だという説がある。19世紀になって、彼を見たという人がヴィーンやイタリアで少なからず現れだした。証言をまとめると、一様に何ヶ国語も流暢にしゃべり、気品のある紳士、身なりなど彼と思わせる特徴を持っていた。彼のデータとしては、宮廷人 バイオリンと剣の腕前は、プロ並み。 ヨーロッパの言語をすべて操ることができる。 途方もない金持ちであったが、どのように金儲けをしているかは不明。 アマチュアの指揮者、画家、ピアニスト、冒険家、詐欺師とも 薬草学にも精通。 錬金術師でもあった。卑金属を金に変換することができた。 ●年表1561年 サンジェルマン誕生の年 1710年 この年から、文書にて彼を確認できる フランスの音楽家ジャン・フィリップ・ラモーの日記にて50歳前後に見えた1735年 オランダのハーグに現れる 25歳前後に見えた 1750年 ルイ15世に謁見 40歳前後 パリの昼食会に現れる 50歳前後1760年 ルイ15世時代のヴェルサイユ宮殿に現れる 50歳前後 1762年 クーデターに加担したといわれている。ロシアのエカチェリーナ2世の即位に至るクーデターに加担したとも言われている。このときは、ヴェルダン伯爵と名乗っていた 1777年 ドイツのカッセルで死去 1780年前後 一説によるとドイツのシュレスヴィッヒで死んだとも 1784年2月27日 死去 3月2日埋葬とある、ドイツのエッケルフェアデ教会の記録。 1785年 ヒマラヤに隠遁すると友人に告げるが、友人は誰なのかは不明 1792-3年 マリーアントワネット処刑の折り、群衆の中にサンジェルマン伯爵を確認したとのこと 1799年以降 皇帝ナポレオン フランス革命後 サンジェルマンの行方を追わせている 1821年 サンジェルマンと面会 教育家 ステファニー・フェリシテが彼に会ったといっている 1822年 インドに旅立つところを確認される(誰が確認したのだろうか?) 1939-45年 第二次大戦中の軍人の日記にて、第三次大戦を予言して消えた紳士のことが記されている ”奇妙な紳士”と呼ばれているとのこと。19世紀 ヴィーンやイタリアで、彼を目撃したと証言する人が複数現れる。 〔 年齢に関する逸話 〕 サンジェルマン伯爵は、自分の年齢を300歳とも2000歳とも4000歳とも言っていた。サン・ジェルマン伯爵は昼食会でも晩餐会でも食事をしなかった。不思議に思い本人に訊ねると、「私は不老不死なので、霊薬を口にする以外は食事を必要としないのです。」と言った。 紀元前の人物として知られるソロモン王やシバの女王とも面識があると言っていた。サン・ジェルマン伯爵の使用人も「私がお仕えしてからまだ500年しか経っていません。」と言っていた。中世のイギリス国王であるリチャード獅子王のことを親しげに語り、十字軍で一緒に戦った“思い出話”をなつかそうに語っていた。「バビロニアにいたころには、ネブカドネザル大王が建設したバビロンの都にもよく行きましたよ。実際、あれは壮麗この上ない都だった…。」と、当時を振り返り溜息をついていた。単に100歳を超える長寿者だった。秘密結社の一員であった彼は、時を越えて生きる秘伝を伝授されていた。「私は今から200年以上も前に、スペイン国王フェルディナンド5世の大臣をしたこともあるんだよ。」と言い、信じようとしない相手には、当時の極秘の公文書を取り出して見せた。「イエスにも会ったことがあるが、イエスが水をワインに変えた時は、みんなして驚いたものだよ。それが“カナの婚礼”の奇跡として後世に知られるようになるとはねぇ…。」と、言っていた。〔 身元に関する逸話 〕 スペインの前王妃マリー・ド・ノイベルグの不義の息子で、イタリアのメディチ家の末裔に育てられた。ポルトガル系ユダヤ人の貧しい家に生まれた。サン・ジェルマン本人は、トランシルバニアのラコッチー王家の王位継承者であると主張していた。 〔 仕事に関する逸話 〕 ルイ15世は、シャンボール城内にサン・ジェルマン伯爵専用の錬金術実験室を用意させて、政治の秘密工作の研究に従事させていた。莫大な財産を持っていた。サン・ジェルマン伯爵が所有する貴金属や宝石類の数の多さと質の高さにおいては、ヴェルサイユ宮殿にまで噂が広まった。彼の財力が一体どこからきているかは、誰も知ることができなかった。東方に旅行に出かけることが多かった。薔薇十字団に加入している。実はプロイセンのフリードリヒ大王に仕えていた秘密外交官、スパイであった。〔 技術に関する逸話 〕 ルイ15世に見事なダイヤモンドを差し出した彼は、「いったいどこでこんな素晴らしいものを?」と聞かれ、「買ったのではありません。それは私が作ったのです。」と答えた。ルイ15世からの依頼で、ダイヤモンドの傷を取った。絹を染める染色技術や、皮をなめして驚くほど柔らかくする皮革技術など、18世紀にはまだなかったはずの様々な技術を身につけていた。超人的な語学力の持ち主で、フランス語、英語はもちろん、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、ヘブライ語、サンスクリット語、アラビア語、ペルシャ語、中国語まで話せた。画家のラトゥールは、サン・ジェルマンが使っている独特な絵の具の製法を教えてくれと何度も頼んだが、とうとう最後まで教えてもらえなかった。亜麻糸を使って絹のような布を織る工場をベニスにもっており、その技術は彼が開発したもので、100人ほどの労働者が工場の仕事に従事していると言っていた。サン・ジェルマン伯爵の実験室に招かれたカサノヴァは、盤の上に銅貨を一つ置くように言われたので置いてみると、突然パッと炎があがり、それがおさまると銅貨は金に変わっていた。彼は右手と左手が同じように使えた。両方の手で別々に文字を書いて重ねると、ピッタリ合った。サン・ジェルマン伯爵は、「自分はかつてエジプトのピラミッドの中で修行し、ヒマラヤに行って、全てを知っている聖者たちに会って多くのことを学んだ」と語っていた。サン・ジェルマン伯爵の友人は、「彼は扉を通らないで自室や友人の部屋に姿を現したり、出ていったりすることができた。(姿を現したり消したりしているように見えた)」と証言した。〔 正体に関する逸話 〕 サン・ジェルマン伯爵は、賢者の石をもつ錬金術師である。錬金術師として知られるカリオストロ伯爵の師匠である。ナポレオンはエジプト遠征の前とエルバ島へ流される数ヶ月前の2回「『チュイルリー宮殿の赤い服の男』に会い、助言をうけた」と言われているが、この『赤い服の男』が、サン・ジェルマン伯爵だった。人から何かを尋ねられる前に、相手の質問を見ぬく力をもっていた。また、彼は遠い街や国で自分が必要とされている時には、テレパシーでそれを感知することができた。早い話が超能力者であった。1747年~1756年の間に、少なくとも2年間はインドへ旅したという彼と「現地で会ったことがある」と証言しているクリーヴという人物は、「彼はインドで秘教的なすばらしい知識を得た」とも証言している。サン・ジェルマン伯爵は、人類を導くイニシエート(秘儀参入者)である。プロイセンのフリードリヒ大王は、彼の事を「決して死ぬことのない男」と言っていた。
2008年04月10日
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