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今、朝に「牧場の少女カトリ」の再放送をしている。それを録画して、時間のある時に見ていたりする。今回はちょっと思ったことが二点。第30話 「美しい白鳥のように」貧しい家の10歳の少女カトリは、看護婦さんに会ったり、その当時は非常に珍しい女性のお医者さんの卵に会ったことで、将来の夢を描くようになる。人との出会いによって、種がまかれたわけだ。その種は、少女の中で順調に育ち、小さな芽をだしていた。でも、前のお屋敷の女主人はカトリのような娘が欲しいととても好意的だが、「カトリには無理だと思うわ」と言う。頭はよくても学校に行っていないのだから、看護婦や医者は無理だという至極当然な発言だ。その後、その場にいた雇い人の女性がカトリと二人になった時に「努力すればなんにだってなれるって見せて欲しい。カトリだったらできるわ。」と励ます。この励ましと思いやり。私がカトリだったら絶対泣いている。女主人も決して悪気があるわけではない。強いて言うなら、空気がよめない、鈍感、デリカシーがないのだ。将来の夢がかなうか、かなわないかの賭けをしているのだったら女主人の方が分があるだろう。でも賭けをしているわけではない。将来に希望を持とうとしている、夢を持とうとしている少女。それを応援するか、夢をしぼませるか、ということ。生まれたばかりの小さな芽を、育てようとするのか、引っこ抜く行為をするのか、ということ。もう一点。この後、今のお屋敷の女主人の息子に、童話「醜いあひるの子」の最後の場面を読み聞かせるカトリ。読んでいくうちに声が詰まってくる。そして、涙を流す。そして、こちらの女主人は、そっと「 カトリ。あなたも白鳥になりたいのね。 」と話しかける。これは、声優さんが見事!「あなたも白鳥になりたいのね」下手をすると、「白鳥になりたいって高望みな子ね、身の程を知りなさい。」とかになったり「まぁ、かわいそうに。でもねぇ。」になりがちだけれど、ただカトリの気持ちを言葉にしただけ、カトリの気持ちがわかったというだけの言葉になっていました。余計な演技をしない演技。演技って、こういうことだよなぁって思った一場面でした。
2006年10月12日
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子どもは自ら望んで生まれてきたわけではないという。でも、自らその環境を選んで生まれてきたんだよ、という説もある。後者の説は10代の頃に知ったし、そういう前向きな方が良いとも思った。でも、自分で選べるのなら愛情あふれた環境の元に生まれたかったなぁと思って、自分にあてはめる事ができなかった。でも、テレビ番組の「オーラの泉」とかで、いろんな人の前世の話とかを聞いていると、少し解けてきた感じがする。前世の影響と今生の課題、ということ。私の勝手な想像だけれど、私の母親は今生の課題は落第。母親が自身の課題にチャレンジしていたら、子である私への影響もだいぶ違ったと思う。それでも、私はこの母親の元に生まれることを決断したということ。ということは、それだけ、私と母の因縁は深いということかなと思う。根拠のない想像だけれど、母と私は何度か姉妹を繰り返していて、その度にその生の課題を残したままだったのじゃないかな。それで、今度は私は娘として生まれてくるのを選んだ。この業を抜け出すために。ACの本の中に、自分が楽になるのなら、自分はお姫様だと思っていい、みたいなことが書かれてあった。その当時は、「悲劇のヒロイン」になる恐れもあるけれど、回復へのワンステップとしてはそういうのもありかもしれない。でも、私はそんな風に想像しても、なんか限度があるなぁと思っていた。そして「オーラの泉」の前世の話。これも結局、自分の為の物語。前世の話が事実かどうかは、厳密には問題ではないのだと思う。その物語に、自分が納得でき、今生を前向きに生きることができるかどうかが重要なんだなぁって。
2006年10月10日
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